「思考と直覚]西洋哲学の日本での転化(百四十七) 明治の日本では、広範な西洋哲学の伝統の内、専ら政治的思想の基底とし西洋哲学移入を図ります。それ故に、西洋哲学は政治的思想の基底としか捉られず、自由主義的資本主義社会の「イデオロギー」フランスの哲学者アントワーヌ・ルイ・クロード・デステュット・ド・トラシー(Antoine Louis Claude Destutt de Tracy)が、自らが探究する、観念(idea)の起源や本質を研究する学問領域を「イデオロジー(idéologie)」と呼んだのが最初とされ、革命後のフランス社会の哲学的基礎づけを試みようとロック、コンディヤックらの影響を受けながら、感覚論の立場から観念の発生、展開を研究し、感覚から一般観念にいたる意識の発生過程の分析を問う思想を観念学(イデオロジーidéologie)と名づけ、後に、ドイツで「イデオロギー(Ideologie)」という名付けられマルクスとエンゲルスが多用します。更には、適者生存(survival of the fittest)の造語者であるハーバート・スペンサーの人間生まれながらの霊魂を無視して血統を重んじた宗教的神秘主義に対して社会的進歩のために戦う、所謂、進歩主義者と言われる思想家の旗印とされる思想を板垣退助などが書簡を送る程に没頭し、こともあろうに、当時の英国の社会風潮に適用させるために主張する、最も秀でた人種が将来においても保存されるソーシャル・ダーウィニズムを唱え、社会的有機体の発展の段階は資本主義を頂点にし、其れ以外の異相の社会の進歩的概念は無意味だとする説まで受け入れて、広範な西洋哲学の伝統は日本では広まりませんでした。加藤弘之や井上哲次郎により独逸観念論哲学の移入は進捗されますが、其の深底に流れる人間の霊性に関しては取り上げることは稀であり、日本の哲学は専ら政治化し、哲学本来の目的、人間存在其のものを探求することは「象牙の塔」に閉じ籠もる学者としての思想家の「深遠なもの」として人民からは遠ざけられることになります。なかでも、人間が生来天然に感じ追求するところの「霊性」に関しては、此の傾向があった故に、当時の日本での人民の精神的な救いが専ら新興宗教に向かったのは理の当然でした。此れが、日本人を哲学とは難解な学問と想わせ、霊魂に関しては宗教任せとする傾向に働きます。