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「毎日更新」読レポ第2149カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作●佐治守夫・飯長喜一郎編『ロジャーズ・クライアント中心療法 カウンセリングの核心を学ぶ』(3/3) その基本となるプロセスは、以下のとおりである。①セラピストが、自身の「意識のモードを変える」。脱日常的な深い意識モードに、自らの意識モードを変容させる。②クライアントとの間にしっかりとしたつながりをつくる(プレゼンス)。③自分を消す。いった自分を完全消して、クライアントのこころの内側の世界に没入していく。クライアントになりきる。④完全に没入し、クライアントのこころの内側から、世界を眺める(インターナル・フレーム)些末なことにとらわれず、クライアントの内側で動いているものの「エッセンス」をつかむ。⑤エッセンスがある程度つかめたら、それをリフレクトする。クライアントに、内側で響かせてもらい、吟味し修正してもらう(「ディープ・オーセンティック・リスニング」)。⑥セラピスト自身の中で、ふっと浮かんできた、クライアントの体験のエッセンスにかかわる直観的なイメージなども伝えて、クライアントの内側に響かせてもらう(「二重の共感の時」)⑦両者が納得のいくまで続ける。⑧すべての現象をそのまま受け止める(「開かれた態度」)を取る⑨クライアントの体験のプロセスから出てきた、いくつかの重要なものを「つなげて」いく。クライアントの中で、意味はあるけども、つながりが生まれる(TAEの「パターンの交差」)。⑩自らの体験をより十分に自覚的体験してもらうために、「これまでの自分」「これまでの自分と違う、新しく生まれてこようとしているもの」「その間にあって、変化を妨げるもの」に意識を向ける。⑪クライアントの体験のプロセスの中で「新しく浮上してきやいるもの」に「なる」(立脚点の変更)。必要であればセラピストやメンバーとの間でロールプレイをおこなう。ロールスイッチ(交代)しながら、どの「心の立場」(ロール)「どの自分」も十分に体験してもらう。エンプティチェア、プローブ、フランクルの立脚点の変更など「体験をより十分に体験する」ために有益だと思われる技法を即時的補助剤として用いる。⑫他者の人がロールを演じているのを見たり、⑬その場で新たに生まれてくるものを随時ピックアップしたり、⑭プロセスの停滞時には「自ら内奥の知識」にアクセしたり、⑮「エッジ」を「自分を守ってくれるもの」として尊重しながらプロセスを十分に展開していく⑰何回かの面接後、もしある方向がはっきりと打ち出せれたくれば、(「こうしたいんだと思います!」)、「2週間以内にしてみること」「トライすること」を語ってもらう(アクション・プラン)。⑱次のセッションにつなげられる。 おおよそ、このような展開においてクライアントはそれまで放置され、大切にされてこなかった自分の内側深くの「五感と内臓感覚的な体験」に立ち返って、深くつながり直す。内側の体験を十分に体験し、体験し尽くすのである。と著者は述べています。 この心理療法のプロセスは、セラピストがクライアントとの深い関係を築き、クライアントの内面的な体験を深く理解するための一連のステップを示しています。以下に要約します。①意識の変容、②プレゼンスの構築、③自己消失、④内側からの視点、⑤リフレクション、⑥直観的イメージの共有、⑦納得のいくまで続ける、⑧開かれた態度、⑨重要な要素のつなぎ、⑩自覚的体験の促進、⑪立脚点の変更、⑫他者のロール観察、⑬新たな発見のピックアップ、⑭内奥の知識へのアクセス、⑮エッジの尊重、⑯アクションプランの設定、⑰次のセッションへのつなぎなどの17のプロセス踏んでクライアントは自身の内面的な体験に再接続し、深く体験することが促すよです。 特に私は、③自己消失の 自分を消し、クライアントの内面に没入する。④内側からの視点: クライアントの心の中から世界を観察し、エッセンスを把握する。が重要に感じた。クライアントの内面に入り、ともに歩む伴走者になり、クライアントの安心感をつくり、やがてクライアントが伴走者がいなくても自律してあゆめるように支援することが重要だと思います。
2024.07.31
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「毎日更新」読レポ第2148カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作●佐治守夫・飯長喜一郎編『ロジャーズ・クライアント中心療法 カウンセリングの核心を学ぶ』(2/3) 誠信書房より刊行予定の拙著『カウンセラー、コーチ、キャリアコンサルタントのための自己探究カウンセリング入門―体験ーアウェアネス―意味生成アプローチ(EAMA)の理論と実際―』は、著者が現在おこなっている「ロジャーズの理論と実践をベースにした新しい総合的アプローチ」である「体験―アウェアネス―意味」生成アプローチ(EAMA:fully Experiencing - Meaning Approach)の基本を記した本である。ロジャーズが51歳の全盛期に説いた、「すべてのケースにはっきと現れる心理療法の一つの側面は、体験のアウェアネス(awareness of experience)とか、体験を体験すること(the experiencing of experience)と呼びうるものである」「心理療法とは、五感と内臓感覚的な体験に立ち返ること」であり、「自己を体験するものである」「自分自身の体験のいろいろな側面を五感の器官や内臓感覚的な装置を通じて感じれるままに吟味していくこと」(Rogers,1953)である、という考えを基盤に据えた、独自の総合的アプローチ(EAMA)の全体像を記した。 EAMEは個人セッション、グループセッション、2つの形を通しておこなわれる。個人セッションであれグループセッションであれ、クライアントになりきって、「クライアントのこころの世界」を「共に体験する」。共に体験し、体験し尽くす。なぜか。人は一人では、自分の内側の体験を十分に体験することができないからである。EAMEのカウンセラーは、人生という孤独な道を歩んでいるクライアントの「同行者」となる。心の旅の「同行者」を得ることでクライアントは、一人で不可能な仕方で、より深く自分の内側に入っていくことができるようになる。一人では不可能な仕方で、よりじゅうぶんに自分の体験を体験することができる。 人は、その内側でさまざまなことを体験している。内側の体験は「もっと体験されたがっている」。しかし、人は一人では、なかなか自分の内側深くにしっかり入っていくことができない。内側の体験は放置され、それが人のこころや人生の展開を妨げている。停滞させている。 EAMEでは、個人セッションであればカウンセラーが、グループセッションであれば他のメンバーもいっしょに、クライアントになりきって、一つになり、その心の世界を「共に体験する」。共に体験し尽くす。クライアントは自分の内側深くで入って、自分の体験しつつあったことをもっとじゅうぶんに体験するようになる。内側ですでに生まれていた体験―しかし本人からじゅうぶんな注意を払われることなく半が放置されていた体験を、カウンセラーや他のメンバーと共に、よりじゅぶんに体験する。より広く、より深く体験し、体験し尽くすのである。そのためにさまざまな心理技法を即時的に用いる。 内的体験がじゅぶんに体験され、体験されした時、体験プロセスは前進的に展開する。するとその人は、停滞から解放され、向かうべき方向に向かっていけるようになる。「これが私だ、私の歩むべき道だ」「私は自分自身の人生をじゅぶんに生ききっていける」そんな実感を持ちながら日々を生きていくことができるようになる。新たな人生の意味と物語がそこから始まる。と著者は述べています。 著者が現在おこなっている「ロジャーズの理論と実践をベースにした新しい総合的アプローチ」である「体験―アウェアネス―意味」生成アプローチの基本は、ロジャーズが51歳の全盛期に説いた、「すべてのケースにはっきと現れる心理療法の一つの側面は、体験のアウェアネスとか、体験を体験すること呼びうるものである」「心理療法とは、五感と内臓感覚的な体験に立ち返ること」であり、「自己を体験するものである」「自分自身の体験のいろいろな側面を五感の器官や内臓感覚的な装置を通じて感じれるままに吟味していくこと」をベースにしている。 このアプローチでは、個人セッションとグループセッションを通じて、クライアントが自らの内面的体験を深く掘り下げることを支援します。カウンセラーはクライアントの心の旅の「同行者」となり、共に体験を共有することで、クライアントは一人では味わえない深い内面的体験を得られます。 内面的な体験を十分に感じ取ることが重視され、クライアントは自己の体験をより広く、深く理解することで、心の停滞から解放され、自己の人生を実感しながら進むことが可能になります。新たな人生の意味や物語がそこから生まれるのです。 私もクライアント一人ではなかなか自分の奥の心を深められない人には、カウンセラーなどが、クライアントの心の同行者になって支援して行くことが大切だと思う。自ら自己変容しなければ、こんがらがっている悩みからは、抜け出せない可能性があると思う。 それには、クライアント自身が五感と内臓感覚的な体験に立ち返ることであると私も思う。その支援での同行者がカウンセラーなどだと思う。 私の自然体験(環境学習)やネイチャーセラピーは、参加者の五感の器官や内臓感覚的なもの感覚を磨いたり、取り戻していくことで自分らしさを生きる支援やケアをしています。自らの自己獲得、自己発は、自己肯定感にも結びつけると思います。
2024.07.30
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「毎日更新」読レポ第2147カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作●佐治守夫・飯長喜一郎編『ロジャーズ・クライアント中心療法 カウンセリングの核心を学ぶ』(1/3) 私は、1982年筑波大学入学直後から、4つ年上の末武康弘市(法政大学教授)、上嶋洋一氏も参加していた「筑波大学カウンセリング研究会」(顧問・松原達哉)で、ロジャーズ流のカウンセリングやフォーカシングルなどの学習に没頭していった。この本は当時のわたしにとっての「テキスト」だった。今回久しぶりに手に取ってみてうれしかったのは、近年の新しい動向も含めて新版に改訂されていたことである。 私も、1993年に「ロジャーズ派の三派分裂問題」という論文を書いていたが、今や三派どころではないようである。P・サンダースの『パーソンセンタード・アプローチの最前線』(2004)ではPCAグルーっプには、「古典的クライアントセンタード・アプローチ」「フォーカシング指向セラピー」「体験的パーソンセンタード・セラピー」「実存的心理療法」「総合的パーソンセンタード・セラピー」の五派にわかれている。グリーンバーグによって開発された岩壁茂氏によって普及されているエモーション・フォーカスト・セラピー(EFT)は「体験派」でヨーロッパでたいへん勢いがある。 P・サンダーズは、「パーソンセンタードの第一原則」として①自己実現傾向の重視、②六条件の必要性の主張、③少なくともコンテント(内容)レベルでの非指示的態度の重要性(プロセス・レベルは必ずしも必要ない。プロセスの優れたディレクターであることは許容する)の3点をあげ、パーソンセンタードと称するからには、これらすべてに同意する必要がある、とする。その上で第二原則として、①クライアントの自律性と自己決定権を脅かさない、②クライアントとセラピストの対等性あるいは非専門性を重視する、③非指示的な態度と意図を最重要視する、④六条件の十分性(ほかの条件や方法論、技法を取り入れない)⑤全体論(生命体の一部だけに応答しない)をあげ、これらを採用するかどうかは個々にまかせてよいとする。 「実在心理療法」の中にフランクルのロゴセラピーがはいっていたりして「それは行きすぎだ。フランクルは面接中8割、自分の話してるぞう」と突っ込みたくなったり、統合的立場代表作のR・ワ―ズリーは、「私はパーソンセンタード及び体験的セラピー一族内の『学派』や特定のアプローチについて述べてるつもりはありません。それよりは、私が一個人として実行したいと考えている方法を記述したいのです」などと思い切り自由だったりする。 私自身は、ロジャーズ派の中でどのようなポジションなのだろうか。後述するように、EAMEという統合的アプローチを行っていたりするので基本的には「体験的パーソンセンタード派」であろうが、私のある側面はかなり「古典的ロジャーズ派」である。また、(フランクルやフォーカシングをかなりやっているので)「実存派」であったり「フォーカシング指向」であったりする。そう考えていくと、統合的立場のワーズリーと同じように「私は自分がしたいこと、しようと思っていることをします」とだけ言うのが最も自由でいい。ロジャース自身もそのような姿勢であったと思われる。と著者は述べています。 著者は、1993年に「ロジャーズ派の三派分裂問題」という論文を書いていたが、今や三派どころではないようです。今や、わかるだけでも5派あり。グリーンバーグによって開発された岩壁茂氏によって普及されているエモーション・フォーカスト・セラピー(EFT)は「体験派」でヨーロッパでたいへん勢いがあるようである。 その中の5派のうちのP・サンダーズは、①自己実現傾向の重視、②六条件の必要性の主張、③少なくともコンテント(内容)レベルでの非指示的態度の重要性(プロセス・レベルは必ずしも必要ない。プロセスの優れたディレクターであることは許容する)の3点をあげて、また、第二原則として、①クライアントの自律性と自己決定権を脅かさない、②クライアントとセラピストの対等性あるいは非専門性を重視する、③非指示的な態度と意図を最重要視する、④六条件の十分性(ほかの条件や方法論、技法を取り入れない)⑤全体論(生命体の一部だけに応答しない)をあげ、これらを採用するかどうかは個々にまかせてよいと言っています。 私も心理療法では、「非指示的態度の重要性」と「クライアントの自律性と自己決定権を脅かさない」、「クライアントとセラピストの対等性」を大事にしたと思います。「誰かに、言われ」ての変容は、また、誰かに言われたら、簡単にまた変容すると思うからです。他人軸では無く、自分軸で気づき変容していかないと、本当の自己変容にはなっていかないと思う。他人軸での自己変容は、自分の基盤がないので、元に戻ってしまう可能性や悪化してしまう可能性があると思う。自ら気づくように、ファシリテーターように促進することがセラピストには大事と思う。
2024.07.29
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「毎日更新」読レポ第2146カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作【解説書】●ブライアン・ソーン『カール・ロジャーズ』(Carl Rogers邦訳『カール・ロジャーズ』)(Thomo,1992) 英国ロジャーズ派の重鎮ブライアン・ソーンの書いたロジャーズの入門書である。 ソーンのロジャーズ論の特徴は、そのスピリチュアルな次元の重視にある。ロジャーズが晩年、スピリチュアルな次元を重視し、セラピスト自身が「変性意識状態」にある時にセラピィは最もうまくいくし、その時二人は新たな超越の次元に踏み入っていくのだ、と言い始めた時、多くのロジェリアンはそれを無視ないし軽視していた。その中にあったソーンだけは、そこにこそロジャーズの、そしてこの学派の真骨頂があるのだと主張し、以来徐々に、支持者を獲得していった。その結果、スピリチュアルないしトランスパーソナルな次元からのロジャーズ研究が盛んになっていったのである。 巻末には、日本人で最もロジャーズと親交が深かった故・畠瀬稔氏のインタビューが収録されている。ロジャーズの印象についてたずねると「とても誠実で信頼できる人だなという印象ですね。こちらがいつ質問しても、いつもきちんとすかさずに答えてくれるし、手紙を書くと取りも直さずに、すぐに返事をくれます。すごく透明で誠実で彼の論理のままだな、とう印象です。(中略)日本で1983年にワーシップをおこなった折も、帰国後、手紙とともに、ポロータイを5本ばかり送ってくれたりして……。とにかく、信義を尽くす人、礼儀を尽くす人、というのが私の印象です」と語られた。 最後に「先生にとってロジャーズのアプローチ、パーソンセンタードの本質とは何でしょうか」とたずねると、「人間関係のパワーの問題ついて大転換をおこなったことだと思います。心理療法やカウンセリング、教育、福祉、結婚、親子、夫婦……ありとあらゆる場面で、一人一人が持つ潜在的な力を最大限に発揮できるようにお互いのパワー(権力)を平等に認める関係を追求したことではないでしょうか。リチャード・ファーソンがロジャーズを『静かなる革命家』と呼んだことのインパクトは大きいと思いますよ」と答えられた。同感である。と著者は述べています。 この本は、ロジャーズ派の重鎮ブライアン・ソーンによるロジャーズの入門書として述べています。ソーンは、ロジャーズが晩年においてスピリチュアルな次元を重視し、セラピストが「変性意識状態」にあるときにセラピーが最も効果的であると主張したことで、スピリチュアルあるいはトランスパーソナルな視点からのロジャーズ研究が盛んになってきた本である。 ロジャーズのアプローチ、パーソンセンタードは、人間関係のパワーの問題ついて大転換をおこなったことだと思います。心理療法やカウンセリング、教育、福祉、結婚、親子、夫婦……ありとあらゆる場面で、一人一人が持つ潜在的な力を最大限に発揮できるようにお互いのパワー(権力)を平等に認める関係を追求したことではないでしょうか。リチャード・ファーソンがロジャーズを『静かなる革命家』と呼んだことのインパクトは大きいと思う。 ロジャーズは、一人一人が持つ潜在的な力を最大限に発揮することに視点で、心理療法やカウンセリングに注いだであろうと思う。その一人一人の潜在意識を引き出していって心理療法やカウンセリングの分野を切り拓いていったのだろう。
2024.07.28
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「毎日更新」読レポ第2145カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作 ●『カール・ロジャーズ著作集』(Kirschenbaum and Henderson [eds.],The Cal Rogers Reader邦訳『ロジャーズ選集(上)(下)』)(kirschenbaunm & Henderson,1989) ロジャーズの代表作的な論文を集めて編まれた著作集である。この本は下手な人が編集するとひどい内容になるが、その点この本は大丈夫。編集はロジャーズ研究の第一人者であるハワード・カーシェンバウムである。ロジャーズのすべてを知り尽くした人が編集しただけあって、筋のいい論文が揃っている。たとえば、死の前年に書かれた「感所のリフレッシュン」論文、「転移」についての論文、ジャンとの面接記録を収めたロジャーズの最後の公式的な論文、ルスト・ワークショップ論文、リアリティに関する論文などが収めている点にセンスのよさがうかがえる。と著者は述べています。 この本は、ロジャーズの死の1年前の著作集で、編集者はロジャーズ研究者のロジャーズを知り尽くしたハワード・カーシェンバウムで、筋のいい論文がそろっているよです。ロジャーズを知を理解するには適した著作集だろんな。 ロジャーズが傾聴の心理療法からエンカウンター・グループまでいたことがわかるのではないだろうかな。「クライエント中心療法」の提唱から、個人的成長、教育、科学、哲学といった専門的な論文まで書いている。ロジャーズを理解するため読むべきものかもしれない。 私も、教育を目指している者としては読みたいです。「学習者中心主義」を理解したいです。
2024.07.27
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「毎日更新」読レポ第2144カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作 ●『カール・ロジャーズ 静かな革命』(Carl Rogers:The Quit Revolutionay)(Rogerss&Russell,2002) 本章はロジャーズの晩年に、アメリカ心理学会第32部門の創設と発展を記録するためにカリフォルニア大学が企画したアーカイブ・プロジェクトによってなされた対談である。ロジャーズが障害をふり返りながら、みずからの実践についても語っている。 この本の魅力の一つは、本文もさることながら、ジェンドリンによる「序文」にある。まだ22歳くらいのジェンドリンが、勇気を出してロジャーズにはじめて会いに行く場面についてくわしく語られている。ロジャーズとという人間がこの世界で何にをなしえたのか、また何をなしうるのか、自分とロジャーズとの間に何が起こりうるのか、といったことのすべてが、20代前半のジェンドリンのなかで暗黙の「予感」としてインプライされており。それが二人を出会いへ導いたことが端的に示されている。ロジャーズはなんと幸せな人間なのだろう。まだ若き天才(ジェンドリン)によって、ある意味でロジャーズ本人以上にロジャーズのなした仕事の本質を理解され、見出された。それがジェンドリンとの出会いにつながったのである。 この「序文」を最初に読んだ時は、身が震えたのを覚えている。ロジャーズのなしたこと、ジェンドリンのなしたこと、そのすべてがこの短い「序文」」の中に集約されている。そう言ってもいい。必読である。 と著者は述べています。 この本では、ロジャーズが成し遂げたことや彼の仕事の本質が、ジェンドリンの中に暗黙の「予感」として存在し、その出会いが二人を結びつけたことが示されています。この「序文」は非常に感動的で、ロジャーズとジェンドリンの業績が凝縮された本です。ロジャーズから学ぶには、必読書であるようです。 ロジャーズが成し遂げたものが、若きジェンドリンに受け継がれていったようです。今のカウンセリングの分野をジェンドリンを通じてカウンセリングを広げていた一場面が分かる本なのかもしれません。
2024.07.26
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「毎日更新」読レポ第2143カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作 ●『ア・ウェイ・オブ・ビーイング』(A Way of Being 邦訳『人間尊重の心理学』(Rogerss 1980) ロジャーズの晩年の主著である。異文化間、国家間の緊張解消と世界平和の実現に独自の方法で取り組み続けたロジャーズが、その中で生まれたさまざまな新たな考えをまとめたものである。『パーソナルな力』刊行後わずか4年しか経っていないのに、前著に無かった視点がいくつも提示されている。70㈹後半から80代のロジャーズがなおも成長しつつあることがわかる。第5章「私たちは『一つの』現実を必要としているか」では、カルロス・カスタネダによるアメリカ先住民の呪術的世界の研究、ジョン・リリーによる感覚遮断実験などを引き合いに出しながら、私たちが日常的に経験している常識的現実とは別の「もう一つの現実」がありはしないか、心理学は勇気を持ってその可能性に挑むことができるか、私たちは複数の真理が共存する社会や共同体を構成していけるか、と問いを投げかけている。「変性意識状態」という項目では、ロジャーズが晩年に到達したセラピスト論が示されている。 第7章「共感的であること―誤解され続けてきた『在り方』では、こてまであまりに技術的に受け取れ真意が理解されてこなかった「共感」について再検討され、「状態としての共感」から「プロセスとしての共感」に更新されている。と著者は述べています。 ロジャーズの晩年の主著は、異文化間や国家間の緊張解消と世界平和の実現に向けた彼の独自のアプローチをまとめたものである。70歳後半から80代のロジャーズがなおも成長していることがうかがえます。ロジャーズは、「共感」の概念が再考され、「状態としての共感」から「プロセスとしての共感」へと更新されています。このように、ロジャーズは晩年においても新たな考えを展開し続けています。 ロジャーズは、晩年まで学び続けて成長を続けていたようです。私の尊敬する高校教員も「学び続けない教員からは、学ぶことはない」と言っています。その方は、常に学び続けてアップロードしています。私もその方の背中をみて、自分ができるアップデートをしています。日本は学歴社会に囚われていますが。最終学習が重要です。私のスウェーデンの師匠も言ってます。人は学び続けて成長するものです。
2024.07.25
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「毎日更新」読レポ第2142カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作 ●『パーソナルな力 個人のうちに潜む力とその革命的なインパクト』(Carl Rogers on Pesonal Powey:Inner Strength and its Revoiunary impact 邦訳『人間の潜在力』(Rogerss 1977) ロジャーズが「政治」という観点からこれまでの仕事全体の意味を見直した本である。第1章でのセラピィ場面に関する検討の後、以下の章では、家族、結婚とパートナーシップ、教育、行政、異文化間の緊張、被抑圧集団といったテーマをとりあげながら、それぞれの場面において「権力」「コントロール」「意識決定」の問題を論じている。特に、米国医師会や健康保険会社の代表と貧困層との対話を描いていた第6章、北アイルランド・ベルファストにおけるプロテスタンとカトリックの緊張緩和を目指したエンカウンター・グループの様子を記した第7章がこの本の山場となっている。 また1975年におこなわれた136名のメンバーによるパーソンセンタード・ワーシップの様子がかなり具体的に紹介されている。パーソンセンタード・アプローチの実際がよくわかる。と著者は述べています。 ロジャーズは、著作は「政治」という観点から彼の仕事全体を再考した。家族、結婚、教育、行政、異文化間の緊張、被抑圧集団といったテーマについて「権力」「コントロール」「意思決定」の問題を論じています。特に、米国医師会や健康保険会社の代表と貧困層との対話を描いていた第6章、北アイルランド・ベルファストにおけるプロテスタンとカトリックの緊張緩和を目指したエンカウンター・グループの様子を記した第7章がこの本の山場となっている。 このロジャーズの歩みからもパーソナルな力 個人のうちに潜む力とその革命的なインパクトがあることを改めて私も知りました。個人の中に潜んでいる潜在意識には、革命的な力があると思う。私もミーティングファシリテーターをやっているが、私が思っていないアイディアが出ることがありました。それのアイディアがでるには、「安心」「安全」に発言できる環境の場が必要です。進行・促進するファシリテーターに「公平感」「信頼感」が無いと新しもが生まれにくいです。それが、無いと個々の中に潜む力は、出て来ないですから。「安心」「安全」に発言できる環境の場が必要です。
2024.07.24
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「毎日更新」読レポ第2141カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作 ●『ピカミング・パートナーズ 結婚とそのオルタナティヴ』(Becoming Partners:Marriage and its alternative 邦訳『結婚革命 パートナーになること』(Rogerss 1972a) ロジャーズがまるごと一冊、結婚としれに代わるパートナーシップの在り方を論じた異色の本である。内容もきわめて革命的で、一般には不倫とか愛人といった言葉で否定的に語られがちな配偶者以外の異性との関係を「衛星関係」と呼び、それに肯定的な意味を与えている。お互いを役割や規範で縛り合いながら不自由な夫婦生活を続けるより、他の異性とも親密な関係を持ちつつ、しかもそのことを夫婦間で語り認め合うほうが、それぞれが独立した人間として成長できるばかりか夫婦関係そのものも豊かになっていく、と言うのである。村山夫妻による邦訳に付けられた『結婚革命』というタイトルは、本書の内容を的確に言い表している。と著者は述べています。 ロジャーズの著作は、伝統的な結婚に代わる新しいパートナーシップの形を提案しており、特に配偶者以外の異性との関係を「衛星関係」と名付けて肯定的に捉えています。この考え方では、互いに役割や規範で束縛される不自由な夫婦生活よりも、他の異性とも親密な関係を築きつつ、夫婦間でそれを受け入れ話し合うことが、個々の成長や夫婦関係の豊かさに結びつくとロジャーズは、言っている。 まさしく、タイトル『結婚革命』です。親密な関係と言っても、様々ことがあるが。夫婦以外と食事をしたり、一緒にどこかにいくことは、いいだろうが。〇〇関係になると様々な問題がでてくる。人には嫉妬という感情があるから、現在は既存の規範がそれを後押ししています。人間は規範という枠があると安心するので、ロジャーズの提案はまだ程遠いのが現実です。もちろん、ロジャーズが言っているように個々の成長や夫婦関係の豊かさに結びつくと私も思います。
2024.07.23
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「毎日更新」読レポ第2140カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作 ●『エンカウンター・グループ』(Carl Rogers on Encounter Group 邦訳『エンカウンター・グループ』(Rogerss 1970) 60歳過ぎた頃からロジャーズはベーシック・エンカウンター・グループに熱中し始め、たちまちにしてエンカウンター運動を代表する人物となった。「抑圧家族」で育ったロジャーズは喜怒哀楽を自由に表現することに困難を感じていたが、エンカウンター・グループに深くかかわっていく中で、自身のこの課題を克服していくことができた。 第3章「私はグループの中で促進的な人間でありうるか」でロジャーズは、自分がファシリテーターとしてとっている態度や行動をかなり具体的に述べている。いわゆるカリスマとして、模倣の対象とされることを強く嫌うロジャーズは、ここでも、「自分のグループ・ファシリテーションのスタイルを語ってほしいと願っています」と言うのを忘れない。と著者は述べています。 ロジャーズは、60歳を過ぎてからベーシック・エンカウンター・グループに熱中し始めて自分の「抑圧家族」で育ったロジャーズは喜怒哀楽を自由に表現することに困難を感じていたが、自身のこの課題を克服していくことができた。 たちまち、ロジャーズは、エンカウンター・グループのカリスマになったが、カリスマ視されることを嫌う彼が、自分のファシリテーションスタイルを他者に語ることを望んでいることが強調されている。 抑圧家族で育つと喜怒哀楽をするのを抑えていたので、ロジャーズは、このエンカウンター・グループに出会い、喜怒哀楽を自由に表現することに自由を感じていたのだろうと私は思う。 今の日本の家族でも親の「いい子」でいることの抑圧はあります。いい子がいられなくなり、自分を失う子どもが多くなっていると思う。親は、子どもに自分の価値観を押しつけないことです。一人の人間として子どもを尊重することです。
2024.07.22
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「毎日更新」読レポ第2139カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作 ●『学習する自由』(Freedom to Leam:A View of What Education Might Become 邦訳『ロジャーズ全集 第22巻 創造への教育(上)』『ロジャーズ全集 第23巻 創造への教育(下)』(Rogerss 1969) ロジャーズははじめて教育についての考えをまとめた著作である。学生時代、成長とは「経験の連続的改造」であり、それこそが教育の目的であると考えるデューイの教育哲学に触れて以来、ロジャーズは教育に関心を注ぎ続けてきた。そのためロジャーズは、その著作活動の比較的初期から教育に関する論文を執筆してきたし、またみずからも大学の授業でいわゆる「学生中心の教授」を実践していた。 ロジャーズの教育論の骨子は、一言で言えば「教えない教育」、自分で真理を発見していくプロセスを「援助する教育」である。カウンセリングや心理療法の分野で発見した「クライアント中心」のアプローチをそのまま教育の領域に応用し、「学習中心」のアプローチへと発展させたのである。しかもそのまま射程は教室内にとどまらず、教室での実践を支える教育組織そのものの変革にも取り組んでいった。着手し始めた様子を報告してこの本は閉じられている。その顛末は続編『学習する自由に 八〇年代に向けて』(Freedom to Learn for the 80’s 邦訳『新・創造への教育1 自由の教室』『新・創造への教育2 人間中心の教師』『新・創造への教育3 教育への挑戦』(Rogerss 1983a)にくわしく記されている。と著者は述べています。 ロジャーズは、デューイの教育哲学に触れてから、教育についての考えをまとめ、彼の教育哲学の中心は「教えない教育」であり、学習者自身が真理を発見するプロセスを援助することです。デューイの教育哲学に影響を受け、ロジャーズは「学生中心の教授」を実践し、カウンセリングの「クライアント中心」アプローチを教育に応用しました。このアプローチは教室内の学習だけでなく、教育組織自体の変革にも及んだようです。 今の日本に必用なのは、デューイの教育哲学とロジャーズの「教えない教育」であり、自分で真理を発見していくプロセスを「援助する教育」が必要だと思う。 これは、プロセスを「援助する教育」は、現在の教師だけでなく、すべての大人にも必要だと思う。
2024.07.21
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「毎日更新」読レポ第2138カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作 ●『オン・ピカミング・ア・パーソン』(On Becoming a Personn 邦訳『ロジャーズが語る自己実現の道(ロジャーズ主要著作集3)』(Rogerss 1961a) ロジャーズの生涯を代表する一冊であり、最も多くの人に読まれてた著作である。当時アメリカ西海岸を中心に広まりつつあった人間性回復運動とあいまって、この本によってロジャーズはスーパースターの地位を確立した。ロジャーズ59歳にして出したこの6冊目の本が、ロジャーズの名前を一挙に広めた。それまでロジャーズの本の読者は、専門家止まりだったが、この本ではじめて一般の読者向けに書かれたのである。発売後直ちに読者から多くの反響が寄せられ、ロジャーズはたちまちにしてかつてなかったほどの脚光を浴びた。ペーパーバック版が普及し始めていたことも手伝って、数年のうちに60万部を突破した。 「これが私です」という自伝からはじまるこの本には21本の論文が収められている。「人を援助することについて」「自己生成のプロセスについて」「人間の哲学」「心理療法における科学の地位」「行動科学と人間」などにかかわる論文のほか、教育、創造性、家庭生活について書かれたものも含まれて、実に幅広い内容になっている。 その中心は、本章第2章でとりあげた「心理療法における自己変容のプロセス」についての考察である。クライアントの変容過程をもとに書かれた本書は、「人間がより自分らしい自分になっていく変化の渦の中に、みずからを投げ入れていく」、そのような変化の瞬間が鮮やかに示されている。これが多くの人のこころをうごかしたのだろう。 カウンセリングという分野を代表する歴史的な名著の一つである。にもかかわらず、日本語版があくまで学術出版という形で高価でしか入手困難な学術書のままという現状はきわめて残念である。英語国では、ペーパーバックで入手できるこの本が、高価で入手困難な学術書のままという現状が、日本におけるカウンセリング分野の発展を阻害してきた面もあろう。世界標準でいうならば、とっくに文庫本で出版されるべき著作である。日本におけるカウンセリング分野の健全な発展のためにカウンセリングに関心をお持ちの大手出版社にぜひ検討いただきたい。と著者は述べています。 ロジャーズが世界的に脚光を浴びたのが『オン・ピカミング・ア・パーソン』という本です。本書には21本の論文が収められており、「人を援助すること」「自己生成のプロセス」「人間の哲学」など、幅広いテーマが扱われています。特に「心理療法における自己変容のプロセス」に関する考察が中心で、クライアントの変容過程を描写し、人間がより自分らしくなる変化の瞬間を鮮やかに示しています。 前回のクライアントのミス・マンが語っている、DVDでの変容過程を描写し、人間がより自分らしくなる変化の瞬間を鮮やかに示しているのだろうな。 しかし、日本での邦訳『ロジャーズが語る自己実現の道(ロジャーズ主要著作集3)』は、高価で入手困難な学術書のままとなっている。英語圏では、一般の人も、ペーパーバックで入手ができる。それが、日本のカウンセリング分野の発展を阻害していると言っている。 私もぜひ、読んでみたいが内容が学術書のままだと理解できるか??です。高価な本を買うのを躊躇してしまう。中古本をみつめてみよう。
2024.07.20
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「毎日更新」読レポ第2137カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作 ●カール・ロジャーズ(畠瀬稔・監修)『ロジャーズはのカウンセリング(個人セラピー)の実際』コスモス・ライブラリー ロジャーズの全盛期、まだ50代前半の引き締まった、美しいカウンセリングの実際を見ることができる貴重なDVDである。1953~1955年頃に撮影されたミス・マンとの面接である。私はもう100回は見たのではないだろうか。何度見ても鍛錬になるのである。クライアントのミス・マンが語る。そこでDVDを止めて、自分ならどう言うかな、と考える。DVDの一時停止を解除し、ロジャーズがどのよう言ったのか確認する。この作業ほど、よいカウンセラー・トレーニングはないかもしれない。少なくとも私にとってはそうである。と著者は述べています。 ロジャーズの50代前半のカウンセリングは、実に美しいカウンセリングであったようで、その一部のミス・マンとの面接の記録がDVDに残されていて、日本語訳のDVDがあり、著者は100回くらいは、見ていた。著者には、よいカウンセラー・トレーニングになったようである。 私は、まだ見ていないが、以前の章でミス・マンとの面接が書かれていた。確かロジャーズは、しっかり丁寧にミス・マンの言葉に耳を傾けていた。ミス・マンの言葉にしっかり受容していたことが書かれていた。しっかり、ミス・マンの言葉を否定せずに受け取っていた。そうして行くうちに、ミス・マンが徐々に変化していったのだろう。 私も、このDVDを購入してトレーニングしよう。実際に、カール・ロジャーズの美しいカウンセリングが見たくなりました。
2024.07.19
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「毎日更新」読レポ第2136カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作 ●『心理療法の本質―変化の瞬間―』(”The Essence of Psychotherapy :Momnts of Movement”)(Rogers,1956a) ロジャーズの論文を一本だけ初回してほしいとリクエストされたら、オススメしたいのが、この論文である。2000年に英国イースト・アングリア大学で開催された「英国ロジャーズ派カウセリング学習ツアー」に行った際、キャンベル・パートンのセッションで資料としてこの論文が配布された。 この論文には1956年の出来事とのかかわりで「新モデル」へ脱皮し始めるロジャーズの姿が、端的に示されている。「人間が変化する瞬間」(monent of movement)についてロジャーズの新たな気づきのようなものが新鮮な驚きとともにみずみずしく示されている。 その後、ロジャーズは7、8年、「クライアントが、まさに変化するこの瞬間」「それに引き続いて起きてくるプロセス」の解明に心血を注いでいく。その変化の兆しをなまの形で感じることができるのがこの小論である。クライアントの変化の瞬間に起きていること、セラピィの本質について端的に語られている良質の論文である。と著者は述べています。 この論文は、ロジャーズが1956年からの「人間が変化する瞬間」に関する新たな気づきを示したものであり、その後7、8年間、クライアントの変化の瞬間とその後のプロセスに焦点を当てたものである。クライアントの変化の瞬間やセラピストの本質について端的に語られており、良質な論文である。 ロジャーズは、クライアントの変化の瞬間を丹念に見つめ寄り添い、心理療法の新たな道を拓ていったのでしょう。人はその内側に流れている「五感と内臓感覚での体験」の流れに一致して生きる時に、自己概念の拘束から解放され、真の自由になり、自分自身として生きていくことでの「クライアント中心療法」の道を切り拓いていたと私は思う。
2024.07.18
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「毎日更新」読レポ第2135カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作 ●『クライアント中心療法」(Client-Centered Therapy 邦訳『クライアント中心療法(ロジャーズ著作集2)』)(Rogers,1951) 『カウンセリングと心理療法』は大きな反響を起こしたが、その一方で「ノンディレ(非指示)」というテクニックの提供者として有名になるという不幸な結果をもたらした。ロジャーズのアプローチは、「相手の言葉を繰り返すだけの技法」として誤解されることになったのである。このような現象に嫌気がさしたロジャーズは、「非支持」という言葉を使うのをやめ、技法の説明もおこなわなくなった。それに代わって、クライアントのこころの世界をその内側から理解する、という「態度」を強調し始めた。「技術ではなく態度」こそ大切という考えをロジャーズがはっきりと打ち出したのが『クライアント中心療法』である。インターナル・フレーム・オブ・レファレンス(クライアントのこころの内側の、ものをみる枠フレーム)に自分自身も立って、相手になりきって理解することが真実の理解につながるのである。 人はその内側に流れている「五感と内臓感覚での体験」の流れに一致して生きる時に、自己概念の拘束から解放され、真の自由になり、自分自身として生きていくことができる。 ロジャーズの思想、理論の骨格をなす「内臓感覚的体験」「インターナル・フレーム・オブ・レファレンス」といったこれらの基本概念もこの本で提示されている。 「パーソナリティと行動についての一理論」という章では、当時盛んにおこなわれていた「自己」の機能に焦点を当てた諸研究を踏まえて、「自己理論」と呼ばれるロジャーズの理論が19の命題によって体系的に述べられている。ロジャーズの「理論構築家」としての本領が発揮されているのも、この本の大きな特徴である。と著者は述べています。 ロジャーズは、 『カウンセリングと心理療法』は大きな反響を起こしたが、、「相手の言葉を繰り返すだけの技法」として「ノンディレ(非指示)」と誤解されたので、「ノンディレ(非指示)」という言葉に嫌気をさした。そのおかげか、ロジャーズはクライアントのこころの世界をその内側から理解する、という「態度」が重要であることを見つけだした。 これが、ロジャーズの『クライアント中心療法』であった。 人はその内側に流れている「五感と内臓感覚での体験」の流れに一致して生きる時に、自己概念の拘束から解放され、真の自由になり、自分自身として生きていくことができる。 ロジャーズの思想、理論の骨格をなす「内臓感覚的体験」「インターナル・フレーム・オブ・レファレンス」といったこれらの基本概念ができたようです。 私も環境学習での外部講師しているが、「指示」というよりも、情報提供での見本みせて、「やりかたは、これだけではない」。例えば、魚採集では、採れれば、どんな方法でもOKと言っています。本人の五感をつかい磨いてくれることが大切です。これからの現在及び将来の問題にみずから対処するためにも、感覚を育てることだと思う。これからのAI時代には必要です。
2024.07.17
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「毎日更新」読レポ第2134カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第10章 これだけは読みたい!主要著作 ●『カウセリングと心理療法―ブラクティスにおける新し諸概念』(Counseling and Psychotherapy:Newer Concepts in Practce 邦訳『カウセリングと心理療法(ロジャーズ主要著作集1)』(Rogers,1942) ロジャーズの出世作にして「現在カウンセリングの礎を築いた一冊」。カウンセリングの原点をしりたければ、これを読まずして何を読む、と言うくらいの本である。 カウンセリングには「空間の枠」「時間の枠」「行動の枠」といったさまざまな「枠」があり、その「枠」があるからこそ可能になる、という面がある。あるクライアントも「毎週1回、きまった場所で、決まった時間に、決まった長さで、ここでしかお会いしない方とお会いして、自由にお話しさせていただいて……この枠というか、構造というか、それがあるから、他ではできない、深いお話も安心してできるのよねえ」とおしゃって、「あぁ、わかっておられる」と思ったことがある。「枠」がなければ、カウンセリング、心理療法などできはしない。「枠」「制限」「構造」があるからこそ、クライアントもカウンセラーも安心して、自分の内側深くに入っていくことが可能になるものである。 ロジャーズの『カウンセリングと心理療法』は現代のカウンセリングの基本形をしめした点で画期的である。「この新しいアプローチは、まったく異なる目標を持っている点で、旧いアプローチと違っている。(中略)焦点は人間であって問題ではない。特定の問題を解決するのが目的なのではなく、個人の成長を援助し、彼が現在及び将来の問題により統合された仕方で対処できるようになるのが目的なのである」というよに、問題解決型、症状除去型ではない、深く自分を見つめ、内省していくのを支援するカウンセリングの基本をつくったのである。また、そうしたクライアントがどのようなプロセスを歩むかも具体的に示されている。この本がカウンセリングの「基本のかたち」をつくったのである。 ロジャーズが敵陣に乗り込んで、みずからの「新しいカウンセリング」を確立したエキサイティングな「決戦の日」に起こった出来事の様子もリアルに示している。 ハーバード・ブライアンとの面接の全逐語記録を公刊し、カウンセリングや心理療法の実際をオープンにしたことは、この分野の科学的研究に道を拓いた。こういったさまざまな点で心理療法やカウンセリングの歴史の中で大きな意味を持つ「画期的な本」である。と著者は述べています。 ロジャーズは、この『カウセリングと心理療法―ブラクティスにおける新し諸概念』という本で、新しいカウンセリングの原型を確立させた。この本では、枠組みや構造の重要性を強調しています。 「空間の枠」「時間の枠」「行動の枠」といったさまざまな「枠」があるからこそ可能になるこそカウンセリングが可能になる。それは、安心して、クライアントもカウンセラーも自分の内側深くに入っていくことが可能になるからである。 クライアントもカウンセラーも、問題解決や症状除去ではなく、個人の成長を支援し、内省を促すカウンセリングの基本を示している本である。カウンセリングは、個人の成長を援助し、彼が現在及び将来の問題により統合された仕方で対処できるようになるのが目的なのである。 ロジャーズは、新しいカウンセリングの道を拓いた。また、カウンセリングや心理療法の実際をオープンにしたことは、この分野の科学的研究に道を拓いた。 ロジャーズは、カウンセリングや心理療法の「画期的な本」をつくった。
2024.07.16
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「毎日更新」読レポ第2133カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 教育組織の変革の挫折(2/2) ②ケンタッキー州ルイブヴィル市中心部の学校区の場合 1969年、貧困と失業に喘ぐこの地区の学校は荒廃し「恐るべき学校」と化していた。教育長のニューマン・ウォーカーは、ロジャーズと親密な関係を保ちながら、この学校区の変革に着手した。まず6ヶ月の間に、ウォーカー自身を含む教育委員会の全職員、校長、教師、事務職員1600人を1週間の対人関係ワークショップに参加させた。いくつかの学校で、オープン・スペースの教室、チーム・ティーチングなど、革新的な試みが次々と実施された。権威による支配から解放された子どもたちは一挙に爆発し、批判の声が相次いだが、計画を根に直し粘り強く実施したところ、この学校区は様相を一変し始めた。アチーブメントテストの成績も低落を止め、連邦政府から多額の援助を得ることもできた。 ウォーカーはこの革新に参加したいと望んでいる教師だけ計画を実施したいと考え、この学校区の教師の雇用計画をすべて刷新した。教師、インターン教師、保護者から構成される学校運営委員会が文字どおりの意思決定機関となり、黒人の多いこの地区の保護者の声が直接、教師の選抜や評価、カリキュラムの選抜などに反映されるようになった。ウォーカーを中心とする急進派の人々によってこの地区の教育革新は確実に成功を収めつつあった。 しかし、黒人中心のこの学校区を白人中心の郊外の学校区と合併するという裁判所の命令により、この革新は終止符を打つ。人種差別をなくす目的で、学校区における白人生徒と黒人生徒の比率が定められ、それぞれの居住地区からスクールバスでの輸送(busing)が実施されたが、これに反対する暴動が激化したのである。郊外部の教育長が新教育長に就任することになっていたが、暴動を恐れて辞職し、保守的な郊外居住者の増悪の的になっていたウォーカーも別の市の教育長に転じることを余儀なくされた。 これらの失敗の理由としてロジャーズは「伝統的な権威主義的な組織にとって、このような変革は脅威である」と指摘している。実際、イマキュレート学校区が資金援助を打ち切られたのは、自分たちで規則をつくろうとする修道女たちの民主的な行動が、カトリックの常識から外れたものであったからだ。ルイブヴィル市学校区のウォーカーが中・上流階級の白人の増悪の的になったのは、彼らの変革があまりに大胆で革新的であることに脅威を感じたからであった。いずれも変革の対象となった学校区の内部では成功を収めつつあったところに、その変革に脅威を感じる外部から打撃が加えられ、失敗に追い込まれたのである。 これらの失敗事例は、根本的な教育改革をおこなう時に直面するであろう大きな困難について、重要な示唆を与えてくれる。と著者は述べています。 ロジャーズの影響を受けたケンタッキー州ルイビル市中心部の学校区の教育長のニューマン・ウォーカーが、貧困と失業に喘いでいた地域の学校の変革のために、教育委員会の全職員や教師など1600人を対人関係ワークショップに参加させ、革新的な試みを実施した。この取り組みにより、成績が向上し、連邦政府からの支援も得られるようになった。 だが、裁判所の命令により、この学校区は白人中心の郊外の学校区と合併することになり教育長のニューマン・ウォーカーの革新的な試みが、郊外の学校区の白人中心との軋轢から、結局、ニューマン・ウォーカーの革新的な試みが失敗に至った。 その失敗の背景の理由としてロジャーズは「伝統的な権威主義的な組織にとって、このような変革は脅威である」と指摘している。 権威を持っている人たちからは、脅威を感じて、打撃をあたえて、失敗に追い込まれたのであろう。 でも、この教育長のニューマン・ウォーカーの革新的な試みは、変革の対象となった学校区の内部での教育関係者にとっては、これからの教育の在り方の変化の礎になったと私は思う。その礎が今のアメリカの学校教育に反映されている。私は、一部の有名なアメリカの大学の情報しか知らないが、大学では、教員と学生が共にディスカッションしながら学びあっていて成長して、新しいモノを生み出している。 ロジャーズやケンタッキー州ルイビル市中心部の学校区の教育長のニューマン・ウォーカーの革新的な試みは、活かされているとおもう。 行動こそ、試行錯誤でしょうが、変化や新しいモノを生み出すと思う。
2024.07.15
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「毎日更新」読レポ第2133カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 教育組織の変革の挫折(1/2) 『フリーダム・トゥ・ラーン』第13章「失敗のパターン」には、厳しい現実が記されている。イマキュレート・ハート学校区をはじめとするさまざまな教育組織において着手された組織変革のプランが、次々挫折して失敗していったのだ。 ①イマキュレート・ハート学校区の場合 先程の組織変革のプランに則り、ロジャーズは人間研究センターから20人のスタッフを送り込み、3ヶ月間でエンカウンター・グループを次々と実施していった。すべて自発参加であった(といっても、出席への圧力を感じた教師も少なからずいたようである)。大学の管理職と教授45人。中学・高校の管理職と教師36人、中学・高校の生徒のリーダー40人、22の小学校の教師、校長、行政スタッフ180人がひと月おきに週末エンカウンター・グループに参加した。ある教師は生徒の声に耳を傾けるようになり、またある大学教授は試験や成績評価を廃止する、といった、期待されたとおりの反応が次々と寄せられた。 途中で実はこの計画を支持していた管理職はトップの2人だけであり、他の管理職はこの計画に脅威を感じていて、エンカウンター・グループに参加していないことがわかった。また、学生と教授陣の一部からロジャーズのグループは「内政干渉」をしているという非難の声が上がり、撤退を余儀なくされた。とはいえ、学生の参加や主体性は強められ、大学のカリキュラムの全領域に変革の影響が及んでいった。 しかし、次の衝撃的な事件によってこの計画は頓挫した。変革を支持していた修道女たちが自分たちの規則は自分たちでつくると主張したところ、より厳格な規則に従うことを要求する枢機卿と激突し、ロサンゼルスの教区学校の教師をしているすべての修道女が解雇されてしまった。寄付金を失った大学と附属高校は、1980年に閉鎖に追い込まれた。と著者は述べています。 ロジャーズは、教育組織の変革のために『フリーダム・トゥ・ラーン』の第13章「失敗のパターン」で、イマキュレート・ハート学校区を含む教育組織における組織変革の試みが続けられたが、挫折と失敗が続いた。ロジャーズは20人のスタッフを送り込み、エンカウンター・グループを実施し、多くの参加者から期待された反応が得られた。しかし、一部の管理職のみが支持し、他の管理職や一部の教員から反対の声が上がり、計画は一部撤回された。さらに、修道女たちと枢機卿の軋轢が原因で全員の解雇が起き、これが大学と高校の閉鎖につながった。 やはり、アメリカでも学校教育の「教える」という概念をなかなか手放すことができない、軋轢があったようですが。それでも、ロジャーズの教育組織の変革の影響はあった。学生の参加や主体性は強められ、大学のカリキュラムの全領域に変革の影響が及んでいったようです。ロジャーズの働きが今のアメリカの「教える」から「学習者中心の授業」へと進めていったのだろう。ロジャーズの挑戦が、今の新しものを生み出した原動機の一部だろうとおもう。 挑戦こそ、新しいモノを生み出す成長になると私は思います。
2024.07.14
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「毎日更新」読レポ第2132カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 教育組織の変革への挑戦 ロジャースの教育理論の骨子は、教師―生徒の関係の質的な変革にある。またそれに伴う、「知識の伝達者」から「自発的・協同的な学習の促進者」へ、という教師の役割の変化にある。しかし、これを推し進めるならば、教室内での変革にとどまりはしない。教室での実践を支えている教育組織そのものの変革が求められてくる。ロジャーズは、実際、教育組織の変革に具体的なプランをもって取り組んだ。それが披瀝されているのが『フリーダム・トゥ・ラーン』第15章「一つの教育組織における自己指示的な変革のための一計画」である。最初、「教育革命のための実践的な一計画」というタイトルが付けされていたが、教育関係の強い抵抗を恐れて、このタイトルに変更したという。その骨子は以下の通りである。 ①計画の対象となる教育組織の選定。管理職の長や評議員などが自ら選んでエンカウンター・グループに参加したいという意思を持っていることが重要である。 ②管理職を対象とする一週間のエンカウンター・グループ。エンカウンター・グループに参加すると、管理職の人々が、官僚的な規制に固執しなくなり、他の人の意見に耳を傾け、新しい考えを受け入れるようになってくる。 ③教師対象の4日間もしくは一週間のエンカウンター・グループ。エンカウンター・グループに参加した教師は、生徒の声に耳を傾けるようになり、生徒の問題を罰や懲戒処分などで片づけず一緒に取り組んでいくようになる。 ④生徒対象のエンカウンター・グループ。5日間の授業時間を使う。エンカウンター・グループに参加すると、生徒は自分の気持ちをもっと表現するようになり、評価や罰を恐れないようになる。より自由に学習するようになる。 ⑤PTA役員や保護者を対象とする週末エンカウンター・グループ。 ⑥管理職、教師、親、生徒(優等生と劣等生の両方を含む)による「縦割り」のエンカウンター・グループ。教育組織の雰囲気のラジカルな変化が期待される。 ⑦変化を持続的なものにするために、グループ参加者の有能な人にファシリテーター・トレーニングをおこなう。外部のスタッフは次第に身を引いていく。 ロジャーズはこのプランを実現させようと財政的援助を求めたが、合衆国教育局を含む二つの政府機関と二つの大きな財団から、遠大すぎるという理由で拒否された。しかしその後いくつかの財団から資金が与えられ、ついに、ロサンゼルスのイマキュレート・ハート学校区(教員養成系の一つの女子大学といくつかの中学・高校、20以上の小学校を含む)を対象にこのプランの実現に着手した。と著者は述べています。ロジャーズは、「知識の伝達者」から「自発的・協同的な学習の促進者」へ、という教師の役割の改革のために①教育組織の管理職の長や評議員。②教育組織の管理職。③教師。④生徒。⑤PTA役員や保護者。などにエンカウンター・グループに参加することを促した。それにより、管理職、教師、親、生徒(優等生と劣等生の両方を含む)による「縦割り」のエンカウンター・グループの教育組織の雰囲気のラジカルな変化が期待される。 そのロジャーズはの構想が遠大なため合衆国教育局を含む二つの政府機関と二つの大きな財団から財政的な援助を拒否されたが、いくつかの財団から資金を与えられ、ロサンゼルスのイマキュレート・ハート学校区でロジャーズの「知識の伝達者」から「自発的・協同的な学習の促進者」へ、という教師の役割の改革に着手してたようです。 これを読んでいて、私は日本の学校教育がなかなか昭和時代をひきずり変革の風が吹かないことが分かる。アメリカでも、やはり、大きな変革には躊躇している。脳の癖で新しいモノには躊躇して挑戦をためらうが、それでもいくつかの人たちが変革への挑戦をやまない。そのようなひとが、新しものを生み出して行っている。パーソナルコンピューターから始まり、インターネット、スマートフォンへと。その影には、数々の失敗を乗り越えて前に進む挑戦を重ねて新しものを次々と生み出している。 それには、きっとロジャーズの「知識の伝達者」から「自発的・協同的な学習の促進者」への「学習者中心の授業」が貢献していると私は思う。それが、今の日本の学校教育に足りないところだと思う。昨日のNHKラジオでも脳科学者が直感は、失敗を積み重ねることで直感が磨かれていくと言っていました。これからのAI時代には、直感力を磨くことが必要です。そのためにもロジャーズの「学習者中心の授業」が必要です。
2024.07.13
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「毎日更新」読レポ第2131カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 実証的研究の成果 『80年代のフリーダム・トゥ・ラーン』(『学習する自由 80年代のために』(Rogers,1983a)は『フリーダム・トゥ・ラーン』の改訂版である。なぜ、全面的な改訂版を出したのか。デヴィッド・アスビー(David Aspy)らが中心におこなっておこなった大規模な研究成果を入手したからだ。第12章には、「教育の人間化のための全国連名(National Consortium for Human-izing Education:以下 NCHEと略記)」の以下のような研究成果が報告されている。 ①促進条件と生徒の変化 600人の教師と1万人の生徒(幼稚園から第12学年まで)を対象にしたある研究では、促進的な教師の生徒は低水準の教師の生徒に比べて次のような傾向を示した。(1)欠席率の低下。(2)自己概念尺度の得点の向上。(3)算数や読み方など、学力検査の得点の上昇。(4)規律上の問題の減少。(5)破壊行為減少。(6)知能指数の向上。(7)創造性得点の向上。(8)より自発的で水準の高い思考。学業不振の生徒にも改善が見られた。 ②教師の対人的技能 共感性の高い教師は、(1)生徒の感情によく反応する。(2)生徒の考えを取り入れることが多い。(3)ほめることが多い。(4)形式ばらない話が多い、といった傾向があった。またこうした教師は、(1)学習目標を生徒と協力して決める。(2)教室に展示物などが多く、人が住んでいる感じがある。(3)学習順序の配列が柔軟に変更される。(4)生産性や創造性が重視され、成績評価やテストは重視されない、といった特徴があった。 ③生徒の成績向上にかかわる最も重要な要因は、教師の対人関係能力であった。 ④教師の身体的適格性と対人的技能には相関関係が見られた。 西ドイツ(当時)のラインハルト・タウシュ(Reinhard Tausch)とアンネマリー・タウシュ(Anne-Marie Tausch)の夫妻は、アスピーらの研究に大きな刺激を受けて、同様な研究を展開した。26名の教師が2日半のエンカウンター・グループに参加したところ、彼らの73%が自己概念と対人関係の改善、否定的な自己コミュニケーションの減少などの継続的なパーソナリティ変化を示した。彼らは授業中に生徒の感情をよく理解するようになり、生徒の自己決定を促進するようになった。同僚との関係も改善した。 ロジャーズは、これらの研究成果を紹介した上で、いささか挑発的に言う。「生徒の学力の向上、欠席率の低下、規律問題や破壊的行動の減少、知能指数の上昇などを望むのであればどうすればよいのかは、これらのデータが示している。一致、共感、肯定的配慮という促進条件を身につければいいのだ。私たちは、どうすれば学校を、教師も生徒も来たがる場所にできるかをすでに知っている。これらのデータは、すべての教師、管理者、教育委員会、教員養成関係者に対する『挑戦』にほかならないのだ」。と著者は述べています。ロジャーズは、80年代のフリーダム・トゥ・ラーン"は"フリーダム・トゥ・ラーン"の改訂版であり、この改訂はデヴィッド・アスビーらが中心となって行った大規模な研究成果を取り入れたために行われた。この改訂版は、「教育の人間化のための全国連名(NCHE)」の研究成果の報告などから改訂版を作った。 1,促進的な教師による生徒は低水準の教師の生徒に比べて欠席率の低下、自己概念の向上、学力検査の得点上昇、規律上の問題や破壊的行動の減少、知能指数と創造性の向上、およびより高水準な思考を示した。 2,共感性の高い教師は生徒の感情に反応し、生徒の考えを取り入れ、ほめることが多い傾向があり、学習目標を協力して決め、教室を生徒と共に整え、柔軟な学習順序を持ち、生産性や創造性を重視していました。3、生徒の成績向上において教師の対人関係能力が最も重要であることが示されました。4、教師の身体的適格性と対人的技能には相関関係が見られたという結果も報告されました。以上の研究結果から、生徒の学力向上や学校環境の改善には、教師が促進的であり、共感し、肯定的な配慮を持つことが重要であることが示唆されています。ロジャーズは、これらの結果を元に、教育関係者に向けて教師や学校環境の改善を促す挑戦を呼びかけています。 私も人の学びには、教師が促進的であり、共感し、肯定的な配慮を持つことが重要であると思う。今までのミーティンファシリテーターや中学校・高校の環境学習の外部講師の経験からもいえます。ですが、生徒も大人も過去の受動的な「教わる」の過去があるので、スモールステップでの促進をおこなっている。 高校の担当教員も少しずつだが、生徒たちと共感しながら、私と授業を進める傾向になった。外部講師なので、生徒のコミュニケーションで学習目標を協力して決めることが出来ていないが、学習のデザインの一部を生徒に二者択一で生徒に自己決定をさせている。そうすると、生徒たちは、主体的に楽しく学習する傾向が見えてきた。その傾向が担当教師に少しずつ影響を及ぼしているとおもう。 いままでの教員の既成概念を少しずつ手放してきている。私の授業でも教員も楽しんでいます。本当の学びの楽しさを教員も感じているのではないかとおもう。
2024.07.12
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「毎日更新」読レポ第2130カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 学習を促進する対人関係(3/3) ②大切にすること、受容 学習者を真実の感情と欲求を持っている一人の人間として尊重し、配慮し、受け入れる雰囲気を学級でつくりあげることが必要である。③共感的理解評価するでなく、学習者をしの内側から理解していくことが大切である。遊戯療法で著名なバージニア・あくㇲラインが例にあげられている。校長にぶたれた少年が、休み時間に校長をモデルした粘土の人形をつくっている。アクスラインが声をかけると、少年は人形の頭をめちゃくちゃにしてしまう。 アクスライン「あなたは時々、校長先生の頭をねじりたいような気持ちになるんでしょうね。あなたはとても腹を立ているのね」 すると少年は人形の腕を取り、ぺちゃんこにしてしまった。 アクスライン「あなたはとても気がすっとしたでしょうね」 少年はにやりと笑って、再び校長先生の人形をつくり始めたという。 ロジャーズは、この3つの中でもとりわけ「真実さ」が住所だと言う。もし教師が生徒の内面を理解できなかったり、嫌いだという感情が湧いた場合には、偽りの仮面を着けるよりも、あまりのままでいる方がずっと建設的だ、と言うのである。と著者は述べています。 ロジャーズは、② 学習者を尊重し、受け入れる雰囲気を作ることが大切。 ③ 学習者を評価するのではなく、内面から理解することが重要。例えば、遊戯療法では、バージニア・アクスラインが少年の行動を通して内面を理解し、受け入れることが示されている。ロジャーズは、教師が生徒の本質を理解し、受け入れることが、建設的であると述べている。 私も以前から言っているように学習者の発言を肯定的に受容することが大事だとおもう。私が川づくりでのミーティングファシリティを14年間していたときも、参加者の発言を肯定的に受容することに務めた。ワークショップの最後の日には、ある女性の委員が「参加して良かった。自分の発言を受け止めてくれた、ありがと」と言われました。 人は、自分の発言を肯定的に受け入れることが、嬉ものです。それは、私にも言えます。重要なのは、ありのままの自分を肯定的に受容されることだと私は思う。
2024.07.11
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「毎日更新」読レポ第2129カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 学習を促進する対人関係(2/3) ロジャーズは「教師」という言葉を捨て、「促進者(ファシリテーター)」という言葉を好んで用いる。教師と言う言葉には何かを教えるというニュアンスが強いのに対して、必要なのはあくまで「学習を促進」だという立場を取るからである。 ロジャーズは、「必要十分条件」論文で提示した心理療法の基本的仮説―セラピストとクライアントの関係に一定の特質が見出されるならば、そこにおのずと変化が生じる―を、『フリーダム・トゥ・ラーン』では、ロジャーズの教育論の中心仮節として、次の3点が「学習を促進する質」としてあげれている。 ①学習の促進における真実さ 学習の促進において最も重要なには、促進者の真実さ(realness)、純粋さ(genuineness)である。促進者が何の仮面も付けることなく、あるがままの姿で、学習者との関係に入る時、学習は促進される。例として、バーバラ・シールという小学校教師の次の場面があげられる。シール先生は、6年生の図工の時間に子どもが図画の材料を自由に使えるようにした。しかし、部屋は散らかり放題になり、いささか不愉快な気持ちになった。ある日、たまりかねたシール先生が、自分はうまれつききれい好きで、部屋が散らかるとイライラして気が狂いそうになる、と子どもたちに伝えた。すると子どもたちは、誰からも言われてなくても、自発的に掃除できる子が何人かいるよ、と答えた。シール先生が、同じ人がいつも掃除をするのは不公平だ、と伝えると、子どもたちは「あのね、その人たちは掃除をしたいんです」と答えたいう。ロジャーズはこの場面を、シール先生が自らの気持ちをそのまま口にすることで、子どもたちがシール先生を受け入れ、自ら解決策を見出していった例としていった例と示している。この時もしもシール先生を受け入れ、自ら解決策を見出していった例としてしめしている。この時もしもシール先生が、もっとありきたりなやり方で「あなた方は整理整頓なんてかまわないのね。まったくひどい子どもたちだわ」となじったならば、まったくちがったことが起きただろう。この方法は、ロジャーズの初期の弟子の一人、トマス・ゴードンの「親業」「教師業」において、「わたくしメッセージ」として技法化されている。と著者は述べています。 ロジャーズは「学習者中心の授業」で、教師という言葉は、教えるというニュアンスが強いと感じたので、ロジャーズは、ファシリテーター(促進者)の言葉を好んで使っていたそうです。 ロジャーズは、学習を促進する質として、以下の3点を挙げている:①学習の促進における真実さ(realness)、純粋さ(genuineness)が最も重要である。②促進者が仮面をつけずにありのままの姿で関係に入ることで、学習が促進される。③自らの気持ちを率直に伝えることで、学習者との関係が深まり、解決策を見つけることができる。 その三つの実践の例としてバーバラ・シールという小学校教師の次の場面があげられている。なかなか、ファシリテーターを日本語では促進者と言うが、日本語には表せずらいが、あえて言うなら、相手の参加者の中にあるもの引き出すことの促進者の働きと促進の場のデザイナーとおもう。 人の中には、本人が意識していない言葉になかなかならない答えやヒントが顕在化していないから、それを引き出すことがファシリテーターの役割です。本人のしっくりした言葉を見つけるために、見守り、安心・安全の場をつくることです。 カウンセラーと実に似ているのも当然である、カウンセラーの父と言われるロジャーズが「学習者中心の授業」で、教師という言葉は、教えるというニュアンスが強いと感じたので、ロジャーズは、ファシリテーター(促進者)の言葉を好んで使っていたと言っているのですから。 私もファシリテーターとして14年間続けていた川づくりの話し合いのワークショップでふり返ると参加者のたちの対話で上記のことを促進していました。
2024.07.10
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「毎日更新」読レポ第2128カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 学習を促進する対人関係(1/3) 学習を促進するのは、教師と生徒の「人間関係の質」である。教師が生徒を「管理し、教え、指導する関係」をやめて、生徒の内面の声に「耳を傾け、受け止め、理解する関係」へと変える。そうすることで、生徒の自分自身との関係が変わる。「自分自身を管理し、言い聞かせることでコントロールする在り方」から、「自分の内側の声に耳を傾け、受け止め理解する在り方」へ変わる。するとパターン化された思考の反復、知的な堂々巡りから抜け出して、創造的な源泉であるインプリシット(暗黙なもの)と概念との相互作用共鳴を起こして、新たな文化や社会の在り方が生まれ出されていく。教育においてこそ、このことは当てはまるとロジャーズは考えた。教育の目標は、「変化と学習の促進」である。育てるべきは、いかに学ぶべきかを学んだ人間である。では、いかにすればこのような人間を育てうるのか。その決め手は、教師の知識や技術の豊富さでもなければ教材の質でもない。重要な意義深い学習は、学習者とその促進者とのある関係の特質に基づいてなされる、とロジャーズは言う。と著者は述べています。 ロジャースは、教師と生徒の人間関係の質が学習の促進に重要であると考えている。教師は生徒の内面の声に耳を傾け、受け止め、理解する関係を築くことで、生徒の「自分自身を管理し、言い聞かせることでコントロールする在り方」から、「自分の内側の声に耳を傾け、受け止め理解する在り方」へ変わり、創造性が促進していく。このような関係を通じて、生徒はパターン化された思考から抜け出し、新たな学びや文化を創造することができる。教育の目標は変化と学習の促進であり、育てるべきは学ぶ能力を持つ人間である。教育において重要なのは、教師と生徒の関係の質であり、教材や知識のみではないということが強調されている。 私も、学びは教師(講師)と生徒の人間関係の質が学習の促進の質とおもう。自ら学びたいと言うが教育の目標は変化と学習の促進であり、育てるべきは学ぶ能力を持つ人間であると私も思う。教師(講師)が持つ知識や技術の豊富さではない。 私も高校の外部講師をやっていますが、学ぶ能力を能力をもつために、一つは自己肯定感の自分は出来る自己効力感、自分はやれると信じる自己信頼感をつくる促進をしています。
2024.07.09
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「毎日更新」読レポ第2127カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 『フリーダム・トゥ・ラーン』(『学習する自由』) 教育に早くから関心を抱き、論文も執筆してきたロジャーズであったが、一冊のまとまった著作を書くことはなかった。しかし1960年代にイギリスのオープンスクールの紹介によってアメリカでも自由教育へ関心が高まり、さらに人間性回復運動の影響が教育に及び始めたこともあって、ロジャーズは、教育の分野で発言を求められることが多くなっていった。教師や教員志望の学生から多くのリクエストが寄せられていたが、それに応じることはできなかった。あまりにも多忙で時間がとれなかった。しかし小学校の教師をしていた姪のルス・コーネルから、「私たちが読めるような教育の本を書いていないのはなぜなの?」と質問されたことがきっかけとなって、ロジャーズのこころに変化生じた。「教育を救わなければ」という使命感に掻きた立てられたのだ。貴重な時間を割いて、教育について著作の執筆に取り組んだ。 1969年ロジャーズ67歳の時に、教育に関するはじめての著作が書かれた。 『フリーダム・トゥ・ラーン』(学習する自由 教育はどうなりうるかについての一つの見解)(Freedom to Learn;A View of Whaat Education Might Become)(Rogers,1969)である。この本は30万部以上売れるベストセラーになった。 『学習する自由』。このタイトルがロジャーズの見解をストレートに伝えている。ロジャーズにとって、学ぶこと、学習することは徹底的な自由を意味するのである。と著者は述べています。 1960年代にアメリカでも自由教育への関心が高まり、人間性回復運動の影響が教育に及び始めたことで、心理学者ロジャーズは教育の分野で注目を集めるようになりました。多忙なスケジュールの中、小学校の教師だった姪の質問から「教育を救わなければ」という使命感を抱き、初めて教育分野の著作『学習する自由』を1969年に執筆しました。この本はベストセラーとなり、ロジャーズの教育に対する考え方を率直に伝えました。学ぶことは徹底的な自由であるというロジャーズの見解が反映された内容です。 私も教育は、人間性回復の鍵になると思います。今までの構成的な「教え」から、自ら能動的な「学習者中心の教育法」へと変わるべきだと思う。教師は、情報や体験の機会、と問いを投げかけながら、共に成長する対話がこれからの人間性回復や自己成長には必要だとおもう。 一方的に教師が伝えるのではなく、お互いの言いたいこと言い、刺激しあい成長していくのが学びのカガク反応を起こすとおもう。つまり、お互いに肯定的に受容するグループセッションが新しい学びになると思う。
2024.07.08
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「毎日更新」読レポ第2126カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 初期の学習者中心の授業―ロジャーズ50代の時の授業の実際(3/3) このように、初期の「学習者中心の授業」では、最初の数時間は、どのように授業を進めえればいいかわからない学生たちはが困惑し、葛藤に陥った。40~50代のロジャーズに影響をうけた日本のロジャーズ派第一世代、友田不二男氏が國學院大学でおこなった授業もこれにきわめて近いものであったようだ。授業に来てもただ教壇に座っているだけでの友田に向かって、多くの学生は「はやく授業をしろ!」「授業料を返せ!」などと罵詈雑言を浴びせたようである。友田は、何百人も出席している大教室の教職の授業でこれを毎回やっていたようであるから、たいした度胸である。学生からの「授業をしろ!」「教えろ!」という声がピークに達した数回目の授業で、友田はようやくむくっと身を乗り出して、「そうか!そんなに教わりたいだな!」と言って立ち上がり、猛然と黒板に文字を書いて「いいか、カウセリングというのはなぁ!」と熱く語りはじめたよである。当時の緊迫した授業の様子が伝わってきた(当時友田の学生であった保坂武道に聞いた話) その後ロジャーズの授業は多少構成度を増す。週末のエンカウンター・グループを主とした形になった。授業が終わった後で、3つの課題の提出を求められる。①この授業のために読んだ本のリストをつくること。②自分にとって重要な意味を持つ諸価値とその変化について小論文を書くこと。③自分がこの授業で学んだことについて、自分で評価し、成績を付けること。各自の成績は基本的に自分で付けるのである。ロジャーズの評価と一致しない時は、話し合いの場が設けられる。 成績を自分で付けている点に驚かれたかもしれない。しかし、ロジャーズ派では基本そうなのである。その人が真に学びえたかどうかは、その人自身しか、わからないからだ。執者がかつて在外研究で滞在していた英国イースト・アングリア大学のカウンセリングのディプロマ・コースでも、自分が修了に値するか否かは、基本的に自分で決めていた。実際に卒業するかどうかは、その自己評価をもとに、指導教官との話し合いで決められる。 ここで多くの受講生は自分と真に向き合う。ほとんどの場合、学生の自己評価、修了しているかどうかは、指導教官の意見と一致していた。私がみた範囲では、自分にたいへん厳しい学生の何人かが「私はまだ、十分な学びが足りない」と、自分の修了に「不可」の成績をつけ、留年の道を選んだ。指導教官は基本的に尊重していた。 驚かれたかもしれないが、どうだろう。これがほんとに学ぶ、ということではないだろうか。本人がその授業で真に学びえたかどうかは、本人しかわからないからである。 学びの評価は、本来は、自己評価でしかありえない。何をどれくらいどのように学んだか、それがどれくらい自身の学びとなり、成長につながったかは、本人にしかわからない。これが当然の原理であり、他者による一律の評価は、学生の意欲を下げるだけである。教師からの不信が、その前提にあるからである。 なぜロジャーズは、授業のやり方をより構成的な方式に切り替えたのか。ロジャーズの授業に出ていた畠瀬稔氏によると、ロジャーズは、より構成的な形にしたほうが学生の抵抗が少ない分、授業の目的を早く達成できるからだと答えていたとういう。それはそうであろう。学生たちのモチベーションが相当に高くない限り、あまり構成の低い授業方式がうまくいくとは思えない。しかしまた、初期の荒削りな「教えない授業」のほうが、フラストレーションが蓄積した後の「爆発力」も高かったであろう。完全に信頼され自発性に委ねられている時のほうが、学びの意欲は最高度に高まりやすいこともまた、真実である。と著者は述べています。 やはり、構成的でない授業は、現実には学生を困惑させるためにロジャーズは少し構成的な授業に変えた。そのことで、学生は授業の目的を早く達成するが、自己発見的、自己獲得的な学習のモチベーションは、構成していた時よりは低くなると述べている。 現実には、私は今までの学習では、教師からの「教える」授業に慣れてしまっているので、いきなり構成のない授業は、学生を困惑させてしまうため、少し構成的な授業に変えた。 それでも、ロジャーズは、学生は自己評価と成績付けを行うようにした。自己評価が重要視され、学びの評価は他者ではなく本人に委ねられる。指導教官との話し合いで修了の可否が決定した。学生は真に自分と向き合い、自己評価に基づいて選択をさせた。 ここで大切なのは、学習とは、真に自分と向き合う、主体的な学びこそ、真の学びで、学習の評価は、自己評価だと、私は思う。 他者からの評価ではなく、自己評価を中心にすることで、自分と向き合い、自己発見的、自己獲得的な学習になると私は思う。徐々にでも、自分と向き合う自己評価の機会を設けていくことが大切だとおもう。
2024.07.07
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「毎日更新」読レポ第2125カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 初期の学習者中心の授業―ロジャーズ50代の時の授業の実際(2/3) 一人の受講生はこう言った。「私たちは学生中心の授業を求めていません。求めているのはロジャーズ中心の授業です。ロジャーズから学ぶために集まったんです」。ロジャーズは断固としてそれに応じなかった。 ロジャーズに対する、通所の教師の役割を果たしてほしいという要求は、ますます激しくなっていった。ある受講生は「ロジャーズに、1時間講義してもらって、その後でディスカッションをおこなってはどうか」と提案した。ロジャーズは、著作や論文を持ってきているので、それを各自で読んでみてはどうかと提案した。学生は「そんなことは提案していない」と言った。「ロジャーズにその論文を読んでほしい」と言った。ほかの受講生もそうだと言うので、ロジャーズはその論文を1時間以上かけて朗読した。しかしそこでこのロジャーズの朗読は退屈で眠たくなるものでしかないということであった。この時から、講義してほしいという要求は一切でなくなった。「私はたくさんの自分の本や録音テープや映像を持ってきているのに、私の講義をすることに一体どんな意味があるのだろうか」とロジャーズは言った。 5回目のセッションになって、ようやくはっきりとした変化が生じ始めた。受講生たちがロジャーズを気にかけずに、語りだしたのである。受講生たちは、「自分の話してもいいか」と発言するようになった。「聴いてほしい」と望むようになった。その後の展開は素晴らしいものになった。ある瞬間には、目の前にいる一人の人間の魂が現れてくるのを、息をのむような驚きの中で見つめる。そんな意味深い瞬間となった。「荘厳な沈黙」が場を包んだ。クラスのメンバー一人一人が、神秘的なまでの温かさと感動に包まれていった。それは学習であり、同時にセラピィでもあった。と著者は述べています。 ロジャーズの大学での授業で「学習者中心の授業方式」を実践したら。受講生は、学生中心の授業ではなく、ロジャーズ中心の授業を求めていたが、ロジャーズはその要求に応じず、講義する代わりに自身の論文を読むよう提案した。受講生たちは最初はロジャーズの論文を読む講義に興味を示さなかったが、5回目のセッションで変化が生じ、受講生たちは自身の話をすることや他者の話に耳を傾けるようになり、素晴らしい展開が生まれた。クラスは神秘的な経験と感動に包まれ、学習とセラピーが同時に行われた。 自ら学びたいと言っていたが、私は最初の受講生たちのほとんどが他人軸で学んでいたのではないか?自分軸で学びたいと変わってきたのではないかと思う。ロジャーズは、論文の朗読で退屈さをわざとつくり、受講生たちに自分軸で学ぶ促進をしたのではないかと思う。 これが、5回目にようやく受講生たちが自分軸で学びになってきたのであろう。まさしく、ロジャーズの「学習者中心の授業方式」の現れであると思う。
2024.07.06
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「毎日更新」読レポ第2124カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 初期の学習者中心の授業―ロジャーズ50代の時の授業の実際(1/3) ロジャーズが教育に関して執筆した論文や著作の原点は、彼が大学のカウンセリング関係の授業において実践してきた「生徒・学生中心の授業(student-centered teaching)」に関して書いたものである。「知識」の教授ではなく、「学習の促進」を目標とするロジャーズの教育観は大学での彼の授業を通じて培われてきたのである。 では、ロジャーズの授業の実際は、どのようなものだったか。従来の大学の授業とはまったく異なる「学習者中心の授業方式」に多くの学生は困惑を覚えた。とりわけ、初期の「学習者中心の授業」では、ロジャーズは課題を出すこともせず、資料等の準備するにとどめ、後は専ら学生自身による主体的な課題追究に委ねた。そのため、最初の数時間、学生たちは困惑した。どのように授業を進めればいいかわからないからだ。多くの学生は「通常の講義をしてほしい」と要求した。ロジャーズはそれを頑なに拒み続け、学生たちと衝突した。 そして講義の記録の一つが、「ある参加者が体験した学生中心の授業」(1959年)(後に『オン・ピカミング・ア・パーソン』所収)に記されている。 その授業は、1958年にブランダイス大学でおこなわれた「人格変化の過程」という4週間の授業である。ロジャーズ56歳の時の授業である。一回2時間の授業が週に3回おこなわれた。参加した学生は、現役の教師、心理学の博士課程の大学院生、カウンセラー、心理療法家、学校心理士等であった。つまり高度な能力を持った専門家の人々が受講生であった。受講生の一人サミュエル・テネンバウム博士は、以下のようにこの授業の様子をふり返る。 この授業はまったくと言っていいほど「非構成的」なものであった。そうとしか言いようがない。次の瞬間に何が起きるのか、どんなテーマが話し合われるのか、どんな質問が飛び出すか、誰もわからない。教師であるロジャーズももちろんわかっていない。そんな授業だった。そうした自由な雰囲気の中で、人はお互いにありのままになることができた。それは、ロジャーズによって最初に設定されたものであった。 25名の受講生に対して、ロジャーズはまず一人一人、自己紹介をしてはどうか、と言った。しかし、張り詰めたように沈黙が続くばかりで、誰も話をしなかった。沈黙の中で一人の受講生が手を挙げ、ようやく自己紹介が始まった。自己紹介が終わった後、ロジャーズは、たくさんのプリントやパンフレット、著作やビデオなどの資料を持ってきている、と告げ、推薦図書のリストを配布した。しかし配布しただけで、それらを読むように、とか、そういった類のことは一切言わなかった。 その後の最初4回は、とてもやっかいで苛立ちを感じさせるものであった。受講生たちはバラバラに語った。頭に浮かぶことは何でも喋っていた。まるで秩序も目的もなく、時間を浪費しているような感じがした。受講生たちにとって、まったく構成されていない、こうした授業ははじめての体験であった。どんなふうに進むかもわからず、当惑とフレストレーションが広がっていった。 受講生は教師であるロジャーズに対して、さまざまな要求を突き付けた。たとえば、「従来どうりの教師の役割を果たしてほしい」と要求した。「何が正しくて何が間違っているのか、それを権威的な言葉で示してほしい」といったように。自分たちは、この分野の権威であるロジャーズから何かを学ぶために遠方からわざわざ集まったのではなかったか。運が悪かったのだろうか。偉大なる人物からその正統な方法を伝授してほしかったのではないか。いつでもノートに筆記できるように準備していたが、ノートを使う瞬間は訪れなかった。と著者は述べています。 ロジャーズは、学習者中心の授業方式を実践し、「知識」の伝達ではなく「学習の促進」を目指していた。彼の授業は従来のものとは異なり、学生たちは最初困惑した。授業では課題を出さず、学生自身が主体的に学ぶ姿勢が求められた。参加者からは様々な要求が出されたが、ロジャーズは自由な雰囲気の中で学生たちがありのままになることを促し、従来の教育方法にとらわれない新しい経験を提供した。 ロジャーズは、従来の「教える知識」の伝達での受身型の教育から、自ら能動的な「学習者中心の教育法」へと、実践を重ねるが。受講生たちは、従来の受身型の「教える」に慣れていて、教えないロジャーズに対して困惑した。多くの受講生は「通常の講義をしてほしい」と要求した。ロジャーズは、まったくと言っていいほど従来の授業ではなく「非構成的」な授業をおこなった。 受講生たちに苛立ちやフラストレーションが溜まっていった。 だが、私は、従来の「教える知識」の伝達での受身型の教育は、暗記教育になりがちで、無思考型になりがちであると思う。言われたことしか出来なくなる。今の日本を見ているとそれが、見えているような気がする。もちろん、すべてではないが。今こそ、日本も自ら能動的な「学習者中心の教育法」へと変わるべきだと思う。 今、広がっている「自分は何故いきているのか」などの「心にぽっかりと穴が空いたよう」というような「空虚感」に陥ることは、減少してくると思う。 それは、ロジャーズの言っている「学習者中心の教育法」は、誰から言われての受身ではなく、自分が主体的に生きられるようになるからである。自分の時間で生きることができるからです。自分軸で生きられるからだと私は思う。
2024.07.05
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「毎日更新」読レポ第2123カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 ソクラテス―キルケゴール―ロジャーズ(2/2) このような回りくどいことをキルケゴールがおこなったのは「○○が重要である」といった仕方で、、真理を直接的に伝える、というやり方では、真理はとても伝わらないからである。みずからのありように潜む矛盾や空虚に気づいて、みずから命懸けで内面的な真理を求め始めた時にしか、人が真理に近づいていくことはないからである。このようなキルケゴールの真理伝達の方法は、「間接伝達」と呼ばれる。これがキルケゴールの実在的な真理伝達論、間接伝達論である。 キルケゴールは、自分の存在を消す。読者がみずからの内面的な真理探究の旅に出る、そのための「道具」であることに徹するのである。その姿は、ロジャーズが自分を消して、クライアントの内面世界に没入していく姿と重なる。 ロジャーズは、本論文をメキシコ滞在中に執筆しているが、その大半の時間をキルケゴールの著作名を読むことに費やしたという。そして、キルケゴールが自分と似た考えを持っていることを発見し、それが自分の「救い」になったという。自分の考えもそれほど馬鹿げたものではない、と思えるようになったのだ。 キルケゴールは、この「間接伝達」の方法を、「産婆術」で知られる古代ギリシアの哲学者ソクラテスに学んでいる。ソクラテスとの対話、問答において、対話の相手は、自分の考えの矛盾(アポリア)におのずと直面せざるをえなくなる。そしてみずから真理の探究へ向かっていくように誘われる。これらを踏まえると、ロジャーズのクライアント中心療法及び「学習者中心の教育」は、ロジャーズ自身は意図していなくても、「ソクラテス―キルケゴール―ロジャーズ」と続く「対話」法の系譜の中で生まれたものと見ることができる。 ソクラテスも、キルケゴールも、ロジャーズも自分を消す。相手が、自分自身にとっての「真理」を求めていく、その「産婆」となることに徹するのである。と著者は述べています。 キルケゴールは真理を直接伝える方法ではなく、間接伝達を採用し、自らの存在を消して読者が内面的な真理を見つける道具となるよう努めた。彼の真理伝達の方法は「産婆術」で知られるソクラテスから影響を受けており、読者が自ら考えの矛盾に直面し、真理を探求するよう促すことを目指している。この方法はロジャーズにも影響を与え、彼のクライアント中心療法や学習者中心の教育といったアプローチが「ソクラテス―キルケゴール―ロジャーズ」の対話法の系譜の中で生まれたと言える。結局のところ、この「間接伝達」の手法を通じて、真理に向かって探求することが重要であるとされている。 ロジャーズは、以前言ってた「この体験が意味するのは、教えることはしない方がいい、ということである。人は学びたいという気持ちがあれば、おのずと集まり、学び合うものである」と言う言葉が、学び手の中の対話によって自ら考えの矛盾に直面し、真理を探求していく。教えるのではなく、教師はソクラテスの言うように「産婆」に徹することであると私も思う。「産婆」を今の言葉で言うと「ファシリテーター」(促進者)です。ファシリテーターは、発言者の安全と安心の場を作り、発言者の発言を肯定的に受容することです。それには、聴く力が必要だと思う。時には、問いかける力で真理の探究を促すことも必要だと思う。
2024.07.04
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「毎日更新」読レポ第2122カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 ソクラテス―キルケゴール―ロジャーズ(1/2) 興味深いのは、「重要なことは他者に直接伝えることではできない」というこの考えについて説明している箇所でロジャーズは、キルケゴールの「実在伝達論」(ないし「間接伝達論」)に言及している点である。 人間が生きていく上で重要な真理は、直接教えることはできない。キルケゴールはそのような認識に立って、「間接伝達」と呼ばれる独特の仕方で、他者に真理を伝達しようとした。真理を伝えるのはどのような仕方において可能か、その方法原理について探索した。 ここでキルケゴールがとった手法が、ややこしい。それは具体的には「一見、華やかで素晴らしいけども、ある種の空虚感をそのうちに秘めた人物を巧み描いた小説」を読ませる、という方法である。たとえば『誘惑者の日記』という作品がある。これをキルケゴールは、わざわざ自分の名前とは違う名前で、つまり仮名を使い世に出している。それによって、その小説をストーリーの面白さに惹かれて読んでいるうちに、読者が自分自身の存在の空虚感さにみずから気づいて真理を求め始める、という仕掛けになっているのである。人が真理を探究するようにしていく他ない。キルケゴールのこれらの著作には、キルケゴール自身の考えや信念は語られていない。著作の意図も明かさず、異なる著作名(仮名)を使って文学作品を書き、それを読んだ人が、内面的な真理の探究に向かっていかざるをえなくなる仕掛けをおこなったのである。と著者は述べています。ロジャーズは、キルケゴールの重要な真理を直接教えることはできないと指摘の「間接伝達」と呼ばれるのもに言及した。 キルケゴールは「間接伝達」という独自の方法を用いて他者に真理を伝えようとしました。彼は、華やかで素晴らしいけれども空虚な感情を描いた小説を通じて読者に真理を探求させる手法を取りました。例えば、『誘惑者の日記』という作品では、キルケゴールは仮名を使い、読者がストーリーの魅力に引き込まれるうちに内面的な真理を見つけるよう仕向けました。彼の著作には自身の考えや信念が直接語られず、読者が真理を探求するきっかけを与える仕掛けが施されています。 これは、私は学んでいる野口嘉則氏も似たような事をして、実名の著者書や自分が読んで良かったもの本を紹介して、学んでいる人に真理を探求するきっかけを与える仕掛けが施さしているよに、この項を読んで感じた。 特に、野口嘉則氏からの課題図書のミヒャエル・エンデ著の「モモ」(時間泥棒)には、私はハマってしまった。他人の時間を生きるのではなく、自分の時間で生きることの素晴らしさを伝えてくれた。野口嘉則氏はそれを、キルケゴールの「間接伝達」で伝えたのであろう。 まさしく、キルケゴールの「重要なことは他者に直接伝えることではできない」である。面白さ(楽しさ)に惹かれることが学びにつながることを教えてくれた。そこには、人の持っている好奇心が関わっていると思う。
2024.07.03
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「毎日更新」読レポ第2122カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 「教えることと、学ぶことについての私見」―「学習者中心の教育法」誕生の日(4/4) このわずか3、4分のスピーチは、ロジャーズの意に反して会場全体を騒然とさせた。 「あのような大騒ぎが起こるとは予想もしなかった」とロジャーズは言う。「私は何かの反応が生まれるだろうと期待していたが、あのような大騒ぎが起こるとは予想もしていなかった。会場は、興奮状態となった。私は彼らの教師としての仕事を脅かしていると受け取られたように思ったので、そのようなつもりはない、とはっきりと言った」「私は、四方八方から浴びせられる質問や攻撃に対して自分を守ることはしなかった。私は、彼らが感じた憤りやフラストレーションや批判などを受容し共感した。私はただ、自分自身の個人的な考えを話しただけなのだ、と言った。自分以外の誰も私の考えに賛成することを求めていないし、期待もしていなかった。大きな騒ぎが起きた後で、グループの参加者たちは次第に、教えるということについて自分自身が重要だと感じていることについて率直に話し始めた。(中略)あの研究会に出ていた人の誰もが、あの研究会のことを忘れることはできないのではないかと思う」 ある参加者から「あなたのせいで昨晩眠れなかったという人がたくさんいますよ!」と言われたという。この日から、ロジャーズは教育分野の世界でも、なくてはならない人になった。ロジャーズは、当時すでに、心理療法の分野において「論争好き」という烙印を押されていた。そのこともあって、騒動になったこの研究会で発表した論文の公刊には消極的あった。「論祖好き」のイメージが教育界にまで広がることを恐れたのだ。 しかし研究会の参加者メンバーの口コミで噂は広がっていった。数年後に二つの雑誌社からの依頼があり、公刊に踏みきった。と著者は述べています。 ロジャーズは、教育研究会でのスピーチで自分の考えを述べて、会場全体を騒然とさせ、参加者たちに多くの感情を引き起こしました。そのベースは「クライアント中心療法」である。ロジャーズは意図せず騒ぎを引き起こしたことを認め、自身の考えを共有するだけであり、他者に同意を求めていなかったことを述べました。その後、ロジャーズの影響で参加者たちは教えることの意義を苦悩する人もいたが再度考えるようになった。ロジャーズは教育分野で注目を浴びる存在となりました。ロジャーズは、「論争好き」というイメージを払拭したいと考えて公刊することを考えていなかったが、彼が研究会で発表した論文は、口コミで広まり、後に雑誌に掲載されることとなりました。 やはり、私もロジャーズの言うように「学習者中心の教育法」が、今の日本の教える暗記教育から、自ら考える学びへとバージョンアップが必要だと思う。ただし、自ら考えるには、基礎学力は必要なので、教える事をすべて否定するものではありません。基礎学力に関しては、学習者は、教師の「教える」という支援という形が必要です。教師は、学習者が楽しいとおもわせる基礎学力を教える工夫が求められているとおもう。それが、やがて不思議だなと思えて、好奇心が芽生えて、学びたいと思う気持ちにもつながると思います。 教育では、まずは重要なのは、楽しいと思える基礎学力の形成です。それが、基盤となり、自ら学びたいにつながっていくと思います。 まさしく、「クライアント中心療法」からくる「学習者中心の教育法」である。
2024.07.02
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「毎日更新」読レポ第2121カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 「教えることと、学ぶことについての私見」―「学習者中心の教育法」誕生の日(3/4) 筆者も一時的、キルケゴールに夢中し、『死に至る病』冒頭の自己生成論や、『哲学的断片への結びとしての非学問的な後書き』などに惹かれて、キルケゴールを原著で読むためにデンマーク語を学んだこともあるので、ロジャーズのこの言葉はうれしかった。ロジャーズは、キルケゴールを読んで、「せっかくやるんだったら、ほんとうに思っていること、感じていることを話してみるか」、そんな気持ちになったのである。そんな気持ちになって「教えること」や「学ぶこと」について、自分の思うままを短い文章にしてみて、優秀な教師や教育関係者が集まる研究会でそれを披露した。こうした前置きした。「私の教室での体験や個人心理療法やグループセラピィにおける体験から明らかになったことを、3,4分で話してみたい。これは決した誰かに対して結論を示そうとするものではないし、こうするべきとか、こうあるべきといったことを言おうとしているのでもない。1952年4月の時点で私の体験が持っている自分にとってのきわめて仮説的意味と、それが持つ突飛さが引き起こす厄介な問題のいくつかをお話ししたい」(Rogers,1957b)。こう断った上でロジャーズは、3、4分、短いスピーチをおこなった。こんな内容だった。「私の体験から言えるのは、どのように教えたらいいかを他の人に教えることはできない、ということである」「教えることができるのは、いずれかと言えば、どれも取るに足らないことであって、行動にはほとんど、あるいはまったく、意味がないように思える」「自分は、行動に意味がある影響を与える学習にしか関心がないことに気づいた」「行動に意味のある影響を与える学習とは、自己発見的、自己獲得的な学習だけである」「自己発見的学種という、体験の中で個人的に獲得され吸収されるる真実を、他の人に直接教えることはできない」「教えることによって生じる効果は、取るにたりないか有害であるかのいずれだ、と感じるようになった」「私は、自分が重要なことや自分の行動に意味のある影響を与えることを学びつつある一人の学習者たらとすることだけ関心を持っていることがわかった」「自分自身の不確かさを知り、自分の混乱を明確にしようとして、ぴったりな言葉を探していく。そうすることで、自分の体験が持っている真の意味に近づこうとする。こてが、重要なこ意味のある学びである」「自分の現在の体験の意味を理解しようとすると、進むべき方向に向かっておぼろけにつかんでいる目標に向かって、その体験は私を導てくれる」 このように述べた上で、次のような具体性のあることも話している。「この体験が意味するのは、教えることはしない方がいい、ということである。人は学びたいという気持ちがあれば、おのずと集まり、学び合うものである」「試験はやらないほうがいい。試験は重要ではない学習の効果しか測ることができない」「同じ理由で、成績評価や通知表もやめたほうがいい」「同様に、卒業証明や学位も廃止したほうがいい」「結論を示すことをやめる。私たちは結論から重要なことが学ぶことができない」「私が最も知りたいのは、私の内面で考えてきたことが、皆さんが教室で体験してきたことに何か、訴えるものがあるか、そしてもしそうだとするならば、それが自分の体験にとってどのような意味を持っているか、といことである」と著者は述べています。 ロジャーズは、前置きしながら、教育において個々の経験や内面的な探求が重要であり、他者へ直接的な教えや結論よりも、自己獲得的な学びや体験の共有がより意義深いと提唱しています。 私も、学びには自己獲得的な学びや体験の共有がより意義深いと思います。自らの学びたいという気持ちでの体験での自己獲得や他者とそれぞれの体験を共有しての対話により、新たな気づきが湧いてきます。ロジャーズが言っているように、自らの学びたいという気持ちが大事です。一方的に関心がないのに教えるのは、意味が無いと思います。 もちろん、基礎学力が必要ですので、私は基礎学力は、楽しくなるように教えることが必要だとおもう。それは、基礎学力が無いために学びたいと思っていることで、例えば、英語力が無いために学びたくても、学べないからです。だから、基礎学力は、楽しくなるように教えることが必要があるとおもいます。
2024.07.01
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