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Dec 24, 2015
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カテゴリ: 卓球
昨晩、のんぱさんとM市岡さんと飲んでる時に卓球歴の話になったのですが、それをきっかけに
自分の卓球歴を想い出と共にまとめてみようと思いました。
以前 「私のラケットとラバーの思い出。」 というタイトルで自分が使って来たラケットや
ラバーについて書いた事がありますが、今回は少し視点を変えます。

小学6年で卓球クラブに入りその楽しさを実感した私は、中学では迷いなく卓球部に入りました。
私は伊丹市出身で、荒牧中です。
ペンとシェイクの違いは当然分かってましたが戦型などという言葉は入部するまで全く知らず、
単に「シェイクをする」としか思ってませんでした。
ところが2年生の先輩が「カットマンやるか?」と冗談で勧められた事で、そういう戦型が
存在する事を知りました。
私はカットマンどころかまともな基本も出来ていない素人だったのですぐに「なります!」とは
いきませんでしたが、頭の中でカットマンに対する憧れはありました。
卓球部の顧問は理科の余田先生。ご自身はペンドラなのですが、シェイクに対しても熱心に
指導していましたし、カットマンに対しても指導していました。
春からフォア打ち、バックショート、など基本的な打ち方を学んでいき、確か夏頃だったかに
自分のしたい戦型を決める、というタイミングがあったと思います。
私は「カットマンになりたいです!」と言いました。
相手の攻撃を華麗に拾い、隙あらば反撃。他の人とは何か違う独特のスタイルに憧れが
ありました。「なんか格好良い!」と。
もう1人、カットマン希望の同級生にC馬(ニックネームはチュウ。キスではありません:笑)が
居たので、二人でカットマン指導をして貰った記憶があります。
視聴覚室で高島選手の卓球指導ビデオを見せて貰ったり、カットマンではない余田先生が
身をもってお手本を見せてくれたり。
ちなみに私の卓球の基礎は全てこの余田先生から教わった事がベースとなっています。
私の30年以上の卓球人生の中で、一番の恩師だと思っています。
余田先生が居なければ私の今の卓球はありませんでした。
同級生のチュウは私より上手で、部内のランキング戦でも1、2を争う感じでした。
2年生の時に辞めてしまいましたが。
チュウはフォアカットが得意で、当時からフォアカットが苦手な私は羨ましかったです。
また、バックハンドスマッシュはストレートに打つのが得意(と言うかストレートにしか
打てなかったらしい)で、私は逆にクロスにしか打てなかったので、お互いの得意プレーが
対象的、という面白い存在でした。
中学2年の時に同級生の半分以上がゴッソリ退部するという時期があり、部員が減りました。
私は1年生の序盤は何とかレギュラーになるランクだったのですが、すぐに皆に追い抜かされ
2年の時には補欠レベルだったと思います。
ですが、部員が減ってからは5番手、6番手、ぐらいのランクになったような記憶です。
その後、私はキャプテンになりました。
理由はよく分かりませんが、多分真面目に練習に参加していたからだと思います。
中学3年間でサボりは一度もなく、とにかくまじめに朝も放課後も参加していました。
実力は伴いませんでしたが。。。
2年生の終わり頃だったと思いますが、伊丹の強豪、松崎中から転勤して来た先生が
余田先生と共に卓球部の顧問に追加されました。
それから、私の中学の卓球生活が変わりました。
まずこの先生に「お前はカットマンは向いてない。このラケットを使え」と、自分のラケットを
取り上げられ、代わりに誰の物か分からない攻撃選手用のラケットを渡されました。
カットマンを無理やり辞めさせられたのも腹が立ちましたが、親から勝って貰った大事な
ラケットを勝手に取り上げられたのがすごくショックで「何やこの先生!!」と腹が立ったのを
覚えています。
3年の引退試合は私はカットマンではありませんでした。
バック表で、自分でも何の戦型か分からないような中途半端なプレーでした。
団体戦は、いつも私は6人目の選手としてレギュラーになっていました。
練習の参加頻度などの行いにより、余田先生が決めているんだと思います。
周りの部員からは「キャプテンやから義理でレギュラー入りさせて貰ってる」と皮肉られたり
しました。自分でもそう思っていました。
SSWSS団体では、私はいつもラストでした。
2-2で回って来たら自分で勝負が決まるというシチュエーションになるのですが、メンタル的にも
全く自信がないですし、実力もないのでほぼ負けました。チームメイトからガッカリされました。
そんな中学時代でした。
団体戦・個人戦共に、一度も市内大会を抜ける事は無く終了しました。弱小でした。
中学時代は、団体戦は松崎中が最強でした。東洋大姫路に進んだカットマンのM田を筆頭に
M脇、M本、T屋、・・・と色んな戦型の強いメンバーで層が厚かったです。
あと東中。団体戦こそ松中に敵わなかったですが、ペンドラのO本、カットマンのU野、という
二枚看板はとても強く、個人戦ではいつも松中に引けを取らず勝ち上がっていました。

高校は伊丹北高に進学しました。
顧問の先生は名前だけで指導はありません。教えて貰うのは先輩のみ。
しかも2年の先輩はおらず、先輩は3年だけでした。
少しは一緒に打った経験がありますが、卓球場に台は4台ほどあるのみ。その4台で男女卓球部が
練習する必要があるので、1年は外周ランニングなどで半分ぐらいの時間を過ごし、途中から
少し打たせて貰う、みたいな状態でした。
暫くすると3年生が引退して、2年生が居なかった事から、夏からは我々がメインとなって
練習する機会が出来ました。
荒牧中から自分を含めて3人が入部したと思います。あと天王寺川中から3人、東中から1人、
ぐらいの感じだったと思います。
主に団体戦のメインメンバーになっていたのは、S藤、N谷、M好、M本、そして私だったと
思います。私は、高校に入ってすぐカットマンに戻りました。
中学時代、無理やりカットマンを辞めさせられたのが本当に悔しかったので。
その時、初めてバック面に粒高一枚ラバーを貼りました。ファントム007でした。
指導者もおらず、同級生を中心に単に練習をしていただけなので、目覚ましい上達はありません
でした。ただ真面目に練習はしていたので、頻度的にはそれなりだった気はします。
高校の大会は市内大会というものはなく、スタートは阪神大会でした。
伊丹、宝塚、尼崎、西宮、・・・辺りの高校が集まった大会で、勝ち抜くと次は県大会、
その上は近畿大会、そして全国、だと思います。経験がないので知りませんが(笑)。
2年生の時だったか、たまたま団体戦で県大会の出場権を得ました。
もうお祭り騒ぎのような状態です。
豊岡で開催されるのですが、女子卓球部も県大会出場を決めたので、両部員6人ずつと
引率の顧問2人の計14人とかで前泊で城崎温泉の宿に泊まりました。
修学旅行気分で泊まり、当日の試合の事は全く記憶にないです(苦笑)。
参加者みんなが強く見えるという劣等感と緊張で頭は真っ白。当然1回戦負けでした。
その後、キャプテンがN谷から私に交替し、引退する時には私はまたキャプテンでした。
皆はバイトしたり忙しくなり、練習頻度も落ちていました。
バイトをしていない私は、実力は別にして一番熱心に練習していたと思います。
3年の引退試合では、私は個人戦で阪神大会を抜けました。
最初で最後の、個人戦での県大会でした。
・・・もちろん1回戦負けで、どこで開催されて誰と当たったとか、試合内容とか、完全に
記憶からなくなっていますが(汗)。

パッとしない高校での卓球を終え、次は短大に進学します。
伊丹と尼崎の境界ぐらいにある、産業技術短大です。以前は鉄鋼短大という名前で、
高卒で鉄鋼企業に入社した社員を入社後に教育するために鉄鋼連盟が作った大学で、その後
高卒の一般生を取るようになったと聞いています。
なので、高卒で入った私ら一般生と一緒に、会社から給料を貰いながら学生をしている
企業生と呼ばれる生徒が居ました。若干自分達より年上でした。
でも学校の成績が会社に報告される事や、学校の成績などが会社復帰後のポストや昇進に
大きく関わる事もあり、企業生は真面目に勉強していました。
脳天気な高校上がりの我々はヌルい大学生活を送っていました。
大学にも卓球部がある事を知り、私はすぐに入部しました。
同級生には企業生も一般生もおり、レベルも私からすればそれなり。
自分は下から数えるのが早いレベルの実力でした。
試合は、近所の伊丹市や尼崎市のオープン大会に年に数回出場する程度で、その大会でも
大して勝ち上がれる実力はありませんでした。
この頃は、下手なりにカットマンをしていましたが、我流なので掛かったドライブに対する
フォアカットは床にラケットをぶつけるようにして取るようなスイングだった事や、
まともにドライブを練習した事がなかったのでドライブが全く打てないなど、今の卓球に
繋がってしまっているプレースタイルだったと記憶しています。
短大では年に1回、全国私立短大体育大会という大会が開催されました。
予選はなく本戦のみです。
女子の短大は非常に数も多くレベルも高いです。観ていても圧倒されます。
しかし男子で、短大で、しかも私学というと数は少なく、真面目に卓球をしている人も
多くないのか、出場している短大が非常に少なかったです。
ライバルとなるチームは東海短大というチームのみでした。
私は1回生の時には、個人戦で優勝候補と言われていた東海短大のサウスポーのペンドラを倒し
先輩に驚かれましたが、単に相手がカットマンと練習しておらず苦手だっただけ。
その次に自分の短大の先輩に負けてベスト4だったと思います。
でも大きな銅メダルが貰えます(^^;
団体戦は優勝して金メダルを貰ったような。私も、個人戦で優勝したペンドラの人を倒し
貢献出来た記憶があります。
2回生の時も確か団体は優勝し、個人戦はベスト4で同級生のペンドラに負けました。
実家に金メダル2枚と銅メダル2枚があると思います。
正直レベルはすごく低い大会ですが、全国優勝という名前だけ聞くとなんか嬉しかったです。

会社に就職するとどうやって卓球を続けるのかイメージが付きませんでしたし、そのための
行動も全く起こしていませんでした。
S友金属の子会社のシステム会社に入社した私は、元S金の卓球部OBである先輩から
「卓球してたんか!もし続けたいんやったら、卓球部に話を通そうか?」と声を掛けて
貰いました。私はずっと続けていた卓球をまた続けられる喜びで「はい!お願いします!」と
安直にお願いしました。身の程も知らずに(笑)。
S金の卓球部に入部しましたが、明らかに自分よりレベルが高く、自分が間違いなく最弱である
事は一目見てすぐに分かりました。正直ビビりました。
それもそのはず。卓球部のメンバーのほとんどは、スポーツ推薦の人。
つまり卓球の実績でスカウトされて、高卒でS金に入社した人ばかりなのです。
K児島実業やその他、有名な高校の卒業生だったり、全中ベスト○○、インターハイで○○、など
輝かしい実績の人達ばかり。私は何の実績も実力もなく、ただただ弱い卓球経験者でした。
よく「昭和45年生まれやったら、兵庫で言ったら○○とか××の世代か!」とか言われたり
するのですが、勝ち上がった事がないので強い選手の事がほとんど分かりません(^^;
かなりのジェネレーションギャップを感じました。
でも面白いもので、自分より遥かにレベルの高い人と練習をしていると、徐々にでも
上達していくものんだなぁと思いました。スピード・回転のある球、コース、サーブ、
色々なハイレベルな球を受ける事によって、耐性が少しでも出来て来るんです。
不思議なものです。

( 2/2 に続く)





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Last updated  Dec 25, 2015 01:19:28 AM
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