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「境遇の変化と信仰」 甲斐慎一郎 出エジプト記、14章 信仰生活には最初の信仰の決心という初めがあります。それは、集会の説教を通して教えられた時、あるいは個人的な指導を受けた時、または自分ひとりで聖書や信仰書を読んだり、神について考えたりしていた時であったかもしれません。 どの場合であったとしても、最初の信仰の決心がなければ、その後の信仰生活はありません。しかしある人々は、その後、著しく信仰に成長していくのに、ほかの人々は、せっかく良い信仰の出発をしたにもかかわらず、行きつ戻りつしたり、堂々巡りしたり、最悪の場合は、途中で脱落しています。 このようになってしまう原因の一つとして境遇の変化というものがあります。これについてイスラエルの人たちの姿から考えてみましょう。 一、境遇の変化と信仰の本質 エジプトを出たイスラエルの人々の境遇や環境は、次々と変わり、様々な出来事に遭遇しています。1.エジブト軍の追撃(出エジプト記14章10~12節)2.水の欠乏、苦い水(同15章22~24節)3.パンと肉の欠乏(同16章1~3節)4.再び水の欠乏(同17章1~3節) 当然のことですが、私たちは、周囲の事情や境遇や環境というものは、絶えず変化するものであることを忘れてはなりません。 神に対する信仰や献身や服従というものは、周囲の事情や境遇や環境というものが変化したとしても、なおも信じ続け、ささげ続け、従い続けていくものです。すなわち神に対する信仰や献身や服従というのは、無条件的なもので、ある事情や境遇や環境の時だけ信じ、ささげ、従うというような条件付きのものではありません。なぜなら信仰は、「見るところによ」らないものであり(第二コリント5章7節)、変化する境遇に頼らず、それを超越して、変わらない神に頼るものだからです。 二、境遇の変化と信仰の試練 人間というものは、同じ境遇の中で同じようなことを繰り返していると、慣れてしまい、生命や中味を失って形式化したり、本物を失って、偽物になったとしても、惰性や習慣によって、それなりに、やって行くことができるものです。 これは、信仰生活においても同じことを言うことができます。私たちは、同じ境遇の中にいると、その信仰が生命を失って形ばかりになったり、代用品で間に合わせても、なんとかやっていけるものです。しかし境遇が変化すれば、惰性や習慣で信仰生活を送ることは不可能になり、どうしても生命のある本物の信仰が必要になってきます。 神は、私たちの信仰が生命のある本物の信仰であるかどうかを試すとともに、生命のある信仰の必要性を間断なく教えるために、周囲の事情や境遇や環境を変えられるのです。 三、境遇の変化と信仰の成長 イスラエルの民は、境遇が変化するたびにモーセの信仰と祈りによって新しい神のわざを見ています。実に新しい境遇というのは、新しい神のわざが現れる機会でした。 人間というものは、同じことを繰り返すことを好まず、変化を求めるものです。それは、同じことを繰り返していたのでは、飽きてしまうだけでなく、進歩することがないと思うからです。それならば、私たちは、信仰に成長し、進歩するために、様々な新しい境遇の中を通らせられて、そのたびに新しい神のわざを見せていただくことは、必要なことではないでしょうか。 神は、どのような境遇にも、どのような境遇にも、どのような時にも、十分な全能の神であることを私たちに教え、私たちを信仰に成長させるために、周囲の事情や境遇や環境を変えられるのです。私たちは、この神の愛の配慮を知っているでしょうか。
2009.01.30
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「神を恐れよ」 甲斐慎一郎 伝道者の書、12章13、14節 「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」(13、14節)。 ルーズベルト大統領が演説した有名な言葉に「四つの自由」というのがあります。それは、「言論と表現の自由、信仰の自由、窮乏からの自由、恐怖からの自由」の4つです。 4番目に「恐怖からの自由」というのがありますが、この言葉の中に、私たちは、人類を悩ますあらゆる恐怖からの自由を求め続けて来た人間の悲願を見ることができないでしょうか。 それで「恐れ」ということについて、次のような3つの点から考えてみましょう。 一、人間が克服しつつある恐れ――5つの恐れについて 人類を脅かす恐怖には、様々なものがありますが、大まかに分類するなら、次のような5つになるのではないでしょうか。 1.自然的なもの――これは、天災とそれに伴う怪我また病気など、人の尊い生命や健康な肉体を脅かすものです。 2.経済的なもの――これは、飢えや貧困また資源や食糧の不足など、衣食住に関する人の日常生活を脅かすものです。 3.社会的なもの――これは、人災や様々な事故また犯罪や社会問題など、平穏であるべき人の集団生活を脅かすものです。 4.政治的なもの――これは、圧制や独裁や専制また戦争など、当然あるべき人の基本的な自由と権利を脅かすものです。 5.文化的なもの――これは、無知蒙昧や情操教育の欠如また野蛮や時代錯誤など、人の知的、精神的な向上を脅かすものです。 人類が長い年月を経て築き上げてきた文明とは、これらの5つの恐怖を最小限にするための絶えざる努力の賜物に他ならず、先進国は、ほぼこれに到達し、開発途上国は、これに向かっているということができます。 二、人間が自ら招いている恐れ――罪の恐れについて このように人間の世界は、文明が発達し、文化が向上してくると、安全で快適そして便利で豊かな生活になりますが、その結果、次のような二つの問題が起きてきます。 第一は、高慢の罪です。 人類を脅かしてきた恐怖が少なくなると、人間は、当然のことながら、「こわいもの知らず」になり、あたかも何でもできるかのように錯覚して、思い上がり、ますます高慢になってしまいます。 第二は、心の弱さです。 人は、便利で快適になればなるほど、厳しい訓練を受ける機会が少なくなるため、からだと同様に心も弱くなり、小さな苦しみにも耐えられなくなります。 高慢は、わがままを助長させて、人を自己中心にし、心の弱さは、苦しみから逃れる手段として人を快楽に走らせ、その結果、道徳的に退廃していくのです。 三、人間にとって不可欠な恐れ――神への恐れについて 人間は、様々な恐怖を克服しながら、今度はなぜ罪の恐怖を招いてしまったのでしょうか。それは、人間にとって不可欠な神への恐れを失ってしまったからです。 私たちは、どんなに文明が発達し、文化が向上しても、前述した5つの恐怖を克服したなどと思い上がってはなりません。なぜなら、これらの5つの恐怖の背後には、生殺与奪の権を握っている神がおられるからです(申命記32章39節、第一サムエル2章6~8節)。 もし私たちが、この神を恐れず、傲慢に振る舞うなら、「たましいもからだも、ともにゲヘナ(地獄)で滅ぼ」されてしまうことを決して忘れてはなりません(マタイ10章28節)。しかし「主を恐れる」なら、「人は悪を離れ」(箴言16章6節)、個人も家庭も社会も世界も向上していくのです。
2009.01.26
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「目を上げなさい」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、11章30~44節 聖書には、「目を上げる」という言葉が何回も記されていますが、「目を上げる」というのは、どのようなことでしょうか。 一、目を上げることの必要性 私たちは、どうして目を上げることが必要なのでしょうか。 このことは、「目を上げる」ということの反対である「目を伏せる」ということの意味を考える時、よく分かります。私たちは、どのような時に「目を伏せる」でしょうか。 1.何か都合が悪かったり、ばつが悪かったり、心にやましいことがあったり、良心の呵責や責められる罪があったりする時です(エズラ9章6節、ルカ18章13節)。 2.失望したり、落胆したり、敗北したりして、希望も救いも勝利もない時です(ルカ24章17節)。 3.神のことや天上のことや永遠のことなど考えずに、ただ目先の利益や地上のことしか思わない時です(ピリピ3章9節)。 このような時、私たちは、まっすぐに目を上げることができません。「目を伏せる」とは、神も望みも救いもなく、ただ罪と絶望と世のものに満たされていることを意味しています。ですから「目を上げる」ということがどんなに必要なことであるかかがよく分かるでしょう。 二、目を上げることの目的 それでは、私たちは、何のために目を上げなければならないのでしょうか。 このことは、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」という言葉によく表されています(イザヤ40章26節)。 1.広い世界を知るためです。 私たちは、高く上がれば上がるほど、広い世界を見ることができますが、そのように私たちは、目を上げることによって、より広い世界を見ることができます。私たちは、人間の頭脳で考えられることを全部とする狭い世界に閉じこもらずに、目を上げて人間の思いをはるかに越えた広い世界や霊の世界を知らなければなりません。 2.深い世界を知るためです。 私たちの目に映る世界は、現象であり、物事の表面であって、その奥には本質や本体があります。私たちは、物事の表面しか見ない浅薄な考えに縛られずに、目を上げて天地万物を造られた神を認め、また深い霊の世界を知らなければなりません。 3.永遠の世界を知るためです。 人間は、有限なものには満足することができず、永遠のものを求める者です(伝道者3章11節)。私たちは、一時的で刹那的な世のものや地上のものにとらわれずに、目を上げて永遠の神を認め、また永遠の世界を知らなければなりません。 三、目を上げることの内容 それでは、目を上げるとは、どのようなことを意味するのでしょうか。 このことは、「イエスは目を上げて、言われた。父よ。……感謝いたします」という言葉によく表されています(41節)。 1.それは、信仰のまなざしです。 イエスが目を上げて感謝をされたことは、「山に向かって目を上げ」(詩篇121篇1節)とか「あなたに向かって……目を上げ」(同123篇1節)とあるように、神の救いと助けを期待していることであり、それは、神への信仰にほかなりません。 2.それは、希望のまなざしです。 イエスが目を上げて感謝をされたことは、神の救いと助けを受けた者が望みに満ちあふれていたように、神への希望にあふれていることです。 3.それは、愛のまなざしです。 イエスが目を上げて感謝をされたことは、救いを受けた者が神に感謝と愛をささげたように、神への愛を表しています(詩篇123篇1、2節、参照)。
2009.01.23
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「神の悔いと人の悔い」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、15章 「わたし(神)はサウルを王に任じたことを悔いる」(11節)。 「この方(神)は人間ではないので、悔いることがない」(29節)。 聖書には、だれにでも分かる明白な真理が述べられていますが、ときどき理解に苦しむ矛盾した言葉が記されています。冒頭に掲げた言葉は、その中の一つです。 「人の悔い」に関しては、理解することができますが、「神の悔い」に関しては、どのように考えればよいのでしょうか。 それで「神の悔い」と「人の悔い」について、また両者の関係について聖書から学んでみましょう。 一、神の悔いについて 「神の悔い」に関して聖書の言葉は、「悔いる」(肯定形)と「悔いることがない」(否定形)という互いに矛盾した二つのことを教えています。 新改訳聖書においては、「悔いる」という肯定形の場合は、ほとんど「思い直す」(エレミヤ18章8、10節、ヨエル2章13、14節、アモス7章3、6節、ヨナ3章9、10節他)と訳されているのに対して、「悔いることがない」という否定形の場合は、そのまま訳されています(民数記23章19節)。 このようなことから「神の悔い」は、 ◇「悔いる」という肯定形の場合は「思い直す」という意味です。 ◇「悔いることがない」という否定形の場合は、「変わることがない」(マラキ3章6節)という意味です。 二、人の悔いについて 「人の悔い」に関して聖書の言葉は、「後悔」(マタイ27章3節)と「悔い改め」(マタイ3章2節)を教えています。両者の違いを分かりやすく述べるなら、次のようになるでしょう。 ◇「後悔」が罪の結果を悲しむことであるのに対して、「悔い改め」は、罪そのものを悲しむことです。 ◇「後悔」が後ろを振り向いてくよくよすることであるのに対して、「悔い改め」は、前向きに神と真理の方へ転回することです。 ◇「後悔」が必ずしも罪から離れるとは限らず、また神とか信仰に関係がないのに対して、「悔い改め」は、きっぱりと罪から離れて、ただ神にのみ着くことです。 罪を犯したダビデ王とペテロは、真実な悔い改めをして救われましたが、サウル王とイスカリオテ・ユダは、罪を犯して後悔していますが、悔い改めをしなかったので、滅ぼされたのです。 三、神の悔いと人の悔いの関係について 神が「思い直す」方であるとともに、「変わることがない」方であるという矛盾は、どのように説明することができるでしょうか。このことを分かりやすく述べるために「(聖霊の)風のたとえ」を考えてみましょう。 ここに神に向かって強い風が吹いている場合、神に顔を向けて神に近づく人には、その風は順風になります(聖霊に導かれます)が、神に背を向けて神から遠ざかる人には、その風は逆風になります(聖霊に逆らいます)。 神に向かって常に一定方向の風が吹いているように、神は少しも「変わることがない」方です。しかし私たちが向きを変えるなら、その風向きが変わるように(しかし実際は変わっていませんが)、私たちの目には、神が「思い直す」方であるかのように見えるのです。 「もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。……もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行うなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す」と神は仰せられるのです(エレミヤ18章8、10節)。
2009.01.20
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「神の約束と人の約束」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、6章13~20節 「ヘロデは……その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした」(マタイ14章7節)。 「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました」(ヘブル6章13、14節)。 この前半のマタイの福音書の御言葉にはヘロデの約束、すなわち人の約束について、後半のヘブル人への手紙の御言葉には神の約束について記されています。しかも両者とも誓いの伴った堅い約束であることは、誠に興味深いものがあります。 それで神の約束と人の約束について、聖書全体の中から学んでみましょう。 一、人の約束について 人の約束または人との約束には、主に次のような3つのものがあります。 1.口約――口約束とも言いますが、これは、家族や友人など、気心の知れた親しい者同志が、言葉でもって交わす私的な約束のことです。 2.公約――これは、政党の公約に代表されるように、皆の前でする公的な約束のことです。 3.契約――これは、契約書に署名、捺印した時点から効力を生じ、違反すれば強制的に罰せられる法的な約束のことです。 この3つの約束は、その程度において一般的には、口約束が最も軽く、契約が最も重いとされています。しかし口約束と公約は、契約のように違反した場合に法律上の罰則はなくても、口約束を破れば道徳的な非難を、公約を破れば社会的な制裁を受けます。 ですから人が、この3つの約束をどれだけ忠実に守るかどうかによって、私たちは、その人がどのくらい真実な人間であるかどうかを知ることができるのです。 二、神の約束について これに対して神の約束は、どのようなものでしょうか。 人間は、不忠実や不真実であるなら、当然ですが、どんなに忠実で、真実であったとしても、能力がないために不本意ながら結果的に「言うことは言うが、実行しない」(マタイ23章3節)という言行不一致になり、約束を破ってしまうことがあります。 しかし神は、「常に真実である」(第二テモテ2章13節)とともに全能ですから、語られたことを必ず実行される言行一致の方であり、どんなことがあっても約束を守られます。 このようなことから神にとっては、私的な約束である口約束と、公的な約束である公約と、法的な約束である契約との間に何の差別もなく、全く同じ効力があります。すなわち神が私たちに言葉で約束されたことは、契約書に署名、捺印した法的な約束である契約と全く同じ効力を発するのです。 因みに「新約聖書」と「旧約聖書」の「約」というのは、「契約」の「約」であり、神が人と結ばれた古い契約が「旧約」であり、神が人と結ばれた新しい契約が「新約」です(ヘブル8章7、8節) 三、不変の約束について 神は、私たちにすばらしい救いを約束しておられるのに、どうして救われる人と滅びる人がいるのでしょうか。神は、救いの約束を撤回されたのでしょうか。決してそうではありません。このことを分かりやすく説明するために「(救いの)風のたとえ」を考えてみましょう。 神に向かって風が吹いている場合、神に顔を向けて神に近づく(神の約束を信じる)人には、その風は順風になります(救いが成就します)が、神に背を向けて神から遠ざかる(神の約束を信じない)人には、その風は逆風になります(滅びが臨みます)。 神に向かって常に一定方向の風が吹いているように神の約束は不変です。しかし私たちが向きを変えるなら、その風向きが変わるように(しかし実際には変わっていませんが)、私たちの目には、神の約束が変わったかのように見えるのです。 私たちは、神に顔を向けて神に近づき、神の約束を固く信じるなら、神が私たちに約束してくださったことは、法的な拘束力を持つ契約なので、必ず成就するのです。
2009.01.17
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「喜びなさい」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、4章4~7節 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(4節)。 ピリピ人への手紙は、喜びと勝利の書簡であり、パウロは、この手紙において何度も何度も彼自身が喜んでいることを述べているだけでなく、ほかの人にも喜ぶように勧めています。彼の伝道旅行が苦難と迫害の連続であり、この手紙が苦しい牢獄の中で書かれたことを思う時、その言葉には計り知れない重みがあります。 「喜び」は、私たちの心が最も求めているものであるとともに、私たちの心の動力です。人の心は、様々な苦しみをも忍ぶことができるでしょう。しかし喜びのない心に、だれが耐えることができるでしょう。ですから、その人がどのような人であるかということは、その人がどのようなことを喜ぶかによって分かるのです。 一、受動的な喜び――人や物や環境等、何かほかのものによって喜ばされる喜び まず多くの人々が求めている喜びは、これです。この喜びは、自分の方からは何もせず、ただ受け身一方で、ほかから喜ばされたり、興奮させられたりすることです。 これは、その喜びの対象が高尚なものであり、後で述べるような能動的な喜びや恒久的な喜びを得るための手段として喜ばせられるなら有益です。 しかし、その喜びの対象が低俗なものであり、ただ自分を喜ばせることを目的とするなら、有害です。なぜなら私たちは、どのような喜びも必ず慣れて厭きがくるため、より刺激的、官能的なものを求めて堕落していくだけでなく、自分を喜ぱせてくれない人々や境遇を非難したり責めたりする身勝手で無責任な人間になるからです。 二、能動的な喜び――何かをなしたり、成し遂げたりすること事によって喜ぶ喜び 次に多くの人々が体験している喜びは、これです。この喜びは、自分の意志を働かせ積極的に行動したり、何かを完成したりすることによって喜ぶことです。 これも、行動したり、完成したりする物事が高尚なものであれば有益ですが、低俗なものであれば有害であることは、言うまでもありません。 しかしこの喜びには、さらに次のような問題があります。それは物事は必ずしも自分の思い通りには運ばないので、いつも喜ぶべき結果が得られるとは限らないだけでなく、何事も慣れて厭きがくるため、より高度なものを追求しなければ満足しないということです。 どちらにしても人間のすることである以上、成功することもあれば失敗することもあり、その度に一喜一憂するのが人の心ではないでしょうか。 三、恒久的攻喜び――人や環境等、周囲のものに関係なく神によって喜ぶ喜び これに対して聖書が教え、またパウロが勧めている喜びは、これです。この喜びは、前の二つの喜びとは全く異なり、信仰によって、いつでも喜ぶことができるものです。 1.過去に関して――私たちの罪のために死に渡されたキリストを信じることによって、すべての罪が赦され、罪に満ちた忌まわしい過去が葬り去られたことを喜ぶのです。 2.現在に関して――私たちを生かすために復活されたキリストを信じることによって、新しく生まれ変わり、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを喜ぶのです。 3.将来に関して――私たちを迎えるために再び来られるキリストを信じることによって、天の御国を待ち望み、そこにおいて永遠に神とともに住むことを喜ぶのです。
2009.01.15
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「イタリヤへの出航」 甲斐慎一郎 使徒の働き、27章1~12節 パウロは、無実の罪で訴えられ、4回の裁判を受けました。まずユダヤ議会の取り調べがあり(23章1~10節)、次に総督ペリクスが取り調べ(24章1~27節)、さらに総督フェストも取り調べ(25章6~12節)、最後にアグリッパ王が取り調べました(26章1~32節)。 しかしパウロが無実を叫び続けても聞き入れられませんでした。それでカイザルに上訴したので、釈放されることなくローマへ護送されることになりました(26章32節、27章1節)。 なぜパウロは、無実の罪で訴えられ、捕らえられただけでなく、4回も裁判を受け、それでも釈放されず、護衛兵つきの囚人としてローマへ護送されたのでしょうか。 一、伝道旅行をする宣教者としてでは不可能でも、囚人として弁明するという形をとるなら、パウロに反対するユダヤ人また総督や王などに福音を語ることができるからです パウロは、これまで3回にわたる伝道旅行をしてきました。それは艱難辛苦をなめつくした宣教でしたが、豊かな実を結んだ働きでもありました。しかし伝道旅行をする宣教者としての働きでは、話をすることさえできず、まして福音を語ることができない人々がいます。それはパウロの伝道に反対する祭司長たちやサドカイ人をはじめとするユダヤ人、またローマの千人隊長や市の首脳者たち、そして総督や王などです。福音は、貴賎上下の別なく、人種の差別なく、あらゆる階層のすべての人に宣べ伝えなければなりません。 それで主は、パウロを伝道旅行をする宣教者としてではなく、無実の罪で捕えられ、裁判を受けている囚人として、それも弁明するという形をとることによって、尋常な手段ではどうにもならないこのような人々に福音を語る機会を彼に与えられたのです。 二、3回にわたる絶え間ない伝道旅行で疲れ切った心とからだを休ませ、これまで宣べ伝えてきた福音の奥義を極めるために思索する時が必要であるからです パウロは、フェストがペリクスの後任になるまでの2年間、軟禁されていました(24章27節)。この期間は、どんな困難をも不屈の精神で乗り越え、伝道への情熱に燃えているパウロでも、福音を宣べ伝えることはできず、部屋の中で静かにしているしかありません。 パウロは、3回の伝道旅行において、霊に燃え、心身にむち打って福音を宣べ伝え、数多くの教会を建てるという超人的な働きをして来ました。このような働きが10数年間も続いたのですから、霊は燃え尽き、心身ともに疲労困憊していたにちがいありません。 パウロには休息の時が必要でした。この2年間、心身の疲れをとるとともに、黙想し、思索にふけったことでしょう。それは、3回の伝道旅行において経験したこと、学んだこと、教えられたこと、そしてその中で必要を感じたことなどを整理して考えるとともに、福音の奥義を極めるために深く思い巡らし、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、代々にわたる聖徒たちに説き明かし、伝えるためです。 三、護衛兵つきの囚人でなければ無事にローマに到着することができないからです パウロは、御霊の示しにより、また主の励ましのことばによってローマへ行き、そこであかしするように言われていました(19章21節、23章11節)。しかし伝道旅行をしている時、ルステラではユダヤ人に石で打たれて、殺されそうになり(14章19節)、また「ユダヤ人の陰謀」による「数々の試練」に会いました(20章19節)。さらにエルサレムでは40人以上のユダヤ人が徒党を組み、パウロを殺害する陰謀を企て、彼を待ち伏せしていました(23章12、13、15、21節)。そして2年後にもユダヤ人は、パウロを殺害するために待ち伏せをさせていました(25章3節)。彼らは、パウロの殺害をあきらめようとはしませんでした。 いつも暗殺される危険にさらされているパウロが無事にローマに到着するためには、百人隊長と兵士たちという護衛兵つきの囚人として護送される以外に方法がなかったのです。拙著「使徒パウロの生涯」56「イタリヤへの出航(2)」より転載
2009.01.12
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「心と表情」 甲斐慎一郎 箴言15章13節 「心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ」(13節)。 顔色という言葉には、「顔の色合」と「顔つき」と「機嫌」という三つの意味がありますが、どれも「内側の心やからだの状態が、外側から見ても、その善し悪しが分かるほど顔に表れる表情のこと」を意味しています。 私たちは、言葉でうそをつき、人をごまかすことはできても、表情をごまかすことは、人目のあるところでは可能であったとしても、人目のないところにおいては、全く不可能です。表情というものは、人の内側の状態を正直に示すものだからです。 人の表情には様々なものがありますが、代表的なものは、何と言っても、目と口と姿勢の三つではないでしょうか。 一、目にあらわれる表情 「目も口ほどに物を言う」という諺の通りに、顔の中で目が最も表情に富んでいます。 目の方向に関して述べるなら、上目使いは恐れや卑屈な心や劣等感を、下目は高慢な心や軽蔑や優越感を、横目は不注意や拒絶や盗み見を表しています。 目の動きに関して述べるなら、きょろきょろした目は落ち着かない心を、すわった目は集中した心を表しています。 目の輝きに関して述べるなら、とろんとした目は満足した心や無気力を、きらきらした目は飢え渇いた心を表しています。 しかし最も気をつけなければならないのは、目を上げることができず、目を伏せることです。 1.それは、何か都合が悪かったり、ばつが悪かったりするだけでなく、心にやましいことがあったり、良心の呵責があったりすることを表しています(エズラ9章6節)。 2.それは、失望したり、落胆したり、敗北したりして、希望も救いも勝利もないことを表しています(ルカ24章17節)。 3.それは、神のことや天上のことや永遠のことなど考えずに、ただ目先の利益や地上のことしか思わないことを表しています(ピリピ3章19節)。 二、口に表れる表情 目の次に顔の表情を表すものは口です。 口の動きに関して述べるなら、口数が少なくなれば、心やからだの状態が悪くなり、口数が多くなれば、心やからだの状態が良くなっていることを表しています。 口の形に関して述べるなら、とがった口は怒りを、きゅっと堅く閉じた口は悔しさや無念さを、「へ」の字に曲がった口は悲しみを、大きく開けた口は驚きを、白い歯を見せた口は喜びを表しています。 しかし最も気をつけなければならないのは、その口からどのような言葉が出てくるかということです。その口から不平や不満や呟き、また憎しみや妬みや呪いの言葉が出てくるなら、罪深い心であり、その口から感謝と賛美、また祈りと神の言葉が出てくるなら、聖い心であることを表しています。 三、姿勢に表れる表情 目を伏せるなら、下を向き、首をうなだれて猫背になり、とぼとぼとした力のない歩き方になるでしょう。目を上げるなら、顔をまっすぐに向け、胸を張って堂々とした歩き方や軽快な歩き方になるでしょう(ルカ9章51~53節)。しかし、これはからだの姿勢だけでなく、心の姿勢においても同様です。 そして憂いの真の原因は、罪であり、喜びの真の原因は、罪からの救いです。罪は必ず私たちの心に憂いを与え、その表情を悪くしますが、罪からの救いは、必ず私たちの心に喜びを与え、その表情を良くするのです。 私たちの心と表情は、どうでしょうか。聖書は「人はうわべを見るが、主は心を見る」と教えています(第一サムエル16章7節)。
2009.01.09
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「神が慟いておられる神殿の建築」 甲斐慎一郎 ハガイ書、2章1~9節 このハガイ書2章1~9節には、イスラエル人が神殿を建築するに当たって、神がどのように働いておられるかが詳細に記されています。 一、神が言葉を与えられること ハガイ書には4回も「次のような主のことばがあった」と記されています(1章1節、2章1、10、20節)。神殿の建築に関しての神の第一の働きは、神が言葉を与えられることです。それは次のような3つの目的によります。 1.神が事を始め、またそれを導かれ、ついにそれを完成されるためです。 ソロモンが「主は御目をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げ」と言った通りです(第一列王8章15節)。 2.私たちが神との正しい関係を保つためです。 神は神殿を建築している最中にソロモンに語りかけられましたが(同6章11節)、これは外側の建物に心を奪われたり、自らの名誉に溺れたりしないために必要な措置でした。 3.私たちが様々な困難を乗り越えるためです。 イスラエルの民は、預言者を通して語られる神の言葉によって励まされ、奮い立たされなかったならば、敵の妨害に打ち勝って神殿の建築を完成させることはできなかったでしょう。 二、神の霊が働いておられること 主は「わたしの霊があなたがたの間で働いている」と仰せられました(5節)。神殿の建築に関しての神の第二の働きは、神の霊が働いておられることです。それは次のような3つの理由によります。 1.人の心を動かし、また奮い立たせるのは、神の霊の働きだからです。 神はクロス王の霊を奮い立たせてイスラエルの民を解放し、また預言者と民とその指導者たちの心を動かして神殿を建てさせたのです。 2.自然界の現象や社会の出来事を摂理のうちに導かれるのは、神の霊の働きだからです。 神は、民の怠慢と利己主義を教え、また懲らしめるために、ひでりやききんをもあえて起こされるのです(1章9~11節)。 3.世界中の富や宝物を人々に与えたり、人々から取り去ったりされるのは、神の霊の働きだからです。 「銀はわたしのもの、金もわたしのもの」とある通りです(8節)。 三、神の目が注がれていること エズラ書には「ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていた」(5章5節)という言葉があります。神殿の建築に関しての神の第三の働きは、神の目が注がれていることです。これはどのようなことでしょうか。 1.それは、神はすべてのことを見抜いて知っておられるということです(エレミヤ16章17節)。これは神の知識です。 2.それは、神は私たちに関心を持ち、常に私たちを心にかけてくださるということです(第一列王9章3節)。これは神の愛です。 3.それは、私たちをすべての危険から守り、おりにかなった助けを与えて、私たちを導かれるということです。これは神の御守りであり、また御助けと導きです。 このように神は、神殿が建築されるために働いておられます。これは昭島教会が32年前に教会堂が建築される場合も同じです。そして、それは32年後の今も神は同じように働いておられるのです。しかしそれは、外側の建物である神殿が建築されるだけでなく、私たちの心の中にキリストが形造られる(ガラテヤ4章19節)という内側に神殿が建築されるためにも、神が言葉を与えられ、神の霊が働かれ、神の目が注がれるという神の3つの働きが必要なのです。
2009.01.06
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「外なる人と内なる人」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、4章16節 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(16節)。 この箇所において「外なる人」とは「からだ」とか「肉体的な生命」を、「内なる人」とは「霊」とか「霊的な生命」を意味しています。どちらにしても聖書は、人間には衰えていくだけでなく死ぬべき部分と、生かされているだけでなく新たにされていく部分とがあることを教えています。 どのようにすれば、日々衰えていく肉体的な生命を持ちながら、日々霊的な生命を新たにされていくかということを、肉体的な生命と霊的な生命の橋渡しをしている精神的な生命の役割を加味しながら学んでみましょう。 人間を構成といてる三つの要素(霊と心と肉体)が常に新しく、生き生きとしているためには、どうすればよいのでしょうか。 一、生き生きとした肉体的な生命を保つための秘訣 生き生きとした肉体的な生命を保つためには、次のような三つのことが必要です。1.必要かつ十分な休息をとる。2.必要かつ十分な栄養をとる。3.適度な運動をして肉体を鍛える。 しかし、どんなに涙ぐましい努力をしても、罪のために死ぬべきものとなってしまった肉体は、日々衰えていくことを避けることはできないことは、言うまでもありません。 二、生き生きとした精神的な生命を保つための秘訣 生き生きとした精神的な生命を保つためには、次のような3つのことが必要です。1.深く考えて頭をよく使う。2.情緒や情操を豊かにする。3.創造的な精神を失わない。 ですから、決まり切ったことを、決まり切ったようにしかしないことは、何も考えず、何も感動せず、何も新しいものを生み出さずに、精神的に枯渇してしまう危険性があることを忘れてはなりません。 三、生き生きとした霊的な生命を保つための秘訣 生き生きとした霊的な生命を保つためには、次のような3つのことが必要です。 1.恵みの手段(集会出席、聖書拝読、祈祷、奉仕、献金)を守ることによって絶えず神との関係を正しくし、神の御前に歩むことです。 2.苦難に遇った時、逃避せずに信仰によって勝利を得て、乗り越えることです。 3.未熟なところや至らないところを様々なものを通して訓練されることです。 これらのことは、私たちが信仰に成長していくための秘訣でもあります。 このように肉体的な生命であれ、精神的な生命であれ、霊的な生命であれ、生き生きとした生命に共通していることは、静止したり、停止したりせずに、絶えず活動し、常に躍動しているということです。使わなければ働きが鈍くなり、ついには動かなくなってしまうのが生命の特徴です。 私たちは、罪のために死ぬべきものとなってしまった肉体的な生命の衰えを防ぐことはできません。しかし神によって生かされた霊的な生命は、衰えを防ぐことができるだけでなく、日々新たにされていくことができます。そのためには霊的な生命を生き生きと保つとともに、精神的な生命を生き生きと保つことが必要です。 私たちは、何事に関しても「それは何なのか」、「それはなぜなのか」、「それはどうすれば解決するのか」という探求心を失ってはなりません。イエス・キリストは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と言われました(マタイ7章7節)。もし私たちがこれを失い、何事もわかったかのように思うなら、思考と感情(情緒と情操)と創造的な精神の働きが停止して、その結果、霊的な生命も死んでしまう危険性があるのです。
2009.01.02
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