2021年08月19日
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十一)春の兆し「哀しき夕陽、作者 能瀬敏夫」より

 シベリアの冬も漸く峠を越えようとする頃、私は激しい発熱に侵された。特に風邪の症状があるでもなく、気分が特に悪いわけでもない。強いて云えば何か動悸が何時もに比べて異常かな、と思う程度である。
 所内の一角に小さな医務室があって、そこには元衛生准尉が一人だけ特別に作業を免除されて、医者ともつかず、看護兵ともつかず毎日患者の処理に当たっていた。
 だから、この医務室の診断治療は殆どこの准尉が任されているのだが、その結果の判定は、毎日午後から出勤する美人の独身女医がその報告を受けて判断し、明日からの労働の可否も、彼女が決定すると言う具合であった。
「兎に角当分入室した方がいいですよ」
 と、顔色の腫れぼったく白い、この准尉の薦めで入室することになった。
 入室とは云っても、六畳間くらいの洋室に、満州から持ち込んだらしい鉄のベッドが二つあるだけで、ペチカを境にその隣りの部屋が診断兼治療の室になっている。
 食欲も普通で、熱だけが急激に上がる不思議な症状に、准尉は勿論、経験の乏しい女医もほとほと困り果てて、時々顔を出しては額に手を当てて、もっともらしく顔をしかめたりしてくれる。
 入室して二日目になると、一日目には夢中でまるで感じなかった微妙な変化が私の中に現れ、この独身女医の、女性としての、女性としてのほのぼのとした部分が見えるような気がしてきた。
「この際思い切って入院した方がいいですよ」と、准尉が薦めてくれた。
「ここでは原因が判ってもどうしようもない、今のうちに入院したほうが、いざと言うとき処置のしようがあると言うもんです」
 たしかに送かもしれない。
「それに病院には、日本人の軍医や看護婦もいるそうですから安心です。私から頼んであげますよ」と云う。
 なるほど今は熱だけの問題だが、本当に熱だけの問題なのだろうか  それが何よりも不安であった。一方漸く作業にも慣れ始めて、みんなが心を合わせて働いている、その中から私だけが抜けるのも辛かった。
 しかし、これが何かの病気に関連のある熱だとすればどうだろう。哈璽浜で夜毎提灯に先導されて暗いグランドに運ばれ、埋められた多くの人々の、哀しい情景が脳裏に浮かんだ。今日まで私についてきてくれた連中には申し訳ないが、兎に角原因を追究するためにも入院しようと決意した。
 翌朝、准尉の少々大げさな説明に、女医は心配そうに顔を出した。女医は、私のベッドの足元で、寝ている私の顔をカルテと見比べながら准尉の説明を聞いている。その女医の下半身の温もりが丁度私の足元に触れて、微かに左右に揺れているのに気がついた。
 その微かな動きが一瞬止まり
「よろしい、入院させましょう」と、改めて私の顔をのぞき見る女医の目の美しさに、私は思わず目をそらして
「スパシーボ」( 有難う)
 と、毛布の下から手を出した。彼女はその湿った手を握り、両手で包むようにして軽く片目をつぶった。
 私は早速その夜、若いカーボーイ( 歩哨) 
と二人、何処とも知れぬ病院に向けて出発することになった。
着のみ着のままだから実に簡単だ。ただみんなと別れるのが流石に辛く、それに、そうと決まれば、もう一日二日はこの医務室で過ごしてみたい気持ちも無いではなかった。、
作業から戻ったばかりのみんなを前にして
「みんなも身体に気をつけろよ、あとのことは井上に頼むからな」と、今後の指揮を井上に頼んだ。
 そんな私をトラックに押し上げて藤根が言った。
「親父 けっぱれよ」
「生きてれば又会えるっちゃぁ」
 トラックの上から見下ろすと、そんな藤根の禿げ上がった大きな頭が如何にも寂しそうだった。そして、見送るみんなの集団の後方で、医務室の入口に立った准尉と、女医の白衣姿がぼんやりと見え、その後ろいっぱいに広がった荘漠たる大地が、一層私の心を寒くした。
病院行きは汽車だと利いていたのに、着いたところは私が入ソ第一歩を印したオぶブルチア第一収容所であった。
ここの医務室に入り、とりあえず休息をして、新たな指示により入院ということになるらしい。
此処の医務室は、第二分所の医務室よりは遥かに大きく、毎日十名前後の患者が居るらしく、薬瓶や器具の戸棚も並び、一応医務室らしい形態を整えていた。そして川崎と言う若い軍医が、二、三名の助手と共に診断治療を担当していた。
川崎軍医は、実に陽気な青年医師で、大学を出てインターンとしての勤務をする間もなく戦場に借り出されたらしく、そのままシベリアまで来てしまったというのが本音らしい。
彼は若くて陽気だが、その発想がユニークな上、自信に溢れた治療をするので、ソ連の軍医には絶大な信頼があるらしく、自分の女房が病気だからといって、わざわざこの若い日本人軍医をジープを飛ばして迎えに来る。その本人がれっきとした内科医であったりする。
子供が病気だといってはお迎えが来る。知り合いの将校の家族を診てほしい、と言ってくる。
その都度彼は、彼らしい独特の治療法でみんなを煙に巻くのだが、ソ連人の間では正に神がかり的な存在になっているらしい。
彼の実際の医学的経験は乏しいはずだが、それを上回る何かがあり、それがある種の治療となり、人の心をつかむ。いわばそれは彼の身体中から発散する、持って生まれた真理的な治療法なのかもしれない。
私が思うに、決して優秀な医師ではないが、患者にとっては本当に頼り甲斐のある有難い医師に見えるのに相違ない。
たこつぼのような小さなガラス玉を、背中いっぱい貼り付けるのは、この国の昔からの万病の治療法のようだが、玉中の酸素をローソクの火で燃焼すると、ガラスの玉はビタリと身体に張り付いて、みるみる紫の血液が充血する。それを背中に五つも六つも貼り付けて各々ベッドにうつぶせになる。
彼はこの患者に張り付いたガラス玉を、ほそい棒でピンカンと叩きながらでたらめな音楽を演奏し、室中を面白おかしく踊り歌う。
その彼の怪しげな演奏が終わったところで、今日の治療は終わりとなるのだが、胸膜患者も外傷患者も、共に両肩をゆすり、首を回して、「あぁ、随分楽になった」等と満足するのである。
カルシュームの注射は急がず遅れず注入するのが原則だが、彼はぷすりと針を刺すと、眼鏡をずり上げながら、とうとうと追分節を唄い出す。そのあまり上手ではない追分の一節を、歌い終わった瞬間と、注射液の最後の一滴とが、ピタリと一致するから不思議である。
そしてそのピッタリと息のあった操作に、ソ連の軍医は唯々驚嘆するのである。
私がこの医務室を去ることになったのは、それから一週間程後のことであった。彼は珍しく真面目な顔で、
「もう大丈夫かも知れないが、折角ここまで来たんだから病院まで行きなさいよ」と、言う。
「行きたくて行ける処じゃないし、何事も経験ですよ」と、薦めてくれた。
 なるほど、ここに来てからは、熱は急激に下がり平熱になってしまい、その後の一週間も一度も発熱しないのだから、完全に健康体に戻ったと判断してもよいのかも知れない。
「いいじゃないですか、大丈夫僕の方から美味く言っておきますよ」と、彼は言う。
 翌日医務室の前の広場にはトラックが横付けになり、同行する若い歩哨が待っていた。
 もう病気ではない自分なので、何となくうしろめたい気分だが、医師の励ましを受けて手を振り、この収容所を後にした。
 二十分もすると駅に着いた。駅には人がまばらで、赤いリボンに飾られたレーニンとスターリンの写真が、周囲の雰囲気とはかけ離れた華々しさで掲げられていた。


(シベリアへの抑留、極寒の地での凍土と病いとの戦い。生き抜いた者達へ渡された
「帰国の途」という切符とは・・・チチハル陸軍病院経理勤務、そして終戦。ハルピン
への移動・・・、病院開設・・・。傷病兵、難民で施設はあふれ、修羅場と化した。
「哀しき夕陽、原作 能瀬敏夫」)

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最終更新日  2021年08月19日 13時33分36秒
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