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多くの音色の点が空間に置かれ、それぞれに色彩の強弱がつくと絵画のような立体が空間に浮かび上がるような錯覚を受ける。立体的な響きの造形を空間に創造する工夫を、ドビュッシーは彼の作曲技法の中でしていたんだな、とスピーカーからプレイバックされる音を聞き、つくずく、楽曲に内包される、響きの造形意欲に感じ入った。低音域・中音域・高音域の3つのレジスターの響きが違和感なく完全に溶け合わないことで、同一系の色で繋げられる一本のラインを浮かび上がらせ、その位置が前後に変化するように聞こえる。今年は、ドビュッシーの没後100年というメモリアルイヤーになる。その記念ということで、ドビュッシーの研究家としても知られる、青柳いずみこさんがCDを録音された。その、特別なCDの演奏楽器として1925年に製造された、ベヒシュタインのフルコンサートピアノをお選びいただき、コジマ録音さんが録音会場に選んだ相模湖交流センターに八王子工房から運び入れた。ドビュッシーは1818年3月に亡くなっているが、1925年製造のBechstein の構造は、ドビュッシー存命中のピアノと同じと言っても過言ではないだろう。ドビュッシーはベヒシュタインを高く評価したということで、ベヒシュタインのカタログにも紹介されている: Composer Claude Debussy highly prized Bechstein pianos and made the statement, “Piano music should only be written for the Bechstein.” ドビュッシーがこのように述べる理由が腑に落ちるベヒシュタインの独特な響きの効果が、モニタースピーカから流れてくる青柳さんの演奏で再現され、いく層にも重なる旋律が生み出す多彩な色彩から、改めてドビュッシーが印象派と言われる所以を感じた。ドビュッシーが頭の中に描いたのではなかろうか、と思われるピアノの響きの色彩が、100年経った今年、青柳いずみこさんがCDにしてくださる。5月の発売が楽しみだ。
2018.01.27
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こだわりには色々あるが、楽譜の解釈に徹底的にこだわっていらっしゃっる国立市のH先生のこだわりは、ピアノ以外にも幾つかお持ちになっていらっしゃる。オーディオの趣味も、そのこだわりの一つに一つにしていらっしゃる。お互いの時間の許す時には、蓄音機を聴き前世代の人智に感動したり、自作の真空管アンプでレコードを聴かせてくださる。人はこだわって物に接していると、日常を確実に超える世界を見つけ、そこから享受する味わいに浸るという、常人には踏み込めない領域を見つけるものだ。と、H先生としゃべるたびに感じている。今回は、新年のお楽しみ会?で、更なる深みを体験させてもらった。H先生は、真空管のアンプを自作なさっていらっしゃる。話しを伺っていると、最初は既製品の物を購入なさっていらっしゃったようだが、自身の音を見い出すには自作だろう、ということから始まられたようだ。そもそも、電気技術が好きでなければそういう事にもならないだろうが。今回、一緒にお宅をお邪魔させてもらった、会社のS君の趣味の一つアンプの製作があったようだが、S君の知識もなかなかなもので、H先生と電気回路の話しのキャッチボールが充分できていた事が、今回、話が更に深くなっていくのを手伝った。こっちは、中学生の時アマチュア無線技士の免許を取得した時に勉強した、電気回路の知識を記憶の奥底から引きずり出し、コンデンサーの容量やら、バイアスやらの話について行くのが精一杯だった。数値的な会話で着地かと思いきや、最後にH先生曰く「行き着いた所は、自作アンプ。それも数値的な測定などに頼らず、色んな真空管を手に入れて試し耳で判断するのが、音楽を聴く意味で一番しっくりきた」確かに、何種類かの自作アンプをつなぎ変えて聴き比べさせてもらったが、オーケストラが良い感じなアンプ、室内楽ならこっちかな、と、時には真空管を差し替えて頂いたり、違うアンプの場合コンデンサーの種類を説明いただいたり、真空管やコンデンサーの双方が、響の特徴を作るのに随分影響を与えるのが良くわかった。部品の組合せで響が変わるのを体験していくうちに、何やらピアノ製作と共通するものを感じた。ベヒシュタインなどのドイツのピアノは、音楽家と対話しながら試行錯誤しながら製作し、数値的な裏付けは後でついてきていると感じる。今でこそ、コンピューターでの設計は当たり前になってはいるが、個性の根拠は数値で作られたのではなく、感覚から生まれたものだ。こんな事を考えながら、ラローチャのモーツァルトピアノコンチェルトでホールの中のような臨場感を堪能させていただいた。
2018.01.24
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年が変わるのを五感で感じるため、子供の頃、大晦日に行っていた、鐘撞をここのところすることにしている。実家のある多治見市には永保寺という臨済宗南禅寺派の寺院がある。実家は、この永保寺を守る寺の一つ徳林院の檀家になるので、法事やお盆や年始の挨拶の度にお伺いする、馴染みのある寺になる。永保寺にある開山堂は鎌倉時代に建立されたということで、ここの観音堂と共に国宝に指定されている、観光する場所が決して多いとは言えない多治見市の見所の一つ地なっている。この永保寺には鐘楼があり、ここで大晦日には除夜の鐘を撞かせてくれる。先程、”五感” と書いたが、五感とは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚 になる。大晦日から、正月に感じる感覚で、今、一番多いのは視覚ではないだろうか。例えば、門松や玄関の正月の飾り、スーパーでのお正月用の品々、初詣に並ぶ人など、見て感じるものはやたら多い。そのつぎに多いのは、味覚だと思う。お雑煮と御屠蘇は、僕はこの時期にしか口に入れないし、おせち料理も、やはり、この時期にしか口に入れないものがある。残りは、聴覚、触覚、嗅覚になるが、僕の場合、この中でこの時期にしか体験しない触覚、嗅覚に関わるものは、と考えてみると少々難しい。おせちなどの料理の場合、嗅覚に関わるものがあるが、この時期にしか感じないか?というと少々難があるが、例えば御屠蘇の場合、鼻を抜ける時に感じる香りが、味覚とのコンビネーションで、この時期特有といえば特有かもしれない。触覚は、私の場合昔はそれなりにあったと思う。凧揚げは子供の頃、正月にやるものだったが、凧が空高く上がり、凧紐が手に少し食い込むような感覚は、この時しか感じないものだといえばそうだったかもしれない。あと、凧を作る時に竹を薄く削るわけだが、薄く削った竹を曲げたりする感覚も、この時期ならではだったように思う。硬くなる前のお餅を新聞紙に広げる時に柔らかいお餅に触る感覚、書き初めの筆が半紙を滑る感覚など、思い返すと正月ならでは触覚は確かに有った。しかし、今はそういったものは無くなってしまった。そこで、正月体験を充実させる為に。僕が普段から酷使している聴覚の出番が重要な要素になった。お寺の鐘は、除夜の鐘以外にも時を告げる為に打たれることはあると思うが、僕は普段から頻繁に寺院に行くわけでもないし、寺院の鐘が聞こえるような場所で生活している訳でない。ゆえに僕には、除夜の鐘で聞くお寺の鐘は、年間で唯一の機会と言って良いと思う。お寺の鐘を撞いたことがある人はお分かりかと思うが、強すぎず、しかし、手首のスナップを最後に効かせ、鐘を打ち付ける木が鐘に長く接触しないような気持ちで打つと、”グゥオ~ン~ア~ン~オァ~ン~”と、耳の真上から頭から腹にまで空気の振動を感じる音が鳴る。西洋の教会の場合、街全体が石でできていて、教会の中も響くので、鐘そのものの音は日本の鐘と比べると、立ち上がりが早く鋭い感じがする。しかし、日本のお寺の鐘楼は、お経を上げる複数の和尚さんの声も余韻として残る感じはしない、響の少ない空間になる。そこにぶら下げる鐘は、それなりに説得力あるサウンドを演出しなければならない。よって唸るように鳴る。煩悩を追い払う意味が除夜の鐘にあるというが、普段否定している野太い響きへの迷いを追い払う意味で、煩悩を消し去る効果も僕にはある。さて、除夜の鐘の力を借り、年々薄らいでいく年明けの感覚を引っ張り出し、元旦は、今年やるべき事と、今年生起して欲しい事を再イメージしてみた。本年もよろしくお願いします。
2018.01.02
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