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=== 2023.8.7 === 南の空15時25分頃に撮りました。午前中に撮るのを失念。南西方向の空 西方向の空 東方向の空いずれの方向も曇り空。 東方向の空18時20分過ぎに眺めるとくもり空のまま。すこし雲の姿に変化があります。 南の空南西方向の空 西方向の空 一日、くもりでした。=== 2023.8.8 ===9時25分頃には雨が止んでいました。早朝に雨が降ったのでしょうか。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空雲の姿を見ると、雨が降るときの空模様という感じの雲です。 東方向の空17時過ぎに眺めると、銀鼠色はそれほど変わりませんが、雲の姿は大きな塊りの雲になり、青空が少し見えます。 南の空雨がふることはなく、曇りから晴れに変化。白雲が浮かび青空が見えるように。南西方向の空 西方向の空 くもり後晴れという天気になった一日です。さて、雲がたりのつづきです。真民さんの全詩集は、「三昧」という詩集が続きます。この中に「八木重吉氏に」と題する詩が載っています。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社) あなたが生きていたら 手を取りあって話したい気がする 林檎をむきあって食べたい気がする 一輪の花の心を二人で語りあいたい気がする 夕焼けの雲の下に黙って坐っていても 温かく心は通う気がする でもあなたはもうこの地上へはおりてこない 手を握りあうことも 林檎を食べあうことも 花を見雲のかがやきを語りあうことも できなくなってしまった ああせめてあなたのいる天国の夢でもみよう あなたと一緒に天国の園でも散歩しよう そう思ってあなたの詩集を 今日も枕べにおいて寝る 八木重吉氏って誰? 最初の疑問。詩を読むと「あなたの詩集」と記されています。詩人で、既に亡くなった人である。真民さんは八木重吉の詩集を介して、重吉さんと心の対話を繰り返していても、実際に会う機会がなかったのかなと感じました。少し調べてみました。八木重吉(1898-1927)は詩人であり英語教師。結核により29歳で没した。詩集『秋の瞳』(1925年)を刊行した。学生時代にキリスト教の洗礼を受けた人。(資料1,2)一方、真民さんは、1909年生まれで、熊本県立玉名中学校を経て1931年に神宮皇學館を卒業。1927年に没した八木重吉さんとは会う機会はなかったでしょうね。(資料3)八木重吉の詩集『秋の瞳』は「序」から始まり、短詩が続きます。その中に、空と雲の絡みで言えば、次のような短詩が含まれています。(資料4) 息を殺せ 息を ころせ いきを ころせ あかんぼが 空を みる ああ 空を みる おほぞらの こころ わたしよ わたしよ 白鳥となり らんらんと 透きとほつて おほぞらを かけり おほぞらの うるわしいこころに ながれよう しづかな 画家 だれでも みてゐるな、 わたしは ひとりぼつちで描くのだ、 これは ひろい空 しづかな空、 わたしのハイ・ロマンスを この空へ 描いてやらう 無造作な 雲 無造作な くも、 あのくものあたりへ 死にたい 大和行 大和の国の水は こころのようにながれ はるばると 紀伊とのさかひの山山のつらなり、 ああ 黄金のほそいいとにひかつて 秋のこころが ふりそそぎます さとうきびの一片をかじる きたない子が 築地からひよつくりとびだすのもうつくしい、 このちさく赤い花も うれしく しんみりと むねへしみてゆきます けふはからりと 天気もいいんだし わけもなく わたしは童話の世界をゆく、 日は うららうららと わづかに白い雲が わき みかん畑には 少年の日の夢が ねむる 皇陵や、また みささぎのうへの しづかな雲や 追憶は はてしなく うつくしくうまれ、 志幾の宮の 舞殿にゆかをならして そでをふる 白衣の 神女は くちびるが 紅いこの後、「彫られた 空」「夾竹桃」「雲」「在る日の こころ」「痴弱な手」「胡蝶」「おほぞらの 水」「空が 凝視てゐる」「むなしさの 空」「こころの 船出」「追憶」「鳩が飛ぶ」「怒れる 相」「白い 雲」「春も 晩く」「ひとつの ながれ」「空と光」という短詩にも、空、あほぞら、雲が詠み込まれています。この詩集に、「白き響」という短詩が含まれています。 さく、と 食へば さく、と くわるる この 林檎の 白き肉 なにゆえの このあわただしさぞ そそくさとくひければ わが 鼻先きに ぬれし汁 ああ、りんごの 白きにくにただよふ まさびしく 白きひびき真民さんが「林檎をむきあってた食べたい気がする」との一行を記すのは、この「白き響」を連想していたのかもしれないなと感じます。最初に、真民さんの詩集『六魚庵天国』を引用しました。参照の全詩集・第一巻の「あとがき」の冒頭には、「この天国ということばは、キリスト教でいうような天国ではなくて、今にも風に吹き飛ばされそうな小さい家に、妻と三人の子たちがいる。そこだけが天国、つまりわたしをやすらかにさせ、生きる力を与えてくれる、そういう処だという意味の天国なのである。その頃は、信仰的なものは殆どなかったので、地上の小さな天国、幸せの住み処という特別な思いをこめて名付けたのである」と記されています。しかし、この「八木重吉氏に」の詩では、キリスト教での天国を意味しているのでしょう。雲の変化に戻ります。=== 2023.8.9 ===朝、雨が降っていました。晴れで陽が沈んだのですが、どこかの時点で雨に変化したのでしょう。 南の空南西方向の空 窓際から二方向だけ撮りました。 観測経験では、こういうグレーの布を広げたような雲のときは雨の確率が高い気がします。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空15時45分頃に撮りました。その後に雨は止み、午後はくもり空が続きました。つづく参照資料1) 八木重吉 :ウィキペディア2) 八木重吉の年譜と文学活動 :「八木重吉記念館」3) 坂村真民先生プロフィール :「蓮華院誕生寺」4) 秋の瞳 八木重吉 :「青空文庫」補遺八木重吉記念館 ホームページ八木重吉 #詩 #朗読 YouTube 八木重吉の詩集【秋の瞳】より「白き響/ほそいがらす/白い枝/秋」八木重吉/秋の瞳より7詩#朗読#詩 YouTube【読み聞かせ】八木重吉 名詩10選、元放送局アナウンサーの大人の朗読 睡眠導入、作業時間にも。【心豊かな人生にもっと朗読を!】 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!83(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.19
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新町通を上ります。蛸薬師通との辻を越えると六角町。北観音山の手前に、山鉾巡りをするたびに通りから拝見する屏風飾りがあります。一つがこの町家です。通りに面して開放された窓越しに眺める座敷には、南北両側に屏風が立てられています。 山の精巧なミニチュアもすばらしい 西億の座敷にも屏風が飾ってあります。その西の中庭までが開放されて、屏風祭が行われています。手前の生花が適度な目隠しの役割も果たしています。京都特有の間口が狭めで奥行の深い町家の様子が見て取れます。 ユーモラスなお多福像! 北観音山のすぐ傍のもう一軒の町家の屏風祭。こちらは通りに面した戸が取り除かれて、一層開放的な状態で拝見できます。正面から西奥の座敷に置かれた屏風 道路に面した東側の広い座敷。高い屏風が立つ方向が北側です。 ここは、毎年この広い座敷空間に絨毯が敷き詰められ、西と北に屏風が飾られています。小袿(コウチギ)が展示されていますが、毎年異なるように思います。これも特徴。 西奧に中庭が遠望できます。ズームアップで。 新町通の南側から眺めた北観音山。山の後部側です。 六角町は江戸時代、三井家などの有力商人が屋敷を構えていたところです。 近くには案内碑や駒札が設けてあります。以前の拙ブログ記事でご紹介しています。 この山も、時計回りに南側から見上げて行きます。 一見、鉾に見えますが、屋根の上に真松が立つことで曳山であるとわかります。町文書に文和2年(1353)の創建と伝えられています。この北観音山は、南観音山と一対のような感じです。本尊は同様に楊柳観音です。巡行当日には、山舞台に楊柳観音像と脇侍の韋駄天立像が安置されます。こちらは、「上り観音山」とも呼ばれています。今年は第6番での巡行です。 今年は天水引に雲龍図が使われています。 鉾と同様に下水引、二番水引、三番水引が重ねてかけてあります。 下水引は中島来章の下絵による「関帝祭の図」と伝えられる人物風景です。二番水引は「赤地牡丹唐草文様綴織」、三番水引は「金地紅白牡丹文様唐織」こちらの二枚は平成18年(2006)より使われ、江戸時代の姿を復元新調したものです。上掲の前懸は19世紀のペルシャ絨毯。この西面の胴懸はインド絨毯「斜め格子草花文様」の復元品 北観音山は元は屋根がなかったのですが、江戸時代中頃に障子屋根と取り付け、天明の大火で焼失後、復興を果たし、寛永9年(1797)に屋根を建造、天保2年(1831)に現在のような大屋根の姿になったそうです。大屋根の内側には折上格天井が設えてあります。 埒(ラチ)から山の躯体部分の舞台裏が見えました。山の胴体を組み上げて荒縄で頑丈に縛り付けるのです。これも伝統技術そのものです。その荒縄のしばり方の美しさは裾膜などで見えなくなります。その一部を見る事ができました。山鉾建てを眺めに行くと、この荒縄で縛るプロセスをじっくりと観察できます。以前の拙ブログでご紹介しています。 山の北西角 山の正面側黒漆塗の欄縁は唐獅子牡丹等錺金具で華麗に装飾されています。 北東側から 天水引 四隅の房掛金具は祇園守(キオンマモリ)と称される意匠です。祇園守は京都八坂神社が配布するお守りのこと。また、八坂神社の本殿裏にはムクゲの一種、祇園守の花が咲くそうです。 見上げて写真を撮っているとき、山の正面側に金幣が取り付けられました。 南東側東側面の胴懸はトルキスタン絨毯です。山の周囲を一巡りして、後部に戻ってきました。 大屋根の後部の破風飾りを切り出してみました。 こちらは正面側の破風飾です。これらの木彫雲鶴は片岡友輔の作。 新町通の北側から眺めた駒形提灯 再び、北観音山の正面側を眺めつつ、新町通をさらに北に上ります。次は八幡山です。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*北観音山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)*北観音山 :「祇園祭」*祇園守紋 :「家紋のいろは」*八坂神社に咲く祇園守 :「京都旅屋」補遺北観音山 facebook【祇園祭2022】北観音山 屏風飾りとお囃子 Kyoto Gion festival KITAKANNONYAMA Byoubumatsuri祇園守紋 :「家紋の由来」祇園守 :「note okami」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!83(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 大船鉾 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 南観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 八幡山・屏風祭・鷹山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 役行者山・黒主山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 鯉山・橋弁慶山・浄妙山・鈴鹿山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 7回のシリーズでご紹介観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 7回のシリーズでご紹介
2023.08.18
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四条通を横断し、新町通を北に入ると、前祭で巡行した放下鉾の会所が見えます。入口の右側柱には「放下鉾保存会」の表札が掲げてあり、入口の左側にはかなり読みづらくなってきている駒札が立っています。その後に住所表示板が見えます。小結棚町です。錦小路通を越えると、百足屋町で、南観音山のあるところ。一見、鉾の形をしていますが、屋根の上に真松が立てられた曳山です。7/24の山鉾巡行で今年は第2番目の山に。同じく「くじ取らず」の北観音山と第2番目、第6番目を隔年で交替にすることになったとか。(残念ながら今年は巡行の方は観覧に行けませんでした。)この山の本尊は楊柳観音像で脇侍に善財童子が安置されます。楊柳観音は人々を病気の苦しみから救済するという観音様。巡行当日は、山の後部に大きな柳の枝がその象徴として垂らされます。 南西側から見上げた姿。 水引は、加山又造原画による「飛天奏楽図」。平成12年(2000)作。 ズームアップ後懸は、イラン・ミリー工房製の「中東連花水辺に魚文様」の絨毯。平成22年(2010)に新調。 胴懸はペルシャ花文の緞通。 三番水引は宛色朱子地雲龍図の刺繍。平成5~7年(1993~1995)に復元新調。 天水引は下川文麟の下絵による「緋羅紗地四神文様刺繍」で、これは近年の復元新調。四方の神のうち、青竜は東の方位の神です。 天水引の朱雀は南の方位の神です。 屋根の破風飾は、塩川文麟の下絵を元に木彫装飾が製作され、弟子の幸野楳嶺が彩色したものだそうです。仙女と麒麟が見えます。明治221年(1888)作。 前懸は、金糸、銀糸を含め19色の絹糸で幾何学文様の図柄を再現新調したものです。山を回り込みます。 四角には、木彫漆箔四君子文薬玉角飾が取り付けられます。これは「蘭」をモチーフとした薬玉です。 こちらは「菊」をモチーフにした木彫薬玉角飾 破風飾には仙女と龍が彫刻されています。天水引は玄武で、北の方位の神です。 山の裾幕として緑色の網状の幕が使われています。今年初めて気づきました。 これで南側から南観音山を時計回りに一周したことになります。 山のすぐ近くで、南観音山の懸装品の保存品や団扇絵などが展示されています。 ガラス戸に反射して写真が撮れません。この1枚だけです。 新町通の北側から眺めた駒形提灯の全景。こちらが山の正面になります。蛸薬師通を越えて、次は北観音山です。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*南観音山 :「祇園祭」*祇園祭-南観音山の名宝- :「京都文化博物館」*南観音山 :「ざ京都 京都観光、案内のポータルサイト」*祇園祭 納入実績 :「KAWASHIMA SELKON」*京都・祇園祭後祭の山鉾の巡行順が変更へ 記者会見で発表(2023年6月22日、京都市東山区・八坂神社) :「京都新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!83(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 大船鉾 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -3 屏風祭・北観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 八幡山・屏風祭・鷹山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 役行者山・黒主山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 鯉山・橋弁慶山・浄妙山・鈴鹿山こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ 7回のシリーズでご紹
2023.08.17
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=== 2023.8.5 === 南の空9時55分頃に撮りました。良く晴れた青空にふわっと子雲が集まっています。 左上に親雲がいるような・・・・。南西方向の空 西方向の空 さらに子雲の後に、ちょっと年かさの子雲が続いて行く感じで。 頭上の空 東方向の空稜線上に青空が見え、その上に雲が広がって漂っています。稜線上よりかなり手前に浮かぶ雲のような印象を受けます。近接感ありです。 東方向の空17時5分頃に眺めると、稜線上は雲が消え、青一色です。 南の空南の遠くに雲が見え、近くは青一色。 ズームアップして雲の姿を切り出しました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 まさに快晴の空と言えますね。 南の空 18時半頃に撮りました。こちらの白雲は近い感じです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南東方向の空 少しズームアップして、雲を撮ってみました。 東方向の空 稜線上にわずかに雲が出ています。少し方角を変えて、ズームアップして撮ると、視野が狭くなり東の空全体は見えません。熱中症警報アラートが連日の最中だったと思います。晴れた日でした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの詩集『続六魚庵天国』には、「火見櫓」と題する長い詩があります。三部構成の詩文のパート2にあたるところに、「雲」が出て来ます。 火見櫓はどこにもある 今わたしが仰いでいるのは故里ならぬ 四国南の海辺の町に高く聳えるもの 火を告げる鐘 それを打つ槌(ツチ) 雲をいただく鉄の梯子(ハシゴ) いつもかんかんと鳴り響く用意をしている櫓(ヤグラ) 今その上を飛ぶのは 凧(タコ)ではない 一羽の鳶(トビ) 啼かない 一羽の鳶 今のわたしの 一羽の鳶 わたしが舞わせている 孤独な鳶 それはわたしの心に いつか巣くっていたものだった (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)京都市の南部で生まれ育ったが、火見櫓の実物を見たことがなかった。絵や写真としては知っていたけれど。ごく最近、あるブログである地方の火見櫓の写真をよく拝見するようになった。そして、ちょと検索していて、京都市内にも火見櫓が実在することを知った。勿論、早速探訪してみた。それに付いてはまた別稿にて・・・。を改めたい。パート1は故里の火見櫓を回顧する。その上を飛ぶのは凧。今、著者は「一羽の鳶」を想念として眺めているようだ。舞い飛続ける一羽の孤独な鳶は、詩の世界を歩み続ける著者の孤独感を反映しているのだろうか。この詩集で見つけたのはこの箇所ひとつ。雲の変化に戻ります。=== 2023.8.6 === 南の空9時20分に撮りました。空にはぐ~んと雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけては、それほどには雲が凝集していません。 頭上の空 頭上も同様です。 東方向の空それに対して、稜線上は白鼠から銀鼠という色合いの雲に覆われています。 東方向の空15時5分頃に眺めると、稜線上空の雲の変化は様変わりです。白鼠色の雲が主流になり青空を筋状に見せながら層を成すように浮かんでいます。 南の空逆に、南の方には銀鼠色の雲が張り出しています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけても同じです。天気は晴れからくもりに変化です。 頭上の空 南の空 17時25分頃に眺めると、雲の姿は変化しても、空を覆う点では同じ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空一方、逆に稜線の上空は、大きな塊になった雲が浮かんでいますが、青空は一層広がっていました。西・南がくもりなら東は晴れという空模様。天気の変化はおもしろい。つづく[覚書] このブログ記事を書いている頃に、台風7号(ラン)の中心は和歌山県に上陸した後、北西寄りに進み、15日13時45分の気象庁発表によると、13時の実況:兵庫県に上陸、中心気圧985hPa、最大風速 30m/s (55kt)、最大瞬間風速 40m/s (80kt)。こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.15
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7/23は祇園祭後祭の宵山です。午前を主体に、山鉾町を巡ってきました。後祭の山鉾は四条新町南入ル四条町に鉾建てされた「大船鉾」が最南端に位置します。ここを起点にして山鉾巡りをしました。その覚書を兼ねたご紹介です。大船鉾は後祭山鉾巡行では、殿として最後に巡行を締めくくる鉾になります。前祭の船鉾と同様に、鬮とらずの鉾です。前祭山鉾巡行の殿である「船鉾」に対して、こちらは神功皇后が凱旋した船に由来する船形の鉾です。平成26年(2014)7月、大船鉾は150年ぶりに再建、復興しました。これを契機に、後祭が49年ぶりに復活されるに到ったのです。昭和41年(1966)から平成25年(2013)の約半世紀は、7/17に後祭が合一されて山鉾巡行が行われてきました。それが本来の形の山鉾巡行の復活となりました。私の記憶での山鉾巡行は、この合一された山鉾巡行から始まっています。四条通を西に進み、新町通を南に入ると、大船鉾が見えます。 大船鉾の周辺は、混雑を避けるために一方通行の制限が設けてありました。北に向かって鉾建てされた大船鉾の右舷側(通りの東側)を北から南へ、左舷側(通りの西側)を南から北への一方通行です。今年は船首に、大金幣(文化10年/1813年作)が飾ってあります。大金幣の幣の部分が今年新調されました。巡行当日までは鉾に覆屋が設けられています。巡行では勿論覆屋は撤去されます。 右舷側全景 前懸 三飛翔龍に波濤の図です。 船体を覆う胴懸は二色の幕。渡来赤羅紗無地平織裁ち布縫い合わせと称されています。19世紀ヨーロッパ製。色は船鉾と同じですが、船鉾との違いは二色の配列が縦方向だという点です。 高欄の下の水引は刺繍製で「渡来赤羅紗地 飛龍に波濤の図」です。 大船鉾の後部。艫櫓と梶がやはりハイライトです。「祇園祭」の企画特集によれば、今年はこの艫屋根の漆箔と軒下刺繍幕が完成したそうです。一方、7/22にテレビ報道で、ベトナム国営放送から日越国交樹立50年を記念して、大船鉾に「繻子地雲龍文刺繍軒幕」の贈呈式があり、幕が披露されたというのを見ました。大船鉾は再建・復興後、さらに一歩一歩、その威風を整える途上にあります。この変化を眺めに行くのが楽しみとなる鉾です。 後懸今までは、「飛翔龍に波濤の図」が使われていましたが、これは初めてかと思います。少し調べて見ましたが、資料なく名称等不詳。 艫高欄懸は刺繍製「渡来赤羅紗地 飛翔鳳凰の図」です。17世紀日本製。三方、それぞれ鳳凰の飛翔の姿が異なります。艫高欄の下部には極彩色の肉厚木彫装飾が施されています。 梶(カジ) 刺繍製「渡来赤羅紗地 降り龍と波濤の図」 19世紀日本製。 五爪の金龍と波濤文様が織と刺繍で製作されています。 先に、反対側をご紹介。 新町通の南側から駒形提灯を眺めた景色です。 南西側から大船鉾を眺めた全景 左舷、船首部を見上げた景色 水引は右舷側と同じで、飛龍に波濤文の金糸刺繍です。 飛龍の姿は、船鉾の大舵を飾る螺鈿細工の飛龍と同類です。 二番水引は綴織裂で「祥雲文に散らし花文様の図」。19世紀の日本製。 大金幣の全体が一番わかりやすい角度かも知れません。 屋形の唐破風屋根の内側、つまり屋根の裏側です。 舳先の前水引は刺繍製「渡来赤羅紗地 飛龍に波濤の図」。平成28年(2016)復元新調。同種の飛龍があざやかに刺繍され、一方波濤文様は水引とは少し変化した文様です。 埒(ラチ)今年は、会所内の飾り席の正面に、御神体の人形を拝見しました。御神体の神功皇后像は鎧を脱ぎ狩衣をまとった姿の人形です。住吉明神・鹿島明神・安曇磯良の三神が共に鉾に安置されます。上掲の駒札によれば、屋形の前に住吉明神、艫部に鹿島明神、舳先に龍神の安曇磯良(アズミイソラ)に安置されるそうです。ぐるりと眺めながら一巡した後は、四条通を横断して新町通を上ります。新町通の北方向には、南から順に、南観音山、北観音山、八幡山と3つの山鉾が点在しています。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*大船鉾 :「祇園祭」*大船鉾 ホームページ*祇園祭の山鉾巡行 「大船鉾」に新装飾品 ベトナムから寄贈 :「NHK」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 南観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -3 屏風祭・北観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 八幡山・屏風祭・鷹山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 役行者山・黒主山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 鯉山・橋弁慶山・浄妙山・鈴鹿山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.14
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=== 2023.8.3 === 南の空9時20分頃に撮りました。快晴。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空には横雲が浮かび、グレーの空です。 東方向の空15時45分頃に眺めると、雲の姿はかなり変化がみられます。青みがかった空に。 南の空 白雲が大きく広がっています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向には雲は少しです。 頭上の空 南の空18時25分頃には、また雲の姿は大きく変化しています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけても雲がかなりかかってきました。 頭上の空いずこの方向も、雲の姿を主体に見るということでは青空とのバランスがいい感じ。 東方向の空 東方向の空19時10分頃にも撮ってみました。稜線上空に夕焼け雲が見えました。 南の空 夕焼け雲の部分をズームアップ!南西方向の空 西方向の空 西の空にも少しだけ夕焼け雲が見えます。晴れた一日でした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの『六魚庵天国』には、「六魚庵の泉」と題する詩にも「雲」が出て来ます。 六魚庵には井戸があったが 浅くて水は飲めなかった すぐ近くに湧き出る泉があって からはじまります。著者は「コギトの泉」と呼び 水を汲みにゆくのが 私のきまった日課だった 時には茜の雲が映り その紅(アケ)ごと汲むことがあった そんな日はわたしの心も 晴れ晴れした と詩のなかばに「茜の雲」が詠み込まます。 29行の長い詩は、次の4行で終わります。 時の流れの返らぬことを 春行き夏去り秋となり 冬の早いことを いつもこんこんと教えてくれた 、「六魚庵主の願い」という詩にも詠み込まれています。こちらは全文引用です。 人生を愛するが故に 詩を愛する わたしの詩は そこから生まれなくてはならない ひとりのなげきが 万人のいのちとなり ひとりのよろこびが 万人のちからとなり 水のように清められ 雲のように高められ 虹のように色どられ 幼な子のように 詩神の前に跪きたい わたしの詩も そこまで行かなくてはならない (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社) 詩に対する著者の気高き信念を感じる・・・そんな詩です。雲の変化に戻ります。=== 2023.8.4 === 南の空9時20分頃に撮りました。雲が集合! 小型の雲が集まってきたという感じ。青空が程よく見えます。南西方向の空 西方向の空 南西から西にかけては、雲の雰囲気は張り出してきたという感じ。ぐんと詰まっています。 頭上の空 ちょっとズームアップして夾雑物を避けて、南東方向の空を切り出すと、全く姿が違った雲の姿です。やや護送船団風の雲の集まりです。 東方向の空稜線上空の雲の姿も全体図は珍しい形です。青空なので白雲が映えます。 東方向の空15時5分頃に眺めると、全く様変わりに。夏雲昇るという景色です。コントラストが良いですねえ・・・・。夏空の定番って感じ。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空18時35分頃に撮りました。青空には白雲が広く漂っていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空頭上を含め、南から南西、西方向への雲の広がりとその姿もおもしろいですね。高積雲:ひつじ雲と称される部類の雲になるのでしょうか。ウ~~ン。 南東方向の空 東方向の空 稜線上空の雲もまた、様変わりです。ほんと、雲の変化は激しいですねえ。つづく補遺雲の種類は10種類!高さなどの特徴やめったに見られない珍しい雲もご紹介!:「じゃらんニュース」ひつじ雲 と うろこ雲 を見分ける :「hiroshima-times ひろしまnews」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.13
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=== 2023.8.1 === 南の空9時過ぎに撮りました。小粒な雲が浮かんでいるだけで青空が広がっています。快晴!南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空に目を転じると、稜線上空には夏雲が伸び上がっています。 東方向の空13時25分頃に眺めると、稜線上の雲はさらに大きくなっています。白雲に微妙にグレーの色調が様々に微妙な変化を加えている感じです。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲が少し増えました。 南の空17時25分過ぎに眺めると、雲の密度は高まっています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 やはり夏雲らしいな・・・。 東方向の空稜線上空はすっかり雲に覆われています。雲の姿は大きく変化していました。 東方向の空1時間後、18時35分頃に再度眺めると、大きな変化はありませんが青空が少し見えます。 南の空はおおきな雲の塊に変化していました。雲は白鼠(銀色)がかっていました。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向の空は雲が少なく青空が広がっています。 頭上の空方向により、雲の広がり具合にかなり変化が見られます。晴れた一日であったことは良かったのですが、暑い日でもありました。8月も7月の暑さと変わりなくクーラーに頼る日々が続きます。さて、久しぶりに雲がたりを加えます。手許の書架に『坂村眞民全詩集』(大東出版社)全六巻があります。背表紙には「眞民」と記されていますが、奥書では「真民」と表記されています。以降、真民と表記します。第一巻の奥書をあらためて見ると、手許の本は平成2年(1990)10月の5版。初版印刷は昭和60年(1985)10月となっています。真民さんのある詩の一節に心惹かれて全集を買い揃えたのです。それ以来、時折部分読みはしてきましたが、通読してはいません。真民さんが、詩の中で雲を詠みこんでいるか。詠み込んでいるとしたらどのように取り上げているだろうか・・・・。そんな思いから、この機会に通読を兼ねて、該当箇所を少しずつ引用ご紹介していきたいと思います。そんなつもりで第一巻を繙いたら、「六魚庵天国」という詩集から始まります。その最初の詩が「六魚庵箴言」と題する詩。この詩の「その二」に「雲」が出て来ます。 貧しくとも 心はつねに 高貴であれ 一輪の花にも 季節の心を知り 一片の雲にも 無辺の詩を抱き 一碗の米にも 労苦の恩を思い 一塊の土にも 大地の愛を感じようこの詩は「その四」まであります。「貧しくとも 心はつねに 高貴であれ」 このフレーズ、いいですねぇ・・・・そうありたい!次の「六魚庵偈文」という短い詩にも、雲が詠み込まれていました。 死んでも 空の青さがあり 墓石なくとも 雲は 悠々の 影をおとしてゆく 日月星辰 また変わるなし 噫(ああ) 以て安心立命せん 以て瞑目し往生せん「雲は 悠々の 影をおとしてゆく」 毎日雲の姿を眺めていますと、雲は悠々ということを実感として感じます。来たりては悠々と過ぎ去っていく。ずっと留まり続けることはない、晴れた日の山並みを見ていると、雲が影をおとして移り行くという事象を山の緑の濃淡の移ろいで実感します。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.8.2 === 南の空13時25分頃に撮りました。大小様々に大きさと形が違う雲が青空を背景に浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の姿っておもしろい。全く同一の姿ってないですね。 東方向の空稜線上空がはっきりと二層に分かれています。夏雲群団と青空に。 東方向の空16時頃に眺めると稜線上空は様変わり。今度は大きくは二つの雲の塊が二層になっている感じです。青空はどこへやら。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空18時45分頃にも撮ってみました。この雲の状態もそうそう見かける姿ではありません。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上は再び力を取り戻したかのように、雲が湧き起こっています。正に千変万化です。つづく補遺坂村眞民記念館 公式サイト 坂村真民について坂村真民 詩 :「臨済宗円覚寺派大本山 円覚寺」坂村真民の名言 :「地球の名言」念ずれば花開く…「祈りの詩人」坂村真民の世界 作品に込められた“優しさと愛情”【岡山・高梁市】 :「8OHK」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.12
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8/8に四条に出る用事があったので、細見美術館に行くことと併せて出かけました。美術館からの帰路、三条大橋にさしかかると、木製高欄の更新作業の関連で設置されていた囲いを撤去する作業がなされていて、最後の段階でした。そこで、木製高欄が更新された結果を撮る事ができました。冒頭の景色は三条大橋の北側(上流側)です。 東詰北側の高欄傍から、北側の高欄の更新後の景色を撮ってみました。最終作業段階だったので、未だ立入禁止。おかげでスッキリとした欄干の景色が撮れました。 東詰南側の高欄 南側の橋上の歩道はかなり前から通行できるようになっていました。 しかし、囲いの柵が設けてありましたので、このスッキリした姿は初見です。 南側歩道を進み、橋の途中、西側から欄干を撮った景色 西詰には小ぶりな弥次さん喜多さんのブロンズ像が立っています。その近くから橋の南側を眺めた景色。 鴨川の河川敷を三条から四条まで、久しぶりに歩いてみることにしました。ここを歩く人は少ないので、コロナ禍が下火とはいえ、疎な空間として歩くのに利ありです。人を気にせずにすみます。 この景色の左側に「みそそぎ川」が流れています。 こちらが「鴨川」。特に、三条大橋から南の四条大橋の間は、ずらりと人々が河川敷に座り込んで一時を楽しむという名物スポット。熱中症警戒アラートが毎日のように出ているこの時期、昼間にはさすがに人々の姿は閑散とした状況でした。 すぐ傍、みそそぎ川の西側に鴨川をどりで有名な「先斗町(ポントチョウ)歌舞練場」があります。 三条大橋と四条大橋の中程から、三条大橋を眺めた景色。左側、みそそぎ川のその上に、張り出して架設された「納涼床(川床)」が並んでいます。納涼床の夜のきらめきは、京都の夏の風物詩の一つです。ほどんどが、夏季にだけ架設されるものですが、年中設置されている川床もあります。右側の河川敷の芝生のところに、人の列ができます。座り込んだ人々の中間に次のカップルらが座るからでしょうか、橋の上から眺めるときれいにグループごとで等間隔に人の列ができています。 立ち位置からズームアップした三条大橋ここからは序でに、余談です。 南に向きを変えれば、四条大橋の景色です。みそそぎ川の上に設けられた「川床」の構造体が並んでいます。 四条大橋をズームアップ。右側の、四条大橋東詰の隣り、四条通の南側に見える瓦屋根は「南座」です。南座の前、四条通北側にはいまやレトロな風貌となった、大正15年(1926)竣工のビルディングがあります。老舗のレストラン菊水があるところ。 逆に、四条大橋西詰南側には、もう一つのレトロなビルがあります。日本で有名なウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計による建物の一つ。いわゆるヴィーリス建築です。こちらも大正15年(1926)に建てられました。スパニッシュ・バロック様式の建築物。こちらは東華菜館という北京料理の老舗です。(資料1,2) 河川敷から四条大橋西詰北側に出る通路の傍に「位置案内」の碑が設置されています。鴨川に架かる橋についての表示と現在地を示しています。 四条大橋から下鴨神社に到るまでの区間、鴨川に架かる橋です。 四条大橋・現在地と表示されています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) ウィリアム・メレル・ヴォーリズ :ウィキペディア2) ウィリアム・メレル・ヴォーリズ :「建築パース.com」補遺先斗町歌舞練場 公式サイト納涼床 :「京都観光Navi」夏の京都は「川床」で粋に。涼みながら美味しい食事や趣ある景色を堪能しよう :「びゆうトラベル」レストラン菊水 :「関根要太郎研究室@はこだて」東華菜館本店 :「京都観光Navi」こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都市 三条大橋 木製高欄(南側)の更新観照 京都市 三条大橋 木製高欄(北側)の更新 (続)観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (1) 3回のシリーズでご紹介観照 先斗町歌舞練場・観劇と鴨川畔
2023.08.11
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=== 2023.7.29 === 南の空16時45分過ぎに撮りました。天気は晴れ。自宅に居たはずなのに、この時刻まで撮っていませんでした。朝に晴れた空を見上げて、うっかり忘れていたのか・・・。南西方向の空 西方向の空 空は快晴。こちらの方向には雲殆ど無し。 頭上の空見上げるとこんな雲が見えます。北に向かって見上げて撮っていますので、上辺が南、下辺が北、右が東、左が西という方位になります。 東方向の空稜線上空には白雲が浮かんでいます。やはり、雲のバリエーションが見える方がおもしろい。 東方向の空18時20分頃に眺めると、稜線上空の雲が増えています。 南の空南西方向の空 西方向の空 西の空にはあまり見かけない雲の姿が見えます。 頭上の空=== 2023.8.30 === 南の空この日も13時5分頃に初めて撮りました。握り拳のようなぎゅっと固まった雲がおもしろい。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 雲が多く張り出していますが、天気は晴れ。 東方向の空稜線上空は雲で覆われています。稜線のすぐ上には夏らしい雲が伸び上がっています。雰囲気は入道雲の小型版という感じ。入道雲は青空を背景ニョッキリなんだけど。 東方向の空雲の動きがかなり変化しています。18時5分頃に撮りました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空どの方向にも雲が広がっていました。 南の空19時過ぎに、窓の外を眺め、これは・・・・と、撮ってみました。滅多に見られない夕焼け雲です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空東の稜線直上も夕焼け雲。肉眼で捉えた雲の色はもう少し濃くピンクがかっているように感じました。=== 2023.7.31 === 南の空9時半頃に撮りました。モコモコとした雲が空に満ちています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向に目を転じると、また雲の姿は違います。様々な雲の表情が見えます。 頭上の空にもまた異なる表情を見せています。鱗状の雲が鮮明です。 東方向の空こちらもくもり空です。濃いグレーの雲すら浮かんでいます。日本の伝統色で言えば、銀鼠(キンネズミ)(錫色 スズイロ)と呼ばれる色合いでしょうか。 東方向の空13時55分頃に眺めると、稜線上には白雲、その上に青空が広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空こういう雲の姿はどのようにして形成されるのでしょう。無限のバリエーション。 南の空18時20分過ぎに撮りました。空は白鼠(シロネズミ)(銀色)を基調にした濃淡の雲に覆われてしまいました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空晴のち曇りという天気の一日と言えるのでしょう。やっと、8月に追いつきました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.11
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河原町御池の北東側歩道から前祭の山鉾巡行を長刀鉾から船鉾まで観覧した後、新町通に向かってみました。新町通は御池通を西に巡行した山鉾が、山鉾町に戻るために南に下る際に利用する通りです。最後まで巡行を眺めてから新町通に来ましたので間に合うかどうかと思っていたのですが、2基だけ眺めることができました。 岩戸山が新町通を下ってきました。道路幅が相対的に狭いので、岩戸山のような曳山と鉾が通るには道幅にさしてゆとりがありません。道路の両側に立つ電信柱との間隔がごく狭くなっています。 大屋根の上に、数人の人がなぜ乗っているのか、その理由がこれでわかります。電線等に触れることがないように見つめ、対処する必要がありうるからでしょう、逆に、山鉾の写真を撮るには夾雑物が写ってしまい、ノイズとなり綺麗な映像とはなりません。 その代わりに、歩道の区別がない道路の端よりに立ち、正に山鉾をごく間近に眺められるという臨場感、迫力は得がたいものです。これが元々の巡行の姿に近いのかなと思います。新町通の町家の二階から眺める人々と囃子方の人が対話できる位の距離感です、 山鉾巡行を観覧していた時は、意識の外にあったのですが、岩戸山の後に従うこんな長持ち様の木箱を載せた台車が続いていたのです。 ごく近くで眺めると水引の肉厚の盛り上がりがよくわかります。 艫櫓に吊された水引は、側面に麒麟が刺繍されていたことを再認識しました。 後部には瑞鳥。 舵の右側面には昇る飛龍 新町通でのこの臨場感が良い!この新町通を南下する巡行に比重をおいて、移動しつつ巡行を眺めた年もありました。 御池通にふっと立ち寄ってみました。整然と観覧席が並んでいました。祇園祭 山鉾巡行過ぎ行きて 猛きざわめきいずこへか 御池通 人も車も見ぬこの刻 夢の後の静けさしばしという感興です。さて、これで前祭山鉾巡行のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -2 芦刈山・函谷鉾・郭巨山・四条傘鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -3 木賊山・鶏鉾・油天神山・孟宗山・霰天神山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -4 菊水鉾・保昌山・綾傘鉾・太子山・月鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -5 伯牙山・占出山・放下鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -6 岩戸山・船鉾 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.10
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第22番「岩戸山」が河原町御池の辻に近づいて来ます。この山は「国生み」と「天の岩戸」という2つの記紀神話を題材としています。御神体として伊弉諾尊(イザナギノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)、手力雄尊(タジカラオノミコト)を祭っています。一見すると鉾と同じように感じます。しかし、こちらは山。鉾には大屋根の上に鉾柱の真木が立ち先端に鉾頭があります。ここには真木ではなく真松が立てられています。鉾ではありませんので、稚児人形は載っていません。一方で、鉾と同様に、囃子方が乗り、祇園囃子を奏する曳山です。応仁の変の前から祇園祭の巡行に参加している記録があり、狩野永徳筆「洛中洛外図屏風」には車輪を付けた曳山として描かれています。江戸時代に鉾の形を模した大屋根を付けるようになったそうです。 河原町通から御池通への方向転換。「辻回し」の第1回目。 大屋根の上には、あみ隠しの前に伊弉諾尊が鎮座しています。 大屋根は切妻造で。棟の先端は獅子口の形です。 天水引は「緋羅紗地鳳凰丸刺繍」。明治時代の作。 下水引は「金地鳳凰瑞華彩雲岩波文綴錦」で刺繍が施されています。平成15年(2003) 復元新調。オリジナルには文政4年(1821)の銘があるそうです。 二番水引は緋羅紗地宝相華文様刺繍、 三番水引は紺金地雲三ツ巴五瓜唐花文様綴織 この二番・三番水引は共に平成17年(2005)に復元新調。 胴懸は18世紀初頭の唐草文様インド絨毯。 2回、3回と角度をずらして、辻回しを終え、御池通に正面を向けます。 御池通での最後の巡行が始まります。 見送は日月龍額唐子嬉遊図の綴織(一部刺繍)。復元新調品。 前祭山鉾巡行の最後は、くじとらずで常に殿を行く第23番「船鉾」です。船鉾は、身重ながらも男装し海戦に勝利した神功皇后の神話を題材としています。神功皇后出征の時の船をイメージした形が鉾になったのでしょう。余談ですが、後祭の山鉾巡行に復活した大船鉾は、神功皇后帰国時の船に因んでいます。御神体の神功皇后人形は、住吉明神・鹿島明神と海神の安曇磯良の三神に護持される形で鉾に搭載されます。屋根の背後には、紅白の長旒(チョウリュウ)・吹流しが立てられています。 船首を飾る木彫総金箔置きの瑞鳥「鷁(ゲキ)」。宝暦10年(1760)、長谷川若狭作。 船の上の屋形は、正面から見ると唐破風屋根の背後に切妻造の屋根が連接し、さらに 入母屋造の屋根に連なっていくという構造です。 前懸は雲龍文様の「鶴と真向龍」の図。 船端上には紅色塗りの高欄が設けてあります。 水引は船鉾町出身で応挙門下の西村楠亭下絵による「金地雲龍文厚肉入刺繍」。 豪壮な龍の姿が肉厚にして刺繍され、ダイナミックさを引き立てています。 二番水引は岩と波濤文の図のようです。正式な名称は不詳。復元新調。 高欄からは八坂神社の神紋を刺繍した水引が吊されています。平成21年(2009)新調。 船鉾が辻で角度を90度変える「辻回し」の様を、この点描静止画からダイナミックな動画へとイメージを膨らませてみてください。 側面から眺めると、屋形は入母屋造の屋根が本体部分とわかります。 天水引は「草花文刺繍」。平成4年(1992)の新調。 船鉾後部の艫櫓にも水引が懸けてあります。瑞鳥を刺繍した図です。 船体は紅と千歳緑の二色の幕で被われています。 裾幕は波濤文様でダイナミックな感じです。 大舵は、狩野派鶴澤探泉下絵による漆塗青貝螺鈿の飛龍と波濤文の図。 寛政4年(1792)の作。私の好きな図柄です。 船体後尾の見送もまた真向龍の文様です。「龍と青波」 最後まで観覧した地点からでは、これが船鉾の全体像を一番見やすい写真かも・・・・。前祭の山鉾巡行観覧は、確保した場所に立ち続けておよそ3時間。定点で観覧したのは遠い昔以来のことでした。やはり見応えがあります。これで、山鉾巡行のご紹介を終わります。尚、番外編としてあと1回続けます。お付き合いください。参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*岩戸山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -岩戸山- :「京都市下京区」*船鉾 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -船鉾- :「京都市下京区」*船鉾(京都 祇園祭) 公式アカウント Twitter ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -2 芦刈山・函谷鉾・郭巨山・四条傘鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -3 木賊山・鶏鉾・油天神山・孟宗山・霰天神山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -4 菊水鉾・保昌山・綾傘鉾・太子山・月鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -5 伯牙山・占出山・放下鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -7 番外編:新町通にて帰路の山鉾を眺める へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.09
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第18番「伯牙山」です。河原町御池の辻で、担ぎ手が山を担ぎ上げ辻をぐるりと回ってお披露目しています。中国の琴の名手、伯牙の逸話を題材にしています。 伯牙は大切な理解者である友を失い、その悲しみから琴の弦を断ちきり琴を弾かなくなったそうです。伯牙が斧を握りしめ今正に琴の弦を断とうとする姿を表現しています。その姿から、別名「琴割山」とも呼ばれてきたと言います。また、「王の命令に従うのを良しとせず琴を叩き割った戴逵(タイキ)の話」(図録より)がもう一つの物語として伝わるそうです。前懸の前に、軸装様に仕立てられた慶寿裂「慶寿詩八仙人図」が懸けられているのもこの山の特徴です。昭和63年(1988)復元新調。 水引は「緋羅紗地唐人物図」で押絵が施されていて、胴懸の中程までに被さる幅広です。胴懸は花卉尾長鳥文様の綴錦。見送は「柳絲軒」在銘の「三仙二仙女刺繍」です。 第19番「蟷螂山」が続きます。中国の故事「蟷螂の斧」に由来し、それに日本の歴史上の人物、貴族の四条隆資(1292~1352) の逸話を重ねています。山車の上に、御所車が搭載され、唐破風屋根の上にカラクリ仕掛けで動くカマキリが乗っています。御所車は四条隆資が使った車を表しています。カマキリの首、手鎌が動き、羽を広げるというカラクリが披露され、御所車は車輪が回転します。昭和56年(1981)、117年ぶりに再興された山です。 前懸は「瑞祥鶴浴の図」友禅。 右胴懸は「瑞苑浮遊図」友禅。 見送は「瑞苑飛翔図」友禅。 これら前懸、胴懸と見送は友禅作家羽田登喜男の作です。 第20番「占出山」が続きます。占出山は、神功皇后が肥前国松浦で釣りをして戦勝を占ったという故事を題材としています。『日本書紀』巻第九「神功皇后」に次のように記されています。引用します。(資料1)”夏四月三日、北方の肥前国松浦県にいき、玉島里の小川のほとりで食事をされた。皇后は針を曲げて釣針をつくり、飯粒を餌にして、「私は西の方の財の国を求めています。もし事を成すことができるなら、河の魚よ釣針を食え」といわれた。竿をあげると鮎がかかった。皇后は「珍しい魚だ」といわれた。”別名「鮎釣山」とも呼ばれています。 御神体は身重の神功皇后です。占いのための釣りをする場面を表しています。 懸装品は日本三景を描いた綴錦の図が用いられ、前懸は安芸の宮島、嚴島神社の図。 水引は三十六歌仙図の刺繍。現在のこれら懸装品は順次復元新調された作品です。 右の胴懸は天の橋立図。 御池通を進み始めた占出山の見送が見えます。花鳥龍文様の綴錦で、復元新調品。 第21番「放下鉾」が辻に近づいてきます。街角で芸をしながら仏法を説く「放下僧」を真木の中程の天王座に祭ることに鉾名が由来します。鉾頭は太陽・月・星の三つの光を象った三光形です。形が州浜に似ていることから「すはま鉾」とも呼ばれます。 3人の人形方によって稚児人形が操られて稚児舞を披露します。 稚児人形の名前は「三光丸」。稚児人形の中では、唯一の操りができる人形です。 今年、稚児人形の白着物・襦袢・袴が新調されました。 辻回しの準備が進みます。 辻回しが始まりました。 天水引は雲形文の間に円形状に火焔龍が刺繍されているようです、 下水引は前後左右の四面ともに与謝蕪村(1716~83)下絵の琴棋書画図ですが、 復元新調され巡行では初お披露目。四面の復元は8年の歳月をかけて完成。(資料2,3) 二番水引は「緋羅紗地に牡丹と兎」図の金糸刺繍 三番水引は駒井源琦の下絵による青海波におしどり図綴織の復元新調品。 左右の胴懸は花文様のインドやペルシャの絨毯。 御池通を西に進みます。 見送は皆川泰蔵作「バクダット」。麻地に藍のロウ染めで染め上げられ、純金箔やプラ チナ箔も用いられているそうです。昭和57年(1982) 作。異国情緒が溢れています。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*伯牙山 :「祇園祭」*伯牙山 :「京都市下京区」*蟷螂山 :「祇園祭」*蟷螂山 公式サイト*占出山 :「祇園祭」*放下鉾 :「祇園祭」*放下鉾 ホームページ*中京の山鉾 -山鉾の魅力細見- :「京都市下京区」1)『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷 孟 講談社学術文庫 p1882) 放下鉾の下水引が復元新調 金の輝き 2023.6.23 :「朝日新聞DIGITAL」3) 祇園祭の放下鉾、「下水引」を復元新調 与謝蕪村の下絵、鮮やかに :「産経新聞」補遺神体の衣装を披露 祇園祭の伯牙山 2019.6.13 :「産経新聞」放下鉾公式カウント Twitter祇園祭2023年に披露 蘇る「下水引」に龍村美術織物が込めた想い 2023.7.13 :「TATSUMURA」【2023祇園祭】放下鉾・下水引を復元新調 Kyoto Gion Festival Restoration of Hoshitaboko's Shimizuhiki 京都祇園節 星田樹清水引修復 京都新聞 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -2 芦刈山・函谷鉾・郭巨山・四条傘鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -3 木賊山・鶏鉾・油天神山・孟宗山・霰天神山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -4 菊水鉾・保昌山・綾傘鉾・太子山・月鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -6 岩戸山・船鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -7 番外編:新町通にて帰路の山鉾を眺める へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.08
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=== 2023.7.24 === 南の空9時20分頃に撮りました。晴れていますが南は雲に覆われていました。南西方向の空 西方向の空 西方向では青空が広がっています。 頭上の空も雲がいっぱい。 東方向の空それに対して、東の稜線上空は全面的にグレーの濃淡の雲で満ちています。 東方向の空16時20分頃に眺めると、稜線上空は快晴に変化。 南の空南西方向の空 西方向の空 この後は撮っていませんが、晴れの一日。=== 2023.7.26 === 南の空10時5分頃に撮りました。昨日に引き続き、晴れた日です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上間近に白雲が漂い、その上空には青空が雲の間に見えます。 東方向の空16時5分頃に眺めると、稜線上はグレーの雲に覆われる状態に変化。 南の空南西方向の空 西方向の空 この日もこの後写真を撮らなかったのですが、くもり空が続きました。=== 2023.7.27 === 南の空8時20分頃に撮りました。快晴です。南西方向の空 西方向の空 東の空は、雲がかなり出ています。白雲であるのがいい。 東方向の空16時45分頃に眺めると、稜線上空の雲が切れて、青空が広がっていました。ところが、それから2時間後には、雨が降り出しました。 南の空南西方向の空 窓際から二方向の空だけ撮りました。=== 2023.7.28 === 朝から晴。写真を撮ったのは16時45分頃が最初。適度に白雲が漂っています。南西方向の空 西方向の空 南東方向の空 東方向の空稜線上空には、夏雲らしい雲が見られます。 東方向の空18時20分頃に眺めた空。夕陽に映えた雲も見えました。 南の空南西方向の空 西方向の空 快晴の空となる一日でした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.07
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河原町御池の辻の中央で辻回しの下準備が先に進められる中、第13番「菊水鉾」が河原町通を北上してきます。 菊水鉾は、町内にあった名水「菊水の井」に由来する鉾名です。 鉾正面に、稚児人形を載せています。菊の露を飲み長寿を保ったといわれる菊慈童の能装束の舞姿です。謡曲「菊慈童」から題材を得た鉾。 辻回しが始まりました。 天水引は右側面に三輪晁勢筆「水辺の鳥図」、正面は、垂簾と瑞雲・日・花の図。 下水引は皆川月華作「竜田川吉野の図」 前懸は「飛鶴図」、右胴懸は「麒麟図」共に染織家の皆川月華の作品。 昭和29年(1954)作。残念ながら見られない左胴懸も皆川月華作「獅子図」です。 菊水鉾が御池通を進み始めました。 後懸は隠れて見えませんが、皆川月華作「昇鯉図」だそうです。 見送も同様に皆川月華作「孔雀図」で昭和30年(1955)作。菊水鉾は、昭和27年(1952)88年ぶりに山鉾巡行に復帰しました。昭和に復活した鉾です。今年再建70周年を迎えた記念に「前懸や後懸など鉾の4面に再建当時の幕をかけて巡行した」(資料1)と報道されていました。そういえば・・・・・という思い。 第14番は「保昌山」。16日に山鉾巡りをした時は飛び地なので失念していました。武将平井保昌(1958~1036) の人形を御神体にした山です。保昌は、後に妻となる和泉式部のために、御所の紫宸殿に忍び入り紅梅を手に入れようという危険を冒したという逸話で有名です。なぜ? 和泉式部が紫宸殿の梅を手折って来てくれたなら保昌の求愛を受け入れると言ったから。それで、保昌山は「花盗人山」とも呼ばれて親しまれてきたそうです。保昌が宮中に忍び込み梅の枝を得ようとする様子をここに表現しています。早くも辻を右折する態勢に入りました。 水引は、様々な鳥の姿を刺繍で描いた補子をつなぎ合わせた作品。 胴懸は、円山応挙の下絵による「緋羅紗地巨霊人虎図」刺繍。安永2年(1773)作。 刺繍師として松尾右近の名が伝えられているとか。 残念ながら見えませんが、前懸・左胴懸も円山応挙下絵による同様の刺繍作品。 現在、これらは復元新調品を使用。 見送は、福禄寿、弁財天に唐子を配した綴錦で寛政10年(1798)の作。 続くのは第15番「綾傘鉾」です。綾傘鉾では、鬼形が先導します。この棒振りの踊り手は、法被にカルサンを着て赤熊(シャグマ)を被っています。面をつけて法被に大口を着た太鼓方二人(太鼓を持つ者、バチを持つ者)と、浴衣姿の囃子方(鉦や笛)が加わります。 太鼓と囃子に合わせて、踊り手は棒を振り回し「棒振り囃子」を披露します。このパフォーマンスが見事です。この棒振り囃子は、壬生六斎念仏保存会の人々により演じられています。 2基の傘鉾が続きます。この傘鉾が山鉾の古い形態を残しています。大きな傘の形をした風流傘が特徴です。綾傘鉾は江戸時代後期の一時期曳鉾として巡行に加わっていたそうです。幕末の大火で消失後、変遷を経て昭和54年(1979)から現在の形で山鉾巡行に復活しています。 垂(サガ)りは「飛天図」です。 傘上に、御神体と金幣が飾ってあります。 こちらの垂(サガ)りは、人間国宝の染織家森口華弘が手がけた「四季の花図」。昭和54年(1979)作。 第16番「太子山」が続きます。御神体は白装束姿の16歳の聖徳太子像です。四天王寺建立に関わり杣入りされた逸話から、真木に杉を用いています。他の山では松を使っていますので、唯一杉を用いる山です。 胴懸は「生命の樹」やクジャクがモチーフで、想像上の花や鳥、ゾウなどが極彩色であ しらわれています。ベトナムで刺繍を施し日本で仕上げる形で平成3年(2018)に新調。 水引は組紐の七宝編みで、胴懸を透かして見せるというおもしろさ。 第17番は「月鉾」です。鉾の鉾頭に「新月」をいただき、天王座に月読尊を祀ることから鉾名がついています。山鉾の中で最も高く、最も重い鉾だそうです。 辻の中央に至れば、同様に辻回しの準備が始まり、鉾の向きを順次回して行きます。 稚児が明治45年から稚児人形に代わりました。3代目伊藤久重作の美少年人形『於菟麿』が載っています。 天水引は円山応震の下絵による「霊獣図刺繍」、 下水引は皆川月華による「花鳥図」です。 辻回しを無事終えると、御池通をゆったりと進んで行きます。 左右の胴懸にはインドやトルコの絨毯が用いられています。 見送は皆川月華作「湖畔黎明図」です。前祭の山鉾巡行は、第23番まで、さらに6基順次近づいてきています。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*菊水鉾 :「祇園祭」*保昌山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -保昌山- :「京都市下京区」*綾傘鉾 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -綾傘鉾- :「京都市下京区」*太子山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -太子山- :「京都市下京区」*月鉾 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -月鉾- :「京都市下京区」*月鉾 ホームページ1) 再建70周年の菊水鉾、当時の幕で堂々と 京都・祇園祭の山鉾巡行 :「産経新聞」2) 祇園祭で巡行の太子山、240年ぶりに胴掛新調 ベトナムの工房で「生命の樹」 2018.6.9 :「産経新聞」補遺綾傘鉾 :「KYOTOdesign」冷泉家の赤熊(しゃぐま) :「京観深々」三輪晁勢 :ウィキペディア皆川月華 :ウィキペディア森口華弘 :ウィキペディア壬生六斎念仏講中 ホームページ 綾傘鉾囃子方壬生六斎念仏保存団体連合会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -2 芦刈山・函谷鉾・郭巨山・四条傘鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -3 木賊山・鶏鉾・油天神山・孟宗山・霰天神山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -5 伯牙山・占出山・放下鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -6 岩戸山・船鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -7 番外編:新町通にて帰路の山鉾を眺める へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 7回のシリーズでご紹介
2023.08.06
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河原町御池の辻に到着した第7番の「木賊山(とくさやま)」です。辻で、担ぎ手は早速、山を担ぎ上げてぐるりと回転するパフォーマンスを披露します。世阿弥の謡曲「木賊」に題材を得た山です。わが子と行き別れた悲しみに木賊を刈る翁が御神体です。 四条傘鉾の距離を保つために待機。 御池通を進み始めます。御池通は山を押して行きます。多分、どの山も御池通の観覧席の途中で、山を回すパフォーマンスを披露するのではないでしょうか。観覧客には山の御神体や懸装品の全体を眺めてもらえますから。あくまで想像の域ですが・・・・・。 水引は、道釈人物刺繍。蝦蟇仙人や寿老人、西王母などの姿が刺繍されています。 右胴懸は、中国故事人物図の刺繍。平成11・12年(1999・2000)に復元新調。 見送は、中国明代の牡丹双鳳文様綴錦で、復元新調したもの。 第9番は「鶏鉾」です。 稚児人形は文久3年(1863年)に製作されたものとか。 つまり、この時に生稚児から稚児人形に変わったと考えられています。 鶏鉾の名の由来は、『古事記』の天の岩戸の物語に登場する「常世の長鳴き鶏」に取材したという考えかたと、中国古代の堯の時代の「諫鼓」の故事によるという考え方とがあるようです。 辻回しの準備が進んでいます。 1回目の回しがいよいよ、始まります。 音頭に合わせて引き綱を力強く引く、引く、引く・・・・。車輪を押す、押す、押す。 下水引は「唐宮廷楼閣人物図刺繍」。江戸時代後期の四条派絵師松村呉春の下絵。 二番水引は「緋羅紗地大鶏頭(ダイケイトウ)木瓜巴紋刺繍」。 三番水引は「紺地雲文様窓絵四季花鳥図」。二番と三番は令和2年(2020)の新調。 右胴懸は清水寺の重要文化財の絵馬『朱印船』を織り表した綴錦。昭和55年(1980) の 新調。鶏鉾の守護神、住吉明神にちなむそうです。 正面の天水引は「金地日輪瑞雲麒麟図」の復元新調。オリジナルは文政8年(1825)製。 側面の天水引は八坂神社の御神紋。五瓜に唐花の木瓜(モッコウ)紋と三つ巴紋です。 最後の回しを準備中 御池通を進み始めました。 見送は『イーリアス』に登場するトロイアの戦争物語を題材にしたタペストリー。 オリジナルは、16世紀後半頃のベルギーのフランドル製。今は復元新調品を使用。 第10番の「油天神山」です。正面には「天神山」の扁額を掛けた朱塗りの鳥居を立て、金箔置きの社殿には、菅原道真の像(天神像、寛永7年/1630年製作)が安置されています。もと風早家に伝来し、後に町内の祠に祀られてきた神像を遷座させての巡行です。 前懸は雲龍文様の繻子地錦。平成6年(1994)に新調。 担ぎ上げて、山を回し始めました。全周のご披露です。 2回目を回してきたところ。パフォーマンスには観覧客からどよめきが湧き起こります。 水引はパリのクリュニイ博物館所有のタピスリーから着想を得た図案だそうです。 平成18年(2006)に新調。 左右の胴懸は前田青邨原画による紅白梅図で、平成12・13年(2000・2001)に新調。 見送は梅原龍三郎下絵による『朝陽図』で、平成2年(1991)の新調。 第11番「孟宗山」が辻にさしかかりました。中国史話「二十四孝」から取材した山です。病身の母のために雪中から掘り当てた筍を右手に持ち、左手には鍬を肩に担いで立つ孟宗の姿が御神体です。 右側面の胴懸は平山郁夫原画「砂漠らくだ行(夕)」によるもの。 左側面は「砂漠らくだ行(日)」と対に。平成20・21年(2008・2009)に新調。 孟宗山が御池通を進み始めました。 見送は竹内栖鳳の肉筆による「孟宗竹薮林図」の複製原画です。 第12番の「霰天神山」が続きます。こちらも天神さんです。序でに、くじ引きでの結果は、山は山だけで順番をカウントする様ですので、霰天神山の場合は、くじの順番は「山八番」となります。永正年間(1504~1520) 京都に大火が発生しました。その時、時ならぬ霰が降り、一寸二分(約3.6cm)の天神さまも降臨され、鎮火したという故事を題材にした山です。こちらは、「天神」の扁額が掛けられた朱塗りの鳥居と唐破風春日造の神殿が搭載されています。神殿には一寸二分の天神像が安置されているそうです。欄縁の間際に神殿を囲む形に廻廊が設けてあります。 前懸は16世紀にベルギーで製作された「イーリアス」物語を描いた毛綴です。 今は平成21年(2009)に復元新調したものが使われています。 左右の胴懸は上村松篁(昭和60年/1985年新調)、上村淳之(平成14年/2002年新調) 親子の原画による花鳥綴織。この右側は上村淳之の原画による「銀鶏図」。 後懸は「紅地雲龍宝尽図」で、平成21年(2009)に復元新調。霰天神山はさらりと辻を左折していったような気がします。(記録写真がない)つづく山鉾の魅力細見 -木賊山-参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*木賊山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -木賊山- :「京都市下京区」*鶏鉾 :「祇園祭」*鶏鉾 ホームページ*山鉾の魅力細見 -鶏鉾- :「京都市下京区」*油天神山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -油天神山- :「京都市下京区」*孟宗山 :「祇園祭」*霰天神山 :「祇園祭」*霰天神山 ホームページ補遺謡蹟めぐり 木賊 とくさ :「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」『木賊』について 親子の愛情と反発 :「粟谷明生の能がたり」イーリアス :ウィキペディアトロイア戦争 :ウィキペディアトロイア戦争 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -2 芦刈山・函谷鉾・郭巨山・四条傘鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -4 菊水鉾・保昌山・綾傘鉾・太子山・月鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -5 伯牙山・占出山・放下鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -6 岩戸山・船鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -7 番外編:新町通にて帰路の山鉾を眺める へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.05
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第4番は「芦刈山」です。 芦刈山は、謡曲「芦刈」を題材にした山で、芦を刈る翁の立像が御神体人形です。河原町御池の辻に入ると、 山を担ぎ上げて、担ぎ手がその場で山をグルグルとまわします。 見送は、山口華揚原画の「鶴図」綴織です。昭和60年(1985)作。 欄縁の上には25本の芦が立てられ、一面の葦原を表現。今年新調されたそうです。 ぐるっと回さされて、再び前懸が見えます。 前懸も山口華揚原画で緞通「凝視」。昭和61年(1986)作。 このライオンは何を凝視しているのでしょうか。 パフォーマンスを終えると、御池通を西に進みます。 左右の胴懸は尾形光琳原画の「燕子花図」です。平成5・6年(1983・1984)に復元新調。 第6番は「函谷鉾」です。中国の函谷関という関所での有名な故事を題材にした鉾。斉の孟嘗君が家来に鶏の鳴声を真似させて、開門時刻が来たと錯誤させることで、開門させ、難を逃れたという逸話です。 大屋根の上には真木が建てられています。赤い布で囲われた箇所は真木を支える部分で、あみ隠しと言います。その上部から命綱がのびていて、大屋根に乗る人をサポートします。榊(サカキ)の上下には、藁製の赫熊(シャグマ)と称される飾りが見えます。榊の下には角幟が装着され、榊から少し離れた上には天王座が設けてあります。天王座には雌雄の鶏をそえてあるとか。天王座から少し離れた上に人形(孟嘗君)が据えられています。その上に、吹散(フキチリ)が装着されています。一番上が鉾頭です。鉾のシンボルマークです。函谷鉾は月と山型です。月は三日月形。 長刀鉾以外は稚児人形が乗っています。函谷鉾の稚児人形は「喜多丸君」 修復を終え、今年が初披露だそうです。仏師七条左京作。モデルと等身大。 鉾が辻に到着。 辻回しの準備が始まり、整うと 第1回目の回しが音頭に合わせて実施され、御池通の方角にまず一定の角度、向きを変えます。 その作業がくり返されます。 鉾の右側面をクローズアップここでご紹介した写真から辻回しの裏方さんの作業を切り出してみます。 車輪の下と傍に、竹を敷き並べています。 前部の右車輪の軸部分に、曳き手が引く太い曳綱(ロープ)がかけられます。 曳綱が掛けられた状態がよくわかります。 鉾の下に、辻回しの部材(竹)等を片付ける人、水をかけた手提げ桶を片付けに入る人。 御池通を西に進行するための最終段階に入っています。 前懸は、染織作家皆川泰蔵作「モン・サン・ミシェル」を前懸に仕立て直したとか。 平成10年(1998)に皆川泰蔵氏より寄贈された作品だそうです。 下水引は、染織作家山鹿清華(1885~1981)の図案製織による手織錦『群鶏図』 昭和12年製作。 右胴懸は、インド緞通と中国緞通「虎に梅樹図」「玉取嗣子」の3枚継ぎです。 こちらは平成4年(1992)に復元新調されたもの。 見送は少し見づらいですが、皆川泰蔵作『エジプト天空図』。昭和55年(1980)新調 第6番は「郭巨山」。中国史話「二十四孝」の一つ、郭巨の逸話を題材にしています。 御神体は郭巨の人形と御童子が乗り、彫りだしたとされる金の釜が載せられます。山では、一般的に朱大傘が用いられていますが、この郭巨山では、日覆い障子の屋根が設けてあるのが特徴的です。 右胴懸は、上村松篁原画「春雪」。雪持竹と鴛鶯図。昭和62年(1987)作。 見送は「郭巨漢詩文刺繍」です。橋本循賦詠、千宗室揮毫。昭和54年(1979) 新調。 郭巨山は、あっという間に辻を回って、御池通に進んで行きました。 第7番は「四条傘鉾」です。淡萌黄色の衣裳を着て、飾り笠を被った地域の小学生たちが先導しています。踊り方として巡行に参加。踊りは滋賀県滝樹神社に伝わる「ケンケト踊」を参考にして復元されたそうですが、パフォーマンスを見る事はできませんでした。御池通を進行中には、その踊りを披露するのでしょう。 赤幣と若松を載せたこの傘そのものが御神体で、『洛中洛外図』や文献を参考に復興された傘鉾です。 傘の垂りは染色作家鈴鹿雄次郎作で、絹織物『麗光鳳舞之図』。魔除けといわれる七色の雲を背景に、鳥が飛ぶ姿を表しているそうです。全体の図柄を見られないのがちょっと残念。四条傘鉾も、あっさりと辻を通過して行きました。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*芦刈山 ホームページ*芦刈山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -芦刈山- :「京都市下京区」*函谷鉾 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -函谷鉾- :「京都市下京区」*郭巨山 :「祇園祭」*郭巨山公式サイト*山鉾の魅力細見 -郭巨山- :「京都市下京区」*四条傘鉾 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -四条傘鉾- :「京都市下京区」補遺演目事典:芦刈 :「the能.com孟嘗君 :ウィキペディア【祇園祭】鉾の上にも注目しよう ~鉾頭/天王座/榊 :「Open Matome」二十四孝 :ウィキペディア二十四孝 :「コトバンク」二十四孝童子鑑 郭巨 :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -3 木賊山・鶏鉾・油天神山・孟宗山・霰天神山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -4 菊水鉾・保昌山・綾傘鉾・太子山・月鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -5 伯牙山・占出山・放下鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -6 岩戸山・船鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -7 番外編:新町通にて帰路の山鉾を眺める へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.04
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=== 2023.7.20 === 南の空9時20分頃に眺めると、夏だなと感じる雲がどんと見え、青空が広がっています。南西方向の空 西方向の空 一方、東方向の空はくもり。稜線上にはグレーの雲が灰色の濃さの異なる雲の塊が重層的に空を覆っています。南~西方向が青空で、東の稜線上がくもりとは良く見るパターンですが、雲の姿がともに夏だというのがおもしろいところ。 東方向の空15時20分過ぎに眺めると、雲の姿が大きなひとかたまりの横雲に発展し、稜線の上空に滞留している感じです。所々の雲の切れ間から青空が見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 南の空18時半頃に撮った空です。雲の姿が一転して、かろやかな白雲が浮かぶ景色になっていました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上はなんと雲が全て飛び去り、快晴状態に一変していました。この姿が、朝から見られたら、気分が良かったのに・・・・という思いです。=== 223.7.21 === 南の空 9時20分頃に撮りました。朝から快晴です。南西方向の空 西方向の空 一筋の白い雲。飛行機が通過した軌跡でしょうか。 東方向の空稜線の上空に少し白雲が浮かんでいますが、快晴の部類の青空です。 やはり こういう空を朝から眺めると気分が良い! 東方向の空14時25分頃に眺めると、稜線の上には、夏雲が出ていました。 こういう雲ならしばらく見ていてもいい・・・。 南の空南西方向の空 西方向の空 この後、記録写真を撮りませんでした。何をしていたのだろう・・・・。=== 2023.7.22 === 東方向の空 この日も晴れ。白雲少し浮かぶ、です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空南~西方向の空は快晴状態ですが、東の稜線上空には、まさに夏雲がぐんと伸び上がっていました。この日は、この後外出。某大学で無料の公開講座を聴講し、その続きに京都国立博物館の名品ギャラリーを鑑賞してきました。もう1ヵ所寄り道してから帰宅。 東方向の空18時35分頃に、稜線を眺めると、朝の景色とはうって変わり、グレーな雲が空を覆う状態でした。 南の空 グレーを帯びた雲が出て来ていますが、青空です。南西方向の空 西方向の空 西の空にも、グレーの雲が広がっていました。=== 2023.7.23 === 南の空9時10分頃に撮りました。朝から晴れ。白雲が多く浮かんでいます。天気予報は、一日晴れです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空よくあるパターンです。グレーの雲が稜線上空を覆っています。この後、午前の時間帯を中心にして、祇園祭後祭の山鉾巡りに出かけました。宵山の夜の混雑は敬遠して、青空の下での山鉾の姿や飾り席の様子を見たかったので。 東方向の空19時頃に撮りました。稜線上空は、朝と変わらずグレーの雲がその姿を変えつつも居座っていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南~西方向の空もグレーの雲が広がってきていました。明日の天気がちょっと気になります。=== 2023.7.24 ===天気予報では、曇りや雨を予報していた時期もあったのですが、直近では、朝から晴れに好転していました。祇園祭後祭の山鉾巡行は17日同様に、天気に恵まれた巡行日になりそうです。それ以上に、この日も熱中症警戒アラートがでていたと記憶します。山鉾巡行を見物に出かけたかったのですが、午前中に別件があり、出かけることが出来ませんでした。ばたばたと朝から別件で外出。 南の空帰宅後、16時5分頃に撮った空模様です。これも夏雲の一種でしょうか。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線のすぐ上に白雲が漂っています。その上空は青空の広がり。 東方向の空18時35分頃に眺めると、稜線直上は白雲が立ち上がるように見えて、その向こうにグレーの雲が広がり、その上空に青空が見える姿に変化していました。 南の空は快晴状態です。南西方向の空 西方向の空 南~西方向の空は快晴です。今年の祇園祭は、前祭・後祭の宵山・山鉾巡行はともに天気に恵まれて無事終わったようです。祇園祭の行事はこの後も7月末日まで続iいたのですが。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.04
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=== 2023.7.16 === 南の空9時10分頃に眺めると、雲が活発に広がっていますが、雲の間から青空が見えます。南西方向の空 西方向の空 西の方向も同様です。 東方向の空稜線のすぐ上には青空が広がり、その上空には塊のような雲が集まっています。雲は広がっていますが、くもりというより晴れです。 東方向の空17時過ぎに眺めると、稜線上空は正に快晴に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向も同様に快晴です。終日晴れ日となりました。=== 2023.7.17 === 南の空9時20分頃に取りました。朝から快晴です。南西方向の空 西方向の空 ほんの少し雲が見えます。 東方向の空稜線上空もまた、少し雲が浮かんでいますが、朝から青空が東の空で見える頻度が高くなるのは、やはり夏という気候の影響でしょうか。いつからかは記録していないのですが、熱中症警報が発せられる日が続くようになってきました。この日も警報が出ていました。が、この後、祇園祭前祭の山鉾巡行を見物に出かけました。 東方向の空帰宅後、16時45分頃に眺めると、稜線のすぐ上に雲が浮かんでいますが、その上は青空一色です。 南の空南西方向の空 西方向の空 この日も終日晴れ。=== 2023.7.18 === 南の空9時5分頃に空を見上げると、この日も快晴です。南西方向の空 西方向の空 雲がみられないのが残念なくらいです。 東方向の空ごく薄いベールのような雲が稜線上空にかかっているようですが、青空です。 東方向の空15時頃に撮りました。稜線上空をグレーの雲が厚い布という感じで広がっています。 南の空青空がうかがえますが、雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 南西方向から西方向にかけては、グレーがアクセントになったおもしろい形の雲が浮かんでいます。 頭上の空 南の空17時40分頃に撮りました。雲が少なくなっています。南西方向の空 西方向の空 快晴の空です。 東方向の空布のような雲が薄くなり、青空がうかがえるほどに変化しています。終日晴れでした。=== 2023.7.19 === 南の空15時20分頃に眺めると、グレーの雲が空を覆っています。朝からくもりの空という状態が続いています。南西方向の空 西方向の空 東方向の空空全体がグレー色。雨が降らないくもり空。 東方向の空17時35分頃に撮りました。グレーの雲に変化はみられますが天気は変わらず。 南の空南西方向の空 西方向の空 終日くもりでした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.03
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=== 2023.7.12 === 南の空8時10分過ぎに撮りました。朝から晴れ。気持ちが良い。南西方向の空 西方向の空 頭上の空夏の雲の姿は様々な姿に変化し、おもしろいですね。綿菓子のようにやわらかい雲、白さを強調するような雲、厚くて力強そうな雲、全体でモクモクとダイナミックな雲、独立・孤高のような雲・・・・・など。今朝の雲は、綿菓子のような雰囲気を漂わせています。 東方向の空夏季になってから、晴れの日の稜線上空の雲の姿と全体の色調も変化が加わってきている気がします。明るさが強くなってきた感じです。こちらの雲は、南から西方向の雲とは違った感じです。 15時半頃に眺めると、空は一転して曇り空になっていました。稜線上にはグレーな横雲が稜線付近より上空で層をなしています。 南の空南西方向の空 西方向の空 急激にグレーな雲が広がってきた印象です。やはり、雨になりました。 南の空17時45分頃に撮りました。この頃には雨は止み、くもり空に戻っていました。南西方向の空 西方向の空 南東方向の空には、白い雲が湧き上がってきている感じに見えます。 東の空暦は7月から8月に変わりました。もう少しまず時を追いかけます。雲の姿の変化に集中します。=== 2023.7.13 ===いつ頃からかはわかりませんが、9時過ぎに外を眺めると小雨。ベランダの竿は濡れて雨滴が連なっていました。 南の空南西方向の空 窓際からだけ撮りました。よく見る雨の時の空の雲の状態です。 南の空12時5分頃に撮りました。雨は止み、くもり空です。グレーに濃淡が加わり、動きが加わった雲に。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上空をモコモコと大きな塊のグレーの雲が覆っています。=== 2023.7.14 === 南の空11時20分過ぎに撮りました。空はくもり。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 東方向の空14時45分頃に眺めても、くもり空であることは同じ。雲の姿は変化が見られます。稜線上空は、のっぺりとグレーの布を広げた感じに。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲の背後には太陽が変わらず照らしているようです。この後、写真は撮りませんでしたが、天気は夕刻頃からは晴れに向かいました。=== 2023.7.15 === 南の空9時35分に撮った空模様。南西方向の空 西方向の空 グレーっぽい大きな雲が集合してきた感じですが、各所に青空がうかがえます。 東方向の空稜線傍に白雲が浮かび、上空にはダークグレーの雲が覆っていますが、稜線上には明るさが見られます。 東方向の空14時半過ぎに、稜線方向を眺めると、くもり状態は変わりませんが、雲の姿はには大きな変化が見られます。雲が色と形を変えて、二層に棲み分けている感じに。それも下方が軽く、上方が重たい印象を与えます。明るさが見られます。 南の空南西方向の空 西方向の空 西から晴れてきている感じです。 頭上の空 南の空18時15分頃に眺めると、青空に浮かぶ雲という感じになり、晴れが広がっていました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上もはっきりと晴れの空です。この時は、色々な雲の姿のバリエーションが並存する空でした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.01
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=== 2023.7.7 === 南の空9時20分頃に撮りました。朝から曇り空でした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空東の空はよく見かける布を広げたような感じの雲です.一方、南から西にかけての雲は太い筋模様を描いた感じのグレーの雲。あまり見かけない雲の姿です。この日、一日くもりだったせいでしょうか、この後は雲の記録を撮らずにいたようです。星の夜空を眺められない七夕の夜になったと思います。今回も雲の変化だけにしぼります。=== 2023.7.8 === 南の空昨日同様、9時20分頃に撮りました。やはり、朝からくもり空です。雲の姿は、昨日と明らかに違います。南西方向の空 西方向の空 この方がよく見かける曇り空の雲の姿に近い感じです。 東方向の空昨日の同じ時間帯のくもり空より、この空模様の方が、雲が浮かんでいるということを実感できます。 東方向の空16時半すぎに眺めました。曇りは変わらずですが、稜線上空の雲は、グレーの濃淡のべたっとした二層の雲の姿になっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲はグレーの濃淡が現れていて、雲の姿が見やすくなっていました。 南の空 18時20分頃に眺めた雲です。南西方向の空 西方向の空 この時もグレーの濃淡があり、雲の変化、ムラムラ感がわかりやすい状態です。 東方向の空逆に、東の稜線上は、べたーっとしたほぼグレー一色の雲に戻っていました。=== 2023.7.9 ===朝から雨。11時半頃に眺めても雨。 南の空南西方向の空 窓際から二方向だけ撮りました。 南の空17時10分頃に撮りました。雨は止んでいましたが、くもり空はそのまま。南西方向の空 西方向の空 東方向の空は、雲が稜線を半ばは隠す位まで低くなっていました。ここまで雲が稜線に被さるのは初めて見たような気がします。=== 2023.7.10 ===この日も朝から雨です。 南の空南西方向の空 15時10分頃でも小雨状態。窓際から二方向を撮るだけに。 南の空ところが、19時10分頃には天気は大きく回復していました。青空が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空太陽の光を映したピンク色の雲と、ダークグレーの雲がともに稜線上に浮かんでいました。=== 2023.7.11 === 南の空 11時半頃に撮りました。朝から晴れ。雲!って感じの夏雲が悠然と浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 西方向には、小粒の白雲が散在しています。 東方向の空稜線上にでんとわた雲が浮かび青空が見えるのはいいですね。 東方向の空 16時10分頃に眺めると、稜線上は快晴。この景色も珍しいです。 南の空南西方向の空 西方向の空 大きくごつごつした夏雲とはうって代わって、柔らかそうな雲の姿です。 南の空 18時20分頃に撮りました。雲の姿がおもしろい。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線上は、ほぼ快晴の空です。晴れた空と雲の変化を満喫できた一日でした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.28
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=== 2023.7.3 === 南の空午後に退院。14時5分に久しぶりに自宅のベランダから空を撮りました。朝からくもり空でした。すこしうろこ状に感じるグレーの雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 東方向の空17時20分に眺めると、稜線上の雲の姿が大きく変化してきていました。 南の空雲の姿が同様に大きく変化。白雲が見え始めています。南西方向の空 西方向の空 青空も少し見えるように。 19時には、青空がさらによく見えるように雲の動きが変化しています。南西方向の空 西方向の空 西の空の雲は夕陽を受けてピンク色に染まって見えます。 東方向の空 稜線間際の雲も少しピンク色を映しています。=== 2023.7.4 === 南の空 9時50分に眺めると、空は快晴です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空には、青空が見え白雲が浮かんでいます。夏の空に変化してしています。 東方向の空16時35分頃に眺めると、薄い横雲が層をなす青空が見えました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけては灰色の雲が広がっています。 南の空18時25分頃に眺めると、雲が巻いている感じに見えます。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 グレーの雲が稜線上空を覆っていました。=== 2023.7.5 === 南の空10時5分に眺めると、グレーの濃淡模様の雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 朝からくもりです。 南の空南西方向の空 14時半すぎには雨が降っていて、窓際から二方向だけ撮りました。 南の空17時45分に眺めると、雨は止んでいますが、曇り空に変わりなし。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 表情がない雲の広がりはおもしろくありません。=== 2023.7.6 === 南の空 朝から晴れ。夏雲。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 稜線上空にはもくもくとしたグレーな雲が覆っています。 東方向の空17時50分に撮りました。雲の姿はだいぶ変化しましたが、稜線上空を覆う点は変わりなしです。 南の空 青空に動きのある白雲が見えます。南西方向の空 西方向の空 晴れの一日でした。少し日を追いかけ、追いつくために、雲の変化に絞ります。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.26
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7月16日(日)の朝、初蝉の声を聞きました。しばし蝉の声が聞こえていました。祇園祭・前祭の山鉾巡りに出かけたのは、その後でした。それ以降、まだ短い時間ですが、蝉時雨が聞こえるようになりました。 今朝(7/20)、小さな庭の南西隅の木から蝉の声が聞こえます。 少し枝を払っていた間を眺めると、幹に一匹の蝉を見つけました。2日前にも同じ木のあたりから蝉の声は聞こえたのですが、その時は蝉を見つけることができませんでした。 わが庭で見る初蝉です。今朝は、初めて蝉が羽を震わせてなく声を見聞しました。 今年の初記録です。自宅の周辺からは、今蝉の声はぴたりと止んでしまっています。
2023.07.20
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=== 2023.6.28 === 南方向 南西方向13時10分頃に窓越しに撮った写真をトリミングしました。空の景色を主眼に・・・。番外になりますが、標題では時系列としてシリーズにカウントしています。6月28日午後~7月3日午前の期間、自宅には不在で、地元の某総合病院に入院していました。予定を立てての入院でした。希望通り個室が確保できましたので、病室の窓から雲の変化をスマホのカメラ機能で撮ってみました。地元の空という意味では、自宅よりかなり南の空ということになりますが、広大な空からみれば、自宅のベランダからとはまあ五十歩百歩というところでしょうか。 南方向 スマホを横にして撮るとこんな感じに。6月29日・30日は写真を撮れませんでした。(手術日当日と翌日のため)=== 2023.7.1 === 南方向 南西方向 9時10分頃に撮ってみました。この日は一日くもりだったと記憶します。=== 2023.7.2 === 南方向 南西方向 6時20分頃に撮ってみました。くもり空です。 南東方向 南西方向 3時間後の9時20分すぎには青空に変化していました。上掲の雲のつながり具合を少しズームアップして撮ってみました。 南東方向 南西方向 12時25分に撮った雲の姿です。白雲が広がり浮かぶ青空がいい。 南方向 17時30分頃に撮った雲の姿です。 南方向 南西方向 18時50分過ぎに撮った入院中の最後の空模様です。7月3日、午前中に診察を受けて、午後退院。この日は朝からくもりです。空の景色を撮らずに終わりました。午後帰宅してからは、ベランダからの雲の姿の撮影を再開。結果的に、6/29、6/30と雲の姿を記録しない日が発生してしまいました。番外編ですが、覚書と雲の変化の記録を兼ねて・・・・。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.18
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=== 2023.6.24 === 南の空9時35分頃に撮りました。朝からくもりです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 方向により雲の姿にけっこう変化がみられます。 東方向の空17時5分頃に空を眺めてみました。 南の空南西方向の空 西方向の空 くもり空の一日となりました。=== 2023.6.25 === 南の空10時5分頃に撮りましたが、昨日につづき、くもりです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空昨日の朝と比べると、どの方向の空も一律で平板。グレーの布を広げた様です。 東方向の空16時半頃に眺めると、少し雲らしい姿が東の上空に漂っていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 天気が雨に変化しなかったことを良しとしましょう。=== 2023.6.26 === 南の空9時半頃に撮りました。朝からくもりです。南西方向の空 西方向の空 東の空 12時半頃から、天気予報どおり雨になりました。この後天気は雨。この後、窓際から写真を撮るのはやめました。さて、雲がたりに移ります。『源氏物語』から「雲」を詠み込んだ歌の抽出の連鎖として、手許に『紫式部集 付 大弐三位集・藤原惟規集』(南波浩校注、岩波文庫)がありますので、紫式部集からの抽出をしてみました。「校定紫式部集(定家本系)」には、128首が収載されています。その中から11首を抽出しました。この文庫本には、補遺として11首が続きに収載されていて、そこには1首ありました。この範囲で抽出できたのは合計12首になります。 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影 1 [付記] 新古今集(雑上、1497)、小倉百人一首に所収されている歌。 めぐりあひて:月は空を運行するので「めぐり」は「月影」の縁語。 とも:連語。・・・・ということも。 わく:判断する。理解する。 雲隠れ:雲に隠れること。 夜半:夜。夜中。 月影:月の姿 月影は幼ななじみの友の隠喩。幼ななじみとの出会いと別れ。 西へゆく 月のたよりに 玉章(たまづさ)の 書き絶えめやは 雲の通ひ路 7 [付記] 月のたより:月という使者・好便。 玉章:消息。手紙。 む:[仮定]・・・・としたら、その・・・・。 やは:・・・・ないか。 ・・・てくれたらいいのに 北へ行く 雁のつばさに ことづてよ 雲の上がき 書き絶えずして 15 [付記] 新古今集に所収(離別、859)。 北へ行く:雁は春になると、北方の地へと帰る。紫式部はやがて 北の越前へ行く予定であるであることを掛ける。 つばさにことづてよ:蘇武の雁信の故事を踏まえている。 雲の上がき:(雲の上を羽で掻き運ぶ)雲。「雁」の縁語。「書き」 と「掻き」を掛ける。 して:・・・・の状態で。・・・・で。 いづかたの 雲路と聞かば 尋ねまし 列離れけん 雁がゆくゑを 39 [付記] 千載集(哀傷、563)に所収。 尋ねまし:「まし」は反事実仮想。たずねたいのだが、(実際 はどこにいるとも聞くことができないので)それができずに悲 しい。 けん:「けむ」・・・たとかいう。 雲の上も 物思ふ春は 墨染に 霞む空さへ あはれなるかな 40 [付記] 玉葉集(雑四、2290)に所収。 長保3年(1001)4月、夫宣孝に死別。紫式部は服喪中。同年閏12月 円融帝の后で一条帝の母、詮子が逝去。その翌春に詠まれた歌。 雲の上も:宮中でさえ。 物思ふ:物思いにふける。思い悩む。 むまれ木の 下にやつるる 梅の花 香をだに散らせ 雲の上まで 103 [付記] むまれ木:むもれ木=埋もれ木。世間から顧みられない。とるに たりない。 やつる:見ばえがしなくなる。式部のたとえの謙辞。 香をだに散らせ:せめて香だけでも散らせ。(里居ながらも常に 中宮様をお忘れしておりません、との思いを重ねている) 雲の上まで:宮中まで。(中宮様も忘れないでほしいの含意) うち偲び 嘆き明かせば 東雲(しののめ)の ほがらかにだに 夢を見ぬかな 109 [付記] 藤原宣孝から式部への歌。 うち偲ぶ:離れている人のこと などを思い慕う。思い起こす。 東雲:明け方。あけぼの。夜 明けのほのかに明るくなるなるころ。ぼうっとしていての意。 ほがらかにだに夢を見ぬかな:(本来なら、夜明け前に夢を見る ところだが)はっきりとは夢を見ることができなかったことよ。 (逢えないので、せめて夢にでも見たかったのにという含意) しののめの 空霧(き)りわたり いつしかと 秋の気色に 世はなりにけり 110 [付記] 紫式部の答歌か。「返し」とある。 霧りわたり:一面に霧が 立ちこめていて(あなたの通い路を覆い隠し) いつしか:いつのまにか。はやくも。 秋の気色:秋気色(裏 に、飽き模様の意を掛ける) 天の河 逢瀬はよその 雲居にて 絶えぬ契りし 世々にあせずは 112 [付記] 逢瀬はよその雲居にて:星の逢瀬は、私たちに関係のない遠い 空のかなたのことで。 絶えぬ契りし世々にあせずは:私たち 夫婦の愛情が、いつまでも絶えることがなければいいのですが、 それが不安です。 あす:(勢いが)衰える。 くまもなく ながむるそらも かきくらし いかに偲ぶる 時雨なるらむ 116 [付記] 新勅撰集(冬、380)に所収。 くまもなく:(=雲間もなく) 雲の絶え間もなく。 かきくらす:心を暗くする。悲しみにくれる。 いかに偲ぶる:何を。どのように慕って降る(私があなたを慕っ て心をかきくらして泣く) 時雨:袖をぬらして乾く間のない涙 にたとえられる。 ことはりの 時雨の空は 雲間あれど ながむる袖ぞ かはく世もなき 117 [付記] 新勅撰集(冬、381)に所収。 ことわりの時雨:初冬という季節柄降るのが当然の時雨。 ながむる:物思いに沈む。あなたを想って物思いにふけっている。 世もなき:おりもないことだ。 雲の上を 雲の外にて 思ひやる 月は変わらず 天の下にて 補遺10 [付記] 一条帝崩御後に詠まれた歌。栄花物語(ひかげのかづら)に所収 雲の上:宮中。 雲の外にて:宮中を出た他所で。 思ひやる:はるかに思う。 月は変わらす:日の光(一条帝)は なくなられたが、月(中宮)は昔のままに変わらず。 天の下にて:(宮中を退去なさっても)御代を照らしておいでた。 長い詞書が付いた歌がけっこうありましたが、省略しました。代わりに特徴的な歌には、歌意の理解への補いとして[付記]に少し補足を加えています。ふたたび、雲の変化に戻ります。=== 2023.6.27 === 南の空10時頃に撮りました。朝は曇っていましたが晴れる方向に向かいそうです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空東の稜線上空はくもり空です。雲が浮かんでいます。 東方向の空16時25分頃に眺めますと、稜線上空も少し青さが感じられます。 南の空は晴れて、白雲が広がり、大きく青空が見えます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空18時15分頃に眺めると雲の姿はかなり変化しています。南西方向の空 西方向の空 Zoom up! 東方向の空 稜線上空も青空が広がっていました。=== 2023.6.28 === 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空10時5分頃に撮りました。天気予報は朝から曇りでした。予報通りです。この日の午後から自宅を離れましたので、しばらくベランダからの雲の変化を記録できなくなりました。つづく参照資料*『紫式部集 付 大弐三位集・藤原惟規集』 南波浩 校注 岩波文庫*『新古今和歌集』上・下 久保田淳 訳注 角川ソフィア文庫*『学研全訳 古語辞典 改訂第二版』 監修:金田一晴彦 編集代表:小久保崇明 学研こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.15
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=== 2023.6.21 === 南の空9時頃に撮りました。朝からくもりです。南西方向の空 西方向の空 グレーののっぺりした布のようではなく、陰影の起伏のある雲であるのがちょっといい感じです。 東方向の空 東の稜線上空は、南~西方向の空とは違った雲の景色です。この日、午前中は特別展「大名茶人 織田有楽斎」を見るために、京都・三条に出かけました。先月、ブログ記事でご紹介しています。帰宅までは雨が降らずに済みました。16時には、小雨が降り、 南の空南西方向の空 窓際から二方向だけ、雲の変化を撮るにとどまりました。 南の空その後、小雨は止み、18時15分頃には、ふたたび天気はくもりに戻りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 おもしろい雲の姿が見られました。 東方向の空では、雲が稜線上で層状に重なっている印象を受けました。=== 2023.622 ===昨夜来の雨でしょうか。朝から雨催いです。 南の空南西方向の空 10時頃に、窓際から二方向だけ撮りました。どんよりとした感じ。 南の空 16時半頃に空を眺めると、雨空はくもり空に好転。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の合間から、ほんの少しですが青空が垣間見える位に変化していました。 東方向の空では、濃灰色の雲が大きく張り出しています。明るさが見えますので、雨雲ではなくて、くもり空なのでしょう。 18時すぎに、もう一度空を眺めました。東方向の空では雲が大きく変化しています。一層ダークな雲が上空を占めていますが、少し青空がうかがえます。 南の空青空が広がり、濃淡に富む雲のせいか青空の青さを濃く感じます。南西方向の空 西方向の空 頭上の雲この夕刻は、天気の変化の狭間に入った状況だったのでしょうか。さて、雲がたりに移ります。『源氏物語』からの「雲」を詠み込んだ歌の抽出の最終回です。前回は「薄雲」まででした。この後、連続する「朝顔」(全13首)、「少女」(全16首)、「玉鬘」(全14首)、「初音}(全6首)、「胡蝶」(全14首)、「蛍」(全8首)、「常夏」(全4首)、「篝火」(全2首)の8帖には、「雲」を含む歌は詠まれていません。「野分」に「雲」が詠み込まれた歌が出て来ます。野分(全4首) 風さわぎむら雲まがふ夕べにもわするる間なく忘られぬ君 夕霧、贈 389 [付記] まがふ:入り乱れる。見失う。 わするる間なく:片時とても。 君:ここの文脈では明石の姫君。藤裏葉(全20首) むらさきの雲にまがへる菊の花にごりなき世の星かとぞ見る 頭中将A、答 456 [付記] むらさきの雲:吉祥のあるときにたなびく紫色の雲。聖帝の君臨 する時にたなびく瑞雲。白菊が移ろう色でもあるとか。 まがふ:入りまじる。 菊の花:皇統の緯徳の象徴鈴虫(全6首) 雲の上をかけはなれたる住みかにももの忘れせぬ秋の夜の月 冷泉院、贈 524 [付記] 雲の上をかけはなれた住みか:仙洞御所(院)のこと。 もの忘れせぬ:忘れずに(光を照らす)⇒訪れない源氏への不満 月かげはおなじ雲ゐに見えながらわが宿からの秋ぞかはれる 源氏、答 525 [付記] 月影:冷泉院の意。 上三句は院の栄えは変わらない、の意。 わが宿からの秋:自分(源氏)の身の上の意。御法(全12首) のぼりにし雲ゐながらもかへり見よわれあきはてぬ常ならぬ世に 源氏、答 563 [付記] のぼりにし雲ゐ:紫の上が煙になって立ち昇った空。 ながらも:・・・けれども。 かへり見よ:私を振り返って見て。 あきはてぬ:「秋が果てる」と無常の世に「飽き果てる」を掛け。 常ならぬ世:無常の世 ⇒源氏は人生の昏(く)れ方に居る。幻(全26首) たなばたの逢ふ瀬は雲のよそに見てわかれのにはに露ぞおきそふ 源氏、独 579 [付記] 雲のよそに:雲の上の別世界のことと。 わかれのには:二星の 別れる明け方の庭。 露:二星の別れの涙と源氏の悲しみの涙。 かきつめて見るもかひなしもしほ草おなじ雲ゐの煙とをなれ 源氏、独 586 [付記] かきつめて:かきあつめて。 かひなし:「効(かひ)なし」 と「貝なし」を掛ける。 もしほ草:藻塩草。塩をとる海藻。 紫の上の手紙をさす。 同じ雲ゐの煙:亡き紫の上の煙と手紙 を燃やして昇る煙が同じ空の煙に。橋姫(全13首) 世をいとふ心は山にかよへども八重たつ雲を君やへだつる 冷泉院、贈 623 [付記] 世をいとふ:この世を避ける。 かよふ:通じる。 八重たつ雲:越えがたい隔たりの意。 雲のゐる峰のかけ路を秋露のいとど隔つるころにもあるかな 大君、答 627 [付記] かけ路:険しい山道。 峰のかけ路は八の宮の仏道修行の場。椎本(全21首) 秋霧のはれぬ雲ゐにいとどしくこの世をかりと言ひ知らすらむ 薫、独 644 [付記] いとどし:ただでさえ・・・なのに、いっそう・・・である。 かり:「雁」と「仮」を掛ける。 総角(全31首) ながむるは同じ雲ゐをいかなればおぼつかなきをそふる時雨ぞ 匂宮、贈 674 [付記] ながむ:眺める。 いかなれば:どういうわけで。どうして。 おぼつかなし:会いたく思っている。待ち遠しい。 そふ:増す。宿木(全24首) 君がため折れるかざしはむらさきの雲におとらぬ花のけしきか 夕霧、唱 720 [付記] 君がため:主上のために。 かざし:花やその枝、のちには 造花を、頭髪や冠などに挿すこと。また、その挿したもの(花)。 紫の雲:めでたいしるしの瑞雲。浮舟(全22首) ながめやるそなたの雲も見えぬまで空さへくるるころのわびしき 匂宮、贈 745 [付記] そなた:宇治の方向。 見えぬまで:涙にくもって見えなくなる だけでなく。 空さへくるる:無心の空までがかき曇る。 ころの:このごろの。 かきくらし晴れせぬ峰の雨雲に浮きて世をふる身をもなさばや 浮舟、答 748 [付記] かきくらす:あたり一面を暗くする。 浮く:落ち着かない。 世を経:年月を経過する。 ⇒この身を雨雲に変えてしまいたい。 なげきわび身をば捨つとも亡き影にうき名流さむことをこそ思へ 浮舟、独 752 [付記] なげき:悲嘆。悲しみ。 わぶ:悲観する。つらく思う。 身をば捨つとも:身を川に投じたとしても。 亡き影に:死後に。 うき名:「憂き名」(いやな、つらい評判)に「浮き」(落ちつ かない)を掛ける。「野分」以降では、「行幸」(全9首)、「藤袴」(全8首)、「真木柱」(全21首)、「梅枝」(全11首)、「若菜上」(全24首)、「若菜下」(全18首)、「柏木」(全11首)、「横笛」(全8首)、「匂宮」(全1首)、「紅梅」(全4首)、「竹河」(全24首)、「早蕨」(全15首)、「東屋」(全11首)、「蜻蛉」(全11首)、「手習」(全28首)、「夢浮橋」(全1首) の16帖に、「雲」を含む歌は詠み込まれていませんでした。つまり、『源氏物語』には、795首の歌が詠まれていますが、「雲」「くも」を詠み込まれた歌は合計で37首あることが分かりました。頻出度でランキングしてみますと、次の分布になります。 7首 須磨 3首 葵、明石、浮舟 2首 桐壺、賢木、鈴虫、幻、橋姫 1首 夕顔、紅葉賀、絵合、松風、薄雲、野分、藤裏葉、御法、椎本、総角、宿木これで、『源氏物語』からの抽出とご紹介は終わります。それでは、再び雲の変化に戻ります。=== 2023.6.23 ===昨夜来、雨が降ったようで、起床時、窓から眺めたベランダの物干棹には雨滴が連なっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空9時半頃に、雨は止んでいましたので空模様は撮れましたが、再び降りそうな感じの雲の状態です。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 17時50分頃に、この日の最後写真を撮りました。 記憶では、その後雨は降らずに、どんよりとしたくもり空のままで暮れた一日でした。つづく参照資料*『常用 源氏物語要覧』 中野幸一編 武蔵野書院*『源氏物語必携事典』 編:秋山虔・室伏信助 角川書店*『源氏物語』1~6 日本古典文学全集 小学館*『学研全訳 古語辞典 改訂第二版』 監修:金田一晴彦 編集代表:小久保崇明 学研*『明解古語辞典 新版』 金田一京助・金田一春彦 監修 三省堂こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.09
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=== 2023.6.18 === 南の空12時5分頃に撮りました。くもり空から朝がスタートしました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空いずれの方向を見ても、濃いめのグレーの布を天空に広げたような雲の姿です。 16時50分頃に東方向の空を眺めると、グレーの色は薄くなり、上空には少し青さも。 南の空青空に転じ、綿菓子を連想させるような柔らかい白雲が見えます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空18時55分頃には、晴れ具合が一層好転。雲の姿も横雲が浮かぶ感じに・・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空他の方向には、いろいろな雲の姿が入り交じっています。こんなのがいい! 東方向の空こちらは普段よく見る状態に変化しています。=== 2023.6.19 === 南の空9時80分頃に撮りました。晴れの日としてスタート。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲!って感じの雲が浮かんでいます。 東方向の空こちらも、稜線上の雲の姿がわかりやすい状態です。のっぺりしているよりも良い! 東方向の空18時15分頃に撮りました。晴れ具合は一層よくなり、稜線上空はほぼ快晴です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 晴れ具合が良くなっていく一日でした。さて、雲がたりに移ります。『源氏物語』作中和歌からの抽出、その2です。前回は「賢木」まででした。その次の「花散里」(全4首)には無し。「須磨」からです。須磨(全48首) 亡き人の別れやいとど隔たらむけぶりとなりし雲ゐならでは 大宮、答 171 [付記] 亡き人:葵の上。 いとど:ますます。いっそう。 なきかげやいかが見るらむよそへつつながむる月も雲がくれぬる 源氏、独 182 [付記] なきかげ:故人の霊。源氏の父・桐壺帝の霊。 よそへつつ:父院にかこつけるようにしながら。 雲隠れぬる:雲に隠れてしまった ふる里を峰の霞はへだつれどながむる空はおなじ雲ゐか 源氏、独 188 [付記] ふる里:故郷。ここでは京の都の意。 心から常世をすててなく雁をくものよそにもおもひけるかな 惟光、唱 202 [付記] 心から:自分の心から起こって。 常世:故郷の常世(仙郷) 雲のよそにも:雲のかなたのよそごと(他人事)と。 ⇒ 惟光が己を雁に重ねている。渡り鳥の「雁」は、この世 ならぬ常世から、飛来するものと思われていた。 いづかたの雲路にわれもまよひなむ月の見るらむこともはずかし 源氏、独 209 [付記] いづかた:どちら。 われも:菅原道真と同様に私も。 月の見るらむこと:西へ向かう月が見ていることだろうが。 雲ちかくとびかふ鶴もそらに見よわれは春日のくもりなき身ぞ 源氏、贈 214 [付記] われは春日(はるひ)の:私はこの春の日のように たづがなき雲ゐにひとりねをぞ泣くつばさ並べし友を恋ひつつ 頭中将A、答 215 [付記] たづがなき:「たづきなし」(頼りとするものがない。頼り所が ない)と「鶴(たづ)が鳴き」をかける。 雲ゐにひとり:宮中 でひとり。 ねをぞ泣く:声をたてて泣いています。明石(全30首) をちこちも知らぬ雲ゐにながめわびかすめし宿の梢をぞとふ 源氏、贈 224 [付記] をちこち:あちらこちら。 わび:わびしく思うこと。気落ち。 かすむ:ほのめかす。雲ゐとの縁で「霞み」を連想させて。 ⇒ 源氏が明石入道の娘に文を遣わす場面で詠む歌 ながむらむ同じ雲ゐをながむるは思ひもおなじ思ひなるらむ 明石入道、(答) 225 秋の夜のつきげの駒よわが恋ふる雲ゐをかけれ時のまも見む 源氏、独 228 [付記] 秋の夜の:「つきげ(月毛)の駒」の「月」を導く序詞 駒:馬の歌語。 時のまも:ほんの束の間でも 見む:恋しい人の姿を見ようものを 絵合(全9首) 雲のうへに思ひのぼれる心には千ひろの底もはるかにぞ見る 大弐典侍、唱 279 [付記] 雲のうへ:宮中。 思ひのぼる:高い志を抱くこと。 千ひろ:千尋(せんひろ)深さが甚だしいことにいう。 松風(全16首) うき雲にしばしまがひし月かげのすみはつるよぞのどけかるべき 頭中将B、唱 [付記] うき雲:「浮雲」と「憂き雲」をかける。 まがふ:見失う。 297 月影:源氏の意。 すみはつ:「澄み果つ」と「住み果つ」をかける。 よ:「夜」と「世」をかける。 のどけかるべき:どこまでも平安でありましょう。薄雲(全10首) 入日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖にいろやまがへる 源氏、独 305 [付記] この歌が巻名となる。雲にも心があるかの如く擬人化した歌 ものおもふ:思い悩む。悲嘆にくれる。 袖:ここでは喪服の袖 まがふ:よく似ていて、間違う。区別がつかない。「薄雲」までの間の3帖、「澪標」(全17首)、「蓬生」(全6首)、「関屋」(全3首) には、雲を詠み込んだ歌はありませんでした。この辺でまた一区切りとします。では、再び雲の変化に戻ります。=== 2023.6.20 === 南の空9時半頃に撮りました。天気はくもりに変転。南西方向の空 西方向の空 頭上の雲 東方向の空どの方向にも、グレーの雲が大きく張り出しています。 東方向の空15時半頃に眺めると晴れ間が少し広がっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の形もかなり異なっています。 南の空この日、最後は17時35分頃に空を眺めて見ました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空雲の姿が、大きく変化していく日は、ちょっと楽しめますね。つづく参照資料*『常用 源氏物語要覧』 中野幸一編 武蔵野書院*『源氏物語必携事典』 編:秋山虔・室伏信助 角川書店*『源氏物語』1~6 日本古典文学全集 小学館*『学研全訳 古語辞典 改訂第二版』 監修:金田一晴彦 編集代表:小久保崇明 学研*『明解古語辞典 新版』 金田一京助・金田一春彦 監修 三省堂こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.07
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=== 2023.6.16 === 南の空9時25分頃に撮りました。連続していたくもりの天気がやっと晴れに転換しました。南西方向の空 西方向の空 空には白雲が漂っています。こういう雲がみられると気分が和らぎます。 東方向の空は、晴れた朝によく見かける感じの空と雲の状態です。 東方向の空14時半頃に眺めると、稜線上には大きく白雲が浮かび、青空がクリアに見えます。 南の空には、グレーがかった雲がぐんと張り出してきていますが、雲の合間に青空が見えます。南西方向の空 西方向の空 南の空18時20分頃に撮りました。雲は灰色がかった状態で動きがありますが、晴れた天気の一日となりました。南西方向の空 西方向の空 南東方向の空 南東方向はより広く青空が見えます。 東方向の空で一番青空が広がっていました。さて、雲がたりに移ります。今回から『源氏物語』の中で詠まれている和歌に目を転じていきます。作中和歌は全部で795首という多さです。源氏五十四帖のどこに「雲」あるいは「くも」を詠み込んだ歌があるでしょうか。何回かに分けて抽出していきたいと思います。『源氏物語』は「桐壺」から始まります。各帖に何首の歌が詠み込まれているかを明記しました。『源氏物語』登場人物の誰が詠者であるか、並びに和歌のコミュニケーション機能の区別を参照資料に基づき略号で明記しました。その区分は:贈答歌⇒贈・答、唱和歌⇒唱、独泳歌⇒独。源氏物語は官位官職名で登場人物が出てきます。同一名称の詠者が登場してきますので、A,B、・・・を併記して区別しています。物語では時間軸と文脈とからその区別ができますので、当時の読者にとっては支障がなかったのでしょう。全795首に通し番号を付しています。雲がどのように、どういう形で詠み込まれているかを楽しみましょう。桐壺(全9首) いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おきそふる雲の上人 桐壺更衣母、贈 4 [付記] いとどし:ただでさえ・・・なのに、いっそう・・・である。 浅茅生:ちがやが生えている場所。ここでは荒れ果てた庭の意。 露:「浅茅生」の縁で「涙」を「露」と表現。 雲の上人:宮中に仕える貴人。大宮人。狭義には、殿上人。 ここでは、勅使の命婦をさす。 雲のうへもなみだにくるる秋の月いかですむらむ浅茅生のやど 桐壺院、独 7 [付記] 雲の上:(高くて遠い)空。ここでは宮中の意味。「月」の縁語 涙にくるる:涙で目が曇る。涙で目がかすむ。 いかで:どのようにして。 すむ:「澄む」と「住む」との掛詞 浅茅生の宿:荒れた宿。ここでは母君の邸。夕顔(全19首) 見し人の煙を雲とながむれば夕べの空もむつまじきかな 源氏、独 36 [付記] 見し人:以前つきあった人。契りをむすんだ人 煙:火葬の煙。 ここでは夕顔を火葬した煙。その煙を雲に見立てる。 むつまし:慕わしい。懐かしい。 紅葉賀(全17首) 尽きもせぬ心のやみにくるるかな雲ゐに人を見るにつけても 源氏、独 100 [付記] 尽きもせぬ:尽きることのない。 くる:心が暗く沈む。 心の闇:若宮を思う親心の闇と藤壺を恋慕する心の闇の重なり。 雲ゐ:宮中の意。ここでは雲の上の人として遠のいた藤壺をさす葵(全24首) のぼりぬる煙はそれと分かねどもなべて雲ゐのあはれなるかな 源氏、独 118 [付記] ぬる:完了の助動詞「ぬ」の連体形。 なべて:(あたり)一面に。 煙:火葬の煙。ここでは葵の上の亡骸を焼き立ち昇った煙。 雲ゐ:雲の空とほぼ同意。 あはれなり:しみじみと心打たれる。 雨となりしぐるる空の浮雲をいづれの方とわきてながめむ 頭中将A、贈 122 [付記] しぐるる:しぐれる。 いづれの方と:どれをそれ(=火葬により 煙となって昇っていった亡き人の姿)と。 わきて:判断して。見分けて。 ながめむ:眺めようか。 見し人の雨となりにし雲ゐさへいとど時雨にかきくらすころ 源氏、答 123 [付記] 見し人:ここでは葵の上。 いとど:ますます。いっそう。 かきくらす:あたり一面を暗くする。悲しみにくれる。の掛詞 ころ:今日この頃よ。 賢木(全33首) ここのへに霧やへだつる雲の上の月をはるかに思ひやるかな 藤壺、贈 154 [付記] ここのへに:幾重にも重なっていること。宮中との掛詞 月:空の月に、帝を暗喩させる。 はるかに思ひやる:はるかに 想像する。裏に、帝にお目にかかれない意を含ませている。 月のすむ雲ゐをかけてしたふともこのよのやみになほやまどはむ 源氏、贈 160 [付記] かけて:心にかけて。 したふとも:お跡をお慕い申して出家する といたしましても。 この世の闇に:子ゆえの心の闇に なほやまどはむ:やはりまどうことでしょう。「賢木」まで調べてきますと、「帚木」(全14首)、「空蝉」(全2首)、「若紫」(全25首)、「末摘花」(全14首)、「花宴」(全8首)には、雲を詠み込んだ歌は登場していないことがわかりました。詠み込まれ方としては、「雲ゐ」「雲の上」「雲の上人」という形です。これらは、すべて「宮中」を重ねて詠み込まれているようです。唯一「浮雲」が別格のようです。しかし、火葬でたち昇って行った煙が雲になり、浮雲の一部になるという発想が述べられていますので、これもまた、宮中での人間関係での懐かしさが雲に込められているということになりますね。それでは、再び雲の変化に戻ります。=== 2023.6.17 === 南の空昨日に続き、天気はまさに朝から快晴です。10時50分頃に撮りました。雲無し!南西方向の空 西方向の空 東方向の空朝でも時間帯が遅かったからでしょうか、東方向の空にも青空の色がはっきり目に入ってきます。稜線の上に少し白雲が浮かんでいます。 18時25分頃に東方向の空を眺めてみました。白雲は飛び去り、稜線上空は快晴そのものに変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の姿は見られませんでしたが、快晴が続き良き一日でした。つづく参照資料*『常用 源氏物語要覧』 中野幸一編 武蔵野書院*『源氏物語必携事典』 編:秋山虔・室伏信助 角川書店*『源氏物語』1~6 日本古典文学全集 小学館*『学研全訳 古語辞典 改訂第二版』 監修:金田一晴彦 編集代表:小久保崇明 学研*『明解古語辞典 新版』 金田一京助・金田一春彦 監修 三省堂こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.04
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これは入場券です。6月25日で会期が終了しました。終了間近の21日に出かけました。 三条通を西に進むと、高倉通との交差点の北西角に特別展の案内が掲示されています。右折すると、西側に京都文化博物館が見えます。 正面玄関の手前にも特別展のポスターが。 この特別展のPRチラシ。チラシに掲載の作品は後で引用します。このチラシの背景に使われているのは、正伝永源院の「蓮鷺図襖」です。江戸時代の狩野山楽筆で、16面所蔵されていて会期中は前期・後期で入れ替えが行われた展示です。この襖絵は、「正伝永源院の寺宝」の一つとして展示されていました。今回の展示品の中ではやはり見応えのある襖絵でした。織田有楽斎を、大名茶人、茶室「如庵」を作った人、一時期は大坂城の淀君や秀頼の傍に居たという程度の認識でした。ほとんど何も知らないレベルです。この特別展を鑑賞して、初めて織田有楽斎という人物を少し具体的に知り、イメージが膨らんだ次第です。織田有楽斎という人物から始めます。有楽斎は茶人としての名前。本名は織田長益。織田信秀の11男として天文16年(1547)に生まれました。織田信長の弟の一人です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三天下人に仕え、有為転変の激しい時流を乗り切りました。大名としてサバイバルした後、晩年に京都・建仁寺の塔頭・正伝院を元和4年(1618) に再興しました。隠棲し茶人として名を残し、75歳で生涯を閉じます。天文16年(1547)~元和7年(1621)という時代を生きました。(資料1)狩野山楽は京狩野の祖で、安土桃山から江戸初期に活躍した画家です。1559年生まれで、1635年に没しています。有楽斎とほぼ同時代を生きたことになります。この特別展は5章構成になっていました。 第1章 織田長益の活躍と逸話-”逃げた男”と呼んだのは誰か 第2章 有楽斎の交友関係 第3章 数寄者としての有楽斎 第4章 正伝永源院の寺宝 第5章 織田有楽斎と正伝永源院-いま、そしてこれから-第1章の会場では、最初に「織田氏系譜」が展示されていました。その次に『信長公記』巻15です。前期は巻14が展示されていたようです。その隣りには「本能寺跡出土瓦」(京都市蔵)が一部展示されています。焼けて赤茶けた瓦片。本能寺が炎上したことが良く分かる瓦片です。「能」の文字を浮彫にした瓦片も出ています。手許の『信長公記』を調べてみますと、巻15は天正10年(1582)の記録です。冒頭は「御出仕の事」を記述しています。正月朔日、夥しい群衆が集まったことで、「高山へ積み上げたる築垣を踏みくづし、石と人と一ツになりて、くづれ落ちて、死人あり」という崩壊事故が起こったという書きだしから始まります。その続きに、信長が自ら大名・小名を問わず、御礼銭(祝い銭)をとって、惣見寺毘沙門堂舞台をはじめ、城内を見物させたということが記されています。その中に、「・・・三位中将信忠卿、北畠中将信雄卿、織田源五、織田上野守信兼、此の外、御一門歴々なり。其の次、他国衆。・・・」という記述があります。ここに記された織田源五が織田長益、つまり有楽斎のことです。また、3月の「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝ事」の条では、その末尾に、「御敵城、ふかしの城、馬場美濃守相拘へ、居城なりがたく存知、降参申し、織田源五へ相渡し、退散候なり」(p360)と、長益の戦場での活躍を記録しています。巻14は天正9年の記録。2月28日に行われた「御馬揃への事」の記録の「御馬場入りの次第」の中に、「同源五」と名前が明記されています。 (資料2)一方、巻15の末尾には、「信長公本能寺にて御腹めされ候事」に引き続き、「中将信忠卿二条にて歴々御生害の事」の記録があります。明智光秀による本能寺の変の勃発です。織田信忠はこの時、二条新御所で自害します。長益はこの時、信忠に仕えていたので傍近くに居たはずです。『信長公記』はこの時の「御討死の衆」の氏名を列し挙記録しています。長益の名は載っていません。彼はこの場から生きのびたのです。 (資料2)その結果、後に「逃げの源吾」という悪評が生まれました。16世紀末に成立した『義残後覚』第5巻(加賀中央図書館蔵)には、既にこの悪評の記述があるそうです。この書物も展示されていました。図録には、悪評の発生・存在を事実としても、これだけで「逃げた男」と断じることは歴史学的態度ではないと問題提起しています。「戦の中、いかに子孫を残し一族を継続させるかと考えることはこの時代、極めて一般的な思考であったと考えられる」(p23)からと。信忠の配下の前田玄以もまたこの時生き延びています。この点は納得できますね。長益はその後、武士の交わりにおいて、良質な人間関係を築き広げている事実がそれを裏付けているとも言えます。この最初のセクションには、後期として、織田信忠・豊臣秀吉の掛物二幅(正伝永源院蔵)が展示されていました。 目を引いたのはこれです。「短刀 無銘 貞宗(名物 寺沢貞宗)」(国宝、文化庁蔵)です。豊臣秀吉の家臣であった寺沢広高(肥前唐津藩初代藩主)が旧蔵していたことにちなみこの名がつくそうです。(資料1)<第2章 有楽斎の交友関係>まさに有楽斎の人間関係を示す事実が掛物のオンパレードで見えてきます。有楽斎宛の書状が掛物に仕立ててあるのです。茶室で掛けられるのに使用されたのでしょうか。後期展示で拝見した書状発信者名を列挙しましょう。桑山左近、松平陸奥守、福島正則、千道安、曲直瀬玄朔、谷衛友、武野宗瓦、徳川家康。名前の半数を私は知りません。一方、有楽斎が発信した書状もまた掛物になっています。藤堂和泉守。土井大炊助。伊勢谷道七。梅岑軒。東心老。松庵老。中納言。古田織部。すぐわかるのは古田織部くらいです。掛物は不案内でよくわかりません。哀しいかな書状文面がまず判読不能です。これらの掛物が茶室で使われたのなら、当時の人々はこれをどのように鑑賞、あるいは受けとめたのでしょうか。一方、今これらが茶室に掛けられたら、茶人はどのように楽しむのでしょうか・・・私には想像がつきません。結果的に、ここは一通り眺めて次のセクションへ、という次第。ただ1点、このセクションの最初に展示されていた木彫像「織田有楽斎坐像」(正伝源院蔵蔵、通期展示)には、心惹かれました。生前の姿を写したと伝えられ、法体で、右手に中啓を持って坐す像です。会場で眺めたときには、柔和な顔をした物静かな印象を受けました。図録の写真からは、大きく開いた目から、強い眼差しを感じる雰囲気があります。眺める角度によっても印象が変化するのでしょう。後期展示で拝見出来なかったのが、狩野山楽筆で上部に賛が記された掛物です。出品リストでは、第4章での展示だったようです。PRチラシにはこちらが載せてあります。 木彫像とは少し異なりますが、部分図を引用します。織田有楽斎のイメージづくりに役立つのではないでしょうか。<第3章 数寄者としての有楽斎> 最初に展示されているのは、右側の、有楽斎が作った茶室「如庵」の扁額です。この扁額は、楷書体で書かれ、草冠の「菴」という字が使われています。この扁額は正伝永源院蔵のもの。現在茶室「如庵」は、愛知県犬山市の有楽苑内に移されています。そこには現在、大悔和尚の揮毫した行書の扁額が掛けてあるそうです。 富岡鐵斎筆「如庵図」の掛物が併せて展示されていました。この図では、楷書体で「庵」の字を用いた扁額として描かれています。つまり、如庵には複数の扁額が伝来していることになるようです。「有楽亭茶湯日記」(慶応義塾図書館蔵)と題する有楽斎の茶会記の書写本が展示してありました。有楽斎自身が記した茶会記そのものは現存しないようです。茶人と研究者にとっては残念でしょうね。このセクションには、有楽斎が愛用した数々の茶道具が展示されています。「緑釉四足壺」(慈照院蔵、重要文化財)は平安時代、9世紀の作品です。その形状に特徴があります。壺は広口で、胴が張っていて、横方向に太めの半円形の帯が3本、胴を巡っています。そして縦方向には4本の脚部としての盛り上がりがあり、先端部が足になっているのです。緑釉は緑褐色を呈しています。どっしり安定している印象を受けました。こんな形の壺はたぶん初めて見る気がします。茶杓が展示されています。武野紹鴎作が1本。有楽斎作が2本、これには初霜、落葉という銘が付いています。織田道八作が2本です。順に眺めて行くとそれぞれに茶杓の幅も反り具合も微妙な差異があります。違いがあることはわかりますが、その良さがどこにあるかは私にはわかりません。茶杓を実際に使いこなしていないと感じられない領域なのかな・・・・、さらには、実際にこれらの茶杓を使ってみて初めて良さがわかるのかな・・・そんな気がしました。上掲の扁額の左に写っているのは玉垣という銘が付いた「唐物文琳茶入」(遠山記念館蔵)です。この玉垣文琳は、「大名物」「駿府御分物」「柳営御物」という3つの肩書を持つ茶入だそうです。この茶入、他の茶入8つと併せて、大坂夏の陣の時、大坂城内の蔵の倒壊で破損し、茶入の陶片が発掘され、「漆屋の藤重藤元・藤巌親子によって漆で修復された」という経緯があるそうです。(資料1)「唐物肩衝茶入 銘 残月」(文化庁蔵)と「唐物茄子茶入 銘 宗伍茄子」(五島美術館蔵)はその形と色合いがいいなぁ・・・と感じました 「青磁輪花茶碗 銘 鎹(カスガイ)」(マスプロ美術館蔵)はおもしろい銘だなとまず思って、よく見ると、茶碗の外面に鎹が打たれています。茶碗のひび割れた箇所を修復しているのです。茶碗の内側を覗くと、ひび割れた箇所が線として見えるだけです。茶碗の色合いと輪花の形が、ひびが入っても捨てがたい茶碗ということで修復したのでしょうね。それが一層風趣を加えたと感じたのかもしれません。どこかで、古田織部は意識的に茶碗を割って、それを修復して、初めてその茶碗を茶会で使うという試みすらしたということを読んだ記憶があります。その事を思い出しました。 この「大井戸茶碗 有楽井戸」(東京国立博物館蔵、重要美術品)は、PRチラシと入場券に使われています。16世紀、朝鮮王朝時代のもの。朝鮮半島で作られた高麗茶碗の一種で、輸入品です。井戸茶碗には「渋い色調でところどころ釉薬(うわぐすり)のちぢれをみせ、竹の筒状の高台(こうだい)がある」(『日本語大辞典』講談社)という特徴があります。白釉のムラが茶碗の景色になっているそうです。この茶碗の遍歴がおもしろい。織田有楽斎⇒紀伊国屋文左衛門⇒・・・⇒仙波太郎左衛門(江戸)⇒伊集院兼常(薩州)⇒藤田家(大坂)⇒松永安左エ門(耳庵)⇒東京国立博物館(寄贈による) この茶碗一口そのものにも濃密なドラマが展開していたのかもしれません。<第4章 正伝永源院の寺宝>織田有楽斎が復興したのは「正伝院」でした。明治時代の拝仏棄釈の影響がここにも及んでいます。当時、「永源庵」は無住であったため即刻廃寺を命じられ、その敷地、堂宇へ正伝院が移されたのです。ところが、無住であったとはいえ、永源庵は細川家の始祖・頼有以後八代の菩提寺だったことから、細川伯爵家が関係してきたのです。永源庵という寺名を「正伝永源院」として復興させることを条件に「保存資金」を提供するということになったとか。その結果、永源庵の敷地に移った正伝院は「正伝永源院」という寺名に改称されました。会場にもその説明が掲示されていました。(資料1)つまり、このセクションでは、正伝院時代の有楽斎所有だったものから枠が広がり、正伝永源院の総体としての寺宝を展示するという形に、次元が移っていました。見所の一つは上記の「蓮鷺図襖」です。加えて、現在は犬山市にある有楽苑内の茶室「如庵」の付属書院を飾る旧正伝院書院障壁画のうちの「山水図」(名古屋鉄道株式会社蔵)が展示されていました。長谷川等伯と狩野山雪のそれぞれが描いた水墨の襖絵です。長谷川等伯の襖絵を見られたのはラッキーでした。伝徽宗筆「架鷹図」(正伝永源院蔵)の掛物も見応えがあります。鷹が様々な姿態で描かれています。8幅が会期中入れ替えで展示されていたようです。図録には勿論8幅すべて収録されています。印象に残るのは、室町時代の「蛸足香炉」(正伝永源院蔵)です。焼香の際に用いる道具ですが、香炉の台が12本の脚を持ち、6本は地につく脚ですが、6本は途中でくにゃりと曲がった状態で、手招きしている感じ、まさに蛸の足を即座に連想させ、おもしろい作品でした。蒔絵で装飾された香炉、湯桶、箱、刀掛などの優雅な作品の展示もありました。<第5章 織田有楽斎と正伝永源院-いま、そしてこれから- >最後のセクションのタイトルに「いま、そしてこれから」というフレーズが付いています。なぜ? と思いました。織田有楽斎は有楽流茶道を創始した人。この有楽流茶道が現在も正伝永源院に継承されているそうです。2022年に有楽流茶道を継ぐ人々により、400年大遠忌が行われたと言います。ナルホドです。 通期で展示されたこの「狸形壺」(正伝永源院蔵)が形としておもしろいものでした。明代、15~17世紀の作品と推定されています。高さが6cmにも満たない小さな蓋付きの器です。青銅製ですが表面に漆が塗られていて、落ち着いた風合いになっていて、狸の顔がカワイイ。墨を擦るための硯滴に使われたと推定されているとか。(資料1)ここには、「有楽斎手造茶碗」が一口展示されていました。赤茶碗です。 これは当日購入した図録の表紙です。ここに使われている「黒楽『正傳院』字茶碗」(正伝永源院蔵)がこの最後のセクションに展示されていました。伝仁阿弥道八作。江戸時代、19世紀。また、仁阿弥道八作「御本立鶴写茶碗」(正伝永源院蔵)が展示されています。胴部に轆轤引きの筋目が見え、立鶴文様が象嵌印花されていて、胴部の一箇所を意図的に押さえて凹ませてあります。少し歪なところがおもしろい茶碗です。「銹絵暦文茶碗」が三口展示されていて、この文様が印象に残りました。暦をデザインに用いた茶碗です。楽了入、楽旦入、仁阿弥道八それぞれの作品です。三者三様でおもしろさがあります。図録を読んでいて知ったのですが、茶室「如庵」には、暦を壁に貼りつけた「暦貼り」があるとか。有楽斎の美意識の一端がそこに表現されているのでしょう。この最後のセクションにも、「織田有楽斎像」の掛物(大阪青山歴史博物館蔵)が展示されていました。大角南耕画、梧庵紹材賛。江戸時代、19世紀。上記の有楽斎像とはまた少し雰囲気が異なる感じです。柔和さを感じる側面は同じです。 図録の裏表紙。織田家の家紋が中央にデザインされ、二羽の鳥が飛んでいます。よく見ると、この鳥は「蓮鷺襖」に描かれた燕が使われているようです。正伝永源院を一度訪れてみたくなりました。2021年秋に約100年ぶりに石造五重層塔の「武野紹鴎供養塔」が戻ってきて、本堂に安置されている有楽斎像の目線の先の庭に設置されたと言います。関西財閥の藤田家の奉納によるものとのこと。この供養塔自体にも変遷の歴史が刻まれているようです。当初は武野紹鴎25回忌の天正7年(1579) に堺の塩穴常楽寺内に建立された層塔。有楽斎が正伝院を再興した折に、当時の所有者、堺の難波屋に交渉して、石塔を移設したそうです。(資料1)本堂に安置されてる有楽斎像とともに、その石塔を眺めてみたいなと思いました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*出品リスト「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」1) 当日購入した図録『大名茶人 織田有楽斎』 発行 読売新聞社 編集:京都府京都文化博物館 サントリー美術館 読売新聞社2)『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 補遺正伝永源院 ホームページ日本庭園 有楽苑 ホームページ有楽苑(国宝茶室 如庵) :「Aichi Now」茶室「如庵」 :「三井広報委員会」織田長益 :ウィキペディア織田有楽斎の墓 :「京都観光Navi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.06.28
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2023.3.1時点3/1に、三条大橋の南側の木製高欄の更新についてご紹介しました。これがその時撮った1枚です。南側の更新が終わっていましたが、この時北側は未着工でした。3/16に三条に出たのを最後にしばらく出かけていませんでした。先日(6/21)久しぶりに、京都文化博物館で開催の特別展「大名茶人 織田有楽斎」を鑑賞する目的で三条に出ました。(この特別展は昨日6/25で終了しました。)3ヵ月ぶりに三条大橋を渡ると、北側の木製高欄の取り替えが完了していました。 三条大橋の東詰、北側歩道から撮りました。 橋上の歩道を少し西に歩み、東側から撮った景色です。 未だ南側と同様、高欄手前に木柵が設置されています。 鴨川の上流(北)側の景色。北に見えるのは御池大橋。取り替えられた高欄には、これまでの擬宝珠をそのまま取り付けて復元されています。 三条大橋の北側歩道の西よりから撮った景色です。 新調された木製高欄に歳月を経た擬宝珠が設置されているのですが、違和感を感じません。今まで長年この擬宝珠を見慣れてきているせいでしょうか。逆に落ち着きを感じます。 三条大橋西詰(北側)天正17年に建造された三条大橋の石柱が西詰に保存されています。時代が次々に変わり、橋は幾度も付け替えられています。しかし、この三条大橋は京の都の交通の要衝地であり続けています。補遺「三条大橋の補修・修景」トップページ :「京都市情報館」 三条大橋の歴史(室町時代~安土桃山時代) 「橋博士」を目指す方へ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都市 三条大橋 木製高欄(南側)の更新観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (1) へ観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (2) へ観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (3) 描かれた姿・撮られた姿
2023.06.26
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=== 2023.6.11 ===朝から小雨が降っていました。午前中、コロナの予防接種を予約していたので病院に出かけていました。午後には雨が止み、くもり空に。それで、 南の空雲の姿は記録を兼ねて、18時過ぎだけ撮りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 こんな濃灰色の雲の姿が見られました。=== 2023.6.12 ===朝からくもり空です。 南の空14時35分頃に、記録としてくもり空の様子を撮ってみました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空毎日空の雲を眺めていると、こういう布を広げたような雲の姿はあまり撮る気がしません。やはり、雲は変化がみられる方がいい。この日、ひととき小雨が降った時がありました。=== 2023.6.13 === 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空8時45分頃に撮りました。この日も朝からくもりです。雲の姿に少し変化が見えます。 東方向の空13時35分頃に撮った空は、朝の空とは少し雲の変化が出ています。 南の空南西方向の空 西方向の空 濃い灰色の雲の形が様々です。薄い灰色の雲よりも高度が低いのでしょうね。 南の空 18時20分頃にも撮ってみました。南西方向の空 西方向の空 ズームアップして雲の姿を部分撮り 東方向の空夜に雨が降り出しました。=== 2023.6.14 === 南の空朝からくもりです。10時20分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空毎日つづくくもりの空といえども、浮かぶ雲の姿は日々変化がみられます。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 17時05分頃に撮りました。朝の雲とはまた違った姿です。 日々どころか、やはり刻々と変化しているのでしょう。 灰色のグラデーションがいいですね。 この濃淡の変化はどのようにしてできるのでしょう・・・・不思議です。さて、雲がたりに移ります。源実朝の『金槐和歌集』の最後の巻之下からの抽出です。 (『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系 岩波書店 参照)この巻之下は「雑部」という名称でまとめられ、156首が収録されています。その中で「雲」を詠み込んだ歌を調べてみました。次の4首です。 ちかうつかふ女房遠き国にまからむとて いとま申侍(まうしはべり)しかば 山遠(とほ)み雲ゐに雁の越えていなば我のみひとり音(ね)にや鳴かなむ 604 [付記] 山遠み:山は遠くして。 雲ゐに:遙かな雲の中を。 雁:女房を雁に喩えた。 鳴かなむ:雁に喩え、鳴きたいものだ。 まな板といふ物の上に雁をあらぬさまにして置きたるを見て あはれなり雲井のよそに行雁もかゝる姿に成ぬと思へば 704 [付記] あらぬさま:原形をとどめない状態。 雲井のよそに行雁:大空をはるかに飛び行く雁。 黒 うば玉のやみのくらきにあま雲の八重(やへ)雲がくれ雁ぞ鳴くなり 705 [付記] うば玉の:「やみ」の枕詞。うば玉の⇒「ぬばたまの」の変化形 八重の雲がくれ:大空のうち重なる雲の雲がくれに。 鶴 沢辺より雲ゐにかよふ蘆鶴もうきことあれや音 (ね) のみ鳴(なく)らむ 706 [付記] うきことあれや:心にそまぬことがあるからか。 ねのみなく:「ねをなく」と同じ。声を出してなく。 『金槐和歌集』には、719首が収録されていて、その中で「雲」の字を詠み込んだ歌は、合計 34首ありました。(見過ごしがあるかも知れません・・・)これで一区切りがつきました。ふと、『源氏物語』を思い浮かべました。ここには、795首の歌が登場しています。『金槐和歌集』より1割ほど多い歌の数です。少し興味が湧きましたので、次は『源氏物語』に詠まれた歌を調べてみます。それでは、雲の変化に戻ります。=== 2023.6.15 === 南の空この日も朝からくもりです。9時頃に空を見上げました。午後開講のある講座を聴講するために出かける予定があり、雨が降らないか、ちょっと気になりました。南西方向の空 西方向の空 こんな感じの空の時は雨が降ることが多いのです。結果的には降られずに済みました。 東方向の空 東方向の空帰宅後、16時半頃に撮った空の状態です。 南の空南西方向の空 西方向の空 この日は、終日、天気予報通りにくもりでした。振り返ってみますと、6月の第2週からはほとんどくもりの日が続き、小雨あるいは雨が振る時間帯のある日もあったという状況でした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.24
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=== 2023.6.7 === 南の空9時15分頃に撮りました。空は晴れていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の雲かなり雲が張り出していますが、青空が見えるといいですね。 東方向の空は、稜線の上空をずっと雲が覆い、青空は見えません。 13時15分頃に、東方向の空を眺めると、黒みを帯びた雲は去り、稜線上に漂う白雲の上空は薄墨色で覆われています。 南の空もまた、雲に覆われた状態に変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 18時半頃に空を眺めると、南の空には青空が戻ってきました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空しかし、それ以外の方向では青空が見えない状態です。全体的には、晴れのちくもりという一日でした。=== 2023.6.8 === 南の空朝に眺めるとくもり空。13時頃に眺めても好転の見込みはなさそう。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 15時50分頃には、小雨が降っていました。少し前から降り始めていたようです。 南の空南西方向の空 窓際から、二方向だけ撮りました。グレー一色です。=== 2023.6.9 ===朝から小雨。 南の空南西方向の空 9時20分頃には小雨状態なので二方向だけ撮りました。しかし、10分後には小雨が止みました。そこで、再度撮ってみました。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空10分ほどのことで、雲の姿には変化がみられました。その後、時折南の空を眺めましたが、くもり状態に大きな変化はなし。写真を撮る気は起こりませんでした。さて、それでは雲がたりを続けましょう。『金槐和歌集』の続き、巻之中です。この巻は「恋の部」と題され、252首が収録されています。その内で11首に「雲」の字が詠み込まれていました。 (『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系 岩波書店 参照) 逢(あふ)事を雲井のよそに行雁の遠ざかればや声も聞こえぬ 418 [付記] 恋人を雁に見立てて詠んだ歌 夕月夜(ゆうふづくよ)おぼつかなきを雲間よりほのかに見えしそれかあらぬか 427 [付記] おぼつかなきを:薄暗くてはっきりしないが。 恋人を夕月に喩えた 月影のそれとあらぬかかげろふのほのかに見えて雲隠れにき 428 [付記] かげろうふの:「ほのか」の枕詞。 天の原風に浮きたる浮雲の行へさだめぬ恋もするかな 432 [付記] 天の原:大空。 久堅の天(あま)とぶ雲の風をいたみ我はしか思ふ妹にしあらねば 433 [付記] 久堅の:「天」の枕詞。 風をいたみ:風が激しいので 我はしか思ふ:乱れる雲のようにわが心も恋に乱れて物思う。 我恋はあまの原とぶあしたづの雲ゐにのみや啼きわたりなむ 435 [付記] あしたづ:鶴。⇒葦の生えている水辺によくいるところから。 雲のゐる吉野のたけにふる雪のつもりつもりて春に会(あひ)にけり 479 [付記] 上三句は「つもり」の有心の序。 つもりて:雪と恋心を掛けた 春に会にけり:恋の成功した喜びを表現 思ひきやありしむかしの月影を今は雲ゐのよそに見むとは 497 [付記] 思ひきや:思いもかけなかった。 雲ゐのよそ:雲のかなた。 ありしむかしの月影:かつて一緒に暮らした恋人を月になぞらえた 寄月恋(つきによするこひ) 数ならぬ身はうき雲のよそながら哀れとぞ思ふ秋の夜の月 523 [付記] 数ならぬ身:物の数でない賤しい私。 うき:「浮き」と「憂き」 秋の夜の月:恋人を月に喩えた。 寄雲恋(くもによするこひ) しら雲のきえは消(きえ)なで何しかも立田の山の名のみたつらむ 525 [付記] きえは消なで:消えはてはしないで。死にはてもしないでを含意。 何しか:どうして・・・か。 名のみたつ:名前(裏に噂)だけが立つ 雲がくれ鳴(なき)て行(ゆく)なる初雁のはつかに見ても人は恋しき 540 [付記] 上三句:「はつか」の序。 はつかに:わずかに。西行法師は、『山家集』下の最後に「百首」と題し、その中に「恋十首」を載せています。月を詠み込んだ歌は一首ありますが、雲を詠み込んだ歌はありません。恋と雲は結び付きにくいのかもしれません。再び、雲の変化に戻ります。=== 2023.6.10 === 9時45分頃に撮った南の空です。この日の天気予報はくもりでした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空いずれの方向も灰色の雲で覆われています。11時過ぎに所用で外出しました。念のために折りたたみの傘をバッグに入れて。結果的には往復、くもりのままで傘を使わずに済みました。 南の空帰宅後、16時頃に撮った空です。朝よりも、雲!という感じがします。同じグレーの雲でも、変化と動きを感じさせる雲の方がいいですね。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空雲の姿を撮り始めて、偶然にも初めて飛ぶ鳥の姿を撮ることができました。天気予報どおり、終日くもりでした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.22
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六條院春の御殿の縮尺模型の西側には、通路を挟んで実物大で板敷の廂空間が設けてあります。西辺と南辺の一部には御簾が掛けられ、北辺は襖障子で仕切られています。冒頭の景色はほぼ全景です。この空間には、毎回その時のテーマに合わせた実物サイズの装束が説明パネルを備えて展示されます。 これは、「古神宝に知る十二単の姿 鶴岡八幡宮御神宝の再現」として復元考証された装束です。 左:白小葵地鳳凰文二重織袿(こあおいじほうおうもんふたえおりうちぎ) 一領 A右:黄地窠霰二重織小袿(かにあらあれふたえおりこうちぎ) 一領 D 左:淡香地幸菱文綾織単(うすこうじさいわいひしもんあやおりひとえ) 一領 C 右:紫地向鶴三盛丸文唐織袿(むかいつるさんもりまるもんからおりうちぎ) 二領 Bこの2枚の写真は、説明パネルとして設置されていました。鎌倉の鶴岡八幡宮には御神宝として袿等5領が所蔵され国宝となっているそうです。次の説明の都合上、末尾にA~Dの記号を付しました。 復元考証され再現された装束です。Aを上に、Bの同品2領を所蔵の通り重袿(かさねうちぎ)とし、Cは当時の色彩を紅と推定し単として用い、その寸法は伝承の通りとしたそうです。Dの小袿を加えて、12の御衣と単衣で合計13枚となっています。「袖付けは振りがなく身につけられているのでその様式に従い、袖口には重なりがありますが裄(ゆき)の差による中陪(なかべ)は見えません。鶴岡八幡宮の単仕立3枚1組のものを4組重ねれば12枚の単を重ねたことになり、単仕立3枚1組のものを3組と2枚合わせのものを1組と単を重ねれば12枚の重単となります」(説明パネルより)「十二単とは本来は晴れの装いである唐衣裳姿を意味したものではなく、近世になって十二単が唐衣裳姿を示すようになったとも考えられます」という説明が加えてあります。手許の一書に、「平安朝の作品には『十二単』そのものの語が見えず、『平家物語』『源平盛衰記』のあたりに初出する。さらにまた、例えば『源平盛衰記』巻四十三に、入水を図った建礼門院の『藤重の十二単の御衣』を召された姿とある条など」(資料1)という説明を見つけました。 説明パネルに掲載の画像これは鎌倉時代初期の幕府における将軍夫人や執権夫人の通常の正装を想定したものだそうです。次の説明も装束についての知識として役にたちます。(説明パネルより)1.鎌倉時代には、平安時代中期に完成した公家女房の唐衣裳の晴れの装いは特別な儀式だけのものとなった。2.天皇の前に伺候する以外は、唐衣を略した。表着や裳さえ省くこととなった。3.鎌倉時代後期には、「小袿、袴に衣、単を重ねた袿姿が『はだか衣』として用いられ、更に次には衣を除く単、袴のままの姿であったり、更に控えの時などは袴を脱して小袖のままのこと」もあった。 公家女房晴れの装い~平安時代中期に日本独自の十二単(ひとえ)の完成~ (説明パネルより切り出し)十二単は「女房装束」「唐衣裳」の俗称です。10世紀半頃にこの姿が完成したそうです。奈良時代には髪を結い上げていました。それが平安時代には垂髪(たれがみ)になり、眉は作り眉となります。原文は未確認ですが、『栄花物語』巻24「わかばえ」には、万寿2年(1025)正月23日に、三条天皇中宮の藤原研子(道長の娘)が主催した大饗宴の場面が描かれているそうです。中宮研子は女房たちに、重袿(かさねうちき)を15~20枚まで着させたとか。道長はその華美な演出に怒りを発しました。というのは、この時代に藤原道長は重袿は6枚程度がよいとして、装束の倹約令を出していたからだそうです。(説明パネルより)「十二単の『五衣(いつつぎぬ)』は、のちに重袿を5枚と定めたことによる呼称」(説明パネルより)だと言います。袿は、「もともと単と表着との間に着けた内着の衣、つまり下着の総称」です。『栄花物語』の「暮まつほし」には、「この御時には制ありて、衣の数は五つ」と制限したことが記されているそうです。(資料1)手許の古語辞典を引くと、「五つ衣」の項では、「女房装束の一つ。唐衣と単との間に袿を五枚重ねたもの。のちには一枚の衣で袖口と裾だけを五枚重ねに見えるように仕立てた」(『学研全訳古語辞典 改訂第二版』)と説明しています。 実物サイズの装束が展示されています。 説明パネルを見落としていたようです。記録写真がありません。手許の一書を参照しますと「紅紅葉(くれないもみじ)」と称するかさねの色目のようです。(資料2) 草木染めで染めたものと化学染料で染めたものが、かさねの色目見本として展示されています。もう一点、左側の背後に展示してあったようですが、撮り忘れました。 「継紙(つぎかみ)」の作品例が展示されています。「継紙とは、異なる質や色の紙を継いだ料紙のことです」(説明パネルより)継紙は「冊子作り」の場面展示に出て来ました。継紙の技法はいくつもあるようです。たとえば、 切り継ぎ: 主に直線的に切った紙を継ぐ 破り継ぎ: 破いた紙を継ぐ 重ね継ぎ: 薄様の紙を重ねる 他に金銀の箔や砂子を散らす。金泥で蝶や鳥、折枝などを描く。などの趣向を加えるこの継紙が成立したのは平安時代と考えられているそうです。(説明パネルより)これで、展示を一巡したことになります。これで今回(2月~5月展示)鑑賞のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照史料1)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館2)『新版 かさねの色目 平安の配彩美』 長崎盛輝 青幻舎 p56補遺院政時代の公家女房晴れの装い :「日本服飾史」(風俗博物館)十二単の基礎知識 :「民族衣裳文化普及協会」継紙 :「コトバンク」王朝継ぎ紙とは :「王朝継ぎ紙の世界」書簡に用いられた用紙(色変わりの用紙を継いだ巻紙)は、書誌学上、どう表記されるのか知りたい。 :「レファレンス協同データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ
2023.06.18
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=== 2023.6.4 === 南の空朝から快晴です。10時45分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 東の空も、この時刻にはこんな感じで稜線上空に青空が見えています。 東方向の空15時25分頃には、雲が張り出していました。厚い層状に稜線上空を覆っています。 南の空厚い白雲がぐんと張り出し、その上に青空と雲が重なって見えます。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけては、雲の形が異なります。こちらは鱗雲様です。 頭上の雲 南の空18時10分頃にも空を眺めてみました。再び、雲の姿は変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空これだけ変化するのもちょっと珍しい・・・・。雲の姿を楽しめた一日。=== 2023.6.5 === 南の空9時頃に撮りました。打って変わって朝からくもり空。南西方向の空 西方向の空 東方向の空どちらを向いても、濃いグレーで似たような厚くて平板な感じの雲が覆いつくしています。こんな空の様相が続きました。この日はくもり。 南の空17時20分頃に空を眺めると、雲の姿が様変わりです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空さて、雲がたりに移ります。源実朝が遺した『金槐和歌集』を取り上げます。参照本には、西行法師の『山家集』とセットになっていますので、こちらも、これを機会に通読しながら「雲」の字を詠み込んだ歌を抽出してみました。参照したのは、『山家集 金槐和歌集』(日本古典文学大系29 岩波書店)です。『金槐和歌集』は、巻之上、巻之中、巻之下の三巻本になっています。この岩波本は「貞享4年北村四郎兵衛板行の整板本」を底本としています。巻之上は、四季編成で、407首が収録されています。そこから抽出した歌は次の通りです。上・春部 春のはじめの歌 九重(ここのへ)の雲井に春ぞ立ぬらし大内山に霞たなびく 2 [付記] 九重の雲井:雲が幾重にも重なる空のかなたの意と宮中の意。 大内山:もとは山城の地名。皇居の辺りの意として。 名所桜 音にきくよしのの桜咲きにけり山のうもとにかゝるしら雲 51 [付記] 音にきく:うわさに聞いている。評判のよい。 しら雲:桜の花の咲く様子を雲に見立てる。 遠山桜 かつらぎや高間の桜ながむれば夕ゐる雲に春雨ぞふる 52 [付記] 高間:葛城山中の一峰。桜の名所。 春山月 風さはぐ遠(おち)の外山(とやま)に雲晴てさくらにくもる春のよの月 97 [付記] 遠の外山:遠くのと山。と山は里に近い麓の山。奥山に対する語。 さくらにくもる:桜の落花のために曇るように感じる上・夏部 五月雨の雲のかゝれるまきもくの檜原がみねに鳴くほととぎす 154 [付記] まきもくの:巻向山の。 葛城や赤間の山のほとゝぎす雲ゐのよそに鳴きわたるなり 155 五月雨 五月雨は心あらなむ雲間より出(いで)くる月をまてばくるしき 164 [付記] 心あらなむ:月を見せるようにする、優しい心があってほしい くるし:心配だ。気がかりだ。上・秋部 秋のはじめ月あかかりし夜 天の原雲なき宵に久かたの天の月さへ渡るかさゝぎの橋 200 [付記] かさゝぎの橋:七夕の夜、かささぎが天の川に渡すという橋 月前雁 九重の雲ゐをわけて久方の月のみやこに雁ぞなくなる 226 [付記] 久方の:「月」の枕詞。 月のみやこに:月のあたりにの意。 鳴きわたる雁の羽風に雲消(きえ)て夜ふかき空にすめる月影 227 秋風に山とびこゆる初雁の翅(つばさ)にわくる峯のしら雲 232 雲のゐる梢はるかに霧こめてたかしの山に鹿ぞ鳴くなる 237 [付記] たかしの山:高師山。三河の国と遠江の国との国境にある山。上・冬部 夜更(ふけ)て月をみてよめる さ夜更て雲まの月の影みれば袖にしられぬ霜ぞ置(おき)ける 342 [付記] 袖にしられぬ霜:月光が白く袖にさす様のたとえか。 山邊霰 雲ふかき山のあらしさえさえて生駒の嶽に霰(あられ)ふるらし 347 [付記] さえさえて:寒い上にも寒くて。 山たかみ明(あけ)はなれ行(ゆく)横雲の絶え間に見ゆる嶺のしら雪 365 [付記] 山たかみ:山が高いので。 見わたせば雲井はるかに雪しろし富士の高根のあけぼのの空 366 久堅のあま雲あへりかづら木や高間の山はみ雪ふるらし 368 [付記] 久堅の:「あま」の枕詞。 あま雲あへり:天雲が集合している。 まきの戸を朝明の雲の衣手に雪をふきまく山おろしの風 371 [付記] まきの戸:真木で造った板戸。 衣手に:雲の衣とわが「衣手」 かづらきや雲を木高(こだか)み雪しろし哀(あわれ)と思ふ年の暮かな 402 [付記] 雲:ある本は「山」と記すとか。 木高み:木が高く繁るさま。抽出してみたところ、巻之上には、「雲」の字を詠み込んだ歌は、19首ありました。実朝は、あまり技巧には走らないで、対象を素直に捉えて率直に歌に詠み込むという姿勢で取り組んだ歌人だなという印象を懐きました。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.6.6 === 南の空8時50分頃に撮りました。この日も朝からくもり空です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空今までの観察では、朝からくもりで雨の方向に進みそうな日は、こんな空模様の状況が多い気がします。天空に厚手の少し濃い布が一面に広げられたというような感じ、勿論その布はあちこちに皺が寄っている感じの変化が見られる・・・・とまあ、そんな印象です。この日は、午後4時頃から小雨が降り始めました。手帳にちょっとメモ書きしていました。 南の空南西方向の空 記録を兼ね、16時50分頃に、窓際から二方向だけ雲の姿をとりました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.17
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源氏明石の姫君の入内を前に、その婚礼支度の一つとして、姫君の習字の手本になるような冊子(草子)、つまり後世に名を残した昔の一流の名筆家の冊子集めを源氏は思い立ちます。それに併せて、当代の名筆家にも冊子づくりを依頼します。さらに、源氏自身も一揃い書き、冊子を作ることを思いついたのです。(資料1)『源氏物語』の「梅枝」には、「みづから一具(ひとよろひ)は書くべし。気色ばみいますがりとも、え書きならべしいやと、我ぼめをしたまふ」(このわたしも一揃いは書きましょう。お二人が気張ってお書きになっても、わたしにだって同じくらいのものが書けないことはなかろうと自賛なさる)と記されています。お二人というのは兵部卿宮と左衛門督です。(資料2)六條院春の御殿の寝殿・北廂には、明石の姫君の婚礼仕度の一環として冊子づくりをする場面が具現化されています。 源氏は立烏帽子を被っています。 兵部卿宮 兵部卿宮の従者が続きます。源氏の依頼を受けていた風流人として名高い兵部卿宮が源氏に直接冊子を持参しました。源氏は、当代の名筆と言われる人々として、朝顔前斎院、朧月夜内侍、兵部卿宮、左衛門督に冊子作りを依頼していたのです。 源氏は男性の一番くつろいだ服装である袿(うちき)姿で、冊子作りに熱中しています。袿姿は限られた者のみが目にするくつろぎの姿なのです。設置された説明パネルには「あざれたる袿姿」というタイトルが使われていました。「あざる(戯る)」は、「儀式ばらない装いをする。くつろぐ」(『学研全訳古語辞典 改訂第二版』)という意味です。 冊子の情趣を解せる女房が源氏の近くに伺候し、墨を磨る役目を担っているようです。几帳と屏風が北廂の空間を間仕切る道具として適宜使われています。 源氏の右側には、几帳を間仕切りとして、明石の姫君の婚礼支度の一部となる装束が置かれているようです。 「例の寝殿に離れおはしまして書きたまふ。・・・・・御前に人繁からず。女房二三人ばかり、墨などすらせたまひて、・・・」(例によって、大臣は寝殿に人を避けていらっしゃって、お一人でお書きになる。・・・・・御前にさほど大勢はおおきにならない。女房二、三人くらいに墨などをおすらせになって・・・)と原文が記す場面です。(資料2) 冊子作りのために、分担作業に勤しむ女房たちがいます。 継紙の紙を切る女房 切った紙を継ぎ合わせる女房 書写をする女房 糊付けする女房書写された紙を一枚ずつ二つ折りにして、折り目の方を糊付けして貼り合わし、綴じていくという「粘葉装(でっちょうそう)」という方法が使われています。また、「冊子は料紙の折り山で糊付けされるために、頁を繰ってゆくときに、完全に開けるところと糊代のために奥までひらかない頁ができる。このため、開くと蝶が羽を広げた姿に見える頁があることにより、胡蝶装とも呼ばれる」(資料1)そうです。 この女房は冊子作りを統括する役割を担う女房でしょうか。出来上がった冊子をチェックしている風に見えます。(説明パネルには記載がありません。)紫式部は、冊子作りの体験を『紫式部日記』に記しています。中宮彰子が敦成親王を出産し、五十日の祝い行事も終えて、いよいよ宮中に還る日が近づいてきた頃、内裏の一条天皇への土産として、御冊子を作ると指示したのです。11月上旬に御冊子作りが行われます。「御前には、御冊子作り営ませ給ふとて、明けたてば、先づ向ひさぶらひて、色々の紙選り整へて、物語の本ども添へつつ、所々にふみ書き配る。かつは、綴じ集めしたたむるを役にて、明し暮らす」と。(中宮様は御本作りをなさるという。そこで私は、夜が明けると真っ先に中宮様の御前に上がり、差し向かいでお仕えして作業にあたる。色とりどりの料紙を選び整え、物語の原稿を添えては、清書の依頼状と共にあちこちに配るのだ。そのいっぽうでは、清書の終わった分を綴じ集めて整える。これを仕事にして、夜を明かし日を暮らす) (資料3)この物語とは、日記の記述から、紫式部が書いた『源氏物語』と推測されます。書写されて出来上がった冊子が、ついに一条天皇のもとまで届くことになります。寝殿の北側から西側面に回り込みます。 寝殿の西の廂を撮った写真です。西側面に展示の一部である女房の姿が見えます。その手前に、1点、かさねの色目として、「黄菊(きぎく)かさね」の装束が展示されています。着用時期は旧暦10月~11月。重陽の節句で菊は長寿を願い、厄除けの花として愛でられます。その後、盛りが過ぎて色が赤紫に変色するのがまた「移ろひ盛り」として再び愛でられたそうです。四季の花の霊験を願った色目かさねだそうです。(説明パネルより)これが次の展示場面への導入にもなっています。寝殿を北側から西側面に回り込みますと、そこは「重陽節会」に関連する一場面です。菊の花が盛りである旧暦9月9日に行われた節会です。「平安時代初期に節会として恒例化し、嵯峨天皇(在位:809~823)の時代に神泉苑で行われていた重陽節会は、次の淳和天皇(在位:823~833)の時代より紫宸殿で行われるようになった。 重陽節会では、天皇が紫宸殿に出御し、前庭に文人たちが参集して漢詩を作った。序者が詩序を作ったり、お題に応じて文人たちが漢詩を作ったり、それを講師(文章博士等が勤める)が読み上げるというのは曲水の宴と同様である。その後、人々に菊酒が下賜され、庭の舞台では国栖奏や内教坊の妓女による舞妓奏が披露された」(資料1)菊酒は不老長寿の効果があると信じられていました。 先に、紫宸殿の前庭の一隅に展示された菊。小菊の原種である野路菊(のじぎく)の展示を載せておきます。菊の花の上には、綿が広げてかぶせてありますので、菊の花そのものを見られません。平安時代の女性にとっては、この「菊の着せ綿」が重要な意味を持っていました。陰暦9月8日の夜に、菊の花に綿をかぶせて、菊の露・香りをしみ込ませます。その綿を9月9日「重陽の節句」に集めるそうです。この綿で体をぬぐうと、老衰をふせぐと信じられていたのです。(資料1)菊の着せ綿は、平安時代、宇多天皇(在位:887~897)の時代から始まり、近世まで宮中で行われていたそうです。(資料1、説明パネルより) 九日に「菊の着せ綿」を届けにきた女房(兵部のおもと)『紫式部日記』に記された「中宮の母倫子の気遣い」というエピソードを具現化したのがここの展示です。紫式部が仕える中宮彰子の母で、道長の北の方である倫子が、「この綿で、うんとすっきり老化をお拭き取りなさいませ」という言伝とともに、紫式部に「菊の着せ綿」を届けさせたのです。(資料1,3) 立っている女房は、几帳に「茱萸(ぐみ)袋」をかけようとしています。茱萸袋は、ミカン科の植物・呉茱萸(ごしゅゆ)の果実を赤い袋に入れたものです。その強い香りが邪気を払うと信じられていて、重陽の節句に、それまで掛けられていた「薬玉」を「茱萸袋」にかけ替えるのです。(資料1)なぜ、呉茱萸の実をいれた袋を「ぐみぶくろ」と呼ぶのか。これは、日本の本草学者が呉茱萸とグミの実に似た山茱萸(さんしゅゆ)という植物を混同し、「茱萸」を「ぐみ」と読んで、読み仮名をつけたという間違いに由来するそうです。(資料1) 菊の着せ綿を手に持つ紫式部メッセージを聞いた紫式部は 菊の露若ゆばかりに袖振れて花のあるじに千代は譲らむ (せっかくの菊の露、私はほんの少し若返る程度に触れておいて、 後は花の持ち主、奥様にみなお譲りしますわ、どうぞ千年も若返ってくださいませ)御礼を兼ねて歌を詠みました。日記にこの歌が記されています。しかし、歌を詠んだ時には、既に倫子が中宮彰子の所から自室に帰ってしまっていると聞いたことで、この歌を贈るのは止めたのだそうです。日記にはそう記しています。手許の『紫式部日記』、訳注者の山本淳子さんは、「私的に倫子に詠んだ和歌ではなく、彰子や女房の前で披露されることを期待したものだったので、自室の倫子に贈っても意味がなかったということか」(資料3)と脚注にコメントされています。紫式部の思いを考える上で、興味深いな・・・・と思う次第です。また、菊の着せ綿は、『源氏物語』の「幻」に登場します。菊の着せ綿を源氏が見て、亡き紫の上を忍ぶ傷心の姿が描写されています。(資料4) 菊酒を味わう女房たち 寝殿西側面の南側は、簀子に几帳を立てて間仕切りとして、 「打ち出での衣」が一場面として展示されています。このシリーズの第1回に少し略称の「打出」という用語で触れています。ここで再びしっかりと眺めることができました。独立の展示空間になっていることで、一層分かりやすさがあります。「出だし衣(いだしきぬ)」とも称されます。「室内の御簾や牛車のすだれの下から、衣の袖口(そでぐち)および、裳(も)、童袴(わらわばかま)の裾などを外に出すこと。また、その出した着物」(『明解古語辞典 新版』三省堂)と説明されています。 この外からの眺めが「打出」「打ち出での衣」「出だし衣」です。 この打出が、第1回の「この世をバ・・・・」、つまり道長の娘三人の立后成就による饗宴の場面にリンクすることになります。つづく参照資料1) 当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示)2)『源氏物語 3』 新編日本古典文学全集 小学館 p417-4183)『紫式部日記 現代語訳付』 紫式部 山本淳子訳註 角川ソフィア文庫 p75-764)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館補遺蛍兵部卿宮 :ウィキペディア重陽 :ウィキペディア重陽の節会【虚空蔵法輪寺】 :「京都観光Navi」重陽の節供と茱萸袋 :「小笠原 敬承斎 公式ブログ」生薬解説:呉茱萸 :「ハル薬局」京の歳時記をむすぶ水引の会「重陽節会」糸菊・重陽節句飾 :「和工房包結ブログ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へ
2023.06.16
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夜来の雨があがり、くもり空のもとで、今年も南面するリビングルームのガラス戸外で、緑のカーテンが半ばを覆い始めています。ふと見ると、オーシャンブルーの花一輪が咲いていました。今年の初咲きです。 初咲きはうれしいものです。 視点を変えて撮ってみました。 朝顔のカーテンの傍には、ピンク色のユリが花の盛りを過ぎてきて、その隣で、白いユリが咲き誇っています。 咲く花もまた三者三様。少しずつ違いが表れていておもしろい。玄関前の郵便ポストの支柱の傍に ツユクサ ドクダミ 東側の境界、腰高ブロック塀の傍に西側の境界、腰高ブロック塀の傍に 背丈より高い位置に三輪のバラ、よく見ると四輪のバラが身を寄せるように咲いていて、 その北側には、アジサイの花がたくさん咲いてきました。 ちょっと群生する気分のアジサイの北辺に一つだけ このガクアジザイの花が咲いています。 庭にひととき咲く花の記録に・・・・・ご覧いただきありがとうございます。この前に、庭の花を撮ったのは5月25日でした。こちらです 観照 庭の花
2023.06.14
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平安の遊びの一つに「偏(へん)つぎ」というのがあります。主として女性や幼い子供の遊びです。 漢字の旁(つくり)と偏がバラバラになっている札を使って、漢字の知識を競い合う遊びです。縮小模型で再現されたこの東の対のこの局のところで、幾度かこの「偏つぎ」遊びの場面が違った姿形で具現化展示されています。この遊びの実態については様々な説があるようです。いずれも遊びとしてできそうです。*漢字の旁に偏を付けて文字を完成させる。*ある旁に偏を付けて訓みを答えさせる。*偏や旁の一方を隠して漢字を当てさせる。*詩文中のある漢字を偏だけにしておいて解釈させる。*ある偏の付く漢字を文中より早く拾いださせる。*ある偏の付く漢字をいくつ知っているかを書き継がせる。 (資料1)上掲場面のように畳の上に旁と偏の札を散在させると、最初に掲げたやり方が一番手軽な遊び方になりますね。『源氏物語』の「葵」で、源氏が紫の上と新枕をかわす場面の少し前に、源氏が「つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ日を暮らしたまふに」という様子が記されています。「偏つぎ」の遊びがここに出て来ます。その後に「心ばへらうらうしく愛嬌づき、はかなき戯れごとの中にもうつくしき筋をし出でたまへば」(姫君は、ご気性が利発であふれるような魅力をたたえ、たわいのない遊戯をしていてもみごとな筋をおみせになるので)と続きます。この時源氏は紫の上の賢明を感じ取るのです。(資料2) 冒頭の写真の右、東の対を北側に回り込んで西の廂を眺めると、北端に幼女が立って控えています。 その前には、「平安時代のお菓子」が準備して置かれています。角高坏(たかつき)が二つ並んでいます。左側には、「甘葛(あまずら)」(高級甘味料)、右側には「索餅(さくへい)」が載っています。「甘葛」は、金物の碗に、氷室で保存されてた貴重な氷に甘味料の甘葛をかけて食するというお菓子。「甘葛はツタの樹液を採集して、煮詰めて作られた甘味料のこと」。「索餅」は、「小麦粉と米粉を練って紐状に細長くし、縄のようにねじり合わせてた唐菓子の一つ。和名『麦縄』。癪病を起こす悪霊鎮めの備え物とされました」(説明パネルより)右の角高坏の隣りに準備されているのは、「椿餅(つばいもちい)」です。「甘葛で甘味をつけた餡(あん)のない餅菓子。椿の葉で挟んだもので、多く蹴鞠の折に食べるのが例とされました。文献上も古い純国産の和菓子。」(説明パネルより)この「つばいもちい」が後の時代に「つばきもち(椿餅)」に変化したのでしょうか。手許の辞書には「つばきもち」を「道明寺粉を蒸し、砂糖を混ぜて小豆をあんに包み、上下をツバキの葉ではさんだもち菓子」(『日本語大辞典』講談社)と説明しています。『大辞林』も同様の説明です。右下の折敷(おしき)には、梨と柑子(柑子蜜柑)が盛られています。梨は、飛鳥時代に持統天皇が植栽を勧める詔を出しているそうです。また、柑子蜜柑は日本で古くから栽培されていたそうです。(説明パネルより)『源氏物語』の「若菜上」には、猫が御簾を引き開け、柏木が女三の宮を偶然に見る機会となる有名な場面が出て来ます。その後に、六條院で蹴鞠の遊びをしていた上達部など殿上人が源氏に言われて、春の御殿・東の対の南面の簀子に集ります。「簀子に円座(わらふだ)召して、わざとなく、椿餅、梨、柑子やうの物ども、さまざまに、箱の蓋どもにとりまぜつつあるを、若き人々そぼれとり食ふ」(資料4)と描写されています。「そぼれ」はふざけるの意なので、はしゃぎながらという様子です。勿論、それに「さるべき干物(からもの)ばかりして、御土器(かはらけ)まゐる」と続きます。適当な干物ぐらいを肴にして、酒宴が始まるということに・・・。「偏つぎ」遊びの西隣りの局には、 女房たちの日常生活の一場面が具現化されています。「王朝女性の身嗜み・黒髪」です。局とは、渡殿にある、上﨟(じょうろう)の女房に与えられた部屋です。上﨟は上位の女官(御殿女中)をさした言葉です。道長の土御門第に女官として仕えていた紫式部は、上﨟の一人として、この東の対と寝殿を結ぶ渡殿の一番西寄りの局を自室として与えられていました。 平安女性の容姿の美しさを評価する一番の尺度は、頭髪、つまり黒髪だったそうです。豊かで艶やかで長い黒髪がもてはやされたのだとか。長く美しい黒髪が美の基準でした。つまり、日常生活の中での髪の手入れは身嗜みとして必須要件だったのでしょう。当時、洗髪と髪の毛を乾かす作業は一日がかりのことだったそうです。この洗髪のときに既にご紹介した「泔(ゆする)」がシャンプーに相当する役割を果たしたのです。長髪を乾かすのは大変です。「姫君は起きたままではなく寝たかっこうで、侍女たちが姫君の髪を大騒ぎで乾かしました。火桶(火鉢のようなもの)でかかしたり、はたまたお香を焚いたりして、一日があかりの大仕事」(資料5)となりました。洗髪には、さまざまな制限があったようです。一日がかりなら当然そうなりますね。日頃は何をするのか。髪にこまめに櫛を入れてほこりなどを取り除き、髪の乱れを整えるということでしょう。「髪を梳く」という手入れです。この時にも「泔(ゆする)」をつけて梳いたそうです。例えば、『源氏物語絵巻』の「東屋一」には、中の君の髪を女房が梳いている場面が描かれています。洗髪後の気持については、清少納言が『枕草子』の「心ときめきするもの」(第26段)の中程で次の文を記しています。「頭洗ひ、化粧じて、香ばしうしみたる衣など着たる。ことに見る人なき所にても、心のうちは、なほいとをかし」と。(資料6)長く美しい髪を美の基準にしていたことに関連し、『源氏物語』の「末摘花」から一例をあげましょう。光源氏が零落した邸に住む末摘花を訪れ、翌朝、末摘花の見にくい姿を見て驚くと言う場面は有名です。その姿を光源氏は内心でこきおろしています。居丈が高く、背が曲がっている、鼻は高くて長くて、普賢菩薩の乗り物かと思われる。さらに鼻の先が少し垂れて赤い・・・・さらに衣裳にも言及しひどい評価です。だが、その一方で、「頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人々にもをさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ」(頭の形と髪のかかり具合だけは見るからに美しく、これはと申し分けがなくお思い申しあげる方々に比べてもほとんど負けを取ることもなさそうで、袿の裾にふさふさとたまって、その先に引きずっている部分は、一尺ばかりも余っているかに見える)と光源氏が末摘花の髪の美しさに感嘆しているのです。(資料7)さて、上掲の局の写真と次の写真を併せてご覧下さい。 局には白壁の部分、格子と御簾、襖障子が写真に写っています。また、寝殿の東西両側面と局から渡殿に通じる妻戸がありました。局は独立した部屋になっていたのです。部屋の中には、几帳があります。衣架が置かれて、装束が掛けてあります。他に日常の生活道具も置かれていたことでしょうね。 もう一点、この箇所に気づかれたでしょうか。これは第2回にご紹介した「宰相らが局を訪れる」場面にリンクする部分です。髪の手入れをする女房たちの居る部屋の西側の部屋。その部屋の二枚格子の東端で一人の女房が宰相らに応対している姿です。第2回をご覧ください。 局のある渡殿の外、北側の東端に童子が一人立っていますが、不詳です。童子の装束の具現化でしょうか。 童子の装束は、水干です。牛若丸が来ている装束です。狩衣の系統を引く装束で、「平安末期から、無位の官人や武士の装束、子供の晴着に用いた」(資料1)そうです。「糊を用いず、水張りして乾かした布などで作られたのでその名があった」そうです。頸かみに組紐が見えますが、この組紐で結びあわされているそうです。括袴(くくりはかま)をはいています。裾を括った袴です。胸の部分の飾りは装飾に用いる糸で菊綴と称するそうです。袖口にある装飾は、毛抜型の袖括に緒と称するそうです。(資料8)次回は、寝殿の北側(北廂・孫廂)に移ります。参照資料1)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館2)『源氏物語 2』 新編日本古典文学全集 小学館 p703)当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示)4)『源氏物語 2』 新編日本古典文学全集 小学館 p142-1435)『王朝生活の基礎知識-古典のなかの女性たち』 川村裕子 角川選書 p54-566)『新版 枕草子 付現代語訳』 石川穣二訳注 角川文庫 p467)『源氏物語 1』 新編日本古典文学全集 小学館 p2938) 童子水干姿 :「日本服飾史」(風俗博物館)補遺源氏物語絵巻 東屋一 :「徳川美術館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。風俗博物館 企画展示鑑賞記事一覧観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 6回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 5回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご紹介
2023.06.13
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六条院春の御殿の東の対(対の屋)を南面から東に回り込みますと、背後(北側)が西側の廂部分の再現だけに省略されています。東の対は、寝殿が横長であることに対して、南北方向に対して長い建物です。中央の母屋部分(北側に塗籠、南側に昼御座)、その周囲に廂と呼ぶ室内空間が広がり、南と東にはさらに孫廂を張り出し室内空間を広げています。つまり、大幅に建屋を簡略に縮小再現しています。(資料1)この東の対の廂の空間は、「四季のかさねの色目に見る平安王朝の美意識」というテーマでの具現化展示です。装束のかさねの色目を展示することは、いわばこの風俗博物館の定番展示品目です。色々な観点からテーマ展示がくり返されてきていますが、今回は「四季のかさねの色目」ということで、オールシーズンの代表的なかさね色目がをコンパクトに展示されたことになります。「日本独自の和様の文化が育まれた平安時代には、日本特有の細やかに移ろいゆく四季の彩りをいかに機微に捉えて装束の色目として表現するかという文化」が登場しました。装束の色には、「染織・織色・かさね色目」の三種類があるそうです。(資料2) 染色:白絹織物を染料で染める色彩表現 織色:染めて置いた色の異なる「経(たていと)」と「緯(よこいと)」で一枚の 布を織りあげる色のこと かさねの色目 ⇒ 「布」のかさねと「衣」のかさね 「布」のかさね:一枚の装束で、異なる色の表地と裏地のかさなり具合を楽しむ 「衣」のかさね:幾枚も重ね着をした装束の襟元や袖口の色のグラデーションや コントラストの妙を楽しむそれでは、四季のかさね色目を見ていきましょう。 梅かさね早春に咲き競う紅梅の色の様々を楽しむ。着用時期:旧暦11月~2月 紅梅を活けた花瓶のミニチュアが置かれています。 桜かさね「布」によるかさねの組み合わせの代表的な装束。表地は白、裏地は赤花。この裏地については、濃色(こきいろ)、葡萄色(えびいろ)、二藍(ふたあい)など諸説があると言います。「表地の白色に裏地の紅がほのかに透けた様が、夕暮れに仄白く浮かんで見える桜の美しさを象徴的に表しています」(説明パネルより) 若菖蒲かさね菖蒲の「根」と「葉」の色の対比を表現したかさね色目。着用時期:旧暦4月~5月 「菖蒲はその音が『尚武』『勝負』に通じることや、菖蒲の葉の形が剣を連想させることから、後世には端午の節句は勇ましい男の子の成長を祝う行事となり、現在へと受け継がれています」(説明パネルより) 白撫子かさね 撫子(なでしこ)は夏から秋にかけて咲きます。そこから古名で「常夏」とも呼ばれました。着用時期:旧暦4月~6月 「大和撫子」という言葉があります。手許の辞書ではナデシコの異称です。「唐撫子」とい言葉もあります。こちらはセィチクの異称だそうです。(『新明解国語辞典』三省堂)セキチクも撫子科の花です。 女郎花かさね 女郎花は秋の七草の一つです。このかさねの色目は、表が黄色で裏が青の袿(うちぎ)を5領重ねたもの。緑味を帯びた黄色を表しています。着用時期:旧暦7月~8月頃。 雪の下かざね 「降り積もった雪の下にも、春を待つ紅梅と新芽を思わせる、生命力あふれるかさねの色目です」(説明パネルより)春を待ち望む気持ちをかさねの色目で表現したのでしょう。着用時期:旧暦11月中旬より春頃まで。 松かさね 常緑の松は長生きの木と考えられ、常磐木(ときわぎ)でめでたさに通じるとされました。四季通用で祝いに着る色として使われました。「千歳に変わらぬ常緑葉の萌黄色の美しさと、雌花の蘇芳色に子孫繁栄を表したかさねの色目です」(説明パネルより) 五葉松は正月の子の日の小松引きという行事で使われました。小松から根を引き抜いて健康と長寿を祝う子の日の遊びです。「ねのび」(「根延び」を掛ける)とも言うそうです。(説明パネルより)脇道に逸れますが、手許の書から、年中行事としての「若菜・子の日の遊び」の項を引用して、ご紹介しましょう。「正月初子の日に、内蔵寮や内膳司から若菜を供じることが『北山抄』に記されている。また実際に野に出て若菜を摘み、小松を引いて楽しむようになった。『河海抄』には嵯峨天皇弘仁四年(813)に正月子の日に内宴が行われたことが注記されている。この日に岳に登れば、陰陽の精気を得て煩悩を除くことができると伝えている。若菜の羹(あつもの)は春の精気に満ちており、小松引きは長寿を願う信仰を有している。『初音』の巻においては、六條院の明石の姫君の住まいで小松の引き若菜が献上されている。『若菜上』巻においては、玉鬘が光源氏に若菜を贈り、四十賀と正月の子の日を合わせて、いっそうのめでたさを創りあげている」(資料3)展示フロアーの北西隅には、「竹取物語」の具現化展示が常設されています。以前にも触れていますが、ここでもご紹介しておきましょう。かぐや姫が昇天する場面です。 まず、午前零時ごろに、竹取の邸の周辺が真昼以上の明るさになります。そこにいる人間の毛穴までみえるくらいの明るさと記しています。そこへ「大空より、人、雲に乗りて下り来て、地より五尺ばかり上がりたるほどに立ち連ねたり」という状況が現出します。「内外なる人の心ども、物に襲はるるやうにて、相戦はむ心もなかりけり」人々は天人と戦う意欲を喪失してしまいます。 「立てる人どもは、装束の清らなること、物にも似ず、飛ぶ車一つ具したり。羅蓋さしたり」という情景です。飛ぶ車を一台伴って来ていて、その車には羅蓋、つまり、薄絹を張った傘がさしかけてあったのです。竹取のじいさん(造麻呂)は王様と思われる天人と舌戦を交わします。だが、その意地も虚しいものになります。「立てこめたる所の戸、すなはち、ただ開きに開きぬ。格子どもも、人はなくして開きぬ」物置部屋に閉じ込められていたかぐや姫は、たちまち開いた戸からするりと出てきます。かぐや姫は、じいさん夫婦への手紙をしたためます。その後帝への手紙を書き、薬の壺を添えて、頭中将に帝への献上として、天人を仲介に渡します。中将がそれらを受け取った直後に、天人の一人が「ふと天の羽衣うち着せ奉れば、翁をいとほし、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣着つる人は、物思ひなくなりければ、車に乗りて百人ばかり天人具して昇りぬ」かぐや姫は、天の羽衣を着せ替えられた瞬間に、人間らしい思いを消失してしまい、昇天するということになります。(資料4) 王らしき天人の冠が煌びやかです。『竹取物語』の本文には、この天人の王の冠についての描写はなさそうです。中国の皇帝らが着用した冕冠(べんかん)という冠が、日本では古代から天皇の冠として用いられて来たそうです。孝明天皇の冕冠と称されるものを範として創られているように思います。(資料5) 竹取の邸で、じいさん夫妻が歎く姿や、かぐや姫の昇天を見送る侍女たちの姿が具現化されています。序でながら、『竹取物語』は、かぐや姫の昇天で終りではありません。その後にじいさん夫妻の歎きを記し、頭中将に託された手紙と不死の薬壺を受け取った帝の嘆きと決断を述べています。帝は大臣上達部たちに一番天に近い高さの山はどこかと尋ねます。ある人が、駿河の国にある山ですとこたえました。帝はかぐや姫の形見をその山の山頂で焼却するように指示したのです。この物語は、「その由承りて、兵どもあまた具して山へ登りけるよりなむ、その山を『ふじの山』とは名付けける。その煙、いまだ雲の中へ立ち昇るとぞ言い伝えたる」で締めくくられています。最後は、「富士山」の名前の由来譚というオチになっています。沢山の兵士が登ったので、「士に富む」という意味での「富士」と由来を説く読み方と、不死の薬の壺の「不死」がいつしか「富士」に転じたという由来を解く読み方もあるとか。いつしか、「不死」由来説が一般的になったそうです。なお、『竹取物語』の成立よりも古い『万葉集』には、たえず天に立ち昇る噴煙の姿を眺めて「不尽」と詠んだということが語源とする解釈もあるようです。おもしろい。(資料4) 最後に、この『竹取物語』の具現化展示のところには、奈良時代以降の装束の変遷について、簡略に説明したこんなパネルが掲示してあります。興味深い図解資料です。つづく参照資料1)『源氏物語と京都 六條院へ出かけよう』 監修・五島邦治 編集・風俗博物館2) 当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示)3)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館4)『竹取物語(全)』 ビギナーズクラシックス 角川書店編 角川ソフィア文庫5) 冕冠 :ウィキペディア補遺カワラナデシコ(河原撫子):白花3号ポット :「engei net 園芸ネット本店」カワラナデシコ :「花と緑の図鑑-Garden vision」石竹(せきちく) 唐撫子 :「季節の花300」日本服飾史 ホームページ (風俗博物館)装束の知識と着方 :「綺陽装束研究所」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。風俗博物館 企画展示鑑賞記事一覧観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 6回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 5回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご紹介
2023.06.12
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まず、2つの場面の方をご紹介します。その一つがこの具現化展示の場面です。これは、最初にご紹介した「寬仁2年旧暦10月16日の威子立后」に伴う饗宴場面の展示に関連しています。『御堂関白記』には、16日の立后の日から6日後、10月22日に後一条天皇が土御門第に行幸します。道長はその報せを受けて、行幸を迎え入れた様子を詳細に記録しています。その一部として、天皇が寝殿に入った後に馬場殿に移られたときの状況を具体的に記述しています。「私(道長)は天皇の御後ろ御屏風の南妻に伺候した。次に左右大将(藤原教通・藤原実資)を召して、御馬を馳せるよう命じた」(資料1)と。つまり、「馳馬(はせうま)」が行われたのです。左右に分かれて1頭ずつ、交互に馬を走らせて天皇にお目に掛けるのです。「左方の御馬が、北に上がった。・・・・・次にまた、右方の御馬が上がった。・・・」と具体的に記録し、左近府生雀部是国が落馬した事実も道長は記録しています。、 これは馳馬のための馬が出番待ちで控えている場面です。(説明パネルより)もう一つの場面。それは冒頭の景色の一部になっています。寝殿と東対を結ぶのが「渡殿」です。手前の反り橋状の通路が「透渡殿」で、その北側には「東北渡殿」があります。こちらの通路の北側が女房たちの生活する「局(つぼね)」になっています。 この東北渡殿のところに、白い装束の二人の公卿の背中が見えます。 この場面[寛弘5年(1008)年10月17日夕刻]は、宰相たちが局を訪れようとしている状況の具現化展示です。土御門第に一条天皇が行幸された翌日の夜の事、中宮大夫藤原斎信(ただのぶ)と中宮権亮(ごんのすけ)藤原実成(さねなり)が連れだって、宮の内侍と紫式部が居る局にやってきたのです。(資料2)その場面を、紫式部は『紫式部日記』に「二十九 十月十七日夕刻~中宮の大夫ら、局を訪う」の条に記しています。(資料3)「女房に会ひてとりわきたる慶びも啓させむとにやあらむ(女房に会って、昨日行幸の賞で位が特進したお礼の挨拶を言上し中宮様に伝えてもらおうというのだろう)」と紫式部はその意図を推察して記しています。二枚格子の蔀戸(しとみど)は下ろしてあったのですが、まだ掛金はしていなかったので、宰相実成が中の間の上側の格子を押し上げて、「おはすや(いらっしゃいますか)」と声をかけてきたという場面。それで上側の格子が少し、開いています。6072 局の奥の方に、女房の顔が少し見えます。 局が見える側に回り込んで眺めるとこんな場面になります。御簾の近くに、もう一人の女房がいて宰相等に応対しているようです。そちらが宮の内侍なのでしょうか。手前で御簾より奥に居るのが紫式部かも・・・・。中宮大夫が声をかけるのまで無視できないので、紫式部は「はかなきいらへなどす(ちょっとだけ返事なぞする)」と応答したのです。その続きに、紫式部は宰相等の咎め言葉も記述しています。夜が更けるとともに宰相たちは、二枚格子の下側も取り外すように言ってきたけれど、紫式部は「『何か、あざればまし』と思へば放たず(「何、私は戯れはしますまい」と思って外さなかった)」と日記に記しています。(資料3)「国宝 紫式部日記絵巻」(五島美術館所蔵)の五島本第一段の絵の部分図が切り出され、2000円札の裏面に使われています。それがこの場面だそうです。格子の傍で宰相等に応対するのが紫式部と想定されているようです。入手した小冊子は、別の見解を記していて興味深いところです。「二千円札で有名な場面である『紫式部日記絵巻』であるが、ここで格子の後にいる紫式部とされる人物は、実は宮の内侍であり、局の奥に控えている女房こそが紫式部ではないかと考えられる」(資料2)上掲の場面はこの見解で展示されていると言えます。『紫式部日記』のこの条を読むだけでは、局に宮の内侍と紫式部の二人が居たとしても、格子の傍にいたのが紫式部かどうか、私には判断しかねます。この条の冒頭に記された「女房に会ひて」という言葉が誰を指すのかとも絡んでくることなのかもしれません。序でに室内の点描です。 壁際に高さの異なる几帳が置かれ、紫式部の傍には、囲碁の道具が置かれています。囲碁の遊び(勝負)が途中で止まっているというところでしょうか。手前には、竹製の伏籠(ふせご)が置かれ、衣が掛けてあります。伏籠は衣服に香を移すための道具です。伏籠の内側には、香を焚くための道具である火取が置かれます。さて、今回ご紹介するハイライトは、『源氏物語』に記された明石の姫君の「裳着」の儀式の具現化展示です。東の対(対屋)に展示されていました。六条院の秋の御殿(おとど)に見立てています。 源氏39歳の旧暦2月11日、源氏の唯一の愛娘・明石の君の「裳着」の儀式が行われました。裳着とは、「女子の成人式で、初めて裳を着ける儀式。12~14歳ころに行われた。裳の紐を結ぶ役を『腰結(こしゆい)』といい、尊属や人望のある者が行った」(資料4)のです。明石の姫君は11歳でこの裳着の儀式を行います。この裳着の情景は、『源氏物語』の「梅枝」に描き出されます。明石の姫君は「西の殿(おとど)に戌の刻(=午後8時)に渡りたまふ」。六条院の「秋の町」つまり、秋好中宮の里邸に渡ります。寝殿の西に放出(はなちいで)が設けられます。廂と孫廂を開け放して儀式の場が設えられたのです。「子の刻(=午前0時)に御裳奉る。大殿油ほのかなれど、御けはひいとめでたし」通例どおりに大殿油が薄暗くかすかに灯される中で、裳着が行われました。(資料5) 紫の上 源氏 裳着の様子を、源氏と紫の上が見つめます。 明石の姫君は白一色の装束です。 秋好中宮が「腰結」の役を務めるのです。勿論先例のない盛儀となります。明石の姫君の着裳の儀式において中宮が裳の腰紐を結ぶ役を務めます。この腰紐を「裳の小腰」と称するそうです。純白の装束を身にまとい穢れのない明石の姫君は、この着裳の儀によって、少女から大人の女性へと生まれ変わるのです。実母の明石の御方は受領の娘でした。源氏は明石の姫君を紫の上の養女にします。世間的には明石の姫君の母親です。秋好中宮が腰結となったことで、明石の姫君は権威をいただくことになります。余談ですが、調べてみますと、『御堂関白記』の長和元年(1012)10月20日の条には、この日は道長の三女、藤原威子の着裳が行われたことが記されている。その記述中に、道長は「私は裳の腰紐を結んだ」と記しています。(資料6) こちらに控えている女房たちを別の角度から撮ってみました。 右の女房は「髪上げの内侍」です。裳着でもう一つ重要な役割がありました。髪を結い上げる「結髻(けっけい)」・「理髪」の役です。『源氏物語』の「梅枝」には、明石の姫君の裳着の場面に、「御髪上(みぐしあげ)の内侍なども、やがてこなたに参れけり」という一文が記されています。(資料5)当時の裳着の儀式は、「裳着を行ってすぐに婚礼を行う例も多く、裳着は配偶者が決まった時や、見込みのある時に行われることが多い」(資料2)そうです。さて、この裳着の儀式の場面の室内環境の側面を観察しておきましょう。(資料4)この風俗博物館のすばらしいところは、装束もそうですが、室内調度品なども精巧なミニチュアとして具現化されていることです。毎回、鑑賞していてもどこか見落としているところがあるように思います。 裳着を見つめる源氏の少し前方には、「吊香炉」が吊してあります。「この吊香炉は二重のジャイロスコープによって炉の水平を保つよう工夫された香炉で、後世の龕灯(がんとう)に見られるような造りであり、小さなものは袖の中に香を炊きこめるものとして使われており、『源氏物語』「真木柱」の巻では玉鬘のもとに通う為に支度を調える髭黒が直衣の袖に香を炊き染めている場面がある」(資料2)『源氏物語』の「真木柱」には、「小さき火取とり寄せて、袖に引き入れてしめゐたまへり」(資料5)と描写されています。 二階棚の上部、右には「火取」(香を焚くための道具)、右には「泔坏(ゆするつき)」が置いてあります。泔というのは米のとぎ汁や強飯を蒸した後の湯だそうです。これは養毛に効果があると信じられていて、髪を洗ったり梳いたりする時に用いられたとか。その泔を入れる器です。また、下部の右にあるのは、多分「唾壺(だこ)」(唾を吐き入れるための器)でしょう。右は「香壺箱(こうごのはこ)」(香壺を入れておくための箱)と思われます。香壺は薫物を入れておくための壺です。二階棚の左側は、「唐櫛笥(からくしげ)」(櫛などの化粧道具を入れるための箱)です。大小二つ重ねて、鷺足付きの台の上に置かれています。 厚みのある「畳」の上には、「茵(しとね)」が置かれ、左側に「脇息(きょうそく)」が置かれています。背後には「几帳」が立っています。空間の仕切りとなっています。 髪上げの内侍の右奥には、屏風の前に「椅子(いし)」が置かれています。立礼(りゅうれい)の際などに、天皇や公卿が用いたそうです。屏風の図は、正倉院の「国家珍宝帳」に記載の「臈纈屏風」を模したものと推測します。正倉院展の鑑賞に出かけた折に、一部を見た記憶があります。ネット検索してみて、多少情報をえました。補遺をご覧下さい。 柱の傍に置かれているのは、照明具の「灯台」です。 灯台の下部の近くには、髪上げの内侍の前に理髪の道具類が置かれています。灯台の手前に、最も一般的に使われていた「角盥(つのたらい)」が置かれています。直径40~50cm、高さ30cmほどで、左右に20cmほどの取っ手がついています。この取っ手は持ち運びのためと、使用する際に袖をかけるために使われたそうです。その右側にあるのは、二階棚のところで説明した泔坏(ゆするつき)です。その右側に、陰になって取れなかったのですが、同様に上掲の唐櫛笥が置かれています。 別の一隅には、重要な役目を務めた髪上げの内侍への禄(贈物)が準備されています。この辺りで区切りと致します。つづく参照資料1)『藤原道長「御堂関白記」 下』 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫 p3382) 当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示)3)『紫式部日記 現代語訳付』 紫式部 山本淳子訳注 角川ソフィア文庫 p65-664)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館5)『源氏物語 3』 新編日本古典文学全集 小学館 p412-413, p3646)『御堂関白記 中』 藤原道長 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫 p236補遺お札の基本情報~現在発行されているお札~ :「国立印刷局」国宝紫式部日記絵巻 :「五島美術館」緻密なデザインの美…天平文化の粋を伝える正倉院展 :「讀賣新聞オンライン」「よみがえる天平の美~第69回 正倉院展~」吉岡幸雄「羊木臈纈屏風」復元に挑む :「紫のゆかり 吉岡幸雄の色彩界」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へ
2023.06.11
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=== 2023.6.1 === 南の空10時10分頃に撮りました。早朝は少し晴れ間が見えていました。しかし、写真を撮った時にはムクムクとしたグレーの雲が一面に空を覆い、くもり空に。南西方向の空 西方向の空 東方向の空同じような雲の姿に見えます。 東方向の空13時半頃に眺めてみると、くもり空は変わらりません。雲の姿は変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南の空17時半頃にもう一度空を眺めてみました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空結局、くもり空の一日となりました。=== 2023.6.2 === 南の空南西方向の空 台風が日本に接近しているという影響を受けて、朝から雨でした。 窓際から二方向だけ撮ってみました。 南の空南西方向の空 17時20分頃に再度眺めてみましたが、状況に大きな変化なく、雨が降っています。終日、雨でした。さて、雲がたりに移ります。『山家集』から雲の字を詠み込んだ歌の抽出、ご紹介をしてきました。ここでは『山家集 金槐和歌集』(日本古典文学大系29 岩波書店)を参照してきました。この本は陽明文庫本の『山家集』が底本とされています。そして26ページに及ぶ底本以外の書に載る歌を「附録」として載せてあります。『山家集』を終わるにあたって、この「附録」についても同様にチェックしてみました。抽出したものを以下にまとめます。「板本六家集中の山家和歌集にありて底本になき歌」 22首が収録されていますが、雲の字を詠み込んだ歌はありません。「松屋本山家集にのみ所載歌」 68首収録中、次の2首 みねの花ちるをさながらやどに見て白雲見よと人にいはばや 月歌あまたよみけるに 雲さえてさとごとにしく秋の夜の氷は月のひかりなりけり「聞書集」 265首収録中、次の12首 方便品 諸仏世尊唯以一大事因縁故出現於世 あまのはらくもふきはらふかぜなくばいでてややまむ山のはの月 漸待花 くもにまがふ花のさかりをおもはせてかつがつかすむよしのの山 [付記] まがふ:よく似ていて間違う。区別がつかない。 かつがつ:早くも 浮海船尋花 こぎいでてたかしの山をみわたせばまだひとむらもさかぬしらくも [付記] たかしの山:三河国渥美郡高蘆(たかし)郷(愛知県豊橋市)の山。 広くは遠江国(静岡県)浜名湖西岸にかけて広がる台地を含めていう。 花尋至古寺 これやきくくものはやしの寺ならむ花をたづぬる心やすめむ [付記] くものはやしの寺:京都・紫野の雲林院 月前郭公 さみだれのくもかさなれるそらはれて山ほととぎす月になくなり よしの山くもと見えつる花なればちるもゆきにはまがふなりけり よしのやまくももかゝらぬたかねかなさこそは花のねにかへりなめ [付記] さこそ:さぞかし。花のね:花の峯。 勝義心 イカデワレ谷ノイハネノツユケキニクモフム山ノミネニノボラム [付記] イカデ:なんとしても。 ツユケキ:露にぬれてしめっぽい。 八葉白蓮一肘間の心ヲ クモオホフ二上山ノ月カゲハコゝロニスムヤミルニハアルラム [付記] 二上山:今の奈良県と大阪府の境にある山。大津皇子の埋葬された地。 聖衆来迎楽 ヒトスヂニコゝロノイロヲソムルカナタナビキワタルムラサキノクモ おもひいでに花のなみにもながればやみねのしらくもたきくだすめり [付記] おもひいでに:思い出すと。 めり:・・・のように見える。 はなちりてくもはれぬればよしの山こずゑのそらはみどりにぞなる「聞書残集」 32首収録中、次の1首 (長文の前文を略す)有明と申す題をよみける こよひこそ心の雲よしられぬれ入らで明(け)ぬる月をながめて [付記] ぬれ:完了の助動詞「ぬ」の巳然形。これで、西行法師の『山家集』での雲がたりを終わります。参照本には、源実朝の『金槐和歌集』が収録されています。次はこちらの雲がたりに移ります。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.6.3 === 朝は少しくもっていましたが、12時頃に撮った南の空は青空に。小さな雲がおもしろい重なりを見せています。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上に白雲が浮かんでいます。東の空に青空がみえるのは、気持ち良い! 東方向の空16時30頃に撮りました。青空が広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空くもり後晴れの一日でした。つづく補遺高師山・高志山・高石山 :「コトバンク」雲林院 :ウィキペディア山家集 :「ジャパンナレッジ」山家集 :「コトバンク」山家心中集 :「文化遺産オンライン」山家集. 巻之上,中,下 / [西行] [撰] :「古典籍総合データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.10
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寝殿の階には、二人の武官が居ます。巻纓(まきえい)の冠をつけ、闕腋袍(けつてきほう)を着ています。「袖から下の両脇を縫わず、後の身を長く仕立てた武官用の袍」(資料1)です。そして、裾(きょ)を背後に垂らしています。 胡簶(やなぐい)に矢を入れて、背に負っています。 階より東側の庭には、楽人たちが居並んでいます。 この楽人たちに着目してみましょう。 A B 楽人の冠がまず目に止まります。手許の書(資料1)には、「源氏物語画帖」の「青海波を舞う光源氏」の絵が掲載されています。その絵の右下に楽人たちが描かれていて、この冠と同様のものを被っています。Aの冠を被る楽人は横笛を吹き、Bの冠を被る楽人は笙(しょう)を持っています。 前列の手前から二人目で笙をもつ楽人以外は横笛を手に持っています。 切り出した部分図ですが、両端の楽人は篳篥(ひちりき)を手にしているようです。この具現化展示では、楽人たちは、笙、横笛、篳篥のいずれかの楽器で演奏した設定です。上記の光源氏の青海波の舞では、首に下げる琵琶を扱う楽人が加わっていますが。 最後列に座る左端の人は、木の棒のような物を持っています。拍子を打つ楽器でしょうか。調べてみた範囲では名称は不詳です。手許の書では、青海波の場合、垣代(かきしろ)と呼ぶ楽人の中に、「反鼻(へんぴ)」(木製の巴形の拍子を打つもの。「反尾」とも)を持ち、楽人と交互に演奏するという説明があります。(資料1)多分この反鼻と同様の役割を担う楽器なのでしょう。 左の二人は、袋に収めた物を両手で捧げていますが、これも不詳です。手許の書では、「反鼻」(反尾)を担当するのは、「大臣クラスの随身や滝口の武士などがあたるが、殿上人が加わることもある」(資料1)と説明があります。 この3人の束帯姿を見ると、この説明に照応するようです。後姿から、冠は垂纓(すいえい)と称する形です。石帯と石帯の上手がよくわかります。この革帯は玉石で装飾されています。「三位以上の公卿が玉の帯、四位・五位の正装には瑪瑙(めのう)の帯を着用した」(資料1)そうです。当日いただいた小冊子によると、「階の東脇で楽人の音楽が始まり、殿上人の公卿たちも思い思いの楽器を取り、一緒になって合奏が始まり、歌が歌われる。その席を盃が巡る」という饗宴の場ができて行ったそうです。藤原実資の『小右記』がこの場面をどこまで具体的に記録しているのか、機会があれば読んでみたいと思います。 もう一点、下襲(したがさね)の裾をうまく見せているところがいいですね。意匠にも可能な範囲で美しく見せる工夫をしたのでしょう。つづく参照資料1)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館2) 当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示) p2補遺笙の奏法と役割 :「文化デジタルライブラリー」横笛の奏法と役割 :「文化デジタルライブラリー」篳篥の奏法と役割 :「文化デジタルライブラリー」日本 笙のトップ :「アジアの楽器図鑑」日本 龍笛のトップ :「アジアの楽器図鑑」日本 篳篥のトップ :「アジアの楽器図鑑」行幸の演出 :「風俗博物館」源氏物語の音楽 ─平安・鎌倉時代の雅楽はこんな曲!?─ :「日本伝統音楽研究センター」(京都市立芸術大学)4.『源氏物語』の楽器演奏 :「春さんのHomePage」藤原実資 :ウィキペディア小右記 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。[風俗博物館 企画展示鑑賞 記事一覧]観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 6回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 5回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご紹介
2023.06.08
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堀川通を挟み、西側に西本願寺、東側には先日ご紹介した龍谷ミュージアムと今ご紹介する風俗博物館があります。5/24に特別展「親鸞と聖徳太子」と併せて、冒頭の建物(井筒佐女牛ビル)の5階にある風俗博物館での展示を鑑賞してきました。このところ風俗博物館には毎年出かけています。こちらも5/31までの展示として終了しています。2つめのミュージアムとして、こちらの展示内容をご紹介します。 (付記:風俗博物館は、2023.6.1~7.31までは休館とのことです。ホームページより)正面玄関を入り、右の写真のインテリアを眺めて、内ドアを通り抜けると、右側にエレベーターがあります。5階へ直行。 5階フロアーに出ると、目の前にこの景色が広がっています。 手前の小川には朱塗りの反り橋が架かり、その先に寝殿造りの建物が見えます。「源氏物語」の六条院「四季の町」、「春の御殿」の中の「寝殿」と「東の対(対の屋)の一部を1/4の縮尺で制作された模型です。この縮尺模型の六条院を、企画展で様々な場所に見立て、あるシーンを具現化展示しています。それでは、平安時代へとタイムワープ致しましょう。 楽人を乗せる龍頭の船の一種が目の前に展示されています。 これは池面に浮かぶ舞楽の舞台になるのかも知れません。 寬仁2年(1018)旧暦10月16日、藤原道長の三女威子が後一条天皇の中宮(皇后)になりました。宮中で天皇の命が臣下に伝えられる「立后の儀式」が行われ、公卿が使者として、道長のいる土御門第に報告に赴きました。(資料1)『御堂関白記』に道長は、「内(後一条天皇)から、(藤原)定頼朝臣が御使として参った。宣命を下すということを伝えるものであった」と書き遺しています。(資料2、以下略) この場面は、土御門第の寝殿に見立てられています。使者の公卿を迎えて、道長が饗宴を催します。 寝殿の母屋に掛けられた御簾の内側には、後一条天皇の中宮となった藤原威子が居ます。『御堂関白記』に道長は「すぐに中宮は御椅子に着された」と記しています。 南廂の西側には、藤原道長が坐しています。『御堂関白記』には、楽人に演奏させ、「数献の宴飲の後、禄を下賜した。・・・ここに至って、私は和歌を詠んだ。人々は、この和歌を詠唱した。本宮の儀が終わって、人々は分散して帰って行った」と簡略に記しています。この時、道長が詠んだのが、あの有名な この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば という歌です。道長の長女・彰子は一条天皇(第66代)の中宮(皇后)となり、敦成、淳良という天皇の後継者を生みました。この時点で、彰子は太皇太后宮(たいこうたいごうぐう)と称される立場になっています。長男の敦成が後一条天皇(第68代)です。(資料2)二女の研子は三条天皇(第67代)の中宮(皇后)になっていました。三女威子が後一条天皇の中宮(皇后)になったことにより、藤原道長は一家で三皇后を立てるという未曾有の状況を現出させたのです。この威子の立后については、道長がそのシナリオを初めから整えていたそうです。威子は寬仁2年(1018)3月7日に入内し、翌月の4月28日に女御宣旨を受け、そして10月16日に立后するというスピードでした。(資料1)天皇の在位で表すと、一条天皇(986~1011)、三条天皇(1011~1016)、後一条天皇(1016~1036)という在位期間になります。道長は政治に関与する盤石の体制を確立したと言えます。まさに有頂天の心境だったことでしょう。(資料3)序でに補足しますと、末女の嬉子は、彰子の生んだ二男・敦良、後の第69代後朱雀天皇(1036~1045)の中宮(皇后)となります。道長は、上記の通り「余、和歌を詠む」と記しただけです。では、なぜその歌が「この世をば・・・・」とわかるのか。この饗宴に大納言兼右大将の藤原実資(さねすけ)が同席していたのです。藤原実資は『小右記』という日記に詳細にその状況と道長が詠んだ歌を書き遺したそうです。(資料1)道長は己が歌を詠むときに、実資を呼んで、必ず返歌をして欲しいと言ったとか。実資は応諾したのですが、道長が上記の歌を詠んだ後、あまりにも歌が優美なので返歌はできませんと述べて、代わりに皆で道長の詠んだ歌を唱和しましょうと提言したのだそうです。それを道長は、「人々は、この和歌を詠唱した」とのみ記しました。道長は、満面の笑みを浮かべつつこの短い文を書き遺したのでしょうね。一方で、饗宴の場で、実資を含めてこの歌を唱和した人々の多くは、内心辟易と思いつつも処世術として楽しげに唱和したのでは・・・・。内心「やってられんわ・・・」というところでしょうか。因みに、道長の没年は1027年です。 道長の背後に居並ぶ人々と母屋の一隅に積まれた贈物の品々。この品々は宴の後で道長が人々に与えるためのものでしょう。 南廂の東側で道長の正面に対座するのは、左大臣藤原顕光。 左大臣の後には、右大臣藤原公季(きんすえ)が坐し、 少し首をひねった姿は摂政藤原賴道、道長の長男です。 その背後に公卿たちが居並びます。道長は、「諸卿は、寝殿の東対の座に着した」と『御堂関白記』に記していますので、大勢の公卿が土御門第に参入してきていたのでしょう。 東廂に控えるのは、紫式部です。 紫式部の斜め左前には、「打出」が飾ってあります。「打出の衣(うちいでのきぬ)」とは、「晴れの儀式の際、御簾や几帳の下から、また牛車の簾の下などから、女房装束の衣の裾や袖口を外にはみ出させておくこと。また、その裾や袖口」(『学研全訳古語辞典』改訂第二版)です。 左は、中宮への御膳を運ぶ女房が簀子に立っている姿です。 『御堂関白記』には、次の記述があります。「五、六巡の宴飲の後、采女(うねめ)が、中宮の御膳を東北渡殿の簀子、および寝殿の東と南の簀子を経て供した。御大盤であった<台を加えた。>」と。 居並ぶ公卿の装束に目をむけましょう。 男性の衣服は「束帯」と称されます。「束帯は、皮の帯で腰を束ねた装束の意味で、朝服として用いられた。『昼の装束』ともいわれ」たそうです。また、皮の帯は「石帯(せきたい)」と称し、上に弧を描いている箇所は「石帯の上手(うわて)」と称するとか。(資料4)束帯の表衣は「袍(ほう)」と称します。この袍は、『衣服令』に規定され、位階により色や文様や地質に区別が設けられています。色の区別をご紹介しますと、「深紫(こきむらさき、一位)、浅紫(あさむらさき、二位・三位)、深緋(こきあけ、四位)、浅緋(うすきひ、あさあけ、うすあけ、五位)、深緑(ふかみどり、六位)」です。(資料4)次回へのつなぎを兼ねて、寝殿の庭を眺めておきます。 庭には、楽人たちが居並んでいます。『御堂関白記』に、「階下に楽人を召して、数曲を演奏させた」と記しています。『御堂関白記』の寬仁2年10月16日の条を読んで、おもしろいと思ったのは、この条の後半に、贈物を下賜した内容を詳細に記録していることでした。つづく参照資料1) 当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示)2)『藤原道長「御堂関白記」 下』 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫3)『歴史探訪に便利な日本史小典 3』 日正社 4)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館補遺藤原威子 :ウィキペディア公卿冬束帯 :「日本服飾史」(風俗博物館)束帯の種類(束帯) :「綺陽装束研究所」平安時代の服装 文化史 :「フォールド・ミュージアム京都」(京都市)伝統色のいろは ホームページ深紫とは :「着物用語大全」浅紫とは :「着物用語大全」深緋とは :「着物用語大全」浅緋とは :「着物用語大全」深緑とは :「着物用語大全」この世をば(藤原道長) :「和歌の世界」【この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど :「短歌の教科書」この世をば…藤原道長の「望月の歌」新解釈から見える政権の試練とは 丸山淳一 :「讀賣新聞オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。) 観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へ
2023.06.07
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=== 2023.5.30 === 南の空南西方向の空 8時50分頃に外を眺めると小雨でしたので、窓際から撮りました。 12時50分頃に空を見ると、南の空は様変わり。青空が見え白雲が張り出しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の姿に様々な形を見ることができました。雲を楽しめる青空です。 東方向の空稜線のすぐ上の雲の発達している姿と、さらにその上空の雲の姿は大きく異なっています。雲の種類は10種類に分類され、雲の姿は高度によっても異なるのですね。改めてその一端を意識できました。 東方向の空16時35分頃に眺めますと、空はまたもや一転し、くもり空に! 南の空南西方向の空 西方向の空 空の様相が大きく変化する一日でした。さて、雲がたりの続きです。西行法師の『山家集』、三分冊の「下・雑」に入ります。 (出典:『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系29 岩波書店)「中・雑」に引き続き「下」は全体が「雑」に分類されています。参照している底本では、第1042首から始まり、最後が第1552首まで、511首です。この中に、雲の字を含む歌を調べてみますと、次の14首が収録されています。 宮の法印、高野に籠もらせ給ひて・・・(以下省略) 憧がれしこゝろを道の導(しるべ)にて雲に伴なふ身とぞ成ぬる 1084 修行して伊勢に罷りけるに、月の頃都思出られて 都にも旅なる月の影をこそ同じ雲ゐの空に見るらめ 1094 [付記] 旅なる月の影:空を旅する月。 雲ゐの空:雲のいる空 月澄めば谷にぞ雲はしづむめる峯吹(ふき)はらふ風にしかれて 1106 [付記] しづむめる:沈んでいるようだ 風にしかれて:風により押し敷かれて かみな月谷にぞ雲は時雨(しぐ)るめる月澄む峯は秋にかはらで 1112 [付記] かみな月:神無月(陰暦十月) める:・・・のように思われる 秋にかはらで:秋と変わらずさわやかである 群れ立ちて雲井の鶴(たづ)の聲すなり君が千歳や空に見ゆらん 1173 熊野へまゐりけるに、七越の月を見て詠みける 立のぼる月のあたありに雲消えて光重ぬるなゝこしの峯 1403 いかでわれ心の雲に塵据ゑで見る甲斐ありて月を眺めん 1405 [付記] 塵据ゑで:塵(煩悩)を置かないで 雲晴れて身に愁なき人の身ぞさやかに月の影は見るべき 1407 [付記] 雲晴れて:心の雲が晴れて。 人の身ぞ:人のみぞ(身はミス) 眺め来て月如何ばかり忍ばれんこの世し雲の外(ほか)になりなば 1414 [付記] 忍ばれん:なつかしく思われることだろう。 し:強意の助詞 雲の外になりなば:現世から遠く離れてしまったら。 吉野山高嶺の桜咲き初(そ)めばかゝらんものか花の薄雲 1454 [付記] かゝらんものか:花の雲が吉野の高嶺にかかるであろう。 五月雨の晴れ間尋ねてほとゝぎす雲ゐに傳ふ聲聞(きこ)ゆなり 1468 [付記] 雲ゐに伝ふ:空に伝播する。 晴れやらで二村山にたつ雲は比良の吹雪の名残なりけり 1490 [付記] 二村山:所在不詳。 比良:近江国の比良 雲につきてうかれのみゆく心をば山にかけてを止めんとぞ思ふ 1507 [付記] 山にかけてを:山に引きかけて。 を:感動を強める間投助詞 めづらしな赤倉山の雲ゐより慕ひ出たる明星(あかぼし)の影 1523 [付記] 朝倉:神楽歌の「朝倉」 慕ひ出たる:神楽に引かれて出てくる 明星:神楽歌の「明星」にちなむが、明星の実景を詠んでいる。これで、底本となる『山家集』を通覧したことになります。上に42首、中に22首、下に14首、合計78首となります。そのうち一首だけが「くもゐ」と平仮名書きでの「くも」です。『山家集』全1552首の中で、78首が「雲/くも」という字を読み込んでいたことになります。全体の5%ほどの歌に「雲/くも」が読み込まれていたことになります。なお、この参照本には、『山家集』に関連して「附録」が数十ページ付いています。この部分は、別稿で取り上げたいと思います。それでは、雲の変化に戻ります。=== 2023.5.31 === 9時30分頃に撮った南の空は、くもり空。南西方向の空 西方向の空 東方向の空ベランダから眺められる三方向の空は、全面的にグレーの雲に覆われての一日の始まりです。 12時20分頃に眺めた東方向の空。午前とそれほど大きな変化はなしです。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空ところがその後、空模様は徐々に好転していきました。午後に市役所近くの会場まで、講演の聴講に出かけましたので、天気が晴れて行くのはラッキーでした。 南の空帰宅後、16時30分頃に撮りました。すっかり快晴状態に変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南東方向の空には少し白雲が浮かんでいました。 南の空5月の末日は、晴れた空で終りました。このとき一つの懸念は、台風2号が南の海上を北上し沖縄に接近している情報でした。つづく補遺雲の種類は10種類 :「じゃらんニュース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.05
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=== 2023.5.27 === 南の空朝から曇り空です。10時過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上には大きな雲が漂っています。南から西方向の雲の姿とは対照的です。その後、通り雨でしょうか、一時、小雨がぱらつきましたが大したことなく止みました。 東方向の空15時半頃に空を眺めると、青空に変わっていました。くもり後晴れです。稜線上空に青空が広がり、雲も白雲が浮かぶ景色に変わっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向にかけては、ふんわりと小さな雲が数多く浮かんでいます。 17時35分頃に撮った南の空の空。雲が張り出してきていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空には、再びグレーの雲が広がる状態に変化していました。=== 2023.5.28 ===朝から晴れていました。 12時過ぎに撮った南の空です。雲が活発な感じ・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空の雲の重なりは、これまでにあまり見かけない形で広がっています。少しずつ、夏空の様相に移りつつあるのでししょうか。それまでに梅雨の時季が来るのですが。 16時10分頃に東方向の空を眺めると、雲の姿は様変わりです。 南の空南西方向の空 西方向の空 このような雲の姿は何と称するのでしょう・・・・。 頭上の空晴れのちくもりの一日でした。さて、雲がたりです。引き続き、西行法師の『山家集』です。 (出典:『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系29 岩波書店)「中・雑」の後半に移ります。前回、第860首を区切りとしていましたので、補足です。 さしいらでくもぢを過ぎし月影はまたぬ心ぞ空にみえける 855第855首に「くもぢ」と平仮名表記で「くも」が詠み込まれている歌があることに気づいたのです。ここは「雲路」に相当する表記だと思いますので、取り上げて置きます。「中・雑」の後半の歌を読んでいくと、次の14首を抽出できました。 寄藤花述懐 西を待つ心に藤をかけてこそそのむらさきの雲をおもはめ 869 [付記] 西を待つ:西方浄土に往生するのを待つ 藤を:藤の花を むらさきの雲:聖衆来迎の紫色の雲 観持品 あま雲の晴るゝみ空の月影に怨みなぐさむ姨捨(おばすて)の山 886 [付記] 勧持品:法華経第十三品 姨捨の山:信濃国更科郡にある山 怨み:釈尊の姨母が授記されなかったことを憂えた怨み 雲晴るゝわしのみ山の月影を心澄みてや君ながむらん 890 [付記] わしのみ山:霊鷲山。仏が説法された場 一心欲見仏の文を人々詠みけるに 鷲の山誰かは月を見ざるべき心にかゝる雲し晴れなば 891 [付記] 一心欲見仏の文:法華経寿量品「一心欲見仏 不惜自身命」 天 雲の上の楽みとても甲斐ぞなきさてしもやがて住みし果てねば 902 [付記] 天:天上道。 さてしもやがて:そのようにしてそおまま。 雲にたゞ今宵の月をまかせてん厭ふとてしも晴れぬ物ゆゑ 952 [付記] まかせてん:まかせてしまおう 厭ふとて:雲のかかるのを厭っても。 しも:むしろかえって 月を見るほかもさこそは厭ふらめ雲たゞ此處(ここ)の空にたゞよへ 953 [付記] さこそ:さぞかし。 ただ此處の空にたゞよへ:ここの空だけに 雲がたゞようなら、雲を厭うのは私だけですむ。 晴れ間なく雲こそ空に満ちにけれ月見ることは思ひ絶えなん 954 [付記] 思ひ絶えなん:あきらめよう。 晴れがたき山路の雲に埋もれて苔のたもとは霧朽ちにけり 960 [付記] 苔のたもと:僧衣。 霧朽ちにけり:霧のために朽ちてしまった 雲取(くもとり)や志古(しこ)の山路はさておきて小口が原の淋しからぬか 977 [付記] 雲取:紀伊国那智の北方にある山。 志古:大雲取と小雲取の 間に小口川が流れていて、その辺りを志古という。 淋しからぬか:淋しいことだ。 空わたる雲なりけりな吉野山花もてわたる風と見たれば 987 雲もかゝれ花とをはるは見て過ぎんいづれの山もあだに思はで 989 [付記] あだに:おろそかに。 思はで:思わずに。 雲を花とみる。 雲かゝる山見ばわれもおもひいでに花ゆゑ馴れし睦び忘(わすれ)ず 990 [付記」 睦び:親睦。親しみ。 山もなき海のおもてにたなびきて波の花にもまがふ白雲 995西行さんは、「雲」を詠み込んだ歌をたくさん作っていらっしゃったようです。雲を月光を遮る自然の雲として詠む歌がかなりあります。私は自然の景を詠んでいる歌として受けとめました。禅語にある「雲=煩悩」という暗喩の読み込みまでは感じませんでした。一方で、来迎の紫雲、雲を桜の花や白波の花などと雲を比喩的に詠み込んだ歌も詠じられています。次回は「下・雑」に収録された歌から抽出していきます。雲の姿に戻ります。=== 2023.5.29 === 南の空めずらしく早く、7時50分頃に撮りました。くもり空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空各方向の雲を撮っていると、小雨が降り出しました。 南の空南西方向の空 16時15分過ぎに窓際から二方向だけ撮りました。激しくはありませんでしたが、終日、雨で終りました。天気予報通りだったと思います。つづく補遺阿弥陀聖衆来迎図 :「文化遺産オンライン」[動画あり]国宝「阿弥陀聖衆来迎図」修理前に公開準備作業に密着 :「JAPAN ART & CULTURE」妙法蓮華経勧持品第十三 :「近松門左衛門と広済寺」妙法蓮華経如来寿量品第十六 :「近松門左衛門と広済寺」霊鷲山 :ウィキペディア姨捨山(おばすてやま)(長野地域(ちいき)) :「長野県」冠着山 :ウィキペディア月の都 千曲 -姨捨の棚田がつくる摩訶不思議な月景色「田毎の月」- :「日本遺産 ポータルサイト」小雲取山(和歌山県) 449m :「10th YAMAP」吉野山 :「吉野山観光協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.02
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=== 2023.5.24 === 南の空9時過ぎに撮りました。天気は晴れ、青空の色が濃いめで雲多し。大きな雲浮かぶです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東の空も、朝から青空が見えています。稜線に青空が見えるのはめずらしい。 東方向の空午後は西本願寺前のミュージアムに出かけました。一つは既にご紹介しています。帰宅後、17時15過ぎに眺めると、稜線の上空にはほとんど雲が無く、気持ちのよい青空が見えました。 南の空 南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南東方向の空 外出日和りの一日でした。平日ですが、JR京都駅では外国人観光客の姿がかなり見られました。少しずつ観光客が増えてきているようです。=== 2023.5.25 === 南の空9時頃に撮りました。昨日とは様変わりして、曇った空模様です。雲にグレーの濃淡が見られます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の層は薄い感じを受けます。 東方向の空もまた、グレー一色です。灰色の布が皺を見せつつ広がっている感じです。こんな状態が昼をまたいで続きました。そして、17時20分頃には雨が降り始めました。 南の空南西方向の空 窓際から二方向だけ記録写真を撮りました。さて、雲がたりをいたしましょう。西行法師の詠んだ「雲」字を含む和歌抽出のつづきです。 (出典:『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系29 岩波書店)『山家集』の上・冬には、「雲」を含む歌は1首だけです。 月前炭竈 かぎりあらん雲こそあらめ炭竈の煙に月のすゝけぬる哉 547中は「恋」の部から始まります。「恋」歌の5首に雲の字が詠み込まれています。 後朝郭公 さらぬだに帰りやられぬ東雲に添へてかたらふ郭公(ほととぎす)哉 586 [付記] さらぬだに:ほととぎすの鳴かぬ朝でさえ 添えて:風情をそえて 月 知らざりき雲ゐの余所に見し月のかげを袂に宿すべしとは 617 [付記] 雲ゐの余所:空のかなた 袂に宿す:恋の涙に濡れた袂に月を宿す 秋の夜の月や涙をかこつらん雲なきかげをもてもて窶(やつす)すとて 622 [付記] かこつ:うらみに思う もて窶す:みすぼらしくする 天の原冱(さ)ゆる空は晴れながら涙ぞ月の雲になりける 623 [付記] 冱ゆる:冷たく凍る 月の雲になりける:月にかかる雲となったことである 雨雲のわりなき隙を洩る月のかげばかりだにあひ見てしがな 650 [付記] わりなき:ひどくこめている だに:せめて・・・だけでも がな:哉「恋」に続くのは、「雑」の部です。下はそのまま「雑」の部が続きます。なお、参照本には、「中・雑」の始まりの所に、「本是以下カ下帖」という付記があります。それはさておき、「中・雑」の始まり・第712首から第860種までの前半には、2首を見出しました。 <詞書が長文のため省略> 天降る名を吹上の神ならば雲はれ退(の)きてひかりあらわせ 748 [付記] 吹上:和歌山市。紀ノ川口の左岸から雑賀にかけての砂浜の古名。 五十日の果てつ方に、二條院の御墓に御仏供養しける 人に具してまゐりたりけるに、月明くてあはれなりけ れば こよひ君死出の山路の月を見て雲の上をやおもひいづらん 792 [付記] 五十日の果てつ方に:五十日の忌明けに 御仏供養:仏のために供養すること 雲の上:雲の上と宮中の意次回は、「中・雑」の後半に移ります。ここには結構「雲」字が詠み込まれています。雲の姿に戻ります。=== 2023.5.26 === 南の空9時35分頃に撮りました。昨日夕刻から雨に転じましたが、今朝はくもり空での始まりです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空空全体をグレーの濃淡で雲が覆っています。天気予報通りに、くもりの状態が続き、16時15分頃には小雨が降り始めました。 南の空南西方向の空 窓際から、二方向だけ記録写真を撮りました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.01
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龍谷ミュージアム(堀河通東側)建物の正面を北側から撮っています。手前の黒く見えるところに、地下1階への階段があります。龍谷ミュージアムは地下1階に入口があります。地下1階の出入口前は、石敷の中庭空間になっています。以前にもご紹介していますが、あらためてこの中庭の景を撮ってみました。 階段を下ると、大きな石の上で、2匹のカエルがウエルカム!!してくれます。右折すると、中庭の西辺にミュージアムの出入口があります。正面の階段を降りた側(北西側)から、南側にミュージアムの建物壁面を眺めた景色です。 中庭の南東側に2つの切り出された平たい大石が置かれています。 中庭の南西隅から眺めると、こんな感じです。 背後は東側の建物側面 こちらは、北側の建物側面石敷の中庭には、大きな木が植えてあります。 この中庭の楽しいのは、コレ! 誰のアイデア?誰の遊び心なのでしょう・・・・・か。この中庭へのアプローチは自由にできます。建物の外になりますので。堀川通の西側に西本願寺があります。西本願寺の前に龍谷ミュージアム。ちょっと、中庭のカエルさんたちを見に行くのもおもしろいかも・・・・です。ご覧いただきありがとうございます。観照 京都 西本願寺前 龍谷ミュージアム -1 春季特別展「真宗と聖徳太子」 へ
2023.05.30
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先週の24日(水)の午後、2つのミュージアムに出かけました。一つは龍谷ミュージアム。冒頭の左の写真は、堀川通・東側歩道の北から龍谷ミュージアムの正面を部分撮りした景色です。 昨日(28日)までの会期で、春季特別展「真宗と聖徳太子」が開催されていました。会期末直前に鑑賞してきたことになります。 こちらはこの春季特別展のPRチラシ。この特別展は「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年記念」として企画されたそうです。この時期、並行して京都国立博物館では、特別展「親鸞-生涯と名宝」(5/21まで)が開催されていました。特別展「親鸞-生涯と名宝」は既にご紹介しています。龍谷ミュージアムのこの春季特別展は、真宗と、つまり親鸞聖人と聖徳太子との関わりに焦点を当てた特別展です。親鸞の聖徳太子への思いは深く、「和国の教主」と崇めてこられたと言います。それが連綿として、浄土真宗の中で継承され造形化され、木彫像や絵伝・絵像として伝えられてきました。その集積がこの特別展として結実したようです。PRチラシの右側の絵像は、岐阜・浄厳寺蔵の「聖徳太子童形像・六随臣像」(部分図)で、室町時代の掛幅です。これは前期展示でしたので拝見できませんでした。同種の掛幅として、福井・秘鍵寺蔵の「聖徳太子童形像・六随臣像」(室町・天文元年/1532年)を拝見しました。 PRチラシ裏面ミュージアムを出る前にこの春季特別展の図録を求めたら既に完売ということで、残念ながら入手できませんでした。この特別展は3階・2階の両会場を使い、3章構成で展示されていました。<第1章 親鸞聖人と聖徳太子> これはチラシの表紙に載る「本願寺聖人親鸞伝絵 巻上」(大阪・天満定専坊蔵)の部分図です。後期の展示品。親鸞が六角堂に参籠していた時、夢想に現れた六角堂の救世観音の姿を描いたもののようです。「六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖像の形を示現して、白衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端座して、善信に告命してにたまわく」(御伝鈔)という場面です。親鸞の伝記絵のうち、絵巻形式の作品が「伝絵(でんね)」と称されます。一方で、「親鸞聖人絵伝」も展示されていました。「絵伝」は掛幅形式で伝記絵を描いたものです。石川・本誓寺蔵(室町時代)の2幅形式と大阪・正覚寺蔵(桃山・天正16年/1588年)の4幅形式の絵伝が展示されていました。 聖徳太子の德を親鸞が奉賛した断簡も、これと第三十首の2点が展示されていました。印象に残ったのは、「聖徳太子童形像・法然親鸞連坐像」(愛知・皆幅寺蔵、室町時代)です。聖徳太子と法然・親鸞を描いている一幅です。また、「聖徳太子勝鬘経講讃像・震旦和朝高僧先徳連坐像」(1点)、「阿弥陀如来・震旦和朝高僧先徳連坐像」(1点)「和朝太子先徳連坐像」(3点)という風に、浄土宗系統の高僧と聖徳太子を一緒に描いた掛幅が展示されていました。聖徳太子がどのように位置づけられているかがうかがえます。 「光明本尊」(兵庫・高福寺蔵、室町時代)の大きな掛幅です。阿弥陀仏像と尽十方無礙光如来像の間、蓮華座の上に「南無不可思議光如来」の九字名号が記されています。インド、中国、日本の高僧が名号の左右に描かれ、名号の文字「可思義」の右側に聖徳太子立像が描かれています。聖徳太子が崇敬の対象として自然に組み込まれているのです。<第2章 真宗が生み出した聖徳太子像>このセクションでは、木造彫刻像あるいは絵像の形で、様々な年齢に造形された聖徳太子像を数多く拝見しました。 一例がこの「木造 南無仏太子像」(福井・称名寺蔵、南北朝~室町時代)です。同じ作品名で他に2点。 「木造 聖徳太子童形立像」(東京・西光寺、南北朝・暦応4年/1341年)。髪をみずらに結い、右手に笏、左手に柄香炉を持つ立像です。同じ作品名で、彫刻像が他に1点、絵像が3点、また「木造 聖徳太子孝養立像」が2点展示されていました。このセクションで印象深かったのは、実如の裏書があるという「聖徳太子・法然上人像」が対になった掛幅です。奈良・願行寺蔵(室町・永正10年/1513年)と兵庫・本徳寺蔵(室町・文亀3年/1503年)の作品。この対の掛幅について、会場の説明文にも記されていましたが、以前に入手した図録に願行寺蔵の作品について説明が載っています。それをご紹介します。「太子と法然の対幅で、法然は念珠を持って礼盤上に坐す通形のすがた、太子は室町後期以降に本願寺から下付される通規の孝養太子立像とする。・・・・そもそも太子と法然を対幅にする遺例は少ないが、これに当初は浄土六高僧像が備わって3幅対であったと考え、本願寺が下付する太子および七高僧像成立の前段階とみなす意見がある」(資料1)<第3章 聖徳太子絵伝とその周辺>1幅から8幅まで、様々な幅数で描かれた「聖徳太子絵伝」がズラリと展示されているのは、一種壮観ですらあります。 「聖徳太子絵伝」第4幅の部分図です。愛知・勝鬘皇寺蔵(南北朝時代、14世紀)の作品で、併せて第1~3幅も展示されていました。こちらは室町時代、15世紀の作という組み合わせだとか。描かれた時期がなぜ逆転しているのかについて詳細は不詳。聖徳太子の伝記絵としてどの場面を表すかは基本的な押さえどころになるでしょう。この伝記絵の構成要素を十分に理解していれば、鑑賞の仕方が深まることと思います。聖徳太子の一生において、ハイライトになる場面全てという意味では十分な知識を持ち合わせていません。伝記絵のハイライト場面の一部を記憶している程度です。それ故、絵伝の一部の場面を理解しつつ鑑賞できる程度でした。その点がやはり残念でした。このセクションで印象に残ったのは、聖徳太子絵伝の他に、「法然上人絵伝」の第4・6幀(愛知・光明寺蔵、南北朝時代14世紀)、「金銅 阿弥陀如来立像・観音菩薩立像(善光寺式)」(龍谷ミュージアム蔵、鎌倉時代13~14世紀)、「善光寺如来絵伝」が2点展示されていたことです。聖徳太子と善光寺の関係を、後で少し調べてみました。「善光寺縁起」にその経緯の逸話が記されています。百済の聖明王が天皇に仏像を献じました。天皇はその仏像を蘇我稲目に預けました。稲目は自宅を「向源寺」という寺にして、仏像に奉仕をしました。だが、ちょうどその頃に熱病が流行。外来の蕃神のせいとして、物部尾輿は向源寺を焼き払います。物部尾輿は蕃神とみなした仏像を最後は難波の堀江に投げ捨てました。その後、物部守屋と聖徳太子・蘇我馬子との争いで、守屋は敗れ、一転して仏教の奨励に転換します。聖徳太子は難波の堀江に捨てられた仏像を宮中にお迎えしようとしたそうですが、尊像は機が熟すまで待つとおっしゃられたとか。その尊像を信濃国の本田善光が、尊像の導きで信濃国に背負って帰ることになります。善光が自宅に尊像を安置し、善光寺と称して開山したそうです。(資料2)また、聖徳太子が「善光寺如来に宛てて、自分が観音菩薩の化身として人々を救うのを助けてほしいと依頼する内容」の手紙があり、一方、「これに対する善光寺如来の返書と伝わる文書が、法隆寺に現存する」(資料3)そうです。親鸞が聖徳太子に抱いた崇敬の念が、真宗の中に連綿と継承されている様子を感じた次第です。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*「春季特別展 真宗と聖徳太子 出品リスト」 会場にて入手*春季特別展 PRチラシ1) 『釈尊と親鸞 親鸞編 第四期出品 解説』 龍谷ミュージアム p8 2011年10月2) 善光寺の逸話 善光寺縁起 :「善光寺」3) 善光寺と常徳太子の関わり :「ウィークリー長野」補遺聖徳太子絵伝 :「e國寶」聖徳太子絵伝 :「文化遺産オンライン」絹本著色聖徳太子絵伝(法隆寺献納):「文化遺産オンライン」聖徳太子絵伝 :「文化遺産オンライン」【絵で見る聖徳太子の一生】#1 六幅の太子絵伝 YouTube5Gで文化財 国宝『聖徳太子絵伝』 5つのエピソードを深堀り解説 YouTube5Gで文化財 国宝『聖徳太子絵伝』とは? YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都国立博物館 -1 「親鸞 -生涯と名宝」展 へ
2023.05.29
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=== 2023.5.21 === 南の空9時35分頃に撮りました。日曜日、朝から晴れています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向の空はほぼ快晴ですが、 東方向の稜線上空には雲がたなびいています。 13時35分頃に眺めると東方向の空は青空が少し広がっていますが、雲がそのまま張り出しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 雲が少し広がってきています。 16時40分頃に南の空を眺めると、雲は浮かんでいますが、青空の色がよりはっきりと見えます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 雲は変化しています。 東方向の空は雲がかなり去り行き、青空が広がっていました。=== 2023.5.22 === 南の空8時35分頃に空を眺めると、朝から少しくもりぎみです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空青空が見えてはいますが・・・・、スッキリという感じではありません。 東方向の稜線上は、ご覧の通り。 東方向の空16時35分頃に撮りました。空模様はあまり変化が見られない状態です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 濃い灰色の雲が張り出してきています。この後、夕刻から雨になりました。さて、前回のつづきとしての雲がたりをいたします。西行法師の『山家集』(日本古典文学大系29、岩波書店)を参照して続けます。全三冊のうちの「上 夏」からです。「夏」の部には、2首だけ詠まれています。 雨中郭公 五月雨(さみだれ)の晴間も見えぬ雲路より山ほとゝぎす鳴きてすぐなり 198 [付記] 雲路より:空に すぐ:通り過ぎる 雲雀(ひばり)あがる大野の茅原(ちはら)夏くれば涼む木陰をたづねてぞ行 238 [付記] 茅原:ちがやの生えた原ご覧の通り、「雲路」「雲雀」という語彙に「雲」が入っている形です。「上 秋」には、次のとおり、けっこう「雲」を詠み込んだ歌が収録されていました。 天の原月たけのぼる雲路をばわきても風の吹きはらはなん 307 [付記] たけ⇒たく(闌く):十分にになる。盛りとなる。 わきても:中でも殊に。とりわけ。 吹きはらはなん:吹き払ってほしい いかばかり嬉しからまし秋の夜の月すむ空に雲なかりせば 310 明くるまで宵より空に雲なくてまたこそかゝる月見ざりつれ 315 [付記] またこそかゝる月見ざりつれ:このように終夜雲もなくて 皎々たる月はいまだかつてみたことがないよ。 海邊月 清見潟(きよみがた)月澄む空のうき雲は富士の高嶺の煙成(なり)けり 319 [付記] 清見潟:静岡県興津の海。 池に澄む月にかゝれる浮雲は払ひ残せる水錆(みさび)なりけり 322 [付記] 水錆:水面に浮かぶサビのようなもの。 月前遠望 隈(くま)もなき月の光にさそはれて幾雲居までゆく心そも 327 [付記] 隈:くもり。かげり。 幾雲意まで:はるかな空の彼方まで。 秋はたゞ今宵ひと夜の名なりけりおなじ雲ゐに月は澄めども 334 くもれる十五夜を 月見れば影なく雲につゝまれて今宵ならずば闇に見えまし 336 [付記] 今宵ならずば:満月の今宵でなかったら。 闇にみえまし:すっかりまっくらに見えることだろう。 待ち出でて隈なきよひの月みれば雲ぞ心にまづかゝりける 338 [付記] 雲ぞ心にまづかゝりける:やがて雲が出て来はしないかと、 先に立って気になるのであった。 秋風や天つ雲ゐをはらふらん更けゆくまゝに月のさやけき 339 [付記] まゝに:につれて。と共に。 さやけし:明るくてすがすがしい。 なかなかに時々雲のかゝるこそ月をもてなすかざり成けり 361 [付記] なかなかに:かえって 月をもてなす飾り:月に趣を添える飾り 雲はるゝ嵐のおとは松にあれや月もみどりの色に映えつゝ 362 隈もなき月のおもてにとぶ雁の影を雲かとまがへつる哉 366 雲も見ゆ風も更(ふ)くれば荒らくなるのどかなりつる月の光を 368 [付記] 更くれば:夜が更けてくると うき雲の月の面(おもて)にかゝれども疾(はや)く過ぐるは嬉しかりけり 371 [付記」 うき雲:「浮雲」に「憂き雲」がかけられている。 過ぎやらで月近くゆくうき雲のたゞよふ見るは侘(わび)しかりけり 372 [付記] 過ぎやらで:通り過ぎてしまわずに。 厭(いと)へどもさすがに雲のうち散りて月のあたりを離れざりけり 373 [付記] 厭ふ:いやだと思う。 さすがに:にもかかわらずやはり。 雲はらふ嵐に月のみがゝれて光えて澄む秋の空かな 374 [付記] 光えて澄む:月の光がますますかがやきを加えて明るく澄み切る。 九月十三夜 雲きえし秋のなかばの空よりも月は今宵ぞ名におへりける 380 [付記] 雲きえし:一片の雲も名残りなく消え去ってよく晴れた。 秋の半ばの空:仲秋、八月十五夜の空。 今宵:九月十三夜。 名におへりける:有名になっている。 月照瀧 雲きゆる那智の高嶺に月たけて光をぬける瀧のしら絲 382 [付記] 那智:和歌山県那智山 月たけて:月が天心に高くのぼって。 光をぬける瀧のしら糸:月光を宿した水玉を白糸に貫く様に、 滝水が筋をなして流れ落ちている。 久待月 出でながら雲に隠るゝ月かげを重ねて待つや二村の山 383 [付記] 「二村山は三河なり。尾張丹後にもあり。山の名賞玩なり」 (山河集抄) 雲間待月 秋の夜のいざよふ山の端(は)のみかは雲の絶間(たえま)も待たれやはせぬ 384 [付記] いさよふ:(後世は「いざよふ」)進もうとしても進めず、 止まろうとしても止まれずに、ためらう。 やはせぬ:・・・シナイノカネ。・・・スレバヨイノニ。・・・シロヨ。 朝聞雁 よこ雲の風にわかるゝしのゝめに山とび越ゆる初雁のこえ 420 [付記] よこ雲の風にわかるゝ:横に長くたなびいてる雲が風に吹かれ 山の端から離れる。 しののめ:明け方。夜明けのほのかに明るくなるころ。 雁聲遠近 しら雲を翅にかけてゆく雁の門田の面(おも)の友慕ふなり 422 [付記] しら雲を翅にかけてゆく雁:白雲に羽を交えるほど空高く飛ぶ雁。 門田の面の友:門前の田のほとりにいる雁この「秋の部」には、24首が収録されています。雲路、雲、うき雲(浮雲)、雲居(雲ゐ)、よこ雲、しら雲と、語彙の使い方もバリエーションがみられます。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.5.23 === 南の空昨夕からの雨は深夜にも降ったようです。ベランダの物干し竿には雨滴が連なっています。8時45分頃に外を眺めると、雨は止んでいました。濡れたサンダルを拭って、三方向の空を撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空灰色雲が張り出しているものの、ちょっと青空を垣間見せる切れ目があります。 東方向の空 東方向の空15時10分頃に撮った空。灰色の雲は流れ去り、稜線上空には青空の下に白雲が浮かんでいます。 南の空東方向の空よりも濃い青空が見え、ちぎれ雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 17時15分頃に撮った南の空です。青空のトーンがまた変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の変化がおもしろい。まさに、雲変化の一日でした。 日が長くなってきました。夕刻迫る頃に、東の稜線上空は快晴状態です。稜線上空でそう頻繁には見られない空景色です。やはり蒼空は気持ちがいいですね。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.28
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=== 2023.5.17 === 南の空朝から晴れの日。所用で出かけていましたので、この青空を撮ったのは16時15分頃。快晴といえる青空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空終日、良い天気に恵まれました。=== 2023.5.18 ===この日は朝から曇り空。 南の空15時半頃に記録として曇天の様子を撮りました。南西方向の空 西方向の空 灰色の雲の層の彼方に、太陽の存在を示す光点が見えます。 東方向の空どの方向も空はグレー一色です。 東方向の空2時間後、17時40分頃にもう一度空を見上げてみました。 南の空南西方向の空 西方向の空 終日、くもりの一日。気分はやはり少しグレーに・・・・。さて、気分転換を兼ねて、雲がたりに切り替えましょう。和歌の世界に戻ります。手許に、岩波書店の日本古典文学大系の一冊『山家集 金槐和歌集』があります。奥書を読むと1980年7月25日第21刷発行です。西行法師の歌に関心を抱いていたので、1980年代のどこかで、購入したのだと思います。時折一部参照することはありましたが、『山家集』を通読することなく、書架で休眠していました。西行法師は『山家集』で、「雲」を含む歌を詠んでいるだろうか? その観点を梃子にして、今回収録された歌を通読しながら、「雲」を含む歌を抽出してみることにしました。西行は「雲」をどのように歌の中で詠んでいるのか。自然現象としての雲の姿に見入っているのか。雲は譬喩や象徴に使われているのか。雲をどのような情景の中で詠んでいるのか。そんなところに関心が向きます。通読していくと、西行さん、けっこう「雲」を歌に詠んでいます。手許の岩波本『山家集』は、「近世初期に近衛家で書写せられた本の系統」「陽明文庫本」を底本にし、風巻景次郎校注によります。上・中・下三冊、歌数1552首が収録されています。ここからの抽出です。『山家集』上の「春」には、次の歌が載っています。 かすみに月の曇れるをみて 雲なくて朧(おぼろ)なりとも見ゆるかな霞かゝれる春のよの月 51 空にいでて何処ともなく尋ぬれば雲とは花の見ゆる成(なり)けり 60 [付記] 空にいでて:あてどなく外に出て 雲とは花の見ゆる成けり:遠目には雲かとばかりに 咲いた花が見えるのだ 花の歌あまたよみけるに 吉野山くもをはかりに尋ねいりて心にかけし花をみるかな 62 [付記] くもをはかりに:雲をめあてに 心にかけし:心に見たいと思っていた おしなべて花の盛(さかり)に成にけり山のはごとにかゝる白雲 64 [付記] 山のはごとにかゝる白雲:山の端ごとに、花が白雲となって かかっている まがふ色に花さきぬれば吉野山春ははれせぬ峯の白雲 65 [付記] まがふ色に:峰の白雲と見誤られる色に 春ははれせぬ:春は晴れることのない おもひやる高嶺の雲の花ならばちらぬ七日(なぬか)ははれじとぞ思ふ 81 [付記] おもひやる:遠くそれと思いやる ⇒雲を花と思いやる ちらぬ七日は:花の命の保つとされている七日間は 花の下にて月をみてよみける 雲にまがふ花の下にて眺むればおぼろに月は見ゆる成ける 90 吉野山谷へたなびく白雲はみねの桜の散るにやあるらん 110 立(たち)まがふ峯の雲をばはらふとも花を散らさぬ嵐なりせば 114 [付記] 立まがふ:立ちこめて花と見まがう 吉野山花ふき具して峯こゆる嵐は雲とよそに見ゆらん 115 [付記] 花ふき具して:落花を吹き連れて 吉野山桜にまがふ白雲の散りなんのちは晴れずもあらなん 132 花と見ばさすが情(なさけ)をかけましを雲とて風のはらふなるべし 133 [付記] 雲とて風のはらふなるべし:雲だからと、容赦なく吹き払うのだろう 遠山残花 吉野山ひとむら見ゆる白雲は咲きおくれたる桜なるべし 142 花歌十五首よみけるに よしの山人に心をつけがほに花よりさきにかゝる白雲 143 [付記] 心をつけがほに:物を思わせるような様子で おぼつかな谷は桜のいかならんみねにはいまだかけぬ白雲 146 [付記] おぼつかな:気にかかることだなあ「春」には15首、雲を詠み込んだ歌があります。ほとんどが吉野山の桜を詠じる関わりで白雲を詠み込んでいます。桜と白雲を自然の景として対比的に詠む歌、桜の咲く様子を雲に喩えている歌、が混じっています。西行さんはやはり桜が好きだったのでしょうね。 余談。西行法師の歌では、「ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃」がとくに有名ですね。本書の頭注によりますと、「きさらぎの望月」は2月15日で、釈尊入滅の日を指します。この歌は、『山家集』に第77首として載っています。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.5.19 ===朝から雨。 南の空南西方向の空 12時過ぎに窓際から撮りました。 激しい雨ではなかったと記憶しますが、雨の降る一日でした。=== 2023.5.20 === 10時過ぎに撮った南の空です。晴れました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上空には灰色雲が覆い、青空はほんの一部で見える位です。 東方向の空17時すぎに眺めても、稜線の上空は灰色雲が覆っています。 一方、南の空は快晴といえる青空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 晴れの週末になりました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.26
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玄関先の通路脇に置かれた鉢に アマリリスが咲いています。 斜め前の鉢植えで ハツユキカズラの葉が様々な色に変化を見せていています。 庭の通路を挟んで家屋側にはラベンダーが群がっていて ラベンダーの西側では、時計草が咲き出しています。家の壁沿いに少し西側に行けば、リビングルームの外側に、 ユリが咲いています。昨日(5/24)撮った1枚 今日、先ほど見れば、花びらを大きく広げていました。 アマリリスの位置から、玄関前の通路を道路(南)へ歩めば、シランがまだがんばって花を咲かせています。『山渓ポケット図鑑1 春の花』によれば、花期は4~5月。初めて知ったのですが、「地中にある球形の偽球茎は白及根(はくきゅうこん)と呼ばれ、薬用に使われる。また粘性があるので七宝細工の接着剤にも利用される」(p278)そうです。 通路の東側の小さな花壇の隅に咲くドクダミソウ。花期は6~7月。 「裏のナンテンの傍にもっと咲いてるよ」と聞き、先ほど行ってみて ナルホド! 表の花壇より、裏の北東隅の小さな花壇に沢山咲いていました。ドクダミソウって、ちょっと怖そうな名前です。が、手許の『山渓ポケット図鑑2 夏の花』を見ると、「民間薬としてよく知られ、虫さされ、切り傷、胃腸病など10種の薬効があるということから十薬とも呼ばれる」(p196)そうです。このことも知りませんでした。「白い花びらのように見えるのは4個の総苞片で、その上に花弁も萼もなく小さな花が黄色い穂になってつく」(p196)久しぶりに、ポケット図鑑を繙いてみました。ラベンダーの西隣りの壁際と玄関先に置かれたサボテン サボテンの花が咲いています。 敷地の南西側、隣家との境界にある西側の小さな花壇では、アジサイ(紫陽花)が咲き始めています。 アジサイ、ガクアジサイの花期は6~7月。 これからしばらく花が咲くのを楽しめそうです。我が地元で言えば、京阪宇治線「三室戸駅」下車で、東方向に向かうとある「三室戸寺」のアジサイが有名です。ご覧いただきありがとうございます。補遺アマリリス :「みんなの趣味の園芸」ハツユキカズラ :「みんなの趣味の園芸」トケイソウの仲間 :「みんなの趣味の園芸」ラベンダーの育て方|枯らさないためのお手入れ方法や増やし方は? :「Plantia」シラン :「熊本大学薬学部薬草園 植物データベース」ドクダミ :「熊本大学薬学部薬草園 植物データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 宇治・三室戸寺細見 -1 参道を歩む 6回のシリーズでご紹介
2023.05.25
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=== 2023.5.14 === 南の空南西方向の空 日曜日、10時45分頃に眺めると空はグレーの濃淡に覆われています。 朝から雨が降っており、窓際から二方向だけ撮りました。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空14時45分頃には、一旦雨が止んでいました。ベランダ置きの雨に濡れたサンダルの雫を拭き取って、外に出て三方向を撮ってみました。雲の形は止まること無く来たり、去り、変化しています。 南の空南西方向の空 16時55分頃に、外を眺めると再び雨が降っていました。窓際から眺めた空模様。=== 2023.5.15 === 南の空9時半頃に撮りました。灰色雲と白雲が入り交じり、空を覆っています。雲中に孔を穿ったような切れ目から青空が見えます。南西方向の空 西方向の空 東方向の空こちらも、雲の僅かの切れ目からかすかに青空が見えています。ほんのひととき、小雨もよいになりましたが、いわば通り雨。遠くでは、青空が広がっている地域もありました。 東方向の空17時10分頃に撮った空。青空が広がっていて、雲の姿は様変わりです。稜線よりかなり上空にちぎれ雲が漂っていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲はその姿をダイナミックに変えていました。さて、前回の雲がたりのつづきに移ります。枡野俊明著『毎日に感謝したくなる 禅ごよみ365日』(誠文堂新光社)に載る「雲」を含む禅語のご紹介です。()内は本書を読んでの私的解釈。「」は本文からの引用。ページの後は暦日表示。白雲飛悠々 白雲悠々(ゆうゆう)飛ぶ p243/8.13 (空に浮かぶ白雲は悠々と風に任せて自在に飛び去っていく) 無心の白雲のようにとらわれることなく自然体でふるまうことを著者は助言します。 「自分をこんな風に見せたい」と考えれば、「自然体でなくなるのです」 「自然体にまさる自由なし、です」「自然であれば、自由でいられる」と。流水寒山路 流水寒山の路(みち)深雲古寺鐘 深雲(しんうん)古寺の鐘 p252/8.22 (谷川に沿って、寒山寺に至る道を歩いていると 雲の彼方から古刹の鐘の音が聞こえてくる) 禅寺のある場所の自然の情景を表現した句です。その自然の中に心身を預けなさい と、著者は助言しています。「自然のなかで仏様に触れる」ためにと。 それは涅槃経に記す[一切衆生悉有仏性]の句と呼応するということでしょうか。白雲無尽時 白雲尽きる時無し p259/8.29 (空には白雲が次々に湧き出してきて、尽きる時がない) 「人の考え方も、発想も、そのようなものでありたい」 人生経験を積むほどに、「心の門戸を広く開けておくこと」を著者は助言します。 「心を開くと、考え方、発想が、やわらかく、しなやかになります」と。雲出本無心 雲出ずる本より無心(むしん) p257/9.11 (湧き出でた雲はただ悠然としている。何の抵抗もなく風任せに自由に漂う) とらわれずに、「流れにまかせることです。すると、気持ちが軽くなり、自由に なります」と、著者は助言します。とらわれの心、こだわりの心を捨てよと。臥月眠雲悠然 月に臥(ふ)し雲に眠って悠然(ゆうぜん)たり p280/9.19 (月を枕に臥し、雲を布団にして眠れば、ゆったりと落ち着いた世界が広がる) 悠々自適の生活は「自分が夢中になれることを見つけ、こころからそれを楽しむ」 ところから広がると著者は説いています。「楽しむ心」がキーワードなのです。山雲海月 山雲(さんうん)海月(かいげつ) p281/9.20 (山ニは雲がかかり、海には月が浮かぶ。それはあるがままの姿のあらわれ) 五感を全開して自然、景色を感じなさいと著者は勧めています。 五感を全開して体感することが絶対的真理に気づくことになるのだと。横身臥白雲 身を横たえて白雲に臥(ふ)す p299/10.8 (身を横たえて、白雲に包まれて臥す) これは「自由無礙の境地」を表現しているそうです。その対極は<こだわり>です。 その根源はいまではスマホと著者は言い、「時にはスマホを手放し情報を遮断する」 ことを薦めています。臥月詠花眠雲 月に臥して花を詠じ雲に眠る p301/10.10 (月光を浴びて横たわり、花を愛でて歌を読み、雲をまとって眠る) 花鳥風月、自然への回帰を体験することを著者は薦めています。心を解き放ち、 命をリフレッシュしてごらんなさいと。終日看山又看雲 終日山を看(み)又(また)雲を看る p360/12.8 (終日、ただ山を見て、または雲を見て、過ごす) 「何もしなくても、心が満たされている。自然と一体になった自分が感じられる、 ということ」そんな心もちで、山や雲を見ている心境を意味しています。 そんな満ち足りた境地のひとときをもちましょうという著者のお薦め。雲花驚歳晩 雲花歳の晩(おそ)きに驚く p371/12.19 (ちぎれ雲<雲花>を見て、年の瀬が押し迫っていることに驚ろく) 気持ちが急くのは、考える脳、判断する脳が活性化している時だそうです。 そんな時は、脳のスィッチを「感じる脳」を働かせる方に切り替えると良いとか。 ボーっと景色を眺めたり、心地よい音楽を聴くなどの時間をもちなさいと。 それが「気持ちを落ち着かせ、心を穏やかにする」と著者は薦めています。雲掃長空巣月鶴 雲長空(ちょうくう)を掃(はら)って月に巣くう鶴寒清入骨不成眠 寒清(かんせい)骨に入って睡り成らず p381/12.29 (厳寒の空には雲一つ無く、月が輝き、巣の鶴は 寒さが骨髄に染み入り、眠ることができない ) この凜として寒さに耐える鶴の姿は、高潔さを象徴しているそうです。 「人生には、絶えるしかない状況もあるのです。そこで・・・・絶えきってみせる」 「絶えきる姿が、高潔さをまとう」と著者は語っています。 そして、「和らがない寒さも、明けない夜もないのです」と。 この本には、「行雲流水」(p100)、「雲無心出岫」(p189)、「白雲抱幽石」(p205)、「白雲自去来」(p217)、「万里無片雲」(p275)も採録されていますが、以前の雲がたりでご紹介していますので省略します。「禅語」に絡む雲がたりは、この辺りで一旦、一区切りと致します。再び、雲の変化に戻ります。=== 2023.5.16 === 10時35分頃に撮った南の空です。空は快晴!南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東の稜線上の空は、いつものように靄っています。 東方向の空14時40分頃には、稜線上空もまた雲のない青空一色に変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の姿は見られませんでしたが、快晴の良き一日でした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.21
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