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2016年10月17日
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テーマ: ニュース(100341)
カテゴリ: ニュース
 この夏に永眠したジャーナリストのむのたけじ氏について、ルポライターの鎌田慧氏は、8月23日の東京新聞コラムに次のように書いている;




 とっさに思い浮かんだのは5月3日、東京湾岸の有明防災公園。仮設舞台に車イスで登場、マイクを握った右手を振りまわしている雄姿だった。

 「憲法9条が平和の武器だ」と語った。その大音声はマイクがなくとも、会場を埋めた5万のこころの隅々にまで届いているようだった。

 その日は自宅のあるさいたま市から、大策さんが混雑を避け、車イスを押して電車でやってきた。帰りもだったから、無理をお願いしたわたしは不安だった。案の定、体調を崩されてお茶の水の病院に入院、回復することなく、他界された。

 集会のあと、故郷秋田県横手市で、旧制中学の恩師、石坂洋次郎の没後30年の集いに出席するのを楽しみにしていた。石坂さんにはかわいがられた、とむのさんは少年のような笑顔になった。

 「憲法を守れ」は5月3日大集会での101歳のアピールだった。敗戦を迎えたあと、大本営発表を記事にしていた自分を恥じ、朝日新聞を退社。帰郷してローカル紙「たいまつ」を創刊し、反戦を訴えつづけた。

 9条破壊が叫ばれ、たいまつは一段と輝く。相手に負けない考えをつくれ。むのたけじの遺言である。
(ルポライター)


2016年8月23日 東京新聞朝刊 11版S 27ページ「101歳 反戦の遺言」から引用

 作家の石坂洋次郎は、旧制横手中学に勤務する前に横手女学校に勤務したことがあり、私の伯母はその時の教え子で、戦後売れっ子の作家になってからも、教え子たちがクラス会の連絡をすると、気さくに出席してくれると喜んでいたものでした。旧制横手中学は、戦後県立横手高等学校となって、1966年から3年間、私もそこで学びました。当時の高校はたいてい部活で「社研」というのがあって、私の記憶も定かではありませんが、正式名は「社会科研究会」だったか、まさか「社会主義研究会」ではなかったと思いますが、私もそういうグループにいて、たまたま、むのたけじ氏が横手高校の近くに住んでいたので、放課後に裏山で開いたミーティングに参加していただいて、「生徒会の自治」みたいな話題で討論したような記憶があります。その時の雑談で、誰かが「文化祭に石坂洋次郎先生にきてもらって講演していただくのは、どうだろうか」という発言をしたとき、むの氏は「さあ、それはどうかな。横手の人たちは、小説を発表し始めてからの石坂先生には、あまり好意的じゃなかったからねぇ」と言ったのを、何故か私は記憶しております。それから2~30年たって、新聞に石坂洋次郎氏の訃報が新聞に出て「横手高校で記念講演中に倒れた」と書いてありました。それを読んで、私は何十年も前のむの氏の「さあ、それはどうかな」との発言を思い出し、そうか、石坂洋次郎氏は過去の恩讐を超えて、横手市民に何かを語ろうとしたんだなと思ったものでした。









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最終更新日  2016年10月17日 18時13分21秒


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