USA HPより抜粋 宇佐海軍航空隊は昭和十四(千九三四)年十月一日、艦上攻撃機と艦上爆撃機の練習航空隊として作られました。柳ヶ浦地区を中心とした基地は東西千二百米、南北千三百米で、八百名の隊員が所属していました。隊員達は航空母艦での勤務に備え、宇佐で訓練を重ねました。当時、艦上爆撃機の爆撃訓練に使われた混凝土製の的が現在も宇佐市宮熊の沖に残っています。 戦況が悪化してくると、宇佐海軍航空隊は特別攻撃隊の基地となりました。昭和二十年には、米軍の空襲を受けるようになり、同年四月二十一日の空襲では航空隊関係者だけでも三二十人が犠牲になっています。また、宇佐からは百二機が特攻出撃し、そのうちの八十一機、百互五四人が戦死しています。 終戦を迎え、約六千名の隊員を抱えた宇佐海軍航空隊もその幕を閉じました。その後、幅八十米、長さ千八百米の滑走路を初めとした航空隊の設備の多くは取り除かれ、田畑に戻されましたが、掩体壕や滑走路跡、落下傘整備所などの遺構から宇佐海軍航空隊の姿をうかがい知ることが出来ます。
USA HPより抜粋 掩体壕とは軍用機を敵の空襲から守るための施設です。コンクリート製の屋根がある有蓋掩体壕は、現在10基残っています。9基はゼロ戦や艦上爆撃機、艦上攻撃機用の小型掩体壕で、この中の城井一号掩体壕は史跡公園として保存されています。このほか、一式陸上攻撃機などの中型機を入れた中型掩体壕が1基残っていますが、高さ9メートル、幅43メートル、奥行23メートルという大きさは日本で最大の掩体壕であるといっても過言ではありませんわよ。