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さて、今日はこんぺいとうの作り方です。まずお手持ちの悲しみを用意します。苦しみでも、ストレスでも、過去の痛みでも結構です。それを頭の中でかき回します。だんだんとトゲトゲが出てきますから、いがぐりのように固まってきたら、心の中に落としましょう。心の中でいがぐりは転がりますので、心のあちこちが痛くなってきたらそこへ涙を数滴入れます。失恋の涙でも、悔し涙でも、怒りの涙でも、いずれでも可。涙が加わって、トゲの先端が丸く溶けてきたら、好きな色に着色して、もう一度心の中で転がしてみましょう。トゲの先っちょがちゃんと溶けていれば、転がっても痛くない こんぺいとうの出来上がりです。ビンに入れて持ち歩きましょう。明日へのエネルギー補給に。同じ思いをして苦しむ人に。ちょっと疲れた時に。苦しみから生まれるやさしさを 一粒。ではまた明日。
2006.01.31
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やさしさは g(グラム)では表せません。やさしさは mlでも表せません。胸の中にあるやさしさを覗いてみせることは出来ません。胸を裂いて捜すことも出来ません。ころっと取り出すことも出来ません。誰かのやさしさを知るには、その人の言葉や態度や表情から感じる嬉しさや感謝でしか計り知ることができないのです。自分の中でいかにやさしさが輝いていても、誰かにそれを伝えるには、言葉や態度や表情を通してでしか、受け取ってもらう方法はないのです。ちゃんと電池が入ってる懐中電灯も、スイッチを入れなければ光りだすことはなく、ほんの少しの滲み出るやさしさですら、ほんの少しの言動から伝わるもの。はるか昔、この宇宙が生まれ、今日も進化し続けるこの宇宙の歴史の中でやさしさというものを形にする、そんな奇跡のような力を持った生物が生まれました。それが、私達人間であったことを誇りに思います。傷ついたり、傷つけたり、ときに失敗を繰り返しながらこの形なきものを形にしましょう。その言葉で。 その態度で。 そのあたたかな手で。ではまた明日。
2006.01.30
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今日は、昨日のちょっと続き。 何かを知ると、つい人に話したくなっちゃいますよね。それがとても面白いことであったり、感動したことであったりすると、自分一人の中で消化していくよりも、誰かに聞かせたくなってしまう。 この一方から一方への流れがうまくいけば、とても楽しい時間を持つ事が出来るし、一つの出来事が会話によって何倍にも面白くなったりするのですが、 「教えてあげよう。」 っていう気持ちが優しさからなのか、ただ知識をひけらかしたいのかで、出てくる言葉って違うみたいですね。 カフェで話しているカップルをじぃ~~っと観察してみると、なかなか面白い。彼女の機関銃のような話に、うん うんってうなずいている優しそうな彼氏。違うテーブルでは、彼氏の説教にうなだれている女の子の姿も見られる・・・。 友達同士、恋人同士、兄弟、夫婦の間で、お互いの経験から得た知識のコミュニケーションのとり方が色々あって、これが全てうまくいけば本当に世の中平和なんですけど、どうもそうはいかない様子。 これは、私も以前とても考えさせられた問題です。 学生の時、ある男性といつも私は一緒にいて、彼から色々な意味で助けてもらって、とても楽しい大学生活を過ごすことができたのですが、一つだけ、いつもうまくいかないことがありました。 会話のキャッチボールです。大ゲンカ、というわけではありませんが、ものすごいストレスを感じていました。いえ、それに気が付くのがとても遅かったんですね。 男性、というのは女性に対して、特に自分の彼女に対して自分の方が上でありたい、と意識的に、あるいは無意識に思ってしまう人も多い、とある人が言っていましたが、私の彼は普段とても優しいので、そんなことは頭から考えず、私はうっかり彼の知らない世界、つまり当時から始めていたTVの世界の話をべらべらとしゃべっていました。 大変だった仕事、出会えた監督ややり遂げた充実感、知り合いになった芸能人の話・・・。彼だからこそ、と思って私は安心しきってしまってたんですね。しかしそれは、私の勝手な甘えだったようです。 彼は彼の知ることの出来ない、交わることの出来ない私の世界の話を聞きたくなかったようで、逆に私の知識よりも自分の経験の方が上だ、ということを一生懸命何かにつけて私に話そうとする。 ところが私はぜーんぜん気が付かず、彼の話を一生懸命 「ふん、ふん。」 とうなずき、素直に聞いていたのです。まさかこれが反撃だったとは知らずに・・・。 しかしある時、たまたま彼の話している内容が、偶然にも前日に私が取材に行って知ってる内容だったんですね。なので嬉しくて、 「あ!それ昨日取材でね!会ったよ、その人!」 って、言ってしまったんです。 彼のその時の顔、忘れることが出来ません。ムッとしたような、と書けば簡単なのですが、もっとこう、焦りのような、がっかりしたような、そしてそれを見せまいとする慌てようというか・・・。とにかく無口になってしまった彼の前で、私は初めて気が付いたんです。「ああ、この人は私に教えたいんだ。」 結構な衝撃でした。よく考えてみれば、全てつじつまが合う。彼が不機嫌になるのは必ず 「私が先に知ってた」 時だ・・・。 私がインドネシア語を少し話せるということを知った時も、何で調べたのか次会った時に、「インドネシア語って、アホでも話せるらしいなぁ。」 と嬉しそうに言ってきたこともあるし、後にヒーリングの学校へ行きだした時も、何を言われるかわからないので黙って通いました。レポーターなんてたいした仕事じゃない、というのを遠まわしに言われたことも・・・。 とにかく、彼の知らないところで私が成長するのが、とても嫌だったんでしょうね。離れていって欲しくない、そういう愛情の裏返しかもしれませんが・・・。 私は会うたびに彼の機嫌をとることに集中しなくてはならなくなり、実はオチのない彼の自慢話を延々と 「へぇ~へぇ~すごいねー!」 と聞くようになりました。友人曰く 「かなり頑張ってた」 時期です(笑)。 カフェでお茶している時、知り合いのマレー人から携帯に電話があった時なんか、その後もう険悪な雰囲気になって(私がインドネシア語を話すから)、 『どっ、どう修復しよう!』 ってもうドキドキ。 そういう時は 「私、政治の問題の何々がわかんないんだけど教えてー。」 と言うと、いきなり機嫌が良くなる(笑)。 何とかかんとか揉めずにいこうと思ったのですが、それは難しく、バカなフリをするのも限界に・・・。いえ、決して私が賢いわけではありません。でも彼女が賢さみたいなものをちらりと見せただけで不機嫌になる男、というのもこれ、どうでしょう・・・。若かったんですねぇ、彼。でも、私も若かった。彼に合わせて、母親のように話を聞いてあげることは、若い私には無理でした。 帰りはもうヘトヘト。でも不機嫌になられるのが怖くて・・・。ん・・・?怖くて・・・? ムリですねぇ。こんな関係・・・。 会話というのは、どっちかが思いっきり好きなように投げたボールをひーひー言いながら取りに行くものではない・・・。 相手と自分の距離を確かめながら 「キャッチボール」 をすることが出来なくなってしまった私達は、とても不自然で、話すことは少しずつ少なくなっていきました。 私がホステスさんなら、彼というお客さんの話を 「え~~すごーい!よく知ってますねー。」 って言い続けてあげるのだけど、残念ながら恋人である関係の中、 「彼女」 という存在に、そしてその知識に対して、世界に対して対抗してくる彼を、どうしても好きでい続ける事が出来ませんでした。 申し訳ない、申し訳ないと思いながらも、自分の中に出てきてしまう 「この人、ちょっとかっこ悪い・・・。」 という気持ちが打ち消せないことが余計また申し訳なく、そうなると 「聞いてあげてる」 という私の態度も傲慢なのだと、それはもう終わりのない罪悪感に襲われました。 どんなに頑張っても、女の子に対してけん制し続け、焦りの色を隠せない彼は、やはりかっこ良くは見えず、少しずつ距離を置くようになり・・・。 やがて私は今の主人と出会いました。私のヘアメイクを担当していた彼は、私の話を笑いながら聞いてくれ、私も彼の話を面白おかしく聞くことが出来ました。 二人の会話は宇宙と同じように広がり、どちらがその知識をひけらかすでもなく、上に立とうともせず、勝とうとせず、ありがたいことにそれは9年経った今も続いています。きっとこれからもずっと。 だけど、人が聞きたくない話もある、というのを教えてくれた、思い出の中の彼にも感謝しています。彼と出会っていなかったら、私だってこのちっぽけな知識で人と闘おうとする人間になる可能性は十分にあったのですから。 今どこで何をしているのか分からないのですが、私のような女ではなく、本当にどんな話でも心から 「へぇ~へぇ~そうなんだー!」 って言ってくれるような、そんなかわいい女性と出会えていますように・・・。ではまた明日。
2006.01.26
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「心配しなくてもいい。相手は自分よりもよく知っている。」 これは、昔お世話になっていたアロマテラピーの先生が教えてくれた言葉です。 確かその先生も何かの本で読んだセリフだとおっしゃっていましたが、この言葉は私をはっとさせるほど強烈に心に飛び込んできて、そして今も常に心のどこかに用意しておく大切な言葉です。この言葉・・・どういう意味だと思います?『知識の幅や違いで、相手より上に立とうとしなくてもいい。』ということを言ってるんです。 周りを見渡すと、上の立場からものを言おうとしている人、いませんか?知識欲、というのは、人間そのものや この社会、文化を向上させる大切な要素ですが、知識の上下を争うことほどバカらしいものはなく、見ていて苦笑してしまいますよね。そういう人が現れたらこの言葉を思い出して、私は闘う姿勢を解除するんです。 「心配しなくても」 というのは、自分が負けることを恐れて牙をむかなくても、という意味。 「相手は自分よりもよく知ってる。」 これは、事実は置いておくとして、相手のほうが自分より知識があるんだ、と考えることで謙虚になれる、ということを表しています。 ヒーリングのセミナーを何年もやっていると、たまに自分よりずっと年上の方がいらっしゃるのですが、これが面白いことに2タイプにくっきりと分かれる。 私なんかの若輩者が話す言葉一つ一つに耳を傾けて、奥底までそれを取り込もうとしてくださる方もいらっしゃれば、その一方、ヒーリングを 習いに というていで来てくださるのですが、いざ来てみたら自分よりずっと若いねーちゃんがホワイトボードの前で立っているわけですから、何かこうしっくりこないんでしょうね。あからさまに初めから 「負けたくないオーラ」 を出す方もいらっしゃる(笑)。 何か自分にとって新しいものを取り入れる時は、なるべくニュートラルでいたいもの。だけど長く生きている分、相手より多くの経験をしているはず、と思っている方は、素直に人の話が聞きにくくなってしまっているのかもしれません。「ああ、そうね。それもあるね。」「まぁ、そうとも言えるね。」「それはね、結局あれと同じだね。」なかなか面白いセリフが飛んできます。「そうそう、よく分かってるね君。」 と言われた時は、さすがにもう吹き出すかと思ったのですが、ここはひとつ我慢をし、 「ありがとうございます。」 なんて言って、頭をかく私(笑)。 これは別におべんちゃらではありません。自分に対して知識の上で対抗しようとしてくる人が現れた時は必ず「心配しなくてもいい。相手は自分よりもよく知っている。」 を思い出すんです。 はいはいって、わざと負けてあげるなんていやらしい態度ではなく、実は自分より相手の方がよく知っているかも知れない、と思うことで、あらまあ不思議!自然に相手に対して尊敬の念が湧いてきます。 事実はどうであれ、現実は揉め事を避けられる。人間が知識の有無でケンカになる、という結構みっともない事態を避けられるわけですね。 もちろん、さりげなーく、そこはかとなーく、僕は君より上ですよ的発言をちらほら出してくる人というのは、かっこよくは見えないし、好きにはなれないものですが、この言葉のお陰で 「ムカッ」 っとくることはありません。 お互いの知らないところを埋めあったり、偶然知っている分野でうなずきあったりするほうが、ずっとステキですよね。 全国のレイキマスターさん、その他何かを教える立場にある方、そうでなくても何かを伝えたい時、そういう相手が現れたらちょっとやりにくいでしょう?そういう時、ぜひ思い出してみてください。この言葉。 そして相手に対していつも上から何かを言おうとする癖が自分にあるかもしれない。そう気付いた人もぜひ思い出してみてください この言葉。 決して美しい言葉ではないけれど、人間関係を美しくする言葉です。 「心配しなくてもいい。相手は自分よりもよく知っている。」ではまた明日。
2006.01.25
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「縁あって」 という言い方をしますね。 この 「縁」 は幸せのための架け橋。不幸になるための鎖ではありません。 幸せになる、ということがちょっと不得手な人がよくこの 「縁」 という言葉に惑わされています。 7、8年のカウンセリングの中で、やはり多いのが 「対人」 についてなんですよね。そして外から見たら本当に簡単に見つかる出口が、中からは見えずに迷い苦しむ人が多い。その人達がよく口にするのは、 「これも縁だと思って・・・。」 誰かと離れたい、別れたいと思って相談しているのに、自分では決定打を出せない。だからどう思う?って誰かに相談するのだけれど、その誰かが 「もう別れた方がいいわよ。」 って言ってもなぜかその本人はなかなか決着つけられないんですよね。たくさんの人に相談する割には、ズルズルとまた離れられず一緒にいる・・・。 今の状況は嫌なんだけど、もめるのはもっと嫌。そういう気持ちをオブラートに包んで言うセリフがやっぱり「これも縁かと思って・・・。」 日本でも、バリでも、よくこういう相談を受けます。その相手は友人であったり、会社であったり、恋人であったり、中にはドメスティックバイオレンスに悩んでらっしゃる方もいる・・・。 『こりゃあ別れた方がいいナ。』 と思うケースが殆どなのですが、もちろん私に決定権はなく、 「別れなさい。」 なんて言えません。本当に別れた方がいいかどうかなんて、誰にも分からないんです。 大切なのは その人がどうしたいのか、です。頭で色々考えるよりも、その相手といて今幸せなのか・・・、これからも一緒にいるのは幸せなのか・・・。それを心で感じ取らないことには前に進めません。 この 「前に進む」 ことに臆病な人がとても多い。前に進みたいなら、その進むためのガソリンは 「悩みぬいた」 という経験でちゃんと満タンになっているはず。 「縁を切る」 というのは、決して悪いことではありません。「いい人」 と言われたくて、恨まれたくなくてズルズルしてしまう人は、この 「縁を切る」 という言葉がものすごく悪い、冷たいものだと思っている節があり、いつまでもその相手と付き合ってあげることは美徳なんだと勘違いしていることが多い。 すっぱり何かと、そして誰かと離れることは 「悪」 ではなく、お互いの環境を変えて幸せを得るための一つの方法なんです。誰もそれを責める権利はありません。大丈夫です。だから新しい縁を手に入れるために、両手で抱えていた荷物を下ろしてみましょう。重いから曲がっていた背中はまっすぐに伸び、未来が見えます。空いた両手は、また新しいものをつかむ為に空へ伸ばしましょう。 何かとんでもない事になっているのに、 「縁だから」 といって離れられない。それは自分で自分を 「縁」 という鎖で縛っているだけ。「数億分の一の確立で出会ったのだからこれこそ縁。今はつらいけどきっと何かあるんじゃあ・・・。」 人に別れたい、と相談しておいて、最終的にそのクライアントの口から出る言葉がこれ。我慢して、許して、乗り越えて、という時間をもつ人だけが誇り高く輝かしい人物であるなら、この世の良し悪しのジャッジは、いかに苦労したか大会になってしまう。 縁を切った・・・つまり断腸の思いで別れた人だって、手放すつらさや罪悪感は大きく残るはず・・・。持続させるのも、別れるのも、大きなストレスであり、苦しみなんですよね。 最近、たまたま同時に別々の人から別れについての相談がありました。「あなたはあなたの心を一番にかわいがってください。あなたの心はどうしたいですか。」そう聞くと、あっという間にどちらかに決められるんですね。その人達はほぼ同時に自由になり、そして相手をまた自由にしたことに気が付いたようです。 その人達がわずらわしいものと別れたから 私は嬉しいのではなく、自分の未来に幸せが満ちてきているのを、彼女達自身が感じ取ってくれたことが何よりも嬉しい。私に相談してくれてありがとうって気持ちになります。 誰かのことを理解し、努力して関係を持続させ、我慢して、その先に得るものがあると思うなら、その人はそうすればいいのです。それが幸せだと思うなら。しかしそういう人に限って、続けて言います。 「私、幸せになりたいんです。」 ・・・・これ、ちょっと矛盾しちゃってる。 きっぱり出来ない自分がちょっとかっこ悪くて、 「何かの縁で一緒にいるんだから。」 とふわふわしている言い訳に使っちゃうこともあるんでしょうね。ご自身が気が付いてない間に。 だけど苦しむだけのために、神様は人と人を繋ごうとしているのではないと思いますよ、きっと。一緒にいるのも勉強、別れるのも勉強。どちらも経験なら、経験の方法を選ぶのは自分。 「いいご縁があって嬉しくて。」 って、たくさんの人に言っちゃっていた場合、後でもめたら別れにくいんですよね。 そうなると、 「きっとこのつらさを勉強するために、この人と会ったんだと思うの。」 と言い出すんです。 確かに人から学ぶことは多いのですが、縁から学ぶものではないんです。「縁」 で窮屈になるのではなく、どちらかと言うと 「縁」 に感謝できる方が幸せですよね。 ・・・・そもそもいやだいやだと言いながら、縁だから仕方がないって付き合い続けるのは、相手にと~~っても失礼ですよねぇ。幸せの定義はみんな違う。頑張って縁を切った人は偉い。 それも幸せ。縁を切らずに頑張る人も偉い。 それも幸せ。出会いは驚くほどその人の人生に影響を与えます。だからこそ逆に、 「縁」 という言葉に惑わされてはいけない。幸せになりたいなら。 今までたくさんの相談者と話していたら、幸せになる人と、そうでない人の違いが、この 「縁」 の方程式の使い方にある、と判断できます。 うまくこの方程式を使って自由になった人と連絡を取り合うと、そのすがすがしい気持ちがこっちまで伝わってきて、どうかまた新しい出会いがありますように、と そう強く願います。 バリと縁あって、私はここにいる。 だけど、 「縁」 という言葉に縛られず、バリ島そのものを見つめています。ではまた明日。
2006.01.24
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思い出すと胸がきゅってなる、小さな小さなエピソードです。 中学生の時、仲良くなった友人がいました。中学1年2年なんて、まだ子供ですよね。マンガの貸し借りや学校帰りに内緒でアイスを食べたり、くだらない冗談で息が出来ないほど笑う・・・。 大人から見たら何であんなものがおいしいんだ、とか、何であんなことがおかしいんだ、と不思議がられる子供の世界。私もその友人とは やはり他に漏れず、面白おかしい時間を過ごしました。 学校の中の誰も知らない場所で将来の夢を話す日があれば、学校帰り、神社の中の大きな木の下でアイスを食べたり、みつあみをほどいたり、汗をかきながら宿題を写しあったり・・・。 制服のまま彼女の家に寄り、誰もいない台所からいつもスプライトを失敬して、二人は縁側であのシュワシュワを味わう。私は炭酸が苦手でいつも飲むのが遅く、口の中がチクチクすると少し涙目になっちゃうから、それを見て彼女が大笑いをする。二人でゲラゲラ笑いながら飲むそれは、夏の味。 セミの声より大きな声で私達は毎日を謳っていた、そんな夏が終わった頃・・・。 ひょんなことから周りのクラスメート達が彼女をからかい始め、あれよあれよの内にそれが広がってしまった、ということが起こりました。学校の中でよくあることです。 私は彼女のことをとても好きだったのに、気が付けば彼女のそばを離れていました。今思えば大きな後悔を・・・いえ、その時もその一瞬一瞬後悔をしながら過ごしていたような、そんな苦い毎日でした。 こういう事のきっかけというのは、後で考えるととても単純で 「髪を切ったら変になった」 とか何とか、そんなちょっとしたことで誰かが笑い始めたのが始まりだったように記憶しています。 もちろん彼女に何の罪もなく、そしてそれはみんな十分知っていることなのに、なぜ止まらないんでしょう、ああいう流れは。誰かが 「もうやめようよ。」 って言わなければいけない。 そしてそれを言うのは私のはずでした。なのに私は一人になった彼女をかばうことがどうしても出来ず、苦しい時間が流れていきました。 もちろん 「いじめ」 なんて言える程のひどいものではありません。が、いくら殴る蹴るや陰湿ないたずらがなくったって、意図的に誰かを一人に追いやる、ということはあってはならないことです。 一人がいいっていう人間もいますが、でも彼女はきっとそうじゃなかった。そう思って、私は彼女を助けてあげなければ・・・一緒にいてあげなければ、とそのきっかけをつかもうとしていたのですが、逆に彼女を見るたびにそれが出来にくくなっていることに気が付いてしまいました。日に日に変わっていくのです。彼女の後ろ姿が。それはもう 「一人ぼっち」 の後ろ姿ではなく、 「一人」 の後ろ姿でした。 休み時間、他の女の子たちが楽しそうにおしゃべりをする中、彼女は背筋をまっすぐ伸ばして椅子に座り、一人で本を読んでいる。「自分には何も後ろめたいことはないわ。」 彼女の背中はそう言っていました。 一人になったからといって、また他の誰かにくっついていくこともなく、シクシク泣いたりするわけでもなく、毎日ちゃんと学校に通ってきた、たった14歳の彼女のその背中には、もうプライドの高さと強さが滲み出ていました。つまり彼女はあの時、 「大人」 の入り口を見つけたのですね。 「彼女を助けたい」 「助けてあげたい」 と考えていた私は、己の高慢なおろかさに気付き、彼女とは反対に弱く、小さくなっていく自分を恥じました。「あの子はもう私の助けなんか必要としていないんだ。」 廊下でばったり会った時に目をそらしてしまうのは、私の方になってしまいました。 「ごめんね」 を言う事もできず、卑怯な私が自身を恥じていることを、おそらく彼女は見抜いていたでしょう。 それからしばらくして、彼女にも新しい友人が出来、その二人は遠目にも楽しそうで、いつも静かに笑っている・・・。そんな二人を見て、ほっとしたような、寂しいような、心の中によく分からない感情が生まれて消えたのを覚えています。 14歳の心で、漠然と 「大人になるってこういう事なのかな・・・。」 そんな風に考えながら季節の変わり目を迎えていました。お互いに違う時間を過ごしながらも、少女達は少しずつ背が高くなり、転げるように走った学校帰りの坂道を、静かに下り始める。 罪悪感や喪失感。そんなほろ苦いものの味を少しずつ覚えて、私達はいつの間にか大人になり、ポケットに入っていたカラフルなキャンディーの味を忘れてしまった頃、私は彼女に話していた通り、レポーターという仕事を手に入れました。おそらく彼女はブラウン管を通して私を見ていたでしょう。彼女は希望通り幼稚園の先生になったのかな。 あのまま何も言葉を交わさず卒業してしまい、今はどこでどうしているのか分かりません。でも 「一人でいられる強さ」 を私に教えてくれた彼女の後ろ姿が今でも忘れることが出来ず、だから私はあれから何があっても、たった一人だとしても、いつも背筋を伸ばして毅然とした態度をとろうと努力できたのかもしれない・・・。長い年月が経って、今 私はバリにいる。パーティーやレストランでお酒の飲めない私が注文するのは、いつもスプライト。透明なビンの向こうに、私の中の少女の夏がよみがえる。神社の大きなけやきやセミの声。教科書の落書きや非常階段の内緒話・・・。 すぐそこに大人になる時が来るのを知らずに、少女達はキラキラと光る時間を走り抜ける。それはあまりにも短く、そして美しく、まばたきをする間に通り過ぎてしまう、宝物のような季節。 口に入れるとやっぱりチクッとするこの小さな痛みは、あの時の罪悪感に少し似ていて、グラスの中で生まれては消えるこの小さな泡のように、私の心で今もプチプチとはじけるノスタルジーです。ではまた明日。
2006.01.23
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宇宙・・・そして私達の全てを造ったのは素粒子か・・・それとも神。どちらだと思いますか?素粒子が見つかるまでも、そして見つかった今現在も、この論争の果ては見えません。 十代、その半分以上をカトリックの学校で過ごしました。朝 お祈りから始まって、賛美歌を歌う。1時間目は科学。炭素だとか水素だとかで、2時間目は宗教。アダムとイブが人間の始まりであり・・・と言っていたら3時間目は生物。微生物から進化して人間をつくっているのはたんぱく質でアミノ酸で、4時間目 日本史では日本書紀が登場・・・。 なんというバラエティーに富んだ午前中でしょう。昼食の時には、もう何がなにやら(笑)。もちろんテストもありますから、ミトコンドリアも電子もアダムもイブも覚えとかなきゃならない。バランスを取ることが難しすぎる学生時代でした。 だけど今となってはいい経験です。十代という頭のやわらかい時代に、たくさんの考え方や思想を知識としてだけ入れておいてくれた、そんな恵まれた環境だったと思い返しています。 生徒に何を押し付けるでもなく、今考えられている世界の全ての情報や可能性を公開してくれているだけで、何にヒットするかはその生徒一人一人によって違うわけですから。 学校というのは自由がないというイメージが強い場所ですが、実はそうではなく、自由に物を考えられる大切な空間だったのではないかと思います。 先生達の中には、カトリック信者やシスター、神父様も多く、彼らは宗教というものと物理や生物などの分野とをどうバランスを取って理解するのだろう・・・と思っていましたが、今思えば彼らは両方を 『有り』 のエリアに入れていたのではないかと考えています。 どちらかを 『無い』 のエリアに入れてしまうことは、もうあっという間に争いの種になったりして、多数決で勝った方が必ず負けた少数を攻撃したりすることになりますし、そうなると 「思想の自由」 というものが消されてしまう。じゃあ、きっとどっちでもいいんですよね。粒子が宇宙を・・・・・?神が宇宙を・・・・・・? 二つの、あまりにも大きく違うように見えるこの二つは、それぞれ生み出した形やストーリーは別々であっても、それらは今とてもバランス良くこの世を創生し続けているように思います。 例えば最初の一粒を、これを神だと考えるなら、創造主はやはり神だと言えるかも知れないのです。もしくはその一粒を生み出したのが神だと考えてみても同じ。 それを神が創ったのだから、そこから生まれるエネルギーも、そのエネルギーが変身した物も、私達も、全て 「神が創った」 と言えるでしょう。 では、素粒子が宇宙を創ったというのを解明した物理学・量子学の世界はどうなのかというと、 「宇宙が素粒子で出来ていたという事」 と 「今全てのものが粒子で出来ているという事」 を、この分野ならではの発想で探り当てたわけですから、これもまた堂々と 「この世の全てのものは同じである。」 と、似たような答えを導き出しているのです。 どっちもすごいと思いませんか? そして、どちらも似ていると思いませんか? どっち・・・というよりも、ちょっと面白く考えるとすると、「素粒子は神だ」 という宗教が生まれたら、とうとう一体化しちゃいますよね(笑)。でも可能性がないわけではない。宗教によって神の姿・形は色々だったりしますから、 「神様って粒の形だったんだー。」 って考える人だって出てくるかもしれないんです。 逆に、 「いや神なんかいない」 と考えて、がむしゃらに宇宙を解き明かした学者が、宇宙の始まりを垣間見た時、 「ま、まるでこれは神業だ・・・。」 と、逆に神の存在を感じることがあるかもしれない。 どうやらこの二つは、違うように見えて実は一つの様な気がするのは・・・いえ、かぶっている部分があると感じるのは、私だけでしょうか。 どっちが正解かと考えるのではなく、両者の歴史が生み出した産物に感謝する方がずっと楽しい。 数多くの宗教からは、たくさんの思想、哲学、そして生きることのありがたさや死への恐怖の軽減、戒めや教えが自然に人々の生活に根付いているし、神を恐れ、讃える気持ちがあったからこそ生まれた、たくさんの歌や絵画、彫刻などの、人間でしか作ることのできない芸術という分野が、この星の誇るべき宝として生まれたのです。 人間ならではの感性や情緒的発想を育て、人間という生物の意識を高めた、宗教という一つの世界。 そして、その人間がやはり人間ならではの頭脳でもって、自然の理を、命を、宇宙を解き明かそうとした科学の世界。このレンズで見てこそ見える命の仕組みや文化も同じように展開され、ミクロの世界にまで私達をいざない、感動を与える。 輝く星を見て 「わぁ~きれいな星。きっと神様がウィンクしてるのね。」 って、うっとりする彼女と、 「いつかあの星に行ってみたいなー。」 と、宇宙への憧れを抱く彼氏。 そしてこの二人が愛し合っている。 詩的で情緒的発想と、何かを追いかけ確かめる発想とが別々に進化し、時に組み合わされ、この世界は今も創造されているように見えます。 そしてその二つは、常に離れることなく重なり合い、私達の今日を紡いでいる・・・。CDに収められた賛美歌。マイクを通して伝えられる祈りの言葉。教会に行くために乗る電車。デジカメで美しい花を撮る。その写真を愛する人にメールする。送られた人がその画面を見て、ため息をつく。「まるで神様がつくったみたいにきれいだ・・・。」 きっとこの世界は、神が粒子となって散らばっている。P.S. 「宇宙」 な 一週間、難しかったですか(笑)。 私ももちろん専門家ではありませんから、興味のある方はもっとちゃんとした文献を読んでみて くださいね。参考文献 : 「アインシュタイン 不可解な思考の世界」 ニュートンプレス社「ブラックホール宇宙 解き明かされる時空の謎」 ニュートンプレス社「量子論を楽しむ本」 佐藤勝彦 PHP文庫推奨文献 :「相対性理論を楽しむ本」 佐藤勝彦 PHP文庫「最新宇宙論と天文学を楽しむ本」 佐藤勝彦 PHP文庫旧約聖書新約聖書ではまた来週。
2006.01.20
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この2日間の宇宙に関するお話。その中には物質も光も波動も入っていて、今まであやふや過ぎた 「波動・・・?って言われても。」 「光が失せている・・・って言われても。」 と思っていた方は、もしかしたらちょっとは身近なものに感じられたかもしれません。 中身がよく分かっていなくても、ああ 誰か偉いおっちゃんがちゃんと観測したわけだから、あるにはあるんだ、と 「実在」 というエリアに入れていただけると、今日のお話がよく分かります。 今日は、この宇宙を見つめたその答え。 もちろんまだまだ謎の多い宇宙ですが、難しい話は無しにして、何か気が付かれませんでしたか? とても簡単に、かなりはしょって書いたのですが、宇宙が生まれて惑星やたくさんの銀河系、太陽系をつくっていった中で、粒子や光、物質というエネルギーの枝分かれしていく中、どこかに 「悪」 があったでしょうか。 「良い素粒子」 「悪い素粒子」 とか、 「良いエネルギー」 「悪いエネルギー」 とか、そういうものは一切出てこないんです。クォーク、レプトン、中性子、そして原子核、たくさんの粒子が生まれた中、このミクロの素粒子たちには何の罪もなく、 「悪い」 と呼ばれるものはないのです。 後に原子爆弾や中性子爆弾の元になる中性子や原子核ですら、この時点では悪ではないのですよ。このエネルギーを、人をあやめるという事で 「悪」 もしくは 「恐怖をあおるもの」 に変えてしまったのはつまり人間、なんですよね。 宇宙が始まった時には、善も悪もないエネルギーが広がった。そして今私達の体や全てをつくっている。のに。なぜ 「悪いエネルギーを持っている」 というセリフがあったりするんでしょう。なぜ 「波動が低い」 というセリフがあったりするんでしょう。 このブログの中で何回か、私はメッセージを伝えています。私のところに来てくださった人達の中で、一番多いのは若い女性なんですよね。 もう私にとっては妹のような存在で、その人たちの力になったり、生きていく自信になったりするような言葉を、この ない頭でひねり出しているわけです。 だから私の大切な大切な妹さん達がですね、誰かに 「あなたはエネルギー汚いわ。」 と言われて落ち込んだりしている時は、もう他人事ではないのです。 そういう時はですね。この量子学や物理学が助けてくれるんですよ。こういう、エネルギーだとかで人の良し悪しを判断する価値観の生んだひずみを、この難しく見える世界が埋めてくれる。「あなたはエネルギー低いって言われたわけね?本当にそう思うの?」「・・・よく分からないけど、とにかくダメ出しをされたように思います。」「では、悪いエネルギーって何?」「分かりません。」「じゃあ本屋さんに行って、立ち読みでいいから量子学とかエネルギーとかの本をざーっと読んでみて。そこに 『これが悪いエネルギーです。』 『これが汚いエネルギーです。』 って書かれたエネルギーが紹介されているかどうか。」 もちろんそんなこと書かれていません。ちゃんとまじめに、まさに生涯を捧げてその研究をしてきた偉いおっちゃん達が書いた本に、 「悪の粒子」 「善の粒子」 って書いてあったらもうびっくりしちゃいますよ。 それを聞くと、その人はとても安心する。言っている意味がよく分からなくても、「エネルギーが悪い。」 とか言われたら、いい気はしませんよね。 同じ感覚でよく使用されるのが 「次元」 。よく聞く 「高次元」 とか 「低次元」 というのもちょっと面白いんです。「次元」というのは、その世界にあるものがいくつの方向に進めるかで決まるもの。 私達の世界は、一応今3次元と 「時間」 を合わせて4次元。この1,2,3,4・・・という数字に惑わされてしまうと、では5次元は上の方の世界?6次元はもっと高い次元?という風に考えてしまうんですよね。 この物質社会ではない他の世界は、もっと素晴らしく、不思議で、全てが幸せで・・・とにかく 「きっと良い」 というイメージを膨らませてしまうと、未知なる世界への憧れが、逆に今この私達が暮らす次元を低いものとしてしまう節も出てくるわけです。 次元はレベルとは少し違います。が、割と 「レベル」 の代わりに使われていますね。「あなたレベルが低いわね。」 って堂々と言えない人が、ちょっとひねって「あなた次元が低いわよ。」 って言ってるだけなんです。 攻撃力を増やし、悪口言ってる感を減らす。これはそういうずるいトリック。次元についての定義を知らない人は、もう何だか無条件降伏になっちゃう。「あんたなんか嫌いよ!」 って言ってくれた方が、まだ善良かもしれませんね。 波動もそう。高波動・低波動は、大波かさざ波かってことですから、上か下かではないんですよ。 いずれにしても、次元も、波動も、エネルギーも、「低い」 「悪い」 という言葉をくっつけられて、人をへこますエネルギーに変わるのです。悪いエネルギーが存在するのではなくて、言う人にただ悪意があるだけなのです。宇宙誕生の時には悪くなかったのに。ねぇ。 昔、何人かで色んな波動セミナーやワークショップへ通っていた時、よくその講師や他の生徒さんから 「わぁ、あなたって波動が高いわねぇ。」 「高次元と繋がっているようね。」 と褒められ(?)たことがよくありました。 何だかそういうものが好きで、そういう場所に行くわけですから、そう言われて嫌な気はしません。ちょっとばかし得意になった時もありましたが、あることに気が付きました。私の友人も一緒にいるのに、私に向かって 「高い」 と言うのは、では友人は低いのか・・・?というよりも、ちょっと無神経じゃないか・・・? あれ・・・? 何だかよく分からないけど、この友人が何かの点で私より劣っているとか、低いとかには見えないわけです。どうしても。「何だろうなぁ、この感じ。何かよく分からないもので良し悪しや高低をつけて、さらにそれをしゃべっちゃっていいものなのか・・・。」 これが、私の 「エネルギー考」 の始まり。これを考えたり、調べたりしていったら・・・宇宙があった。というわけです。おかしな優越感を持たなくてよかった・・・。サブい 「自称特別な人」 になるところだったー(笑)。 もちろん全てがエネルギーだとしたら、例えば病気をしたり、落ち込んだりした時に、 「エネルギー落ちたー。下がったー。」 というのはイメージ的にも分かりやすく、やっぱり正しいのですが、しかし誰かにおもむろに指摘されるものではありません。 もしこの先あなたがどこかのセミナーで何かを言われたとしても、傷つかなくていいんです。安心しといてください。宇宙が生んだエネルギーは、あなたにダメ出しをするためにエネルギーを放出したのではない。私を有頂天にさせるためでもない。そういうことを考えていくと・・・やっぱり始まりは、優しき神様だったのかなぁっなんて思い、今日も夜空を見上げています。神様、宇宙をありがとう。ではまた明日。
2006.01.19
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昨日の宇宙。難しかったですか? まあまあそう言わずに(笑)。でも数億年の宇宙誕生を、あーんなに短くまとめたんですよ。これ以上簡単に出来ません・・・。 この前書いたように、今エネルギーワークと呼ばれるもののセミナーの中で、 「エネルギー」 という言葉が飛び交う割には、エネルギーは何なのか、どこから来たのか、という説明が少ないんです。 言葉に詰まるといきなり 「宇宙の力です。」 と言って、本当に受講生の皆さん全てが納得するわけではない。「宇宙のエネルギー」 と口に出すならば、ほんの少しでも知っておく必要があるようですね。 そしてもう一つ。よくこの世界でごまかされてしまう言葉NO,2。『それは光です。』 今日はこの 『光』 についてのうんちくを垂れましょう。 光、というと皆さんは何を思い浮かべますか?日光、ライト、ろうそくの火、などの身の回りの光。そして目で見えない光。例えば、レイキのアチューンメントの時見えるまぶたの裏のまぶしい光。あと、光っている、という表現。 「花や草が光っている。」 とか 「あの人は最近光ってるね。」 みたいな・・・。どれが本当の光だと思います?実はどれも本当の光なんですよね。 ただ可視的な面で、つまり肉眼で見える以外のものを指差して 「これは光です。」 と言われると、 「?」 ってことになりますから、納得した上での 「あ、そうですか。」 は、出てこない。納得しなくても 「嬉しい」 と感じる光なら、ただ喜びを感じるだけでいいのだと思います。 「光」にまつわるイメージで、悪いイメージを持つ人はほとんどいないですよね。だったら喜んでその光を受け入れていいのではないか、と。私も 「光」 という言葉自体がとても好きです。 ビッグバンの時に発生したエネルギーの中で光が生まれた、と言われています。宇宙の始まりからこの光が生まれるのはもうほんの一瞬の間ですから、 「はじめに 光 ありけり。」 とはよく言ったものですよね。 目に見えるものからスタートするとなれば、素粒子は目に見えませんから、見えたのはこの 「光」 からだと言えます。昨日書いたように、一粒から始まって他からのなんの混ざり気もない状態から全てが枝分かれしていってるわけですから、その中で生まれ出るものは全て 「同じエネルギー」 と言えるのです。 つまり最初の一粒も、クォークも反クォークも、そして光も全く同じ。同じ 「エネルギー」 なんですよ。 そもそも光というのは、波(波動)だと考えられていたのですが、アインシュタインにより、光の正体は光子という粒である、と見い出されました。 ところが現代ではさらに発展して、空間は全てミクロの粒の集まりだと考えられるようになってきました。 ところが・・・またまた調べてみると、この粒の一つ一つはやっぱり波の性質を持つのです。 そして物質もまた同じ。あらゆる物質が波としての性質を持っているのですが、質量が大きいためにほぼ一点に収縮している。全てが一点に収縮すると、 「モノ」 という形になるのです。 ややこしいですか? つまり、やっぱり物も光も空間も、波であり、粒であり・・・。ということは、物は波であり光であり、そしてその全てがエネルギーで出来ている、ということになるのですよね。 よく言われる 「波動が・・・」 「光が・・・」 というものと、横においてある花瓶の花は全く同じ。ですから光っているというと、全てのものが光っているわけです。全てが波打っているわけです。そして全てが同じもので出来ている。「波動を感じる」 ということと、 「何かが光って見える」 というのは、同じこと。 レイキのアチューンメントの時に見える光も、これと同じなんですよね。莫大なエネルギーを使うわけですから、そのエネルギーが光に変換されたら莫大な光に見える。 「私はビリビリしたー。」 という受講生さんと、 「私はまぶしかったー。」 という受講生さんは、全く同じものを感じているわけで、どちらが良いという話ではないわけです。 そしてそれを感じる体も、嬉しいことがあった時、ぱぁ~って明るくなる心も、やはり全て同じ 『光』 。 だって、同じところから私達は生まれ、今日も光ったり、波打ったりしているのですから。ではまた明日。
2006.01.18
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全ての始まりは、一粒の素粒子でした。 宇宙の始まりは 「ビッグバン」 からだ、という事はなんとなくご存知だと思います。ところが、最新の研究によって 「ビッグバン」 以前の状態が解明されつつあります。 これが真の宇宙創生。 始まりは、時間も空間も物質もエネルギーもまだ存在しない“無”という状態の中に突如現れた一粒の素粒子。この素粒子が非常に高いエネルギーを持っており、現れたとたんにそのエネルギーが“無”の中で膨張した・・・。 エネルギーというものは、高い状態より低い状態になろうとする性質がありますから、ぱんぱんに詰まったその粒のエネルギーは、一瞬にしてぶわーっと広がってしまったわけですね。 このぶわーっと膨張したものが、私達の 「宇宙」 なんです。 この素粒子を見つけ出したのは、量子学の分野・・・つまりミクロの世界なんですが、それまで他の分野での宇宙創生説ではまだ矛盾が残っていたり、説明できかねていた部分を、このミクロの世界が突き止めたわけです。 宇宙、この大きすぎるものを ミクロ、この小さな世界で解き明かす。何ともおもしろい進化を遂げていくものですね、人間の発想は。 この宇宙誕生。要するに、一つの粒から全てが始まったんだな、というくらいに頭に入れて置いてください。(もっと詳しく知りたい人は、専門書をおススメします。かなりはしょってますから。) この一粒のエネルギーの膨張は、一秒の一兆分の一を、さらに一兆分の一にして、それをまた100億分の一にした時間に、何億光年にも引き延ばされ・・・はい、頭で考えず もーのすごい短時間で広がった、と一言で取り込みましょう(笑)。 世に知られている 「ビッグバン」 は、実はその後に起こったものなのです。ビッグバンとは、莫大なエネルギーが一挙に解放された瞬間・・・イメージ的に言えば爆発に近いものだと言えますが、その中でこの粒から広がったエネルギーがこの世の全ての物質、そしてエネルギーと呼ばれるものの元となり、進化をたどることになります。 この宇宙に満ちた莫大なエネルギーから生まれたものは・・・。ここで私が難しく書くと、余計皆さんは宇宙から遠ざかろうとするでしょうし、実際私なんかが難しくかけません・・・(笑)。 頭を柔らかくして読んでください。。相対性理論によると、エネルギーと物質は互いに自由に転換できる、とあるのですが、これが要するに物も何もかも全てが同じである、ということを言っているんですね。 よく 「万物は全て同じ」 とか言いますよね。この相対性理論はそれを立証づけた理論なのですが、事実この宇宙の始まりにおいて、一種類のエネルギーから物質の元となる粒子がつくられ、宇宙という入れ物の中の環境の変化からこれが生き残り、「物質」 が生まれたのです。 この大量につくられた粒子は、名をクォークさんと言うのですが、このクォークさんがくっついて陽子をつくってくれたり、中性子をつくってくれたりして、それが合わさって原子核が出来る。そして電子が原子核の周りを回り始めて原子が出来た。 ここからはご存知のように、原子がいくつか結合して分子が出来る。覚えてますか?高校の授業。この分子は、物質の化学的性質を持ち合わせている。そのおかげで、物質である星も月も太陽も、そして地球も、その地球にいる私達人間も動物も家もパソコンも食べ物もコーヒーカップも、つまり全ての 「物」 がつくられたということになるのです。 万物。全てのものが、です。宇宙を創り出した粒と、粒の集まりである私達は同じ。どう考えても最初はそこからでしかないのですから。 小麦粉と卵とお砂糖で、ケーキとドーナツを作ったとしますね。そのケーキをずーっと細かく分析したら、小麦粉と卵とお砂糖なんです。ドーナツをずーっと細かく分析したら、やっぱり小麦粉と卵とお砂糖なのです。 焼くのか揚げるのかの違いで違うものが出来てしまっても、他に何も加えていないなら、やはり元は同じ。 宇宙創生から、その一粒から出たエネルギーから私達は繋がっている。全てのものがあなたと同じ。全てのものが私と同じ。 私達人間を含め、その周りにある全てのものが、この分子の粒で形作られており、その全ての元は宇宙誕生の瞬間、まばたき一つをするかしないかの間に生まれていたのです。 そして気の遠くなる時間をかけて、この粒たちは姿を変え、形を変えて全ての命をつないでいる。目に見えるものは、見えるという形で、または、さわれるという形の宇宙であり、見えないものは、波動であったり、要するに 「力」 と呼ばれる宇宙なのです。 逆に私達の体を細かく細かくほぐして、割って、砕いていくと、やはり素粒子・・・。小さな粒の集まりだということがわかる。 身の回りにあるものの全てが宇宙である。と、ここで初めて言えるのです。私の宇宙も、あなたの宇宙も、その誕生の瞬間を懐かしく記憶しているかもしれない。だから人間は宇宙への憧れをなくさないのでしょう。 それは物理、量子の世界と共に、望郷の思いに似た感情がこの体に組み込まれているからかもしれません。 始まりの一粒に思いをはせて。ではまた明日。
2006.01.17
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レイキなどのエネルギーワークをお教えする時、どうしても一度は 「宇宙」 という言葉を口にしなければならない時があります。 もし最初から宇宙という言葉を連呼したならきっと、10人中7人はひいてしまうでしょうね(笑)。当たり前ですよね。今、この社会の中で生活をし、仕事をし、毎日をがんばっている人から考えると、いきなり宇宙と言われても、それは自分とはとてつもなくかけ離れた所にあり、あやふやで、よくわからないと感じてしまうというのは当然のことでしょう。 ですから、セミナーの中でいたずらに宇宙の名を語る事はないのですが、本当ならもっと普通に、簡単に宇宙を理解していただけたら、レイキやエネルギーワークというものがより納得して使ってもらえるかも知れないのです。 もちろん私も宇宙の専門家ではありませんし、自分で研究したわけでもありません。が、エネルギーというものの実体を知らずして、つまり感覚や感性だけでそれを実証したり、定義付けることは、大切な理論が省かれた状態で結果だけが広まることになり、エネルギーワーク全体が 「あやしい」 と言われる域からいつまでたっても抜け出られない、という現実を生み出すことになるのです。 「あの人たちは、言葉に詰まったら 『これは宇宙の力です』 って言うよね。」 これは昔、 『何とか超常現象バトル』 を一緒に見ていた友人が、ぽろっとこぼした言葉。 おそらく、その精神世界推奨派の皆さんは何の悪気もないのでしょうが、敵チームにバカにされ、挑発され、うっかり逃げやすい言葉を使ってしまうのでしょうね。 宇宙の力、と言っても、それはきっと嘘ではないのですが、多分それを説明する話術が足りなかったり、結論を導き出すまでの立証が立てられないので、そこを突っ込まれて、より怪しくなってしまうわけです。 『宇宙の力』 『波動』 『次元』 『光』 これらのあやふやなものは実はあやふやではなく、それを言う人があやふやにしてしまっているだけで、本当は物理学の世界で、そして量子学の世界で、事細かく立証されている現実なのです。 中にはまだ確実とされていないものも、仮定理論もありますが、精神世界とは全く違う視点から始まり、違う過程を進んでたどり着いた宇宙には、まるで手に触れることが出来るかのような存在感があり、理解と驚きの上に成り立つ、それこそが莫大なエネルギーだと感じる事ができるでしょう。 その奇跡に驚愕し、感謝し、おそらく神の存在をも感じずにはいられない無限の世界。 難しい本を読まなくても、ほんの少しでいいんです。人間の頭脳と科学の歴史が見つけ出した宇宙の姿を覗いてみてください。たとえその全てが理解できなくても。 思考の中で宇宙を感じるのは、瞑想で宇宙へ行くのとはまた違った感じを覚え、そしてそれが同一である事にも、いつか気が付くでしょう。明日は 『宇宙の誕生』 です。興味があれば覗いてみてくださいね。ではまた明日。
2006.01.16
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レイキのセミナーというのは、もちろんレイキを使えるようにお体を整えさせていただいたり、その使い方をお教えしたりする所なのですが、私のセミナーはほぼマンツーマンが多いため、どうしても 「悩み事相談室」 になってしまう時があります(笑)。 これもとても大切な時間です。そういう悩みを今抱えているならば、今日から使えるこのレイキをこういう風に使ってみてくださいとか、マニュアルではないオリジナルの使い方がそこで生まれてくるんです。 私も勉強になります。皆さん たくさんの悩みやつらい過去をお持ちで、人を癒してみたいという気持ちよりも、まず自分を癒したいという方が多いようです。これは私にとってはとても嬉しいことなんです。 痛み、というものを味わったことがない人には、やはり他人の痛みは理解できにくいもの。傷を負ったことのある人には、他人の傷も見つけやすい、気が付いてあげやすい。 つまり自分が今痛い思いをしている、もしくは傷が治っていないという人こそ、ヒーラーとしていいスタートを切れるのではないか、と考えています。 自分が誰かと全く同じ種類の傷を負っていれば、治し方もわかってあげられやすいのですが、残念ながら皆さんもちろん傷の種類も、深さも、痛みの感じ方も違うわけですよね。 それならば何を重点的に考えるかは、自ずと決まってくるはず。スポットを当てるべき所は、その人の訴えかけているメッセージなんですよね。怒っているのか。泣きたいのか。悲しいのか。 全く同じ傷を負っていなくても、その方の口から出る言葉や態度などから、出てくるSOSに耳を傾けることは出来るはずです。 ですから冷静にその傷を分析したり、痛みの度合いを測ったりして、 「それはみんな持ってる痛みよ。」 とか 「考えすぎなんじゃないの。」 と言ってしまうことは、余計に傷を深くしてしまう可能性があるんです。 「計り知れない」 という言葉がありますね。まさに人の痛みは計り知れない。自分の物差しで計ることは出来ないんです。 それなら 「ああ、痛いんですね。」 「苦しいのですね。」 という風に捉えてあげなければ、その方への癒しや問題解決には繋がらないわけです。 この前、あるご婦人が家に遊びに来てくださいました。何を話すでもなく、子供と遊んだり、犬とじゃれあったりして、ゆったりとした時間を一緒に過ごさせていただいたのですが、特別深くお話ししなくても、その方が今まで痛かったこと、苦しかったこと、つらかったこと、我慢していたことが、なんとなく笑顔の片隅に見え隠れしていて、 「ああ、この方はとてもがんばられたんだなぁ。」 と思いました。 自分と全く違う場所で、違う人生を、違う年代の中で生きてきた方の痛み。全てを理解できなくても、お会いできた、という嬉しい事実がその方と私の何もかもを超え、共鳴する感覚を生んでくれました。押し付けがましい癒しや愛ではなく、本当にその方が欲しがっているものが、この方の周りを包みますように。真綿のような柔らかい言葉や光が、この方の痛みを和らげる日が来ますように。そう思いながらお見送りしました。 いつの日か、この方がヒーラーになる日が来たら、きっと同じ痛みを持った女性達に、その方にしか持てない言葉で癒しを行ってくれるのではないかと思います。愛の中で迷う人は、何を探しているのか・・・。本当の愛を知っているから、そこにたどり着こうとするため、遠い道を迷いながら歩いていくのかもしれませんね。たどり着いて振り向けば、歩いてきたいばら道が光を放っている。体に刺さったトゲが、いつの日か光りながら溶けていきますように。ではまた来週。
2006.01.13
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最近、個人のメールアドレスに日本からたくさんの質問が届くようになりました。 その中に、「バリでレイキを取得したいのですが、どうしても行く時間がありません。日本のどこかのセミナーを受けようと思うのですが、どういうティーチャーを探せばよいでしょうか。」 というご質問がありました。 これは時々来る質問です。一度足を踏み入れたらそこからいつの間にか逃げられなくなってしまう怖さを、皆さん心配されるようです。うっかり飛び込んでいいのかな、どんな人が教えていて、どんな人たちが集まっているのかな・・・そう思うのでしょうね。 これはあたり前です。人間は賢い生き物ですから、警戒して物事を運ぶということがとても大切だ、とわかってるんですよね。この 「どういうティーチャーを探せばよいでしょうか。」 と質問してくださった方、おそらくとても頭のいい方です。 「先生のお勧めのティーチャーはいますか。」 とは聞いてないんですよね。もし私が 「じゃあ、この人がいいですよ。」 って言ってしまって、後で何かあったら私にまで責任を感じさせてしまう。そこまで考えての質問になっています。決定的な言葉を私から出させないようにしてくれている、配慮のようなものがそこにうかがえます。 話が逸れましたが、どういうレイキティーチャーがいいのか。そのたくさんの質問に今日はまとめてお答えしましょう。と言っても、何か良くて何が悪いなんて、私も偉そうに言える立場ではありませんから、常識という範囲の中でのお答えになります。 とても簡単です。 まず、どこかのセミナーを名指しで悪く言うティーチャー。これは避けた方がいいでしょう。当たり前ですよね。確かにレイキを使って変な事をしているセミナーもあるようですが、そこを名指して悪口を言ってしまったら結局同じレベルです。 それから、他の悪口は言っていなくても、 「うちが一番のレイキセミナーです。」 と断言するティーチャー。レイキの出所は同じです。使い方やシステムに違いはあるものの、それは 「違う」 というだけであり、1番・2番を勝手に決められる権利は誰も持っていません。好きか嫌いか、ならありますが。 あとはもう、ブログの中でくどいほど書いているように、ヒーリングを行う上での態度や気持ちを忘れてしまっているティーチャー。 つまり相手に優しくする気持ちや態度、言葉の選び方よりも、波動やオーラやパワーというアイテムだけを武器にしているティーチャー。何度も言うように、ビリビリしたいから、またはマジックをおこしてみたいからヒーリングを習いに行くというのは本末転倒。 今挙げた3点だけです。「レイキという分野のヒーリングを勉強したい。」 と思えば、常識で考えて、もちろんこの3点は避けられるはずです。 私もいくつかのレイキを持っていますが、別にどれが一番とは思いませんし、どこぞのセミナーが悪いなんて言ったことありませんね。 あくまで自分の好みというか、合うか合わないかが大切です。陥りやすい罠ですが、常識で考えられる部分は必ず常識の上でまず考えてください。 それを頭でちゃんと考えず、ただ 「波長が合った」 だとか 「なんとなく」 という不確かな部分だけを頼りにして入り込んでしまうと、あとで何かあっても誰も責任とってくれないですよね。 ハイヤーセルフのYES・NOは、自分の意思や思考とも同体なのです。勘や波動と同じように 「考える力」 は大切なんですから、そういう時こそよく考えましょう。 そこのセミナーのシステムや金額に納得いくなら、それが一番その人に合うティーチャーなのだと思いますよ。 ある本に、 「悪いレイキティーチャーの見分け方」 というのが載っていて、 「手が冷たいティーチャー」 「部屋が暗いティーチャー」 と書いてあったんです。 冷房がガンガンにかかっている部屋なら手が冷たくなっちゃうティーチャーもいるでしょうし、人の視覚を和らげることによってリラックスを促すため、わざと部屋を暗くしているティーチャーもいらっしゃるわけです。こういうことでは、悪いティーチャーだとはちょっと言い切れませんねぇ(笑)。 とにかく、自分のヒーリングへの考え方とそのティーチャーのヒーリングの姿勢がマッチするなら、そこがおそらく学ぶべきものがたくさん詰まっているセミナーなのかもしれません。 私にレイキを伝授してくださったティーチャーの中には、お名前の通った立派な方も何人かいらっしゃいます。しかし、彼らは決して他のティーチャーを悪く言うことはなかったですね。その事に気がついた時、 「ああ、これがいいティーチャーなんだなぁ。」 と思いました。パワーより何より、一番尊敬できる部分です。ではまた明日。
2006.01.12
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バリ島の中で車を走らせていると時々お花屋さんを見かけるのですが、場所によってもお店によってもスタイルは様々。 観光などで市場に行かれたことありますか?おばちゃんが色とりどりの花をかごいっぱいに入れて、一袋いくらで売っている。 一袋・・・?よく見るとその花に茎や葉っぱはなく、花のみを切って山盛りにしてあるんです。首から下がないのってちょっと怖い感じを受けるかもしれませんが、赤やピンク、黄色や紫、それはもうきれいな色の洪水。遠目にも美しいし、近づくと埋もれてしまいたくなるほど。 これはお祭りやお供えに使うもので、たくさんの人がビニール袋に詰め込んで買っていきます。不思議な感じですねぇ。生活に根付いている宗教の影響で、人々の毎日は花と共にある。 しかし鮮やかな花に恵まれたバリ島には、まだインテリアとして花を飾る、つまりフラワーアレンジメントの技術や関心が低いのか、残念ながらあまりきれいに飾られた花束や生け花を見たことがありませんでした。 バリの中にも宗教儀式以外の面で花を飾ったり、ドラマの真似事をしたりして花束を送ったりする人もいないわけではないのですが、それがですね、何というかこう・・・。 センスの違いですかねぇ。悪いわけではないのですか、素晴らしい生け花の文化を持っていて、ロンドンやニューヨークから入ってきているフラワーアレンジメントにも慣れてしまっている日本人から見るとですね、 「う~~ん。」 という感じです。 以前、バリの病院で子供を産んだ時、エージェントが嬉しそうにとーっても大きな花束を持ってきてくれたのですが、それがもう、南国スペシャルというか、インドネシアというか・・・とにかく 「派手」 の一言では片付けられない毒々しさを放っており、頂いた瞬間に 「わあー!ありがとうございます!」 と、がんばって作った笑顔も引きつってしまうほど、帝王切開の体にズシンときてしまいました(笑)。 映像でお見せできないのが残念なのですが、要するに、前から見て大きな扇を広げたような形に整えられていて、簡単に言うとタカラヅカのレビューの時に、男性役の方の後ろに孔雀の羽みたいなのを180度くらい広げて降りてきますよね?あれが真緑のでっかい葉っぱだと思ってください。 そしてその前に真っ赤なラン系の花がまた同じ扇状でズラリ。その前には真っ黄色に茶色い斑点がいっぱい付いた花がズラリ。そしてその前には紫色の袋みたいな花がズラリ・・・。『食人花・・・?』うっかりこの花束の横で眠ってしまったら、食われてしまうのではないかと思うほど恐ろしかったですねぇ。 南国の美しい花も飾り方一つでちょっと見るのもイヤって物に変わってしまう。エージェントさんの優しさだけは嬉しかったのですが・・・。カラーセラピーを勉強された方はご存知だと思うのですが、生理的に人間には不快感を感じさせる色の組み合わせというものがあるんですよねー。あるはずなんですが・・・。 これはこれでバリの良さだ!という人もいるかもしれませんが、バリ島が観光リゾート地として立ち上がろうとするならば、世界中の国々から来る人たちのセンスや美意識を少しは取り入れるべきですね。 お店に飾られている花を見て、眉をひそめて笑う外国人を時々見かけると、傍へ行って 「悪気はないんです。許してやってください。」 と言いたくなります(笑)。 とにかく、ステキ!と思えるフラワーアレンジに長らく出会えず、うちのセミナールームに飾る花を 「どうしようかなぁー。自分でやるには花の種類も、花屋もよくわからないしなー。」 と思っていたちょうどその時、日本から来てくださった受講生さんの妹さんが、何とバリ島でフラワーアレンジをしていると言うではないですか! うちへお土産として一つ持ってきてくださったのですが、それはもう久しぶりに見る、そう、感性に響く作品。 小菊の種類でしょうか。花びらがグリーンティーのような抹茶色のかわいらしい花が生けられ、茎の緑と花びらの緑が絶妙なコントラストを醸し出していて、何かの蔓を銀色に染めたものが飾りとして添えられている・・・。 上手に言えないのですが、色も形も全てが好き、と思える素晴らしいものでした。ほのやかに日本のエッセンスが感じられて、ちょうどお正月だったものですからバリ在住日本人にはたまらない芸術ですね。 伺ってみると、日本では生け花の師範をされていたとか。なるほど。バリの中で、バリの花を使い、センスと技術をもってバリ素材を芸術に変える。こういう方もいらっしゃるんだなぁ、と思いました。 バリに住むならバリに染まれ、という考え方の方もいらっしゃいますが、もっと柔らかく、バリにとって 「いいもの」 なら取り入れていったり、伝えていったり、またミックスしていったりしてもいい様な気がします。 その方、偶然にも私が大好きなレストランのお花を担当されていたようです。そういえばステキなお花がいつも飾ってあったような・・・。間接的にお会いしてたんですね。お花を通して。自然のものを使って誰かが何かを作ると、もうそこには魂が入っている。その魂に向き合う時、自分の魂も共鳴し始める。そんな感覚を覚えます。ではまた明日。
2006.01.11
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いつも思うんです。私って本当に、何でこんなに 「出会い」 というものに恵まれているんだろうって。 常に、本当に毎日と言っていいほどいい出会いがあります。もちろんそれは、毎日のように受講生の方が来られるから毎日出会いがあって当たり前、なのですが、京都でオーラのカウンセリングをしていた時からこれまでずっとそういう風に感じていました。 ありがたい、の一言です。 「いい出会い」 という言い方をすると、じゃあ悪い出会いというものもあるのかというとそうではなく、いいも悪いもないんでしょうね、本当は。 ただ単に、自分が 「あー今日の受講生さんはいい人だったー!」 と、すがすがしい夕暮れを迎える日が多いことに気付いているだけで、中にはそうでない日もあるかもしれない、でもそういう日は思い出せないんです。 不思議なことに、本当にいつもいい出会いだった!と思ってしまう。「良くない出会いの日」 を忘れたいわけではなくて、多分たまたま 「良くない出会い」 は少ないんですよね。少なすぎてスポットが当たらない。 「いい」 「悪い」 の二つに何もかもを当てはめなければ、自然に全てが 「いい」 になってたりするものです。自分の感性に耳を傾けることで、いつの間にか好きなものに囲まれている。 個性とはそれぞれですから、好きも嫌いもとにかくたくさんの出会いを求めて友人を増やすのがいいという人もいれば、私のように何となく気が付いたら、主人と友人と子供と犬と猫が隣にいて、油断できる毎日を送る人もいる。 私の職業がヒーリング講師なわけですから、同じヒーリングに興味がある人、目指す人が毎日出入りするので、そこに揉め事や問題は殆ど起きません。 私に対して戦いを挑む人もいなければ、私を自分の組織の中に巻き込もうとする人もいなくて、私も相手を縛り付けるようなことはしません。とても気楽な時間を過ごせる、そんな出会いです。 ずっと昔、出会いというものに貪欲になると、自然発生的にしがらみや摩擦を生み出すということに気付き、苦しんでいた時期があったのですが、それはただつらい思い出として残っているのではなく、摩擦が起こることでしか味わえない痛みを理解できたという、とてもいい勉強になったと思っています。 年末年始、素敵な出会いがたくさんあり、どの受講生さんも、どのクライアントさんも、とても深く心に残っています。 いい出会いは待っていて訪れるものではなく、全ての出会いを 「いいもの」 に変えるのは、おそらく自分。縁あって出会ったからといって、誰かを自分の傍に、自分の考えに、自分の組織の中に組み込んでしまおうとするのは、それは執着であり、エゴなのかもしれませんね。 せっかく何億分の一で生まれた出会いなのに、色も輝きを失ってしまい、結局 「あの人と会うんじゃなかった。」 っていう言葉を口にしてしまうことにも・・・。 自由な自分が相手を自由にすることで、両者が羽ばたけるのではないかと、そんな風に感じます。気の合う人と出会った瞬間に、さぁ僕たちこれからも一緒にいようね、っていうのはちょっとムリがあるみたいですね。今まで人間関係で苦しむ人の話を聞いていて、そう気付きました。 私も以前から意識してそうしていたわけではありませんが、今考えてみるとクライアントさんに対して、そして受講生さんに対して、卒業生に対して、一切束縛をしていないことに気が付きました。そのクライアントが元気になったらそれでいいんですから。その受講生がうちを気に入ればまた来てくれるでしょうから。その卒業生が私のセミナーに縛られず、自由に羽ばたいていく方が私も嬉しいのですから。気が付けば、人に対して束縛をやめていた私。そうしたら素敵な出会いがいっぱいいっぱい。私に会いに来てくれている、それだけで十分です。だから住所も電話番号も書いてもらうことをやめてしまいました。だけど、その人たちの一人一人の幸せを強く願っている私がここにいる。どうか元気でいますように。どこにいても。いつも会えなくても。「私に会いにきてくれてありがとう。いい出会いを本当にありがとう。」そう思って、門からお送りする時、消えていく車の後ろを見ながら「今日もいい日だったなぁ。」 って言って、バリの夕焼けを見上げています。ではまた明日。
2006.01.10
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今日はブラン・バトゥの新メンバーをご紹介。 去年の12月、ついこの前のことなのですが、うちのアシスタントの息子が窓辺に飾ってあった招き猫を派手に落として壊しちゃったんです。 その招き猫、日本を出る時にクライアントさんに頂いたもので、とてもかわいらしい顔をした愛嬌のある猫ちゃんだったのですが、4年間バリでの生活を見守っていてくれていて、お腹に大きく描いてある 「福」 という字が何ともまた頼もしく、何となくいつもこの子がうちに幸せをもたらしてくれているのではないか、と思ってしまうような存在だったんです。 だから壊しちゃった時は全員が 「わあ~~!どうしよう!!ごめんよー!縁起わる~・・・。」 と思ったのですが、2歳になるかならないかのボウズに罪はなく、これはもうきっとお役御免だったんだね、などと無理やり納得して2週間。 その日はその息子の2歳の誕生日で、壊れた招き猫のことを少し忘れかけていた時でした。パーティーの最中、どこからともなく聞こえてきた 「にゃあーにゃあー。」 というか細い猫の鳴き声・・・! 全員動物好きのチーム ブラン・バトゥですから、この鳴き声に気が付かないわけはありません。「この鳴き声はまだ子供だ!」「同じところからしか聞こえてこないから、動けない状況にあるんだ!」 窓から庭から、一生懸命探しましたが、子猫の姿は見つからないんです。おっかしいな~~~。だんだんか細くなってくる鳴き声。いてもたってもいられずもう一度探してみる。すると・・・。 見つけたのは運転手でした。誰も住んでいない裏の家の塀の向こうから携帯で連絡してきて、「ボス!!猫いました!いましたけど、ビニール袋に入れられてます!中で鳴いています!!」・ ・・・・・・・ 「はあ!?」ビニール袋!?どういうこと・・・?「とっ、とりあえず 持って帰ってきて!!すぐに!」 玄関先で待っていたら帰ってきました。ビニール袋を持った運転手が・・・。本当に信じられない光景でした。小さな動物が黒いビニール袋に入っていて、袋の口は固く結ばれている・・・。そしてまだ鳴き声が・・・! 「うわわわぁ~~!開けて~~!でも怖い~~!開けて~~!」私達が叫ぶと運転手がそ~~っと開けてくれたのですが、恐る恐るその中を覗いてみると・・・。 それはそれはかわいい子猫が一匹。何日間この状態でがんばってたのでしょうか。痩せて疲れてはいるものの、私達を見て嬉しそうに 「にゃあ!」と鳴きました。 全員ヤラれました(笑)。 このかわいい生き物にすっかり虜にされ、ミルクをやったり、ご飯をやったり、そーっと様子を見に行くと誰かと鉢合わせをしたり、とにかくその猫は私達のハートをがっちりつかんでしまい、その日から家族の一員になったのです。 メイドの一人に 「ビニール袋に猫入れて捨てるなんて、ひどい人いるのね。」 って聞いたら、 「インドネシアでは普通です。」 っていう答えが返ってきました。そうなのか・・・。ビニールに猫を入れて・・・。 日本にも、山寺の和尚さんが袋に猫を詰め込んでマリの代わりになんとかっていう歌があるけど、本当にそんなの見た事ありませんよね。ちょっとショックでしたね。でもまあ、その子は無事一命を取りとめ、今元気でうちにおります。 アシスタントの息子が招き猫を壊しちゃってから2週間。その息子の誕生日に来た子猫は、その招き猫と同じ模様をしており、おそらく生後2週間くらいで現れました。 これはもうあの招き猫の生まれ変わりに違いない!そう思い込んで喜んでいるブラン・バトゥの嬉しがりの人たちの中、子猫はすでにカーテンのすそを狙っております。え? 子猫の名前?もちろん 「福」 ちゃんです。お腹に 『福』 の字はないけれど(笑)。ではまた来週。
2006.01.06
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新しい年を迎えて、皆さんの中には何か目標を定められたり、決意を新たにしたり、そういうお気持ちでお過ごしの方もいらっしゃるでしょう。私もそのうちの一人です。 去年ブログを立ち上げて、今まで口を閉ざして言わなかった事を、不特定多数の人の目に入るかもしれない環境の中で書き綴っていくという、自分でもびっくりすることを始めてしまいました。 書いていけば、私の後ろからたくさんの人たちの追い風を感じ、それが勇気となる時もあれば、書いてしまったことで、私の目に見えないところにいるたくさんの人たちをこの風で追い詰めてしまうことにもなる、と感じることもありました。 何かを伝えることは難しいことです。レポーター時代、それは散々味わった経験ですが、それでも答えは出ないくらい、一人の人間が書く内容というのはどうしてもバランスが取れているものにはなりにくいのです。 一つの意見には、同意も反論もあるはずですし、私が一生懸命つらい人たちの声を代弁しても、見方一つで 「それは非難だ」 ととられることもあるでしょう。 もちろんそれは想定の上で始めたブログなのですが、私の中のテーマである 「ヒーリングについて」 そして 「バリについて」 という、この二つのものがあまりにも広すぎて、書いていくのは終わりがない様に思うほどの難しさを最近感じていました。 しかし、ヒーリングというものをとてもしっかり見つめている人、そのメリットやデメリットをバランスよく取り入れようとしている人たちからはとても熱い支持を受けましたし、また 「バリが好き!だけど本当に好きだから変えなくては。」 と立ち上がった人の勇気を見て、正直に何かを伝えていくことも大切だということにも気付かされました。正直に書いていると言っている割には、実はちょっと結構遠慮がちだった私。バリという島で納得がいかないこともたくさんあるのに、住んでいるくせにバリを非難していると言われるのがイヤで、口を閉ざしていた私。 だけど今私の中からも、そして外からも 「立ち上がろう」 という声が大きくなっています。全てがいきなり良くなるなんて思っていませんが、好きなものがもっと好きになるように、嫌いなものも知らない間に 「あれ?嫌いじゃなくなってる。」 って気付けるように。 私の中でバランスを取りながら生きていく。 これが私の今年のテーマです。ではまた明日。
2006.01.05
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あけましておめでとうございます。2006年。皆さんはどんな年を過ごされるのでしょう。全ての人が幸せで、また幸せに近づいていく、そんな年でありますように。一人一人の力は小さくても、強く願ったり、考えたり、見つめたりすることで大きなエネルギーを生み、広がってゆくのだと信じています。私達にできることが何なのかを考えながら、自分自身も幸せなオーラに包まれる。そんな一年になりますように。一つ一つの出会いが幸せを生む。一つ一つの言葉が喜びを生む。365日、毎日そのことに気が付いて365日、毎日感謝できるそんな年でありますように。今年もよろしくお願いいたします。ではまた明日。
2006.01.04
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