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2017.05.24
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カテゴリ: 歩く [再録]

2015年12月、 ウォーキング同好会の例会でJR草津駅前に集合し、ロクハ公園を目的地とするルートを歩きました。この時の行程において目に触れたもの、また立ち寄り少し探訪した史跡などを点描しつつ、まとめたものを再録しご紹介します。
冒頭の写真は、 草津駅前の商店街を抜けた道で見かけた道標 です。地蔵尊の小祠が旧草津川のトンネルまでにもう一つありました。

旧草津川は有名な天井川 です。現在の旧東海道にはトンネルを抜けて繋がっています。

旧草津川のトンネル内壁画 です。 旧街道筋の風景、草津川の渡し、萩の玉川が描かれています 。草津川の渡しは、 歌川広重 「木曽海道六拾九次之内草津追分」 として描いています。 (資料1)

トンネルを抜けると、東側には中山道と東海道の分岐点の道標が立っています。「追分道標」 と称され、ここはかつては草津宿の追分見付と呼ばれていた場所です。1816年に建てられたもので、「街道を往来する諸国定飛脚の宰領中から寄進された火袋付きの常夜灯」なのです。 (資料2)
現在の火袋は木製ですが 、『栗太志』(文政4年[1821]頃の作成)には、 当時は銅製だった ことが記されているそうです。 (資料3)

かつてのトンネルはアーチ型のものだった のです。「写真で見る滋賀の20世紀」に 「草津川トンネル付近」、1962年頃の写真が公開されています。こちらからご覧ください。
これは明治19年、馬車や人力車が通行できるように掘られ、アーチ型レンガ造りの隧道だったそうです。この当時の隧道の扁額が現在は追分道標の傍に保存されています。

追分道標から道路を挟んで向かい側に、かつての「高札場」が再現されています。
そのすぐ傍に 草津市民センター(草津公民館) があり、その前のスペースに見るべき物がいくつかあります。
6143,6142
最初に目にとまったのが左の写真のポストです。 「書状集箱」 という文字が見えます。でも、 これは現役のポストなのです。 傍に立つ駒札には、「このポスト(書状集箱)は、明治4年(西暦1871年)郵便創業時使用していたものと同じ型のものです」と説明されています。ここに投函されたものも、他のポストと同様にちゃんと取り集めされるのです。もちろん、その点も付記されています。

その右側に 、歌碑と「草津歴史街道」として「東海道」についての説明板 があります。
「草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った」という経路でした。「草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほか多数の社寺が立ち並び、70軒を超える旅籠をはじめ500軒以上の町家があった」 (説明板より) そうです。
また、歌碑に刻まれた歌は、

   近江路や秋の草つはなのみして 花咲くのべぞ何處ともなき

室町時代の歌人堯孝法師(1390~1455)が詠んだ歌 で『覧富士記』に所載だそうです。頓阿の曾孫で、応永21年(1414)には二条派の中心歌人だったとか。永享4年(1432)に、将軍足利義教 (よしのり) のお供をして富士を見に行く途上で、この草津に来て詠んだと言います。「近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ」という歌意です。 (説明板より)
裏返せば、 室町時代には既に、草津は交通の要衝地としてかなりの賑わいの町となっていた ということでなのしょうか。

説明板の南隣りに彫刻作品があります。
これはこの ポケットパークにある街角彫刻。鈴木典明作「時の旅人」 と名づけられた平成10年製作の作品です。調べて見ると、 草津市の「人と環境にやさしいまちづくり」の一環として、街角に設置された28基の彫刻の一つです。
「本作品は、人体とその軌跡は過去から旅を続け、人が行き交う時間性を表現しています。また、過去から現在、そして未来へと人が通い発展していく草津市を作者の願いとして表現しています。素材としては、ステンレスを使いステンレス棒の集積で人体とその軌跡を表現し、それぞれに行き交う人が一部交って、その時間の経過を同時に表現しています。」 (資料4) という意図が込められているようです。

草津市はこの東海道と中山道が交わる地です 。まさに多くの人々が絶えることなく互いの目的地をめざして行き交ってきた地点。今も、これからも、行き交う場所、接点です。一瞬の人々のすれ違いはどれだけの数になることでしょう。互いに認識することなく、再びこの場所で行き交うことの可能性も無限に低い行きずりの機会という接点が集積・凝縮されているように感じます。流動感があり、おもしろい造形です。素材が青銅という金属でなく、ステンレスというのも行き交うだけという無変質性・無機質性に繋がる感じを生み出しています。

旧東海道を西に進みます。
草津宿本陣

徳川家康は、慶長6年(1601)に「五街道整備」に着手 し、「宿 (しゅく) 」を制定します。これにより、 江戸・日本橋から京都・三条大橋に至る宿駅が53ヵ所、つまり東海道五十三次が誕生する のです。徳川 幕府は実際には京都-大坂間の街道も一体整備していきます 。草津は五十三次でいえば、江戸より数えて52番目になります。
東海道松並木や一里塚は慶長8年に整備されます
参勤交代が制度化されるのは1635年で、三代将軍家光の時代、武家諸法度の改正によるもののようです。しかしその前例は、慶長7年(1602)前田利長が母を人質として参勤したのが最も早い事例となるそうです。参勤交代の制度化が、大名の泊まる宿の常設整備を必然化したのでしょう。 (資料4,5)
尚、休泊施設としての宿を 「本陣」と称するようになった起源は、「室町幕府の二代足利義詮が上洛に際して、その旅宿を本陣と称し宿札を掲げたことに求められます。」 (資料3)

天保14年(1843)の「宿村大概帳」には、この草津宿には2軒の本陣、2軒の脇本陣が記載されていて、この画像の本陣は、 「田中七左衞門本陣」 だそうで、寛永12年(1635)に本陣職を拝命したと言います。明治3年(1870)に本陣が廃止になるまでは、代々本陣職を勤めたそうです。 (資料3)
史跡草津宿本陣の館内図はこちらをご覧ください。 (ホームページの「館内紹介」)


          登録有形文化財に指定されている 「吉川芳樹園店舗兼主屋」
江戸末期の建造物だとか。「平入り正面上部の虫籠窓の意匠や漆喰で塗り込められ出桁 (だしけた) などが町屋らしい雰囲気をかもし出しており、鬼瓦には文政13年(1830)の銘がみられます。街道に並行した切妻造の背面で、棟が直交するT字形の屋根の形式となっており、草津宿の町屋に見られた特徴を持っています。」 (登録説明銘板より)
また、この家は 「脇本陣藤屋与左衛門家」 にあたるそうです。


こちらは 「草津宿街角交流館」 です。近江関係の浮世絵を主体とした 中神コレクション 、全国の記念切符や駅弁の掛け紙、観光パンフレットなどを中心とする 山口正コレクション 、そして道中案内記・古文書類などの館蔵品が見られるようです。 (資料7)

その先にあるのが、 「太田酒造 道灌蔵」 です。
江戸城築城の祖と言われる太田道灌を祖先にもつ太田家は、東海道と中山道が交わり、琵琶湖の水運とも関わる要衝の地であるこの草津で関守を務めてきたそうです 。廃藩後、明治7年に近江の良質な米をもとにした酒造りを始めたのだとか。現在は、ワインから日本酒・焼酎まで幅広く手掛ける 「日本一小さな総合酒類メーカー」 だそうです。清酒のブランド名はズバリ「道灌」なのです。 (資料8,9)


道灌蔵の先、 旧東海道と県道141号線の交差点が立木神社前 です。小川に架かる橋の先が 「立木神社」 です。

朱塗りの橋を渡ったところに、 御神鹿の像 が配されています。

立木神社の縁起によると、称徳天皇の時代・神護景雲元年(767)に武甕槌命 (たけみかづちのみこと) が、常陸国(現在の茨城県)にある鹿島神宮を白鹿に乗り旅にでて、諸国を巡った後、この地に至り、手にしていた柿の鞭を現在の社殿近くに刺されたそうです。その柿の鞭が木としてこの地に生え育つならば、奈良の三笠山に鎮まろうと告げられたとか。刺された柿の鞭が、柿の木として生え根付き、枝葉が茂って行ったそうです。里人はこの木を崇めたのだとか。神殿を建てて社名を立木神社と称したと伝わるのです。 (資料10)

境内を入った近くに、 県内最古の石造道標が移設されています 。傍に説明板があります。そこにこの道標の刻銘が原文通りに記されています。
それによると、画像に見える正面が南面でそこに左・東海道伊勢道、西面に中山道多賀道を意味する文字が刻まれています。この道標は、「東海道と中山道との分岐点である草津宿の中央部に位置する追分の地に建てられていたことがうかがわれ、現在の草津追分に建てられている文化13年銘石道標(1816年)の前身のものと推定されます。」 (説明板より)
また道標の刻銘内容から、京都壬生村のあしだの行者万宝院という人が、伊勢神宮と京都・愛宕神社に7年間毎月参詣し、その記念に延宝8年(1680)11月に建立したということがわかるのです。南面上部には、不動尊を示す種子カーンの梵字が刻まれています。
道標の斜め後には、「自然公園 立木の森」という石碑 が見えます。

境内の東面、旧東海道に面する側の石造鳥居です。 こちらが神社の正面です。


鳥居の手前に石造の狛犬が配されています。
6175,6176
鳥居をくぐって石灯籠の並ぶ石畳の参道を歩くと、そのさきに築地塀と楼門が見えます。

先ほどの朱色の鳥居から境内に入ってきた場合の先がこの石畳のところになり、
「手水舎」 がその間に位置していることがおわかりいただけるでしょう。

手水舎の右斜め手前に建立されているのが、 日本の新聞学研究の開拓者とされる「小野秀雄」(1885~1977)の顕彰碑 です。

傍にこの説明銘板が設置されています。
小野秀雄はこの立木神社の中臣家第38代宮司の子息だそうで、新聞学研究の礎を築き、日本で最初の新聞発達史を出版したといいます。1955年に研究の功績に対し、日本新聞協会から新聞文化賞を授与されたそうです。


築地塀と楼門の間には空間があります。 楼門は四脚門 です。この門は、室町時代・長享元年(1487)に9代将軍足利義尚 (よしひさ) が栗太郡鈎村に在陣した時に、武運長久を祈願し奉建したものと言います。 (資料10)
楼門にも扉がありませんので、境内の中にある一種の結界という感じを受けます。幕に記されているのは立木神社の神紋です。手許の本に載る紋章の一覧では九条藤と呼ばれる紋章によく似ています。

拝殿と境内にある末社群
本殿
本殿は屋根しか見えませんが、三間社流造で間口三間・奥行三間の建物です。
祭神は武甕槌命。
「延暦 (えんりゃく) 20年(801年)、征夷大将軍坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)将軍が、東北鎮圧に際して、当社にて道中安全と厄除開運を祈願され大般若経一部を寄進しました。この霊験に由来し、現在では厄除開運・交通安全の守護神として崇敬を広く集めています。」 (資料10)

ウォーキング行程での立ち寄りでしたので、末社群や本殿などの細見ができませんでした。

立木神社の先には、 現在の草津川が流れ、矢倉橋が架かっています 橋を渡ると、「矢倉」地区 です


矢倉にも、 草津の地酒銘柄「天井川」の蔵元 があります。この銘柄は「地元・草津市内産無農薬有機栽培の日本晴で醸し、名前も市民からの公募により決めた地元に根付いたお酒。地元の酒屋や飲食店に並ぶ分だけを仕込むという、まさに地域限定酒」 (資料11) だとか。


その先に 、「瓢泉堂」 があり、その建物の傍に道標が立っています。
「右矢橋道」 とあり、近江八景の一つ「矢橋帰帆」は歌川広重の絵で有名です。琵琶湖岸の港町として栄えた「矢橋」です。 「矢橋道」 の終着点になります。
琵琶湖と東海道がこの道で繋がっているのです。 (資料12)
道標には「これより廿五丁 大津へ船わたし」と刻されています 。廿五は二十五です。

また、お店の正面の窓のところに、 「矢倉立場」の説明板 が掛けられています。
「東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿の南に続く矢倉村。立場とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、旅人が杖を立てて休んだことからついた名で、矢倉村には草津名物の『うばがもち』を売る店があった。この地にそのうばがもちがあり、歌川広重の浮世絵や『東海道名所図会』『伊勢参宮名所図会』などに、旅人が立ち寄って、うばがもちを賞味する光景が描かれている。
 また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る『矢橋の渡し』の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。旅人は、俗謡に”瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅”と詠まれ、旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。
 そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、よく使われる俚言で”急がば回れ”の語源になったところでもある。」 (説明文転記)
そして、末尾に『醒睡笑』に載る
  武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋 
を引用して、「近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、回り道でも瀬田橋まわりのほうが着実であることから、成果を急ぐなら、遠回りでも着実な方法をとる方が良いことを指南したのである。」と 「急がば回れ」の出典とその意味に言及しています。

『醒睡笑』は京都の僧侶・安楽庵策伝が庶民の間に流行した話を集めた笑話集で、落語の原典になったとも言われる本です。京都所司代・板倉重宗の依頼でこの書をまとめたと言われています。京都の三条通に比較的近く、新京極通の繁華街の真ん中に京都誓願寺があります。慶長18年(1613)にそのお寺の55世となった著名な僧侶です。 (資料13)
また、浮世絵は歌川広重筆「東海道五十三次草津」。うばがもちやの店先風景です。

瓢泉堂は、江戸時代より酒や水を入れる容器として使われてきた瓢箪を、現在は縁起物、装飾品として商われているお店です。

隣にある駐車場の傍に、この 地元風景の案内板 が掲示されています。


矢倉地区の東海道沿いには、愛宕神社や稲荷神社も祀られています。

また、 矢倉小学校の正門が旧東海道に面していて、校門近くの柵に「東海道」の木札が掛けられています。

つづく

参照資料
1) 史跡 旧草津川(天井川)  :「草津まるごとガイド」
2) 史跡 追分道標   :「草津まるごとガイド」
3) 草津宿・本陣について   :「草津宿」
4) 街角彫刻作品    :「草津市」
5) 東海道  :ウィキペディア
6) 参勤交代  :「コトバンク」
7) 館蔵品紹介(草津宿街道交流館)  :「草津宿」
8) 太田酒造 道灌蔵    :「滋賀・びわ湖 観光情報」
9) 太田酒造株式会社とは   :「太田酒造株式会社」
10) 「立木神社」 ホームページ
11) 特別純米原酒 天井川 :「蔵元女将に憧れる日本酒好きライター」
12) 矢橋   :ウィキペディア
13) 安楽庵策伝   :ウィキペディア

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
草津宿  ホームページ
草津宿  :ウィキペディア
  歌川広重の『東海道五十三次・草津』『木曽街道六十九次・草津』両方の浮世絵が載っています。
古川酒造有限会社   :「彼処にあの酒、此処ににこの酒」
滋賀県の酒蔵   :「滋賀 地酒の祭典」
矢橋   :「コトバンク」
瓢泉堂(株)瀬川元  :「草津まるごとガイド」
瓢泉堂  ホームページ
醒睡笑   :ウィキペディア
東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]
   「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)
  巻2の26コマ目が「矢橋」港、同30コマ目にうばがもちや・立場の絵が載っています。

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

歩く&探訪 [再録」 滋賀・草津 JR草津駅からロクハ公園 -2 平宗清の胴塚・木瓜原遺跡・ロクハ公園ほか






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Last updated  2017.05.25 18:56:19
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