秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2020.11.12
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Wikipediaでムード歌謡を調べていたら思い出した曲です。

ムード歌謡は一時は古臭い印象を覚えましたが、いま改めて聴くと新鮮で心にしみます。

三條正人さんの歌の「古代の文字よー」という部分、ラブユー東京の「シャボン玉のようなー」という部分が好きでした。男の色気を感じます。

併せて三條さんの奥さんの香山美子さんの番組もご紹介します。







■参考リンク
Wikipedia:小樽のひとよ
「小樽のひとよ」(おたるのひとよ)は、鶴岡雅義と東京ロマンチカの楽曲で、デビューシングルである。1967年9月25日に発売。累計売上は150万枚を超えた[1]。
解説
作詞は池田充男、作曲はリーダーの鶴岡雅義である。北海道・小樽のご当地ソングでもある。ボーカルは三条正人であった。なお発売当初は大海晴彦の「花園町哀歌」との両A面扱いであった。
曲は公演先の釧路で地元の女性と恋仲となった「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」メンバーの実体験を元に鶴岡がまず曲を書き[2]、以前にも鶴岡の曲に詞を付けたことのあった池田に作詞を依頼した。池田は曲の舞台を自らもよく知る小樽に変更することを提案[3]、鶴岡から聞いた体験談も盛り込み「電話で愛を」という曲名で詞を書いたが、鶴岡がパンチ不足であるとして、池田に新たに作詞を依頼。そこでできたのは「粉雪のラブレター」という曲であった[1]。
しかし、小樽市サイドから「もっと観光PRを」との要請を受け、随所に地名などを織り込んだ歌詞に変更し、「小樽のひとよ」に改題したものである。曲名は、北島三郎の「女シリーズ」を参考に、「女」を平仮名の「ひと」にして「よ」をつけたものである[1]。レコードジャケットの制作は小樽のデザイナーである藤森茂男に依頼され、藤森がデート中にバーで喫煙する妻を描いたスケッチがジャケットに使われた[4]。
オリコンチャートにおいては、1968年5月にトップ10に初登場した。
1969年に東映制作、NET(現・テレビ朝日)系で放送されたテレビドラマ『霧のロマン 小樽の女』の主題歌にもなった。一方、北海道以外では、「粉雪のラブレター」もほぼ同時期にシングル発売されたが、こちらはヒットしなかった[1]。

Wikipedia:ラブユー東京
ラブユー東京(ラブユーとうきょう)は、1966年に発売された黒沢明とロス・プリモスのシングルである。規格品番はCW-460。
解説
この曲は黒沢明とロス・プリモスの代表曲とされる。
ロス・プリモスがビクターからクラウンへ移籍した後、初めて吹き込んだ曲[1]。
初回出荷はわずか1000枚に留まった[2]。発売当初のA面曲は「涙とともに」であった。実際、当時のロス・プリモスは自身のテーマ曲として「涙とともに」を歌うことが多かった[2]。しかし発売から半年後、山梨県甲府市のホステスの間で「ラブユー東京」が話題になり[2]、また作曲した中川博之と友人で後に推理作家としてデビューする内田康夫が制作に係わった深夜ラジオで連夜「ラブユー東京」を流し[2]、次第に知名度が上がる。
ロス・プリモスは自らキャバレーやレコード店を回って18万枚もの歌詞カードを配布し、プロモーションに務めた[1]。
1967年7月、同品番でジャケットデザインを差し替え、「ラブユー東京」がA面曲に昇格する[2]。旧版ジャケットは2色刷りのロス・プリモスのメンバーの写真が使用されており、新版ジャケットはカラー印刷の夜景と女性の写真が使用されている。
A面/B面入れ替え・ジャケット差し替え前のレコードの売上は累計で4〜5万枚程度であったが[1]、有線放送から人気になり[1]、1967年9月からは毎日1万枚、ピーク時には1日に3万枚も売れた[1]。1967年12月17日から4日間、日劇で「ラブユー東京」の100万枚突破記念ショーが開催された[1]。オリコンチャートが正式に発表されて以後の同チャート圏内でのセールスでは30万枚そこそこだが、実際には1967年の段階で既にヒットしている。

Wikipedia:ムード歌謡
ムード歌謡(ムードかよう)は、第二次世界大戦後、特に1952年(昭和27年)の連合国の占領軍の撤退以降の日本で独自に発達したポピュラー音楽のスタイル、ジャンルの一つである。広義では歌謡曲に含まれ、コーラスを主体としたものをムードコーラスと呼ぶことがある。
来歴・特徴
ハワイアン、ジャズ、ラテンをベースにした歌謡曲であり、いずれもダンサブルな音楽である。
1950年代(昭和20年代後半)、主に連合国の占領軍(の中でも主にアメリカ軍)を相手に活動していた歌手やバンドが、東京の銀座や赤坂のナイトクラブに移り、客の要望に応じてムードのあるダンス音楽を演奏し始めたのが、「ムード歌謡」の始まりといわれる。
もともとこの当時に流行していたハワイアン音楽のバンドや進駐軍相手にジャズを歌っていた歌手が中心となり、スティール・ギター、ファルセットといったハワイアン音楽の特徴や半音進行を織り交ぜたジャズ音楽のテイストは、そのままムード歌謡にも引き継がれた。第一人者といわれるフランク永井や和田弘とマヒナスターズ、松尾和子らの人気とともにムード歌謡は流行、レコードデビューするバンドや歌手も増加し、1960年代には一大ジャンルを形成した。
日本語による歌詞は、独特の世界観を持っている。楽曲の演奏されるステージであった「ナイトクラブ」や酒場が存在した歓楽街や繁華街を舞台にしたものが多く生まれ、銀座や赤坂のほか、横浜の伊勢佐木町、札幌のすすきのや中の島、大阪の御堂筋や宗右衛門町、岐阜の柳ヶ瀬、神戸の新開地や福原、長崎の思案橋等の「盛り場」の地名や、それらを有する札幌、東京、岐阜、大阪、神戸、長崎等、都市名を冠した楽曲タイトルをもった。これら地名は、「ムード」を表現する要素となり、とくに地方都市を舞台としたものは、のちに「ご当地ソング」とも呼ばれた。
また、歌詞世界の描く時間帯はおもに「夜」であり、繁華街のある「港」や別れの舞台である「空港」をも描いた。男性ヴォーカルを有するグループが多い反面、女性の視点から女言葉で書かれた歌詞も多く、女性歌手をゲストに迎えた楽曲もつくられた。
俳優の石原裕次郎が歌手としても活躍し、ムード歌謡のヒット曲を連発した。1950年代 - 1960年代(昭和30年代 - 昭和40年代前半)には、特に演奏スタイルの定義にこだわらなければ、ムード歌謡こそが歌謡曲の本流だったといえる[要出典]。森進一・五木ひろし・八代亜紀といったのちの演歌界の大御所も、デビュー当時はムード歌謡色が濃かった[要出典]。大相撲の増位山太志郎は、『そんな女のひとりごと』などのヒットを飛ばしている。
1970年代(昭和40年代後半)から、伝統的な大人の社交場としてのナイトクラブやキャバレーの文化が衰退していく。それにあわせて、ムード歌謡の描く歌詞世界はどこか非現実的で古くさいものと感じられるようになる。また、演歌と愛好者層が重なることから演歌と混同されて捉えられる事も多くなる。上記の森、五木、八代だけでなく、ジャズに憧れてプロ入りし、この分野の第一人者でもあった前川清も、ソロ転向後は演歌歌手として扱われるケースが多くなってきた。同時期には、一方でフォークソングなどニューミュージックなどの台頭もあり、ムード歌謡は徐々に衰退していったが、1970年代後半(昭和50年代)にカラオケスナックが流行、時代に合わせたスタイルでヒットを飛ばす例もあった[要出典]。
現在の「ムード歌謡」はポップス色の強い楽曲はシティ・ポップスと呼ばれ、旧来の「ムード歌謡」、および演歌ポップスやニューアダルトミュージックの一部を指すジャンル用語となっている。





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Last updated  2022.06.08 08:23:38


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