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旧教会は、比較的便利な場所にあった。買い物にも、デパートにも歩いて行けた。 「先生、出てきませんか」 夜、時折、声がかかる。相手は、弁護士だったり、外科の先生、税理士だったりする。 「夜の街なのに、なぜ朝日町なのか」 「朝まで飲むか、飲ませたい街だからだよ」 なんだか、わかったような、わからないよう言葉がよく出る。 「しかしだよね。医師と弁護士と坊主が揃ったら、この世は怖いものなし、だよなあ」 誰かが気炎を上げる。なるほど、上手いこと言う。 酒には弱いがそのムードが好き。自分では音痴と思い込んでいたから、カラオケも好きではない。教会では、祝宴などがあって、最後には「先生、一曲」と催促される。そろそろ時間と感じたら、いつも逃げ回っていた。そんな姿は、歌唱力抜群の妻には面白くない。「あなたね、そんなに逃げてどうするのよ」「音痴だから歌いたくないのだよ」「それなら何か一曲を徹底的に歌い込みなさい。100回歌えば上手になります」 尻を叩かれて「無法松の一生」を、人知れずに、練習した。不思議なもので、一曲マスターすれば、また他の歌も歌いたくなる。カラオケが好きになった。今でも妻の叱咤激励に感謝している。 夜の街では石川さゆりの「天城越え」が流行り出した。この歌を聴くと、米子の夜を思い出す。しかし、新教会に移転してからは、歩いて行けず、当然ながら、以前より足が遠のいた。 額縁を完成させるのは、造園がいる。地元名士湊谷頼吉氏が、樹木、石、灯篭など高価なものを寄進して陣頭指揮を取ってくれた。「ひもろぎ」の株分け2本も会員がトラックで運んできた。涙の溢れる献身で、額縁が完成した。 落成式の前に駆けつけた影身祖は、新殿堂を見て、驚嘆の声を上げた。「さすが先生のことです。やることが違います」
2024.12.02
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各地に広がる「ひもろぎ」の株分けは、いろいろな話題も提供してくれる。特に名古屋が注目された。米子教会の三回目の土地購入を申請した頃、名古屋の婦人会の幹部一同が、影身祖の許に、株分けのお願いに行く。そこで話された言葉は、特筆される。 「腕ずくでも、金ずくでも、ひもろぎは、動きません。ひもろぎに、籠もった生命の誠と、皆さんの誠が、ピタリと合った時初めて、ひもろぎが、動くのです。『どうぞ、この心癖を取ってください』と訴えられただけでひもろぎの霊力が働いて、皆さま方の心癖のなおらないところを取ってくださることになるのです」 この挨拶文が、各地に配られて、それ以来、ひもろぎ信仰が始まり、株分けの動きが加速した。影身祖の本「教えられるままに」にも収められている。ところが、その言葉「ひもろぎの霊力」がやがて反故になるとは、影身祖自身も思わなかっただろうし、その件は、知らされないまま、そんな世界で暮らしているのは、逆に幸せなのかもしれない。二代教祖夫人の言葉が、そんなに軽々しいものだったのか、という反発をどう受け止めたらいいのか。影身祖といろいろ話している時に、電話が鳴る。かなり長時間だった。「それはいいところにお気付かれましたね。そうですよ。なんでもアッサリ素直に表現すればいいのですよ」そんな言葉も聞こえた。「名古屋の佐藤さんですよ」「まだお元気なのですか。もう90近くではありませんか」「よく知っていますね」「新婚時代にお世話になり、感謝しています」「そんな縁がありましたか。やっぱり世の中は繋がっていますよ」「あの頃、影身祖さまは、二代さまと毎年のように西川流の名古屋踊りを見に来られていて、私はカメラ担いで取材していまいた。傍にいても言葉をかけるのも恐れ多い気持ちでした」「まあ、そんなことまで覚えていましたか。あの頃は華やかでよかったね」「佐藤さんお元気なのですか」「あれだけの高齢で、もう悠々自適にお暮らしされているのも、やっぱりいつもアッサリ素直に表現しているからでしょうよ。教えられました。いつも神様、神様と申し上げて表現すればいいのですよ」当然ながら、佐藤元会長の電話は、ひもろぎのお礼だった。そこは、秀峰大山が一望できる。遮るものは、何一つない。やや小高い丘になっている。「ちょっといい土地があります。一度ご覧下さいませんか」「あなたのお勧めなら間違いないでしょう。今から案内してください」駅から十分位。少し中心から離れているが、我慢できる範囲か。バス停から徒歩5分か。高齢者にもなんとか、なる距離だ。なによりロケーションがいい。「どうしてこんな土地があったのですか」「実は、ここはご覧のように高台に団地があります。その開発のために、ここをスーパーにする予定でしたが、何しろ商圏が小さく、どこも手が出ないので、土地開発の業者がPLさんならどうだろか、と、私に打診してきた次第です」「それなら用途変更の変更手続きが必要ですね」「それはなんとかなるのではと思っています」「広さは」「乗り面入れて670坪で、地価は20万切れています。現在の土地を売ればは充分にペイできます」新殿堂の構想のイメージが膨らんでいた。大山をモチーフにして、玄関を入れば、大山が飛び込んでくる。額縁の中と同じ感じ。一番手前にあるのは、もちろん「ひもろぎ」である。 「ひもろぎ」のために教会を建てる。どの教会よりも「ひもろぎ」を中心に据える。「ひもろぎ」無くしてここの教会は考えられない。しかし不運に見舞われた。委員長が病に倒れ、教会神霊遷座式には、それを押して参列したが、翌月教祖の誕生の日に亡くなる。移転後の初の大きな行事は、その藤田会長の教会葬だった。大きな誠の人柱かもしれないが、耐え切れないものだった。もう二度とこんな目に遭いたくない。教会など建てないと固く決心せざるを得なかった。 教祖を迎えての落成式は、翌年93年5月9日と決まった。
2024.12.01
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奥津城の神木「ひもろぎ(榊)」が枯れかかるという事件は、影身祖を驚かせた。少し小高い上にあるし、恐れ多い感じで、誰も彼も上って覗かない。担当の管理者が見た時に、幹の中ほど1メートルほどの枝が3本枯れていた、というもの。 本当に枯れてしまったらどうなるのか。関係者は慌てたが、その時に備えて影身祖邸の近くの庭に、かなりの数の「ひろもぎ」が挿し木で育てられていた。それさえ管理によっては、今後、どうなるかわからない。 そこで、影身祖は、熟慮の末に一つの結論を出した。管理の出来る、しかも誠のある人の教会に株分けする、というものだった。 まず鳥栖教会だ。その陶板の碑文に「払いした挿木の一株が、二代教祖のご遺志により、「ひろもぎ」の分身とし、 PLの発祥の地、鳥栖 に帰る」の文面がある。 それを契機に、金沢、熊本、名古屋、福岡、京都、福山と広がりを見せた。地域性でなく、あくまで影身祖の選んだ土地、人であった。 その動きに対して、三代教祖の気持ちは、どうだったのか。 「まあ、敢えて母親と争いをしたくない」 静観するしかなかった感じである。影身祖から声をかけられて、迷う教師もいた。そして断った人もいた。当然と言えば、当然かもしれないが、声がかかっていた。 でも即答は避けた。「ひもろぎ」をいただく環境の教会ではない。庭の片隅を植えて、どうするのだ。「ひもろぎ」が泣くではないか。今はその時でないと思っていた。 そんな話を会長が聞きつけたようだ。昭和最後の正月の開運錬成のバスの中で、それが話題になった。「ひもろぎ」に相応しい新天地に新殿堂を建設しょうでないか、と盛り上がった。 平成の世になって、早々に建設委員会が作られ、重い腰を上げた。こんな左遷の地では、教会建築などしたくない、というのが本音だった。 福山教会を建設する時は、血の小便をしたほど。そんな苦労をここでは出来ない、したくないと思っていたが、影身祖からの強い風には、勝てなかった。教会建設・建設献金願いは、即日に許可された。その速さにびっくりした。二代教祖の時代は、なかなか決済されずにイライラしたこともある。設計者の選定は早々と決まり、許可の一週間ほどで下りる。土地購入は、二回提出して許可は得たものの購入できなかった。 三回目に申請した土地は、半年過ぎても、許可が下りなかった。三度目の正直でなく、二度許可したのに、買えない、買わないとは何事か、と怒られているのか。でも悠長に構えていた。教会に相応しい土地なら、必ず買えると。
2024.11.29
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七夕の日に、影身祖は、自動車で米子に見えた。当時は、まだ米子道がなく、落合からの一般道。かなりの時間を要した。それでも元気だった。 米子教会でのお話のあと、大山ロイヤルホテルへ。旅の疲れを癒す。食事の時は、饒舌だった。「教主という個人の姿を見ないで、教えの中身、処世訓を見て暮らしなさい。教主はあくまでも象徴としてあります。教主すら神が支配しています。だからいつも、いつも処世訓と共に暮らしたらいいのです。私生活を見たら狂いことにもなります」 こんな話を懇々と続けた。それは影身祖の心中お察した言葉である。それほどに三代教祖に対して絶対というほどの思いは薄れていた。 翌日、安来の足立美術館に足を伸ばす。横山大観への思いやりに目を見張った。そこまで知っているとは、驚きだ。松江から出雲大社に遊ぶ。境内の神々しさに、心打たれたようだ。出雲そばを堪能する。宍道湖畔のホテルでは、全国を回られている様子を楽しそうに語る影身祖であった。米子に赴任しての年末のこと。 「広田弘毅さんのこの句もいいですね」 日記に書き写しながら妻が呼びかけた。 「どれどれ」 「これっ、あなたもマーカーを付けていますよ」 「ああ、私の心境を映しているようでね。まあ、お互いさまかな」 「そうですね」 気に入らぬ風もあろうに柳かな 確か伊藤整の「左遷の哲学」にあった俳句と思う。この世は気に入ることばかりじゃない。気に入るのは、ほんのわずか、かもしれない。それでも生きて行くのが、人生じやないか。柳さえどんな風でも受け入れて揺れているじゃないか。「まあ、しばし、ここで、風の吹くままに暮らそうよ」「そうね」 同じページの書き留めた歌に目をやる。 「これ平野國臣じやないか。西郷隆盛の本からだよね」「そうよ」「気に入っているのか」「前の歌がよかったので、ついでに」わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば煙は薄し桜島山 この歌ならわかる。いつも妻に、自分の心意気として、言い聞かせている歌だ。それに続いていた歌に引っかかる。 ながらへばかにかく命あるものを過ぎにし人の心みじかき わざわざ書き留めたのか。どんな意味があるのか。何を考えているのか。その心中を聞き出す勇気はなかった。
2024.11.28
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米子での1年目の5月、妻は請われて婦人の集いに講話した。 いきなり話出したことは。「奥様は何も悩みがなさそうでいいですね」 「そう言われたら。言下に、とんでもありませんよ。自分ほど悩んでいる人はいない。最高に悩んでいます。山には山の憂いあり、海には海の悲しみがあり、で、山ほど悩みを抱えています」 スピーカーを通して聞いて、解任がよほど応えているのかと感じて、心配になった。7月7日の七夕には、影身祖が初めて見えることになっているので、それに触れた。 初めて影身祖とお話したのは、19歳の時、講義の後で勇気を出して質問した。 「どうしたら親孝行ができますか」 「旅行に連れて行ったり、美味しいものを食べさせたりして、いい目に遭わせるのも親孝行ですが、何よりも優しくしてあげなさい」 妻は末っ子。長兄とは20歳も離れている。9人の兄、姉の中で暮ら自分から何かをするより、皆にしてもらうばかりの生活だったとか。苦労してきた両親を見てきているだけに、その言葉を深く噛み締めた。 そうだ。母の言うことは、そのまま「ハイ」と聞こうと固く決心したという。完全に出来たかどうか自信はないけど、してきたつもり、と淡々と語る。 確かに、何かあれば、すぐ母親に電話をしたり、手紙を書いていた。あれは東京、出版部門の時代。貧しくて長女を幼稚園に通わせられない。その悩みを訴えたのだろう。母親の手紙が残っている。 「可哀相と思っていますが、それは間違いです。やれない時は、それでいいのです。やれる時にやりましょう、サラリとしているのが、親として一番大切な心得です。影身祖様が、可哀相と思えば可哀相な子になりますと教えてくださいましたよ」 ここでも影身祖の言葉が出て来た。 「親の思い一つで、天真爛漫な神の子に、暗い影を与えてはなりません」 厳しさの中にも、母としての精一杯の優しさが行間に溢れている。それを素直に聞き入れてくれたのも、あの時の質問を実行しているからだろうか。娘たちの成長の中で、それは十分に感じられる。 その母の思い出も語る。娘たちを早く手放して、母親として気違いになるほど淋しい、精神錯乱状態と訴えた。 「あなたが育てるよりもおしえおや様に育ててくださる方が、立派になります」 言下に言われて、なんと冷たい、血も涙もない母と恨んだと言いつつ。 「二代さまも女の子は厳しく育てなさい、と教えていただきましたから、母の言葉に心が安らぎました」 その母親の3年目の命日。先々月の朝である。今日は何かいいことがあると思ったら長女の女子大の合格の知らせがあった。お礼の手紙を影身祖に書いた。 「影身祖さまは、いい大学に行かれますね、と、とっても喜んでくださいました」 久しぶりに見る笑顔だった。 「親の思いは、時代を超えて流れて行くのですね。それもこれも、あなたの母さんの思いの現れですよ」 影身祖の言葉を噛み締めて語っていた。 「米子に来て本当に良かったと思っています。ここから見る大山は、女性的で優しいけど、裏に回れる険しい山肌で男性的です。それこそ人生を感じます。優しさと厳しさも備える大切さを日々学んでいます」 この言葉に、少し安堵した。
2024.11.27
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こういう場合、男は、次の仕事が待ち構えているので、気持ちの切り替えは速い。女はどうしも過去を引きずってしまうようだ。あの華やかな笑顔がなかなか戻らない。 米子はなかなかの教会であった。さすがに山陰の商業都市だけあって、会社社長、税理士、弁護士、さらに国会議員、女優、県会議長、など多士多彩である。会員組織もある程度整備されているので、慌てて仕事することはない。まあのんびり行こう。考えてみれば、ここ20年ほど、走り過ぎてきたようだ。ここで、一服せよとの神の思し召しだろう。 妻にもここは休憩する教会だよ、と念を押していた。しかし、教会の建物には、馴染めるものでない。正面は肥料会社の倉庫。臭いからいつも開けっ放しのためまともに教会に入ってくる。慣れたらいいかもしれないが、どうも臭くてやり切れない。 後方はマンション。いつも見下ろされている感じ。左は潰れかかっている民家。右も倉庫。どう見てもいい環境とは言えなかったが、何かをする元気はない。ともかく目立たないように静かにしていたかった。 佐賀の目立ちすぎた結果を思えば、それも仕方のない。手当たり次第に本を読んだ。人生書としては、伊藤 肇の著書が面白かった。「現代の帝王学」「帝王学ノート」「「男からみた男の魅力」「喜怒哀楽の人間学」「左遷の哲学」など夢中で読み耽った。 「落日燃ゆ」のモデルになっている広田弘毅がオランダ公使に左遷された時に心境を詠んだという一句を見つけた。 「風車風の吹くまで昼寝かな」 そうだ。この心境だ。これこそ一番必要なことだ。、また風が吹くだろう。それまで、本でも読もうと決め込んだ。山本周五郎の文庫本を読んだ。その数、60冊を超えたかもしれない。 さら中国語の勉強まで始めた。教会を出て、いろいろな会合にも顔を出す。とくに環境問題やら中国、朝鮮、韓国、ロシアとの交流にも参加して市長や知事とも顔馴染みになっていた。 布教活動に直接関係ないから、これが昼寝と言えるのかもしれない。この時期が、人間として、一番充実していたと思った。得たものは大きかったと確信している。 本に馴染むことで、ある種の苦さを味わっている。文章を書くのは好きだけど、人一倍苦労してきた。それを反面教師に使ったのが妻である。娘たちが幼少の頃から、本を読み聞かせていた、本に興味が出てから言った言葉。 「ババは、文章を書いているけど、あれで苦労したのよ。書こうと思っても言葉が出て来ないのよね。言葉の数が少ないの。それはどうしてか、分かりますか」 「一番大切な時に、本を読まなかったからよ。満州という所で、日本の本がなかったのよね。日本に帰ってからどんどん読んだというけど、間に合わなかったみたいなの。本をたくさん読んで、言葉を頭の中に貯金しないと、いざと言う時に、なかなか出てこないの。パパみたいにならないように、今のうちにどんどん読みなさいよ」 そんな語りかけをしていたとは、知らない。娘たちは、寮に入っても、薄暗い場所で本を夢中で読んだらしく、二人とも親にない近眼になっている。それはそれとして、母親の教えは、娘たちの上に生きた。社会に出てもそれなりの活躍が出来ているのは、その成果であろうか。 読んだ本の中で、これは、という部分をカードに書き写す。それはそのままボックスに。その数は、莫大だ。特に項目別には整理していない。捲れば何が出てくるか、分からないから楽しいと思っている。教会では、時には毎日のようの講話をする。今日は、さて何を話すか。迷ったらそのカードをパラパラ捲る。これは、というものをネタに話の組み立てがすぐ出来てしまう。
2024.11.26
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送別会が企画された。目の前のニューオオタニは、人で溢れる。挨拶やら送る言葉が終わって、カラオケで賑やかさを演出していた。トリの前に、妻に回る。どんな選曲するのか。興味深く見守っていたら、進行と打ち合わせていたのか、紹介なしに曲がかかった。「つらい時ほど心の中で」と歌い出す。驚いた。こんな時にどうしてこんな歌なのか。「苦労見せずにかくしていたい」 男の気持ちと裏腹に、女にはそう見えていたのか。「私の大事なだんな様」呼びかけが刹那過ぎる。「あなたはいつも陽のあたる表通りを歩いてほしい」 いままでも陽の当る表通りばかりではなかった。試練を忘れているかのように切々と歌う。それが女の気持ちか。「ごめんよ」と思わず抱きしめたくなった。「がまんしている背中をみれば 男らしさに涙が出ます」会場はしんみりしてしまう。それほど心の叫びを感じさせる歌い方だった。 妻は、封印したかのように、二度と歌わなかった。三船和子の「だんな様」である。 つぶやく。「こんなだんな様で、苦労をかけてごめんな」 新任地は、山陰の米子。電話で辞令を聞いた時、その土地は全く分からず、未知に等しかった。 それは悪いことばかりではなかった。その人事を本部の学園で聞いた高校3年になった長女が泣いた。「どうしてパパがそんな処遇を受けるの。あんなの教会を栄えさせたのに。おかしい。私は、おしえおやを身返ししてやる」 その怒りは、並でない。それまではのほほんと暮らしていた。中学三年生頃は、仲のいい同級生が転校したのが、寂しくて、退学したいと何度も訴えていた。そのためわざと寮規則を犯したりしたこともある。血を引いてかなり男勝りである。生徒体長をしたりして、高校ではよく人のために献身していた。 それが目の色を変えて勉強し出した。翌年の2月に聖心女子大を受験した。逆立ちしてもダメと教諭たちから言われたが見事に合格。学園始まっての快挙である。奮起した成果だろう。 卒業時には、優秀賞もいただく。式の後同級生の父親から聞かれた。「どんな勉強をすれば、ああなるのですか」「本人の努力もさることながら、やはりおしえおやのおかげですよ」「そうですか。おしえおや様のおかげですか。やっぱりね」それでは、会話は続かない。精一杯の皮肉ったつもりだったのに、まともに受け取ったからだ。口に出掛かって止めた。 それを契機に、長女は教団から縁を切ったような態度を取り出した。それも仕方のない。それでも祈りは忘れていない。次女もがんばったのは、無論である。娘たちを奮起させたことは、親にとって、何よりもありがたいことだった。その後の社会での活躍を見れば尚更であった。
2024.11.25
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嗣祖が教団を去ってすぐに、教団幹部に一つの通達が出ている。 「幹部一同結束して超非常時を乗り越えよ」 それが教団にとってとてつもない大事件であり。まさに超の冠詞が付くほどの非常時になったことが、それでも分かる。 三代教祖に就任して、今後どうなるのか、興味深く見守ると決め込んだ教師もいたりして、体制もままならない。その最中、大事件が明るみになった。千葉の指導部長が宗教家としてあるまじきことをやらかしていた。騙されて男に大金を貢いで行方をくらました。もちろん務上業横領だった。単に千葉だけてなく九州、北陸など赴任先の数多くの会員までも被害を被った。教団の財政を揺るがしかねないものであった。 事件の真相も解明されない年末、誕生日に三代教祖が結婚としたという。寝耳に水である。プライバシーだから公表しないという。それはそれとしてお相手の出生の秘密が噂として飛び交った。その調査に、こっそり出向いた総務部長は、教祖の逆鱗に触れてか、謹慎処分となった。またこの世の春を満喫するつもりだった育ての親は、ブラジルに飛ばされた。 影身祖が心配され、憂いの極みだったことは想像できる。それが、初代教祖の軸で払拭されて、急に元気なり、甦ったようにあちこちを回り始めた。さらに危機感を覚えたのは、85年8月、奥津城にある神木「ひもろぎ」枯れかかっていたことだ。 影身祖にとつてそれは単なる榊ではない。初代教祖から守り続けて、この教えを悟らせたという神木である。その思いは、ここでは書ききれない。その年の10月に佐賀のホテルで延々2時間近く語られたほどだ。 教団としても、ひとのみち教団からの幹部が、全教師に激を飛ばした。 「おしえおやに一本になれ」 それがどこまで浸透したかわからない。その人は、叩けば埃が出る。口には出さないが、女に弱くとかく噂があった。同期生は、それを知って一度教師を辞めた。そんな純粋な若者から見れば、とんでもない幹部だった。 影身祖は、甦ったように元気に全国を回り出した。それでは「おやしえおや一本」にはならないと、危惧する幹部もいた。そんな状況の86年2月、影身祖の誕生を祝う会を嬉野温泉で盛大に開いた。ただ純粋にお祝いを会員と共にしたかった。それが許されるほど教団の情勢は、甘くなく、厳しかったのである。 そんな風が吹いたのだろう。3月29日辞令が出た。佐賀のブロック長を解任されたのである。 教団には、降格とか、昇格もない。立場の解任すらない。なぜなら立場の上下はなく、皆、教祖の下で、修行している集団だから。聞きつけた義兄もそう慰めた。
2024.11.24
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二代教祖の帰幽の時、妻の母は、その様子を書いている。「おしえおや様のご遺体のお顔が小さくおわしたので、思わず声を上げて泣いた。むなしい思いが胸から去らず、ただため息ばかりしていた」 そんな母は、翌年2月、二代教祖に呼ばれたかのように、二代教祖と同じ82歳で亡くなった。深い悲しみに明け暮れた妻は、「母に捧げる鎮魂歌」をしのび草に書いている。 年々にわが悲しみは深くしていよいよ華やぐ命なりけり (岡本かの子詠) 手帳の裏に書きとめられた一首で、赤いベンで記された。 「人間の晩年も武蔵野の秋と同じように多彩で華やかであって欲しい」 ごめんなさい。お母さん。お許し下さい。私は、あなたの娘として何もさせていただくことが出来ずに、親不孝をいたしました。お母さんの思いを何一つわかって差し上げることが出来ませんでした。現在の自分たちの幸せが、あなたの大きな犠牲の上にあったことを思えば、なおさらに限りなく深い悲しみと悔いだけが残ります。 お母さん、あなたがそこにいてくださるだけで、私たちは無条件に安心し、喧嘩もし、甘え、安らぎ、和み、睦み合って参りましたのに。どうしてそんなに急に亡くなってしまわれたのですか。なぜもう少し私に親孝行をさせてくださらなかったのですか。 今は何を言っても遅いのですね。人間って、馬鹿ですね。失ってみて初めてそのありがたさ、尊さがわかるとは。嬉しいにつけ、哀しいにつけ、お母さん。あなたは私の生きてゆく力の源でしたのに。二代さまが逝かれその悲しみが癒える間もなく、あなたまでもが逝ってしまわれるなんって。 すべてが虚ろに見え 虚しく思えてなりません。人の命は、はかないもの、生きることは本当に哀しいことですね。お母さん。あなたが亡くなられてからいろいろありました。でも、皆頑張って生きています。影身祖さまも、とても寂しいとおっしゃって泣かれましたよ。あなたが残してくださったものの大きさに比べて、一体私は、娘たちに何を残せるのか、自信はありません。たまらく不安でいっぱいになります。41歳で私を産み育んでくださったお母さん。私も今年で同じ41歳になります。命の限り生きてくださり、本当にありがとうございました。今は、もう感謝でいっぱいです。お父さんのお側で、静かに安らかにお休みください。「母ありてこそ」の私のこれからの人生と思って、しっかり生きてゆきます。私の中に永久に生き続けてくださることでしょう。そしていつまでも守っていてください。私たちが困った時、助けてください。お母さん。お願いします。 二代教祖の帰幽の時、妻の母は、その様子を書いている。「おしえおや様のご遺体のお顔が小さくおわしたので、思わず声を上げて泣いた。むなしい思いが胸から去らず、ただため息ばかりしていた」 そんな母は、翌年2月、二代教祖に呼ばれたかのように、二代教祖と同じ82歳で亡くなった。深い悲しみに明け暮れた妻は、「母に捧げる鎮魂歌」をしのび草に書いている。 年々にわが悲しみは深くしていよいよ華やぐ命なりけり (岡本かの子詠) 手帳の裏に書きとめられた一首で、赤いベンで記された。 「人間の晩年も武蔵野の秋と同じように多彩で華やかであって欲しい」 ごめんなさい。お母さん。お許し下さい。私は、あなたの娘として何もさせていただくことが出来ずに、親不孝をいたしました。お母さんの思いを何一つわかって差し上げることが出来ませんでした。現在の自分たちの幸せが、あなたの大きな犠牲の上にあったことを思えば、なおさらに限りなく深い悲しみと悔いだけが残ります。 お母さん、あなたがそこにいてくださるだけで、私たちは無条件に安心し、喧嘩もし、甘え、安らぎ、和み、睦み合って参りましたのに。どうしてそんなに急に亡くなってしまわれたのですか。なぜもう少し私に親孝行をさせてくださらなかったのですか。 今は何を言っても遅いのですね。人間って、馬鹿ですね。失ってみて初めてそのありがたさ、尊さがわかるとは。嬉しいにつけ、哀しいにつけ、お母さん。あなたは私の生きてゆく力の源でしたのに。二代さまが逝かれその悲しみが癒える間もなく、あなたまでもが逝ってしまわれるなんって。 すべてが虚ろに見え 虚しく思えてなりません。人の命は、はかないもの、生きることは本当に哀しいことですね。お母さん。あなたが亡くなられてからいろいろありました。でも、皆頑張って生きています。影身祖さまも、とても寂しいとおっしゃって泣かれましたよ。あなたが残してくださったものの大きさに比べて、一体私は、娘たちに何を残せるのか、自信はありません。たまらく不安でいっぱいになります。41歳で私を産み育んでくださったお母さん。私も今年で同じ41歳になります。命の限り生きてくださり、本当にありがとうございました。今は、もう感謝でいっぱいです。お父さんのお側で、静かに安らかにお休みください。「母ありてこそ」の私のこれからの人生と思って、しっかり生きてゆきます。私の中に永久に生き続けてくださることでしょう。そしていつまでも守っていてください。私たちが困った時、助けてください。お母さん。お願いします。
2024.11.20
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「ここはいろんな人が集まっていますね」 85年5月、影身祖は、佐賀の感謝祭に参拝。会員の体験発表を聞いての最初の言葉だ。「教会長の色に染まって、気に入った人だけが集まっている教会が多い中で、ここは珍しい ですよ」 「まだまだですが、ここまで来るのに5年かかりました。ブロックの所在地ですが、鳥栖に半分にもなりません。小さな教会です」 妻が口を挟んだ。 「中身は追い越していますよ。あの足の不自由な方は、ヤクザさんみたいな感じでしたが、そんな人さえ受け入れるようで、感心しています」 「ありがとうございます。まじめな人よりも、ああいう人が面白いです。次々と人を連れてきた入会させています。おかげで色々な人が増えました。そんな人たちとお付き合いするのも初めてです。夜の世界も佐賀に来て知りました。」「私は教団育ちの潔癖性ですから、ときどきハラハラしています」「宗教家としての節度があれば大丈夫です。先代さんは、泥棒さんに教えを説くときは、一緒に泥棒しなさいと、言われたほどです。本当に泥棒した教師はいませんが、それほどまでして、相手の心に入らなければ救えません。先生はそこを心得ているようですから、心配する必要はありませんね」体験発表した会員の補足説明にも力が入っていた。両親が果たせなかった思いをここでなんとかというものが、あるからだろうか。「影身祖さま主人は広島の教会を建てる時に、影身祖さまに解説(指導)を受けていました」 「そんなことありましたか」「それは夢の中の話で、正夢になりました」 忘れていた話を妻が突然言い出した。「教会を建てるのにお金がなく、おしえおや様にお願いしたら、そんなお金は出せないと言われ、ションボリしていたら影身祖さまが、大丈夫ですよ必ず建ちますから、誠の限りを尽くしなさい、と言われたのです。おかげで、夢が本物になりました」「ああ、福山教会ですか、一度は、思っているので必ずお参りしましょう」確かに教会は、盛り上がっていた。「今日の教え」を百日分作り、朝の集会で配り、それに基づく話をし続ける。これには多くの会員、会員に誘われた人たちで、教会の広間は次第に手狭になりつつあったほど。 そんなある日。事務局の引き出しから会費がごっそり盗まれた。警察に届けても、犯人は不明のまま。責任者として半額支払う。痛い出費だが、内心嬉しいものがあった。部下の監督の手落ちとか、調子に乗りすぎたことあろう。さらには人を信用し過ぎたこともあった。それでいい。誰が何をしても気が付かないほど人で溢れていたことで起きた事件であった。デパートでも、スリが近づかないようでは、売り上げは伸びない。教会もやっと繁盛するものとなったのか、という思いである。
2024.11.16
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佐賀は、妻には因縁のある街。ひとのみち教団時代、父がここり教会長であった。単なる赴任先でなくここで教団が解散させられた地だ。その時の両親の無念を晴らす好機と思っているかのように、一生懸命だった。 解散は、1937年で、もちろん生まれていない。その時の様子を母が書き残している。 4月28日朝、警察から主人に呼び出しがあった。署長から教団解散命令が伝達された。即日実行という厳しい教団の弾圧であった。 夢にも思ったことのない出来事にあぜんとするばかり、何がなんだかわからないのに、新聞記者ら押しかけて来て、主人に「不敬罪とは」とか「邪教について」などと詰め寄って来たが、自分たちはおしえおやを信じ切っていたので「何かの間違いでしょう」と恐れず質問に答えていた。まずひとのみち教団佐賀支部の看板が降ろされた。 信者の家まで警察の手が伸びていた。会長は教員の資格を失われて犠牲となる。この騒ぎで駆けつけた信者で、ごった返しの大騒動だった。混乱の中で、ひたすら本部の指示を待ったが、なんの連絡もない。後日整理に当たった人に聞いたが、その日のうちに、特高が来て、主だった教師を皆トラックで連れ去ったので、地方への指示が出来し、しかも残った人たちが残った道具の取り合い奪い合いで大混乱だったという。 支部の信者さんたちは「支部の道具などは、必要なものはどうぞお取りください」と、申し出があったが、主人は「皆教団のものですから何もいりません」とキッパリ辞退した。後日、ある先生から「そんなことを言うのは馬鹿ですよ。世帯道具を全部もらったので助かりました」という言葉を聞いた。支部のものは、タダ同然で処分された。 「教団解散につき自由に行動されたし。ただし目的地までの旅費は支給する」 何もない支部で日々呆然と暮らしている時に、受け取った通達には、ただ唖然としてものも言えなかった。その矢先ひとのみち学苑に預けていた次男、三男、長女が行李一つで帰ってきた。入寮時のあれほどの荷物はどこに消えたのか。いまさらながら自分たちの考えの甘さに、突然の混乱と悲哀に涙も出なかった。帰るべき家もない。すべて投げ打って教団に奉職したのに。手持ちの金はわずか6円ばかり。当時の給与は百円ほどが相場のようでした。すぐには働くところもないまま、ギリギリの暮らしが続いた。親子8人の暮らし。路頭に迷うとはこのことか、と思い知らされる。 夜も眠れず、いっそのこと一家心中を考えたが、無邪気に遊ぶ子供たちを見ると涙が溢れて、心が鈍った。 今では想像できない世界であろう。その急場をどう乗り越えてきたか、面々と綴ってある。その苦しみは二度と味わいたくない、というのが母親の気持ちである。それなにの教団再興の時、父親が再び二代教祖に呼ばれた。鳥栖に向かう夫に、涙ながらに懇願した。「お父さん、どんなことがあっても教師になるのは金輪際いやですよ」二代教祖の前では、約束は無力だった。それが子弟の関係だろう。妻はまだ五歳にも満たない。母親の膝の上で、女の悲しみを一生懸命聴きいていたのだろうか。 82年5月に父を5年前に亡くした母は、佐賀を46年振りに訪れている。 「元の支部を訪ねたが跡形もなく、伊勢神社だけはそのままで、あとは見る影もなく変わっていた」と述べるに止めていた。
2024.11.12
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身祖は、話し出したら止まらない。途切れたかと思えばまた語りだす。 「男が早死にするのは、お酒と癇癪です。お酒でもいいところで止められたら健康に良いのにね。それがなかなか止められません。癇癪でもいいところで止めたらいいのに、とことんまで行ってしまうのですよ。ちょうどいい加減のところ、これが難しい。だから祈って暮らすのですよ。人は神によって生かされているのだから、なんでもその神に祈って行けばいいのにね。拝むとか、祈るとかが抵抗があるなら、念じるだけでいい。感謝するだけでもいいのです」 「まあ人はつき過ぎるか、足らな過ぎるで、ちょうどいい加減がなかなかできません」 「男の光り輝く魂を発揮したら、女の産む力と言っていますが、まあ及びませんよ。ただその輝きを実らせるのは女の力です。夫婦一体、仲良くしましょうなんって、ちっぽけなものでなく、本当の働きは照り輝くものです。夫婦でもの言わなくても、言いたいことを言い合ってもいいのよ。ただこれだけは言うまいと堪えているのは夫婦ではありません。魂の輝くところにいつもいる。それをしないから自分もお互いも粗末にしてしまっているのです」 「こんな話は、二代さまはお話されなかったと思います。布教に忙しかったので、しみじみとし話はなさらなかったのです。二代さまが亡くなられて静かに考えていたら、先代さまから教えられたことがいっぱい思い出して冷静になります。自分の責任を考える時間が多くなりました。だから先生たちと語り合って、魂の喜びに生きてもらいたい、本当の夫婦のあり方、人の生き方を分かって欲しいとこうしてしゃしゃり出来きたのです」 「これが私の責任、道と思い知らされたのが、あの掛軸だったのです。佐賀の二階に上がらなかったら、今日の私はなかったと思いますよ」 「あれから軸は怒りません。あちこちで先代さまの写真をお目にかかってもニコニコしています。それで私の道は誤っていなかった。これで行ったらいいのだなあ、と思いました。でまず教師を救いたいと思ました」 これは、二代教祖が帰幽した翌年秋。福岡のニューオタニに近隣のブロックの教師が集まり、会食する前の話だ。74歳とは思えないほど弾んでいた。 二代教祖夫人として、責任を感じて、なんとしても教師たち、夫婦に知る限りの話を伝えたいという情熱を感じた。影身祖は佐賀に頻繁に訪れている。ブロック内を2回ほど回ったり、婦人会、感謝祭、3ブロック合同の影身祖の誕生会。それから。ともかくおねだりすればいつでも気軽においでもらった。嬉野温泉にも度々で、おなじみになった温泉宿もあった。そこで、遅くまで話が弾んだ。時を忘れての福の時であった。 影身祖は、陶芸にも造詣が深い。多くの作品を残されている。それだけに、有田、伊万里宇佐見、唐津などの焼き物、窯元めぐりにも心休めていたようだ。人間国宝の柿右衛門さん、今右衛門さんとも座り込んで長時間芸術談義をして、笑いの耐えない時間があった。 初代教祖の話も多かったので、質問した。 「先代さまは、お話が上手だったのですか」 「いえいえ、まあどちらかと言いますと、下手ですか。ボソボソと話すのですよ。でも話し出したら止まらない人だったです」
2024.11.11
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おかげさまで84歳の誕生日を迎えることが出来ました。思えば9年前に胆管がん、2年前の大腸がん、5月に膵臓がんと3回の手術を乗り越えました。さらに落下と転倒事故で脊椎、腰椎4本の圧迫骨折で半身不随になってもおかしくないのに、こうして元気に生きて生かされています。これはひとえにお父さん、お母さん、そして亡き妻、更にはご先祖様の御霊が守ってくださった賜物です。もちろん皆様のお力もあります。このおかげを忘れずますます人のために尽くして生きたいと決意を新たにしました。ありがとうございます。
2024.11.10
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パンドラの箱を開けたかのように、不運とも思える人もいた。その軸を提供した鳥栖の会長だ。近隣の教会の落成式に施工者として参列した。三代教祖の話に、激怒に近い感情を抱いた。 「教会は誰が建てたか。それは大工さんです」 話の前後よりもこの部分にカチンと来てしまった。「教会は会員さんの誠で建ったのだ」これが会長の持論というよりも、会員の気持ちである。「大工が建てたとは何事か」いつもニコニコして親しみやく人望のある会長は、激怒しまった。すでに佐賀を離れていて聞いた。入院先に見舞いに行った時は、すでに手遅れだった。「誠の人を失ってしまった。申し訳ないことをした。会長ごめんね」棺の前で、泣きそうになるのを堪えた。「先生のお姿に主人も喜んでくれたと思います。ありがとうございました」夫人の言葉は、溜めていた涙を溢れさせてしまった。この軸が引き金となって、この後、悲運とも思える道を辿る。これほどまでに人の人生を変えてしまうとは。あの時は、考えもしなかった。その軸の文言は、ひとのみち教団では、特に説かれたごくあふれた言葉である。「怒り急ぎ憂い悲しむは物事を崩す」 一つの言葉でもさまざまな受け取り方がある。憂い悲しんで、人生をぶち壊すように見えた影身祖は、立ち直った。二代教祖存命中より元気ハツラツ全国を走り回って、教えを説き捲くっていた。 会長は怒りのために短命に終わった。 そして私の上に、悲運とも思える運命に見舞われるとは、思いもしなかった。 やはりバンドラの箱をあけてしまったのだろう。
2024.11.08
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春先に突然、影身祖室から、電話があった。鳥栖の橋本家の墓参りに行くので、福岡空港からの送り迎えを頼みたいという。影身祖とは、親しくしたこともない雲の上の存在である。 佐賀教会にも立ち寄るだろうから、床の間に飾る初代教祖の掛軸が欲しい。鳥栖の奉仕員会長に相談する。在る所にはあるもの。何本の中から一棹を拝借する。 夫婦で空港までお迎えて恐縮そのものだった。お墓に直行。鳥栖教会で一休み。 「佐賀教会にもお参りしていただけますか」 恐る恐る申し出る。 「先生の教会をぜひ見せてください」 二代教祖の頃、よく見かけたあのにこやか表情で応えてくれた。一時間ほどで佐賀教会へ。一階の神前で祈られてから二階の日本間へ。床の間の軸を見て凍りついて動かない。何か粗相でもあったのか。心配になる。影身祖は、力が抜けたような感じで、振り向く。 「この軸、どうしたのですか」 「鳥栖の会長さんからお借りしましたが、どうかなさいましたか」 「先代さんにガーンと怒られましたよ。それにしてもよくぞこの軸を飾りましたね」 「数点の中から選んでみましたが、何か不都合でもありましたでしょうか」 周囲に遠慮もあったのか、再び軸を見つめ長く頭を下げていた。空港で向かう車中で、影身祖は語り始めた。「嗣祖は出て行ったし、子はいても共に教えを語り合うわけでもないし、道の話でもするのなら嬉しいのに、それもないし、精神的にも幼いし、教祖としの特訓を受けたわけでもないし、まして私の言うことなど聞こうともしないし」こんな高貴な人の愚痴を聞くとは思わなかった。「残された人として責任もあるし。どうすればいいのか悩み続けていたのです」 影身祖の声のトーンが高くなった。運転しながらインナミラーに写る表情は、出迎えた時の沈みかけていたものとは明らかに違う。 「先代さんからガーンと怒られました。私の進む道はこれだ、ボヤボヤしておられません」 一段と声が高くなる。 「先生ありがとう。これで救われましたよ」 予想のしなかった言葉に、驚きと恐縮で、返事が出来なかった。 人生にもしがあれば、あの時、お墓参りだけで終わっていたらどうなっていたか。影身祖は、短命であったかもしれない。 初代教祖の逆鱗に触れたのか、魂の叫びを感じ取ったのか。初代教祖に後押しされたかのように、復活した。それから30年、脳梗塞で入院するまでは、元気で生き続け、活躍するとは、誰も予想しなかったであろう。
2024.11.07
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三代教祖継承者は、青年部総裁、教主名代として全国だけでなく外国まで回る。さらに82年4月には教務総長になり、布教の全責任を負うことになった。東京大学在学中というのに、これでは身が持たない。次第に学業どころでなくなる。中退もやむ得ない。 思えば二代教祖は、一番華やかな時期もあった。ローソクが燃え尽きる時が一番明るいとの説を裏付けるものとなる。ローマ法王との会談。世界に二代教祖を知らしめたと大喜び。さらに大平首相を筆頭に与野党国会議員73名が帝国ホテルに集まって傘寿のお祝いを受けた。奉祝行事が盛大に行われ会場には、小島功さんの図案による緞帳「桜花仙舞図」が掲げられた。 その緞帳に描かれている数々の女性は、誰がモデルだったのか眺めるも良し。これを期に、表舞台から身を引いたかのように、摂事祖が前面に出るようになった。体調も芳しくなく、車イスの姿が多く、心痛める日々が続いた。 83年を迎えて、なんとなく事態の深刻さを感じるようになっていた。2月2日寒い日だった。電話が鳴った。直ちに本部に呼ばれる。二代教祖の帰幽である。若手の指導部長は、棺の守役を命じられる。暖房はあっても寒い広いホールで、座り続けて参拝者の最後のお別れを見守っていた。 寒いとか辛いとかの感情はない。ただ哀しかった。これでこの世も終わりか。あの三代教祖で大丈夫なのだろうか、そんな不安もあった。 通例でもトップが死ぬ3年前からの政策とか人事は、失敗に終わっているという説がある。「人事は神事である」とは言え、疑問が生まれる。退職者が多くめ会員が被害を被った。川崎は、2人の退職者と教団で入り乱れて会員の取り合い合戦のとなりた。 その一人が嗣祖であるが、二代教祖の帰幽する前年に「人道教」を旗揚げし、川崎から布教が始まっている。その資金は、やはり高額の退職金か。一人は、鬼の教区長として指導ぶりには恐れおののいた。しかも九州教区長から川崎教会教会長に降格したから始末が悪い。 教区制度は廃止され、布教部が新設される。迫力満点の二代教祖に比べて、迫力もないし、説得力のない話しぶりに、不安を感じてか、退職者が出始めたのも仕方がない。若い教祖を守り立てようと、ひとのみち時代から教団を支えてきた幹部たちは、必死だった。「おしえおや様に一本」と訴え続けていた。 それに控え、影身祖の消息は、ほとんど聞こえてこない。長い喪に服しているのだろうか。二代教祖の一年祭については、なんの連絡もない。さらに遺骨はどこにある不明のまま。
2024.11.06
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嗣祖を追放して「嗣祖」という言葉はダブーになった。「教団30年史」を初め、各種のパンフレットなどに、嗣祖という活字があれば、すべて回収されて廃棄された。教団の歴史から嗣祖は、完全に抹殺された。 いつも世も歴史の舞台には、女が絡んでいる。自らが育てた子を教祖に座らせた。指名された本人には迷惑だった。自由に伸び伸び大学で研究したり、楽しみたかったであろう。 嗣祖と同伴していた夫人の妹が問題にされた。「女を取るか、教えを取るか」と、詰め寄られて、悩み続けていたか。また「あんな派手な嗣祖が三代になれば教団は、金がいくらあっても持たない」 教団の幹部たちから漏れてくる言葉だった。あれほど嗣祖さまと平身低頭していた人たちである。その変身ぶりに、ただ驚くばかりだった。 嗣祖にかなり高額の退職金を支払ったのか。金集めも大変だった。毎日出来高を本部に報告し、指導を受ける。その言葉の激しさにウンザリした。ある教会から報告が止まった。電話しても通じない。車を飛ばして様子を見に行く。床に寝ていた教師。顔を見たとたんに、フトンの下から包丁を取り出して、畳に刺した。「あんたを殺してオレも死ぬ」「それで満足ならどうぞ」 開き直った。まだ若かったのだろう。それより教師の気持ちは、痛いほど伝わる。それほどまでして金集める必要が、教団にあったのだろうか。その背後に嗣祖と無関係とは思えなかった。 嗣祖が去って、一番打撃を受けたのは、二代教祖と思われる。怒り顕わにされることが見られた。そして体調を崩される。認知症という噂も飛び交うほどに。嗣祖が新たに教団を設立いう動きに、過敏に反応した。教団は佐賀県鳥栖市で設立された。二代教祖夫人、影身祖の出身地であり、由緒ある所だ。その地に不穏な動き、有力な幹部が嗣祖と行動を共にして、佐賀を荒らし始めていた。その動きを牽制するためか、佐賀に赴任する。皮肉にも嗣祖と最後まで共にした人に、その役目が回ってくるとは。長野もわずか二年半、着任早々、確かめるためその幹部と会おうとしたが、行方がつかめない。それでも、その噂はいつしか消滅していた。嗣祖の気分を感じた。
2024.11.05
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いつの頃からかよく耳に入ってくる言葉があった。 「雌鳥が喧しく鳴いて困っている」 雄鶏が衰えて来れば、雌鳥が鳴くのか。逆に鳴きすぎるから雄鶏が衰えてくるのか。その辺りの法則は分からない。嗣祖が後ろ盾を失ってか、時の秘書室長が絶大な権力を持ち出していた。 それを実感した事件がある。福山教会を建設する時だ。地元4社、清水建設で入札するつもりが、急遽教団のお抱え業者みたいな会社が割り込んできた。上からの指示である。いやな予感がした。 入札の結果、中間を取り、清水建設にお願いしたいと申請。結果は初めから決まっていたのだろう。入札で一番高いお抱え業者が許可になった。まあ、それはそれで仕方がない。問題はその後だ。 なんと一番安く入札した地元業者に丸投げするかのように、工事が始まった。担当者が時折顔を出す程度に過ぎない。建設委員会からも手抜き工事の心配の声が上がる。設計者にも、くれぐれも監視するように頼み込む。 途中でおかしな箇所もあって、何回かクレームを付けた。 電話が鳴った。 「あんたね、あまり業者に口出したらいけないよ」 驚いた。雌鳥が鳴いたのである。 「なぜだ」 疑心暗鬼にもなった。建築費の最高と最低の差額は、どこに入るのか。外見は立派に立ち上がった。しかしその後歪みが現れる。雨漏りから天井壁の落下。その後何回かの補修やら改築工事をしなければならなかった。 その人こそ現三代教祖の乳母、育ての親であった。現実には嗣祖という継承者が存在していたのである。三代教祖は、橋本家からの養子。嗣祖は、二代教祖の弟、御木道正の長男。道正は、顧問さんと皆から慕われていた。事業欲の強い人で、いろいろな事業を手かげて、教団を支えていた。その逆という人もいるが、真相は闇の中だろう。仙台、千葉、恵那、本部、高知、島原、阿蘇などのゴルフ場を作り上げている。食堂の全国チェーンを作りかけたが失敗に終わっている。教師育成の教校時代、献血で半数近くができなかった。栄養不足だろう。血が薄いと言われる。そこで顧問さんに直訴したら数日でメニューが変わった。情に厚い人で、1976年9月に帰幽してから、教団の勢力に変化が進行していた。 それから4年後の7月 嗣祖は、降格とも見られる首都圏教区長の辞令が発令された。着任早々教区の指導部長が集められた。今後の抱負やらを語って、終わり。 「大ちゃん、一局打つか」 「お願いします」 打ち進みながら、突然、嗣祖が洩らした。 「本部を追われて財産と言えばこの碁盤と碁石かな」 どんな意味かは聞かない。 「それにしてもいい碁盤です」 「そうだよ」対局してから 「大ちゃん、それに嘉津子さん、いろいろありがとう。これを最後にして、教団を出て行くことにしたよ」 「またどうしてですか」 「理由は、そうだなあ、今は言えない」 「でも、、、」 食い下がってみた。 「50年もすれば、歴史が証明するだろうよ」 「その時はもう」 「心配してくれて、ありがとう」 それ以上言葉は続かなかった。証明すると言う50年どころか、30年後に亡くなるとは。勇気さえあれば、再会できたかもしれない。阿蘇の家に訪ねようと何度も思いつつ、遂に夢と終わった。
2024.11.04
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二代教祖の時代は、特に異動が激しかった。在任46年間で22回の引越し。転校を繰り返す子供は大変。教科書は違うし、学力の足並みが揃わない。もっとも大きいのは友達が出来難いことだろう。それを防ぐ意味で、本部のPL学園の小学校は、3年から編入でき、寮生活を送ることもできた。 長女も繰り返す転校に遂に親元から離れる決断をした。小学4年生の春。残された妻と次女の寂しそうな表情を、まともに見ずに、長女を乗せて学園に向う。最後の夕食を学園近くのファミレスでする。親子の会話はない。食べ終わって、突然長女が泣き出す。 「嫌ならこのまま引き返すよ。パパはどちらでもいいのよ。少し考えるか」 泣き終わった。 「寮に入る。泣いたことママには言わないで」 この年で、親を気遣うとは。母親の寂しさを理解しているのだろうか。長女をグッと抱きしめた。 「わかった。それなら行こう。途中で嫌になったら帰ってきてもいいからね」 道中やら入寮の様子を聞く。並みの聞き方でない。根掘り葉掘りのしっこさ。遂にファミレスでの様子を話さざるを得なかった。大声で泣きながら責め立てられた。 「どうして連れて帰らなかったのよ。パパを一生恨むからね」 あれほど話し合って決めたのに。母親の哀しさ、寂しさは、理解できなかった。 「じゃ、連れ戻して来ようか」 妻は首を縦に振らなかった。 翌年、次女がまだ小学3年で、寮に入る。勝気な姉が守ってくれていたが、それもいないし、寂しさに耐えられないのか。母親の寂しさは、いよいよ極限に達した。でも子供の気持ちを尊ぶ。これがその後の運命を変える伏線の要因の一つになるとは、その時、知る由もなかった。 しかし、子供にとっては、親元を離れて、長女9年間、次女10年間寮生活の経験ことはけしてムダではない。自立心の強い娘になっていた。それは母親からすれば寂しいのかもしれない。長女が聖心女子大学に進学して、寮を希望する。親子の面接で、シスターから聞かれる。「寮生活は大丈夫ですか」「多分大丈夫と思います」「自信おありですが」「ええ、なにしろ小4年から今日まで寮生活でしたから」「エッ。ぜひ入寮して皆様の模範になってください」
2024.11.03
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長野ブロックとしての体勢が整った翌年春。嗣祖が見えた。諏訪駅にはサングラスをかけて降り立った。初めて見る姿だった。なんとなく雰囲気が違う。連れの若い女性を連れていた。お互い「アッ」と小声を上げた。 「お久しぶりですね」 嗣祖との挨拶も、そこそこに女性に声をかける。 「ああ、ダイちゃんですよね」 「ダイちゃんと顔見知りとは知らなかったなあ。秘書をしてもらっているよ」 嗣祖が驚いたように言葉を発した。嗣祖夫人の妹である。結婚前に、行儀見習いだけでなく、教会の雰囲気などを勉強するために広島にしばらく滞在したことがある。当初は妹という紹介ではなかった。ただ大事なお客さんだった。教会長夫人から頼まれた。「ダイちゃんね。この人の勉強のお手伝いをしてね。世間知らずだから教えて欲しいのよ」始めたのが、広島市内の家庭訪問。全く知らない家を軒並み訪問してPLの信仰を勧めること。玄関払いが続いて、簡単には話しを聞いてくれない。それでも良かった。社会が信仰をどう受け止めてくれているかを分かってもらえればいい。打ち解けてデート気分にもなりかけたほど楽しい数日だった。その後嗣祖邸に挨拶した時、夫人から「ダイちゃん。妹がすっかりお世話になったのですね。ありがとうございました」嗣祖に挨拶の中で、「春休みに一家で鹿児島に帰って母の30年祭をするつもりですが、名古屋からの飛行機が取れず困っています」「そうか。わかった」嗣祖は電話で手配してくださった。「ところで祭文はどうなっている」祭文をボソボソと読み上げる。「なんだか凄い祭文だね。これに手を入れていい」「ありがとうございます」数えたら14箇所も鉛筆で、手を入れていた。達筆と思った。少し変色してはいるが、家宝のように、保管している。 「ダイちゃん 一局 打つか」 「お願いします」 このままでは寝付かれないのだろうか。そんな雰囲気の誘いだった。嗣祖の棋力は、教団でもトップクラスの実力者である。二代教祖は名誉五段で、その本当の力は分からない。嗣祖とは何回か打っているので良く分かる。かなりイライラしているような打ちぶりに、何か起きているか。勝負というものでなく、ただ打っているだけだ。 「ありがとうございました。失礼します。ごゆっくりお休みなさいませ」ロビーで待たせているカツ子のことを思って、早々に切り上げた。囲碁をそれなりに打てることで、この世界でも役に立つ。教団の幹部ともよく打っていた。特に湯川とは、顔を見せるとすぐ碁盤を運ばせるほど。小倉に講義に来ると、福岡にいても呼び出された。前後にいろいろ突っ込んで教義の質問して勉強した。 二ヶ月に一回ほど、本部でブロック長会議が開かれる。会議の後、二代教祖のホールに集まりそれぞれに談話したり、囲碁を楽しんだりすることもある。 「おい、ダイ 打ってみるか」 二代教祖から声が掛かる。この上もない喜びである。恐る恐る碁盤の前にかしこまる。 「どうしたらいいのかな」 戸惑っていると、 「ダイちゃんが黒でいいと思います」 嗣祖が助け舟を出す。アルコールも手伝ってか、、真っ赤な顔で打ち始める。宇宙遊泳している気分だ。二代教祖の打ち方は、早い。ポンポンと打ち進める。その速さに負けていない。形勢がどうなっているか、判断できないスピードで、あっという間に終局となった。並べてれば、一目勝っていた。その時、なんだか申し訳ない感じで、二代教祖の顔が見らず、ただ碁盤を見つめるしかなかなかった。 「ありがとうございました」 やっと声を出して、その場を離れる。義兄が追いかけるように言葉を浴びる。 「バカか。なんで負けてやらないのか」 「初めの対局で、そんな余裕はありませんよ」義兄の言葉に思わず反発した。 「いや、あれでよかったのだよ。遊びとは言え、真剣に打ったのだからおしえおやさまもいい気持ちだったと思いますよ」 背後から声がかかる。いつの間にか、嗣祖がいた。義兄は言葉に窮したては、ムッとしていた。 この頃からか、嗣祖の発言が、ある一部のグループに、なんとなく受け入れられない感じをしていた。教勢の進捗を計るための目標設定をする会議では、二日間に亘って、討議された。そこでも嗣祖の意見は通らない。
2024.11.02
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赴任して真っ先に、青年向けの月刊誌「自己表現」6号に書いたものがある。 この四月、赴任する車中のこと。木曽路にも遅い春がめぐってきたかのように、ところどころに淡紅色の花が見えました。桜にしては早すぎるし、梅にしてはピンときません。 早朝の旅立ちだったせいか、車内では、もっぱらウトウトするばかり。夢はタイムマシンの如く子供の頃に舞い戻り、淡紅色の花もとで遊んでいました。車外はすでに信州路、例の花が一段と多く見えて、まもなく松本駅へ。ブロック青年部長の出迎えのマツダコスモで教会へ着く。降りて隣の庭を見上げれば、 「ああ、アンズの花だ」 「信州ではまずアンズ、次に梅、最後に桜が咲いてこれからがいいのです」 青年部長が語る。何年ぶりに見る花だろう。こんなに手近に見るとは。そういえば、ここ信州はアンズの多いところと聞いことがある。 正直なところ、初めての指導部長という立場での赴任は不安な気持ちでいっぱいでした。そんな私に神様は最高の贈り物を下さった、アンズの花を見ながら思いました。俄然ファィトが心の底から湧き上がってくるのを感じました。 国の花、県の花があるように、もし私の花はといわれますと、迷わずアンズを選びます。心底に、人生ドラマの中で咲き続ける花だからです。 満州大陸に生まれ育ち、終戦時に父を失い、つづけざまに姉妹を。残った幼い私と四つ上の兄と母の三人で、大陸各地を転々としました。日本に帰るチャンスにも恵まれず、中国人の中で苦労を重ねる母は、そのアンズが咲く頃になると 「日本にはこの花よりもっときれいな桜があるのよ。ああ、早く見たいね」 愚痴とも一筋の望みとも思える言葉を口にしていました。10歳にも満たない私にとっては、まだ見ぬ日本は、母の語りかけてくれるだけの世界でした。その母もついに力尽きて他界。異国で兄と二人だけに。神は私たちをいやおうなしに苦境に叩き込んだのです。母の遺志を継いで、なんとしても日本に帰るのだ、それしかありません。 母から聞かされた日本、それは桜。神は手を差し伸べてくれました。母の祈りがそうさせたのでした。翌年の春、アンズの花を見収めにして念願の日本にたどり着きました。そこには桜が満開でした。終戦から8年が流れていました。 そこで終わりでなく、人生は続きます。年齢的には、中学一年でも外地で満足な教育を受けていないから、小学六年からスタートさせようという配慮でした。あにも中学一年からでしたが、異国での働きの疲れが出たか、二度の入院生活を送って、無理やり卒業させた感じでした。それに反して私は、叔父が後見人となって、兄弟の暮らしを見てくれていました。我儘はできません。でも教育というは、やはり基礎が大切です。それがなくていきなり六年に編入するとは。しかも言葉は同じでも漢字が違うし、すべての教科は国語が基本になっていて、その国語が問題でした。そのためかなり無理がありましたが、それすらどうにもなりません。ありがたいことに、それを苦しみと思ってもいませんでした。ごく普通に遊び勉強していました。中学二年ぐらいでやっと追いつき、クラスでも上位の成績になっていました。専門学校に進んで就職するかと、受験しましたが、やはりせめて高校だけは出て兄の無念を晴らしたいとも思い、二つの奨学金を借りて、進学しました。一つの夢が実現すれば、また欲が出ます。進学コースの中で就職を考えていました。周囲の大学受験に取り組む姿勢、競争意識は、大きな刺激でした。ヨーシ、やってみようか。両親もいない人がこのまま社会に出ても一生うだつが揚がらない。こんな人生経験をして来たのだから、これを生かそう、教育者の道と決めました。幸い担任が広島大学教育学部の出身で、応援するから頑張れと励ましてくれました。急激の進路変更は、実力も伴わず夢に終わりそうでした。でも諦めません。「一年だけ浪人させてください。その後は一切お金のお願いはしません」叔父夫婦に頭を下げました。柳井に母の両親がまだ健在で、そこから広島の予備校に汽車通学です。片道二時間。その車中こそ勉強の室。そこでむさぼり読んだので二代教祖の書かれたベストセラー「人生は芸術である」でした。『私は、現在困難に出くわしている人に対してーーとくに若いひとに対してはーーその困難を祝福いてあげることにしている。出くわした困難は、ありがたき神のおぼしめと思うて、これをいとわず進んでゲイジュツ(切り抜けるへくあらゆる対処の工夫)をするのが、一番よい。』この言葉に触れて、勇気付けられました。そしてPLの門をたたきました。「困難はありがたき神の思し召し」まさにそういう展開となったのです。まるで私のためにか、特別奨学金が新設され、月7500円で、しかも返済は3000円という制度、これに家庭教師をすれば一万を超えるほどの豊かな暮らしが約束されたのです。人生にもしということが許されるとしたら、現役で大学に合格していたら、経済的に苦しみ、アルバイトに追われて四年で卒業していたかどうか。最大はPLと縁がなく別な人生となっていたかもしれません。浪人という苦杯をなめたことは、本当にありがたい神業であったことを感謝しています。さすがに名門校は違います。卒業時に鹿児島の県教育のトップから巻紙のに認められた勧誘のお手紙を頂きました。「鹿児島県は資源の乏しい県です。人を育てるしか道はありません。貴殿の力をぜひともお貸しください」何の迷いもなくお断りしました。「PLの二代教祖の下で世界平和のために働きたい」こんな格好いい言葉が書ける幸せに浸っていましたら、兄が急遽飛んできました。「誰のおかげで今日まで暮らせたのか」親戚らの代表としての言葉です。でも心は変わらずPLの教師となりました。長々と個人的な体験を述べましたが、私の不幸とも思える青春時代、そこを芸術した(完全とは言えませんが)ことによって今日の私があるのだと思えますし、今後とも数々の苦境があるかもしれませんが、それでもなんとか乗り切れそうな自信めいたものがあります。なぜならどんな苦境に遭っても夢を持ちその実現に向かって努力してきたという体験があるからです。それに二代教祖がついていて下さるし、今は亡き両親の霊がいつも働いて下さるからです。「人生が芸術である以上、苦労困難はありがたい芸術素材である。その中に楽しみを見つけ、あらゆる創意工夫、研究、努力することである。」この二代教祖の言葉を結論とします。
2024.10.31
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「やられた」 島は呟く。なんと単なる入れ替えだ。そこにどんな意味があるのか、分からない。これこそ報復人事だろう。 湯川は、教団の教義体系を完成した人で、機関紙時代から指導を受けていた。妻と見合いさせた人でもある。 「そうか、うーん」しばらく沈黙があった。「きっといいことになるよ。喜んで行きなさい」 福山でのことが教祖の耳に入っていたのだろうか。まもなく新設された長野の指導部長ブロック長の辞令が出た。 教会の経験も三年にも満たない。年齢的にも若い。それが指導部長とは。その陰に嗣祖の存在があるのだろうか。確かに大学時代からよく嗣祖ホールに出入りして、いろいろ指導を受けていた。教師になって同期生に比べても気楽に話ができた。何かあればすぐ電話で相談を受けていた。 福山教会を建設する時も大きなピンチに見舞われた。建設推進の中心となっていた幹部が出張の帰り、フェリーに乗っていて、パナマ船籍の貨物船との衝突で、五人ほどが行方不明になり、その中の一人となった。運悪く衝突の場所にいて、瞬間的に、木っ端微塵になったと推測される。 その事故で、建設を諦めかけていた。あれほど一生懸命に奉仕していた人がそんな事故に巻き込まれるとは。そんな声が聞こえてくる。 「人の不幸を肴に飲むのですか、と言い返しなさい」 「きっと教会の人柱になられる尊いお方です」 嗣祖の電話は、信念のなさを諭す言葉が続いた。吹っ切れた。ほどなく遺体が見つかる。しかも左手だけ。それで確認できたのは、そこにリングアミュレット(教団のお守り)が引っかかっていたからだ。 「死んでも神様がいらっしゃるのですね」 遺族の夫人が真っ先に吐いた言葉だった。「これで救われた」社葬の後、教会でも告別式を行う。式の後、突然、立ち上がった人がいた。「御霊となられた方は、教会建設に一生懸命でした。信仰者としてもその意志を私は受け継ぎたいのです。だから持っている財産をすべて献金します」その後は、私も私もと続いて、予定の献金が集まったほどである。もちろん遺族の献金も高額だった。教会建設の現場を見る度に、そこに人柱を見たと錯覚するほどだった。これも嗣祖の指導のおかげだ。すでに心服を越していた。 にもかかわらずその異例とも思える人事の早さに驚きと不安に駆られる。これからブロックにいる百戦練磨の教師、年配の教師を本当に指導できるのか。長女が小学三年。次女は一年に入る寸前の四月初めだった。長女はこれで四回目の転校になる。
2024.10.29
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「回復力」は延期して、「女教祖誕生」は、かれこれ10年前に書きましたが、一部編集して再開します。嗣祖追放 「ダイは、ここにいるか」 唐突な二代教祖の声に、会場は何のことかわからずシーンとなった。進行役の嗣祖に視線が集まる。 「あの島 大吾のことでしょうか」 「そうだ」 「島はブロック長でありませんので、ここには出席していません。 次回から呼んでよろしいのでしょうか」 「なぜ今まで呼んでいなかったのか」 「すみません。そのようにさせていただきます」 嗣祖は、内心、よかったと思う。ここ三年ほど、島大吾の上にいろいろあった。やっと報われたかとも思ったのだろう。 その嗣祖こそ三代教祖を約束された人である。島 大吾は、本部でそんな話があったとは知る由もない。その夜、義父から電話があった。 「ダイさん、その内いい知らせがあるかもしれないよ。しっかり頑張るのだよ」 それだけで、切れた。聞き返す時間さえない。なにやら秘密めいたものだった。 島が教会長になってまだ三年にも満たない。それもいきなりだった。通常は、教会で下積みをしながらいろいろ経験してやっと長になる。それまでの十年は、機関紙部門で働いていた。本社や支局を繰り返していたので、多少とも教会の暮らしには慣れていたが、経験もなしに布教の責任者になるとは思わなかった。それも嗣祖の采配と思う。死線をさ迷うほどの病後に、取材先で嗣祖にその件を話す。「そうか。このままでは危ないな。わかった」まもなく八幡教会長になった。八カ月で福山教会へ。そこで教会建設に取り組んだ。その途中に一つの事件があった。布教責任者岩波三郎の突然電話を受けた。 「今度 東京に行ってもらいたい」 島はどうしていいかわからない。 「東京の片山先生が好き放題にやっているので、少し牽制役を引受けて欲しい。 それで辞令前に電話したのだよ。よろしくね」 苦労して建設に漕ぎ着けたのに、せめて落成の日の目を見たいのに、非情な人事とも思えた。気持ちが収まらず、思い切って嗣祖に電話して、気持ちを訴えた。 「わかった。その辞令は取り消すようにするから頑張りなさい」 その優しさに涙が溢れた。 赴任して1年足らずで、教会の落成を見た。式典と祝賀会の翌日。教祖の名代として見えた湯川龍雄を交えて祝賀のゴルフから帰った時、妻のカツ子から転任の電話があったことを聞かされた。それは東京でなく玉野であった。
2024.10.27
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安静しながら、山口の笠戸島まで運転して、のんびり過ごしました。体は元気です。健康だからこそ過信し過ぎたと反省しました。それに私はどんな時でも死なない、生き抜くという気持ちでしたが、帯子はもうパニックで、死んだらどうしょうとばから考えていたようです。いざ手術を受ける朝は、ベートーヴェンの「英雄」を何回も聞いてから意気揚々とドアを開けました。「口を開けてください。ハイ」 シュー。これで爆睡。10時間後に覚めたら終わっていた。病室には、多くの人が心配そうに待っていた。 「イエーイ」 手を挙げた。個室とはいえ、あまりにも賑やか過ぎてか、主治医が飛んで来た。「あなたたちはすぐ帰りなさい」 見舞いの人は、追い払われる始末でした。その夜、幻聴に見舞われます。麻酔の所為か、やかましい音楽が鳴りやまないので、ナースコールを押そうとしても、ボタンが見当たりません。それが続くのです。それは手術前に聞いた「英雄」の音楽でした。翌朝から美人の看護師と廊下を歩くほど元気でした。そして3週間足らずで、退院しました。20回の抗がん剤治療を受けても副作用は見られません。癌を宣告されても、「病気になっても病人にはならない」「模範的な患者になる」「先生の言うことは素直に聞こう」 今でもそれを貫いて、おかげで元気で、癌を克服して復活しています。手術では、どこを切り取ったかは、詳しくは聞いていません。 肝臓の半分、胆管も脾臓に、後はわかりません。それほど先生にお任せしています。体重が12キロほど落ちて、お尻などは、骨と皮になって、椅子に座れませんでした。7キロほど増えてよくなりましたが、2か月ほどひどい便秘に苦しみました。これさえ命あっての贅沢というものでしょうか。 入院中、東京の小学5年生の孫から絵の見舞いをいただく。そこには、食堂車で、ビールで乾杯と描かれています。生きていて、乾杯しょう、というメッセージです。酒が飲める時まで生きて、約束は果たさなければなりません。2023年12月に約束を果たしました。
2024.10.06
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予想に反して「このまま入院してください」「エッ」 絶句して、事の重大さに気が付きます。帯子に電話をしたらパニックなったようです。「どうしてそこの病院なのよ」文句たらたらです。それも盲目の演歌歌手姉の井上わこが、ここで大腸がんで亡くなっていて、イメージ悪い。数人が駆けつけて転院を勧めます。医師の説明は、 「これは命に関わる緊急の事態です」 ますます不安を感じて、広大病院に移りたいとお願いする。担当医は、すでに恩師に検査データーを送信して、指示を仰いでいた。 「こんな危険な人をなぜ時間をかけるのか、すぐこちらによこせ。すぐ手術する」 そこに人生の彩、救われる方程式があったのでしょうか。退院手続きに時間がかかり、やっと広大病院に着いたら、受付で 「赤崎さんはまだ来ないか」 「あ、私です」 「すぐ手術室へ。入院手続きは奥さんがしなさい」 まず胆管に詰まった液を抜く手術で、癌細胞だらけで、放置していたら、3日で爆発して全身に回れば、即死、ベッドの上で安楽死という状態でした。それが3日の命です。 主治医の説明を聞いて、この先生に命を預けようと本気で思いました。それほど信頼できる先生に巡り合えたことを感謝しました。 「変な民間療法に頼るなよ。医者がどれほど苦労しているかを知ってほしい」 釘を刺されて一時退院となりました。黄疸が消えてから本手術をするためです。紹介されて、一度、ビタミン剤を大量に点滴投与する病院に行きました。しかし、患者の姿に、麻薬を吸っている姿と重なり、逃げるように病院をあとにする。
2024.10.02
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どうも書く意欲が薄れてしまいました。しばしお待ちください。
2024.09.24
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同じ胆管がんで亡くなられた人をあげますと、一世を風靡したロカビリーの山下敬二郎さんは、2011年12月に73歳で、柔道の斎藤仁さんは、2015年1月に55歳。ラグビーの平尾誠二さんは、2016年10月53歳でした。斎藤さん、平尾さんは体を鍛えぬいた方で、まさかと思われたのではないでしょうか。 2023年11月には、伊集院静さんは、胆管がん診断されて1か月半で他界された。わずか73歳でした。作詞家ちあき哲也60歳。詩人長田弘75歳。任天堂社長岩田聡55歳。まるで不治の病のようです。 胆管がんは、5年生存率は、10%と諸説ありまずが、高齢者ほど短いようです。それほどに命に係わる癌です。私がそんな癌になるとは夢にも思っていません。体が黄色になって、妻の帯子から早く検査を受けてと催促されても、黄色人種だからとか、すっかり黄色になってもゆず風呂に入ったから、と、なかなか腰を上げず茶化すほど呑気でした。これでもか、鏡を見せられて、かかりつけの病院に行くと、すぐ病院に紹介され、軽い気持ちで訪れました。それも交通便を考えたに過ぎません。
2024.09.11
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癌は、すでに普通の病気になっていますが、それでも命に関わります。胆管がんと宣告された時は、目の前が暗くなりました。一巻の終わりかと。タレントの川島なお美さんは2015年9月24日に亡くました。何の縁か、私と誕生日が同じで、20歳も年下です。4年前に同じ胆管がんと診断され、翌年の1月に腹腔鏡の手術に12時間かけましたが、その後の抗癌剤治療を拒否しました。芸能界には、余計なお世話、悪しき風潮もあって、こんな時には、いろいろ言われるようです。 いい菌まで殺されるからとか、ビタミン剤投与とか、手術しなくても治るとか、悪い気の排除をすればいいなどの民間療法があって、それに助けを求めました。しかし亡くなられます。短い命で、多くの人から惜しみの声が上がりました。54歳です。戒名は、「秋想院彩優美俊大姉」、その人生を現わしているようです。
2024.09.09
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13日に退院して、抗がん剤治療が始まる。主治医の言葉がわかった。あの時は、なんともなかった治療が今回は堪える。副作用も強く出ます。酷い便秘に、手足のしびれ。冷たい物に触ればビリッと痛みが走る。喉の違和感が続き、声が出にくい。試練続きです。5回目の抗がん剤治療で、両足が浮腫んできました。明かな副作用で、以降中止になり、安堵しています。 11月7日には、80歳で自分の歯が20本あることで、市長から表彰されます。これは母の偉業です。歯を育てる一番大事は、あの終戦直後の混乱期です。極端な食料不足の時代。母は、何を食べさせてくれていたのだろうか。ともかく生き延びさせるのに、精一杯だったはずなのに。思えば、母への表彰状であった。お母さんありがとうございます。
2024.09.05
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事故の前に、大腸がん検査の検便を出していた。それが入院中に、陽性反応がでたので、早めに精密検査を受けるように電話を受ける。身動きもできず、病院も許可しない。 さらに水上裕子さんピアノコンサートで平和の語り部をする約束もしていて、それが迫ってくる。どうすればいいのだ。 こうなればリハビリを頑張るしかない。器具を使って歩けるになった。そしていつしかひとりで歩ける。自信がついたので、退院を申し出る。 「無茶を言うな、それでもと言うなら、再び入院できませんよ」 覚悟の上で34日目に退院する。 語り部は、キャンセルして、胆管がんの主治医の検査を待つ。ともかく体調の回復を心がけて、5月17日検診の前に、受付に書類を提出していたためか、いきなり大腸検診の担当の医師を決めて、次週の検査。そして30日入院、6月1日に手術。テキパキと運んでくださった。 主治医は、手術にも立ち会い、毎日のように声をかけてくださる。胃にも転移していて一部切とられます。主治医から 「6年前とは全く違う症状が現れるからそのつもりでな」 その意味はしばらしくしてわかる。まず体力の衰え、皮膚も薄くなって、すぐに内出血する。さらに怪我の後遺症が重なって、なかなか思うように動けない。日に3回のインシュリン注射。 「家では、朝1回だったのに」 と文句をいう。 「ここは病院です。先生の指示に従ってください」とピシャリ。ああ。
2024.09.02
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転落事故から6年目の春。土筆が太田川にはいっぱい生えてきます。土手の反対側の秘密基地で採っていました。力を入れて抜いたとたんにバランスを崩して後ろにひっくり返ります。もう1回転すれば、3メートルぐらいの水たまりに落ちるところでした。そうなればそれこそ一巻の終わりだったかもしれません。 なにしろバイバス通りで、人は滅多に通りません。背中に痛みが走り、脂汗が吹き出す。リックの固い底が腰椎に当たったようです。しばらく動けません。でもなんとか狭い抜け道を抜けて、タクシーのある所までたどり着き、家でソファーに倒れ込みます。 帯子に助けを求めて、救急車で整形外科に。レントゲン検査でも痛くてたまません。腰椎2箇所圧迫骨折、しかも腰に近い2番、4番というから座れません。 全治5か月の診断とは、また長期の入院生活か。座れないから、食事もしにくい。おにぎりを口にいれる。汁物はダメ。もう食べないと、駄々をこねる。 「これ以上血糖値が極端に下がれば低血糖症の発作が起きます」 トイレも1人では行かせてくれない。こっそり行って見つかり、大目玉。今度ひっくり返ったら大変なことになりますと。 個室がなくて、4人部屋は、便を垂れ流す人ばかり。 ああここから早く脱出しなければ。やっと個室に移っても、座れないのでパソコンもできずストレスが溜まる。 神はどこまで試練を与えてくださるのか。
2024.08.31
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回復して直ぐに整形外科に転院です。右手はバラバラになっているようで、外科医は、 「これは手術してもしなくても同じだから手術はしません」 突き放されます。ギブスを巻かれての経過観察になります。それでもパソコンを操作して楽しんでいました。指先を動かすには、パソコンがいい。懸命のリハビリのおかげで、ギブスを外したら、骨は元に戻っています。まさか、です。手術して金属でも入れていたら大変だった。先生は名医です。落下で、脊椎も2箇所圧迫骨折していました。身体のバランスを保てず、立って下着が履けません。それもなんとか普通の暮らしができています。ただゴルフはやめました。100日の入院でした。見舞いに次々と美女が来ました。それにはたの患者さんが驚いて、「先生と呼ばれていますが、何の先生ですか」と、しつこく問われます。「どうお思われますか」と、逆襲すれば、「ファッション関係ですか」。 「転んでもただは起きぬ」の言葉があります。以前から二つカードの団体障害保険を安い保険料で掛けていました。これでベッドに寝て居るだけで、日に2万円、さらに後遺症が認められて、高額の保険金をいただきました。
2024.08.29
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3日目に院内感染でしょうか、 40度を超す高熱が続き、薬の効果がありません。そこで帯子に「最後の手段として一番強い抗生物質を投与します。心臓が耐えられるか、保証できません。それでもいいですか」 救われる道ならどんなことでも受け入れるのが私の心情です。心臓だけは強い、と自負しています。見る見る熱は下がり、危機を乗り越えます。「あの患者は、何か持っている凄い人かもしれない」 看護師ら話していたという。それは、回復力の凄さ、思っています。
2024.08.27
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12年前。しこジャパンで賑わい夜中に試合を見る。睡眠不足のままで講演に行き、寝ようかと、2階に上がり、庭を見たらゴーヤが黄色い。 2メートルぐらいの脚立のてっぺんに立ってゴーヤを取る。夢か何かで、亡き妻嘉津子から「あなた何をしているのよ。早く起きなさい」 とビンタを叩かれて目が覚める。剪定鋏を持って隣のコンクリートの駐車場に落下していた。立ち上がると、帯子が駐車場の外から叫んでいる。ふらふら歩いけば、セキュリティーのカギが付いている。ともかく数字を押すと開く。 嘉津子の指示か。右の頭から血が出ている。右手が使えない。 検査では、右側硬膜下血腫で、3時間後に手術する、と宣言される。驚きながらも睡魔に襲われ、爆睡。目が覚めての再びの検査を受ける。 右手は使えず、一生車椅子になるのか、と覚悟はして医師を見る。怪訝そうな顔で、「おかしい。前の写真と全く違う。こんなことがあるのか」 全く不思議にことが起きていた。血がいつの間にか、消えている。体内に吸収されているではないか。それにあの時、なぜ選定ハサミが身体に突き刺さらなかったのか。 天井の蛍光灯を代えようとして落ちて亡くなった友人もいたのに。この落下事故は、この奇跡の回復力に止まらなかった。
2024.08.25
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退院後の検査は、主治医と糖尿病検診の二つ。当初は、2週間の一度が、一ヶ月に。そして50日と伸びて、今は2か月になっている。それほど順調に経過が良くなっている証拠かも。まことにありがたい回復力です。これは私の力ではありません。ご先祖様のおかげと信じています。ありがとうございます。
2024.08.22
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5月に膵臓がんの手術をしました。すぐに個室に移されます。私の友も同じがんでしたが、10日間もICUにいました。10歳年下です。私も83歳という年齢を主治医は一番心配して躊躇していましたが、お願いしての手術です。胃も半分切り取られます。それでも18日目に退院します。こんなに早く退院したい、と申し出たのも、食事の不味さから逃れたい一心です。塩分制限に堪えられないほど元気だったからです。自宅で好きな物を食べたいと、主治医に訴えたから実現したのです。それが許されたのは、私の回復力のおかげでした。
2024.08.21
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ひとが生きる上で、大切な一つに回復があります。病気、心とさまざま。その問題をいろいろと書いてみたいと思っています。
2024.08.20
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今日は、終戦記念日です。しかし、私の戦争には、終わりはありません。まだ続きます終わりは何時なのか、私にもわかりません。神様にお任せしています。長い間のご購読ありがとうございます。
2024.08.15
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亡き妻嘉津子の辞世の歌があります。「よき夫と愛(め)ぐしき娘らにめぐまれて吾の一世は幸いなりき」 まさにこんな人生です。多くのよき人に恵まれた一生を感謝しています。どちらかと言えば、童顔で、年齢より若く見られます。 それも母親の教え「苦労を顔に出すな」を守ってきたおかげかもしれません。 帯子からも時折、「少年のようだ」と言われます。そんな表情から波乱万丈の人生であったと想像する人は、いないと思います。 現在、まだまだ闘っています。抗がん剤治療で頭髪が抜けてね綺麗に生えてきました。2024年5月10日に膵臓がんの手術を受けて、3か月を経ちます。元気です。人生まだまだ、どんなことが降りかかろうともあきらめずに、前に進みたい。 これが私の戦争です。
2024.08.13
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これでも、これならどうか、と、さまざまな試練が襲い掛かってきた人生です。それでこうして生きている、正確には生かされている。他の人ならとっくにこの世にいないと、思うのに。 「おまえは、満州で何を体験してきたのか。それを語らなくてもいいのか」 神の声が聞こえて来た。いまや神に昇華した両親、姉妹。そして妻の嘉津子。その無念の死。それを語り継ぐ使命、ミッションがあのではないか。 その使命を果たすことが生きた証になるのではないか。それが私の生きざまである。単なる悲惨さを語るのでなく、それを通して、平和の尊さ、それを守るために何をすべきかを語り継ぐ使命があります。 平成元年8月15日には、広島護国神社で、「1945年夏 満州の悲劇はなぜ起きたか」のテーマで講演しました。その翌年は1月には、三重県津市の三重護国神社で講演しています。 倫理法人会では、7会場の講演をこなしています。これからもお呼びがあれば喜んでどこでも参ります。「ミッション・コンプリート(任務完了)」それが死にざまになるかもしれません。 さらに人生の最後は、自らが決めたい。意識もないのにパイプに繋がってまで生きたくない。そんな延命治療は、お断りします。「私が将来、病気、事故又は老衰等により、現在の医学では不治の状態に陥り、かつ死期が迫っている場合は、延命措置は、一切行わないで下さい。しかし、苦痛を和らげる処置は最大限に実施して下さい。そのために、麻薬などの副作用により死期が早まったとしても構いません。」こんな「尊厳死宣言公正証書」を公証役場に提出済みです。 尊敬する磯野恭子さん、ドキュメンタリーの神様と言われ、頭脳明晰の方でした。広島の皆実高校、広島大学から山口放送に入局して、アナウンサーからプロデューサーになり、数々のドキュメンタリーを製作して多くの賞を受けています。取材した人にいつも寄り添う人で有名で、私も会えば言われました。 「あなたみたいに満州で苦労された方は、ぜひとも幸せになって欲しいのですよ。いつまでも見守りますからね」 それが口癖でしたが、私が見送ってしまいました。でも私は幸せです。 これでも、これならどうか、と、さまざまな試練が襲い掛かってきた人生です。それでこうして生きている、正確には生かされている。他の人ならとっくにこの世にいないと、思うのに。 「おまえは、満州で何を体験してきたのか。それを語らなくてもいいのか」 神の声が聞こえて来た。いまや神に昇華した両親、姉妹。そして妻の嘉津子。その無念の死。それを語り継ぐ使命、ミッションがあのではないか。 その使命を果たすことが生きた証になるのではないか。それが私の生きざまである。単なる悲惨さを語るのでなく、それを通して、平和の尊さ、それを守るために何をすべきかを語り継ぐ使命があります。 平成元年8月15日には、広島護国神社で、「1945年夏 満州の悲劇はなぜ起きたか」のテーマで講演しました。その翌年は1月には、三重県津市の三重護国神社で講演しています。 倫理法人会では、7会場の講演をこなしています。これからもお呼びがあれば喜んでどこでも参ります。「ミッション・コンプリート(任務完了)」それが死にざまになるかもしれません。 さらに人生の最後は、自らが決めたい。意識もないのにパイプに繋がってまで生きたくない。そんな延命治療は、お断りします。「私が将来、病気、事故又は老衰等により、現在の医学では不治の状態に陥り、かつ死期が迫っている場合は、延命措置は、一切行わないで下さい。しかし、苦痛を和らげる処置は最大限に実施して下さい。そのために、麻薬などの副作用により死期が早まったとしても構いません。」こんな「尊厳死宣言公正証書」を公証役場に提出済みです。 尊敬する磯野恭子さん、ドキュメンタリーの神様と言われ、頭脳明晰の方でした。広島の皆実高校、広島大学から山口放送に入局して、アナウンサーからプロデューサーになり、数々のドキュメンタリーを製作して多くの賞を受けています。取材した人にいつも寄り添う人で有名で、私も会えば言われました。 「あなたみたいに満州で苦労された方は、ぜひとも幸せになって欲しいのですよ。 いつまでも見守りますからね」 それが口癖でしたが、私が見送ってしまいました。でも私は幸せです。
2024.08.12
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覚悟の上で34日目に退院する。語り部は、キャンセルして、胆管がんの主治医の検査を待つ。ともかく体調の回復を心がけて、5月17日検診の前に、受付に陽性反応の書類を提出していたためか、いきなり大腸検診の担当の医師を決めて、次週の検査。 そして30日入院、6月1日に手術。テキパキと運んでくださった。主治医は、手術にも立ち会い、毎日のように声をかけてくださる。胃にも転移していて一部切とられます。主治医から 「6年前とは全く違う症状が現れるからそのつもりでな」 その意味はしばらしくしてわかる。まず体力の衰え、皮膚も薄くなって、すぐに内出血する。さらに怪我の後遺症が重なって、なかなか思うように動けない。日に3回のインシュリン注射。 「家では、朝1回だったのに」 と文句をいう。 「ここは病院です。先生の指示に従ってください」とピシャリ。 それでも13日に退院して、抗がん剤治療が始まる。主治医の言葉がわかった。あの時は、なんともなかった治療が今回は堪える。副作用も強く出ます。酷い便秘に、手足のしびれ。冷たい物に触ればビリッと痛みが走る。喉の違和感が続き、声が出にくい。試練続きです。5回目の抗がん剤治療で、両足が浮腫んできました。明かな副作用で、以降中止になり、安堵しています。 11月7日には、80歳で自分の歯が20本あることで、市長から表彰されます。これは母の偉業です。歯を育てる一番大事は、あの終戦直後の混乱期です。極端な食料不足の時代。母は、何を食べさせてくれていたのだろうか。ともかく生き延びさせるのに、精一杯だったはずなのに。思えば、母への表彰状であった。 お母さんありがとうございます。
2024.08.10
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昨夜の語り部の会。父の78年祭、母の75年祭の祭文を奏上してから母のロマンあふれる人生、そして悲惨な末路を語りました。少しは御霊を慰めることが出来たでしょうか。
2024.08.08
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雅仁さん、小さい時からまじめに働いてくれてありがとう。雅仁さんが行きたがっていた学校にもやれず、ごめんなさい。本当に苦労をかけて、すまなかったねでも、この満州には、わたしたちみたいに取り残されている人がいっぱいいるのよ。まだまだ、学校どころか働いている人もたくさんいるでしょうね。雅仁さんや大さんの成長を、楽しみに生きてきました。でも、う、この病気には勝てそうもありません。雅仁さんにも、不幸ばかりが続くことはないでしょう。もし、内地に帰れたら山口でも、鹿児島でも、好きなところに帰りなさい。母さんを知っている人がいたら、どんなにか内地を恋しがって死んで行ったか、詳しく話して上げて下さい。母が死んだからといって、クヨクヨして、仕事を怠けてはいけません。大ちゃんといっしょに助け合って、内地に帰るまでは、どんなに苦しいことがあっても決して、負けてはいけません。必ず母さんや妹たちも連れて帰って下さい。 お願いします。 最後に、雅仁さん、大さんの健康を祈ります。母さん、これで、安心して洋子、美智子のところに行けます。
2024.08.07
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明日は、母の75回目の命日です。連載を中断して生涯の最後を書きます。苦労を重ねてきた母は、もう見るのも辛いほどになっていた。生命の炎は、いつまで続くのか。無理して薬を飲ませるより好きなものを食べさせて、命を繋いだ方がよい気がしてくる。少しでも母の側から離れると、機嫌が悪い。夜中でも看病する日が続く。毎晩のように日本の様子を語る。「まーちゃん、ひろしちゃん」母の声にびっくりして目が覚めた。「お母ちゃん、どうしたの」「母さんはネ、夢を見ていたの。きれいな桜が一面に咲いていて、たくさんの子供が輪になって遊んでいるの。かーさーんーって、誰かが呼ぶの。よく見ると洋子と美智子たちな」.「かあーさんを、輪の中に引っ張るのだけど、かあーさん、動けないのよ。 行きたいのに行けないのよ。ちょっと、待って、手を振ると、その輪が、どんどん遠くに行ってしまうの。それで、目が覚めたの」「洋子たちも淋しいのネ。ああ、行ってやりたいけどネ」「母ちゃん、いったらだめだよ。」「そーよ。柳井の桜をもう一度見たい。こんなところで、死にたくない。でも」満州の夜空は澄み渡り、星を遮るものもなく、さんさんと輝いている。 「にいちゃん、お母さんもあの星になってしまうの」「バカ、そんなこと言うもんじゃない」 怒りながらも、星を見上げていた。 忘れもしない。昭和26年8月7日。何かを予言するかのように美しい夕焼けになった。すでに口を利いてくれない。激しい息。「おかあちゃん、何か、言ってよ」泣きながらゆさぶり続けた。死ぬ瞬間は、走馬灯のように思いが駆け巡るのか。どんな思いだったのか。内地に帰りたい望郷の念を果たせずこの地で果てるのか。残された兄弟はどうなるの。そして、最後に、思い至ったことは、「この子を守るために、私は、鬼にも邪にもなるよ。最後まで守りきって見せる」か。1秒、2秒、激しかった息が止まった。 午後7時10分。長い 長い 沈黙が、襲ってきた。言葉は出ない。ただ、泣くしかない。 真っ赤な夕陽に吸い込まれるように母の42年の短い命は、異国の地で果てた。これが波瀾万丈の人生なのか。悔いても悔いの残る人生だっただろう。母の果たせなかった思いは、それから1年半の春 桜の咲く日本に帰ってきた。昭和28年4月、私13歳、兄17歳です。春待たず母は異国に果てましぬ 故郷の桜 見まく欲しに
2024.08.06
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この落下事故から4年目が、先にある胆管がんです。さらに6年後に再び転んで大怪我します。これでもあきらめませんか、と神が追求してきます。 土筆の季節で、太田川にはいっぱい生えてきます。土手の反対側の秘密基地で採っていました。力を入れて抜いたとたんにバランスを崩して後ろにひっくり返ります。もう1回転すれば、3メートルぐらいの水たまりに落ちるところでした。そうなればそれこそ一巻の終わりだったかもしれません。 なにしろ自動車だけで、人は滅多に通りません。おまけに携帯は水に濡れて使えなくなります。背中に痛みが走り、脂汗が吹き出す。リックの固い底が腰椎に当たったようです。しばらく動けません。でもなんとか狭い抜け道を抜けて、タクシーのある所までたどり着き、家でソファーに倒れ込みます。 帯子に助けを求めて、救急車で整形外科に。レントゲン検査でも痛くてたまません。腰椎2箇所圧迫骨折、しかも腰に近い2番、4番というから座れません。全治5か月の診断とは、また長期の入院生活か。座れないから、食事もしにくい。おにぎりを口にいれる。汁物はダメ。もう食べないと、駄々をこねる。 「これ以上血糖値が極端に下がれば低血糖症の発作が起きます」 トイレも1人では行かせてくれない。こっそり行って見つかり、大目玉。今度ひっくり返ったら大変なことになりますと。 個室がなくて、4人部屋は、便を垂れ流す人ばかり。ああここから早く脱出しなければ。やっと個室に移っても、座れないのでパソコンもできずストレスが溜まる。 神はどこまで試練を与えて、人生をあきらめさせようとしているのか。 気がかりは、事故の前に、大腸がん検査の検便を出していた。それが入院中に、陽性反応がでたので、早めに精密検査を受けるように電話を受けていた。身動きもできず、病院も許可しない。さらに水上裕子さんピアノコンサートで平和の語り部をする約束もしていて、それが迫ってくる。どうすればいいのだよ。 こうなればリハビリを頑張るしかない。器具を使って歩けるになった。そしていつしか歩ける。自信がついたので、退院を申し出る。 「無茶を言うな、それでもと言うなら、再び入院できませんよ」
2024.08.05
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3日目に院内感染でしょうか、急性肺炎になります。 40度を超す高熱が続き、薬の効果がありません。そこで帯子に「最後の手段として一番強い抗生物質を投与します。心臓が耐えられるか、保証できません。 それでもいいですか」 救われる道ならどんなことでも受け入れるのが私の心情です。心臓だけは強い、と自負しています。危機を乗り越えます。「あの患者は、何か持っている凄い人かもしれない」 看護師ら話していたという。回復して直ぐに整形外科に転院です。右手はバラバラになっているようで、外科医は、 「これは手術してもしなくても同じだから手術はしません」 突き放されます。ギブスを巻かれての経過観察になります。それでもパソコンを操作して楽しんでいました。結果は、100日ぐらいで元に戻ります。指先を動かすには、パソコンがいい。落下で、脊椎も2箇所圧迫骨折していました。身体のバランスを保てず、立って下着が履けません。リハビリでなんとか普通の暮らしができています。ただゴルフはやめました。 「転んでもただは起きぬ」の言葉があります。以前からカードの団体障害保険を安い保険料で掛けていました。これでベッドに寝て居るだけで、日に2万円、さらに後遺症が認められて、高額の保険金をいただきました。
2024.08.04
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広島に移住して2年目の夏、折しもなでしこジャパンで賑わっていて夜中に試合を見って、寝たか眠らないか、5時にはサンプラザホテルに講演に行きました。皆さんと食事して帰り、寝ようかと、二階に上がり、庭を見たらゴーヤが黄色く熟しています。 2メートルぐらいの脚立のてっぺんに立ってゴーヤを取っていました。あとは覚えていません。夢か何かで、亡き妻嘉津子から「あなた何をしているのよ。早く起きなさい」 とビンタを叩かれて目が覚めました。右手には剪定鋏を持って隣のコンクリートの駐車場に落下していた。立ち上がると、帯子が駐車場の外から叫んでいる。ふらふら歩いけば、セキュリティーのカギが付いている。ともかく数字を押すと開きました。押させたのは、嘉津子です。右側から落ちたのでしょう。右の頭から血が出ている。右手が使えません。「眠たいから寝るよ」「何考えているのよ。こんなに血が出ているのに」催促されて近くの脳外科にタクシーで行くと、病院で怒られます。「こんな時は、救急車を使ってください」 MRやらCTを撮ったら、右側硬膜下血腫で、3時間後に手術します、と宣言される。驚きながらも睡魔に襲われ、爆睡です。目が覚めての再びの検査を受けます。右手は使えず、一生車椅子になるのか、と覚悟はして医師を見る。怪訝そうな顔で、「おかしい。前の写真と全く違う。こんなことがあるのか」 全く不思議にことが起きていました。血がいつの間にか、消えている。体内に吸収されているではないか。それにあの時、なぜ選定ハサミが身体に突き刺さらなかったのか。天井の蛍光灯を代えようとして落ちて亡くなった友人もいたのに。
2024.08.03
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退職してから楽天ブログに、いろいろ書き続けています。「満州に輝く星」も連載から出版した本です。「道歌の森を行く」は、道歌を研究して発表していました。本にするには、膨大過ぎて、著作権の問題もあって手が付けられません。「女教祖誕生」は、かなり反響があって、削除を求められて、従っています。連載中に、週刊誌から取材依頼がありました。「私ども週刊○○編集部では、現在PL教団について取材しております。取材の過程で元会員様などにより、このサイトを知りました。教会の統廃合についての取材をしているのですが、その背景がよく分かりません。元会員様などの取材においては、会員数の激減、財政難によるもの、ということを聞くのですが、なぜ財政難になったのか、統廃合のウラで何が進められようとしているのかが、いまいちはっきりしません。3代目夫人の女帝化も背景のひとつにあると思いますが、これも憶測が多くはっきりしたことが分かりません。 そこでかなり詳しい情報をお持ちだ、と元会員様たちがおっしゃるあなた様にお話をお伺い出来ないかと思っております。個人が特定できる表現などをするつもりはなく、ご迷惑をおかけするつもりはありませんので、取材にご協力願えないでしょうか。締め切りが29日、もしくは30日で、突然で恐縮ですが何卒宜しくお願い申し上げます。」 2016年11月に、鹿児島への旅の途中ということで、キャンセル。情報を金にしたくなかった、が本心です。
2024.08.02
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その途中で、もみじライオンズの結成25周年で、プロジェクトに多額の寄付をいただけることになりました。招かれてお礼の挨拶は、以下のようなものでした。 本日、多額のご寄付を賜り厚くお礼申し上げます。ありがとうございます。 私どもの盲導犬を贈る団体は、昭和の終わりに贈り、平成時代を贈り続けています。令和の5月に30頭目を贈ることになっています。日本には目の不自由な方は、34万ほどいますが、盲導犬は1000頭にもなりません。それは1頭400万以上かかりますので目の不自由な方が手にするのは至難の業だからです。 日本で盲導犬育成する活動を始めたのは、私どもが支援しています日本ライトハウスです。その創設者は、岩橋武夫さんで、ご自身も目の不自由な方でした。偏見に満ちた社会で、障害者は社会の片隅に置かれていました。それを打開するために岩橋さんは、昭和9年にアメリカに渡り、あのヘレンケラーを尋ねました。ライオンズクラブでの女性の第1号がヘレンケラーでったことに驚いていますが、障害者のために日本にきてほしいとお願いしました。 3年後の12年に来られ、朝鮮、満州まで足を延ばして、障害者に生きる勇気を与えました。そして戦後23年には、原爆で焼け野原になった広島、長崎を訪れて障害者福祉法の制定に尽力されました。3度目の来日は、昭和30年で、前年の他界された岩橋さんを弔うためでした。朝日新聞の天声人語では「愛盲活動に一生を捧げたい日本ライトハウスの主岩橋武夫氏の死を1番悲しむ人はおそらくヘレンケラー女史ではあるまいか。人間苦につながり人間愛に固く結び合った二人の友好は20年もわたり」と書かれています。 ヘレンケラーさんは、 「あなたのランプの燈火を今少し高く掲げてください。見えない方々の行く手を照らすために」 と訴えていました。 私どもの団体もこれを少しは実践しているのではないかと、信じております。そんな私どもにご寄付を賜りましたことを改めてお礼申し上げます。
2024.08.01
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大学卒業以来半世紀ぶりに住む広島市へ。 「帯子さんが山から帰ってきた」 と、皆さん大喜び。のんびりとさせてくれない。帯子の姉の井上わこさんが大腸がんのため病棟に詰めるようになる。風前の灯になっていた。盲導犬の23頭を贈呈して一安心したのか。東日本大震災に対しても「歌わなくてもいいよね」と、弱気になっている。 それから5日後の夜は、翌日の倫理法人会の講話のためホテルセンチュリー21に泊まっていた。明け方に病院から電話が入る。覚悟はしていたものの、わがかな望みを持っている。が遂に帰らぬ人になった。講話した後、井上わこさんの死を告げる。会員であっただけに、皆に悲しみが襲った。盛大な告別式で見送る。 生前の希望で、盲導犬の聖地、日本ライトハウスの白い建物が見える聖地にも納められている。毎日ワンちゃんと話しているだろうか。 その後、わこさんの夫、そして帯子の母親を盛大に見送る。そのために退職したのか、という宿命を感じる。そして否応なしに盲導犬贈呈のバトンを受け継いだ。それが私の使命と思えた。気力、体力、金力は、ボランティア活動をする上で、欠かせません。衰えると続けられません。28頭目あたりからそれを感じるようになりました。チョコレートの販売で賄っていた。しかし時には、善意の押し売りをしているのでないか、という罪悪感を感じる。これこそ気力の衰えた証拠だろうか。 体力は、胆管がんの手術から以前の力強さを感じられない。さらに28頭からは、毎年赤字続きで、年金暮らしには大きな負担になり出していた。これは金力の衰えである。しかしさらに大きな赤字に終わった30頭で最後ということで、朝日、毎日、中国新聞、NHKから取材を受けた。連日我が家に押しかけてくれる。嬉しい悲鳴でした。特に毎日新聞は、3回も連日報道し、さらに点字毎日まで及びました。
2024.07.31
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