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リンロン88

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2011.07.11
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カテゴリ: スピリチュアル

  今日の教会の説教のテーマはなんだったんだろうか?

今日の聖句(説教のテーマとして選んだ、聖書の箇所)は、旧約聖書でアブラハムが息子イサクを、神の命令によっていけにえにささげる場面。

神の指示によって、故郷を離れたにも関わらずアブラハムは長い間子供に恵まれなかった。

100歳になった時にようやくさずかったイサクをアブラハムはどんなにか愛した事だろうか。

その大切な一人息子を神はいけにえに捧げよ、と命令する。そしてアブラハムは、それに(恐らく)悩みながらも、その「信仰心」から、神の命じたとおりにしようとイサクを山の上に連れて行き、まさに息子をいけにえにするために殺そうとする時に、神がそれを止め、代わりのいけにえの羊を与える。

この話のテーマはなんなのだろうか? 聖書の内容には難解なものが多い。こういった内容が次々に出てくるのが聖書で、それを字句どおりに解釈していったらとんでもないものになりかねない。

説教の中では、通常言われているように、これがアブラハムの神への信頼の証し、信仰の篤さと受け取り、「神がそのひとり子をお与えになったように」と書かれた、神の一人子としてのイエスと、その死を、旧約聖書のこの部分の「成就」として説明する。

そして、もちろん、神はこのアブラハムの信仰の篤さを認め、「また」子々孫々までの繁栄を約束する。

しかし、神がアブラハムの子孫の繁栄を約束したのはこれが初めてではない。その前になんども「星の数ほど」子孫が増え繁栄する事を約束している。だから「また」なのである。

しかし、この日記のテーマはここではない。今回のテーマは、この旧約聖書のこの箇所の受け取り方だ。

これをアブラハムの信仰の篤さとして、称えるための逸話として受け取るべきなのだろうか?

神の声に従って、長年待ち望んでやっとさずかった一人息子を殺していけにえにする、ということを、恐らく悩みぬいた末ではあろうけれど、結局は従って、実行に移そうとするアブラハム。

確かに、通常の神経では考えられないほどの「神への信頼」がなければ出来るものではない、とは言える。

しかし、同時に、それが本当に神の言葉だとどうして信じられたのか、その辺の記述はない。もとから「神の声」にしたがって生きてきたアブラハムのこと、この時もつゆほども疑わなかったのか、それとも少しは疑ったが、それでもやはり神の声だと認め、それに従う決心をしたのか、その辺の記述もない。

この話をどう解釈するか、ということに対して、頭に浮かんだのが「狂信」という言葉と「信仰」の間にある(はずの)境界について、であった。

オーム真理教のサリン事件を挙げるまでもなく、ある宗教に見られる「輸血拒否」による子供の見殺しなど、宗教的な「義」を守るために、社会の一般常識からしたら「罪」になることを、真剣に正しい、と思いこんでなされる行為は多い。

古くは十字軍の遠征から、ナチスによるユダヤ人の大虐殺、中南米におけるカトリック教徒による現地人の大虐殺、強制改宗などなど、今となっては教会自身もその「非」を認める行為は枚挙にいとまがない。

この全てとは言わないまでも、多くの部分で、「神の義」を信じた敬虔なクリスチャンによる行為であったわけで、それらと、上述したアブラハムの息子を凝ろうそうとした行為がダブってくる。

片や正式に「非」と認められ、方や聖書上もっとも敬虔な信仰者として評価されるアブラハム。

その違いはどこか?

これが、私の聞きたかったことであるが、説教の中ではもちろん、そんな内容は出てこない。ただただ、神への信頼と、神への信仰、その結果としてのイスラエルの繁栄という神の約束ごとが語られる。

日本人の中には、宗教というと一歩引いて、一定の距離を持つ人が大半だろう。特に、キリスト教やイスラム教などの一神教に対してはそうだ。

なぜか、と言えば、これら宗教の「義」とか「善」とか言われるものと、自分自身の「良心」あるいは世間一般の「常識」とが相入れない、場合によっては対立するものとして現れたときに、自分の良心を捨て、世間一般の批判、糾弾をおそれずに「信仰」に生きる、ということに対して、一般の日本人は危険や怖さを感じているのではないだろうか。

子供が死に掛かっているのを見ても、輸血すれば直ると言われてもそれを信仰上の理由で拒否し、子供を見殺しにしたり、毒ガスで世間の「無信仰」な人間を抹殺することになんの良心の呵責も覚えない人間に、宗教としうものは変える力をもっているのだから、これは当然の話と言えなくもない。

だからこそ、本当に、こういった「狂信」と、もし本当の信仰というものがあるとしたら、その「信仰」の間の境界、あるいは「違い」というものがいったいなんなのか、そこをはっきりさせない限り、たとえ実際に心の平安が得られる、といった功徳があったとして、おいそれとは「信仰」に行きようがない。

世の中には「神の声」を聞いた、と称する人は多い。その大部分、いやほぼ全てを、単に幻覚・幻聴とする、唯物的、科学万能主義の見方を完全に支持する者でもないが、だからといって、これらを真に受ける、ということには大部分の人が否定的であろう。

では、「神の声」は旧約聖書時代のイスラエル人だけの「専売特許」なのか?

そう考える合理的な理由は全くない。では今も聴いている人はいるか?たぶんイエスだろう。

しかし、その「声」が本当に神の声かどうか、なんて証明しようもない。

「聖書」に書かれているから「正しい」「真実だ」と言える理由も、これまた全くない。

クリスチャンの方と話をしていてズレを感じるのはこの部分で、「聖書に書いてあるから」という理由で、自分ではわからないが、と断りながらも「これが善」「これが悪」という判断を下す場合が多々ある。

「どうして?」と聞くと、自分はまだ不勉強でよくわからないが、聖書にはこう書いてあるから、という答えが返ってきたりする。

自分の良心と聖書のはざまで悩むことはないのだろうか?悩んで、結局は聖書に従うのだろうか? 

「信仰」と「狂信」の境界をしらずして、どうして自分の「信仰」が「狂信」ではない、と言えるのだろうか?

「良心」は神が人間に与えた判断基準ではなかったのか?それに相反することを「神」が言ったり行ったりしたときに、彼らはそのどちらをよりどころにするのだろうか?

少なくとも言える事は、「人間的良心」よりも「信仰」による「神の義」を信じるがゆえに、今世界で様々な「暴力」「戦争」「闘争」が行われている、ということは事実だ。

「人間としての良心」を信じていたら、自分の体にダイナマイトを巻きつけて、無垢の子供もいるような街中で自爆するような人間には絶対なりえないだろうから。








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Last updated  2011.07.11 05:19:18
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ミネルヴァ@ Re:アメリカに長く居すぎた、と思うとき(01/15) 明後日アメリカに向かいます。 参考になり…
リンロン88 @ Re[1]:「いただきます」と「ごちそうさま」(03/29) プチプチ大家さん >リンロンさん、もう楽…
プチプチ大家@ Re:「いただきます」と「ごちそうさま」(03/29) リンロンさん、もう楽天ブログは止められ…
リンロン88 @ Re[3]:存在そのものの「罪」(03/19) なみがしらMさん > 私が,言っているの…
なみがしらM @ Re[2]:存在そのものの「罪」(03/19) リンロン88さん >なみがしらMさん >…

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