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その昔から名前は知っていたのだが読まないできた本である。奈良の名刹を巡った旅行記であり、大正8年に刊行された。著者は当時は30歳であり、車(人力車?)でお寺を巡り、お坊さんに会って仏像を見せてもらったりしている。今の観光旅行とはずいぶん趣が違う。そこで出会った仏像に感動しながら、唐や天竺に思いをはせ、結局はこうした仏像は穏やかな日本の風土の中で生まれたものであろうとする感想が多い。著者の後年の名著である「風土」の考えの芽生えはすでにこのころからあったのだろう。それにしても、穏やかな日本の風土、日本の自然といっても、この本がでた4年後には関東大震災が起きる。日本の自然は穏やかなだけではない。日本の自然は穏やかだから、日本人は農耕民族だから…という前提で、日本人の国民性や習俗を理屈づければなんとでもいえるし、そうした「日本人論」が流行した時代も知っている。こうした論調の淵源の一つは和辻哲郎にもあるのかもしれない。余談だが、和辻哲郎の「風土」は読んだことがないのだが、そこに記述されている砂漠には一神教が生まれ、自然豊かな地域では多神教が生まれたという論調は、かなりの影響力をもっていたようだ。しかし、イスラム教は砂漠よりもインドや東南アジアの信者数の方が数では多い。和辻哲郎氏は実際には中東には滞在したことはないという。昔は今に比べると外国滞在の経験機会も少なかったし、該博な知識と流麗な文章があれば、多くの読者を感心せしめたのであろう。「古寺巡礼」は、読んだ後、奈良を訪れてみたくなる本であり、また、随所に仏像などの写真があることも読書の助けになる(もっとも今ではスマホですぐに見ることができるが)。
2024年11月25日
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数学には嫌われているのだが、どういうわけか数学のでてくる映画は好きだ。特に「博士の愛した数式」は小説だけでなく、映画の方も大傑作だと思う。そして今回ネット配信でみた韓国映画「不思議の国の数学者」もそれに匹敵する、またはそれ以上の傑作だと、個人的には思う。主人公は脱北した数学者で、韓国では学校の警備員をしている。生徒たちは彼の正体を知らず、脱北したことにちなんで「人民軍」のあだ名でよんでいる。主役のチェミンシクは有名な俳優なのだが、いわゆる知的な風貌ではなく、天才数学者のイメージではないが、さすがの貫禄の演技で、目が離せない。その彼と、貧しい母子家庭で塾に通うことができず、落ちこぼれ気味で転向を薦められている高校生ジウとの交流が物語の大きな流れでそれに脱北の複雑な事情が絡んでくる。不思議という言葉には日本ではマイナスの意味はないのだが、原題は異常な国であり、主人公は、自由な研究を許さない北朝鮮も異常なら、数学が就職の手段になっている韓国も異常だと言う。問題を解くことが重要なのではない、問題を解く過程が重要なのだといったような含蓄の深い言葉が随所にあり、数学を度外視しても、十分に楽しめる。もちろん博士の愛した数式にもでてくるオイラーの等式はここにもでてきて、数学者は、高校生相手にその美しさを熱弁する。さらに、円周率を音楽に直してピアノ演奏する場面は圧巻であり、この円周率の音楽は映画の随所に使われている。数学は美しい、だからこの世界は美しい…ぜひお薦めしたい映画である。
2024年11月24日
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このごろポピュリズムという言葉をよくきく。ポピュリズムの定義はいろいろあるのだろうが、「大衆からの人気を得ることを第一とする政治思想や活動」をいうとしたら、民主主義制度下での政治とはそうしたものではないか。多くの有権者の票を集めなければ政治家になれないし、政治に関与することはできないのだから。そして大衆政治家というとよい意味になるのに、ポピュリズム政治家というととたんにうさんくさいイメージになるのも変な話だ。実のところ両者は、おそらく同じ意味なのだから。そしてまた、このポピュリズムという言葉を使う人は、自分の意見に反する候補者が大量の得票をした場合に、その候補者をポピュリズム政治家と呼び、投票した人々をネット情報に踊った〇〇と表現する。こういう言説は昨今の内外の選挙についてよくみられるのだが、本当にそうなのだろうか。ポピュリズムの定義の曖昧さはひとまずおくにしても、有権者がネット情報に踊ったというような見方にはすでにバイアスがかかっているようにみえる。つまり正当な言論であるマスコミに対してうさんくさいネットという色分けである。実際にはマスコミも、過去に一方的な人格バッシングを行った例もあるし、逆に報道しない自由を行使した例もある。現総理ではどうかしらないが、過去の総理の中にはマスコミ幹部とさかんに高級レストランなどで会食を行っていた方もいた。今の人々はマスコミなるものを一方的に信頼しているわけではない。ネット情報が玉石混同であり、真偽不明なものも多いことはネットを見る人なら小学生でも知っているだろう。有権者がネット情報に踊ったというよりも、マスコミ情報に踊らなくなったというのが真相であるように思える。それにしても、ポピュリズムという語を使い、有権者を〇〇よばわりする言説のいやらしさはなんとかならないだろうか。なにやら自分を大衆よりも一段と高いところに置き、見下している匂いがぷんぷんとする。まあ、安定した職のある方がこうした言説をいうのは自由なのだが、人気商売の評論家などだとちょっと他人事ながら心配になる。それにいくら自分が賢いと思っても、政治の世界には賢い人が正解を出すとは限らない。抜群の知能と優れた人格を持ちながら、結果的に人々を地獄に導いたような政治家だっている。むしろなぜ、こうした政治家が票を集めたかというその背景を謙虚に見つめるべきではないか。欧州では最近移民排斥をとなえる「ポピュリズム政党」が支持を拡大しているという。こういう主張に対してナチズムに似ているとか多様性だとか外国人との共生だとか言ってみてもなんの解決にもならない。貧困が拡大し、外国人と職を奪い合う中で失業したり待遇が低下したり、はては住居周辺の治安が悪化して不安な日々を過ごさなければならない人々が自国民の中にいるという現実にこそ向き合うべきであろう。
2024年11月23日
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昆虫食を手掛けるベンチャー企業が倒産したという。もともとこの食糧危機だから昆虫食推進という議論には疑問がいっぱいだったので、倒産というニュースをきいてもさして驚きはない。そもそもなのだが、食糧危機だから昆虫食という思考自体に何段階もの飛躍がある。順序としては、そもそも食糧危機は来るのか、来るとしたらいつ頃くるのか、食糧危機の対策としては何があるかというふうに考えるのが普通であろう。そして、もしかりに将来の食糧危機が予想され、そのための対策を現在において建てる必要があるのだとしても、昆虫は飛躍しすぎである。まず、現在食べているものを増産する方向があり、次には、食料になりうるものを開発することを考えるというのが普通だろう。現在、棄農地がものすごい勢いで増えており、農業人口も高齢化が著しい。考えるべきは、この農業生産のありかたの見直しではないか。次に、それでも食料が足りないのだとしたら、食糧になりうるものの開発なのだが、それは郷土食など、すでに食用例のあるものから考えるべきではないか。自然界には多くの動植物があり、中には毒というものもあるが、多くは不食といって、毒ではないが、まずくて食用にもならないものだという。地域によってはイナゴや蜂の子、蚕蛾などを食べるところもあるが、これは醤油などできつい味付けをして珍味として食感を楽しむためのものになっている。昔、醤油が貴重だった頃は薄い味つけだったのだが、あまりおいしくないので、豊かになるとともにきつい味付けになったのだろう。そんな昆虫食の盛んな地域でもコオロギを食べたという話は聞かない。だいたい、コオロギ食を推進しようとしている人々は自分がそれを食べたいと思っているのだろうか。自分が食べたくないものを推進しようとしてもうまくいくわけがないのはあたりまえである。そういえば、過去にも食糧危機が喧伝され、食材として輸入されたものがある。アフリカマイマイやウシガエルがそうである。これらのものは、結局は食用としては根付かずに生態系の破壊が問題となっているだけである。
2024年11月22日
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新田神社については以前も書いた。「太平記」を読んだので、新田義興の物語は興味深かったし、新田義興の謀殺と怨霊を扱った歌舞伎「神霊矢口渡し」も見たことがある。今回はこの新田神社も含めた多摩川のあたりを訪ねることとした。前回、見ていなかった矢口の渡し跡もぜひ見てみたい。この矢口の渡しは多摩川大橋ができるまで存在していたという。武蔵新田の駅をおり、最初に謀殺に加担した船頭の頓兵衛が供養のために建てたという頓兵衛地蔵尊にまずお参りする。その後、商店街を通ってしばらく歩くと新田神社があり、そしてその先に義興の家臣を祀ったという十寄神社がある。ここで商店街は終わり、道は閑静な住宅街へと変わる。その先の東八幡神社の向こうに多摩川土手が見える。このあたりが矢口の渡しである。ここから船に乗った乗った新田義興らは両側から矢を射かけられ、憤死したというのだが、目の前の多摩川は穏やかで川幅もさほどではなく、太平記のイメージとは違う。川というものはしばしば流れを変え、そのために川の周辺には低地が形成される。かつての多摩川も今の新田神社や十寄神社の近くを流れていたという。現代人は川は動かないものだと思っているが、それは護岸工事をするようになったせいだろう。自然の地形は山も川も雨が降り風が吹くたびに変わっていく。それを人間は護岸工事や法面補強で動かないようにしている。太平記の時代には多摩川も今の場所を流れていたわけではなく、上流にダムなどももちろんなかったので、水量もまったく違っていたのだろう。
2024年11月19日
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福本邦雄の短歌評論であるが、著者の経歴は一言には言いにくい。新聞記者であり、岸内閣の時の内閣官房長官秘書官であり、企業経営者であり、美術品のバイヤーであり…。本書はある新聞に掲載されていた短歌論集を本にまとめたもので、これが様々な歌人の経歴に焦点をあてたもので面白い。とにかく著者の文才もさることながら、それぞれの歌人の男女関係や恋愛遍歴を、そのときどきの歌とともに紹介するのが斬新である。教科書的な偉人として描かれている人は一人もいないのだが、それぞれの人生にそれぞれの歌があり、なかには共感したり印象に残ったりする歌がある。タイトルの「炎立つ」のもとになった歌は吉野秀雄の以下の歌である。これやこの一期(いちご)のいのち炎立(ほむらだ)ちせよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾妹終戦の直前に胃の肉腫で死んだ妻を詠ったものなのだが、この歌をよむと、光る君でおなじみの中宮定子の辞世である「夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき」を思い出す。死期の近いことを知った女は命の痕跡をとどめたいと思う。それを女の立場で詠ったのが定子の歌なら、男の立場で回想したものが吉野秀雄の歌なのではないか。このほか、与謝野晶子の有名な歌「ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟」も鉄幹と晶子の夫婦の歴史を背景にみると見方が変わってくる。与謝野晶子のように功成り名遂げた女性ではなく、若くして獄死した金子文子の以下のような歌も、一瞬の心情に思いをはせることができる。盆蜻蛉すいと掠めし獄の窓に自由を想いぬ夏の日ざかり金子文子については韓国映画「朴烈」があり、その中で愛人金子文子がヒロインとしてでてくる。金子文子の自伝「何が私をそうさせたか」も文庫になっているものを読んだのだが、大変な逆境にあっても向学心を失わずに苦学していたことが描かれている。いつの時代にも向学心に燃え、学問をやりたかったという女性は大勢いた。
2024年11月18日
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「刀伊入寇~藤原隆家の戦い」を読んだ。歴史小説にはだいたい二種類ある。明治期を扱った司馬遼太郎の小説によくあるように史料を読み込んであくまでも歴史的事実に即して書くものと、想像力を駆使した伝奇小説やファンタジーに近いものとである。本書は後者である。刀伊の入寇は歴史的事件であるが、大鏡などでの記載は少ないし、元寇に比べるとあまり知られていない。都にいる貴族たちには大した事件にはみえなかったのかもしれない。この刀伊入寇の際に、大宰権師だった藤原隆家が九州勢力をよくまとめて撃退したことは史実であり、隆家は日本史上の英雄であるともいえる。隆家は枕草子にもでてきており、優雅で学才のある伊周とは少し違った磊落で明るい人物として描かれている。このあたり蜻蛉日記にでてくる藤原兼家が豪放磊落な印象で芸術家肌で繊細な道綱母とは性格があわなかったのを髣髴とさせる。本書ではこの隆家は理想的な英雄として描かれており、文章も読みやすいので、エンタメとして楽しんでよめる。ストーリーの詳細はネタバレになるので書かないが、日本人や日本人の血を受けた英雄が大陸で活躍するのはあの源義経チンギスハン説を思わせるし、もっと古くは源為朝の息子が琉球王朝を建てる椿説弓張り月にも似てる。余談だが、こういう物語を読むときには、たいてい作中人物の顔を思い浮かべて読むのだが、女主人公ともいえる刀伊の女性にはぴったりの顔があった。看板を出しているので個人情報ではないのだろうが、ある駅に医院の広告があって、そこに愛新覚羅さんという女医の顔写真が大きくでていた。愛新覚羅といえば清朝の王族の姓で清朝といえば女真族、女真族といえば刀伊ではないか。そして素晴らしい経歴にはっとするほどの美人…ということで、今回の読書ではこのイメージを拝借した。
2024年11月17日
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米大統領選挙で一番印象的だったのは、その日の夕方までに結果、それもかなり一方的な結果が出てきているのに、朝刊の見出しは「史上まれにみる大接戦」となっていたことだ。どこが大接戦やねん…別にこれは日本のマスコミのせいではないだろう。日本のマスコミが取材源にしている米国の高級紙の予想がはずれたというだけのことだ。じゃあ、なぜ米国のマスコミの予想が外れたのだろうか。米国のマスコミだってしかるべき世論調査を行ってこの結論になったわけだし、彼らとて願望をそのまま予想にしているわけではない。世論調査の対象にしても、その昔のリーダーズダイジェストの徹をふまないために、属性には留意しているはずだ。それでも、世論調査と実際の結果がくいちがうというのはそれなりの理由があるはずだ。よくあるのは、ワールドカップで日本が出場するとき開催国の住民にマイクを向け勝敗予想をきくのがある。そうすると、実際の可能性以上に日本の勝利を予想する人が多いようにみえる。考えてみればあたりまえで、聞いているのは日本の記者だとわかるし、そうだとしたら喜ぶような回答をするのがあたりまえだろう。世論調査については、回答が匿名であり、電話調査などの顔の見えない調査であっても、回答する側は自分の答えがどううけとめられるかを気にする。日本での報道を見る限り、米国のマスコミはかなり一方的に民主党候補を推していた。それも冷静に政策を比較した理論的なものではなく、トランプを支持する人々が〇〇であるかのような印象調査をしているのではないかと思うほどだった。こういう状況の中では、世論調査であっても、トランプ支持というのは言いにくかったのではないかと思う。同じことがもしかしたら日本でもあるのかもしれない。兵庫県知事選である。マスコミ報道では現知事をとんでもない人物であるかのように報じているし実際そうかもしれない。しかし、その中身をみてみるとパワハラの被害者は県幹部職員で、本当に弱い立場の者を踏みつけたというのとはちょっと違うように思う。まあ、もともとは現知事は総務省官僚で、彼らの中には自治体職員に対する強烈な優越感を持ち、なめられないために威圧的態度をとるというのもいるのかもしれないけど。いずれにせよ、個々の行為は態度悪いねえ…といったもので、あの「こ~のハゲ~」のようなものとは違う。内部告発者が自殺に追い込まれたのは大きな問題ではあるが、これと対立候補とを比較して県民はどちらを選ぶのだろうか。世論調査と実際の投票との乖離はないのだろうか。気になるところである。
2024年11月15日
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町の書店が消えているという。少し前には雑誌が消えているとか、新聞の購読者が激減しているというニュースもあった。そりゃそうだろうなと思う。今はネットを通じて情報を得る時代だし、本を買う需要もずいぶんと減った。それだけではない。学習塾が続々消えているとか、歯科医や美容院の廃業が相次いでいるというニュースもある。学習塾の苦境は少子化によるものが大きいだろうし、歯科医は過当競争、美容院は生活習慣の変化や高齢化の影響があるのかもしれない。一方で人手不足が言われながら、一方では様々な業界で需要減や廃業の話ががある。時代の流れとともに衰退する業種もあるが、需要が増大する業種もあるということなのだろう。こうした予測であるが、高齢化や人口減少をおりこんでもその予測が当たらないものがある。かつて、将来は墓地不足が起きるといわれたことがある。高齢化の先には大量の墓地需要があり、高度成長期に都会に流入してきた世代が寿命を迎えるころには墓地不足が起きるはずだという予想はもっともらしかった。しかし、現実にはそんなことは起きていない。葬儀や墓地の形態も変わってきたからだ。むしろ墓地整理や過疎の地域では廃寺も増えている。墓地は実は生きている人のためのものであり、少子化や人口減少で需要はむしろ減っていく。今後、なにがおこるか、予想することは難しい。歯科医の苦境の次にはクリニックの経営難がくるのではないか。医師はきちんと定員管理されている資格なのだが、今後すすむのは高齢化の中の高齢化である。前期高齢者なら健康管理のための投薬や検診などを行っても、後期高齢者になればそうしたものに無頓着になるかもしれない。そしてさらにいえば医療機器も高度化している。最近、近所にもクリニックがいくつか開業し、中にはMRIやCTなどの高価な機器をいれているところもある。素人目にはこれで採算がとれるのか心配になる。真偽のほどは知らないが、弁護士業界では資格者を増やしたことで生活できない人もでてきているという。医師が資格があっても生活できないこともあるような職業になったらかなり問題であると思う。
2024年11月14日
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岸田元首相の狙撃犯の公判が来年2月に開かれるという。この事件は2023年4月に起きたものだが、そんな事件あったっけと思う人も多いのではないか。それにつけても思い出すのは安倍元総理銃撃事件である。これは2022年7月であり、岸田元首相の狙撃事件よりも1年近く前だ。なぜこちらの方の公判はこんなに遅れているのだろうか。どう考えても変なのに、マスコミはこうしたことには一切ふれない。そしてまた、裁判では証人が呼ばれ、証人は自分の記憶に従って証言をする。ところが人間の記憶は時間がたてばたつほど薄れたり変容したりする。この意味でも、あまりにも遅い刑事裁判、それも事件から2年以上たっているのに初公判すら開かれない刑事裁判というのは異常なのではないか。安倍元総理の殺害以降、この事件に関しては膨大な量の報道がなされた。特に統一教会がらみの報道は大きく、政局にまで影響を及ぼした。それなのに、銃撃犯自身の声はいっさい聞こえてこない。どう考えても変だし、変だという報道がマスコミにでてこないのはもっと変だ。
2024年11月13日
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漫画家の楳図かずお氏が亡くなった。この人の漫画にはあまりいい思い出はない。とにかく怖くて、それもなんか憂鬱になる怖さだった。一番怖かったのは「紅クモ」という漫画で、毒クモを口に入れられた美少女が次第に化け物になっていく話だった。化け物に襲われる話と自分が化け物になる話とどっちが恐ろしいだろうか。いうまでもなく後者である。化け物から逃げることはできても、自分からは逃げられないのだから。とにかくこの頃の楳図氏の漫画は普通の少女が化け物になるような話が多かったように思う。「へび少女」とか「猫目の少女」とか…いやだよね、こういう話。そしてしばらく後で読んだ漫画「ネコ目小僧」もまた怖かった。ネコ目小僧という妖怪少年が主人公でも鬼太郎のような懐かしく土俗的な怪談ではなくて、ひたすら気持ち悪い話だ。再生力の異常に強い男がいて、足を切ると、その足が化け物になって屋敷をはい回る。特に印象的な話は怪奇肉玉という話で肉の塊のような化け物を見ると必ず死ぬ。肉玉を見ないように目をつぶしても闇の中に肉玉がみえるというような話だった。ある解説によるとこの肉玉は癌のことだとあった。そうかもしれない。だいたい恐ろしい怪談というものは、なにか潜在的な現実の恐怖がかくれている場合が多い。一時流行った口裂け女などは少女が女性になることの恐怖が背景にあったのだろう。少女が女性になることは、現実には出産など生命の危険にさらされることであり、今でも途上国では女性の平均寿命の方が短いという。だから口裂け女を怖がったのは小学校高学年の少女たちで男子はさほど騒がなかったという。まあ、それ以外の怪談でも、それが死の予兆だとなると、とたんに怖さが増す。楳図氏の漫画はそうした人間の潜在的恐怖にフィットするようなところがあり、だから今でも思い出すと怖いのだろう。
2024年11月12日
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米国の大統領選の結果のでた日、机の上にあった朝刊の見出しをみると、史上まれにみる接戦、結果判明に数日も…という見出しが躍っていた。たしか、米国大統領選の情勢はマスコミ報道によると大接戦ということであったし、それはおそらくその取材源となった米国の高級紙もこうした論調だったのだろう。そして結果が判明した後、日本在住の米国人論客の多くが選挙結果に落胆する意見をネットに掲載していた。彼らが米国の世論すべてを代表しているわけではないが、米国のいわゆるインテリ層の意見というのはこうしたものではないのだろうか。マスコミ人士に代表されるインテリ層や都市型富裕層、そしてハリウッドセレブのような社会的に影響力のある成功者達はほぼ民主党の候補を推していた。一昔、いやふた昔前の選挙だったらここで勝負がついたのだろう。マスコミは社会の木鐸であり、セレブはオピニオンリーダーだったのだから。でも、時代は変わった。人々はネットというものを手にしたので、自分で情報を探し、自分で意見を形成するようになった。経済が好調だといっても、その富は自分のところには来ない。物価だけはあがり生活は苦しくなるばかりだ。そんなところにエリートの黒人女性が大統領候補をしてでてきて、黒人だから黒人の支持があって当然だ、女性だから女性の支持があって当然だ、ダイバーシティだから女性でマイノリティの大統領はおおいにけっこうではないか…といわれてもねえ、というのが多くの人の感想だったのではないか。マスコミやハリウッドセレブたちがやたらと彼女を支持しているけれども、マスコミ人士もセレブも自分とは別の世界の人間だからなあと思った人も多かっただろう。さらにいえばここ何年かで目立ってきたポリコレだのダイヴァーシティだのに辟易としている人もきっといる。ポリコレといって金髪碧眼のイメージだった中世ヨーロッパの物語のお姫様を黒人にして誰が喜ぶのだろうか。ダイヴァーシティといって下駄をはかせて要職に女性をつけたところで、一般の女性にとってはどうでもよい話だ。今回の選挙結果についてはサンダース氏の言った「労働者を見捨てた政党は労働者に見捨てられる」というものが一番正鵠を射ているようにみえる。リベラルと左翼は違う。トランプが庶民の味方とも思えないが、不法移民排斥は実際に職を奪われ、待遇が低下し、治安悪化に不安を持つ庶民層の琴線にふれただろうし、利口ぶったエリート女よりも面白いおっちゃんの方が投票先としてもよいに決まっている。今回の大統領選は庶民を見捨てたリベラルの退潮の契機になるのかもしれない。
2024年11月10日
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米国大統領選をニュースでみているが、日本の感覚では異様に見えることが多い。まず、セレブといわれる著名な芸能人達が自身の応援する候補を明確にし、実際にそのための活動を行っていること。次には、日本で報道されるマスコミのほとんどが一方の候補者に肩入れしているように見えること。さらに、これが最も異様なのだが、マスコミが総出、セレブが総出で応援しているような候補がどうやら敗北しそうなこと。米国の事情には詳しくないし外国滞在経験もないのだが、よくいわれる人種とか宗教による分断の他に、もう一つの分断があるように思えてならない。つまり、高学歴インテリとそれ以外の大衆との間の分断である。日本にいてメディアの報道ばかりみていると、聞こえてくるのが高学歴インテリの意見である。だから事前の報道の印象と実際の結果の落差にとまどう。インテリ以外の大衆といっても、米国のような強固な二大政党では、いわゆる左翼の出番はない。ただ左翼でなくとも、結局はインテリ以外の大衆をつかんだ政治勢力が急伸する。この点、トランプのように新規移民に厳しい政策をとり、偉大なアメリカの復活を唱える候補は強いのかもしれない。貧しい移民の流入によって職を奪われたり、待遇が低下したり、はては住んでいる地域の治安が悪くなって困るのは、その国にもとからいた貧困層である。そしてまた、能力主義と自己責任論の中で不本意な生活をしている人々は偉大な〇〇国民のような自分に自信を与えてくれるようなアイデンティティを求めるものである。
2024年11月07日
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流行語大賞の候補30が発表されたのだが、まったく知らない単語がけっこうある。アサイーボールとかアザラシ幼稚園とか8番出口とかいうのは、へえ、そんなのあったの、初めて聞いたというレベルだ。本当に流行っていたのだろうか。また、界隈といって場所ではなく特定の人々をさす使い方って昔からあったような気がする。侍タイムスリッパ―とか被団協となると、たしかに今年の話題なのだけれども、あくまでも話題であって、流行語というのとは違う。初老ジャパンは40歳くらいを初老というのは明らかに死語だし、マスコミがいっていただけではないか。この流行語のノミネートは朝のニュースワイドショーでもとりあげていて、ただおやっと思ったのは、女性のコメンテーターの方が朝ドラの「虎に翼」のファンで友人たちともこの話題でもりあがっているので「はて」を押したいと発言していたことである。この女性のコメンテーターは政治経済の硬派なテーマでもコメントしているのでもちろん有識者である。これが別の朝ドラだったら自分がファンだとか友人との話題だとかいうだろうか。たぶんそうはならないだろう。番組そのものを見ていないのにかってなことをいうのはなんなのだが、もしかしたら「虎に翼」で朝ドラ視聴者層の中身に異変が起きたのかもしれない。昔の女性の法曹の物語ということで、いわゆる意識高い系のシニア層に大うけしていて、その分、懐かしい話を時計がわりにみるような視聴者は離れていったのではないか。後番組の「おむすび」の不振は虎に翼の視聴者層が離れ、かつての視聴者層が戻ってこないという不運な時期にあたったということで説明がつく。違っているのかもしれないけど。個人的にはこの中では50-50が選ばれるように思う。連続強盗がらみのトクリュウなども印象的なのだが、マイナスの印象の強い言葉はたぶん選ばれない。
2024年11月06日
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韓国ドラマ「謗法」を見終わった。基本は韓国のムーダン(巫女)などの土俗信仰を扱ったホラーなのだが、話の中心は狗神、付喪神などの日本の憑き物になっている。そのため、韓国ドラマなのだが、なんとなく日本のホラーのようでもある不思議な感じになっている。外国の扱う日本の物は総じて勘違い系が多いのだが、ここでの狗神はネットで調べたところかなり正確である。そういえばこういう憑き物をテーマにした日本のホラーというのはあまりない。おそらく日本ではできないのだろう。こうしたものは差別とか社会問題とかといった地雷を踏むことにもなりかねないからかもしれない。韓国にも似たような憑き物の迷信があるのかもしれないが、そのあたりの面倒をさけるために日本支配の時代に日本からやってきた悪霊ということにしたのかもしれない。憑き物もウィルス同様に人から人に伝播するものかもしれないが、悪いものが日本由来というのもなんとなく複雑な感じだ。まあ、ずっとまえに子供向きの韓国の辞書をみたことがあるが、それをみると、日本という語と次にくるのが日本脳炎だったりしてこれもなんだかなあ…である。
2024年11月05日
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「火星の人」を読んだ。有人火星探査船で事故のため主人公マークはただ一人火星にとりのこされる。彼は植物学者でありメカニカルエンジニアでもあり、ありとあらゆる知識を生かして火星でのサバイバルを図る。NASAと連絡が着くまでは登場人物はマーク一人。そして技術的な説明が延々と続く。思うのだが、SF作家でそれほど深い科学知識を持っている人はあまりいないのではないか。知識があるとかえって書けないのがSFだろう。だから詳細な技術的説明も適当に読み飛ばしていた。まあ、古畑任三郎にでてくるファルコンの定理と同じようなものだと思って…。しかし、解説を読むと(途中で解説を読むという悪い癖があるので)、作者は宇宙開発に関心のあるプログラマーで15歳から国の研究所に雇われているのだという。となると、こうした技術的説明もそのつもりで読まなければならないのかもしれない。普通の人にとってはどっちでもよいことで、どのつもりで読んでも、理解しがたいものはさらっと読み飛ばすしかないのだが。というわけで、この小説の最初の部分はかなり退屈である。しかし、そのうち、NASAや仲間のクルーと連絡がつき、秘密裏に宇宙開発を進めていた中国の協力もあり、様々な困難を克服して地球への帰還を目指すという段になってがぜん小説らしくなる。そして最後は人間には互いに助け合うという本能があるという述懐で終わる。この小説でまず言いたいのは主人公は素晴らしい人物であるということ。これは聖人という意味ではなく、知力体力人に優れ、どんな困難にあってもポジティブ思考とユーモアのセンスをかかさないという意味である。翻訳も素晴らしくこなれた日本語で主人公の明るく剽軽な言葉遣いを上手く訳している。クルーたちも、これもまた優秀かつ素晴らしい人々で、皆、自分の危険をかえりみずに主人公の生還に協力しようとする。面白いといえば面白いのだが、一方で人間同士の葛藤とかそういうものがでてこないので、小説としてはものたりない。というよりも、こうしたものは通常の小説とは別の一ジャンルとしてみた方がよいのかもしれない。そしてまた、いいにくいのだが、科学技術というものは発展すればするほど人間の間の能力差を可視化する。主人公やその周辺の登場人物と一般人の間には天地ほどの能力差がある。そうした分断の中で、これからも、人間は「互いに助け合うという本能」(もしあるとしたら)を維持できるのだろうか。こうした分断がこれからは大きなテーマになりそうな気がする。なお、この小説は映画化され、日本では「オデッセイ」というタイトルで公開されている。ネット配信で映画の方も見たが、これは火星の風景の再現の迫力もあって、映画の方がはるかによい。小説を読むなら映画も併せてみることを薦める。
2024年11月04日
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