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なんだかご無沙汰になってしまいました・・。その間もここを訪問していただいてありがとうございます。ご無沙汰になっていた理由はまたそのうち書くとして。(あ、別に何かあったわけではありません。元気ですよ^^)今日、私の元生徒であるジャマイカ人のTからメールが。彼からは年末にもこんなメールをもらった。Sensei es cierto entre todas profesoras que yo he tenidas ,Ud es muy diferente de ellas por la forma de ensenar,siempre le voy a gradecer a Ud por todo lo que Ud ha hecho para nosotros彼はスペイン語のネイティブではないので、間違いがあるのだけど、恥ずかしながら要約するとこういうことが書いてあります。先生は他の多くの講師とは教え方がとても違う先生でした。先生が私たちのためにしてくれたことに感謝します。 ま、良いか悪いかは別として(笑)、確かに私はちょっと他の先生方とは違うだろうな・・とは思う。こうやって教室を離れても変わらず慕ってもらえるのはこの職業のひとつの魅力だと思う。で。このメールにはこのような文章が。yo tengo una buena noticia para Ud pero es para despues de enero porque me voy a empesar a trabajar 先生にいいお知らせがあります。1月から働き始めます。そして、今回届いたメールがこれ。yo soy ya el presidente de una empresa que se llama Full Service National and International Tenemos todos los siguientes.私はFull Service National and International と言う会社の社長です えっー!働き始めるって、会社経営だったのー!?し、しかも。会社の業務内容は下記の通り。 FULL SERVICE NATIONAL AND INTERNATIONAL SERVICIO MULTIPLE .Guia Turistico .Impresos y serigrafia.Taxista .Alquiler de vehiculos.Agencia de Viajes .Abogados en general.Nineras .Fotografias.Excurciones .Fabricantes de inversores.Videos .Salon de Belleza.Amas de casa .Tecnico de electrodomestico.Arquitectos .Laminados de vehiculos.Tours .Ingenieria en general.hoteles .Resort.Jardineros .Pintura en general.Mosos .Plomeros.Herreros .Chefs.Muebleria .Talleres de Macanica.Peluqueria .Artesanos.Artista Plastico .Mudanzas y acarreos.Alquiler de todos para fiestas .Electrodomestico.Acessor Juridico .Seguridad Privada.de todo de coraciones .Repuesto para todos tipo de vehiculos y A DEMAS COMPRAS Y VENTAS DE casa, solares,apartamentos,fincas,autobuses,automoviles ・・・訳そうとおもってやめた・・orzだって、取り扱い業務多すぎ!財閥ですか?!と言うほどですよ・・。これは。簡単に言うと、家政婦・ベビーシッター・ボディーガード・ガイド・運転手・配管工・電気技師などの人材派遣業からイベント会場などのレンタル、修理業、引越し業から絵画の買い付けなどなど。おまけに不動産業まで。ムー。どうやったらこんなに手広くできるんだ・・?っていうか、雇ってくれ、俺を。ま、実はTはお金持ちなのだろう・・と言うことは見ていて思っていたんだけど。まだ20代前半なのに、すごいね。彼のこの仕事に日本語が役に立つのかどうか・・ま、自動車部品の買い付けとかには多少役立つと思う。でも、たとえな~んの役に立たなくっても私は生徒一人ひとりの貴重な時間を共有できてよかったと思っている。こうやっていまでもメールをくれたりして自分の生徒たちがそれぞれがんばっている姿を見るのは私のエネルギーにもなるんだな・・と思いました。今度ドミニカ共和国に戻れるのはいつかわかんないけど、またひとつ楽しみが増えたよ。
2006/01/31
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あれから11年・・・今日は阪神・淡路大震災のニュースが何度となく流れたし、思い出した方も多いと思う。兵庫人である私もこの日には思い出すことがいろいろある。11年前の今日。「震災のときどこにいたの?」震災からしばらく、よく聞かれた質問。私は11年前の今日ケニヤのナイロビにいた。だから震災は体験しなかったのだけど、今でも不思議に思うエピソードがある。本当なら11年前の今日、私は神戸の元町にいるはずだった。幼なじみが元町に住んでいて、アフリカにしばらく行く前のゆっくりあっていろんな話をして、泊めてもらう予定だった。今考えても不思議なのだけど、アフリカ行きが迫ってきたある日。何の理由もなく突然日程の変更がしたくなった。急に出発を1週間早めたくなったのです。旅行代理店に変更を依頼すると「キャンセル待ちになります」とのこと。で、キャンセル待ちだと今確保している席はキャンセルしないといけないので、下手すると今確保している席も取れなくなってしまう可能性が大と言われてしまった。旅行代理店の担当者からは特に理由がないのならこのままの日程のほうがいいですよ・・なんていわれたんだけど、なぜかどうしても変更したかった。なので、「取れなくてもいいから変更してください。」あー、やっぱり取れなかったか・・と思ってたら取れた。なので、予定を1週間早めて友人宅にもお邪魔した。そして東アフリカへ。もし、あの時意味もなく予定を変更していなかったら絶対にアフリカの地は踏めなかったと思う。幸い友人宅のある元町周辺はエアーポケットのように奇跡的に被害から逃れていたので、友人には何もなかったし、そこに私がいたとしても大丈夫だったと思う。でも、あの日神戸を出て、成田へ行くことはできなかったと思う。そして、ナイロビ。震災の起きたとき、私は原因不明の測定不能の熱(つまりは42度以上)で寝込んでいた。夜、ふらふらしながらトイレへ行ったとき、(安宿なので部屋にトイレはない)宿の人たちが集まってテレビを見ていた。で、通りかかった私にテレビを指座して「あれ、あなたの家族なんじゃない?」と言ってきた。そのときの映像は、体育館のようなところにたくさんの日本人らしき人たちが集まっていたものだった。なんで、ナイロビなんかでこんななんに変哲もない風景画テレビで流れているんだろう・・と不思議に思ったけど、熱でぼ~っとしていたので宿の人たちに「似ているけど家族じゃないよ」と言ってフラフラしながら部屋に戻った。後で考えてみればあれは震災で体育館などに避難していた人たちだったんだと思う。熱でうなされていたので、次の日も寝ていた。でも、だいぶよくなってきたし、明日はようやく予定していたビクトリア湖へいけるかな・・・なんて思っていたら私を訪ねてきてくれた人がいた。中央アフリカからケニヤにやってきた日本女性で、数日前たまたま知り合っていろいろ話をした人だった。大体一人でアフリカに長期できたりする女性ってあんまりいないので話も合った。いろいろ話したけど、彼女に自分のホテルの名前は言っていなかった。西アフリカの商人の定宿のような、ちょっと変わっているけど、でもおもしろくて居心地のいいところだったんだけど、地球の歩き方などにのっているわけでもないし、マイナーなところなので名前を言っても仕方ないと思ったので、大体の場所と西アフリカ人が多いことだけを言ったように思う。彼女は私が兵庫出身だったので震災のことを伝えてあげないと・・と思ったらしく、私の言ったホテルの特徴だけで一軒一軒ホテルを訪ねて探してくれたらしい。ちなみ、その場所はリバーロード界隈。この辺は安宿がたくさんあるので、探すのは大変だったと思う。夕方にやっと見つけ出して私の部屋を訪ねてくれた。もし、熱出してなかったら今頃はビクトリア湖にいたはず。震災のことを知ってもっと心配したか、はたまた知らないまま過ぎていたのか・・。結局、既に遅かったので、その日は何もできなかった。震災の規模もまったくわからなかったし。翌日、道端で売っていた新聞を見て愕然とした。その写真は阪神高速がずたずたになっている写真。たくさんの建物が崩壊している写真や家事の写真。その時、「ああ、もう私の家族も家もなくなっているかもしれない」そう思った。とりあえず日本大使館なら何か教えてくれるかなと思い言ってみた。そこで言われたのは今はまず電話もつながらないし、飛行機のチケットも取りにくいだろう・・とのこと。それでも、念のため電話局へ。実家に祈るような気持ちで電話をかけてみた。そしたらあっさりつながった。そして父が出て、うちのほうはすごい揺れだったけどなんの被害もなかったことや神戸の友人も無事であることなどを聞いて、ほっとした。でも、あのとき、一瞬で全てが無くなる、失うということはあるんだな・・と思った。実際に11年前、あの震災でいろいろな大切なものを亡くした方が多数いる。神戸は今も昔も大好きな街。今はすっかりきれいになったけど、それでもやっぱり更地をみたりすると完全に復興したわけではないと実感する。第一、震災で大切な人、ものをなくした方の気持ちは今も11年前を変わらないと思う。亡くなった方々のご冥福を心よりお祈りいたします。
2006/01/17
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何度か書いたことあるけど、本当にネットサーフィンしているとかなりの確立で知り合いとか友人を発見する。自分的にはけっこうなニュースなのだけど、まあ、プライバシーに関わることだし、その人のことを書くことはできない場合がほとんどだったりする。で、今日もちょっと調べ物をしていたら懐かしい人を発見!今日ネット上で再会した人に関してはBLOGに書いてもOKな人なので書いちゃいます。LUCHA LIBRE@いきなりの肉体美ですが、大阪プロレスで活躍中のビリーケンキッドです。大阪プロレスで詳しいプロフィールをどうぞ。日本にいるうちに一度見に行きたいな~。久しぶりだわ~。彼はもともとメキシコでLUCHADOR(メキシコ版プロレスのレスラー)をしていた人でメキシコのAAAに所属していた。当時のリングネームは「飛影」だった。(・・って、これは公表していいんだよね、飛影君?)なぜか彼はCUERNAVACA在住だったのだ。それで無類のLUCHA LIBRE好きである私と知り合い、彼からはいろんなLUCHA裏話を聞かせてもらっていた。けっこうゴシップネタ(○○の彼女はブサイクとか^^;)も教えてくれたし。やっぱりLUCHADORは食べないと・・と、言うことでうちで日本食ごちそうしたり。なので、うちの相方とも知り合いで相方も彼の誠実なところをとても褒めていた。今でも時々「TOBI(ビリーケンキッドのこと)は元気かなぁ?」って私に聞くくらい。そういえば、この肉体美をつくるために彼は一日一キロのゆで卵の白身食べてた・・。いわく、これがもっとも安上がりで良質なプロテインなんだとか。メキシコでは日本より簡単にLUCHADOR(プロレスラー)になれるけど、本業でやれるのはほんの一握り。ほとんどは兼業レスラー。彼からもAAAにいるころのギャラを聞いたことがあるけど、かなり大変な割にはお金にはならない。そのころ、プロレスをやめて日本へ帰って違う人生を歩もうかな・・なんて言っていたけど、しばらくしたらメールが来て「大阪プロレスに入りました。リングネームはビリーケンキッドです」ってメールが来た。そりゃまた、コテコテなリングネームやね・・と思ったけど、メールを読んでいてもなかなかうまくいっているようだったしファンもついているようだった。あれから数年。相変わらず、いや、パワーアップしてがんばっていたんやね~。なんか、うれしい。プロレスに限らず、自分のやりたいことで食っていくことは本当に難しいけど、実現させているあなたは偉い。しかも、マスク3万5千円!MISTICOのマスクとおんなじ値段になってるでぇ!出世したね!このマスクはcollaboというお店で購入できます。こんな形での再会もうれしいもんですね。
2006/01/16
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昨日、個人的にとってもVIVA!な事を発見した。前回の日記にも書いたけど、現在過去に撮った写真を猛烈にスキャンしているんだけど、その中でふと、改めて自分の関心をひいた写真があったのです。その写真はドミニカ共和国のSAN PEDRO DE MACORISと言う街の民族舞踊を撮ったもの。ちなみにその踊りはLOS GULOYASと言います。ドミニカ共和国へ赴任するずっと前、私はこのLOS GULOYASを見たことがあります。どこでかというと、JUAN LUIS GUERRAのA PEDIR SU MANOのPVの中に出てくるのです。そのPVに釘付けな私。まさかそのときはドミニカ共和国に住むことになるなんてまったく想像もしていなかったのですが、そのときからいつかこのLOS GULOYASを生で見てみたいと思ってました。と、言うのも、私はもともと無類のアフリカ好き。そんな私がラテンアメリカがすきなのはいろんなところでアフリカに出会えるからだと思うんですよね。で、このLOS GULOYASを見たとき、ものすごくアフリカを感じたのです。そして、数年後。何の因果か、あ、いや、なんと言う幸運かドミニカ共和国へ。でも、当時はこの踊りがLOS GULOYASと言うこともSAN PEDROの踊りだと言うことも知らなかったのです。が、あるときSAN PEDROへ行くことに。SAN PEDROはドミニカ共和国第三の都市。世界一大リーガー人口が多いことで有名な街(人口比)。あのサミー・ソーサもこの街の出身だったりする。と、言ってもはっきり言ってこの街、見るものは何もない。私にとってSAN PEDRO DE MACORISといえばMACORIX・・・これでわかったなあなた。素晴しい酒飲みですね。MACORIXはこの街の地酒(もちろんラム酒)。あとは、一応PASTELES EN HOJAという食べ物がおいしいと評判なくらい。(かなりローカルなネタ)で、そのPASTELES EN HOJAのおいしいお店があると聞いていたので颯爽とMOTO CONCHO(バイクタクシー)で到着すると・・・本当にこうやって出迎えてくれたのです。びびりました。まるで私を待っていたかのように、出迎えてくれて踊り始めたのです。もちろん実際は別の団体さんを待っていたのですが、そのへんはさすがドミニカ人。細かいことは気にしない。私たちのことも歓迎。と、言ってもここは劇場でもなんでもなく、ただの公園です。まさかこんな形で見たかったLOS GULOYASを見れるなんて・・。そして、ここ最近の写真整理でこの写真を見つけて、ふとLOS GULOYASについてもっと知りたいと思ったのです。そこで調べてみると、本当にびっくり!な事実が。なんと、2005年11月25日にこのLOS GULOYASがユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作宣言」に指定されていたのです。どぇぇぇぇっ~~し、知らんかった。ちなみに以前ドミニカ共和国の音楽と踊りで書いたとおりドミニカ共和国には既にユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作宣言」に指定されているものがもうひとつあります。それがコンゴス ビラメラの精霊信仰の文化的空間と呼ばれるものです。なので、LOS GULOYASで二つ目です。いやぁ~、うれしい。自分が素晴しいと思ったものが世界的に認められて。世界遺産と言うとどうしても遺跡とかが注目を浴びるけど、この「人類の口承及び無形遺産の傑作宣言」は生きている人間が伝え続けている点で私はこちらのほうがはるかに興味をひかれます。このLOS GULOYASはCOCOLOと呼ばれる他のカリブ諸島(もと英国領)からのアフリカ系移民がドミニカ共和国に伝えたものです。一般的にドミニカ人はアフリカの伝統が自分たちの文化に影響を与えていることを否定したがります。でも、こうやって世界的に認められることでアフロドミニカン文化が見直され、保存されていくのではないかと思うし、そう願いたい。ちなみにSAN PEDROでは11月25日を「LOS GULOYASの日」とするそうです。昨年の12月25日から1月6日まで世界遺産に登録された記念としてLOS GULOYAS祭りのようなものを開催していたようです。見逃してしまった人や今後見てみたいと言う方。もともとこのLOS GULOYASはCARNAVALで踊るし、あと1月1日に伝統的に踊る習慣があります。SAN PEDROは首都のSANTO DOMINGOから1時間くらいだし、近くにJUAN DOLIOというリゾート地もあるので行きやすい場所なので機会がある方はぜひどうぞ。同じくCOCOLOSが伝えたと言われるGuavaberry(アルコール飲料)を飲みながら!それが無理な方はせめてJUAN LUIS GUERRAのA PEDIR SU MANOとGUAVABERRYを聴きながら!
2006/01/09
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ここ数日間、ずっ~とやらねば・・と思っていたことについにはじめました。それは今まで撮った写真の整理。昔まだまだデジカメなんてものが存在していなかったころのものや、デジカメはあるけど、シャッター速度とか望遠レンズじゃないと難しいものはやっぱりアナログでとっていたのでそれが相当量あるのです。で、以前買ったスキャナーは行方不明(苦笑)だったので、数ヶ月前に購入。と、言ってもスキャナーだけじゃなくて、プリンター複合機を買ったのだけど。それにしても、日本の電気製品はすごいね。本当に。途上国暮らししていると余計驚く。そんなわけで、大量の写真をスキャンしてました。日本にいるうちにまとめておきたかったし。見ていると「いやぁ~、懐かしい」的写真がどっちゃり。これは10代で初めての一人旅INインドで撮った言わずと知れたタージマハール うう~ん、美しい(自画自賛)他にも山ほどあるんだけど、意外と意識してない割には結構世界遺産にも言っているんだな~と実感。こちらはペルーのマチュピチュ雨季にも関わらず、歩いてマチュピチュに行ったのでたどり着くまでが大変だったんだけど、いろんな意味でその価値があった。ついたとき、朝早くなので他の交通手段で来る人たちは当然いなくて人がほとんどいないマチュピチュはすごく美しかった。まだ、アフリカ時代のものや、中国行ったときとか、それから大量のアメリカ留学時代の写真などなどが残っている。なんだかすっかり遠い思い出のようになってしまったけど、こうやって思い出すのは楽しいもんです。
2006/01/07
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お正月、いかがでしたか?去年はドミニカ共和国のリゾートでワイン片手に年越し。その前はメキシコの相方一族とぶどう12粒食べていた。(メキシコでは大晦日にぶどうを12粒食べて、12個の願い(←多すぎ)をする習慣があります)その前も相方一族と恒例の年越し。確か私は相方一族のリクエストにお答えしてPAELLA(パエリア)をつくったような・・。そんなわけで数年ぶりの日本のお正月。バブリーなchamoy兄からの数々の差し入れを見ているだけで満腹に。そんなにすきでもないけど、「多分これ、ひとつで3万円くらいするんだろうなー」と思って貧乏根性でカニ食べたら食べすぎで気持ち悪くなり、なんだか食欲減退でやせた正月でした orzさて。いろんな方のブログを読ませていただいていると、やっぱり年末は「2005年を振り返る」的な内容が多く(私も書きましたが^^)、新年はやっぱり「今年の抱負」とか「今年の目標」なんていう内容が多いなと思いました。話はそれますが、一人メキシコ在住の方のブログで来年を2007年だと思っている方がいました。思わず「わかるわ~」と思ってしまいました(笑)ラテンアメリカにいるとあんまり「今何年」とか「今日は何月何日」とか考えなくなるんですよねー。(日系企業でお勤めの方なんかは違うと思いますが)ついでに自分の年齢も忘れるし。(あ、忘れたくて忘れているのではありません)去年はいろいろ自分なりの目標があって、そしてそれを実行して結果も出たのですが、その反動か・・今年はそういう目標とか抱負ってのはなんかないような・・。で、ちょっと違う角度から「新年の抱負」とか「新年の目標」というのを考えてみました。ちょっと前の話なんですが、ある時コーディネーター(と、いう名の雑用係)として、あるストリートチルドレン関連のNGOに行った事があります。この日の訪問先はこことあと、メキシコでも有数の超金持ち大学訪問だったのですが、まさに「メキシコの光と影」。同じ国、同じ街にこれだけdistinto(異なる)な世界が存在していることを強烈に見せられた気がします。このNGOはけっこう有名なところで、運営もしっかりしている(ように思える)し、スタッフも熱意を感じるところでした。メキシコのストリートチルドレンの問題は非常に深刻で、この訪問で実際にNGOのお話を聞けたり、ストリートチルドレンたちと話をできたり個人的にも非常に有益な訪問でした。その中で一番印象に残っている話。食堂を見せていただいているとき、ストリートチルドレンの子供たちが描いたという絵が食堂に貼ってありました。スタッフがこう説明してくれました。「ストリートチルドレンには「今」しか存在していません。「今」を生き延びることしか考えられないのです。でも、こうやって過去にこの施設でした行事を絵に描いておけば「過去」を振り返ることもできる。そして、今週の行事を絵に描いて食堂に貼っておくことで今週どんなことがあるのか、と考えられるようになるのです。つまり、未来について考えることを習慣づけることができるのです。ストリートチルドレンにとって「未来」を考えることは「今」から脱却するために必要なことなのです」確かにストリートチルドレンは「過去」を断ち切ろうとしている。「過去」にはつらい事だらけ。「未来」を見ないのは「今」を生き延びるために精一杯だから・・だと私は思っていたのだけど、この説明を聞いていて私の解釈は違ったように思えたんですよね。日本人の方々のブログで「新年の抱負」や「新年の目標」に触れている人がすごく多かったのは小さなころから「新年だから今年の目標を考えましょう」という教育に基づいた習慣なのじゃないのかな・・と思ったのです。ストリートに暮らす子供たちが「未来」を見れないのは「今」を生き延びることに精一杯と言う以上に「未来」を見るという教育を受けていないからじゃないのかと。「全ての人に教育を」これはよく使われることばだけど、改めてそう思う。私自身が開発政策を研究するにあたってその根源にあることは「格差」をなくすこと。まあ、それはとてつもなく難しいことなのだけど、これが私の抱負のかわり。!!'E PA'LANTE QUE VAMOS!!
2006/01/04
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