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脱退手当金を請求していたのは、40年代に挺身隊として三菱重工業名古屋航空機製作所道徳工場(名古屋市南区)で従事していた8人。支援者らによると、戦争中に亡くなって年金加入期間が短い1人を除く7人は今年9月、44年10月~45年8月の11カ月間、年金に加入していたと認定された。12月半ばには、脱退手当金として銀行口座などに1人99円が振り込まれたという。
社保庁年金保険課によると、脱退手当金は厚生年金保険法に定められたもので、年金の受給期間に至らずに会社をやめた人が、厚生年金を脱退する際に支払われる一時金。86年に廃止されたものの、41年4月1日以前に生まれ、一定期間、掛け金を支払った人は今も受け取れる。その金額は、給与の平均額などから算出され、貨幣価値の変化などは考慮されないという。
今回の認定・算定は、愛知社会保険事務局が担当した。7人の給与記録が存在しないため、同じ工場の日本人例といった関連の資料探しなどで時間がかかったが、当時の給与体系や加入期間などから99円に決定したという。
だまされ、待たされ、あげく
韓国・光州市の梁錦徳(ヤンクムトク)さん(78)が厚生労働省からの国庫金振込通知書を受け取ったのは12月半ば。金額欄には99円とあった。「だまされて徴用され、償いも長い間、待たされた。あげく、この結果。くやしい」と涙ぐんだ。
韓国が日本の支配下だった1931年、朝鮮半島南西部の農家に生まれた。6人きょうだいの末っ子。教師を夢見たが、勉強を続けられるほど生家は豊かではなかった。「日本で働けば家が建つほどのお金がもらえ、学校にも通える」。そう教師から聞いたのは、6年生のときだ。間もなく日本へ渡り、名古屋の三菱重工業で働き始めた。「朝鮮女子勤労挺身(ていしん)隊」だった。
賄い付きの寮住まいで、朝から晩まで働いたことは覚えているが、給料をもらった記憶はない。会社に問い合わせるたび、「年金や貯金にしているから安心しなさい」と言われた。
終戦を迎え、故郷へ帰ると、いわれなき中傷を浴びた。挺身隊は「慰安婦」と混同されていた。日本にいたことをひた隠す暮らしが続いた。21歳で結婚。光州市に移り3児の母になった。ところが、数年後、夫は家を出た。日本にいたことを耳にして、やはり誤解したためだった。食べ物をもらい、飢えをしのがねばならない日も多かった。
支援者らの協力などで98年5月、日本名だった「梁川金子」の年金記録を確認し、脱退手当金を請求した。しかし、社会保険庁は「掛け金は2カ月分のみ」として支払いを拒否した。あきらめずに再交渉したところ、当時の日本人同僚の記録などから主張が認められ、今年10月5日には年金手帳も交付された。申請から11年が過ぎていた。
今も暮らし向きは厳しく、脱退手当金に期待していた。「まさか、物ごいをしてももらえるような金額とは……。馬鹿にされた思い。65年間の苦労を換算してほしい」
戦後補償に詳しい内海愛子・早稲田大学大学院客員教授(日本アジア関係論)の話
年金の脱退手当金は、本来、戦時に動員された人たちが帰国する際に支払われなくてはならないものだ。それを戦後ここまで放置してきた以上、当時の金額のまま払えば、受け取った側が納得しないのは当然で、国や会社は誠意をもって向き合うべきだ。韓国併合から来年で100年。軍事郵便貯金をはじめ、戦後処理の諸問題を立法などで最終解決しなくてはならない時にきている。 (三橋麻子、青瀬健)
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