全698件 (698件中 151-200件目)
2リットルの酒呑んだけど、2リットルの涙が出た・・・ 壬生義士伝 中井喜一より渡辺謙のほうがよかったでがんす。その時は10リットルの涙、流すたっす・・・ んで額田ちゃん。万葉集に額田ちゃんと天武天皇の第6子、弓削皇子との相聞歌があるんです。pleさんも同じ疑問を持たれたんだけど、どうもこいつが不思議なんです。 え?弓削皇子、知らない?・・・・うーんとね、まず読み方はユゲノミコ。あの壁画の保存で最近も有名になった高松塚古墳の被葬者じゃないかって言われてるんです。でね、発掘された時に話題になったんだけど、棺の中の被葬者、首なしだったんです・・・・きゃー!壁画ばっかり有名になっちゃったけど、その壁画も一部意図的に削られたあとがあったり・・・実に不可解な古墳なんです。その不可解な古墳の被葬者じゃないかって言われてる弓削皇子・・・・額田ちゃんは彼と歌のやりとりをしてたんです。 弓削が持統天皇と吉野に行った時の歌古(いにしえ)に 恋ふる鳥かも弓弦葉(ゆづるは)は御井の上より 鳴き渡り行く額田ちゃん、答えて曰く古(いにしえ)に 恋ふらん鳥はほととぎすけだしや鳴きし わが念(も)へるごと素盞嗚氏の超訳♪「昔を恋慕ってる鳥かなぁ・・・ ゆづりはの御井の上を飛んでるのは・・・」「昔を恋慕ってるのはほととぎすでしょう きっと私が昔を想い慕ってるような気持ちで ないたbbでしょうねぇ・・・」情景を想像できる、さすがな歌ですよね♪でもね、これ、不審なんです。まずその1つは、相聞歌っていえば、男と女の好いた晴れたの歌なんだけど、この二人、恐らく30歳ぐらい年が違うんだよね。もちろん額田ちゃんが上ですよ。多分、60歳と30歳ぐらいじゃないかなぁ・・・その2恋って言葉は出てきてるけど、この二人が恋慕ってるのは、いわゆる「人」じゃなくて、「古」なんですよね。要するに、二人の切ない気持ちは人物じゃなくて「過去」と言う「時」を見てるんです。一般的な解釈では、この「古」については亡き天武の時代ってことで落ち着いてるんだけど、そうであれば弓削はわざわざ額田ちゃんに言わなくても同行していた持統に言えばよかったのに・・・そう思うんです。でも弓削は持統じゃなくて額田ちゃんに言った・・・なぜだろう???弓削のいた「ステージ」は「吉野」だ。どうもここに謎が隠されていそうですな。それと素盞嗚氏が注目したのは「ほととぎす」だ。なんで弓削が「鳥」とだけ表現したものを額田ちゃんは「ほととぎす」と断定したんだろう???この2首の言わんとしていることは実に重大だと思う。ある意味では万葉集の編者が意図的に日本書紀に抹殺された真実のヒントを表現したんじゃないか・・・そんな気がするんです。じゃー、この2首は、後世に何を伝えたかったんだろうか?次回、その真相に向かいますぞぉ! 今日、NHKのニュースで「ジャス喫茶」の老舗が閉店!そんなことを言ってました。あたしゃピーンときました。 千草だ! 思った通りでした。横浜は野毛の場末の路地にあるタバコの煙が似合う店・・・・日本中のジャズファンなら知らない人はいないでしょうね。素盞嗚氏も20歳前後、よく日参してました。その「千種」が今週閉店した・・・・ひとつの時代の終焉を感じました・・・ 「千種」よ・・・古き良き時代を懐かしむ、そんな人々の想いはもう野毛じゃー感じられなくなるんだね。でもね、だいじょーぶ!そんなレトロな想いをこいつらが守ってるよ♪ 「WHOTA」 熱い想い、魂のバトン、確かに受け取ったぜ! SEE YOU NEXT TIME
Feb 1, 2007
コメント(9)
いやいや、その地方によって葬儀ってーのは違うモンですなぁ。素盞嗚一家が住む横浜じゃー、初日の夕方に通夜やって、翌日の昼前後に告別式やって、その足で焼き場で焼くんですよね。んでそのあと精進料理喰ってチャンチャン。納骨は1ヶ月ぐらいしてからやるんです。こないだ行った青森ではね、初日にいきなり焼き場で焼いちゃうんです!で、二日目に通夜。だから通夜ではもう遺体がないんですよね。なーんか違和感ありましたね。そんで3日目に告別式やって、そのまま墓に行って納骨なんです。納骨もね、コッチじゃー、骨壷をそのまま墓の下に入れるんだけど、青森は骨壷じゃなくて「骨箱」なんです。しかも納骨する時に骨箱からお骨を出して直接素手でお骨を墓の下に入れるんです!立ち会ってる坊さんが「では近親者の方、お骨を取って埋葬してください」みんなね、当たり前のように素手でお骨を取ってたんだけど、素盞嗚君はどうも抵抗がありました・・・・その後、会食があったんだけど、手ぇ洗ったんかなぁ・・・なーんて思ったりして・・・ それとね、会葬に来てくれた人見てると、みんな喪服を着てるんだけど、長靴の人も随分いるんだよね・・さすが北国、長靴が市民権を持ってるんですな。3日目の最後の会食では親戚を代表して、アタシが献杯の挨拶をしました。いきなり言われたもんで、ちとシドロモドロだったんだけど、ちっと涙ぐんでしまいました。 さーて額田・・・・ううう・・・・呑み過ぎでぷ・・・・また明日書きます・・・・多分・・・・SEE YOU NEXT TIME
Jan 31, 2007
コメント(14)
ただいま戻りましたぁ!愛車ボロボをダマシダマシて爆走1800キロの旅、いぃっぱいお土産もらって帰ってきましたぁ♪え?何もらったかって?へへ♪まずは青森って言えばこれです! リンゴジュース! 10リットルっす。 次、 きのこ・・・・ 実はコイツがすごいんです!4つ年上のイトコが青森で産婦人科やってるんだけど、ヤツの趣味はきのこ取り・・・・病院の診療時間がね、朝は9時から12時、んで午後は3時から6時・・・・なんと昼休みが3時間もあるんです!この休み時間に病院抜け出して山に入ってるそうな・・・「スーちゃんきのこ大好きぃ!」って言ったら、塩漬けのビン詰めを7個もくれました♪それとタケノコのビン詰も3個♪29日にはヤツの実家できのこ鍋パーティもやったんだけど、コイツが旨いのなんの!4種類のきのこに野菜、それとタラ、極めつけは比内地鶏!天然モンのきのこってはじめて喰ったけど、めっちゃくちゃ旨い!ナメコなんてね、椎茸ぐらいデカイんだよね。明日の夜はさっそく素盞嗚一家できのこ鍋、やろうと思ってます。 それとね、青森の津軽半島(西側)に十三湖(ジュウサンコ)って湖があるんだけど、そこ、シジミが有名なんですね。んでそこで取れた大和シジミを2キロ!さっそく今塩抜きしてます。 今回の青森の旅はお土産だけじゃなくて、親戚付き合いの大事さや、地域によっての風習の違いを感じました。それとね、通夜って夜じゃないですか。だから日中時間があったんで、念願の三内丸山遺跡を見に行っちゃったんです♪コイツァ堪りませんでしたゼ! その他にもいろいろ学んできたんで、じっくり書き留めていこうと思ってます。 えー・・・額田ちゃん。・・・明日やります。 SEE YOU NEXT TIME
Jan 30, 2007
コメント(18)
はかないねぇ・・・ついこないだ会ったばかりの青森の叔父貴が今日亡くなった。「今年は弘前に出張がありそうだから 今度はそっちで一杯やろうね♪」そんなこと話してたのに、あの時の叔父貴笑顔が永久の別れになっちまったんだね・・・明日から4日間、青森に行ってきます。 ちょっとだけ額田王のことやっときますね。このオナゴ、古代史に詳しくなくても何となく名前はよく知られてますよね。大体教科書には書いてあるからね。みんなはどんな認識持ってます?素盞嗚氏はね、色っぽくて、賢くて、そんでもって悲劇的で・・・・ 昭和の日本画家、安田靫彦氏の作品だけど、気品があって憂いがあって・・・この絵、好きなんです。 して、この額田ちゃん、ちょっと不思議なんです。彼女は天武の最初の奥さんで、その後天智と再婚しちゃうような相当地位が高かったオナゴなはずなのに日本書紀では彼女の存在をほとんど無視してるんです。かと思うと、万葉集では柿本人麻呂と並んで、中心的な人物として取り上げられている・・・・日本書紀は当時の正史だ。その正史が彼女を無視してるんです。そして万葉集では彼女をクローズアップしている・・・これ、どういうことなんでしょうね?日本書紀は持統と藤原不比等の息がかかった資料だ。その編集姿勢として、額田ちゃんは邪魔だったんだろうね。そして万葉集は、日本書紀によって歪められた真実をなんとか後世に伝えようとした・・・・これがこの2書の資料正確だと思う。 ではなぜ持統と不比等にとって額田ちゃんは邪魔だったのか・・・・ まずは天武の第6子と言われている弓削皇子との相聞歌から考察してみよう。 青森で続きを書けるかわかんないけど、一応PCは持っていきます。 それじゃー、叔父貴を偲んで、青森の旨い酒、呑んできます・・・・SEE YOU NEXT TIME
Jan 26, 2007
コメント(10)
ぶっはーっ!仕事終わったぁ・・・・確定申告のせなアカンし、この時期は忙しいッス。 さて、天武にまんまと担がれた薩夜麻、壬申の乱後、いったいどうなったんでしょうか?素盞嗚氏が想像するに、まず、地元の九州にはいられなかったと思うんです。もしいれば、地元の旧九州王朝派が、この薩夜麻を再び神輿に乗せて新生天武軍と敵対するのが目に見えてますから。だから薩夜麻は大和に送られた・・・では大和のどこか?・・・・ズバリ!・・・・斑鳩だったんじゃないか・・・そう、聖徳太子こと厩戸皇子のいたところですな。 去年、仕事の合間に久しぶりに斑鳩にいったんだけど、法隆寺のすぐそばにある小さな古墳を見てきたんです。名前は有名なんだけど、実際に見に行ってみると、実に貧弱な古墳なんです。その名は、 藤ノ木古墳 副葬品がえらい豪勢だったもんだから、いったい誰の墓なのか、いろんな説がある古墳なんですね。 で、夕方誰もいない静寂の中で一人でこの藤ノ木古墳を見入っていた時にね、何の前触れもなく、頭の中に言葉が流れたんです。 「薩夜麻の墓だ!」 もちろん確証なんかないけど、素盞嗚氏の身体の中に流れる血が言うんですよ。 失意の中、唐から帰国した誇り高き倭国の天子「薩夜麻」を待っていたのは同族の蘇我氏系の天武に利用されることだった。そして祖国である九州に帰ることもできず、静かに斑鳩の地でこの世を去った・・・・その無念の情が、まだ藤ノ木古墳の辺りに漂ってるんですよ・・・ まだこれから調べなきゃいけないことばかりだけど、薩夜麻の無念を晴らすべく、7世紀の謎を追い求めていきますぞ! ちっと、力が入りすぎましたな・・・ えー、この頃のこと調べてると、彼女のことを調べたくなっちゃうんだよね。 額田大王・・・ すこしづつ書いていきます。 うーん、腹減った・・・ぼちぼち帰ります。・・・・ あぁっ! 明日の出張の準備すんの忘れてた!ど、どうすんのよ・・・トホホ・・・・ SEE YOU NEXT TIME
Jan 25, 2007
コメント(15)
難波の仕事人、人呼んで「しゃろ松」さん。111111HIT、ゲットしちゃいました。そんでもっていただきました♪飛騨の甚五郎♪ここんところ、酒にはツイてます。どうも貧乏神と疫病神は消えつつあーる。しゃろはーん、美味しくいただいてま-す♪ さて、壬申の乱の直前に帰国した薩夜麻。なんで帰ってこれたんでしょう???薩夜麻は伝統ある九州倭国の天子だ。彼はタリシヒコ同様、北朝系の隋・唐を中国の天子と認めず、南朝系の正当を自らに求めて「日出づる処の天子」と自認した。そしてその必然として、ついに白村江の戦いに挑んだんです。倭国の伝統にのっとり、自らが先頭に立って・・・・そして大敗北の末に唐の捕虜となったんです。8年の捕虜生活を送り、671年、倭国に帰国。敵国の天子を名乗った人物を唐はなぜ帰国させたんでしょうか?普通に考えると惨殺されるか、よくても一生捕虜生活を強いられると思うんです。唐からしてみれば、薩夜麻を危険人物と見なした場合、絶対に倭国に帰国させることはあり得ないですよね。それを帰国させたんだから、薩夜麻はもう危険じゃない!そう判断したと思わざるを得ない・・・・危険じゃない、ということは倭国自体も薩夜麻を求めていなかったってことですよね。白村江の敗戦からの8年間の間に倭国の情勢は大きく変わったってことだと思うんです。では、どう変わったのか・・・・まずは九州。昨日も書いたように九州では白村江以前から唐・新羅連合軍との戦いに反対してたと考えられる「大分君恵尺」が敗戦後に力を得たと考えられます。一方、第二勢力だった大和では中大兄皇子(天智)がさらに暗躍するも人心を掌握できず、唐の駐留軍責任者の「郭務そう」に愛想をつかされ、変わって「郭務そう」に近づいてきた大海人皇子(天武)に列島の統治を任せ、自らは唐に帰国した・・・・そして九州にいた大分君恵尺も天武についたことから今更薩夜麻が帰国したところで、体制に影響がない。唐はそう判断して薩夜麻を帰国させたんじゃないか・・・素盞嗚氏はそう仮説をたててみました。しかしそうは言っても腐っても元天子だ!その帰国した薩夜麻をまったく無視したとは考えられないッスよね。薩夜麻は当然九州に帰国したはずですから、そのガラを押さえたのは天武・大分君恵尺軍だったと考えられます。天武軍は保守派の薩夜麻勢力をも見方につてけ壬申の乱を迎えたと考えられます。この壬申の乱、稀代の謀略家の鎌足もこの世になく、神輿の天智も世を去り、旧九州倭国勢力をも見方につけた天武・恵尺軍が負けるはずがなかったんですね。 これが真実の壬申の乱だった・・・・ さて、問題はここからッス。いいように利用された薩夜麻のその後・・・・そして何よりも解明しなきゃならないのは、乱に勝利した天武はなぜ、真実の壬申の乱を隠したのか・・・・そしてなぜ九州倭国の歴史を抹殺しようとしたのか・・・・うーん・・・・謎は深まるばかりですなぁ・・・・ そうそう、こないだまとめ買いをしたオールマンブラザース、実は一緒に買ったCDがあるんです。 「めんたんぴん」の「闇を翔る」 70年代の日本の熱いロック魂が伝わるアルバムですな。歌は少々ターヘだけど・・・・ さーて、明日は勝負の会議じゃ、早寝早起きの素盞嗚氏、ボチボチ寝ます。SEE YOU NEXT TIME
Jan 23, 2007
コメント(14)
スーパーバンド「WHOTA」、30周年記念ライブは4月14日!そう予定してたんですが、キーボード「フセインひげのケーロク」さんがいきなり言ってきた!「会場、予約取れんかった・・・」・・・・・別会場にしようかって意見も出たんだけど、なんと言っても30周年記念ライブだ。やっぱり横浜アリーナ内の、ココ「サウンドホール」でやりたい。ちゅーことで已む無く日程変更になりました。5月19日(土)だ!みんなー、都合つけておいでよ♪ さーて、古代史、2週間以上、間が開いちゃったんでちょっと復習です。1.白村江の敗戦後、 倭国には唐軍2000人が駐留していた。2.九州では天子「薩夜麻」の行方がわからなくなり、 大混乱していたと考えられる。3.この期に天智(中大兄皇子)は一気に 大和をまとめ上げようと考えたが、 なかなか人心を掌握できずにいた。4.この混乱に動き出したのが 天武(大海人皇子)だった。5.天武は九州に駐留していた 唐軍の「郭務そう」との会談を成功させた。6.大和に戻った天武は、病床の天智に呼ばれ 吉野に行くことを告げた。7.それを人々は 「虎に翼を付けた」と言った。8.奈良の吉野に行くのを「虎翼」と言うのは どこか違和感がある。9.その後672年、天武は天智のセガレ大友皇子と 戦う(壬申の乱)10.壬申の乱は日本書紀に異常な細かさで 記載されている。11.馬の専門家である三森氏の検証によると 壬申の乱での馬による行軍記事は 非現実的であると証明している。ここまでだ。どうもこの一連の流れを鑑みると、天武が行った「吉野」はどうも奈良の吉野ではないじゃないか・・・・こんな仮説が成り立ちます。では天武が行った吉野とは、いったいどこだったのか?素盞嗚氏はズバリ、九州の吉野ヶ里だったんじゃないかと考えています。万葉集に書かれた天武の意味不明な「吉野の歌」・・・・それと壬申の乱における天武軍の「大分君恵尺」。この男、名前からして九州出身だと思うんですが、白村江の戦いに参戦していたとは思えないんです。しかも「君」と言う称号を持っているので、相当身分が高かった人物だと考えられますね。恐らくこの男は、白村江の戦いに反対して、参戦しなかった・・・・そして唐軍2000人を迎え入れた人物だった・・・・天武が郭務そうと会談した時、天武に協力することを約束し、壬申の乱に、九州から参戦した・・・・ 郭務そうは壬申の乱の直前に帰国してるんです。彼は、「倭国のことはお前(天武)に任せた、天智は大したヤツじゃないから、お前が倭国をうまくまとめろ。 」 それを受けた天武は、一旦大和から九州の吉野ヶ里に来て、大分君恵尺らと合流して、一気に大和に攻めあがった・・・・素盞嗚私見では、天武のオヤジは蘇我氏だ。そして蘇我氏は九州倭国の出身・・・・要するに天武は大和生まれの九州倭国人だ。実家の吉野ヶ里で兵を挙げた・・・・どうもこういうことだったんじゃないかと思ってるんです。かなり強引な仮説だけど、こう考えると、その後の持統天皇の異常なまでの「吉野行き」も理解できます。これについてはいずれ解説する予定です。さて、次なる問題は白村江の戦いで行方不明になってた九州倭国の天子「薩夜麻」だ。彼は壬申の乱の少し前に帰国してるんです。薩夜麻は長らく唐で捕虜だったんですね。問題は薩夜麻は帰国後どうなったのか・・・・これだ。この問題はまったく資料がないんで想像するしかないんだけど、次回はその素盞嗚想像を書いていきます。 ふー、一気に書いちゃいました。そろそろハラが減ってきた・・・・今日はね、年賀にもらった新潟の銘酒、「久保田」ッス♪めったに呑めない高級酒、もったいないんでチビチビやります。それとね、宮城県の濁り酒、「樋の口」♪こいつもいただいたんで、今日はダブルでいきまっせー!むふふ・・・のどゴックン♪SEE YOU NEXT TIME
Jan 21, 2007
コメント(15)
うーん・・・・いろいろいじってみたけど、どーもシックリせん・・・センスないからなぁ・・・ そうそう、昨日ね、お世話になってる葉山の工務店のブログを2つ開設するお手伝いをしてきました。2月にはホンチャンのHPも開設予定なんだけど、ちと先駆けて作ってもらいました。まープレオープンだけど、ブログだけでもご覧くださいませ♪笑壷さん♪ ジュン子ちゃん♪ して、今日はこれからスーパーバンド「WHOTA」の練習!ライブまであと何回練習できるんか・・・こないだ練習の演奏を録音して聴いてみたけど、まだまだお寒い限り・・・・こいつぁ練習あるのみッス。 それと、そろそろ古代史も復帰します。いよいよ7世紀のクライマックス、「壬申の乱からのその後・・・」なーんてテーマを考えてまぷ。 ではでは、SEE YOU NEXT TIME
Jan 19, 2007
コメント(17)
テスト
Jan 18, 2007
コメント(18)
そう言えば今月の7日をもってブログ開設2周年だった・・・もろもろの設定はよくわからんかったんで、一度もいじらなかったけど、ちょいと教えてもらったんで、ちとやってみます。センスの悪い素盞嗚君、さてどんなモンができるやら・・・・ そうそう、今仕事で酔鯨風太氏とある工務店さんのホームページの制作を請け負ってるんだけど、そこでこの楽天ブログを活用する予定なんです。開設したらココにリンク貼るんで見てくらはーい♪なかなかユニークなモンができますぞ。さーて、仕事の合間縫って設定変更にチャレンジやぁ!SEE YOU NEXT TIME
Jan 17, 2007
コメント(22)
14日、我が瀬ケ崎フレンズの4年生大会の準決勝と決勝戦が行われた。エース「だましのリョー」率いる最強の4年生チームだ。笑顔がいいでしょ♪こらー!「ドナルドまつけん」、どこ見てるぅ!(右中) 準決勝は50分ゲームで4回の攻防で終了。主軸の4年生、「だましのリョー」、「泣き虫ユーキ」、「ガチャピンしょーた」、「おっとりハルカ」の活躍で4対0の快勝!しかもノーヒットノーラン!振り逃げが1つあっただけ。三振10個、セカンドゴロ3個とまったく相手を寄せ付けない完勝!この勢いで決勝のエイト戦に臨んだ。 初回、先頭バッターにいきなり振り逃げでピンチ。浮き足立ったキャッチャーの「おっとりハルカ」が3連続パスボールでまさかのノーヒットで1点を献上してしまった・・・・しかし今日の「だましのリョー」のボールのキレは神がかってたんで、急造キャッチャーのはるかを責めることはできない。「取られたら、取り返すんじゃー!」それがフレンズの掟。しかーし、フレンズは2回まで点を取れず、3回にはさらにピンチが・・・・でも今日の「リョー」は凄かった。ピンチになると伸びのあるストレートでバッタバッタと三振の山を築いていった。「どやっ!」ほれぼれしますやろ♪じっと踏ん張った甲斐あって、3回の裏には、相手のミスを見逃さず、同点!さらに「泣き虫ユーキ」のライト前ヒットで逆転だぁ!もう後援会の母達は狂喜乱舞!「マッカチンコーチ」、シャッターチャンスを見逃し、呆然・・・・この写真を撮ったの「アワビコーチ」。最初から狙ってたとしか思えませんな・・・・別名「盗撮コーチ」・・・・京大出身の博士ッス・・・・ 最終回も2アウト3塁のピンチはあったけど、最後のバッターをアウトコース高目のストレートで見事な三振にきってとって、ゲームセット! ・・・・・・ ゆ、優勝しちゃいました。4年生大会とはいえ、連盟の公式戦です。三年半ぶりの優勝ッス♪最後きっちり「礼」をして・・・ おーし、戻って来ーい! この子供達の笑顔が見たくって・・・ い、イカン・・・・思い出したら、また涙が出てきた・・・・ ・・・・・ え?このあとどーしたかって?んなもん、祝勝会に決まってんじゃーないですか♪もちろん、浸かるほど呑みましたワ・・・・ SEE YOU NEXT TIME
Jan 16, 2007
コメント(20)
去年の秋に、デュアンが亡くなってからのオールマンブラザースのアルバムを6枚も買っちゃいました。それからっちゅーもんは、この6枚と一緒に買ったデレクトラックスばっかり聴きまくってたんだけど、今日は久しぶりにフィルモアイーストを聴いてます♪デレクのスライドもえーけど、やっぱデュアンはスゴいわ! えー、ダメ兄貴の続報ッス。ある市会議員の紹介でまる暴専門の凄腕弁護士っちゅーのを紹介してもらいました。最近のヤー公ってーのは弁護士に滅法弱いみたいですな。いろいろ対策聞いて、もうほぼ大丈夫みたいです。ちと残念な気もしますが・・・・ それよりも以前紹介した「呑んべーな刑務所女!」まーたやらかしてくれましたぞ!年末のあいさつに彼女の事務所に行ったんだけど、彼女はお留守・・・・「あれ、K嬢は?」「いや、事故っちゃったんですよ」「マジッ、んで大丈夫なんすか?」「なんでも原チャリで自爆したらしいんですよ」「あちゃー、怪我は?」「肋骨と鎖骨を折ったらしいんです」 「うそー!」 詳しい状況はよくわかんなかったんで、9日に千葉の松戸まで見舞いに行ってきました。どうも病院が苦手な素盞嗚君、しかも状況がわからないんでさらにドキドキ・・・・ 「おぉ、ココやな」 病室は6人部屋。一番奥のベッドに彼女はいた。「あれ~、スーさんどしたの?」いまだ山形弁が抜けないK嬢・・・しかも声がデカい・・・口元が青くアザになってたけど、なんか元気そうだ。ん?先客がいた。年のころは30代前半のイケメン。「あ、彼氏♪」「ども、素盞嗚ッス」狭いベッドの横だったんで、イケメン君は椅子を譲ってくれて、気を利かせてどっかに消えた・・・・落ち着いたところで彼女に状況を聞いてみた。 「それがさー、ぜーんぜん覚えてないんだよねぇ」事故の状況はおろか、22日の事故から10日ほど記憶がないらしい。「なーKちゃん、まーた酒呑んでたんだろ?」「当ったりぃ♪ でも実は呑んでた記憶もないのよぉ あとで娘に聞いたらさぁ、 『お母さん、リビングにカラの一升瓶が転がってたよぉ』 だって!ぎゃはははは! んもー笑わせないでよぉ、 まだ肋骨痛いんだからさぁ くっくっく・・・」 「・・・・」 勝手にしゃべって、勝手に笑って、勝ってに痛がっとる・・・・ 「んで、どうなの?」「先生に聞いたら肋骨グチャグチャだったって、 ぎゃはははは! イテテテテ・・・・ 止めてったらぁ」 「・・・・」 アタシは何もしてましぇん。 「んで、頭は?」「うん、脳挫傷で、くも膜下出血だったって、 ぎゃは・・くっくっく イテテ・・・」 「・・・・・」 この女、いっそのことその時死んでしまえばよかったのに・・・ しかし肋骨グチャグチャで脳挫傷ってメッチャ重症ッスよね。なんでこの女、平気な顔しとるの?しかも「来週あたり退院しちゃおうと思うのよね♪」などど言っておる・・・・山形のナオンは強い・・・ さぁーて、そろそろ一杯やりたくなってきましたゾ。3リットル1080円の「蔵そだち」、熱燗でやりますかね♪ SEE YOU NEXT TIME
Jan 12, 2007
コメント(24)
貧乏神は早いトコ台湾辺りに行ってもらいたいんだけど、どうも背中にへばりついて離れない・・・・あろうことか、貧乏神の背中にもう一人おぶさった・・・ ・・・・・・ 疫病神や・・・ ・・・・・ 義兄が夜逃げした・・・・ 呑む・打つ・買う、三拍子そろった男、ついに借金で首が回んなくなってトンズラ・・・ あんなゴクつぶし、どこで野垂れ死にしようがオイラにゃ関係ないけど、昨日、ついにウチの実家にもヤクザもんから電話がかかってきたぞ!実家には、年末から帰ってきてる「お袋素盞嗚」ひとり。電話で随分脅されたらしい・・・ しかーし! 素盞嗚氏を生んだオナゴだけあってそんじょそこらのババーとは訳が違う!昔は「横須賀ヨーコ」と歌われた遊び人じゃ。いくら脅されても、「はいはい、誰でしたっけ?銀行さんですよね?」などとスッとぼけて対応したと言う・・・・まー、そうは言っても80歳のババーだ。一人にさせておく訳にゃーいかん。ちゅーことで、昨日から素盞嗚氏は再び実家通い。さっきも夜回りしてきました。アタシャ、何かあったら「お袋素盞嗚」を守るために夜回りしとるんですが、嫁素盞嗚や姉素盞嗚は「あんた、 ヤクザもんと鉢合わせになったら 何しでかすかわかんないから、 家でおとなしくしてろ!」そー言われてるんだけど、当の素盞嗚君は、なぜがワクワクしとるんです。・・・・・ 暴れたい・・・・ ヤクザもんだぁ? ・・・・・・ なんぼのモンじゃー! でも現れないんだよね・・・ 電話線も抜いてるんで舌戦もできないし・・・ なんでも姉素盞嗚は今日、凄腕の弁護士に会ったそうな。このまま「チャンチャン」になるのか、ヤクザもんが根性見せて攻めて来んのか?どっちみち今週が山場ですな。 ハン! かかって来んかーい! SEE YOU NEXT TIME
Jan 10, 2007
コメント(26)
今年は「貯金」!そう決めたら、金のかかることばかり起こる・・・愛車ボロボ。まず手始めはルームミラー。高速運転中、ミラーを動かしてたら、 ボキッ! 根元から・・・折れた。(プロジェクトX風) 左のウィンカー、チャカチャカが倍速・・・・しかもカバーが・・・無くなった。 エンジンオイルを入れる管も・・・外れた・・・・オイルが・・・漏れる・・・ ズズズ、ズズ・・・運転中、何かヘンな音がする・・・・前から下を覗いてみた。 ゴトン! 何か・・・落ちた・・・よくわかんないけど、プラスティックのカバーが落ちた。近くのコンビニでガムテープ買って、車の下にもぐりこんで、テープ、ベッタベッタ貼って・・・・ スピードメーターも動かんし・・・ 直すといったいいくらかかるんやろ・・・・ 今年もトホホな滑り出しッス。 貧乏神よぉ、どっか行けぇ! SEE YOU NEXT TIME
Jan 5, 2007
コメント(31)
今年は新潟で雑煮を喰いました。土地土地によって雑煮も違うんですよね。素盞嗚家はお吸い物系の汁。具は鶏肉、ごぼう、人参、大根、椎茸、鳴門、三つ葉。そこに餅を入れて喰う・・・・・実は今年喰ってないんです。新潟の嫁素盞嗚家では味噌汁ベースなんです。具はなんでもかんでも入れちゃうんです。それもまー旨いんだけど、でもやっぱり昔から喰ってる雑煮がいい・・・明日の朝、作るかね♪みんなんちの雑煮はどんなんですか? 壬申の乱、久しぶりに行きます。三森氏の「馬から見た壬申の乱」に面白い検証があるんです。三森氏は古代史の研究者ではあるが、戦時中は「騎兵隊」のメンバーとして大陸を駆け巡っていたという、いわゆる「馬」の専門家なんです。日本書紀には「馬」について27個の記事が書かれていて、日本の記録に残ってる最古の騎馬による戦いといえます。三森氏はこの27の記事と、三浦昇一氏の「葦と弓と馬」、黒岩重吾氏の「天の川の太陽」、直木孝次郎氏の「壬申の乱」から、馬の速力を測定したんです。1.大海人皇子軍本隊 6/24吉野発から26日三重郡家まで。 総計160キロ 39時間 時速約4.1キロ。吉野を出発して間もなく「伊勢の荷駄50匹」に出会って、馬から荷を下ろして、徒歩だったものも乗馬して軍を進めた、と書いてあるんですが、ここで三森氏はこう言っています。「なんでもかんでも馬だったら乗馬できると思ったら 大間違いやど! 乗馬するには鞍や毛綱とかきっちり準備が必要なんじゃ。 駄馬が乗馬になることは絶対なーい!」2.高市皇子軍 24日大津脱出から翌25日積殖山口まで。 60キロ 8時間 時速7キロ強。これについて氏は、「旧陸軍騎兵隊1日の行軍力が60~80キロで、 休みなしでの行軍は無理であーる。 しかも険阻な山道や峠道の多いこの戦では、 8時間ぶっとーしで時速7キロは無理であーる!」この他、大分君恵尺軍、村国男依軍なんかも現実離れした行軍をバッサリ否定してるんです。また古代馬を現在の競走馬のように思ってはいけない。古代馬は身体も小さく体力も今の馬とは随分違うようだ。「40キロぐらいで・・・・ い、いかん・・・・・ソフトの「タオル監督」から連絡が入った・・・・「呑みに行くどぉ!」「は、はい・・・・」 ちゅーことで中断・・・・続きはあとでね。今年もよろしくぅ!SEE YOU NEXT TIME
Jan 4, 2007
コメント(28)
いやぁー、宴会やら、呑み会やら、パーティやら、忘年会やら、晩酌やら・・・そんでもって、大掃除やら♪やっとPCを開くことができました。いろいろあった1年も今日で終わり。あとはK-1を見るだけですな。そうそう、昨日から新潟に来てます。嫁素盞嗚の実家、十日町。無線が入んないんです。ちゅーことで、山を降りて塩沢のモスバーガーに来てます。嫁と子素盞嗚たちは石打でスキー、素盞嗚君はちょっと残した仕事をしてます。みんなー、来年のキーワード、決まりましたか?アタシは「貯金の年」♪タンと仕事して、キッチリ節約して、目標200まんえーん!来年も古代史の謎、やっていきますぞぉ。壬申の乱は来年に持ち越しになっちゃったけど、素盞嗚の暴走はまだまだ続きますぞぉ! ここで一句、年越しの 決意も深く リキ入れて 負けてたまるか 素盞嗚魂 お粗末・・・・ SEE YOU NEXT YEAR♪
Dec 31, 2006
コメント(22)
先日行われた少年ソフトボール連盟の5年生大会は残念ながらベスト4でした。でも来年のシードが取れたんで、タオル監督は上機嫌♪しかも日曜日から始まった4年生大会もベスト4に進んじゃったんで大騒ぎッス。来年の瀬ケ崎フレンズは強いぞ! さて激動の7世紀後半、唐の進駐軍と密約を結んだ大海人(天武)は病に伏していた天智の元を離れて、「吉野」に行ったという。ここから日本書紀では、日記のような細かさで「壬申の乱」を描写してます。その細かさゆえにそこに描かれた内容を疑う研究者は誰もいなかったんです。これは古田武彦氏も言われていることだけど、その細かさが逆に怪しい・・・・そこで疑惑の目を持ってこの「壬申の乱」を再考していきます。まずは「吉野」。実は大海人が吉野に入る前に、同じようなシチュエーションで吉野入りした人物がいます。それは20数年前。次期天皇候補だった古人大兄皇子だ。皇位争いに敗れた古人が出家して吉野に入ってます。そして吉野で殺されちゃいます。当時中大兄が 吉野に向けた軍勢はわずか40数名・・・吉野という場所は周囲を山に囲まれた盆地で、周辺に通じる道は、わずか3~4本の小道しかなかったんです。言ってみれば、吉野とは天然の檻みたいなところなんですね。だから古人大兄が自ら吉野に入ったのは、「もう観念した・・・・」そういう意味なんです。そして同じように大海人も自ら吉野に向かった・・・しかも大海人の吉野入りを人々はこうウワサしたって言うんです。「虎に翼を付けてしまった」と。吉野の地形を考えると、「虎も袋のネズミとなってしまった」そう表現してもいいようなもんじゃないでしょうか。本当に大海人は、奈良の吉野に入ったんだろうか??? 1979年、三森堯司氏の書いた論文、「馬から見た壬申の乱」っちゅーのがあるんですが、この論文から、壬申の乱の真偽を眺めてみたいと思います。 さて来年は稼がねば・・・・子素盞嗚1号が大学に行きたいんだと。しかも私立理系・・・・来年1年で200万円目標じゃー!稼ぐぞぉ!節約するぞぉ!やっぱり安い酒しか呑まないぞぉ・・・・SEE YOU NEXT TIME
Dec 26, 2006
コメント(14)
だらー!いつになったら風呂掃除すんじゃーい!あぁ?週末はソフトで忙しい?いいかげんにせんかーい! や、やりまぷ・・・・い、今やりまぷ・・・・ おらぁ!風呂だけじゃないんやど!年末っちゅーのはな、窓ふきもあるんやし、台所の油も取るんやど! わ、わかっとりますがな・・・・ だったらさっさとやらんかーい! ひえぇーーーー・・・・ っちゅーことで今日はまず風呂掃除しました。マンションってーのはカビが多いんス。・・・・・かーちゃんのためなーらエーンヤコラッ!・・・・・ ねね、こんなモンでどう? ・・・・・・ はんっ! ・・・・ ナメとんのかぁー! きょえー!ゴメンサイ、ゴメンサーイ・・・・・ 今日はイブだっちゅーのにワイコな嫁素盞嗚。 ??? な、なんか悪いことした?心で思ったけど、口には出せない悲しい性・・・・今もこっそりブログってまぷ・・・・ ば、バレたら殺される・・・・・・・・シー・・・・・・ ら、来年もいい年でありますよーに・・・・ ここで一句、 叱られて また叱られて 落ち込んで・・・・ ・・・・・・・ 下の句、募集♪ SEE YOU NEXT TIME
Dec 24, 2006
コメント(31)
今日は子素盞嗚1号の誕生日。17年前、新潟は十日町の病院で初めて産声を上げた瞬間、その声はまだアタシの耳朶に残っとります。初めて見た自分の分身、・・・・「気持ちワル・・・・」そんな子がもう17歳です。今日はJALのマイレージで稼いだ「毛ガニ」2はいが届きました♪はーやく喰いたいじゃーん♪ ちゅーことで昨日の続きッス。時は西暦771年、九州北部、倭の都では唐の占領軍、2000人が闊歩していた。唐の思惑はなんだったのか?当初は大和にいた天智に倭国を治めさせよう、そう思っていたのに、どうも天智にはその能力も人望もなかった。占領軍の大将「郭務そう」が次に考えたこと、それは、大和を見限り、九州倭国の「親唐」派と手を結ぶことだった。一方、大和生まれの倭国人、大海女皇子(天武)は唐と手を握ることで親(蘇我入鹿)の仇を討ち、混乱の倭国をまとめたいと考えていた。そんな思いで大海人は大和から一路、九州にいる「郭務そう」に会いに行った。大海人と「郭務そう」の思惑が一致した瞬間だ。「郭務そう」は戦後の倭国の処理については、倭国を滅ぼそうとは思っていなかったと思うんです。「倭国」という国は残し、その権力者を「親唐」派にする、それでいいと思っていた。だから、凡庸な天智じゃなくてもよかったんですね。だから倭国は百済のように消滅せずに済んだんですね。 大海人は唐の後押しの約束を取り付け、歓喜の中で歌を読んだんです。それが昨日書いた例の歌。 よき人の よしとよく見て よしと言ひし 芳野よく見よ よき人よく見この歌のキーワードは「よき人」と「芳野」だ。この「芳野」、なんの疑いもなく奈良の「吉野」と思われてたんです。素盞嗚氏もそう思ってました。どうもそれが呪縛だったんです。それでまず「芳野」じゃなくて、「よき人」から考えてみました。これ、万葉仮名では「淑人」と書かれてます。大海人はこの「淑人」に明らかに逢っている。そういう書き方をしている。では「淑人」とはどういう人か?これはただの良い人」という字面じゃないですね。ズバリ「身分の高い人」、そういう意味と考えて間違えないといえます。この西暦770年前後において、大海人より身分の高い人とはいったい誰なのか?実を言うと初め素盞嗚氏は、771年に帰国した「薩夜麻」だと思ってたんですか、どうもそれでは整合性が取れない。では誰か?・・・・・そう、唐の大将「郭務そう」だ!大海人は九州北部で「郭務そう」と会談した。そこで唐の協力を取り付け、歓喜の中でこの歌を読んだ。「淑人によし!と言われた」そう歌ったんですね。 では次なるキーワード「芳野」は?二人の会談場所は九州だ。奈良の芳野とは考えられない・・・・では九州倭国の中心地に芳野があるのか?あるんですな、これが。そう、あの有名な「吉野ヶ里」、あの一帯は芳野(吉野)と言われていたんです。そしてこの二人の会談の中で、かつての倭国の天子、「薩夜麻」の話が出た。大海人は兵力の結集のため、どうしても「薩夜麻」を神輿に乗せたかったんでしょう。そして「郭務そう」も条件付で了解をした。その条件は「薩夜麻」を天子に返り咲かせないこと、だ。(ここはカンペキに想像でぷ)かくして大海人は九州から大和に帰ってきた。そこで病に伏していた天智に呼ばれるんです。ここは日本書紀で有名な場面ですね。「オレ、もうダメみたいだから、 お前が天皇やってくんない?」そう言われるんだけど、「その手は桑名の焼きハマグリ!」大海人は、天智の狡猾な誘いには乗らず、「いやいや、アナタのために出家して、 吉野にこもりますワ♪」そう言って天智の元を離れ、「吉野」に引きこもるんです。ん?ここでも「吉野」が出てくる・・・・大海人が引きこもった「吉野」って、本当に奈良の吉野だったんだろうか?これが素盞嗚氏の次なる問いです。いよいよ壬申の乱の勃発じゃー! 今日は5年生大会の2回戦、ブルーマリーン戦。勝てばベスト4。むふふ、勝ちましたぞぉ!8対3。明日は準決勝と決勝だ!がんばれ瀬ケ崎フレンズ! 早くカニ喰いたーい♪SEE YOU NEXT TIME
Dec 23, 2006
コメント(16)
どうも年末ってーのは忙しいね。仕事もそうだけど、さすがに腎臓君も疲れがきたらしい・・・・もうひとふんばり!そうそう、四国のイカしたギタリスト、桂水割さんから讃岐うどんいただきました♪冷凍モンなんだけど、さすがに本場もんは旨い!来年は四国の出張もありそーなんで、うどん、喰いまくりますぞぉ!すがきやラーメンも喰いたいけど・・・ えー、古代史だけど、どこまで書きましたっけ・・・・大事な資料、日本書紀がないままなんだけど、久しぶりにいってみます。 念願の夢がかなって、668年、やっと皇位についた天智天皇だったけど、翌年は縁起でもない、法隆寺に落雷。そして671年には、白村江の戦い以降、行方不明になっていた倭国の天子、「薩夜麻」がなんと帰国したんです。倭国乗っ取りを着々と進めていた天智にとっては真っ青になった出来事だったことが想像されますね。それが原因かどうかはわかんないけど、天智はこの年、病に倒れます。 この頃のことで、九州倭国説論者の素盞嗚氏にとって、どーしてもわかんないことがあったんです。663年の白村江の戦いで倭国とともに破れた百済は、その後、戦勝国の新羅に併合されて、「百済」という国は滅亡するんですが、倭国が近畿天皇家(大和)に併合されるのは701年。敗戦から38年間、倭国はしぶとく生き残るんです。なんで百済みたいにすぐ併合されなかったんだろ???しかも倭国の天子を名乗った「薩夜麻」は、囚われの身になったのに、なんで帰国できたのか???今までの中国の歴史を見ると、殺されて当たり前なのに・・・長い間ここがわかんなかったんです。でも最近やっとわかってきました。これね、きっと後に天武天皇となった大海人皇子がキーマンだったと思うんです。どういうことかというと、白村江の戦いの時、天智は鎌足と謀って裏で「唐」とつるんでいた。思惑通り、まんまと予定通り倭国は負けた。ここで唐は戦勝国の占領軍として664年から671年の8年間に2000人の軍を率いて6回も来倭しているんです。普通に考えると、この時に唐の大将「郭務そう」と、「内通者」である天智(中大兄)とが会談して、あっさり倭国を併合してしちゃうと思うんです。でもそれをしなかった・・・・なぜか?恐らく「郭務そう」は天智と会ったと思うんです。でも「郭務そう」は、天智には倭国を統一させる能力がない、そう感じたんじゃないか。669年には参謀の鎌足も死んじゃったんで、「郭務そう」も天智だけじゃダメかも・・・そう思ったと思うんです。この時期の倭国は「反唐」と「親唐」に別れていたはずですね。そして「反唐」の大半は白村江で戦死したか、捕虜になった。だから倭国に残っているのは「親唐」派が多かったと思います。その「親唐」派の中で天智は大した人物ではなかった。「郭務そう」はそう判断したと思うんです。では「郭務そう」は誰に今後の倭国の統治を任せようとしたんでしょうか?それが天武(大海人)だった・・・・そんな矢先に、元の倭国の天子、「薩夜麻」が帰国したんです。ここで天武の素性について書きます。まず定説。親父は舒明天皇、お袋は斉明天皇。んで、天智が兄貴。と言われてるんですが、どうも資料を分析すると、弟のはずの天武の方が早く生まれてるようなんです。以前にも書いたけど、お袋の斉明は舒明と結婚する前に「高向王」ってーオッサンと結婚して、「漢皇子」を生んでるんですな。この「漢皇子」こそが天武だ!素盞嗚氏はそう考えてるんです。んで、親父の「高向王」は、実は「蘇我入鹿」・・・・また蘇我氏は九州倭国から大和に派遣された九州倭国人だった。これが素盞嗚説なんですが、そうなると、天武は大和生まれの九州倭国人ってことになるんです。この天武、敗戦後いったいどういう立ち振る舞いをしたんだろ?いろいろ調べてみました。・・・・・見つかりました!答えは万葉集にあったんです。 よき人の よしとよく見て よしと言ひし 芳野よく見よ よき人よく見これ、天武の歌なんだけど、なんのこっちゃ・・・意味不明の歌として研究者の間有名な歌なんですが、この歌にヒントがあったんです♪ お?メールが入った・・・なになに・・・「洗剤と梅酒買ってこい」?うううう・・・・嫁素盞嗚からの指令じゃ。そうそう、以前にも書いたけど、オールマンブラザースバンドのコピーバンドとして活躍した「アイドルワイルドサウス」。彼らの唯一のアルバム「キープオントラッキン」ネットで見つけちゃいました♪早速今日注文しました。ついでにオールマンブラザースのCDをさらに8枚と、北陸のロックバンド「めんたんぴん」も1枚注文。多分聞けるのは来年だと思うけど、今から楽しみッス♪ 明日はソフトで5年生大会の2回戦だ。来年は君にかかってるぞ! 「アウストラロピテクスよねすけ」んーとね、ボーッとしてたらアカンよ・・・・SEE YOU NEXT TIME
Dec 22, 2006
コメント(14)
久しぶりのソフトボールネタ。昨日は連盟の5年生大会。いよいよ来年度に向けての前哨戦だ。今年のフレンズは6年生が3人しかいなくって、公式戦ではほんの数回しか勝てなかったけど、5年生、4年生は充実してるんです。エースピッチャーは4年生の「だましのリョー」4年生では連盟NO1だ! チームを引っ張るのは、5年生のスラッガー、「ハッスルゆたか」この小さな身体でオーバーフェンスを連発しちゃうスゴイ奴!昨日の対戦相手は「スネークス」素盞嗚コーチの大嫌いなヘビ軍団・・・・今年は6年生が中心だったんで、エライ強かったけど、6年生が多いチームはだいたい次の年は苦労することが多いんです。して、昨日の結果はいかに!先攻はフレンズ。相手のエラーも多かったけど、なんと打者22人の猛攻で一気に17得点!2回、3回も確実に点数を重ねて21対0、3回コールドゲーム!相手のスネークスが弱かったってこともあるけど、来年度のフレンズは強いぞ! 最近古代史進んでましぇん・・・・今日、呑まなかったら書きまぷ。古代史のハイライト、壬申の乱前夜だ! 追伸安酒ばっかり呑んで気持ち悪~い朝を迎えてます・・・・焼酎はイイチコ以上にしまぷ・・・・ SEE YOU NEXT TIME
Dec 18, 2006
コメント(18)
ううう・・・・またやっちまった・・・・ さすがに12月はきつい・・・・まーよく呑む。この一週間でバスタブ1杯分ぐらいの酒を呑んだかも・・・・しかも1年ぶりぐらいでカラオケなんぞもやっちまいました。レパートリーが少ないモンで、相変わらず憂歌団だったけど。 おーし、今日もがんばるでぇ! 二日酔いで脳みそたれそーだけど・・・・SEE YOU NEXT TIME
Dec 15, 2006
コメント(18)
あたしゃお酒の失敗話じゃー、そうそう人に負けないと思っとりましたが、なんのなんの・・・・このヒトにゃー負けた・・・・しかもオナゴ。推定年齢38歳。子持ちのバツイチ。基本的には365日、毎日呑むらしい。でもそんぐらいじゃー驚かないよね。して、こないだ彼女を誘って上野の呑みに行きました。え?二人っきりじゃないよ。男3人と女1人。さてさてどれだけ呑むのかお手並み拝見!ん?全然大したことない・・・・と言っても中ジョッキ3~4杯とチューハイ4~5杯は呑んでたけど、このぐらいは食前酒みたいなモンですわな♪んでお店で寝ちゃいました・・・・仕方ないんで、タクシー呼んで後部座席に放り込んで「運転手さーん、悪いんだけど松戸まで」「え?誰か連れて行かないの?」「大丈夫大丈夫。松戸辺りで彼女起こして 詳しい場所はその時聞いて♪」ちゅーことで男衆はもう1件ハシゴしたんです。3日ぐらい後に仕事関連で彼女に会ったんで、「あれからどうした? ちゃんと帰れた?」 「それがさぁ、大変だったのよぉ!」彼女はまるで他人のことのように愉快そうに話し出したんです。・・・・・目が覚めたら、やたらと明るいところにいたんだと。壁はコンクリートのむき出し。「あれ?ココどこ?」何気に振り返ったら・・・・・・・・・・ あれ? 鉄格子じゃーん! なんとこの女、留置場にぶち込まれたらしい・・・・ 時計を見たら4時半。 とにかく家に電話しようと思ったらしく、ハンドバッグの中ある携帯電話を探した。あれ?ハンドバッグがない・・・・あ!あった!それは鉄格子の向こう・・・必死で鉄格子の間から手を伸ばしたそうな。その姿、想像すると哀れや・・・ そこに警官登場!「おぉ、やっと起きましたか!」四つんばいで手を伸ばしながら顔を上げた彼女。 「すーさん、わかるぅ、この惨めなカッコ! 恥ずかしかったぁ、ぎゃはははは!」 こんな話、女がするかぁ!呆れながら聞いてたすーちゃん。「そんでどうなった?」「家に電話して迎えに来てもらえって言うのよ。 んなことできるワケないじゃーん。 家には中学の娘1人なんだし、 『おかーさん、留置所にいるから迎えに来てぇ』 言えないっしょぉ」 「そりゃーそうだわなぁ。 そんでそんで?」「でも規則だから、なーんて言うのよ。 だから言ってやったわよ。 『あんた中学生の娘がこんな夜中に 外歩いて事件に巻き込まれたら あんた、責任取れるのぉ?』って。」 「や、やるやん」「んで、その警官のひるんだからさぁ、 『アンタが送るしかないんじゃないの』 そう言ってやったわよ」「マ、マジっすか・・・・ でもそいつぁ無理っしょ」「すーさん、あたしを誰だと思ってんのよ。 きっちり送らせたわよ♪」 この女、すごすぎる・・・・んでパトカーに乗ってる間、留置所まで来た経緯を聞いたんだと。彼女を乗せたタクシーの運ちゃん、さんざん彼女を起こしたらしいんだけど、どうにも起きないモンで、仕方なく警察に連れていって運ちゃんと警官とで担いで留置所にぶち込んだらしい・・・そこでかなり暴れたそうな。 「見てよこれ!」彼女はズボンもめくり上げると膝に紫色のアザ、頭にもタンコブ・・・ あの運ちゃんに悪いことしたなぁ・・・・シミジミ思ったすーちゃんでした。「でもイタズラとかされなくてよかったじゃん」「んなモンわかんないわよ。 こっちはぜーんぜん記憶にないんだから、 ぎゃーはっはっは!」 うううう、この女、バツイチになったのわかるような気がする・・・・ たはぁ・・・まだ仕事が終わらん・・・もうひとふんばりや!・・・・・・ピザ喰いたい・・・・SEE YOU NEXT TIME
Dec 11, 2006
コメント(18)
今日は雨でソフトはお休み。久しぶりに午前中は家事をしとりました。洗濯物たたんだり、冬物を出したり、箪笥の整理したり。ひと段落して、今女子マラソン見ながらPCに向かってます。昨日は太平洋戦争の開戦日。パールハーバー奇襲!トラトラトラだ!そしてジョンレノンの命日。庶民の味方、桜水産で呑んでました♪4人で呑んで喰って、約7500円。やっぱりこういう店があってるぜ! さて、白村江後。前回、法隆寺の落雷のことを書きました。記事をアップした後、なーんか「雷」が気になって・・・・今朝になってようやくその理由がわかりました。そう、万葉集です。昨年の5月に考察した以下の歌、覚えてますか?皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨これは万葉仮名で書かれたもので、大王(オオキミ)は 神にしませば 天雲の 雷(イカズチ)の上に 庵せるかもこいつが通説です。これに対し以前素盞嗚氏は以下のように読みました。皇(スメロギ)は 神にしませば 天雲の 雷の上に 庵せるかも詳しい解釈は去年の5月24日の日記を見てください。この「雷」、これを筑紫の「雷山」と解釈したんだけれど、作者である人麻呂はそれ以外にももうひとつの意味合いを含めたんじゃなか・・・それが法隆寺の雷・・・・・「皇(スメロギ)」は倭国の天子タリシヒコだ。人麻呂はこの法隆寺の落雷を見て、神となったタリシヒコが調子コイている天智に鉄槌を落とすために天雲の彼方から「雷」を落とした・・・・このように解釈することもできるんじゃないか、思いつきだけど、そう感じました。 ちょいと横道にそれたけど、次回は671年。天智真っ青!そして壬申の乱へ・・・・ 今日はキムチ鍋どぇーす♪SEE YOU NEXT TIME
Dec 9, 2006
コメント(10)
いつもお世話になってるリフォーム会社の社長のお誘いで麻布十番のバブリーなレストランに行ってきました♪すーちゃんのもっとも似合わないようなお店・・・・集まったメンバーは10人ぐらい。それぞれ異業種の人たちだったんだけど、みーんなエライ人ばっかり・・・基本的には「なんとかセンセー」とか「なんとか社長」ってやつ。むふふ・・・・こういう集まりには燃えちゃうすーちゃん♪思いっきり「おちゃらけ」てきましたー!みんなが回りの様子を伺ってる中でいきなりパンツ脱いじゃうような「おバカ」を演じるって結構快感なんですよ♪なんかよくわからん高級そうなワインもじゃーぶじゃぶ呑んじゃうわ、古代史のウンチクぶちまけちゃうわ、もーゼッコーチョー!・・・・・ん?気が付けばもう1時過ぎ・・・・そこで幹事さんの一言、「さー、そろそろお開きにしますかぁ」電車ないど・・・・・みんなどーすんやろ?「えーと、お一人さま24000円でーす♪」「・・・・・」持ち金24,735円・・・・オネーチャンのいないお店でこんな高いの初めて・・・・「じゃーみなさんお疲れ様でしたぁ」みんな三々五々タクシーで帰った。すーちゃんお札ぜーんぶはたいちゃったし・・・・残り735円・・・・家までの推定距離は50キロ。ノートパソコンの入った重たいカバンを持ちながら千鳥足でトボトボ歩き始めたすーちゃん。麻布から五反田を抜け、1号線をふーらふら・・・川崎辺りで時計を見たら3時半・・・ううう、もう身の程知らずのお店じゃ絶対呑まん。固く誓ったすーちゃんでした・・・・コンビニのATMで虎の子を引き出してタクシーで帰りました・・・・この日の出費約35000円・・・・年越せねーぞー! 気を取り直して7世紀行ってみます。西暦663年、白村江で大敗を喫した倭国。戦後はいったいどうなったんでしょうか?同盟国だった百済は完全滅亡。新羅に併合されちゃいました。一方倭国は天子薩夜麻が行方知れずとなって大混乱に陥ったことは間違いないでしょうね。昭和20年の8月、大日本帝国が太平洋戦争で敗れた後、パイプをくわえて厚木空港に降り立ったマッカーサーはその後GHQを組織して日本を統治したことは知ってのとおりですが、この白村江敗戦後も唐の軍隊が倭国にやってきてるんです。なんとその数2000人・・・・大船団を組んで九州北岸に着いたんです。定説では斉明天皇亡き後、中大兄皇子が敗戦処理をして、5年後に近江の地で念願の皇位に就いたとあるけど、こんな話あり得ないですね。もし「大和」が「倭国」の代表だったなら、東京裁判よろしく当然戦争責任を取らされるはずなのに、その形跡は全然ないんです。この点だけでも「大和」がわが国の中心権力者じゃないことが明らかと言えるでしょうね。要するに戦争責任は九州倭国が取らされ、「大和」は参戦しなかったことから、唐と友好関係を作り上げたんだと思います。唐の後押しを受けて中大兄皇子は即位して天智天皇になれた・・・中大兄は度重なるチャンスがありながら皇位に就けなかった理由は九州倭国がそれを許さなかったことと、親倭国派の斉明天皇の存在だったと思うんですが、その九州倭国の衰退と斉明の崩御、そして唐の後押しを受けてついに皇位に就けた訳です。この時期が彼の絶頂期と言えるでしょうね。しかーし!いいことはそうそう続かない!(アタシなんていいことなんか全然ないぞ!)天皇位に就いた翌年の669年、斑鳩の地にデッカイ雷が落ちたんです!法隆寺に直撃!あっという間に全焼しちゃったんです。法隆寺の焼失が雷によるものだということは考古学的にも証明されています。この落雷が与えた影響はいかばかりだったでしょう・・・・法隆寺は厩戸皇子(聖徳太子)の創建と言われてるけど、果たして本当でしょうか?素盞嗚氏の大妄想によると、聖徳太子の功績は、基本的には蘇我氏の功績だったと思ってます。そして蘇我氏は九州倭国から派遣された氏族だ。法隆寺ももともとは蘇我氏の創建だったんじゃないか、そう睨んでまぷ。しかし663年の敗戦以来、天智は倭国を歴史上から抹殺すべく、蘇我氏を悪党に仕立て上げ、その功績をすべて聖徳太子のもののように喧伝した・・・そう、そしてあの法隆寺の創建も九州倭国とは関係のない「大和」の皇子、聖徳太子のものとしたんじゃないか!そしてその矢先の落雷・・・・恐らくまことしやかなウワサが広まったことでしょう。「天智の即位に『天』は怒っている・・・・」「あの雷は天子薩夜麻のたたりじゃー!」と。そしてその2年後の671年、さらなる恐怖が天智を襲うことになるんです・・・・きゃー!つづく・・・・ 我らがスーパーバンドWHOTAのキーボード、「ザビエルITO」さんからDVDが届いた。あのデレクトラックスのライブだ。オールマンの新生ギタリストであり、先日来日したクラプトンのバックでもギターを弾いていたニーチャンだ。ギブソンの赤のSGでスライド弾きまくり!あたしゃ一瞬で虜になりました。きっとデュアンが乗り移ってますな。 さて、もう一回聴きますかぁ♪SEE YOU NEXT TIME
Dec 7, 2006
コメント(23)
我らがスーパーバンド、WHOTAのバンドマスター「酔鯨風太」氏。あと2ヶ月もすると40代ともおさらば。いいオヤジでぷ・・・「おちゃらけオヤジから ちょい悪オヤジに変身じゃー!」ちょいとリキ入れて、呑み屋のチャンネーに息巻いておったらしい。「うーん・・・・ 風ちゃんの場合、 ちょい悪オヤジと言うよりは 『ちょい頭ワルおやじ』じゃん。 ぎゃはははは!」・・・・・当たってるだけに悲しい・・・・ かく言う素盞嗚氏は全悪オヤジ・・・・ 埋めるぞコラッ!SEE YOU NEXT TIME
Dec 5, 2006
コメント(20)
土曜日は品川沖から屋形船でイッパイやってきました。120人乗りのデッカイ船・・・・素盞嗚チームは男5人、女5人・・・・むふふ・・・・フィーリングカップル5対5じゃー! 相手は20代が二人と30代二人。んで、40台後半のおかーちゃんが1人・・・・料理もなかなかよかったし、スタッフの対応も見事!なかなかナイスな夜でした♪ さて、これから始まる7世紀後半の大胆予測、素盞嗚氏の妄想一直線を語っていきまする。相変わらず日本書紀の下巻がないんで、多少あやふやなところもあるけど、妄想一直線っちゅーことでお許しくんさい。前回の2つの疑問、タリシヒコの釈迦三尊像をなぜ法隆寺に持ってきたのか?バレバレの光背銘をなぜ消し去らなかったのか?この答えを探っていく前にまず法隆寺が焼失したこの7世紀後半がどう言う時代だったかを見ていこう。法隆寺の焼失は西暦669年。その6年前、国運をかけた大戦争があったんですね。白村江の戦いこのことだけでも本が1冊書けちまうけど、今回はサラッと解説します。1)この頃の倭国は百済と同盟関係にあった。2)新羅は唐と同盟関係を持って百済をやっつけたかった。3)朝鮮南部の鉄資源をめぐり、倭国はその権益を確保したかった。4)唐は朝鮮半島と倭国を従順な臣下としたかった。5)百済は倭国の利害を利用しながら自国の安定と新羅の排除をしたかった。6)倭国はタリシヒコが「日出づる処の天子」を名乗ったことで、 唐とは7世紀前半から対立。冷戦状態にあった。倭国・百済・唐・新羅の4国の関係はおおよそこんな感じ。位置関係はこんな感じです。 そしてついに663年、百済の熊津を戦場とした一大決戦が繰り広げられたんです。倭国・新羅軍VS唐・百済軍。日本書紀によると、(素盞嗚氏の記憶による)時の大和の天皇、斉明は60代後半の高齢女帝だ。この斉明は決戦を前に自らの老体を押して大和から筑紫まで行軍を進めたという。しかし筑紫の岡田宮で病没・・・・素盞嗚氏はこの死を暗殺と見てます。詳細はいづれ・・・ここで書紀では、それでも中大兄皇子を中心に軍船を進めたかのように書かれてるんですが、その真偽も実に怪しいんです。備中国風土記を見てみると、この白村江参戦のために、備中国からなんと2万人の兵士が筑紫に参集しようとしていたんだけど、斉明の病没を理由に兵を撤収させているんです。この記事は実に重要な意味を含んでいますね。備中国の兵士は九州倭国の要請で2万人の兵士を派兵しようとしていたのに、倭国王ではなく、大和の斉明の死(喪に服する)を理由に撤兵してるんです。ということは大和の兵はどうしたんでしょうか?大和の斉明が死んで、備中の兵が撤兵したのに大和の兵は撤兵しない・・・・そんなことはありえないですよね。要するに斉明の喪に服することを理由に、最低でも備中と大和の兵は引き上げてないとおかしいんですね。恐らく鎌足辺りの差し金で斉明は暗殺されたんじゃないでしょうかね。結局、九州倭国軍は備中・大和の兵をかいた、九州中心勢力で海を渡り百済の「熊津」に結集。ついに「唐・新羅」と激突します。結果はいかに!4度戦い、4度負けた・・・大敗北を喫しました。この時の倭国軍の総大将は「筑紫の君 薩夜麻(サチヤマ」と書紀には出てきます。「筑紫の君」・・・・・どこかで聞いたことがあるような・・・・そう、あの磐井も「筑紫の君」と言われていましたね。そうです。日本書紀の編集姿勢から言うと、「九州倭国」の存在を抹殺しようとしてますから、当然「倭国王」とは書けない。だから「筑紫の君」としてるんです。「筑紫の君 薩夜麻」とは九州倭国の天子、あの「東海の天子」を名乗ったタリシヒコの末裔なんです。その薩夜麻は、なんとこの白村江の戦いで捕虜の身となってしまうんです。のちに倭国に帰国を果たすんですが、恐らくこの戦いから長い間、行方不明とされていたと思います。これが法隆寺焼失の6年前の事件です。この大敗北のあと、倭国や大和はどうなっていくんでしょうか? 次回から素盞嗚の大妄想の爆裂だ! 腹減ってきた・・・ちっとラーメン喰ってきまーす♪SEE YOU NEXT TIME
Dec 4, 2006
コメント(19)
もう何年も前から気になってたラーメン屋があったんです。清風堂・・・・素盞嗚氏お気に入りの「がんこ亭」に近いもんだからつい敬遠しちゃってたんだけど、今日は意を決して行ってみました。清風メン、800円・・・・ちと高い・・・店内も汚い・・・・「おまちどーさまー♪」「・・・・・ほう!」香りがよい。ゴマのオイニですな。まずはスープから・・・・・ふむふむ・・・・トンコツベースに煮干風味・・・そこに練りゴマを入れてるようざんす。ピリッと辛味をきかせた唐辛子・・・・悪くないじゃん♪して、麺は?・・・ほう・・・・これも悪くなーい♪こんな感じです。 がんこ亭にゃ勝てないけど、まずまずでした。しかーし、もうちっと店内をキレイにしような、大将! 前置きが長くなったけど、昨日の続きッス。法隆寺釈迦三尊像の光背銘に書かれた「上宮法皇」。こいつはどうみても聖徳太子じゃない!ちょっと調べれば簡単にわかるのに、なぜコレまでの研究者は「上宮法皇」=「聖徳太子」と言い続けたんだろうか?答えは意外と簡単だ。「近畿天皇家以外にわが国には公権力はなかった」この「絶対的イデオロギー」に思考を拘束されてたんですな。だから、多少違っても、「だいたいコイツでいいんじゃない♪ 他に適当なのがいないから・・・」というおよそ学問的とは言えない根拠にもならない根拠で定説が作り上げられてるんです。「倭の五王」問題もそうですね。宋書に出てくる五王も、その記事内容からすると、近畿天皇家に当てはめることは不可能なのに、むりやり仁徳や雄略にこじつけている・・・ さて、次なる問題。じゃーここに書かれている上宮法皇って誰?これです。資料が少ないんで、確実なことは言えないけど、「法皇」の称号から、ある程度の予測はつきますな。では「法皇」とは何か?後の世では、「天皇」が院政を敷いて「上皇」や「法皇」になったってあるけど、この7世紀の大和地方にはそんなもんはなかった。この「法皇」とは、もともと中国で使われてた称号なんです。要するに「仏法に帰依した天子」なんです。7世紀はじめに倭国から隋国に使いが行きましたね。あの有名な「日出づる処の天子・・・・云々」これです。ここに出てくる天子の名は「タリシヒコ」誤解のないようにいいますが、タリシヒコは通説の言うような聖徳太子などではない!栄えある九州倭国の王者だ!時代的に考えても、法隆寺釈迦三尊像の光背銘に書かれた「上宮法皇」は倭国の王者「タリシヒコ」と断定してもいいと思う。 まーここまでは、これまでの素盞嗚説に付き合ってくれた人には容易に想像がついたと思うんだけど、問題はこの後なんです。疑問1なぜ九州倭国王タリシヒコのことを書いてある本尊を法隆寺に持ってきたのか?疑問2光背銘に書かれたことが聖徳太子じゃないことはすこし調べればすぐわかるはず。であればこの光背銘をなぜ無傷で保存したのか?削り取ってもよさそうなもんだけど・・・・この謎が、ずーーーーーと解けなかったんです。 仮説とも言えない「想像」なんだけど、最近やっと、なんとなくだけどわかってきました♪次回からは「素盞嗚の大胆予測」いってみます! さっきらーめん喰ったあとに何気なくふらふらぁっと「スーパーかねひら」に入ってしまった。肉団子、ロールキャベツ、鶏肉のぶつ切り、海老ちゃん、たらちゃん きのこ、水菜・・・・ 今日の素盞嗚家の食卓はいかに! え、誰が作るかって?はい、アタシ素盞嗚が極上ナベを作りマース♪SEE YOU NEXT TIME
Dec 1, 2006
コメント(18)
今日は自宅仕事。来月の営業計画とその準備ッス。そうそう、3,4日前のTVで、阿部ちゃんと黒木瞳が出てた、シベリアに抑留された実録ドラマ、見ました?家で晩酌しながら嫁素盞嗚と見てたんだけど、二人合わせて2リットルぐらい涙が出ましたぞ。おかげてちょっと痩せた素盞嗚夫婦でした・・・・ さて、法隆寺。法隆寺は日本書紀に書かれた通り西暦669年に全焼した。そして当然その本尊も焼失・・・・では現存する本尊である「釈迦三尊像」はいったい・・・・考えられることは2点ですな。1)法隆寺を再建した時に新しく作った。2)どっかにあった釈迦三尊像を持ってきた。不思議なことにこういった議論、今までほとんどされたことがないんです。その理由はこの釈迦三尊像の裏に書かれた光背銘の記述にあるんです。ここにはいったい何が書かれているのか?トップページに写真を載せたんでチラッと見てくらはい。・・・・・わかります?重要な部分を素盞嗚風「超訳」で解説しますね。 法興元31年12月、鬼前太后が死んじゃいました。翌正月22日、鬼前太后の息子の上宮法皇も具合が悪くなりました。しかも上宮法皇の奥さんもブッ倒れちゃいました・・・・そんなことがあったんで、王子たちが発願してこの像を作ることにしました。しかしその甲斐もなく、2月21日にかみさん死亡・・・翌日の22日には上宮法皇まで死亡!3月中にこの釈迦三尊像は完成しました。作者は「使司馬 鞍首 止利仏師」ってな感じのことが書いてあります。で、問題はその解釈ですな。登場人物は3人ですね。まずは主人公、これが上宮法皇。その母親が鬼前太后。奥さんは「王后」と書かれてます。(定説では「干食王后」。 素盞嗚説では「干食」はその前文にかかる動詞)従来の解釈では、1)上宮法皇を聖徳太子に。2)鬼前太皇は聖徳太子の母親である 穴穂部間人皇女に。(用明天皇の皇后)3)「王后」には莵道貝蛸(ウジカイダコ)皇女。この三人を当てているんです。はたしてこの解釈でいいんでしょうか?疑問は一杯あります。まず1つは年号。「法興元」という年号は天皇家の歴史には存在しないんです。2つ目。「法皇」という称号。7世紀にはこんな称号は存在したという記録はないんです。3つ目。天皇問題。この時代の天皇である推古天皇がまったく登場しないこと。4つ目。死亡日時。聖徳太子と母親の穴穂部間人皇女の死亡日時は日本書紀に記載されてますが、これが合ってない。5つ目。日本書紀との対応。王家の3人がほんの数ヶ月の間に立て続けに死亡するというドラマティックな事件が日本書紀にまったく書かれていないこと。要するに光背銘と従来の解釈である聖徳太子の周辺とは全然合ってないんです。それなのに定説では上宮法皇は聖徳太子だと言う・・・いったいなぜ??? イカン・・・銀行に行かねば!今日は入金日♪そんでもって支払日・・・・帰りにラーメンでも喰ってこ♪SEE YOU NEXT TIME
Nov 30, 2006
コメント(16)
月末の決算報告。うううう・・・・今月はキビしかった。もっと仕事せねばね。んで夜は今期初の忘年会♪バンドの連中と暴れますぞぉ!SEE YOU NEXT TIME
Nov 27, 2006
コメント(16)
「お風呂家訓」で気をよくした嫁素盞嗚、調子こいて家訓第二弾を出したゾ・・・・ 素盞嗚家 家訓 その2大も小も便器に座って用を足すべーし! どうも大きいモンで、飛び散るようでぷ・・・・ えーと、古代史。ここんところ書いてた九州年号関連、どうもあんまりウケがよくないんで、中止ッス・・・・7世紀にあった「大化」「白雉」「朱鳥」、コイツ全部、九州倭国の盗用なんです。まー細かいことはヌキにして、そー認識してくらはい。詳細を知りたいっちゅーヒトは、お問い合わせくらはーい♪ んで、今回から法隆寺のこと、いってみます。法隆寺って言って、日本人で知らない人はまずいないですよね。現存する世界最古の木造建築。あの聖徳太子が建立した寺ですね。実はこの法隆寺、日本書紀によると、一回火事で燃えちゃってるんです。聖徳太子によって最初に創建されたのは607年。その後669年に焼失して、8世紀のはじめに再建された。これが現在の定説なんです。でも戦前は「法隆寺再建論争」ってーのがあって、大多数の建築家や研究者は、「法隆寺は焼けなかった」そう言ってたんです。なぜなら、飛鳥様式の法隆寺が厳然とそこにあるじゃないか!そう言ったんですね。それに対して、喜田貞吉という学者だけは孤軍奮闘、「法隆寺は焼けた!」そう言ったんです。なぜかというと、日本書紀の天智9年(669年)に「法隆寺は一屋余さず焼けた」そう書いてあるじゃないか。焼けていないものをわざわざ焼けたと書く訳がない。それが喜田の主張だったんです。結果はいかに!その後法隆寺とすこしズレたところから、若草伽藍が発掘されたんですね。それをもってほぼ決着が着いたんです。法隆寺は焼けて、再建されたと。めでたし、めでたし♪・・・・・と言いたいところなんですが、ここで新たな疑問が湧くんです。日本書紀に書かれた法隆寺焼失記事は正しかった。その記事には「一屋余さず焼けた」と書いてある。丸焼けですな。それで、再建したのはいいけど、現在も現存する法隆寺の本尊である、釈迦三尊像って、燃えなかったの?この疑問です。建物が丸焼けになって、本尊だけが燃えなかったなんて考えられないですよね。百歩譲って、火炎の中を何とか外に持ち出したとしたら、その功績を日本書紀に書かない訳がない。そう思うんです。事実は本尊も焼けた・・・・素盞嗚氏はそう思っています。では、現存する釈迦三尊像はいったい・・・・・ 嫁素盞嗚が帰って来ない・・・・腹減った・・・・ 明日は久しぶりの長野です。セミナーやったり、パネルディスカッションの司会やったり・・・一杯やりながら原稿を考えるとしますか♪ SEE YOU NEXT TIME
Nov 25, 2006
コメント(22)
うーん、酔っ払ったかなぁ・・・・CMでさ、パナソニックの「小雪」ちゃんとシロナガスクジラが出てるヤツ。小雪ちゃんの口元、クジラの口元に似とらへん?
Nov 24, 2006
コメント(10)
今日もソフト三昧!だぁー!疲れたぁー! 風呂じゃー! ユニフォームを脱ぎながら風呂の前に・・・・・ ん? 風呂の前に張り紙が・・・・ 素盞嗚家 家訓? 墨筆でなにやら書いてある・・・・ パンツを脱ぎながら見ていた素盞嗚氏・・・・ なになに・・・・ 「素盞嗚家 家訓 湯船に入る前時は 身体と頭を洗ってから 入るべーし!」 ・・・・・・ よけーなお世話じゃー! おもいっきり湯船に飛び込んだ素盞嗚ジジーでした・・・・ え? もちろん、あとから嫁素盞嗚に怒られました・・・・ 生きにくい時代になりましたなぁ・・・・・ SEE YOU NEXT TIME
Nov 23, 2006
コメント(27)
ブログで知り合った沙奈さん。訃報を聞いた時は、絶対に信じなかった。あれからもう一年経つんですね。彼女からもらったコメントに「蘇我入鹿」のお母さんって誰?こんな質問をもらったんです。それからいろいろ調べてみたけど、いまだ「混乱の7世紀」に苛まれてます。1年前、通夜の夜に行った中華料理屋。久しぶりにシミジミ呑みに行こうと思います。 SEE YOU NEXT TIME
Nov 21, 2006
コメント(12)
品川のガード下にある「品達」。こだわりのラーメン店が7店舗入っとります。ちっと前に「なんつっ亭」で喰ったんですが、今回は「せたが屋」に入りました。スープは魚介類系でありながらトンコツ風。油は少なめで味は濃い目。見てくれはこんな感じッス。味はグーだったけど、店員の態度がよくない!これ有名ラーメン店全体に言えることだよね。 さて、今回は大化改新の真相を考えてみます。これまでの九州年号のまとめ。各地で発見される文献や考古資料に書かれた見知らぬ年号。いわゆる九州年号と言われるものは決して偽年号ではなかった。九州倭国で使用されていたこの年号は西暦700年(大化6年)まで継続された。この年、ついに九州倭国は滅亡し、新たなる新王朝、大和朝廷が誕生した。そして翌年、その宣言として大和朝廷独自の年号を建元。「大宝」だ。どうもこの仮説に間違えはないようだ。では日本書紀に書かれた「大宝」以前の年号、「大化」「白雉」「朱鳥」この3年号はいったい何なのか?この3つ、すべて九州年号に書かれてることから、盗用したことが予想されます。問題は、なぜ盗用したか?この問いです。今回は「大化」について考えます。まずは通説からみていきます。通説ではこの「大化」は、わが国最初の年号と言われてるんです。でもおかしいんです。通常初めて年号を発布することは「建元」する、と言うのに、書紀では「改元」した、と書いてある。「改元」とは文字通り、元号を改める、という意味なので、書紀での初見の年号発布が「改元」と書かれるわけがない。645年乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)も怪しいと睨んでんですが、翌年矢継ぎ早に出された「改新の詔」、どうもこれがもっとも怪しい・・・・以前に書いた「郡評問題」から言うと、改新の詔には「行政制度は『郡』とする」と書かれているのに、実際に地中から発掘される木簡等からは、「郡」と表記されたものは701年以前は皆無なんです。それまでは「評」を単位としてたんです。完全に書紀に書かれた改新の詔と矛盾してるんです。このことから大化の改新はなかったんじゃないか?そう仮説する研究者も多いんですね。考古学的、文献学的にいうと、律令制度がきちっと整備されたのはどうも「大宝律令」からのようだ。これが西暦701年と言われてます。ここで九州年号の「大化」を思い出してほしい。これは「695年から700年」まで。素盞嗚氏の仮説は、九州年号で言う「大化6年(700年)、この年に九州倭国が滅び、大和天皇家が新王朝の宣言として、新しい律令を発表した。しかし大和新王朝の年号の建元(大宝)は翌年になったことから、一般的には「大宝改新」と呼ばれずに、旧年号を使った「大化改新」と呼ばれたんじゃないか!そう考えました。こうなると、どうしても再考察を強いられるのが、「乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)」事件だ。こいつもひょっとすると645年の事件じゃなくて、700年の事件かもしれない・・・・これは今後の課題としますが、なんとなくそんなことを考えています。 乙巳の変については、また振り出しに戻っちゃいました。 次回は「大化」の他の盗用と考えられる「白雉」と「朱鳥」についてもうすこし考えてみたいと思います。 そうそう、知ってますか?1970年代の中ごろ、日本のロックシーンで、アイドルワイルドサウスってバンドがいたんです。完全にオールマンブラザースを意識した、ツインギターのツインドラムバンド。「キープオントラッキン」ってアルバムを出してるんですが、今そいつを探してます。CDにもなってるみたいなんだけど、誰か持ってないッスか?何か情報持ってる人、おせーてくらはい♪さーて、仕事仕事・・・・・SEE YOU NEXT TIME
Nov 20, 2006
コメント(20)
ここんところ、オールマンブラザースばっかり、狂ったように聴きまくっとります。しかもデュアン亡き後の。なんと言ってもこいつが圧巻ッス♪ディッキーを首にして、その後釜で入ったデレクトラックス!こいつのスライドは天才的ですな。クラプトンのバックでも最近やっとるそうな。新しい時代の風を感じます。 さて、九州年号。大化五子年土器です。「子」は干支の「子」なんですが、通説の大化って年号は645年から始まってるんで、大化5年は649年ですよね。んじゃーこの時の干支はっていうと、「己酉」・・・・「子」じゃないんですね。二中暦では大化は695年から始まるんで、五年は699年。干支は「己亥」・・・・これも「子」じゃないんです。んで、問題の「大化五子年土器」ってーのは、江戸時代に常陸国(茨城県)の畑の中から偶然発掘された土器で、その土器にこの7文字が刻まれていたんです。この話を聞いた当時の領主が見に来たらしいんだけど、お抱え絵師がその土器を描いて、掛け軸にしたんです。その掛け軸に間違えなく「大化五子年」と書かれている。要するに、偽造の可能性は極めて低いわけです。これは大変な発掘なんです。通説の「大化」と干支が違うんですから。ここで、二中歴で言うところの699年と干支が合えば、バッチリだったんだけど、残念ながらこれも1年干支がずれてんです。この事実をもって、九州年号を研究していた安田陽介氏は、「二中歴」も信用できない!そう結論したんです。しかーし!二中歴とは1年のずれ。この1年ずれってーのが怪しい・・・・この土器が出土した常陸国の戸籍について書いてある、「類聚三代格」って資料を見ると、どうも干支が1年ずれてる痕跡があるんです。一方豊前国の戸籍資料でも、7世紀末の数年間、戸籍が1年づれてるようなんです。なぜ7世紀末に戸籍が混乱してるのか?九州倭国から権力が大和朝廷に移行した時期、それは700年と701年の境だ。権力交代による混乱期だったんですね、この7世紀末ってーのは。それとこの土器、専門家の鑑定によると、7世紀末あたりに、骨壷として使用されたものらしいんです。普通、土器に年号を刻むってことはあまりないんだけど、骨壷なら理解できますよね。亡くなった日か、納骨の日を記載したってことで。この骨壷に入っていた人は大化五年(699年)に亡くなった。そしてこの年は権力交代の1年前・・・・戸籍の記録が混乱していた時のことだったんで、干支が1年ずれた。そう考えられますね。 さて、ここでさらにデカイ問題が起こります。「大化」という年号が、二中歴のとおり、西暦695年から始まったんだとしたら、教科書に出てくる「大化の改新」はいったいどうなるんでしょうか?通説では645年蘇我入鹿が暗殺されて、翌646年1月に発布された改新の詔、これは本当にこの年に出されたものなのか?・・・・どうも怪しくなってきました。次回は「大化の改新」の信憑性についてやってみます。で、それが終ったら法隆寺をやりますぞ! 今日はね、嫁素盞嗚がおでんを作ってます♪おでん大好き!おっと、酒が4合ぐらいしかない・・・・ちっと買ってきます。3リットルで1050円の酒、見つけちゃった。「蔵そだち」安いのに、結構旨い!合成酒じゃないし♪ SEE YOU NEXT TIME
Nov 19, 2006
コメント(15)
いやー、昨日は薄毛のkimuちゃんと酔鯨風太氏と久しぶりに神田に行きました。目的地はフォーク酒場「昭和」最近TVなんかで随分メジャーになったとこです。もともとここのオーナーとは知り合いで、数年前にオープンする時、声掛けられたんです。「すーちゃん、仕事もせんで暇そうだし、 神田で店やんだけど、マスターやってくんない♪」どうもアタシはプータローのように思われてたみたいなんだけど、実は、ちょこっと仕事してたんで、お断りしちゃったんです。今思えば、やってりゃよかった、なーんて時々後悔してます。ちゅーことでkimuちゃんボーカル・ギター、風太氏ギター・コーラスすーさんドラムで、なーんと、松山千春の「夢」をやっちゃいました。kimuちゃん、結構じょーず・・・・ターヘだったら、ココでむちゃくちゃバカにしちゃおーと思ってたのに・・・・残念・・・・ えー、ちっと風変わりなバトンが回ってきました。古代史好きさんに30の質問バトン・・・・いってみよー!1.HNは? 荒ぶる神「素盞嗚」! おっかないイメージで決めてるつもりなのに、 すーちゃんとか、マスラオとか言われている・・・2.古代史好きのきっかけは? 銅鐸の美しさに引かれて「銅鐸の謎」って本を読んだのがきっかけかな。 たしか13歳ぐらい。それから「邪馬台国」にはまって、 一時は「竹内文書」などの超古代史にもはまったけど、 今は九州倭国の証明に命かけてます♪3.古代史歴は何年か? 36年・・・・4.大河ドラマで古代をやるなら誰が主役か? 筑紫の君「磐井」!5.俳優は誰がいいか? 50歳ぐらいの仲代達也 なんだったら素盞嗚氏がやりますぞ!6.一番好きな古代史上の人物 ズバリ!「素盞嗚」 卑弥呼ちゃんも好きだけど♪7.歴史上の女帝は「つなぎ」だったと思うか? なにをもって「つなぎ」というか、 にもよるけど、pleさんと同じく、結果的には つなぎだったんだろね。8.葛城皇子(天智)と大海人皇子(天武)、どっちが好き? うーん、二人とも男やからなぁ・・・・ えーい、天武となら寝てもいい! ・・・・ ウソよ。9.この二人の両親は誰だったと思うか? 天智は通説通り舒明天皇と宝皇女(皇極)。 天武の母も宝皇女。 でも親父は高向王! そんでもって、高向王の別名は 蘇我入鹿! もしくは蘇我蝦夷! どうだ!10.鎌足と不比等、どっちがより策士だったと思うか? 不比等! 天智側からどうやって天武側に鞍替えしたんだろね?11.持統天皇と聞いていいイメージをもつか? このおばはん、嫌い! 気持ちはわからんでもないけど、持統のおかげで、 真実の古代史が闇に葬られたんだから。12.天武はどの皇子に皇位を継がせたかったか? 高市皇子。 間違えないね。13.藤原4兄弟の名前全部言える? えーと・・・・ おそ松 とど松 ・・・ おっといけねぇ、 武智麻呂 麻呂 房前 宇合 だよね?14.もっと長生きしてほしかった古代史上の人物 有馬皇子15.古代史上で一番美人だったと思う女性は? こいつぁ難しいぞ・・・ タリシヒコのカミサン。16.では男は? 素盞嗚でしょ、やっぱり!17.古代史上でこいつだけは伴侶にしたくないヤツは? 女性なら誰でもウェルカム♪18.この人が生まれ変わって今の総理大臣になってもらいたい人は? タリシヒコ! 中国に宣戦布告しますぞ!19.毎週購読している歴史雑誌は? 残念ながらないッス。20.「天上の虹」を読んだことはあるか? ないッス。 ってよか、知らない・・・・21.古代史マンガでお勧めな何ですか? 古代史のマンガって読んでないかも。 諸星大二郎がなんか面白いの書いてたかも。22.お勧めの古代史に本は? 古田武彦「 『邪馬台国』はなかった」 これに尽きますな。23.万葉集の中で好きな歌は? 大王は 神にしませば 天雲の雷の上にいほらせるかも こいつの解説は去年の5月22日23日の日記に書きました。 素盞嗚新説ッス。24.万葉集と言えばこの人という人は? そりゃー柿本人麻呂っしょ。25.どうしてもいってみたい古代史ゆかりの社寺や遺跡は? 実は三内丸山に行ってないのよね。 あと大宰府もじっくり回りたいッス。26.あなたにとって古代史とは? ライフワークですな。27.古代史のどこが面白いですか? 昔から「なんとかの謎」ってーのが好きなんですよ。 真実の探求をするところが面白いね♪28.このバトンを回す5人をどうぞ。 うーん、受け取る人、おらんでしょ。29.その5人の印象は? えーと、回してくれたpleさんの印象。 フットワークが軽くって、とにかくよく社寺に行ってるんです。 羨ましい限りです。 年が近いこともあって、とっても尊敬している人です。30.最後に一言どうぞ! 長かった・・・・ 次回からまた、九州年号やりますぞ!SEE YOU NEXT TIME
Nov 15, 2006
コメント(30)
今日は東京の青山で研修。講師はウチのバンマス、酔鯨風太氏。住宅産業の販売促進がテーマっす。なぜかアタシはその研究の書記・・・アタシのすぐ前に近江の変人「Kimukazu」おや?kimuちゃん、つむじの辺りが・・・・・ むふふ・・・・ あと5年やな♪ えーと、面白いバトンを拾いました。 あとで書きますね。 SEE YOU NEXT TIME
Nov 14, 2006
コメント(4)
おぉ、もう11時半・・・・いつもならすっかり熟睡の時間やん・・・・早寝遅起きの素盞嗚君。普段は10時か11時には就寝。「おやすみぃ」の「おや」を言うあたりでイビキをかいてるぐらい寝つきがいいんですけど、なぜか今日はまだ目ぇ開いておる・・・・この分だと今日は7時間ぐらいしか寝られん。ううう、やっぱ量が足らへんかったんやね。あと2合ぐらいやっつけて寝ます。 えーと、「大化五子年土器」、これのキモはね、「子」なんです。干支の「子」です。定説の大化は西暦645年からはじまりますよね。だから大化5年は649年。日本書紀に書かれてるヤツです。干支は己酉。んで、「二中暦」に書かれてる大化は695年からで、5年は699年。干支は己亥。いずれも「子」じゃないんです。それに土器って、普通、年号なんて書いてないですよね。この土器に書かれた大化年号って、いったい何なんでしょ? う、・・・・イカン・・・・眠くなってきた・・・・やっぱ、次回にしまぷ・・・・ 明日は近江の変人が江戸に出没予定・・・・なーんかヤな予感・・・・ 明日は呑まんぞ!・・・・5合ぐらいしか・・・・ SEE YOU NEXT TIME
Nov 13, 2006
コメント(12)
最近が聞きなれない国名は増えましたよね。なかなか覚えられない・・・・昨日の女子バレーの相手もそうだよね。 なんてシルビアなんて喪黒・・・・ ザビエルなんてまっ黒・・・・・・・・・・しかし、今回の女子バレーは気合入ってますなぁ。高橋もかっちょいいけど、やっぱりカオル姫が好き♪がんばれ、ニッポン! さて、九州年号ッス。古田氏が言う「二中暦」と丸山氏の「丸山モデル」、どっちが正しいのか?地中から出土した遺物から検証してみます。ちなみにこの2説の大きな違いはどこにあるのか?丸山モデルには「朱鳥」がなく、「大化」が西暦686年から6年続いて、その後「大長」が692年から9年続くことになってるんです。一方「二中暦」では、686年から「朱鳥」が9年続き、次いで「大化」が695年から6年続く。そして「大長」はない。要するにこの2説の大きな違いは「朱鳥」の有無なんです。丸山モデルのように「朱鳥」がないとすると、実は2点の深刻な矛盾が生じるんです。1つは、日本書紀に見える3つの年号、「大化」「白雉」「朱鳥」。丸山はこの3つのうち、「大化」と「白雉」は九周年からの「盗用」としてるのに、「朱鳥」だけは書紀編者の「造作」としなければならないという、一貫性のなさだ。そしてもう一つもっと深刻な矛盾があるんです。それが「鬼室集斯墓碑」に刻まれた「朱鳥三年」の問題だ。ここで、「鬼室集斯墓碑」について簡単に説明しますね。江戸時代後期、近江国蒲生郡で見つかったんです。こんなヤツです。鬼室集斯ってーのは人の名前です。おそらく百済の帰化人でしょうね。今でもその子孫がいるらしいんです。墓碑ってのは、わかりやすくいうと「墓石」に刻まれた文字ですね。墓石に、そこに眠っている人の名前、いつ死んだか、誰が立てたか、なんかが、石に刻んであるんです。上の写真をよく見てください。ここには「朱鳥三年戊子十一月八日」って書いてあるんです。これの真偽論争も随分前からあったんですが、詳しい検証は割愛しちゃうけど、どうもこれはホンモノらしい。この意味することは大きい!まずは丸山モデルの崩壊です。そしてもう一つは「日本書紀」の偽造・・・・書紀ではこの「朱鳥」は西暦686年の1年だけなんです。元年で終ってる訳で、ここに出ている「朱鳥三年」はないんです。日本書紀の「大宝」(701年)以前の3年号に疑惑がかかってくるんですね。書紀は何か目的をもって、敢えて九州年号の「朱鳥」を1年だけ、盗用したんです。なぜか!?・・・・その答えの前に もうひとつの金石文である、「大化五子年土器」を検証してみます。 さて、今日はこれからソフトの練習!ボチボチ寒くなってきました。風邪ひかないように気合入れていってきまーす♪SEE YOU NEXT TIME
Nov 12, 2006
コメント(14)
今日は一日事務仕事。結構はかどったわい。ちゅーことで本日のお仕事は終了! 九州年号の続きです。今回トップページに載せたのは、平安末期に成立したと思われる「二中歴」に所収されている「年代歴」。他の資料も大体同じような年号を載せてるんですが、ちょっとづつ違いがあるんです。例えば「善紀」。「海東諸国紀」では「善化」になってたり、「明要」が「同要」だったり・・・これら資料を綿密に調査した古田氏によると、「二中歴」が現存最古の資料であるそうな。素盞嗚氏もこの「二中歴」こそがもっとも信頼性のある資料だと思ってます。それに対し、丸山晋司氏は「本朝皇代記」をもとに原型モデルを作って、論争をしたんですな。この話については後日書きます。 さて、この九州年号、いったいいつ頃の年代を表してるんでしょうか?まず始めの「継体」。これは西暦517年から始まってるんです。ちょうど継体天皇のころです。ここで思い出すのは、継体と一戦交えた、九州の「磐井」実はこの戦い、「磐井の反乱」じゃなくて、「継体の反乱」だった・・・これは以前書きましたよね。この磐井の墓は岩戸山古墳って言われてますが、この古墳には裁判の様子を描いた石舞台があったんです。要するに磐井は律令を始めて取り入れた可能性があるんです。おそらくその律令に合わせて年号を建元したと考えられますな。そして最後の「大化」。これは西暦695年から5年間続くんです。終わりは西暦700年。以前「郡評問題」について書いたけど、行政制度が「評」から「郡」に変わったのもこの西暦700年なんです。要するに九州倭国から大和朝廷に権力が移行した時とピタリ符号するんです。 さて、この九州年号、過去の研究史を見てみると、前回書いた通り、偽年号のレッテルを貼られてるんです。教科書にも一切出てこないですよね。なぜか?もともとは17世紀、江戸時代の儒者、貝原益軒が「和漢名数」って本で、「善紀」や「僧聴」などの年号があったと言われてるけど、どうもその年号の漢字に仏教色が強いので、どこぞの仏家が作った偽物であーる!こう断定したんです。その後、江戸時代の間は、喧々諤々、論争があったようなんですが、明治に入って、ピタリと静かになっちゃったんです。明治はご存知のように、天皇を「神」に祭り上げたので、天皇家以外に年号を建元できる公権力があってはならない。そのイデオロギーから、九州年号に関することを一切封印した、という訳なんです。では、この九州年号、実際のところ使われてたんですかね?ちゅーことで調べてみると、あるはあるは・・・・ザクザクと資料が出てくるんです。特に九州筑紫に多いんですが、全国の社寺の縁起などの古文書に記された年号の中に、この九州年号が散見されるんです。そうは言っても文書は偽造されてんじゃない?と疑いをかけられそうですが、地面から出た考古学資料からもいくつかこの九州年号が記された出土物があるんです。代表的なものに、「鬼室集斯墓碑」と「大化五子年刻書土器」っちゅーもんがあります。 次回はこの2点の解説をしていきます。 腹減った・・・ そういえば最近家でメシ喰う時、必ずナベや。嫁素盞嗚がナベしか作ってくれないってことじゃないんです。アタシがナベが大好きなんです。さーて、今日は何ナベにすっかなぁ♪しゃけとたらを買って帰ろっと♪おっと、肉団子も忘れちゃーいけねーゼ! SEE YOU NEXT TIME
Nov 9, 2006
コメント(12)
この分だとスーちゃん、年を越せない・・・・がんばって仕事せねば・・・・ さーて昨日、「大化の改新」は645年にはなかった!そう書いたけど、その証明としての「九州年号」。まずは、その九州年号を徹底的に解剖していきます。その存在が九州倭国説の証明にもなるしね。主な資料は古田武彦氏、古賀達也氏の研究を元にしてます。 さてまずは、「九州年号」とはいったいなんぞや?!ってところからいきます。そもそも年号を発布するってーことは、時の「国家」の最高権力者のみに与えられた特権なんです。以前にも書いたけど、この年号と「律令」、「通貨」の発行がその三点セットなんですね。そして年号の大きな意味とは、その「連続性」にあるんです。 では、我が日本国の年号とは、いつからあるんでしょうか?日本書紀に書かれていることが定説となってますが、まずは西暦645年の「大化」、その後「白雉(ハクチ)」と続いて、しばらく断絶・・・・686年、忘れたころに「朱鳥(アカミトリ)」が1年。そしてまた断絶・・・・701年、文武天皇の時に「大宝」と名付け、その後約1300年間、綿々と「平成」まで続いてるんです。この「大宝」から「平成」までの連続性を見る時、現在の天皇家の歴史を脈々と感じることができますよね。ところが、「大宝」以前の3つ年号・・・・これはいったい何なんでしょうか?同一王朝内での年号の断絶・・・・そんなことがあり得るんでしょうかね?中国文化を取り入れていたこの時期、この断絶は普通あり得ないんです。ここに何か大きな隠された真実があるように思います。そこで大きなヒントとなるのが、九州年号と言われる年号なんです。これは、日本の正史たる日本書紀に全く記載されていない年号なんです。ではこの「九州年号」、いったいどこに書かれていたんでしょう?実は平安時代以降の様々な書物に紹介されているんです。有名なものには「二中暦」「海東諸国紀」「本朝皇代記」など、10点以上の資料に紹介されてるんですね。これら資料に掲載されている「九州年号」、研究者の間ではどのような扱いを受けてるんでしょうか?・・・・ズバリ!偽年号・・・・ 次回はなぜ偽年号のレッテルを貼られたのか?ってーことと、その年号の一覧を書きますね。 さーて、明日は久しぶりの熊谷や。「義深会親分」と「新米大工」さんとジャブジャブやってきまーす♪ねーお二方・・・・お願い!仕事もちょーだい・・・・SEE YOU NEXT TIME
Nov 6, 2006
コメント(10)
三連休、いかがおすごしでしたか?素盞嗚君はソフトボール三昧。夜は毎晩大宴会・・・ さて、ここんところ古代史をやってなかったんですが、7世紀、どうにも難しい。以前に書いていた大化の改新あたり、どうも作業仮説が崩壊しました・・・孝徳天皇が難波に遷都して、矢継ぎ早に改新の詔を発布した、これは事実じゃないんじゃないか・・・今までにも、大化の改新については、研究者の間で、疑問視されていたんです。日本書紀には改新の詔について、大々的にかかれているけど、考古学的に見ると、そんな新たな法制ができた痕跡がみえないんです。素盞嗚氏も多少の疑問は持ってたんですが、今回、いろいろ調べてみて、やっぱり詔はでていない!そう確信したんです。どんなことを調べたかっていうと、これも以前すこし触れたことがあるんですが、実は「九州年号」なんです。九州年号の中にも、「大化」っていう年号が出てくるんです。それで、7世紀の九州年号をいろいろ精査してみるとやっぱり大化の改新は645年に発布されていない! ちゅーことで、次回から素盞嗚氏がなぜそれを確信したかを書いていきます。 さーて、明日からまた褌締めて、仕事じゃー! SEE YOU NEXT TIME
Nov 5, 2006
コメント(14)
昨日の続きだぞ! ペーパーナイフを片手に飛行機に向かって駆け出した素盞嗚君。「すんませーん、これお願いしまーす♪」左手に持ったナイフをブルブル振り回しながら日本語で、大声で叫んでたんです。・・・・・ あれ? 後ろのほうが何やら騒がしい・・・・ 足を止めて、フッと後ろを振り向くと、 ・・・・・・・ きゃーー! カービン銃を持った兵士が10人ぐらいでこっちに向かって来た! まさかと思ったけど、やっぱり素盞嗚君のほうに向かって来る・・・・ こ、腰が・・・・・ こんな時ってね、身体が硬直しちゃうんですよ。 あっっちゅー間に兵士に囲まれちゃいました。 ・・・・・ 「HOLD UP!」 ・・・・・ はっきり言いますが、こん時は心臓が凍り付きましたぞ・・・・銃を持った兵士10人ぐらいに囲まれて、銃口を向けられたんですから・・・・ そこで素盞嗚君の取った行動は・・・・ あったり前ッス! 両手を高々と上げて、まさしく「HOLD UP」・・・・・・・・多分、数秒の沈黙・・・・ 隊長らしき人物が何やら叫んだ!「○×■?△~□○・・・・!」 あぁ、これはナイフを差し出せって言ってるぞ、そう思った素盞嗚君、左手に持ったナイフをその隊長に「ギラッ」と向けちゃったんス・・・・ 多分、その隊長は、「銃を捨てろ!」って言ったんでしょうね。 でも素盞嗚君は咄嗟にナイフを隊長に突き出しちゃったんでぷ・・・・・・・・トリガーにかかった隊長の人差し指にググッ力が入った・・・・ 「だは、ちょっ、やめ!」ナイフを捨てようと思ったけど、脳の指令が指に伝わらない! 見ていた人に後から聞くと、ナイフをブルンブルン振り回していたそうな・・・極度の緊張状態だと、マジで脳からの伝達ができないんですな。 結局、うしろに回っていた兵士に組押さえられて「ご用!」 見知らぬ国で、10本ぐらいの銃を突きつけられて、組押さえられる・・・・・チビリそうになりました・・・・ その後、チーフ添乗員のトミーが笑いながら事情を説明してくれたんで一件落着になったんだけど、ターミナルで見てたメンバーはその様子を見て、大笑いをしてたそうな・・・・ もう、二度とインドにゃ行きたくなーい! えーと、古代史はしばらく休みなんだけど、実は直近に書いていた「大化の改新」に新たな疑問を持っちゃったんです。645年に乙巳の変はあったけど、翌年の改新の詔の発布は捏造じゃないか!この疑問です。残念ながら素盞嗚資料が紛失したことにより、検証に時間がかかってますが、いずれ、7世紀の「新説」を発表できるかも! 少々お待ちあれ! SEE YOU NEXT TIME
Nov 3, 2006
コメント(11)
今日はこのあとバンドの練習や!早いとこ進めますぜ。 素盞嗚君がいた旅行会社は海外団体ツアーが多くって、基本的には、企画・営業・添乗をすべて一人でこなすようになっとりました。年に1度、某流通系の会社社長と、そのお仲間20人ぐらいで、海外旅行に行くんですが、一人当たりの旅行費用は150万円ぐらい・・・・超バブリーなツアーだったんです。ある年、「今年はインドだぞぉ!」担当のトミー部長がチーフ添乗員なんだけど、サブとして素盞嗚君が抜擢!ウキウキ、ワクワク!こんな感じでやっとりました。しかーし!初めてのインド、水と食事には充分注意してたんだけど、なんと全員がお腹こわしました・・・しかもメンバーは全員わがままな社長・・・もう初日から帰りたくて帰りたくて・・・・・・・・・やっと帰国の日を向かえて、いざ空港へ。手荷物検査がその事件の発端でした。素盞嗚君の前にいたメンバーの手荷物からペーパーナイフが発見されたんだけど、この類は機内に持って行けないんです。まー、一応ナイフですからね。こうなると、没収されるか機内預け荷物にするか、どっちかなんですね。ここでチーフ添乗員のトミー登場!「おい、素盞嗚。そのナイフ、機内に預けて来い。」「え、でももう間に合わないですよ。」外を見ると我々が乗る飛行機が駐機されてました。今まさに預け荷物を機内に詰めてるところ。「素盞嗚、外に出てそのナイフを届けてこい。」当時の飛行場はターミナルから外に出て、歩いて機内に行くもんで、外に出るのは全然問題ないわけです。「おー、それならOKですよね。 ちっと行ってきます♪」「でも急げよ。そろそろ積み終わっちゃうぞ」「らじゃー!」素盞嗚君はペーパーナイフ片手にその飛行機に向かって走り出しました。・・・・・悲劇はその時・・・・ おっと、6時や。バンドの練習に行かねば。さて、どんな悲劇が起こったか?だいたい想像つきますよね。 どうすんのよ、オレ!つづくぅ!SEE YOU NEXT TIME
Nov 2, 2006
コメント(16)
ちと、ヤボ用・・・・カッコわりーけど、余裕なし・・・・日本書紀なし・・・・気持ちも重い・・・ ちゅーことで、しばらく古代史はお休みッス。 次回からは、30歳代に命をかけてた添乗員時代の話をツラツラと。まずは「血塗られたインド」だ!次回に期待だ!SEE YOU NEXT TIME
Nov 1, 2006
コメント(14)
見つけたぁ!こないだ子素盞嗚2号に喰われたすがきやのラーメン。毎日毎日、喰いたい喰いたいと思ってたんだけど、見つけちゃいました♪それもカップラーメンじゃなくて、お店!ネットで何気に見てたら、東京の高田馬場に出店してたんです。 仕事なんてやってる場合じゃなーい!ちゅーことで昨日の昼過ぎから早速高田馬場に向かいました。頭の中では、なぜか憂歌団のパチンコらんらんブギが流れとりました。♪今日も行けるぞランラン♪JPの駅を降りて5分・・・・嗚呼、もうすぐ喰える♪明治通りの角なんで店はすぐわかるはず。ココだぁ!・・・・・ あれ? お店が・・・・ 近づいてみると1枚の張り紙。 「当店は9月30日で閉店とさせていただきます」 ・・・・・ またおあずけでぷ・・・・ しかたないんで、駅のそばのシェーキーズでたらふくピザ喰ってきました。 喰いすぎてお腹壊しました・・・・・ とほほ・・・・ どなたかすがきやの情報持ってませんか? SEE YOU NEXT TIME
Oct 24, 2006
コメント(22)
昨日はいきなり中断しちゃってごみんさい・・・・夜は夜で「黄桜」に呼ばれちったんス。 して、バツイチ子持ちのおばはんの話しです。なかなかGOODな系図があったんで、まず下の系図を見てくんさい。 宝皇女は舒明と再婚する前に、高向王と結婚してて、漢皇子って子供も作ってるんです。舒明に嫁いだのは36歳ぐらいなんですよ。今の36歳っていえば、女盛りなんだろうけど、当時36歳はもうかなりの高齢なんです。彼女がベッピンさんだったかどうかはわかんないけど、天皇の正室に、36歳でバツイチ子持ちを選ぶってどう思います?素盞嗚氏にはとても考えられない。じゃー、どういうことが考えられるか?ズバリ答えはこれしかないですな♪上位者から下位者に女が払い下げられた!これは日本の歴史上、よくある話なんです。要するに、高向王は舒明よりも上位者だった!この帰結です。定説からでは考えられない帰結だけど、九州倭国説から考えると、理解できますよね。高向王は九州倭国の要人だったと考えられますね。では、具体的には誰だったのか?これは容易に特定はできないけど、蘇我入鹿だったんじゃないか・・・・ もう一度系図を見てもらうと、宝皇女の母親、吉備姫王ってーのは、文字通り吉備系の女だったと思うんです。吉備と大和の血を引く宝皇女が、政略結婚として、九州系の入鹿(高向王)に嫁いだ。恐らく側室として。そして入鹿は、大和内でより強固な地盤を固めるために自分の側室を大和の大王の舒明に与えた・・・・やがて舒明が亡くなると、本来「軽皇子(孝徳)」辺りが皇位を継ぎでもよさそうなのに、入鹿は敢えて、自分のお手つきの宝皇女を皇位に付けた。先々はわが子、漢皇子を皇位に就けようと思ったのかもしらないですね。しかーし!この入鹿の「謀略」に腹を立てた反九州派がクーデターを起こした。これが乙巳の変の真相だったと思います。入鹿が惨殺されたその現場に皇位に就いていた宝皇女(皇極)は立ち会っていたんですね。目の前で前夫が殺されたのを目撃したわけです。しかも殺したのは実の子、中大兄皇子。切なかったでしょうなぁ・・・・この事件をきっかけに宝皇女(皇極)は皇位を降りたんです。そして前述のように、中大兄皇子や鎌足の意に反して、親九州派の孝徳が即位。都を難波に移して、九州に忠誠の態度をとったんです。反九州派は談山神社を総本山として、難波と対峙。宝皇女はかつて愛した高向王(入鹿)の九州につくか、わが子が神輿に乗っている大和改革派につくか、苦悩の日々が続いたと考えられます。失くしちゃった日本書紀にも、宝皇女の苦悩を暗示する記事が結構たくさん書かれてるんです。 嗚呼、悲劇の女、宝の決断はいかに! さて、そろそろセミナーの準備をしなくちゃ。ではでは、SEE YOU NEXT TIME
Oct 19, 2006
コメント(19)
九州からナイスな女性が呑みにきました!さっこらさん♪東京のはずれのマグロ専門店、安いし旨いし!風太氏も誘って、そいつぁーナイスな一夜でありました。 さて、談山神社を改革の総本山とした鎌足と中大兄皇子は、次の一手として中大兄皇子の実の母親、宝皇女を味方に引き入れるべく、画策を練ってたわけですが、このおばはん、数奇な人生を歩んだ人なんです。舒明天皇の正室として迎えられるんだけど、その時、バツイチの子持ちだったんです。 あ、イカン・・・・仕事入った・・・ 夜また SEE YOU NEXT TIME
Oct 18, 2006
コメント(12)
あれ?11時集合なはずなんだけど・・・・今日は東京のあるホテルの会議室でセミナー。待てど暮らせど誰も来ない・・・ホテルのフロントで確認すると、 「えーと、○○さんのセミナーは21日ですよぉ♪」「へ?マジっすか!」情けなか・・・・講師が日を間違えるとは・・・・ ちゅーことで、ここんとこ連日忙しかったのが、ポッカリ半日ヒマになっちゃいました♪パチパチでもやったろかーい!って思ったけど、グッと堪えてここんとこ書いてなかった日記を書くことにしました。 相変わらず日本書紀は手に入ってないんだけど、記憶だけでちと書いてみます。すこし間が開いたんで、今までの復習から。 頃は7世紀前半、九州倭国の「天子」タリシヒコは、新たに中国を統一した北朝系の「隋」を中国の正当な王朝とは認めず、自ら「日出づる処の天子」と名乗って、「隋」と敵対関係に入ったんです。一方大和は、継体の反乱以来、九州から派遣された蘇我氏に政局を握られ、天皇家は影が薄くなったいました。このような2国の状況の中、朝鮮半島南部をめぐって、新羅が不穏な動きを見せるんですね。こうなると九州倭国は、半島とその先にいる中国に釘付けになっちゃってたんですね。稀代の謀略家の鎌足がこのチャンスを見逃さず、電光石火のクーデターを決行!中大兄皇子を神輿に乗せて、蘇我氏を一気に謀殺しました。乙巳の変、いわゆる大化の改新ですな。しかし大和の国情は、鎌足の意に反し、クーデターを是としなかった・・・・大和国内には、実は親九州派が多かったんです。蘇我氏が善政を敷いていたことや、本国たる九州倭国に弓を引くことを決して臨んでなかったんです。そこで、時の皇極天皇が引退すると、鎌足が予定していた中大兄皇子ではなくて、皇極の弟の「軽皇子」が皇位に上り、孝徳天皇となるんです。この孝徳は親九州倭国派で、「あたしは本国に逆らいませんよぉ」という宣言を遷都をもって示したんです。飛鳥から難波に都を移したわけです。飛鳥は西からの攻撃に対しては生駒山が自然の防塞となるんですが、難波は大阪湾に敵が入って来ると実にもろい地域なんです。この孝徳の皇位継承によって九州-大和間には再び和平の兆しが見えてきたんですが、ここで、当然の疑問がひとつありますね。 クーデターを起こした鎌足と中大兄皇子はどうなったか・・・・ 普通に考えると、ただで済む訳ないですよね。本国に刃向かって本国の蘇我を暗殺して国家転覆をねらったんですから・・・ では孝徳天皇に囚われて、殺されたかっていうと、そんなことはないですね。ではどうなったんでしょう?これもあんまり確証はないんですが、鎌足たちは立てこもったと思うんです。今の奈良県桜井市にある多武峰の談山神社に・・・・いわるゆ反九州倭国勢力がここに結集して親九州倭国の孝徳とにらみ合いをしてたんじゃないか。そう考えています。鎌足は大和国内の親九州倭国勢力には一時的に破れはしたけど、九州からの派兵はないと踏んで、虎視眈々と次なる手をこの談山神社で練っていた! 次なる一手とは何か!これは皇位を譲った前天皇である皇極(宝女皇子)を取り込むことだった。この皇極は、反九州倭国派の神輿である中大兄皇子の実の母親なんです。「お母ちゃんはボクの味方だよねぇ♪」なーんてたらし込んで引き入れ工作をしてたと思うんです。しかしこの皇極も立場は微妙・・・・ 次回はこの皇極について解剖してみます。このおばはん、その後の日本の歴史を大きく変えた張本人なんです。 さてさて、バンドのライブの日程が決まりましたゾ!来年4月14日(土)場所は横浜アリーナ!・・・・に隣接したサウンドホールっちゅーライブハウスっす。ひょっとすると素盞嗚君が1曲歌っちゃうかもしれませんぞー!・・・・・・それにしても愛ちゃん、・・・・かわゆい・・・・・・・・・・きゃー! SEE YOU NEXT TIME
Oct 14, 2006
コメント(16)
全698件 (698件中 151-200件目)