複刻記事
「言語が思考を規定する」
「言語が人格を変える」
単語や構造的な面を含め、印欧語と日本語の距離は、極めて大きい
逆に、日本語と朝鮮語は、構造的に近似(らしい)。
印欧語、特にラテン語群・北欧語群・スラブ語群同士は、おおげさにに言えば、方言レベルの違いに過ぎない
まあ、これはいいすぎだが
ところで、英語は、最も分析的構造を持つ言語だと思う
だから、英語でしゃべると、論理的・分析的な思考に、半ば自動的になっている
いいか逢えれば、脳を分析的・論理的モードにしておかないと、英語がしゃべりにくい
日本語で考えていては、英語が、英語らしい英語が出てこない。
もちろん私も、日本語の「あいまいさ」の美点を、承知しているつもりである。
特に、日本の詩歌、なかんずく短歌や俳句など、日本語という言語の存在無くして成り立たないものだと思っている。
西欧の詩の最高峰のひとつに、フランス語の詩の世界があるが、私はフランス語が出来ないので、その味わいが実感できない。 小林秀雄の訳で、ランボーなどを読んでみたが、はたしてどれだけ原詩の内容が読み取れたか。
それにフランス語は、ある人によると、あいまいな日本語と正反対で、ひとつひとつの単語が意味するところが狭義であり、精密且つ論理的な言語だという。
そのようなギスギスした、いや、キッチリした言語で構成された詩とは、どういうものなのか?
だから、「またちょっと、フランス語を勉強してみようか?」などと思ったことがあるが、この歳でそれは無理である。
であれば、仏英辞書でも引きながら、ちょっと読んでみようか? という気持ちも、無くも無い。
つまり、あいまいな所がない、キッチリと表現する言語による「詩」と、あいまいな日本語でつくられた「詩」または「詩歌」は、ハッキリちがうと思うのである。
それに日本語は多義語だから、掛詞とか、枕詞という技法が特殊効果を生むが、これは日本語独特の広がりを生んでいると思う。
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以前、私のこのブログで「俳句を英訳してみる」ということを試みてみたが、英訳の結果はなんとも無味乾燥で、説明的で、イメージの広がりが無いというか、散文的なしろものになってしまったのである。
このごろ、米国の学校で、俳句を(もちろん英語で)作らせる授業が盛んらしいが、そうして、そこで俳句の良さが大いに喧伝されているようだが、なに、英語の俳句など、本来の俳句とは、似て非ざるものだ。
俳句とは日本語が無ければなりたたないものだ・・・と、あらためて思う。
では、短歌はどうか? と言われると、「短歌は俳句より長くて、ある程度は説明的要素があるので、英訳も何とか可能ではないか?」というぐらいである。
この辺は、専門の歌人である、tak-shonai さんのご意見をお聞きしたい次第である。
最後に付け加えたいことだが。
それは【
言語が人格を変える】という点である。
あくまで私の個人的な現象だが、
英語でしゃべっていると、人格が少し変わる。
英語でしゃべると、少しだが
論理的になる
分析的になる
主張が強くなる
straight to the point という話し方になる
堂々とした、背筋が伸びた態度になる
気取った態度になる
反対に、日本語に返ると ちょっとだが
卑屈になる (笑)
おとなしい人間になる
相手の発言の直後に、すぐには反論に移らない
相手に同調しがちになる
相手にも同意を求める
あいまいな表現を多用する
争点があっても、「どうせ世の中、そんなものですよね~」で収める
あまり細かいことは追求しなくなる
「まあ、そうですよね~」と言う
相手に好感を持たれようとする
お互いの共通点を必死で探す
自分は、平凡な庶民だということを相手にわからせようとする
今わかったが、以前、初めてネット(BBS)に書き始めた時、一部の人達から、強い反感を示された。
その時は、外国から帰国して間もなかったし、日本人とネット上とは言え、親しく話し合う事は久しぶりだった。
多分、英語的発想が混じっていたのだと思う。
堂々としすぎていたのだと思う。
これで、もし英語の他の外国語が話せるようになると、私の人格はどうなるのだ??
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