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「永遠の霊的な教え」 2021年8月8日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年7月4日放映「真理のキリスト教」 真理「永遠の霊的な教え」 甲斐慎一郎 詩篇90篇1~17節 ある人は、「過去のない人は、動物に近い。そうして未来のない人は、まさしく動物である」と言いましたが、「伝道者の書」の著者のソロモンは、神の霊感を受けて、次のように述べています。 「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」(伝道者3章11節、新改訳二版)。 このみことばは私たちに、人間だけが「永遠」とか「永遠の世界」、そして「永達なる神」を思うことができるということを教えています。そこでこの詩篇90篇から永遠について考えてみましょう。 一、神について(1、2節) モーセは、「まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です」(2節)と記していますが、永遠とは、どういうことなのでしょうか。 このことに関しては、R・A・トーレーの次のような定義が最もよいのではないでしょうか。1.始めがなく終わりがない(無始無終)2.常に同一で全く変わらない(不変性)3.何にも依存せず独立している(自存性) 神はモーセに対してご自身を啓示された時、「我は有りて在る者なり」(出エジプト3章14節、文語訳)と言われましたが、これこそ「無始無終」にして「絶対不変」なる「自存者」を表しています。 この定義に従えば、永遠なるものは神以外には存在しないことがわかるでしょう。ですから神は信じるが、永遠は信じないとか、永遠は信じるが、神は信じないということは、あり得ないのであり、神を信じるということは、必然的に永遠を信じるということを含んでいるのです。 聖書は私たちに、「永遠の罪」「永遠のさばき」「永遠の刑罰」「永遠の火」「永遠の国」「永遠の栄光」「永遠の支配」「永遠の贖い」そして「永遠のいのち」について大胆に教えています。 二、人間について(3~11節) この箇所には、「人のいのちのはかなさ」(3~6節)と「人の心の罪深さ」(7~9節)と「人生のむなしさ」(10、11節)が記されています。もし私たちが永遠なる神と永遠の世界を信じなければ、いのちのはかなさと心の罪深さと人生のむなしさは、避けることができないことがわかるでしょう。なぜなら永遠を信じないことは、必然的に次のような人生にならざるを得ないからです。 1.刹那の人生 「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」という刹那的な人生です(第一コリント15章32節)。 2.流転の人生 「移ろう草のよう」(5節)に、人生の土台も善悪の規準も定まらず、世と時の流れに流されている放浪の人生です。 3.盲目の人生 人生の目的も目標もわからず、どこに行き着くかを知らないで、さ迷い、「やみの中を歩む」(ヨハネ8章12節)人生です。 三、救いについて(12~17節) このように、はかなく、罪深く、むなしい人生から救われるためには、永遠なる神を私たちの住まいとするほかにはないことがわかるでしょう。それは、永遠なる神を私たちの心の中に迎え、その永遠の神のいのちに与かることです。まさに使徒ヨハネが「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と述べている通りです(ヨハネ3章16節)。 聖書が教えている救いは、この世において、すでに「永遠のいのち」が与えられて、「永遠の世界」に生きることです。それは、具体的には永遠の観点から物事を見、また考え、そして判断して、永遠に有益なことだけをすることです。それは、主イエス・キリストが言われたように「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働」くことを意味しているのです(ヨハネ6章27節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.08.08
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「十二使徒への訓戒(4)」 2021年8月2日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年5月7日放映「神の傷と人の傷」 「十二使徒への訓戒(4)」 マタイ10章34~42節 甲斐慎一郎 イエスは、十二使徒への訓戒の第4回目として、彼らの「動機」について教えられました。十二使徒への訓戒を順を追って述べるなら、次のようにまとめることができます。 1.なすべき事(5~15節)――彼らのなすべき事は、すばらしい福音を宣べ伝え、愛の行いと奉仕をすることです。 2.あるべき姿(16~23節)――そのために、彼らのあるべき姿は、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおであることです。 3.心構え(24~33節)――そのために、彼らの心構えは、人を恐れず、神を恐れることに徹することです。 4.動機(34~39節)――そのために、彼らの動機は純粋であることです。 そして最後にイエスは、ご自分の弟子たちを受け入れる者への報いについて述べておられます(40~42節)。 それでは、私たちの動機が純粋であるかどうかをためすものは、何でしょうか。イエスは三つのことを教えられました。 一、偽りの平和よりも真理の戦いを選ぶかどうかです(34、35節)――知性の面 キリストの弟子に求められることの一つは、「神のみこころは何か……をわきまえ知る」ことです(ローマ12章2節) もし一家五人が徒党を組んで悪事を働いているならば、互いに対抗することもなければ、分裂することもありません。しかし二人でも三人でも、罪を悔い改めて正しいことを行うならば、「一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになます」(ルカ12章52節)。 このような時、私たちは、罪と妥協する偽りの平和と、罪と訣別する真理の戦いとの戦いのどちらを選ぶでしょうか。私たちは、偽りの平和よりも真理の戦いを選ぶ時、その動機が純粋であることがわかります。 二、家族への愛よりも神への愛を優先するかどうかです(36、37節)――感情の面 知的に理解して、偽りの平和よりも真理の戦いを選んでも、実際問題として、五人家族の中で、三人が二人に、二人が三人に対抗して分かれるようになるということは、情的には忍びがたいことです。そのため、ある人々は、家族への情にほだされて、再び罪と妥協する偽りの平和へ逆戻りしてしまいます。 この「情愛や肉親愛」(ストルゲー)また「恋愛や夫婦愛」(エロース)は、善悪をわきまえず、見えないところがあり、これらの人間的な愛は、「聖愛や神的な愛」(アガペー)によって支配されなければ、暴走したり脱線したりする恐れがあります。 このような時、私たちは、家族への愛と神への愛とのどちらを優先するでしょうか。私たちは、家族への愛よりも神への愛を優先する時、その動機の純粋さが証明されます。 三、自己主張よりも自己否定を選ぶかどうかです(38、39節)――意志の面 現実の問題として、情にほだされず、家族への愛よりも神への愛を優先するということは、容易なことではありません。それは「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と言って、自己を否定し自分の意志を神に明け渡さなければできません(ルカ22章42節)。 しかし信仰の世界では「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたし(イエス)のために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」(39節)。 私たちは、死に至る自己主張と生命に至る自己否定とのどちらを選ぶでしょうか。私たちは、自己主張よりも自己否定を選ぶ時、その動機が純粋であることがわかります。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」http://japan.cgntv.net/movie_player.php?number=2384&sub_number=116556
2021.08.02
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「十二使徒への訓戒(3)」 2021年7月25日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年3月28日放映「神の目と人の目」「十二使徒への訓戒(3)」 甲斐慎一郎 マタイ10章24~33節 イエスは、十二使徒への訓戒の第三回目として、彼らの「心構え」を教えられました。 イエスは、弟子たちに「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい」と言われました(ヨハネ15章18節)。また、彼らに、「もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します」と言われました(同15章20 これが、「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません」という言葉の意味です(24節)。 それでは使徒たちは、どのような心構えが必要なのでしょうか。それは、この個所に3回も記されている「恐れてはいけません」ということです(26、28、31節)。イエスは、使徒たちが恐れてはならない三つの理由を述べておられます。 一、隠されているもので、知られずに済むものはないからです(25~27節) 使徒たちが恐れることの第一は、人に正しく理解されず、中傷を受けることです。イエスは、「彼ら(人々)は家長(イエス)をベルゼブル(悪魔)と呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者(弟子たち)のことは何と呼ぶでしょう」と言われました(25節)。完全無欠な神であるイエスでさえ、悪魔と呼ばれて、中傷を受けたのですから、人に正しく理解されることを期待することはできません。 しかし「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかに」して(第一コリント4章5節)、すべてのことを正しくさばかれます(26節)。ですから使徒たちは、人に正しく理解されず、中傷を受けても、恐れてはならないのです。 二、人はからだを殺しても、たましいを殺すことはできないからです(28節) 使徒たちが恐れることの第二は、人に危害を加えられることです。人に正しく理解されず、中傷を受けるなら、最悪の結果は、これです。彼らは、むちで打たれたり、拷問にかけられたりしました。パウロは、石で打たれて殺されそうになり、ヤコブは剣で切り殺されました(使徒14章19節、12章2節)。 たとえ使徒たちが殺されたとしても、人は、彼らのたましいまで殺すことはできません。それよりも、もし使徒たちが人に危害を加えられることを恐れる余り、イエスを裏切るならば、神は、彼らの「たましいもからだも、ともにゲヘナ(地獄)で滅ぼ」されます(28節)。ですから使徒たちは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはな」らないのです(28節)。 三、雀の一羽でも、神のお許しなしには地に落ちることはないからです(29~31節) 使徒たちが恐れることの第三は、神に見捨てられることです。世の人々は、使徒たちが人に正しく理解されず、中傷を受けたり、人に危害を加えられたり、果ては殉教したりするのを見るならば、彼らのことを神に見捨てられた者だと思うでしょう。 使徒たちは、決して神に見捨てられたのではありません。神は、彼らの説教やあかしの言葉、また行いや奉仕が、口先や見せかけではなく、本当で真実なものであることをあかしするため、これらの苦難が彼らの身に降りかかることをあえて許されるのです。 しかし、二羽が一アサリオン(最少単位の銅貨)で売られている、「そんな雀の一羽でも……父(神)のお許しなしには地に落ちるとはありません」(29節)。ですから「たくさんの雀よりもすぐれた者」である使徒たちは、どのような苦しみに会っても、恐れてはならないのです(31節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2021.07.25
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「十二使徒への訓戒(2)」2021年7月18日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年3月16日放映「三つの世界」 「十二使徒への訓戒(2)」 甲斐慎一郎 マタイ10章16~23節 イエスは、十二使徒への訓戒の第二回目として、彼らの「あるべき姿」を教えられました。使徒たちが世の人人の中に遣わされるのは、狼の中に羊が送り出されるようなもので、非常に危険なことです。ですから、彼らは、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおで」なければなりませんでした(16節)。 これは、世の人々の中にあっては、「賢明さ」と「純粋さ」を兼ね備えていなければならないことを教えています。なぜなら人は、賢明さだけを要求されると狡猾で不純になる傾向があり、反対に純粋さだけを求められると単純で愚かになる傾向があるからです。 しかし、なぜ使徒たちによる伝道は、狼の中に羊が送り出されるような危険なものなのでしょうか。どうして彼らは、議会(法廷)に引き渡されたり、会堂でむち打たれたり、また肉親に裏切られたり、死に渡されたりするのでしょうか(17、21節)。 キリスト教の伝道は、すばらしい福音の説教を語り、その福音によって救われたあかしをし、信じる者に与えられる聖霊によって愛の行いと奉仕をするだけでは、不十分なのでしょうか。決してそうではありません。 神は、使徒たちの語る説教やあかしの言葉、また行いや奉仕が、決して口先や見せかけではなく、真実なものであることをあかしするために、これらの苦難が彼らの身に降りかかることをあえて許されるのです。 それでは、これらの苦難の中で、彼らの持っている信仰や救いが、決して口先や見せかけではなく、本当で真実なものであることをあかしするものは、何でしょうか。イエスは、三つのことを語っておられます。 一、苦難の中における無言のふるまいによってあかしする(17、18節) 使徒たちは「キリストのゆえに投獄され」たり、法廷に引き渡されたり、会堂でむち打たれたりして、「義のために苦しむこと」があります(ピリピ一章13節、第一ペテロ3章14節)。 しかし、そのような中で使徒たちが、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず」、「心の中でキリストを主としてあがめ」る時、世の人々は、彼らの「神を恐れかしこむ清い生き方」と、「無言のふるまいによって、神のものとされるようになる」のです(第一ペテロ3章9、15、2、1節)。 二、苦難の中において語る言葉によってあかしする(18~20節) 使徒たちは、法廷に引き渡されたり、総督たちや王たちの前に連れて行かれたりした時、「どのように話そうか、何を話そうかと心配する」必要はありませんでした(19節)。 なぜなら、話すのは使徒たちではなく、彼らのうちにあって話される父の御霊だからです。このように「知恵と御霊によって語」る言葉は真実で力強く、だれも「それに対抗すること」はできません(使徒6章10節)。 三、家族の愛のきずなよりも強い神の愛のきずなによってあかしする(21、22節) この世において、血を分けた家族の者に理解されないばかりか、憎まれたり、恨まれたり、また迫害されたり、裏切られたりするほどつらく、悲しいことはありません。 使徒たちが家族の者に迫害されたり、裏切られたり、果ては死に渡されたりしても、神への愛のゆえに「死に至るまで忠実であ」る時(黙示録2章10節)、人々は、家族への愛よりも大切で人を動かす神への愛というものがあり、家族の愛のきずなよりも強い神の愛のきずながあることを知るようになります。 このようにして神は福音が真理であることをあかしされるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.07.18
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「十二使徒への訓戒(1)」 2021年7月11日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年3月7日放映「神の助けと人の助け」 「十二使徒への訓戒(1)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、10章5~15節 イエスは、十二弟子を呼び寄せ、彼らを遣わして福音を宣べさせるために、汚れた霊どもを制する権威と訓戒を授けられました。 イエスは、十二使徒への訓戒の第一回目として、彼らの「なすべき事」を教えられました。彼らのなすべきことは、「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝え……病人を直し、死人を生き返らせ……悪霊を追い出」すことです(7、8節)。 しかし、なぜイスラエルの家だけで、異邦人の道に行ってはいけないのでしょうか。どうして弟子たちを受け入れない町は、ソドムやゴモラよりも罰が重いのでしょうか。 このような疑問に対して聖書は、人に対する神のお取扱いには、次のような三つの原則があることを教えています。 一、恵みの原則――働きがなくても、ただで与えられる(8節、ローマ4章5節) イエスは、「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われました(8節)。私たちに対する神のお取扱いの第一番目は、恵みの原則です。 受ける資格のない者に、価なしに与えられるものが恵みです。ですから、多く与えられていても誇ることはできず、少ししか受けていなくても、または全然なくても、不平を言うことはできません。恵みは、受ける資格のない者に与えられるものだからです。 イスラエル人が神に選ばれたのも、彼らが異邦人よりも先に様々な祝福を受けたのも、神の恵みによるのであり、彼らの行いによるのではありません(ローマ11章6節)。それでは異邦人は神に見捨てられたのでしょうか。そうではありません。イスラエルは神にそむき、「彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです」(同11章11節)。 二、報いの原則――働きにふさわしい報酬が与えられる(10節、ローマ4章4節) イエスは「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです」と言われました(10節)。私たちに対する神のお取扱いの第二番目は、報いの原則です。 受ける資格のある者に、当然の代価として与えられるものが報いです。ですから、良い働きと行いがあって、それにふさわしい人には良い報いがあり、何の働きも行いもなく、それにふさわしくない人には良い報いはありません。報いは、受ける資格のある者に与えられるものだからです。 しかし報いの原則は、一個人としては公平であっても、ほかの人との比較においては、先に恵みによって多く与えられた者のほうが、少ししか受けていない者よりも有利であり、不公平感をぬぐい去ることはできません。そのために第三番目の原則があるのです。 三、公平の原則――多く与えられた者は多く求められる(15節、ルカ12章48節) イエスは、弟子たちを受け入れない町に対して「さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです」と言われました(15節)。私たちに対する神のお取扱いの第三番目は、公平の原則です。 多く与えられた者と少ししか受けていない者とが、全く同じことを要求されるのは不公平です。多く与えられた者は多く、少ししか受けていない者は少し求められることこそ公平ではないでしょうか。 ですから、数々の力あるわざを行って、福音を宣べ伝えた弟子たちを受け入れない町は、このようなことが行われなかったソドムやゴモラよりも罰が重くなるのです。 私たちは、このような恵みと報いと公平という三つの原則を知る時、人に対する神のお取扱いの正しさを理解することができます。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.07.10
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「神と人との絆」 2021年7月4日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年2月1日放映「神のみこころと人の願い」 「神と人との絆」 甲斐慎一郎 ホセア11章4節 「わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた」(4節)。 「絆」という言葉には、「動物や物をつなぎとめる綱」と「切っても切れない関係」という二つの意味があります。 前者が二つのものをつないでいる「目に見える綱」であるのに対して、後者は二つのものをつないでいる「目に見えない綱」であるということができます。どちらにしても「絆」は「綱」であることがわかります。 私たち人間は、様々なものと深いつながりや絆というものがありますが、代表的なものは、次のような三つではないでしょうか。 一、自然と人との絆 人は、この世に生を受けてから、この世を去るまで、様々な自然現象の支配から一瞬たりとものがれることはできず、自然と切っても切れない関係にあります。それは、人間も自然界の一員である以上、決して気象的な変化や生物学的な作用、また物理学的な現象や化学的な反応など、自然の法則に逆らって生きていくことはできないからです。 そしてこの自然の法則は、私たちの人格や品性に関係なく働くものです。すなわち、その人の日頃の行いが良くても悪くても、高い所から落ちれば、怪我をし、熱いものに触れれば、やけどをし、有害なものを食べれば、中毒を起こすのであり、そこに例外はありません。ですから私たちが安全で健康な生活を営むためには、この自然の法則を守るほかないのです。 二、人と人との絆 しかし人間には、自然との絆だけでなく、さらに次のような切っても切れないつながりがあります。それは、家族や親族という血縁をはじめ、友人や同僚との交友の絆、知人や関係者との交際上の絆、さらに近隣や地方自治体などの地域社会の絆、そして国民としての絆に至るまで、実に複雑な人と人との絆です。 人というものは、互いに様々な絆という目に見えない綱でつながっているものです。しかもその綱は、夫婦や親子や友人の絆など、それぞれの関係にふさわしい太さ(親密度)と材質(性質)が定められています。これは、人の歩むべき道を教える倫理や道徳のことであり、正しい人間関係の基礎です。 しかし私たちがこの道を踏み外して、勝手な振る舞いをするなら、私たちにつながっている多くの人々に迷惑をかけて罪を犯すことになります。その結果、綱がもつれて身動きがとれなくなったり、正しい人間関係がこわれて、互いに憎み合う間柄や不義の関係や腐れ縁になったりするのです。 三、神と人との絆 しかし何よりも大切なのは、神と人との絆ではないでしょうか。神と人とは、どのような絆があるのでしょうか。 1.神は万物の創造者です(創世記1章1~31節)。私たちは、この神によって造られ、この神にいのちと息と万物とを与えられて、生きている者であり(使徒17章24、25節)、これほど深い絆はありません。だれが、この神のいのちを離れて生きて行くことができるでしょうか。 2.神は万事の支配者です(ユダ4節、黙示録4章8節、申命記32章39節)。自然の法則は、この神によって定められ、私たちは、その支配下にあるのであり、これほど深い絆はありません。だれが、この神の支配をのがれて生きて行くことができるでしょうか。 3.神は万人の審判者です(第二コリント5章10節、マタイ25章31~46節、黙示録20章11~15節)。私たちは、善であれ、悪であれ、すべてのことを神によってさばかれるのであり、これほど深い絆はありません。だれが、この神の審判をまぬかれて生きて行くことができるでしょうか。 神と人との絆を正しくするものは、神への信仰によって与えられる罪からの救いであり、それはまた自然と人との絆、および人と人との絆を正す秘訣なのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2021.07.03
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「個人の尊厳の自覚」 2021年6月26日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年1月19日放映「神の与える幸いと人の求める幸い」 「個人の尊厳の自覚」 甲斐慎一郎 マタイの福音書10章29~31節 現代のように人口が非常に多くなり、人々が大都会に集まって来るようになると、多くの人々は、社会とか大衆また団体というものを重要視するようになってきます。 そのためにひとりの人間の存在がますます小さなものとなり、個人というものが失われてしまいます。ですから私たちは、社会が大きくなればなるほど、ますます個人に目を向け、個人の尊さを自覚しなければなりません。そうしなければ、真の人間らしさが失われ、人格の崩壊という最悪の事態を招いてしまうことになるからです。 一、個人の「存在の価値」を自覚すること 私たちは、個人の存在の価値というものを自覚していませんと、数え切れないほど多くの人々に圧倒されて、「どうせ自分など、いてもいなくても同じだ。自分が何をしようとも、この社会には関係がない」と思うようにならないでしょうか。人間は、個人の存在の価値を見失うと、無責任になってしまうのです。 主イエスは「あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」と言われました(31節)。ダビデは、「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」と(詩篇8篇4節)、広大無辺な大宇宙を造られた偉大な神が、小さな自分にも心を留めて顧みてくださることに驚嘆しています。 私たちは、自分が神の前に尊い存在であり、それゆえ責任をもって生きていかなければならないということを自覚する時、神への恐れと信仰が芽生えてくるのです。 二、個人の「存在の意義」を自覚すること 私たちは、個人の存在の意義というものを自覚していませんと、私たちの周囲に起きる様々な苦難や困難に敗北して、「なぜ自分だけがこんなに苦しみに会うのか。何だかわけが分からなくなり、何もかもいやになってしまった」と思うようにならないでしょうか。人間は、個人の存在の意義を見失うと、失望落胆して無気力になってしまうのです。 主イエスは「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」と言われました(29節)。まして多くの雀よりもすぐれた人間と、その周囲に起きる出来事に対して、神は雀以下の配慮しかしてくださらないことがあるでしょうか。 私たちは、自分が神の前に尊い存在であり、周囲に起きる苦難や困難も、決して無意味ではなく、それらは神が個人個人を造り上げるために最高の知恵と愛の配慮をもって送られていることを自覚する時、希望に満ち、気力にあふれてくるのです。 三、個人の「存在の目的」を自覚すること 私たちは、個人の存在の目的というものを自覚していませんと、多くの人たちの存在が煩わしくなって、「他人なんかどうなってもかまわない。自分さえ良ければよいのだ」と思うようにならないでしょうか。人間は、個人の存在の目的を見失うと、自己中心になり、隣人に対して全く無関心になってしまうのです。 主イエスは「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」と言われました(30節)。神は、ひとりびとりを特別な関心をもって愛してくださいます。神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と仰せられました(イザヤ43章4節)。私たちは、ひとりびとりの人間が神の目には「キリストが代わりに死んでくださったほど」に尊い愛の対象であり(ローマ14章15節)、個人個人の生涯には、深い神のご計画と目的があることを自覚する時(第一コリント2章9節)、隣人に対する無関心が取り除かれて愛をもって接することができるようになるのです。 私たちは、「個人の存在の価値」と「個人の存在の意義」と「個人の存在の目的」をどれだけ自覚しているでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.06.26
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「父と子の交わり」 2021年6月20日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年1月19日放映「神の与える幸いと人の求める幸い」 「父と子の交わり」 甲斐愼一郎 ローマ人への手紙、8章14~17節 このローマ人への手紙の8章14~17節には、「子」または「子ども」という言葉が各節に、そして「父」という言葉が二回(アバとはアラム語で父という意味)記されています。 そこで、この父と子という観点から、聖書が教えているキリストの救いとは、どのようなものか、また真のキリスト教とは何かということを考えてみましょう。 一、肉体の苦行 およそ宗教と名のつくものには、何らかの形において、肉体の苦行というものがあります。その内容を、大ざっぱに述べるなら、次のような四つです。1.様々な欲望を自ら断つ禁欲です2.肉体を苦しめる行為をすることです3.自らの肉体を痛め、傷つけることです4.自らの生命を死に至らせることです キリスト教においては、第一のものに相当する断食があります。しかしこれは、神に近づくための一つの手段であり、決してこれ自体を目的としているのではありません。 聖書は、神の宮である肉体を、いたずらに苦しめたり、傷つけたりしてはならず、かえって、その「からだをもって、神の栄光を現」さなければならないと教えています(第一コリント6章20節)。 使徒パウロは、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めは、「肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」と述べ(コロサイ2章21、23節)、肉体の苦行によっては、決して真の救いは得られないと教えています。 二、心の修行 次に宗教を心の修行と考えている人々がいます。これをキリスト教に当てはめるなら、次のようになるでしょう。 1.ある人々は、キリスト教とは、理詰めで神の存在を信じ、ただ聖書を読んで、神の教えを学ぶことであると考えています(知性的な面)。 2.ある人々は、キリスト教とは、信じることによって神を感じ、ただ神の愛に感動して生きることであると考えています(感情的な面)。 3.ある人々は、キリスト教とは、すべての悪や罪をやめ、ただ神に仕えて、善行と奉仕に励むことであると考えています(意志的な面)。 キリスト教を、このように考えている人は決して少なくないでしょう。それぞれキリスト教の一面を表しており、真の救いを受けた結果としてこのようになります。しかし、たとえどれにも片寄らず、この三つのものに均衡が取れて備わっていたとしても、これは心の修行であり、真の救いではありません。 三、霊の交わり 聖書が教えている罪からの救いは次のような三つの面があります。1.「義と認められること」です2.「新しく生まれること」です3.「神の子どもとされること」です 罪を悔い改めて、キリストの十字架は私の罪のためであると信じる者は、義と認められ(すなわち罪を赦され)、新しく生まれるだけでなく、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が……あかししてくださ」り、私たちは、この御霊によって「アバ、父」と呼ぶことができるのです(15、16節)。 私たちは、この御霊によらなければ、神をほんとうの意味と内容と資格をもって「天のお父様」と言うことはできません。「御霊のあかし」は、父の側から子の側への語りかけであり、「アバ、父」は、子の側から父の側への語りかけです。ここから父と子の霊の交わりが始まるということができます。この罪から救われた者だけが持つことができる父と子の交わりこそ、キリストの救いです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.06.19
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「永遠に存在する人間」 2021年6月13日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年1月8日放映「人生に必要な三つの期間」 「永遠に存在する人間」 甲斐慎一郎 マタイの福音書10章28節 現代は、いのちを重さを知らず、いのちを軽視する風潮があるように見えますが、一昔前の戦争をしていた時代も同じではないかと思われます。それで人のいのちはどのようなものかについて考えてみましょう。 一、人のいのちの重さについて パウロは、「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるため」と述べています(使徒20章28節)。この箇所にはキリストのことは記されていませんが、実際に血を流されたのはキリストです。父と子と聖霊なる神は、ご自身のいのちを捨てるほど私たちを愛し、私たちの救いのために贖いのわざを成し遂げてくださいました。言い換えれば、このみことばは、私たちのいのちは、三位一体の神がいのちをかけるほど重く、尊いということを教えているのです。 二、人間の不滅性について なぜ人のいのちは、それほど重くて尊いのでしょうか。それは神によって造られた計り知れないほど価値のあるもので、決して消滅することなく、永遠に存在するからです。 人間がほかの動物とは異なる根本的な特徴を述べるなら、次のような三つです。 1.自由意志――人間は選択と決断をする自由を持っています。 2.自己批判――人間は自分で自分を批判することができます。 3.継続性――人間は永遠に存在し、消滅することはありません。 自由意志を持ち、自己批判ができる人間は、責任をとるべき自己というものが消滅することはありません。墓は、人が来世に行くために通過するトンネルのようなものです。私たちの来世の運命は、私たちがキリストの贖いのわざを信じるかどうかによって決まります。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は……神の怒りがその上にとどまる」のです(ヨハネ3章36節)。 霊が不滅であることについては次のような四つの証明があります。 1.本能的な証明――正常な人間は本能的に霊が不滅であることを自覚しています。 2.心理学的な証明――霊は非物質的な存在で、分割することはできず、不滅です。エネルギー不滅の法則は、物質であるエネルギーが不滅であることを教えています。まして霊が不滅なのは当然ではないでしょうか。 3.目的論的な証明――人間は、この世においては、その人の持っているすべての可能性や将来性、すなわち品性や人格、能力や賜物などがすべて花を開くということはありません。それがすべて十分に開花するためには、次に来る世(来世)の存在と継続が必要なのです。 4.道徳的な証明――この世は、悪人が栄え、義人が苦しむことが多く、常に正義の取り扱いを受けているとは限りません。それで、次に来る世(来世)においてすべての善と悪とが公平にさばかれることがどうしても必要なのです。 三、人間の不滅性を教えているみことば 神のことばである聖書は、次に来る世(来世)が存在し、人は永遠に消滅しないことを教えています。 ヨブは、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう」と述べ(ヨブ1章21節)、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は私の肉から神を見る」と告白しています(同19章25、26節)。 イエスは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われました(マタイ10章28節)。 ヨハネは、「死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また別の一つの書物が開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた」と神からの啓示を記しているのです(黙示録20章12節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2021.06.12
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「力と愛と慎みの霊」 2021年6月6日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年11月29日放映「日々新たにされる内なる人」 「力と愛と慎みの霊」 甲斐愼一郎 テモテへの手紙、第二、1章3~14節 「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(7節)。 ジョン・ウェスレーは、その注解において「力と慎みとは両極端である。愛はその中間にあり、両者の結合帯また調和である」と述べています。言い換えれば、力に偏れば無謀になり、慎みに偏れば萎縮しますが、愛は、両極端の二つのものを均衡と調和が取れた状態にして、両極端の過ちを防ぐのです。 「健全」というのは、それ自体は良いものであっても互いに相反する二つのものが均衡(バランス)と調和(ハーモニー)を保っている状態のことを言うのです。 実際生活において私たちは、この健全さに欠けるなら、純粋な動機で物事を行っても、極端に走ってしまうので、自分が失敗したり、他の人に迷惑を掛けたりして、様々な問題が起きてしまいます。神は、私たちに純粋な動機である愛を与えるとともに、均衡と調和の取れた力と慎みを与えてくださるのです。 一、健全な思想や考え方――神の恵みと人間の働きの調和(9節) 9節には、神の恵みと人間の働きとが対照的に記されています。ピリピ人への手紙にも神の側の働きかけと人間の側の救いの達成について記されています(2章12、13節)。 「神の恵み」は、神の力の現れであり、私たちを高い所に引き上げるものですから、言わば「神の理想の方向」と言うことができます。これに対して「人間の働き」は、人間の力の現れであり、神の力がなければ、弱く罪深い人間にとって、それは私たちを低い所に引き下げるものですから、言わば「人間の現実の方向」と言うことができます。 神は、私たち一人一人にふさわしい理想の姿を求められますが、同時に人間にもその人なりの現実の姿というものがあります。ですから私たちは、人間の現実を無視して、神の理想だけを追い求めたり、反対に神の理想を無視して、人間の現実だけを肯定したりしてはなりません。神の理想と人間の現実の両者が均衡と調和を保つ時、私たちは健全な思想や考え方を持つことができるのです。 二、健全な品性や人格――喜びと悲しみとの調和(4節) 4節には喜びと涙、8節と12節には苦しみが記されています。喜びは私たちを高くし、高揚させますが、悲しみは私たちを低くし、謙虚にさせます。しかし何の悲しみもなく、喜びだけが与えられるなら、軽薄になるだけでなく、有頂天になり、ついには高慢にふるまってしまうことでしょう。反対に何の喜びもなく、悲しみだけが与えられるなら、陰気になるだけでなく、失望落胆して、ついには自暴自棄に陥ってしまうことでしょう。 神は私たちに喜びと悲しみの両方を与えられます(ピリピ一章29節)。賛美歌285番3節に「主よ飲むべき わが杯 選び取りて授けたまえ 喜びをも 悲しみをも 満たし給う ままにぞ受けん」とあります。 ですから私たちは、神から喜びが与えられたなら、心から感謝することです(第一テサロニケ5章16~18節)。また悲しみが与えられたなら、逃避することばかり考えず、神のよしとされる時まで耐え忍ばなければなりません(ヤコブ五章7節)。喜びと悲しみの両者が均衡と調和を保つ時、私たちのうちに健全な品性や人格が形造られるのです。 三、健全な行動や働き――大胆さと注意深さの調和(12節) 12節には神にゆだねて確信した大胆さが、14節には聖霊によってですが、自らを守る注意深さが記されています。ゆだねることは、私たちに確信と大胆さを与え、注意深さは、私たちに勤勉と責任感を与えます。しかし大胆さが行き過ぎるなら、無責任や怠慢や不注意になり、反対に注意深さが行き過ぎるなら、小心や臆病や不信仰になるでしょう。 神にゆだねた大胆さと自らを守る注意深さの両者が均衡と調和を保つ時、私たちは健全な行動と働きをすることができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.06.05
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「真理の世界と力の世界」 2021年5月30日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年11月17日放映「かけがえのない人生」 「真理の世界と力の世界」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、13章8節 「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです」(8節)。 一、真理の世界と力の世界の相違 動物の世界に代表される自然の世界は、弱い物が強い物の餌食となる弱肉強食の世界であり、私たちが住んでいる社会も、数の力や金の力、名誉や地位の力、年齢や経験の力、そして体力や能力等のある強い者が弱い者を征服するという弱肉強食の力の世界です。 これに対して超自然的な神の世界は、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」(ローマ12章2節)という真理の世界(ヨハネ18章37節)であり、弱肉強食の力の世界ではありません。 二、真理の世界と力の世界の接点 上の図は、上から下の縦軸は、目に見えない教会である天の御国とこの世という二つの世界と、この二つの世界の橋渡しをしている目に見える地上の教会を表しています。 目に見える地上の教会は、この世から天の御国に行くための橋の役目をしています。 人々は、目に見える教会を通って天の御国に行くのです。ところが、その教会が左側の教会のように世に働きかけず、教会の中だけに閉じこもるなら、世と遊離した教会となり、右側の教会のように、世に迎合し、教会の中が弱肉強食の世界になるなら、世俗的な教会となり、どちらもこの世から天の御国に行くための橋の役目を果たせなくなるのです。 これに対して中央の教会のように、世と遊離せず、しかも世に迎合せず、教会の中が天の御国のひな型としての真理の世界なら、健全な教会となり、人々は教会を通って天の御国に行くことができるのです。 三、真理の世界と力の世界の関係 それでは真理の世界に力は不要なのでしょうか。そうではありません。私たちは、真理を見分ける力や真理を行う力は必要であり、神は「真理のためなら、何でもできる」力を与えてくださいます(8節)。この力は、世の力ではなく、霊的な力、すなわち超自然的な神の力です。これは、数の力や金の力、名誉や地位の力、年齢や経験の力、そして体力や能力等の世の力がないのに、どうしてあのような力があるのだろうかと、人々が不思議に思う真理のための力です。 それでパウロは、「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(第二コリント4章8、9節)。「人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています」(同6章9、10節)。「それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」と述べているのです(同4章7節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.05.30
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「聖霊降臨の約束」 2021年5月22日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年11月7日放映「私のささえである主(2)」「聖霊降臨の約束」 甲斐慎一郎 使徒の働き、1章1~8節 ルカは、前の書(ルカの福音書)においてイエスの誕生から受洗と誘惑、良いわざと教え、弟子の育成と派遣、変貌、十字架と死、そして復活と昇天に至るまでの出来事を記しました(1、2節)。彼は前の書の続編としてこの書(使徒の働き)を書いたのです。 「この新しい書には大きな相違点が見られます。使徒の働きでは、イエスはもはや地理的な制約を受けておられません。キリストがあらゆるところにおられるのがわかります。彼は人間としての同情と、神としての力によって、パレスチナだけでなく、地の果てに向かって働きはじめられたのです。キリストは聖霊によって働きはじめられたのです。キリストが始められたことを、聖霊は教会を通して遂行なさいます。……それゆえ、この使徒の働きは『聖霊によって、キリストの御体なる教会を通して、生けるキリストの御業と御教えとが続けてなされた記録』ということができます」(G・C・モルガン原著、F・ビヤバウト編『使徒行伝の研究』8頁)。 一、イエスから聖霊のバプテスマを受けるという約束を与えられた使徒たち(3~5節) イエスは、テベリヤの湖畔でご自分を弟子たちに現された後(ヨハネ21章1節)、「ガリラヤに行くように」言われました(マタイ28章10節)。ガリラヤの山において十一人の弟子たちに、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられました(同28章19節)。これが大宣教命令です。 弟子たちは、このイエスの命令を聞いて驚いたことでしょう。たった十一人の弟子たちが「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝え」(マルコ16章15節)ることなど、到底不可能であると思ったのではないでしょうか。 確かに11人の弟子たちだけで全世界の人たちに福音を宣べ伝えることはできません。それでイエスは、この大宣教命令の最後に、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28章20節)と約束されたのです。 そのためにイエスは、彼らに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と言われました(4)。それは弟子たちが、もう間もなく「聖霊のバプテスマを受けるからです」(5節)。すなわち弟子たちの上に聖霊が臨まれることによって、彼らは力を受け、地の果てにまでイエスの証人となることができるのです(8節)。 二 イエスがイスラエルのために国を再興してくださることを期待した使徒たち(6節) しかし使徒たちは、聖霊のバプテスマを受けるという約束を与えられても、それが何を意味するのか全くわかりませんでした。それどころか、イエスが「神の国のことを語」っておられる(3節)のを聞いているうちに、このイエスこそ「イスラエルのために国を再興してくださる」(6節)メシヤであるという期待に胸ふくらますようになりました。 弟子たちは、もともとイエスをローマ帝国の圧政からイスラエルの国を救い出してくださるメシヤとして期待していました。ところイエスの死によってその夢が破れ、絶望に襲われていた時、イエスが死からよみがえられたのですから、今こそ国を再興してくださるにちがいないと希望を持つようになったとしても少しも不思議なことではありません。 三 聖霊が臨んで力を受け、地の果てにまでイエスの証人となる使徒たち(7、8節) イエスは彼らの質問には答えられず、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け、……地の果てにまで、わたしの証人となります」と言われました(8節)。 「かつて、弟子たちの野望の的であった政治力のかわりに、それよりもはるかに偉大な、はるかに高貴な力が彼らのものとなるであろう。イエスは、聖霊が彼らにくだるとき、彼らは上なる力に満たされるであろう、と確約された。その時、この力によって、彼らの宣教は大きな力を生むのである」(F・F・ブルース『使徒行伝』44頁)。拙著「使徒ペテロの生涯」15「聖霊降臨の約束」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2021.05.22
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「見抜く力と気力を与える信仰」2021年5月15日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年9月27日放映「私のささえである主(1)」「見抜く力と気力を与える信仰」 甲斐慎一郎 申命記、34章1~8節 「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(7節)。 このモーセの臨終の記録において、彼の目とか気力というのは、肉体の眼と気力を指していることは言うまでもありません。しかしこのような旧約の出来事に新約の光を当てるなら、モーセは百二十歳になっても、霊的な目はかすまず、霊的な気力も衰えていなかったことを教えられるのです。新約の光というのは、ヘブル人への手紙11章24~27節のことばです。 一、霊的な目がかすまない秘訣 ヘブル人への手紙の著者は、モーセの生涯を次のように述べています。 「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」(ヘブル11章24~26節)。 このみことばの中に、パゼット・ウィルクスは、モーセは3つのものを見ていたと述べています。その3つとは、「神の道」と「神の民」と「神の報い」です。 まずモーセは、世俗の地位と罪の楽しみと世の富を捨てましたが、それは信仰によって、これが神の道であると見ていたからです。 またモーセは、神の民の悲惨と窮状を見ましたが、それと同時に信仰によって、神の民とともに苦しむ幸いを見ていたのです。 そしてモーセは、世の報いに目もくれませんでしたが、それは信仰によって、神の報いを見ていたからです。 これこそモーセの目がかすまなかった秘訣です。もし私たちが世俗の地位と罪の楽しみと世の富に目を奪われたり、神の民の苦しみに目をつぶったり、自分の苦しみだけに目を留めたり、神の報いに目もくれず、世の報いにばかり目を向けたりしているなら、私たちの霊的な目はかすんでしまうのです。 確かにモーセは、「神の道」と「神の民」と「神の報い」を見ていましたが、彼がほんとうに見ていたのは目に見えない方でした。すなわちモーセは、「目に見えない方を見るようにして、忍び通した」信仰のゆえに(ヘブル11章27節)、神の道と神の民と神の報いを見ることができたのです。 二、霊的な気力が衰えない秘訣 人間にとって最も大切なものは、気力とかやる気です。弱さや未熟さはあっても、気力さえあれば、それらを乗り越えることができますが、気力のないことは致命傷です。信仰者にとって霊的な気力ほど大切なものはありません。 それでは霊的な気力は、どこから来るのでしょうか。霊的な目がかすまないことこそ、霊的な気力の原動力です。具体的には、次のような3つにまとめることができます。 1.二心を持たず、心を神に定めること 私たち人間にとって心の分裂は大敵です。神と富とに兼ね仕えたり、神と世の間をさ迷ったりしている者にどうして気力が出てくるでしょうか。 2.見るところではなく、信仰によって歩むこと 私たちは、物事の結果だけを見て、一喜一憂してはなりません。思わしくない結果を見て、失望落胆している者にどうして気力が出てくるでしょうか。 3.思い煩わないで、神にゆだねること ジョン・ウェスレーは、「あなたは、もっと多くのことをすることができるように、一時にはわずかなことをしなさい」と興味深いことを述べています。私たちは、すべてのことを神にゆだね、思い煩うことなく、今この時、神から与えられた使命を果たし、奉仕に励めばよいのです。神にゆだねず、あれこれと思い煩っている者にどうして気力が出てくるでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.05.15
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「神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ」 2021年5月9日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年9月13日放映「真の信仰を持つ秘訣」「神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、3章14~21節 「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」(18、19節)。 この御言葉から神の愛の広さ、長さ、高さ、深さについて学んでみましょう。 一、神の愛の広さ 広さの反対は狭さや狭量さですが、これには二つの意味があるのではないでしょうか。 神は、相手が好ましい姿でも、嫌悪すべき姿でも、どのような状態でも、どんな時でも人を愛されます。箴言には「友はどんなときにも愛するものだ」と記されています(17章17節)。これが第一の神の愛の広さです。 神は、義人でも罪人でも、聖なる人でも汚れた人でも、貴賎上下の別なく、人種の差別なく、あらゆる階層のすべての人を愛されます。これが第二の神の愛の広さです。 この神の愛の広さに対して私たちの愛は何と狭いことでしょうか。 二、神の愛の長さ 長さの反対は短さや短気ですが、これにも二つの意味があるのではないでしょうか。 神は、人がご自分に逆らって楯突いた時も、堪忍袋の緒が切れて愛することを途中で止めることなく、どこまでも忍耐深く私たちを愛されます。これが第一の神の愛の長さです。 神は、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(エレミヤ31章3節)とあるように私たちを永遠に愛されます。これが第二の神の愛の長さです。 この神の愛の長さに対して私たちの愛は何と短いことでしょうか。 三、神の愛の高さ 高さの反対は低さや低俗ですが、これにも二つの意味があるのではないでしょうか。 神は、相手がどのような状態の時でも、どん時でも、どのような罪人をも愛されますが、悪と妥協する低俗な愛ではなく、人を罪から救い、正しく聖い人とするために、ご自分のいのちを捨てるほど、その愛は高潔で、高尚です。これが第一の神の愛の高さです。 神は、罪のためにどん底に落ち込んでいた人をも愛し、天の御国に引き上げてくださいます。これが第二の神の愛の高さです。 この神の愛の高さに対して私たちの愛は何と低いことでしょうか。 四、神の愛の深さ 深さの反対は浅さや浅薄さですが、これにも二つの意味があるのではないでしょうか。 神は、相手のうわべや目先の姿だけでなく、心の奥底までご覧になり、先のことまで深く考える深謀遠慮の愛をもって私たちを愛されます。これが第一の神の愛の深さです。 神は、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ5章20節)とあるように、どんなに罪深い者をも愛して救われます。これが第二の神の愛の深さです。 この神の愛の深さに対して私たちの愛は、何と浅いことでしょうか。 五、聖霊によって与えられる神の愛 この神の愛の広さ、長さ、高さ、深さが余すところなく現されたのがキリストの十字架です。私たちを罪から救うために、人に捨てられ、ご自分を捨てられ、神に捨てられたキリストを仰ぐ時、私たちは、神の愛がどれほど広く、長く、高く、深いものであるかを理解することができます。 しかし生まれながらの人間は、この神の愛を知らず、狭く、短く、低く、浅い愛しか持っていません。私たちは、自分の愛がどれほど狭く、短く、低く、浅いものであるかを認め、心から悔い改め、信仰によってキリストが私たちの心に住んでくださる時(17節)、「私たちに与えられた聖霊によって」、広く、長く、高く、深い「神の愛が私たちの心に注がれ」るのです(ローマ5章5節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.05.08
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「生きている信仰と死んでいる信仰」 2021年5月1日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年9月4日「生物が生きるために必要な創造の六日間」「生きている信仰と死んでいる信仰」 甲斐慎一郎 サムエル記、第二、25章 ダビデとアビガイルの姿から、実際の生活の中に生きている信仰と、そうではない死んでいる信仰について考えてみましょう。 一、死んでいる信仰(1~22節) ダビデにとってサムエルは偉大な恩師であるだけでなく、ヨナタンのほかにダビデが悩みを打ち明けることができた掛け替えのない人でした(19章18節)。そのサムエルが死んだのです。これはダビデにとって大きな衝撃であるとともに信仰の危機でした。 アビガイルに会うまでのダビデの姿を見てみましょう(1~22節)。ダビデの求めに対してナバルは彼を侮辱しました(10、11節)。このナバルの恩知らずと非礼な態度にダビデは怒り、すぐ「めいめい自分の剣を身につけよ」(13節)と部下に命じています。しかしこれはあまりにも思慮がなく、軽率であるだけでなく、祈りもせず、神の導きも求めない不敬虔な態度でした。 この箇所(1~22節)には、22節において呪いの誓いのために神の名を口に出していますが、それ以外に神の名は記されていません。ダビデはナバルに侮辱された腹いせに、ただ復讐のみを考えて、その思いの中にも、その会話にも、その行動の中にも、全く神はいませんでした。この時の彼の信仰は死んでいたのです。 私たちも日常の生活の中において、特に自分の思い通りに物事が運ばない時、祈りもせず、神の導きも求めないで、ただふるまうなら、その思いと会話と行動の中に全く神はおられず、その信仰は死んでいるのです。 二、生きている信仰(28~44節) これに対してアビガイルの信仰は、どうでしょうか。24節より31節までのわずか8節の間に、実に「主」という言葉が7回も出てきます。このことから次のような三つのことを学ぶことができます。 1.人の会話の中に生きておられる神 アビガイルの何げなく話している言葉の中に、何と多くの神の名が出てくることでしょうか(26~31節)。 彼女は、(1)復讐について(26節)、(2)家の繁栄について(28節)、(3)奉仕について(28節)、(4)生命について(29節)、(5)敵の生命について(29節)、(6)約束について(30節)、(7)幸福について(31節)、ことごとく神にふれており、神と切り離しては考えられない会話をしています。 このようにすべての会話が神と切り離せない言葉を語るものこそ生きている信仰です。 2.人の行動の中に生きておられる神 しかしアビガイルは、単にその会話や言葉の中に神の名が出てきただけでなく、人の行動の中にも神が生きておられることを知っていました。 彼女の行動は、すべてのことの中に神がおられ、すべての出来事や人間関係の中に常に神が介入し、干渉し、働いておられることを信じていたことをよく表しています。 このように人の行動の中にも常に介入し、干渉し、働いておられる神を信じて行動するものこそ生きている信仰です。 3.人の心と思いの中に生きておられる神 このようにアビガイルが会話の中にも行動の中にも神が生きておられたのは、その心と思いの中に神が生きておられたからにほかなりません。このようなアビガイルの生きている信仰によってダビデの死んでいた信仰は生き返ったのです。 私たちは、聖書に記されている真の神を信じることによって心の中に神が生きるようになるだけでなく、継続的に聖書を学ぶことによって、私たちの人間的な思いが神の思いと入れ替わり、その思いの中にも神が生きておられるようになります。これこそ自分だけでなく、ほかの人をも生かすことができる生きている信仰なのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2021.05.01
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「今は恵みの時、今は救いの日」 2021年4月25日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年8月3日放映「微生物の存在とその驚くべき働き」 「今は恵みの時、今は救いの日」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙巳、第二、6章2節 「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(2節)。 一、二種のこれからの時(類未来と将来) 宗教哲学者の波多野精一氏は、二種類のこれからの時をそれぞれ「未来」および「将来」と呼び、実存哲学者ハイデガーは、「未来および「到来」と呼んで区別しました。 ◇未来――いまだ来たらずという意味で、見通しがきかない絶望と不安の時です。 ◇将来――まさに来たらんとするという意味で、見通しがきく希望と平安の時です。 未来は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、将来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 二、二種類のいままでの時(過去と由来) ハイデガーは二種類のいままでの時を「過去」および「由来」と呼んで区別しました。 ◇過去――過ぎ去ったという意味で、今さらどうすることもできない時です。 ◇由来――由って来たるという意味で、今にまで伝えられて来た時です。 過去は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、由来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 三、古代ヘブル語の時制 旧約聖書の原語である古代ヘブル語の時制には「完了形」と「未完了形」しかなく、旧約聖書は、神の視点から、また神を中心に記されています。それで古代ヘブル語の時制は「神にとっては過去と未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在である」(J・ウェスレー)という神概念を基にしているので、「過去形」や「未来形」はありません。人間も、過去のことは今さらどうすることもできず、未来のことは不確かで、来るか来ないかわかりませんから、神の前においては、「過去」や「未来」というものはなく、すべての事柄は等しく現在です。 四、過去―現在―未来という生き方 もし私たちが現在、神を信ぜず、今まで犯してきた罪を悔い改めず、キリストの十字架による贖いを信じないで罪を赦されず、聖霊によって罪をきよめられなければ、罪深い過去の姿は、そのまま現在の姿であり、それはまた未来の姿でもあり、罪深い姿は永遠に続きます。これが永遠の滅びであり、地獄です(ヨハネ3章36節、黙示録20章15節)。 世の人は「過去は変えられないが、未来は変えられる」と考えていますが、聖書は「過去を変えられなければ、将来はない」と教えています。 五、由来―今―将来という生き方 もし私たちが今、神を信じて、今まで犯してきた罪を心から悔い改め、キリストの十字架による贖いを信じて罪を赦され、聖霊によって罪をきよめられるなら、その罪をきよめられた今までの姿は、今の姿でもあり、それはまた将来の姿でもあり、罪をきよめられた姿は永遠に続きます。これが永遠のいのちであり、天の御国です(ヨハネ3章16節、黙示録21章3、4節)。人は罪深い過去を拭い去ることなどできません。しかし神は、「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」と仰せられたのです(イザヤ44章22節)。 六、現在的な信仰――過去に信じたとしても今、信じていなければ罪から救われない 聖書は「今は恵みの時、今は救いの日です」と教えています(第二コリント6章2節)。 「今神にむかって生きている者以外、後にだれも神とともに生きないであろう。地において神の像をもつ者以外、だれも天において神の栄光を楽しまないであろう。現在罪から救われていない者は、だれも将来地獄から救われ得ない。この世で自分の中に神の国をもたなければ、だれも天において神の国を見ることはできない。天においてキリストとともに支配しようとする者は、だれでも地において自分を支配されるキリストをもたなければならない」(J・ウェスレー『神学論文・根本を撃つ』)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.04.24
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「復活された主により頼む」 2021年4月18日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年7月13日放映「根拠に基づいて神と福音を信じる」「復活された主により頼む」 甲斐慎一郎 コリン人への手紙、第二1章8~10節 「人の命は万宝の第一」とか「命に過ぎたる宝なし」また「命あっての物種」等など、生命の尊さを教える諺は数多くあります。 聖書は、「生きている犬は死んだ獅子にまさる」と記し(伝道者九章4節)、主は、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」と教えられました(マタイ一六章26節)。 キリスト教は、十字架の宗教であるとともに復活の宗教です。復活は、生き返ることですから、それは生命を意味しています。そこで「生」という観点から、聖書が教えている人間のありのままの姿およびキリストの驚くべき救いについて考えてみましょう。 一、神が与えられる生命の尊さ 私たちが生命の尊さや神聖さ、また厳粛さを教えられるのは、次のような時ではないでしょうか。 第一は、何と言っても一人の人間がこの世に誕生する時です(生命的な面)。 第二は、電子顕微鏡などで微生物の世界を垣間見る時です(生物学的な面)。 第三は、病気や怪我が自然治癒力によって治っていく時です(医学的な面)。 第四は、人間がその一生を閉じ、この世を去る臨終の時です(人生的な面)。 このようにどのような面から見ても、生命ほど尊く、また生きているということほどすばらしいことはありません。しかし私たちは、この生命の尊さと生きていることのすばらしさをどのくらい自覚しているでしょうか。 もし私たちがほんとうにこのことを知るなら、「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配」する必要はありません。なぜなら「いのちは食べ物よりたいせつなもの」だからです(マタイ六章25節)。 二、この世で生きることの苦しさ しかし私たちは、次のような時には、生きていることが苦しく、また辛くなるのです。 第一は、肉体的な苦しみで、これは重い病気や重症の怪我などによって、非常に激しい痛みと苦しみがある時です。 第二は、精神的な苦しみで、これは人間関係や様々な苦難によって、失意と挫折と孤独の中に置かれ、お先真っ暗になる時です。 第三は、霊的な苦しみで、これは迫害のように、神に従うことによって、かえって事態が悪くなり、苦しめられる時です。 このような時、私たちは生きていること自体が何と苦しく、また辛いことであるかを痛感するでしょう。この根本的な原因は、こ世に罪がはいったからですが、それ以来、この罪は、私たちからきる喜びを奪い、それを苦しみに変えてしまったのです。 三、キリストによる復活の望み この、生きていることの苦しみから救われる道はあるのでしょうか。だれでもすぐに考えることは、死ぬことです。しかし死ぬことは、安息でもなければ勝利でもありません。死んだきりでは完全な敗北です。 それでは、どうすればよいのでしょうか。救いの道は、ただ一つ、死んでまた生き返ることです。生きることが苦しいのは、頼りにならない自分により頼んでいるからではないでしょうか。パウロは、「アジアで会った苦しみ」、すなわち、「非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟し」た時、「自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼」んだのです(8、9節)。 死んでまた生き返る復活以外に救いの道はありません。この救いは、この世(現世)における霊的な復活だけでなく、次に来る世(来世)における肉体の復活をも意味しています。キリストは、私たちが死んでまた生き返るために、「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられ」たのです(第一コリント一五章20節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.04.17
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「私たちの人生と復活」 2021年4月11日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年6月2日放映「心(思い)の一新」「私たちの人生と復活」 甲斐慎一郎 第二コリント1章8~11節 キリストの復活は、キリスト教の福音において最も大切で中心的なものです。しかし世の中においても、一般的な意味における復活や復興ということは、非常に重要なことではないでしょうか。それでキリストの復活および一般的な意味における復活を問わず、復活について考えてみましょう。 一、復活――それは人間本来の願望です キリストの復活はともかくとして、私たちは、一般的な意味における復活というものを切に求めているのではないでしょうか。 からだが常に健康で、若々しく、生き生きとしていることを願わない人がいるでしょうか。不老不死は人間の悲願です。科学、特に医学は、このために少しでも貢献しようとしているのであり、体育やスポーツも同じではないでしょうか。 また精神的にも生きる喜びや希望に満ちていることを願わない人がいるでしょうか。文明の発達や文化の向上は、このような心の願いの当然の結果であるということができます。 そして霊的な面において、清く正しく生きることが人の道であり、もしそこから逸脱していれば、更生しようとするのが人のあるべき姿ではないでしょうか。道徳や倫理また宗教は、このことを私たちに教えています。 このように人間は、肉体的にも精神的にもそして霊的にも、復活や復興また更生を切に求めているのです。 二、復活――それは正真正銘の事実です キリストが復活したというと、多くの人々は、「死んだ人間が生き返るはずがない」と一笑に付してしまいます。しかしルカの福音書の24章には、キリストの復活が事実であることを証明する根拠が3つ記されています。 1.第一は、死体のない墓です この箇所には、3回も墓の中には主イエスのからだが見当たらなかったことが記されています(3、23、24節)。 2.第二は、キリストの顕現です この箇所には、エマオという村へ行く途中のふたりの弟子たち(15節)とシモン・ペテロ(34節)と11使徒(36節)にキリストが現れたことが記されています。彼らは、よみがえられたキリストを目撃した証人なのです(48節)。 3.第三は、聖書の証言です この箇所には、3回も聖書という言葉が記されており(27、32、15節)、キリストは聖書の預言の通りに死んで復活されたことを私たちに教えています。 三、復活――それは起死回生の秘訣です パウロは、アジヤで非常に大きな苦しみに遭った時、「非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした」と告白しています(第二コリント1章8、9節)。これは復活を信じる信仰です。 私たちのからだは、疲れたり、病気になったりすることがあります。しかし再び元気になったり、病気が治ったりすればよいのです。また様々な問題のために失望したり、落胆したり、挫折したりすることもあるでしょう。しかし再び立ち上がればよいのです。さらに信仰が死んだような状態になることがあるかも知れません。しかし再び生きた信仰を持てばよいのではないでしょうか。 キリストは、十字架の上で死なれましたが、よみがえられた方です。聖書は、「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」と教えています(ローマ6章5節)。 キリストの死と復活を信じる人は、たとえ倒れても、打ちのめされても、また死んだようになっても、再び起き上がり、生き返ることができます。キリストの死と復活を信じる信仰は、私たちに起死回生の力を与え、私たちが苦しみに満ちた人生を歩んでいくために不可欠なものなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2021.04.10
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「キリストの復活」 2021年4月4日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年5月23日放映「豊かないのち」「キリストの復活」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙第一、15章 キリスト教(聖書)は、「霊魂不滅」だけでなく、からだの復活による「肉体の不滅」をも教えています(ヨハネ5章29節)。そこで聖書が教えている復活に関する大切な真理を学んでみましょう。 一、過去におけるキリストの復活の事実について(1~11節) パウロは、キリストの復活は、誤って伝えられた根も葉もない架空の話ではなく、まことしやかに捏造された作り話でもなく、実際に起きた出来事に基づいた確かな実話であることを述べています。キリストの復活が事実であることを証明するものが三つあります。 「第一は、キリスト者のたましいの経験であり、その証拠はキリスト教会である。第二は、聖書は復活の真理の証明となった。第三は、復活の証人である」(G・C・モルガン『コリント人への手紙』324、327頁)。 もしキリストが復活されなかったなら、信じて罪から救われるキリスト者もキリスト教会も存在しなかったでしょう。実にキリストの復活は、キリスト教会の存在という確かな証拠があり、聖書の預言という確かな証言があり、主の復活を目撃した確かな証人のいる事実なのです。 二、現在におけるキリストの復活の意味について(12~49節) ところがコリントの教会の中のある人たちは、次のような三つの疑問のゆえに、死者の復活を信じていませんでした。 1.死者は、どうして復活するのか――復活の原因や理由に関する疑問 2.死者は、どのようにして復活するのか――復活の方法や手段に関する疑問 3.死者は、どのようなからだで復活するのか――復活の結果や様態に関する疑問 これに関してパウロは、簡潔に、しかもきわめて適切に答えています。 第一の疑問には「キリストが復活されたのだから、死者の復活があるのは当然である」(13節)と答え、第二の疑問には「からだの復活といっても、死んだ種粒から新しいからだが生じるという秘義以上に大きい秘義ではないのである」(36~38節)(前掲書345頁)と答え、第三の疑問には「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(44節)と答えています。 このようにパウロは、疑問に答えながら、過去におけるキリストの復活は、現在の私たちにどのような意味を持っているかについて述べています。 1.主の復活は私たちの救いの基礎であり、根拠です(14~22節)――キリストの復活によって罪からの救いが成就するからです(第一ペテロ1章3節)。 2.主の復活は神の支配の基礎であり、根拠です(23~28節)――キリストの復活によって神のご計画は完成するからです。 3.主の復活は私たちの希望の基礎であり、根拠です(42~49節)――キリストの復活によって私たちも復活することができるからです。 三 将来におけるキリスト者の復活の奥義について(50~57節) 最後にパウロは、世の終わりにおけるキリスト者の復活について、次のような三重の表現によって述べています。 1.私たちの完全な変貌です(51、52節)――私たちは、永遠に眠ってしまうのではなく、終わりのラッパとともに、たちまち一瞬のうちに変えられるのです。 2.神の与えてくださる完全な住まいを着ることです(53、54節)――私たちは、天から与えられる住まいを着るのであり(第二コリント5章1~4節)、それは永遠に朽ちず、不死です。 3.死に対する完全な勝利です(54~57節)――死ぬべきものがいのちにのまれ、もはや死はなくなるのです(黙示録21章4節)。 ですから私たちの労苦は、主にあって決してむだになることはないのです(58節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.04.03
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「前進する力を与える十字架」 2021年3月28日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年5月11日放映「神の謙遜と人の謙遜」「前進する力を与える十字架」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、13章31~35節 「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません」(33節)。 これは、キリストがパリサイ人に「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています」(31節)と言われた時、彼らに語られた言葉です。キリストは、だれが、どのような方法で十字架への道を阻もうとしても、十字架につけられるためにエルサレムに向かう決意は少しも変わりませんでした。この言葉から私たちが前進するための秘訣について学んでみましょう。 一、前進を妨げる過去の問題の解決――義認の信仰に生きる 私たちの前進を妨げる第一のものは、忘れようとしても、忘れることができない過去の罪や失敗また忌まわしい出来事です。 聖書は、イスラエル人が主に罪を犯して蛇にかまれた時、彼らが「旗ざおの上につけた……青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」ということを記し(民数記21章9節)、旗ざおの上につけられた青銅の蛇は、キリストを表していると教えています(ヨハネ3章14節)。 十字架を仰ぐとは、私たちの罪のために死なれたキリストを信じることであり、そうする時、罪を赦され、罪責と刑罰が取り除かれます。過去の罪や失敗また忌まわしい出来事を葬り去るものは、キリストの十字架であり、私たちを義と認めてくださる信仰に生きることこそ前進していくための第一の秘訣です。 二、前進を妨げる現在の問題の解決――聖化の信仰に生きる 私たちの前進を妨げる第二のものは、私たちを右や左にそらせようとする誘惑です。 キリストは、公生涯の初めに悪魔から、石をパンに変えよという誘惑(目的のためには手段を選ばないという誘惑)、神殿の頂から身を投げよという誘惑(神の言葉の範囲を越えて自由にふるまうという誘惑)、悪魔を拝んで、この世の栄華を得よという誘惑(十字架の道を避けて栄光に至るという誘惑)を受けられ(マタイ4章1~11節)、また十字架につけられるためにエルサレムに行こうとしている時も、ほかの所に行くように誘惑を受けられましたが、退けられました(31、33節)。 パウロは「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためである」と述べています(ローマ6章6節)。 キリストとともに十字架につけられるとは、自我を全く神に明け渡して、聖霊によって罪がきよめられたと信じることであり、そうする時、罪のからだ(私のうちに住む罪)が滅んで、罪の奴隷でなくなります。現在、受けている罪の誘惑を退け、罪に打ち勝つ力を与えるものは、キリストの十字架であり、私たちの罪をきよめてくださる信仰に生きることこそ前進していくための第二の秘訣です。 三、前進を妨げる将来の問題の解決――栄化の信仰に生きる 私たちの前進を妨げる第三のものは、将来に対して何の使命もビジョンも持たないために、過去の悪いことにとらわれて自己憐憫に陥ったり、現在、行っていることで自己満足したり、小成に安んじたりすることです。 パウロは「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにもあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。……ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」と述べています(ピリピ3章10、11、13、14節)。 将来に対する使命やビジョンが何であれ、その使命を果たし、ビジョンを実現するものは、私たちの罪を赦して、義と認め、私たちのうちに住む罪をきよめてくださるキリストの十字架であり、「私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる」(同3章21節)信仰に生きることこそ前進していくための第三の秘訣です。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.03.27
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「主の打ち傷による救い」 2021年3月21日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年3月20日放映「確信と自信」「主の打ち傷による救い」 甲斐慎一郎 イザヤ書53章1~12節 預言者イザヤは、キリストが降誕される700年も前に私たちを罪から救われるメシヤについて、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と預言しています(5節)。またペテロも、「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」と記しています(第一ペテロ2章24節)。 「傷」には、次のような三つの意味があるのではないでしょうか。▽損なったり、傷んだりしたところ▽欠陥や欠点、また不完全や不足▽失敗や非難すべきところ、また罪 この「傷」ということばは、単に「物質や肉体」が損なわれたり、傷んだりするということだけでなく、「心の傷 」ということばで表されるように「精神的また霊的」な意味を持っています。 それで「傷」という観点から聖書が教えている大切な真理を学んでみましょう。 一、罪人の傷について 創世記4章には、カインがアベルを殺害した出来事が記されています。この出来事から聖書が教えている罪人の姿を傷という観点から述べるなら、次のような「あってはならない心の傷」を持つ者ということができるのではないでしょうか。 ▽自分の悪いところを指摘された時、それを認めず悔い改めないことによる心の傷 ▽心の傷を受けた結果、人を憎み恨んで、報復せずにはいられないという心の傷 ▽自分の思い通りにならないと心が傷つくという身勝手で自己中心の心の傷 ▽どうせ自分はだめな人間なのだと言って心が傷つく卑屈な心や劣等感 ▽自尊心が傷つけられたということばで表される高慢な心や優越感 このような心は、本来あってはならない悪い「心の傷」です。しかし人間は、このような傷に悩み苦しみつつ、罪の中にあるのではないでしょうか。 二、神(キリスト)の傷について 神は、このような人間の罪をどのように見、またどのように対処されたのでしょうか。このことに関して聖書は、私たちに次のような驚くべきことを教えています。それは、神は、私たちの罪のために傷つけられ、しかも三重の傷を受けられたということです。 ▽私たちが罪を犯すと、神のみこころが傷つけられ、正義の怒りが燃えることです ▽この罪を罰せずにはおかない神の正義の怒りと、罪人を愛してやまない神の愛の炎とが激しく戦うことによって受ける神の心の深い傷です ▽私たちの罪を赦すために神のひとり子が十字架において私たちの罪のために打たれ、また傷つけられたということです これは、何と恐れ多いことでしょうか。しかしこれが聖書の教えている神なのです。 三、キリスト者の傷について この神が受けられた傷によって、人間は、罪から救われて、神の子どもとされ、次のような祝福にあずかるのです。 ▽まず私たちは「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」とあるように(5節)、キリストの十字架を信じることによって、罪のために傷だらけになっていた心が縫い合わされて、いやされるのです ▽次に私たちは、「神は傷つけるが、それを包み」とあるように、(ヨブ5章18節)、神の愛のむちを受けることによって、悪いところをきよめられ、「非難されるところのない純真な者となり……傷のない神の子どもと」されるのです(ピリピ2章15節)。 ▽最後に私たちは、私たちを愛するあまり傷を受けてくださった神を知ることによって、ほかの人々の弱さと苦しみと罪のために心を傷める愛の人に変えられるのです。 私たちの姿は、どうでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2021.03.20
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「信仰の効用(3)信仰を建て上げる三要素」2021年3月14日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年7月11日放映「覚えることと忘れること」 「信仰の効用(3)信仰を建て上げる三要素」 甲斐慎一郎 出エジプト3章6節 真の信仰を形造る三要素は、敢行と忍耐と熱望ですが、敢行は獲得力、忍耐は持久力、熱望は推進力ということができます。この三つの力の均衡が取れていくことが自らの信仰の成長と人間関係の問題を解決する鍵です。 一、信仰の成長を妨げるもの 人間関係の問題は、語る資格がなく、神と人に仕えず、行動が伴わない人が不当に人を非難する時に起きます。 敢行に表れるアブラハム型の人は、忍耐の欠如によって厳しく人を批判する危険性がありますが、それ以外は、神のことばを信じて敢えて行う行動が伴うので、この点において問題は少ないということができます。 忍耐に表れるイサク型の人も、忍耐の偽物である怠慢に陥る危険性はありますが、行動が伴わないことは批判しないので、この点において問題は少ないということができます。 しかし熱望に表れるヤコブ型の人は、忍耐の欠如による失敗のほかに、イスラエル人のように「その熱心は知識に基づくものでは」ない(ローマ10章2節)という問題をはらんでいます。すなわち熱望は、まだ心の段階で、行動に移る敢行の一歩手前ですから、行動が伴わず、口先だけの熱心になりやすいのです。たとえ行いが伴ったとしても、目的を得るためには手段を選ばない行動に陥りやすいところがあります。 ヤコブは、父イサクと兄エサウを欺いたので、伯父ラバンと子どもたちに欺かれています。彼は、「私のたどった年月は130年で……ふしあわせで」(創世記47章9節)と述懐しているのも無理からぬことでしょう。ヤコブは、知識に基づかない熱心さのゆえに、貧乏くじを引くまいと焦りましたが、結果的には、神によって貧乏くじをひかされているかのようです。それにもかかわらず、「ヤコブの神」と言われる祝福を受けたのは、ただ計り知れない神の恵みによるのです。 二、信仰を建て上げる三要素 信仰者の務めは、人をつまずかせず、人の徳を高めていくことです(ローマ14章1、19節、15章1、2節)。信仰の弱い者をつまずかせるのは、敢行や熱望の欠如よりも、忍耐の欠如によることが多いということができます。堪忍袋の緒が切れて、怒りが爆発する時、人をつまずかせるからです。その時、加害者は、信仰の強いアブラハム型やヤコブ型の人が多く、被害者は信仰の弱いイサク型の人が多いのではないでしょうか。 被害者は、心の中で加害者を赦せばよいのですが、加害者は、被害者に謝罪するまで罪は赦されません(マタイ5章22~26節)。アブラハム型やヤコブ型の人は、不得手な忍耐を身につけていくことによって信仰が成長し、円熟していきますが、それまでの間、忍耐の欠如によって弱い者をつまずかせる危険性があります。信仰の弱い者をつまずかせる罪は決して小さくありません(マルコ9章42節)。イサク型の人は、不得手な敢行や熱望を身につけていくことによって信仰が成長し、円熟していくので、信仰の弱い者をつまずかせる危険性は小さいということができます。 現実の世界は、どれほど敢行と熱望の信仰をもって奉仕しても、一朝一夕にできるものではなく、いつも物事が順調に運ぶとは限らず、必ず苦難があり、忍耐を要することが多いもので、完成するまで、神のお取り扱いを受けて、砕かれ、教えられ、学ばなければならない多くの信仰の学課があります。 旧約時代のヨセフは、まず孤独と人に仕えることと中傷や非難を耐え忍んだからこそ、立派な指導者になり得たのです。指導者の試練また運命は、この孤独と人に仕えることと中傷や非難を受けることです。どのような信仰の型の人であれ、神はヨセフのように、▽まず忍耐、次に希望、最後に愛を学ばせ、▽そこから生じる健全な熱望と敢行を身につけさせることによって、▽他の人をつまずかせず、人の徳を高める器に私たちを造られます。 これこそ信仰を建て上げる三要素です。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.03.13
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「信仰の効用(2)信仰を形造る三要素」 2021年3月7日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年5月23日放映「イエスを仰ぎ見なさい(2)」「信仰の効用(2)信仰を形造る三要素」 甲斐慎一郎 出エジプト記、3章6節 世の中には様々な問題や課題が絶えませんが、その中で人間関係の問題ほど複雑で厄介なものはないでしょう。この根本的な原因は罪ですが、たとえ罪が赦され、きよめられたとしても、性格の相違についての正しい認識が欠けているなら、人間関係の問題は決して解決しないでしょう。信仰と性格の関係について考える時、忘れてはならない大切なことは、信仰というのは、どのようなもので形造られているかということです。 そこで信仰を形造る三要素について学んでみましょう。 一、信仰の三つの型について 「アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(ヘブル11章8節)とあるように、神の言葉を信じて敢えて行動を起こした(すなわち敢行した)人です。 信仰の積極面は敢行です。しかしアブラハムは忍耐深さに欠けていたので、女奴隷ハガルによって子どもを儲けるなど、多くの失敗をしています。「敢行」に表れる信仰、これがアブラハム型の信仰です。 アブラハムの子イサクは、父とは全く反対で、どんなに大切なものでも、それを得るのに焦ったり、争ったりすることなく、どこまでも柔和にふるまい、謙譲な態度を取り、神が与えてくださるまで困難を耐え忍んで待ち望んだ人です(創世記26章14~22節)。 信仰の消極面は忍耐です。しかしイサクは信仰の積極面である敢行は不得手であったために、優柔不断で、その子ヤコブに欺かれています。「忍耐」に表れる信仰、これがイサク型の信仰です。 イサクの子ヤコブは、これまた異なり、飽くなき探求心によって、どこまでも神の祝福を求め続けた熱心な人です。しかし彼は、その名前(押しのける者)のように、父イサクと兄エサウを欺いてまで熱心に神の祝福を求めたために、自分の息子たちやおじラバンにだまされています。「熱望」に表れる信仰、これがヤコブ型の信仰です。 二、信仰と性格について 真の信仰は、神の言葉を信じて踏み出す敢行と、神の言葉を待ち望む忍耐と、神の祝福を熱心に求める熱望の三つを含んでいます。 しかし人はみな、先天的な性格や性質が異なっており、また育った環境による後天的な性格や性質も違っています。ですから人は、信仰を持つなら、罪から救われますが、持ち前の性格や性質は変わり難い面があるために、その人の性格や性質からにじみ出る信仰になり易いのです。すなわち、その性格によって、ある人は敢行の面の強い信仰、他の人は忍耐の面の強い信仰、別の人は熱望の面の強い信仰になるのです。 三、信仰の成長について 私たち、信仰に成長するために次のような二つのことが必要です。 1.他の信仰の型の人を受け入れること 人は、それぞれ性格や性質、また信仰の型が異なるので、自分の信仰の型に他の人を合わせようとしたり、異なる信仰の型の人を非難したり、排斥したりしてはなりません。 アブラハム型の人はイサクやヤコブの信仰に、イサク型の人はアブラハムやヤコブの信仰に、ヤコブ型の人はアブラハムやイサクの信仰に、それぞれ必ず学ぶところがあるはずであり、また学ばなければなりません。私たちは、信仰に成長するために他の信仰の型の人を受け入れることが必要です。なぜなら神は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だからです(出エジプト3章6節)。 2.自分に不得手なものを求めること 私たちは、信仰に成長するために信仰の三つの面である敢行と忍耐と熱望が片寄ることなく、均衡が取れるように自分に不得手なものを神に祈り求めることが必要です。 そしてこの信仰の三つの面に均衡が取れていた信仰者は、ヤコブの11番目の子である四代目のヨセフではないでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.03.06
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「信仰の効用(1)信仰を成長させる三要素」2021年2月28日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年5月14日放映「イエスを仰ぎ見なさい(1)」「信仰を成長させる三要素」 甲斐慎一郎 創世記、50章15節 私たちが神への信仰を持つなら、神は私たちの信仰に応えて私たちの心に働いて良い実を結ばせてくださいます。そこで信仰の効用について三回に分けて考えてみましょう。◇信仰の効用(1)――信仰を成長させる三要素◇信仰の効用(2)――信仰を形造る三要素◇信仰の効用(3)――信仰を建て上げる三要素 一、忍耐を生じさせる信仰 聖書は「信仰がためされると忍耐が生じる」と教えています(ヤコブ1章3節)。 ヨセフは、祖先から良い信仰を受け継ぎ、神を愛し、罪を憎む青年でしたが、彼の温室育ちの信仰は、嵐が吹き荒れる厳しい現実の世界で試されなければなりませんでした。 ヨセフは、兄たちに妬まれて穴に投げ込まれましたが、まず孤独に耐えなければなりませんでした。そしてエジプトに売られて奴隷になりましたが、次にしもべとして人に仕える忍耐を学ばなければなりませんでした。さらにポティファルの妻に訴えられ、無実の罪を着せられ、投獄されましたが、第三に中傷や非難を耐え忍ばなければなりませんでした。 信仰が厳しい現実の世界で生かされていくための第一の要素は忍耐です。信仰は「見えないものを確信させる」もので(ヘブル11章1節)、神の約束と保証に立って、遠くの良いことを見ることです(同11章13節)。決して霊的な近視眼ではありません。 ですから現在の一時的な孤独や苦難の中でも、つぶやかず、疑わずに、忍耐をもって黙々と神と人とに仕えていくことができます。信仰は、人を焦らせず、性急にさせずに、神のよしとされる時まで耐え忍ばせるものなのです。 二、希望を生じさせる信仰 聖書は、「信仰により……望み」を抱くと記しています(ガラテヤ5章5節)。 ヨセフは、兄たちによって穴に投げ入れられる時には理解することができずに苦しみましたが、エジプトに奴隷に売られてからは、嘆いたり、つぶやいたり、くよくよしたりせずに、喜々として働いています。また無実の罪を着せられて牢獄に入れられても、嘆いたり、つぶやいたり、くよくよしたりせずに、かえって人を慰め、励ましています。 信仰が厳しい現実の世界で生かされていくための第二の要素は希望です。「心に憂いがあれば気はふさぐ」のであり(箴言15章13節)、希望を失ったなら、気力がなくなり、自暴自棄に陥ってしまいます。 しかし信仰は私たちに希望を与えます。なぜなら信仰は、自分の周囲の様々な人間や境遇は、第二原因に過ぎず、第一原因は神であることを私たちに教えるからです。信仰者は「雀の一羽でも……父のお許しなしには地に落ちることは」ないことをよく知っています(マタイ10章29節)。信仰は、過去のいかなることにもとらわれず、くよくよせずに第一原因である神を信じて希望的観測をするのです。 三、愛を生じさせる信仰 聖書は「愛によって働く信仰」が大事であると教えています(ガラテヤ5章6節)。 ヨセフは、過去を回顧し、兄たちの嫉妬やポティファルの妻の中傷や献酌官長の忘恩など、人間の罪や失敗をも凌駕して余りある神の支配と導きを現実に見ながら、今さらのように神の愛の広さ、長さ、高さ、深さの計り知れないことを知って感激したにちがいありません。この神の愛を現実に知ったヨセフは、兄たちに対して恨みや復讐心などはみじんもなく、ただあるのは赦しと愛だけでした。 信仰が厳しい現実の世界で生かされていくための第三の要素は愛です。ヨセフは、その人の信仰の有無を問わず、周囲の人は自分の姿を写す「鏡」(箴言27章21節)、自分を磨く「砥石」(同27章17節)、神に仕えるための「相手」(マタイ25章40、45節)であることを知ったのでしょう。 しかしこれは、自尊心が強く、体面を重んじ、誇りの高い人には受け入れがたいものです。ただヨセフのように、様々な逆境や苦難を通らせられて、謙遜と自己否定を学んだ人のみ愛と感謝をもって受け入れることができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2021.02.27
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「御言葉への応答(3)御言葉を実行する」2021年2月21日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年5月6日放映「三つのさばき」 「御言葉への応答(3)御言葉を実行する」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙、1章19~25節 ヤコブは、信仰と行為とは切っても切れない不可分の関係にあり、真の信仰は、必ず行為が伴うことを私たちに教えています。 ヤコブの周囲には、律法学者やパリサイ人がいましたが、主は、「彼らは言うことは言うが、実行しないからです」(マタイ23章3節)と言われました。ヤコブは、口先だけの、行いの伴わない、浅薄な信仰をいやというほど見ていたことでしょう。 主は、山上の説教において「わたしに向かって『主よ、主よ』という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタイ7章21節)と説教されました。ヤコブは、小さい頃からそのようなことを教えられたにちがいありません。 この手紙を章毎に五つに分け、行いに表される真の信仰について学んでみましょう。 1.一章、境遇または環境の問題――御言葉を聞き、素直に受け入れることに表される信仰 この章の前半には、試練や誘惑、また貧しい境遇や富んでいる境遇について記され、後半には、御言葉を聞くことと、素直に受け入れること、そしてその結果、罪から救われて新しく生まれることと御言葉を実行することについて記されています(22、25節)。 真の信仰は、まず御言葉を聞いて、素直に受け入れ、罪から救われて新しく生まれることに表れます。その結果、すべての良い贈り物は神から下り、悪の誘惑は、自分の欲に引かれるからであることを知って、私たちは、どのような境遇や環境の中でも、すべてのことを働かせて益としてくださる神によって喜ぶことができるようになるのです。 2.二章、対人関係または隣人愛の問題――神の律法を守ることに表される信仰 この章の前半には、人をえこひいきすることについて記され(1、9節)、後半には、隣人を自分と同じように愛するという最高の律法について記されています(8、16節)。 次に真の信仰は、神の律法を守ることに表れます。対人関係の問題は、人に対して偏見を抱き、人をえこひいきして、隣人への愛がないことが、その原因だからです。 3.三章、言葉または舌禍の問題――神からの知恵を持つことに表される信仰 この章の前半には、舌の禍について記され、後半には、神からの知恵について記されています。主イエスは、「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ12章34節)と言われましたが、言葉は私たちの心の表現です。私たちは、舌がどんな禍を引き起こすかを知りつつも、黙っていることは許されず、神と隣人の前に正しく語ることが求められているのです(9、10節)。 真の信仰は、第三に神からの知恵を持つことに表れます。私たちは、心に神からの知恵を与えられることによってのみ、舌を制御して正しく語ることができるからです。 4.四章、世俗または自己愛の問題――神を恐れて、へりくだることに表される信仰 この章の前半には、神を無視し、神に敵対している世について記され、後半には、神を恐れて、へりくだることが記されています。神を無視し、神に敵対している世を愛することは、とりもなおさず、神を恐れず、自分で何でもできるかのように高ぶっていることです(4、15、16節)。 真の信仰は、第四に神を恐れて、へりくだることに表れます。このようにする時にのみ、私たちは、汚れた世俗を離れて、聖い生活を送ることができるからです。 5.五章、苦難または迫害の問題――忍耐と不屈の祈りに表される信仰 この章の前半には、苦難や迫害について記され、後半には、忍耐と不屈の祈りについて記されています。この世の中は、不可解な出来事や矛盾に満ち、主が来られて、すべてを正しくさばかれるまで、完全な解決はないでしょう(8、16節)。 真の信仰は、最後に忍耐と不屈の祈りに表れます。なぜなら最後まで耐え忍ぶ者のみ、救われるからです(マタイ24章13節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.02.20
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「御言葉への応答(2)御言葉を信じる」2021年2月14日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年4月1日放映「三つの現実」 「御言葉への応答(2)御言葉を信じる」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、4章1~13節 ヘブル人への手紙の著者は、荒野を旅したイスラエルの民および新約のキリスト者を問わず、神の言葉を聞く時に大切なことは信仰であることを次のように述べています。 「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです」(2節)。 それで「信じる」ということについて、この箇所から三つのことを学んでみましょう。 一、信仰の時――今日 このヘブル人への手紙の3章と4章には、「きょう」という言葉が5回も記されていますが(3章7、13、15、4章7節に二回)、これは、どのような意味でしょうか。聖書を読んだり、説教を聞いたりしたならば、何が何でも、すぐに信じなければならないということでしょうか。そうではありません。これは、信仰というものは常に現在のものでなければならないことを私たちに教えています。 神は時空を超越された方ですから、「神にとっては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在です」(ジョン・ウェスレー)。また人間の場合も、過去のことは、いまさらどうすることもできず、未来のことは不確かですから、確実に自分の時間として用いることができるのは、現在のみです。 神は、聖霊を通して、その古い御言葉を私たちにの心に新しく語りかけられる時が必ずありますが、その時こそ信じる時です。そしてその信仰は、常に新鮮に「きょう」という現在的なものでなければならないのです。 二、信仰の根拠――神の約束 この手紙の6章には、信仰の根拠について詳しく述べられています。6章12節から17節の間に「約束」という言葉が4回も記されています(6章12、13、15、17節)。 私たちが「信仰を持つ」とか「「信じる」という時、その信仰は何を拠り所としているでしょうか。神の存在でしょうか。神の愛とか真実さという神のご性質でしょうか。または神の言葉でしょうか。もちろん私たちは、神の存在を信じ、すばらしい神のご性質を信じ、また聖書を神の言葉であると信じなければならないことは、言うまでもありません。 しかしこれらのことを前提にしながらも、もっと中心的で大切な信仰の根拠があります。それは私たちに対する「神の約束」です。旧約聖書は、神が人と結ばれた「古い契約」であり、新約聖書は、神が人と結ばれた「新しい契約」ですが、それは同時に私たちに対する「神の約束」でもあるのです。 三、信仰の結果――安息 ヘブル人への手紙の3章と4章に、もう一つ多く出て来る言葉があります。それは、11回も記されている「安息」です(3章11、18、19節、4章1、3、5、6、8、10、11節)。 「彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであった」(3章19節)とか「信じた私たちは安息に入るのです」(4章3節)という言葉は、信じた結果は安息であることを私たちに明白に教えています。私たちは、自分がほんとうに信じたのか、信じなかったのかということは、自分の心に安息があるかどうかですぐに分かります。この安息こそ、いわゆる感動して信じる「感情的な信仰」を「真の信仰」であると錯覚している誤りから私たちを救うものです。 人々がイエスに「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか」と聞いた時、イエスは、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」と答えられました(ヨハネ6章28、29節)。 私たちは、自分のわざを終えて(10節)、神とその約束を信じるなら、この安息に入ることができます。そしてこの安息に入った者のみ、神の約束を忍耐をもって待つことができるだけでなく、その約束のものを得ることができるのです(ヘブル10章35、36節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.02.13
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「御言葉への応答(1)御言葉を聞く」 2021年2月7日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年3月17日放映「苦難の意味するもの(2)」 「御言葉への応答(1)御言葉を聞く」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、2章1~4節 ヤコブは、神の言葉について、「聞く」こと、「信じる」こと、「実行する」ことについて述べていますが(1章22、21節)、これこそ御言葉に対する三つの応答です。▽御言葉への応答(1)――御言葉を聞く▽御言葉への応答(2)――御言葉を信じる▽御言葉への応答(3)――御言葉を実行する 言葉を覚えるために最も必要なことは、聞くことです。人格を持ち、言葉を語る人間にとって、聞くということほど大切なことはありません。パウロが「信仰は聞くことから始まり」と述べ(ローマ10章17節)、ヤコブが「聞くには早く……しなさい」(ヤコブ1章19節)と勧めているのも、もっともなことではないでしょうか。 このヘブル人への手紙の2章から4章までの間に「聞く」という言葉が8回も記されています(2章1、3節、3章7、15、16節、4章2、7節)。 それで「聞く」ということについて、聖書の中から三つのことを学んでみましょう。 一、私たちは、なぜ聞かなければならないのでしょうか。 古今を通じて、また洋の東西を問わず、政治の世界であれ、経済の世界であれ、またどのような世界であれ、人民の声は何か、世論はどうか、世界の動向はどうなっているのか、ということに耳を傾けず、また様々な情報を適確にとらえずして、大成したり、成功したりした人はひとりもいないでしょう。 現代は情報化時代であり、人々は、この世に取り残されず、賢く生き抜くために適確な情報を得ようと汲々となっています。 しかしここに世のどんな情報よりも大切な情報があります。それは、この天地万物を造られ、この世界を支配しておられる神の声であり、神の言葉です。世の情報は私たちの地上における生活を左右します。しかしこの神よりの天の情報は、私たちの永遠の運命を決定するのです。 「神は……語られました」(ヘブル1章1、2節)。「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」(1節)。 二、聞くことに密接に関係のあることは、何でしょうか。 聖書は、聞くということに密接な関係にあることを5つ教えています。 1「イエスの話を聞こうとして」(ルカ15章1節)。 聞くということに密接に関係のある第一のことは、願うことであり、求めることです。 2「父から聞いて学んだ者は」(ヨハネ6章45節)。 聞くということに密接に関係のある第二のことは、知ることであり、学ぶことです。 3「羊はその声を聞き分けます」(ヨハネ10章3節)。 聞くということに密接に関係のある第三のことは、判別し、判断することです。 4「聞いたことを……しっかり心に留め」(ヘブル2章1節)。 聞くということに密接に関係のある第四のことは、信じて心に留めることです。 5「羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」(ヨハネ10章4節)。 聞くということに密接に関係のある第五のことは、従うことです。 三、聞くということは、私たちにとって何を意味するのでしょうか。 私たちにとって聞くか聞かないかということは、主が「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4章9、23節)と言われたように、私たちの心の問題です。 私たちは、何を聞こうとしているか、何を聞いているかによって、私たちの実質が計られ、また私たちが神の御声を聞こうとしているかどうかによって、私たちの心が神の前にどうであるかが計られます。私たちが信仰者として、また一人の人間として成長していくかどうかは、神の御声と人の声を正しく聞くか、聞かないかにかかっているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2021.02.06
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「神をあがめる生涯」 2021年1月31日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年3月4日放映「苦難の意味するもの(1)」「神をあがめる生涯」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、5章13~16節 一、人間の創造と礼拝 東京フリー・メソジスト教団の教理問答集には、次のように記されています。問……人間の創造された目的は何ですか。答……神の栄光を現し、永遠に神を喜び楽しむためです(創世記1章27節、イザヤ43章7節、エペソ1章5、6節、第一ペテロ5章10節)。 神の栄光を現すこと、言い換えれば神があがめられることについて、聖書には、多くのことが記されていますが、おもなものは次のような5つです。 1.「神を神としてあがめ」る(ローマ1章21節、第一ペテロ3章15節)、「霊とまことによって父を礼拝する」(ヨハネ4章23節)。 2.「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5章16節、ピリピ1章20節)。 3.「ふさわしく奉仕し……キリストを通して神があがめられる」(第一ペテロ4章11節)。 4.「異邦人も……神をあがめるようになる」(ローマ15章9節)。 5.「すべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめる」(第二コリント9章13節)。 第一は、神を礼拝すること、第二は、私たち自身や良い行いを通して神があがめられ、第三は、ふさわしい奉仕、第四は、福音宣教の前進、第五は、惜しみなく与えることを通して神があがめられることを教えています。 二、聖日礼拝と説教 人間は、神の栄光を現すために創造されました。第一は、聖日に教会に集まって神をあがめることです。第二から第五は、日々の生活と歩みにおいて神をあがめることですが、そのようになるためには、礼拝に出席し、説教を聞き、それに応答することが必要です。 私たちは、説教に応答することによって、人々が私たちの良い行いを見て神をあがめる人に、ふさわしく神に奉仕することによってキリストがあがめられる人になり、また福音を宣べ伝える人、惜しみなく与える人に変えられ、人々が神をあがめるようになるのです。 三、説教と礼拝の生活 ヤコブは、みことばを「聞く」こと、「信じる」こと、「実行する」ことについて述べていますが(1章22、21節)、これこそ説教に対する3つの応答です。 説教者は、説教する準備をしますが、会衆に語る前に祈りのうちに神のことばを聞き、神のことばを信じ、神のことばを実行するように神のお取り扱いを受けて講壇に上り、講壇において説教する時は、会衆とともに神を礼拝しているのです。 1.神のことばを聞くこと 私たちは、説教者が聖霊に満たされて神のことばを正確に語ることができるように、そこで語られる神のことばが聖霊によってわかり、この礼拝において神が語ってくださることを明確にとらえることができるように祈りつつ、説教に耳を傾けなければなりません。 2.神のことばを信じること しかし私たちは、説教を「ただ聞くだけの者であっては」ならず、「すなおに受け入れ」る、すなわち信じなければなりません(ヤコブ1章22、21節)。確かにキリスト者は、神のことばを信じていますが、この礼拝において説教者を通して今、神が語られたことを新しく信じることが必要です。そうするなら、新しい神体験をし、神のことばを実行することができる人に変えられるのです。 3.神のことばを実行すること これから始まる一週間、礼拝説教で教えられたこと、示されたこと、信じたこと、新しい神体験をしたことを毎日の生活において実行することを祈りのうちに神に約束し、礼拝を終えることです。 このようにする時、新しく始まる一週間、私たちの日々の生活と歩みを通して神があがめられ、このことを毎週、行うなら、私たちの一生の間、神があがめられます。これこそ神が求めておられる真の礼拝です。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.01.30
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「目標を目ざして(2)」 2021年1月24日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年1月28日「平安と将来と希望を与える神の計画(2)」「目標を目ざして(2)」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、3章13、14節 二、前のものに向かって進むこと 「前のもの」とは、未来や将来のことではありません。パウロは、言葉を続けて、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために」と述べ、殉教の死を前にして、「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」と告白しています(第二テモテ4章8節)。これは、主人である神から「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25章21、23節)とお褒めの言葉を頂くことです。この「神の栄冠」や「義の栄冠」こそ「前のもの」です。 しかしこの栄冠を得るためにはジョン・ウェスレーが「根本を撃つ」という神学論文で述べているような「きよめ」が必要です。 「今神にむかって生きている者以外、後にだれも神とともに生きないであろう。地において神の像(神の聖と愛と義と真実)をもつ者以外、だれも天において神の栄光を楽しまないであろう。現在罪から救われていない者は、だれも将来地獄から救われ得ない。この世で自分の中に神の国をもたなければ、だれも天において神の国を見ることはできない。天においてキリストとともに支配しようとする者は、だれでも地において自分を支配されるキリストをもたなければならない」(ジョン・ウェスレー著、野呂芳男訳「ウェスレーの神学」175頁、新教出版社、1963年)。 この「神の栄冠」や「義の栄冠」こそ私たちをひたむきに前に、進ませるものです。私たちは、神とキリストの贖いによる「救い」と「きよめ」を信じなければ、私たちをひたむきに前に進ませる「神の栄冠」や「義の栄冠」を得ることはできません。それでは前進も成長も期待することはできないでしょう。 三、目標を目ざして一心に走ること キリスト者にとって「神の栄冠」や「義の栄冠」を得ることは、最終的な目標ですが、それは、現在においては目に見えないものですから、その目標を達成するために、目に見える具体的な目標というものが必要です。 パウロの最終的な目標は、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得る」ことでした。しかしそのためにパウロは、「キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝え」(ローマ15章20節)、「神のご計画の全体を、余すところなく……知らせ」(使徒20章27節)、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げ」る(エペソ4章12節)という3つの目標を目ざして、一心に走りました。これは、私たちの目標ではないでしょうか。 1.私たちは、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えているでしょうか。 それはまだ福音を聞いていない遠い外国の人たちだけではありません。日本の、いや私たちのすぐ近くにいる家族や友人や知人の中に福音に耳を傾けようとしない人たちがいないでしょうか。私たちをあざけり、ののしり、私たちに反抗する人たち、私たちとうまが合わず、接することが難しく、私たちの嫌いな人たちの中にまだ福音を聞いていない人たちがいないでしょうか。福音は、貴賎上下の別なく、人種の差別なく、あらゆる階層のすべての人に宣べ伝えなければなりません。 2.私たちは、神のご計画の全体、すなわち聖書全体を隅から隅まで語っているでしょうか。 自分の好きな聖句や得意な聖書の箇所だけを話したり、人の嫌がる罪や神のさばきのことなどを語ることを避けたりしていないでしょうか。「健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらう」ことを願う人たち(第二テモテ4章3節)の誘惑に決して負けてはならないのです。 3.私たちは、どれだけ「自分自身と群れの全体とに気を配」っているでしょうか。 パウロは、自分が出発した後、狂暴な狼が群れを荒らし回ったり、いろいろな曲がったことを語ったりする人が起こることを知っていました(使徒20章28~30節)。教会は、改革しなければ、マンネリ化し、形式的になり、沈滞を招くだけでなく、曲がった方向に行く危険性があります。2000年に亙る教会の歴史には数多くの宗教改革がありました。私たちは、自分が属する教会と群れの建て上げのために、私たちに従ったり、賛成したりする人たちだけでなく、私たちに反対したり、改革したりする人たちの意見や考えに耳を傾け、常に軌道修正していかなければなりません。 神は、私たちがこのような目標を目ざして一心に走ることを求めておられるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.01.23
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「目標を目ざして(1)」 2021年1月17日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年1月20日「平安と将来と希望を与える神の計画(1)」「目標を目ざして(1)」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、3章13、14節 「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ人への手紙、3章13、14節)。 冒頭の聖句には、私たちが前進し、成長するための三つの秘訣が記されています。 一、うしろのものを忘れること 「うしろのもの」とは、過去のことではありません。ダビデは、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103篇2節)と記し、モーセは、「主が贖い出されたこと」と、民がどんなに「主を怒らせたかを覚えていなさい」と述べ(申命記1515節、9章7節)、パウロも、「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも……あわれみを受けたのです」と告白しています(第一テモテ1章13節)。 詩篇103篇1~2節と20~22節には、自分のたましいとほかの人たちに神への賛美を呼びかけていることが記されていますが、3~19節には、ただ神のなされたみわざと、その恵みが書かれているだけで、人間のわざや働きについては何も記されていません。 文化や文明と呼ばれるものは、進歩や向上を図る人間の営みであり、それは人間の偉大さや、その人間が行った偉大なわざを称賛するものです。確かに文化や文明は、人間の世界を向上させましたが、その反面、あらゆる罪悪の満ちている暗黒の社会をもたらしたことも否定することができない事実です。 これに対して聖書が教えている真の宗教は、その暗黒の社会をもたらした罪悪から人を救うとともに、私たちを罪から救ってくださった神の偉大さと、その神のなされた偉大な恵みのわざを賛美するものです。 私たちは、これまで数え切れないほど多くの神の栄光を現す良いわざを行ってきましたが、それとともに神を悲しませる多くの過ちと失敗を繰り返してきました。良い行いは、神にゆだねて、神に栄光を帰し、悪い行為は、悔い改めて赦され、そこから教訓を学んだなら、神にゆだねて忘れなければなりません。 しかし私たちが神のなされたみわざとその恵みを忘れて、人間のわざや自分の働きに固執し、それを誇示するなら、神に栄光を帰さない不敬虔の罪に陥るだけでなく、良い結果の時は、高ぶって人を見下げ、悪い結果の時は、卑屈になって神と人を恨むようになるのではないでしょうか。 私たちは、キリストの贖いを信じなければ、人間のわざや自分の働きは-それが善であっても悪であっても決して忘れることができず-私たちの足を引っ張り、私たちが前進したり、成長したりするのを妨げます。「うしろのもの」とは、過去のことではなく、私たちの前進や成長を妨げる、いわば私たちをうしろに引っ張るもの、すなわち神の恵みのみわざを忘れて誇ったり、卑屈になったりする「自分のわざや働き」のことです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2021.01.16
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「神の働きと人の働き」 2021年1月10日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年5月23日放映「イエスを仰ぎ見なさい(2)」「神の働きと人の働き」 甲斐慎一郎 コロサイ人への手紙、1章1~29節 「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」(コロサイ1章29節)。 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2章13節)。 この二つのみことばのそれぞれの前半には神の働きについて、後半には人の働きについて記されています。そこで神の働きと人の働きについて聖書から学んでみましょう。 一、神の働きについて これに関しては、次のような3つにわけて考えるのが分かりやすいでしょう。 1.神の働きの範囲――すべて 万物を創造し(使徒17章24節)、万物を保っておられる(ヘブル1章3節)神は、(1)すべての自然の法則の中に働いておられる(2)すべての人類の歴史の中に働いておられる(3)すべての人々の心の中に働いておられるということができます。 2.神の働きの期間――常に 聖書は、「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩篇121篇4節)、また「わたしの父は今に至るまで働いておられます」(ヨハネ5章17節)と教えています。 3.神の働きの程度――完全 聖書は、「主のみわざは完全」(申命記32章4節)、「神、その道は完全」(詩篇18篇30節)、「天の父が完全」(マタイ5章48節)であると教えています。しかし、私たちの目に主のみわざが不完全に見えるなら、その原因は私たちの心にあります。なぜなら神は、「全き者には、全くあられ……曲がった者には、ねじ曲げる方」(詩篇18篇25、26節)であるからです。 二、人の働きについて これに関しても、次のような3つにわけて考えるのが分かりやすいでしょう。 1.人の働きの範囲――ごく一部分 みなで力を合わせるなら、大きな働きをすることができますが、ひとりひとりの働きは極めて小さなものです。特に心に関しては、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行って」(ローマ7章19節)しまうほど無力なのです。 2.人の働きの期間――短期間 次の世代の人が受け継ぐなら、長期間、働きを継続することができますが、ひとりひとりの働きは極めて短く、また休みを必要とするだけでなく、未完成のままで終わってしまうことが多いものです。 3.人の働きの程度――不完全 人の働きには、失敗や欠陥、また誤りや間違いが付きものであり、不完全極まりないものです。 三、働きについての教訓 このようなことから働きに関して次のようなことを学ぶことかできます。 1.人が働くことができるのは、神が働いてくださるからです。 まず最初に神が働いてくださらなければ、私たちは何もできません。しかし神は、常に私たちのうちに働いてくださるのであり、人の働きというものは、この神の働きに対する応答なのです。 2.人が休むことができるのも、神が働いてくださるからです。 神は、私たちを守るために休むことなく絶えず働いてくださるので、私たちは安心して休むことができるのです(詩篇121篇4節、127篇2節)。 3.人が罪から救われて、良い行いをすることができるのも、神が働いてくださるからです 神は、私たちを罪から救うために、キリストの十字架による贖いのわざを成し遂げてくださったのであり、私たちは、行いや働きによらず、ただキリストの贖いのわざを信じることによって罪から救われるだけでなく、良い行いをすることができるのです(ローマ2章22~25節、エペソ2章8~10節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.01.09
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「新しい年を迎えて」 2021年1月3日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年5月14日放映「イエスを仰ぎ見なさい(1)」 「新しい年を迎えて」 甲斐慎一郎 ヨシュア記3章1~4節 私たちが新しい年の初めに当たり、その出発点に立って、これから進もうとしている道について考えることは、何よりも大切なことです。私たちの前には、どのような道があるのでしょうか。 一、私たちが通ったことのない道 この個所において、つかさたちは「あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ」(4節)と言いましたが、「この道」というのは、直接的にはヨルダン川を渡る道のことを指していました。しかしこのことはイスラエルの人々が、これから行くすべての道についても同じように言えることです。 私たちがこれから歩もうとしている人生の道も、同じように私たちが通ったことのない道です。このことはキリスト者も世の人々も同じです。しかしキリスト者は、途中の道は分からなくても、出発点と目標点は、はっきりと分かっているということです。 イスラエルの人々はエジプトの国を出て、カナンの地に向かいましたが、キリスト者は罪の生涯を出て、天の御国に向かっているのです(ピリピ3章20節)。 ですから私たちは、一度も通ったことのない人生の道を進むために、次のような3つのことを心がけていなければなりません。 1.出発点である罪からの救いを明確にする。2.目標点である天の御国に向かう自覚を持つ。3.途中の道については信仰によって歩む。 二、キリストが通られた道 しかし私たちが通ったことのないこの道を、すでに通られた方がおられます。それはイエス・キリストです。キリストは、苦しみも弱さも涙も経験されたのであり(ヘブル4章18節、15節、5章7節)、「すべての点で、私たちと同じ」でした。人としてのキリストと私たちの違いは、ただ一つ「罪は犯され」なかったことだけです(同4章15節)。 しかしキリストは無実の罪を着せられ、私たちの罪を自分の身に負われました。これは誰も経験したことがない想像を絶する苦しみでした(マタイ27章46節)。このようにしてキリストは、私たちのために「苦しみを受け、その足跡に従うようにと」、私たちに「模範を残され」たのです(第一ペテロ2章21節)。 よく言われるように私たちが行く道のすべてにキリストが立っておられます。キリストは、私たちのために先にそこを通られ、「道を踏み固め、平らにしてくださったのです」(S・D・ゴードン)。 誰も通ったことがなく、踏み固められていないものは道ではありません。キリストは、ご自身のことを「道」であると言われました(ヨハネ14章6節)。これは、キリストが私たちのために神に至る道となってくださったという意味だけでなく、私たちのためにすべてのことを経験して、私たちが通りやすいように踏み固めてくださったという意味においても道なのです。 三、キリスト者が通るべき道 パウロは、晩年に「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と告白しています(第二テモテ4章7節)。 1.勇敢に戦う生涯――私たちは、どんなに小さな良いことでも勇敢に戦って獲得しなければ、真に自分の身につきません。 2.走るべき道のりを走り終える生涯――私たちは、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」、身軽になり、「忍耐をもって走り続け」なければなりません(ヘブル12章1節)。しかもコースを間違えずに、また完走するためには、途中で脱落しないように節制と計画性が必要です。 3.信仰を守り通す生涯――主は、私たちのためにいのちを捨ててくださいました。ですから私たちは、どんなことがあっても信仰を守り通さなければならないのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.01.02
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「神の恵みと人のわざ」 2020年12月27日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年7月8日放映「人類の古い始祖と新しい始祖」「神の恵みと人のわざ」 甲斐慎一郎 詩篇103篇1~22節 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(2節)。 私たちは、一年を終える時、今までのことを回顧します。しかしその過去の出来事の中に何を見、何に心を留めるかによって、それは私たちの信仰の成長にとってプラスにもマイナスにもなるのです。 一、人のわざに目と心を留める この103篇は、1~2節と20~22節において自分のたましいとほかの人たちに神への賛美を呼びかけています。その中間の3~19節には、ただ神のなされたみわざと、その恵みが記されているだけで、人のわざや働きについては何も記されていません。 文化や文明と呼ばれるものは、進歩や向上を図る人間の営みであり、それは人間の偉大さや、その人間が行った偉大なわざを称賛するものです。確かに文化や文明は、人間の世界を向上させましたが、その反面、あらゆる罪悪の満ちている暗黒の社会をもたらしたことも否定することができない事実です。 これに対して真の宗教は、その暗黒の社会をもたらした罪悪から人を救うとともに、その救いを与えてくださった神の偉大さと、その神のなされた偉大な恵みのわざを賛美するものです。 聖書は、人間は生まれながらの罪人であると教えています(エペソ2章3節)。人は、神を全く恐れない不敬虔な者であり(ローマ3章18節)、「高ぶる者」、「ねたみ……でいっぱいになった者」です(ローマ1章30、29節)。この「不敬虔」と「高ぶり」と「ねたみ」こそ人間の代表的な罪です。 私たちが神のなされたみわざとその恵みを忘れて、人間のわざや自分の働きに固執して、それを誇示するなら、私たちの心は、このような罪に満ちてしまうのです。 聖書は、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです」と教えています(ヤコブ1章17節)。 ですから自分のわざや働きにおいて、良いわざは、神にゆだねて、神に栄光を帰し、悪い行為は、悔い改めて反省し、そこから教訓を学んだならば、やはり神にゆだねなければなりません。このようにする時、私たちは、神と人の前において成長していくことができるのです。 しかしもし私たちが、自分のわざや働きに固執し、それを誇示するなら、神に栄光を帰さない不敬虔の罪に陥るだけでなく、良い結果の時は、有頂天になって人を見下げ、悪い結果の時は、失望落胆して神と人を恨むようになるでしょう。 どちらにしても神のなされた恵みのみわざを忘れて、人間のわざや自分の働きに固執し、それを誇示するなら、感謝の心を持つことができず、あらゆる罪に陥ってしまうのです。「神の啓示と人の探求」をご覧ください。 二、神の恵みに目と心を留める しかし私たちが人間のわざや自分の働きを忘れ、神の恵みのみわざを見るなら、事態は全く一変し、「不敬虔」と「高ぶり」と「ねたみ」とは全く反対のものが与えられます。 ▼「敬虔さ」が与えられます。神の恵みを忘れず、それに心を留めることは、神に栄光を帰することであり、神を恐れ、敬うことです。「主を恐れる者」(11、13、17節)とは、神の恵みを忘れず、神を敬う者であることは言うまでもありません。 ▼「謙虚さ」が与えられます。人は、神の恵みのみわざに心を留める時、自分のわざや働きの小ささと卑しさを知り、「私たちがちりにすぎないこと」(14節)を悟るのです。 ▼「愛」が与えられます。私たちは、「あわれみ深く、情け深い」主、また「怒るのにおそく、恵み豊かである」神(8節)に心を留める時にのみ、その神の愛に応えて、愛が与えられるのです。 私たちは、大晦日に、救いを与えてくださった神と、その神の恵みのみわざを心から賛美して1年を締め括ろうではありませんか。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.12.26
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「降誕の意義(3)救い主の誕生」2020年12月20日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年12月7日放映「神の思いと人の思い(3)」 「降誕の意義(3)救い主の誕生」 甲斐慎一郎 ルカの福音書2章1~7節 歴史家であるとともに医者でもあるルカは、イエスの誕生の時と場所を歴史的また地理的な角度から興味深く記しています。 ◆誕生の時……クレニオがシリヤの総督であった時の最初の住民登録で、ヨセフとマリヤが登録のためにナザレから旅をして、ベツレヘムに着いた時。 ◆誕生の場所……ベツレヘムの馬小屋。 時間と空間を超越した永遠と遍在の神が、このように限られた時と場所という枠の中にはいって来られたのがイエスの誕生です。ですから時と場所に拘束されている人間の目には、誠に不思議な出来事に見えるのです。 一、時間と空間を支配しておられる神 イエスがユダヤのベツレヘムでお生まれになることは、当時から数えて約700年も前にミカによって預言されていました(ミカ5章2節)。しかし聖霊によって身重になったマリヤは、ナザレにいました(1章26節)。どうして、ベツレヘムでイエスを産むことができるでしょうか。 その頃、「全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出」ました(1節)。しかしこの勅令がローマから出て、ヨセフとマリヤの住んでいるナザレに届き、さらに彼らが旅をしてベツレヘムに着くまで、途中の様々な道程を計算して考えると、早すぎても遅すぎても、マリヤはベツレヘムでイエスを産むことはできなかったにちがいありません。 このようなことを少しも狂うことなく、ぴったりと一致させることができるのは、ただ時間と空間を支配しておられる全知全能の神のみです。 二、時間と空間の中にはいられたキリスト 人にはすべて、生まれた時と生まれた場所というものがあります。これは神によって造られた被造物の宿命です。そのために人間は、その生まれた時(または時代)と、その生まれた場所(または環境)という枠に拘束されて、その枠の中でしか生きられません。 すべての人は、この世から生まれ、歴史の中から出て来た者です。人間は、限られた時間(時代)と、限られた空間(場所)の中から出て来た者であるということができます。 これに対してキリストは、「この世へと降誕された。この世から生まれたのではない。彼は、歴史の中から出て来たのではなく、外側から歴史の中へはいられた」のです(オズワルド・チェンバーズ)。無限の神が、限られた時間と空間の中にはいって来られたとは、何と驚くべきことでしょうか。 そしてこのようなことを可能にする唯一の方法が、処女マリヤの胎を借りて誕生される処女降誕なのです。 三、時間と空間を越えて臨まれるキリスト 使徒パウロは、「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで」と述べており(ガラテヤ4章19節)、また「キリストが……信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」と祈っています(エペソ3章17節)。 神であるキリストが時間と空間の中にはいられたのは、人となり、十字架の上で罪の贖いを成し遂げるためであり、それが完成すれば時代と場所に拘束されることなく、時間と空間を超越して、罪の贖いを信じるすべての人々の心の中に臨むことができます。「神の謙遜と人の謙遜」をクリックしてください。 これが「その名を信じた……人々は……神によって生まれたのである」ということの意味です(ヨハネ1章12、13節)。このような人は、肉体的には時代と場所に拘束されていますが、霊的には時間と空間を超越して神とともに生きることができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.12.19
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「降誕の意義(2)神の啓示」 2020年12月13日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年11月23日放映「神の思いと人の思い(2)」 「降誕の意義(2)神の啓示」 甲斐慎一郎 ヘブル1章1~3節 「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」(1、2節)。 一、神がご自身を人に啓示される方法 「啓示」という言葉は、「おおいを取る」とか「ベールをはぐ」という意味があります。それは、人間の理性や人の探求ではわからない神と神に関する真理を、神のほうからおおいを取って、私たちに教え示すことです。1.世界の被造物を通して(ローマ1章20節)2.預言者の声を通して(ヘブル1章1節)3.聖書の言葉を通して(イザヤ34章16節)4.御子の受肉を通して(ヨハネ1章14節)5.聖霊の内住を通して(同14章17節) 被造物は、言葉もなく、その声も聞かれないため(詩篇19篇3節)、預言者の声が響き渡り、聖書の言葉が書き記され、さらに神の言葉が受肉したキリストが降誕し、そのキリストの贖いによって聖霊が降臨し、信じる者に聖霊が内住されます。これが、神がご自身を人に啓示される五つの段階です。 二、聖書に啓示されたキリストの御姿 キリストの御姿を聖書の啓示に従って順序通りに記すなら、次のような五つになります。 1.先在のキリスト――旧約聖書が教えているキリストの御姿で(箴言8章22~31節)、初めからおられた方です(過去の姿)。 2.地上のキリスト――四つの福音書が教えているキリストの御姿です(過去の姿)。 3.天上のキリスト――使徒の働きと21の手紙が教えているキリストの御姿(ローマ8章34節)です(現在の姿)。 4.内住のキリスト――使徒の働きと21の手紙が教えているキリストの御姿(コロサイ1章27節)です(現在の姿)。 5.永遠のキリスト――黙示録が教えているキリストの御姿です(未来の姿)。 三、神の御子キリストの降誕 神がご自身を人に啓示される五つの段階と、啓示された五つのキリストの御姿の中で要となるものは何でしょうか。 神の啓示について述べるなら、最も確実な方法は、第五番目の聖霊の内住によって神の「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ことです(ヘブル8章10節)。しかしこれはキリストが降誕し、十字架の死と復活によって贖いのわざを成し遂げてくださらなければ、不可能なことです。 またキリストの御姿について述べるなら、もしキリストが降誕されなかったなら、私たちのために執り成してくださる天上のキリストも、私たちの中に住んでくださる内住のキリストも、おられないことになるでしょう。このようにそれぞれの中で要となるものは、キリストの降誕です。「聖なる神に近づく道」をクリックしてください。 四、神の啓示に対する私たちの応答 「神は……語られました」という驚くべき神の啓示を受けた人間のなすべきことは何でしょうか。それは、ただ一つ、真剣に神の言葉に耳を傾けて、それに聞き従うことです。私たちが神の語られることに耳を傾けなければならない理由は、次の三つです。1.頭脳的に理解するため――目が開かれる2.霊的に体験するため――口が開かれる3.肉体的に実践するため――手足を動かす 幼児という者は、何もわからないようでも正常な能力があるなら、大人の話を聞き続けているうちに、それを理解するようになり、次に語れるようになり、ついには大人の語る通りに行動するようになるものです。 信仰の世界も同じことを言うことができます。私たちは、聖書という神の言葉を聞き続けているなら、次第にそれを理解することができるようになって目が開かれ、次に信じて心の体験となり(ローマ10章17節)、口から信仰告白と祈り、感謝と賛美、証しの言葉が出るようになり(第二コリント4章13節)、ついには手足を動かして神のみこころを実践することができるようになるのです(ヤコブ1章25節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.12.12
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「降誕の意義(1)人間の尊さ」 2020年12月6日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年11月5日放映「神の思いと人の思い(1)」 「降誕の意義(1)人間の尊さ」 甲斐慎一郎 ヘブル二章5~18節 ヘブル人への手紙の1章には、天使に勝る真の神であるキリストについて、2章には、そのキリストが天使よりも低い人となられたことについて記されています(7、9節)。 天地万物を造られた真の神のひとり子イエス・キリストが、人類の罪を贖うために人間となられた、しかも幼子として生まれてくださったクリスマス! 降誕の意義の第1回目は、人間の尊さについて学んでみたいと思います。 一、キリストの受肉は私たちに人間の尊さを教えています(5~10節) 聖書は、人間はみな罪人であると教えています。これは、私たち人類の代表である「最初の人アダム」(第一コリント15章45節)が神に背いて罪を犯したため、その罪が全人類に及んだからです(ローマ5章12、14節)。 ですから私たちは、この罪から救われるためには、「最初の人アダム」の支配から脱して罪を持たない新しい人類の代表者の支配下に入れられることが必要です。 しかし罪のない人間はいないので、神の御子キリストが人とならなければなりませんでした。すなわちキリストは、「地から出て、土で造られた者」である「最初の人アダム」に代わり、「天から出た者」である「最後のアダム」として、新しい人類の代表者となられました(第一コリント15章45~47節)。 このことを正しく理解し、知るために以下のファイルをクリックしてください。 「人類の古い始祖と新しい始祖」 「時空を超越した神の救い」 神は、人間を罪から救うために御子を人とされました。神は、これほどまで人を尊くみておられるのです。しかし人間は、その尊さだけを教えられるならば、誇り高ぶる危険性があります。それで、謙遜の模範者として、最も低い所まで降りてこられたキリストを仰ぎ見なければなりません(9、10節、ピリピ2章6~8節)。 実にキリストの受肉は、人間は神の目には「高価で尊い」ことですが(イザヤ43章4節)、尊大に構えず、謙虚にならなければならないことを私たちに教えているのです。 二、キリストの誕生は私たちに生命の尊さを教えています(11~15節) 「一生涯死の恐怖につながれて奴隷になっていた人々」とは(15節)、罪の奴隷となっている人間にほかなりません(ヨハネ8章34節、ローマ6章16節)。 神の義は、罪人を罰することを要求しますが、神の愛は、罪人を赦し、救うことを願っています。この神の義と、神の愛の両方を満足させるためには、罪のない人間が贖いとなるいけにえが必要です。 しかし罪のない人間は、どこにもいないので、神の御子イエス・キリストが人となられました。神は、人間を罪から救うために御子を人とし、その生命を犠牲にされました。罪とは、これほど恐ろしいものです。しかしまたすべての人の生命は、「キリストが代わりに死んでくださったほど」(ローマ14章15節)尊いものです。 実にキリストの誕生は、人間の生命の尊さを私たちに教えているのです。 三、キリストの生涯は私たちに人生の尊さを教えています(16~18節) 人間は、肉体を持っているために独特の不自由さや不便さだけでなく、様々な弱さや悩み、また痛みや苦しみや悲しみ、さらに誘惑や試練があります。そのためにからだを持っている間は、正しく聖い生活を送ることなど到底不可能で、罪を犯すことはやむを得ないと考えている人がいます。 神は、私たちが肉体を持っていても、罪を犯さない聖い生涯を送ることができるように、御子にも血と肉を持つ生活を送らせ、罪は犯されませんでしたが、すべてのことを体験させただけでなく、私たちの罪を彼に負わせて罪の贖いを成し遂げさせました。神は、私たちが肉体を持っていても、罪を犯さない聖い生涯を送ることができるように、御子にも人としての生活を送らせたのです。 実にキリストの生涯は、人生は決して罪を犯してはならない尊いものであることを私たちに教えているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.12.05
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「みことばの働き(4) みことばの光」 2020年11月29日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年5月19日放映「初めに光があれ」「みことばの働き(4) みことばの光」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙5章8~14節 最後にみことばの光について学んでみましょう。 人間というものは、まず生命(種)が与えられ、次に食物(糧)をとらなければなりませんが、これだけでは不十分であり、さらに教育や文化など、人間として向上していくために知識や知恵が必要です。この知識や知恵に相当するものが光です。 一、光自体の働きについて 光には様々な働きがありますが、特に大切なのは、次の3つです。 1.照明する働き 「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます」(13節)とあるように、すべてのものを照らして明らかにする働きです。私たちは、みことばの光によって神ご自身と自らの罪深い姿と十字架の救いを知ることができます。 2.結実する働き 「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」(9節)とあるように、良い実を結ばせる働きです。適度な暖かい光は、神の恵みの象徴であり、私たちの信仰を成長させます。 3.焼却する働き 「来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます」(第二テサロニケ2章8節)とあるように、強い光は焼き尽くす火の働きがあります。これは光の中を歩むキリスト者の罪を焼き尽くすものですが、同時に罪を悔い改めない罪人を焼き滅ぼすものです。 聖書は、みことばが光であるだけでなく、三位一体の神、すなわち「神とキリストと聖霊」が光であることを教えています(第一ヨハネ1章5節、ヨハネ1章9節、16章13節)。 二、光を生かす働きについて この神とみことばの光を十分に生かすためには、次のような3つのことが必要です。 1.光のほうに出てくること(ヨハネ3章20、21節)。 私たちは、みことばと聖霊の光によって自らの罪深い姿を示されたなら、逃避せずに罪を悔い改めてキリストの十字架を信じなければなりません。これが光のほうに出て来ることであり、そうしなければ暗黒と罪の中に止まることになるのです。 2.光の中を歩むこと(第一ヨハネ1章7節)。 光のほうに出て来て光の子どもとなった私たちは、事ごとにみことばと聖霊の光によって教えられたり、示されたりしたことを直ちに実践しなければなりません。これが光の中を歩むことです。 3.光を輝かすこと(マタイ5章16節)。 そして私たちが光の中を歩んで奉仕や善行に励むなら、神の光を反射して、ほかの人々が神を知って救われ、神の栄光が現れるようになります。これが光を輝かすことです。 三、光による働きについて それでは、人が光のほうに出て来ないなら、光は何にもならないのでしょうか。決してそうではありません。神は、光によって次のような働きをされるのです。 1.知識を与える 光は私たちの心の眼を開けて、見えるようにさせます。この「見える」というのは、「分かる」ということであり、「分かる」というのは、「区別する」ことができるということです。この区別することができるということこそ知識です。 2.知恵を与える そして光は、私たちに知識を与えるだけでなく、その理解したことを実行に移す知恵をも与えてくれるのです。 3.啓示を与える しかし最も大切なことは、これらのことが単なる人間的な知識や知恵ではなく、神からの啓示であるということを悟らせるのが光の働きです。みことばと聖霊の光は、「御子を私のうちに啓示」することができるのです(ガラテヤ1章16節)。 私たちは、光というものをこのようにとらえているでしょうか。「光」については、上段のインターネットのテレビ局CGNTVの「初めに光があれ」をクリックしてご覧ください。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.11.28
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「みことばの働き(3) みことばの糧」 2020年11月22日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年1月20日「平安と将来と希望を与える神の計画(1)」 「みことばの働き(3) みことばの糧」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙5章11~14節 第三にみことばの糧について学んでみましょう。 一、糧自体の働きについて みことばが糧であるとは、どのようなことを教えているのでしょうか。 糧は、いのちを存続させるものであり、いのちは、ただ糧によってのみ存続することができます。創世記の2章と3章には「食べる」または「食(糧)を得」ということばが、実に22回も記されています。聖書は、人類が堕落したのは、食べてはならないと神に命じられていた「善悪の知識の木」の実を取って食べたからであると教えています。 すべての人に罪をもたらした恐ろしい人類の堕落が、食べてはならないものを食べたことによって起きたとは、何と驚くべきことでしょうか。食べるというのは、そんなに重要なことなのでしょうか。そもそも食べるとは、何を意味しているのでしょうか。 キリストは、「わたしを信じている者は永遠のいのちを持ちます」(ヨハネ6章47節、異本の訳)と言われましたが、また「このパン(キリスト)を食べる者は永遠に生きます」(同6章58節)とも言われました。この二つのことばから、「食べる」とは「信じる」ことを意味していることがわかります。 そして聖書は「食べ……生きないように」(創世記3章22節)と記していますが、あるものを「食べる」とは、それを「信じて、それによって生きる」ということを意味しています。ですからアダムとエバが禁断の木の実を「取って食べた」とは、神のことばではなく、悪魔のことばを信じて、そのことばによって生きたということを教えているのです。 私たちは、一体何を食べて(信じて)生きている者でしょうか。 二、糧になる働きについて 聖書は、人間の心を土にたとえているだけでなく、からだの消化器官にたとえて教えています。すばらしい神のことばという糧も、心の消化器官が悪ければ、十分な栄養にならないからです。からだの消化器官は、次のような3つの働きをしています。 1.消化・吸収の働き――これは、神のことばをよく反芻し、思い巡らすことにたとえることができます(詩篇1篇2節)。 2.解毒・殺菌の働き――これは、「神のことばを曲げず」(第二コリント4章2節)、また「神のことばに混ぜ物」(同2章17節)があれば取り除くことにたとえることができます。 3.代謝・排泄の働き――これは、絶えず新しくみことばに教えられて、あかしをし、「内なる人」が「日々新たにされてい」くことにたとえることができます(第二コリント4章16節)。 私たちは、神のことばを心の消化器官の働きをするものとして信じているでしょうか。 三、糧による働きについて それでは、心の消化器官が弱い時は、どうすればよいのでしょうか。それは、神のことばを糧、すなわち「堅い食物」(14節)として食べるのではなく、「神のことばの初歩」すなわち「乳」(12節)として飲むことです。みことばの乳は、私たちの心の消化器官を強くし、ついには堅い食物も食べられるようにしてくれるのです。乳または糧の3つの栄養素は、次のような働きをします。◇炭水化物――からだを動かす熱量の働きをします。◇蛋白質――からだを丈夫につくる働きをします。◇ビタミン・ミネラル――からだの調子を整える働きをします。 私たちは、神のことばを炭水化物のような心の力や熱量として、またビタミン・ミネラルのような心の恵みや潤いとしてだけでなく、蛋白質のように私たちの心と信仰自体を丈夫にする神学や教理として食べなければ、心の消化器官を強くすることはできないのです。 私たちは、神のことばをこのような3つの栄養素として食しているでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.11.21
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「みことばの働き(2) みことばの種」2020年11月15日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年1月9日放映「新しい事をされる神」「みことばの働き(2) みことばの種」 甲斐慎一郎 マルコの福音書4章1~34節 次にみことばの種について学んでみましょう。 一、種自体の働きについて みことばが種であるとは、どのようなことを教えているのでしょうか。 種は、動植物が発生するもとであり、生命の最小単位です。すべての動植物は、種から生まれるということができます。この種は、良い土の中に埋められるなら、「芽を出して育ち」(27節)、また「実をならせるもの」です(28節)。このことから種の働きには、3つのものがあることがわかるでしょう。1.種には、生命の力があります。2.種には、育成の力があります。3.種には、結実の力があります。 詠み人知らずの作者が信念と行動と性格と運命の密接な関連を適切に表現しています。 「思いを蒔けば、行為を刈り取る。 行為を蒔けば、習慣を刈り取る。 習慣を蒔けば、性格を刈り取る。 性格を蒔けば、運命を刈り取る」 心にとって最も大切なものは、ことばです。ことばは、人間の心の生命です。もしことばがなかったら、何も考えることはできず、その結果、正しく意志を働かせることもできないでしょう。ことばは、私たちの心という土の中にはいると、思考や連想や想像によって、私たちの心の中で生育し、会話や品性や行動という実を結ぶようになるのです。 ペテロは、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです」と述べています(第一ペテロ1章23節)。神のことばは、罪のために死んでいる私たちの心を生かす生命の種です。この神のことばは、私たちの心の中で生育し、会話と品性と行動において、神に喜ばれる実を結ばせるのです。 二、種を育てる働きについて この種蒔きのたとえ話において、主イエスは、私たちに4種類の土、すなわち心について教えておられます。 1.道ばたの土――これは、自らを守らず、世の様々な罪と悪の感化によって踏み固められた心です。しかしこれでは、種が育たず、しかも悪魔という鳥が来て食べてしまいます。 2.岩地の土――これは、「みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる」感情的な信仰心、「根がない」根拠を持たない信仰心、そして「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしま」うという御利益信仰心を表しています(16、17節)。 3.いばらのある土――これは、罪を悔い改めず、「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望」という「いばら」を取り除かないで信じようとする心です(19節)。 4.良い地――これは、思慮深く、いばらを取り除いて、よく耕された心のことです。 私たちは、種が良く育つように、4番目のような良い地にすることが必要です。 三、種による働きについて このような4種類の心は、みことばの種が蒔かれた後も、宿命として定まっているのでしょうか。決してそうではありません。「なぜなら、みことばの種は、普通の種とは違って、反対に土を良くすることができるからです」(R・C・トレンチ)。すなわち私たちは、みことばという種の働きによって、道ばたの堅い土も柔らかくされ、岩地も深い土とされ、いばらも取り除かれるのです。 そのためには、どうすればよいでしょうか。それは、みことばを良く聞くことです(3、9、23、24節)。聞くことは、見ることよりも、はるかに重要です。なぜなら私たちは、聞く時にのみ、ことばが心に深くはいって心が変わりますが、私たちが何かを見ても、その見たことが私たちの心に何かを語りかけない限り、それは意味がなく、心は変わらないからです。「信仰は、聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」とある通りです(ローマ10章17節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.11.14
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「みことばの働き(1)みことばへの責任」2020年11月8日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年11月25日放映「聖書に親しむ」 聖書に親しむ「みことばの働き(1)みことばへの責任」 甲斐慎一郎 使徒の働き17章10~15節 「旧新約聖書のみことばは、キリスト教の信仰と実践の唯一で、十分な最高の規準である」と言われています。これは、長いキリスト教会の歴史のなかにおいて最も大切なことであり、もしこの聖書の権威が失われるなら、キリスト教とキリスト者は、そのいのちを失ってしまうでしょう。 私たちの信仰のいのちとも言える神のことばは、どのような働きをするのでしょうか。1.みことばの働き(1)――みことばへの責任2.みことばの働き(2)――みことばの種3.みことばの働き(3)――みことばの糧4.みことばの働き(4)――みことばの光 まずみことばへの責任について学んでみましょう。 一、みことばへの3つの責任 「ヤコブの手紙」の1章21節と22節には、みことばに関して3つの動詞が記されています。すなわち,「聞く」と「受け入れる」と「実行する」です。これは、みことばへの3つの責任を教えています。 1.みことばを聞く責任 これは、単に耳で聞くことではなく、心で聞くこと、すなわち私たちの心に語りかける神の声を聞くことです。私たちが聖書を読み、また集会に出席しなければならない理由の一つは、これです。 2.みことばを信じる責任 私たちがみことばを聞くのは、それを信じて、罪をはじめ様々な問題から救われるためです。 3.みことばを行う責任 しかし私たちがみことばを信じるのは、みことばに仕えたり、みことばを宣べ伝えたりすることによって、神のみこころを行うためです。 そして私たちが永遠に救われるか滅びるかは、この神のことばを、ほんとうに聞いているかどうか、ほんとうに信じているかどうか、ほんとうに行っているかどうかによって決まるのです。 二、みことばを信じるための助け ベレヤのユダヤ人は、「みことばを聞き……聖書を調べ……そのため……信仰にはいった」(11節)と聖書は記しています。このことから、みことばを聞くだけでなく、聖書をよく調べて学ぶなら、それだけ信じやすいことがわかるでしょう。私たちを真の信仰に導く正しい聖書の読み方は、次のような3つのことです。 1.観察――まず何が記されているかという聖書の内容を正確に観察し、把握することです。 2.解釈――次に聖書の真の解釈者である聖霊によって、聖書の中心であるキリストに導かれるような説き明かしをすることです。 3.適用――最後に説き明かされたみことばを私たちに当てはめ、自分のものとすることです。 三、みことばを行うための助け パウロがエペソの教会の長老たちに語った訣別の説教のなかに、「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人人のなかにあって御国を継がせることができるのです」というくだりがあります(使徒20章32節)。みことばが私たちを育成し、御国を継がせるとは、何とすばらしいことでしょうか。 私たちがみことばを信じるだけでなく、そのみことばが私たちを育成するなら、それだけみことばを実行しやすくなるのではないでしょうか。私たちは、みことばを実行するために、みことばに育成されることが必要です。そのためには、みことばがどのような働きをするかを知らなければなりません。聖書は、みことばの働きについて、次のような3つのことを教えています。2.種としての働き――神による霊的ないのち3.糧としての働き――神による霊的な栄養4.光としての働き――神による霊的な知恵 次回から3回に分けて学びます。 甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.11.07
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「聖書の中の科学(3)」 2020年10月31日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年11月14日放映「主のことばを聞く」「聖書の中の科学(3)」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録11章3~9節 五、イエーメンのユダヤ人の物語 江戸時代に薩摩藩の西郷隆盛は、江戸から薩摩まで行くのに50日かかったということですが、約1,500キロメートルの道のりを50日かけなければ、薩摩の人と話すことはできませんでした。現在、東京―鹿児島間は、新幹線で6時間30分で結ばれ、飛行機に乗れば、1時間50分で着きます。もし西郷隆盛が、羽田空港で鹿児島空港行きの飛行機を見て、1時間50分で、鹿児島に着くと聞いたなら、腰を抜かすほど驚き、そんなことはあり得ないと言い、飛行機に乗るように言われても、恐ろしくて乗れなかったでしょう。 ところが今から70年ほど前に飛行機があることさえ知らず、また見たこともない人たちが、聖書の言葉を信じて、少しも驚かずに飛行機に乗った出来事が起こりました。 「イエーメンのユダヤ人の物語がある。彼らは、その地に移って2,000年近くたち、その間、外部の文明世界からは隔絶された状態にあった。ある日のこと、文字通り風の便りに、神はその約束を果たされ、パレスチナの地に白分たちの祖国が建てられたと聞いた。――1,948年のことである。――その瞬間、43,000人のユダヤ人が(特別の事情のある1,000人を除いて)、すべてを捨てて歩き出した。どこへ。もちろん祖国へである。彼らは全員、女も子供も、岩山を越え、砂漠を過ぎ、まずアデン目がけて歩き出した。イスラエル共和国政府は驚き、輸送機をチャーターして彼らをアデンからイスラエルヘと運んだ。史上最初の空輸による民族大移動として、この事件は有名である。彼らは、飛行場まで来た時、大きな輸送機を見て、少しも驚かなかった。当然のようにそれに乗り込んだのには、迎えに来た者の方が驚いた。それをただすと彼らは、平然として答えた。『聖書に記されているでしょう。風の翼に乗って約束の地へ帰る、と』」(イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」山本書店、44頁、1,970年)。 聖書には「あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た」(出エジプト19章4節)、また「彼はケルプに乗って飛び、風の翼に乗ってあらわれた」(第二サムエル22章11節)と記されています。 六、エルサレムで殺された二人の証人を全世界の人々が見たという聖書の記事 聖書の最後の書である「ヨハネの黙示録」には、次のようなことが記されています。 「わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て、1,260日の間、預言する。……彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。彼らの死体は……彼らの主も十字架につけられたところ(エルサレム)にさらされる。もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、3日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない」(黙示録11章3~9節)。 今から1,900年も前に書かれた聖書の時代に、エルサレムに横たわっている二人の死体を全世界の人たちが現地に行って、3日半の間、ながめることなど、その必要性もなく、あり得ないことです。それなのに、なぜこのようなことを記しているのでしょうか。 「さて、反キリストが葬ることを拒んだこの死体を3日半の間に、どのようにして、すべての民族、国語、国民から出た人々が見ることができるのかと、あなたは尋ねるかもしれない。テレビジョンが発明されるまでは、このことは人々にとって、非常に理解するのに困難な場所であった。たったひとことの命令で、全世界のテレビ放送局が彼らの死体を写し出すことかできるのである」(テモテ・ザオ著「幕開ける預言」155頁、霊糧出版社、1,961年)。 今から1,900年も前に書かれた聖書に「飛行機」と「テレビジョン」があることを預言している記事があることは、聖書は、人間が決して記すことができないもので、全知全能の神が聖書記者たちに書かせたものであることを証明しているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.10.31
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「聖書の中の科学(2)」 2020年10月28日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年11月5日放映「神のことばである聖書」 「聖書の中の科学(2)」 甲斐慎一郎 レビ記17章11節 水の循環とそれに伴う地球規模の大気の循環は、近代になってようやく科学的に解明されたわけですが、このことは昔から聖書の多くの箇所で言及されていました。それは今から3,000年前に、「伝道者の書」の1章6、7節で、「風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる」とあります。これは、地球における水と風の循環の、簡潔で包括的な説明です。 水の循環については、ヨブ記36章27~29節には、「この方は水のしたたりを細かくし、その蒸気を雨として注ぐ。それは雲から降り、人の上に豊かに注がれる。いったい、だれが雲の広がりと、その天幕のとどろきとを悟りえよう」(欽定訳私訳)。 水の循環について未だ分かっていないことは多くあります。水の循環のそれぞれの状態は、地球に生命が存在するために必要不可欠なものです。このことは、生命の起源が、いつくしみと愛に満ちた賢明な創造主の、創造のみわざによることの大いなる証拠です。 四、生物学 生物のしくみで血液が特に大切だという事実が、レビ記など聖書の多くの箇所に記されています。しかもそれらは、1,616年にウィリアム・ハーヴェイが血液循環を発見する数千年前に書かれているのです。レビ記17章11節は、「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである」と告げています。 生命の維持は、体細胞に酸素と水と栄養がたえず供給されることで成り立っていることが、今では知られています。この欠かすことのできない機能は、体内を血液が絶えず循環するという驚くべき方法で達成されています。病原菌と戦ったり、傷ついた組織を治したりする血液の役割は、医学で最も重要な発見の一つで、手術や治療などの有益な処置の一つとして輸血がなされることも、肉体をもつ生命にとっての血液の重要性を示しています。 「1,799年、アメリカの初代大統領のジョージ・ワシントンは当時の名医たちの努力もむなしく、出血多量のため帰らぬ人となりました。その当時は、一部の人々だけが血液についての知識を持っていたにすぎず、ワシントンの治療をしていた医者は、病気の治療のために何回も何回も『捨血(血を抜いて捨てる)』をしていたのです」(ムーディ科学映画より)。 神によって与えられた聖書の言葉は、このすばらしい生物学的事実に関しても、科学者がそれを発見して大成させるよりずっと前から科学的に正確でした。しかもこれは『罪の罰は死で、罪が赦されるためには贖いの血が流されなければならない』という神のゆるがない霊的な真実を教えるために与えられた言葉でもあります。いのちの液体である血液は、組織内で病気や感染症が優勢なときには、それらの病原体(細菌など)をからだ中に運んでしまいます。聖書の中では、肉体の生と死は、霊の生と死の象徴として用いられます。そしてしばしば、肉体の病気と径我という描写を用いて、霊の病気である罪について語られるのです。 罪の病に冒されている霊が生きるためには、罪をもたず、罪の病に対して戦う力をもっている霊のいのちが必要です。すなわち死ぬべき運命にある罪に病んだ霊を治癒するためには、きれいで抵抗力のある血液をふさわしい提供者から受けて輸血することが必要です。 聖書は、罪なきキリストこそ、そのふさわしい提供者で、十字架にかかって血を流し、すべての人の罪のために死なれたことを教えています。(ヘンリー・M・モリス著『科学は聖書を否定するか』15~26頁抜粋)甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.10.28
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「聖書の中の科学(1)」 2020年10月25日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年10月3日放映「三つの選択」 「聖書の中の科学(1)」 甲斐慎一郎 創世記22章17節 聖書は科学的に正確ですが、それは聖書が神の意思(神学的には霊感という)を受けて特別に書かれた書物であることの証拠のひとつであって、非常に驚かされることです。 何千年もの間、聖書に記されていながら、近年、初めて正しく評価されるようになった科学的事実がたくさんあります。それらの記述は、もちろん現代科学の専門用語で表現されてはいませんが、それにもかかわらず、的確ですばらしい描写がなされています。 一、天文学 多くの天文学者たちが星の数を数えました。プトレマイオスは、1,056個を数え、ティコ・ブラーエは、777個の星を一覧表に表し、ヨハネス・ケプラーは1,005個を数えました。地球上のあらゆる地点から肉眼で見える星の総数は、4,000個程度でしょう。 それにもかかわらず聖書は「天の万象(天体の数)が数えきれず」(エレミヤ33章22節)と記しています。また「海辺の砂」の数が「空の星」の数に匹敵する(創世記22章17節)ことも伝えています。望遠鏡が発明されるまでは、これが聖書における重大な科学的誤りと見なされてきたことでしょう。しかし今では、それは超自然的な科学的洞察であったと認めないわけにはいきません。今日、天文学者は少なくとも10の26乗(百×一億×一億×一億)個の星があると推定しますが、これは地球上の砂粒の数に匹敵します。 また、聖書には「個々の星によって栄光が違います」(第一コリント15章41節)とあります。この記述も、かつては誤りと思われていたことでしょう。それは望遠鏡を通してでさえ、太陽を除くすべての星はまるでただの光の点にしか見えなかったからです。今ではもちろん、さまざまな種類の星があり、全く同じ星など存在しないことがわかっています。 二、地球物理学 科学者や教師たちがみな、地球は平坦であると信じていた時代から、まだ数世紀しか経っていません。聖書は、地球は球形だと述べているので、当時の知識人にしてみれば聖書がまるで非科学的に見えたでしょう。 イザヤは神について「主は地の円(the circle of the earth)の上に住まわれる」(40章22節)と述べています。ここで「円」と訳された言葉はヘブル語の「khug(フッグ)」で、より厳密な意味は「丸」です。この言葉は箴言8章27節では「深淵の面に円を描かれ」とも訳されており、神が海を創造されたとき、海洋の表面(平均海面)を球面にされたことに言及しています。 またヨブ記26章7節には、「神は……地を何もない上に掛けられる」とあります。これは聖書と20世紀科学の成果が一致した、もう一つの例です。地球が太陽と結ばれていることは、重力(引力)とよばれる力で説明されていますが、誰も重力が何であって、なぜ働くのかを知らないので、この結びつきを説明できたとはいえません。このような不可思議な「遠隔作用」が、どのようにして一億五千万キロメートルも離れた地球と太陽を結びつけ続けられるのか、その原因は全く未知のことなのです。そして「神は……地を何もない上に掛けられる」という聖書の説明以上によい説明はないのです。 三、水文学 水は人の生活に欠かせないので、水文学(水の科学)は、聖書の言葉と多くの関わりがあります。水文学で最も大切な基本原理は、驚くべき水の循環です。水蒸気は、凝結して雨や雪となって降ります。次いで地下水や川となって海へ流れ込みます。そこで水は蒸発して空に昇り、大気圏の大いなる風の循環によって、再び陸地へ運びもどされるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.10.24
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「聖書が教える奇蹟(3)」 2020年10月18日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年9月23日放映「三つの声」「聖書が教える奇蹟(3)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、3章1~26節 三、三位一体の神の漸進的啓示と奇蹟 1.旧約時代――父なる神が天から「しるしと不思議」を示して、ご自身を現された時代であり、最も初歩的な段階です イスラエル人は多くの「しるしや不思議」を見ても、その信仰は長続きせず、神に逆らい、呟き、遂に滅ぼされてしまいました。 奇蹟が頻繁に行われたのは危機の時代や邪悪な時代であり、かえって奇蹟が行われなかった時の方が良い時代です。ヘブル人への手紙11章の「信仰偉人列伝」に記されている前半の「信仰の勇者たち」(4~28節)が奇蹟を行っていないことは注目すべきことです。 2.キリスト在世時代――子なる神が地上に降り、人となってご自身を現された時代であり、第二の段階です イエスは多くの奇蹟を行われましたが、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」(ヨハネ4章48節)とか「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」(マタイ12章39節)とかと言われ、「しるしや不思議」を求めるのは悪い時代であり、不信仰であることを強調されたのです。 3.五旬節以後の時代――聖霊なる神が人の心に内住して、ご自身を現された時代であり、完成した最終的な段階です 確かにペテロやパウロは、「使徒の働き」において、多くの「奇蹟と不思議と力あるわざ」を行っています。しかしそれは、「使徒としてのしるし」(第二コリント12章12節)のために行ったのであり、聖書は、このようなパウロでさえ絶えず奇蹟を行ったのではないことを教えています(同11章24~33節)。 「ローマ人への手紙」以後の書簡においても、確かに「奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者……異言を語る者」について記されています(第一コリント12章28節)。しかしパウロは、このような「いやしや異言」よりも大事なもの、いや最も大切で、これがなければ何の値打ちもなく、何の役にも立たないもの、すなわち「愛」(同13章1~13節)について教えているのです。 キリストは、「主の名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟をたくさん行った」としても、神を愛する愛がなく、主を知らなかった人(第一コリント8章3節)に対して、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け」と仰せられました(マタイ7章22、23節)。 最も大切なことは、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれ」ることです(ローマ5章5節)。言い換えれば聖霊によって私たちの中にキリストがおられ(コロサイ1章27節)、私たちの「うちにキリストが形造られ」(ガラテヤ4章19節)て、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(同5章22、23節)という御霊の実を結ぶことこそ何よりも重要なことなのです。 四、病の癒しと人の癒しと国の癒し 「中国のことわざに『上医は国を癒し、中医は人を癒し、下医は病を癒す』というのがある。病気のことだけを見ているのは薮医者、病気のもとである心を癒して元気にさせるのがまともな医者、皆が元気を失うような社会の常識や価値観、ひいては社会のシステムまで本来化するように、と心を尽くすのが本当の名医だという意味であろう」 「使徒の働き」の3章には、まず1~10節に生まれつき足の不自由な男が歩いたという病の癒しが記されています。しかしペテロは、その後の説教(11~26節)において病の癒しを強調したのではなく、キリストの十字架の救いについて述べ(13~18節)、「この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださる」(26節)という人の癒しについて語っています。そして彼は、この説教において「あの万物の改まる時」(21節)、言い換えれば「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由に入れられ」る(ローマ8章21節)という国そして全世界や全宇宙の癒しについて述べているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.10.17
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「聖書が教える奇蹟(2)」 2020年10月11日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年9月12日放映「三つの創造」「聖書が教える奇蹟(2)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、3章1ー26節 聖書には旧約と新約とを問わず数多くの奇蹟が記されています。特に科学の観点から物事を見る人にとっては、聖書に信じられないような奇蹟が数多く記されているので、それは作り話にすぎず、聖書に書かれていることを決して信じようとはしません。 旧新約聖書に記されている数々の奇蹟を私たちはどのように考えたらよいのでしょうか。 旧約時代においてはモーセとヨシュア、またエリヤとエリシャ、新約時代においてはイエスと弟子たちが奇蹟を行ったので、現代の日本に住んでいる私たちも彼らと全く同じように奇蹟を行うことができるのでしょうか。それとも奇蹟は旧新約聖書の時代だけで、現代においては行われないのでしょうか。これは非常に大切な問題です。そこで「奇蹟」について旧新約聖書全体から考察してみたいと思います。 一、旧新約聖書の中における奇蹟 確かに聖書には多くの奇蹟が記されていますが、よく調べるなら、五つの時代に集中しており、それ以外の時は行われていません。 1.紀元前1440年頃。「モーセとヨシュアの時代」――時代の転換期です 2.紀元前850年頃。「エリヤとエリシャの時代」――危機の時代です 3.紀元前700年頃。「ヒゼキヤの時代」――危機の時代です。 4.紀元前550年頃。「ダニエルの時代」――危機の時代です。 5.紀元後30年頃。「イエスと弟子たちの時代」――時代の転換期です。 このように聖書における奇蹟は、「時代の転換期」や「危機の時代」にのみ行われたのであり、決して無秩序に、またのべつ幕無しに行われたのではありません。 二、奇蹟の真意と目的について 1.旧約時代の奇蹟 「旧約時代は、神も神の助けも、また多くの霊的な事実もすべて目に見える形をもったものとして現された時代です。……エリシャの働きにおける奇蹟的な要素の真意と目的は、主がともにおられることとその大能の力をイスラエルに悟らせ、そしてこのような宗教的な復興によって、切迫している国民的な刑罰を免れさせようとしていることを示しているのです」(A・イーダーシャイム)。 これはモーセとヨシュア、ヒゼキヤとダニエルの時代も同じであり、神は周囲の異邦人にもこのことを示されたのです。 2.キリスト在世当時の奇蹟 イエスは、水をぶどう酒に変えられた時、ヨハネは、「このことを最初のしるし(欄外の訳は、証拠としての奇蹟)としてガリラヤのカナで行い」と記しています(ヨハネ2章12節)。イエスの奇蹟は、ご自身が神であり、メシヤである証拠として行われたのです。 イエスは悪魔の誘惑に負けて石をパンにするような奇蹟は行われませんでした(マタイ4章4節)。かえって五千人の給食の奇蹟を行われた後、「人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って」退かれただけでなく(ヨハネ6章15節)、「いのちのパンの説教」をして、ご自分がメシヤであり、人はメシヤを信じるならば、永遠に生きることができるという霊的な救いと真理を語られました(同6章35ー58節)。 3.「使徒の働き」における奇蹟 ペテロは、イエスの御名によって生まれつき足の不自由な男を歩かせました(使徒3章6ー8節)。この男が歩いたり、はねたりしたことは、「見る目のある人々には、メシヤの時代が来たことのしるしであった。なぜなら、メシヤの時代とは、古くから言われているように、『そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる』(イザヤ35章6節、新共同訳)時代であるからである。さきにイエス御自身の力あるみわざが暗示した事柄が、今や弟子たちの行ったこの力あるわざによって確証された。それは、イエスはまさしく主でありメシヤである、ということである」(F・F・ブルース著『使徒行伝』95頁)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.10.10
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「聖書が教える奇蹟(1)」 2020年10月4日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年7月24日放映「神の恥と人の恥」「聖書が教える奇蹟(1)」 甲斐慎一郎 使徒の働き17章24ー28節 「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません」(27節)。 一、人が真理を探究することについて 人が生きるためには、いわゆる「衣食住」が必要です。しかし、もし人が衣食住のためだけに生きているなら、人間以外の動物と少しも変わりません。人の人たるゆえんは「真理とは何か」、「人は、どのように生きるべきなのか」ということを考え、それを探究して生きるところにあるのではないでしょうか。このような人間の営みが、教育や科学であり、また倫理や道徳、そして哲学や宗教(異教)です。これらは、上の図のように現実の世界から究極の真理に向かって限りなく近づく赤色の矢印として表すことができます。 この「人が真理を探究する」営みというのは、非常に大切なものですが、「科学の教科書は絶えず書き変えられる」ということばに代表されるように、これは、究極の真理に到達するまでの「部分的な真理」であり、「絶対的な真理」ではないという限界のあるものであることを決して忘れてはならないのです。 二、神が真理を啓示されることについて これに対して聖書は、人の探究ではわからない神と神に関する究極の真理を、神のほうから私たちに明らかに教え示しています。これが「神の啓示」です。これは上の図のように、究極の真理から現実の世界に向かっている青色の矢印として表すことができます。 「人は、どのように生きるべきなのか」ということについては、究極の真理に到達するまでの部分的な真理を教える「人の探求」では間に合わず、絶対的な真理を教える「神の啓示」がどうしても必要ではないでしょうか。聖書こそ「神の啓示」の書です。それは、神が「究極の真理」を時間と空間を超越して、一足飛びに私たちに示されたものです。 三、科学の発明でさえ、それが発明される前の人々には、信じられない奇蹟です 聖書には、神の啓示が記されています。神の啓示は、人の探求ではわからない神と神に関する究極の真理を、神が時空を超越して一足飛びに私たちに示されたものです。 ですから神の啓示されたことは、時間と空間に拘束されている人間には、全く不思議で信じられないものばかりです。しかし科学や文明が発達し、人間が発見し、発明した文明の利器でさえも、それが発明される前の人々には、全く不思議で信じられない奇蹟であると思うのではないでしょうか。たとえば江戸時代に、薩摩藩の西郷隆盛は、江戸から薩摩まで行くのに50日かかったということですが、約1500キロメートルの道程を50日かけなければ、薩摩の人と話すことはできませんでした。今は東京―鹿児島間は、新幹線に乗れば6時間40分、飛行機に乗れば、1時間50分で着きます。 電話やテレビを全く知らない昔の人々に対して、電話は地球の反対側に住んでいる人とも話をすることができるもので、テレビは彼らの姿をカラーで動く写真として見ることができ、電子メールを送信すれば、数秒で文章も写真も送ることができ、テレビ電話を使えば、鹿児島の人と、顔を見ながら会話をすることができ、衛星放送のテレビを放映すれば、一瞬のうちに全世界の人々に映像を見せることができると説明しても、彼らは全く不思議で信じられない奇蹟であると思うのではないでしょうか。 まして21世紀の科学の発明よりも、はるかに高度な「究極の真理」が時空を超越して一足飛びに啓示されるなら、それが信じられない奇蹟であると思うのも当然ではないでしょうか。ですから天地の創造をはじめ、永遠のいのちや復活また奇蹟等、人間の理性では考えられないような不思議なことが聖書に書かれています。聖書は、創世記の1章から、「神の啓示」が記されているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.10.03
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「外なる人と内なる人」 2020年9月27日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年7月15日放映「世を愛された神」「外なる人と内なる人」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、4章16節 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(16節)。 この箇所において「外なる人」とは「からだ」とか「肉体的な生命」を、「内なる人」とは「霊」とか「霊的な生命」を意味しています。どちらにしても聖書は、人間には衰えていくだけでなく死ぬべき部分と、生かされているだけでなく新たにされていく部分とがあることを教えています。 どのようにすれば、日々衰えていく肉体的な生命を持ちながら、日々霊的な生命を新たにされていくかということを、肉体的な生命と霊的な生命の橋渡しをしている精神的な生命の役割を加味しながら学んでみましょう。 人間を構成といてる三つの要素(霊と心と肉体)が常に新しく、生き生きとしているためには、どうすればよいのでしょうか。 一、生き生きとした肉体的な生命を保つための秘訣 生き生きとした肉体的な生命を保つためには、次のような三つのことが必要です。1.必要かつ十分な休息をとる。2.必要かつ十分な栄養をとる。3.適度な運動をして肉体を鍛える。 しかし、どんなに涙ぐましい努力をしても、罪のために死ぬべきものとなってしまった肉体は、日々衰えていくことを避けることはできないことは、言うまでもありません。 二、生き生きとした精神的な生命を保つための秘訣 生き生きとした精神的な生命を保つためには、次のような3つのことが必要です。1.深く考えて頭をよく使う。2.情緒や情操を豊かにする。3.創造的な精神を失わない。 ですから、決まり切ったことを、決まり切ったようにしかしないことは、何も考えず、何も感動せず、何も新しいものを生み出さずに、精神的に枯渇してしまう危険性があることを忘れてはなりません。 三、生き生きとした霊的な生命を保つための秘訣 生き生きとした霊的な生命を保つためには、次のような3つのことが必要です。 1.恵みの手段(集会出席、聖書拝読、祈祷、奉仕、献金)を守ることによって絶えず神との関係を正しくし、神の御前に歩むことです。 2.苦難に遇った時、逃避せずに信仰によって勝利を得て、乗り越えることです。 3.未熟なところや至らないところを様々なものを通して訓練されることです。 これらのことは、私たちが信仰に成長していくための秘訣でもあります。 このように肉体的な生命であれ、精神的な生命であれ、霊的な生命であれ、生き生きとした生命に共通していることは、静止したり、停止したりせずに、絶えず活動し、常に躍動しているということです。使わなければ働きが鈍くなり、ついには動かなくなってしまうのが生命の特徴です。 私たちは、罪のために死ぬべきものとなってしまった肉体的な生命の衰えを防ぐことはできません。しかし神によって生かされた霊的な生命は、衰えを防ぐことができるだけでなく、日々新たにされていくことができます。そのためには霊的な生命を生き生きと保つとともに、精神的な生命を生き生きと保つことが必要です。 私たちは、何事に関しても「それは何なのか」、「それはなぜなのか」、「それはどうすれば解決するのか」という探求心を失ってはなりません。イエス・キリストは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と言われました(マタイ7章7節)。もし私たちがこれを失い、何事もわかったかのように思うなら、思考と感情(情緒と情操)と創造的な精神の働きが停止して、その結果、霊的な生命も死んでしまう危険性があるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.09.26
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「結実の霊的な教え」2020年9月20日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年7月4日放映「真の幸福」「結実の霊的な教え」 甲斐愼一郎 ヨハネの福音書、15章1~8節 9月から11月頃までは、読書の秋、スポーツの秋、行楽の秋、芸術の秋、食欲の秋、収穫の秋、結実の秋で、最もよい季節です。 1~8節には「実を結ぶ」という言葉が七回も記されています(2、4、5、8節)。新約聖書は、キリスト者の結ぶ実を8つほど教えています。◇悔い改めの実(マタイ3章8節)◇祈祷による祝福の実(ヨハネ15章7節)◇献身と服従による聖潔の実(ローマ6章16、 22節)◇施しによる義の実(第二コリント9章10節)◇御霊の実(ガラテヤ5章22、23節)◇伝道による働きの実(ピリピ1章22節)◇懲らしめの訓練による平安な義の実(ヘブル12章11節)◇賛美による唇の実(ヘブル12章15節) この結実に関してキリストは、私たちに三つの有り様を教えています。それは「無結実」と「結実」と「豊かな結実」です。 一、無結実について(2、6節) 無結実のものは「取り除かれること」(2節)と、「投げ捨てられること」(6節)と「火に投げ込まれて燃やされること」(6節)がはっきりと記されています。これは何と恐ろしく厳粛なことでしょうか。 ぶどうは、実を結ぶこと以外に何の役にも立ちません(エゼキエル15五章1~5節)。そのように人間も神に喜ばれる良い実を結ぶ以外に何の役にも立ちません。 良い実を結ばないということは、ただ「土地をふさいで」(ルカ13章7節)障害になるだけでなく、木から離れていること、すなわち「神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあ」り(コロサイ1章21節)、罪の実を結ぶ有害なことですから、取り除かれて、地獄の火に投げ込まれるのです。 二、結実について(4、5節) 聖書は、「わたし(神)の栄光のために、わたしがこれ(人間)を創造し」と記し(イザヤ43章7節)、人は、神の栄光を現すために造られたと教えています。キリストは、「あなたがたが多くの実を結」ぶ「ことによって、わたしの父は栄光をお受けになる」と仰せられました(8節)。 キリストは、私たちに「実を結べ」とは命令しておられません。キリストが私たちに命じておられるのは、「わたしにとどまりなさい」です(4、5節)。これが結実のための条件であり原因です。「そういう人は……実を結びます」(5節)という言葉は、結実はあくまで結果であることを教えています。 日本語において結実も結果もともに、「み(実、果)を結ぶ」と書き、同じ字であることは誠に興味深いことです。 「キリストにとどまる」とは、神に直結することです。私たちが自分および自分が生み出すものを心の支えにしたり、他の人および他の人が与えてくれるものを心の支えにしたりするならば、神には直結していません。見えるところによらず信仰によって、ただ神と神の与えてくださるものだけを喜ぶことこそ神に直結していることなのです。 三、豊かな結実について(2節) ここでキリストは、「実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」と語っておられます(2節)。 キリストにとどまることによって実を結ぶようになった者はだれでも、神の言葉や聖霊の光(ヘブル4章12節)、また苦難や試練や懲らしめという「はさみ」によって刈り込みをされます。 この父なる神の刈り込みは、私たちに次のような三つのことをさせるためです。▽離別――汚れたものに触れないこと▽放棄――悪いものを捨て去ること▽献身――良いものさえもささげること 神が聖書の言葉や聖霊の光、また苦難や試練や懲らしめという「はさみ」によって刈り込みをされる時、私たちが離別と放棄と献身によって、それに応えていくなら、豊かな実を結ぶようになるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.09.19
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「神の慰めと人の慰め」 2020年9月13日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年5月31日放映「信仰の決断」「神の慰めと人の慰め」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、1章1~11節 「私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(4節)。 この御言葉の前半には神から受ける慰め、すなわち神の慰めについて、後半には人から受ける慰め、すなわち人の慰めについて記されています。そこで神から慰めを受ける場合と人から慰めを受ける場合とは、どのような違いがあるのかということについて、三つの観点から考えてみましょう。 一、その行動の違いについて 私たちは、自分の心の寂しさやむなしさ、また悩みや苦しみをいやすために、神のもとに行き、神から慰めを受ける場合と、人のもとに行き、人から慰めを受ける場合とは、その行動において、どのような違いがあるでしょうか。 もし私たちが神のもとに行き、神から慰めを受けるなら――神に用いられている人を通して神からの慰めを受けることがあることは言うまでもありません――「どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(4節)と記されているように、能動的また積極的な行動になるでしょう。 しかし私たちが人のもとに行き、人から慰めを受けようとするなら、人を慰めるどころではなく、自分が人から慰めを受けるという受動的また消極的な行動になるでしょう。 ところが人から慰めを受けようとすることは、単に受動的また消極的な行動になるだけでなく、自分の心を慰めてくれることなら、何でもするが、自分の心を慰めてくれないようなことは何もしないということにならないでしょうか。 このことは、自分の心を慰めてくれるものが善であり、自分の心を慰めてくれないものは悪であると判断することにほかならず、それは行動の基準が道徳的な善悪から逸脱してしまうことになるのです。 二、その動機の違いについて 私たちが人のもとに行き、人から慰めを受けようとする動機は何でしょうか。初めは自分の悩みや苦しみを打ち明けているだけですが、そのうちに言い訳や弁解をすることによって自分の罪を正当化し、相手にもそのことを認めさせようとしているのであり、それが認められることに自分の慰めを見いだすのではないでしょうか。 このように人から受ける慰めは、不純なものになる危険性があるのです。 これに対して私たちが神のもとに行くなら、どうなるでしょうか。もし私たちがほんとうに神の前に出るなら、自分の罪を認めて悔い改めざるを得なくなるのであり、そこに不純な動機のはいる余地はありません。その結果、罪の赦しと慰め主である聖霊が与えられるのであり、これこそ神から受ける慰めです。 自分の罪を正当化せず、神の御前に心が砕かれた人のみ、神からの慰めを受けることができるのです。 三、その救いの違いについて 私たちの心に真の慰めを与えてくださるのは神のみです。私たちは、神からの慰めを受ければ受けるほど、ますます強くなるだけでなく、聖くなっていきます。 兄たちにねたまれてエジプトに売られたヨセフは、人からの慰めを受けたことは一度もなく、ただ神からの慰めを受けて、強められるだけでなく、聖くなっていきました。 しかし神からの慰めを受けようとせず、ただ人からの慰めを受けるなら、神から受ける慰めから遠ざかるので、ますます弱くなるだけでなく、罪深くなっていきます。 このようなことから人から受ける慰めは偽りの救いであり、神から受ける慰めこそ真の救いであることが分かるでしょう。 それでは人から慰めを受けることが問題であるなら、人は何のために存在しているのでしょうか。ほかの人というのは、私たちがその人を通して神からの慰めを受けるか、それとも私たちの方がその人を慰めるかのどちらかのために神から遣わされているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.09.12
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「神の懲らしめと人の懲らしめ」2020年9月6日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年5月28日放映「父と子の交わり」「神の懲らしめと人の懲らしめ」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、12章5~11節 「肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」(10節)。 この御言葉の前半には肉の父親の懲らしめ、すなわち人の懲らしめについて、後半には霊の父の懲らしめ、すなわち神の懲らしめについて記されています。そこで、神の懲らしめと人の懲らしめとは、どのような違いがあるのかということについて、次のような三つの観点から学んでみましょう。 一、その動機の違いについて 肉の父親に代表される人の懲らしめの動機は何でしょうか。このことに関して聖書は、「自分が良いと思うままに」と極めて簡潔に教えています。これは実に的を射た答えです。なぜなら私たちは相手のためを思ってしているつもりでも、いつのまにか自分が良いと思うままにしてしまうからです。しかも人間は無知で、知恵がなく、また幼稚で、未熟なために、自分では良いと思っていることが、すでに間違っているということはいくらでもあり得ることであり、ここに人の懲らしめの限界があるのです。 これに対して神の懲らしめの動機は何でしょうか。これに関して聖書は、「私たちの益のため」、しかも単なる損得ではなく、「ご自分の聖さにあずからせようとして」と明白に教えています(10節)。その人にとって何が益になるのか、特にその人が聖くなるためには、どのような懲らしめがよいのかということは、ただ私たちの最善のみを願っておられる愛の神、また実際に何が最善であるのかを知り抜いておられる全知の神のみが判断し得ることなのです。 二、その方法の違いについて この「短い……期間」(10節)という言葉は、人の懲らしめの特徴をよく表しています。すなわち人の懲らしめは、子どもの頃や若い時だけで、大人になったり、年を取ったりするとなくなってしまうということです。人間は年を取れば取るほど、また高い地位につけばつくほど、人の言うことを聞かなくなる傾向性がありますが、それはその人を懲らしめる人がいなくなるからです。 人を懲らしめる時に最も大切なことは、終始一貫していることです。父親と母親の言うことや親と教師の語ることが食い違っていたり、学校で教えることと社会で教えることが矛盾していたりしたならば、逆効果です。また同じ人で表と裏があったり、建前と本音を使い分けたりすることも同様であることは言うまでもありません。しかしこれが人間の現実の姿であり、人の懲らしめの限界なのです。 これに対して神は、一生の間、終始一貫して何の食い違いも矛盾もなく、様々な出来事や人を通して私たちを懲らしめるのです。 三、その結果の違いについて その動機においても方法においても、多くの間違いや誤りがある人の懲らしめに良い結果を期待することは非常に難しいことです。そのためにある時は厳し過ぎたり、ある時は優し過ぎたりして、一方の極端から他方の極端へと、時計の振り子のように揺れ動き、どうしてよいのか分からずに迷っているのが人の世の常ではないでしょうか。 これに対して聖書は、神の懲らしめは「そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(11節)と教えています。神の聖さにあずかった者のみ、平安な義の実を結ぶことができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.09.05
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