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今、エンライトメントセミナーのステージ1を続けています。その内容のほとんどは、「自分と向き合う」というもの。 自分と向き合う内容のワークに向かうとき、たいていの人は、頭でものを考えます。でも頭で考えている間、本当のことは何も見えてきません。なかなか、自分の中の本当の気持ちとか、本当の素直な感情にたどりつくことができないのです。 それはなぜか。恐いのです。人は、自分の中の本当の感情に気づくことをものすごく恐れています。 たいていの人は、そんなことだとは全く思ってもいないでしょう。 けれど、自分と向き合ったことのない人は、いきなり自分の本当の感情に向き合わなくてはならなくなると、パニックに陥るか、真っ白になってとぼけてわからなくなるか、たいていどちらかの反応を示します。 一番多いのは、真っ白になってそんな感情なんてないよ、という態度をとるパターンです。正直、それが一番たちが悪い。でも、私自身、自分の中の見たくない感情に向き合うとき、本当に真っ白になったりしますから、人のことは言えません。(笑) それでも、サポートしてもらって、少しずつ紐解いていくと、何が引っかかっているのかがわかってきます。 自分の絡まった感情を解きほぐすと、これまで問題だったことが、嘘のようにきれいに晴れていきます。そもそも、問題とは、私たちの心の中にしかないものだからです。 そんなことはない!と断言する声が聞こえてきそうですが、もちろん、物理的にどうすることもできないようなことだってたくさんあるでしょう。 それを人は、問題にします。けれど、本当の問題は、それが「問題」であると、感じる心にあるのです。 だからと言って、なかったことにすればよい、と言うことではありません。それは基本、あなた自身の学びなので、それを学びとるまで、宇宙は手を変え、品を替え、問題を作ってくるからです。その問題は、あなた自身が、問題だと感じるところからやってきます。 ですから、一つの人間関係が問題だったとしたら、そこから逃げてもなぜかまた、似たようなタイプの困った人があなたの周りに現れるでしょう。こんな経験したことありませんか? それは、あなたの心が、問題を作り出していることに他ならないのです。 あなたの問題は、あなた自身がクリアしたいと願っていることそのものです。 なぜなら、それをクリアしなくてもよい、と思うなら、あなたにとってその事は、問題にもならないからです。 あなたが解決したいと感じる問題は、事柄に関係なく、あなた自身の心の中に、その問題の原点があります。 その原点は、あなたのものの考え方、そして、あなた自身の物の見方によるものです。 物の見方を検証し、自分の考え方をしっかりと見てください。 なぜ、自分がそう感じるのか、そう考えるのか、なぜ?と思う癖をつけてみてください。 一つ一つ何かの気持ちや考え、感情が出てくるたびになぜ自分はそのように考える癖があるのか、考えてみてください。 ノートに書くなら、それが一番結果が出やすいでしょう。コツは、決してあきらめないこと。 あなたがあなた自身の考えや感情に気づいていけば、次第に自分がどう行動すればいいか、理解できていきます。どう行動すればいいか、人に聞きたいときは、まだその答えが中途半端な時です。 その時は、再び、自分に聞いてみてください。なぜ?、と。 一人でやっていても解決できない時は、友人と二人でやってみる、という手もあります。自分で気づかないことに、相手が気付く場合があるからです。ちなみに何でも、あなたと同意見しか言わないようなタイプとそれをやってもあまり意味はありません。 誰かがあなたに文句を言ったら、言い返せ、というようなことでは、何の解決にもならないからです。 どんなことが起きても、あなたの感情には、あなた自身が責任を持っています。あなたが受け取らなければ、どんなことも、ただ起きたことにすぎません。 しっかりと自分自身を見つめ、検証してみてください。 そのことによって、あなた自身とあなたの周りの人に対して、より寛容になり、より人生は奥深くなり、そしてより、幸せに近づくことになるでしょう。 ********************************** あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 10, 2009
この間から、また、過去生体験が始まっています。過去世の人生だから、過去生。また、新い学びのようです。エンライトメントセミナーで、参加者の方たちが学んでいることを私も別の形で経験する・・、ということなのでしょうか。先日、出てきた過去生は、4つ。最初に出てきたキーワードは、「エディンバラ」。この言葉に引っかかった瞬間、この日一日、「エディンバラ」に捕まってしまいました。そのことが解明されるまで、震えが止まらないような感じ。というわけで、ある友人に電話して、一緒に過去世体験をしてもらうことにしました。彼女とは、こんな感じで何度も何度も、一緒に過去世回帰をやっています。どうも、一緒にいた回数が非常に多かったよう。もしかしたら、これらのことを解消するために、近くに住んでいるのかも知れません。(^^;電話していて、最初に思い出したのが、ただ悲しい、という感情。なんだろう?この悲しいって・・。以前にも、スコットランドの過去生をいくつか見たことがあり、城主の娘だったり、パン屋の娘だったリしていたので、この時も女性・・・かな?と最初はそう思っていました。でも、登場する人物や背景から言って、若い女性は、その場面に特にかかわっている様子はありません。友人が見ていたのは、城の地下、それも拷問室に、たくさんの人たちが連れてこられている様子でじた。たくさんの人たち…、男も女も子供も老人も関係なく、様々な人たちがそこに連れてこられていました。彼女は、拷問されている人たちを可哀相に思っているけれど、自分にはどうしようもないと感じていました。その時私は、拷問室にこんなにたくさんの人が集められているのは、誰かを探すためだ、とピンときました。誰かを探していて、その居場所を探り出すために、あらゆる手段を使っているのだと感じたのです。そして、拷問室に連れてこられた人たちは、その人たちにとって、大切な人をかくまっているのだと感じました。そして、どうしてもその人たちがかくまっている人を教えようとしないので、最悪の手段に打って出ている感じでした。その人の行方を知っているものをすべて殺してでも、そのものをひっ捉える、という目的の元に、拷問は行われている感じ。それなのに、その人たちの決意は固く、決して誰も口を割ろうとはしていませんでした。よほど、その人たちにとって大切な人なのでしょう。それらのことを過去世のシーンから読み取りながら、私自身は、何の関係があるのか、さっぱりわかりません。その時私は、若い女性だと思っていて、拷問室にいるわけでもないので、悲しいのは、誰か女性の大切な人が拷問室に連れて行かれたのかと思っていました。それでどうしようもなく悲しいのかと、思ったのですが、それならこの過去生を見ている意味がわかりません。単純に悲しいだけ、という思いを知るだけなら、今、私がそれを見ても仕方ないはずです。だったら、もしかすると、私は他にいるのでは?と思いました。でも、拷問されている人たちの中に私の姿はありません。ならば、逆にそれをとらえたものの中にいるのか?その中にはさらにいない感じです。すると友人が「皆がかくまっている人がYOKOさんじゃない?」と言った瞬間、私の体に電気が走りぬけました。なんだか、ずーん、とした感覚がありました。それを聞いた瞬間、「そうだ、それが私だ」と無意識に感じていました。どちらかというと知りたくなかった答え、という感じでした。かくまわれている自分を発見したとたん、それまでの流れが全て理解できました。それはいわゆる世継ぎ問題でした。血筋から言って、私はその城の正当な城主となるはずでしたが、城の重鎮である一人の人物が、私ではない人物を城主に据えたがっていました。そこで、私をあらゆる手を使って追い落とし、私を亡きものにしようと企んでいたのです。私は、なんとかその追手の手を逃れ、知り合いのある村にかくまわれていました。ずいぶん、見つからずに済んでいたのですが、ある時、追手に私がまだ生きていることを知られてしまい、その時から再び、追われる生活は始まりました。城の重鎮は、城の中でも大きな実権を握る人物の一人だったので、なかなか巻き返すこともできず、ひたすら、逃げ続け、隠れるようにして生活していのです。けれど、そのためにたくさんの村人たちが捕まってしまったことに対し、自分の無力さを嘆いていました。私は、村人たちを助けるために出ていこうとしますが、命がけの人たちに止められてしまいます。「あなたがいなければ、この国をどうするのか」と。このときの教訓も、自分の力を信じること。というものです。この過去世は、今の私がこの状態であることを示唆していました。つまり、まだ何も始ってはおらず、ただ逃げ回っているだけの力ない私の状態と何も変わらない、と。このときの私は、自分の力のなさを嘆いてばかりおらず、とっとと行動する必要があったのです。様々な人物に協力を求め、自分を助けてくれるように頼み、自分を本来の力ある場所に戻れるよう協力を願い出ることが。このときの私には実行あるのみ、という感じ。そのサインしか出ていない感じでした。なるほど、これが今の私の状態なのね。(^^;;;;;;つまり、まだ何もやっていない、と言いたいわけね。以前なら、これでもそれなりに頑張っている、と思ってぐったりしたであろう、こんなメッセージも、今の私には確かにそのとおりかもしれない、と受け取ることができました。もちろん、だからと言って、たいして行動できてはいませんが。この過去生から受け取る必要があったのは、これだけでした。と同時にこのときの悲しい気持ちは、とっくに去っていました。しかし、この時点ですでに次の過去生への誘いは、始まっていました。またまた、悲しい感じです。でもさっきとは違う感覚。あー、またこのパターンか・・・、と思いつつ。友人に何か見えた?と聞きつつ、私も何かイメージ化やってくるのを待っています。すると出てきたのは、水のイメージ。そして、平家と源氏。一人の尼僧が水の前に立って静かに佇んでいます。彼女はとても悲しいと思っている、そんな風に感じます。尼僧は私ではなく、友人のような感じ。友人はにそのことを告げると、なんだか「子供のことで悲しんでいる気がする」と言います。それを聞いた瞬間私の頭には、幼い子供を連れた人が海に身投げするシーンが見えました。確か幼い安徳天皇は、母ではない人に抱かれて、海に沈んだはず・・。それ・・・?そこからやってくる感じはただ悲しい・・。そればかりです。では私は?ここでも学びが隠れているはずです。また、平家と源氏か・・、と思いました。なぜか、私の周りには、昔から平家の人ばかりが集中していて、過去世で源氏だった人に会ったことがありません。若い頃、親友だった子は、幼いころから平家のお姫様の生まれ変わりだと言われていたと言っていたし、その時の上司も平家にゆかりがあると言い、妹も平家の姫の過去世を持ち、そもそも住んでいた町の集落の一角は平家の落人の末裔だらけの場所。これまで誰ひとりとして、源氏には会ったことがない、私は源氏なのに・・、となぜか幼いころから、ずっと根拠もなく私はそう思っていました。それはともかく、このときの私はやはり源氏の姓を持ち平家にゆかりのあるもの、だったようです。そして、出てきたのは、平家と源氏のどちらとも戦いたくない、という根本的な思いでした。どちらも自分にとっては大切なもの。だから、どちらも生かすすべはないのか、と自問自答している感じでした。このときの私の学びは、やはり自らの力を信じ、もっと違う視点からものを見ることを知る、というものでした。さて、長くなってしまったので、今日はこの辺で。昨日のエンライトメントセミナーの件は、またお話しましょう。**********************************あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 9, 2009
皆うっちゃってます。(つまり家事をさぼってます。^^;)でも、今日はなんだか、ブログを書く日、みたいな気がして・・。珍しく書く気があるので。(数日前に書いてます。)昨日、東京でエンライトメントセミナーやってきました。参加者の人たちがすごく楽しかった、来て良かったと言ってもらえて・・。私も楽しかったんですね。一緒に泊まった友達が銀座に行きたいというので、セミナーの時間までの間にちょっぴり銀座でお買い物もしました。なんだかそれもちょっと楽しくて。今、セミナーをやってて、参加者の人たちにずーっと、自分に向き合ってもらってます。でも、同時に私自身、自分と向き合わないといけないことがいっぱい出てきます。なにしろ、テキストを作っておいても、人の心はそれぞれだから、想定外の事が山ほど出てくるわけです。自分にとって都合の悪い隠された感情に気づいてもらおうとワークをすると、そこにマイナスの感情じゃなくて、プラスの言葉が入ってたりするんです。闇の部分に光を当てるはずが、そもそも隠されていたのは、光の部分だったりして、びっくり!!したり、そんなもの隠してるの!?????と想定外なことだらけです。それでも、ちゃんとなにがしか出てくれば、対処できるけれど、ものすごく うまく自分をごまかしている時には、全然あさってな答えが出てきて、前に進めず・・、なんてことも。京都と東京とでは、やっている私が驚いてしまうほど、会場の雰囲気も反応も、内容すら、全く違っていて、最後にたどりつく部分だけ一緒なくらい、遥かに違ったことが起きてくるんですね。本当に驚きです。ここでは、常に自分に聞いて自分の中の答えを出してもらうので、私がかってに相手の心の中を読み取って答えちゃいけない。自分で気づいたことは、人から教えてもらったことの何十倍もの価値があります。人から言われたことは、なんとなくそうかな?程度でも、自分で「はっ」と気づいたことは、さすがになかったことにはできないんですね。だから、自分で自分の感情の奥にあるものに気づいてもらうこと、それは何か物事を教えるよりはるかに難しい。本当に毎回、頭を悩ませ、つくづくここが私の学びの場所だと思う今日この頃。でも、逆にだから楽しいんです。誰かのワークに参加して、受け身でいる時には、決して気付くことのない、私自身を育てるワーク。それが私にとっては、セミナーをやっている最大の意味かも知れません。そこに参加する人たちの成長とともに私も成長する。なんだか、それって子育てに似ているな、と思ったりします。子育てって、手探りなんですね。育てながら、親も育っていく。子供に教えられることはしばしばで、そうやって本当の大人になる。私は、自分の子供が生まれたとき、神の目をした赤ん坊の顔を見ながら、きっとこの子は、大人の宇宙人で、本当は何もかもわかっていて、すごい才能もあるけれど、突然こんな知らない星にやってきたと思ったら、動かないししゃべれない、ものすごく不自由な体の中に入れられて、パニックに陥ったりしているんだろうな、なんて思ったんですね。(笑)子育てをしながら、親が育てられる。昔、行きつけの喫茶店のおばぁちゃん(店主)が「人は子供を育てないと一人前になれない」と私に教えてくれた事がありました。結婚する気のなかった私は、それを聞いた時、珍しく反発するよりも、「ああ、そうかもしれない。じゃあ、私は子育てしないから、一生大人になれないなぁ・・」と妙に納得したことを思い出します。最近、昔から私を知っている人が、「優しくなったね」とよく言ってくれます。でも、それは優しくなったというより、忍耐強くなった、と言う方が正しいかもしれません。子育てをしていたら、忍耐強くなくてはならない時間が長いんです。相手の成長に合わせてどうしても待たなくてはいけないし、子供のわがままにキレて、他の誰ともしたことがないくらい喧嘩してみたりした結果、全身の力を使って喧嘩しても、何にもならないことが理解できました。(笑)終わった後、ほとほと疲れるんですよ。それで、喧嘩するのは、もうやめた、と。疲れるだけで何の益もないんですよね。子育てしていて、一番私に身に着いたのは、忍耐力だろうと思います。待つことの大切さを本当に子供に教えてもらいました。一歳で、片手をつなげば歩けるから、もう本当は歩けているのだから、手を放してみようと一度、手を放して歩かせてみたら、それっきり手をつないでもしばらく決して歩こうとしなくなりました。それを見たとき、猛烈に反省しました。私が焦っても何にもならないことをあの時、悟ったんですね。時が来るのをただ待っていれば、おそらく子供は勝手に一人で歩き始めたのだと思います。私たちは、普段コンビニでテレビでパソコンで、すごく快適な生活を送っています。たいていのものは手に入り、さほど不便も感じない生活。便利になる一方の日本。その代わりに私たちは、ちょっぴり忍耐を置き忘れてきた気がします。ちょっと頑張る、ちょっと待つ。ちょっと努力する。これって当たり前みたいだけれど、日常で案外これができない人の方が多いですよね。何事にも待てないんです。私もそうですが、関西弁でいう「いらち」という奴です。「いらち」は、せっかちとか気が短いというようなニュアンスで使われます。快適な生活のおかげで、少しばかり待ったり、耐えたりすることに弱くなっているのかな、と感じます。私も以前は、「努力」とか「忍耐」とか言う言葉が大嫌いで、私の辞書にはそんなものありませんでした。(笑)ものすごいですよね。(爆)でも、少し待ったり、少しばかり相手の話を聞いたりするのは、それが余裕につながってくるんだとわかると、できるようになるんですね。そして、余裕のある事こそが幸せになる第一歩。ゆとりは、私たちの思っているような自由な時間のことじゃなくて、私たちの心が生み出すもの。時間があっても、カリカリしている人はいるし、逆に時間にゆとりがなくても、落ち着いている人もいる。自分にとって何が幸せかは、自分の心が知っているんです。自分の気持ちにゆとりを持たせれば、苦しいことも少し、離れてみることができるようになってきます。いつもちょっとだけ、ゆとりを持つ時間を作ってみませんか?朝、30分だけ早起きして、外の空気を吸うだけでも、人の心は不思議と違ってきます。自分の心をと体をリフレッシュしてあげれば、一日が心地よく始められる。自分の行動から、変えていくことは、案外心にも効き目があります。一度お試しあれ。**********************************あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 6, 2009
なんか最近、ブログを書くのが楽しみになってきたかも?なーんて言いながら、今、ちょっとノッてるんでしょうね。(笑) 今も、毎日庭で、虫たちと格闘中です。なんだか、最近、は何も虫にも詳しくなってきたような・・。******************************************今日のテーマは、魂の歓び。いやー、意味わからないテーマでですね。うーん。 私がこれを書くのか?って感じですが。魂の喜びって、「愛のこと?」と思うと、うん。でもそれだけじゃないって感じ。 愛を表現する、愛を受取る、愛を伝える。それらは、どれも皆、自分を生かすため。そんな感じがします。 それが魂の歓び。愛を受取り、愛を伝えていく。それはあなたの中の神の表現。 私も含めて、人は、愛を伝えることも下手だけれど、受け取ることは、もっと下手な気がします。 でも、下手ってことは、上手になれるってことですよね! 以前、子供が3歳だった頃、私は、心の声に呼ばれるようにスコットランドのフィンドホーンというところに、二週間行ってきました。 今思うと、そこはスピリチュアルなコミュニティだったのですが、私にとっては、妖精が住む花がたくさんあって、植物が生き生きと育つ美しい場所でした。それを見たくて、どんな風に花や植物が育つのか、見たくて、行きたかったのが、本音でした。 だから、そこで四六時中、スピリチュアルワークがあるとはあまり思っておらず(笑)、なすがままって感じでしたが、それらのワークの中に、自分で解決したい(?ここら辺はうろ覚えです。)、と思うテーマを決めて、行うゲームに参加したのですが、そのゲームのテーマに私は、「愛を受取る」と決めました。 まだ、私がこんなお仕事を始めるずっと前です。そのゲームは一見すごろくゲームなのですが、それをどんどんやっていくと、本当に自分の心の中がすっきりして行くのを感じたのです。 実際には、ただ自分が持っている言葉を書いたカードで、自分の頃の痛みを消します。みたいに宣言していく単純ななゲームだったのですが、たったそれだけの行為、本当に自分で決めて言葉に出して、そしてそこにカードを置いていくだけなのに、なぜか気持がスーッとしていくのを感じた時、ものすごく不思議な気がしました。 そして、たったそれだけの行為が自分の中の問題がスーッと、薄れたり消えていくのを体験したとき、感情というもの、感覚というもの、考えというものが、本来非常にシンプルに単純にあるものなのかも知れない、とすごく新鮮に感じたのをすごく新鮮に感じたのを覚えています。 過去生が、いつも私に語りかけてくるのは、「自分を信じよ」ばかりです。いつも、自分を信じていなかったのか?とびっくりします。 でも、全く信じていないわけではなくて、物事はらせん階段のようなものだから、自分の学びもまた、螺旋になっていて、信じる、という気持ちも、螺旋で上がっていくと、以前とは全く違ったものになるのだと、今は感じています。 セミナーでは、結局毎回、色々自分自身に宣言してもらうことになっています。物事は、順番に起きてくるのではない、という私の経験から、このようなプログラムが組まれています。 物事は、自分がやりたいと思ったら、まず「やる」と決めてから、その他のことに頭を使うことが必要なのです。そうでなければ、たいていのことは叶う前に、あなたの心の中で考えただけですべてが終わってしまいます。 私は、自分が本当にやりたかったことは、結局すべてやってきました。だから、私は自分の人生に後悔はありません。それに今が一番楽しいから、昔に戻りたいとは、全く思いません。この10年くらい、ずっと「今が一番楽しい」と言っています。本当に今が一番楽しいのです。昨日よりも今日今日よりも明日と、私の人生はよくなっていく一方です。今の自分にとって、何一つ足りないものも、困ったこともありません。もし、何かまだ気に入らないことがあれば、それは私がそれを変化させたり、自分が変化するためのツールだし、楽しみの一つです。 変えられる余地があるのは、私にとって、表現できる場所が残されている、ということです。それは、非常に楽しいことです。 「愛は厳しい」というけれど、それは本当の愛を手にするまでのこと。それまでは、どれが本当の愛かが理解できないから、たいていの人は痛い方向は避けて、楽な方を取ろうとし、結局自分をより大変な状態にしていくのです。 「過去に感謝できない人に未来はない」、と言った人がいます。私は、「今の自分に感謝できない人に未来はない」と思っています。逆にいえば、どんな状況、どんな問題を抱えていても、あなたが自分の素晴らしさを感じ、自分の置かれた状況が本当のチャレンジだと感じられる物の見方さえあれば、あなたにとって、問題はチャレンジであって、問題ではなくなるのです。 どこからものを見るか、何を持って、あなたがあなたの真実を感じるのか、それを知るのか、そはあなた自身のものの見方が全てを決めていることに気づいてください。 物の見方とは、簡単に言うとあなたが「これまで育った環境で創りあげられてきた基本の考え方」と言っていいでしょう。 そしてその、ものの見方は、ほとんどの場合、マイナスから思考する、という不思議なまでのパターンがあります。過去語られてきたあなたの頭にさんざん刷り込まれてきたマイナスのイメージがあなたの人生を決めているのではないか、と疑ってみてください。誰かの言うとおりにしなければ、あなたが不幸になる、と思っているなら、それこそ、あなたは自分を不幸にするものの見方にはまっているのです。 つまり、それは私がここであなたに向かって語りかけていることを全部鵜呑みにするな、ということでもあります。あなた自身の心で感じ、頭で考え、「あなた」が何をよしとするのか、そのことについてしっかりと考えて欲しいのです。 それが、あなたのこれからの人生に大きくかかわってくるから。 それでは、また・・。**********************************あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 5, 2009
ずっと以前に、「笑うセールスマン」というアニメをやっていた。「あなたの願い事、叶えます。」と「もぐろふくぞう」という名のセールスマンが相手の願いごとをかなえた後に、相手が「こんな筈じゃなーい!」と叫ぶのを聞いて(はっきり覚えてないのでこんな感じ?)にやりと大きな口で笑うシーンが、シュールなアニメだった。でも、案外現実に起こる願い事が叶うパターンって、そんな感じだと常々私は思っている。笑うセールスマンの話をしたら、子供がなにそれ?と聞いてきた。そりゃー、キミは知らないかぁ。そこでこんなたとえ話をしてみた。「シンデレラの魔法使いは、シンデレラが「舞踏会に行きたい」と言ったら、彼女が口に出してもいないのに、綺麗なドレスに着替えさせ、ガラスの靴を与え、御者と立派な馬車まで与えて、お城まで懇切丁寧に送りだすでしょ。するとシンデレラは、りっぱなどこかのお姫様にしか見えないから、当然のように歓迎されて、舞踏会に参加し、王子様に恋までされるわけよ。でもこれが「笑うセールスマン」の場合なら、シンデレラは「舞踏会に行きたい」と言ったので、「それでいいんですね?」と笑うセールスマンは念を押し、実際、ボロボロの格好のままのシンデレラを舞踏会の真ん中に連れていき、シンデレラは曲者として、衛兵に捕まって、牢屋入れられる、なーんていきさつになるようなパターンが笑うセールスマンってわけ。」と。この話って、結構シュールに聞こえるけど、実のところ、後者の「笑うセールスマン」のパターンの方が人を見てると願いの叶い方としては圧倒的に多くて、意外とあのアニメ、秀逸だったなぁ、と思う私だったりする。そもそも、皆、自分の願いってものをろくに知らないのだ。シンデレラは、舞踏会にぼろぼろの姿で行きたかったわけではもちろんないだろう。美しいドレスを着て、若い女の子らしく王子さまとダンスを踊る夢だって見たはずだ。そんなところまで全部、なぜ魔法使いは知っていたのだろう?普通の女の子だったら、それが望みなのかも知れないが、たまには違ったりもするのでは?人によって、望みの叶い方には、違いがある。どんなことをどんな風に望むのか、それをはっきり望んでいなければ、笑うセールスマン的望みの叶い方、ってものが普通にやってくる。「舞踏会に行きたい」というシンデレラの望みは、魔法使いのやり方にしろ、笑うセールスマンにしろ、同じようにどちらも叶っているのだ。ここに注目してもらいたい。どんな望みかをはっきりさせる、ということは、単純に「舞踏会に行きたい」というだけでは足りないのだ。シンデレラが自分の本当の目的を達成するためには、(つまり王子様に恋をさせてお妃さまになるという夢だ・・ホント?)「まず、私に似合う美しいドレスと靴を用意して、立派な金の馬車と素敵な御者と従者も用意して、私を舞踏会まで連れて行って、私を世にも美しいお姫様に見せて。」ぐらいには、言わなければならなかったはずだ。これを聞いたら、ものすごく高慢ちきに聞こえるが(笑)、実のところ、宇宙にするお願いごとは、これくらいでないと人は叶ったと思ってすらいないのだ。実際、笑うセールスマン的望みの叶い方は、皆が望むようなものではないだろうから、その時点で願いが叶うどころか、ひどい目に遭った、と思っている人が多いことを私は知っている。けれど、残念ながら願いごとは叶っているのだ。どのような願い事であれ、あなたが心に描いたことは、皆叶ってしまう。そして、常に願いごとは、私たちの頭の中で渦巻いていて、刻一刻と、その願いごとは叶おうとしている。よくも悪しくも。自分の中の望んでいないことも、同じように叶ってくる。願いごとをかなえる時は、とにかく具体的にしよう。できるだけ事細かに思い描く。そうすると、面白いくらいそのように叶ってくる。叶った時を想像して感じてみる。感じ方が実感があるほど、叶い方は早くて確実だ。さあて、それじゃあ、何を願おうか。**********************************あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 4, 2009
この話は、以前何かに書いたことがあったけれど、きっと知らない人もいるよね、ということで書いてしまいます♪ この前の東京のセミナーが終了した後、一時間余分に会場を借りていたので、そのあとお話会と称して、いろいろ皆でおしゃべりしてました。 その時に、私が「私って、疑り深い人間だから、自分が見たもの以外は案外信じないんですよね。だから、毎回、いろいろなものが見えると、本当にびっくりするんです。」とかいう話をしてました。 そこで飛び出したのが、この黄色いクマの天使の話。 これはもう、子供がまだ2歳くらいだったころ。10年くらい前なんですけれど。私は夫の家族との人間関係で夫と喧嘩していて、あまりの怒りに「明日絶対、市役所に離婚届け取りに行ってやる!!」と息巻いて、食事の洗い片付けをしていた時のことでした。 ご想像いただけると思いますが、離婚までしようと思って怒ってる私の頭の中は、夫に対する不信感や彼の家族に対する怒りとか恨みとかでいっぱいでした。 当然、他のことを考える余地は、全くありません。 ガチャガチャとお茶碗を割りそうな勢いで(実際、割れてもいいと思っていたんですね^^;;)洗っていると、突然、「まぁまぁ、そのへんで許したってぇなぁ」とべたべたの関西弁が聞こえてきました。 そんなべたべたの関西弁をしゃべる人間はうちにはいないはずだけど・・?その声に思わず振り向くと、そこにいたんです。黄色いクマのぬいぐるみの天使が。 いや、クマのぬいぐるみじゃなかったのかも知れないけれど、どう見ても、目が点しかなくて、間抜けな顔のクマのぬいぐるみにしか見えなかったんです。それが小さい羽をパタパタさせて、目の前に浮かんでいるのを見て、第一声「あんた誰っ!?」って反射的に聞いてしまいました。ものすごく怒っていたので、勢いが止まらなかったんですよ。(笑) するとそのクマ天使は、夫を指さして(指ないから肉球?)「わいはなぁ、あいつの守護天使や」って言ったんですね。 それを聞いた瞬間、私は腰が砕けました。(笑)こんな黄色いクマのぬいぐるみ天使が夫の守護天使って!!って。それもそんな姿でべたべたの関西弁をしゃべってるのがまたおかしくておかしくて、あまりにも面白くて、私はその時、完全に怒っていることを忘れてしまいました。 それを聞いた参加者のお一人が「うさん臭い」と言ったんですけど、こんなの見てなきゃ、そりゃあ、うさん臭いですよねー。どう考えたって、作り話に聞こえますよ。(笑) でも、少なくともこの時の私には、かわいいクマのぬいぐるみの天使なんて、想像する余地はありませんでした。 そもそも、私の頭の中にクマの天使のイメージはなかったですから。(笑) それから、3日くらいは、夫の顔を見るたびに、黄色いクマのちび天使を思い出して、噴き出さずにはいられませんでした。 今思うと、天使は、私の性格をものすごく把握していたんだな、と思います。あえてあの姿、あの言葉でやってきたんだと思います。これでも私は、たいてい不思議なものは見慣れています。 だからあの場面で、私が想像するような美しい大人の天使が出てきて私に優しく語りかけて説得しようと試みたなら、私はきっと逆ギレしていたでしょう。(天使に逆ギレって^^;;) でも、あんな間抜けな姿で、出てこられたら、もう完敗です。怒る気力は失せ、そもそも何で怒っていたのかすら、忘れてしまいました。 夫の守護天使恐るべしって感じです。(笑)それから、離婚しようと思っていたこともすっかり頭から消えて、なんだか元通りの生活に戻ってしまいました。 なにしろ、しばらくはその天使をネタに笑ってばかりいたので、怒る気持ちにはなれなかったんですね。もしかすると、そんな後々のことまで、考えてそんな姿に身をやつしてくれたのか?と思うと、すごい、やるなぁって感じですね。 あの時、あの天使が出てきて、私をいさめてくれなかったら、今私は、ブログを書いたりしていなかったかも知れません。魂のお仕事に目覚めることなく、自分の生活に追われていた可能性も大です。そして、心のどこかで悶々としていたでしょう。自分が本当にやることは何かを求めて。 そう考えると、どこまでも私のことをわかってくれていた、あれはひょっとしたら、私の守護天使だったのかも知れません。 そもそも、天使も神様も存在そのものは、形があるわけではなく、光だと感じています。時々姿が見えたりするのは、単に私たちの意識にわかりやすく出てきてくれるのだと、私は思っています。だから、逆に形を持って、しっかりと存在感をもっている時、私はいつもびっくりしてしまうのです。 以前、ベランダで洗濯物を干していた時にも、ふと背中に視線を感じると思って振り向くと、そこには巨大な龍がこちらを鋭い眼でぎろりと見ていて、思わず洗濯物をとり落としそうになったことがあります。 ひ、ひぇーっ(^^;;;な、何か御用・・・? 一言で言うと、その存在は迫力そのものです。いるだけで、すくむ。ちょうど蛇に睨まれたカエルみたいな気分でした。 思わず私はあたりを見回して、この龍を見ている人が他にもいないか確かめたくなりました。こんなものすごい存在感を誰も気づかないなんて、ありえないよね!?と他の人に同意を求めたり、つかまったり(笑)したかったんです。 でも、そんなときに限って、誰もいなかったりするんですよね。 それも見計らってる?とは思いましたが。 私が疑り深いことは、きっと、どの存在にもばれてるんだろうなぁ、と思います。まぁ、それに色々メッセージをもらっても、20数年も無視し続けてきたんですから、それも無理もないってものですね。(笑) 人間の私は、びっくりするぐらい合理的なことが好きで、非合理なことは嫌いです。無駄遣いも嫌いだし、余分なものを家に置くのも嫌い。我が家に遊びに来た人たちは、こぞって家を片付けたくなる、と言うのですが、うちが片付いている最大の理由は、単にお掃除が楽だから。 美しいのは好きだから、飾るのは嫌いではないけれど、そうしたものには、ほこりがつきやすくて、お掃除が大変。だから、うちには、あまり飾りものは置いてないんですね。なにしろ、そんなにマメじゃないから、管理できなくなってしまうから。 特にガラスとか、光りものは、光らせておかないと汚く見えて、エネルギーが落ちるので要注意です。 なんだか風水みたいな話になっちゃいましたけど、綺麗にしておくって、色々な面で大きい影響を及ぼすよね、と思うのでした。 今日は、この辺で。(^^)**********************************あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 3, 2009
富士山のつづ゛き・・、の予定だったんですけど、うーん、書いちゃダメって感じなんです。どうしても、そこを避けて通ろうとする感じだったので、何かあるの?って感じですが、いまやっているエネルギーの流れを作るオーラハーモニーに関係としているのかもしれません。それが終わるまでお預けって、感じですね。楽しみにしていてくださった方、申し訳ありません。まぁ、それでなくても、いわゆる不思議なお話と言われそうなことは山ほどあるのですけど。20歳くらいの時は、いつもそんなこと続きで、だんだん不思議たとは、思わなくなったものでしたが、いまだに、自分が見たことのないものは信じていません。(笑)だから、毎回、新しい体験をするたびに驚いています。と同時に、自分が見えないから信じないという人の気持ちも実は私、理解できるんですよね。自分がそうだから。(笑)自分がそういうことを見たりする人間じゃなかったら、ものすごい懐疑主義者だったかもしれないとすら思います。私にとって、別にそういう不思議なことは、どっちでもいいこと。家族と仲良く暮らせて、毎日が彩りに満ちて幸せなこと、それが私にとって一番大切なことです。人に愛を語ることも、最近、ものすごく楽しいことの一つになってきました。愛を語り始めてるって、感じると熱が上がってきて、楽しい!って感じます。人がそれに反応してくると、もう面白くてたまらなくなります。人をマッサージしてる時と同じような快感ですね。人が変わっていくのを見るのは、快感だけれど、自分が変わるのは、もっと快感なのかもしれないな、と最近思います。実際、自分が変わった時は、変わった、とは思わないけれど、周りが変わるんです。「あ、この人素敵になった。」とか、「話が合うようになった」とか「うわ―こんなに理解のある人だったっけ?」と思うようなときは、たいてい自分が先に変わっているんですね。人に自分の思うように変わってほしい!と思っている時の気持は、重くて重くて、相手はどんどん強くなって、がん!として変わりそうじゃない感じ。でも、自分が変わったら、魔法のように「あーら不思議」って変わってくる。これが不思議の世界でなくてなんだというんでしょう。(^^)人の変化で自分を計ると、相手を変えようとすることがばかばかしくなってきます。相手を変えようとすると、相手は抵抗しまくって、大変なことになるし、自分を変えた方がはるかに効率がいいってものです。どんどん変わって、そこから嬉しさを倍増させたい!だから、まだまだ私、これからも変わりますよ。(^-^)今回、なんだか書くモードって感じなので、いっぱい書いてます。明日からも毎日ブログ更新できるかも。****************************************あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 2, 2009
そうするとどういうことが起こるか、といえば、だんだん自分が何が好きで、どんなことがしたかったのか、それすらよくわからなくなってしまう。何かをした方がいいと思うのだけれど、いったい自分にどんなことが向いているの?なんてことを人に聞くことになる。 よく考えてみてください。向いているかどうかなんて、やってみなくちゃ分からない。それに、向いていようといまい、続ければ、そのうちなんだって上手くなってくものなんです。 でもその好きなことがわからなくなっている人がものすごく多いんです。びっくりします。 でも、本当のこと。 結局、自分の感情を表に出さないことが大人だと、思いこんで生きているから、自分の感情をなかったことにしてしまう。そして、それがだんだん積もって、大きな問題になるわけなんですね。 エンライトメントの考え方は、感情を抑えて我慢することかが大人なのではなくて、もっと高い位置からものを見られるようになることで、自然に腹が立たなくなったり、それまでものすごい問題だと思っていたことが大したことじゃなく感じられるようになっていくようになることが、本当の大人だと思うんです。 小さな子供にとっては問題でも大人になれば、大したことじゃないように、その視点の違い、ものの見方の違いが、私たちの人生の質を決めているんです。 自分が幸せになることを自分に許すのも、自分が不幸になるのを自分に許すのも、自分次第です。 自分だけが自分を幸せにも不幸にも、していくんです。 私は感情は神様からの贈り物だと思っています。どんな感情であれ、ないがしろにしていいとは思っていません。 ないがしろにされた感情は、必ずどこかで反乱をおこすんですよ。感情が爆発するのならまだしも、大きな病気の引き金になったり、人間関係のもつれになったり、必ず、問題を引き起こしてくれます。 だから、しっかり感情は、吐き出してあげる必要があるんです。だからと言って、怒鳴るとか、暴力をふるうのではなくて、きちんと相手に向かって「こう言われて自分は悲しかった」「つらかった。」と表現することなんです。 コミュニケーションをとるには、案外技術がいるんですよ。人はすぐ、相手の言葉に反応してしまうから。近い人間関係(家族とか)なら、特に。 反応して、売り言葉に買い言葉を返すことは、人の顔面にボールをぶつけているようなものです。ボールを顔にぶつけられた人は、当然痛いので、また相手の顔にボールをぶつけます。 これが私が見ている限り、たいていの人がやっている「話し合い」です。これはコミュニケーションとは、言わないのでは・・・? もし、あなたが顔にボールをぶつけられたら、どうしますか?相手に「はい」って何事もなかったように、優しくボールを返せます?それは無理ですよね。だからこそ、自分が最初にそれをするのは避けなきゃならないんです。自分の感情を分析する。そして、それを「上手に伝えるにはどうすればいいか」これを考えるんです。人は、ボールをぶつけられた相手に対して、どうやって相手をぎゃふんと言わせるかには、頭を使おうとするのですが、不思議なことに仲良くなることには、案外使おうとしません。 最初から諦めているからです。でも、最初から諦めて、どうやって、関係の修復なんてできるんでしょう? 本当の人間関係は、面倒くさくて、大変だと思っているなら、やっぱりのあなたはまだ本物の人間関係を手にしていないんです。本物の人間関係は、面倒くさくも大変でもなくて、むしろそれがなかったらどうしていいかわからないくらい、大切で、美しくて、喜びに満ちた関係です。 お互いがお互いを尊敬し合い、どちらが上でも下でもなく、思いやりがあって、一緒にいるだけで本当に癒される、そんな関係です。 そんなの理想だと思う人は、幸福の本当の意味を知らないだけなんです。それらは、決して理想ではありません。現実に私と夫との関係は、そんな感じです。以前は離婚しようとすらしたのに、今は、毎日いてくれてありがとう、幸せだね、と言い合えるのです。 今のこの瞬間、あなたにも、感謝したり、幸せに感じられるところがどこかしらあるものです。あなたが自分の現実を不満だと思っているなら、確実にあなたには、良いと悪いの両面の現実があるのです。あなたにとって、悪い面ばかりを見て、自分を可哀相に思っていても、あなたは決して幸せになれません。 なぜなら、あなた自身があなたの幸せを決めているからです。あなたが、あなたのものの見方を変える決意をしない限り、あなたの現実を変えることなんてできないんです。 セミナーやってても、自分が大変な目に遭った、ひどい目に遭った、と思っている人は、なかなか過去の自分の恨みや悲しみを手放そうとはしません。 でも、その思いが、誰に帰ってくるかというと、恨んだ相手ではなく、その人自身なんです。 悲しくなったり、恨んだり、憎んだりしたエネルギーは、相手に届いていると思っているかも知れませんが、そのエネルギーは確実にあなた自身に返ってきています。 これがエネルギーの法則です。あなたが出したものが全てあなたに返ってくるのです。 愛を出せば愛の中に生きることができ、恨みや憎しみに染まっていれば、その中で生きることになります。 本物の喜びに満ちた関係を、皆さんもぜひつかんでください。その関係を得るのに一番の早道は、自分の感情をまず知ることです。そして、同様に相手の感情の奥に何が本当は、隠れているかに気づくことです。 怒っている相手は、必ず愛を求めています。あなたの愛が必要だから、あなたに向かって怒っているんです。不思議でしょ?いじめている相手に助けてほしい、とSOSを出していたりするんです。 自分の心をまずしっかり見てください。あなたが本当は何が欲しいのかに、自分自身がまず気づいてあげてください。 そして、自分の感情を掘り下げ、しっかりと感じてください。感情は感じ尽くせば、手放せます。感じてはいけないと思うから、しつこく残るんです。感情を感じ尽くして手放し、ほんものの幸せをどうぞ手にしてください。 あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)***************************************よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 1, 2009
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