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2017.10.26
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カテゴリ: 歩く [再録]
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上宮跡から少し登ると、いよいよ田上山城跡に入ります。
ウォーキングとしては、普通に山道を登るペースでこの城跡も説明標識を見ながら、それぞれが山道の一通過点でした。
しかし、山城探訪好きの私には、この山城跡を見られることこそ、今回の主な参加目的でもありました。そこで ウォーキングの行程というよりも、山城跡探訪的に、記録の整理をしておきたいと思います。

冒頭の画像は、田上山の山頂に近づいてから撮った案内説明板ですが、まずはそれをご紹介します。
ルートの途中で、部分拡大図にして再び利用しようと思っています。
私たちはこの城跡を左の 縄張り図で言えば、南から北へ縦方向に山道を登って通り抜けて行った ことになります。

田上山城は形式としては秀吉軍が柴田勝家との賎ヶ岳合戦に備えて、天正11年(1583)に築いた山城砦です。 この陣城は前線指揮を執った羽柴秀長(秀吉の異母弟)が陣取り、事実上の本陣となった場所 なのです。合戦の1ヵ月前に構築したのだとか。 (説明板記載より)

小瀬甫庵著『太閤記』によると、8日に亀山の城を出立し、10日夕方長浜に着いた秀吉は、翌11日に賎ヶ岳近くに押しだして、総軍を13段備えにしたようです。その「7番 羽柴小一郎殿」が秀長のことであり、「田上山は小一郎殿本陣として居城なり」と記しています。 (資料1)



最初に目にしたのがこの 「南堀切」 の標識です。
山の尾根を断ち切るようにもうけられた堀で、尾根づたいの侵入を阻止する障害となることが目的です。現地でみると、切り取られた雰囲気がわかるのですが、画像では見づらくなります。



堀切部分を登って進むと、 「南郭」 の少し高くなった平地が見えます。

さらに先には 「虎口」 が表示されています。土塁の開口部や壁の切れ目のところで、城郭・砦の出入り口です。この虎口の形式を観察しているゆとりはありませんでした。



道なりに進むと、 「土塁」の表示 が出ています。
この先に、冒頭に載せた説明板が建てられていたのです。



縄張りの拡大図を改めて見ると、表示の出ていた虎口は、城(砦)内に直線的に入る「平入虎口、平虎口」のようです。

そして、 「主郭」 の標識が建てられている場所に至りました。


この主郭の中に、「田上山砦跡」として、織豊期城郭を研究されている 長谷川博美氏作成の縄張り図・解説の説明板 がありました。こういう説明板があると、うれしい限りです。この図を90度反時計回りに回転させると、冒頭の縄張り図の補足説明になります。
現在位置と赤字指示線で示された2の番号のところです。

「主郭 本丸に相当する場所で守将秀長の陣所。秀吉も当地へ軍議のに来ている。」と説明しています。
戦としての実質的な本陣はここだったようですが、秀吉自身は本陣を北国街道木之本宿に置いたのです。織豊期城郭研究者。中井均氏はその宿が浄信寺ではなかったかと推定されています。前回触れたあの木之本地蔵院です。 (資料2)

説明板にも触れてありますが、『信長公記』巻六には信長が元亀4年の小谷城攻めの折り、8月12日の夜に、やけをの険しい山道を雨に濡れながら信長自身が先駆けして太山、大嶽を攻めています。更に13日夜に再び、越前軍の陣所に信長が先駆けするという行動をとります。そして、「同日、落城の数、大づく、やけ尾、つきがせ、ようの山、たべ山、義景本陣田上山、引壇、敦賀、志津が嵩、・・・・」という記述が出てきます。
朝倉義景がやはりこの田上山を軍事的に重視して本陣を置いていたのです (資料3) 。当時はどんな陣所にしていたのでしょうか。 北国街道との関係並びに山頂から地域全体の俯瞰に優れている点 もあるのでしょね。

この主郭から北方向に向かうところに、 「呉枯之峰 (くれこのみね) 」の方向を示す標識 が建てられています。 本来のウォーキングからは、確認すべき標識です 。ルートに間違いがない証拠です。

進んでいくと 「土橋」の表示 がありました。堀切を構築し、一部を通路として残しているのです。いざという時はこの土橋部分を切り崩し、通路を遮断することになるのでしょう。

その先に、 山頂の標識 が建てられています。 標高323m です。

そして、わりと広い平地に 「北郭」 の表示があり、 「角馬出し」の標識も少し離れた位置に ありました。

(かく) 馬出しというのは「虎口から堀を渡った対岸に設けられた、堀や土塁で囲まれた小区画」で、「平面が四角いもの」なのです。この馬出しには、「①虎口に殺到する敵を迎撃するための射撃陣地、②馬出しからの射撃によって逆襲部隊の出撃や退却を援護する、③虎口前面に敵が大兵力を集中できないようにする、といった機能がある」のだそうです (資料4) 。「田上山砦跡」の赤丸3の北側の四角い土塁囲みを改めて見ると、なるほどと思います。

少し下ると、 「北外郭」 の表示があります。 この山城(砦)の最北端の外郭です
説明板の現在地5番のところ。


その先端に 「横矢枡形」 の標識が建てられています。土塁のところです。
虎口の側面から矢や鉄砲で応戦するという枡形、小区画です。

この通り抜けてきた山城跡が「立地条件や広大な城域と織豊系山城に特徴的な縄張り」を示す遺構となっているのです。 リベンジの山歩きでこの山城跡を見られて充実した一日になりました。



山道を多少下り、6月の分岐点に出ます。 この標識が少しあらぬ方向に向いていて、錯誤を起こさせたのです。今回、メンバーがちゃんと立て掛けておきましたが、標識を固定し間違いをなくすように改善されるといいなと思った次第です。 呉枯之峰側から来て、分岐点だけを目にすると、間違いやすいところです。


さて、ここから管山寺への延びる山道、尾根歩きです。

つづく

参照資料
1)『太閤記 (上)』 小瀬甫庵著 桑田忠親校訂 岩波文庫 p198-200
2)『近江の城 -城が語る湖国の戦国史-』 中井均著 淡海文庫(サンライズ)p130
3)『新訂 信長公記』 太田牛一著・桑田忠親校注 新人物往来社 p150
4)『軍事分析 戦国の城』 「戦国城郭用語要解」(文・西股総生氏)学研 p195

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
賤ヶ岳の戦い ​ :ウィキペディア
賤ヶ岳合戦 ​ :「余呉観光情報」
「賤ヶ岳合戦」菊池寛 ​ :「青空文庫」
黒田官兵衛の参戦裏付け!「賤ケ岳の戦い」合戦中に秀吉が発した文書みつかる
    2013.5.10 [westライフ] :「産経ニュースwest」
空撮・決戦賎ヶ岳 ​ 
    出典:『賤ヶ岳の戦い』学習研究社 歴史群像  出版年 2000年 
田上山砦 ​ :「越後の虎 越後勢の軌跡と史跡」史跡巡り
    田上山城散策図として、縄張り図を立体イラスト図で描写されています。
    山城巡り初心者には田上山城全体像がイメージしやすくなります。
長浜市の田上山城遺跡が掲載されている資料を知りたい。
    :「レファレンス協同データベース」

北国街道木之本宿 写真ライブラリー・北国街道から田上山城を望む
  :「城の写真ライブラリー」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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Last updated  2017.10.27 00:03:13
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