寝言は寝て語れ (旧analyzer的独白)

寝言は寝て語れ (旧analyzer的独白)

2018.02.01
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カテゴリ: 野球&スポーツ

デビューの吹田戦 味方は1人だけ…/桑田真澄1
2018年1月29日6時1分 紙面から





 その日を境に、甲子園は新時代を迎えた。

 83年8月20日。夏の甲子園準決勝。PL学園の相手は池田だった。戦前の予想は圧倒的に池田有利。史上初の夏春夏3季連続優勝まであと2勝に迫る池田に注目が集まるのは当然。だが、プレーボールからわずか1時間25分で、その夢は断たれた。PL学園7-0池田。完封したのは1年生の桑田。池田にとっては甲子園31試合目で初の完封負けだったが、ゼロ行進を続けるうちに「ひょっとしたら」の思いを強めていたのは、桑田自身だった。

桑田  成功体験があったから、勝負はやってみないと分からないというのが頭の中にあったんです。最後まであきらめたらいけないな、と。

 周囲の予想を裏切るシャットアウト劇は初めてではなかった。池田戦の1カ月前…。

  ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇

 7月26日の大阪大会4回戦。「9番、ピッチャー、桑田」。監督の中村順司(現名商大総監督)の吹田戦メンバー発表で、空気は変わった。公立の実力校相手の先発に、中村は背番号17の1年生を指名した。

桑田  「お前が投げるから今日でオレの青春は終わったわ」と言ってくる先輩もいた。言葉にしなくても、チームみんなが当惑しているのが分かりました。

 桑田は、高校デビュー戦を思い起こす。試合前の先発メンバー発表後、ナインが集まっているところに行くと、みんな自分から離れていった。救急箱やバットケース、ボールケースなど試合用具を腕いっぱいに抱え、1年生は途方に暮れていた。

桑田  僕は高校に入学してから登板した試合で、抑えたことが記憶にないほど全く歯が立ちませんでした。「何が中学NO・1だよ」「高校レベルでは無理だな」って言われて、6月ごろには投手をクビになって野手に転向。代打、代走要員や外野手として大阪大会のメンバーに入った。その僕が先発するってことは100%負けやと。

 鳴り物入りでPL学園に入った桑田だったが、春の練習試合で満塁被弾に大量失点。全く通用せずカベにぶち当たっていた。

中村  入学した直後、PL球場のホームベースから右翼に向かっての遠投で80メートル、低いままの球筋の素晴らしいボールを投げた。間違いなく投手で育てるべき選手だと確信しました。

 ただ、投手・桑田にはスナップスローができないという弱点があった。また練習試合で打ち込まれたことで、桑田本人も投手を続ける自信を喪失していた。

 外野守備に取り組む桑田の変化を、中村は見ていた。市神港、報徳学園など兵庫の強豪校の元監督で当時はPL学園の臨時コーチだった清水一夫の「大丈夫」という推しもあった。満を持してのデビュー戦で桑田は2安打完封。その試合開始直前の味方は正捕手の森上弘之ただ1人だった。

桑田  試合前ノックのあとに森上さんが「オレはお前の味方や。2人で頑張ろう」と言ってくれた。1人でもそう思ってくれる人がいてくれたことがどれだけうれしく勇気を与えてくれたことか。

 森上のミットに吸い込まれる球は、中学NO・1と言われた桑田の球だった。

 1回、2回、3回…。相手打線をゼロで抑えるにつれて、「桑田、頑張れ」と声をかけてくれる先輩が増えた。5回を過ぎるころにはレギュラー全員から「桑田、頼むぞ」と背中を押された。試合が終わると、「桑田、次も投げろよ」とチームのムードは完全に変わった。

(敬称略)(2017年6月4日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)



「大阪の恥やから9点までにしろ」/桑田真澄2
2018年1月30日6時1分 紙面から

 敗者は、居場所が分からなかった。

 83年夏。前年夏の1回戦から連勝街道を突っ走ってきた池田が負けた。池田の正捕手だった井上知己が、その衝撃を振り返る。

井上  2年の夏から3年の夏までぼくらは15連勝しました。負けたときに、ベンチ前でどこに並べばいいのか分からなかった。

 井上は、2年夏は控え捕手で、3年春は水野雄仁とのバッテリーで甲子園の頂点に立った。常勝・池田をホーム後方の定位置から三塁側ベンチ前に追いやったPL学園のエースこそ、15歳の桑田真澄(現スポーツ報知評論家)だった。

 甲子園は池田の時代だった。超高校級のエース水野に、名将・蔦文也が鍛え上げたやまびこ打線。パワー野球は1年生投手をのみ込むと誰もが思っていた。PL学園の選手すら、そう思っていた。上級生はあきらめに満ちた言葉を次々にかけた。

桑田  僕が先輩に言われたのは「桑田、今日はどうせ負けるんや。でも10点以内に抑えろ」ということでした。「大阪の恥やから9点までにしろ」と。

 だが、何の励ましにも聞こえない言葉に、桑田は光を見いだした。

桑田  1イニング1点取られていいんだ。そのとき、僕はそう思ったんです。ゼロは絶対にスコアボードに入れられないと思っていたけど、なんとか1点ずつ踏ん張ればいいんだと。でも勝負はやってみなきゃ分からないと、一番思っていたのは僕だったかもしれない。

 落ち着いていたわけではない。甲子園に着き、グラウンド入りした1年生の目に飛び込んできたのは、三塁側ベンチ前で試合開始に向けてウオームアップするエース水野や主将・江上光治の大きな体だった。

桑田  とにかく体格が違う。まるで牛みたいに大きいと感じました。これが本当に同じ高校生なのかな、というのが率直な思いでした。

 対する池田は「甲子園で一番楽な試合ができる」と感じていたという。3回戦で前年夏の決勝の相手、広島商、準々決勝で剛腕・野中徹博を擁する中京(現中京大中京)と、難敵を続けて退けたばかり。投手と4番が1年のPL学園に脅威は感じなかった。

 池田先攻で試合は始まった。初回2死から桑田は江上、水野の3、4番に連打を許したが、5番の吉田衡を投ゴロに打ち取った。

桑田  初回のピンチを無失点に抑えて、スコアボードにゼロが1個ポンと入った。そのゼロ1つが僕に大きな自信をつけてくれたんです。これはもしかしたら、次の回も無失点に抑える可能性があるかもしれないと思いました。そしてゼロが重なっていくごとに、僕はさらに自信をつけていくわけです。

 世間を、上級生をアッと言わせる快投へ、時間が動き始めた。

(敬称略)(2017年6月4日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)



池田ナインが文句「またアウトローか」/桑田真澄3
2018年1月31日6時1分 紙面から

 異様な興奮が、甲子園に満ちていた。

 先手を取ったのは、戦前予想で圧倒的な劣勢と伝えられていたPL学園。2回裏に大量4点を池田・水野雄仁から奪った。「4点を取られたとき、負けると思った。でも、4点だったらまだ取り返せるな、とも。複雑な気持ちだった。緊張感がなくなってしまって…」。83年8月21日付の日刊スポーツは、先制を許した水野の困惑を伝えている。

 2回2死二塁。1点を先制した直後だった。先発の桑田(現スポーツ報知評論家)がバットで驚かせた。水野の内角高め速球を左翼スタンド中段にたたき込んだ。

桑田  池田戦は投げることに全精力を使うつもりで、打つ方にエネルギーを使いたくなかった。水野さんの球は速いし、あのスライダーなんて打てない。だから、自分の得意なコースだけを待つことにしました。ヤマを張ったインコースに水野さんが放った速球が来た。それがホームランになったんです。

 水野が公式戦で初めて打たれた本塁打だった。しかも、1年生に。水野の女房役だった井上知己は甲子園大会後、高校日本代表でチームメートになった桑田から「狙ってました」と聞き、がくぜんとする。

井上  カウント0-2になって、インハイのつり球を要求したんです。その球を狙ったと言うんですよ。やっぱり賢いなって…。

 この試合、水野はPL学園に3発を浴びた。3日前の広島商戦で左側頭部に死球を受け、1日前は137球完投で、中京(現中京大中京)野中徹博との剛腕対決を制していた。死球、連投の疲労で本調子ではなかったが、4番・清原和博を4三振に封じている。だが、水野を援護すべき打線が桑田の前に沈黙する。

井上  自分は0-7でも、9回2アウトまで勝てると思っていました。

 PL学園は前日の準々決勝で高知商に大苦戦。10-9でからくも逃げきった。桑田はアクシデントに見舞われ途中降板していた。

桑田  甲子園大会は1日何試合もするので、試合が進むうちにマウンドがすごく掘れてしまうんです。ステップした左足がくるぶしまで埋まるほどでした。そんな状況で投げていたら右指を地面に突いてしまい、握力がなくなったことで途中降板しました。

 右手の指を打撲した翌日。桑田は不安の中でマウンドに上がっていた。ただ、そんな状況でも、自分の持ち味を生かそうと冷静に考えていた。

桑田  自分らしさとは何かといえば、コントロール。徹底してアウトローに球を集めました。試合中、池田の打者に「またアウトローか」って文句言われました。打線が2巡3巡して踏み込んできたら、今度は内角を突いた。僕の武器は、狙ったところに投げられるコントロール。僕は130キロ台のストレートと、カーブしか投げられませんでした。でも、コントロールという武器が、僕の背中を押してくれました。

 14本の内野ゴロを打たせて完封。自在のコントロールという揺るぎない武器で池田打線を封じた。「あの試合がなければ今のぼくはなかった」と振り返る一戦。桑田は決勝の横浜商戦も7回途中まで好投。戦後初めて1年生が優勝投手になった。15歳の運命を変え、「KKコンビ」の時代が幕を開けた。

(敬称略)(2017年6月5日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)



投げられる状態じゃなかった取手二戦/桑田真澄4
2018年2月1日6時1分 紙面から

 ロス疑惑の報道過熱、グリコ・森永脅迫事件…。世間が揺れた84年。桑田(現スポーツ報知評論家)にとっては追われる立場を痛感する1年だった。

桑田  どこも倒せなかった池田をPL学園が倒したことで、僕を取り巻く環境も、僕自身の人生もガラッと変わりましたね。

 83年夏の甲子園でPL学園は5年ぶり2度目の優勝。3季連続甲子園制覇を目指した池田の進撃を準決勝で止め、決勝は横浜商に快勝。先発マウンドには桑田が立ち、4番は清原和博。主戦投手と主砲が1年生で、あと4季甲子園出場のチャンスがある。「KK時代」の幕開けだった。一方で、全寮制のPL学園にいても、ファンとメディアが大挙して押し寄せる。桑田は環境の変化をひしひしと感じていた。周囲が新たなヒーローの誕生に沸く中で桑田は思っていた。「物事には必ず二面性がある。いいことがある半面、苦しいこともある」と。

 84年春のセンバツで紫紺の大旗に王手をかけながら岩倉に0-1で敗れる。強力打線が1安打に抑えられ、桑田は8回2死から決勝打を許した。大会28イニングぶりの失点に泣いた一戦は、KKコンビが甲子園で唯一経験した完封負けだ。

 雪辱を期した夏の決勝。PL学園の前に立ちはだかったのは、老練な指揮官、木内幸男が率いる取手二。優勝筆頭候補のPL学園が享栄、松山商など伝統校を破って勝ち進むかたわら、取手二も好投手を擁した箕島、鹿児島商工、鎮西を撃破し、決勝に勝ち上がってきた。当時の5番打者で現在は新日鉄住金鹿島の監督を務める中島彰一は、33年前の夏を振り返る。

中島  初戦から準決勝と好投手と対戦する中で、うちは力をつけていきました。甲子園ってそういう場所じゃないですか。

 桑田も同じことを感じていた。地方大会を控えた6月、両校は練習試合で対戦している。PL学園が13-0で圧勝していた。

桑田  その日は僕の調子もよく、取手二打線も沈黙していて、あと1歩でノーヒットノーランという試合でした。ところが甲子園では変貌していたので、練習試合の時とは全く別のチームのように感じました。甲子園という場所では野球の神様が毎年、あるチーム、ある選手に力を与えるんだと実感しました。昨年はPL学園だったけど、今年は取手二にそういう力を与えたんだと思いました。

 桑田はアクシデントにも苦しんでいた。大会の途中で右手中指のマメをつぶし「ボールが投げられない状況になっていた」と言う。決勝当日、台風の影響でプレーボール直前の甲子園は豪雨に見舞われた。桑田は雨天中止を信じたが、33分遅れで試合開始。1日でも右指を休ませたいという思いは実らなかった。

桑田  ふっと息を吹きかけるだけでも、飛び上がるほど痛かった。指先の皮がめくれていて、ボールに1球1球スピンをかけていくのはとてもつらかった。

 痛みとも闘いながら桑田はショックを受ける一戦へ向かった。

(敬称略)(2017年6月6日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)






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最終更新日  2018.02.01 20:33:47
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