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「相対的貧困」という概念への無理解と、過剰な自己責任論が騒動の背景にある と指摘する。
日本社会が貧困の存在にようやく気づくようになったのはリーマン・ショック後の2008年末に日比谷派遣村が生まれ、反貧困ネットワーク等の取り組みが知られるようになってからだろう。それから8年たった現在、 無関心はむしろ攻撃へと転化 してしまったようである。
自分が生きていく生活空間のなかで他者の貧困を目の当たりにすれば、私たちば手を差し伸べる。そうした倫理性をわたしたちの誰もが持っているはずだが、貧困が「捏造(ねつぞう)」されたものであるなら話は別になる。助けるべき「正しい」困窮者と、資格がないにもかかわらず助けてと叫ぶ「正しくない」困窮者とに分け、後者を激しく叩(たた)くのだ。こうしたヘイトの心理は生活保護バッシングにおいても、相模原障害者殺傷事件でも共通して見られる。だからこそ 政治家の役割は、貧困問題を正しく理解し、ヘイトに毅然(きぜん)と闘うことにある が、片山さつき議員はやらせ報道ではないかとNHKに問い合わせる旨をツイー卜したという。 政治家がヘイトを煽(あお)り、社会の亀裂を利用する状況を社会の側が止めなくてはならない事態となっている。
東京新聞は貧困問題に迫る良記事が多いが、なぜそれでもなお相対的貧困への理解は深まらないのだろうか。「記者の眼」(9月6日)で木原育子記者が言うように、 低所得者の投票率が低いことが貧困と政治の距離を広げている。 同時に社会からの無関心を解決しなければ、その距離は縮まらないだろう。
だからこそ、無関心と闘う市井の人々の取り組みをもっと報道してほしい。「貧困高校生」報道問題を受けて若者グループのエキタスが8月27日に新宿で主催した貧困叩きに抗議するデモは記事にすべきだった。当事者が勇気を持って上げた声をわたしたちが聞くことができるのは、メディアが取り上げた時だからだ。
外国人との共生 に関しては、池袋の公園での日中おしゃべり交流(8月12日)や埼玉県川口市の団地での共生の試み(8月22日)が希望を感じさせた。琉球新報を転載する「辺野古・高江リポート」も沖縄と本土との隙間を埋める貴重な情報源だ。 裂けていく社会の綱目をつなぎ直す仕事 を東京新聞には今後も期待したい。
(上智大学法学部教授)
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