売り場に学ぼう by 太田伸之

売り場に学ぼう by 太田伸之

PR

Profile

Nobuyuki Ota

Nobuyuki Ota

Calendar

2022.09.06
XML
1989年原宿クエスト館長の提案で始まったクエスト・ニュースタンダード・フォーラム、その第1回目はジャンポール・ゴルティエを発掘した中本佳男さんとジュンコシマダをあっと言う間に人気ブランドに育てた岡田茂樹さんをゲストに迎え、シブヤ西武の水野誠一店長と私がホスト役でした。

すでに中本さん、水野さんのことは取り上げましたので、ここでは岡田さんとのエピソードをご紹介します。

岡田さんは同志社大学卒業後1962年京都に本社がある野村(のちに社名変更してルシアン、現在はワコール傘下)に入社、韓国ソウル駐在員や子供服事業などを担当、社長の野村直晴さんがパリで契約してきた島田順子さんとのビジネスを担当するよう命じられ、ジュンコシマダの事業会社ルシアンプランニング専務取締役に就任しました。


​岡田茂樹さんのSNSよりご本人​

「クリエイションの島田、イメージ戦略の小笠原、マネジメントの岡田のトロイカ体制」、岡田さんから何度も聞いたセリフですが、パリ在住の島田さんをアタッシュドプレスのベテラン小笠原洋子さんと岡田さんが支え、49av Junko ShimadaとセカンドラインJunko Shimada part 2は世の中の「ボディコン」ブームのシンボリックなブランドとして認知されました。設立からたった7年ほどで両ブランド合わせて売上100億円寸前まで急成長、しかも手持ち運転資金がかなり少なくても事業を回せたのはマネジメント側の手腕あってのことでしょう。

1980年代初頭、大手、中堅問わずアパレルメーカーがこぞってデザイナーと協業してブランドビジネスに着手、そのほとんどは売上が10億にも満たないうちに消滅しました。明らかにマネジメントの力不足だったと思います。そんな中にあって野村が手がけたジュンコシマダは稀有な成功事例。野村は若手デザイナー安部兼章さんの事業会社ルシアンザスペースも立ち上げましたが、こちらはジュンコシマダのようにはうまく行かず、スキーショップ大手のアルペンに譲渡しています。

1987年ジュンコシマダ事業に突如転機が訪れます。島田順子さんの良き理解者だったオーナーの野村社長が50代半ばで急逝、ブランドを取り巻く環境は徐々に変わり始めます。理解者を失い、野村との契約更新が迫り、その話し合いは難航、島田さんは将来を見据えて新しいビジネスモデルを模索します。そのとき岡田さんから「太田さん、この構想どう思う?」と新体制案について相談されました。岡田さんにはその後もビジネス転機のたびに同じ質問をされましたが、「どう思う?」はいつも相談ではなく、「こうしたいんや」の決意表明でした。

しかし、このとき水面下で検討していた新構想が野村側に漏れてしまい、ジュンコシマダ事業はルシアンプランニングが契約更新してそのまま継続、島田さんに代わって外部と交渉した岡田さんは会社を離れました。のちにジュンコシマダのゴルフウエアを手がけていたダンロップスポーツが岡田さんを専務として迎え入れ、岡田さんはライセンス契約側の役員として島田順子さんのビジネスを再び支えることに。このときも「太田さん、どう思う?」でしたが、本人の決意は固まっていました。

当時私が主宰していたファッションビジネス塾「月曜会」の大学四年生の受講者は、講義に来た岡田さんの話と人柄に魅かれてルシアンプランニングを新卒受験、内定が決まりました。が、就職したら肝心の岡田専務は退職したあと、受講者はがっかりでした。

ちょうどその頃、私は墨田区役所と人材育成プログラムを進めていたので、岡田さんに「業界への恩返しと思って手伝ってよ」と墨田区ファッション産業人材育成戦略会議に誘いました。墨田区の構想は通商産業省に引き継がれてIFIビジネススクールが発足、1994年IFI初の実験講座で岡田さんがアパレルマーチャンダイジングのクラスを、私はリテールマーチャンダイジングのクラスをそれぞれ講座主任として担当しました。発足したものの連日議論ばかりで一向に講座が始まらない状況に、岡田さんと私は山中IFI理事長に実験講座の開講を直訴して始めたものでした。

それから実験講座の3年後、岡田さんがオフィスに訪ねてきました。岡田さん抜きのジュンコシマダには一時の勢いがなく、島田さんは岡田さんに再びパートナーとして自分を支えて欲しいとオファーしていました。「太田さん、どう思う?」の質問に、私は反対しました。今度の話は岡田さん個人が事業資金を集める形、あまりにリスキーだったからです。

が、岡田さんは最初から私の意見を聞くつもりで訪ねてきたわけではありません。結局岡田さんはジュンコシマダのビジネス運営会社ジュンコシマダインターナショナルの社長に就任、島田順子さん再出発のために奔走しました。この新会社で広報を担当したのは、IFI実験講座で私の教え子だった元三越の女性社員でした。

岡田さんがジュンコシマダを再び指揮して7年後の2005年、大手企業にその運営を委ね、岡田さんはアパレル事業から手を引きました。ご本人の体調が万全でなかったことも要因の一つです。またも時間的な余裕ができた岡田さんに私はまたまたお願いを。経済産業省が中小繊維事業者の自立化を支援する補助金の面接官を頼まれていたので、時間的余裕のある岡田さんに、「あんたも手伝うべき」と仲間に誘いました。


​ボディコンブーム期の島田順子さん東コレ会場前で​

岡田さんはこの自立事業で審査員をしたあと、採択された中小企業の経営をハンズオン支援するアドバイザーとして活躍、山形県鶴岡市で生まれた「キビソ」(従来製造過程で捨ててきた蚕が作る繭の外側の固い部分を活用した繊維)などの普及に務めました。

そして、2005年には久田尚子さんのあとを継いで第3代CFD議長に就任、その年に始まったJFW(日本ファッションウイーク推進機構)の東京コレクションを指揮しました。経済産業省の自立支援事業の審査員とアドバイザーを経験したこともあり、岡田議長は自立事業に採択された技術力ある繊維メーカーと東京コレクション参加デザイナーのマッチング展示会を設置、産地とデザイナー双方に刺激を与えました。面倒見の良い岡田さんらしいプロジェクトでした。


CFD議長3代

CFD議長就任直前、岡田さんを推挙する人々に私は猛反対しました。時々検査入院して体調が万全ではない岡田さんに激務はさせたくない、「もしも岡田さんに何かあったら奥様に顔向けできないじゃないですか」と反対しました。でも、周囲もご本人も私の心配をよそにCFD議長就任の話を進め、JFW東京コレクションがスタートしました。

翌2006年、JFW三宅正彦実行委員長(のちのJFW理事長。当時TSI会長)からの協力要請もあって、JFWの立ち上げには全く関係がなかった私がJFW側の担当として東京コレクションをサポート、岡田さんにはCFD議長に専念してもらう形になったのです。以来私はずっとJFWコレクション担当理事として東京コレクション(現在はRakuten Fashion Week TOKYO)をお手伝いをしています。

岡田さんのようなビジネスマンがマネジメントを引き受けていたら、80年代、90年代にアパレルメーカーが立ち上げたデザイナー系ファッションブランドはもう少し生き残ったのではないかと思います。設立3年ほどで解約解消するブランドをたくさん見てきた私には、デザイナーのクリエーションを受け止めてマネジメントできる人材を育てるのが急務と思えてなりません。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2023.08.27 13:59:20
[ファッションビジネス] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.

Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: