( 承前 )<1月11日(4)>
一日の銀輪散歩をいつまで引っ張るのだ、とは仰いますな(笑)。楽天ブログの一記事当たりの文字数制限が悪いのであって、小生の所為ではありませぬ。
政庁跡の北西隅にあるのが坂本八幡宮。此処が大伴旅人の邸宅があった処という説もあるようですが定かではない。この付近にあったことは間違いないようです。
してみれば、天平2年(730年)正月13日の観梅の宴はこの付近で開催されたということになります。
しかし、境内にある歌碑は、観梅の宴での旅人の歌ではなく、萩の歌でありました。
わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の
花嬬問ひに 来鳴くさ男鹿 (大伴旅人 万葉集巻8-1541)
この歌自体は明るく軽やかなものであるが、妻問ひの鹿に妻を亡くした自分を重ねていると見れば、初萩の咲くのを亡き妻と一緒に見ることができたらなあ、という寂しさ・悲哀が隠されていると見るべきだろう。それは、この歌と同時に詠まれた次の歌によって明らかとなる。
わが岡の 秋萩の花 風をいたみ
散るべくなりぬ 見む人もがも (同 巻8-1542)
萩の花が咲く頃、鹿は発情期を迎え、牡鹿は雌鹿を求めてヒューと甲高い声で鳴く。また、鹿は萩が好きで(と言っても食べ物としてであるが)よく萩の木にやって来る。そんなことから、萩は鹿の「花妻」とされるのである。
坂本八幡宮から北へ坂道を上った処に鬼子母神堂があり、そこにも万葉歌碑がある。鬼子母神堂だけに歌碑の歌は憶良の例の歌である。
しろがねも くがねも玉も 何せむに
優れる宝 子にしかめやも (山上憶良 万葉集巻5-803)
鬼子母神堂の南側の道を下って行き、坂本公園の前の細道を北へと坂道を上って行くと、こんなのがありました。この地域を防備していた軍団の印判が出土した場所だという。
太宰府市文化ふれあい館の前から坂を西へと下った処にあったのが、筑前国分寺跡と国分天満宮。天満宮境内には山上憶良の歌碑がありました。
大野山 霧立ち渡る わが嘆く
息嘯
(おきそ)
の風に 霧立ちわたる (山上憶良 万葉集巻5-799)
大伴旅人が妻を亡くしたことへの哀悼を表すべく、憶良が作った「日本挽歌」の反歌5首のうちの1首である。「大野山に霧が立ち込めている。私の嘆きが霧となって立ち込めているのだ」と旅人の心になって詠んだ歌である。
「おきそ」とは息吹のこと。嘆きつつ長い息を吐くのを「おきその風」と表現したのである。滋賀県にある老蘇の森とか兵庫県高砂市にある奥石神社とかも、その本来形は「おきそ」で伊吹山の「いぶき」と同じ意味の語であろう。
写真の背後に見えている山が大野山である。政庁跡北側に望まれた山が少し角度を変えて見えている。
国分天満宮は筑前国分寺跡に立地している。天満宮の北側にその跡が史蹟として保存されている。
この説明板を読んで、先程通り過ぎた太宰府市文化ふれあい館に七重塔が復元展示されていることを知る。知ってしまったからには行かねばなるまい。下って来た坂道を再び上る。館の南庭にそれはありました。実物大の復元ならきっと壮観な眺めであることでしょうな。
再び坂を下って筑前国分寺跡に戻る。跡地の西隣には現在も国分寺という寺がある。この寺の西側の道を北上、次に目指すは国分小学校。
ところがこれがまた急な坂道の上にあるのでした。途中で目に付いた古墳の前で一息入れて何とか上り切る。
(陣ノ尾1号墳)<説明板はクリックして拡大画像でご覧下さい。>
国分小に到着。
地元の方たちの何か催しがあるのか多くの人影。
校庭の何処に歌碑があるのか尋ねるがどなたもご存知ではない。校舎に若い男性の姿が見えたので声を掛けてみました。この小学校の先生。
「万葉歌碑があると聞いて来ましたが何処にあるのでしょうか。」
「さあ、どうでしょうかね。」
と首をかしげて居られたが、思い当たられたのか外まで出て来て下さって、
「万葉歌碑かどうか存じませんが、らしきものはあれかと。」
と近くまで案内して下さいました。
(大伴旅人歌碑)
わが苑に 梅の花散る 久方の
天より雪の 流れ来るかも (大伴旅人 万葉集巻5-822)
はい、間違いなく万葉歌碑でした。隣の梅の木が咲いていたらもっといい写真になったのでしょうが、是非に及ばず。
ということで、この後、水城に向かいますが、それは明日とし、本日はここまでとさせて戴きます。( つづく
)
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