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伏見の大手筋通に南面する形で「御香宮神社」があります。(2013.5.5撮影)大手筋はまさに豊臣秀吉が伏見城を築いた時の城下町における大手筋です。最寄り駅は近鉄京都線「桃山御陵駅」です.御皇宮神社前のこの大手筋を東に道沿いに緩やかな坂道を上って行くと、桃山御陵(明治天皇伏見桃山稜・明治天皇皇后伏見桃山東稜)に至ります。明治天皇陵が伏見城の中心部を利用して作られたのですから当然のことですが。さて、この表門を入ると、幅の広い参道を北に進めば、 大きな割拝殿(右の画像)があり、その中央を通り抜けると本殿(左の画像)があります。 割拝殿に至る前に、参道の右(東)側に、「桃山天満宮」の石鳥居があります。 石鳥居を通り抜けると、右(南)側に本殿に向かう形で臥牛がいます。その先にもう一つの石鳥居があり、「天満宮」の扁額が掲げてあります。 本殿を菱格子窓のある瑞垣(塀)が囲み、正面の扉の上には「桃山天満宮」の扁額が掲げてあります。手前の拝所の頭貫の上部をご覧ください。 蟇股のある位置に透かし彫りが施され、牛が丸彫りされています。そして、もう一つ、牛を見る個所があります。それはこの桃山天満宮の境内地の北辺になる石垣の外側です。 ここに車石が保存されていて、 この「竹田街道の車石・車道」の説明銘板が設置されています。 江戸時代には竹田街道にも車石が敷かれていて、牛車が荷物を運搬する車道が設けられていたのです。上の図は想像図と記されていますが、下の図は文久元年(1861)に出版された『淀川両岸一覧 下』の挿画で、安楽寿院の近くにあった竹田街道・竹田の分かれ道の風景です。大きな車輪の荷車を引く牛が描き込まれています。そこで、車道からの連想です。まず鳥羽作道に飛びましょう。 上鳥羽に正覚山と号する「寶相寺」があります。(2014.2.27撮影) このお寺の境内にも車石が保存されていて、 案内板が設置してあります。当時の様子のイラストにして、荷車を引く牛が描かれています。説明文の冒頭に、「江戸時代、下鳥羽から上鳥羽を経て羅城門までの鳥羽街道は、横大路・下鳥羽の湊に荷揚げされた年貢米や穀類・木材などおを洛中へ運ぶ牛車の専用道路(車道)であった」と記されいます。末尾の説明から、単線の設置だったことがわかります。さらにたぶん一番知られていると思われる東海道に飛びましょう。 JR琵琶湖線大津駅前に東海道に敷設された車石が保存展示されています。 車石が敷設されていたのは東海道の逢坂山のところです。荷物の運搬では難所であった「逢坂越」を少しでも便宜の良い交通路とする対策として、牛車のために車石が敷設されたのです。ここに、鈴木靖将画の逢坂越をする黒い牛が描かれています。 2012(平成24)年3月に、大津市御陵町にある「大津市歴史博物館」で企画展「車石」が開催されました。(2012.3.17撮影) この博物館の敷地にも車石が保存されています。 ここでも、傍に設置されている「車石」の案内板にイラスト図ですが、牛を見ることができます。2つの説明文から、1804(文化元)年から1805年にかけて車石敷設工事が行われたこと。工事区間が大津八町筋から京都三条大橋までの3里(約12km)で工事費に約1万両を要したことがわかります。その一部を心学者の脇坂義堂や近江商人の中井源左衛門らが寄付したこと、石材として木戸石(大津側)、白川石(京都側)などが使われたこともわかります。近江商人の社会事業貢献の一事例ということになります。私が見聞した範囲の記憶では、車石の関連で牛を見ることができる個所がもう一つあります。 京阪電車京津線四宮駅の東に京都府と滋賀県の行政区域の境があります。その滋賀県側は横木一丁目・追分町と続きます。このあたり藤尾と称される地域でもあります「三井寺観音道」の大きな道標が立つ場所の近く、民家の傍に右の案内板「車石」が掲示されています。(2012.3.17撮影)序でに、牛関連の探索です。 歌川広重画による浮世絵「東海道五十三次」と「木曽街道六十九次」の「大津宿」には牛・牛車が描き込まれています。ウィキペディアからの引用です。(資料1)また、天明6年(1786)に出版された『都名所図会』を参照しますと、東海道に関係する日岡峠、粟田口の挿画には、次の通り牛、牛車がやはり描き込まれています。この当時は車石などがない時代です。荷車を引く牛は一層大変だったことでしょう。これも引用です。(資料2) 大津市逢坂2丁目に移動します。ここに、時宗の「長安寺」があります。長安寺のお堂への坂道の途中に 「長安寺宝塔」(重文)です。かなり大きな石塔です。なぜ石塔をとりあげるのか?この宝塔の傍に、駒札が立てられています。右の画像に背面が写っています。 かつては、現在長安寺があるこの付近一帯に関寺があり、その関寺の復興に寄与した牛にまつわる物語が「関寺縁起」に記されているそうです。万寿2年に関寺の工事が終わると共に牛が死にました。その牛を霊牛として供養し祀ったのがこの宝塔と伝わるそうです。「関寺の牛塔」と呼ばれてきたとか。牛の姿は見えませんが、牛と縁の深い石塔のようです。(資料2)「関寺縁起」の内容は、「長安寺」のホームページで紹介されています。序でに、関寺を舞台とした謡曲「関寺小町」があります。長安寺には関寺小町にちなむ小野小町の供養塔が建立されています。(資料2)それでは、最後に牛を巡って近江国大津宿側から山道を越えて京都側に向かいましょう。車石の敷設工事以前の様子ですが、東海道関連で『都名所図会』の挿絵に牛、牛車が登場します。(資料3) 粟田山・日岡峠 絵の右下のところ、日岡峠の個所に牛、牛車が描き込まれています。 粟田口 江戸時代には、牛が農耕だけではなく、牛車として荷車を引き、物資運搬の重要な役割を担っていたことがわかります。太宰府天満宮の成り立ちに、牛と牛車のことが記されています。「延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。門弟であった味酒安行が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました。」と。(資料4)さて、京都市伏見区におけるウシ巡りの続きとして、京都府内で南へ向かいましょう。宇治市の三室戸寺に飛びます。つづく参照資料1) 大津宿 :ウィキペディア2) 時宗 長安寺 ホームページ3) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 :「早稲田大学図書館」4) 天神さまと太宰府天満宮 :「太宰府天満宮」補遺車石・車道研究会 ホームページ車石(くるまいし)-江戸時代の街道整備- 第58回企画展 平成24年 :「大津市歴史博物館」 伊勢参宮名所図会・花洛名勝図会の挿画が紹介されています。謡蹟めぐり 関寺小町 :「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」関寺小町 :「能楽師 久田勘鷗」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 時空をつなぎウシ巡り -1 北野天満宮・菅原院天満宮・白雲神社・錦天満宮・御所八幡宮 へ観照 時空をつなぎウシ巡り -2 菅大臣神社・五条天神宮・ゑびす神社・瀧尾神社・本國寺 へ観照 時空をつなぎウシ巡り -3 西本願寺(唐門)・道祖神社・長尾天満宮・虚空藏法輪寺・法輪寺(だるま寺)へ観照 時空をつなぎウシ巡り -5 三室戸寺・天満宮社・天満神社・市辺天満神社・綺原神社・奈良(菅原天満宮・天神社)へ観照 時空をつなぎウシ巡り -6 日牟禮八幡宮・愛知川宿・菅原神社・目川立場・霰天神神社・大阪天満宮 へ=
2021.01.08
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西本願寺は堀川通の西側にあり東面しています。冒頭の景色は御影堂門を直近に南東側から撮ったものです。(2020.12.4撮影)西本願寺の南隣は興正寺で、この両寺の間、東西方向に北小路通があります。西本願寺の南端の北小路通沿いの築地塀のところに、 「唐門」があります。(2011.4.3撮影) 唐門は四脚門です。西側の控柱と本柱との間に、中国の故事を題材とした透かし彫りがあり、そこに牛が丸彫りされています。巣父についてのエピソードです。西本願寺細見の一部として既にご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。 (スポット探訪 京都・下京 西本願寺細見 -5 唐門 ~境内からの眺め~、中雀門) 唐門から、JR京都駅方向に進みます。堀川通を南に下り、七条通で左折して油小路通を右折し、南に下がると三筋目が塩小路通との交差点。ここで左折して一筋目を南に入ります。そこに「新選組まぼろしの屯所」と記された提灯が吊り下げてある「不動堂明王院」があります。 その北側にあるのが「道祖神社」です。(2015.6.17撮影)新選組ゆかりの地を探訪しているときに不動堂明王院を訪れ、この道祖神社を知りました。 ごく狭い境内地ですが、境内社として「書聖天満宮」が祀られています。 その小祠の右側に臥牛がいます。石標に洛陽二十五社とありますが、まだまだ一部しか探訪していません。私にとっては、二十五社がどこにあるかを調べるところから始まります。ステップ・バイ・ステップで探訪を続けたいと思います。天満宮からの連想で、下京区から伏見区醍醐に飛びましょう。醍醐には、醍醐三宝院や豊太閤の花見行列で知られている「醍醐寺」があります。醍醐三宝院の北東方向、醍醐寺仁王門の北に向かいます。 そこに「長尾天満宮」があります。(2013.3.8撮影) 長尾の丘陵台地上(醍醐北伽藍町)に所在します。ゆったりとした境内地です。 参道を上って行きますと、拝殿と思われる建物の手前に大きな石造の臥牛像が奉納されています。この近くに、石造宝篋印塔を置いた「菅公衣裳塚」があります。(資料1)臥牛からの連想ですが、臥牛がおもしろい配置になっている事例を思い出しましたので、右京区の嵐山に飛びましょう。 渡月橋を南に渡った先にある「法輪寺」です。(2019.8.24撮影)京都では「十三参り」のお寺として、良く知られていて、嵐山虚空藏山町にあります。寺名は知らずに十三参りの寺で記憶している人も多いかもしれません。私もその一人。山門を入ると、幅が広い少し急な石段を上っていく必要があります。序でに、福徳・知恵・美声を授かるという「十三参り」には言い伝えがあります。子供の時、十三参りに連れて行かれて、その言い伝えを聞き少し緊張したものです。十三参りのお参りをした後のことです。「折角授かった知恵も、参詣の帰り道、大堰川に架かる渡月橋を西へ渡り切るまでは、後ろを振り返ると、返してしまうという言い伝えがある」(資料2)のです。 石段を登り切った先の境内地からさらに一段高い境内地に本堂があります。本尊が虚空藏菩薩です。「智福山」が山号ですので、町名の由来もこの本尊に関係しているのでしょう。 本堂のある境内地への数段の石段傍に、この石造臥牛像が置かれています。石段の反対側に置かれているのが石造の獅子像です。いわば、狛犬像に相当する配置になっているところがおもしろいところです。 知恵を授かるための「十三参り」ですから、学問の神様と見做されている菅原道真を連想する臥牛像がここに居るのはうまくリンクします。「法輪寺」の名前からのリンクでもう一つの「法輪寺」を思い出しました。通称「だるま寺」です。勿論、このお寺も既にご紹介しています。北野の紙屋川近くに戻ることになりますが、バーチャルな移動は楽なものです。上京区下立売通天神道西入まで飛びましょう。比較的近い目印は丸太町御前の交差点、そして西南方向に位置するJR嵯峨野線円町駅です。 門前左側に立つ寺号標に「三國随一 起上り だるまてら」と寺名の上に刻されています。本堂は右側です。朱塗りの外観の四注造り二階建の建物は「衆聖堂」で、階上にはキネマ殿他があります。(資料3) お堂の外縁のこの青銅製の牛像が置かれています。禅と牛は関係がありますね。そう、「十牛図」でリンクします。 (松原哲明著・主婦の友社)十牛図に関連する本はいろいろ出版されています。私が目に止めて購入し書架にあるのがこの本です。表紙に牛のイラストが載っています。調べてみますと、この法輪寺の出版で『十牛図』が昭和14年に出版されています。国立国会図書館デジタルコレクションで本文を読むことができます。こちらからご覧ください。序でに、十牛図の一例を宗演著『提唱十牛図』から引用してご紹介しましょう。(資料4,5) 第1図 尋牛(牛を探す) この私は「なにものか」 第2図 見跡(牛の足あとを見つける) 自己発見の手がかり 第3図 見牛(牛をみつける) 自分の中にあった、自分の心を見る 第4図 得牛(牛をつかまえる) 煩悩妄想と無心のはざ間で 第5図 牧牛(牛を飼いならす) 悟れば、自然と無心になれる 第6図 騎牛帰家(牛に乗って家に帰る) 迷いを捨てて、道を進む 第7図 忘牛存人(牛のことを忘れる) 悟りを捨てるとき 第8図 人牛倶忘(自分のことも忘れる) 悟った自分さえも捨てる 第9図 返本還源(すべて元通りとなる) 自然界に戻り、花を見る 第10図 入鄽垂手(町に出て生活する) 俗世間に戻り、童心に戻る (付記: 各図の括弧内の記述は資料5から引用しました。 その後のフレーズは上掲書の見出しから引用しました。)それでは、長尾天満宮からさらに南へ飛びましょう。同じ伏見区の「御香宮神社」境内へ。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p3512) 『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p2283) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p2264) 提唱十牛図 宗演著 経世書院 明29.11:「国立国会図書館デジタルコレクション」5) 十牛図 :「寶樹山 萬福寺」補遺お西さん(西本願寺) ホームページ虚空藏法輪寺 ホームページ法輪寺<上京区> :「京都観光Navi」法輪寺(西京区) :ウィキペディア法輪寺(達磨寺) :「京都観光Navi」京都のユニークなだるま寺へ行ってみよう!! :「Why Kyoto?」展示解説:十牛図/禅の悟を牛にたとえて :「伊賀市ミュージアム青山讚頌舍」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 時空をつなぎウシ巡り -1 北野天満宮・菅原院天満宮・白雲神社・錦天満宮・御所八幡宮 へ観照 時空をつなぎウシ巡り -2 菅大臣神社・五条天神宮・ゑびす神社・瀧尾神社・本國寺 へ観照 時空をつなぎウシ巡り -4 御香宮神社・車石(寶相寺/大津駅前/大津市歴史博物館/横木<藤尾>)・長安寺ほか へ観照 時空をつなぎウシ巡り -5 三室戸寺・天満宮社・天満神社・市辺天満神社・綺原神社・奈良(菅原天満宮・天神社)へ観照 時空をつなぎウシ巡り -6 日牟禮八幡宮・愛知川宿・菅原神社・目川立場・霰天神神社・大阪天満宮 へ
2021.01.07
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「菅大臣神社」です。(2013.4.27撮影)左画像の左端の石灯籠の前には「菅家邸址」と刻された石標が立っています。こちらは仏光寺通に面する石鳥居です。右画像は西洞院通に面する石鳥居です。「この地は右大臣菅原道真が降誕した邸宅(白梅殿)および菅家学問所の旧地とつたえ、道真の没後、間もない頃に創祀された神社」(資料1)と言われています。 両鳥居からの参道が交わるところの北西角に手水舎があります。 この手水舎に臥牛がいます。 社殿は西面する形で建てられていますので、西洞院通の方が表参道になるのでしょう。この石鳥居を通ると、右側に 覆屋の中に石造臥牛が本殿の方に向かって蹲っています。 目が可愛い。勿論、地名は菅大臣町です。仏光寺通の北側民家の角にも「菅家邸址」の石標が立ち、民家脇の路地を北に少し歩むと、「北菅大臣神社」があります。こちらは紅梅殿神社とも称されます。こちらの地には紅梅殿があったと伝えられているそうです。(資料1)西洞院通を松原通まで下ります。つまり、二筋南に歩みます。 西洞院通の西側に東面して石鳥居があります。「五条天神宮」です。(2013.4.27撮影)本殿は東面しています。また、松原通にも石鳥居があります。 境内社として本殿の背後、南西隅に天満宮が勧請されています。 この小祠の斜め左前に臥牛がいます。この五条天神宮の北辺が面する松原通をどんと東方向に突き進みます。鴨川に架かる松原橋(かつては五条橋の架橋地)を渡り、大和大路通を少し北に上がります。 通りに東面する石鳥居が見えます。「ゑびす(恵美須)神社」です。(2019.1.2撮影)「十日ゑびす」や「二十日ゑびす」の行事で有名です。通りを挟み、東側の通りに面した民家の背後(東側)は「建仁寺」境内が広がっています。 ゑびす神社の境内に、境内社として「小松天満宮」があります。こちらはちょっと大きな境内社です。堂内には菅原道真の臣菊地武則邸の井戸から出たといわれる道真像が安置されているそうです。太宰府の配所に居た道真が、「筑紫の天拝山で行をしている憤怒の姿をあらわした」像で荒行の相を現しているとか。(資料2) 狛犬像が置かれてるような感じで、石造臥牛像が正面の傍に奉納されています。 さらに、境内地の北西隅に円柱形で先端が砲弾のような形状の石柱が建立されていて「天満宮」と刻されています。石鳥居も設けてある一角があります。石鳥居には北野天満宮の遙拝所と読める扁額が掲げてあります。 その傍に、やはり陶製の臥牛がいます。大和大路通を南下してみましょう。大和大路通は京都国立博物館がある七条通が南端です。ここで七条通を一筋西側に歩み、本町通に移ります。七条通がその起点になります。本町通を南へ。東福寺駅からは北方向に数分のところにある神社に移動です。 本町通に面して石鳥居がありますが、五葉ノ辻に面しているのがこの鳥居です。「瀧尾神社」です。(2017.12.21撮影。なお、上掲右の画像のみ2019.11.7撮影) 社殿本殿を囲む菱格子窓の瑞垣(塀)の上部と唐破風の拝所の装飾彫刻が見事です。装飾彫刻の美としては、私の好きな神社の一つです。 屋根の下、菱格子窓の上部の欄間には十二支が丸彫り状態で彫刻されています。その一つ「丑」欄間の装飾彫刻からの連想で、山科区御陵に飛びましょう。山科には天智天皇山科稜があります。最寄り駅は京阪電車の御陵駅です。 天智天皇陵の北辺を琵琶湖第一疏水が流れています。その北側に「本國寺」があります。左の景色は山腹にある総門です。右は本堂です。(2018.10.26撮影) このお寺の境内にあり、ネットのMapionの地図に「加藤清正公眞生墓廟」と表記されています。手許の地図(昭文社)も同様です。本國寺の大本堂の背後、さらに坂道を上ったところに位置します。「清正宮」の扁額が掛けられた鳥居が立っています。 この廟堂の外側の欄間にも十二支が彫刻されています。 そこに牛が丸彫りで彫刻されています。それではもう一つ気づいた牛の彫刻がある場所に参りましょう。堀川北小路に飛びます。西本願寺です。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p3472) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p263-2653) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p51-53補遺菅大臣神社(菅大臣天満宮)の梅 :「まいぷれ」五条天神宮 :「京都通百科事典」京都ゑびす神社 ホームページ大本山 太光山 本國寺 :「日蓮宗」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 時空をつなぎウシ巡り -1 北野天満宮・菅原院天満宮・白雲神社・錦天満宮・御所八幡宮 へ観照 時空をつなぎウシ巡り -3 西本願寺(唐門)・道祖神社・長尾天満宮・虚空藏法輪寺・法輪寺(だるま寺)へ観照 時空をつなぎウシ巡り -4 御香宮神社・車石(寶相寺/大津駅前/大津市歴史博物館/横木<藤尾>)・長安寺ほか へ観照 時空をつなぎウシ巡り -5 三室戸寺・天満宮社・天満神社・市辺天満神社・綺原神社・奈良(菅原天満宮・天神社)へ観照 時空をつなぎウシ巡り -6 日牟禮八幡宮・愛知川宿・菅原神社・目川立場・霰天神神社・大阪天満宮 へ
2021.01.06
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元旦からずっと家に籠もっていました。そこで、ふと今年の干支である「丑」に因んで、過去十余年に探訪先で撮ったデジタル画像に記録している「ウシ」を、半ば霧がかかった記憶を梃子にしてパソコン画面で実地検索してみることにしました。時空を溯ったバーチャルな初詣雰囲気で・・・・。ということで、断続的に記録画像から抽出した様々な「ウシ」をご紹介するとともに、ブログを書いた時に引用した資料のご紹介も補足したいと思います。初詣でウシと言えば、やはり京都での筆頭は「北野天満宮」でしょう。(2014.5.3撮影)冒頭の景色は今出川通に面した大きな石造の「一の鳥居」です。 表参道を北に歩むと、北に位置する本殿の方向に向かった姿の大きな臥牛が見えます。 さらに、その先に この二頭の臥牛像が奉納されています。最初の二頭が金属製の像であるのに対して、こちらは石像のようです。その先に、楼門があります。楼門を通り抜けると、 水鉢の正面に「梅香水」と刻した手水舎があり、水の注ぎ口の上に臥牛像が見えます。 手水舎の近くにも大きな臥牛像があります。さらに参道を進めば、左右に回廊が付いた「三光門」があり、その先の境内地に本殿が位置します。 参道の先、正面に見えるのがこの「社殿」(国宝)です。 唐破風の屋根の下に見える蟇股の内側に牛が丸彫りされていて、彩色され力強い姿の黒い牛を見上げることができます。上七軒の通りを西に進んで来ますと、北野天満宮の東門が正面に見えます。 東門を入って右手前方に見えるのが、この手水舎です。ここにも石造の臥牛像が置かれています。私が境内で気づいたのはこれくらいです。では、北野天満宮から南に向かいます。京都御苑の西側、烏丸下立売にまず飛びましょう。烏丸下立売の南西角には聖アグネス教会があります。 その南側に位置するのがこの「菅原院天満宮神社」です。菅原道真生誕の地と言われています。境内地は今は比較的小さな規模です。(2019.1.2撮影) 門を入ると、ここも手水鉢のところに、臥牛が口から水を注ぐ形で置かれています。 こじんまりした境内地ですが、本殿があるところは一段高くなっています。 その端にブロンズ製の臥牛が奉納されています。 境内の西側には、これらの臥牛像をみかけました。烏丸通を渡り、京都御苑に入ります。 京都御苑内には神社がいくつかあります。その一つが「白雲神社」です。(2014.2.9撮影) 社殿傍に置かれた青銅の灯籠 この灯籠の基壇に相当する帯の部分に唐草文の中に牛がレリーフされていることに気づきました。灯籠への牛のレリーフから、左京区にある吉田山の麓の吉田神社を連想します。先月ブログ記事に書いたところですので。左京区吉田神楽岡町に飛びましょう。 吉田神社の「斎場所大元宮」です。 (2020.11.6撮影) 連子窓の瑞垣(塀)の前に置かれた石灯籠の中台の部分に十二支が厚彫りでレリーフされています。 そこに牛がレリーフされています。さて、吉田山から、天満宮をキーワードに中京区の錦小路通に飛びます。錦市場で有名なところ。この錦小路通の東端に位置するのが、 新京極通に面している「錦天満宮」です。(2018.9.5撮影) 一旦、御池通まで戻ります。この通りに面して、堺町通との西南角に御所八幡町があります。 ところが、「御所八幡宮」は御池通の南側にあります。(2017.3.22撮影)こちらは高倉通御池東亀甲町になります。太平洋戦争中に御池通の強制疎開で移転することになった結果だとか。 この境内に天満宮が勧請され、小祠が祀られています。その前にこの臥牛がいます。天満宮に祀られているのは、菅原道真です。それでは、菅原道真ゆかりの地に飛びましょう。つづく補遺北野天満宮 ホームページ 境内のご案内菅原院天満宮 ホームページ錦天満宮 ホームページ御所八幡宮 :「京都観光Navi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 時空をつなぎウシ巡り -2 菅大臣神社・五条天神宮・ゑびす神社・瀧尾神社・本國寺 へ観照 時空をつなぎウシ巡り -3 西本願寺(唐門)・道祖神社・長尾天満宮・虚空藏法輪寺・法輪寺(だるま寺)へ観照 時空をつなぎウシ巡り -4 御香宮神社・車石(寶相寺/大津駅前/大津市歴史博物館/横木<藤尾>)・長安寺ほか へ観照 時空をつなぎウシ巡り -5 三室戸寺・天満宮社・天満神社・市辺天満神社・綺原神社・奈良(菅原天満宮・天神社)へ観照 時空をつなぎウシ巡り -6 日牟禮八幡宮・愛知川宿・菅原神社・目川立場・霰天神神社・大阪天満宮 へ
2021.01.05
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御影堂門を境内の南西側から眺めた景色から始めます。 門に南から近づいて行きます。門の南側に入母屋造りの建物が見えます。 こちらは御影堂門の北側にある同形の建物の部分です。上掲の写真と見比べていただくと、扉のある位置が左(北側)になっています。板壁で花頭窓が設けられ、欄間は花狭間になっています。柱は礎盤の上にのり、柱の上端はやや丸みを持った粽状にしてあります。禅宗様の様式が取り入れられているのでしょうか。 この建物は、御影堂門の2階、楼上に上がるための階段を覆うための建物です。「山廊(さんろう)」と称されます。 これは北端の境内側控柱と本柱の間で、内側を撮った景色です。貫の下側は腰板が張られ、上は花狭間窓となっています。 こちらは、南端の境内側で外側を撮っています。 花狭間窓 比較的単純な図形の繰り返しが美しい幾何学模様を生み出しています。中央の柱と貫との交点部分は、牡丹の花をデザイン化しているように思います。寺紋との関係でしょうか。間違っているかもしれませんが、私の印象です。 花狭間窓の周囲の錺金具には唐草文が線刻されています。 境内側の控柱下部の錺金具に打ち出された獅子も眺めてみましょう。 上掲の獅子(西側) 北側 南側 これらの錺金具の獅子像の上にも牡丹の花が打ち出されています。 それでは、御影堂門の屋根を眺めましょう。入母屋造り本瓦葺きの屋根です。 大棟の獅子口は「東本願寺慶長撞鐘」の記事で補足として取り上げた獅子口と同じ意匠のようです。漆喰を使っているところは阿弥陀堂門の細見で取り上げた獅子口と同じです。錺金具には唐草文様が使われ、拝みの個所には「東六条八藤紋」が使われています。(資料1)その下の懸魚は「三ツ花懸魚」の形式のようです。(資料2)懸魚の中央部にも上記紋章が使われています。 破風には青海波文が薄く刻まれ、錺金具の中央には上記と同じ紋章が使われています。その両側は菊花が意匠化されたもののようです。脇懸魚は懸魚と同形です。 唐草文の意匠 稚児棟の獅子口も当然ながら同形です。軒丸瓦の先端面には「本願寺」の文字が陽刻されています。 尾棰の先端部は錺金具で覆われ、先端面には上記の紋章が使われています。 初層の屋根も同様です。 山廊の屋根も眺めましょう。 棟の獅子口は勿論同形です。 拝みの個所の錺金具は同じ形式ですが、懸魚は蕪懸魚のスタイルで、懸漁には紋章が使われていません。 脇懸魚は同様に蕪懸魚です。脇懸魚の上の破風に使われている錺金具を写真で観察していてその意匠に違いがあることに気づきました。以下は写真から部分図を切り出しました。対比してみてください。 御影堂門 屋根の破風の錺金具 山廊 屋根の破風の錺金具 この意匠のバリエーションがおもしろい。細見の楽しみどころでもあります。これなどは、発注者の詳細な仕様要望によるものなのでしょうか。あるいは、細部についてはこの錺金具を制作する匠の創意工夫によるものなのでしょうか。 御影堂門の北側にあるもう一つの山廊の北面破風部分を撮った景色です。 御影堂門前で南を眺めて 烏丸通の北方向を眺めて御影堂門を後に、東本願寺前の烏丸通の紅葉を眺めつつ、JR京都駅に向かいました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 大谷家 :ウィキペディア2) 『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 補遺東本願寺 真宗大谷派 ホーム-ページ錺師 :「若林佛具製作所」森本錺金具資料館 :「森本錺金具製作所」匠のまちを歩く 川島利之さん(錺師) :「文化探訪」下町に息づく伝統の技 錺師3/6 YouTube下町に息づく伝統の技 錺師4/6 YouTube下町に息づく伝統の技 錺師2/6 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか 5回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 6回のシリーズでご紹介しています。
2020.12.31
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阿弥陀堂門前から眺めた御影堂門。入母屋造り本瓦葺きの楼門であることがわかります。改めて御影堂門を細見してみました。そのご紹介です。 門前の南側、北側からまず外観を眺めましょう。本柱に対して控柱が前後に4本ずつあり、八脚門の形式です。三間一戸が古来から一般的な形式なのですが、この御影堂門は三間三戸の形式になっています。門の両側に2階楼上への山廊が設けてあり、二層門の形式です。 正面楼上には、「真宗本廟」の扁額が掲げてあります。唐草文様の錺金具が輝いています。 門から正面に御影堂が見えます。 境内には堀が巡らされています。堀に架けられた石橋を渡って門の傍に歩みます。 控柱の頭貫は彫りは深いですが簡略な文様です。蟇股も木鼻もごくシンプルな造形です。 頭貫の上に台輪が設けてあるのが目に止まりました。 門の内に佇み、中央部の本柱を見上げると、天井部分が金網で防護されているので、少し見づらくて残念ですが、龍が彫り込まれています。 龍の眼は彩色し描かれているように見えますが、定かではありません。 南側の門扉上部の欄間彫刻です。波濤文様が彫られているようです。 先に触れておきます。門を通り抜けて、境内側から見上げますと、背面にも龍が彫刻されています。こちらには金色の波打つ龍の髭が目に止まります。さて、もう一度門扉より外側に戻ります。 八脚門の控柱の一部の細見です。やはり注目は錺金具です。四脚門形式の阿弥陀堂門の控柱との違いは、丸柱が使われていることです。礎盤があり、丸柱の下部が錺金具で防護されていることと、意匠造形は異なりますが獅子像が打ち出されている点は同じです。 反時計回りに東西南北の方位にそれぞれ異なる姿態の獅子像が造形されています。各控柱の獅子像を見比べていくのが一つの楽しみです。現地でじっくりダイナミックな獅子像のどこがどう違うかを観察してみてください。 ズームアップしてみますと、京都タワーの展望台部分が金網の先に見えます。 北端の幣軸個所の装飾彫刻 中央部の幣軸の装飾彫刻本柱錺金具の獅子像 幣軸の部分には、菊の花がレリーフされています。よく見ると微妙に変化変転しています。 3個所ある門扉は桟唐戸の形式です。これらは北と中央の門扉です。上部から眺めていきましょう。 寺紋(本願寺抱き牡丹紋) 扉の強度を増すことを兼ねた金具は機能本位の質実な造形です。レリーフされている草花は何でしょうか。私にはわかりません。 門扉の閂は角柱がきっちりと金属板で補強されています。かなりの強度アップとなるでしょうね。 境内側の梁の一つです。草花文様の繊細な装飾彫刻が施されています。 境内の北西側から眺めた御影堂門の全景です。京都タワーとの距離感がわかることでしょう。 南西方向に目を転じると、御影堂があります。 東本願寺境内全景図次回、境内から眺めた御影堂門を続けます。補遺東本願寺 真宗大谷派 ホームページ東本願寺 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか 5回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 6回のシリーズでご紹介しています。
2020.12.30
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東本願寺の阿弥陀堂門を入ると、右斜め前方にこの鐘楼が新たに建立されていることに気づきました。今回はこちらも細見しましたので、別項としてご紹介します。しかし、少し様子が違います。 近づいてみますと、梵鐘が吊り下げられているのではなく、台座を設けてその上に置かれているのです。背後に見えるお堂が阿弥陀堂です。 この鐘楼の南側に、この境内案合図が設置されています。つまり、梵鐘が展示(設置)されているのは この「お買物広場」の建物の南側になります。 鐘楼の傍に、この案内板が設置されていて、「東本願寺慶長撞鐘(つきかね)」というタイトルでこの撞鐘について説明されています。 柱の傍に、新しい案内板の設置以前から使われていたと思われるもう一つの案合文も併設されています。これらを参照資料にして、撞鐘を細見していきましょう。 案内板の右上の写真説明からこの撞鐘の姿図を切り出しました。教如上人は、慶長7年(1602)、徳川家康から京都烏丸六条に寺地の寄進を得ました。慶長9年(1604)9月の御影堂造営に合わせてこの撞鐘を鋳造したそうです。この撞鐘の大きさは総高256cm、口径156cm。総重量は3,800kg。尚、写真図版は以下の細見個所のうち銘文のある個所を説明していますので省略します。 「池の間」に「慶長九 甲 辰 暦」、「五月廿八日」という銘文(陰刻)があります。この撞鐘が鋳造された日付です。つまり、慶長9年(1604)5月28日。 縦帯の下部に「大工大坂淨徳」という銘文(陰刻)が見えます。この撞鐘を制作したのは鋳物師(いもじ)の大工淨徳です。余談です。「大工」という語句を手許の辞書で引いてみました。『広辞苑』(初版)には、次のとおり説明されています。 (1) 木工寮または太宰府に属し、諸種の営作に従事した職。 (2) 工匠(たくみ)の棟梁。番匠。 (3) 主として木造家屋などを建てる職人。こだくみ。きのたくみ。このみちのたくみ。 木工。また、明治時代に出版された大槻文彦編纂の『言海』という辞書には、 (1) 工匠(タクミ)ノ棟梁。(番匠バンショウの條、見合ハスベシ) (2) 今、専ラ、大工コタクミノ通称。木工。と説明があります。今ではもっぱら木造建築の職人さんを大工と称しますが、かつては「工匠」という概念が広かったということですね。金属の鋳造をする鋳物師と称される人々の棟梁も「大工」と称されていたのです。元に戻ります。 「飛天図」が描かれた「池の間」に「信淨院」の銘文(陽鋳文字)があります。信淨院とは教如上人のことです。つまり、教如上人の発願、発注により鋳造された撞鐘ということになります。この撞鐘は境内地南東の鐘楼に、慶長9年(1604)6月6日に吊り下げられたと言います。撞き初めはその翌日、6月7日だったとか。 「信淨院」の銘文がある「池の間」の「右向飛天図」 「右向鳳凰図」 「左向飛天図」 5月28日の銘文がある池の間の図です。 「左向鳳凰図」 下部中央に「本願寺」の銘文(陽鋳文字)があります。 撮る位置を少しだけ移動して・・・・。 撞座 八葉素弁蓮華文です。 下帯の文様。唐草文様が陽鋳されています。 この案内文の説明で、上記と重複しない個所を転記してご紹介します。関心を抱かれた形は実物の撞鐘を見て、現地で案内文を再読していただく一層興味が湧くかもしれません。「竜頭の方向が撞座に直交する古式の洪鐘(こうしょう)である。」 (池の間に目が集中し、竜頭の写真を撮り忘れました。残念! 以前に一度撮ってはいます。)「慶長末年以前の鐘としては、①京都方広寺の鐘、②奈良東大寺の鐘、③山形羽黒山出羽三山神社の鐘、④鎌倉五山円覚寺の鐘についで5番目の大きさを誇る。」「池の間四区には、飛天と鳳凰図が浮き出されており、乳の間には一区五段五列で、上帯にも二個ずつ四箇所に乳が配列され、全部で百八煩悩を現している。」「大坂の鋳物師は、鐘銘に見る限り慶長6(1601)年を初見とし、難波別院(大谷本願寺)の鐘銘に『大工我孫子杉本/藤原朝臣仏善左衛門尉家次』とあるように、元来、摂津国住吉郡我孫子の住で、天正11(1583)年、秀吉の大坂築城を契機に、我孫子から移住したものとされる。」「飛天図については、韓国の鐘に類例がみられるが、多くは正面を向き両足を屈した図像であり、斜め横方向へ飛翔する本撞鐘の天人とは異なる。また、飛天図は、和韓混淆の鐘にもみられるが、その形象や衣文表現などに相違する点がある。鳳凰図についても、韓国の鐘には池の間にあらわす例は見出せず、東本願寺慶長撞鐘の特徴を示すものである。」末尾に、この撞鐘が2016年2月16日付で、真宗大谷派宗宝第36号に指定された旨の一文が記されています。 序でに、北側の建物周辺のご紹介をしておきましょう。一つは入母屋造りの屋根です。切妻の破風部分には三ツ花懸魚が使われています。特徴的なのは、切妻部分の個所は全体が漆喰で塗り固められていると思われることです。外観の美と併せて防火対策が意識されているということでしょうか。 大棟の端には獅子口が見えます。阿弥陀堂門の唐破風上の獅子口と基本は同じです。しかし、全体が一体化した形で制作された瓦のように見えます。足元の造形は波濤文ですがかなりダイアミックな意匠になっている感じです。 稚児棟の個所にも獅子口が使われていますが、こちらには足元(鰭)が略されています。経の巻と軒丸瓦は共に三つ巴文様ですが、形状の表現が異なります。 大瓶束と蟇股が同じレベルで並んでいるのに興味を持ちました。蟇股が下部構造に、上部構造に大瓶束が使われるというのが良く見かける形式ですので。 この建物と東側の築地塀の間の細長い空間をふと見ると、石庭風の庭に作庭されています。東本願寺を今までに幾度か訪れていますが、ここは初めて気づきました。まだまだ見過ごしている個所がありそうです。これで東本願寺慶長撞鐘についてのご紹介を終わります。[付記]2017年3月~4月にスポット探訪として「東本願寺細見」記を拙ブログでご紹介しています。そのときこの撞鐘は境内の一隅に仮置きで展示されていました。その時に傍にあったのが、上掲の簡易な説明文でした。今、この撞鐘にとっての正式な居場所がここに設けられたということです。スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -2 阿弥陀堂・鐘楼(新調梵鐘)・東本願寺撞鐘(梵鐘)この記事で当時の状況をご覧いただけます。ご覧いただきありがとうございます。こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか 5回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 6回のシリーズでご紹介しています。
2020.12.29
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先月中旬に京都駅前に用事があって出かけた時、久しぶりに東本願寺の境内に入りました。以前に東本願寺の探訪記をご紹介しています。今回はまず阿弥陀堂門を対象にして細見してみました。左は烏丸通の西側歩道を北に歩み、東本願寺東面の築地塀を囲む堀端の景色を眺めたところです。御影堂門の屋根が一段高く遠方に見えます。右は御影堂門の南にある「阿弥陀堂門」に近づいた場所で眺めた景色です。 境内の西南寄りから眺めた阿弥陀堂門の全景です。 境内側から阿弥陀堂門に立ち、東を眺めた景色です。それでは、阿弥陀堂門の細部をゆっくり観察いたしましょう。 屋根の棟瓦には、半円弧の瓦が組み合わされて、リズミカルさを加えています。コードが見えるのは避雷針用のコードでしょうか。軒丸瓦の正面には一般的な三つ巴紋が見えます。 唐破風の屋根に獅子口が見えます。経の巻の正面には三つ巴がレリーフされていて、綾筋は2本。その下には葵形様の文様が見えます。両側の足元(鰭)は波濤文です。本堂に使われている獅子口と同じです。 屋根は檜皮葺き。兎毛通の個所には五七桐の紋章が錺金具にレリーフされています。 脇懸魚の上部、破風の錺金具にも同様に五七桐の紋章がレリーフされています。 屋根の内側、頭貫から上部は鳥害除けの金網で覆われていて、彫刻の状態が見づらくなっています。蟇股の造形はシンプルな意匠です。 正面(東面)の木鼻は草花文で、側面(南北方向)には獅子が彫刻されています。 門は四脚門の形式です。門扉の本柱の前後に計4本の控柱が立つ形式です。 本柱と控柱の間の欄間には花狭間窓が嵌め込まれています。 貫の釘隠しの錺金具 桟唐戸形式の門扉には、様々な文様や紋章が見られます。 上部に花狭間。その下に菊花紋の狭間があり、さらに下には五七桐の紋章が取り付けてあります。 桟を飾る錺金具の表面には、咲き誇る菊花が線刻されています。 本柱は円柱でその下部を覆う錺金具。風水からの防護機能を兼ねているのでしょう。禅宗様建築で使われる礎盤がここにも使われています。錺金具には躍動的な獅子像が打ち出されています。 門扉の幣軸にも錺金具が要所に取り付けてあります。幣軸の下部を覆う錺金具には菱柄の中に図案化した菊様の文様が線刻されています。上部の意匠も同様です。 控柱は角柱です。こちらも柱の下部は錺金具で覆われていて、柱に併せて礎盤も角形です。 東面 南面 西面 北面それぞれの面には、様々な動きをする獅子が打ち出されています。 門傍築地塀の張り出し部分の正面 築地塀屋根の鬼板と飾り瓦。軒丸瓦の正面には「本願寺」の文字が陽刻されています。 合掌部の錺金具 蕪懸魚の形式 蟇股には菊の花の透かし彫りが施されています。 こんなところで、阿弥陀堂門の細見を終わります。この阿弥陀堂門もまた、境内への出入口、通過点として素通りするだけではもったいない。ちょっと立ち止まって、ゆっくり眺めてみるといろいろな発見に繋がり、楽しめます。お試しください。ご覧いただきありがとうございます。補遺東本願寺 真宗大谷派 ホームページ東本願寺 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか 5回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 6回のシリーズでご紹介しています。
2020.12.28
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今月初旬に、堀川通西側の西本願寺に対面する形で通りの東側に位置する龍谷ミュージアムに行ってきました。11月21日から前期展示が始まった企画展「ほとけと神々大集合」を鑑賞するためです。このタイトルがおもしろいので出かけた次第です。サブ・タイトルは「岡山 宗教美術の名宝」となっていました。この副題を意識せずに出かけたことになります。 展示会場は3階のフロアー全体だけ。入口傍にこのコーナーが設置してありました。会場を示すとともに、記念撮影用も兼ねているのでしょう。 左は入場チケットの半券。右は鑑賞後に購入した図録です。古代には「吉備国(きびのくに)」と呼ばれた岡山という地域限定で宗教美術を一堂に集めた展示でした。なぜそれができたのか。岡山県立博物館が改修工事を行われることになったことから、龍谷ミュージアムで同博物館の所蔵品や寄託品の一部を預かることになったそうです。そこで、この機会に「密教美術と、神仏習合に伴う垂迹美術をテーマに」した企画展開催の運びとなったと言います。吉備国は古代において大陸との交通の要衝地にあり、出雲国、大和国に匹敵する力をもつ地域だったようです。奈良時代の報恩大師と香川出身の弘法大師空海らがさかんに活動した地域だったそうで、その結果真言宗・天台宗という密教系寺院が数多く建立され、密教美術が伝来し、優品が製作され信仰されたと言います。(資料1)一方、『日本書紀』の巻五・崇神天皇9年9月9日の条によれば、吉備津彦は四道将軍の一人に任命され、西海の征討を指示されます。冬10月22日に出発し、11年夏4月28日には、四道将軍からそれぞれ赴いた地方の敵を平らげたという報告がなされたと記述されています。つまり、吉備津彦が平定した地域が吉備国となるのでしょう。その吉備津彦を祀る霊廟が吉備津神社であり、また吉備の中山の北東麓に吉備津彦神社があります。(資料2,3)吉備津神社、吉備津彦神社や美作国の中山神社(一宮)・高野神社(二宮)などの由緒の古い神社では、仏教思想の流入以降に神仏習合が生まれ、垂迹美術が生み出されてきたと言います。(資料1)この企画展は、岡山という地域に凝集された宗教美術の名品・優品を身近に鑑賞できるというまたとない機会になりました。まさに密教美術・垂迹美術の作品の大集合と言えます。ワンフロアーだけでの展示です。会場で入手した「出品目録」の一覧表によると、件数番号では48、第26番は小枝番号が5つありますので、総件数では52です。前期・後期で10件の入れ替えがあり、他に巻き替えや前・後での差し替えが予定されています。実質的な展示数でみても、比較的ゆったりとした展示空間になっています。鑑賞日とその時間帯だけでみると、数人見かけただけで、ほぼ専有的に静かな中で鑑賞できてラッキーでした。会場は2章構成になっています。「第1章 密教美術」はさらに3つのセクションから構成され、まずは「密教の世界観」です。その世界観を示す「両界曼荼羅」の展示から始まります。胎蔵界・金剛界の大きな両図が複数件並べて展示されています。 これは冒頭の入口に掲示された企画展案内パネルから部分拡大し切り出したものです。寶光寺藏の胎蔵界曼荼羅(重文)の一番中心になる「中台八葉院」から抽出された部分図です。この図には次のような位置関係で大日如来を中心に菩薩や如来が描かれています。(資料4) 東方 宝幢如来 弥勒菩薩 普賢菩薩北方 天鼓雷音如来 大日如来 開敷華如来 南方 観自在菩薩 文珠菩薩 無量寿如来 西方展示された両界曼荼羅は、当然のことですが様式は同じです。しかし、対比的に眺めると描き方の違いなどから興味が増します。「描表装(かきびょうそう)」という手法を使ったものが展示されています。前期はそれを使わない通例表装の本山寺の両界曼荼羅と併せて3件出ています。後期は「描表装」手法を使った両界曼荼羅だけの2件に入れ替わる予定です。 図録の表紙を部分拡大して引用します。「密教のほとけたち」のセクションでは、上掲写真の中央で一際大きい集賢作「木造宝冠阿弥陀如来坐像」(岡山県立博物館蔵)がやはりハイライトの一つでしょう。吉備津神社の社僧寺の一つ青蓮寺伝来の仏像で、常行堂の本尊だったそうです。阿弥陀仏の宝冠像は私にはめずらしくて印象に残る仏像となりました。大きいと言っても像高82.3cm、鎌倉時代、1329年の作だそうです。(資料1) こちらはチケット半券の部分図です。番号1は「木造聖観音坐像」(明徳寺藏)、番号5は「木造薬師如来坐像」(明光寺蔵)でいずれも平安時代後期の作。通期展示です。前者は総高40.5cm、後者は像高44.0cmです。(資料1)ここに展示の重文の不動明王像と愛染明王像はそれぞれが前期・後期で入れ替えになる予定です。 部分図として切り出したこれらの像は伝増吽筆「十二天像」(重文・長福寺藏)のうちの二幅です。左は月天、右は伊舍那天。展示は六天ずつ前期・後期に入れ替えて展示のようでした。十二天全部を一堂に見ることができなかったのがちょっと残念です。まあ、展示ではよくあることですが。「三千仏図」(長法寺藏)は、蓮華座に坐す中尊の周囲に小仏がびっしりと描き込まれている図です。その根気のいる描画作業に圧倒される思いです。小仏を描く忍耐力は相当のものと思います。第1章の最後は「弘法大師と密教寺院」のセクションで、持宝院藏の「弘法大師像(善通寺御影)」が展示され、3件の銅製五鈷鈴や五鈷杵、岡山市の西大寺藏「西大寺縁起」が5点併せて展示されています。一般的な弘法大師像に釈迦如来の影向する場面が描き加えられた御影を「善通寺御影」と呼ぶそうです。南北朝~室町時代の作だとか。「西大寺縁起」は、永正本・寬文本・延宝本・貞享本・享保本と描かれた時代が異なるものが一緒に展示されています。場面描写法が時代により異なり、対比的に眺めるとこれもおもしろいものです。「第2章 神仏習合の美術」も3つのセクションで構成されています。最初のセクションは「神々とほとけの姿」です。仏教の流布・浸透に対して、神々の世界も具象性を持つ神像として造形するということが要望されていったのでしょう。 これは平安時代後期の「木造男神坐像」(宇南寺蔵)です。図録によると、寺伝では本堂の北約150mのところにあった八幡宮の御神体だと伝わっているそうです。この像の側面と背面には梵字が散らし書きされていて、今でもその文字が読める状態です。神像に後記された梵字、まさに神仏習合です。 平安時代後期の作で通期展示の「木造女神坐像」(県指定重文)です。吉備津神社の神官家に伝わる女神像と言います。もとは彩色され、截金文様も施されていたそうです。 こちらも通期展示で、南北朝時代、1370年の定忍作で「木造童形神(文珠大明神)坐像」(摩賀多神社藏)。この像は左手に経巻を持っています。その姿から本地仏は文珠菩薩と考えられています。美豆良(みずら)を結った姿から私は聖徳太子を連想してしまいました。次は「神仏習合の神とほとけ」というセクションで、ここには「高野四社明神像」(持宝院蔵)や「地蔵菩薩像(僧形八幡神影向図)」(捧澤寺蔵、前期のみ)が図像として展示されていました。ほかに平安時代後期作の「銅板線刻蔵王権現鏡像」(岡山県立博物館蔵)が展示されています。その裏面は釈迦如来が線刻された鏡像になっているというもの。鎌倉時代の銅製の「毘沙門天像懸仏」も展示されています。最後のセクションは「神への祈り」です。 平安時代後期に作られた「木造獅子」(高野神社蔵)です。針葉樹林材の一木造りだそうです。他に木造の面や獅子頭が展示されています。2階に降りると、「仏教の思想と文化 -インドから日本へー」というシリーズ展が併設展示されています。龍谷大学の所蔵品を主体にしつつ、一部諸寺院や伊賀市等からの出展で構成されていました。こちらも二部構成になっています。シリーズ展の構成だけご紹介します。 第1部 アジアの仏教 第1章 仏教とは 第2章 釈尊の教えとその継承 第3章 大乗仏教とガンダーラ・西域 第4章 中国の仏教 第2部 日本の仏教 第1章 仏教伝来 第2章 国家と仏教尚、「ほとけの世界」と題して、7点の展示があります。ほとんど一人でという感じで鑑賞するというひとときを過ごせました。私にとってはラッキーでした。 その後、地下歩道路を使い堀川通の西側に。 御影堂門から西本願寺境内に入ってみました。 境内の銀杏の木の景色を眺めるのが目的でした。 いよいよ冬の訪れです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 図録『ほとけと神々大集合 岡山 宗教美術の名宝』 2020 発行 龍谷大学龍谷ミュージアム、朝日新聞社、京都新聞2) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p126-1293) 吉備津彦命 :ウィキペディア4) 中台八葉院 :ウィキペディア補遺伝説の報恩大師 郷土史研究家 山田良三氏 :「宗教新聞」祝・報恩大師生誕1300年! :「紀行歴史遊学」曼荼羅の教え :「ようこそ、こんごういんへ!」(真言宗豊山派金剛院公式サイト)四、両界曼荼羅 :「尾道・浄土寺」両界曼荼羅 :ウィキペディア両界曼荼羅図 :「MIHO MUSEUM」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.12.19
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伏見街道第四橋は、現在の地図では「直違橋通」と称される区画にあり、所在地は伏見区深草直違橋北一丁目になります。南北に走る旧伏見街道に対して、七瀬川が北東から南西の方向に斜めに流れていて、そこに橋が架かっています。そこで地元では「直違橋(すじかいばし)」と呼ばれるようになったそうです。「直違橋通]という名称もこの直違橋の名に由来するのでしょう。これは橋の南東側から撮った第四橋(直違橋)の路面部分の全景です。近世までは高欄のない土橋だったそうです。近世になると江戸幕府が架設し維持管理する公儀橋でした。「伏見直違橋 長六間二尺 幅三間一尺 元禄十一年寅年新造」という記録が残ると言います。(資料1)ところで、七瀬川についてです。伏見区深草にある大岩山を水源にして、東から西に流れ東高瀬川に合流します。東高瀬川の合流点から上流へ約2.9kmが一級河川に指定されています。「七瀬川という名称は,七瀬川の川筋に七橋(笹谷橋・谷口橋・谷口西橋・筆坂橋・直違橋・七瀬川橋・蓮心橋)が架けられ,また大岩山の谷口から東高瀬川と合流するまでの間に七瀬があったところから名付けられたと言われています。」(資料2) 江戸時代の公儀橋は、明治維新後に京都府の所管となります。明治6年(1873)に伏見街道整備事業が行われ、伏見街道第四橋と改められて堅牢な石橋に架け替えられました。親柱には、ご覧の通り「伏水街道第四橋」と刻されています。(資料1) 昭和9年(1934)に道路拡幅が実施されることで、石橋の上部工はご覧の通り、単純コンクリート桁橋に変更されてしまいました。当初の石橋の親柱4本は再利用され、この形で現存しているという次第です。(資料1) 直違橋南詰東側で七瀬川の上流側の堤防に降りることができます。このコンクリート舗装されている堤防がどこまで北東方向に歩けるのかは確かめてはいません。しかし、ここに降り立つことができることで、「伏水街道第三橋」では見ることができなかった橋の全景を眺めることができます。 七瀬川左岸堤防からの直違橋全景 主要構造部分は、全国的にも希少な石造円形アーチです。 切り出された石材が緻密に築造されています。「石工の経験による伝統技術で架設された明治初期の京都における『永久橋』」(資料1)の一つがここに建設され、主要構造は今も現役で活躍しているのです。 ズームアップしてみて 南東側の親柱 この親柱の下部にはこの第四橋架設に携わった石工の名前が刻まれています。「石工/山城国愛宕郡白川村/内田德左衛門/小川権三郎/京都東堀川下長者町上ル/森下徳治郎」(資料1)と刻銘されているそうです。この写真でその一部が判読できます。内田・小川・森下の3名の石工は、堀川第一橋にも関わり、また建勲神社や豊国神社の造営、大津街道の建設、京都・山科間の難所・日ノ岡切り下げ工事等にも関わり活躍した人々であることが記録からもわかると言います。(資料1)未確認ですが、北東の親柱に「京都府知事長谷信篤/京都府参事槇村正直/建築主任/京都府権大属木村知盈/十四等出仕水上澄成」、北西の親柱に「明治六年三月」の刻銘があるそうです。(資料1) 冒頭の写真には北詰西側に北向きの地蔵堂が見えます。その地蔵堂を北側から見たのがこれです。地蔵堂の北西側に、 「浄土宗誠心寺」の寺号碑が立っていて、通りから西に奥まったところに山門が見えます。門が開いていて境内の先に本堂が見えます。 山門のところから拝見した境内です。 本堂の南東側に寄棟造りのお堂があり、その西側には「写経塔」が建立されています。 本堂は入母屋造りの屋根で、正面の向拝の屋根部分には唐破風が設けてあります。大屋根の正面の鬼瓦がいいですね。入母屋破風の拝には猪の目懸魚が使われているようです。 鬼瓦をクローズアップ 頭貫の木鼻はシンプルな造形です。そして、獅子の飾り瓦。 降棟の鬼瓦現在は霊場としての活動はないようですが、「藤森山」を山号とするこの誠心寺は「伏見三十三ヶ所観音霊場」の第28番札所だそうです。(資料3) 一方、南詰西側の親柱の傍には「禅派了峰寺」の寺号碑が立っています。 七瀬川沿いの緩やかな坂道を少しくだった正面にお寺が見えます。 山門の右側に、「曹洞宗 了峰禅寺」と刻された碑があります。その左には、「不許葷酒入山門」の警告石標が立っています。これがあると禅寺という雰囲気を感じます。山門に柵がしてありますので、門前から境内を拝見しただけです。 門前で見上げるとこの扁額が掛けてあります。 門の屋根の軒丸瓦正面の文字と合わせてみると、了峰寺は「長久山」という山号のお寺のようです。 本堂前の庭を門前から拝見して、橋に戻ることに。伏見街道第四橋は部分変容を経ながら、直違橋として現役で機能していることがわかりました。石造円形アーチは緻密で美しい姿です。これで今回の諸物細見を終わります。伏見街道に関わる石橋の全容を知りたいという思いに、これで一区切りがつきました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『明治の橋 近代橋梁の黎明』 文化財ブックス第32集 京都市2) 七瀬川-概要 :「京都市情報館」3) 伏見三十三ヶ所観音霊場 :「ニッポンの霊場」補遺七瀬川 :「AGUA」直違橋(すじかいばし) :「京都通百科事典」本町通(京都市) :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表探訪 [再録] 京都(洛東・洛南) 旧伏見街道を自転車で -1 五条大橋、本町通を南へ 4回のシリーズでご紹介しています。探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -1 墨染寺と余談「撞木町」 10回のシリーズでご紹介しています。
2020.11.23
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JRもしくは京阪電車の「東福寺」駅で下車し、本町通を北に歩くと、東側に「瀧尾神社」があります。さらに進むと、通りの西側に「寶樹寺(ほうじゅじ)」が見えます。清涼山と号する浄土宗西山禅林寺派のお寺です。 このお寺の築地塀の北東角に石標が立っています。「伏水街道一橋旧祉」と刻されています。旧という漢字には旧字体が使われています。現在の本町通はかつての伏見街道でした。平安時代、伏見街道のこのあたりから南一帯は法性寺領内だったそうです。そして、伏見街道がその領内を通り、そこには北から法性寺一之橋、二之橋、三之橋と称される橋が架けられていたと言います。かつては「伏見」を「伏水」とも表記したのでしょう。法性寺が衰退した後、東福寺領となり、3基の橋は東福寺が寺費で維持する土橋だったと言います。時には町奉行からの補助もあったという記録が残るようです。この橋が、明治6年(1873)に京都府が実施した伏見街道の整備事業に伴い、耐久構造にするために石橋に建て替えられたのです。(資料1)かつて旧伏見街道を自転車で探訪した記録をまとめた時に石橋を一部ご紹介しましたが、今回は改めて残る石橋に焦点をあて細見してみたいと思います。その前に、寶樹寺について少し補足しご紹介します。 門前の右側に、「子ども 子そだて 常盤薬師」と刻された石標が立っています。本堂に本尊の阿弥陀如来立像とともに薬師如来坐像が安置されているそうです。「常盤御前が、今若、乙若、牛若の三児の生長を祈願した像と伝えられている」(駒札より)ところからこの俗称が付いたと言います。門前の道路傍に立つ次の駒札をお読みください。 石橋に戻ります。かつて一之橋、第一橋と呼ばれた橋は川が暗渠化されたために廃橋となり撤去されました。それ故に、ここが「旧祉」と称されることになります。寶樹寺からさらに少し北に歩けば交差点となり、その北東角に学校が見えます。手許の2003年5月発行の地図では、「一橋小」という略称で小学校が記載されています。(資料2)この近くに一之橋があったことに由来する名称が付けられたということでしょう。 現在は、「京都市立東山泉小中学校」となっています。 この学校の建物の東側に南北の通りがあり、その通りを挟んで当校のグラウンドがあります。道路の東側のフェンスの外側(道路側)に「一橋の森」と刻された石碑が設置されています。 グラウンドの北西隅に池が設けられ、そこに石橋が見えます。 ここに、「伏水街道第一橋」の親柱と高欄が移築され保存されています。勿論、橋幅は狭くして残されているのですが。 西側から見た高欄 池の北側からの眺めさて、「一橋の森」から再び本町通(旧伏見街道)に戻り、東福寺駅を改めて通過しさらに南進します。九条通の高架が見えてきます。 その九条高架下、東側の歩道に「伏水街道第二橋」の親柱4本が保存されています。第二橋(二之橋)もまた河川の暗渠化により廃橋となり撤去されてしまいました。 親柱を見ると高欄撤去の痕が見られます、 南詰側の親柱 そして、南詰西側の親柱側面には、石橋の親柱4基等の払い下げを受けて永久保存をする目的で、ここに移築されたという経緯が刻まれています。保存に尽力された人々がいらっしゃったのです。土地の歴史と記憶にはこういう遺構保存が重要なのだと思います。本町通を更に南進します。 「伏水街道第三橋」(三之橋)の親柱が通りに見えて来ます。これで3基の橋はすべて擬宝珠付きの親柱で統一されていることがわかります。 東側には高欄の外側にも歩道部分が設けられていますが、第三橋は通りに現存しています。この歩道を北から渡ると、すぐ先の東側(左側)、本町通りから少し奥まったところに、「東福寺中大門」があります。中大門を潜って真っ直ぐの参道を東進すれば、東福寺の「日下門」に至ります。この門前の参道を北に進めば、臥雲橋があります。 第三橋を南詰東側から眺めた景色です。道路面は平坦にアスファルト舗装が続いているだけですから、注意していなければ橋が架かっているという意識なしに通り過ぎてしまうかもしれません。 橋上から両側を眺めた景色です。かなり深い谷川になっています。この第三橋が架かる川を地図上で上流側に辿ってみますと、北東方向から東方向に方位を変えて行きます。東に向きが変わった先に「臥雲橋」「通天橋」「偃月橋」がこの「三ノ橋川」に架けられています。臥雲橋上から通天橋方向を眺めた紅葉の景色はよくご覧になっていると思います。「通天橋の額は普明国師の筆。橋下の渓を洗玉礀(せんぎょくかん)といふ。このほとりに楓多し。秋のすえ紅錦の色をあらはしければ、洛陽の奇観となる」と、江戸時代に出版された『都名所図会』にも紹介されています。(資料3)この現存する第三橋を三ノ川側から眺めたかったのですが、見渡した限り川に降りる方法がわかりませんでした。撮ることができたのは上掲の川面の写真と、 この三ノ川の護岸石垣壁面の一部だけです。 そこで、この「伏見街道第三橋全景」写真を引用します。京都市歴史資料館を訪れた時に購入した文化財ブックスシリーズの一冊に載っています。(資料1)「伏見街道第三橋の主要構造は、石造アーチで、アーチ部分は馬蹄形とする。構造材には花崗石を用い、河床にも花崗石を貼る。壁石は石を精密に加工してから間隙なく組み上げる切り込み接ぎとする。擬宝珠付き高欄の柱間は3間に割り付けられており」(資料1)と説明されています。江戸時代に東福寺三之橋は、中大門傍でもあるためでしょうか、公儀橋に位置づけられていたそうです。正徳5年(1715)に幕府により修復されたという記録が『京都御役所向大概覚書』(享保2年<1717>)という文書に記録されているそうです。(資料1)現在では「京都府が市内の公儀橋を『永久橋』として石橋に架け替えた現存最古の遺構の一つ」となり、この伏水街道第三橋は第36回京都市有形文化財に登録されています。(資料1)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『明治の橋 近代橋梁の黎明』 文化財ブックス第32集 京都市2)『でか字まっぷ 京都』 昭文社 2003年5月 1版3)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫補遺東福寺 臨済宗東福寺派大本山 ホームページ東福寺・通天橋の紅葉特集 ~渓谷を埋め尽くす紅葉は、京都の秋の顔|MKタクシー :「Open Matome」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表スポット探訪 [再録] 東福寺とその周辺 -1 塔頭の門前を眺めて 9回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 京都(洛東・洛南) 旧伏見街道を自転車で -1 五条大橋、本町通を南へ 4回のシリーズでご紹介しています。
2020.10.31
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28日、標記の特別展を鑑賞に出かけてきました。 こちらがこの特別展のPRチラシです。今までの特別展との違いは、今年のコロナ禍の影響により、「事前予約制(日時指定券)」というシステムが導入されていることです。実は、今年の奈良国立博物館の正倉院展にも「事前予約 日時指定入場制」が取られていて、このことを先日知り、アクセスしてみたら既に予約が終了というメッセージが出ていました。継続的に鑑賞してきたのに途切れることになってしまいました。それで、京博もそうかと思い、ホームページにアクセスしたらやはり同様。こちらは事前予約ができた次第です。28日、指定時間より少し早く行ってみると、平日なので予約枠に対してゆとりがあったのか当日券の発売が併用されていました。それはさておき、京博の七条通に面した階段のところにテントが設置され、手首での検温を経て、通常の入口のところで事前予約時点で返信されてきた画像のQRコードを提示するという手順が必要でした。今までとの違いは、展覧会の入場券の半券が無くなったことです。当日券はどういう形なのだろう・・・・。不詳です。コロナ禍でちょっと物々しい・・・・・。 平成知新館の手前に、この案内パネルが設置されています。逆にプラス面は、ある時間帯をとらえれば、入場者数が制限されているために、平成知新館内の会場がそれほど混雑することなくざわつきも少なくて鑑賞できたことです。人数制限といえども、陳列作品の前での行列は出来ますので、一般的に言われるソーシアルディスタンスを取ることは無理な話です。私語を控えてくださいというアナウンスはありますが、これまた、あちらこちらで仲間内の感想会話は聞こえます。さて、ここまでの案内掲示で、この特別展のハイライトになる作品群のいくつかは例示されています。公開資料の画像引用を加えながら、「皇室の至宝」展の感想とご紹介をします。今回は、宮内庁三の丸尚蔵館が収集するコレクションと宮内庁内の関係所部局の所管する作品が合わせられた展示です。「宮内庁三の丸尚蔵館は、皇室に代々受け継がれた絵画・書・工芸品などが平成元年(1989)に国に寄贈されたのを機に、平成5年(1993)、皇居の東御苑内に開館した施設」(図録「ごあいさつ」より)だそうです。この施設名称は知っていましたが、その由来は知りませんでした。三の丸尚蔵館のコレクションが東京以外の地でまとまって公開されるのは初めてと言います。今回は11/1までが前期、11/3~11/23が後期となっていて、作品の入れ替えが行われる予定です。入手した「出品目録・展示替予定表」を参照しますと、通期展示される作品は総数106点中23点です。その通期展示品も巻を替えたり、めくり替が予定されているものがあります。コロナ禍の影響も考慮してか、前期、後期とも展示品のそれぞれ総数は65点です。展示作品の数は思っていたよりも少ない印象でした。それだけ逆に会場は空間が広めでゆったりしていました。そこで、会場全体の構成ですが、まずは3階の会場を起点に1階の会場まで巡りながら降りていくのはいつも通りです。この特別展覧会は「第一章 皇室につどう書画 三の丸尚蔵館の名宝」「第二章 御所をめぐる色とかたち」という二部構成になっています。第一章はさらに、「筆跡のもつ力」「絵と紡ぐ物語」「唐絵へのあこがれ」「近世絵画百花繚乱」というセクションで構成されています。同様に第二章は「即位の風景」「漢に学び和をうみだす」「天皇の姿と風雅」「王朝物語の舞台」という構成です。「筆跡のもつ力」には、王義之・藤原行成・藤原重盛・伝空海などの筆跡からの出品です。書の文字が判読できないので、私にはいわば「猫に小判」というところ。 「絵と紡ぐ物語」に通期展示の「蒙古襲来絵図」(鎌倉時代)の一部です。前期は前巻の展示です。前巻のこの続き、つまり左側には、蒙古軍の兵士たちの姿が描かれています。鮮やかな彩色の絵詞を見ることができます。後期は、後巻に入れ替えられる予定です。通期として、江戸時代の岩佐又兵衛筆「小栗判官絵巻」も展示されています。小栗判官の吹く横笛に誘い出されるように大蛇が現れるのですが、この巻で大蛇と称されるものは龍の姿で描かれています。当時は龍を大蛇とも見做していたのでしょうか。また前期には「絵師草紙」(鎌倉時代)が展示されています。登場人物の顔の表情がユーモラスです。尾形光琳筆「西行物語絵巻」は宗達筆渡辺家本を光琳が忠実に模写した作品だそうです。そのせいか、繊細さを感じる細やかな描写に、今まで見てきた光琳の斬新な構図の作品とは全く違う側面に触れた感じを抱きました。鑑賞したのは巻1です。後期は巻4になります。 図録表紙 図録裏表紙これは当日購入した図録『皇室の名宝』です。前期に展示されている狩野探幽筆「源氏物語図屏風」(桃山時代 16-17世紀)の部分図が表紙・裏表紙の全体に使われています。表紙は右隻第一扇・第二扇の下3分の2くらいの部分図。一方、裏表紙は右隻第三扇・第四扇の下3分の2くらいの部分図、がそれぞれ利用されています。勿論、会場では右隻・左隻合わせて、六曲一双として展示されています。後期になると伝狩野永徳筆「源氏物語図屏風」に入れ替えられる予定です。六曲一双と二曲1隻の2種が展示予定です。上掲の七条通沿いと平成知新館前に設置された大型案内パネルとPRチラシのいずれにも展覧会名称の右下側に同じ鳥の図が使われています。また、この鳥は 平成知新館内の1階に設けられたこの記念撮影コーナーにも使われています。 この鳥は、伊藤若冲筆「旭日鳳凰図」から抽出された部分図です。この作品は後期の展示予定なので見ることはできませんでした。その代わり、若冲の「動植綵絵」シリーズ中の「老松白鳳図」が展示されていました。繊細な白色の羽の描写に金色の線描が加えられた優雅な鳳が老松の枝に止まっている図です。その細密な描写には圧倒されます。図録の解説によれば、「裏彩色と表面からの巧みな描写技術を融合させ」るというテクニックにより生み出された表現だそうです。さらに、「動植綵絵」から「雪中鴛鶯図」「群鶏図」「薔薇小禽図」が併せて出品されています。この4点は、後期には同シリーズの他作品に入れ替えられます。円山応挙筆「牡丹孔雀図」も見応えのある細密な描写です。応挙筆の作品としては、六曲一双の「群獣図屏風」が前期として出ています。鹿・犬・馬・牛・虎・豹・羊・莵・象など、何と20種以上の動物がさまざまな姿態で描かれているというおもしろい屏風です。これも前期展示だけです。応挙の作品としては「源氏四季図屏風」に、もう一点は住吉廣行筆「四季絵屏風(俊成卿九十賀屏風)」に入れ替え予定のようです。少し変わり種としては、前期展示として狩野常信筆「糸桜図簾屏風」という作品が出ています。六曲一双の屏風の各扇の中央部に大きく窓をあけ、そこに簾を張ったフレームが嵌め込まれ、その簾に糸桜が描かれているという趣向です。 これらは記念撮影コーナーの部分絵ですが、PRチラシの右上にも使われています。上記した後期に展示予定されている伝狩野永徳筆「源氏物語図屏風」の部分絵です。これらの屏風や絵画は「近世絵画百花繚乱」のセクションに展示されています。 これは、冒頭の案内パネルに取り上げられています。第二章の「王朝物語の舞台」というセクションに通期展示される作品です。東福門院御料一具のうちの「五衣唐衣裳装束(いつつぎぬからぎぬもしょうぞく)」(京都・霊鑑寺藏)です。意匠として菊の紋章がまさにオンパレードです。水玉模様と同趣向で結構斬新でおもしろい。「五衣唐衣裳装束」は正式名称で、通称では「十二単(じゅうにひとえ)」のことと言えばピンとくるでしょう。です。そのうちの唐衣・表着(うわぎ)がこれで、裳も一緒に展示されています。 この檜扇は御料の一具になるものです。もう一つ、東福門院とは、二代将軍徳川秀忠の娘・和子(1607~1678)で、後水尾天皇に入内した人です。 これも「王朝物語の舞台」に展示されています。土佐光貞・光時筆「飛香舍襖絵(ひぎょうしゃふすまえ)」のうちの2面です。高砂(秋)の景色が描かれているとか。襖絵20面のうち8面が会場に展示されています。飛香舍は平安宮内裏の後宮にあった建物の一つで、「藤壺」とも称されたそうです。 これも通期展示されている「飛香舍調度」のうちの一つ、「松喰鶴蒔絵螺鈿棚二階厨子飾り」です。 会場で入手した英文ニュースレター和文の京博だよりと表紙は同じですが、記載の説明文字が少ないだけ、絵等がみやすいので、こちらをご紹介します。中央右にあるのは、上掲の「松喰鶴蒔絵螺鈿棚二階厨子飾り」部分図です。中央左は、同様に上掲襖絵の高砂(秋)の景色部分図です。上部の部分図は、「即位の風景」のセクションに後期に展示予定の「霊元天皇即位・後西天皇譲位図屏風」の部分図です。図録を参照しますと、右隻に即位式が描き出されていて、この部分図はその中心になる部分で第三扇に描かれています。紫宸殿内の高御座に10歳の即位した霊元天皇が座している場面です。前期は「明正天皇即位図・行幸図屏風」六曲一双が展示されています。こちらも右隻が即位式の上掲図なのですが、紫宸殿は建物を上から眺めた形で、紫宸殿の前庭(南庭)に群臣や人々が居並び、拝賀する状景全体を描いている図です。「宸儀初見」の場面だそうです。当時の様子が感じとれる絵です。下部の部分図には、上掲し少し説明を加えていますので、おわかりいただけるでしょう。伝狩野永徳筆「源氏物語図屏風」の左隻で後期に展示予定の作品です。第三扇~第五扇の大凡の図です。同じ源氏物語図と言っても、源氏物語五十四帖の全場面を描き込むか、その中の特定の巻を抽出し、それらのハイライト的場面だけ特定して描いていくか、という違いが大きく出ています。両方、同時に鑑賞できると一番良いのだけど・・・・・、と言った感想になりますね。屏風が展示してある「近世絵画百花繚乱」のセクションには、通期展示として「花手桶形引手」が4個、ガラスケースの中に展示してあります。「桂離宮新御殿の縁側杉戸に付けられた引手金具」(図録説明より)であり、縦長の手桶に四季それぞれの花卉が活けられた図案が錺金具になっています。技術の粋を尽くした匠の作品で、ちょっとオシャレな感じです。比較的ゆったりと、3階から1階を巡って一通り作品を鑑賞し終えました。 平成知新館の記念撮影コーナーの前から庭を眺めた景色です。 平成知新館から出ると、次回の特別展の案内が目に止まりました。 来年3月は鑑真和上がテーマとなるようです。 噴水の南側から眺めたロダンの彫刻像 庭を東の方に回り込み、少し紅葉しかけた木の先に考える人をとらえて。 今回も、最後はやはり、「考える人」像を撮って終わりとしました。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料*図録『御即位記念特別展 皇室の名宝』 京都国立博物館 2020*出品目録・展示替予定表*特別展のPRチラシ*京都国立博物館だより 2020年10・11月号 英文ニュースレター補遺京都国立博物館 ホームページ三の丸尚蔵館 :「宮内庁」伊藤レナの美術館巡りを愉しむ 宮内庁三の丸尚蔵館 :「TONTON club」動植綵絵 :ウィキペディア「動植綵絵」で見る!若冲の超絶技巧7選 :「和楽」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.10.30
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前回冒頭に河川敷の下流側から見上げたこの四条大橋の景色から始めました。三条大橋の位置は東国への出発点。あるいは東海道のいわば江戸・日本橋を起点とした旅道中の上り・終点でした。勿論、その東海道は後に大坂まで繋がって意識されるようになりました。また、五条大橋は、豊臣秀吉が現在地に移転させることで、交通の要衝の一つとして重要な橋になりました。この四条大橋はどうだったか。その変遷、歴史に着目してみようと思います。原典を容易には入手できません。そこで入手できたさまざまな資料・情報源を介して、知り得た情報を整理してみるという形でご紹介したいと思います。八坂神社の社家記録によると、この四条河原に初めて橋を架けたのは1142年(永治2年)のことで、人々の勧進により小さな橋が架けられたそうです。(資料1,2)私たちが比較的目にしやすいのは、室町末期から安土桃山初期に活躍する狩野永徳(1543-1590)が描いた洛中洛外図屏風です。それは「国宝 上杉本洛中洛外図屏風」として現存します。この屏風に四条橋が描かれています。部分図を引用します。(資料3) 屏風の右隻第二扇上部の左端から第三扇の上部右側に祇園祭の風景とともに四条橋が描かれています。金雲を隔てて、第二扇左上隅近くに祇園の社殿が見えます。 四条橋が金雲の間に描かれています。永徳の生きた時代に四条橋が架けられていたことがわかります。祇園祭巡行行列の人々が橋を渡っています。左側に神輿が橋を渡る様子が描かれています。この橋は祇園祭の神輿渡御のために特別に作られた橋だそうです。(資料3)「国宝 上杉本 洛中洛外図屏風」は室町末期・安土桃山初期頃の京都の状況を知るのには有益な資料です。31ページの大型本の図録が手許にあり、愛用しています。(図録は米沢市上杉博物館のHPに掲載されています。現在も入手可能のようです。この時代の京都に関心のある方には便利だと思います。)狩野永徳の活躍した時代から、江戸時代まで時を進めましょう。 江戸時代に出版された『都名所図会』(安永9/1780年刊)に載る「四条河原夕涼」の挿画です。四条河原での夕涼は「6月7日より始り、同18日に終わる」という夏の風物詩です。河原に床几がつらねられて宴が催されたそうです。(資料4,5)上の縮図に茶色の線を加えたところが、当時の四条橋だったようです。西岸と河原、河原と東岸という形で水の流れる個所だけに橋が架けられています。 寬保元年(1871)に出版された地図から切り出して引用するこの部分図からも、橋が架けられていた状況がわかります。(資料6)つまり、推測ですが、四条橋は岸と河原を結ぶ小さな橋を架けるという方法で交通の便宜を図る。それが長らく続いてきたということでしょう。鴨川がしばしば大洪水に見舞われ橋が流されるという経験からは、それが合理的なやりかただったのかもしれません。1857年(安政4年)に、初めて四条大橋ができます。これは石柱の橋脚に擬宝珠付き高欄の木造の橋だったそうです。(資料2,7)このことは、 「皇都祇園祭礼四条河原之涼」(神戸市立博物館蔵) 安政6年(1859)、五雲亭貞秀画、藤岡屋慶次郎版により制作された木版画(大判3枚続)からもわかります。(資料8)四条河原の夕涼みは、江戸末期になると、四条大橋が架かる傍で行われていたのですね。ところが、明治6年(1873)の鴨川の洪水でこの橋が流失したと言います。 翌7年(1874)に、鉄製で両側に4本の街灯がある橋に架け替えられます。この四条鉄橋は輸入錬鉄で作られたラチスガーダー橋だそうです。(資料1,7)また、この橋は日本初のコンクリート製橋脚だったと言います。(資料9) 『京都名勝一覧図会』には、「四條鉄橋」という項目で挿画付きで「明治七年四月一日落成の此橋ハ総て鉄造にして橋上に紅白硝子燈八本を立殊に壮麗なり」と紹介されています。(資料10)この橋を渡るには、1人あたり1銭、車馬2銭の通行銭が必要で、徴収されたお金は橋の維持管理に充てられたと言います。明治10年(1877)に橋の管理は京都府に引き継がれ、通行料金の徴収は明治14年(1881)まで継続。その後通行料金の徴収を廃し、地方税により橋の管理をするようになります。橋の管理は明治31年(1898)10月に京都市に引き継がれました。(資料7) 明治35年(1902)に四條鉄橋は大改修されます。改修工事が完了し、竣工アーチが設置されたそうです。この時の四条大橋がこの写真です。(資料11)この時、コンクリートによる施工経験の乏しさから、数回にわたり設計変更を余儀なくされたと言います。当時の様子について日の出新聞(1903.3.17付)は酷評記事を載せているとか。(資料7)明治45年(1912)年、京都市による三大事業の道路拡張により、四条通も道路拡張が計画されます。そのため旧橋が撤去されます。 そして、全輻12間の鉄筋コンクリートアーチ橋が架橋されます。大正2年(1913)3月に竣工し開通します。(資料12) その橋には、こんな形の灯籠が設置されていたのです。(資料12)歩道と車道が区別され、車道の中央には複線電気軌道が敷設され、市電が四条大橋を走るようになります。設計:柴田畔作、意匠:森山松之助・山口孝吉が担当しました。(資料7)この時四条大橋は橋脚により川幅が狭められたと言います。ところが、団栗橋のご紹介で触れましたが、昭和10年(1935)6月に鴨川の大洪水が発生しました。新しい四条大橋の橋脚が川幅を狭めたことにより流水の障害が起こり、付近一帯に大洪水を引き起こす原因となったそうです。そこで、昭和16年(1941)にアーチ橋は撤去され、川幅が拡張されて、昭和17年(1942)12月に鋼板桁橋に架け替えられました。その橋が現在に至ります。(資料1,7) そして、前回のご紹介にリンクします。公募により採用されたデザインで高欄部分が改築され、昭和40年(1965)11月に竣工しました。そのモニュメントが東詰南側にある記念碑です。 四條大橋も調べてみますと、おもしろいものです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 四条大橋 :ウィキペディア2) 1890年代の京都・四条大橋 :「OLD PHOTOS of JAPAN 日本の古写真」3) 『国宝 上杉本洛中洛外図屏風』 発行 米沢市上杉博物館 右隻全図, p74) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p116-1195) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 :「古典籍データベース」6) 増補再版京大絵圖 坤 寛保元(1741) 7) 『明治の橋 近代橋梁の黎明』 文化財ブックス第32集 京都市 p14-15,p50-518) 皇都祇園祭礼四条河原之涼(こうとぎおんさいれいしじょうかわらのすずみ) :「文化遺産オンライン」9) [1875年]京都府(明治7・8年)?京都・四条大橋(鉄製、西詰) :「ジャパンアーカイブズ1850-2100」10) 京都名勝一覧図会 橋本澄月編 風月堂 1880年 :「国立国会デジタルコレクション」11) 都名所写真帖 西村七兵衛編 法蔵館 明治36.9 :「国立国会デジタルコレクション」12) 『建築写真類聚. 第2期 第5』 建築写真類聚刊行会 編 [洪洋社] 大正9年出版 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 補遺狩野永徳 :ウィキペディア伝国の杜 米沢市上杉博物館 ホームページ 図録 国宝「上杉本洛中洛外図屏風」大型廉価本(2020)洛中洛外図屏風(上杉本):「綴 TSUZURI 文化財未来継承プロジェクト」(CANON)明治7(1874)年に架けられた鴨川の四条大橋について:「レファレンス協同データベース昭和10年6月29日の豪雨に関するもの :「京都府議会」 出水時の四条小橋付近の状況、四条木屋町東北角の状況の写真が掲載されています。四条大橋・四条河原 (京都市中京区・東山区) :「京都風光」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表 丸太町橋・三条大橋・団栗橋・松原橋・五条大橋・七条大橋をご紹介しています。
2020.10.27
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鴨川の下流側で東側の河川敷から眺めた「四条大橋」です。四条大橋自体はよく利用してきましたが、この景色を見るあたりの河川敷に降り立ったのは初めてと言えます。四条近辺で河川敷を歩くのはせいぜい西側の上流側河川敷でした。 そういう意味で、こんな角度から四条大橋を見るのは初めてです。東詰の南側に見えるのが、団栗橋で少し触れた「東華菜館」のビルです。 この橋も同じく上部は鋼製桁橋で下部は鉄筋コンクリート製橋脚という構造です。橋脚の中央部分の下部にアーチ状に空間が設けてあります。改めて確認すると、五条大橋の場合はアーチ状ではなく、直線的な台形状の空間です。橋幅の比較的狭い松原橋と団栗橋には橋脚に空間部分は設けてありません。また、七条大橋は鉄筋コンクリートアーチ橋で、桁橋とは構造が異なります。そのためかどうかは分かりませんが、橋脚に四条大橋・五条大橋にある空間部分は設けてありません。対比的に見ていくと、おもしろいことに気づきます。もう一つ対比的に眺めて気づいたのは、五条大橋・松原橋・団栗橋のそれぞれの規模は違え、鋼製桁橋の桁下空間の構造が見えます。しかし、この四条大橋は桁下空間の構造が見えません。部屋に喩えると天井が張ってある感じで屋根裏の空間が見えません。 河川敷を上流側に進み、少し離れて四条大橋を眺めた全景です。橋長65m、幅員25.0mだそうです。(資料1)この景色では、南西に見える東華菜館とその西隣りの少し低い焦げ茶色のビルの間に通りがあり、団栗橋で触れた「西石垣通」です。 鴨川の上流側を眺めた景色それでは川端通の歩道に上がります。団栗橋の少し南から御池大橋の北側までは、琵琶湖疏水が暗渠化されています。 四条大橋の東詰南側から、ここも同様に時計回りで橋を見てまわりましょう。まず気がつくのは、高欄の形が今までにご紹介したものと大きく違うスタイルだということです。東詰のここには親柱に相当するものがありません。 柵状のイメージの高欄とは全くことなり、山形のコンクリート製桁状の上に角柱状の青銅鋳物製の欄(てすり)が上に付いています。人々が触れ、経年変化で表層の金色がかなり褪色・滅失してきています。シンプルでモダンな感じのデザインです。祇園祭の鉾の大きな木製車輪、つまり御所車の車輪をレリーフした青銅鋳物製の錺金具が要所要所に嵌め込まれて、一つのアクセントになっています。これはボルト隠しでもあるとか。(資料1) 別の場所で正面から撮ってみました。内側の円が車輪の形(御所車)をレリーフしたものです。一番内側の円部分は釭(コウ)、轂(コシキ)、箍(タガ)と呼ばれるパーツで構成されています。釭の内側に車軸が嵌め込まれることになります。放射状に輻(ヤ)が張り出して面と呼ばれる外輪を支えます。面と呼ばれる輪は小羽、大羽と呼ばれるパーツが円形に組み合わされています。(資料2)序でに、車輪の実物写真をご紹介しておきましょう。 これは2019年7月24日祇園祭後祭の巡行中の船鉾の車輪です。 こちらは、2013年7月17日の祇園祭巡行後、鉾の解体作業中の菊水鉾の車輪がはずされる前に撮った写真です。 四条大橋は歩道と車道の境界に金属製高欄風の柵で仕切りがしてあります。歩道は長方形のタイルで舗装され、車道はアスファルト舗装されています。 四条大橋はかなりの頻度で通行しながら、意識していなかったのがこの造形です。 鴨川の流水の上空を舞い飛ぶ野鳥の一つ、ユリカモメを表象しているのでしょうか。 西詰寄りから眺めた高欄 下流側の川面。川底に段差が設けてあります。 四条大橋の西詰、南側にこの橋名を刻した石碑が設置されています。正面側面に「昭和40年10月高欄改造」と刻されています。その改造竣工記念碑としてのモニュメントです。現在の高欄は公募により採用されたデザインだそうです。(資料1,3)高瀬川に四条通の小橋が架かり、その手前の木屋町通と四条通が交差点になっています。ここまで歩き北側に横断して、四条通りを今度は東に戻ります。 四条通北側歩道から眺めた東方向の景色。四条通の前方南側の瓦屋根の建物が「南座」です。四条通の突き当たりは東大路通とのT字路になり、正面に八坂神社の西楼門があります。南座から通りを挟んだ北側が菊水のビル。四条大橋の西詰北側には「交番」があります。交番の西側は北方向に「先斗町(ぽんとちょう)通」となっています。西詰南側が東華菜館。右の景色は東華菜館の屋上に見える塔。 「交番」前を通り過ぎ、西詰北側に。上流側の「みそそぎ川」です。夏にはこの川の上に「床」が張り出されます。河川敷にはほぼ等間隔に人々が憩っています。こちらの西詰にも親柱に相当するものはありません。 北側歩道から眺めた北方向の景色 四条大橋東詰の北側です。ここ1個所に親柱があります。高欄改造前の高欄の遺構として記念に残されているものではないかと推測します。間違っているかもしれません(確信できる資料を見つけられていませんので)。西詰北側には、京阪電車祇園四条駅への地下出入口があります。 「紅しだれ桜並木」の標識が立っています。桜の咲く季節の鴨川沿いの景色もきれいです。 京阪電車への出入口の北側にあるモニュメントがこれです。 「出雲の阿国」制作は山崎正義氏京都ライオンズクラブの寄贈で、平成6年(1994)2月に建立されています。平安建都1200年記念のモニュメントです。 四条大橋東詰南側から川端通を挟み、南東側に「南座」があります。かつて江戸中期には、このあたりに7つの芝居小屋が並び栄えていたそうです。南座に対して四条通を挟み北側には、「北座」があり、幾度かの火災を乗り越え、南座と北座が残ったのです。しかし、明治25年、四条通の拡張に伴い北座は閉鎖されました。現在まで唯一存続したのが南座というわけです。北座のあったあたりに、「井筒八ッ橋本舗」の祇園本店ビル(北座ビル)が建てらましたあ。この屋上に「北座」のたたづまいをとどめる姿が一部再現されています。(資料4)阿国の立ち姿の右側前方に「北座」の文字とシンボルが見えます。 これは2011年12月24日に南座の吉例顔見世興行の開演前風景と南座のシンボルをアップで撮った写真です。 基壇正面にはこの金属製銘板が嵌め込まれいます。「かぶき踊の祖 出雲の阿国 都に来たりて その踊りを披露 都人を酔わせる」 川端通沿いに西側の歩道を少し北に歩むと、このモニュメントがあります。 正面からの眺め。台座には「京 ゆたかなもの 雅」と記された銘板が見えます。傍に設置された説明板によりますと、これは京都の花、紅しだれ桜をモチーフにモニュメントとして制作されたものといいます。京都鴨川ライオンズクラブの結成40周年記念事業としてのモニュメントとして、平成16年(2004)4月に建立されたもの。当クラブは、鴨川の美化・緑化の活動として、半木之道(なからぎのみち)紅しだれ桜、川端通り三条~四条間、その他数々の処に紅しだれ桜の植樹をされてきたと言います。 これは三条大橋上から、下流側の川端通沿い、つまり東岸で三条と四条の間の桜並木を今年(2020年)の4月7日に撮った景色です。 かつては四条大橋の上に電車軌道が敷設され、市電が走っていました。(資料5)今は市バスが走っています。(市電が廃止されたのは昭和53(1978)年9月30日です。)普段橋を渡っていてもほとんど意識していなかったのですが、遠くからは眺めて、簪(かんざし)のようにみえる街灯が橋に設置されていることに気づきました。鴨川に立つ2本の橋脚の間から下流側の団栗橋が見えています。次回は、四条大橋の歴史を探ってみたいと思います。つづく参照資料1) 四条大橋 :ウィキペディア2) 木造車輪とは :「株式会社 竹田工務店」3) 『明治の橋 近代橋梁の黎明』 文化財ブックス第32集 京都市 p504) 祇園本店(北座ビル) :「井筒八ッ橋本舗」5) 京都の市電 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」補遺鴨川の素人野鳥観察記 鴨川冬の風物詩ユリカモメ :「京都府」鴨川の鳥(38種類) :「プロ裏ミング日記」四条大橋と祇園 :「Essay Selection」シダレザクラ :ウィキペディアヤエベニシダレ :ウィキペディアしだれ桜に酔いしれる :「そうだ 京都、行こう」春爛漫。京都の「桜物語」に耳を傾けて :「そうだ 京都、行こう」南座の歴史 :「松竹」京都市電 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表 丸太町橋・三条大橋・団栗橋・松原橋・五条大橋・七条大橋をご紹介しています。
2020.10.26
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松原橋と四条大橋との間に「団栗橋」があります。松原橋から河川敷を北に400mのところです。 ここも橋の少し手前の河川敷に「位置案内」が設置されています。 この団栗橋もまた、上部は鋼製桁橋で、下部は鉄筋コンクリート製橋脚の形式です。 この松原橋の構造とほぼ同じ感じを受けます。橋脚の形が少し異なります。 河川敷から団栗橋東詰の南側に上がってみました。橋は鋼製高欄でいたってシンプルです。五条大橋、松原橋の親柱にあたるものがここにはありません。機能本位です。 歩道と車道の区画は設けてあります。団栗橋とはちょっと変わった名称です。かつて、橋のたもとに大きな団栗の木があったことに橋名が由来すると言われています。(資料1)東詰南側から西に橋を渡り、時計回りに東詰めに歩いてみます。 南側歩道を進み、橋の中央部で鴨川の上流側(北)を眺めた景色。北の四条大橋までの距離は、195mです。 鴨川の下流(南)を眺めた景色 西詰に来ると、親柱に相当するものがあります。北側には「団栗橋」、南側には「鴨川」とそれぞれ刻された石板が嵌め込まれています。 みそそぎ川 改めて北側歩道から四条大橋の景色を眺めます。西詰南側の茶色のビルは「東華菜館」という中華料理の老舗、その南隣の黒い二階建和風建築は「ちもと」という京料理の老舗です。祇園祭の折にはこの二階で行事の一環として菊水鉾のお囃子が演奏される日があります。東詰南側に見える瓦屋根は「南座」です。東詰北側に「菊水」のビルがあります。ここも老舗のレストランです。鴨川の河川敷、四条大橋寄りあたりから、河川敷に座り込み休憩・雑談する人が結果的にほぼ等間隔で並んでいきます。今年はコロナ禍でさすがに人数は減少気味ですが・・・・。 団栗橋の西方向を北側歩道の東詰寄りから眺めた景色団栗橋を西に渡ると、高瀬川手前のT字路となり木屋町通に入ります。右折し北方向に少し行くと、木屋町通と西石垣通に分岐します。西石垣通を北上し、四条通を横断して北に進むと先斗町通となります。 東詰北側はなぜか生垣の様になっています。インターネットで古地図を検索してみますと、寛保元(1741)に出版された「増補再版京大絵圖 坤」をみつけました。この地図には該当する位置に橋は書き込まれていません。しかし、鴨川の東側、東西の道路に「どんくりつし」(団栗辻子)という名称が記されています。(資料2)宝永6年(1709)の「京大絵図」には、団栗橋の所在が記されているという説がありますが、現時点では確認はできませんでした。(資料1,3)また、天明8(1788)年正月30日に、京都の歴史上最大の火災が発生しました。「天明の大火」と称される大火災です。鴨川の東、「団栗辻子(どんぐりのづじ)」の民家から早朝に出火し、東からの強風に吹かれて、鴨川を西に越えて、火災が万延して行ったのです。二昼夜燃え続ける大火災となったそうです。この「天明の大火」は「団栗焼け」、「申年の大火」とも呼ばれたと言います。(資料3,4)この団栗橋は過去に幾度か渡っていますが、河川敷に降りてこの橋を見上げたことはありません。今回、河川敷を歩いてみて、おもしろいことに気づきました。 橋の下、東詰の橋脚のコンクリート壁面に、「賀茂川漁業組合 どんぐり橋詰所」という木札が貼り付けてあります。これが目にとまりました。今まで意識したことがなかったのですが、鴨川にもちゃんと漁業組合があるということを知った次第です。釣り禁止期間の掲示も貼ってあります。 令和2年度の「賀茂川つり場案内」の説明が掲示されています。アユ解禁が5月31日(日)と大きく記され、「遊漁券販売所」「オトリ・遊漁券販売所」「オトリ販売所」のリストが出ています。 こんな河川流路の案内図も掲示されています。 同様に「あまご解禁」の案内も掲示されています。「遊漁券販売所」と「あまご遊漁料」「禁漁期間」も記載されています。 これは漁業組合に発行された許可書の写しの掲示です。四条大橋から松原橋の区域に、川鵜対策として防鳥ロープを5月に設置する許可を得ているという証としての掲示です。「一級河川水系鴨川における土地の占用及び工作物の新築」については、河川法に規定条項があり、そのための手続きのようです。河川敷を歩くことにより、これもまた初めて知ったことです。賀茂川漁業協同組合という名称から、改めて「かもがわ」に関連して地図を確認してみました。「鴨川」を上流に遡ります。すると、今出川通に架かる「賀茂大橋」を境にして下流側が「鴨川」です。賀茂大橋の上流側で「賀茂川」と「高野川」が合流します。西側が賀茂川、東側が高野川です。西の賀茂川の西岸堤防上の道路は、「加茂街道」と明記されています。また、紫竹地区に「加茂川中学校」があります。上賀茂・賀茂・下鴨という地区があり、また「上賀茂神社」「下鴨神社」と神社名称が表記されています。つまり、「かも」の表記に「加茂・賀茂・鴨」という三種の表記が出てくるのです。平安京が造営される以前から、この川の北のほとり一体には「賀茂氏」が住んでいたそうです。そこから「かもがわ(賀茂川)」と呼ばれるようになったというのが一般的考え方のようです。しかし、古来からほぼ3通りの表記が使われ親しまれてきたのが、そのまま地名に反映しているようです。(資料5)かなり横道に逸れました。団栗橋東詰に戻りましょう。東詰から東に向かう通りはかつては「団栗辻子(どんぐりのつじ)」と呼ばれていました。現在は「団栗通」です。この道を東に進めば、大和大路通と交差し、その先に進むと「健仁寺」の北側を通り過ぎて、花見小路通と交差します。その先は、「祇園甲部歌舞練場」です。春四月の「都をどり」の公演でよく知られる場所です。 これは購入した資料からの引用です。(資料6) かつてはこんな木橋が架かっていたようです。団栗橋を西岸、南西側にある建物から撮った写真でしょう。右上に東山の山並みが見え、堤防上を電車が走っています。いつの頃の写真かは不詳です。団栗橋は、近代以降では1899年、1923年に橋の一部が流出したそうです。さらに、1935年「昭和10年京都大洪水」により団栗橋は流出したと言います。(資料3,7,8)1963年に現在の橋が架けられ、今日に至ります。 団栗橋の北側を見上げて、ここから四条大橋に向かって河川敷を歩きました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 団栗橋(どんぐりはし) :「京都通百科事典」2) 増補再版京大絵圖 坤 寛保元(1741) 3) 団栗橋(京都市下京区-東山区) :「京都風光」4) 天明の大火 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」5) 「かもがわ」は「鴨川」?「賀茂川」?「加茂川」?(第126号) :「京都府」6) 『明治の橋 近代橋梁の黎明』 文化財ブックス第32集 京都市 p597)昭和10年 京都大水害 :「京都市消防局」8) 鴨川あれこれ2 昭和の鴨川大洪水(鴨川水害)と平安京 :「ポジタリアン イエロー」補遺天明の大火 1788年1月30日 :「NPO 災害から文化財を守る会」「炎は瞬く間に東本願寺、東寺に」天明の大火、オランダ人が詳細な記録 :「京都新聞」018年3月の周年災害/日本の災害・防災年表(「周年災害」リンク集):「防災情報新聞無料版」昭和10年の鴨川大洪水とその後の治水対策について :「京都府」京都の大水害 :「NPOおおさか 緑と樹木の診断協会」京都私娼考 その十二 団栗橋 :「花街ぞめき」鴨川べりの祇園囃子 その3 :YouTubeネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -3 建仁寺霊源院探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -1 両足院(初夏の特別拝観) 6回のシリーズでご紹介しています。探訪 京都・東山 建仁寺塔頭 久昌院探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -1 三門・法堂を巡り本坊に 5回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 京都・東山 初詣 建仁寺禅居庵 摩利支尊天探訪&観照 京都・東山 初詣の最後は建仁寺~祇園甲部歌舞練場~八坂神社を巡る
2020.10.24
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山科から渋谷越で、いわゆる渋谷街道(旧・新)を歩き、五条大橋東詰の南側に到着しました。東詰の南側から眺めた五条大橋と東端の高欄の親柱です。かつては、鴨川を境にして西岸側には豊臣秀吉が御土居を築いた時期がありました。そして御土居の内側を洛中、御土居の外は洛外と称されました。この鴨川の東は洛東と呼ばれます。常に鴨川が境界の役割を果たすようです。現在は鴨川の中央を境にして、東側は東山区、西側は下京区と行政区が別れています。もう一つ、鴨川の東岸についてです。鴨川に沿って、明治27年(1894)9月に工事が完成した琵琶湖疏水(鴨川運河)が流れています。しかし、現在は、五条通の少し北から、南は七条通の一筋南、塩小路橋まで琵琶湖疏水が完全に暗渠化され、その上が幅の広い川端通となり交通量の多い幹線道路です。この東詰南側を起点に、五条大橋を時計回りに細見してみました。そこで、別稿としてご紹介しようと思った次第です。 まず南側の歩道から鴨川を西に渡ります。一見して、高欄は石造であり、高欄の柱に擬宝珠が付いていて、歩道は石敷です。 鴨川の下流側の景色 南側歩道から鴨川上流を眺めた景色すぐ北に架かる橋は「松原橋」です。豊臣秀吉が京都の都市改造をするまでは、現松原橋のところが五条大橋でした。平安京の五条大路の延長線上にあたります。しかし、天正年中に秀吉が六条坊門(現在の位置)に五条大橋を移し、六条坊門が五条通となったのです。そのため、五条大路は松原通と称されるようになりました。(資料1)松原通を西に進むと、西洞院通との交差点「西洞院松原」に至ります。この交差点の南西側に「五条天神宮」があることからもそのことがわかります。京都市の地図をご覧ください。 五条大橋西詰南側の高欄と親柱です。東詰との違いがおわかりいただけますね。東詰めには斜めに開いた欄干部分がありません。琵琶湖疏水が地上に出ていた時代には、五条大橋の延長部分があり、その東端がこの西詰と同様の形式になっていたのではないかと想像します。河原町五条の交差点を北に横断し、五条大橋西詰北側に回り込みます。 五条通の北側歩道を東に歩むときに、五条通の中央分離帯にこのモニュメントが設置されています。時計台もあります。 御所人形風に造形された牛若丸・弁慶像です。五条橋で戦ったという有名なエピソードを題材にしているのでしょう。五条大橋⇒牛若丸・弁慶の戦いという連想から現在の場所に設置されたのでしょう。歴史の経緯からすれば、別の場所になるはずです。勿論、牛若丸と弁慶が争ったのは五条橋ではないという説もあるようですので、モニュメント的にはどこでもいいのかも。 東詰北側の手前に、「牛若ひろば」と称される小さな公園があります。 このひろばに、太田垣蓮月尼の歌碑が建立されています。 江戸後期の歌人。幼い富岡鉄斎の学問修行の援助をしたことで有名だそうです。また、頼三樹三郎・梁川星巌・梅田雲浜らとも親交を深めたと言います。案内板に記されていますが、手捏ねの茶器に自詠の歌を彫りつけた陶器を作り、それが蓮月焼と称されて有名になったとか。(資料2) ひろばの西側に建つビルの傍に、この地蔵堂があり、お堂の上の方に、「不思議地蔵尊」「延命地蔵尊」と名称札が掲げてあります。格子扉越しに堂内を拝見しました。 不思議地蔵尊 延命地蔵尊 川沿いに北に向かう「コミュニティ道路」を挟み、西詰北側に「扇塚」があります。昭和35年(1960)3月15日建立。 「扇塚の記」顕彰碑文 見やすい場所に碑文と同文の案内板が設置されています。扇が平安時代の初期にこの地で初めて作られたとか。五条大橋の畔には、かつて時宗御影堂があり、平敦盛の没後その室はここで得度し、蓮華院尼と称し、寺僧とともに扇を作ったと言い伝えられているそうです。(案内文より)地図で確認しますと、「河原町五条」交差点の北側部分が「御堂前町」で、南東側が「御影堂町」です。今も御影堂という名称を町名にとどめています。 五条大橋西詰北側 一番手前の柱の擬宝珠に漢文が刻まれています。誤読があるかも知れませんが、読み下し文にしてみます。「五條橋は旧五條大路の東に在り、今の松原橋也。中古荒れて残り、天正年中六條坊門に遷る。名称旧に仍(よ)る。正保以来、屡(しばし)修営を加える。明治十年擬宝珠を撒し改作す。二十七年旧式に復す。今回大小ニ橋に分け造営し、擬宝珠二個を補鋳す。」この後に八文字あるようですが判読できません。 この二つ目の柱の銅製擬宝珠には、次の文が刻銘されています。「洛陽五條石橋 正保二年乙酉十一月吉 奉行芦浦観音寺舜典 小川藤左衛門督正長」尚、「洛」の漢字は、「雒」と刻されています。この漢字は音読みが「ラク」だそうです。さらに、その後に「大坂 讃岐屋 岡田太郎左衛門道治」と刻されています。屋号が刻されていますので、推測をたくましくすると、この時の橋の改修に費用面で高額の寄進貢献をした人物なのかという気がします。天正期に橋が移築された後、正保2年(1645)に橋の修復が行われ、この時の改修で現在の擬宝珠が作られたのです。手許の資料と照合すると、次のことがわかります。明治になり橋の管理が京都府に引き継がれました。明治10年(1877)にそれまでの橋を取り壊して西洋型の木造平橋に架け替えたのです。当時の写真が残っています(歴彩館所蔵)。擬宝珠は当然撤去されてしまい、高欄には白いペンキが塗られ、橋の両端と中央に照明(灯台)が設置されたのです架設当初は新しい時代の到来と、西洋型の新橋が讃美されたようですが、明治20年代に美術への関心が高まる中で、その評価が変化して行ったと言います。そして、明治27年(1894)に再び橋が架け替えられ、この時に「高欄擬宝珠付きの木橋に復され、擬宝珠はかつて使用されていたものを用い、不足分のみ補われた。」(資料1)のです。 これは明治40年に出版された『京都名勝』に掲載された当時の五条大橋です。(資料3) 次の擬宝珠には、明治27年の橋の架け替えの時のことが刻文されています。「明治十年五条橋を改修する際擬宝珠を除いた。当(まさ)に本年は重(ふたたび)旧形に修復した。偶壊の二珠は新造に因り之を補った。」という主旨と解読します。 五条大橋から上流を眺めた景色 鴨川の右岸(西岸)には、鴨川に沿って、三条から四条にかけて夏季になると床が張り出される「みそそぎ川」が流れています。そのみそそぎ川がこの五条大橋西詰で鴨川に合流しています。今回初めてこのことを知りました。 次の擬宝珠には、昭和10年の洪水で6個の擬宝珠が流出し、補充鋳造したことが刻されています。その補充が17年後であることと、橋の管理が京都府から京都市に移管されていることもわかります。 再鋳造の擬宝珠にある刻文 更にこれは東詰北側の擬宝珠です。 ここの刻文を転記します。「五条大橋は、五条通が戦時建物疎開跡に幅五十米の道路となり、昭和二十七年国道に指定されてから、京都市交通動脈の様相を帯びてきたので、ここに現代技術と美の粋を集めた長さ六十七米幅二十五米の鋼桁橋として架設された。影を鴨水に染め東山の翠に配した擬宝珠付石造高欄は、まさに王朝と現代を調和した文化観光都市の一つの象徴といえよう。疏水橋もこれにならい擬宝珠二箇を追補した。 昭和三十四年三月 京都市長 高山義三」つまり、現在の五条大橋は五条通の整備事業に伴って昭和34年(1959)に架設されたものです。この時点では、琵琶湖疏水(鴨川運河)に架かる疏水橋が擬宝珠付きの小橋として続いていたこともわかります。 五条大橋には中央分離帯が設けてあります。 これで五条大橋の起点に戻って来ました。左岸(東岸)の河川敷に降りてみます。 橋の上部は鋼製桁橋で、下部は鉄筋コンクリート製の橋脚であることが一目瞭然です。 東詰の橋下の構造の一部です。さすがに国道という幹線道路の橋という印象を受けます。 橋としては現代技術を駆使し、一方で外観は古都京都の景観に調和させ旧観を踏襲するという配慮がされています。 この五条大橋の河川敷にも、鴨川に架かる橋の位置案内が設置されています。 河川敷を北に溯り、五条大橋の全景を撮ってみました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『明治の橋 近代橋梁の黎明』 文化財ブックス第32集 京都市・文化財保護課2) 太田垣蓮月 :「コトバンク」3)『京都名勝』 小林忠治郎著 小林写真製版所(明40.7):「国立国会図書館デジタルコレクション」補遺五条大橋 :ウィキペディア御所人形について :「伊東庄五郎 御所人形の世界」太田垣蓮月 :ウィキペディア大田垣蓮月 :「千人万首」蓮月焼 服部之総 氏 :「青空文庫」大田垣蓮月 蓮月焼 茶碗 :「幸輪堂」幕末美人すぎる尼僧「太田垣蓮月」の歌が西郷に無血開城を決意させた?:「BUSHOO!JAPAN」みそそぎ川 :「AGUA」かも川談義 / みそそぎ川 by 五所光一郎 :「京に癒やされ」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2020.10.19
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それでは郡部での私的な難読地名さがしに移ります。上伊那郡 飯島町・辰野町・中村村・南箕輪村・箕輪町・宮田村では、難読地名は特になし 上高井郡 小布施町 小布施(オブセ)、山王島(サンノウジマ) 高山村 松南(マツナミ)上水内郡(カミミノチグン) 飯綱町・小川村・信濃町では、難読地名は特になし木曽郡 上松町 上松(アゲマツ) 王滝村・大桑村・木曽町・木祖村・南木曽町では、難読地名は特になし 北安曇郡 小谷村 北小谷(キタオタリ) 池田町・白馬村・松川村では、難読地名は特になし 北佐久郡 軽井沢町 発地(ホッチ) 御代田町 面替(オモガエ) 立科町では、難読地名は特になし下伊那郡 下條村 陽皐(ヒサワ) 喬木村 (タカギムラ) 豊丘村 神稲(クマシロ) 泰阜村 (ヤスオカムラ) 阿智村・阿南町・売木村・大鹿村・高森町・天龍村・根羽村・平谷村・松川町では、 難読地名は特になし 下水内郡 栄村 難読地名は特になし 諏訪郡 下諏訪町 上馬場(カミバッパ)、魁町(サキガケチョウ)、菅野町(スゲノマチ)、樋橋(トヨハシ) 原村 難読地名は特になし 富士見町 乙事(オッコト) 小県郡(チイサガタグン) 青木村・長和町では、難読地名は特になし 埴科郡(ハニシナグン) 坂城町 上平(ウワダイラ)、坂城(サカキ)東筑摩郡 朝日村 西洗馬(ニシセバ) 麻績村 (オミムラ) 麻(オ) 生坂村・筑北村・山形村では、難読地名は特になし南佐久郡 川上村 川端下(カワハケ) 小海町 東馬流(ヒガシマナガシ) 北相木村・佐久穂町・南相木村・南牧村では、難読地名は特になし今回この難読地名探しをしてみて、郡部ではかなり行政区域の統合化が進んでいたことを知りました。*上伊那郡 高遠町・長谷村 ⇒ 伊那市に*上水内郡 鬼無里村・信州新町・戸隠村・豊野町・中条村 ⇒ 長野市に 三水村・牟礼村 ⇒ 上水内郡飯綱町に*木曽郡 開田村・福島町・日義村・三岳村 ⇒ 木曽郡木曽町に 山口村 ⇒ 中津川市に*北安曇郡 美麻村・八坂村 ⇒ 大町市に*北佐久郡 浅科村・望月町 ⇒ 佐久市に 御牧村 ⇒ 東御市に*更級郡 大岡村 ⇒ 長野市に 上山田町 ⇒ 千曲市に その結果更科郡は消滅しています。*下伊那郡 上村・南信濃村 ⇒ 飯田市に 清内路村・浪合村 ⇒ 下伊那郡阿智村に*下水内郡 豊田村 ⇒ 中野市に*小県郡 真田町・武石村・丸子町 ⇒ 上田市に 東部町 ⇒ 東御市に 長門町・和田村 ⇒ 小県郡長和町に*埴科郡 戸倉町 ⇒ 千曲市に*東筑摩郡 坂井村・坂北村・本城村 ⇒ 東筑摩郡筑北村に 東筑摩郡明科町 ⇒ 安曇野市に 四賀村・波田町 ⇒ 松本市に*南安曇郡 梓川村・安曇村・奈川村 ⇒ 松本市に合併に 豊科町・穂高町・堀金村・三郷村 ⇒ 安曇野市に その結果、南安曇郡は消滅しています。*南佐久郡 臼田町 ⇒ 佐久市に 佐久町・八千穂村 ⇒ 南佐久郡佐久穂町にこれで長野県を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料長野県の郵便番号 :「郵便局」補遺伊那市 :ウィキペディア伊那市の概要 :「伊那市」中津川市 :ウィキペディア大町市 :ウィキペディア佐久市 :ウィキペディア千曲市 :ウィキペディア千曲市誕生までの経緯 :「千曲市」飯田市のあゆみ(歴史/沿革) :「飯田市」中野市 :ウィキペディア中野市の概要(沿革) :「中野市」上田市 :ウィキペディア東御市 :ウィキペディア旧東部町と旧北御牧村の合併の経過 :「東御市」安曇野市 :ウィキペディア市の概要 :「安曇野市」木曽町 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの地域一覧もご一読いただけるとうれしいです。観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧
2020.10.08
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前回新潟県まで来ましたので、甲信越地方という語句がありますので、長野県・山梨県で私的な難読地名さがしを楽しんでみることにします。あくまで私基準ですので・・・・。ご了解ください。長野市 上ケ屋(アゲヤ)、稲里町下氷鉋(イナサトマチシモヒガノ)、鬼無里(キナサ)、 篠ノ井御幣川(シノイオンベガワ)、伺去(シャリ)、塩生(ショウブ) 信更町三水(シンコウマチサミズ)、信州新町越道(シンシュウシンマチコエドウ)、左右(ソウ) 信級(ノブシナ)、鑪(タタラ)、台ケ窪(ダイガクボ)、中条住良木(ナカジョウスメラギ) 御山里(ミヤマサ)、東犀南(ヒガシサイナミ)、大豆島(マメジマ)、檀田(マユミダ) 安曇野市 豊科高家(トヨシナタキベ)、三郷温(ミサトユタカ)飯田市 上久堅戊(カミヒサカタボ)、下久堅南原(シモヒサカタミナバラ)、主税町(チカラマチ)、千栄(チハエ) 松尾水城(マツオミサジロ)飯山市 常郷(トキサト)、蓮(ハチス)伊那市 高遠町荊口(タカトウマチバラグチ)、富県(トミガタ)、美篶(ミミズ)上田市 鹿教湯温泉(カケユオンセン)、神畑(カバタケ)、上武石(カミタアケシ)、古安曽(コアソ) 越戸(コウド)、真田町傍陽(サナダマチソエヒ)、下武石(シモタケシ)、武石鳥屋(タケシトヤ) 大町市 特になし岡谷市 長地(オサチ)、鎮(シズメ)、駒ヶ根市 上穂北(ウワブキタ)小諸市 芝生田(シボウタ)、鴇久保(トキクボ)、六供(ロック)佐久市 三分(ミブン)、御馬寄(ミマヨセ)、塩尻市 洗馬(セバ)、贄川(ニエカワ)須坂市 相森町(オオモリマチ)、大日向町(オビナタマチ)、上町(カンマチ)諏訪市 大和(オワ)千曲市 生萱(イキガヤ)、杭瀬下(クイセケ)、寂蒔(ジャクマク)、茅野市 特になし東御市(トウミシ) 和(カノウ)、祢津(ネツ)、新張(ミハリ)、中野市 小舘(オタテ)、松本市 安曇(稲核)(アズミ イネコキ)、沢渡(サワンド)、埋橋(ウズハシ)、惣社(ソウザ) 征矢野(ソヤノ)、筑摩(ツカマ)、三才山(ミサヤマ)、水汲(ミズクマ)*更埴市(コウショクシ)は合併により2003.09.01から千曲市に編入された。参照資料長野県の郵便番号 :「郵便局」補遺長野県 公式ホームページ長野県 :ウィキペディア更埴市 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの地域一覧もご一読いただけるとうれしいです。観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧
2020.10.07
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東大路通(東山通)から大谷本廟の総門をくぐると正面の石段の先に仏殿が見えます。仏殿にむかって行きますと、仏殿の左側に回り込む参道があり、その道を進むとこの「二天門」が見えます。二天門を通り抜けると、明著堂前の広々とした大庭になっています。今月(9月)の第2週に大谷本廟に行ってきました。そこでこの二天門をあらためて細見という形でご紹介します。大谷本廟に行った折りは、この二天門を眺めることが一つの楽しみです。この門の姿形が珍しく、かつその優美さに惹かれるからです。 二天門の前に立つ一対のこの石灯籠も私の寺社巡り探訪の経験からは、あまり類のないものです。石灯籠は全体に円形が基調になっています。笠は円盤に半円球がのり、四方に蕨手のついた覆いを重ねた感じです。その上に厚みのある二重の請花と宝珠がのっています。 火袋は丸みを帯びた立方体で、四面に大きく火口が開けられただけで実にシンプル。円形の中台には連弁と格狭間はなく、厚彫りの彫刻が施されています。龍と草花文様のように見えます。 竿は下部が膨らんだ花瓶のような形。節はありません。反花が彫られていますが、基礎には風変わりな渦状文様が彫られています。ちょっと変形的なこの石灯籠と二天門が意外とマッチングしています。ここに春日燈籠や三月堂形あるいは般若寺形の石灯籠が置かれているとしたら、ちょっとバランスがとれない気がします。二天門の屋根の反り具合に私は軽やかさをも感じるからです。 門に近づくと、四脚門の形式であることがわかります。本柱と前面の控柱の間に連子の柵と上部に菱格子窓がはめ込まれています。その外側に縦長の四分の一の円弧状の覆屋を設えて、その中に四天王像のうちの二天が安置されています。それ故、二天門という名称なのでしょう。 格子窓内側に金網が付け加えられていますので二天像を見仏、鑑賞するには少し不便ですがしかたがありません。 二天門は西から東に通り抜けることになりますので、向かって左、北側の四天王像は、左手に巻物・右手に筆というスタイルから広目天像であることがわかります。 それに対し右、南側の四天王像は、左手を腰にあて右手に三鈷を握って振りかざしています。持国天像です。東大寺戒壇院の四天王像の写真が手許の書に載っていて、それと対比して確認しているのですが、広目天像の両手の姿はほぼ同じ。一方、持国天像は戒壇院像の場合は、三鈷を持つ右腕は肘を少し折り曲げ斜め前方下に突き出し、左手は餓鬼の頭に乗せた左脚の膝に手を伸ばしている姿です。(資料1) 門扉は桟唐戸 上部は格子状の花狭間で、小さな花びらと円弧の繰り返しでリズミカルな意匠になっています。 この花狭間をよく見て! 「ハートマーク」を各所に発見!!この二天門、幸せマークの隠れたスポットと言えそうです。この二天門を一度は通り過ぎるのがよいかもしれません・・・・ね。Happy!な気持ちになれるかも!過去に何度も眺めている門なのに、今回初めてハート模様に気づきました。 門を通り抜け、大庭の南東側から取った景色です。 東側からの眺め上層の屋根は側面が唐破風になっています。上層の側面(南北)には花頭窓があり、門の前後(東西)には花頭窓を左右に押し広げた形の窓が設けてあります。蒲鉾型の窓に近いかもしれません。 軒丸瓦の前面には蓮花がレリーフされていて、鬼板には蓮花の側面から見た姿がレリーフされています。 大庭側の控柱の外側、覆屋(東側面)の下部は正方形の腰板張りで、上部の四分の一円は菱格子付きの板張りです。 木鼻は簡素な造形です。それでもその形が象をシンボライズしていることが見て取れます。 門扉の傍で見上げますと本柱の上部の方斗と雲肘木が桁を支えています。格子天井が見えます。頭貫の上の蟇股の形がおもしろい造形です。波濤文様の感じです。中央部にある白い文様をどう称するのかは不詳です。頭貫の下部には、武者窓風の格子状の細工が施されています。スッキリとしたアクセントになっている印象です。さて、この二層部分です。外観を眺めてみた限り、山廊に相当する部分が付設されていませんので、登楼する手段はなさそうです。つまり、楼門形式の門とするための装飾的な二層部分ということなのでしょう。この楼上は開かずの間の形で仏像が安置されているのかも・・・・・と想像してみるのもおもしろいかもしれません。最後に、調べた範囲ではこの二天門の建立がいつだったのかは不詳です。1867(慶応3)年に、二天門より出火して仏殿等が延焼焼失したそうです。その後、1872(明治5)年、第21代明如上人の時代に二天門が再建されました。(資料2)ところが、1934(昭和9)年の室戸台風で倒壊したと言います。その後、信徒さんたちの寄進により1937(昭和12)年の再建工事が完了し、現在の二天門があるそうです。(資料3)二天門前の石灯籠を上掲でご紹介しています。二天門に向かって左(北側)の石灯籠の隣りに写真は撮っていませんが、「二天門碑」があります。そこに二天門再建の主旨が記されています。(資料3)余談ですが、調べてみますと二天門として四天王像からの二像を安置する門は全国に点在するようです。ネット検索でみつけたいくつかを補遺としてリストアップしておきます。これで二天門細見を終わります。参照資料1)『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p295 2)大谷本廟の沿革 :「大谷本廟」3) 二天門碑 :「フィールド・ミュウージアム京都」補遺二天門 :「あさくさかんのん 浅草寺」二天門 :「柴又帝釈天」大猷院二天門 :「日光山輪王寺」清水寺二天門 :「清流の国ぎふ」西明寺二天門 :「甲良町」(滋賀県犬上郡)有章院霊廟 二天門(現存) :ウィキペディア妙本寺二天門の龍(鎌倉市) :「龍のいわれとかたち」二天門(中門) :「三木市」(兵庫県) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 大谷本廟 -1 円通橋・皓月池・聖人像・総門 2回のシリーズでご紹介しています。観照 諸物細見 一覧表
2020.09.21
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京阪電車の神宮丸太町駅で下車し地上に出ますと、南に流れる鴨川沿いに川端通があり、東西の丸太町通が交差します。鴨川に架かる橋が「丸太町橋」です。鴨川は一級河川。東詰北側橋傍の柳の木の横に河川の標識が立っています。 賀茂川と高野川が出町橋の下流、賀茂大橋の上流側で合流して鴨川となります。小さな赤丸が付記されているところが丸太町橋です。丸太町橋から上流側は加茂川の柊野堰堤及び高野川に架かる高野橋あたりまで、下流側は三条大橋の下流側あたりまでの河川敷は「鴨川公園(広域公園)」として整備されています。(資料1) 標識の近くには、賀茂大橋と丸太町橋の間の鴨川左岸(東側)の河川敷は「広域避難場所」に指定されているという掲示板が立っています。 北東側から現在の「丸太町橋」のほぼ全景を眺めた景色です。丸太町通はかつては「春日通」と称したそうです。しかし、この通りの堀川沿いに丸太の材木屋が多いことから、丸太町通と呼ばれるようになったと伝えられています。(資料2,3) 歴彩館が公開されているアーカイブ資料から引用します。正確な撮影時期は不詳ですが、明治初期には木橋が架けられていた様子がうかがえます。(資料4) こちらも歴彩館蔵の写真です。アーカイブをうまく探せなかったので別資料から再引用しました。(資料5)七条大橋をご紹介した折に、「京都三大事業」に触れました。丸太町橋もこの事業の一環として、1913(大正2)年に架け替えられました。そして、橋の中央に複線電気軌道が敷設され、丸太町通を走る市電が開通したのです。丸太町橋は、七条大橋とは違い、ガーター桁橋と称される橋構造です。(資料5)桁橋は「最も単純な形式で、過重に抵抗する梁を下部構造に載せただけの橋」(資料5)です。川幅が狭ければ、両岸の橋台に横に架けた橋桁により橋面を支えることになります。川の幅が広く川中に橋脚を建てて橋桁を乗せると断面形状はT桁あるいはその連続になります。桁は英語で、「girder」です。「girder bridge」 が桁橋を意味します。そのためガーター橋、ガーター桁橋と称されるようです。(資料5,6) この写真も歴彩館のアーカイブからの引用です。この写真自体は撮影日付は不詳です。丸太町橋が1930(昭和5)年に架け替えられているとのことですので、手許の書に描かれた昭和年代の丸太町橋の挿画と照応します。七条大橋でも触れていますが、市電の廃止は1976年です。 現在の橋は1991(平成3)年に架け替えられました。(資料5) 親柱に相当する部分に、このデザインが見られます。 途中の橋脚上の位置に、高欄の間にある柱にも同じ透かし彫りのデザインが施されています。 橋の中間には、バルコニーが設けてあります。こちらは上流側(北側)のバルコニーです。遠方に「荒神橋」が見えます。両側に見える河川敷が鴨川公園になっています。 バルコニー部分の橋脚を上掲の写真から切り出してみました。 川にせり出したバルコニーを支えるために橋脚もせり出しています。 橋の西詰に進む途中で振りかえった景色高欄部分は実にシンプルなものです。 下流側の眺め市電が廃止された以降、歩道と車道は分離されました。車道はアスファルト舗装が施されています。歩道はコンクリートタイル舗装です。 西詰北側から東を眺めた景色対岸の瓦葺き屋根の先に、大文字山(如意ヶ嶽)が遠望できます。 西詰の親柱には、ひらかなで「まるたはしばし」と刻されています。余談ですが、西詰の南側そばには、レンガ壁面のレトロな感じの建物があります。旧京都中央電話局上分局の建物で電気通信技術資料館があったそうです。現在はフレスコが入っているようです。この建物の北東角に「女紅場址」と刻された碑が立っています。上部には「本邦高等女学校之濫觴」という語句が二行書きで記されています。京都府が1872(明治5)年に創立しました。「旧九条家の別邸を校舎とした。紅は工あるいは巧の儀で、女子に裁縫・手芸を教えるのを目的とし、併せて英語を習得せしめた」(資料7)と言います。1901(明治34)年に、寺町通荒神口下ル東側、現在の府立鴨沂高校の所在地に移転しています。(資料7) 一方、西詰北側から丸太町通歩道を西に少し進むと、「国定史跡 頼山陽書斎山紫水明處」の道標が歩道脇に立っています。ここから少し北に入ったところに建物があります。序でに、西詰には鴨川に沿い北方向に東三本木通があります。かつて幕末の頃、上之町、中之町、南町からなる三本木という花街があったそうです。当時、料亭吉田屋が勤王志士の密会所になっていたと言います。後に桂小五郎(木戸孝允)の妻となる幾松(松子)は三本木の出だとか。桂小五郎をかばって助けた事で有名な女性ですね。(資料7)横道に逸れました。丸太町橋のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 鴨川公園(広域公園) :「京都府」2) 聚楽第にまつわる地名3) 京雀 巻5 18コマ目 :「国立国会図書館デジタルアーカイブ」4) 京都府京都学・歴彩館 デジタルアーカイブ(公開) 丸太町橋の写真5)『明治の橋 近代橋梁の黎明』 文化財ブックス第32集 京都市 p54,p56-586) 桁橋 :ウィキペディア7)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p29補遺女紅場 :「フィールド・ミュージアム京都」頼山陽書斎山紫水明処【道標】 :「フィールド・ミュージアム京都」丸太町通 :ウィキペディア木戸松子 :ウィキペディア木戸孝允 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2020.09.13
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8月12日の朝日新聞で「歴史に信仰に京の伝統 お地蔵さんと過ごす夏」という見出しの記事が目にとまりました。冒頭のリーフレットはテーマ展「京の地蔵盆」を開催している京都市歴史資料館の案内リーフレットです。この夏は私の住む町内(宇治市内)ではコロナ禍のため、年度早々に地蔵盆の中止が決まっていました。近隣の町内も今年は地蔵盆が行われていない様子でした。子供の頃は京都市に住んでいて、町内の地蔵盆を経験しています。宇治市に転居して以降も町内の地蔵盆は毎年継続して行われてきました。町内の恒例行事として地蔵盆の開催側の担当として数回活動したこともあります。この新聞報道には、9月24日まで、入場無料と報道されていました。「京の地蔵盆」というタイトルへの関心から、8/26に京都市歴史資料館まで行ってきました。 これは上掲リーフレットの裏面に掲載の案内図です。所在地は京都御苑(御所)の東側。丸太町通から寺町通を北に入り、少し上がると新島会館があり、その北側に位置します。京都市歴史資料館がここにあることは以前から知っていて、幾度もこの前を通り過ぎてはいたのですが、当館に入るのは今回が初めて。この歴史資料館を訪れてみるというのもこのテーマ展に足を向けた動機の一つでした。「同館によれば、民俗行事の地蔵盆を文献資料で確認できるのは、江戸時代の17世紀中ごろ以降という」(当該新聞記事より)とのこと。このことは当日会場で入手したこのテーマ展の説明資料にさらに具体的に記されています。 これはこのテーマ展のPRチラシの表面です。後日に、京都市歴史資料館の情報をインターネットで得られるか調べて見て、このチラシの掲載と、pdfファイルでダウンロードできることを知りました。この画像はpdfファイルからの引用です。「京都市情報館」というウェブサイトに「京都市歴史資料館のご案内」というページがあり、現時点ではそこにこのテーマ展の案内が載っています。詳しくは、「テーマ展『京の地蔵盆』というページが別に開示されています。(ページ番号273166)pdfのDLはこちらのページからできます。 当日、会場でいただいた展示内容説明資料(A4サイズ8ページ)です。2019年に京都市は下高倉町(亀甲屋町、東片町)から地蔵堂や地蔵飾りなど地蔵盆関係の資料一式の寄贈を受けたと言います。これを契機に、今年地蔵盆に関わる展示を初めて企画することになったそうです。現在の地図を見ますと、御池通から高倉通に南へ入ると高倉通の両側が「亀甲屋町」、その南隣りに「木之下町」、さらにその南側が「東片町」という町名です。東片町には京都文化博物館があります。下高倉町という町名は、昭和16年(1941)に、亀甲屋町と東片町をあわせて、行政的便宜のために設けられた町名だとのこと。地蔵盆のときだけ、亀甲屋町と東片町の両町は合同で「下高倉町の地蔵盆」を行ってきたそうです。令和元年の夏の地蔵盆が最後になったのです。一階の展示室一室でのコンパクトなテーマ展展示でした。展示室の北壁面側と南壁面側にはガラスで仕切られた展示スペースがあります。東壁面側の一部にも同様の展示スペースがあり、展示室の中央フロアーは企画に合わせて展示方法が選択される空間なのでしょう。この「京の地蔵盆」では、玄関から入るとこの展示室への入口の傍、つまり西壁面側寄りのフロアーに、下高倉町地蔵盆の地蔵飾りが展示されています。厨子に収められた地蔵菩薩像を中央に安置した祭壇が設置され、卍を記した垂れ幕も張られています。その前には上敷が敷かれ、数珠回しをするための数珠がおかれています。その左側(南側)に、木造の地蔵堂が置かれていました。南壁面側の展示スペースに、寄贈される前に町家で「お性根抜き」がされた時の写真が展示されています。その町家の傍に道路に面して地蔵堂が設置されていたことがその写真からわかります。東片町の木造彩色地蔵菩薩半跏像の写真も展示してあります。その展示スペースの東側には、当館蔵の地蔵盆関係の記録文献と飾用具が展示されています。他に橘町の文献資料15点、茶麿屋町の文献資料1点も展示されています。文献は、地蔵盆に関連した有志簿、上がりもの帖(帳)/御備控、勘定帳/収支控/計算表という記録文書類です。その一部が上掲の入手資料の1ページ目に載っています。これは、各町内に残る地蔵盆の勘定帳(明治時代~)だそうです。これらの文献記録を見ながら、町内会の役員を担当した折りに、地蔵盆行事の実施資料、地蔵盆の収支計算記録、地蔵盆当日の記録写真などを作成していたな、ということを思い出しました。展示の中で特に珍しいと私が感じたのは「橘町町掟版木(文久3年3月)」が展示されていたことです。飾用具とは、祭壇敷布、供養旗、供養幕というものです。「地蔵盆(地蔵祭・地蔵会)は、町内において亡くなった人への供養や、町内にかかわる事柄の祈祷の場でもありました。その信仰のあかしが記録となって、地蔵盆祭壇の飾用具の随所に残っています。」(入手説明資料より)それが、供養旗、供養幕です。江戸時代にはこういう側面が濃厚だったのでしょうね。今は、町内の安全と子供たちの健全な成長を願い、子供たちの夏の楽しい思い出づくりの場、行事になっているように思います。京都市北部域だけのものですが、地蔵盆実施地点表示の大きなMAPも展示されています。北壁面側の展示スペースには、「京の地蔵盆」の行事風景写真が各種展示されています。神谷潔氏が撮影された写真約150点です。京都の地蔵盆の撮影を平成初期から撮影し、今も継続中だそうです。上掲チラシに使われている写真も神谷氏の撮られた写真です。地蔵盆の会場風景、地蔵盆行事の各町内でのプログラム掲示案内の写真、福引きをしている写真、その他各種の行事を楽しむ姿のスナップ写真、お地蔵さまの写真などが展示されています。これらの写真は、京の地蔵盆の実際の雰囲気を感じるのに便利です。展示会場での写真が撮れませんでしたので、言葉での説明中心になりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*「京都市歴史資料館」案内リーフレット 当日同館で入手*テーマ展「京の地蔵盆」 このテーマ展の資料。当日会場にて入手*朝日新聞 2020.8.12 報道記事補遺京都市歴史資料館のご案内 :「京都市情報館」 テーマ展「京の地蔵盆」の開催について地蔵盆 :ウィキペディア京の地蔵盆~地域と世代をつなぐまちの伝統行事~ :「京都をつなぐ無形文化遺産」京都に夏の終わりを告げる「地蔵盆」 :「京都の摩訶異探訪」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.09.04
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川端通の歩道から七条大橋東詰の南側と北側を眺めた景色です。南側は柳の木の前に駒札が設置されています。北側には京阪電車七条駅の地下改札口への階段入口があります。 東詰の北側から七条大橋を眺めた景色です。この七条大橋は明治末期に「京都三大事業」の一つ、「道路拡張及び市電の敷設」の一環として建造された橋梁です。鉄筋コンクリート造アーチ橋です。四条大橋、丸太町橋もこの三大事業の一環で架け替えられたと言います。(駒札、資料1)1911(明治44)年11月に着工、1913(大正2)年3月に竣工しました。三大事業による橋梁としてはこの七条大橋は唯一現存するものだそうです。(駒札)当時は「人車併用の橋であったが、歩道と車道は区別されず、中央に複線電車軌道を敷設し」、「橋面はアスファルトで舗装され、軌道面は花崗岩の張石が施された」(資料1)ものでした。七条大橋を市電(市街路面電車)が走っていたのです。この七条大橋を通る市電は、1978(昭和53)年9月30日に廃止されました。(資料2) 川端通から河川敷に降り、少し北に歩いてから橋の北側のほぼ全景を撮ってみました。明治末に建造された時は、鴨川とその東側に並行して流れる琵琶湖疏水鴨川運河と合わせて七条大橋となっていました。鴨川に5連、琵琶湖疏水鴨川運河に1連、合計6連のアーチより成る橋でした。1989(昭和62)年に、京阪電車が地下化されるに伴い、琵琶湖疏水鴨川運河は五条通辺りから塩小路通辺りまでが暗渠化されました。川端通が拡幅されたことになります。その結果、琵琶湖疏水鴨川運河に架かる橋の部分が消滅しました。現在の七条大橋は、橋長82m、幅員18mとなっているそうです。(駒札) 現在の七条大橋東詰の親柱には、南側に「七条大橋」、北側に「鴨川」と陰刻された石板が嵌め込まれています。 東詰の南側から眺めた景色です。西詰の南側に朱塗りの神社が見えます。「松明殿稲荷神社」です。この神社は拙ブログ「探訪[再録] 京都・七条通を歩く -3」でご紹介しています。この時、七条大橋にも少し触れています。こちらからご覧ください。 この図は、「都名所図会」の挿画です。(資料3)絵の左側の右岸(西側)に松明殿が描かれています。江戸時代に架設された七条大橋は木橋であり、幕府が管理した公儀橋でした。(資料1)1911(明治44)年の架け替え前の七条大橋の写真が残っています。木橋です。(資料1)真っ直ぐの平橋だったことがわかります。上掲江戸時代の橋も平橋のようですね。 河川敷に降りて、橋の東側、橋のすぐ傍で西方向を撮りました。 少し河川敷を下流側(南)に進み、南側の橋側面を撮った景色です。 足元を振り返ってみると、川堤の石垣面傍の河川敷に2006と左上に表記した「位置案内」が設置されています。 部分拡大してみました。南は塩小路橋、北は三条大橋までの各橋間の距離が明記されています。さらに、各大橋から最寄り駅や代表的な観光地までの距離も記されています。こんな案内が設置されているのを知りませんでした。 河川敷から橋の高欄を見上げて 現在の高欄は、”「三十三間堂の通し矢」をイメージした矢車模様”に改修されています。 これは親柱の個所を橋上で撮ってみたものです。ここには、裏と表の両面に矢車模様が嵌め込まれています。 こちらは状記した1913年に竣功した七条大橋の部分写真です。(資料4)元の大橋に使われた高欄鋳物のデザインは全く違ったものだったようです。当初の七条大橋は、「橋は全部純セセッション式」で欧風意匠であり、電灯もセセッション式で統一されていたそうです。セメント9,000樽、鉄筋133坪、コンクリート800坪を使用したと言います。(資料1)本体設計は当時の東京帝国大学教授・芝田畔作、意匠は同大学建築学科出身の建築家・森山松之助、同大学営繕課長・山口孝吉が担当し、東京の太田工業事務所が工事を請け負ったと言います。(駒札、資料1,5) 橋を西側に渡ってみます。現在は車道と歩道が鉄柵で仕切られています。橋の路面はアスファルト舗装になっています。 大橋を渡り始めて、上流側を眺めた景色。北に見えるのは正面橋です。 橋の途中の柱に「土木学会推奨土木遺産」として2008年に選ばれたという銘板が嵌め込まれています。さらに、2019(平成31)年3月29日付で国登録有形文化財に登録されています。 この角張った感じがセセッション式の特徴の一つのようです。 下流側を眺めた景色。塩小路橋が見えます。その先に見えるのはJRの鉄道橋だと思います。 大橋西詰の手前で上流側を眺めた景色です。鴨川西岸は七条大橋から北側の正面橋までに二ノ宮通沿いに、下二之宮町・上二之宮町が続きます。その家並みです。 橋の上の歩道で振り返った景色七条通を東に進めば、通りの北側に京都国立博物館があり、通りの南側には三十三間堂、通りを挟んでその東側には養源院、法住寺が並んでいます。七条通を突き当たれば、智積院があります。京都国立博物館がコロナ禍で閉館時期がありました。「国立博物館メンバーズパス」の期間を該当期間分について延長しますという案内があり、その期間延長手続きに8/26に行きました。そこで序でに久しぶりにこの大橋を観察してみようと思った次第です。 七条大橋の西詰の親柱はこの形です。これが元の七条大橋の親柱です。上掲の元の七条大橋部分図の親柱に一致します。 松明殿稲荷神社この神社は稲荷町にあります。この神社があるからそれが町名になったのでしょう。 大橋西詰で左折して下流側(南)に少し入り、こちらの河川敷に降りてみることにしました。 七条大橋を南西側から眺めた景色 七条大橋の下流側は橋の近くは石敷きになっていて、川の流れは低い高さですが2段の石積みになっています。 こうして眺めてきますと、大橋の躯体構造は元の七条大橋が当時のままで、高欄部分と東詰側の親柱が改修され、橋上の電灯もセセッション式のものから現代的なものに取り替えられていることがわかります。歩道と車道の区分は上記の通りです。七条大橋の元の親柱が、京都美術工芸大学(東山区)に残されているそうです。(資料1)最後に駒札をご紹介しておきます。 ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『明治の橋 近代橋梁の黎明』 京都市文化財ブックス第32集 京都市 p50-542) 京都の市電 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」3) 都名所図会 6巻. [2] 秋里籬島 著[他] :「国立国会図書館デジタルコレクション」4) 建築写真類聚. 第2期 第5 建築写真類聚刊行会 編 洪洋社 大正9年出版 :「国立国会図書館デジタルコレクション」5) 建築史の世界 第6回 旧三井文庫第二書庫─ :「コア東京Web」補遺セセッション :「コトバンク」セセッション様式 の巻 :「Good'oldboy's story」14.ディテールの誘惑 :「近代建築の楽しみ」本郷キャンパス建築めぐり 明治期煩悶時代の正門 :「東京新聞」こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表 このシリーズのNo.4で「三条大橋」をご紹介しています。
2020.09.03
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京都文化博物館の3階には、一角に展示会場と区切られた休憩スペースがあります。そこからL字形の屋外庭園を眺められる静かな空間です。利用者がたまたま居ませんでしたので、屋内から庭に置かれた石仏を久々に眺めつつ、写真を撮りました。(会場の係員の方に訪ねると屋内からの撮影はOKでした。) ガラス壁面の外、庭に設置されている案内板です。この庭に展示されている石仏は、1993年に、京都府警察本部庁舎の建設に伴う発掘調査により出土したと言います。その発掘場所は、永禄12年(1569)に織田信長が将軍足利義昭の居館として築いた「旧二条城(二条新第)」の北西部分にあたると推定されるところだそうです。信長は築城を短期間で行うために、寺院から石仏などを築城のための石材として調達したのです。石仏や墓石などを城の石垣や石段に転用した実例は各所に残っています。信長が築いた安土城でも散見します。明智光秀が築城した福知山城にも墓石や石塔などが転用されているのをテレビ番組で見ました。奈良にある郡山城の石垣にも石仏などが利用されています。他にも各地にあることでしょう。説明板には、宣教師ルイス・フロイスが書翰に石像の石材としての転用のことを記しているということに触れています。ここに安置された「これらの石仏は、人為的に埋められた桃山時代の大きな掘の中から出土しました。この掘は豊臣秀吉の築いた聚楽第の城下の大名屋敷に関連するものと考えられ、天正年間の終わりころ(1590年前後)に埋められています。」(説明文より)室町幕府滅亡後、旧二条城は荒廃し、その時に使われていた石仏などはそのまま遺棄されていたものが掘の石垣などに転用されたりしていたのかもしれませんね。 冒頭写真の右側に移り、竹垣で囲まれた屋外庭園を側面から眺めた景色です。上空から見れば、Lの字の縦の部分を頂点から鍵形の角までの部分を側面から見ていることになります。それでは、石仏を眺めて行きましょう。 石像の如来形の頭部と印相をみると、阿弥陀如来坐像なのでしょう。 どの時点で石仏が割られたのでしょう・・・・。これも、定印を結んだ坐像です。 この石仏の頭部は如来形ではなく僧形のようです。羅漢像なのか、地蔵菩薩像なのか・・・・。錫杖らしきものは彫られていないように見えます。地蔵菩薩像でも錫杖を持たない石仏もあるようですので、私には判別できません。 この庭園に安置された石仏は阿弥陀如来坐像が多いようです。 この双体石像は道祖神でしょうか。あるいは、一体は地蔵菩薩の可能性もありそう・・・・。 この石仏は地蔵菩薩坐像でしょうか・・・・。 こちらも地蔵菩薩坐像でしょうか。右肩に錫杖が彫られているように見えます。 これらの石仏は一体一体お顔の表情が異なります。石仏の摩滅の様子がはるかな時の経過を伺わせます。どういう人がこの石仏をどういう思いで造立したのでしょう・・・・・。石仏探訪もまた興味が尽きない世界です。石という物体、資源と思えば、そこに何が刻まれていようと石材にしか過ぎないという視点が、信長の合理性だったのでしょうか。それとも、石仏を石垣に組み込むことで、一種の心理的防御策の機能を担わせたのでしょうか。ご覧いただきありがとうございます。補遺安土城 :「日本には、お城がある。」(攻城団) 大手道 織田信長の安土城址と摠見寺 安土城跡の公式サイト福知山城天守閣 :「福知山市」福知山城 :「城百科」郡山城 郡山城の歴史 :「奈良の城」郡山城 :「奈良県 大和郡山市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都文化博物館 「池大雅-文人たちの交流」と「木島櫻谷と京都画壇」
2020.08.29
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京都文化博物館(中京区三条高倉)で開催中の2つの特別企画展を8/25に見てきました。今回の入場チケットの半券は前回の「祇園祭」展を見たときと同じです。 まずは、4階が展示会場になっている「池大雅-文人たちの交流」展の鑑賞です。ここに掲載したのはPRチラシの一面です。 こちらは会場入口で入手したこの特別企画展の小冊子です。今回は図録の発刊がなく、この小冊子に展示品の中の主な索引が掲載され、裏表紙に出品作品リストが掲載されています。上掲のチラシはこの小冊子・表紙に掲載の「山亭小酌之図」の部分拡大図を使っていることになります。(資料1、以下適宜参照))ごつごつとした岩山に大松が繁り、樹間に建てられた小亭に文人たちが集い、酒を酌み交わし談笑している図です。岩山は峨峨として聳えるというよりも、丸みを帯びた山肌が穏やかさをしめし、来たりし人々を暖かく受け入れるという雰囲気です。 山亭内でテーブルを囲む文人たちの描き方は実に簡略で、ちょっと漫画っぽい洒脱なさらりと描いた感じです。じっとみていると実に生き生きとしています。平成25年(2013)に池大雅美術館が閉館されました。そして、12月にその所蔵作品・資料が京都府に一括寄贈されたのです。京都府は、平成7年(1995)に所蔵品の部分寄贈を受けていたことから、この一括寄贈で所蔵品全てを京都府が受け継いでいくことになったそうです。つまり、この特別企画展は、京都府藏池大雅美術館コレクションの展示公開となっています。4階ワンフロアーは、4つのセクションで構成されています。私にとって印象深い作品を中心に少しご紹介を加えます。 第1章 大雅、誕生-書との出会い池大雅は幼少から書が得意だったそうです。3才の時に書いた「金山」という書が晩年の書と並べて展示されていておもしろく感じた次第です。7才のときには、中国から来た黄檗宗の僧に褒められ、「七歳神童書大張」という七言から始まる「杲堂之偈(こうどうのげ)」という書をもらったとか。この書も展示されています。大雅愛玩の硯や竹筆、小ぶりな違棚の展示もあります。「慶子老舞踊図」は、歌舞伎役者の初代中村富三郎が80歳を超えながら白拍子を演じたという場面を、ごく簡略な線描でその動きをとらえ、大雅の自賛を記したものが展示されています。この筆線図はじっとみていると、かろやかな舞姿の手足の動きが伝わってくるのです。単純な一瞬の線画に凝縮された技を感じます。 第2章 万巻の書を読み、万国を歩く上記の「山亭小酌之図」はこのセクションに展示されています。大作は六曲一隻の「高士訪隠図屏風」という山水図です。第一扇には対岸と手前に川が描かれ、第二扇には広々とした湖あるいは大海に流れ込む川口に橋が描かれています。第三扇には岸辺に家屋と椅座する人物が描かれてます。家の背後(第四~六扇)には山が広がっていきます。「文人にとって山水を描くことは、必ずしも真景に基づかず、理想郷を表現することでもあった」(資料1)と言います。大雅が人物を丸い形の像として描いた「寒山拾得図」は意表をつくような図で、おもしろい絵でした。 第3章 大雅、筆墨の世界墨を掌、指、爪につけ、巧みに使い分けて描く「指頭図」と称される作品が展示されています。その一点は「薫石図 龍公美賛」です。説明が付いていなければ指や爪、掌を使って描かれたとは思えない作品です。ここには、八曲一隻の「柳下童子図屏風」(重文)が展示されています。第五、六扇に幅の細い木橋が描かれ、二人の童子が橋の中央部でしゃがみこみ川面を覗き込むようにしている図です。一種禅問答風の趣きがあります。ここには、大雅の妻、池玉瀾の「なでしこ図」が展示されています。上記の「慶子老舞踏図」「高士訪隠図屏風」「柳下童子図屏風」は、京都文化博物館のこちらのページをご覧ください。掲載されています。 第4章 大雅へのあこがれ池大雅が親交のあった人々との間で交わした書簡が数点展示され、一方、月峰・木村蒹葭堂・・田能村直入などの作品が展示されています。月報筆「池大雅肖像」に描かれた大雅像は、第一章に展示の伴高蹊著『近世畸人伝』巻四に載る大雅像とはかなり雰囲気が違います。畸人伝に描かれた大雅は剽軽なオッチャンという感じです。このギャップもおもしろいところです。池大雅の「大雅五十歳 歳旦手形木版」というのも展示されています。上部に文章が記され、その下に右手の手形がべたっと押されています。墨の付け方によるのか、指そのものの形状なのか、指がけっこう細い手形になています。その右側に、歌が記されています。「としとわれ」という五文字から始まります。 3階に下りますと、こちらのフロアーは、「木島櫻谷と京都画壇」の特別企画展です。これは、上掲のPRチラシの片方の面です。このフロアーでは前半に木島櫻谷の作品(京都府藏)を展示し、後半に「京都 三条・大橋家コレクション」(京都府藏)の作品を併せて展示しています。このコレクションにも木島櫻谷の作品がいくつか含まれますが、京都画壇の画家等の作品が主体になっています。明治・大正時代に活躍した谷口香嶠、猪飼嘨谷を中心に、都路仙境、山元春挙、芝千秋、菊地契月、三浦幽眠などの作品です。今回初めて知った京都画壇の画家もありました。(資料2,3)PRチラシに載る絵は、六曲一双の木島櫻谷筆「初夏・晩秋」という鹿の群像を描いた作品の部分図です。会場入口に近いところに展示されています。久しぶりにこの屏風絵を鑑賞しました。かなり昔に木島櫻谷の作品を見た中で、最も記憶に残っている作品です。 後半のところで、このA4サイズ二つ折のリーフレットを入手しました。(資料3)この表紙には、谷口香嶠筆「義経勝浦上陸図」の部分図が載っています。大橋家は19世紀から現代まで京都三条御倉町に所在した一族だそうです。御倉町は烏丸通と室町通の間で三条通の南北両側に跨がる町内です。2014年に大橋家の後継者が不在となり、京都府は2016年に所蔵資料の寄贈を受けたそうです(資料4)。そこで京都文化博物館では2016年度より、「大橋家の旧蔵資料の総的調査をおこない、古文書、絵画、工芸など多岐にわたる優れた文化財を発見し、この研究をすすめ」てきたそうです(資料3)。その大橋家コレクションの一端がここに併せて展示されたことになります。「4代目の大橋松次郎は、隣接の西村惣左衛門店(現・千總)の運営に携わりながら、木島櫻谷、谷口香?、猪飼?谷、芝千秋などの作家を物心両面から支えてきました」(資料2)とのこと。調べてみますと、京都文化博物館では、2017年10月~12月に「木島櫻谷の世界」と題した総合展示を行っています。当館ホームページに掲載のこちらのページをご覧いただくと、今回も展示されている作品がいくつかご覧いただけます。「鷹図」「孔雀図」「富獄図」「僊客採芝図」という大正期の作品が掲載されています。上掲屏風部分図の内、「晩秋」も載っています。このページを読んで知ったことですが、木島櫻谷は、何とこの御倉町で生まれ、同町内に住む京都画壇の巨匠・今尾景年に師事して絵の基本を学んだと言います。大橋家が木島櫻谷を支援したというのもナルホドと思います。最後に、池大雅関連で余談としていくつかご紹介します。会場には、「池大雅墓碑銘拓本」が展示されています。そこで池大雅のお墓ですが浄土宗のお寺・浄光寺に祀られています。所在地は寺之内通千本東入ル北側、新猪熊町です。 こちらが史跡探訪で訪れたときに撮った「池大雅墓」です。屋根の正面丸瓦に「大雅堂」と陰刻されています。一方、大雅の妻・玉瀾のお墓ですが、この浄光寺ではなくて、金戒光明寺山内の西雲院の墓地域にひっそりと祀られています。 浄光寺探訪の後で調べてみて、後日に機会を見つけ金戒光明寺と山内探訪の一環として訪れてみました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)「特別企画展 池大雅-文人たちの交流」 会場にて入手の小冊子2) 「特別企画展 木島櫻谷と京都画壇 京都三条・大橋家コレクション」作品リスト3) 「三条御倉町 大橋家の歴史と美術」 会場にて入手のリーフレット4) 木島櫻谷と京都画壇 京都 三条・大橋家コレクション :「京都文化博物館」補遺池大雅 :ウィキペディア池大雅 :「美術手帖」大雅・玉瀾像 近世畸人伝所載 :「日本美術史ノート」公益財団法人 櫻谷文庫(旧木島櫻谷家住宅) ホームページ木島櫻谷 :ウィキペディア【よみもの】謎多き日本画家・木島櫻谷。“幻の名画”≪かりくら≫に迫る :「観光ガイド スタッフブログ」谷口香嶠 :ウィキペディア猪飼嘨谷 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・洛中 千本釈迦堂周辺を歩く -2 千本えんま堂(引接寺)・浄光寺(池大雅墓所)スポット探訪 京都・左京 金戒光明寺細見 -6 西雲院(会津墓地・紫雲石・王健南の墓・会津小鉄墓・池玉瀾墓)ほか
2020.08.28
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先週の金曜日に、奈良国立博物館で開催されている標題の特別展を観に出かけてきました。午前11時過ぎに興福寺境内を抜けて奈良公園の入口に入ったところの景色です。 平日とはいえ、閑散とした静かな景色の中を博物館まで歩むのは久しぶりです。 入場待ちの列はできていませんでした。 博物館正面傍の池には蓮の花が咲いています。 正面入口の左側壁面に掲げてある特別展案内の大型パネル。 池の北側から博物館を眺めると2階部分の壁面にも案内パネルが掲げてあります。 3枚の大型パネルをクローズアップしてみました。 左が特別展のチケットの半券、右が今なら各所で入手できるPRチラシの表です。 PRチラシの裏正倉院宝物は、正倉院展としてその一部が毎年秋に順次公開されています。その一方で、その時代時代の最新の科学技術を駆使しつつ、それぞれの分野での工芸作家たちが協力して、天平の技を忠実に再現模造するという試みが行われてきました。今までの正倉院展で、複製品が宝物と併せて数点展示されていることはありました。今回のこの特別展は、受け継がれた職人の技を使い、正倉院宝物、その天平の技を当時の姿で再現模造した複製品を一堂に集めた公開です。御大典記念として、時空を経て現存する正倉院宝物を天平の姿によみがえらせたものです。天平の時代にタイムスリップして、当時の宝物の色と輝きとその姿を感じ取れる展覧会といえます。キーワードは「よみがえる」です。8/4より後期展示期間に入っています。当日(8/7)入手した展示品一覧表では4点だけの入れ替えです。また展示作品は図録番号と一致させて128番までありますが、この奈良会場(当博物館)での展示品数をカウントしてみますと、そのうちの81点が現在展示されています。つまり通期では85点の公開になります。この特別展の企画は巡回展として行われているようです。 こちらは鑑賞後に購入した図録。今回の図録には3分の2ほどの幅広の帯が掛けてあります。 四半敷様に様々な宝物の部分写真を並べた帯です。 表紙側 裏表紙側帯が表紙の内側に折り込まれた部分を眺めてみましょう。 表紙の内側 裏表紙の内側それぞれ折り込まれていて、外からは見えない部分です。 綺麗な帯を外すと、図録の表紙は「八陵唐花文赤綾」(宮内庁正倉院事務所藏)の織物が使われています。例えばこれは平成12年(2000)に川島織物が再現模造された作品です。原宝物は鏡箱の内敷きに用いられた絹だそうです。やはり、今回の展示品で一般観覧者の立場で見どころとなる作品は上掲の案内情報に盛り込まれているように思います。上掲諸情報からの引用という形で少しご紹介します。 なんと言っても、やはりこれが目を惹きつけます。「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)」(宮内庁正倉院事務所藏)の再現模造です。左は琵琶の背面で、宝相華・雲・鳥などの文様で埋め尽くされた螺鈿細工は緻密精巧で美しく煌びやかです。「第1章 楽器・伎楽」のセクションに展示されています。 琵琶の表面は、腹板(ふくばん)に花形が配され、捍撥(かんばち)と呼ばれる部分には、駱駝に乗る胡人が表現されています。インド起源の五絃の琵琶だとか。平成23年に実作に着手し、8ヵ年の歳月をかけて完成に到ったと言います。この琵琶の再現模造には、次の匠たちや会社が共同で製作されたそうです。[木地]坂本曲齋(三代)、[象嵌]新田紀雲、[加飾]北村昭齋、松浦直子、[絃]丸三ハシモト株式会社。絃には小石丸種の絹糸を用いているとのこと。 この琵琶は、1階に設けられた記念撮影用スペースでもその実物大サイズの写真が使われていますので、やはりハイライトの一つと言えます。 原宝物の「酔胡王面」は正倉院展で観ていますが、これほど鮮やかな色合いの面とは想像もしていませんでした。この面を被って踊り躍動する姿を目にした人にはすごいインパクトがあったでしょうね。 こちらは「伎楽人形 呉女」(奈良国立博物館蔵)です。呉女役の面と装束がセットとして再現模造されています。昭和時代に作られたものと言います。前期は「呉公」が展示されていて、後期にこの「呉女」に入れ替えられたのです。美女ですねえ・・・・・。「大柄の唐花文を表した赤地錦の袖なしの短衣」(図録より)が煌びやかです。 PRチラシの裏に載るこの「黄銅合子(おうどうのごうす)」(宮内庁正倉院事務所藏)は、「第二章 仏具・箱と几・儀式具」に展示されています。仏前で香合として用いられた容器だと考えられています。模造の完成品と併せて、制作過程が見えるように部材が展示されています。この五重相論をかたどった塔形鈕はなんと50数枚の部材を重ねて作られているのです。 仏前で用いた陶製の鉢「ニ彩鉢」(宮内庁正倉院事務所藏)が再現模造されています。緑色と白色の釉薬を掛けた鉢の模造はわかりますが、釉薬をかける具合で自然にできた結果としての文様をどのように複製したのだろうか・・・・と展示品を観ていてふと思いました。後で図録を読みますと、「緑釉および白釉は筆で導くように描き、仕上がりを考慮して窯詰めしたのち、本焼きを行い、原宝物にみる釉薬の流れを再現した」という工夫がなされたそうです。第二章では、新羅製で9口の碗を入れ子式に重ねて一碗の中におさめる「佐波理加盤(さはりかばん)」(宮内庁正倉院事務所藏)が展示されています。一列に並べられた碗がきっちりと一碗に入るというその精度には驚きです。形はシンプルです。「紅牙撥鏤撥(こうげばちるのばち)」(宮内庁正倉院事務所藏)と称する象牙を赤く染め表面を彫り白地を出して文様を描き出した琵琶の撥が第一章に展示されています。一方、この第二章には、「緑牙撥鏤尺(りょくげばちるのしゃく)」(奈良国立博物館蔵)が展示されています。こちらは染め象牙の儀式用のものさしです。長さ29.9cm、幅2.4cm、厚0.7cmに細密な文様が刻まれています。拡大レンズなどのない時代によくぞ小さくて細密な図を刻む技があったものだと感心します。それを再現模造しているのもすばらしい技です。写真が撮れないので・・・・ぜひ会場でご覧ください。「第三章 染織」のセクションには、図録の表紙として上記した文様の織物が展示されています。 こちらは「赤地唐花文錦」(宮内庁正倉院事務所藏)の再現模造品です。幡に使われた錦だそうです。 こちらは「紫地鳳(ほうおう)唐草丸紋錦」(宮内庁正倉院事務所藏)です。聖武天皇の肘かけに用いられた錦だとか。会場に写真とともに説明パネルが掲示されていますが、その説明に相当する個所を図録から引用し、ご紹介します。「奈良時代の絹繊維は、調査の結果非常に細いことが知られており、日本産の繭では、小石丸がそれに最も近い繊維を産することから、一連の模造では、皇居内の紅葉山御養蚕所において上皇皇后陛下がお育てになられた小石丸の繭をいただき、用いた」とのこと。試作段階で使った一般の繭では、同じ絹織物の風合いが出せなかったといいます。復元にとって絹素材の重要性が再認識されたそうです。「第四章 鏡・調度・装身具」のセクションに進みましょう。 当日館内で入手した「奈良国立博物館だより」です。この表紙に使われているのが、このセクションに展示されています。「黄金瑠璃螺鈿背十二稜鏡」(宮内庁正倉院事務所藏)。鏡の鏡背を七宝で飾った十二稜形の銀鏡の再現模造品です。正倉院には鏡が沢山伝わる中で、鏡胎が銀であるのはこれ一つだそうです。さらに七宝製品というのもこの鏡が唯一だといいます。 蛇紋岩を素材にして、スッポンの姿を写実的にかたどった容器がおもしろい。平成10年(1998)詫間裕作。 スッポンの体全体が容器の蓋になっていて、その甲羅に北斗七星が表現されています。丸い星には銀泥、星を繋ぐ線には金泥が塗られているそうです。 寄木細工の双六(すごろく)盤です。駒を並べて骰子(さい)を振り、相手の陣地に駒を進めるゲームの盤ということなのですが、どんな駒をいくつ使い、どのように相手陣地に駒を進めるのかについては、説明の掲示がなかったと思います。どういう使い方をしたのでしょうか・・・・。昭和29年(1954)木内省古作です。このセクションでは「赤漆文欟木厨子(せきしつぶんかんぼくのずし)」(東京国立博物館蔵)という聖武天皇のゆかりの品を収めた厨子の再現模造品が印象に残っています。丈夫そうで重厚な感じの厨子です。金銅製の直方体形の錠前に関心をいだきました。「第五章 刀・武具」「第六章 筆墨」と続きます。当時の太刀は真っ直ぐな直刀だったのですね。今回の展示を眺めて再認識しました。出展されているのはすべて明治時代に再現模造されたものでした。一番印象に残ったのは、「金銀鈿荘唐太刀(きんぎんでんかざりのからたち)」(宮内庁正倉院事務所藏)の鞘の錺金具です。上掲PRチラシ表の上辺中央並びに図録表紙の帯の右下に金具の部分図が載っています。銀製鋳金で唐草文を透かし彫りにして、伏彩色を施した水晶玉や青・濃緑色のガラス玉を嵌入しています。聖武天皇の儀式用太刀だそうです。筆墨のセクションでは、戸籍や正税帳その他の古文書が再現模造されています。国立歴史民俗博物館が正倉院古文書についてコロタイプ印刷技法により継続的な複製事業をされているということを知った次第です。一般鑑賞者向けのPRチラシや案内パネルにはさすがに複製古文書は表には出ていません。図録の帯の中、それも折り込まれた内側に1ヵ所だけ載せてあるのを見つけました。展示会場を出た後、1階から博物館の南側にあるピロティに出てみました。 南側にも池があり、こちらには白い蓮の花が咲いています。 池の南西方向の眺めから南東方向に目を転じてみます。 奈良国立博物館には、春か秋に来ることが多いので、蓮の花が咲いているのを初めて眺めたように思います。これで、この特別展の印象記を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*「よみがえる正倉院宝物」のPRチラシ*図録『御大典記念 特別展 よみがえる正倉院宝物 ー再現模造にみる天平の技-』 発行 朝日新聞社 2020*「奈良国立博物館だより 第114号 令和2年7・8・9月」 奈良国立博物館補遺巡回展 御大典記念 特別展 よみがえる正倉院宝物 ー再現模造にみる天平の技- :「Internet Museum」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.08.13
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観照 諸物細見 一覧表観照 諸物細見 一覧表 京博西の庭の南西エリアには、石造物が他にも芝生の中に置かれ野外展示されています。この石造不動明王立像もその一つです。周囲を低い竹垣で囲った区画の中央に不動明王が東面する形でおかれています。 正面からの眺め不動明王は五大明王の一つです。前回ご紹介した大日如来が一切の悪を降すために忿怒相に化身したとされています。火焔で汚れを焚き浄め、衆生を守るという役割を担うとされます。五大明王は五大尊・五忿怒とも言われるそうです。不動明王を中央にしてその四方、東方には降三世明王、南方には軍荼利(ぐんだり)明王、西方には大威徳明王、北方には金剛夜叉明王が居並びます。京都・東寺の五大明王像が有名です。(資料1)不動明王は明王の代表仏。修行する者を守る仏と言います。この石造不動明王立像は室町時代の作と言われています。 舟形の光背には火焔が浮彫りにされています。火焔光背です。 右手には宝剣を持っています。宝剣は両刃で、鍔に相当する部分はたぶん金剛杵の内の三鈷杵の左右の形と同形を表しているのでしょう。胸の部分には瓔珞(ようらく)と称される装身具がレリーフされています。首飾りです。左肩から右に条帛(じょうはく)を身につけています。不動明王の腰の少し上辺りで、この石仏が断裂していたことが光背部分でよくわかります。 右手首は補修が施されていて、右手に腕釧(わんせん)は確認できません。一方、上腕部には大日如来と同様に、臂釧(ひせん)をはめています。(資料1)左腕を見ますと、手首には腕釧が彫り込まれ、左手には羂索を握っています。不空羂索観音菩薩の名にある羂索です。「羂索」は鐶(かん)の付いた投げ縄です。元来は武器ですが、衆生救済の法具に転じて、人々を救うための道具に転じています。(資料2) 裳(も)を身につけて、足首には足釧(そくせん)を付けています。素足で岩座にすくっと立っている姿です。よく見ますと、足釧の少し上で補修されているようです。 頭部は巻き髪状で頂部が蓮華(頂蓮)形になっているようです。もう一つの髪型は莎髻(しゃけい)というスタイルです。(資料1,2)眉毛は逆八字形につりあがり、私には両目を大きく見開いているように見えます。不動明王像でよく見かけるのは、右目を開き、左目を半眼に閉じる天地眼といわれるスタイルです。口許をみますと、牙が出ています。 左側に弁髪(おさげ髪)を垂らしています。 西からの眺め 不動明王立像の先に見えるのは「石棺」です。 東からの眺め 久しぶりにこの石仏を見仏してみました。今までに幾度も見ているのですが、あらためて細見すると気づかなかった発見があります。序でに、不動明王像が単独で祀られる場合には、二童子が脇侍として従っている場合があります。コンガラ童子とセイタカ童子です。不動尊の眷属は三十六童子とも言われています。(資料2)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『図説 仏像巡礼事典 新訂版』 久野健[編] 山川出版社 p82.832) 『比べてもっとよくわかる仏像』 熊田由美子著 朝日新聞出版 p83,p112-129補遺不動明王 仏様の世界 :「Flying Deity Tobifudo」不動明王 :ウィキペディア北山不動(石造不動明王及二童子立像) :「大阪市」八幡神社の石造大山不動明王像 :「練馬区」石造 不動明王坐像(吉祥寺) :「足利市」井宮家と石造不動明王像 :「松原市」国宝「青不動尊」 :「天台宗青蓮院門跡」金色不動明王画像(黄不動尊) :「三井寺」赤不動 :ウィキペディア五色不動 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -9 石仏:阿弥陀三尊像と大日如来像 (京都国立博物館西の庭①)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2020.08.09
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京都国立博物館の円形噴水のある西の庭エリアの南西隅近くにこの石造阿弥陀三尊像が覆屋の中に安置されています。京博敷地の西側にある赤い煉瓦造りの正門の手前で左折して庭園内通路を南に少し行ったところの一隅にあります。 中央には阿弥陀仏が定印を結び瞑想されている姿で端座されています。 右寄りから 向かって右側の観音菩薩は両手で蓮台を捧げる姿の坐像です。蓮台は仏像の台座で蓮華座です。 左寄りから 向かって左側の勢至菩薩は合掌する姿の坐像です。三尊それぞれに舟形光背が設けられ、光背が一部重なり合う形で刻まれています。三尊は丸彫りとまではいきませんが、腕と肩の背面が少し見える程度まで深く彫り込まれています。 石仏の傍に、この説明パネルが掲示されています。説明パネルに帰されていますが、観音菩薩が蓮台を持つ姿からこれが「来迎」を示す場面だとわかります。『大無量寿経』には、阿弥陀仏になる前の宝蔵比丘(菩薩)が「四十八願」を立てられ、その内容が記されています。第18願が日本では一番よく知られています。つづく第19願には次の願文が記されています。漢訳経典の和訳文でご紹介しますと、「たとい、われ仏となるをえんとき、十方の衆生、菩提心を発(おこ)し、もろもろの功徳を修め、至心に願を発(おこ)して、わが国に生まれんと欲せば、寿(いのち)の終わる時に臨みて、(われ)仮令(もし)、大衆とともに圍繞(いにょう)して、その人の前に現ぜずんば、正覚をとらじ」(資料1)つまり、「浄土に生まれることを願う人の臨終に仏菩薩が迎えに来る」という誓いをされたということです。この阿弥陀仏が来迎されるという思想は平安時代中期から流行したそうです。(資料2)数多くの来迎図が描かれ、残されています。図像として描かれたものは数多いのですが、石造彫刻としての遺例は少ないといいます。そういう意味でもこの石造阿弥陀三尊像は平安時代の作として貴重なものということがわかります。例えば、京都国立博物館のホームページで公開されている「阿弥陀二十五菩薩来迎図」や奈良国立博物館の収蔵品データベースに公開されている「阿弥陀聖衆来迎図」の雲上の先端個所の菩薩が蓮台を捧げている姿が描かれています。たぶん、臨終する人がいずれ成仏して坐る台座を持って来迎するということなのでしょうね。(資料3,4) 阿弥陀仏 観音菩薩 勢至菩薩 それぞれの顔貌に欠損部分がかなりありますが、それぞれの尊顔をイメージしてみてください。通路沿いに東に進みます。七条通に面したレンガ塀を背景に、 この石仏が置かれています。大日如来坐像です。 京都の中京区丸太町通寺町下ルに位置する行願寺(革堂)伝来の石仏と説明されています。 頭部には宝冠を被り、その下辺に地髪が彫られています。 条帛(じょうはく)が左肩にかけられ、その上には瓔珞(ようらく)の飾りが見えます。 上腕部には臂釧(ひせん)、手首付近に腕釧(わんせん)と称される装身具を身につけています。臂釧は分かりやすいですが、腕釧はそれらしきものがあるかという感じです。7232法界定印の印相ですので、この大日如来は胎蔵界大日如来であることがわかります。金剛界大日如来は印相が智拳印です。喩えれば忍者が精神統一するときの手指のしぐさをイメージさせるような印相です。智拳印の大日如来坐像の方が良く見かける仏像のように思います。 顔相がいいですね。 西側からの眺め頭部、肩から腕にかけても背面近くまで深く彫り込まれています。 クローズアップして眺めます。 反時計回りに背後を巡ります。 東側からの眺め 大日如来は、密教世界ではその体系の中で中心をなし、最高位の絶対的尊格として位置づけられています。摩訶毘盧遮那如来、遍照如来ともいわれます。『華厳経』の教主・毘盧遮那仏、つまり東大寺の大仏と同源の尊名でもある法身仏だそうです。密教の代表的な経典『大日経』『金剛頂経』に詳しく説かれています。手許に数冊ある仏像関連書籍でどの本でも代表的な造像例として紹介されていますのは、奈良・円成寺の運慶作金剛界大日如来坐像です。(資料5,6)序でに、京都国立博物館の平成知新館1階には、京都・安祥寺藏の五智如来坐像が寄託により、常設展示されています。その中心に智拳印の大日如来坐像を見仏することができます。また、京都・東寺(教王護国寺)の講堂を訪れると、諸仏像の立体曼荼羅世界の中心に大日如来坐像を拝観・見仏することができます。「大日如来が、出家者の衲衣(のうえ)姿ではなく宝飾を身につける王者としての姿、菩薩的像容であるのは、密教の現世肯定と菩薩としてなすべき実践の理想を体現しているのです」(資料3)とのこと。石仏見仏から話が広がってしまいました。この辺で終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『浄土三部経 上』 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫2) 『新・佛教辞典 増補版』 中村元監修 誠信書房3) 阿弥陀二十五菩薩来迎図 名品紹介 :「京都国立博物館」4) 阿弥陀聖衆来迎図 収蔵品データベース :「奈良国立博物館」5) 『比べてもっとよくわかる仏像』 熊田由美子著 朝日新聞出版 p40-456) 『仏尊の事典』 関根俊一編 学研 p36,37補遺阿弥陀三尊来迎像 博物館ディクショナリー :「京都国立博物館」浄土宗とは? ~ご本尊について :「浄土宗」両界曼荼羅 :ウィキペディア両界曼荼羅図 :「MIHO MUSEUM」円成寺 ホームページ 大日如来坐像 運慶作 国宝 五智如来坐像(京都・安祥寺所蔵)が国宝に指定されます :「京都国立博物館」安祥寺の五智如来像、国宝格上げへ 2019.3.19 :「産経新聞」五智如来 :「金剛山最勝院」東寺 ホームページ 立体曼荼羅 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.08.08
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コロナ禍により、開催時期を遅らせての開催です。「西国三十三所 草創1300年記念」として「聖地をたずねて-西国三十三所の信仰と至宝-」が始まっています。 同じ特別展案内パネルが敷地の南東角、七条通と東大路通がT字路を形づくる東山七条の交差点角に掲げてあります。このPRパネルで印象づけられるとおり、みどころの1つが、やはり「七観音の勢ぞろい!」です。やはり仏像が一番インパクトがあります。 こちらは、博物館の入口傍の南面壁に掲げてある特別展案内パネルです。このパネルに向かって右側にチケット販売所、左側が入口です。入口ではコロナ禍の影響で、検温作業が手続化されていました。ここでは手首の個所で検温されました。この方式は初体験です。 いつも通り、建物と庭を眺めながら、北側の南面する平成知新館に向かいます。 平成知新館の少し手前、庭の定位置に設置されている展覧会のパネルです。 こちらはこの特別展を鑑賞後に購入した図録の表紙です。上掲の平成知新館手前の案内パネルの仏像の配置を縦長にぎゅっと寄せた感じの配置になっています。 左は今回の特別展チケットの半券、右は今ならいろんな個所で入手可能なPRチラシの表紙です。チケット半券とPRチラシはほぼ同じ仏像の配置です。平成知新館手前の案内パネルとは1仏像が異なります。気づかれましたか。 これは、入口手前のPRパネルから切り出したものです。 冒頭に掲げた七条通の歩道沿いに掲示されたPRパネルとも見比べてください。上掲のそれぞれは、仏像の配置のしかたが少しずつ違います。その違いで全体の仏像群の醸し出す雰囲気が微妙に異なっていて、おもしろいです。 それでは、平成知新館に入りましょう。「西国三十三所は、閻魔大王のお告げを受けた大和国長谷寺の開基・徳道上人が人々を救うために定めたと伝わる33の観音霊場を巡る、日本最古の巡礼路です。」(PRチラシより)京都に3分の1の霊場が集中し、和歌山、大阪、兵庫、奈良、滋賀、岐阜に霊場が広がり、順路の総距離は約1000kmに及ぶと言います。たとえば「第6章 巡礼の足あと」に、「西国巡礼独案内図」(紀三井寺蔵)という絵地図が展示されていました。この特別展は7章構成になっています。まずその構成を概略ご紹介します。第1章 説かれる観音 飛鳥時代、奈良時代の小さな観音菩薩像が兵庫・一乗寺、和歌山・青岸渡寺、奈良・壺坂寺などから出展されています。上掲仏像群に取り上げられているものとして、奈良・岡寺の「菩薩半跏像」(奈良時代・8世紀)がここに展示されています。「説かれる」という観点から各種経典が展示されています。その中で前期(~8/16)として、国宝「千手千眼陀羅尼経 残巻(玄昉願経)」を見ることができます。第2章 地獄のすがた これは、図録の裏表紙です。陸信忠筆「十王図」(京都・六波羅蜜寺蔵)のうちの「五七日 閻羅王」つまり、死後35日目に地獄(冥府)で閻羅王(閻魔王)が裁きをする審理場面を描いています。かなり細密な描写です。首枷・手枷と足を縛られた亡者・刺股様のものを頸にあてがわれその棒に手首を縛られかつ足を縛られた亡者が閻羅王の前に引き出されてきています。下辺には刃葉の林地獄が描かれています。前期は、十王図10幅のうち、6幅が展示され、後期に残り4幅に展示替えになる予定です。 これは、会場で入手した京博の英文ニュースレターVol.146の表紙です。中央上部には、国宝「六道絵」(滋賀・聖来迎寺蔵)のうち「閻魔王庁図」です。これは後期に展示替えで出品予定のもの。残念ながら、4日(火)には見られませんでした。前期は同「六道絵」のうち、「人道無常相」「人道苦相」の2幅が展示されています。源信著『往生要集』の第一「厭離穢土」に記述される六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の様相を15幅に具象化した作品のうち、2幅ずつが前期・後期それぞれに展示されるそうです。人々は、いずれ地獄に堕ちる己自身を想像し、地獄からの救済を観音様にお願いしたのです。地獄を可視化されることにより、一層人々は観音様にすがるという思いを強めたのでしょうね。ふと思ったのは、地獄からの救済を地蔵菩薩に求めるという地蔵信仰と観音信仰との関係性です。地獄からの救済は観音信仰から地蔵信仰に比重が移って行ったのでしょうか。あるいは、地獄思想に対しては、パラレルな信仰として共存するのでしょうか。今まで地獄と地蔵を結びつけて考えていただけですので、課題が残りました。第3章 聖地のはじまり PRチラシからの引用です。チラシに載る「徳道上人像」(奈良・法起院)を始め、花山法皇、性空上人、法道上人各像の掛幅が展示されています。「観音霊場開祖図」(和歌山・青岸渡寺蔵)は江戸~明治時代に制作されたようですが、少し華やかさを感じる開祖図です。花山法皇、徳道・仏眼・性空の3上人、辨光僧正の5人の像が縦長の掛幅に描かれています。ここには、大日如来をはじめ諸如来・菩薩の画像と両界曼荼羅図が展示されています。数多くの霊場縁起絵巻が展示されていて、前期・後期で霊場あるいは巻の入れ替えもあるようです。前期では粉河寺(国宝・前期だけ)・龍蓋寺・長谷寺・石山寺・清水寺・善峰寺・総持寺の縁起を一堂に鑑賞することができます。こういう機会は滅多にないことでしょう。上掲の京博英文ニュースレター表紙の下辺とこの第三章の画像の左上は同じ絵で、「粉河寺縁起絵巻」の部分図です。私が一番興味深く思ったのは、上掲画像に載っている「那智山経塚出土仏教遺品」13件の展示です。密教の金剛界曼荼羅の中心、成身会の構成を立体で具現化したという珍しいものです。出土品でありながら全部揃っているというのは希有なことだなと思います。第4章 聖地へのいざない 第4章もPRチラシから引用します。まず、「三十三所観音曼荼羅図」が前期は3点展示されていて、一つは、この画像左上に載っている曼荼羅図で滋賀・観音正寺蔵です。他に滋賀・石山寺蔵のものと、刺繍で曼荼羅図にした岐阜・華厳寺のものが展示されています。もう一つ、展示数の多いものが、「参詣曼荼羅図」です。霊場への参詣道や伽藍配置を絵図にまとめたものです。那智・粉河寺・施福寺・園城寺・清水寺・中山寺・成相寺・松尾寺・長命寺の各参詣曼荼羅図が現在(前期)展示されています。前期・後期で大半が別の寺のものと展示替えされる予定になっています。上掲の画像は施福寺のものですが、後期に展示される予定のものが載っているようです。第5章 祈りと信仰のかたちこのセクションに7観音が勢揃い!です。彫刻像と図像の両方が展示されています。会場で入手した出品一覧表から前期の展示品をカウントしてご紹介します。仏像単体としての展示品は次の通りです。聖観音像(1躯、1幅)、十一面観音像(4躯、3幅)、千手観音像(3躯、2幅)、如意輪観音像(5躯、2幅)、馬頭観音像(1躯)、不空羂索観音像(1躯)。准胝観音像は単体としては展示されていませんが、「七観音像厨子」(滋賀・長命寺蔵)の中に小像の一つとして展示されています。ちょっと変わった展示として、以下のものも展示されています。「線刻如意輪観音像等鏡像」(京都・醍醐寺蔵)、「如意輪観音像懸仏」(京都・六角堂)、「伝観音菩薩・勢至菩薩立像」(京都・清水寺)、「春日曼荼羅図」(奈良・興福寺)、「清瀧本地両尊像」(京都・醍醐寺)、「春日南円堂曼荼羅図」(奈良・長谷寺)。そこで、冒頭の七条通の歩道沿いに設置された案内パネルに戻りましょう。七観音の図像紹介です。 右は奈良・岡寺(龍蓋寺)の「菩薩半跏像」。寺伝では如意輪観音とされている総高36.8cmの小像です。岡寺の本尊、巨大な塑像の如意輪観音像の胎内から発見されたと伝わる像だとか。このポーズ、一般的には弥勒菩薩として知られていますね。左は「不空羂索観音坐像」(京都国立博物館蔵)。この観音像で最も代表的な仏像はやはり、奈良・東大寺法華堂の不空羂索観音立像でしょう。ともに一面三目八臂像です。 右は「十一面観音立像」(京都・醍醐寺)です。鎌倉時代前半13世紀に慶派仏師によって制作されたと考えられています。像高76.8cm。左は「如意輪観音坐像」(兵庫・圓教寺蔵)です。本体から岩座まで含めてサクラの一材から彫出されていて、像高18.9cm、総高30cmあまりだそうです。素地像に切金が後補されているのです。この切金の文様が素敵です。鎌倉時代、延応元年(1239)の作。第27番札所の圓教寺は、上記の性空上人が966年に草庵を結んだことにはじまるというお寺です。 右は「如意輪観音座像」(京都・頂法寺[六角堂])です。頂法寺の本堂である六角堂の内陣には宮殿が築かれています。その中にさらに厨子が置かれ、本尊が安置されていて秘仏として扱われています。その秘仏は5.5cmの小像と伝えられているそうですが、そのお前立ちがこの像だとか。像高23.5cm。近世に制作された仏像です。なお、この特別展にはもう一躯、六角堂のお前立ちである「如意輪観音坐像(鞘仏)」(像高20.8cm)も出展されています。左は「聖観音菩薩立像」(滋賀・宝厳寺蔵)です。左手に蓮花のつぼみを持ち、右手をつぼみに添える形です。ヒノキを材とし、割矧の方法で制作された像。平安時代12世紀の作ですが、弁天堂の後に割れた状態であったものを修理した仏像だとか。像高67.5cm。第30番札所の宝厳寺は、琵琶湖中にうかぶ竹生島に位置するお寺とご紹介する方がわかりやすいでしょうね。 右は一見でわかりますね。「千手観音立像」(和歌山・粉河寺蔵)です。図録の解説によれば、「裏観音」とも「北面観音」とも呼ばれているそうです。というのは、粉河寺の本尊は絶対の秘仏であり「本像は享保5年(1720)に再建された本堂背面の後戸に築かれた仏龕に、本尊を守るかのように北向きに立つ千手観音である」(図録より)そうです。左は「馬頭観音坐像」(京都・松尾寺)です。これは秘仏馬頭観音のお前立ちとしてまつられている像だそうです。江戸時代初期・17世紀の作。像高95.8cm。第29番札所の松尾寺は、8世紀初頭に中国からの渡来僧・威光上人がこの地に草庵を結び、馬頭観音をまつったことにはじまるといいます。三十三所で馬頭観音をまつるのは松尾寺だけです。「七観音が勢揃い」と述べていますが、一般的には「六観音」と称されています。天台系では、聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音、不空羂索観音を六観音と呼ぶそうです。それに対して、真言系では不空羂索観音の代わりに准胝観音を加えて六観音と呼ぶという違いがあります。七観音とはこの違いのあるところを両方とも合わせた数になります。第6章 巡礼の足あとこのセクションでは、上記の「西国巡礼独案内図」(和歌山・紀三井寺蔵)や「西国三十三所観音霊場記」(兵庫・圓教寺)、「観音霊場記」(滋賀・石山寺蔵)という巡礼者のためのガイド資料や納経帳、巡礼札などが展示されています。第7章 受け継がれる至宝三十三所霊場に所蔵される様々な至宝からの展示品が見られます。塼、図像、仏像、経典などです。私が興味深いと思ったのは、「天人文塼」(奈良・岡寺蔵)、「鳳凰文塼」(奈良・壺阪寺)、「銅板法華説相図」(奈良・長谷寺)、「紅玻璃阿弥陀像図」(京都・成相寺蔵)、「刀八毘沙門天像」(京都・今熊野観音寺蔵)、「西国三十三所観音集会図」(兵庫・中山寺蔵)などです。これで鑑賞のご紹介を終わります。 平成知新館を出て、久しぶりに南西方向に京都タワーを眺めました。 今年の秋は、この特別展が予定されています。予定通り開催されることを願いたいところです。コロナ禍がどうなることか・・・・・。 恒例にしているロダン作の「考える人」を写真に撮りました。この後、噴水のあるこちらの庭を少し散策してから、博物館を出ました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料特別展「聖地をたずねて -西国三十三所の信仰と至宝-」のPRチラシ図録『特別展 聖地をたずねて-西国三十三所の信仰と至宝-』 京都国立博物館 2020KYOTO NATIONAL MUSEUM Vol.146 NEWSLETTER JULY TO SEPTEMBER, 2020補遺西国三十三所巡礼の旅 ホームページ西国三十三所草創1300年 日本遺産 ホームページ准胝観音 :ウィキペディア長楽寺の由来 御本尊准胝観世音菩薩 :「長楽寺」馬頭観音 :ウィキペディア縁起 徳道上人 :「法起院」長谷寺(4)徳道上人 :「モグラのナミダ」2 徳道上人と花山院と :「香川県立図書館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.08.06
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それでは、新潟県の郡部に移ります。新潟県もまた行政区域の統廃合・合併などでかなり郡部が前回の都市域に統合されてしまっているところがありますね。郡名単位で、現存する町村地名での難読地名さがしを始めます。岩船郡 島浦村と関川村だけに。 小見(オウミ)、鮖谷(カジカダニ)、聞出(キケイデ)、蛇喰(ジャバミ)、中束(ナカマルケ) 狩羽郡 狩羽村だけに。 難読は特になし。北蒲原郡 聖籠町だけに。 上大谷内(カミオオヤチ)、三島郡 出雲崎町だけに。 乙茂(オトモ)、久田(クッタ)、中魚沼郡 津南町だけに。 三箇(サンガ)、谷内(ヤチ)西蒲原郡 弥彦村だけに。 難読は特になし。東蒲原郡 阿賀町だけに。 五十沢(イカザワ)、七名乙(ナナメオツ)、古岐(フルマタ)、行地(ユクジ) 南魚沼郡 湯沢町だけに。 難読は特になし。南蒲原郡 田上町だけに。 難読は特になし。郡部域が縮小したせいか、難読地名はわずかになっているようです。また、次の郡名が現在時点で、かなり以前に消滅しています。かつての歴史地名との繋がりが見えなくなってしまいました。 佐渡郡、中頸城郡、東頸城郡これで新潟県での難読地名さがしを終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料新潟の郵便番号 :「郵便局」補遺佐渡郡 :ウィキペディア中頸城郡 :ウィキペディア東頸城郡 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)今までに難読地名さがしをした地域については、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。 観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 奈良県・京都府・滋賀県・大阪府・兵庫県・三重県 福井県・石川県・富山県
2020.08.04
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コロナ禍で遠出もままならない時期です。郵便番号簿を参照し、知的遊戯でひとときを過ごしましょう。奈良県から始めて北陸・富山まで足を延ばしました。越前・越中とくれば、越後です。新潟県の難読地名さがしを始めます。あくまで私的レベル、私の語彙力を基準としたものです。そんなもの難読でもなんでもない・・・・ってものも多いかも。まあ。それはさておき都市部から始めます。新潟市 県庁所在地の新潟市は8区の行政区から構成されていますね。 秋葉区 「アキハ」と読み、濁らないようです。東区の秋葉は「アキバ」です。 浦興野(ウラゴヤ)、蒲ヶ沢(ガワガサク)、 草水町(クソウズチョウ)、子成場(コナシバ) 田家(タイ)、 北区 神谷内(カミヤチ)、樋ノ入(ドノイリ) 江南区 祖父興野(オジゴヤ)、駒込(コマゴミ) 中央区 鐙(アブミ)、魁町(サキガケチョウ)、鳥屋野(トヤノ)、沼垂西(ヌッタリニシ) 艀川岸町(ハシケカワギシチョウ)、秣川岸通(マグサカワギシドオリ) 西蒲区 赤鏥(アカサビ)、石瀬(イシゼ)、三方(サンボウ)、鱸(スズキ)、稲島(トウジマ) 仁箇(ニカ)、西汰上(ニシヨリアゲ)、伏部(フスベ) 西区 五十嵐(イカラシ)、小瀬(コゼ)、鳥原(トッパラ)、谷内(ヤチ) 東区 逢谷内(オウヤチ)、河渡庚(コウドカノエ)、児池(チゴイケ)、一日市(ヒトイチ) 南区 朝捲(アサマクリ)、獺ヶ通(ウスガドオリ)、木滑(キナメリ)、蜘手興野(クモデゴウヤ) 櫛笥(クシゲ)、小蔵子(コゾウス)、庄瀬(ショウゼ)、阿賀野市 貝喰(カイバミ)、草水(クソウズ)、小浮(コフケ)、下里(サガリ)、千唐仁(セントウジ) 法柳(ホウヤギ)、蒔田(マイタ)、糸魚川市(イトイガワシ) 上路(アゲロ)、大谷内(オオヤチ)、来海沢(クルミザワ)、田伏(タブセ)、谷根(タンネ) 頭山(ツムリヤマ)、田海(トウミ)、能生(ノウ)、柵口(マセグチ)、魚沼市 小平尾(コビロオ)、小庭名(コテンミョウ)、一日市(ヒトイチ)、葎沢(ムラザワ)小千谷市(オヂヤシ) 三仏生(サンブショウ)、真人町(マットチョウ)、谷内(ヤチ)柏崎市 上輪(アゲワ)、女谷(オナダニ)、久米(クンメ)、谷根(タンネ)、西山町鬼王(ニシヤマチョウオニオ) 西山町浜忠(ニシヤマチョウハマツダ)、南下(ノウゲ)、与三(ヨソウ)、蕨野(ワラビノ)加茂市 後須田(ウラスダ)、狭口(セバグチ)五泉市 赤海(アコウミ)、小搦(コガラミ)、土深(ドブケ)、馬下(マオロシ)、本田屋(モトダイ) 佐渡市 相川四十物町(アイカワアイモノマチ)、石扣町(イシハタキマチ)、下戸炭屋裏町(オリトスミヤウラマチ) 石花(イシゲ)、江積(エッツミ)、小木強清水(オギコワシミズ)、上新穂(カミニイボ) 上矢馳(カミヤバセ)、北五十里(キタイカリ)、北狄(キタエビス)、畉田(フタ)、莚場(ムシロバ) 三条市 東鱈田(ヒガシタラダ)、前谷内(マエヤチ)、南五百川(ミナミイモカワ)、葎谷(モグラダニ) 新発田市(シバタシ) 五十公野(イジミノ)、弓越(ミコシ)、溝足(ミズオシ)上越市 板倉区菰立(イタクラクコモダテ)、達野(タテノ)、頸城区姥谷内(クビキクバヤチ) 三和区法花寺(サンワクホッケイジ)、牧区上昆子(マキクカミビリゴ)、下湯谷(シモユウヤ) 吉川区入河沢(ヨシカワクイリコウゾウ)、代石(タイシ)、山直海(ヤマノウミ)胎内市 乙(キノト)、仁谷野(ニイダノ)、燕市 庚塚(カネヅカ)、国上(クガミ)、下粟生津(シモアオウヅ)、西槇(ニシマギ)十日町市 莇平(アザミタイラ)、当間(アテマ)、苧島(オノシマ)、海老(カイロウ)、蒲生(カモウ) 北鐙坂(キタアブミザカ)、名平(ナビロウ)、朴木沢(ホキザワ)、程島(ホトジマ) 松之山上鰕池(マツノヤマカミエビイケ)、南鐙坂(ミナミアブザカ)、谷内丑(ヤチウシ)、蓬平(ヨモギダイラ)長岡市 小貫(コツナギ)、逆谷(サカシダニ)、沢下条(サワゲイジョウ)、李崎町(スモンザキマチ) 寺泊硲田(テラドマリハザマダ)、品之木(ボンノキ)、山古志種苧原(ヤマコシタネスハラ) 与板町蔦都(ヨイタマチツタイチ)、山葵谷(ワサビダニ)、見附市 鳥屋脇町(トヤワキマチ)、傍所町(ホウショマチ)南魚沼市 上出浦(カミイズナ)、上一日市(カミヒトイチ)、四十日(シトカ)妙高市 桶海(オケミ)、上百々(カミドウドウ)、毛祝坂(ケワイザカ)、葎生(モグロウ)村上市 大欠(オオガキ)、岩石(ガンジキ)、薦川(コモガワ)、山辺里(サベリ)、葛籠山(ツヅラヤマ)今回、私にとっての難読地名をチェックしていき、郡部と市の統廃合が行われていることを知りました。*新井市は、2005.4.1から合併により妙高市に改称。*栃尾市は廃され、2006.1.1から合併により長岡市に。*両津市は、2004.3.1から合併により佐渡市に改称。参照新潟の郵便番号 :「郵便局」補遺新潟市合併の歩み :「新潟市」妙高市 :ウィキペディア長岡市 :ウィキペディア栃尾市 :ウィキペディア佐渡市 :ウィキペディア両津市 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)今までに難読地名さがしをした地域は、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧
2020.07.28
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阿弥陀堂門:境内の南西側からの全景 阿弥陀堂門を入り、南西側寄りから見た「阿弥陀堂」(国宝)です。 北西方向に「経堂」が見えます。 南西方向には「御影堂」(国宝)が位置します。御影堂の北東方向、つまり手前にあるのが「手水舍」です。 阿弥陀堂門再再見の続きに、この「手水舍」を初めて細見してみました。時間の関係で、御影堂門よりはるかに短時間で細見できると思ったことによります。予備知識なくまずは観察してきたわけですが、後で調べてみますと、この手水舎もまた重要文化財に指定されています。2010(平成22)に修復されているそうです。(資料1)東側に隣接する建物は「お茶所」です。 手水舎の四面は開放された状態で、地面には花崗岩が四半敷に敷かれています。 西側から中央部を見ると、石製の大きな水盤とその向こうに井戸が据えられています。 井戸の水は、この龍像の口から水盤に注がれています。 それでは、手水舎の建屋を眺めていきましょう。屋根は入母屋造瓦葺きです。 屋根の棟の両端、降棟及び稚児棟の先端は獅子口が使われています。軒丸瓦の正面には円形連珠文の中に三つ巴紋がレリーフされている一般的なスタイルです。獅子口の正面も同じ文様です。棟の両端は文様が異なります。 破風の合掌部には、築地塀と同様に下り藤紋の寺紋がレリーフされ、破風板に錺金具が付けられています。外形は左右対称で、レリーフされた文様もほぼ左右対称です。合掌部に一般的な蕪懸魚が使われています。 部分図で仔細に見ますと、唐草文の葉の形状が微妙に非対称の個所があるようです。手作業による所以でしょうか。誤差範囲のうちという感じです。 入母屋屋根の破風のうしろは、狐格子です。木連(きつれ)格子とも言うようです。「入母屋屋根で破風のうしろに、裏に板をはり、縦横に組み立てた格子」(資料2)です。前包と称される水平材を下にして、須覆(すおおい)の横材があり、縦子(たてこ)が垂直に並んで横材とで格子ができています。この形は桃山以降の新式だと言います。鎌倉以降の古式には須覆がなかったそうです。(資料2)その下の平瓦はそれぞれのつなぎ目の漆喰が山状に盛り上げてあります。海鼠壁と同じやり方のようです。整然とした白い盛り上がりの列が、一つのアクセントになっています。 尾棰の先端部は保護金具で覆われています。そこに寺紋(下り藤紋)が取り付けてあります。屋根の下部を眺めましょう。 木鼻はシンプルな造形です。正面の端面が漆喰で塗り込められています。 内法虹梁には深い彫り込みがあり、両端の文様はシンプルです。手水舍には鏡天井が張ってあります。手水舎に天井を張っていないのがふつうのスタイルだと思います。 その上に、蟇股が屋根の桁を受けています。蟇股の内側には五七桐紋がレリーフされています。蟇股に併せて、柱頂部の舟肘木が屋根の桁を支えています。舟肘木は「柱の上に大斗を用いず、直接肘木をのせて桁をうける」(資料2)という形です。上掲の水盤の写真でその様子がおわかりいただけます。 四周の蟇股を見て回りますと、この五七桐紋が欠損となっているものがありました。 屋根は東西方向に3柱、南北方向に2柱、つまり6柱で支えられています。二重の方形礎盤の上に、几帳面取角柱が立てられていて、柱の下端部は四面は装飾金具で保護されています。これは、北西隅の柱です。装飾金具を細見してみます。(資料1) 北面 西面 南面 東面北面は正面から見た獅子のようです。あとの三面は躍動する獅子の姿がレリーフされています。 こちらは南西隅の柱です。四周の柱は勿論同じ形式です。 北面 西面 南面 東面 南側の中央の柱は、柱の下部の一部に繋ぎの修復が施されています。長年の風雨で朽ちた部分の一部修復なのでしょう。右はこの面ですので西面です。 南面 東面 北面この北面は、北西隅の柱の北面とほぼ同形ですが、細部を見ると微妙に異なります。 南東隅の柱です。西側から撮りましたので、礎盤正面と花崗岩の四半敷の様子がわかりやすいので、最後にご紹介して起きます。あと3本の柱の獅子群は省略します。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 境内と建造物 :「お西さん」2) 『図説歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p173-174,p176補遺歴史資料館 :「石野瓦工業株式会社」技術だより 四半敷 ~語源と技術~ :「水澤工務店」錺金具類 :「宮忠」錺金具・仏具製造 竹内 ホームページ 動画が載っています。細工作業のプロセスがよくわかります。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -8 再び西本願寺に (1) 阿弥陀堂門を眺めて へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2020.07.17
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今朝、我が家の庭の近くで、いっとき蝉の鳴き声が響きました。規模の小さい蝉時雨という感じです。道路に面した庭の東西の両端に金木犀の木があります。冒頭の写真は南東隅の金木犀の葉に見つけた近々の空蝉です。 これらはこの金木犀の側で見つけた空蝉たちです。南東隅の金木犀を眺めていて、 幹に止まる蝉を1匹発見しました! 南西隅の金木犀の幹にも、もう一匹、蝉を見つけました。なぜか、こちらの木には空蝉を見つけることができません。南東隅で見かけた空蝉から、こちらの木の幹に飛んできたのでしょうか・・・・。オーシャンブルーが咲き始めたことは、先日ご紹介しました。 今朝のアサガオです。この他にもいくつか咲いています。 花を間近で見ますと、こんなところまで蟻が上ってきています。 人間の感覚にすれば、すごく高いところまで上ってきているはずです。 蟻はどの高さまで上っていけるのでしょう・・・・・。 ここしばらく、オーシャンブルーのカーテンがリビングルームへの日差しを和らげてくれ、花の色と緑の葉が目を楽しませてくれることでしょう。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」という詩句をふと思い出しました。というか、このフレーズだけが記憶にあります。大昔、学校時代に覚えたのだと思います。ネットは便利! オリジナルの詩を知りたくなりました。調べて見ると、「唐代の詩人、劉希夷(651~680?)の『白頭を悲しむ翁に代わりて』と題する詩の第4節です。」とのこと。 古人復た洛城の東に無く 今人還た対す落花の風 年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず 言を寄す全盛の紅顔の子 応に憐れむべし 半死の白頭翁この個所の詩句が禅語に取り入れられているそうです。「自然の悠久さと人間の生命のはかなさを対峙させて人生の無常を詠歎した句です。」(資料1)元の詩は、「洛東城東桃李の花」という七言から始まる26行の詩です。(資料2)上掲の引用詩句にすぐ続く部分をご紹介しておきましょう。 此の翁の白頭真に憐むべし これ昔紅顔の美少年 ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 禅語 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 :「臨黄ネット」2) 劉希夷 :ウィキペディア補遺劉希夷 :「コトバンク」漢詩 代悲白頭翁 :「佐高八期会ホームページ」白頭吟 :「詩詞世界 抒情詩選」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.07.15
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これは堀川通に面した西本願寺阿弥陀堂門の南側の扉です。正面に立つと左側の扉です。諸物細見というテーマで特定の対象物の細部を観察するご紹介の最初にこの阿弥陀堂門を取り上げています。こちらからそのご紹介記事をご覧下さい。実は先日風俗博物館の2020年企画展示を鑑賞した後、この阿弥陀堂門を再び細見してきたのです。2020年の企画展示のご紹介は先日行いました。そこで、最初に阿弥陀堂門をご紹介したときとは少し視点を変えて、パート2として、できるだけ重複しない形で再び細見した感想をご紹介します。双方を合わせてご覧いただけるとうれしいです。阿弥陀堂門をふたたび細見して再認識したのは、この門が、1)まず菊文様尽くしで荘厳され、飾られていること。2)門の構造と門を構成する区画は左右対称で整然としていること。3)そのフレームワークの中に彫り込まれた文様に対称性はみられず、様々な一連の意匠が一体のものとなっていること。こんな印象を強く抱きました。冒頭のこの扉は桟唐戸の形式で、下部は入子板ですが、上部の狭間には透かし彫りで菊の開花する姿が様々に一つの図柄として彫刻され、表裏両面から眺めることができます。扉は中央の桟で左右が対称の整然とした枠組の構造です。錺(かざり)金具もその外形は整然と左右対称になっています。しかし、狭間に彫り込まれた菊の開花文様は左右の狭間で非対称です。左右の狭間を合わせた全体で一つの構図ができています。南側の扉の狭間をご覧いただくと、こちらも図柄は全くことなります。扉を閉めたとき、4つの狭間を横並びにした全体で、たぶん一つの意匠となっているのでしょう。 中央の桟に取り付けられたこの十文字様の錺金具に着目します。 十文字の中心には、線刻の16弁の菊文 横方向の外形の対称性に対して、左右の菊文様は異なります。 縦方向の外形の対称性に対して、上下の菊文様は異なります。 阿弥陀堂門は四脚門で、門扉の前後に控柱があります。正面の控柱の左右は構造が対象的でがっちりと頑丈そうです。本柱と控え柱の間の透かし彫りの意匠は既にご紹介しています。左右で図柄が異なります。左が南側、右が北側の控柱です。 貫の先端部分を覆う錺金具の内側側面を眺めて見ましょう。 それぞれの先端部に近い側に線刻された菊の文様です。飾り金具の外観形状は同じです。しかし、図柄は異なります。西本願寺境内に参拝に向かう多くの人々にとっては、阿弥陀堂に近いこの門は境内への通過地点であり、錺金具の外観が目に止まっても、それ以上はたぶんあまり意識せずにスルーされていくことでしょう。 南側の錺金具の全体の図柄を眺めるとこんな文様が全体に線刻されています。 向かって右側(北側)の錺金具を正面から撮ってみました。これも左側(南側)の文様と比較してみますと、一見左右対称の文様にみえますが、左と右では細部が微妙に異なる文様が線刻されています。 正面の六葉金具の先端面には、その下の四角い部分と同様に、西本願寺の寺紋が線刻されています。九条下り藤です。 こちらは南側の錺金具、内側側面の六葉金具を撮ったものです。 下部の宗紋がレリーフされている錺金具について、左右の控柱の内側側面をクローズアップして撮ってみました。伸びやかな菊文様が異なる文様で線刻されています。 棰(たるき)の先端がすべて錺金具で覆われています。 木鼻はごくシンプルな形で太い線刻で表現されています。 頭貫の上部の欄間も菊文様が透かし彫りされています。頭貫側面の飾り金具も勿論菊文様の線刻が施されています。 両扉の本柱上部の角部分もまた、錺金具で覆われています。左右の文様が異なります。 本柱は円柱ですが、本柱より内側に門扉の幣軸があります。これは角柱です。そして、その四隅の角の保護を兼ねた錺金具が取り付けてあります。 透かし彫り唐草模様の上下には、四弁花の図案化された二種類の線刻文様が装飾されています。 門扉の側で上を見上げると、鳥害除けの網金具で見づらいですが、錺金具が整然と並んでいます。木組みの側面に塗られた漆喰の白色とのコントラストがいいですね。 控柱は太い角柱が方形の礎盤の上に据えられていて、裾部は装飾金具で覆われています。 北面 西面 南面 東面四面に龍のダイナミックな様々な姿が浮彫りにされています。この控柱は、阿弥陀堂門の境内側で北側、つまり北西側の控柱です。諸物細見の最初に紹介したのは、正面左側、つまり南東側の控柱の龍像群です。門の修復工事で復元取り替えでも行われたのでしょうか。制作年代が違うように思えます。この北西側の飾り金具は相対的に新しそうです。これで少しは細見の補足ができたのかなと思います。 ふと、門の正面から北方向の築地塀を見上げてみて、築地塀の屋根の妻部分が目に止まりました。 鬼瓦 門の錺金具を細見した後なので、切妻屋根の破風の錺金具にも関心が向きました。切妻破風の合掌部、拝(おがみ)の個所に寺紋がレリーフされ、左右の金具図案は唐草模様のようです。こちらは左右対称の意匠です。拝の下にたれさげた懸魚は蕪懸魚様の変形バージョンに見えます。 破風の中程に取り付けられた錺金具も寺紋を中央にして左右対称です。かつ、破風の左右の関係も対称になっています。 破風の末端もきっちりと錺金具で保護されています。唐草の文様がここにも使われています。 逆に、南側の築地塀の北端を見ると、勿論切妻破風の装飾形式は同一です。それぞれが照応しています。 南側の築地塀屋根の鬼瓦 西本願寺のホームページを見ると、阿弥陀堂門(重文)について、次のとおり説明されていますので引用します。「昭和期の阿弥陀堂修復事業を機縁とし、1983(昭和58)年、檜皮(ひわだ)の一部葺替、飾金具の修正、金箔押などの補修が行われ、創建当初の美しい姿が再現されました。また、2009(平成21)年に御影堂門・築地塀修理の際にあわせて修復工事が行われました。」改めて、全体を眺めてから、この時はもう一個所、細見しました。つづく補遺お西さん(西本願寺) ホームページ浄土真宗本願寺派(西本願寺) ホームページ唐草図鑑 ホームページ本願寺 :「見聞諸家紋」本願寺の紋は下がり藤? :「天真寺通信」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -8 再び西本願寺に (2) 手水舍 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2020.07.14
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入場券の半券8日、三条に出かけた時、併せて、久しぶりに京都文化博物館を訪れてきました。平日で、正午を挟む時間帯だったせいか、来観者はちらほらという状況で、すごく静かに鑑賞することができました。目的は、「京都の夏を彩る祭礼」である「祇園祭」の特別企画展を鑑賞するためです。元々は、「京都祇園祭 -町衆の情熱・山鉾の風流-」という京都文化力プロジェクト関連事業として、今年の3月24日~5月17日の期間で特別展が企画されていました。それがコロナ禍で開催中止となったのです。一方、疫病退散を夏の風物詩・祇園祭もまたやむなく中止されました。そのお陰なのかもしれませんが、開催中止となった特別展で展示予定だったものが、この特別企画展にシフトされています。本来なら祇園祭の時期ですが、祇園祭が中止となったことにより、展示品をシフトできるとともに、展示品の追加と組み替えなどが行われ、この特別企画展が実現したようです。7月26日までの開催です。以下のセクション区分で展示が行われています。ご紹介します。<1.祇園祭の山鉾>霰天神山と白楽天山の前懸「イーリアス」トロイア戦争物語を題材にしたものを一緒に見られます。保昌山所蔵の円山応挙筆屏風3点と前懸・胴懸それぞれ2点が展示されています。会場全体に共通するのは、展示品をまさに目の前、1mの距離から鑑賞できることです。宵山に出かけ、山鉾の会所で懸装品の展示を目にしても大凡数mから十数m離れた距離から拝見できるのが精一杯です。その経験からすれば、今回の展示は見逃せません。<2.祇園祭の記録>放下鉾・菊水鉾・大船鉾の江戸時代の絵図が展示され、様々な古文書の記録が展示されています。この展示で、『祇園御霊会細記』『諸国年中行事大成』『船鉾由緒記』などがあるのを知りました。また、「祇園会占出山神具入日記」や白楽天山の「祇園会祭行事次第」「山錺道具帳」などです。洛中で大きな火事が幾度もあったとはいえ、各山鉾の保存会には様々な古文書が営々と保管されていることをイメージしました。『都名所図会』も展示品の一つになっています。巻二の挿絵「祇園会」のページが開けてあります。 これがその挿絵です。(資料1)<3.山鉾を飾る飾金具>ここでは鉾頭、欄縁金具付あるいは欄縁金具そのもの、角飾金具、見送裾金具および山鉾の模型3基が展示されています。山鉾それぞれの意匠の違いを対比的に間近で眺めることができて興味深いところです。<4-1.山鉾の懸装品>前懸・胴懸・後懸・見送・水引が現在使用のものと旧のものを交えて展示されています。全体からみれば、これもまたほんの一部というところですが、ごく間近に見られることは博物館での展示だからこそというところです。御神体佩刀、御神体衣裳、他に衣裳も出展されています。<4-2.山鉾の御神体>船鉾の神功皇后神面、黒主山会所飾(御神体人形を含む)、八幡山の八幡宮祠、白楽天山の白楽天と道林禅師の御神体人形が展示されています。1m圏内で間近に拝見できるのはこんな機会だからでしょう。他にこのセクションに展示されている品々には、「間近に見る」機会のないものがかなりあります。浄妙山の宇治橋、霰天神山の回廊・振鈴、山伏山の祇園守・御神体持物、船鉾の船鉾梶・屋形格天井の金地四季花丸図、月鉾の破風軒裏絵、長刀鉾のけらば板の松村景文筆の絵図・稚児衣裳、太子山の聖徳太子御袖、役行者山の役行者御神号が展示されています。対比的に眺めてみてそれぞれに個性的で興味深いのは「くじ箱・御文筥」です。<5.近代と祇園祭の山鉾>祇園祭の山鉾を構成するパーツは明治以降も鋭意、それまで使用のものを新調品に代替したり、新たに復元新調したりして、祭の永続性が図られています。このセクションでは、けらば板の絵や妻飾りの彫刻、欄縁とその飾り金具、角金具、胴懸、水引など、様々なものを併せて見ることができます。けらば板の絵、妻飾の木彫像、彫刻菊水の鉾頭、鈴木松年画宇治川合戦図屏風などを初めて至近距離で見る機会を得ました。それと、蟷螂山のかまきり(19世紀中期)も。また、各セクションに分散して、西脇友一画「京都祇園祭山鉾絵図」(昭和60年/1985)が展示されています。山鉾一基ずつ、東西南北の各側面図を並べて細密に描いた原画です。これも見応えがあります。一、二欠けるだけでほぼすべての山鉾から何らかの出展が行われています。1m圏内で鑑賞できることを含めて、得がたい特別企画展だと思います。山鉾の構造はこちらをご覧ください。(資料2) 京都博物館を出る前に開催中止となった特別展『京都 祇園祭』の図録を購入しました。その図録表紙です。この図録、おもしろい工夫がされています。 こちらが本来の図録表紙です。 表紙の左上隅の図 祇園祭を眺める人々を切り出した部分図。 裏表紙の右上隅の図放下鉾の妻飾の木彫彩色丹頂鶴が展示されています。その妻飾の図案(下絵)は幸野楳嶺が描きました。その図案(明治23年/1890)です。 図録に半透明のプラスチックシートを二つ折にしたカバーが付けてあります。半透明のつるつるした光を反射する表面に、反射しない裏面が4分の3位折り込まれています。 表紙と背表紙 裏表紙 カバー背表紙反射しない裏面に、江戸時代後期の「祇園祭絵巻」(國學院大学博物館蔵)に描かれた「浄妙山」が使われています。 この祇園祭の後祭に巡行する山鉾が描かれた絵巻一巻の拡大パネルが記憶では会場に展示されていました。「橋弁慶山」を先頭に「大船鉾」までの10基の様子です。先頭から5番目に浄妙山が見えます。 表紙のカバー中央に描かれているのは、冷泉為恭筆「祇園祭祭礼絵巻」(嘉永元年/1848、國學院大学博物館蔵)の「長刀鉾」です。 表紙のカバーに描かれている祭礼に参加する人々を印刷した裏面側と撮ってみました。 これが反転して見えるのが、上掲の「表紙と背表紙」の画像です。 表紙カバーの裏は、折り込まれていますので、印刷面がそのまま見えています。これは海北友雪筆「祇園祭礼図屏風」(八幡山所蔵)の部分図です。4階から3階に続く展示の特別企画展を見た後、2階の総合展示を鑑賞しました。常設展スペースとは別に、次の企画展示が行われています。 PR用チラシ こんなリーフレットを会場で入手できます。 9月13日まで展示予定別の企画展示「皆川月華・泰蔵」のリーフレトです。11点の作品が展示されています。上掲「祇園祭」では、菊水鉾の胴懸、皆川月華作「麒麟図」を見ることができます。 こちらは8月16日までの期間です。もう一つ「明智光秀と戦国京都」の企画展示が併設されています。「戦国乱世にあって常に政局の中心地であった当時の京都の様相を、数少ない明智光秀発給文書をはじめとする歴史的資料によってご紹介します」(リーフレットより)という展覧会です。三章構成の展示中、第三章に明智光秀書状が展示されています。上掲はリーフレットの表紙です。15ページの資料。受付にて希望するといただけました。これでご紹介を終わります。是非ご一見ください。見応えがあると思います。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 都名所図会/ 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 :「古典籍総合データベース」2) 山鉾の構造 祇園祭 :「KYOTO design」補遺今回の展覧会の展示品に関係する画家たち円山応挙 :ウィキペディア応挙のお話 :「大乗寺円山派デジタルミュージアム」岡本豊彦 :ウィキペディア菱川清春 :ウィキペディア今尾景年 :ウィキペディア山鹿清華 :ウィキペディア竹内栖鳳 :ウィキペディア鈴木松年 :ウィキペディア松村景文 :ウィキペディア幸野楳嶺 :ウィキペディア羽田登喜男 :「羽田工房」小林尚珉 :「東京文化財研究所」森口華弘 :ウィキペディア皆川月華 :ウィキペディア皆川泰蔵 :「京都市立芸術大学」祇園祭 —山鉾巡行の歴史と文化— :「京都文化博物館」 西脇友一氏の画業紹介があります。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.07.09
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オーシャンブルーの青色が撮れなかったので、今朝といっても10:45頃ですがデジカメのオートで撮りました。目で見る色より少し淡い色調になっている気がします。 何虫?ネット情報を調べて参照してみました。オーシャンブルーは「琉球朝顔」と記されています。沖縄県原産のアサガオの仲間なのですね。やはり、緑のカーテンには最適と。ヒルガオ科イポメア(/サツマイモ)属のつる性植物で多年草。野朝顔、宿根朝顔、西表朝顔とも呼ばれるそうです。一日の時刻の変化とともに、色が変わっていくのが特徴なのですね。(資料1,2)オーシャンブルーには、「愛情の絆」という花言葉が付けられていて、「はかない恋」「明日も爽やかに」という意味も併記されています。(資料1) 手許の国語辞書は「朝顔」を「ヒルガオ科のつる性一年草、園芸植物の一つ。茎のつるは左まき。ラッパ状の花が開き、色は白・紫・あい・茶・紅など種類が多い。開花は7~8月が最盛。熱帯アジア原産」(『日本語大辞典』講談社)と説明しています。 ふと、アサガオの葉を見ると、コガネムシが腹を上に向けて、葉のエッジに危なっかしい感じですがしっかりととまっています。 なぜ、こんなとまりかたをするのでしょう・・・・ふしぎ。脇道に逸れます。その1.『万葉集』に「あさがほ(朝貌)」が詠まれています。山上憶良は「秋の野に咲く花」として、 萩の花尾花葛花瞿麦(なでしこ)の花女郎花また藤袴朝貌の花 巻8、1538と詠みました。また、 展転(こいまろ)び恋ひは死ぬともいちしろく色には出でじ朝貌の花 巻10、2274このほかにも、3首が載っています。この「あさがほ」は従来、ムクゲ、アサガオ、ヒルガオなどと考えられてきた様です。残念ながらアサガオではなく、キキョウとする説が現在では有力だそうです。(資料3)序でに、話が脱線しますが。キキョウと言えば、洛中・御所の近くにある廬山寺の「源氏の庭」の桔梗の咲く姿がお薦めです。拙ブログでもご紹介しています。 こちらからご覧ください。その2.江戸時代には、朝顔が庶民の娯楽として愛され、大いに楽しまれたそうでう。朝顔を園芸品種として栽培することが下級武士などの内職になっていたと言います。「変化朝顔」は珍重されたそうです。嘉永7年(1854)には、『朝顔三十六花撰』という書も出版されています。アクセスはこちらからご覧ください。 (資料4)その3.江戸時代、「苗売り」という売り歩きの商売がありましたが、アサガオだけは別に、江戸では「朝顔売」がいて売り歩いていたと言います。それほど、朝顔は親しまれていたのでしょう。(資料5)朝顔売は浮世絵の題材にもなっています。補遺をご覧ください。その4.歳時記を読みますと、「朝顔市」という季語が載っています。その説明を引用します。「七月六日、七日、八日の三日間、東京入谷の鬼子母神の縁日に、早朝から朝顔市が立つ。明治時代、近在の植木屋が始めたといい、境内から舗道にかけて朝顔の鉢を商う店が並び夏の風趣をさそう」(資料6)と言います。 買はでもの朝顔市も欠かされず 篠塚しげる 雨止んで朝顔市の夕べあり 藤松遊子 朝顔の模様の法被市の者 高浜年尾ネット検索しますと、「入谷朝顔まつり」は、今年(2020年)はコロナウィルスの感染拡大防止のために、開催中止となっています。京都の祇園祭も中止ですが、やはり残念です・・・・ね。(資料7)その5. 朝顔で思い出すのは、学生時代に記憶した加賀千代女の句です。「朝顔につるべとられてもらひ水」と思っていたのですが、念の為調べてみますと、 朝顔やつるべとられてもらひ水 だそうです。 千代女の直筆に「朝顔や」と記されているものがあることで、本場の金沢では「や」の方を奨励していると言います。「に」から「や」に推敲したのだとか。(資料8) 三ケ月や朝顔の夕べつぼむらむ (虚 栗) 閉関の比(ころ) 蕣(あさがほ)や昼は錠おろす門の垣 (藤の実) 深川閉関の比 蕣(あさがほ)や是も又我が友ならず (けふの昔)これらは松尾芭蕉が詠んだ句です。(資料9)歳時記からのご紹介をいくつか・・・・・。(資料6) 出勤の日々の朝顔汚れなく 清水徹亮 朝顔の昔の色の濃むらさき 寺谷なみ女 朝顔は数をかぞへてみたき花 水島三造 朝顔の大輪にして重なりて 高浜虚子元に戻ります。 今朝、撮った紫陽花紫陽花は、「ユキノシタ科の落葉低木。葉は対生し、広卵形。初夏に四弁花の集まった大形で球状の花序をつけ、淡黄色から青に、また紫ないし赤色に変わる。園芸種。」(『日本語大辞典』講談社)です。花言葉は「辛抱強い愛情」「一家団欒」「家族の結びつき」などとか。七変化、八仙花とも称されます。(資料10) チェリーセージ。シソ科の植物。原産地はメキシコだとか。(資料11)サーモンピンク色です。花が紫色のセージは和名ではヤクヨウサルビアと称され、ヨーロッパ南部原産の多年草だそうです。(資料12)セージも種類が多く、花の色も多様です。この辺りで、庭の花とそこからの連想を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 琉球朝顔(オーシャンブルー)の育て方と花言葉 :「FORTI by Green Snap」2) ノアアガオ :「みんなの園芸」3) 『萬葉植物事典 普及版』 大貫茂著 クレオ p12、p1494) 朝顔に彩られた、江戸の町 :「みんなのバイオ学園」5) 朝顔売 :「コトバンク」6) 『ホトトギス 新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂7) 入谷朝顔まつり ホームページ8)朝顔やつるべ取られてもらひ水 :「同志社女子大学」9) 『芭蕉俳句集』 中村俊定校注 岩波文庫 153,805,80610) アジサイ :ウィキペディア11) チェリーセージ :「デジN君とオリオンの散策」12) 『山渓ポケット図鑑2 夏の花』 山と渓谷社 p70-71補遺江戸の園芸熱 浮世絵に見る庶民の草花愛 朝顔への偏愛 :「ココロのアート 見て歩記&調べ歩記」刈米義雄の「花鳥な彩月」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 宇治・三室戸寺細見 -6 庭園:紫陽花の咲く頃に
2020.07.05
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玄関を出たすぐのところに、月桃が咲き始めています。3日、4日の雨が止んだ一時に庭に咲く花を撮りました。 (2020.7.3) 月桃は沖縄の山野に群生するショウガ科ハナミョウガ属の花です。多年草の芳香植物。(資料1,2) 4日、雨が止んだ夕刻に月桃を再度撮ってみました。 鞘状のカバーが外れると、房状になった蕾が出て来ます。花は白くて先端がピンク色。花が開くと、内側は黄色と赤色のマーブル模様です。これは「花びらではなくて3本の雄しべがくっついて変化したもの」(資料1)だそうです。 月桃は台湾での現地名「ゲータオ」に当て字をしたものだとか。花の蕾が三日月のように、桃のような形にも見えることからこの名がついたと言います。沖縄では「サンニン」と呼ばれています。他に、「サニ」「サニン」「サヌイン」「サネン」「ムチガシャ」「ムチザネン」「マームチハサー」とも呼ばれるようです。(資料1,2) 庭に面するリビングルームの窓の外には、オーシャンブルーが咲き始めました。 朝の濃い青色の花が紫色に、さらにピンク色へと、夕刻まで時の移ろいとともに花の色が変化していきます。 朝顔に近いところの紫陽花。そろそろ、宇治の三室戸寺の紫陽花が咲き誇っていることでしょう。「あぢさゐ」(アジサイ)は、『万葉集』の時代から知られています。『万葉集』には、安治佐為と味狭藍という字が使われたそうですが、古代には「あづさゐ」と呼ばれていたと言います。花は知られていましたが、『万葉集』に採録されているのはわずかに2種です。(資料3)その一つが、橘諸兄が詠んだ歌です。 紫陽花の八重咲く如く弥つ代にをいませわが背子見つつ偲ばむ 巻20 4448 玄関口のアプローチ側に咲く夏水仙。数日前にはもっと沢山咲いていたのですが、4日の夕刻に改めて眺めると花は半減していました。ヒガンバナ科ヒガンバナ属、多年草。中国から古い時代に入ってきたと考えられているそうです。葉が水仙に似ていて、夏に花が咲くことから夏水仙の名前がついたそうです。(資料4) 隣家との境には、オリヅルランが小さな白い花を咲かせています。 キジカクシ科オリヅルラン属で、常緑多年草。原産は200種以上あるようですが、観葉植物として育てられているのは数種類だけだと言います。(資料5,6)「オリヅルランはランナー(匍匐茎)につく子株がオリヅルの様に見えることから、オリヅルランと呼ばれています。」(資料5)とのこと。 我が家の東南隅、玄関への道筋の入口になる個所には、ベゴニアの小さな赤い花。シュウカイドウ科シュウカイドウ属の植物。900あまりの原種と15000を越える交配種があるそうですので、おどろきです。原産地は熱帯・亜熱帯に分布するとか。(資料7) 踏み石の左側の鉢植えの新葉が斑入りの様々な色に変化しています。 家人に花の名を尋ねるとハツユキカズラだとか。調べてみますと、キョウチクトウ科テイカカズラ属のつる性常緑低木で、テイカカズラの園芸品種だそうです。(資料8)テイカカズラで連想したのが藤原定家です。藤原定家は後白河天皇の娘・式子内親王を密かに恋したと言います。愛する人を失い、忘れることができずに、ついに定家の愛執が蔦葛に変じて式子内親王の墓にからみついたという伝説が残されています。この伝説をもとにして、謡曲「定家」が金春禅竹により創作されました。(資料9)前シテ・里の女(化身)がワキ・北国の旅の僧に「この石塔をご覧ください」と語りかけます。その墓には蔦葛が這い纏い形もわからないぐらいになっています。旅の僧はどなたの墓かと女に尋ねます。すると、式子内親王の墓で、その蔦葛は定家葛と言いますと答えました。それはおもしろい。定家葛と言うのには何か謂われがあるのですか、と僧は尋ねます。それに対して里の女が語ります。つぎのように・・・・。「式子内親王始めは賀茂の斎きの院にそなはり給ひ、程なく下り居させ給ひしに、定家の卿忍び忍びのおん契り浅からず、その後式子内親王程なく空しくなり給ひしに、定家の執心葛となつて、おん墓に這ひ纏ひて互の苦しみ離れやらず、共に邪淫の妄執を」と。(資料10)千本今出川通東入ルの北側に旧般舟院と般舟院陵があります。御陵の南側にある榎の木の下に、式子内親王の墓と言われる石塔があるそうです。(資料9)脇道に逸れました。元に戻ります。他に、薔薇の花が今は2つだけ少し高めにぽつんと咲いています。5月中旬に咲いていた時撮っていて、ここに記録として載せていませんでした。5/17に撮ったときの薔薇の花ほかを併せて載せておきたいと思います。 庭の西側に咲いた薔薇 庭の東側に咲いた薔薇 サボテンの花 ゼラニウム。南アフリカ原産の低木状の多年草。現在は原種の交雑から多くの園芸品種があるそうです。フウロソウ科テンジクアオイ属の植物です。(資料11)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) ゲットウ :ウィキペディア2) 月桃とは :「有限会社月桃農園」3) 『萬葉植物事典 普及版』 大貫茂著 クレオ p164) 『山渓ポケット図鑑2 夏の花』 山と渓谷社 p2035) オリヅルランの育て方 植物図鑑 :「LOVEGREEN」6) オリヅルラン :ウィキペディア7) ベゴニアの育て方 植物図鑑 :「LOVEGREEN」 8) ハツユキカズラの育て方 :「ガーデニングの図鑑」9) 『能百番を歩く』 京都新聞社編 杉田博明・三浦隆夫著 京都新聞社 p231-23310) 『謡曲集 下』 日本古典文学大系41 横道萬里雄・表章校注 岩波書店 p4911) 『山渓ポケット図鑑3 秋の花』 山と渓谷社 p153補遺テイカカズラ :ウィキペディアテイカカズラ(定家葛) :「花々のよもやま話」旧般舟院(般舟三昧院)・般舟院陵(西園院)(京都市上京区) :「京都風光」般舟院 皇室ゆかりの寺院と事件の顛末 :「京都を歩くアルバム」式子内親王 :ウィキペディア式子内親王 :「コトバンク」式子内親王 :「千人万首」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.07.05
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博物館フロアーの北東隅に設けられている「竹取物語」具現化展示のご紹介から始めます。北東方向に向かって全景を撮るとこんな感じです。手前が竹取翁の屋敷です。 天空から八月十五夜、百人あまりの天人を従えて、月の王がかぐや姫を迎えにきた場面です。この月の王が着用しているのは、「袞冕十二章(こんべんじゅうにしょう)」で大陸から輸入された服制だと言います。その名の由来は、「袞衣」・「冕冠」の組み合わせで、袞衣には12種類のシンボルが刺繍されていることから十二章と総称するのだとか。「十二章」は『唐書』に聖王の象徴だと書かれているそうです。左の袖には三爪の龍が大きく刺繍されています。「袞」とは首を曲げた龍のこと。「肩には日月、背中には北斗七星が刺繍されている」(資料1)とか。つまり唐風です。この袞冕十二章は「平安時代から江戸時代まで用いられた天皇の礼服(らいふく)」(資料1)で、江戸時代最後の天皇である孝明天皇の袞衣が現存していると言います。(資料1) 冠は「冕冠(べんかん)」と称されるもの。中国に由来し、中国では皇帝から卿大夫以上が着用していたと言います。調べてみますと、これは孝明天皇の即位まで使用されてきたという冕冠です。(資料2) よく見ると、額に菱形に4つの点が描かれ、口許の両側にも点が見えます。天人のシンボル? 嘆き悲しむ竹取翁と媼 かぐや姫の間近に二人の天人が近づきます。かぐや姫が羽衣を着せかけられると、その瞬間地上界で育んだ情愛はすべて消し去られ、月の都に昇天してしまうのです。この状景は羽衣を半ば着せられたという時点の具現化でしょうか。昇天する一歩手前というところ・・・・・・・。かぐや姫は天人とは異なり、顔の同じ位置に紅の点が描かれています。この物語の作者は、月の世界の天人には「心」(情愛)がなく、地上の人々には「心」があるとし、「心」のあることが人間らしさの特徴と考えていたのでしょう。作者は不詳ですが、学識豊かで和歌にも長けた男性の手によるものと考えられているようです。(資料3)桓武天皇による平安京遷都は794年(延暦13)です。晴れの場では『竹取の翁の物語』と呼ばれ、通称『竹取物語』、時に『かぐや姫の物語』とも呼ばれます。この物語は890年代後半に成立したというのが通説だとか。(資料4)『源氏物語』「絵合」の巻には、藤壺の御前で物語絵の優劣を争うという場面があります。ここに、「まづ、物語の出で来はじめの親なる竹取の翁に宇都保の俊蔭を合わせて争う」ことになります。紫式部の時代には『竹取物語』が現存する最古の作り物語としてはっきりと認識されていたことがわかります。続きに、左方(斎宮の女御方)がこの物語を提示して、所見を述べます。「なよ竹の世々に古りけること、をかしきふしもなけれど、かぐや姫のこの世の濁りにも穢れず、はるかに思ひのぼれる契りたかく、神世のことなめれば、あさはかなる女、目及ばぬならむかし」(資料5)(なよ竹の節々(よよ)を重ねて古くから伝わる話であり、おもしろい節はないけれども、かぐや姫がこの世の濁りにもけがれず、はるかに気位を高くもって天に昇った宿縁は気高く、神代のことのようですから、思慮の浅い女には想像もつかぬことでしょう)すると、右方(弘徽殿方)が、この物語の具体的な内容について語り、この作り物語にケチをつける考えを述べています。何を述べたかは長くなるので省略します。『源氏物語』を開いてみてください。さて、この絵合わせの場面ですが、『源氏物語』以前に絵合わせが行われた史実はないそうです。手許の本の頭注によりますと、紫式部は歌合わせの模範とされる「天徳内裏歌合」に準拠してこの場面を描いているといいます。(資料5)それでは、東の対(対の屋)の南面に巡って行きましょう。ここに展示されているのが、「天徳内裏歌合~天徳内裏歌合が準拠となった『源氏物語』の女楽・宮廷文化の雅の規範~」です。(資料6)天徳3年(959)に村上天皇は公家たちの詩合(しあわせ)を催しました。これに刺激された女房たちが天皇に願い出て歌合(うたあわせ)が催されることに。それが天徳4年(960)3月30日(旧暦)、内裏の清涼殿西廂で行われた歌合、つまり天徳内裏歌合です。 東の対を南面に回り込む時に、最初に見えるのがこの左方の端に座る後宮の女性たちです。 藤内侍(とうのないし)(左方 さかた )と中将更衣(左方)左方は赤系、右方(うかた)は青系の対称美に調えられたそうです。 講師(左方)の源延光。歌を詠み上げるのが講師の役割です。 源延光は左方に属した歌人の歌を朗々と詠じたことでしょう。この歌合には当代の一流歌人12名が参加し、左右に分かれて20番勝負を行いました。 簀子には歌の作者の一人、壬生忠見が控えています。この時、忠見が詠んだ歌は、 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか (恋をしているという私の噂が早くも立ってしまった。 誰にも知られないように、心の内だけで思い始めたばかりなのに)歌人には約1ヶ月前の2月29日に歌づくりを依頼されていて歌の準備が行われていました。 南面の庭には左方の小舎人(ことねり)と女童が目にとまります。その前に、左方の「員指(かずさし)の州浜」が置かれています。これは歌合での勝ち点をはかるためにつかわれる道具です。英語での説明文がわかりやすいです。Score table と訳されています。 階近くまで回り込むと、左方全体が一望できます。他もそうですが、丁寧な説明パネルが併せて設置されていますので、学びながらそれぞれの具現化展示の場面を楽しむことができます。勿論、このまとめのご紹介にも大いに参照させていただいています。 御簾を少し巻き上げた内側には、村上天皇がいらっしゃいます。 御簾の手前に置かれているのは、右方と左方の「文台の州浜」です。 左方には、判者の左大臣藤原実頼(さねより)が座っています。判者は歌合の1番ごとに歌の優劣を決め、その理由である判詞(はんし)を述べていきます。このとき敗者側の講師は罰として酒を飲まされたそうです。 右大将(三位)藤原師尹(もろただ) 参議(四位)藤原朝成(あさひら) 右方には、参議(四位)源政信が座っています。 大納言(三位)源高明(たかあきら) この人は? 不詳 橘宰相(右方) 辨更衣(右方) 辨更衣の左前に座すのは講師(右方)の源博雅(ひろまさ)です。 応援の方人(かたうど)には後宮女性が配されています。左右合わせて28名だったと言います。 負けた方の講師に酒を注ぐ役割の陪膳(ばいぜん)。酒の瓶を捧げ持っています。 小舎人(右方)と女童。員指の州浜(右方)が置かれています。 斜めから垣間見える村上天皇と講師・源博雅の後姿 半臂(はんぴ)の下に着る下襲(したかさね)の胴から続いた長い裾(きょ)が折り畳まれずにそのまま伸びています。 南西隅の簀子に座しているのは歌人の平兼盛です。兼盛の詠んだ歌が、 忍ぶれど 色にいでけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで (誰にも知られないように隠してきたけれど、 顔に出てしまったようだ、私の恋心は。 もの思いをしているのか、と人が尋ねるほどまでに)上掲の壬生忠見の歌とこの平兼盛の歌は共に恋を詠んだ歌です。どこかできっと見聞されているはずです。そう、ともに『百人一首』の中に撰ばれている歌です。兼盛の歌が第40首、忠見の歌が第41首です。これが、20番勝負の最後の番いの歌として競われたのです。判者は両者の歌の優劣をつけることができずに困り、村上天皇の様子を窺うと、兼盛の歌を小さく口ずさまれたと言います。実頼はこれを天皇の意向と受けとめ、兼盛の勝ちとしたとか。「じつはこの勝負は帝がはっきりと勝者を口にしなかったために、一抹の疑問が残っている。そのために、百人一首では第40首と第41首の歌のどちらが優れているかが、いまだに議論の的になっている」(資料7)そうです。壬生忠見と平兼盛はともに三十六歌仙の一人です。壬生忠見は壬生忠岑の息子です。父の忠岑も三十六歌仙の一人であり、『百人一首』には第30首として撰ばれています。(資料7)全くの作り話なのですが、興味深い逸話として残っている話があります。「鎌倉時代に書かれた説話集『沙石集』には、この勝負に負けた忠見が落胆のあまり食欲もなくなり、病になりついになくなってしまったという話」(資料6)として記録されていると言います。 右方の方の簀子に置かれた品々は、たぶんこの歌合の禄として村上天皇が大臣以下に下賜されるものでしょうね。 南西側から眺めた全景です。これで「天徳内裏歌合」を通覧しました。 東の対(対の屋)の簀子。春の御殿とは渡殿で繋がっています。手前に「透渡殿」があり、坪庭を挟んで北側に「渡殿」がもう一つあります。突き当たりの白壁の向こう(北側)が局(つぼね)です。 菓子盆を捧げて渡殿を進んで行く女房たちの姿をちょっと遠くに見ながら、今回のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。これをきっかけに、六條院(風俗博物館)に出かけてみてください。源氏物語の世界にタイムスリップしてみてください。参照資料1) 風俗博物館で入手した資料(冊子・平成31年2月~展示)2) 冕冠 :ウィキペディア3) 『クリアカラー 国語便覧』 監修 青木・武久・坪内・浜本 数研出版 p100-1014) 風俗博物館で入手した資料(冊子・平成28年2月~展示)5) 『源氏物語 2』 新編日本古典文学全集 小学館 p3806) 風俗博物館で入手した資料(冊子・令和2年2月~展示)7) 『こんなに面白かった「百人一首」』 吉海海人著 PHP文庫 p124-128補遺源氏物語の世界 再編集版 ホームページ 「第十七帖 絵合 第二章 後宮の物語 中宮の御前の物語絵合せ」をご覧ください。 天徳内裏歌合 :ウィキペディア村上天皇 :ウィキペディア藤原実頼 :ウィキペディア沙石集「歌ゆえに命を失う事」原文と現代語訳・解説・問題|鎌倉の仏教説話集 :「四季の美」三十六歌仙 :ウィキペディア寝殿造 :ウィキペディア日本史 [寝殿造] :「Interior Zukan」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ へ観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -2 小袖の展示、草木染め、十二単 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -3 歳暮の衣配り・平安王朝の美意識ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介しています。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご照会しています。探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご照会しています。(2016年)観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご照会しています。(2018年1月に2014年10月の記事を再録)
2020.07.03
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六條院春の御殿の寝殿の西廂と北側の孫廂では、「歳暮の衣配り~源氏ゆかりの女君への歳暮~」というテーマが設定されています。そして、具体的には、まず西廂で、衣配りの前段となる装束の準備段階、「裁縫の工程」が具現化され展示されています。 砧(きぬた) 砧は「砧板」の略だそうです。「織物を織り上げたのち、織機から下したままでは堅くてなじまないので、織目をつぶして軟らかくし、艶を出すためにする作業」(資料1)を意味し、またその道具をさします。織り上げられた絹を円棒に巻き、軸を回転させながら木槌で打つ姿が具現化されています。木槌で難解も打って柔らかくし、艶を出している工程です。砧打ちのことは、「夕顔」の巻で、源氏が中秋の夜に夕顔の家に宿るという個所に記述されています。「白栲の衣うつ砧の音も、かすかに、こなたかなた聞きわたされ、空飛ぶ雁の声とり集めて忍びがたきこと多かり」(資料2)と。(布を打つ砧の音も、かすかに、あちらこちら一帯に聞こえ、それに空飛ぶ雁の声が加わって、あれこれがいっしょになり、こらえがたく秋のあわれをそそられる)夕顔が亡くなった後、源氏は病を患い、病が癒えた後に、右近に夕顔の素性を聞くという場面へ展開します。ここでもその最後の個所に、「耳かしがましかりし砧の音を思し出づるさへ恋しくて」と砧が出て来ます。(資料2)また、「玉蔓」の巻では、源氏が正月の衣裳をととのえて方々に贈る準備をする場面が描かれています。ここに「ここかしこの擣殿(うちどの)より参らせたる擣物(うちもの)ども御覧じくらべて、濃き赤きなど、さなざまを選らせたまひつつ」という文が記されています。手許の本の頭注に、擣殿とは「衣を打つために設けた工房。衣の光沢を出すため砧で衣を打つ」と説明があります。(資料3) 布を裁つ刀子を手にし、裁板(たちいた)の上に体重をかけて布を裁つ姿が具現化されています。『石山寺縁起』(鎌倉時代)には、侍女たちが裁縫に勤しむ姿や布を裁つ様子が描かれています。(資料1) 布を裁つ作業の左側には、二人が組みになり「地直し」をしています。 反物の整理です。 さらにその左側の二人は、「綿入れ」をしています。『満佐須計(まさすけ)装束抄』(平安後期作)には、女房装束のかさね色目の段に、「十月一日より練衣綿入れて着る」と記されているそうです。更衣の頃より防寒のための綿入れ装束が用意されていたことが窺える記述です。(資料1)その二人組の左に 「縫う」つまり裁縫に勤しむ女房がいます。「野分」の巻では、源氏が夕霧を従え、花散里を見舞います。中秋八月、嵐の翌日朝から肌寒くなった中で、源氏が東の方(花散里)へ渡る場面です。この最初に「物裁ちなどするねび御逹、御前にあまたして、細櫃めくものに、綿ひきかけてまさぐる若人どもあり」という情景描写があります。物裁ちつまり裁縫などをしている老女房たち、細櫃めいたものに真綿をひきかけていじっている若い女房たちが大勢いるという描写です。(資料3)ここに裁縫と綿入れの作業をしている場面が描写されています。また、「早蕨」の巻には、中の君が宇治にとどまる弁と別れを惜しむという場面で、「皆人は心ゆきたる気色にて、物縫ひいとなみつつ、老いゆがめる容貌(かたち)も知らず、つくろひさまよふに」と、弁の周りに居る人々を描写しています。「ほかの人はみな満足の面持で、裁縫に精を出しては、老いて醜くなったおのれの姿をも忘れて身づくろいに余念もないが」という一文です。ここにも裁縫に勤しむ勤務姿が描かれています。(資料4)土佐光則筆『源氏物語絵巻』(徳川美術館所蔵)の「早蕨」にその場面が描かれています。わかりやすい説明図を見つけました。こちらからご覧ください。 手前では「ひねる」という作業をしています。「裏地のない単仕立ての裁ち生地の端を、もち米を練って作った糊(続飯)をつけ、絎けずに『ひねる』という仕立て」(資料1)をする作業です。「手習」の巻で、浮舟が自身の法衣の衣を見て母を思い涙すという段に、次の描写があります。裁縫の工程のいくつかを含み描写されています。「かの人の言ひつけしことなど、染めいそぐを見るにつけても、あやしうめづらかなる心地すれど、かけても言ひ出でられず、裁ち縫ひなどするを、『これご覧じ入れよ。ものをいとうつくしうひねらせたまへば』とて、小袿の単衣奉るを」という中に、染め・裁ち縫ひ・ひねらせ、という言葉がでてきます。(あの紀伊守が頼んでいった布施の装束などを、染めて用意するのを見るにつけても、奇妙な、こんなことはめったにあるものではないといった心地がするけれど、とてもそれを口にするわけにはいかない。人々が裁ち縫いなどをしているのを見せて、尼君が『あなたもお力添えください。ほんとにお裁縫がお上手なのですから』と言い、小袿の単衣をお渡しするのを)(資料5)この鍵括弧の「うつくしうひねらせたまへば」というのは浮舟が巧みであると述べている個所です。 簀子の左端(北端)では、「染め」の作業をしています。ここで冒頭のテーマに戻ることになります。「玉鬘」の巻の一部を上記していますが、年末には、正月の衣服を用意することが恒例だったのです。「当時は衣服はそれぞれの家で調達され、きちんとした家庭ほど、心遣いの行き届いた主婦が采配し、染色や裁縫に有能な女房が揃っていた。『帚木』巻で、左大臣家で光源氏の装束を、『よろづの御装ひ、何くれとめづらしきさまに調じ出でたまひつつ』とある」(資料6)一方、当日入手した資料には、「平安時代、貴族の妻の重要な役割は、装束の調達であった」とこのテーマの冒頭に記し、有名な雨夜の品定めの個所を引いています。妻にする理想的な条件の一つとして「龍田姫の腕前の染色技術と織女星に負けない裁縫技術を持つ女性」であることが語られていると。(資料1) 寝殿北側の孫廂の全景です。孫廂の内側が北廂です。 上﨟の女房が、「伏籠」を使って装束に自分好みに調合した香りを焚き染める作業をしています。日常的な習慣です。「自らの所作の後にどのような香りを残すか、それぞれが心配りしていました」(説明パネルより)「伏籠」の続きには、「玉蔓」の巻に記された源氏ゆかりの女君の装束が具現化されています。歳暮の衣配りとしての装束の選択結果のオンパレードといえます。詳しくは館内で装束の実物をご覧いただき、展示説明パネルをお読み願うこととして、簡単なご紹介をします。 明石の姫君 ~六條院春の御殿に住む源氏の娘~桜かさねの細長に赤い装束を加えたという装束 末摘花 ~二條東院に住む源氏の妻~萌黄の匂かさね。優婉な由緒ある文様・・・末摘花にミスマッチかと源氏が思わず微笑む。 玉蔓 ~六條院夏の御殿に住む源氏の養女~紫の上が装束から頭中将を連想。とても美しいが優美さに欠ける装束だと。二つ色かさね。 花散里 ~六條院夏の御殿に住む源氏の信頼厚き女性~浅縹色(あさはなだいろ)に州浜の文様を織り出した装束。紅(くれない)の薄様かさね 明石の御方 ~六條院冬の御殿に住む明石の姫君の実母~異国風の織模様で高雅な装束。紫の薄様かさね。紫の上は不快感を抱く。ジェラシーか。 紫の上 ~六條院春の御殿に住む源氏最愛の女性~高貴な葡萄染色に紅梅の文様を織り出した装束。流行の今様色と現代風華やかさ。源氏最愛の女君に相応しい最も高価で気品高い装束。紅梅の匂かさね。 青鈍色の織物 源氏と梔子色の御衣 空蝉 ~二條東院に住む尼~出家している空蝉に合わせ、青鈍色(あおにびいろ)の色合いの中にも聴色(ゆるしいろ)での華やかさを加えたという。梔子色の装束を加える。色々かさね。 紫の上 寝殿の東廂を北側から眺めた景色 寝殿側から、渡殿の北側にある「局」に進みます。女房の日常生活の一部が具現化展示されています。 まずは、「王朝女性の身嗜み・黒髪」です。 髢をつける髢とは「髪の毛に添え加える毛。入れ髪。入れ毛」(『新明解国語辞典』三省堂)のことです。 縮れ毛の手入れをしているところです。上記の雨夜の品定めでは、男性の目からみた女性の髪へのこだわりも論じられています。平安女性の容姿の美しさの中で、頭髪・黒髪は大きな比重を占めていました。「身の丈に長く余るのが髪の長さの標準であった」(資料6)と言います。『大鏡』の藤原師尹伝に記されている村上天皇の女御・芳子の髪の長さについての逸話が有名です。(資料1,6) 平安時代の遊び「偏つぎ」の場面です。これは遊びの展示では定番の一つになっています。右手に「糸」の偏を持っています。これと組み合わせができる旁(つくり)を探している場面です。それでは、東の対(対の屋)の北端に進みます。 恋文(結び文) 簀子には、恋文(結び文)を持つ武官がいます。巻きたたんで結んだ文は、主に恋文に用いられたそうです。立文(たてぶみ 捻文 ひねりぶみ)と比べると正式ではない形式だとか。恋文に使う風情のある紙は、美しい色に染められた薄様と呼ばれる薄い紙です。文の内容は勿論のこと、その文そのものが送り主の感性の美しさを伝えることになります。(説明パネル参照)東の対(対の屋)の東側に回り込みます。ここには東の対の西側廂の細長いスペースだけが設定されています。 まず、平安の遊びの一つ、「碁」が展示されています。平安時代には男女を問わず盛んに楽しまれたようです。今回は若い公家が碁に興じている場面です。以前の展示では、女性が碁を楽しむ場面展示がありました。 今回の展示にはもう一つの視点の意図と説明があります。「二藍の直衣について」です。夏の装束二藍の直衣の色目にはご覧の通り、いろいろあります。「二藍とは、藍を所定の色に染め、それを紅花の紅を重ねて染めた紫系の色で、それぞれの染料の濃度によって様々な色が表される」というものです。(資料1) 二藍は年齢の違いにより、染め方の色目に違いがあったと言います。図式的に示すとこんな相関があるとか。(説明パネルより)「藤裏葉」の巻で源氏の意図がこの色目の選択に出ているそうです。「夕霧と雲居雁の婚礼では、18歳の夕霧は本来ならば紅のきいた華やかな二藍の直衣を着用するのが普通であるが、源氏はあえて自分の装束の縹色(はなだいろ)の直衣に夕霧を着替えさせた。これは縹色の直衣を着用することで、夕霧に実年齢以上の威厳と落ち着きを内大臣(雲居雁の父)に感じさせる意図があったからである。」(資料1)続くスペースに「四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識」というテーマで、かさね色目の精巧なミニチュア装束が展示されています。 このように展示されています。2019年の展示の時に、このテーマで展示を鑑賞しています。異なる場所での展示でした。詳しくはこちらをご覧いただけるとうれしいです。国風文化が育まれた平安時代には、「日本特有の細やかに移ろいゆく四季の彩りをいかに機微に捉えて装束の色目として表現するかという文化が登場する」(資料1)ことになります。ここでは、展示されているかさね色目の装束を列挙し、重複を避けた説明を加えるにとどめます。 松かさね 「紅・同より淡く・淡萌黄・萌黄・淡蘇芳・蘇芳」という色目の配色です。 雪の下かさね「青・同より淡く・淡紅梅・紅梅・同・白」という色目の配色です。 捩り紅葉(もじりもみじかさね) 「同・紅・淡朽葉・黄・淡青・青」という色目の配色です。青は緑色系を意味します。 白撫子(しろなでしこ)かさね 菖蒲かさね菖蒲の「根」と「葉」の色の対比を表したかさね色目です。「白・淡紅梅・紅梅・白・淡青・青」という色目の配色。 梅かさね 「濃紫・濃蘇芳・紅・紅梅・淡紅梅・淡紅梅より淡く」という色目の配色です。それでは東の対の南面に回り込みます。つづく参照資料1) 入館の折に入手した今回の展示についての説明資料「令和2年2月~5月展示」2) 『源氏物語 1』 新編日本古典文学全集 小学館 p156、p1893) 『源氏物語 3』 新編日本古典文学全集 小学館 p134、p2814) 『源氏物語 5』 新編日本古典文学全集 小学館 p3605) 『源氏物語 6』 新編日本古典文学全集 小学館 p3606) 『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館 p196補遺国宝 源氏物語絵巻 早蕨 :「徳川美術館」第34回 『源氏物語』「早蕨」段の「中君の京に移る支度」を読み解く 筆者:倉田実 絵巻で見る平安時代の暮らし :「WORD-WISE WEB」もっと知りたい日本髪 002 垂髪(すいはつ) :「ポーラ文化研究所」平安時代の髪型とは :「終活ねっと」黒髪のケア(前) :「京都・宇治 式部郷」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ へ観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -2 小袖の展示、草木染め、十二単 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -4 竹取物語・天徳内裏歌合 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介しています。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご照会しています。探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご照会しています。(2016年)観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご照会しています。(2018年1月に2014年10月の記事を再録)
2020.07.02
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六条院春の御殿のミニチュア寝殿を時計回りで巡っていきます。この寝殿の西側には板敷の間があり、こちらは実物サイズの衣裳や服飾資料などが企画展示されています。今回この一画には、この衣裳の展示、草木染された糸束と織物、十二単が展示されています。冒頭の衣桁に掛けられた着物は板敷の間の南辺に展示されています。 この写真パネルが置かれています。これは江戸時代後期に植物染料で作られた小袖だそうです。「白綸子双葉葵熨斗文小袖」と称されています。綸子とは「紋の模様をを織り出した、絹織物」(『新明解国語辞典』三省堂)です。 二葉葵(双葉葵)とは、「短い茎から二枚の心臓形の葉を生じる多年草。早春に暗い紫色の、鐘の形をした花を開く。カモアオイ」(同上辞典)です。小袖の部分に図案化されているのが双葉葵でしょう。 右側の小袖の双葉葵の図柄は、左の前見頃に続いていきますが、左側の小袖は六弁の花の形に図柄が変化していきます。左右対称の図柄にしないところが日本の特徴でしょうか。非対称な移ろいが常にみられます。 襟周りと、衣裳の下部には六角形が連鎖していく形の図柄が草花図柄の間に点在しています。門外漢ですので間違っているかも知れませんが、この六角を吉祥文とみて、熨斗と称するのかも・・・・・。熨斗を辞書で引きますと、「③のしあわびを包んだ紙が形式化したもの。雛人形の着物のような形に折り、進物に添える」という意味と、「④紋所。のしあわびを紋章化したもの。包み形と束ね形がある」(『日本語大辞典』講談社)という意味があります。また「のしあわび」は「(今の「のし」のもとの形)アワビの肉を薄くそぎ、乾燥したもの。古くは儀式用の肴に用い、のちに、熨斗に添えるようになった。」(同上辞書)とか。この板敷の間に、今回は植物自体とその植物を材料に染めた糸束が展示されています。展示されているのは、矢車五倍子(やしやぶし:黒の染料)・槐(えんじゅ)・胡桃(くるみ)・紫根(しこん)・茜(あかね)・紅花(べにばな)・刈安(かりやす:黄の染料)・蓼藍(たであい:青の染料)・蘇芳(すおう)です。この中からいくつかご紹介します。 槐 胡桃 茜 蘇芳 実際に草木染で染められた鮮やかな色彩の織物が展示されています。 これらの織物は、かさねの一例をも示しているようです。 この説明パネルをご一読ください。「松かさね」というそうです。松は常盤木であり、四季通用し祝いに着る色のかさねと言います。紅色は植物染料である紅花、蘇芳色は蘇芳、萌黄色は蓼藍(青)と刈安(黄)をかけて染めているとのこと。化学染料は安定した色合いを出せるという特徴があるのに対し、褪色の度合いでは、草木染の方が染色が美しく残るのが特徴と言います。 平安時代の「公家女房晴れの装い(十二単)」の実物大の装束が展示されています。 以前にご紹介した事例と対比してみてください。 公家の装束は、平安時代の末期、鳥羽上皇の時代あたりで、それまでの「柔(なえ)装束」から強ばった直線的な姿の「強(こわ)装束」に大きく転換したそうです。鳥羽上皇は、装束の生地を厚くしたり糊をきかせたりすることでかっちりした姿となること、つなり威儀を正す装束を好んだとか。この説明パネルを読んで初めて知ったのですが、源有仁は「衣紋道の祖」と称されたとか。 一見して素通りしてしまいそうな織物という感じですが、「蓮糸織り(藕糸くうし織り)」と称される希少価値の高いものだそうです。 蓮の繊維で作った糸で織りあげた織物だと言います。 化学染料で染めた一例が展示されているのだと受けとめました。 前に、この説明パネルが置かれていますので。この一画を見た後、寝殿の北側に回り込みます。再び、源氏物語の世界、平安時代の生活空間に戻りましょう。つづく補遺縁を繋ぐ文様 結び文と熨斗文 :「バイク呉服屋」熨斗文【吉祥文様】:「つくりびと」紋縮緬地熨斗文友禅染振袖 :「文化遺産オンライン」草木染めの色辞典 :「マイトデザインワークス」紫のゆかり 吉岡幸雄の色彩界 ホームページ染司よしおか ホームページ「とっても簡単!草木染め」のページ :「徳島県立博物館」草木染めの染め方 :「YUMEZAUKU」“草木染め” の真実 :「tezomeya note」源有仁 :ウィキペディア源有仁 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ へ観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -3 歳暮の衣配り・平安王朝の美意識ほか へ観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -4 竹取物語・天徳内裏歌合 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介しています。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご照会しています。探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご照会しています。(2016年)観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご照会しています。(2018年1月に2014年10月の記事を再録)
2020.07.01
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コロナ禍で閉館していた風俗博物館が6月より再開されています。例年の休館期間を変更し前期は7月31日までの平日に開館されているようです。先週、2020年の展示を鑑賞してきました。静寂な展示フロアーで一人静かに具現化展示を楽しめました。冒頭は入場チケットの半券です。現在の展示は「女楽」と「天徳内裏歌合」がメインです。それと併せて、「源氏物語~六条院の生活」を窺い知る展示がテーマ毎に具現化展示されています。現在(2020年前期)に展示されている内容をご紹介します。場所は、堀川通に東面する西本願寺の東北角あたりで堀川通を挟んだ東側です。 井筒佐女牛ビルの5階に上り、エレベータから風俗博物館のフロアーに入ると、この光景が正面に見えます。このフロアーには、六条院春の御殿の寝殿と東の対(対の屋)が縮小再現されています。正面に見えるのは寝殿です。 少し左に移動して、右方向に目を転じると、東の対(対の屋)が見えます。こちらは最後にご紹介しますが、「天徳内裏歌合」の場面が具現化されています。 それでは、この寝殿にて、『源氏物語』の「若菜 下」に描写されている「女楽(おんながく)」の場面が具現化されている姿に近づいていきましょう。「正月二十日ばかりになれば、空もをかしきほどに、風ぬるく吹きて、御前の梅もさかりになりゆく。おほかたの花の木どももみなけしきばみ、霞みわたりけり」(資料1)という状況になっています。空も晴れやかに、風もなま暖かく吹いて、御前の梅も今を盛りと咲いています。その他の花の木々もみな蕾がふくらみ、あたり一面に霞が立ちこめているという風情です。源氏は朱雀院の五十賀を計画していて、そのための試楽として、六条院の各町に住まう琴の名手の女君たちが集り、女楽を催すことにしたのです。朱雀院の五十賀へのお祝いの演奏リハーサルという場面なのでしょう。『源氏物語』の本文では、源氏が、月が変わって御賀の準備が近づけば、そのための試楽をさかんにされているなと世間から取り沙汰されるだろうから・・・・と、この正月の二十日に試みることにした旨をまず集った女君たちに説明をしています。 寝殿正面の左右の端の簀子(すのこ)には、女童(めのわらべ)たちが居並んでいます。まずは右側から眺めていきましょう。 右端の先頭と3番目は明石の女御の女童です。「青色の表着(うわぎ)に蘇芳(すおう)がさねの汗衫(かざみ)、唐綾の表袴、衵(あこめ)は山吹色の唐伝来の薄い織物という衣裳」です。(資料2、以下同資料の注を略す)2番目と4番目は紫の上の女童です。こちらは「赤色の表着に桜かさねの汗衫、薄紫色の衵に、浮紋の表袴は紅の艶出しをしてあります。桜の花の色目で春を表現」するという衣裳です。 正面の階の近くの簀子には、右側に直衣姿の童がいます。 巻き上げられた御簾の内にいらっしゃるのは紫の上(39歳)。「葡萄染(えびぞめ)の小袿(こうちぎ)に、薄蘇芳の細長を着て、髪が裾にたまっている様子は理想的だ」と源氏が評します。その後、紫の上の姿は本文に「あたり一面につややかな美しさがあらわれているような風情なのは、これを花に喩えれば桜といったところだが、その桜よりもさらにすぐれた美しいたたずまいは格別でいらっしゃる」(資料1)と描写されています。 紫の上が弾くのは和琴です。 紫の上の左側には、明石の女御がいらっしゃいます。「紅梅かさねの御衣を着た明石の女御は懐妊中でお腹がふっくらとしており、気分がすぐれずにいます。源氏は夏に入っても十分に咲きこぼれた藤の花に例えています。」 明石の女御は、源氏と明石の君との間に生まれた娘で、紫の上のもとで養育され東宮妃となりました。現在は今上帝の女御。六条院春の御殿に住んでいます。原文に、明石の女御については次のように記されています。源氏の「秘したまふ御琴ども」のうち「女御の君に箏の御琴」と。明石の女御の祖父にあたる明石の入道は延喜帝の流れをくむ箏の名手として評判の人です。(資料1) 寝殿正面の御簾は少し巻き上げた程度にして、垂れ下がっています。 その内に源氏(47歳)が座しています。 源氏の左側には几帳を挟んで、女三宮(おんなさんのみや22歳)がいらっしゃいます。「桜かさねの細長を着た女三宮は、髪が左右からこぼれかかっている様子を源氏に青柳の少し枝垂れた風情だと例えられます」 女三宮は朱雀院の第三皇女朱雀院が寵愛してやまない皇女です。出家を志した朱雀院は源氏の正妻とすることで源氏に託しました。この年は女三宮が源氏に降嫁して8年目。出家し山に籠もっていた朱雀院は久しく逢っていない愛娘の女三宮との対面を強く希望されたのです。そこで、源氏が朱雀院五十賀を催すことを計画したという次第。(資料1,2) 女三宮が弾いているのは平素弾きなれている琴です。源氏は「宮には、かくことごとしき琴はまだえ弾きたまはずやとあやふくして、例の手馴らしたまへるを調べて奉りたまふ」(女三宮には、こうした由緒ある名器はまだ十分お弾きこなしにはなれまいと気づかわれて、平素弾きなれていらっしゃるのを調律しておあげになる)(資料1)のでした。 女三宮の左側には、明石の君(38歳)がいらっしゃいます。「柳の織物の細長に、萌黄の小袿、羅の裳をつけた明石の御方は、五月待つ花橘の、花も実も一緒に取った時のかぐわしさに例えられています」明石の御方には秘蔵の楽器の中で、琵琶を託されます。明石の君はもともと琵琶の名手です。 正面の階の左側簀子に座るのは夕霧大将(26歳)。烏帽子直衣(えぼしのうし)姿です。表白・裏赤の桜かさねの白地臥蝶丸文直衣、二藍甲文指貫、紅小葵文衵、紅繁菱文単(ひとえ)という衣裳です。(資料3)「若菜 下」には、源氏が語ることとして、次の下りがあります。「箏のお琴は、絃が弛むということではないけれど、やはりこうしてほかの琴と合わせるときの調子によって、琴柱(ことじ)の位置がずれるものです。よくそのつもりになって調子をととのえておかなければならないが、女の力ではしっかりと絃を張りおさめることができまい。やはり、大将をここへ呼んだほうがよさそうです。ここにいる笛吹きたちでは、まだ子供なので、拍子をととのえるのには、あまり頼りにもなるまい」(資料1)ということから、夕霧が呼ばれてここに来ます。そして、源氏は御簾の下から、箏のお琴の端を少し出して夕霧に告げるのです。「ぶしつけのようだが、この琴の絃をしっかりさせて調子をととのえてみてくだされ。ここにはほかのそう親しくない人を呼び入れるわけにもいかないのですから」と。夕霧が箏の琴を受け取り、調弦しているという場面です。 笛吹きたちとはこの二人の童です。直衣姿で夕霧の右側、簀子に座っています。 笙の笛を吹くのは鬚黒大将の四男の三郎です。 その後で龍笛を吹くのが夕霧の長男の太郎です。原文は「今日の拍子合はせには童を召さんとて、右の大殿の三郎、尚侍(かむ)の君の御腹の兄君笙の笛、左大将の御太郎横笛を吹かせて、簀子にさぶらはせたまふ」と記されいます。右の大殿とは右大臣(鬚黒)で、尚侍(ないしのかみ)の君とは玉蔓(33歳)のことです。鬚黒大将の三男・四男が玉蔓腹の子なのです。左大将は夕霧のことです。 「琴について」という題でのこんな説明パネルも設置されています。平安時代には、絃楽器は総称して「こと」と呼ばれ、琴(きん)・和琴(わごん)・箏(そう)・琵琶という主な種類があったそうです。説明の最後に興味深い一文が記されています。「皇統で伝わるべき『琴(きん)』は内親王である女三宮へ源氏が手ほどきをしており、最愛の紫の上には伝わることがなかったのです」と。 簀子の左端には、先頭と3人目に女三宮の女童が座っています。「黄色がかった濃い青色の表着に、柳かさねの汗衫、葡萄染の衵という衣裳」です。柳の色目で春が表現されているそうです。一方、2人目と4人目は明石の御方の女童です。一人は紅梅かさねの表着・青磁の汗衫・濃い紫で艶出し模様の美しい衵、もう一人は桜かさねの表着・青磁の汗衫・薄い紫で艶出し模様の美しい衵という衣裳です。源氏物語の原文には、それぞれの女君が、4人ずつの女童を選んでいると記されています。ここでは展示の関係で人数を2人ずつにしている旨が説明パネルに記されています。「女楽」の展示を眺めた後は、時計回りで巡って行きます。つづく参照資料1) 『源氏物語 4』 神変日本古典文学全集 小学館 若菜下(p179-194)2) 風俗博物館内の展示説明パネル3) 入館の折に入手した今回の展示についての説明資料「令和2年2月~5月展示」補遺風俗博物館 ホームページ貴族の生活 装束(女性) :「風俗博物館(旧ページ)」平安時代の服装 文化史 :「フィールド・ミュージアム京都」平安装束 :ウィキペディア日本服飾史 ホームページ楽器 :「風俗博物館(旧ページ)」琴の歴史 :「大津琴三絃」「箏」と「琴」の違いについて 箏曲演奏家 福田恭子 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -2 小袖の展示、草木染め、十二単 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -3 歳暮の衣配り・平安王朝の美意識ほか へ観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -4 竹取物語・天徳内裏歌合 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介しています。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご照会しています。探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご照会しています。(2016年)観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご照会しています。(2018年1月に2014年10月の記事を再録)
2020.06.30
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石川県の郡部での難読地名探しに移ります。鹿島郡中能登町 黒氏(クロジ)、最勝講(サイスコ)、廿九日(ヒズメ)、一青(ヒトト)、河北郡内灘町 なし河北郡津幡町 浅谷(アサンタニ)、莇谷(アザミダニ)、大熊(オンマ)、仮生(ケショウ)、小熊(コンマ) 九折(ツヅラオリ)、能美郡川北町 上先出(カミセンデン)羽咋郡志賀町 阿川(アコウ)、上棚(ウワダナ)、上野(ウワノ)、栢木(カイノキ)、神代(カクミ)、小室(コモロ) 米町(コンマチ)、西海風無(サイカイカザナシ)、風戸(フト)、鹿頭(シシズ)、代田(シナンタ) 富来牛下(巌門)(トギウシオロシ ガンモン)、七海(シツミ)、灯(トボシ)、直海(ノウミ) 東小室(ヒガシオモロ)、仏木(ホトギリ)、谷神(ヤチガミ)、羽咋郡宝達志水町 上田(ウワダ)、荻市(オギチ)、荻谷(オギノヤチ)、下石(サガリシ)、子浦(シオ)、沢川(ソウゴウ) 竹生野(タコノ)、当熊(トウノクマ)、走入(ハシリ)、見砂(ミサゴ)、向瀬(ムコセ)鳳珠郡穴水町 上野(ウワノ)、北七海(キタシツミ)、此木(クノギ)、樟谷(クノギダニ)、越渡(コエト) 菅谷(スゲンタニ)、新崎(ニンザキ)、挾石(ハサミシ)、由比ケ丘(ユイガオカ)、鹿路(ロクロ)鳳珠郡能登町 五十里(イカリ)、宇出津(ウシツ)、内浦長尾(ウチウラナゴ)、越坂(オッサカ)、小間生(オモウ) 河ケ谷(カガタニ)、上町(カンマチ)、合鹿(ゴウロク)、爼倉(マナイタグラ)、武連(ムレ) 郡部においても、合併がみられます。*鹿島郡の鹿島町、鳥屋町、鹿西町が合併して鹿島郡中能登町が誕生しています。*珠洲郡内浦町と鳳至郡能都町、同郡柳田村と合併し鳳珠郡能登町が誕生しています。 珠洲郡と鳳至郡の郡名が消失し、郡域が統合されて鳳珠郡が新設されました。*郡名改称を受け、鳳至郡穴水町が鳳珠郡穴水町になっています。参照資料石川県の郵便番号 :「郵便局」補遺鹿島郡 :ウィキペディア町の概要 :「中能登町」町の紹介 :「能登町」内灘町 :ウィキペディア津幡町の紹介 :「津幡町」河北郡 :ウィキペディア町の紹介 :「川北町」能美郡 :ウィキペディア志賀町 :ウィキペディア宝達志水町 :ウィキペディア羽咋郡 :ウィキペディア町勢要覧 :「穴水町」能登町 :ウィキペディア鳳至郡 :ウィキペディア珠洲郡 :ウィキペディア鳳珠郡 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)今までに難読地名さがしをした地域については、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。 観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 奈良県・京都府・滋賀県・大阪府・兵庫県・三重県 福井県・富山県
2020.05.25
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すんなりとは読めないあるいはちょっと考えても読みづらいなと思う地名の抽出をつづけます。あくまで私基準での抽出にすぎません。そんなの難読でもなんでもない・・・のが含まれているかもしれませんが、そこはお読みいただいたあなたの基準でご判断ください。金沢市 相合谷町(アオダニマチ)、大桑町(元涌波庚、モトワクナミコウ)、大額(オオヌカ)、鴛原町(オシハラマチ) 蚊爪町(カガツメマチ)、神谷内町(カミヤチマチ)、四十万(シジマ)、折違町(スジカイマチ)、千木(セギ) 竪町(タテマチ)、俵原町(タワワラマチ)、平等本町(ダイラホンマチ)、鞁筒町(ツヅミドウマチ) 利屋町(トギヤマチ)、長土塀(ナガドヘ)、額乙丸町(ヌカオトマルマチ)、間明町(マギラマチ) 曲子原町(マゲシハラマチ)、大豆田本町(マメダホンマチ)、三小牛町(ミツコウジマチ)、三馬(ミンマ) 娚杉町(メオトスギマチ)、稚日野町(ワカヒノマチ)加賀市 動橋町(イブリハシマチ)、潮津町(ウシオヅマチ)、直下町(ソソリマチ)、大聖寺木呂場町(ダイショウジコロバマチ) 菅生(スゴウ)、耳聞山仲町(ミミキヤマナカチョウ)、塔尾町(トノオマチ)、七日市新町(ナンカシンマチ) 分校町(ブンギョウマチ)、保賀町(ホウガナチ)、山中温泉栢野町(ヤマナカオンセンカヤノマチ) かほく市 内日角(ウチヒスミ)、上田名(ウワダナ)、小松市 打木町(ウツギマチ)、梯町(カケハシマチ)、観音下町(カナガソマチ)、上八里町(カミヤサトマチ) 瀬領町(セイリョマチ)、那谷町(ナタマチ)、埴田町(ハネダマチ)、蛭川町(ビルガワマチ)珠洲市(スズシ) 熊谷町(クマンタニマチ)、宝立町二艘丹(ホウゲンマチニソウフネ)、馬緤町(マツナギマチ)、三崎町雲津(ミサキマチモヅ) 若山町出田(ワカヤママチスッタ)七尾市 庵町(百海町)(イオリマチ ドウミマチ)、国下町(コクガマチ)、七原町(シツハラマチ)、直津町(タダツマチ) 津向町(ツムギマチ)、中島町外(ナカジママチソデ)、外原(ソドハラ)、西谷内(ニシヤチ) 能登島閨町(ノトジマネヤマチ)、能登島祖母ケ浦町(ノトジマバガウラマチ)、盤若野町(ハンニャノマチ) 古府町(フルコマチ)、松百新町(マツトウシンマチ)、満仁町(マニマチ)、御祓町(ミソギチョウ) 野々市市 三納(サンノ)、藤平田(トヘイダ)能美市(ノミシ) 粟生町(アオマチ)、莇生町(アゾウマチ)羽咋市(ハクイシ) 垣内田町(カクッタマチ)、次場町(スバマチ)、円井町(ツムライマチ)、神子原町(ミコハラマチ) 立開町(リュウガイマチ)白山市 明島町(アカラジママチ)、行町(アルキマチ)、尾添(オゾウ)、女原(オナハラ) 河内町内尾(コウチマチウツオ)、口直海(クチノミ)、下折(ソソリ)、中直海(ナカノミ)、木滑(キナメリ) 相川新町(ソウゴシンマチ)、鴇ケ谷(トガタニ)、野地町(ノウヂマチ)、陽羽里(ヒバリ) 別宮出町(ベツクデマチ)輪島市 中段町(チュウダマチ)、鳳至町(フゲシマチ)、久手川町(フテガワマチ)、町野町井面(マチノマチイノモテ) 真久(サンサ)、三井町渡合(ミツイマチドアイ)、仁行(ニギョウ)、本江(ホンコウ)、水守町(ミトモリマチ) 門前町浅生田(モンゼンマチアソダ)、五十洲(イギス)、井守上坂(イモリアゲサカ)、窕(ウツロ) 上代(ウワダイ)、大生(オハエ)、神明原(シメハラ)、道下(トウゲ)、百成(ドウミキ) 能納屋(ノウノヤ)、石川県も都市部の行政区域にいくつかの統廃合が見られます。*石川郡野々市町が野々市市となり、それ以外の郡部が白山市として合併しました。 その結果、石川郡の郡名が消滅しました。*松任市(マツトウシ)が白山市として合併しています。*鹿島郡は中能登町に合併する地域と、七尾市として合併する地域に二分化しました。 その結果、鹿島郡の郡域が縮小しました。*河北郡内の宇ノ気町、高松町、七塚町が合併し、かほく市が誕生。郡域が縮小しています。*能美郡の辰口町、寺井町、根上町が合併し、能美市が誕生し、郡域が縮小しています。参照資料石川県の郵便番号 :「郵便局」補遺かほく市 :ウィキペディア市の概要 :「かほく市」七尾市 :ウィキペディア七尾市の概要 :「七尾市」鹿島郡 :ウィキペディア野々市市 :ウィキペディア野々市市の概要 :「野々市市」能美市 :ウィキペディア能美市の概要 :「能美市」能美郡 :ウィキペディア石川郡(石川県) :ウィキペディア羽咋市 :ウィキペディア羽咋市の紹介 :「羽咋市」白山市 :ウィキペディア市の紹介 :「白山市」輪島市 :ウィキペディア市の紹介 :「輪島市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)今までに難読地名さがしをした地域については、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。 観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 奈良県・京都府・滋賀県・大阪府・兵庫県・三重県 福井県・富山県
2020.05.24
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それでは、富山県の郡部での難読地名探しに移ります。富山県での難読地名探しをやってみて初めて、かつての○○郡のかなりの地域が都市に統合されたことを知った次第です。下新川郡朝日町 大平(ダイラ)、下山新(ニザヤマシン)、蛭谷(ビルダニ)下新川郡入善町 五十里(イカリ)、椚山(クヌギヤマ)、東狐(トッコ)、下山(ニザヤマ)中新川郡上市町 浅生(アソ)、荒田(アレタ)、女川(オナガワ)、下田(ゲダ)、眼目(サッカ)、正印(ショイン) 中開発(ナカカイホツ)、湯上野(ユウワノ)中新川郡立山町 芦峅寺(アシクラジ)、浅生(アソ)、岩峅寺(イワクラジ)、女川新(オナガワシン)、末上野(スエウワノ) 手屋(タヤ)、半屋(ナカリヤ)、目桑(メッカ)中新川郡舟橋村 なし前回の都市部で触れていますが、今までの郡名自体が消滅してしまったところがあります。それは、射水郡・上新川郡・西礪波郡・婦負郡・東礪波郡です。古い時代の本などで当時の地名を読むときはどの辺りか、ピンとこなくなりますね。越前、越中と来ると次は越後です。そこで、ふと・・・・・。旧国名だけの連想で越前国、越中国と短絡してしまったのですが、越前国と越中国の間には、旧国名で加賀国とその北に能登国がありました。つまり、現在の石川県です。次回はちょっと地理的に東に戻ります。参照資料富山県の郵便番号 :「郵便局」補遺下新川郡 :ウィキペディア中新川郡 :ウィキペディア・・・・・・・・・・・射水郡 :ウィキペディア上新川郡 :ウィキペディア西礪波郡 :ウィキペディア婦負郡 :ウィキペディア東礪波郡 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)今までに難読地名さがしをした地域については、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。 観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 奈良県・京都府・滋賀県・大阪府・兵庫県・三重県・福井県
2020.05.09
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昨日(5/1)の午前中に撮った庭のジャスミンです。 ほぼ満開になりました。今日眺めますと、早くも白い花が茶色っぽく変色してきている箇所をみつけました。昨日、あるきっかけで、久しぶりに坂村眞民さんの全詩集の第6巻所収の「しんみん川」をパラパラと繙いてみました。(資料1)このジャスミンの花にも通じる詩が目にとまりました。ご紹介します。 今 今を生きて咲き 今を生きて散る 花たち 今を忘れて生き 今を忘れて過ごす 人間たち ああ 花に恥ずかし 心いたむ日日こんな詩も見つけました。 花と愛 花は一輪 一輪にこもる いのちを知ろう 愛も一筋 一筋に生きる 清さを知ろう ああ 花よ 愛よ いつまでも咲き いつまでも光れ 人の世の幸せのためステイ ホーム の日々、庭の花に目が止まります。ジャスミンに因んで、手許の本からのご紹介です。(資料2)この話の見出しは、「64 おのれより愛しきものなし -- 不害」です。仏陀は五戒の第一を「不殺生」と説きました。この人間第一の当為として語られた背景話です。出所は「相応部経典、3,8,末利」と言います。コーサラ国の王パセナーディにはマッリカー(末利)と呼ばれる賢い王妃がいました。この王妃はマッリカー、つまりジャスミンの花の枝を環にして髪飾りにしていたので、この称をえたのだそうです。その二人の会話で、王が王妃に「このひろい世の中に、そなたは、何びとか、そなた自身よりもいとしいと思うものがあるだろうか」と問いかけると、「自分よりもいとしいと思われるものはございません」と答えたのです。王もまた「わたしにも、そうとしか思えない」と答え、二人の考えが一致します。だが、二人はこの結論が、どこか間違ってはいないかと思ったのです。パセナーディは、ジェータ林の精舍に仏陀を訪ねて教えを乞います。仏陀は話を聞き、ふかくうなずき、一偈を説き、二人への教えとしたと言います。「人のおもいは、いずこへもゆくことができる。 されど、いずこへおもむこうとも、 人は、おのれより愛しきものを見いだすことはできぬ。 それとおなじく、 他の人々にも、自己はこの上もなく愛しい。 されば、 おのれの愛しいことを知るものは、 他のものを害してはならぬ。」 と。仏陀が在家信者のために制した五戒というのは、次の五つを禁じたのです。(資料3) 生き物を殺すこと(殺生) ぬすみ(偸盗) 妻以外の女または夫以外の男との邪な性交(邪淫) 嘘をつくこと(妄語) 飲酒ジャスミンの花が、仏陀とリンクして行きました。 今を生きて咲くジャスミンの満開の写真で終わりにしたいと思います。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『坂村眞民全詩集』第6巻 大東出版社 p118, p2812) 『仏教百話』 増谷文雄著 ちくま文庫 p138-1393) 『新・仏教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 庭の花咲く ジャスミン・ポピー・ツツジ へ観照 庭の花咲く(2) ジャスミン 白い花の広がり へ
2020.05.02
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福井県はかつては越前国と称されていました。そこで越中国と称された富山県に進みましょう。まずは都市における難読地名さがしです。とは言っても、私自身が読みみづらいな、そういう読み方はおもいつかない・・・・・と感じるレベルでのリストアップです。そんな地名、難読でもなんでもないじゃない・・・・・かもしれません。そこは、ご覧いただいた方のご自分のモノサシでご判断くださいね。富山市 綾田町(アイデンマチ)、芦生(アシュウ)、於保多町(オオタマチ)、開発(カイホツ)、上冨居(カミフゴ) 下伏(ゲブセ)、下タ林(シタバヤシ)、新総曲輪(シンソウガワ)、手屋(タヤ)、任海(トウミ)、利波(トナミ) 長走(ナガシリ)、長川原(ナンカワラ)、西四十物町(ニシアイモンチョウ)、西田地方(ニシデンジカタ) 鵯島(ヒヨドリジマ)、婦中町上轡田(フチュウマチカミクツワダ)、為成新(タメナリシン) 平等(ダイラ)、中名(ナカノミョウ)、鶚谷(ミサゴダニ)、葎原(ムクガハラ)、熊野道(ヤンド) 水橋肘崎(ミズハシカイナザキ)、八尾町大玉生(ヤツオマチオオダモウ)、翠尾(ミスオ)、鼠谷(ヨメダニ)射水市 犬内(インナイ)、海老江練合(エビエネリヤ)、鏡宮(カガノミヤ)、円池(ツブライケ)、戸破(ヒバリ) 魚津市 山女(アケビ)小矢部市 石動町(イスルギマチ)、小神(オコ)、下後亟(シモゴゼ)黒部市 生地(四十物町)(イクジアイモノチョオウ)、内生谷(ウチュウダニ)、宇奈月町下立(ウナヅキチョウオリタテ) 田家角内(タイガグチ)、朴谷(ホオノキダニ)髙岡市 五十辺(イカラベ)、五十里(イカリ)、御馬出町(オンマダシマチ)、三女子(サンヨシ) 福岡町沢川(フクオカマチソウゴウ)、谷内(ヤチ)砺波市 浅谷(アサンタニ)、川内(コウチ)、庄川町隠尾(ショウガワマチカクリョウ)、高道(タカンド)、頼成(ランジョウ)滑川市 菰原(コモハラ)、寺家町(ジケイマチ)、神家町(シンカマチ)、瓢町(フクベチョウ)、武平太町(ブヘダマチ)南砺市 安室(アジツ)、院瀬見(イゼミ)、大崩島(オオクズシマ)、大鋸屋(オガヤ)、皆葎(カイムクラ) 楮(コウズ)、蛇喰(ジャバミ)、利賀村(トガムラ)、利屋(トギヤ)、利波河(トノゴ) 土生(ハブ)、人母(ヒトブ)、福野(上町)(フクノカンマチ)、葎島(ムクラジマ)氷見市 五十谷(イカダニ)、柿谷(カイナヤ)、湖光(コウコウ)、神代(コウジロ)、指崎(サッサキ) 一刎(ヒトハネ)、柳田(ヤナイダ)、 富山県でも行政面での統廃合が進んでいました。*射水郡の4町村(大島町・小杉町・下村・大門町)と新湊市が合併して射水市が発足しています。 その結果、射水郡と新湊市が消滅しています。*上新川郡の大沢野町・大山町、及び婦負郡の婦中町・八尾町・山田村が富山市に統合され、 上新川郡と婦負郡が消滅しています。*下新川郡宇奈月町が黒部市に合併されています。*西礪波郡福岡町が髙岡市に、西礪波郡福光町と東礪波郡井波町の4町4村が合併し南砺市が発足 しています。その結果、西礪波郡と東礪波郡が消滅しています。参照資料富山県の郵便番号 :「郵便局」補遺射水市 :ウィキペディア射水郡 :ウィキペディア新湊市 :ウィキペディア南砺市 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)今までに難読地名さがしをした地域については、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。 観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 奈良県・京都府・滋賀県・大阪府・兵庫県・三重県・福井県
2020.05.01
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今日(4/28)、朝撮れのジャスミンです。この3日ほどで、白い花がぐんと広がってきました。 満開には至りませんが、かなりの広がりです。 ハゴロモジャスミンとみてよさそうです。歳時記を繙くと、「茉莉花」が夏の季語として載っています。それに、「素馨・ジャスミン」も併記されています。歳時記によれば、「茉莉花」はインド原産の常緑小低木と記されています。(資料1,2) 茉莉花の香指につく指を見る 横光利一 茉莉花を拾ひたる手もまた匂ふ 加藤楸邨 素馨とは白き香りの白き花 後藤夜半 ジャスミンのレイを掛けられ入国す 山地曙子 ジャスミンの花とて匂ひみることに 稲畑汀子ジャスミンが短歌にも詠み込まれているだろうかと、ネット検索して知ったこと:あの日本赤軍リーダーとして名を馳せ、2000年11月に大阪で潜伏中に逮捕された重信房子が、『ジャスミンを銃口に』と題する歌集を出しているという記事を見つけました。(資料3)その歌集に少なくともジャスミンを詠んだ一首があるようです。孫引きの引用です。 銃口にジャスミンの花無雑作に挿して岩場を歩きゆく君 「詩人 尾崎喜八」というサイトを見つけました。「ヘッセ詩集」(尾崎喜八訳)に「七月の子供たち」と題する詩が収録されています。「僕ら七月生まれの子供たちは/白いジャスミンの匂いが好きだ。」という一節から始まる詩です。ジャスミンが詠み込まれた詩です。(資料4) (「ヘッセ詩集」が公開されています。参照資料からアクセスしてみてください)もう一つ、思いつきで、国花という観点で調べてみました。「メラティ(マツリカ)」がインドネシアの国花で、ジャスミンの一種です。インドネシアでは、国花のほかに、魅力の花として「胡蝶蘭(ファレノプシス・アマビリス)」、希少な花として「ラフレシア」を制定していると言います。(資料5,6) アラビアジャスミン ウィキペディアから引用(資料7)「サンパギータ(Sampagita)」がフィリピンの国花。タガログ語でジャスミンの一種の「アラビアジャスミン(Jasminum sambac)」だとか。「サンパギータ」の語源は「Sumpa-kita」で、この言葉はタガログ語で「永遠の愛を誓う」ことを意味していると言います。また、この言葉にまつわる悲恋物語の伝説があるそうです。(資料5,8) (ご関心があれば、参照資料5にアクセスしてみてください。「サンパギータの伝説」が紹介されています。)インドネシアとフィリピンは同じ花をそれぞれの国の言葉で国花としているのですね。現在ジャスミン茶は世界に広まっています。中国では茉莉花茶です。ジャスミンはもともと、インドを経由し東南アジアから中国の秦の時代(206BC~220AD)に伝来したと言われ、5世紀頃には香り茶として使われていたようです。清の時代(1644~1912)に西欧に大量に輸出されたことから世界に普及したと言います。渡は西洋の紅茶ブランドからジャスミン茶を知ったのですが、廻り廻って・・・・ということになりますね。沖縄県のさんぴん茶が、西欧の人々には日本のジャスミン茶として知られているそうです。(資料9)さんぴん茶のルーツはやはり中国だそうです。「さんぴんという呼び名は中国語の俗称で、『香片(シャンピエン)』から来たとされて」(資料10)いると言います。茉莉花、ジャスミンの一語から、関心の波紋を広げると、ジャスミンのように、小さな花が次々に開いていきそうです。この辺で・・・・・。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1) 『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川春樹事務所2) 『ホトトギス新歳時記 改訂版』 稲畑汀子編 三省堂3) 125:2005年10月 第2週 重信房子 :「橄欖追放」4) 「ヘッセ詩集」より 尾崎喜八訳5) 国花 :ウィキペディア6) 胡蝶蘭を国花に指定している国 :「胡蝶蘭Station」7) Jasminum sambac From Wikipedia, the free encyclopedia8) フィリピンの国花9) Jasmine tea From Wikipedia, the free encyclopedia10) さんぴん茶 :「沖縄ポッカ」補遺ジャスミン :ウィキペディア詩人 尾崎喜八 トップページ重信房子 :ウィキペディア重信房子と連合赤軍――彷徨した若者たちの終着点 :「論座」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 庭の花咲く ジャスミン・ポピー・ツツジ へ
2020.04.28
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玄関先の樋に絡ませたジャスミンの白い花が咲き始めました。 ジャスミン、ジャスミンと呼んでいますが、辞書を引きますと、「ソケイ・マツリ・オウバイなど芳香のある花を持つ低木の総称。また、それらの花から採った香料。[モクセイ科]」(『新明解国語辞典』三省堂))と説明されています。ジャスミンという固有名称の花はないのですね。意識しませんでした。手許の図鑑『春の花』(山と渓谷社)の索引を引いて、ジャスミンの項がなかったので、国語辞典を引いてみたのです。 ウィキペディアで検索すると、ジャスミン(ヤースミーン)はペルシャ語に由来するそうですから、中近東から伝来してきたのでしょうか。ジャスミンはモクセイ科ソケイ属の植物の総称で、中国名でジャスミンは「素馨」、ソケイ属を「素馨属」と表記するそうです。辞書にある「マツリ」は漢字で書くと「茉莉」。こちらは、サンスクリット語の「マリカー」を語源とすると言います。ソケイ属の一種「マツリカ(茉莉花)」は中国名では「双瓣茉莉」だとか。(資料1)それではこの花の名前は? 和名ではハゴロモジャスミンのよう・・・・たぶん。(資料2)『春の花』には載っていません。序でに、ジャスミン茶を検索すると、中国ではジャスミン茶は北京、天津などのある華北で好まれ、福建省福州市が一大生産地なのですね。”「福州市のジャスミンと茶文化システム」として国連食糧農業機関の世界重要農業遺産システムに登録されている。”と言います。(資料3)この「世界重要農業遺産システム」には、日本では11件登録されていて、その中に「静岡の伝統的な茶草場農法」が登録されているそうです。知りませんでした。(資料4) 地に落ちた種からでしょうか、砂利の間からポツン、ぽつんと、ポピーが花開いています。アイスランドポピーでしょうか・・・・。 ブロック塀の傍に、ツツジが咲き始めてきました。 園芸は細君の趣味。私はその気になった時に記録写真を撮る方のがもっぱらの趣味。ツツジは「躑躅」。この漢字がつつじを意味すると理解できても、この漢字書けません! 漢字の読みは「てきちょく」です。「躑」は「たちもとおる。たちどまる。たたずむ」という意味があります。「躅」も「ふむ。あしぶみする。たたずむ。」と同様の意味です。(「漢字ペディア」より)ふとたちどまり、たたずんで眺めたくなる花というところから、この花をこの漢字で表現したのでしょうか・・・・・・。漢字の意味からの想像・・・・・。上掲の『春の花』には、ヒカゲツツジ、ヒラドツツジ、リュウキュウツツジ、キリシマツツジ、サタツツジ、クルメツツジ、クロフネツツジがツツジ属として載っています。なお、サツキ(皐月)とセイヨウシャクナゲ(西洋石楠花)もツツジ属の植物なのですね。知らなかった。またドウダンツツジの写真が載っていますが、こちらはドウダンツツジ属だそうです。図鑑からの豆知識です。江戸時代の長崎・平戸は貿易港として栄えました。ツツジも持ち込まれたものの一つ。武家屋敷に植えられていたツツジから選抜された園芸品種群をヒラドツツジと呼ぶそうです。オオムラサキはヒラドツツジのグループの一つだとか。キリシマツツジは「霧島山に自生していたツツジから選抜された園芸品種で、江戸時代に薩摩から各地に広まった」とのこと。サタツツジは鹿児島県南部に自生している花だそうです。クルメツツジは、「キリシマツツジとサタツツジを親として、江戸時代末期に久留米で育成された園芸品種群」だとか。クロフネツツジは、「朝鮮半島、中国北部が原産。江戸時代末期に黒船に乗ってやってきたということからこの名がある」そうです。 (資料5)もう一つ。ツツジは万葉集の時代から歌に詠み込まれています。ヤマツツジやミツバツツジ、サツキなどがツツジとして詠まれたようです。『万葉集』に「つつじ」が詠まれているのは9首、そのうち「しらつつじ」は該当しなのので、ツツジを詠んだのは6首あると言います。その一首は、 水伝ふ磯の浦廻(うらみ)の石上(いは)つつじ 茂(も)く開(さ)く道をまた見なむかも 舎人 巻2-185ヤマツツジは、全国各地で自生するそうですが、霧降高原、那須八幡温泉、葛城山、三瓶山などでは大規模な群落が見られると言います。(資料6)花からの波紋が広がりました。この辺りで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) ジャスミン :ウィキペディア2) ハゴロモジャスミン :ウィキペディア3) ジャスミン茶 :ウィキペディア4) 世界重要農業遺産システム :ウィキペディア5) 『山渓ポケット図鑑1 春の花』 野草・樹木・園芸植物 山と渓谷社 p85-926) 『萬葉植物事典 普及版』 大貫 茂著 馬場 篤[植物監修] クレオ p69補遺GIAHS Globally Important Agricultural Heritage Systems :「FAO」 Traditional Tea-grass Integrated System in Shizuoka春の花! ポピーの魅力と生け方 :「LOVRGREEN」アイスランドポピーの基本情報 :「みんなの趣味の園芸」漢字ペディア ホームページヤマツツジ :ウィキペディアヤマツツジ/やまつつじ/山躑躅 :「庭木図鑑 植木ペディア」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.04.25
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それでは、郡部での難読地名さがしに移ります。今立郡池田町 尾緩(オダルミ)、白粟(シラワ)、菅生(スゴウ)、大飯郡おおい町 名田庄納田終(ナタショウノタオイ)、大飯郡高浜町 小黒飯(オグルイ)、上車持(カミクラモチ)、子生(コビ)、難波江(ナバエ)、日置(ヒキ) 馬居寺(マゴジ)南条郡南越前町 甲楽城(カブラキ)、上温谷(カミヌクダニ)、大良(ダイラ)、燧(ヒウチ)、八飯(ヤイ) 丹生郡越前町 上戸(ウワド)、上野(ウワノ)、大樟(オコノギ)、小曽原(オゾワラ)、上糸生(カミイトウ) 気比庄(キヒショウ)、茱原(グミハラ)、小樟(ココノギ)、佐々生(サソウ)、清水(ショウズ) 陶の谷(スエノタニ)、左右(ソウ)、平等(タイラ)、三方上中郡若狭町 安賀里(アガリ)、海士坂(アマサカ)、生倉(イクラ)、無悪(サカナシ)、塩坂越(シャクシ) 神子(ミコ)、三生野(ミショウノ)、三十三団地(ミソミダンチ)、向笠(ムカサ)、武生(ムシュウ)三方郡美浜町 五十谷(イサダニ)、郷市(ゴイチ)、日向(ヒルガ)吉田郡永平寺町 栗住波(クリスナミ)、轟(ドメキ)、鳴鹿山鹿(ナルカサンガ)、松岡椚(マツオカクヌギ)、御公領(ゴクリョウ) 郡部でも前回の付記以外に変化があります。*大野郡和泉村は大野市になっています。*大飯郡の大飯町と遠敷郡名田庄村が合併して大飯郡おおい町になっています。*遠敷郡上中町と三方郡三方町が合併して三方上中郡若狭町になっています。 遠敷郡は消滅しましたが、三方上中郡という郡名が新設されています。*南条郡の今庄町、河野村、南条町が合併し、南越前町になっています。*丹生郡の朝日町、織田町、織田町、宮崎町が合併し、越前町になっています。*吉田郡の上志比村と松岡町は永平寺町と合併し、新生の永平寺町となっています。これで、福井県を終わります。お読みいただきありがとうございます。参照資料福井県の郵便番号補遺おおい町 :ウィキペディア南越前町 :ウィキペディア越前町 :ウィキペディア三方上中郡 :ウィキペディア若狭町 :ウィキペディア永平寺町 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)今までに難読地名さがしをした地域については、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。 観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 奈良県・京都府・滋賀県・大阪府・兵庫県・三重県
2020.04.22
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近畿地方を一巡しています。久しぶりに、私にとっての難読地名を、北陸地方に目を向けて、福井県からチェックしてみることにしました。まずは都市部から始めます。福井市 在田町(アイダチョウ)、足羽(アスワ)、浅水三ケ町(アソウズサアンガチョウ)、安波賀町(アバカチョウ) 天菅生町(アマスゴウチョウ)、獺ケ口町(ウソガグチチョウ)、恐神町(オソガミチョウ)、開発(カイホツ) 主計中町(カズエナカチョウ)、鹿俣町(カナマタチョウ)、上莇生田町(カミアゾウダチョウ) 上一光町(カミイカリチョウ)、上河北町(カミコギタチョウ)、上天下町(カミテガチョウ)、神当部町(カントベチョウ) 木米町(キヨネチョウ)、茱崎町(グミザキチョウ)、甑谷町(コシキダニチョウ)、小野町(コノチョウ) 御所垣内町(ゴショガイチチョウ)、宿布町(シクヌノチョウ)、椙谷町(スイダニチョウ)、曽万布町(ソンボチョウ) 竹生町(タコオチョウ)、種池(タナイケ)、殿下町(テンガチョウ)、南居町(ナゴチョウ)、花堂北(ハナンドキタ) 和布町(メラチョウ)あわら市 椚(クヌギ)、権世(ゴンゼ)、番堂野(バンドノ)越前市 不老町(オイズチョウ)、北府(キタゴ)、朽飯町(クダシチョウ)、下四目町(シモシメチョウ) 余田町(ハグリチョウ)、文室町(フウロチョウ)大野市 阿難祖地頭方(アドソジトウホウ)、下据(シモシガラミ)、下若生子(シモワカゴ)、清水(ショウズ) 土布子(ツチフゴ)、稲郷(トウゴウ)、中丁(ナカヨウロ)、西勝原(ニシカドハラ)、萩ケ野(ハンガノ) 伏石(ブクイシ)、蕨生(ワラビョウ) 小浜市 生守(イゴモリ)、奥田縄(オクダノ)、岡津(オコヅ)、遠敷(オニュウ)、堅海(カツミ) 上根来(カミネゴリ)、法海(ノリカイ)勝山市 荒土町堀名(アラドチョウホリメ)、遅羽町ほう崎(オソワチョウホウキ)、蓬生(ヨモギ) 北郷町志比原(キタゴウチョウシイワラ) 坂井市 坂井町蔵垣内(サカイチョウクラガイチ)、御油田(ゴユウデン)、春江町千歩寺(ハルエチョウセンボウジ) 丸岡町油為頭(マルオカチョウアブラタメトウ)、丸岡町女形谷(マルオカチョウオナガタニ) 鯖江市 莇生田町(アソウダチョウ)、河和田町(カワダチョウ)、当田町(トウデチョウ) 敦賀市 莇生野(アゾノ)、鋳物師町(イモジチョウ)、獺河内(ウソゴウチ)、公文名(クモンミョウ) 田結(タイ)、角鹿町(ツノガチョウ)、縄間(ノウマ)、鞠山(マルヤマ) 今回、気づいたことがありました。市町村合併が進展していました。親しんでいた地名から行政情報として私の古びた知識の更新が必要・・・・・・・。 *足羽郡が廃郡となり、美山町は福井市に合併されていた。 *坂井郡が廃郡となり、あわら市あるいは坂井市になっていた。 *大野郡和泉村が大野市に編入されている。それにより、大野郡は廃郡となった。 *「一筆啓上」で記憶している丸岡町が坂井市に合併されていた。 *武生市が廃止され、今立町との合併で越前市になっていた。なんと、知りませんでした!参照資料福井県の郵便番号補遺足羽郡 :ウィキペディアあわら市 :ウィキペディア大野市 :ウィキペディア坂井市 :ウィキペディア越前市 :ウィキペディア丸岡町 :ウィキペディア武生市 :ウィキペディア今立町 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)今までに難読地名さがしをした地域については、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。 観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 奈良県・京都府・滋賀県・大阪府・兵庫県・三重県
2020.04.20
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数回、宇治田原町の田原川堤の観桜に行きながら、先日初めてこのマンホールのふたを見つけました。田原川の堤防上の道には汚水ふたはありませんので、それ以外のところでやっと気づいた次第です。「お茶の町 宇治田原」とそのものズバリの汚水ふたです。全面的に茶畑と茶摘みの風景がデザインされています。勿論、町の木は「茶の木」で昭和46年(1971)10月15日に制定されています。このふたには使われていませんが、町の花は「さざんか」で、10年後の昭和56年(1981)11月5日に制定されました。「常に緑を保ち風雪にも耐え、しかも華麗なる花を咲かす」ということから、町の花になったそうです。さらに5年後の昭和61年(1986)10月3日に、「メジロ」が町の鳥に制定されています。「人々に親しまれる可愛い鳥」であり、「羽毛が緑色」というところがポイントになったとか。(資料1)宇治田原はどういう経緯で「お茶の町」になったのか?鎌倉時代初期に、日本で臨済宗の開祖となった栄西が、宋から帰国する際に茶を持ち帰り、喫茶の風を広め、『喫茶養生記』を著しています。現在の日本の茶の直接の源は栄西だと言います。そして栂尾・高山寺の明恵が栄西から贈られた茶をもとに、茶園を作ったことから、栂尾茶、宇治茶などが広がったということは、以前に知りました。尚、栄西以前にも、茶は日本に伝わってはいたようです。一つは、拙ブログで、”探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて” をご紹介した折に、京阪電車坂本駅の傍の「日吉茶園」をご紹介しています。最澄が入唐求法し天台山で学び、帰国の折り茶の実を持ち帰り、比叡山山麓坂本の地に蒔かれたというものです。こちらからご覧いただけるとうれしいです。また、「平安初期に、永忠たちがもたらした茶は、宮廷や一部の貴族たちのあいだで、特権的気分の濃厚なものとして流行したが、すぐすたれてしまった」(資料2)という説明もあります。しかし、宇治田原への茶の広がりの経緯は知りませんでした。調べてみますと、「伝承によれば、奧山田茶屋村にある寄代坊の光賢が、拇尾のお茶の実を、明恵の弟子の光音から譲り受け、大福谷のあたりに畠を拓いて植え、さらに湯屋谷の湯原寺の賢永がこれを田原郷に移したとされています。」(資料3)とのことです。大福谷の穂先茶は宮中や鎌倉将軍に献じられたと言います。江戸時代、1681年(天和元)に宇治田原湯屋谷に生まれた永谷宗七郎義弘(宗円)が1738年(元文3)、58歳のとき当時の製茶法に改良を加えたそうです。茶葉を蒸して手もみし、焙炉(ほいろ)で乾燥させる緑茶を考案したのです。つまり、「永谷式(宇治製)煎茶製法」で煎茶をつくり出したと言います。(資料3,4)宇治田原は日本緑茶発祥の地となります。宗円が生まれる30年ほど前、つまり1654年(承応3)に隠元が63歳で来日し、宇治に黄檗山萬福寺を創建しています。黄檗宗の開祖です。この隠元が大陸の新たな文化とともに、当時の明で流行していた煎茶を日本に持ち込まれたのです。それを契機に文人墨客の間で煎茶が流行するようになります。江戸中期、宗円と同時代に、黄檗宗の僧で、売茶翁として有名になった僧月海(1675-1763)がいます。煎茶人として知られ、煎茶中興の祖と言われるそうです。(資料5)永谷宗円は自ら茶を携えて江戸へ向かい、日本橋の茶商山本嘉兵衛を通じて煎茶を売り出し、宇治茶発展の基礎を築く人物となります。その煎茶が高品質なことで評判となり、山本家の屋号「山本山」の名が広く知れわたることにもなったとか。(資料3,4)湯屋谷の谷川沿いの道を奥に入ると、永谷宗円生家跡に至るそうです。私は現地を未訪ですが、手許の本によれば、屋敷跡に残されていた焙炉を保存するために、1960年(昭和35)に「永谷宗円生家」として萱葺きの民家が建てられ、2007年(平成19)には屋根の葺き替え、庭の整備も行われていると言います。(資料4)毎年5月には、ここで新茶まつりが実施されています。(資料6)新型コロナウィルスの影響で今年はどうなるでしょうか・・・・・。元に戻ります。 道路ウォッチングで目にとまったのが、仕切弁です。小さな円が同心円としてデザインされています。水滴のイメージでしょうか。単なるデザインなのでしょうか。中央に見えるのは、宇治田原町の町章です。公募により、昭和44年(1969)11月21日に制定されています。「うじたわらの『う』の字をデザイン化し、本町の伝統産業であるお茶、その花の『つぼみ』を表現したものです」とのこと。(資料1)余談ですが、永谷園という会社があります。永谷宗円の名前から連想して関連があるのだろうかと思い好奇心から調べてみました。会社のホームページからは情報が得られませんでした。しかし、ウィキペディアで「宗円の10代目にあたる永谷嘉男によって創業された」という説明をみつけました。やはりリンクしていました。(資料7)序でに、汚水ふたに、茶摘みをする女性が描き込まれています。検索してみて、浮世絵に描かれた茶摘みの風景を見つけました。引用します。 一つは、宇治茶摘み図です。無款の浮世絵です。(資料8) こちらは、大日本物産図会の一つとして描かれた「山城国宇治茶摘図」です。(資料9)では、現在の茶摘みとしてはどうか? 「【2018年春版】京都・滋賀・奈良で茶摘み体験ができる茶農園」という記事には、ふたにデザインされた雰囲気を彷彿とさせる風景の写真が掲載されています。こちらからご覧ください。(「Teapot Nag. お茶と日常を旅するマガジン」より)これでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) シンボル :「宇治田原町」2) 『茶の話 茶事遍路』 陳舜臣著 朝日文庫 p1863) 日本緑茶発祥の地 宇治田原 :「宇治田原町」4) 『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p895) 売茶翁 :「コトバンク」6) 永谷宗円生家新茶まつり :「お茶の京都」7) 永谷園 :ウィキペディア8) 宇治茶摘図 無款 9) 山城国 大日本物産図会 :「山星書店」補遺永谷宗円 :ウィキペディア喫茶 :「Flying Deity Tobifudo」古典作品にみる鎌倉④ 喫茶養生記1 :「2F/当番ノート」隠元 :「コトバンク」売茶翁 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧
2020.04.16
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