Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2014年12月30日
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カテゴリ: 夢有無有
「思考と直覚」直覚と信仰の言語定義(十二)
 「思考」を踏み台として直覚へ至る思考方法を学ぶものにとって、言語定義を最初に学ぶことは思考過程に非常に重要となります。何故なら、信仰の教本や聖書・経文の類の中では「有無・虚実・始まりと終末・瞬間や永遠」等々の言葉が度々表れますが、少なくとも世界理法の真相を捉えることを目的にするならば、信仰上の言語定義と形而上の言語定義の違いを前提にしなければ、「直覚の顔相」を捉えることに誤謬が生じます。此処では先ず信仰上の「虚」を取り上げます。神教の教本には度々「虚」を人間が意識上に創りあげた神を虚の神として説いていますが、虚に相対するものは実、無に相対するものは有であり、宗教では虚を人間の思考が生んだ架空の作品ととっているようです。無の定義に関しては在りしものに対立する無窮の不存在と考えているように捉えます。対して「直覚」が捉える「虚」と「無」は「実相」の存在其のものが「虚相」に由来する、「虚相」も亦「実相」して在る。数学が虚数から結果を導くように虚は「無存在」ではなく結果を出す以上は「在るもの」として定義します。亦、「無」は「有」に相対するものですが「有」なきところに「無」は存在し得ず、亦、「無」なきところに「有」も存在し得ません。現代物理学が宇宙の法則のなかで「無」から「存在粒子」が産まれるとした理論は、「無」をも「在る」とする根拠にはなります。それ故に「思考と直覚」は「無である存在」乃至「虚である実在」を何れも「在るものである」と定義します。詰まるところ「無なきところに有なし」「虚なきところに実なし」、有無・虚実を離れての「完全体」などただ「空ろ」だと云えますが此のことを観相の仕方によりけりですが「空観」と捉え「理法」の根拠にすることも無謀だとも言えないことは承知して定義しています。

nagarjuna1
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最終更新日  2014年12月31日 06時49分21秒
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