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2015.02.21
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 ルーチョ・バッティスティ、 1943 3 5 日ローマの北北東40 km の山中にある小さな町ポッジョ・ブストーネ( Poggio Bustone )生、 1998 9 9 日ミラノ没。 自作自演歌手、作曲家、マルチ楽器演奏家、レコード・プロデューサー。

55才の若さで亡くなり、イタリア歌謡界でドメニコ・モドゥーニョと並び大転換期の主役として今なお圧倒的な人気を持つ伝説の人です。賞賛、評価は他の方にお任せし、今まで紹介してきた「サンレモの歌手たち」と同じスタンスで臨もうと思っております。

 公務員の父アルフィロ、母デアの次男として生まれ、家族は1942年2 才で亡くなった兄と3才下の妹アルバリタがいました。47年にカステル・サンタンジェロ、50年にローマへ引越しています。両親からギターを贈られ、同じアパートのロック・ン・ロール好きの若者から影響を受けたことで音楽に関心を持ちます。

 その後音楽にめり込み、父は電気技師の資格を取ることを約束させ、2年高校を卒業しています。その秋、ナポリに行きバンド、マッタトーリ( I Mattatori )の見習いでとなり、ギタリストの経歴が始まります。しかし年末にはローマのサティーリ( I Satiri )に変わりました。

 ミラノに移り、58年にトニー・ダララが独立後、ロビー・マタノ( Roby Matano )がヴォーカルとして加入したカンピオーニ( I Campioni )に、ギタリストのブルーノ・デ・フィリッピの後釜として入ります。カンピオーニに所属したのは64年から66年の間でした。マタノはルチオに作曲家としての才能が有るのを見抜き、作曲することを勧めました。

 ルチオはまだSIAE(イタリア作曲家・音楽出版社協会)に作曲家として未登録で、曲の名義はマタノにされました。その後“心によみがえれ (Mi ritorni in mente ) ”の様にモゴールの作詞で蘇った曲もあります。

 65年2月オーディションを受けた時、フランスからミラノに進出しエル&クリス( El ` & Chris) 音楽出版を作ったリスチーヌ・ルルー(( Christine Leroux )に注目され、共同経営者のフランコ・クレパックス( Franco Crepax )に会うことが出来ました。

 クレパックスはリコルディをナンニと共に立上げ、そして不振の責任をとり CGD に移籍します。それ以降 CGD WEA に買取られるまで、芸術監督など最高幹部として会社に、またヴィンチェンツォ・ミコッチ )、ナンニ・リコルディ( Nanni Ricordi )らと共にイタリアのレコード界君臨します。

 ルルーはミコッチが芸術監督をしていたリコルディの新人スカウトの仕事もしており、バッティスティの才能を発見、リコルディでミコッチの下で働いていた作詞家モゴールに彼を紹介しました。モゴールと仕事をするきっかけでした。

 沢山の名前が出て来てややこしいですが、当時のイタリア音楽界最先端の実力幹部たちがバッティスティの才能を認めたと理解して下さい。

 新人歌手の仕事として、66年サンレモ音楽祭コンピレーション用のカヴァー曲を吹込みます。ルチオはセルジョ・エンドリゴの“去り行く今( Adesso SÌ )”を歌いました。

 リコルディ社内では彼の歌唱能力には懐疑的で、「彼の作った曲は最初は彼でなく、むしろ他の歌手に歌わせるべき」という意見が多く出ました。モゴールはそれに反対し、最終的に彼の意見が通らなければを辞任すると脅し、バッティスティは自作自演歌手の道を歩み始めることが出来ました。

 この年の7月“ Dolce di giorno ”でシングル盤デビューをしました。しかし、この曲はリコルディ期待の新人グループ、ディク・ディクの2枚目シングルB 面に収められ4月に発売、B 面“ Per una lira ”はルチオと同じ7月に“青空の微笑( Per una lira )”としてクラン・チェレンターノのベテラン・バンド、リベルリ( I Ribelli )が発売。商業的には他の歌手の方が良く、モゴールの顔は立てたが彼の意見が全て通った訳でもなかったようです。

SRL-10 430 (1966 7 Ricordi Ricordi) Dolce di giorno/Per una lira ( 1リラのために ( 青空の微笑 ))

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SRL-10 460 (1967 7 Ricordi Ricordi) Luisa Rossi/Era

 67年サンレモ音楽祭にミーノ・レイターノと英国のホリーズが歌った“世界を信じたい( Non Prego Per Me )”を作曲家として提供しましたが、参加曲に終わります。

 ルチオ自身のオリジナル・シングル盤は1年後、67年7月に発売された“ Luisa Rossi/Era ”でした。この盤も歌唱力の問題はレコード会社幹部の目(耳)が正当な評価だと思われますが、才能としては時代が求めていたものを彼が持っていたとも言えそうです。

 バッティスティの最初の成功はリコルディの人気バンド、エキペ84( Equipe 84 )ためにモゴールと作った“9月29日( 29 settembre )”というラジオ番組のテーマ曲でした。発売67年3月でB 面におさめられましたが、67年年間ヒットランキング12位のメガ・ヒットになっています。

 68年サンレモ音楽祭には“狂った蝶々( La farfalla impazzita )”を出品し話題になりましたが、入賞しませんでした。 彼自身の歌が認められるはデビューから2年近くたって出た3枚目のシングルでした。A 面が68年の夏にディスク・フェスティヴァル参加曲、B 面がカンタジーロ・ジローネ B で4位になった“バラ・リンダ”です。この B 面の曲が年間ランク88位のヒットとなり、米国のグラス・ルーツが英語でカヴァーをしました。


SRL-10 495 (1968 4 Ricordi Ricordi) Prigioniero Del Mondo (世界の囚人) /Balla Linda ( バラ・リンダ )

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Last updated  2015.02.21 17:32:36
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