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「イサクの信仰に学ぶ」 甲斐慎一郎 創世記、26章17~22節 イサクは、あまりにも良い環境のために温室育ちの青年で弱さがあり、父アブラハムが厳しい環境という嵐の中で鍛えられたために持っていた強さに欠けていました。 しかし、このような弱いイサクでしたが、「私たちの願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださる神を呼び求めるために、その生涯において、何回も思いもよらないことが起こっています。 イサクの生涯にも、三回の信仰の転機がありました。 一、神によって育てられたイサクの信仰 イサクは、神の目に尊いアブラハムに約束された約束の子である(21章1節)とともに、両親の目にも尊い掛け替えのない最愛のひとり子でした(22章2節)。彼は、境遇の上で物質的にも霊的にも恵まれた家庭の中で育った人です。これは、「人知をはるかに越えた」神の愛によるものです。このようなすべての点で恵まれた環境の中で、イサクの信仰は芽生えていきました。 ところが、このイサクに思いもよらないことが起こりました。父アブラハムが神の言葉に従って、自分を全焼のいけにえとして神にささげようとしたのです。それは、父によって殺されることを意味しています。これは全く理解に苦しむことでした。しかしイサクは、理解することができなくても、神を信じ、父アブラハムに身を任せました。イサクをささげた出来事(22章)において、私たちはアブラハムの信仰と献身を賞賛しますが、イサクの従順と献身も、アブラハムに優るとも劣らないものであったことを見逃してはなりません。イサクは、信仰と敬虔に満ちた恵まれた環境の中で、その信仰が育てられました。 神は、イサクの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。 二、神によって試みられたイサクの信仰 イサクは、全焼のいけにえとしてささげられるという試練を乗り越えましたが、さらに思いもよらないことが起こりました。 1.家庭の問題(24~25章) イサクは晩婚であり、また妻は不妊の女性でした。さらに腹の中でぶつかり合うような仲の悪いふたごが生まれたのです。 2.ききんの問題(26章1節) アブラハムだけでなくイサクも同じようにききんにあっています。このききんは、霊的には様々なものの欠乏による試みであると言うことができます。 3.外敵の襲撃の問題(26章14~21節) これはイサクが成功したことをねたんだ人たちによるものです。私たちは、成功することによって、また別な試みがあることを知らなければなりません。 しかしイサクは、祈りによって子どもが与えられ、ききんの年にも百倍の収穫を得、また成功しても高ぶらず、人と争わないで、これらの試みを乗り越えて、温室育ちの信仰から不動の信仰へと成長していきました。 神は、イサクの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。 三、神によって祝福されたイサクの信仰 イサクが始めは良い環境の中で、次に困難な環境の中で、その信仰が成長していったのは、ただ神の祝福によるものです。イサクは、「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった」と、感謝しています(22節)。26章には、「主に祝福される」ということが5回も記されています(3、4、12、24、29節)。 この神の祝福は、主がイサクに現れた時に与えられたものですが、この主の顕現は、第一回目は、ききんの最中に(2~5節)、第二回目は、外敵の襲撃の後であった(24節)ことは、誠に興味深いものです。「人の窮地は神の機会である」ことを教えているからです。 神は、イサクの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。
2011.01.27
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「アブラハムの信仰に学ぶ」 甲斐慎一郎 創世記12章1~9節 「私たちの願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださる神を呼び求め、その祈りが答えられた信仰の人としてアブラハムの生涯から学んでみましょう。彼には、三回の信仰の転機がありました。 一、神の言葉を聞いて、相続財産として受け取るべき地に出て行ったアブラハム(創世記12章1~4節、ヘブル11章8節) アブラハムは、偶像の町であるカルデヤのウルに住んでいた「さすらいのアラム人で」(申命記26章5節)、「この世にあって望みもなく、神もない人」でした(エペソ2章12節)。ところが、このアブラハムに思いもよらないことが起こりました。「栄光の神が彼に現れて」、「あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け」、「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」と仰せられたのです(使徒7章2、3節、創世記12章2節)。 「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(ヘブル11章8節)。これがアブラハムの「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、すべての民族の祝福の基となる第一の信仰の転機です。 二、神の言葉を聞いて、無から有を生むことがおできになる神を信じたアブラハム(創世記15章5~7節、ローマ4章17節) アブラハムは、神の召命を受け、生まれ故郷を出て、長い間、カナンの地に住んでいました。その間、家畜と銀と金とに富み、多くのしもべたちを所有するようになりましたが、まだ子どもがなく、足の踏み場となるだけの地も与えられず、すべての民族の祝福の基となっていませんでした(創世記15章2節)。 神はアブラハムを外に連れ出し、彼に無数の天の星を見せて「あなたの子孫はこのようになる」と仰せられました。まだ子どもも与えられていない時に、神は、人知をはるかに越えたことを彼に約束してくださいました。「彼は主を信じ......主はそれを彼の義と認められ」ました(同15章5、6節)。アブラハムは「無いものを有るもののようにお呼びになる方」を信じました(ローマ4章17節)。これがアブラハムの「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、すべての民族の祝福の基となる第二の信仰の転機です。 三、神の言葉を聞いて、神は最善のものを備えてくださると信じ、最愛のイサクを神にささげたアブラハム(創世記22章10節) 「地上のすべての民族は、アブラハムによって祝福される」という約束が成就するために、さらに思いもよらないことが起こりました。神は、アブラハムに「あなたの愛しているひとり子イサクを連れて......全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」と仰せられたのです(同22章2節)。 神は、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」(ヘブル11章18節)と言われたのですから、もしイサクが死んでしまったなら、この言葉は成就しません。この神の命令は、全く思いもよらないことで、アブラハムにとって理解に苦しむものでした。しかしアブラハムは、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考え」(ヘブル11章19節)、イサクを全焼のいけにえとしてささげました(創世記22章10節)。 アブラハムは、先に何が起きるかのかを全く知りませんでしたが、「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる」ことを信じていました(同22章8節)。しかしこの摂理を信じる信仰を持ち、神の摂理の道を歩むためには、最愛のイサクを神にささげるという全き献身が必要です。これがアブラハムの「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、すべての民族の祝福の基となる第三の信仰の転機です。 神は、アブラハムの信仰と全き献身に応えて、彼の願うところ、思うところを、はるかに越えて、かなえてくださったのです。
2011.01.19
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「願うところを越えて叶えてくださる神」 甲斐慎一郎 エぺソ人への手紙、3章14~21節 「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(20節)。 「豊かに施す」という言葉は、口語訳と新共同訳は、「かなえる」と訳されています。 一、私たちの願うところ、思うところをはるかに越えたことが起きるのが人生です フランスの文学者が「ある赤ん坊が母親のおなかから出てくると、まわりをキョロキョロ見回し、『なんだ、人生とは、こんなものか』とひとこと言って、おなかの中に引っ込んでしまう」という即興劇をつくりました。 しかし実際は「事実は小説よりも奇なり」という言葉のように、この世に実際に起きる出来事というものは、作り話や小説以上に不思議な巡り合わせや、まさかと思われるような事件、また作家の空想も及ばないような意外なことが多いものです。 聖書は「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること、それは後の事を人にわからせないためである」と教えています(伝道者7章14節)。 二、私たちの願うところ、思うところをはるかに越えたことをなさるのが神です パウロは、「人知をはるかに越えたキリストの愛」、またキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」と述べていますが(19、18節)、神および神のわざは、愛だけでなく、すべてにおいて「人知をはるかに越えた」ものです。 1.空間的なスケールの大きさ--無限 私たちの知る限りにおいて最も大きなものは、果てしもなく広がる大宇宙です。しかし「天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません」(第一列王8章27節)とあるように、神は大宇宙よりもさらに大きな方です。 2.時間的なスケールの大きさ--永遠 科学者が用いる時間の単位は、どんなに長くても何十億年、または何百億年です。しかし「とこしえからとこしえまで、あなたは神です」(詩篇90篇2節)とあるように、神は初めもなく終わりもない永遠の方です。 3.実質的なスケールの大きさ--無限 このように神は、空間的には無限、時間的には永遠であるだけでなく、知識においては全知、能力においては全能であり、聖さ、愛、正しさ、憐れみ、真実さなど、その性質や属性のすべてにおいて無限の方です。 私たちの思考の範囲は、どんなに広くても、この宇宙の中に限られていて、その外側の世界を考えることは、到底不可能です。しかし神は、この宇宙の外におられると同時に、この宇宙のどこにでもおられるゆえに、神のなさることは、人間の目には、私たちが到底考えることができない不思議なことに見えるのであり、また私たちの思いや考えの外にある実に意外な出来事に映るのです。 三、私たちの願うところ、思うところをはるかに越えて叶えてくださる神を呼び求めることは私たちの義務であるとともに特権です 神は、エレミヤに「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」と仰せられ(エレミヤ33章3節)、パウロが述べている「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる」神を呼び求めるように勧めています。ですから私たちの知らない、理解を越えた大いなる事を告げられる神を呼び求めることは、私たちの義務であるとともに特権です。 ダビデは、「私の時は、御手の中にあります」と記し(詩篇31篇15節)、ブッシュネルは、「どの人の生涯も神の計画による」、「神の心の中には、すべての人のために完成された完全な計画が大切にしまわれている」と述べています。 新しい年、「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを」(20節)はるかに越えてかなえることのできる神を呼び求め、その神に新しい事を期待して歩もうではありませんか。
2011.01.06
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