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明日パリに発ちます✈️日は庄内から羽田、羽田から成田のホテルに宿泊。
2014.02.24
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技術とは、物の在りように添い遂げることだ。だから技術が機能するということ以上に私の入り込む余地はないし、私が右往左往して技術を操縦するべく努力することは何もない。あえて言うなら、ものにあたって全力でもって力を抜くことなのだろう。樹の枝葉は風に任せてざわざわとその身を揺らす。そこには我というものはない。全身全霊で樹は樹である。川の水は地形に合わせて速くなったりゆっくりなったり。全てが回りの環境に決められていて、そこに身を任せて流されている。そこに我というものはない。故に自由自在である。条件は全て決定されている。だからこその自由である。美しいお経を挙げたいと思う。でもどんなに稽古を重ねても、自分の物ではないまったく新しい声が手にはいるわけではない。力の限り力を抜いて、自分の声を活かし響かせるようにするしかない。赤ン坊の鳴き声が、なぜあれほど大きく空間にも心にも直接響くのだろう。もともと人は、生まれながらにそれだけの声量を有している。それを自分で潰しているだけなのだろう。赤ちゃんは一つの技無き技、不射の射というものを体現していると思う。任せている。声の響きを身体に任せる。坐の中心線を見出すことを身体に任せる。弓の操作を身体に任せる。走る速度を身体に任せる。筆の遅速を身体に任せる。答えは身体が知っている、任せれば自ずから応えてくれる。野口三千三曰く、信ずるとは、負けて、参って、任せて、待って。身心はもとより脱落している。脱落した場所そのものが身心なのだろう。
2014.02.19
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インドから中国に仏教を伝えた有名人と言えば、ダルマさんと、西遊記でお馴染みの三蔵法師がまず出てくると思う。 ダルマさん日本だと高崎ダルマのような人形だが、本当は菩提達磨(ぼだいだるま、ボーディダルマ)と言って、中国に仏教を伝え、禅宗の師祖として禅の起源となる人でもある。 三蔵法師はテレビドラマなどの西遊記だと女優が演じることが多いが、実際は男。16年ものインドへの長旅を経て大般若経を中国に持ち帰り、600巻の翻訳を成し遂げた学僧。 日本で最もポピュラーなお経、「般若波羅密多心経」はその600巻のエッセンスを262文字に集約したもの。 今お勤めさせて戴いている随身先では、毎日欠かさずご祈祷にて太鼓に合わせてお唱えするし、また大般若経600巻の転読もしている。 2500年という時代を経て、今だに信仰が生きる仏教も、この祖師達を重んじている。 日本における現代の仏教は、江戸時代、幕府が檀家制度を敷いて以来、あるいは、明治政府が僧の妻帯を許可するようになってから、聖俗の振れ幅が非常に大きくなっていると思う。 寺に生まれ、家業としてやっている僧侶がほとんどだが、純粋に仏法を求めて妻帯せずに修行に励む僧侶もいる。 青い目をした外国人の修行僧や、住職も最近は珍しくない。 最近ではドイツ出身の安泰寺ネルケ無法住職も数多くの著作があり、有名人である。 かえって外国人のほうが決意をもって発心し、海を渡って出家しているのて、日本人よりも間違いなく純粋で決意も固いのかもしれない。 アメリカ、南米、ヨーロッパにも、日本から布教した結果できたお寺、あるいは日本で修行し故郷で布教した僧侶の寺は数多くあるようだ。 ヨーロッパに禅を布教した弟子丸泰仙という僧侶がいる。 33年前に遷化されているが、ヨーロッパでは、禅を伝えた現代の達磨大師とも言われている。 来週、その弟子丸老師の33回忌法要がイタリアで行われる。 自分の師匠の一人、今の随身先の住職の付き人として一緒にヨーロッパに出張することとなった。 フランスとイタリアの二ヵ国に8日間の予定。 向こうで、禅がどのように理解されているのか、単なるカルト、神秘主義として理解されているのか、 それとも心身脱落としての禅が理解されているのか非常に気になるところである。
2014.02.19
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日本の自殺率の高さは、夢追い教育、目標努力教育、そこに落ち度が少なからずあるのではないだろうか。夢や目標、常識や世間というものから、挫折、脱落することに非常にもろい。空を見上げさせるだけでなく、今ここに足を支える地もしっかりと意識させて欲しい。目標を定める、すると途端に世界は方向性を持ってくる。心が明確な意志として働く。生きている世界の見え方が変わる。毎日の時間の使い方も変わる。出逢う人や物事への対応も変わる。行動の全部が変わってくる。受験生の意識、就活生の意識、総理大臣の意識、オリンピック選手の意識。皆それぞれの価値を追い求め、それぞれ種々の世界を懸命に生きている。その種々の世界観の中で、成功失敗、勝ち負け、善悪、強弱、道徳不道徳、人間はいつの間にか世界を二元論的に作り変えてしまう。世界は本来無限定であり、豊かなはずである。しかし、人間はその豊かな世界を限定し、抽象化することで効率的に、そしてすごいスピードで進化を進めることができた。就活生が自殺する。会社員が自殺する。ストーカーが殺人を犯す。それは世界や自分を抽象化しすぎる結果であるところが大きいのではないか。世界や自分を見誤っている結果ではないか。ある一つの目的論的な世界観における、ある特定の価値基準が、世界の基準の全てであると勘違いしてしまっている。ただ一生懸命に夢を追わせたり、目標を追わせたりさせるだけの教育ではダメになってきているということだと思う。挫折をしても、どんな取り返しのつかない間違いを犯しても、最後のベース、芯となる自覚さえしっかりとしていれば、簡単に自殺などしないだろう。それは即ち、「今ここ自分」である。そのベース基地に少しでも立ち戻ってこれればいいと思う。本当は、いつもそこでしか生きていないはずなのに、でも、そこに腰を落ち着けていられない。禅に家帰穏坐(きかおんざ)という言葉がある。即ち、家に帰って心安らかに腰を落ち着けることだ。人はいつも、今ここでないどこかを求めてしまいがちだ。過去の栄光、未来への希望、他者への期待。そのどこにも今ここ自分は不在であるはずなのに、ついついその向こう側へと寄りかかってしまう。それでは転んで当然であろう。腰を下ろして、ほっと一息つく。家帰穏坐できるということが、どれほどの救いか。
2014.02.18
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道具を使う動物は少なからずいるが、ほとんどの生物は自己の身体を変化させて環境に直接に対応している。人間が道具を使うということは、それだけ世界と自分の身体に対して間接的であるということだ。その点に関してだけ見ても、人間は世界から一歩引いた所からものを見ている。現実から一歩身を引くという離れ業が言葉を生み出し、抽象的な思考を可能にした。様々な記憶の蓄積、未来の予測、そして、哲学や科学という現実の把握の方法。それだけで、人類は生存率を飛躍的に高め、 驚異的なスピードで文明を発展させた。ただ、その人間の英知は、両刃の剣で、現実から一歩身を引くことで、人間特有の悩み苦しみも生み出した。それは、「今、ここ、自分」をおろそかにし、そこを離れてしまうことだ。未来のことや、過去のことにとらわれすぎて、今ここに生かされている生命を大切にできないことだ。夢を持ちなさい。目標をもって、それに向かって努力しなさい。今に満足したら進歩はない。あきらめたらそこで試合終了だよ。等という言葉を我々は今まで耳にタコが出来るほど聞いてきた。それが価値ある人生を送る方法論である。それができなきゃ生きる意味がないと言わんばかりに教え込まれている。目標を持つこと、夢を持つことは大切なことだ。来るべき未来を肯定し、進むべき道を照らし出すこと。でも下手をすると、それが「今ここの自分」を否定することにもなりかねない。夢や目標が自分の思ったとおりにならないと自分や、他人や、世界を逆恨みしたりもする。妻や子供、自分が健康に生きて、災害にも戦争にも犯罪にも直面せず、平々凡々な日常を送っている。そのことが、どれほど多くのご縁に支えられて在る奇跡のような状態なのか。その当たり前で当たり前でない事実への、感謝、ありがたみ。夢や目標は、下手をするとそれを忘れさせる。人間的な目論見が、豊かな豊かな「今ここ」を貧しく抽象化してしまう。豊かで無限の世界を、あえて抽象化し、限定して見ることに人間は慣れすぎてしまっている。科学の視点、哲学の視点、経済学の視点、視点をある一点のみに限定すればするほど、豊かで無限の世界、今ここ自分は狭く小さくなってしまう。修行に入る前からの問いであるが、いまだに引きずっている。現実を離れること、それと、現実に徹すること。夢目標を持つこと、それと、坐禅し今ここであること。はたして、どちらがどちらなのであろうか。
2014.02.16
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お釈迦さんが悟りを得るのに菩提樹の下でしたこと、それは坐禅である。南無阿弥陀仏の念仏でも、何妙法蓮華経のお題目でもない。ましてや読経や祈祷でもなく、ヨーガでも瞑想でもない。坐禅である。何かを上手くやろうとする事ではなく、積極的に技術や目論見を捨てて、何もしないようにつとめるというとである。その坐禅と仏法をインドから中国へと伝えたダルマさんも少林寺近くの山で壁に向かって9年坐禅した。坐禅するダルマさんに弟子入りしようとして、取り合ってもらえなかった慧可さんは左腕を肘から切り落としたという。そこまで思い詰めて弟子入りするものかと不思議になる。ダルマさんが面壁せず、お釈迦さんと同じく正面向いて坐ってたなら、腕を切断することも無かっただろうなと思う。何故達磨大師は前後裁断の面壁坐禅をしたのだろうかと、坐りながらいつも考えてしまう。その面壁坐の伝統は道元禅師によって日本にしっかりと伝わっている。禅宗とは言うものの、生活の中に坐のある禅宗の僧侶なんて日本に一割もいないのではないだろうか。少なくとも身の回りには一割くらいしかいない。。。坐禅といえば、足が痛いとか、じっとしてないと叩かれるとか、まるで我慢比べのような印象しか一般にない。僧堂に身を置いて修行している雲水でさえ、何十年も僧侶としてやっている老僧でさえ、そのように坐禅をとらえている者は多いように思う。坐禅は我慢比べでもないし、成長とか上達を期待して坐るものでもない。お悟り見性を求めて坐るものでもない。坐禅は未来に結果を期待する、スポーツやギャンブルや、経済活動などとは全く異なる。ただただ自受有三昧、在るがままの「今、ここ、自分」に感謝し、安らうことだ。夜眠る時に、次の明日朝起きないかも知れないと心配する人はあまりいない。休まれば身体は自ずから目覚める。それだけ自分の身体を無意識に信頼している。睡眠と同じく、自分が自分へと落ち着くこと、自分が自分へと安らうことだ。ただ自分が自分をする。ただ坐禅が坐禅するというところだ。それを只管打坐と宗門では言う。人間特有の苦しみは、いつもかならず 「今、ここ、自分」を離れてしまうことに起因する。ただただ置かれた場所で咲くこと、そこをおろそかにせず、離れないこと。足るを知ること。ごくごく単純なリアリズムである。2500年も仏教が伝え続けているその簡単な事実が、まずその伝道者自身に正しく理解されてないんだなとつくづく思う。
2014.02.14
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お経を挙げるため、声を出すのに、ただ喉を使うだけではダメで、アゴを引く、アゴを引くと骨盤が起きる。骨盤が立つと腹が前へと落ちる。腹が前へ落ちると横隔膜が下がる。と、同時にみぞおちが柔らかくなる。横隔膜が下がると、深い呼吸になる。みぞおちが柔らかくなると喉も柔らかくなり、口腔も広く確保できる。それでもって、あとは声が響く。初心の頃はより大きく響く声を、出そう出そうと、喉にばかり力が掛かり、よく喉から血を出したり、声を潰したりしてしまっていた。身体というのも、上下左右四方八方、心身共に相互に作用し合っている。ただ、声を響かせようとする背景に、暗に陽に色々なことが関わってくる。だから、日頃から姿勢、進退には気を付けるようにしている。坐禅もそうだが、重力に対する自分の身体のあり方、正しい骨、内臓の収まり方、バランスの取れた正しい姿勢をとっていくことが、正しい信仰であるかのように思っている。坐禅をすると姿勢と呼吸は調う。姿勢と呼吸が整うと現実も整ってきたりする。先日、仙台で尼僧さんの青山俊薫老師の法話の中で、「目の前に咲く一輪のスミレのために、宇宙の全てが参加している」という話があった。一輪のスミレのために、生態系における人間から微生物までの生命全体のバランス。あるいは、地球と太陽との1億5千万kmの絶妙な距離感。また、その距離を保っていられるのに、太陽系全体の位置関係、太陽系の為の銀河系全体の位置関係。それら全てが目の前の一輪のスミレが咲くことにの為に参加しているという事実。「縁起」という観点から世界を見てみる。すると今生きているということ、幸福というのは、その事実以上でも以下でもないとおもう。この視点、この端末から世界が開けており、そこで生きている。そのパースペクティブの背景に暗に陽に世界の全てが参加している。幸福であろうとすることに、在るがまま、それ以上の条件を恣意的に求める必要無いんじゃないかな。
2014.02.14
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「心身は脱落なり、脱落は心身なり」と道元さんは言う。 心身はどこから脱落しているのか、狭い人間の思惑の世界からすでに、そして常に脱落している。 心身、即ち生命は一切何も手をつけなくても、すでに手の施しようがないほどに救われてる。 フッサールが言うように意識とは指向性である。 つまり意識というものは、常に何ものかに対して働いている。 だから意識とは矢印そのものである。 その矢印の先っぽに矢印自身は触れることができない。 目は目自身を見ることができない。 「今ここ自分」という矢じりの先っぽは常に世界を破り、時間の膜を裂いて進み続けている。 そのため、私というものは常に時間の最先端におり、世界の中心におり、ありとあらゆる縁起が集約してできているこの自己として在らしめられている。 あるがままにあるというその現前の事実そのものが、仏教においては、もう手の施しようがない程の救いなのだ。 未来に神の復活を待つまでもなく、過去に由来する原罪という借金も人間は本来持ってはいない。 「今ここ」を離れて、将来へのアテや、過去からのシガラミに右往左往する、そんなギャンブル的な世界観に人生を当てはめる必要もない。 手の施しようがないということ。 それが坐禅である。 手の施しようがないその進みを、救いを只々味わうのみである。 今ここ自分には何も足せない、何も引けない。 それ以上でも、それ以下でもない。
2014.02.09
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坐禅堂に坐り只管打坐する事が、かえって坐禅堂を離れることになる。 射に徹し集中することが、射を離れさせしめることになる。 「今ここ自分」という現場に徹するということが、そのまま現場を離脱させるという矛盾が起きてくる。 「修証一如」とか「心身脱落」とかいうことには、その構造が含まれている。 老子は「赤ん坊に還れ」という。 赤ん坊は自由自在である。小さな身体で、あんなに大きな声で泣けるのは、人間的な堅さが無いからだ。 命そのものから発せられる声だからだ。 お経にも命そのものを乗せていかなければと我が子を見て思う。 子に人間的な限定を加え、人間の世界に参加させしめることが教育である。 老子の言うように、赤ん坊に還るということは、人間を辞めるということだ。 澤木興道老師の言うように、坐して「人間を廃業」することだ。 人間的な場を離れ、自然に還る。 赤ん坊のように柔らかく、世界とケンカせずに。
2014.02.09
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毎日昼休みに独り坐禅堂に於いて坐す。 あえて面壁せず、窓を開けて降ってくる雪を観ている。 みぞおちを柔らかく保って呼吸をしていくと、冷たく顔を刺す風が、段々と心地よい夏の微風のように感じられるのが不思議だ。 寒い寒いと身体を強張らせると、途端に風が冷たくなるのも不思議だ。 気温とあまりケンカしてもダメなんだな。 ところで、姿勢の制御というのは、地球の重力と身体との繊細な駆け引きである。 地球上に存在するあらゆる物質は漏れなく重力を受け取っており、その体に掛かる重みに抗しながら存在している。 あらゆる生命の進化と活動はその重力との絶妙なバランスの上に成り立っている。 人間の技術、あるいは行為というものは、地球に引かれながら、その重力の自覚の上に磨かれてきた。 重力を無視した技術や行為というものはうまく働くことはないだろう。 道具の質量や、手足の重み、慣性の法則を観ずることができなければ、ホウキ一つ、雑巾掛け一つとってみても上達はしない。剣や弓なら尚更だろう。 だから人間の技術というのも地球の重力とのかけ引きであると思う。 この身に重力を頂いているということは、この地球上での存在を許可されているということだ。 詩的に言えば、重力とは地球からの愛である。 自己の身体に架かる重み(愛)をゆったりと味わえることが、坐禅のよろこびの一つではある。 自己の存在する意味や価値を見失っている人はそこから考えてみても良いんだろうな、と思う。
2014.02.08
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南無というのは、「すべておまかせ」という意である。日々、杉の木立を見つめながら坐禅をしている。風に身を任せゆらぐ枝葉はよく南無の意を表しているものと思う。あるいは、天からゆっくり降る雪にも。あの風雪枝葉のような柔らかさをこの心身に写し取りたい。正しい地球の重力の受け止め方をあの枝葉に学んでいる。神仏と人との間を仲介する者であるならば、この、南無ということを忘れてはいけないだろう。合掌に南無の意が、お経の声、呼吸に南無の意が、お拝をはじめ、所作一つとってみても南無の意がなけれびならない。この現実の意味も事実もあるがままにストンと腑に落ちていく。
2014.02.07
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