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土曜日は電車に乗って図書館へ行く。各駅停車で二つ目の駅で降りる。読んだ本を返す。宮部みゆきさんと三浦哲郎さんと小池昌代さんの本2冊。ありがとう。おもしろかった。三浦さんの「そいね」はよかったな。小池さんにはまた会いたい。でも、今日は、さよなら。そして本の海で難破しそうになりながら新しく本を借りる。すっと手がでて、返したくなかった本。本との出会いはいつも直感だ。時に大はずれもあるけれど、おおむねしっくりくる。今日の出会ったのは関川夏央さんと金井美恵子さんと武田花さんと平安寿子さんの本。はじめまして、よろしく。重い荷物になる。それでも、図書館の近くの商店街で買い物をした。料理酒とか小麦粉とかヨーグルトとか。ますます荷物は重くなる。それで帰ろうと思っていた。けど、なんだか足が動いた。大通りの向こうにも商店街が続いていてあっちへ行ってみようと思ってしまう。こんな重たい荷物を抱えているのになんだかそんな気持ちになってしまう。進んでいってもシャッターが下りたお店が多くてつまらないなあと思っているのに足はどんどん進んでいった。にぎやかにひとの集まるお寺があってなにか行事があるらしかった。そこでしばらく足を止めるとその隣りの店のひとが表でなにやら話していた。なんのお店かなと思ってのぞいてみると古布の店があった。着物地を洋服やバッグに仕立て直して売っていた。骨董の類も品よくならんでいた。大正から昭和初期のものかと思われた。店内のしつらえもセンスがいい。ツボに生けられたカラスウリの朱が映えていた。あっ、と思った。実は、まだ漠然としていてはっきりと形になってはいないのだが店の名はしらないでであったような品物を扱う店つまりこういうお店が出てくるおはなしがかけたらいいなあと思っていたところなのだ。こういうお店の製品はどんなひとがどんなふうに作るのかなと仕入れだとか販売だとかいろんな疑問があって調べたいなと思っていた。思っていたらこんなふうに出会ってしまった。思いがけないことだった。なんと不思議なことだろう。なんと幸運なご縁だろう。店の表にいたのはここのおんな主人でここの品物はみな自分と姉との手作りの一品ものだという。こちらの事情を告げると気を悪くしたふうもなく店内の品物のこと、製作のこと、材料のこと、販売のことなどをはきはきと話してくれた。時に仕立てを教わりにくるひともいるのだという。出し惜しみせずなんでも教えてあげるのだけれどそれでも教えられないものがある。技術は学べるがセンスはそうはいかない。もって生まれたものともって生まれてこなかったものの差はどうしても埋まらないのだと教えてみてわかった。そんな言葉をさりげなく差し出してもらう。今日聞いたそのひとの言葉を今すぐにうまくおはなしにできる自信はまったくないのだけれどそんなふうに自分の足が見つけた出会いなのだからそこでもらった言葉なのだからいつかきちんとしたおはなしに仕立て上げようと思う。それにしてもそんなふうにわたしを引く不思議な糸があったということになんだかこころが弾んでいる。
2006.10.28
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人生は唐突に質問状を突きつけてくる。これまで経験したことのない苦境とともに「おい、どうする?」と詰め寄ってくる。そのたびに血の引く思いをしながらどうすればいいんだろうと頭を抱える。うちばっかりこなくていいからたまにはよそへ行ったら?なんていいたくなるほどずいぶんそんなことをかさねてきたのにあらたな質問状は手を変え品を変え繰り出される。まったく苦境のバリエーションは限りがない。いや、実は過ぎた時間のなかで出したその質問へのぶきようで不適切な答えがあらたな質問を呼んでいるのかもしれない。カバーしきれなかった小さな亀裂が時と共に大きな裂け目になってわたしを飲み込もうと帰ってきているのかもしれない。来し方のどこかの分岐点で選択を誤ったのだと今気づいてもそこへ舞い戻ることはできない。進んできてしまった時間をまき戻すこともできないしどんなこともなかったことにはできない。一切合財のうえに今がある。どの一瞬も、どの選択も今にいたるための敷石なのだからだから・・・だからまたどうすればいいんだろうと悩みながらそのでこぼこの敷石の続きを歩んでいくしかない。そんなわかりきったことをもう一度こころに言い聞かせねば前に進めないことがある。平穏な時間の思考をそのまま保てない悲しい時間もある。血の引く思いの中でそのときの一生懸命で選択してきたことなのだからそれは間違っていてもそれはそれで仕方がない。それがわたしの人生なのだから。ずっとそう思ってきた泣きながらうそ笑いしながらもういやだよーとわめきながらわたしのせいだと自分を責めながらそれでも投げ出さないでどこにも逃げ出さないでここまできたのに・・・なのにそのうえにまた苦境がやってくる。胃酸の逆流のようなじりじりした日がやってくる。じりじりしながらひくひくしながら行列の最後尾を行く気分で日々を送らなければならないのか。
2006.10.21
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古い友人と久しぶりに電話で話した。パッチワークをする人なので、布の整理の苦労話でひとしきり盛り上がった。今年も横浜のパシフィコでキルトフェアがあるのでお互い、布や持ち手の買いすぎに気をつけようと誓いあったりもした。それで、っという感じで彼女が聞いた。「まだポスティングやってるの?」えっ、だいぶ前にやめたと告げたと思うのだが・・・お互い記憶力の低下はいかんともしがたい。「やめたの?じゃ、今は稼ぎがないのね」何気なく彼女はいう。「うん」と答えたのだが「稼ぎがない」という言葉がこころに突き刺さった。彼女は手芸の内職と学童保育のアルバイトをしているので引け目を感じたのかもしれない。そうだ、わたしは稼ぎがないのだと自覚するとなんだか情けない気分になっていく。電話を切って「稼ぎねえ」とひとりごちるとふっと思い出すことがあった。9月から月に一回、朗読の教室の有志で「声で描く会」というのを立ち上げ、各々が自分の読みたいものを読んでいる。そこでわたしは自作エッセイ「母」を読み継いでいる。平成14年に自費出版した薄い冊子である。今月もその会があった。「母」の朗読は第2章に入った。朗読はうまくはないのだけれど内容が少々せつないので仲間のおばさまふたりが涙を流された。そしてその会終了後、三人のおばさまが、この冊子をお買い求めくださった。冊子は一冊500円で計1500円。経費を考えば、純利益はもっとささやかになってしまうがそれでも、これがわたしのささやかな稼ぎなのだとこっそり胸をはったりする。ま、この次いつ稼げるかは全くわからないのだけれど・・・。
2006.10.19
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「大辺男」これは人の名前である。姓は大辺、名は男。おおべ ますおと読む。俳優 大河内伝次郎の本名である。嵐山から嵯峨野へ抜ける竹林の先に大河内山荘がある。そこでこんな写真に出会う。ぞくっとする。
2006.10.17
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姑の遠距離介護のご褒美にちょっと京都を歩いてきました。嵯峨野のあたりを息子1と歩きました。笹の葉擦れは潮騒のようだと息子がいいました。まっすぐ伸びた丈たかい竹が秋の光と戯れたりしておりました。群れて生える竹の海の中道をひとが群れて歩きます。出迎えるように竹の影がすうーと伸びていました。ふふふと笑う早熟紅葉誰より早く色づいて。
2006.10.16
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わたしが友人から詩集をもらったのは52年生きて3回こっきりだ。そのうちの2回は学生時代のボーイフレンドからもらった。高見順とエミリー・デッキンソンだった。52歳になったもらったのは小池昌代詩集である。このひとの名前は知っていた。おたずねするブログでお勧めされていた。新聞の書評でもよい文章を書かれていた。なのになんとなく食指が動かなかったのは、昌代という同名のものかきさんと混同していたからだろうと思う。それはたぶん、宮本百合子と武田百合子を混同していたのと同じこころの動きなのだがやはりおなじようになんて遠回りをしてしまったのだろうという後悔がわいた。このひとの言葉は魅力的だ。1959年深川材木商の家にうまれたこのひとは「もっとも官能的な部屋」という詩集で高見順賞を受賞している。絵本の翻訳もしている。離婚歴もある。現代詩に紡がれた言葉や重層的なイメージは単純なわたしの頭には手ごわ過ぎて、じりじりとあとじさりするしかないのだけれど、このひとの言葉の底にある哲学するこころになんだか惹かれる。存在するものと存在しないものを同時に見つめる目を持って目の前にあるものと悠久の時間とおのがいのちを結ぶ思索の逍遥。友人のお勧めの詩はこれだ。 あたりまえのこと 男の大きな靴をはいてみた。ら、あまってしまって。それがまた、がぽがぽ、というような、ひどいあまりかた。なので、あまってしまう、ということは、こんなにも、エロティックなことだったか、と思うのだ。 それにしても、と、この大きさを満たしている男の足を思ってみる。あのひとの日常。 それにしても、と、今度は又、自分の小ささに戻ってみる。 知らないうちに、からだが、勝手に貸し出されていたような気分である。 さきっぽに届かないつま先が、なんだか、むずがゆく、あたらしい。 ひとの靴のなかに、自分の足を入れてみる。そして、ぬいてみたりもするなんて。それから、そのようなこと別に男に言うほどのことではない、などと考えている。そのこと。 そのことさえ、たぶん、とてもエロティックなことなのだわ、と考える。さきほどの。男の靴。たとえばこのひとはドーナツを見ていて、ドーナツの穴を思い、それと同時にドーナツのない空間へ深く思いを馳せてしまうような感じがする。詩が孕む跳躍にわたしはついていけないのだがこのひとの思索はどこか自分に近いというと失礼なのだが、なんだか興味深くて、図書館でこのひとの本を借りて読んだ。「屋上への誘惑」「感光生活」はエッセイ。「ルーガ」は小説。借りている本なのでラインが引けず、付箋を貼っていった。散文になったこのひとの思いにますますひきつけられてしまい、一冊につけた付箋の最高記録だと思うがその数は100に近かった。詩人の書く文章は比喩が壮絶だと感じ入った。半端じゃない。散文のなかでぎらりと光る。こんなものとこんなものが!と一瞬驚くが、すぐさまなるほどと深く納得もする。「雨漏りの音のような相槌」「チェンバロの音は枯れた野草の花束である。繊維質のその音を聞いていると便秘がすぐになおりそうな気がする」なんてのがごろごろころがっていて、なんだかうれしくなってしまう。そしてわたしは「ルーガ」のなかの「にぎやかな未来」でこんな一節に出会う。「幸福というものは、ああ、幸福だと思ったとたん、なにかほかのものに変容する。幸福は一瞬のなかにしか生きられないもので、幸福という幻影を支えるものは、それ以外の例えば退屈や不安や不幸といったものだ。そしてその退屈や不安や不幸こそが、人生のほとんど全ての要素であり、それらこそが現実をかたちづくるものである。幸福というのは、そのあいまに点滅する、奇跡のような錯覚にしかすぎない。それを感じるためには、ちょっとした才能、鋭さよりも鈍感という名の才能こそが必要不可欠だ・・・」これは自分がずっと前から考えていることと全く同じなのでなんだかうれしくなってしまう。そして、ああそうか、詩集をいただいてからここにいたる一連の流れは、この一節に出会うためだったのかもしれないと納得する。そして・・・その小説のなかでこんな一節に出会っていやはやなんとも・・・と苦笑したりもするのである。「結婚っていうものが、わたし、いやでいやで。なんでまあ、こんないやなものを、みんな続けているんでしょう。でもねえ。ひとつくらいは、いやだ、いやだ、って言いながら、何かを続けていくのもいいような気がして。気がつけばこの年まで、一人の男とつきあってきたわ。まあ、途中にはいろいろあったけれど。籍は抜かなかったのよ。結婚って碾き臼ね。大きな臼で、長い年月かけてごりごりごりごり、お互いを碾きあう。凸凹も均されて、最後にあなた、ふーっと相手を吹いてごらんなさい。目も鼻も口も眉もすべてふきとんで、あとにはなにも残らないはずよ。身が粉になるまで、ごろごろごろごろ」
2006.10.11
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夜11時、コーヒーが切れたので坂下のコンビニまでおつかいにいく。婦女子がそんな時間に、と若いころなら案じたひともいたが齢50を越えてしまえば、婦女子の枠から少しはみ出るのかもしれんなどと思いつつ夜の道を行く。月は照る。しかし、まだ家々の灯りは消えない。キンモクセイが香る。植え込みの草刈りをしたのだろう、掘り返した土のにおいが鼻をくすぐる。遠慮がちに虫が鳴く。おとな四人がいっしょに暮らしていればことあるごとにそれぞれの温度差を感じる。それはそれで納得しながらも長い時間同じ空間にいるとなんだか息苦しい。コーヒーを買って、夜の道をめぐる。風のない夜は音が少ない。どういうわけが気がつくと「アルゴリズム体操」のメロディーばかりをくりかえしくちづさんでいる。ふっと通りかかった家の灯りが消える。ああ、おやすみなさい。またあした。その家の親子はどんな会話を交わしているのだろう。近づきすぎたり、離れすぎたりはしないだろうか。妻であり母でありおんなである自分がコーヒーの袋をさげてひとり夜の道を行く。もうすこしもうすこしと、めぐる。・・・三連休が終わる。
2006.10.09
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昨日、千鶴子さんに会った。横浜駅に現れた千鶴子さんはまた背が縮んでいた。おいしい中華屋さんに行き生ビールで乾杯した。千鶴子さんがくいくいとふた口勢いよく飲んだ。久しぶりに見るその飲みっぷりがなんだかうれしかった。そのビールで滑らかになった口でやっぱりS先生が好きなのだと千鶴子さんは告げる。ちらし寿司とコロッケを作って持っていってあげたら先生、すごく喜んだのよ、なんてうれしそうに笑う。「でも今年の最後の診察の日に、もう片思いはやめるって先生に言うの」「どうしてですか?」「だって80歳になったから」「どうしてもやめるの?」「どうしても!」そう言って千鶴子さんはまたくいっとビールを飲んだ。そんな千鶴子さんを見ながらふっと生きてる甲斐というのは、うつつを抜かすことかもしれんなと思う。ひとでもものでも行為でも、対象はなんであれそいつに酔いしれて、うつつを抜かすただひとときのためにひとは生きているのかもしれんな。小さくなった千鶴子さんがなおも先生のことを笑顔で語るのを見ながらぼんやりそんなことを思っていると千鶴子さんが真顔になって言った。「ねえ、あなたは好きなひと、ほんとにいないの?なんだか、かわいそうねえ」苦笑いしてビールを飲んだ。
2006.10.05
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「ねえ、たまには今日こんなことがあったんだよ、なんてかあさんに話したくならない?」と息子2に聞いてみる。当人はにやにやと笑って答えない。「そうだよねえ~」と妙に気を入れて息子1が相槌をうつ。「わが身を振り返って言うと話したくないってのはどっか後ろめたいことがあるときかも・・・。ねえ、なんか悪いことやってんじゃない?」と続ける息子1。「んなことねえよ」とやりすごす息子2。「うん、それなら納得する」と母。でも「いただきます」と「ごちそうさま」と「いってきます」と「おやすみ」だけじゃつまらんでしょう?と、思っていると「眼鏡がねえー、どこ置いたんだろー」と言い出す息子2。「君もばさまのものわすれ菌に感染したか~」などとからかいつつ、いっしょに探す。「ちくしょー、どこだー」近眼の彼は眼鏡がないと漫画が読めない。「ふふふふふ、みつけたぞー、ここを見たまえ!」と勝ち誇った母の声。「あー、こんなとこにあったかー」眼鏡は洗濯機の縁におっこっておりました。家族そろってあわわあわわとあわてることのなんと多いことか・・・。だけど、そんな日はいつもよりずっとたくさんの言葉を交わしている。
2006.10.01
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