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新発田城の本丸は周囲を内堀で囲まれ、その周囲をさらに二の丸が囲む輪郭式の縄張りだったようです。現地の縄張り図二の丸と本丸の間には筋違いの橋が架けられ、それぞれに門が置かれていたようです。二の丸側の「土橋門」跡本丸の虎口には櫓門形式の表門が現存しています。本丸表門(現存、国指定重要文化財)表門の渡櫓は開放されていて、中に入って見ることもできました。渡櫓入口なまこ壁の渡櫓です。渡櫓内部現存する渡櫓の中に入れるのは、新発田城の他には高知城しか経験がありません。新発田城には本丸表門以外にも十一棟の櫓と五つの門が現存していましたが、明治5年になってほとんどが破却されました。今も現存する建造物としては、旧二の丸隅櫓が本丸に移築されています。城内から見た旧二の丸隅櫓(現存、国指定重要文化財)こちらもなまこ壁の外壁になっています。旧二の丸隅櫓新発田城に限らず、やはり隅櫓などの建造物は、城外から見るのが一番だと思います。本丸では旧二の丸隅櫓の他にも、辰巳櫓や三階櫓が復元されていました。辰巳櫓(城内から見たところ)辰巳櫓(城外から見たところ)写真が残っていたためか、詳細に復元されていました。新発田城に天守は上げられず、三階櫓が事実上の天守だったようです。三階櫓(復元)新発田城の築城は比較的新しく、慶長3年(1598年)に加賀から移封された溝口秀勝によって築城されました。溝口秀勝は上杉景勝との戦いで落城した新発田重家の城跡を取り入れて築城し、以後明治に至るまで新発田藩主溝口氏の居城となっています。日本城郭協会「日本100名城」
2019/08/09
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日本100名城もいよいよ残りのカウントダウンとなってきて、向かった先は新潟県新発田市にある新発田城でした。新発田城縄張り図本丸と二の丸は輪郭式で、本丸の周囲を二の丸が取り囲んでおり、二の丸と三の丸は悌郭式という珍しい縄張りになっています。かつて三の丸と二の丸の間は水堀で隔てられ、二の丸には筋違橋と枡形虎口があったようですが、現在となってはわずかにその名残がある程度でした。二の丸「大手中之門」跡二の丸跡二の丸の南西側は「新発田城址公園」として整備され、芝生の広場が広がっていました。新発田城址公園二の丸の西側から北側は陸上自衛隊の新発田駐屯地となっており、本丸から眺めると自衛隊車両がずらりと並んでいます。城郭本来の機能から考えると何ら不思議ではない組み合わせですが、やはり奇特な印象があります。陸上自衛隊の新発田駐屯地は、明治4年に旧陸軍東京鎮台の歩兵大隊が置かれたことに始まっており、その後は陸軍歩兵第16連隊や第116連隊となり、現在は陸上自衛隊の第30普通科連隊となっています。陸軍時代の明治11年に完成した白壁兵舎は、移築復元されて現在は史料館となっていました。白壁兵舎フランス様式と和風城郭様式の和洋折衷で、日清・日露から太平洋戦争などの史料が展示されています。フェンスの外側から芝生広場を眺めてみると、何かのイベントがあるようで、迫撃砲の準備をしているところでした。チャイコフスキーの「序曲1812年」を演奏してくれるのでしょうか。
2019/08/08
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現在は高田公園として整備されている高田城跡に着くと、ちょうど「上越蓮まつり」が開催されており、かつての外堀では一面に蓮の花が咲いていました。外堀(西堀)春日山城をたっぷり見てきた後だったので、時刻は既に午後3時頃でした。蓮の花は朝のうちしか咲かないようで、これだけ一面の蓮の花を見るのは初めてです。高田城は本丸の周囲に内堀を巡らし、その外側に二の丸と三の丸を配して外堀を巡らせた、輪郭式の城郭だったようです。高田城案内図陸上競技場などがあってかなり広い公園設備ですが、輪郭式の縄張が残っているようでした。三の丸跡かつては土塁で囲まれた曲輪がたくさんあったようですが、現在は土塁も撤去されて、普通の都市公園といった風情です。本丸の南側、大手の虎口には行ってみると、「極楽橋」が復元されていました。極楽橋平成14年に復元されたもので、当時の文献・資料・発掘調査により、なるべく忠実に復元されました。但し、安全性・構造体力・法規制・維持管理の問題から、直接目に見えない基礎部分は鉄筋コンクリート製となっています。大手付近の内堀天下普請の城にしては珍しく、石垣を使わない総土塁造りになっています。高田城の本丸には、旧帝国陸軍の第13師団の司令部が置かれていたので、土塁などの遺構は撤去されたそうです。それでも本丸に入って見ると、土塁がよく残っていました。本丸土塁アスファルトで囲まれた一角に盛り土があり、「本丸跡」の碑がぽつんと建っていました。この広い本丸広場で、かつ周りはアスファルトだと、この城跡碑だけが浮いて見えます。かつての本丸には虎口が3ヶ所あり、極楽橋のある南側「本城御門」、東側に「東不明門」と北側に「北不明門」があったようです。東不明門に通じる道があったので、行ってみることにしました。東不明門に続く土塁東不明門跡なんのことはなく、普通に公園の入口です。東不明門の近く、上越教育大学附属中学校のグランド脇には、赤レンガの門柱がありました。旧帝国陸軍の遺構かも知れません。高田城に天守はなかったものの、かつて本丸の南西隅には御三重櫓が建っていました。現在は同じ場所に御三重櫓が復元されています。御三重櫓(城内から見たところ)平成5年(1993年)に完成した御三階櫓は、資料調査と発掘調査の結果を十分に踏まえて復元されたものです。史実に基づかない模擬天守には否定的なのですが、天守に限らず、史実と調査に基づいた復元は大賛成です。天守や石垣などあり得なかった時代の城跡に、総石垣造りの模擬天守を建ててしまう自治体などもありますが、後世に正しい歴史を伝えるためにも、上越市の姿勢には共感できます。何よりもふるさとのランドマークとして残っていくことだと思います。御三階櫓(城外から見たところ)史実に基づいて、土塁の上に建っています。高田城は総土塁の造りながら、天下普請で築城された近世城郭で、1614年に完成しました。築城主は徳川家康の六男である松平忠輝で、築城の目的は加賀金沢の前田氏や、出羽米沢の上杉氏を抑えることと、佐渡の金山を支配することでした。とかく天下普請では外様大名が駆り出され、その財政を圧迫させることも目的の1つですが、高田城の築城にあたっては、伊達政宗や上杉景勝などの外様大名が駆り出されていました。伊達政宗は普請総裁として陣頭指揮を執っており、縄張は伊達政宗によるものです。それにしても気の毒なのは上杉景勝で、自身の居城がある出羽米沢を抑えるための城普請に駆り出されるとは、胸中いかがなものだったでしょうか。(しかも元の居城である春日山城のお膝元です)日本城郭協会「続日本100名城」
2018/08/17
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毘沙門堂やお花畑など、およそ戦国城郭に似つかわしくない遺構が並ぶ北側の稜線を降りて来ると、あの「天地人」直江兼続の屋敷跡にたどり着きます。直江山城守邸阯の碑直江兼続の屋敷は三段の曲輪で構成されており、この一角だけで戦国城郭のような感じでした。直江屋敷跡を上から見たところ。上杉謙信の養子である上杉景虎の屋敷よりも広く、上杉家における直江兼続の存在がいかに大きかったかがわかります。直江屋敷の曲輪の虎口跡直江屋敷からは、春日山城のほぼ全景が見渡せました。ここからにらみを利かせていたのでしょうか。直江屋敷の下は春日山城の搦手となっており、戦国の山城さながらにトリッキーな縄張となっていました。搦手には「千貫門」と呼ばれる門があったそうです。千貫門跡(?)千貫門の内側には空堀があり、一見堀底道のように見える仕掛けになっています。搦手の空堀この空堀を堀底道だと思って通っていると、沢の方へ落される仕掛けとなっているようです。下から見たところこれを道だと思って登っていくと、搦手の堀切につながり、さらには沢に落とされる仕掛けのようです。あまりにトリッキーなので、どこがどうなっているのかよくわかりませんでした。空堀の先には土塁が分断された場所があって、もしかしたらここが千貫門の跡かも知れません。搦手の下には「御屋敷」と呼ばれる曲輪があり、ここに城主の居館があったようです。もしかしたら上杉謙信も普段はここで暮らしていたのかも知れませんが、搦手に城主の居館があるとか、縄張のセオリーからして全く理解ができませんでした。春日山城をほぼ一周して再び春日山神社に戻ってきましたが、久しぶりに見ごたえのある城郭でした。春日山城では他の城郭とはまた違った「上杉謙信らしさ」に触れたような気がします。スタート地点の上杉謙信公の像を再び見た時、スタート時とはまた違って見えたのが不思議でした。青春ドラマの主人公みたいに、真っすぐでピュアな人に見えてきます。春日山城の築城は南北朝時代に遡るとされ、越後の府中(現在の直江津)を守る重要な拠点でありました。上杉謙信の父である長尾為景、のちに関東管領上杉氏の家督を継いだ長尾景虎(上杉謙信)、そして「御館の乱」に勝利して当主となった上杉景勝の三代によって、現在残る大城郭になったようです。ところで上杉謙信軍については、以前からずっと疑問に思ってきたことがありました。上杉謙信は常に戦をやっている印象で、武田信玄、北条氏康・氏政、織田信長など、名立たる武将と合戦を繰り広げてきました。これだけの合戦を繰り広げると、戦費も膨大な額になると思いますが、どうやって調達していたのでしょうか。また、上杉謙信は領土的野心を持たなかったため、上杉軍の家臣にしてみれば、戦に勝ったところで恩賞(新領地)ももらえず、何がインセンティブになっていたのでしょうか。いくら「正義の戦い」だとしても、恩賞もないのに合戦に勝利していたとすでば、上杉謙信はどうやって人心を掌握していたのでしょうか。戦費については、実際に春日山城を訪れてみて、そのヒントがわかりました。上杉謙信の財源は、港に出入りする船の関税と、「越後上布」の原料となった「青苧」でした。「カラムシ」の繊維から採れるのが「青苧」で、越後の気候は青苧の栽培に適していたようです。春日山城に植えられているカラムシすなわち、領土(=コメ)に頼らずとも、交易が財政と戦費を支えていたことになります。「土着」が当たり前の戦国時代にあって、交易で戦費を稼いでいたのは、上杉謙信と織田信長くらいでしょうか。(最大の利点は収穫を待たずに合戦ができることで、すなわち常備軍を持つことができます)いまだにわからないのは、上杉謙信がどうやって人心を掌握していたかです。ほとんど負けなしの上杉軍を、どうやって統率していたのか、是非とも知りたいところです。そういえば、大河ドラマ「武田信玄」の最終回を思い出しました。武田信玄がこの世を去って五年後、「信長に正義の何たるかを示す」と、織田信長を迎え撃ったのが上杉謙信でした。最後のあたりに「神の軍勢、いかなるものか示せ」と、毘沙門天の旗印を掲げて進軍するシーンがあります。(実際に柴田勝家率いる織田軍を敗走させた、「手取川の戦い」だと思います)日本城郭協会「日本100名城」関連の記事春日山城~その1→こちら春日山城~その2→こちら会津若松城→こちら(上杉景勝が移封となった先です)米沢城→こちら(関ヶ原の戦い後、転封となった先です)
2018/08/16
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春日山城の本丸は、標高180mの春日山の山頂部にあり、隣接する天守台と共に、「お天井」と呼ばれていたそうです。本丸跡上杉謙信もここに立っていたことでしょう、同じ場所にいると思うだけで感無量です。本丸に建つ城址碑天守台跡天守台といっても石垣はもちろん、礎石の跡などもなく、本当に天守が建っていたかどうかはわかりません。天守台から眺めると、眼下に曲輪と思われる削平地がありました。柿崎景家の「柿崎屋敷跡」(?)本丸から城下を見ると、スタート地点の春日山神社がはるか遠くに見えていました。本丸からは北側の稜線に沿って搦手方向へと下りて行くのですが、本丸直下には宗教的な建物が並んでいたようです。上杉謙信と言えば毘沙門天、出陣前に籠っていた毘沙門堂の跡が本丸のすぐそばにありました。諏訪堂と毘沙門堂跡「諏訪堂」の名前が気になりますが、武田信玄に侵略された諏訪を思って建立されたのでしょうか。また、上杉謙信は護摩を焚いて戦勝や息災を祈願したとされ、その護摩堂の跡もありました。護摩堂跡現在は護摩堂から下りたところに毘沙門堂が復元されています。この毘沙門堂には上杉謙信が信仰した青銅製の毘沙門天が安置されていますが、上杉景勝の時代に会津若松を経て米沢に移されました。米沢では1849年の火災で被害を受けたため、1928年に東京美術学校(現在の東京藝術大学)の高村光雲に修理を依頼、分身が作成されて1930年にこの場所に安置されました。救いを求める人を見過ごしにできず、秩序と義を重んじながら、領土的な野心を持たなかったのが上杉謙信です。青春ドラマを地で行くような、そんな上杉謙信が信仰していた毘沙門天は、悪魔を降す神だとされています。何度も盟約を反故にして他国を侵略する武田信玄、救いを求めてきた旧関東管領上杉憲政の領地に踏み込んでくる北条氏政(というより弟の北条氏照)や、秩序を顧みない織田信長などは、まさに毘沙門天の制裁を加えるべき相手だったでしょうか。その復元された毘沙門堂の下には、「御花畑」と名付けられた、およそ戦国城郭に似つかわしくない名前の曲輪がありました御花畑跡実際は薬草園だったようですが、戦国山城の本丸付近で、奇特なものを見ている気がしました。それにしても上杉謙信は不思議な武将だと思います。越後を統一して国主の座にありながら、国人の謀反や度重なる他国との争いに嫌気がさし、突然国主の座を捨てて、高野山に出家してしまったことがありました。この時は家臣団が連れ戻して事なきを得ましたが、これが上杉謙信なんだと思います。本丸の背後には井戸曲輪があって、大井戸が残っているのですが、あまりの暑さにこれ以上のアップダウンは出来ませんでした。御花畑を後にしてさらに稜線を下ると、さらに筋金入りのあの「天地人」の屋敷が待っています。
2018/08/15
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これまで山登りやスキーで新潟県を訪れたことはあったものの、城めぐりで訪れるのは初めてです。(これでついに47都道府県の訪城空白県はなくなりました)越後で最初となる訪城は、もちろん春日山城です。春日山神社に立つ旗印を目にした時は、「ついに春日山城にやって来た」と、感慨もひとしおでした。「毘」の旗印春日山神社春日山神社が登城ルートの起終点となっており、春日山神社から右回りに行くと搦手からの登城、左回りに行くと大手からの登城となります。左回りの最初には上杉謙信の像が建っており、近くの売店の人が謙信公を「御館様」と呼んでいたのが印象的です。上杉謙信像を過ぎると、いよいよ春日山城の全景が見えてきました。天然の谷が巨大な堀切の役目を果たしており、春日山全体が要塞といった感じです。このダイナミックな縄張は迫力満点で、むしろ威圧感さえありました。こんな感覚を持ったのは、毛利元就の吉田郡山城以来でしょうか。春日山城は山頂からの稜線に沿って曲輪が配されており、正面の稜線が三の丸から本丸に至るルートです。稜線上には重臣の屋敷も置かれていたようで、三の丸の直下には甘粕景持の屋敷跡がありました。「甘粕近江守宅阯」と書かれた碑が建っていました。三の丸は「三郎景虎屋敷跡」や「米蔵跡」の総称で、「三の丸屋敷跡」と呼ばれています。米蔵背後には土塁が残っていました。北条氏康の七男で、上杉謙信の養子となった上杉景虎屋敷跡上杉謙信には嫡子がおらず、家督の後継先も決めていなかったため、上杉謙信の死後は家督をめぐる内紛が起きました。この内紛「御館の乱」で、上杉景虎は同じく養子であった上杉景勝に敗れ、自害しています。今回は行きませんでしたが、上杉景勝の屋敷跡も南西側の稜線上にありました。実際に現地を訪れてみると、上杉景虎の屋敷の方が春日山城の中枢部に近く、上杉謙信は景虎の方を後継者に考えていたのではないかと思ったりもします。三の丸の全景手前が米蔵跡で、向こう側が上杉景虎屋敷跡です。三の丸からさらに稜線上を登ると、二の丸の曲輪にたどり着きます。二の丸二の丸から眺めると、三の丸がはるか下にあり、その先には春日山城の城下町(上越市)が広がっていました。稜線の上の方に目を向けると、いよいよ本丸が迫っていました。
2018/08/14
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高岡城の本丸には、堂々越中国の一宮、射水神社が鎮座しています。射水神社越中国一宮ということは、律令時代から存在していることになるため、歴史的には射水神社の方がはるかに古いことになります。元々の射水神社は高岡城の北にある二上山にあり、高岡城本丸に遷座したのは明治に入ってからのことです。とにかく各曲輪が広大な印象のある高岡城にあって、射水神社境内以外の本丸跡も広い印象がありました。本丸本丸の東側の水堀は池かと思うほど広くなっており、「中ノ島」の島まで造られています。中ノ島から見た本丸中ノ島との間にある「一の橋」二の橋まるで泉水庭園のような感じです。本丸の「対岸」には「小竹薮」と呼ばれる曲輪の跡があり、間には朝陽橋が架かっていました。朝陽橋小竹薮この日も結構な弾丸ツアーで、富山空港に着いた後、まず向かったのがこの高岡城でした。記事の順番は前後していますが、高岡城の後は越境して金沢城を訪れ、その後は再び越境して増山城・富山城といった慌ただしさです。それでも富山空港に戻った時、地魚をつまみながらビールを飲む時間は残っていました。高岡城が築城されたのは、江戸時代に入った1609年のことです。(江戸時代に入ってからの新たな築城は、かなりのレアケースだと思います)築城主は加賀前田氏第二代の前田利長(前田利家の長男)で、自らの隠居城とするために築城されました。(縄張は前述の高山右近とされています)本丸にある前田利長像元々前田利長は富山城を居城としていましたが、火災により焼失したため、新たに築いたのが高岡城でした。前田利長が1614年に亡くなり、1615年に一国一城令が出されると、高岡城も廃城となっています。それでも藩の蔵などが密かに置かれ、城郭としての機能は維持していたようです。日本城郭協会「日本100名城」
2017/08/02
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江戸時代の越中は加賀藩の支配下にあり、越中高岡城も初代加賀藩主である前田利長によって築かれました。大手口高岡城の縄張は各曲輪の周囲を水堀で囲ってあり、まるで水城のような感じです。広さは21万平米あり、その1/3が水堀です。大手口には、見覚えのある意外な人物の像が建っていました。摂津国高槻城で見たのと同じ高山右近像です。高槻城址公園の高山右近像(2017年6月)越中高岡の地名と高山右近の名前がなかなか結び付きませんが、高岡城は高山右近の縄張と言われています(異論もあるようです)。キリスト教の信仰を守るために大名の地位を捨てた高山右近は、同じ千利休門下で知己のあった前田利家・利長の加賀金沢に身を寄せていました。高山右近は政治や軍事の相談役になると共に、金沢城の修築なども手掛けたそうです。(徳川家康の時代になると、高山右近は国外追放令を受け、金沢を去ってマニラへと渡っています)その高山右近が縄張を行ったであろう高岡城を、三の丸から順番に見て回ることにしました。三の丸跡は市民体育館の敷地となっており、井戸だけが保存されて現存していました。三の丸にはかつて七尾線・城端線・氷見線を走っていたC11型蒸気機関車が静態保存されていました。お世辞にも保存状態は良いとは言えません。三の丸からは外堀を隔てて、明丸の曲輪が配されています。三の丸と明丸の外堀明丸跡現在は動物園と自然資料館の敷地になっています。明丸から大手口のある鍛冶丸の間には、「桝形濠」と名付けられた水堀がありました。桝形濠一つ一つの曲輪が広いため、建物の敷地にするのには十分な大きさがあります。鍛冶丸跡は博物館の敷地となり、二の丸は市民会館と護国神社の敷地になっていました。鍛冶丸から見た本丸内堀二の丸跡二の丸の外堀二の丸から本丸へと向かう途中には、唯一の石垣遺構が残っていました。打込み接ぎの技法で、金沢城でも本丸で見られた積み方でした。
2017/08/01
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かつて富山城のあった場所は、富山城址公園として整備されています・城址公園にある「富山市郷土博物館」の遠景富山城の本丸では天守の存在が確認できておらず、富山市郷土博物館の建物は模擬天守です。かつての富山城の西の丸と本丸部分が、城址公園として整備されています。本丸大手口のあった場所には「鉄(くろがね)御門」の桝形が残っており、石垣は現存するものだと思います。桝形虎口の跡石垣は打込接ぎの技法で積まれており、現在ではこの技術で積むのは困難だと思います。かつては櫓門が建っていたのかも知れません。富山市郷土博物館(模擬天守です)公園内には郷土博物館と一体管理されている佐藤記念美術館があります。佐藤記念美術館砺波市出身の佐藤助九郎(佐藤工業創業者)が中心となって建てられたもので、現在は富山市が管理しています。本丸の東側には千歳御門があり、現存する唯一の建造物です。千歳御門(城内から見たところ)富山城は1543年に、越中国守護代であった神保長職によって築かれました。戦国時代の富山城では、一向一揆や上杉謙信によって争奪戦が繰り広げられ、最後は織田信長の家臣である佐々成政が入城しています。その後1585に豊臣秀吉の征討により、戦国城郭の富山城は破却されました。近世になると前田利長によって城郭が整備されましたが、1615年の一国一城令により廃城となりました。1639年に加賀藩より富山藩分藩に伴い、初代藩主前田利次が入城し、富山前田家13代の居城として明治維新を迎えています。現在の富山市郷土博物館は、太平洋戦争の復興のシンボルとして建てられたものです。日本城郭協会「続日本100名城」
2017/07/31
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富山県砺波市、和田山ダムのダム湖畔にあるのが増山城です。増山城遠景久々の戦国山城なのでワクワク感がありながら、昨年来この付近でクマの目撃情報が多発しているので、ドキドキ感もありました。この縄張図では、各曲輪に一の丸・二の丸・三の丸の名称が付けられていますが、一般的な城郭とは違って、二の丸が本丸に相当するようです。さらにはアルファベット表記の曲輪もあったりして、何だかややこしそうでした。冠木門のある場所が登城道の入口になっていますが、大手口の場所については諸説あって、確証はないようです。会津若松小田山での実戦経験を踏まえ、クマに遭遇した時の手順を今一度反復して、冠木門をくぐって行きました。この夏について言えば、従来からの天敵であるヘビ・トカゲの爬虫類やスズメバチに加え、新たにクマが登場したこともあり、まさに「前門の虎 後門の狼」といったところです。大手虎口(暫定)登城道の周囲に目を向けてみると、堀切の跡が残っていました。堀切の先には曲輪の跡があり、「F郭」と名付けられています。F郭アルファベット表記が入ってくると、本丸との位置関係がわかりづらいです。F郭と一の丸の間には、さらに大きな堀切跡が残っていました。一の丸の曲輪跡一般的な呼称では、二の丸とか三の丸に相当するかと思います。一の丸から見た二の丸の土塁こちらも一般的には、「二の丸から見た本丸の土塁」となるかと思います。二の丸の曲輪(本丸です)二の丸の神水鉢水が枯れることはないと言われ、この水に落とす月影で時刻を知ったと言われています。二の丸には一段と高くなった場所があり、鐘楼堂の名前がありました。、本当に小さな鐘があったので、クマ除けのためにカンカンに鳴らしておきました。二の丸の北側には堀切があり、その先には「安室屋敷」と呼ばれる曲輪の跡があります。二の丸と安室屋敷の間の堀切安室屋敷この曲輪については特定された名前が付いていますが、安室とは家督を譲って隠居した人のことのようです。二の丸の南側には尾根続きに独立した曲輪があり、今度は「無常」の名前が付いていました。二の丸の周囲には水の手がいくつかあり、二の丸の北側に「又兵衛清水」と東側に「馬洗池」があります。又兵衛清水この水を発見した家臣の名前に因んでおり、今も水が湧き出ていました。馬洗池城内には他にも湧水がいくつかあり、籠城戦での水の手確保には苦労しなかったようです。又兵衛清水のある二の丸北東側には、石垣の跡もあるようでした。藪に覆われてよくわかりませんでした。二の丸の東側、馬洗池の先には三の丸の曲輪があります。大手をどこに比定するかにもよりますが、個人的にはここを本丸(詰丸)とみるのが妥当なようにも思います。増山城はすでに南北朝時代には築城されており、「和田城」の名前で登場しています。室町時代になると、越中国守護代である神保氏の居城となりました。戦国時代になると越後上杉氏に攻略されましたが、長尾景虎(のちの上杉謙信)は増山城について記述しており、「増山之事 元来峻難之地 人衆以相当 如何も手堅相抱候聞」と、増山城の堅固さに触れています。1581年には織田信長勢によって焼き払われ、以後は織田信長の下で越中を支配した佐々成政の拠点となりました。佐々成政の時に、大規模な修築や整備が行われています。豊臣秀吉の時代になると、1585年以降は加賀前田氏の支配下となり、増山城には城代が置かれていました。そして江戸時代に入った1615年の一国一城令により、増山城も廃城となっています。日本城郭協会「続日本100名城」
2017/07/30
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金沢城にある門のうち、三の丸虎口の河北門、二の丸虎口の橋爪門、そして三の丸搦手の石川門が「三御門」と呼ばれています。河北門や橋爪門が現代になって外観復元されてたのに対し、石川門は金沢城でも数少ない現存遺構です。石川門の表門(現存、国指定重要文化財)搦手門の外側にある門を表門と呼んでいいのかどうか。それにしても唐破風を備えた櫓を見るのは初めてで、とても違和感があります。石川門は桝形門となっているのですが、その桝形の石積みが非常に興味深くなっています。左側は古い技術の打込接ぎで、右側は新しい技術の切込接ぎになっています。違う時代にそれぞれ積んだとも考えにくいのですが、同じ時期にわざわざ積み方を変えたのでしょうか。城外側から見た石川門の櫓門(現存、国指定重要文化財)櫓門(城内から見たところ)かつて石川門の先には「百間堀」と呼ばれる堀があったようです。百間堀跡そして百間堀を渡った先にあるのが、兼六園です。今回は他に行きたい場所があったので、兼六園はパスしました。現在に残る金沢城の前身は、加賀一向一揆を支配した金沢御堂で、1546年にここに置かれました。1580年に佐久間盛政が加賀を支配して金沢城の造営を始め、1583年に前田利家によって近世城郭へと整備されました。その後の金沢城は何度も火災に遭っていますが、本丸の三十間長屋、鶴丸倉庫と三の丸の石川門が現存しています。日本城郭協会「日本100名城」
2017/07/29
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金沢城の本丸に来てみると、これまでと違って虎口はとても地味で、石垣の技術も古いものになっていました。本丸虎口に架かる極楽橋本丸石垣これまで三の丸や二の丸の門で見てきた切込接ぎから一転、打込接ぎの古い積み方です。空堀跡本丸の表門は「鉄門(くろがねもん)」で、こちらは石垣の跡だけが残っていました。今度は切込接ぎで積まれており、本丸の曲輪の石垣よりも後になって造られたものだと思います。三の丸から二の丸まで、河北門・橋爪門・五十間櫓・続櫓と建造物を見てきましたが、いずれも外観復元されたものでした。いよいよ本丸では、現存する建造物を見ることができます。三十間長屋(国指定重要文化財)1759年の宝暦の大火で焼失した後、安政5年(1858年)に再建され、現存しています。鶴丸倉庫(国指定重要文化財)嘉永元年(1848年)に武器土蔵として建てられたもので、明治に入ってからは陸軍の被服倉庫として使われていました。本丸の中心部と思われる場所は「本丸園地」となっており、城跡を特定するのは困難でした。二の丸に面する北側には、曲輪らしき削平地と戌亥櫓の跡が残っていました。戌亥櫓の櫓台戌亥櫓の櫓台(外側から見たところ)やはり石垣の技法は打込接ぎです。戌亥櫓のある本丸北側には、まるで戦国城郭のような土塁と空堀跡も残っていました。城郭建築の技法がさらに古くなるのですが、もしかしたら金沢城の前身、尾山御坊(加賀一向一揆の本拠地)からの遺構でしょうか。ちなみに土塁に開けられたレンガのトンネルは、明治に入った陸軍時代に造られたものです。陸軍トンネル(外側から見たところ)打込接ぎの石垣に近代のトンネルというのは、あまりにも違和感がありすぎて不気味です。いずれにしても本丸周辺に残る古い築城技術は、初代の前田利家の遺構そのものかも知れません。本丸石垣打込接ぎの石積みです。東ノ丸北面石垣
2017/07/28
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金沢城では、三の丸から二の丸へ入る虎口にも、櫓門が復元されていました。橋爪門高麗門の表門と櫓門の桝形になっています。橋爪門から続く二の丸の土塀橋爪門が二の丸御殿への最後の門となるため、特に厳重で格式も高かったそうです。桝形「二の門」の櫓門と続櫓(桝形内部から見たところ)橋爪門の全景(本丸から見たところ)橋爪門を抜けて二の丸に入ると、菱櫓や五十間櫓を内側から眺めることができました。五十間櫓と菱櫓金沢城は何度も火災に遭ったため、その度に建物を焼失しては再建されてきました。橋爪門、五十間櫓、菱櫓は1808年の火災で焼失した後に再建されましたが、明治に入った1881年に再び焼失しました。現在の建物は、平成13年に外観復元されたものです。二の丸には御殿が建っていましたが、こちらも1881年の火災で焼失してしまいました。二の丸
2017/07/27
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百万石の城下町、金沢へやって来ました。前田利家像百万石の表玄関、金沢城の大手門大手門櫓台の石垣大手門の石垣を見る限りでは、数十万石クラスの大名にありがちな城構えだと思っていました。ところが金沢城に関して言えば、大手門を抜けてからが圧巻です。新丸広場から見た三の丸の方向三の丸の虎口には、河北門が復元されていました。河北門一の門(表門)河北門一の門(内側から見たところ)高麗門形式でした。桝形虎口には、「ニラミ櫓台」の櫓門も復元されています。ニラミ櫓台ニラミ櫓台(内側から見たところ)櫓門を抜けた先には三の丸の曲輪が広がっており、その先には二の丸の櫓や長屋が復元されていました。三の丸二の丸の五十間長屋三の丸の土塀菱櫓(復元)菱櫓と五十間長屋五十間長屋と橋爪門
2017/07/26
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一乗谷の城下町を見て回った後は、朝倉氏の居館に入って行きました。城下町とは一乗谷川を隔てた近い距離にあり、居館も方形の一重堀と土塁に囲まれただけの造りになっていました。朝倉義景館跡内堀城下の方向意外とすぐ近くにあります。居館の入口には唐門がありましたが、こちらは現存するものではなく、移築したものを江戸時代になってさらに再建したものだそうです。唐門の前の水堀唐門の先に朝倉氏館の敷地があり、その背後には山があって、三方を土塁に囲まれていました。敷地内には10棟の建物の跡が見られ、接待や会見のための主殿を中心とする建物群と、台所などの常御殿の建物群から成っていたようです。背後の丘陵部から見たところ義景館庭園の跡昭和43年の発掘調査で見つかったそうです。最後にここに住んでいたのは、第5代で朝倉氏最後の当主朝倉義景でしたが、居館跡には墓所が建てられていました。織田信長との戦いに敗れた朝倉義景墓所朝倉義景館の背後には高台があり、湯殿庭園と名付けられていました。回遊式の庭園で、当時は池や水路があったようですが、戦時には空堀の役目を果たしていたのかも知れません。その湯殿庭園の先、中の御殿との間には、空堀にも水路にも見える掘削地がありました。どうしてもこれが空堀に見えます。中の御殿跡朝倉義景の実母光徳院の屋敷跡と伝えられ、朝倉氏当主の妻子などもここに住んでいたと思われるようです。その中の御殿の周囲は、通路と共に土塁でしっかりと囲まれていました。元々庭園や造作だったものを、防御用の空堀や土塁に改変したとしか思えないのですが、諏訪館の跡もそんな感じでした。これも空堀に見えてしまいます。諏訪館跡諏訪館跡から見た城下朝倉義景館・湯殿跡・諏訪館・南陽寺跡の4庭園が「一乗谷朝倉氏庭園」として国の特別史跡に指定されています。歴史小説などに描かれている朝倉義景は、時勢が見えずに自ら滅亡したような印象を持っていました。実際は将軍足利義昭と共に和歌を残すなど、相当な教養人であったことがうかがえます。さらに城下全体を見た印象で言うと、領民と一乗谷を守る名君でなかったかとも思いました。山麓部の居館の他、標高440mの一乗山山頂には、戦時の詰め城として戦国山城も築かれていました。城郭の遺構もよく残っているようですが、残念ながら今回は訪れることができませんでした。1471年に朝倉氏初代の朝倉敏景が本拠地を移して以降、第5代の朝倉義景に至るまで、約1世紀に渡って繁栄を誇ったのが一乗谷です。朝倉義景は将軍足利義昭による信長包囲網の一翼を担っていましたが、武田信玄亡き後はその包囲網も崩壊し、1573年に織田信長の前に一乗谷の城下町も焼失してしまいました。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2013/06/17
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朝倉氏と言えば越前一乗谷、一乗谷と言えば白戸次郎でしょうか。1471年から1573年までの約1世紀の間、朝倉氏5代の本拠地と城下町が一乗谷にあり、発掘調査によってかつての城下町がよみがえっていました。江戸時代の町割りが残る城下町はいくつかあるものの、戦国時代の町割りが残る一乗谷の城下町は、とても貴重な遺構だと思います。一乗谷川が流れる谷間に城下町が広がり、下流部と上流部を城戸で区切った町割りだったようです。下城戸跡土塁で囲まれ、石垣の枡形になっていました。城戸から城下町へ続く道一乗谷川一乗谷川沿いを行くと、両岸にはかつての居館の跡が随所に見られました。朝倉景鏡(第5代朝倉義景の従兄弟)の居館跡中世武士の居館のように方形の土塁と堀で囲まれていたようで、その跡も一部残っています。一乗谷でも最大の支谷であったのが八地谷で、「八地千軒」の通称があるように、谷の奥まで屋敷が並んでいたようです。八地谷の雲正寺地区東西と南北に道路が通り、交通のインフラも整っていたようです。この辺りは民家になっていたようですが、掘立式の建物が建っていたようで、礎石の跡や敷地の井戸の跡などがありました。さらに一乗谷川沿いを行くと、かつての武家屋敷が復元された場所もありました。中世の武家屋敷が復元される例は滅多にないので、中世の建物を知る上では本当に貴重な遺構でした。ところでこの一乗谷ですが、ソフトバンクのCMのお父さん、白戸次郎のふるさとでもあります。
2013/06/16
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南北朝時代・戦国時代と、2度に渡る有名な攻防戦の舞台となったのが金ヶ崎城でした。金崎古戦場の碑敦賀港を望む東側の丘陵部に城跡があり、太平記にも「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」との記述があります。金ヶ崎城から見た敦賀港まさに太平記の時代の1336年、後醍醐天皇の命を受けた南朝方の新田義貞が、尊良親王と恒良親王の2人の皇子を奉じて入城したのが金ヶ崎城でした。足利尊氏の北朝方は、越前国守護であった斯波高経が金ヶ崎城を包囲、南北朝の間で激しい攻防戦が繰り広げられました。約半年にわたる籠城戦でしたが、金ヶ崎城は落城し、尊良親王と新田義顕(新田義貞の長男)は自刃して南朝方の敗北で終わりました。金ヶ崎城跡にある金崎宮祭神は尊良親王と恒良親王です。尊良親王の「御墓所見込地」同じく城跡にある絹掛神社総大将であった新田義顕以下321名の将兵が祀られています。その新田義顕が自刃した金前寺は、金ヶ崎城の山麓にありました。伽藍は戦国時代の戦いで焼失しましたが、新田義顕が自刃したのが、ここの観音堂になります。新田義貞は金ヶ崎城から逃れたようですが、1338年に越前で討死し、坂井市の称名寺に墓所があります。時代は下って戦国時代、「金ヶ崎退き口」として一躍名を馳せたのが、木下藤吉郎(豊臣秀吉)でした。越前一乗谷の朝倉義景討伐のため、織田信長は徳川家康と連合軍を組んで金ヶ崎城まで進軍して来たものの、妹婿である浅井長政が朝倉方についたとの知らせが入りました。織田信長の妹で浅井長政夫人であったお市の方が、小豆の入った袋の両方を縛って謎をかけたのも有名な話かと思います。前後に敵を受けた織田信長は退却戦を余儀なくされますが、その時に殿を務めたのが、当時は駆け出しの木下藤吉郎でした。そんな歴史の奔流にあった金ヶ崎城ですが、本丸のあった場所は月見崎と呼ばれ、月見御殿があったとされています。南北朝時代も戦国時代も、武将たちが日本海に浮かぶ月を眺めていたのでしょうか。また松尾芭蕉も「おくのほそ道」で越前を訪れており、金ヶ崎城の山麓には芭蕉塚があります。
2013/06/15
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「国際航路」がもはや歴史になりつつある現在ですが、かつてはユーラシア大陸への玄関口が敦賀でした。金ヶ崎城から見た敦賀港かつては新橋から敦賀まで陸路を列車で行き、敦賀からウラジヴォストークまでの連絡航路を乗った後、さらにシベリア鉄道でヨーロッパへ続く欧亜連絡列車がありました。杉原千畝記念植樹杉原千畝が発給した「命のビザ」によってナチスから逃れたユダヤ人たちが、シベリア経由で上陸した先が敦賀港で、敦賀港は「人道の港」とも呼ばれています。かつての敦賀港の模型現在は敦賀~敦賀港(金ヶ崎)間は廃線となっていますが、当時の駅舎が復元されていました。列車に信号を送っていたランプ小屋かつての引込み線跡復元された敦賀駅舎の内部は鉄道資料館となっており、敦賀港駅のみならず北陸本線の歴史が紹介されていました。北陸本線の敦賀と言えば赤い交流電気機関車日本海の港湾都市としては舞鶴が代表的かと思いますが、舞鶴が軍港として発展してきたのに対し、敦賀は商業港として発展してきました。江戸時代は北前船の寄港地でもあり、金ヶ崎公園には北前船の帆をあしらったモニュメントがおかれています。さらにはレトロな赤レンガ倉庫が残り、歴史と港町風情を感じます。現在の敦賀港には敦賀海上保安部があり、岸壁には海上保安庁の巡視船が係留されていました。巡視船えちぜん敦賀保安部は第八管区保安本部の管轄となっており、日本海の沿岸警備の本部はやはり舞鶴にあるようです。まるで梅雨が明けたかのような真夏の日本海でしたが、そもそも福井県嶺南地方は梅雨明けどころか梅雨入りもしていないそうです。
2013/06/14
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丸岡城からはバスの便も極端に少ないこともあり、丸岡駅までタクシーを利用することにしました。途中で新田義貞墓所の案内看板を発見したので、運転手さんに頼んで寄ってもらうことにしました。新田義貞の最期は北陸だったとは覚えていたのですが、丸岡(坂井市)にあるとは思っていませんでした。運転手さんも、丸岡城の途中で新田義貞の墓所に寄る人が多いとのことで、「新田義貞はそんなに立派な人だったのでしょうか」と。私も答えに窮して、「ええ、まあ、そうなのかも知れませんね」と、何とも歯切れの悪い答えになってしまいました。新田義貞の墓所は称念寺というお寺の境内にあり、田園地帯の中にある普通のお寺といった風情です。称念寺境内新田義貞の顕彰碑が建っています。新田義貞墓所これまで当ブログ内で新田義貞を愚将だと酷評してきたこともあり、墓前では静かに謝罪しておりました。足利尊氏や楠木正成と同時代を生き、しかも急に歴史の表舞台に出ざるをえなかったのが新田義貞でした。建武の新政権下では、楠木正成と共に後醍醐天皇の南朝方についたものの、湊川の戦いでは足利尊氏軍の前に敗走し、越前へと逃れてきました。称念寺の解説板によると、1338年に灯明寺畷の戦いで討死し、時宗の僧8名によって称念寺に葬られたことが、太平記に書かれているそうです。ところでこの称念寺はなかなかの名刹で、1562年には明智光秀が称念寺を訪問し、門前で寺子屋を開いていたとのことです。また松尾芭蕉も称念寺を訪れた際、その明智光秀について「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せむ」との句を残しています。(「おくのほそ道」では東北の後に北陸も訪れていますが、越前のくだりでは称念寺についての記述はありませんでした)新田義貞は徳川将軍家の祖先ということで、江戸時代には寺領を安堵されていましたが、明治になると寺領は没収され、無檀家・無住の廃寺寸前だったようです。大正時代になって地元の人たちによって再興され、現在に至っています。
2012/12/23
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朝早く起きて何とか滞在時間を作ったものの、あれもこれも見て回るのは厳しそうでした。優先順位を1.丸岡城 2.一乗谷城(朝倉氏居館) 3.永平寺としたものの、かなりタイトなスケジュールで、3つは難しい状況です。しかも降雪確率70%と、天候によっては全てを諦める可能性もありました。これまで数々の城跡を訪れてきましたが、天候不良による撤退は鬼ノ城(第1回目、濃霧による撤退)の1回しか記憶になく、天気にだけは恵まれてきました。(天候以外の要因、城跡を見失ったとか、ヘビがいたとかによる撤退は何度かあります)丸岡城に着くまでの間、時折雲の合間から陽が差し込んで、さらに青空も見えるほどだったので、何とか丸岡城には着くことができました。丸岡城遠景天守が見えた時はホッとしたほどです。天守現存する12天守のうちの1つで、その中でも最古の天守とされています。(犬山城とする説もあります)望楼型の2層3階建てで、古めかしい入母屋破風を備えた、いかにも初期の天守といった感じでした。天守の入口脇には、石製の鯱が置いてありました。元々の天守屋根には木彫り銅板張りの鯱が載っていたようですが、昭和15年~17年の修復の時、屋根瓦と同じ石製のものに代えられました。戦時中で銅の入手が困難だった事情によるものですが、昭和23年の福井大地震の時に屋根から落下し、ここに置いてあります。振り返って数えてみると、これまで訪れた現存天守は、西から宇和島城・高知城・伊予松山城・丸亀城・松江城・備中松山城・姫路城・彦根城・犬山城・松本城、そしてこの丸岡城で11城となりました。残すは弘前城となりましたが、47都道府県の中で唯一訪れたことがないのも青森県です。そんな丸岡城ですが、天守以外にはこれと言った遺構がありませんでした。当時の縄張三の丸まである連郭式の縄張りだったようですが、現在は本丸部分のみが残っており、石垣や堀などは残っていませんでした。丸岡城を築いたのは柴田勝家の養子である柴田勝豊で、1575年にそれまでの豊原城から丸岡に拠点を移したのが始まりでした。丸岡城天守はこの時に建てられたと言われていますが、天守の建造にあたっては悲しい伝説があるようです。築城にあたり、天守台の石垣が何度積んでも崩れるので、人柱を入れるように進言した者もいました。そこで人柱に選ばれたのが、二人の子を抱えて苦しい生活を余儀なくされていた「お静」でした。お静は一人の子を侍に取り立ててもらうことを約束にして、人柱となることを決意、その後天守は無事に完成したとのことです。後に柴田勝豊が長浜へ移封となったため、結局侍に取り立てる約束は果たされることなく、毎年藻を刈る季節になって降る春雨は「お静の涙雨」と呼ばれているそうです。お静の慰霊碑天守は21世紀の現在に至っても、立派に残っています。江戸時代に入った1613年には本多成重が入封し、上の縄張り図にある城郭を完成させています。ところで本多成重の父親は、「鬼作左」でも知られる本多作左衛門重次です。三河武士らしい数々の武勇伝を残す本多作左衛門ですが、「日本一短い手紙」の主でも知られています。長篠の戦いから妻に宛てた手紙、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」が日本一短い手紙とされています。その手紙にある「お仙」が、後の丸岡城主本多成重です。丸岡城横にある「一筆啓上茶屋」岡崎城代などを務め、浜松城にも「作左曲輪」の名を残す本多作左衛門ですが、晩年は豊臣秀吉の逆鱗に触れたため、上総(千葉県)へ蟄居となり、現在の茨城県取手市で生涯を閉じています。菩提寺である取手市の本願寺にも「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の碑があり、また長篠城(愛知)付近の鳶ヶ巣山には、消防団による「一筆啓上 火の用心」の幟が並んでいたのを覚えています。丸岡城の城下町にも当時の面影はありませんでしたが、丸岡藩家老であった有馬天然の屋敷跡は、浄学寺の境内として残っていました。現在も残る屋敷の庭園(財)日本城郭協会「日本100名城」(73/100)
2012/12/22
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江戸時代に入って、柴田勝家の北ノ庄城の跡に築城されたのが現在の福井城です。福井城は総石垣造りの近世現在で、現在は本丸部分の石垣と水堀が残り、福井県庁の敷地となっています。本丸南側の福井県庁入口当時の城郭絵図ではこんな感じです。何だかコミカルな絵図ですが、隅櫓や枡形門などが建っていたようです。本丸を一周したところ、とある城跡にそっくりで、パクりかと思ったほどでした。本丸南側福井城の城跡図本丸は方形をしており、輪郭式の縄張りだったようです。築城主は初代福井藩主の結城秀康で、親父さんである徳川家康が自ら縄張りを行ったとされています。どうも駿府城に似ていると思っていたのですが、徳川家康の縄張りと聞いて、それも納得でした。本丸南東の巽櫓跡石垣の積み方といい、駿府城によく似ています。実は福井の後、静岡にも予定があって帰りに立ち寄ったのですが、南側はやはり駿府城によく似ていました。巽櫓の古写真本丸東側に差し掛かると、堀端には幕末の立役者の像がありました。右の横井小楠は元熊本藩士で、松平春嶽の招きで福井藩の政治顧問となり、勝海舟や坂本龍馬も一目置く存在でした。熊本城でも、谷干城などと並んで像が建っていたように思います。左は三岡八郎とあり、「三岡八郎って誰?」と思っていたら、由利公正でした。横井小楠の教えを受け、坂本龍馬からも新政府への参画を打診された人でした。五箇条の御誓文を起案したのが由利公正で、明治になってからは初代東京府知事を務めています。横井小楠も由利公正も、日本史の教科書ではその名前がほんの一行ほど出てくるだけですが、越前福井を訪れてみて、激動の幕末を動かした場所だったと改めて感じ入りました幕末の越前福井と言えば橋本左内がさらに有名ですが、時間がなくてその生家や墓所を訪れることはできませんでした。本丸東側に回って来ると、今度は江戸城に雰囲気がよく似ていました。どこがどうということもないのですが、平川門や清水門あたりがこんな感じだと思います。北東の隅には鬼門欠けが見られ、こちらも何となく竹橋あたりの江戸城に似ている気がします。搦め手である本丸北側にも虎口があり、廊下橋が復元されていました。廊下橋市民の寄付により、史実に基づいて復元されたもので、その先には枡形虎口が見られます。福井城の北西には天守が建っていたようで、現在も天守台が残っていました。福井城の復元図本丸周辺は当時の福井城の面影を留めていましたが、二ノ丸・三ノ丸は完全に市街地化されて、見るも無残な状態でした。北陸銀行前に残る三ノ丸の石垣福井城は「百間堀」と呼ばれる堀で囲まれていましたが、現在となっては市街地の歩道地下、ガラス越しにしか見ることが出来ませんでした。百間堀のあった方向かつての堀跡とは無関係に道路が造られていますが、ある意味ではそれも正解かも知れません。昔の城郭を踏襲して道路を造ると、交通渋滞などで利便性が損なわれるのも事実です。福井城は1600年に越前に移封となった結城秀康によって築城が開始され、1606年に完成しています。結城秀康は徳川家康の次男であり、長幼の序列から言うと、初代将軍になるべき立場にありました。(長男であり正室との間に生まれた松平信康は、まだ織田信長が存命している時代に、信長の意向により自刃しています)結城秀康が2代将軍としての器量や人望に劣っていたかと言えばそうではなく、個人的には器量も人望も他の兄弟より遥かに上回っていたと思います。(出生の経緯については、山岡荘八の「徳川家康」に詳しいので、興味があれば読んでみてはいかがでしょうか)出生のこともあるのでしょうが、徳川家康からは疎まれており、豊臣秀吉との同盟にあたっては養子(人質)として豊臣家に入ったのが結城秀康でした。(秀吉の「秀」と家康の「康」をとって、「秀康」を名乗っています)徳川家康の関東入封にあたって、今度は結城氏の養子となり、関ヶ原の戦いでは父の家康や弟秀忠が西へと進軍する中、北関東に留まって上杉氏への抑えとなっていました。結城秀康について、こんなエピソードがあります。弟である秀忠が将軍に就任するにあたり、その席でかつての敵であった上杉景勝が上座を譲ろうとすると、秀康は同じ中納言ながら叙任は上杉景勝の方が先であると、上杉景勝に譲ろうとしたことがありました。結城秀康と上杉景勝で上座の譲り合いとなり、結局は徳川秀忠の裁決で結城秀康が上座になっています。結城秀康像どことなく榊原康政にも似ている雰囲気があります。謙虚で誠実な人柄でありながら、武将としての勇猛さも兼ね備えており、まさに武士の頂点である将軍に相応しいと思うのですが、それが返って家康の反感を買ってしまったのでしょうか。
2012/12/20
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急な出張で福井に来ました。福井の地名は江戸時代になって付けられた地名で、それ以前の「越前北ノ庄」も戦国時代では有名な地名かも知れません。越前北ノ庄城跡に結城秀康によって福井城が築城されたこともあり、柴田勝家の北ノ庄城の遺構は残っていません。現在北ノ庄城本丸があったとされる場所には、柴田勝家と浅井長政の後に嫁いだお市の方を祀る柴田神社が建てられています。北ノ庄城の本丸跡は福井城の三ノ丸となったのですが、その福井城の三ノ丸跡にしても市街地の中に埋もれてしまっており、発掘調査によってかろうじて福井城の遺構の一部が発見されています。福井城三ノ丸石垣の一部福井城の遺構が見つかっただけでも奇跡でしょうか。福井城三ノ丸南側、日向門の石垣日向門の石垣上にいるのは、「小さなバイキングビッケ」のハルバル父さんではなく、柴田勝家です。賤ヶ岳の戦いの時に北ノ庄城の建造物は焼失しており、柴田勝家の北ノ庄城については文献によってしかうかがい知ることができません。日本を訪れたルイス=フロイスの記録に北ノ庄城の記述があり、「城及び他の家の屋根の、ことごとく立派な石で葺いてあって、その色によって一層城の美観を増した」や、「その城の屋根は甚だ滑らかで、ろくろにかけたごとく形の整った石を以って葺いてあった」と記されています。また羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いの後に小早川隆景に宛てた書状にも、「城中に石蔵を高く築き、天主を九重に上げ候」と記されています。秀吉の書状から天守が建てられていたことがわかりますが、当時は九層の天守は存在しないので、現在は5層の天守が復興されていました。大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の放送を機に建てられ、高さ5.7mの強化プラスチック製で、外観は松本城や丸岡城など他の現存天守を参考にしたそうです。さらにこの天守は、平成23年8月から2年程度の期間限定とのことです。柴田勝家時代からの遺構としては、半石半木で造られた「九十九橋」の記述があります。江戸時代に入ってから何度か架け替えられ、明治42年までは存在していたそうです。古写真を元にその九十九橋が石で復元されていました。柴田勝家の北ノ庄城は跡形もありませんでしたが、それでもお市の方を始め、江や淀などが一時住んでいたのが、まさにこの場所でした。
2012/12/19
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