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<本田祐典記者>
太田さんは事件が起きた7月26日早朝、知人からの電話で起こされました。自宅近くの「県立津久井やまゆり園」の前には、すでに報道陣が詰めかけていました。「元職員です」と園内に入り、ボランティアを申し出ました。
園内の体育館に案内されると、男性入所者がパジャマ姿のままで50~60人ほど集まっていました。
「職員時代にかかわった入所者も6、7人いました。でも、園に居るはずなのに姿が見えない入所者が何人かいました。いま考えると、亡くなった人は事件現場に残され、負傷した人は搬送されていたんですね」
体育館には、無事だった入所者に寄り添う家族もいる一方、厳しい表情で体育館の横を通り過ぎていく家族の姿も・・・。
「居合わせた人から、私がよく知る入所者が亡くなったようだ、と聞かされました。なぜ、彼らの人生がこんな形で終わらなければならないのか」と悔しさをにじませます。
事件後、太田さんは再び衝撃を受けました。植松聖容疑者の「障害者は不幸しかつくらない」という発言に共感する声がインターネット上にあったからです。
「容疑者の動機を論じるだけでは解決にならない。弱い立場の人を排除するようなことが、ぽつぽつと出てくる風潮が危険です」
◆差別解消へ続けた努力
太田さんが神奈川県職員に採用され、園に赴任してきたのは1968年。園設立から4年後のことです。
職員時代、入所者や家族がうけた差別を肌身に感じてきました。
-家族から「嫁のおまえの血が悪いから、こんな子が生まれた」となじられた母親が、子どもを背負って線路に飛び込もうとしていた。
-園で亡くなった入所者の葬儀を親族がこばみ、ひつぎを引き取らないこともあった。
「 本来は、障害があっても地元で暮らせる環境が整っている方がいい。 そういう地域社会になっていれば、遠い入所施設に来る必要はない。でも、まだまだそうなっていない」
太田さんは、「せめて、園のある地域を入所者にとって住みやすくしよう」「自分は入所者とかかわり続けよう」と心に決めました。そのため2004年3月の定年退職まで36年間、転勤や昇進を拒否し、園で働き続けました。園から徒歩5分の場所に家を建て、現在もそこで暮らしています。
園の周辺では、障害に対する理解が少しずつ広がりました。県が園建設の交換条件とした職員の地元雇用や、食材・日用品の地元調達も大きな力になりました。住民らが園に直接かかわることで、人権や福祉を学んでいったからです。
◆園のあり方、議論深めて
今回の事件は、それらの努力を打ち砕くような衝撃を与えました。事件を受けて、園をどのように存続するのかが大きな課題です。
神奈川県は、施設の建て替えか大規模改修によって園を「再生」する方針を15日に示しました。
太田さんは「施設だけでなく、運営の在り方も含めてみんなで考えるべきだ」と指摘します。県が進めた経費削減で、園の在り方が以前と変わった、と感じているからです。
県は05年に職員らの反対を押し切り、園の運営を民間法人に委ねる指定管理者制度を導入しました。職員が入れ替わり、パートなど一部職員の給与は最低賃金すれすれに下がりました。食事の調理が外部委託されて、食材などを地元調達する約束も、ほごにされました。
「国や県が福祉に効率や採算性を持ち込んだことが、障害者をじゃまもの扱いする一部の風潮に拍車をかけているのではないのか。福祉施設は、障害者と健常者がともに生きる『共生社会』を進めるようなメッセージを発信すべきだ」
指定管理者制度の導入に反対した太田さん。退職後、園とのかかわりに消極的になりました。いま、そのことを後悔しています。
「傍観するのではなく、今度は地域の側から園にかかわりたい。 弱者を排除する風潮を止めるためには、みんなで手をつないで前へ進んでいくしかない と思うからです」
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