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上 中西立太 復元画 大奥呉服の間 江戸時代の着物屋、すなわち呉服屋のお得意先、それはいわずもがな「大奥」です。大奥には認可をもらった呉服屋がえらい出入りして着物屋の荒稼ぎの現場となっていました。 着物を仕立てることは、大奥内の数十人のお針子さんがいて、身分の高い人の着物を縫っていました。彼女たちは自分専用の支給された針をなくすとクビが飛ぶという厳しい職業環境だったようです。 しかし、そんな彼女たちには役得もあり、大奥で注文した着物の歯切れなどをもらえたのです。大奥で購入する着物は当然高価なものが多く、かなりいい着物が出来る状態になったといいます。 ちなみに、たくさん着物を欲しいのは女性の常ですが、当然幕府のお金で買うわけですからそっちのほうがピンチになってきます。 江戸幕府の創業者は例の徳川家康さんですが、彼自身は倹約家で生活も貧しく、お金も十分貯まっていました。更に豊臣さんを滅ぼして豊臣家のお金をパクッてきて東照宮に貯めていたので幕府の財政は満ち溢れていたのです。 しかし、家康さん死後数十年でちょっと財政がやばくなってきたので、大奥に節約するようお触れを出したのですが、家康さんの曾孫で犬公方といわれた綱吉さんのころになると元禄文化の風潮もあり家康さんの貯めていたお金もスッカラカンになってしまいました。当然、大奥が一枚噛んでいます。 将軍綱吉さんはお母さんが京都の呉服屋のお玉ちゃんという一町人だったため、そのお母さんの計らいで、不景気な西陣の回復の為、膨大な発注をかけています。現在、西陣の着物が全国区になったのはこの影響が大きいですね。 まあ、このころから幕府内部では表(政治場)の節約命令と奥(大奥)の贅沢行為のいたちごっこが始まります。 当時の彼女たちの服装などはまた、改めてお話しするとしましょう。□□□■■■-------------------------------本場奄美大島紬専門店 奄伽樂(あまから) http://www.amakara.jp -------------------------------■■■□□□
2005年05月25日
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上 晩年の溥儀 再婚した妻と 再教育を受けた溥儀ですが、ついに収容所からででることが出来ました。 これには当時首相であった周恩来の計らいがあったといわれています。 溥儀は後、一平民として人民政府で仕事をしたり図書館で仕事をしました。そして最晩年は北京動物園で勤務していました。かつての皇帝は動物園にいたのです。 上の写真は溥儀がかつて住んだ紫禁城の前の天安門で再婚した看護婦さんの奥さんと撮ったものです。 一平民になった溥儀ですが、中国に文化大革命の嵐が吹き荒れはじめたころに体調を崩し1967年(昭和42年)他界しました。当時は医療施設が十分でなかったのです。 皇帝⇒尊号のみの皇帝⇒租界生活⇒皇帝⇒囚人⇒平民とまさに激動の人生でした。 次回は溥儀が大好物だったあるものを取り上げたいと思います。久々の「食」ですが、ご期待ください!!
2006年02月09日
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このブログに何度か登場してもらっている「石山寺縁起絵巻」。石山寺は京都から近くて気軽に行けるので、女性の参詣を集めていました。 上の画は藤原国能という人の奥さんが、度重なる不幸から脱却しようと石山寺にこもっていたら、そこに観音さんが現れて(夢ですが)如意宝珠というのを与えているところ。この後、この奥さんとその家は大変隆盛を極めたとのことです。 平安時代末から始まる「末法思想」により阿弥陀さんと並んで人気があった観音さん。私は無宗教主義ですが、信じるものは救われるのかもしれません。 ちなみに、この画は鎌倉期に描かれたものですが、内容から平安時代のカテゴリにいれました。
2006年09月02日
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上 弥生人の衣装(推定復元) 弥生時代になると定住して田んぼを耕しムラができました。その過程のなかで組織に上下関係ができました。つまり身分ができたわけですね。 特に身分の高い人の服装が左の赤い染めの着物です。明確に織った帯もつけていて、大陸から来た渡来人の影響が大変強いですね。 当時は中国や朝鮮が先進国でしたから、着物も当然影響を受けました。 この後、着物は中国式になり、平安時代になると独自の着物が生まれてきます。更に室町時代になると現在の着物の原型ができました。 2千年以上のときを経ていまの着物が出来上がっていると改めて感じました。□□□■■■-------------------------------本場奄美大島紬専門店 奄伽樂(あまから) http://www.amakara.jp -------------------------------■■■□□□
2005年08月19日
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「高額なチーム」というと今では「高い報酬の選手が多いチーム」という感じがしますが、この新橋アスレチックスは「会費」が高いチームでした。 上の写真は発足したアスレチックスの全員写真の一部、中央右から二人目が平岡です。写真をみると日本人のほかに外国人の姿もみえます。平岡の関係から鉄道関係者も入っていたようですが、平岡独立後の実業界関係の人の姿もあったようです。当時は野球はハイカラなスポーツだったので、高い会費が払えるような人しか縁のないスポーツだったんですね。 ところで、当時は諸説ありますが、今のようにストライク3つとボール4つで決まるルールでなかったようで、ボールは何球でもよかったとか20球までOKとかだったようです。今のように投打の駆け引きが行われるのでなく、あくまで「打たしてあげる球」を投げるのが投手の務め、したがってストライクがあまりに入らないとバッターから文句が出るという状態でした。 また、「新橋のドコで野球がやれたのか」と疑問を持たれる方もいるかと思いますが、当時、新橋始発の時代、今の東京駅近辺(皇居前)は空き地が多くありました。これは明治後、商業地である新橋や銀座はそのまま繁栄していきましたが、大名屋敷のあった有楽町より北は大名屋敷がなくなってしまったので空き地だらけだったのです。大正三年に開業した東京駅のレンガビルの前(今の新丸ビル前)で野球をやっている写真が残っています。 これは今のスワローズと直接関係がないのですが、国鉄史では誇らしげに取り上げていたので一応書いてみました。 ちなみに、この平岡煕は「日本野球の父」として、今でも野球体育博物館に老後の肖像が飾られています。
2007年11月24日
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国鉄での事件はさらに続きました。三鷹事件から一ヶ月ほど後、こんどは東北に飛び火しました。 福島県の東北本線松川駅近辺のカーブに差し掛かった蒸気機関車が突然横転、写真のように大破しました。原因は線路の枕木をおさえている犬釘が何者かの手によって抜かれていることでした。この事件では機関士方が死亡しています。この事件も犯人がわからずじまいでした。 これらの死者まで出る事件の頻発は労使間の対立が原因とは断言できませんが、国鉄首脳部はそれも理由のひとつとして考えていました。それを打開するため、労働者と使用者共に「国鉄人」として応援できるプロ野球チームを発足させることが検討されはじめました。 ちょうど昭和25年にセリーグ・パリーグに分けれた2リーグにしてプロ野球を発展させる準備がされていました。プロ野球連盟はそのスポンサーを探していたのです。そこに国鉄が名乗りをあげることになります。 つづく
2007年11月25日
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最近、テレビで「東洋のベニス」と呼ばれた大阪堺の千利休を扱ったCMが流れています。今回はそんな千利休のお話をしたいと思います。 利休を生んだ、というより茶の湯は勿論、経済的にも中世から近世にかけて、おそらく日本でもおおきな影響を与えた堺の町は、町割りが結構昔のままのこっていまして、面影を見ることができます。 堺は中世には周りを堀で囲んで自治都市として機能していました。当時の堀は今でも一部残っており、現在は埋立地で海は遠のいたものの、上の写真のような運河がよく残っています。まさに「東洋のベニス」でした。 経済的先進地域であっただけに文化も発展していきましたが、そんな中、茶の湯の大成者、千利休が現れます。
2006年11月17日
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混乱する毎日オリオンズの話の前に、当時オリオンズが本拠地を置いていた後楽園球場を見てみましょう。後楽園球場は当時複数球団の本拠地でした。上の写真は昭和20年代jの後楽園球場です。 もともとここには水戸黄門で有名な水戸徳川家の屋敷がありました。黄門のモデルになった水戸光圀がここに造った庭に「後楽園」と名づけたのが始まりです。「後楽園」と「後れて楽しむ」という意味で、「人の上に立つ人は苦しいときは一番初めに苦しみ、楽しいときは一番最後に楽しむ」という殿様の心構えの意味がありました。(今でも社長さんなんかは使えそうですね) 明治以降になると、ここは「砲兵工廠」といって日本軍の武器を製作する工場になりました。しかし、その工場がもっと地方に移転することになり、跡地に建てられたのが「後楽園球場」です。 写真の後楽園球場は戦後すぐのころで、戦時中にはスタンドに敵の爆撃機を打ち落とす「高射砲」がすえつけてありグランドは畑だったそうです。 どこのチームも大変苦しい中でのプロ野球スタートとなったのでした。
2006年08月19日
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上 公家女房の夏服「風俗博物館HPより引用させていただきました。 京都は多くの方がご存知かと思いますが、盆地(というよりくぼ地)なので、夏は暑く冬は寒いので、たとえ地球温暖化にならない時代でもとっても暑い。こんなときに十二単(女装束という)を着てたら倒れてしまうのではないでしょうか? 当然平安時代の貴族の女性にも「夏服」は存在しました。上の写真がそれで、単衣の着物の上にうちきというものを羽織っている状態。これならまだ涼しいですね。 ただもっと暑くなると生絹(すずしぎぬ)という肌がすけすけに見える着物に袴をはいただけの大胆なスタイルになっていたようです。 清少納言は枕草子で「見ぐるしきもの」のテーマで「色の黒い人が生絹を着ているのは見苦しい」といっていますから、本当にすけすけの着物だったようです。 このような格好では当然外に出ることも男に見せることもできず、部屋や仕切りのない寝殿造の家にすんでいるので几帳や屏風で囲いをしてその中ですごしています。 当時の女性は身分が高くても夏は大変だったでしょうね。□□□■■■-------------------------------本場奄美大島紬専門店 奄伽樂(あまから) http://www.amakara.jp -------------------------------■■■□□□
2005年08月28日
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上 静御前 この静御前をご存知な方は多いことでしょう。今日はこの静御前のことについてお話しましょう。 彼女は白拍子(男装して舞う、遊女を兼ねることも多い)の元祖を母にもち、自分も白拍子になりました。 のち、源義経の側室となりますが義経はおにいちゃんの頼朝と対立、彼女は義経と行動を共にし西へ逃げますが、吉野山で義経と別れて彷徨っているところを拘束され京都を経て鎌倉に送られることになります。 鎌倉では命は助けられましたが、義経についての事情聴取が行われ、また鶴岡八幡宮に舞を奉納するよう命じられ有名な舞を披露し敵方の鎌倉人も感嘆したといいます。ただこの舞、今の八幡宮の舞殿で踊ったという人がいますがそれは間違い、あの建物は江戸時代に造ったものです。 頼朝の奥さんの北条政子の計らいもあり許された静でしたが、義経の子供を妊娠していました。「男なら殺す」と予告されていて産まれたのは男の子でした。その子供はそのまま鎌倉の由比ガ浜に投げ捨てられたといいます。 まだ十九歳の静には大変なショックだったでしょう。 のち、静は京都に戻されますが、いつ死んだとかの消息はわかっていません。 鎌倉散策の折には彼女に思いをはせる人が多いんでしょうね、今でも静は義経と並んでえらい人気があるようで、こんなHPをみつけました。 みなさんも時代の犠牲になった静に思いをはせてみてください。
2005年12月06日
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上 江戸東京博物館レストラン 明治カレー この間ご紹介しました、明治時代のカレーを再現したものが上の写真です。 カレーは明治時代初期の西洋料理の本に出てきます。そこではカレーの具に、海老やホタテといった魚介類や蛙の肉などが入っていたようです。 また、カレーの具はご飯の中央にかけるように書いてあり、上の写真もそのようになっていますね。 食べてみると、色でわかると思いますが、今のカレーより薄味でおいしいです。左上にソースの瓶がありますが、薄味と感じる人はこれをかけて食べるそうです。 日本のカレーにも歴史があるんですね!!□□□■■■-------------------------------本場奄美大島紬専門店 奄伽樂(あまから) http://www.amakara.jp -------------------------------■■■□□□
2005年08月13日
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