売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2022.09.05
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慶應義塾大学出身の男子専科編集長の志村敏さんは慶應OBの会員制サロン「ブルー・レッド& ブルー」に度々連れて行ってくれました。オープン時は銀座8丁目ヤマハホールの裏手、現在は銀座7丁目昭和通り沿いにあります。志村さんはもの静かに乱れることなくシーバスリーガルをグイグイ、その酒量は半端なかったです。だから、ニューヨークから短期帰国する時はいつもリカーショップで販売されているシーバス特大ガロン瓶をお土産にしました。


私の講演を見つめる松尾さん

旧制東京高校(東京大学教養学部に合体)最後の卒業年度だった松尾武幸さんも母校愛が強い人、東京高校OBが集まる銀座7丁目西五番街「スペリオ」によく連れて行ってくれました。このバーのテーブルの上には旧制東京高校の歴代卒業生名簿が置いてあり、大学欄が空白の人は全員東京大学進学者、東大以外の人だけ大学名が書いてありました。松尾武幸の欄は名古屋大学、「私は出来が悪かったから」と謙遜されますが、名大は旧制帝国大学のひとつで難易度は低くありません。名大での部活は映画研究会、終戦直後GHQが統治していた時代の大学映画研究会はほぼ左翼系学生でした。

松尾さんは左翼系組織が作った繊研新聞社に就職しました。松尾さんの学生寮ルームメイトも左翼系、友人は愛知県の高校教師になり、彼に啓発された女子高生のひとりが文化出版局ハイファッション編集長久田尚子さん、つまり私のあとCFD議長を引き継いでくれた人です。戦後の混乱期文化学園労働争議は有名、このとき久田さんは運動に参加しますが、その反骨精神の原点は松尾さんのルームメイトの恩師でした。この不思議な縁を久田さんが知るのは高校卒業して40年後のことです。

志村さんも松尾さんも酒豪でした。シーバスリーガルのボトルを半分以上開けても静かな志村さんに対して、松尾さんはどれだけ飲んでもガハハッと笑顔の絶えない陽気なお酒でした。そこに相撲取り並みの底なし酒豪、繊研新聞営業部の古旗達夫さんが加わるともう飲み会はエンドレス、ニューヨークから日本に来るたび二人のハシゴ酒に付き合いました。

CFD設立直後、六本木の仮事務所に来てくれた二人は「連れて行きたい店がある」と西麻布方向に歩き始めました。店に入ってカウンター席に座ると、松尾さんが小声で「太田くん、お金持ってる?」。誰が見たってここは高級寿司店、いつも連れて行ってくれる店とはちょっとクラスが違います。松尾さんは店を間違えたのです。「クレジットカード可みたいだから大丈夫でしょう」、私たちはそのまま食事を始めました。

すると店主が「旦那さん、柳橋をよくご利用いただきました」、なんと松尾さんを覚えていました。日本橋堀留町の生地問屋幹部とよく利用していた柳橋の寿司屋、そこから暖簾分けした寿司職人が西麻布にオープンばかりの店でした。柳橋の近所に拠点があった革マル派はお歳暮を持って挨拶に来ていた、某有力百貨店オーナー社長がよく来ていたなどと店主と懐かしい会話が弾むうちに食事は終了。料金は特別サービスだったのでしょう、松尾さんのお財布の心配は取り越し苦労でした。

寿司屋を出たらすぐ隣の店を指差しながら、「本当はここに行きたかった。ちょっとだけ寄って行こう」、お腹はいっぱいなのにすぐ隣の大衆居酒屋に入りました。おっちょこちょいで律儀な松尾さんらしいエピソードです。



1978年からニューヨーク通信員としてたくさん記事を書きました。当初はまだファックスがなく、8番街西33丁目ニューヨーク郵便局まで行って速達を投函、もっと急ぐ場合は築地の印刷所で待機する速記者に国際電話を入れて原稿を読み上げ、固有名詞は間違いのないよう「アサヒのア」「イトウのイ」と伝えました。1981年頃でしょうか、ファックスの出現でコレクション記事はその日のうちに入稿するようになり、作品写真は時事通信ニューヨーク支局から電送してもらいました。ネット時代のいまはもっと早く記事を書かねばならないでしょうね。

繊研新聞通信員として7年半で1本だけ「これは掲載できない」とボツにされた原稿があります。東京の婦人服工業組合(のちに日本アパレル・ファッション産業協会に吸収合併)が対米輸出を計画してニューヨークで開催したJFF(ジャパン・ファッション・ウイーク)合同展示会の総括記事、題して「J F Fは本当に成功だったのか」。温厚な松尾さんもこの記事を掲載すると大問題になると判断したのでしょう、私は国際電話でボツを告げられました。

主要アパレルメーカーが参加、各社の経営幹部、商社繊維部門の責任者、業界メディアも多数会場に陣取り、JFF展への期待はかなり大きかったと思います。繊研新聞本社のベテラン同行記者もオールジャパンの大イベントをなんとか盛り上げようと連日ポジティブな記事を書きました。

しかし、会場には期待したほどバイヤーの入場はなく、ほとんど注文は入りません。顔見知りの駐在員が会場で配られた繊研新聞の見出しを見せながら、「ここにはJFF大盛況って書いてあるけど、実際にお客さんはいないじゃない。こんな記事が載ると、どうしてお前たちは売れないんだと本社に怒鳴られる。困るんだよ」と愚痴。駐在員たちの気持ちも理解できます。

展示会開催中は水を差すようなことは書けません。JFF展が終了した時点で私は総括記事を書きました。当時人気デザイナーのカルバンクライン日本製シルクスカートが上代250ドル前後、一方米国で無名の日本アパレルはポリエステル製なのに下代が500ドル。これでは勝負になりません。今後も対米輸出を進めたいのであれば根本的な仕切り直しが急務、今回はあまりにマーケティング不足という記事を書きました。記事の内容は理解できても婦人服組合の社長たちを刺激する記事はマズイ、ボツは大人の判断でした。

繊研新聞での掲載が無理なら別のメディアに、私は業界誌ファッション販売の丸木伊参編集長に原稿を送りました。掲載後私の記事はやはり波紋を起こし、組合上層部から「仲間意識がない」とクレームが繊研に入りました。普通の上司なら烈火のごとく叱り飛ばす場面でしょうが、松尾さんはこの件を糾弾することはありませんでした。

松尾さんの庇護のもとで直球記事を書いていたのはなにも私だけではありません。ファッション担当記者としてミラノ、パリコレを長年取材してきた織田晃さんは、私以上にクレームを生む書き手だったでしょう。あくびが出そうなショーには痛烈な批判、問題箇所が明白なコレクションには是正すべきポイントを指摘、時々ブランド側から怒りや泣きの電話が入っていたようです。松尾さんは「織田のデコスケが…」と言いながらも部下を庇い、本人の代わりに詫びに行く場面もありました。

一般的ニュースの客観報道と違い、取材者の主観がどうしても入るコレクション報道、ボスがどこまで庇ってくれるかで現場のエディターが伸びるか伸びないかが決まります。志村さん、松尾さんは私には本当にありがたい編集長でした。

写真:客観報道ではないコレクション取材は難しい。2014年春夏ニナリッチ





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Last updated  2023.08.18 18:57:33
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