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う~~~ん・・・今日って火曜日ですよね?うん、火曜日だ。回復するのに時間が掛かってるなぅ・・・なう(違)?冗談が言えるほどには回復した、っつうことで(苦笑)。全く毎度毎度のことながら~~~♪ orz肉体的な負荷は想像出来ない程に低いと言って良いはずなんだがなあ・・・「どこを」というか「どこが」鍛えられてるのだろう???いくら解剖図や参考書(?)を眺めても該当しそうな箇所がないどころか、掠りもしない。暗中模索の最中、「本当に大丈夫なのか?」と不安がる脳味噌と「これでOK!」と言う体と・・・てか「ナニガ」OKなんだ?とだな・・・(==;原理的には肉体の働きというのは、そんなに簡単な現象ではなく、その重層構造を深化していくと・・・ということなんだけど。この肉体の働きというのにも又、DNAみたいな性質があったりして、実際、面白いには面白い。が、シンド・・・グッド・・・つまらん。orz
2012.02.28
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百恵さんはプレイバックです・・・現時点での陰陽一元の理解に、一番、近いのは「器と中身」の譬えかもしれない。八卦の水が[:|:]=[陰陽陰]こんな感じで現わされるけど川の形だそうだ。陰が器、陽が中身としたとして、でも、セットでなければ川(水)にはならない。火は逆で[|:|]=[陽陰陽]で、火種が陰で現わされ、その働きとしての現れみたいな火が陽で現わされる。これも又、セットでなければ火にはならない。基本的には、どの卦も同じで、後は見方次第。山は[|::]=[陽陰陰](左が上)だけど、表見してるのが山ではなく、視認出来ない中身があってこその山だ。雷は[::|]=[陰陰陽](左が上)だけど、陰を貫いてこそ地に達して陽となるとも見れるし、元より地から発する現象と古も見ていたともだけど、陰と陽がセットで始めて成り立つ。どっちが本質か?とか考えると難しくなるけど、どっちも本質で、どっちも本質じゃないんなんだな。そういう矛盾が当たり前に存在するというか、実際には矛盾ですらないんだけど、言葉にしてしまうと矛盾するだけか。言い換えると、本当に近くなればなるほど、言葉に顕したモノゴトは矛盾するのが本来の“姿”なのかもしれない。そういう意味では最近、矛盾してない方がおかしいと感じるようなことが多くなってきた気もする。話が飛ぶようだけど、私達の存在なんて宇宙と比したら塵にもならん。その塵にもならん私達の存在が・・・(略)
2012.02.27
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ここ最近、易経系ネタ以外もと想いつつ、後から後からクッツクように出てくるので已む無し。「これを陽とすれば、これが陰になるので、 この陰をこうして使うと陽になって元の陽が動かざるを得なくて、 でもってここで陽になったら更にこうして陰が生じて・・・∞」とかやってるうちに、ワケわかめ・・・。orzいきなり「ということは陰を陽にされた敵がその陰を・・・」とか突然、訊かれると「どこを基点にして(仮)陰にして話してるのか?」が分からないとメタクタ。自分で掛けて振っときながら「取り敢えず掛けてもらわないと分かんない・・・」みたいな。視(始)点次第で陰・陽と観ることも出来る・・・というだけの話で陰陽一元というか一元としか捉えようがないということも体感として分かったものの、新しいバテ方に直面することに(苦笑)。正しければ体にセットされてくようにしてる積りではいるんだけど、前回が確か三カ月位前だから早過ぎだ・・・てか「(人間の時間軸からだと)モノゴトは加速する」ということを忘れてました。一周も同平面上を周遊してはいられない構造中にある一方、周径が小さくなってく分、深化が追い付かないと「クルクル~~~・・・・ポンっ!」みたいな(爆)?「まだまだ課題が山積みなのにどうすべ?」と少し?いや、かなり焦る。orz八(六十四)卦・三次元バージョン(怪)をテスト実験する積りが、既に三次元ですらなくなっちゃってもうたかも。てか、あれだけ寝たのに、まだまだ眠過ぎてどうでもいいかも・・・zzz
2012.02.26
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※ 御笑覧の際には、滅茶苦茶、適当に書いているという事を御念頭に・・・とか言うなら書くな、とだな(爆) ※亞さんから立体八卦を伝授さる。ので、せっかくだから・・・と観象したら、確かに凄い!何が凄いって、筮竹要らん!!じゃなく、マンマだ、マンマ!!!観たマンマ!!!しかし、ここで疑問が再燃・・・特に立体八卦だと、初~九の順に進むわけではないのである(私個人の感覚的にです)。八卦に八卦を乗せて六十四卦となるわけで、元はこう・・・上卦と下卦の間から上下方向に行くんでないか?みたいな。まあ、そうすっと上下に二股状態になるわけですが、その二股を結合してですね・・・てなことは感じていたのだけど、立体(八)卦は尚のこと、その感覚が強い(実際には二股どころじゃないわけですが)。ただ、これだと、やはり基卦(爻卦)と本卦の概念がないと分からなくなるな、とも。もっとも本卦も大いなる本卦2の基卦(爻卦)で、その本卦2も更に大いなる本卦3の・・・∞なわけで、プラス時間軸が絡まって時空を超越してですね、自分で書いてても書けば書くほど訳分からなくなるわけですよ(苦笑)。しかも重大な問題が・・・陰と陽が譬えられん(爆)!!!確かに陰と言えば陰、陽と言えば陽なんだけど・・・面白ス(笑)。特に陰。始めは虚を当てればいいのかな?と想ったんだけど、虚実というんでもないなぁ・・・。なんだろ、これあれ???まあ、そんなことは枝葉でごんす。不動にして動、動にして不動。なんてのから始まり、あらゆる矛盾が矛盾のままに矛盾してなくて、何と言うんだ?要するに<激しく怪しい>ことだけは確かなわけです、はい(爆)。稽古ネタ・・・決まったな( ̄▽ ̄)
2012.02.25
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[ 鳴鶴在陰、其子和之。我有好爵、吾與爾靡之。(風沢中孚・九二) ]繋辞伝からスタートした易経ですが、何故か魅かれる一節。オーソドックスな読み下しは・・・「鳴鶴の陰に在り、その子これに和す。 我に好爵あり。吾、爾とこれに靡(よ)わん。」占いの玉手箱よりとなるらしい。私は出来るだけ頭から読むのが好きなので、「鳴鶴の在すは陰、其子和すは之(なり)。 我有す(ところ)は好爵にして、吾が與(くみ)す(ところ)は爾の之に靡う(なり)。」みたいに勝手読みしてしまう(苦笑)。我と吾は使われ方が違うとか、本当は微妙らしい。が、分からんので置いておく(^^;大きく異なってしまうのが後節の後半。少し読み戻し(?)が入ってしまうのだけど「與」をオーソドックスの「○と」と読むと、どうしても違和感があって、かと言って「與(与)える」というのも前節との繋ぎに違和感がある・・・てなことで、こんな↑読み方をしてしまう。まあ間違っているんだろうけど、気持ち良く読めるのでいっか(笑)。こういう読み方をしていられるのは、やはり専門家でない素人の特権かな、と。そういう点、当然ながら亞さんは非常に研究もされた末の持論があっても全開というわけにもいかず、一日一言でも苦心されているのが伺われて大変だろうな、と想う。また、そういう所がプロとアマとの違いなのかな?もっとも、どんな読み方をしても名文は名文なんだけど(爆)。こんな風に美しく響き合う姿、そりゃ、どちらにしても「靡い」ますわな・・・みたいな。周易は「占術(易断?)としてはどうなの?」という見方もあるらしく、確かに五行や梅花に魅かれるのは分かる。ただ個人的には、易経の「残酷なまでの美しさ」は周易に十分、現れている気はする。易断そのものは、その後に来ないと、どれだけ的中するって言っても受け容れられるのだろうか・・・?と想ってしまう。受け容れられない易断は、ただ予知しただけということで終わってしまう。受け容れられないということは、逆に言えば自分が受け容れてないってだけなんだけどな。ああ!考えてみりゃ、そりゃあ俺の読み方のことだった(爆)!!
2012.02.24
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前記事を読んだら、なんか別のことを書くつもりだったらしい=忘れました、はい。ということで、書評の御紹介・・・?お金をもらうために「働き者」になるの?~『仕事と日本人』武田晴人著(評:荻野進介):日経ビジネスオンラインPart2は登録(無料)せねばですが・・・それはお任せということにて。少なくとも戦前位までは、丁稚奉公から番頭さん、あるいは暖簾分け、転職と、意外と「職の自由」があったようだ。かく言う私の母方の祖父・祖母は、ともに両親すら怪しい境遇だったが、色々な職を転々かつ手にしつつ暮らしてきたし、それが当たり前だったかのように幼い頃から聞いて育つと・・・私のような者になる(爆)。近代の不幸の一つは「虚構の自由」にあるんじゃなかろうか?個人的には封建時代の方が自由だったんじゃないか?とさえ想ってしまう。それ位、少なくとも日本人の感覚には「仕事」というものに対する帰属的固定観念とでも言うようなニュアンスがあるようだ。以前にも書いた気がするが、ある人事メインの先輩が米国から帰国して驚いたと言っていたことに、「まさにローリング・ストーンの感覚だ」というのがあった。いわく「日本人のような会社に対するロイヤリティは、一切と言って良い位、期待出来ない」と。実態はそうでもなく、日本式ロイヤリティの構築に成功している会社もあるのだが、やはり少数というのが実際のようだ。逆に、では何故、それ程に日本人は?と感じてしまう。それを「日本人特有の」と言うには歴史が浅過ぎるだろう。つい、この間まで、終身雇用なんての自体がなかったんだし。やはり波風立てたくないとか面子とか、そういうことなのかな?私は何社か渡らせて頂いたけど、普通に正面切って「辞めます」と言って出てきたので、よく分からん。辞めれば良くは言われないのが当たり前だと割り切ってもいたし、言いたきゃ言えばいいんじゃない?としかなあ・・・他の全てがそうであるように「自由」にも代償は付き物だ。仕事をする上で「好き勝手にする」ことを「自由」と言っているわけでもない。それでも私は、自分を束縛するものに対しては断固として闘う。私の人生の責任は、私しか取れない!・・・・なんて格好良いことを考えてもいない。あえて言えば、天上天下唯我独尊(爆)!!ああ言えばこう言うと良く言われるが、こう言われたらああ言えばいいのだ(笑)。全ては正しく間違っており、過ちて尚、正しいのである。ただ・・・少なくとも今生の命は一つしかない。
2012.02.24
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色々なケースを総合してフと想い付いたのだけど、反省というのは難しくも、簡単なことなんだな、と。私は、基本的に人は変わらないものと考えているけれど、同時に、瞬時にして変わることも経験しているし信じている。反省しなくてはならないことの多くは身に染み付いてしまった悪癖から生じる。だから容易には身から離れてはくれないので、頭では解っても、心から反省した積りでも、実は根に至ってないことが多い。人を見て、それを責めるのは簡単だが、先ずは我が身を省みるのが先だ。私の辿り着いた限りでは、反省するというのは、唯、死ぬということに尽きる。少し言い換えると、今までの自分を悔い、今までの自分を殺す、ということ。勿論、生まれ変わって生きるために死ぬ、自分を殺す、という意味だ。なのだが、本当に死ぬ、自分を殺す気になって始めて少し光が見える程に、悪癖といえど、他ならぬ自分そのものでもある。本当に反省が出来た人は、それだけで全てが変わる。そして日々刻々、反省し続けられる人は、生きながら死に、また死にながら生きれる人だ。そんな強さを持った人は、もはや人としての域を超えているとすら言えるかもしれない。それ位、反省することは難しいことでもあるから、私達は何度も何度も繰り返してしまうのだけれど、生まれ変わった自分を信じ続ける限り、きっと光は大きくなっていく。自分が生まれ変われるなんて、自分以外の誰が信じてくれるんだ、という話だ。生まれ変わった自分を信じる強さがあれば、きっと人は変わることが出来る。そして人は、誰しも、きっと自分で想うよりも遥かに強い。今日は別のことも書きたかったけれど、それは又にすべっす。
2012.02.22
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和合という言葉がある位だから、通常は合と和は分けないのだろう。どちらも言葉を使う人自身の向き合い方次第とも言える。ただ多くの利用シーンでは、合は能動的、和は受動的に使用されるようだ。あくまでそれに倣って分類するとすれば、だが・・・意識に沿った場合、合は意識的、和は非(≠無)意識的。なので、時間に沿った場合、合は先行して因、和は後行して果。あくまで便宜的な分類。どんな自分や自己であっても和しているモノがあるということは、畏れるべきことであると同時に最大の希望と言えるかもしれない。
2012.02.09
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時が刻まれるには待つしかない。しかもソコを耐えるのではなく楽しみに変えて。来るべきものは来るべくして来る。唯、時は必要なのだ。そして時と戯れるだけで人は変わる。時と人とは、本来、分かつことは出来ないからだ人にとって時がギフトであるように、時にとっても人はギフトだ。私も又、ギフトなのだ。
2012.02.08
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闘うために必要なツールとして何を想い付くだろう?本当は色々なものがあるんだろう。ただ、まだまだ私には想いも付かず徒手空拳のままだ。自己の深淵には、一体、何が潜んでいるのか・・・闘う決意だけは育てておかねば。
2012.02.06
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先週、ようやく次ステップへの足がかりを掴んだ後輩、稽古の後がキツクなってきた、と喜び半分、嘆き半分(?)。特に始めの内は、何処が疲れてるのか分からない、どう疲れてるのかも分からない、なんで疲れているのかすらも分からない。ただただ、疲れるのだ・・・これからがスタート、そこからがスタート。おいらなんて、入れ込んだ稽古の翌日に起きていられるのは数時間だもん(爆)。「変わる」というのは、そうそう生易しいことではない。さてさて・・・寝るべし。zzz
2012.02.05
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本日、我が家に「天空の羽」が舞い降りました。インド御出身のコンピューター技師さんからよびりんさんへ、よびりんさんから志さん&ハッピー☆ラッキーさんへ、志さん&ハッピー☆ラッキーさんから市村某まっくへ・・・(爆)名も知らぬインド御出身のコンピューター技師さん、有難う御座います!!そして、よびりんさん、志さん&ハッピー☆ラッキーさん、有難う御座います!!特に志さん&ハッピー☆ラッキーさんには、傷付き易い「天空の羽」を手厚くクリア・ファイルに収めてお送り頂くという御手間をお掛けし、深謝深謝!!静電気の関係でファイルに入れるだけでも大変だった事と存じます。さて暖かい陽の国、インドから旅して来てくれた「天空の羽」。ヤケてしまっても・・・と想うも、それは私の事情。本来はインドの大地に戻るべきが、遠路、参上してきて下さったわけです。ということで少しでもオープンな空気の下、陽光に喜んでもらいたいと、天気に合わせてパチリ!!うぅぅ、ふつくしぃ・・・あまりに美しいので「ラピュワー」と名付けました。どこかで聞いた事が・・・ないない、ないです(爆)!あれ・・・?( ̄▽ ̄;
2012.02.03
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* 文字化けしてたらすいません *卦だけで六十四もあると途方に暮れる。というわけで悪いとされる卦から入るのも一法と、四大難卦を読んでた。三 .屯 :水雷屯(震下坎上)二九.習坎:坎為水(坎下坎上)三九.蹇 :水山蹇(艮下坎上)四七.困 :沢水困(坎下兌上)全部、水絡みであり、沢水困を除けば全て上に水が乗る形。で、屯というのは物事の始まり、産みの難であるので除外されて、三大難卦と呼ばれる事もあるらしい。水と書かれてる元々の坎(かん)は「穴ぼこ」とかで、それも「陥れる」というような意味があって、同じ「穴」でも「壁に開いた穴、抜け出る」の意があるという「兌(谷)」とは大違いのようだ。どれも読んでるだけで落ち込んで来るような文章のオンパレードである(爆)。だが、易経に繰り返し出てくる「貞」の一字・・・と言いたいところが、「習坎:坎為水」では出て来ず「孚(まこと)」が示される。「貞」の一字が分からんと・・・と想ってたけど、この「孚(まこと)」も又。どちらも簡単に訳せば「正しい」となるんだと想うけど・・・。「説文解字」とかも見つかったので読んだけのだけど、今一つ、ピンと来ない。易経には「爻」という所まで細かく読むと、他にも厳しいことが書かれてるものが結構、ある。繋辞伝で「厳しい時代に作られたんかな?」という一節がある位だから、昔の人でもそういう印象を抱く程、厳しいということなのだろう。それでも、いずれにしても、とにかく「貞」であり「孚(まこと)」なのだ。勿論、「元亨利貞」が基本なんだろうけれど。「貞」が「道義に法る正しさ」だとしたら、「孚(まこと)」は「本然の幽真から出る正しさ」であろうか?「貞」は「屯」の中で「大貞凶」とあるように、行き過ぎれば間違い兼ねない、いわば意志の力に由るもの。「孚(まこと)」は赤子の時に経ち返った時に、ふと出るような自らの幽奥から滲み出てくるもの、とも言えるのかな。「孚貞なれば・・・」などと想って調べたら、ひっくり返った「貞孚」で小笠原貞孚が出てきた。名家であり、代々の名前の付け方に易経を想わせるものがある。「孚貞」だと「不貞」の音に通じちゃうもんな(^^;亢龍有悔(亢龍悔い有り)、両極にあって尚、人は自己を試すことが出来る。私達は、他ならぬ此の自らの手の内に、試されるのか試すのかの選択を有し得ているのだと想う。天地広大にして万物不定。人たる者、小なりと雖も、孚貞なれば凶に在りて而も光(おお)いに利ろし。
2012.02.02
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