うきよの月 0
全212件 (212件中 1-50件目)
「所長ーっ! 早く早く!」「ちょっと待て、急がせるな!」 さて一ヶ月後である。 ジャスティスは再びアリゾナの宙港に居た。 そしてバーディは軽い荷物を揺さぶりながら、早く早く、とその場で駆け足をしている。「これに間に合わないと、今度はまた一週間後なんですよ!」「だから判ってるって言ってるだろうが!」 夕方の光が、ぎらり、と宙港に飛び込んでくる。 来た時とは逆の窓から、その光は穏やかに床に模様を描き出していた。 スペイドと、気を失ったままのイリエ製作所の若い者を連れて、彼等がアリゲータに戻ったのは、それから三日後だった。「だって所長、あれから丸一日寝っぱなしだったんですよ!」というのがバーディの言である。 一方スペイドもこう言う。「寂しかったから、おねーさんと仲良しになってしまったもんね、俺」 ねー、と二人で手を握り合ってしまってたりするから、ジャスティスは目を白黒させるしかない。 もっともそれは、自分をからかっているだけのようで、特に困ったことは起きていないようだったが。 どちらかというと、女の子同士のいちゃいちゃに見えるあたり、自分の目がどうかしたのか? と彼は思わずにはいられなかった。 結局、イリエ製作所の若い者は、彼等が連れていく間、ずっと目覚めなかった。 スペイドは言う。「皆が皆、あんた程タフな神経持ってたらそれはそれで困ったもんだけどさ」「そうですよ、何で所長、無事なんですか?」 お前等に言われたくはねえな、とジャスティスは内心毒づいた。 実際あの時、「ランプ」出身の、たかが軽いテレパシイを持ってるだけの自分が、本当にあれで正気で居られるか、なんて自信があった訳ではない。 だが踏み込んでみなくては判らないことだった。だから彼は自分のしたことに、後悔はしていない。 そして水と食料を持って、二日掛けて、四人はアリゲータまで歩いて戻ることとなったのだ。「俺一人だったらすぐなのにさー」とスペイドは言ったが、さすがにジャスティスも、聞いてなんかやらなかった。「だいたいお前が車壊すから、こういうことになるんだぞ」「だからあれは警告だって言ったじゃん」「まあまあ、おかげで今度は私もあの谷を見られたから嬉しいです」 道中のバーディの顔は緩みっぱなしだった。 彼女にしてみれば、帰りは水も食料もあるのだし、と調査旅行みたいだ、と喜ぶばかりだった。 なんせ、「どうみてもここにこれがこう積み重なってるのはおかしい」地層状態に、これでもかとばかりに、宝石の原石が山となっている谷を両側に見ながら、戻ることができたのである。そんな美味しいことは、まずない。滅多にない。 と言うか、あってはおかしいのだ。 何かの作為があって当然だ、ということを、きっと彼女は後で見つけるだろう、とジャスティスは思っていた。 正直、歩いて二日掛かったのは、彼女がそれにたびたび立ち止まってメモしていたからである。 持っていたメモ帳に書くところが無くなってしまうと、彼女は自分の白い腕や足にまで書き込んだ。 しかも長いボトムの、裾をわざわざ折り曲げて書くのだ。そのたびに、細い白いすねが、ももが、外にさらされる。 別に短パンを履いていたなら問題は無いのだが、何故長いズボンの裾を上げられると、妙に目の毒なのか、そのあたりの効果というものは不思議である。「…お前それだったら、いっそ服に書け…」 思い切ってそう言ったら、こう返された。「だって所長、服の方がインクの吸い込みが良すぎて、もったいないです」 そういう問題ではない、とイリエの若い者を担いだジャスティスは頭を抱えた。 しかしまあ、それは後になってずいぶんとデータとして役立ったので、そう彼女の行動は間違いではなかったのかもしれない。 アリゲータに戻った彼等は、まずとりあえずイリエ製作所へ行き、相変わらず意識の戻らない男を届けた。 父親らしい所長は、何が何だか判らないが、という彼等の説明にも関わらず、とにかく連れてきてくれたことに非常に感謝した。「やっぱり家族っていいですねー」「家族っていいのよ、おねーさん」 しんみり、とスペイドは言った。そうですね、とバーディは答えた。ジャスティスは、何も言わなかった。 登記書は、何と有効だった。 時々そんなことがあるのだ、と役所の年老いた次長は言った。「まあ戦争のせいですね。大半の理由は。戸籍にしても、だからこの土地の場合、下手すると、百年二百年してから『そういえば俺の家の籍残ってるか?』って言ってくる方も居りますよ」 はあ、とジャスティスはうなづいた。「それで、手続きですが、どの方に」「あ、こいつが」「ご関係は?」「あ、俺、息子」 おい、とジャスティスは言ったが、スペイドは平然としていた。そして何故か、次長も、平然と、それを記帳している。「…あの…それでいいんですか?」「ま、別に、人の年齢が幾つったって、大した問題ではないですし…まあ役所ってのは、そういう所ですよ。ここは相変わらずコンピュータなんて便利なものは入れませんし」 入れませんし、と来たぜ、とジャスティスは片目を細めた。
2006.09.13
コメント(0)
「で、アリゾナを出るんだろう?」「うん。いつか戻ってくるかもしれないけれど、一度出てみれば、何か…」 何か。言い表せない何か、があるのだろう。 鎖は切ることができた。そこから歩いて行くのは自分自身だが、まだその先はさっぱり見えない。だから、その方向を見つけに行くのもいいだろう。 何せ彼には時間があるのだ。「でも、さすがに三百年も暮らしてるから、離れるのも、それはそれで寂しいけどね」「その間、ずっとああやって脅しばかりやってた訳じゃないだろう?」「まあね。あとは狩りとか。この辺りはおおよそ探検しまくったし…そう、親父が地図残したから、それに、DU弾の効いたとこと、効かなかったとこの線引きとか、やったこともあるなあ」 へえ、とジャスティスは感心した。「ちょっとそれ、後で見せてくれんか?」「何? 何か役に立つの?」「…役に立つも何も…」 だいたいこの辺りに入り込めないから、測量も何もできていなかったのだ。資料があるなら、それに越したことはない。「別にいいけど。でもこの辺りは、俺の親父の土地だからさ」「親父さんの、土地?」「うん。そりゃあ、親父がここいらの土地を買ったのは、もう三百年も前のことだけどね」「買った?」 ちょっと待て、とジャスティスはぴしゃ、と自分の頬を叩く。「どうしたの?」「…や、この辺りって、単にお前が住み着いてる、って訳じゃなくて、お前の親父の所有だったのか?」「…じゃなくて、どうして小屋が立つと思ってんだよ。幾ら俺だって、別に生まれた時から野生児って訳じゃあないんだから」 どの口でそんなことを言うんだ、とジャスティスは内心突っ込む。「だからこの辺りで親父は、牧場やってたんだってば。この草っぱらはその名残じゃん」 そう言ってスペイドは両手を広げてくるり、と一回転する。 そう言われれば、この唐突な草原は、確かに牧草地と言えば言えるかもしれない。 彼はごそごそ、とポケットを探る。急に葉巻が吸いたくなった。その時、ふと手に触れるものがあった。 彼はそれをちら、と見ると、再びポケットにしまった。そして葉巻を取り出す。「あ、火?」 ぽっ、とスペイドの手から可愛らしく火が立つ。 一息吸うと、彼は額を押さえ、考える。「どしたのよ。何か俺、変なこと、言った?」「…スペイド、お前なあ、…その親父さんの登記書とか何とか、って残ってるか?」「…? うん。地図と一緒に戸棚に突っ込んであるけど。まあ別に、俺はあんまりよく判らなかったけれど、親父のものは捨てずに…」「ちょっと見せろ」「あ、命令口調だ」 やだねえ、と拗ねた様に、口をとがらせた。「…いいから!」 はいはい、とスペイドは小屋の方へと戻って行った。「…ってこの範囲ですと…」 バーディは一緒に置いてあった地図を、テーブルの上に広げる。さすがに古いものらしく、紙の端がずいぶんと焼けている。端によってはぽろぽろと崩れ落ちそうな所もあった。「ああ逆に、この古い地図の方が判りやすいですね」 だから、と彼女は線を引いてもいいか、とスペイドに許可を取る。いいよ、と簡単に彼はうなづく。されていることの意味がよく判っていないらしい。「だいたい、レッドリバー・バレーの、こちら側半分が、彼のお父様の所有、ということになります。…もっとも、この登記書がまだ有効だったら、ですが」「…ってどういうこと?」「お前、三百年も生きてる割には、馬鹿じゃないか?」「…あんたにそれを言われたくないもん、だ。…おねーさん、どういうこと?」 ええと、とバーディは言葉を選ぶ。「えーつまり、スペイドさん、この登記書があなたに受け継がれていることがちゃんとできたなら、レッドリバー・バレーの鉱山の、あの半分が、あなたのものってことになるんですよ」 まだよく判っていないらしい。スペイドは首を傾げる。 それを見てバーディはごろん、と先程取ってきたオレンジ・サファイアをテーブルの上に転がした。「…石じゃん」「これ、宝石の原石ですよ! それも結構上質です」「つまり、だ」 ジャスティスは宝石の価値を全く判っていないだろう相手に、それを引き継いだ。「お前、いきなり金持ちになってしまった、ってことだよ」「何で」「あのなあ。こんな宝石の原石がごろごろしている谷の半分だぞ。きちんとした所と取引すれば、あれはとんでもねえ金額に変わるってことだ」「そういうもんなの?」 椅子に両手をついて、スペイドはきょとんとしている。はあ、とバーディはため息をついた。「…所長…実は私、さっきちら、とのぞいてみたら、何かオレンジ・サファイアだけでなくて、色んな硬度の高い鉱物が、どう見ても何の関係性もなく、ぎっしり詰まっている様に見えたんですよ…」「何だと?」 関係性がなく。「一体何があったんですか?」 彼は思わず、舌打ちをする。「…奴ら…」 彼等は降ってきたのだ、とスペイドは言った。 それもおそらくは、天使種の故郷、アンジェラス星域から。冗談じゃない距離だ。 それを、集団であったとしても、移動できるだけのエネルギーを持っているのだ。 …あの最後のものだけでも、アリゾナの地下に眠る宝石の原石達と、自分達の位置を入れ替えてしまうことも可能だったのかもしれない。 何せ彼等は、三百年間、あの地に居たのだから、この惑星の地脈と通じていてもおかしくはない。 そんなジャスティスの思いなどどこ吹く風、とばかりにスペイドは少し困った顔になる。「でも俺、別にそんな、金持ちになっても仕方ねーし」「もらっておけ」 ジャスティスは言う。「でもさ」「あいつらからの、今までお前に守ってもらったお礼だ、と思えばいいさ」「お礼」「そう、お礼だ。今度はその『お礼』でもって、アリゾナから出て、もっと広い世界を見ろ。お前には、その力があるだろ」「俺の」 ぐっ、とスペイドはいきなりジャスティスの腕を掴んだ。 何をいきなり、と思ったが、そこから伝わってくるものに彼は気付いた。 ―――俺は許されたのだろうか――― どうだろう、とジャスティスは思う。 許すも許されないもないのだ。その時皆、それが良かれと思って行動しただけなのだ。 母親は自分の家族を思ってこの地の、この場所から離れた所へと走った。 天使種は、自軍の規律のために彼の母親を追った。 皆が皆、それぞれの事情があった。 しかしそれはもう、三百年も昔のことなのだ。 自分にとっては、教科書で覚えきれもしない、歴史のことなのだ。 ただ、それでもスペイドにとっては、ずっとそれが現実だったのだ。 ジャスティスは内心つぶやく。 お前は許されてるよ。 スペイドは顔を上げる。 それが信じられないならそれはそれでいい。ただ少なくとも、奴等は、お前に感謝していたんだ。だから、お前がいつまでも縛られている必要はないんだ。「…いいんだね?」「ああ」 一方、バーディは目の前で交わされている会話がさっぱり判らなかった。何となく自分だけ置いて行かれている様な気がしたのか、唐突に口を挟む。「で、所長、どうしましょう、これから私達は」 何となく、彼女は「私達」を強調している様だった。「ああ…そうだな。ともかく、そのこいつの登記書が現在も有効であるかを確認して…」 言いながら、ジャスティスは不意に睡魔が襲ってくるのを感じた。「所長?」「ジャスティスさん?」 そんな声が聞こえたような気がした。 しかし既に、彼は椅子に思い切り背を預けて、意識を飛ばしていた…
2006.09.12
コメント(0)
ジャスティスは思わず自分の額をぴしゃ、と打った。 自分の目が信用できなかったことは、生まれて三十年、この方無い。 しかし今ばかりは、それを撤回したい気分だった。 一体これは何なんだ。何だって。「…ああ…」 納得した様に、スペイドはうなづく。「おいお前、判るのか?」「たぶん…でも、結構、すごい力が要るはずなんだけど…」「俺に判るように、話せ!」 彼はそう言って、スペイドの肩を掴んだ。痛いよ、と彼は泣きそうな顔になる。「…あれが、たぶん、最後の力だったんだ」「最後の」 がたん、と背後で音がした。 眠っていたはずのバーディが、音に気付いて起き出して来たのだろう。頭を押さえながら、小屋から出てくる。「…今の音、所長…何ですか?」 ジャスティスは黙って、谷のあった場所を、あごでしゃくる。彼女はポケットから眼鏡を出すと、言われた方向を見る。「え」 そして慌てて駆け出して行く。ジャスティスは止めなかった。危険だぞ、と言って聞く相手ではないだろう。「取り替えたんだ」「取り替えた?」「谷全体の彼等と、アリゾナに眠る…あれを」 ごめん、とつぶやくと、スペイドはジャスティスをゆっくり押し返した。 そのまま彼は、小屋の中へと入って行った。 その背中がやけに、小さく見えた。まるで、親に見捨てられた子供の様な――― そうつらつらと、彼が考えていた時。「しょ、所長ーっ!!」 バーディが眼鏡の下の目を、これでもかとばかりに見開いて、走って来る。 手には金色の小さな欠片を手にしている。「おう、どうした?」「何ですかじゃないですよ! 所長、これ、オレンジ・サファイアですよ!」「へ? サファイアって青じゃなかったか?」「何言ってるんですか、本当に所長、うちの社の営業所長ですか」「そんなのは、人事部長に言え!」 文句は無視して、バーディは続ける。「ルビーっだってサファイアの一種なんです。真っ赤なのがルビー。つまり、Al2O2は赤以外、色いろいろでもサファイアって言うんです! イエロー・サファイアとか、ピンク・サファイアとか…」「…俺の回ったあたりには『宝石』はそうそう無かったんだよ!」 負け惜しみを言ってみる。そうですか? と彼女は上目つかいで問いかけた。「…けど所長、これは大変なことですよ、それに…確か…あの…」 バーディはひどく神妙な顔になって問いかける。「何だ」「…確か、ここの谷って、赤い石じゃなかったんですか?」「…気のせいだろう」「所長っ!!」「あ~俺もちょっと疲れた。寝る。お前もう二日酔い、いいのか?」「え?」 言われてようやく思い出したらしい。あ~、と彼女は慌てて頭を押さえる。 全く、と内心毒づきながら、ジャスティスはさすがに本気で疲れている自分に気付く。身体もそうだが、何せあの「交信」がやはり効いたらしい。 スペイドに言わせると、ほんの数秒だったということだが、その数秒に、あれだけの情報が自分の頭を通り過ぎて行ったのだ。頭の方が、眠ってその情報の整理をしたがっている。 サボテン酒が余っていたなら、それでも一杯食らって、そのままがーっと、眠りに落ちて行きたいところだった。「おい、スペイド」 小屋の扉を開けて、中に居るはずの彼を呼んでみる。見渡してみる。 しかし彼の姿は無い。「おい?」 小屋の裏手に回ってみる。「居ないのか?」 辺りを見渡してみる。本当に、谷とは大違いののどかな風景だった。 今朝、顔を洗った川を越えた、草原の大きな木の下に、彼は立っていた。 ゆっくりと、ジャスティスは歩いて行く。疲れては居るが、その位の余力はある。「おい」 呼びかけてみる。返事は無い。「スペイド」 名前を呼ばれると、顔を上げる。 何、と相手は目で返した。 別に、とジャスティスは言いながら、近づいて行く。 何を見ていたのだろう。足元には、人の頭くらいの大きさの石が積み上げられていた。「親父の墓なんだ」 視線に気付いたのか、スペイドはぼそっと言った。「そうか」「270年ほど前に死んだ。俺がずっと変わらないのに、このひとはずっとそれも当たり前の様に、一緒に居てくれた」「…親子だからな」「それもそうだね。親父はお袋が天使種だって知ってても結婚してしまったようなひとだもんな」 それも凄い、とジャスティスは思う。「どういう気持ちなんだろうな。そういう相手を伴侶にしてしまうって言うのは。俺には予想がつかないよ」 当事者だけに、スペイドの言葉は少しジャスティスには重く感じた。 そしてその言葉の中には別の意味も含まれている様な気がして。 俺を好きになってくれるひとって居るのかな? 答えるのはたやすい。 好きになる奴は居るだろう、とは。スペイドは見栄えも気性も、人好きされるタイプだ。皮肉な口調も、何処かに甘えを含んでいて、可愛いと受け取られるだろう。口の悪さが、暴言さえ、それは魅力となるだろう。 だが好きで居続けられるか、というと。それはジャスティスには答えられなかった。 自分だったら――― ふと、そんな考えが頭をよぎる。散れっ散れっ、と頭を振ったが、どうも消えそうにない。 仕方ないから、真っ向から自分に聞いてみる。 俺だったら、こいつとずっと付き合っていけるか? 俺が歳をとって、こいつがずっと変わらない。その姿を目の当たりにしながら、平気な気持ちで付き合いを続けていけるか? 断言はできなかった。 だが、自分がそうできたらいいな、と思った。希望的観測だ。 もっとも彼は、自分がアリゾナを出た時点で、スペイドと別れてしまう、という考えを全く抱いていないことに気付いていないのだが。
2006.09.11
コメント(0)
「大丈夫!?」 え、と自分を見下ろしている黒い目に、ジャスティスは気付く。「ねえ大丈夫? アタマどっかおかしくしてねえ?」 何てえ言いぐさだ、と思ったが、テレパシイの交信があれだけ続いたから、頭がふらつくのも確かだ。「…ちょっと待て、おい、揺れてるぞ」「あ」 スペイドは周囲を見渡す。「あんた何を連中に言ったの? ここがこんな反応を起こすなんて、今まで無かったんだよ」「…俺はどのくらい、あいつと交信してたんだ?」「ほんの数秒、だよ」 数秒? 彼は目をむく。信じられない。そんな一瞬だったのだろうか。 瞬間のことにしては、その映像は、思考は、大きすぎた。確かに、「開いて」いない普通の人間が受け止めることは、よほどのことがないとできないだろう。「ねえ」「お前、俺にくっついてると、何を考えてるか勝手に分かるんだろう?」「あ? ああ」「じゃあ行くぞ。話している時間が惜しい。…おそらく、奴等、何か、しようとしてるんだ」「え」 相手の返事を待つまでもなく、ひょい、とジャスティスはスペイドを担ぎ上げた。「俺はお前を、アリゾナから連れ出すからな」「って…」「そう、連中と、約束したぜ」 だからしっかり掴まっていろ、とジャスティスは走り出した。 足元が揺れる。周囲が揺れる。 地震だろうか何だろうか。それは判らない。 ただもう、足元が揺れ、周囲の岩壁が時々びし、と音を立てる。 崩壊の予告だ、と彼は思う。 それがあんた等の選択なのか? 今はもう自分の「声」など聞かないだろう相手に向かって、ジャスティスは内心つぶやく。 ただもう、今できることは、一つしかないのだ。「次はどっちだ?」 曲がり角が来ると、そのたびに彼はスペイドに問いかける。そのたびに右、とか左、とかスペイドは答える。 あ、違った、と時々かましてくれる辺りには、ボケ、と声を張り上げる。そしてそのたびに、周囲に反響して、とんでもないことになる。「あ」 そう言えば、と彼は一瞬足を止める。イリエの若い者、がまだそこには倒れたままになっている。「俺、降りるよ」「黙ってろ」 そう言うと、彼はそのまま、イリエの若い者を左の腕で横炊きにすると、再び走り出した。「…うわすげえ。あんた、何って力だよ」「うるせえな」「でも、格好いいよ」「…うるさいって言ってるだろう!」 実際、額も首筋も汗がだらだらと流れ落ちてるのが判る。背中もそうだ。気持ちわるい。外に出たら絶対にあの川で水浴びだ、と彼は叫んでいた。「うんそれもいいね」 そしてそれを読んで、答えてくる奴がまた質が悪い。 背後に崩壊の音が、近づいて来ているのだ。 体験から良く知っている。崩壊するものの内部はもちろん、ある程度の近くに居ても、被害を被る可能性は高いのだ。「…そっか、そういうこと、あんたには、言ったんだ」 ぼそ、とスペイドがつぶやく。あああの時のことを、やっと見つけたなこいつ、とジャスティスは気付く。「俺は―――行ってもいいんだろうか」 うなづく気配。「…行っても、いいんだね」 そうだお前は行ってもいいんだ。 お前の力があれば、この広い広い全星系を飛び回ることができるだろう。 ジャスティスは言葉には出さないが、思う。「そうだね。それも楽しいかもしれない」 スペイドは遠のいていく、見慣れた光景を目の当たりにしながら、つぶやく。「俺を、親父をあの時、守ってくれて、ありがとう」 やがて、外の光が、彼等の視界に入ってきた。 外の光の強烈さに一瞬くらり、としながらも、ジャスティスはスペイドを下ろし、できるだけ遠くへ走れ、と言った。 うん、と相手はぴょん、と大きく跳ねる。「げ」 その飛距離と来たら。「ジャスティスさんも、速く!」 ああ全く、と思いつつ、左腕のイリエの若い者を放り出してしまいたい衝動に、一瞬かられた。 しかしまあ、そのあたりは営業社員だった。 他社に恩を売れるものを放っておく訳にはいかない。無論、生きてる者を放っておけるか、が彼の本心だが。「…あ」 小屋があるあたりまで出ると、立ち止まり、スペイドは大きく目を広げた。 汗をだらだらと流しながら、ジャスティスはどさ、とその場にイリエの若い者を落とした。多少打ち傷になってようが構ったものじゃない。「…谷が崩れる…」 赤い岩が、勝手に崩壊していく。 こんなことって、あるだろうか。ジャスティスはそんな光景は、初めて見た。 岩は、自分自身で、その身を内部から壊しているのだ。 光に透けた、その内部から亀裂が入り、そのまま外側へと向かって行った。 そして――― 「な」 ジャスティスは、その瞬間、自分の目が信じられなかった。 何も知らなかったら、それは、こう見えただろう。 赤い鉱石が、瞬時にして、黄金に変わった、と。 ほんの、一瞬だったのだ。 瞬きするかしないか、のところだった。 確かにそれまで、それは、そこにあったはずなのに。「…これは…どういうことだ?」
2006.09.09
コメント(0)
何か。 それは直接的な映像であり―――同時に意志だった。 慌てて彼は、それを理解しようとする。 だがすぐにその試みは断念した。彼の直感は告げていた。 そうか違うんだ。 例えば、猫が言葉を持ったとしても、猫の言葉は人間には通じない。猫には猫の思考形態があり、その形態はそのまま人間に伝わるものではないのだ。 足元まで、いつの間にか、光が満ちている。足元がおぼつかなく、自分が宙に浮いているような感覚さえある。 それでも。 彼は唇を噛む。負けるな、と自分に言い聞かせる。 飛び込む映像と意志。流れるものは、放っておけばいい。 ただその中で、必要なものがあったら、逃すな。 彼はすうっ、と息を大きく吸って、そして吐いた。 目を閉じて、閉じていても流れていく景色を、漫然と眺めていた。 色合いも焦点も、彼の感覚からしたら滅茶苦茶なそれは、おそらく、その「岩」の視点から見た「映像」なのだろう。それをやり過ごすのは、確かにかなり酷だろう、と彼は思う。 普通の精神の奴だったら、確かにやられてしまうだろう、と。 ただ彼は、運良く「ランプ」の男だった。 「ランプ」という惑星が、一体その住民に、何を求めてその能力をもたらしたのかは判らない。他星系に行けば、下手するとお荷物にもなりかねない能力ではある。中途半端なために。 しかし彼は、それを否定したことはなかった。 面倒だ、と思ったことはある。「違う」連中とのカルチュアショックも受けた。 それでも、その能力が自分にあることを、否定したことはなかった。それが自分であり、自分はそれ以外の何者にもなりたくはないのだ。 そしてまた流れて行く「意志」。まるでそれは、混線したラジオの電波を拾うようなものだ、と彼は思う。 そうだよく、「ランプ」に居た頃、兄や弟と、野球放送がどうしても上手く入らないことがあったっけ。彼は思い出す。 その時どうしただろう、自分は。 目を閉じて。 兄はそう言った。 少しづつ、少しづつ、ダイヤルを合わせるんだ。そうすると、不意にくっきりと、その音が聞こえてくる時がある。その時を、決して逃してはいけないよ。 目を――― 彼は目を閉じる。…ああ、あの光は優しい。だってそうだろう、あまり強い光だったら、閉じた目の裏が真っ赤になるはずなのに。 閉じた目の向こうには。何かが。 掴まえて、と何かが。 彼はその手を、取った。 周波数が、合う。 ―――解放されないのは、彼自身なのだ。 言語化した意識が、明瞭に飛び込んでくる。 ―――我々が縛っている訳ではないのだ。「スペイド自身が、自分をこの地に縛りつけているというのか?」 ジャスティスは「それ」に問いかける。肯定の意識が向こう側から返ってくる。 ―――我々が遠い故郷から逃げ出した後、最初に呼びかけてくれたのが、彼だった。だから我々は、彼をできるだけ守ろうとした。 あの爆撃の時か、とジャスティスは思う。 ―――しかしそれが彼自身を縛ってしまったのだな。 何だろう、とジャスティスはその時、胸に大きく、重い感覚が走るのを感じた。 ―――確かに我々は、今更「奴等」に見つかる訳にはいかない。「奴等?」 彼は向こう側に思わず問いかけていた。 ―――お前達がそう、…と呼ぶ連中だ。その昔、我々と交わることによって、その地で生きて行くことを選択した者達だ。 そうなのか、と彼は思った。しかしその一方で、そうなのかもしれない、と思い出していた。そうだったら、彼が今まで辺境で見てきたことは、つじつまが合うのだ。無論それをむげに口に出す程、彼は馬鹿ではなかったが…「奴は」 ジャスティスは再び問いかける。「俺は奴をこの地から出してやりたい。出してやっても構わないだろうか」 ―――彼は充分、我々の地を守ってくれた。鉱石目当ての者を大半追い払ってくれた。「けど三百年だ。本当にそうなのか。そうだとしたら、それは一人が一人で生きて行くには、長すぎる。寂しすぎる」 寂しいんだよ、と半ば茶化して言葉を吐くあの青年に見える男の目が。 ―――しかし鎖を切るのは、彼自身なのだ。我々がどうこうできるものでは無い。「あんた等がそこにあるから、奴は出られない、と言った。ここが全て真っ赤になったら、と奴は言った。あんたが(そう思考を放ってから彼は相手を擬人化していた事に気付いた)真っ赤になってしまう日は、近いのか?」 ―――お前の身体に移ることが可能ならば。 彼は思わず、自分の身体がこわばるのを感じた。 ―――嫌か? お前は我々と「話す」ことができる程に我々との適応力が高い。おそらく、お前が我々を取り込めば、現在の奴等の最も高い世代と変わりない能力を得られるだろう。長い時間を、最高の力を発揮することも、可能だろう。 それは、人によっては、おそらくひどく甘い誘いなのだろう。もしかしたら、あそこで倒れていたイリエの若い者は、何処かでそれを聞きつけたのかもしれない。 天使種の中にも階級があることを、辺境回りをして聞いたことがある。現在「皇族」と「血族」と分かれているその違いは、生まれた世代なのだ、と。 詳しくは知らない。 ただ、断片的な知識は、何処かで一つつなげるためのものが見つかった時、意味を持つのだ。 つまりこの目の前のものが言うのは、その「皇族」に匹敵する力を手に入れられる、ということだろうか。そうかもしれない。おそらくそうだろう、と彼は思う。 しかし。「俺は、要らない。あんたには悪いが」 ―――要らないのか? 強い力を。何処でも生きてゆける力を。誰よりも強い力を。「俺は今の自分が結構気に入っているんだ」 言い放つ。確かにそうだ。 「ランプ」ではそう育てられたのだ。そしてそれを彼は誇りに思っていた。 生まれてきたその身体で、何を何処までできるか。 人生は短い。だから好きなことを、とことん自分の力でやれ。 そう彼は、親からも、周囲からも、兄からも教わってきたのだ。 決してそれが器用な生き方だとは思っていない。 特に「企業」なんて所に入ってしまったからには。どんな場所でも、それが大きな「集団」である限り、「ランプ」に生まれ育ち、その精神を誇りに思う人間であればある程、不利になって行く可能性はあった。 実際、そうやって外に飛び出して、疲れ果てて戻って来る者も居る。 だが彼等は、少しの休養で、また外へ外へと飛び出して行くのだ。もう大丈夫、時間が無い、とばかりに大きな笑顔と共に。 小さな頃から、そんな人達を双子の弟と一緒に、彼は見てきた。ベースボールも、力の限りやって、四番バッターだった。だけど、それは自分のしたいことか、と考えた時、自分の中に見つけた答えは「NO」だった。 まだ何か、自分には見てみたいものがあるのかもしれない。 そして彼は「ランプ」を離れた。 弟はその逆に、ベースボール・グラウンドに自分の居場所を見つけた。 今現在、「それ」が自分に果たして見つかっているか、は彼には判らない。もしかしたら、一生見つからないものなのかもしれない。 だが、彼の故郷の名は、一つの目印だ。 「ランプ」は、迷った時に目の前に現れる道しるべの灯りなのだ。 遠い祖先は、長い旅の末にその惑星を見つけた時に、それが自分達を導く灯りに見えたのだと言う。惑星の名は、そこから付けられた。「要らない」 ジャスティスは再び言い放った。「俺は俺であることに、誇りを持っている。それ以上でも、いれ以下でもあろうとは思わん。それが確かに有効な方法であろうが、そうした瞬間、俺は俺ではなくなるだろう。それは俺にとって、俺の『死』を意味することだ」 ―――そうか。 そう答えた、ような気が、彼にはした。 ―――昔、お前の様に答えた者が居た。 ふっ、と一つの映像が、鮮明に、彼の中を通り過ぎて行く。そこではそうしなくては生きていけなかったというのに、かたくななまでに、自分であることを通した「馬鹿者」達。 たぶん、自分もその状況にあったら、そうしてしまうだろう。 何故なら、その映像の中の人物の笑みは、「ランプ」に生まれた人間のそれによく似ていた。 ―――判った。ただしこの地の鉱石を「開発」に使用するのは止してくれ。 だろうな、と彼は思う。「判ってる。これはあんた等の墓標だ。墓を荒らす趣味は俺にはない」 むざむざ荒らすために、スペイドは三百年もここを守っていた訳ではないのだ。「何とでも、なるさ」 ―――感謝する。「ただ、あんた等が居ることが判ると、軍がまた手を出すかもしれない。それをどうする?」 ―――なるほど。 なるほど、とそう向こう側が答えた様な、気がした。 何を納得したのだろう。 そう思う間も無く、彼は、その場から放り出される様な感覚を―――味わった。 ぴし、と何かが弾ける様な音が、突き刺さった。
2006.09.08
コメント(0)
そう言えば、アリゾナにDU弾が打ち込まれた理由って言うのは。バーディと話していた時のことを彼は思い出す。「…で、なるべく、人の居ない地方へと逃げ込んだ。あえて攻撃なんかもして、人を追い払った。…自分に目を向けさせるためにさ」「…おい」「で、向こうさんは、開発したばかりの兵器を、テストした、って訳。天使種の脱走は死罪で…『爆死』らしいから…」 ごめん、とそう言って、スペイドはうつむいた。三百年経っても、辛いことは、辛いのか。ぽとぽと、とうつむいた顔から、涙が落ちているのにジャスティスは気付いた。「だからお袋は、できるだけレッドリバー・バレーから離れた所へ行こうとしたはずだよ。ただしこの惑星に降りるとして、それが不自然でないとこにね。そうした結果、緑色の雲が立って」 ジャスティスは息を呑んだ。「アリゾナは、焼かれたんだ。俺のせいで」 ジャスティスは思わず、相手の頭を抱え込んでいた。「だから俺は…この連中の生きてる反応が無くなるまで、ここに居なくちゃ…」 誰か。ふとそんな言葉がジャスティスの中に響いた。 誰か、ここを思いっきりぶち壊してくれよ。 泣き叫ぶ様な声が、彼の中に飛び込んでくる。 俺にはできない。俺のせいだから。だから誰か。 誰でもいいから、誰か、俺の鎖を切ってくれ。 そんな声が、頭に、胸に、飛び込んで来た様な、気がした。 ジャスティスは、自分が大したテレパシイなど持っていない、という自覚はある。ただ、相手が強烈な能力を持っていたとしたら、それを無自覚に受け取ってしまう可能性はある、と思っていた。 電波の許容範囲のようなものだ、と彼は思っている。双子の弟は、一番近い波長だから、その考えていることや、感覚が判りやすい。 だが、そうでないとしても、少なくとも、全く「開いて」いない人間とは違うのだ。能力者の相手が送り込んでくる感情が、ひどく強かった場合、それをそのまま感じ取ってしまう、可能性は否定できなかった。 …さてどうしたものか。 ジャスティスは、相手の肩を抱き込む力を強めた。 天使種になるのも、アタマを狂わされるのも、まっぴらごめんだ。 だが、本当にそれ以外の選択肢は無いのだろうか。彼は考える。少なくとも、意志を通じ合わせることができる「もの」だったとしたなら。「潰すってのは、いかんだろうなあ…」 聞こえない程度の声でつぶやく。が、無論聞こえていた様で、くい、とまだ赤い鼻のまま、スペイドは彼を見上げてにらんだ。「ああ判ってるよ判ってる。そんなことしねえって。だいたいそんなことしたら、本当にアタマやられかねねえって。…そうじゃなくてなあ…」 どう言ったものか、と彼は相手の背中を撫でながら考える。いつの間にか、手が背中に移動してしまっていることも、彼は気付いているのかどうなのか。「…あんたさあ」 考えが中断させられる。「馬鹿やろ、不意に喋りかけるんじゃねえ。今考え事してたんだ」「でも俺には伝わっちゃうよ」「…読むなよ」「じゃなくて、俺別に、読もうと思ってないもん」「何だと?」 どういう意味だ、と彼はすぐさま心の中で問いかけていた。「伝わってくるんだよ、あんたから」 そしてその時、ようやくジャスティスは、自分達がどういう体勢なのか、気付いた。思いっきり、抱きしめ体勢になっているではないか。 気付いた時にはもう遅かった。離そうと思っても、相手の方が、何やら嬉しそうに、離そうとしない。「こういうのは、初めてだなあ」 今泣いたカラスが何とやら。スペイドはいきなり笑顔になって、ぐっ、とジャスティスの広い背中に腕を回し、強く抱きしめた。「おいおいおい」「いいじゃん。あんただってさっき抱きしめてくれただろ」 それは、そうだが。流されていることに彼は何となく、不吉な予感を覚える。 だが今はそれどころではない。「…じゃあお前、俺が今何考えてたのか、判るんだな?」「うん。…でも駄目じゃないかな」「駄目とか何とかって言うのはな、やってみてから言うもんだ」「だけど」「俺はあいにく、天使種にもパーにもなりたくはねえ。ついでに言うなら、お前をアリゾナから出してやりてえ、と思ってる。そう、感じただろう?」 え、とスペイドは目を大きく広げた。「本当に、あんたそう思ってるの?」「何だ? そう感じなかったのか?」 感じたけど、とスペイドはつぶやく。「俺はあいにく、『ランプ』の生まれなんだよ」 開拓者精神。自由に、何処へでも、自分の必要とするところへ、遠くへ、遠くへ。「この奥の奴が、お前の鎖だって言うんならな」 彼はスペイドの肩を抱いたまま、足を踏み出した。「鎖そのもんに、話をつけてやる!」 角を曲がると、そこには、一面の、乳白色の光が満ちていた。 まぶしい―――ジャスティスは、思わず目を細めた。 なるほど、この光が、回りにしみ出していたのか。周囲の明るさを、彼はそう納得する。「話がある」 人に言うように言っていいのか、彼にはさっぱり判らない。だが、だからと言って、どういう言い方をすればいいのかも判らない。 だったら、真正面から、ぶつかってみるしか、ない。「俺はあんた等を取り込んで天使種とやらになる気もない。だがあんた等にアタマを狂わされたくもない。ただ一つ、願いがある分だ」 ぼうっ、と光が優しくなった、と彼は思った。 乳白色の中に、ほんの少しの赤が混じる。 …その時、頭の中に、直接何かが飛び込んできた、と彼は思った。
2006.09.06
コメント(0)
どうしたものか、と彼は思う。 知りたいのは、確かなのだ。しかしあまりにも、どちらの選択肢も、自分好みではない。 確かに不老不死の身体、というのは便利だろう。 だがそれは、何かが違う、とジャスティスは思うのだ。時間なんてものは、終わりが判っているからこそ、貴重なのだ。生きて、何かして。 だいたい目の前のこいつがいい例じゃないか。彼は思う。ずっとずっと、寂しかった、なんて… だから。「ジャスティスさん?」「だからお前、そんな目で、見るな」「そんな目、って?」 軽く細められた、黒い瞳。挑発するな、と彼は内心つぶやく。 だが。 掴んだ肩を、ぐい、と力任せに自分に引きつけていた。「ちょっ…」 何をしてるんだ? という気持ちは…さすがに彼にも、あるのだが。「…お前、アリゾナを出ろ」「な」 相手はさすがに呆気にとられた様な顔になる。「…何を、あんた…」「お前は三百年も、ここを守ってきたんだろう?」「…そうだよ」「三百年も守れば、充分じゃ、ねえのか?」「充分だと―――思いたいよ」「じゃ、何だ」「あんたさあ、ジャスティスさん」 何だ、と問い返す前に、相手の腕が、自分の背に回るのを、ジャスティスは感じた。そして、自分の肩に、強く顔をうずめているのを。 さすがにそうされると、条件反射の様に、彼は相手の頭を撫でていた。 ちょっと待て、と思いつつ、その手が止まらない。 これは弟にするのと同じだ同じだ。そう思いつつ、それでも。「…さっき言わなかったっけ。このアリゾナがドライ・アップされたのは、俺のせいだって」「…ああ、言った」 埋めた服のせいで、発音がやや不明瞭な声が、聞こえてくる。「お袋は、俺が『そう』なってしまったことを知った時、この地に降ってきたそれが、自分達の惑星のものだ、ってことに気付いてしまったんだよ」「惑星って…」「故郷の、惑星。それが、破壊されて、慌てて逃げ出して来たんだ、ってことに気付いてしまったんだ」 訳が判らない、とジャスティスは思う。「…お前それは、あの、天使種の連中の、…元々の星が、ということか?」 黙って相手はうなづいた。「お袋は真っ青になった。変化したばかりの俺の中にも、あのひとの心は伝わってきたよ。すごくごちゃごちゃになってた。だけどその中で、だんだん気持ちが固まってきたものがあったんだ」「…」「ここに、これがあることを、天使種の軍隊に―――自分の脱走して来た軍隊には、気付かれてはいけない、と」「何で」「だって、あの惑星を破壊できるのは、当の連中だけだよ。お袋の中に、そんな知識があった。あの惑星は、他の星系からその時もう既に、航路が封鎖されてたって。だから行けるのは、連中だけだった。壊すことができたのも、連中だけだった。何で壊したと思う?」 俺に判るもんか、とジャスティスは内心つぶやく。相手はそれに答えを望んではいないのは彼にも判るから、軽く首だけを振る。「証拠の隠滅、だよ」「証拠の隠滅?」「そう。彼等がどうして天使種なのか、という理由の」「何で、だ?」「だってあんた、知ってるじゃないか」「何を」「あんたの中には、辺境の記憶が、たくさんあるじゃないか」 こいつ俺の心を読んだな、とジャスティスは舌打ちをする。が、まあいい、とすぐに思う。その方が話は速いのだ。「確かに俺は辺境回りだ。だがそれがどう関係ある?」「あるよ」 ぐっ、と腕の力が強まった。「何でVV種が、一掃されたと思う?」「それは…連中の惑星が」「そんなの、口実」 あっさりと彼は否定する。「じゃ、何だって言うんだよ」「VV種が、『一緒になって』強くなった連中だから」「だからその一緒に、って…」 はっ、とジャスティスは気付く。絶滅種には、色んな種類があったけれど…「俺の言いたいこと、判る? ジャスティスさん」 スペイドは顔を上げた。泣きそうに歪んだ顔が、そこにはあった。「…上手く言葉にはできんが…お前の言いたいことは、何となく、判る」「そうだろ? あんたは、判ってくれると、思ってた」 そしてその歪んだ顔のまま、笑う。 つまりは。ジャスティスは自分の語彙の無さに少しばかり苛立ちつつ、それでも言われたことを整理しようとする。 つまりは、天使種は、もともとはただの人間で、この「生きてる鉱石」の何かとくっついたので、天使種に「なった」存在ということで。 もしかしたら、VV種は、やっぱりそういう風に、その地に居た何かと、くっついたから、病気への耐性があったりして。…もしかしたら。 バーディが居れば、そのあたりはもう少し、語彙を増やして説明が効くだろう、と彼は思う。やはり「毒食らわば皿まで」同士としては、きっと。 しかし彼女は今ここに居ない。スペイドの小屋ですやすやと寝ているはずだ。「…絶対、天使種の軍隊は、それを見つけたら、下手すると、この惑星自体をそのVV種の場合の様にしてしまうかもしれない。…それはまずい、と俺のお袋は思ったんだ」「だけどそれでDU弾ってのは」「…被害は最小限に、とお袋は言ってた。ごめんね、と俺を強く抱きしめてキスした。親父には愛してる愛してる、って何度も何度も言ってた。親父はどうしてもそうしなくちゃならないのか、と隠し通せないのか、とお袋に訊ねた。だけどお袋の返事はいつもNO、だった。天使種の軍隊は、最強だった。そして容赦がないことを、一番良く知ってるのは、お袋だったんだ」「だからって」「…だから、お袋は、アリゾナにとりあえず目を向けさせたんだ」 とりあえず?「脱走兵の自分が、もう一度前に出てきて、そしてあえて、アリゾナに逃げ込んだ形にしたんだ」
2006.09.05
コメント(0)
「想像できない?」 できないよね、とスペイドは仕方なさそうに言う。そう言われるのはジャスティスにはしゃくだったが、確かに想像ができないのだ。「…だから、ここは、うちのあるあたり…って」「ああ、何かそこだけずいぶんのんびりした」 アリゾナにあるまじき、草原だ、とジャスティスは考えていた。「ここも前はそうだった訳だ。ところが、いきなり、この谷ができてしまった訳。ある日、いきなり」「ある日、いきなり?」「災難でしょ」 それは災難だ、と彼も思う。「でも向こうも災難に遭ったんだって。仕方ないから、とにかく行ける所へ飛んでしまったんだって。そうしたら、たまたまあの時間のアリゾナだった、って言うんだ」「言うって」「だから、彼等、が」「彼等、って」「だから」 ぽんぽん、とスペイドは広げた両腕で、岩肌を叩いた。 石に意志があるってことか? 考えてから、しゃれにもならねえ、と彼は内心毒づいた。「…納得はいかねえ。想像もできねえ。でもまあいい。そういうことが、あったんだな」 まだ相手の肩につけたままの手にぐ、と彼は力を込めた。「そうとりあえず考えねえと、話が進まないんだな」「うん」 あっさりとスペイドはうなづいた。「…判った。続けろ」「良かった」 良かったじゃねえよ、とジャスティスはまた毒づいた。「で、そのいきなりできた『谷』だから、さすがに不思議な訳だ。で、好奇心旺盛な、十歳の可愛い盛りの俺は」 憎たらしい盛りじゃないか、とジャスティスは内心突っ込む。「…出かけちゃった訳よ。その谷に」「一人で、か?」「そう。だって冒険とか探検の基本は、一人だぜ」 それは確かだが。「で、出かけた時に、俺はこいつらに、会ってしまったの」「会って」「…さてそうしたら、お袋が、慌てて飛んできたんだ。あのひとは、俺が探検に出かけたことは知らなかったけれど、会ってしまった時の何か、に気付いたらしいね。運んでた草の固まりと鎌を放り出して、慌てて走ってきたんだけど」 おそらくは、こいつによく似た黒い髪を振り乱して―――ジャスティスはふと想像する。「俺の名を叫びながらどんどん谷に入って行ったところ、そこにあったのは、…お袋が、良く知っていたものだった、って訳」「よく知っていた、って」「だから、さ」 言葉を濁す。泣きそうに顔が、くしゃりと歪む。「…呆然と立ってる俺を、彼女は慌てて抱きしめたよ。そしてすぐそこにある彼等に対して、問いかけたらしい。俺をそうしたのか、って」「そうした、って」「自分が昔、そうなった時の様に」 まだ良く判らない、とジャスティスは思う。「…あのさあ、あんた」「ジャスティスだ。ジャスティス・ストンウェルだ」 そう言えば、名前を言っていなかった。その時彼は初めてそのことに、気付いた。「お前が名前で呼ばれるのが好き、と言うなら、俺のことも、名前で呼べ」「いいの?」「何のために、人間には名前があるんだ?」「…呼ばれるため」「判ってるなら、いい。スペイド、続きは」「そうだね、ジャスティスさん。あのさあ、天使種って、はじめっから天使種だ、と思う?」「…何?」 それはかなり厳しい問いだ、と彼は思った。「…天使種は…天使種だろう?」「違うよ」 スペイドは首を横に振った。「生まれたばかりの子供は、確かに天使種の血は引いてるけど、天使種じゃ、ねえの」「何だと」 そんな馬鹿な。そんなこと一度も聞いたことが… だが。「天使種は、天使種に、なるんだよ。その生まれてすぐの、ガキの時に」「なる、って」「だから、彼等と、会うの。それで、天使種に、なるんだ」「おい」「だからそういう意味だと、俺も、天使種ってことになるのかな? 血はハーフだけど」 頭がくらくら、としてくるのをジャスティスは感じた。「でも、誰でもそうなれる訳じゃないんだ。だから、天使種の血を引いてる奴は、『会い』やすい、ってことで」「…おい」「俺はハーフだから、たまたまだけど、『会えて』しまったの。それで」「…もういい」「聞いたのは、あんただよ、ジャスティスさん。だから、どうする? と聞いてるの。この先進むと、あんたの知りたい事は知れるけど、もしかしたら」「天使種に、なってしまう奴が居る、ってことか?」「わかんない。俺が会った限りでは、アタマやられるか、なってしまうか、どっちか。なってしまった奴だったら、俺、ずっと一緒に居られるかなあ、と思ったのにさ」 苦笑する。「そうなったらなったで、俺を置いて、その力持って、どっかに行ってしまうんだよね」 それで俺はまた待つんだ。そんな言葉が隠されているような、気がした。「…どうする?」 それでも。ジャスティスは思う。それでも俺を挑発する気か?
2006.09.04
コメント(0)
逃げられない、と彼は思った。 だが逃げようとも思っていなかった。 何故そう思ったかは判らない。それこそバーディに言った「毒食わば皿まで」の心理かもしれない。 いやそうじゃない。彼は思う。 この先に、まだ自分の知らないものがある。興味のあるものがある。 そしてそれを挑発する奴が居る。…だったら、応えてやらないでいられようか。「ほら」 スペイドは、やや彼を見上げる様にして、ぐい、と手を引っ張る。 トンネルは、二、三度折れていた。人為的に作られた道ではないというのに、と彼は不思議に思う。 ぐっ、と握られた手から温みが伝わる。自分とそう変わらない体温が、伝わってくるのが不思議だった。「…お前」「何? 名前呼ばれる方が好きだよ」「炎を出せる割りには、体温は高くないんだな」「熱くなることだって、できるよ」 口の端をきゅっ、と上げた。「ただ今は、その時じゃあないし」 どんな時だ、とジャスティスは突っ込もうと思ったが、ああ、と相手が向こう側を見たので、とりあえずはやめた。 そして不意に、立ち止まる。「次の角を曲がると、生きてるのに会える。…どうする?」「どうする、って」 何故そんなことを今更問いかけるのだろう。彼は思う。「会う?」「会う? って、俺は、それに会う…会うって言うのか? …そのために来たんだろう?」「でも、もしかしたら、取り返しのつかないことになるかもしれないよ」 連れて来たくせに、そんなことを聞くのか? ジャスティスは思う。 どうする? と軽く見下ろす位置にある相手の目は、挑発している。だがその反面、何かを恐れているかの様にも、彼には思えた。「…スペイド、お前は、俺にどうして欲しいんだ?」「さあ」 言われた方は、首を傾げる。「俺にも、よく判らないんだ」「判らないって」「ここまで連れて来れた奴は、時々居たんだけどさ」 今までにも、居たのか。彼は少し落胆する自分に驚く。それはそうかもしれない。スペイドが言う、生きてる年数が本当ならば、その位、無い方がおかしい。 それでも。 そこまで考えて、ジャスティスははっ、とする。一体自分は何でそんな所で落胆しているんだ? 先日会いに行った弟が、相変わらずあの男に執着している所を見てしまったあたりがいけないのかもしれない。 彼はとりあえず理由づけをしてみる。「…この先に進むと、…いや、その向こうで、『会う』と、一体何が起こるんだ? いや、起こってきたんだ?」「さっき転がってた奴の様になるか、じゃなかったら」「じゃなかったら?」「あんたはまず転がってしまうことはないと思うけど」 答えになっていない。彼は相手を軽くにらみつけた。「…俺の様になるんだ」 何、とジャスティスは思わず、口をぽかんと開けた。「どっちか」 言い放つ。「でも、『知る』には、『会う』しかない。そう言って、入ってった奴のほとんどが、駄目になって」「そうでねえ奴は?」「俺みたいになって」「…ってことは」 天使種の様な、能力者になって?「でも、俺の所に残っては、くれなかった」 相手はそう言って、視線を足元に落とした。「おい」「だって、言ったじゃん。寂しいんだよ、俺」 確かに、言われたが。彼は思う。だけど。「だけど、俺はここを守らなくちゃならないし」「おい!」 ジャスティスは、ぐい、と相手を鉱石の壁に押しつけた。ふっ、とその赤が、揺らいだ様な気が、した。「何?」「何でお前は、ここを守ってるんだ?」「言わなかったっけ」「言ってない」「ああそうだ…言ったのは、前の奴だ」「前の奴は、どうだっていい」 痛いよ、とスペイドは言った。だが本気でないことはジャスティスにも判った。本気でそう思っているなら、この能力者は、実体の炎で、彼を突き放してしまうことも可能なのだから。 だがそれは、しない。してこない。「…昔、アリゾナがドライ・アップされたって、俺言ったっけ」「お前が言ったかどうかは忘れた」「その原因がね、俺なの」 スペイドは目を伏せた。「だけどお前のお袋さんが」「そうだよ。あのひとは、俺と親父と…この場所を守るために、出たんだ。船一つかっぱらって」「…豪快だな」「豪快だよ。だってそうだよ。天使種の軍隊を脱走したひとだよ。逃げるのが簡単な訳ないじゃん。でもここまで何とかやってきて、俺が生まれて十年も平和でやってきたんだもん。豪快だよ。俺をあやすにも豪快だったなあ。何メートルも放り投げても平気でさ。親父の方が心配してはらはらしてたくらいだ」 豪快で微笑ましい家族像が、ふっ、とジャスティスの中に浮かぶ。「…そのままやって行けば、そりゃあお袋は歳とらないけれど、それでも、アリゾナでのんびり牛でも追ってやってけたさ、だけど」「だけど?」 ぺた、とスペイドは両腕を背後の鉱石の壁に広げた。 ジャスティスの目に、程良く筋肉のついた両腕は、背後の赤に、浮き上がって見えた。「こいつらが、やってきてしまったんだ」 やって来た?「…意味が、わかんねえ」「でも、言った通りだもん。俺、嘘は言ってねえぜ」「嘘言ってるなんて、俺は言ってないだろう」「うん、あんたは俺の言葉を疑わない、と思う」「買いかぶるな」「買いかぶってないよ。でもあんたは、俺が選んだんだ」「おい」 そうでなくてな、とジャスティスは無言で続きをうながした。はいはい、という顔で、スペイドはほんの少し、頬を緩めた。「…降ってきたんだよ」「降って?」「もちろん、空から落ちてきた、とかそういう訳じゃあねえぜ。いきなり、この場所に、現れた訳」 …想像が、できなかった。
2006.09.02
コメント(0)
「どうした?」「…あーあ、こんなとこまで入り込んだんだ」 そう言って、彼は何かを足で無造作に蹴った。何か居る? ジャスティスは、目を凝らす。…人間だった。 作業着を着た、まだ若い男だった。「おい」「何か、でも生きてるみたいだな。どーしようかなあ」「おい」「ああ、でもここまで来れたってのはなかなか珍しいけどさあ」 そう言えば。ジャスティスは、ここに来る前に会った同業他社の社員の言葉を思い出す。うちの若いのが… 彼は屈み込んで、薄暗いながらも、男の状態を確かめる。 確かに、生きてはいるようだった。呼吸はしている。「…でもさあ」 そんな彼の考えを読んだのだろうか。スペイドは、後ろの石に寄りかかりながら、ポケットに両手を突っ込んだまま呼びかける。「ここまで来たのは立派だけど、ここで倒れてるようじゃ、駄目だよ」「駄目?」「前にも、そういう奴が来た、って言っただろ俺」「ああ…」 自分の前任者。だとしたら。「…アタマがやられている?」「んじゃないかなあ。別に俺は、どっちでもいいけど。あんた帰る時に、連れてく?」「…そう…した方がいいんだろうな」 おそらくは。そうすれば、とりあえずは、イリエ製作所、という所には貸しが一つできるはずだ。…とそこまで考えた時。「…ちょっと待て、スペイド」「あ、また呼んでくれた」 にっこりと相手は笑う。その笑みに、ふとジャスティスはぎく、とする。よほど呼ばれたことが嬉しいのか。「何?」「…お前、…じゃあもしかして、ここに来るから、皆アタマがやられる、のか?」「ここだけじゃないよ」 さらり、と相手は言う。「そこまでにも色々あるって言ったじゃない。だから、ここまで来れたら大したもの。だけどね」 スペイドは再び、ジャスティスの手を掴んだ。「この先は、そこまでとは、少し違うんだよ」 逃げられない、とジャスティスは思った。
2006.08.29
コメント(0)
「谷と言ってもね、その、あんた等が欲しがってる『赤い鉱石』のある地帯はそう多くは無いんだぜ」 ほらこっち、と彼はジャスティスの手を掴んだ。「…わざわざ手をつなぐ必要があるのか?」「つないだ方が安全だよ。ほら、迷子とか」「俺は子供か!」「俺の十分の一くらいしか生きてないじゃない」 さらり、とスペイドは言った。ジャスティスは眉を寄せる。「…おい」「ホントだよ」「本当か嘘か、は…まあいい。とりあえず、信じる」「あ、あんた、よーやく信じてくれたんだ」「信じないと、お前の話は続かないんだろ」 まーね、と彼は歯をむき出しにして笑った。「だって本当のこと、だもの。俺の時間は、二十歳で止まってる。ずーっとずーっと。俺がどうしたって、仕方ないじゃない」 ふと、手を握る力が強くなった様な気がした。「だがお前の言うことを、そのまま信じるとな、俺は怖い結論に至ってしまうんだぜ」「うん」「それでもいいのか?」「いいも何もさー、仕方ないじゃん」 くるり、とスペイドは振り向いた。「あんたは俺が、天使種の連中と、同じと思ってるんだろ。でも俺の親父が、こっちのネイティブだから、困ってるんだろ」「読んだのか?」「そんなの、顔見れば判るじゃない」 へへへ、と彼は笑う。「あんたは、顔に出る」 う、とジャスティスは口ごもる。さすがに彼は、そんなことを言われたのは、初めてだった。「うんそうだね。俺の能力は、たぶん、それと同じなんだよ。でも俺は皇族でも血族でもないよ。ただの、そういう奴でしないもん。お袋が天使種で、親父がアリゾナのネイティブの、ただのアリゾナ男だもん」「だったら」「だから」 ぐい、と彼はジャスティスの手を引っ張った。「あんたはここに来れた。だから、あんたには、知って欲しいんだ」 右の腕を、強く掴まれる。その強さに、ジャスティスは戸惑った。「…そんなの知ってるのが、俺さまだけなんて、ちっと、寂しいじゃない」「寂しい、のか?」「寂しいよぉ。寂しくない方が、おかしいんじゃねえ?」 首を傾げ、スペイドはさらりと言う。だがそれはそうだ、と彼も思う。 自分は三十少し生きてきた。その時間でも、一人で居た時間は長かった、と感じていたのに、その十何倍も、こいつは。「…それは、結構時間がかかるのか?」「何が?」「その、『全部が赤になる』まで」「んー…」 スペイドは首を傾げた。「どうだろう。…長くはない、とは思うんだけど」 だから、ちょっと来てよ、と再び彼はジャスティスの腕を引っ張った。 朝の光の中でも、レッドリバー・バレーは確かに「赤」だった。 ただ、夕暮れとは逆の光線の加減か、やや黒ずんで見える。「…お前、ほとんど真っ赤、って言ったけれど、確かにそうだな」「そう。だから、もう少し、なんだけど」 スペイドは右側の岩に手をゆっくりと当てていく。「…だがなスペイド」 何? と呼ばれた方はくるりと顔を向けた。「あ、そーいえば何か初めて名前ちゃんと呼んでくれたんじゃない?」「…その『もう少し』ってのは何なんだ?」 あえてその指摘は無視して、ジャスティスは問いかける。「んー。元々は、乳白色なんだよ。その鉱石はね。ただ、死ぬと赤になる。そういうこと」「死ぬと?」 おい、とジャスティスは右側を歩く相手の肩を掴んだ。「鉱石だぞ?」「そうだよ」 当たり前のことの様に、スペイドは答えた。「鉱石、なんだぞ? 生物じゃねえんだぞ?」「生物だよ」 スペイドは言い切る。「あんたがどう思おうが勝手だけど、生きてるの。それは俺がどうこう言っても仕方ないことだもん」 うー、とジャスティスはうめく。「会ってみれば、判るよ」「会うって」 ほら、とスペイドは、岩の切れ間を指さした。近づいたその切れ間は、案外広かった。「ちょっとしたトンネルだな…」「まあね。時々そういうとこがあるの。ほら」 ついて来て、と相手は手を振る。ジャスティスは崩れやせんか、と思いながらも、この辺りを知り尽くしている相手だけに、反論もできなかった。 そして入るがすぐ、彼はつぶやく。「…何で、明るいんだ?」 確かに、明るかった。 いや、無論外の様な明るさ、ではない。ただ、ぼんやりと、前を歩くスペイドの姿は判る。岩がごつごつとしている様子が分かる。その程度なのだ。 だがそれでも、ここはあくまでトンネルなのだ。 自分達は、岩の間に入り込んでいる、それだけなのだ。光が上から差し込んでいるという気配はない。 だとしたら、多少、鉱石自体が発光しているのかもしれない。 とりあえず彼は、そう自分自身で納得する。…納得しておかないと、次に進めそうにないような気がする。 そんな彼の考えを知ってか知らずか、スペイドは、どんどん先へと進んで行く。 結構足が速い。知らない場所、足元がいまいちしっかりとしない場所なので、ジャスティスはついて行くのが精一杯だった。「…畜生…」 思わずそう、声が漏れた。「…あれ?」 ふと、前でそんな声がした。スペイドは、立ち止まっていた。
2006.08.28
コメント(0)
「お前、寂しいのか」「寂しいよー。だって、ねえ。それこそ三百年もずーっと、一人で暮らして来たんだからね。時々、それこそあんたみたいに迷い込んで来たひとも居たし、運がいいと、しばらく一緒に居てくれたけど、でもいつかは、出てってしまうし」 あくまで、彼は軽く言った。「あんただって、もうすぐ出てってしまうだろ? お仕事で来てるんならさ」 それはそうだが。ジャスティスはつい口にしていた。「…だったら、谷を出れば」「それが、できればね」 スペイドはやはり、軽く言った。顔には笑みすら浮かべて。 だが。「まだ、駄目なんだ」「何が、駄目なんだ」「この谷が、全部真っ赤になったら、俺は出る。そう決めてるんだ。それまでは、俺は出られない。出ちゃ、いけないんだ」「全部」「でも、もう少しだからよ」 さあメシメシ、と彼はくるり、と足を小屋の方へと向けた。 おはようございます~、と向こうから、バーディが慌てて出て来て、こけそうになっていた。「んで、あんた等、もう帰っちゃうの?」「道を教えてくれるのか?」「教えたくはないけどー。まあ仕方ねーよなー」 もごもご、とスペイドは昨日の残りの肉を口にする。 ジャスティスもそれは平気だったが、さすがにバーディは朝から肉の丸焼き、は遠慮していた。それに、昨夜の酒がまだ残っていたらしい。「何だお前、二日酔いか」「…だから私、酒は普通だって言いました~」 ん~、と彼女は普通よりヴォリュームのある二人の声に、えーん、と泣きまねをしながら頭を押さえている。「…じゃあ今日はまだ帰らないのね」 にやり、とスペイドは笑った。「今日一日は、おねーさん、寝ておいでね」「そ、そんな~」 顔を上げる。途端、がんがんがんがん、と響く痛み。う~、とバーディはうなる。「ほぉら。あんたは平気なんでしょ」 そう言ってスペイドはジャスティスをちら、と見る。「…そりゃあ、なあ」「だろ」 にやり。「だからさ、あんたに今日は、谷の案内してやるからさ。どーせおねーちゃんは来れないから、ちょうどいいじゃない」「私、行けないんですか!」 痛てててててて、と自分で叫んでおいて、また彼女は頭を押さえた。「…いい加減、寝てろ」 はい、とバーディは今度は小声で言った。早速、昨日眠りこけていたベンチの上に横になる。まだ眠り足りなかったらしく、やがてすうすうと寝息を立てだした。 よくまあ、すぐに眠れるものだ。 思わず彼は感心する。確かに辺境向きだ。野営もできそうだ。「で、どうすんの?」 にやにや、とスペイドは笑って問いかける。 実際、彼の言う通りだったら、確かにレッドリバー・バレーの中は、自分しか見ることができないのだろう。ジャスティスはそう判断する。なら。「案内してくれるなら、それはありがたい」「うん。じゃあ行こう。た・だ・し」 ぴ、とスペイドは指を立てた。「一つ、約束してくれない?」「何だ?」 口元は相変わらず笑っている。だが目は、笑っていない。「あんた等、谷の鉱石の発掘調査に来てるんだろ?」「そうだ」「調査してもいいけど、資源利用、なんて考えないで欲しいんだ」「…何故だ?」「それは」 ぐい、と彼は顔を近づけてくる。一瞬の沈黙。「一緒に来たら、教えてあげる」 …からかってんのかてめえ、という怒号は、ジャスティスの中に呑み込まれた。 すやすや、とバーディは実に良く眠っていた。
2006.08.27
コメント(0)
上の兄、タイドは一人で生まれたので、「外」に出た所で、格別違いを感じなかったのだろうが、彼等二人は、別れ別れに暮らす様になって、その意味が良く判った。 それまでは「距離」と言ったところで、所詮同じ惑星の上だった。それが住む惑星が違う様になると、その不在がひどく露骨に感じられる。頭の中で、何かが一部分抜け落ちた様な感覚を当初彼等は味わったのだ。 だが、そっちが「普通」なのだ、と気付くのには時間はかからなかった。同僚の話に耳にを傾けていれば、自然と気がつく。双子や三つ子であろうが、その存在を身体で「判る」訳ではないのだ。きょうだいが嘘をついていたとしても、その真偽を感じ取れないのが、「普通」なのだ。 近くに居る時、自分達は頭の何処かを共有していたのではないか。彼は離れてから、そんな風に感じだしていた。 それはノブルも同様だったらしく、まだ弟がコモドドラゴンズに在籍していた頃には、その件で夜通し話すこともあった。自分達は「普通」ではない部分を持っているんだ、と。 ただ彼等は所詮彼等だったので、じゃあ仕方ねえな、と酒でも呑んで笑っておしまい、だったのだが。 ただ辺境回りをする様になって、彼はその「普通でない」特性が、星系ごとの特色であることに気付いた。 そして、その「特色」により、「消された」種族が存在することも。 何処が、違うのだろう。彼は時々思うのだ。「ここの…アリゾナの連中も、格別、そんな能力持っていないだろうな」「ええ、私が見た限りでは…そもそも、人口が少ないですし」「焼かれる前のアリゾナでも、そうか?」「そうだと思います」「言い切れるか?」 ええ、とバーディはうなづいた。「確かにかなりの地をこのアリゾナは焼かれましたけど、生き残った人々はそのまま住み続け、アリゲータにだって、ちゃんとその子孫の方々が住んでるんです。ですから」 もういい、と彼はバーディを止めた。 だとしたら、この男の能力は、一体何なのだろう。 炎を扱って、幻覚を見せて。 おまけに母親が天使種で。 本人の言うことを信じれば、三百歳くらいで。 けど、バーディの話によると、ハーフだからと言って、必ずしも現在の皇族だの血族だののように、「不老長寿」の能力者であるとは限らないという。 …何が、違うのだろう。「おい」 もう一つ、聞こうと思ったが―――その時には、バーディは既にテーブルと友達になっていた。 いきなり眠りやがる。彼は呆れたが、そのあたりにあった布を、とりあえず、と彼女に一枚かけてやった。 彼は、と言えば、しばらくその問題について、サボテン酒を片手に、考え続けていた。 …結局答えは、出なかったのだが。 こっちこっち、とスペイドは実に楽しげに、彼を近くの川へと連れて行った。「綺麗な水じゃねえか」「うん。ここだけはね。谷一つ越えると、もう砂だの土だのしか無くなってしまうけれど、まだここは大丈夫。土がちゃんと水を受け止められるんだ」「DU弾?」「ああ」 ばしゃばしゃ、とスペイドは川の水で顔を洗う。「う~気持ちいいっ。後で水浴びでもする?」「…俺はいい」 とは言え、顔くらいは洗っておきたかった。睡眠不足だ。目は覚ましておきたい。「谷のこちらとあちら、ではずいぶん違うんだな」「うん。谷に落ちない様に、お袋は苦労したらしいからね」「…お前な」 うん? とスペイドは顔を上げる。途端、その視線が絡まる。「あ、いや…」「何なの、言いかけたことはちゃんと言ってよ」 ぱっぱっ、と彼は濡れた手と顔を振って乾かす。「…何処まで、本当だ?」「何がさ」「お前の言ってること」「何、俺が嘘言ってる、って、あんた思ってるんだ」「思ってるも何も…」「別に信じてくれなくても、いいけどさー」「や、そうじゃなくてな」 どう言ったらいいのだろう。ジャスティスは少しばかり言葉を捜す。自分とて、似た経験はあるのだ。こちらが常識と思っていたことが、まるで相手には通じなかったということが。 程度の差はあれ。「お前はどう見ても、二十歳になるかならないかくらいにしか、見えないんだよ」「…ああ、俺のホントの歳のこと?」「端的に言ってしまえば、そうだ」「ま、そりゃそーだよね。この若々しいぴちぴちしたお肌だしよ」 そういう意味ではないのだが。そう思いつつ、彼は顔を洗う。…洗ってから、タオルの一つも持っていないことに、彼は気付いた。 仕方なく、シャツの裾を引っぱり出して、顔をぬぐう。どうせこの乾燥した気候では、すぐに乾いてしまうだろう。「DU弾の雲が緑、ってのは」「だって見たもの。嘘じゃないぜ?」「ああ、そう思う」「だいたい俺があんたに嘘ついて、何の得があるっていうの」「だから、そこだ」 そうだ、と彼もそこではたと思い当たる。「何でお前は、俺等は『客』として選んだんだ?」 ああ、とスペイドは大きくうなづいた。「なあんだ、あんたそこにこだわってたんだ」 あはははは、とスペイドは子供の様に笑った。あまり笑いすぎて、終いには、腹を抱えだす始末だった。「…おい」「や、ごめんごめん…んー、でも、ねえ」 ほら、とスペイドは両手を前に差し出す。ん? とジャスティスはそれを眺める。「何やってるんだ、お前」「だから、例えば今、連れのあの子だったら、俺の手の上には、火の柱が立ってる筈なの」「…俺には見えねえが」「うん。そういうこと」 まだ彼には、よく判らなかった。「あんた、あの子をウチまで眠らせて来て、正解だったよ。そのままだったら、あの子はレッドリバー・バレーを通っては来れなかったはずだぜ。だいたい、俺の幻覚が見える様な奴だったら、通ったらアタマがやられる。前にも通ろうとした奴が居たけれど、脅しても入って行っちゃって、仕方ねえなあ、と思ったら案の定」 そう言えば。 彼は前所長の件を思い出していた。戻って来たはいいが、火傷に切り傷、それにアタマが。「あんたはそういう意味で、『通れる』奴だ、と思ったからさあ。俺だって時には寂しくなるし」 そうなのか。 ジャスティスは、ようやく納得する理由が見つかったと思った。
2006.08.26
コメント(0)
「所長の最初の行かれた、VV種の場合のように、その表面全体を使用できなくする場合、は別でしょうが…ともかく、その惑星に利用価値がある場合、残留放射能の危険を考えた場合…」「つまり、そんなもので汚れた惑星なんぞ、侵略しても意味がねえ、ってことだな」「はい。だからそういう爆弾は、特A級の使用禁止兵器でした。で、その規格で言うと、DU弾、というのは、AかAマイナスくらいの…禁止兵器だったんです」「それで大陸半分、が砂地化、か…」「ただ、開発がずいぶん遅かったですから、それでも一つ二つは使われた所があったんだと思います」「それが、アリゾナだと」「…推定ですが。ただその実例が少なすぎる場合、データが残っていない場合があるんです」「そういうものなのか? だって、開発組ってのは、データを残すものだろう?」 それが仕事なのだから。「場合によります。…だから、アリゾナがどういう状態だったのか判らないんですが…とにかく、DU弾の跡に立つ雲の色なんていうのは、誰も知らないはずなんです。当時、それを落とした兵士とか、…直接そこに関わり合ったひとしか」「それでお前、さっき変な顔してたのか」 バーディは黙ってうなづいた。「…それこそ、当時そこで、安全なところに居た人が見て、…それを口伝えしていったとか…」「こいつはずっと一人だ、と言ってたが」 父親は老衰で死んだ、と言っていた。母親は―――「最強の軍隊、と言うと、…やっぱり、あれしかねえよな」「あれ、というと、あれ、ですか」「そうだ、あれだ」 天使種。現在の「皇族」や「血族」にあたる種族。 帝都政府の、支配者層。「バーディお前、歴史もいける方か?」「そこまでは…結局私が知ってる歴史って言うのは、地質学に関わることに限定されてしまいますから…」 ふう、とジャスティスは煙を揺らせた。「…何を、こいつは考えてるんだ、全く」 つん、とその黒髪をつつく。本当に、気持ちよさそうに眠る奴だ、と彼は思わずにはいられない。「でも、格好いいひとですね」「格好いい?」「ワイルドって言いますか」「何だ、お前、こういうのが好みか?」「えええええ? そんなそんなそんな。違いますよーっ」 必死で彼女は否定する。何をそんなに焦ってるのだ、とジャスティスは空になったジョッキにまたサボテン酒を注いだ。「…所長本当に、お酒、強いですね…」「そうか?」「私なんか駄目ですよ、まるでそのあたりは」「別に呑めなければ呑めないでもいい」「いいんですか?」「その方が、余分な金はかからんだろ」 それはそうですが、とバーディはうなづく。注いだ酒を一口呑んで、彼は首をかしげる。「天使種と、こういうとこの普通の奴とのハーフってのは、どうなんだろうな」「あ、でも私が帝大に行ってた時には、ハーフのひとも居ましたよ。ウェネイクの旧家の女性が、皇族の方に嫁いだりすることがあったらしくて」「そういう場合、ガキはどうなんだ? やっぱり、長生きするのか? 不老不死って奴…」「どうなんでしょうねえ…同級生に一人居ましたけど、特にそういうことは感じませんでしたが…」「お前が鈍感だっただけじゃねえのか?」「あ、それはひどいです~」 どん、と彼女はテーブルを叩く。ん、とスペイドが身じろぎしたので、慌てて二人してしっ、と指を立てた。「…とにかく、私は聞いたこと、ないですけど…」「俺だって、ねえよ」 だいたい、彼にとって、それは実に遠い遠い世界の話なのだ。こんなことでもなければ、口にすることなど、まずないだろう。「…しかしこいつ、変なこと言ってたな」「何ですか?」「俺が幻覚効かねえ、ってことを話してた時だが…」 能力者を生み出す所か、それとも上手く組合わさった所か。「なあバーディ、フランフランでは、何か変な力を生まれつき持ってる、とかそういうことはあるか?」「って言いますと、所長のその…軽いテレパシイ、とかVV種の耐性、とかそういうものですか?」 そうだ、とジャスティスはうなづく。「フランフランは、格別そういうものは無かった…と思います。外的変化も、内的変化も。おそらく、気候が発祥の『地球』に近いせいだとは思うのですが」「ランプだって、近いとは思うんだがな」 何が違うのだろう。時々彼は思う。 彼の出身の星系「ランプ」は、入植の歴史は古い。おそらく、その古さにしてみれば、ウェネイク星系にも匹敵する。 ただ、ウェネイクと違い、その存在は地味だった。したがって、現在でも人々の暮らしは豊かすぎず、貧しすぎず、といったところである。 ジャスティスはシニア・ハイを出て職に就いたが、まあそれが普通である程度である。高等教育機関や、研究機関まで進学する者は滅多に居ない。 そもそも、入植した数も違えば、出身階層も違う。 ウェネイクの入植民が当時の大国から、最新の設備の船で出かけたとすれば、「ランプ」にたどり着いたのは、歴史も古ければ、設備も古い、そんな小国から出た船だったのだ。 だがそれだけに、「ランプ」にたどり着いた者達は、地道にこつこつと、大地を切り拓いて行った。 それこそ、遠い昔、大国が大国になる前の、開拓者精神をもって。 慢心することもなく、自分達の暮らしを一歩一歩楽にして行こう―――そう考える、人々だったのだ。 そんな彼等の気質は、現在まで受け継がれていると言ってもいい。 結局、ジャスティスやノブルの落ち着かなさも、その「開拓者精神」に集約されてしまうのかもしれない。 そんな惑星で、双子や三つ子がよく生まれる様になったのは、植民が始まってから、三世代くらい経ってからだった。 現在でも、一卵性・二卵性問わず、この惑星では一回の出産に複数の子供が生まれることが多い。 そして、その生まれた子供達には、互いに引き合う力があるのだ。 ジャスティスはそれが普通だ、とずっと思っていた。それこそ、彼が「エイピイ」に入る―――ノブルが「コモドドラゴンズ」に入るまで。
2006.08.25
コメント(0)
「あ~久しぶりに~良く寝た~」 大きなあくびと伸びをしながら彼はそう言った。そして。「おはっよー。さわやかな朝だよ~起きて起きて、ごはんにしよう」 これでもかとばかりにすっきりさっぱりとした顔で、スペイドはテーブルにつっ伏せる二人を揺さぶる。 せっかくの客だ。滅多に無い客なのだ。「う~…」 だが客は、と言えば。 低い声を立てて、ジャスティスは起きあがる。「あれ、どうしたの、まぶたが重そうだよ」「…」 それはそうだ、とジャスティスは思う。 結局、この男が先にさっさと眠ってしまってからというもの、彼は夜明け近くまでバーディと議論していたのだ。彼女は何だかんだ言って、夕方眠ってしまっていたからともかく、結局彼は、ほとんど眠っていないことになる。「誰のせいだと思ってる…」 つぶやいたところで、目の前の男はきょとんとしているだけだった。「ええと」 スペイドが寝入ってしまった後のことである。 サボテン酒をちびりちびりとやりながら、所長と社員は、現在のこの状態について、ずるずると話し込んでいた。「つまり、このひとは、…あの…戦争前から生きてた、って言うんですか?」「本人が言うにはな」 ジャスティスは苦々しい顔で言う。「そんな…それは冗談でしょう」「って言ったってなあ…」 椅子に背を預け、天井を見上げる。「そんな突拍子もねえ嘘、わざわざ俺等につく理由が見あたらん」 言ったって、何の得があるんだ、と彼は思う。 つくなら、もっと本当らしい嘘でなければ、効果はないだろう。「それは所長に、でしょう。私、だって、聞いてませんよ」 さすがに彼も、お前は寝てたからだ、とはあえて言わなかった。何せ強制的に眠らせておいたのは自分である。「けど所長、どうして私、寝てたんですか?」「ああ…お前、あん時谷で、炎の幻覚見たろ」「幻覚? 炎は見ましたけど…あれは、幻覚だったんですか?」「やっぱり、見えたのか」 だったらスペイドが言った「見せた」は事実だ。「あれが幻覚だなんて…幻覚、だったんですねえ…でも所長には、見えなかったんですよね」「…ああ、俺は軽いテレパシイ能力があるから、そういうのがあまり効かないんだ」「ええっ!」 しー、とジャスティスは指を立てる。あ、と彼女も口を塞いだ。 テーブルの上では、自称300歳位、の青年が、すやすやと、実に心地よさそうに眠っていた。 さすがにこれだけ気持ちよさそうに、時々ふにゃふにゃと寝言まで言われてしまったら、起こすのも可哀想な気がしてくるというものである。 何となく、弟のことを思いだしてしまったりもする。 そう、その弟が。「…って言ってもな、双子の弟と、居る居ない、程度の感応力があるってくらいなもんだ。テレパシイのテの字の能力とも言えねえぜ」「え、じゃあ、あのノブル選手の方も、そういう能力があるんですか?」 すごーい、と彼女はぱちぱちと手を叩く。 酔ってるんじゃねえかこいつ、とジャスティスは葉巻をぎっ、と噛む。「…それに比べれば、こいつがやらかしたのは…なあ」「どうだったんですか?」 彼女も真剣な顔になる。「…とりあえず、俺達の車を壊したのは、こいつだ」 そう言って、男のむき出しの肩を指した。毛皮からはみ出した肩は、つるん、として実に筋肉のついた若々しい肌。どう見ても、二十歳そこそこだ。「…ってあの、火がどん、と」「そう、火をどん、と」 降らせた、ということだろう。それに炎の幻覚。「人間ライターだと思ったら、そんなことができたんですか」「人間ライターだと?」「だって、そうじゃないですか」 ほら、とぽっ、とスペイドが指先で火を点けてみせた時のことを、彼女は真似してみせる。「…ま、そう言えば、そうだよなあ」「でも、それって…滅茶苦茶凄い能力ってことじゃないですか?」「そうだ」 それだけは、間違いのないことだ。発火能力なんて、…まず普通の人間では、ない。だから、困る。「だからおそらくは、こいつがずっと、例の『谷に入れない』理由だったろうな。地磁気の狂いとか、そういうのとは別に、だが」「そうですね。地磁気の狂いは、たぶん戦争の後遺症でしょうし」「そういうことがあるのか?」 ええ、とバーディはうなづいた。「DU弾は、だから確か、戦争中もほとんど使われなかったはずです。さすがに私も、特性は聞いてますが、成分と効果の関係までは、良く覚えていないんです。…それに…あの」「何だ?」 言いにくそうな彼女を、ジャスティスはうながした。「DU弾の煙の色、なんていうのは、記録には残っていない、と思うんです」「何だと?」「…少なくとも、私は知りません。そりゃあ、私だって、専門ではないから何ですが…それでも、戦争後の兵器使用による地質変化に関しては、一応さらってるんです。その時にDU弾も、出てきたりはしたんですが」「言ってみろ」「…核爆弾は、使用があの戦争の時にも基本的には全面禁止されていました。それはご存じですよね?」「いや…」「そうだったんです! と言うのも」 さすがに講義口調だ、と彼はふと感心する。
2006.08.24
コメント(0)
300歳! それはしれっとした表情で言われるべきことではない、とジャスティスでも思う。「…冗談じゃ、ねえよな」 ぐい、と肉を食いちぎりながら、彼は問いかける。おう、とスペイドは当たり前のことの様に言い返す。「冗談言っても仕方ねーもん。だけどさー、ほら、何だかんだ言って、この若いぴちぴちした身体だろ、俺。気持ちが老けなくて老けなくて」 それで老け込んでいたら、怖い、とジャスティスは思う。「ま、とにかく呑みなよ。あんた、いけるクチだろ」「おう」 とにかく呑む。その方がさすがに彼の精神衛生にも良さそうだった。 サボテン酒は結構いける。「俺さー、何だかんだ言っても、気持ちって身体と比例すると思うぜっ」 そしてジョッキ数杯目にして、とうとう酔いが回ってきたらしいスペイドは、座ってきた目で、ジャスティスに絡み出す。 絡まれている方は、何ってことない。彼はアルコールに強かった。「ん…」 その時、眠っていたバーディが動く気配があった。「んー…まだ眠い…」「おいバーディ、起きたのか」「起きた…」 彼女は薄目を開けて、しばらくぼうっ、と辺りを見回す。 そしてはっ、と飛び起きた。いくら眼鏡の無い状態でも、そこがつい先ほどまで居たレッドリバー・バレーではないことは一目瞭然だ。「しょ、所長、一体ここはっ」「あ、おじょーちゃん、目が覚めたの~」 あははははは、とスペイドは笑いながらジョッキを高く挙げる。「…こここここんにちは。えええと一体全体団体…あいたっ!」 そう言って、彼女は腹を押さえた。「え、ええとここは何処ですか、何で私、お腹痛いんですか? それに、えーと…」「あー…すまんかったな、ちとばかり、お前動転してたから、眠ってもらった。そんなに痛むか?」「い、いえ…ちょっとですけど…」 何やらなごやかでワイルドな食事風景が、彼女の目に飛び込む。「…あ、あの…所長、私もその、…」「あ、おねーちゃんもお腹空いてる? ちょっと待ってーっ」 けらけら笑いながら、スペイドはまだ熱い串をぽん、とジャスティスの皿に置いた。 そのまま取ろうとして、あち、と彼女は指をくわえる。気をつけろ、とジャスティスは先ほどまで自分が巻き付けていたハンカチを渡した。「ありがとうございます…で、でも熱くないんですか? あなた」「だからー、俺はね」 そしてまた指先からぽっ、と火を出してみせる。しかし「だから」と言われたところで、彼女は今までの事態をまるで把握していない。目を丸くして、はあ、と言うしかなかった。「お前酒は、呑めるか?」「普通ですけど…」「あ、じゃあも一つジョッキジョッキ」 スペイドは妙に嬉しそうに、もう一つ、ジョッキを取り出した。「あー、何かすごい久しぶりだなあ。これ三つ使えるって」 そう言えば。ジャスティスは先ほどの会話を思い出す。かつては三人で、この小屋で住んでいたのだろう。…それが300年、というのは…まだ半分以上、信じられないのだが… いや、信じろという方が、おかしいのだが…「おいバーディ、ちょっと聞きたいんだが、アリゾナが焼かれた、ってのは、何年のことか知ってるか?」「アリゾナが、ですか? えーと、確か、565年、じゃなかったですか」「あ、おねーちゃん、良く知ってるねー」 ごほうびにもう一本、とスペイドはまた肉をどん、と置いた。「えーと…確か、発端は、アリゾナに潜伏している逃走犯を投じの軍が追っていた、とかいうことですが、その時に、確か、居住可能大陸の半分を焼き払ってしまったんです」「半分!」「その時に使われたのが、確か、少し厄介な爆弾で…何って言ったのかなあ…」「ドライ・アップ」 スペイドは即座にそう答えた。「ああそうそう、ドライ・アップ弾、通称DU弾、という奴です。…あなたもよくご存じですね」「うん、まあ当時俺、それ見たし。あれってさー、緑色の雲が立つんだよね」「…え」 バーディは言葉を無くす。そして彼女の所長と視線をちら、と合わせる。黙ってろ、とジャスティスは合図を送った。 DU弾の雲―――つまりは、その爆発を見たことがある者など、現在、居る訳が無いのだ。「あの、所長…確かDU弾って、普通の土壌を乾燥化・砂漠化させてしまう兵器だ、と私、記憶してますけど…」「俺に聞くな」「うん、そーだよ」 スペイドはとろん、とした目で答える。「確かあれはねー。俺のおふくろが、出てって、しばらくしてからかなー。何か知らないけれど、ある日いきなり、警報が鳴ってさー。俺は親父と、あの谷に逃げたんだよね。前々から、連中にそこなら安全だ、と言われていたから。俺は助けてやる、と言われてたから。だから親父連れて、谷に逃げ込んだから、俺や、俺のこのお家は助かったんだよー」「…このひと…」「黙ってろ、って言っただろ」「でもすごかったね、ドライ・アップ。あれからホントに、ずーっと、それまで草原だった場所が、荒野になっちゃったもんねー。好きだったんだけどなー。牛も飼えたし」 そうだ。確かこの男は、牛飼いの親父が、脱走兵の母親と恋愛して、と言ったのだ。 牛飼い、がこの惑星に現在居る訳が無い。そんな草原は、何処にも無いのだ。 だから、この惑星は、鉱山開発に乗り出すしかないのだ。「あ~でもやっぱりたまに人に話すと、いいね」 へへへ、とスペイドは笑った。そしてもう一杯、とサボテン酒を注いで、半分呑んだあたりで―――潰れた。 ジャスティスは、それまでバーディに掛けていた毛皮を、彼の上に掛けてやる。そして自分の分をぐい、とまたあおった。「…どういう、ことなんですか? 所長…」「あー…何って言うか、なあ…」 彼は葉巻を取り出して、火をつけた。どうこの女に説明すればいいんだ? 何処までが嘘で、何処までが本当なのか、どうにもこうにも、ジャスティスにはよく判らなかった。 吸わなくちゃ、やってられねえ。彼は思った。
2006.08.23
コメント(0)
「…」 何処まで本気で喋っているのか判らない。 だがそこに突っ込むことはとりあえずジャスティスはしないことにした。「お袋ってひとも凄いんだよー。あのひとは確か、当時大尉か何かだったらしいね。それでも何か、とうとう嫌気がさして、決死の覚悟で自軍を逃げ出して来たらしいね。そのまま居れば、最強の軍隊なんだから、すげえ役にもつけたはずなんだろうに、かーなーりーの物好きだったんだろうなあ」 だがその言葉には、確実に、愛情が籠もっている。冗談めかしているが、それは彼にも判った。 例えば、自分や双子の弟が、上の兄について話す時。 自分達は、上の兄について、これでもかとばかりに二人でけなし合うこともある。 だがそれは尊敬と恐怖と、それに加えて愛情のなせるわざである。その一つでも欠けたら、ただの中傷だ。それを聞きつけた兄が、にこにこと笑いながら二人の横っ面を張り倒し、頬をつねる程度では済まないだろう。「で、それまで着ていた沼色緑の軍服と、レーザーソードとナイフをしまい込んで、シャツとジーンズに着替えたんだって。しばらくして俺が生まれて。十年くらいは、それでシアワセだったんだ、って親父は言ってた」「十年くらい、か」「そ。俺がまだ十歳だった頃。可愛かったんだよー」 自分で言うか、と思ったが、彼は口には出さなかった。 しかし、確かにこの青年だったら、子供の頃には可愛かったのではないか、とジャスティスも思う。均整の取れた体つきは、きっと毎日毎日生きるために動き回っているからだろうが、顔もそう悪くない。 何しろ、目が。 時々にやりと笑う、その目が、辺境のあちこちで見てきた、野生の獣に良く似ているのだ。 実際、この青年自体、野生の獣ではないか、という気持ちがジャスティスの中にふい、と湧いた。「あんたちょっと、そこの棚から皿出してくれねえ?」「皿か?」「普段は使わねえから、少しほこりかぶってるかもしれねーけどさ」 棚、ねえ。ジャスティスは観音開きの扉を開けてみる。そこには綺麗にそろった皿が、確かに何枚も置かれていた。 だがほこりはたまっていない。その様に見える。 一応、下から二枚を引き抜いて、テーブルの上に置いた。「いつもは、使わないのか?」「そんな、面倒なことしねえよ。こうやって」 焼けた肉の串を、ひょいと指でそのまま掴む。あ、とジャスティスは声を上げた。結構な重みを持っているだろう串は、持つのに力が要る。かなり熱くなっているはずなのに。「何その顔」「お前、熱くないのか?」「何言ってるの、俺こんなことできるのよ」 そう言って彼の目の前で、ぱち、と小さな炎を見せた。「俺が熱くて、どうするの」 確かにそれは、そうだが。「はい、あんたの分。はい、塩」 木製のジョッキが二つ置かれ、あっと言う間にワイルドな食卓がそこには出来上がった。「草原トカゲの肉ってのは、結構いけるぜ」「塩はつけた方がいいのか?」「俺はあんまりつけねえけどね。まあ普通はつけた方が美味いんじゃねえ?」 なるほど、とうなづくと、少し振って、彼はまだ熱い串にはポケットに入れていたハンカチを巻いて握った。食いつくと、それは確かに美味かった。「ジューシーだな」「だろ?」 にやり、とスペイドは笑った。「サボテン酒も呑めよ。結構強いぜ」「あまり聞かないが、こっちでは酒になるのか?」「サボテンは、色んなものに使われるからな、こっちでは。単純に食うこともできれば、水を取ることもできる。このもう少し先に、漬けると味と香りにこくが出る丸サボテンがあるのさ」「初耳だな」「こっちの最近の奴じゃ、知る訳ないさ。これは昔の知識」「ふうん」 確かに言われる通り、口をつけたサボテン酒は、かっと焼けるような舌触りとともに、一杯にふくらむ香りも強かった。「…驚いたな」「だろ?」「結構これは売れるぞ」 それにはにやにや、とスペイドは黙ったままだった。無論この青年がそんな気など無いだろうことは、見れば判る。試しに言ってみただけだ。「売るなんて、もったいないな」「そ」 満足そうに、スペイドはジョッキを合わせてきた。「…で、お前のお袋さんと親父さんの話だが」「ああそうそう。だから俺も可愛かった、十歳くらいの時にさ、俺がそこの谷で、ちょっとしたものを見つけちまったの」「ちょっとしたもの?」「この谷は、昔は赤くなかったんだ」「え?」「昔は、乳白色をしていた」 何処かで、そんな色の鉱石の話を聞いた気がする。ジャスティスは懸命に記憶をひっくり返そうとする。「だけどその鉱石は、だんだん赤くなって行ったんだ。それに気付いたのは俺だけだった」「何で」「何でだろうね。とにかく、その頃も谷は、客を選んでいたんだよ。俺は悲しいかな、選ばれちゃった訳」 とぷとぷとぷ、と青年は自分のジョッキに二杯目を注ぐ。「選ばれちゃった、のか」「そう。選ばれちゃったの。おかげで、俺は今もここに居る訳よ。お袋が慌ててまたこの惑星を飛び出して、親父が老衰で死んでも、ずっとずっとずっと」「…」 何となく、ジャスティスの中で、嫌な予感が、した。 何か自分は、とてつもなく、やばいことに足を突っ込んでいるのではないのか、という気がしてきたのだ。 しかし基本的にやはり彼はバーディと同じで、「毒食えば皿まで」だったから。「一つ聞いていいか?」「いいよ。あんたは客だから」「お前、今何歳だ?」 スペイドは、少しの間黙った。 それは言うことをためらったための間ではなかった。計算をしている間だった。「…確か、そろそろ300歳くらいじゃねえかなあ。細かい事は忘れた」
2006.08.22
コメント(0)
「そろそろ見えて来ない?」 何がだ、と思い、相手の指の先を見る。「…赤い」「そ。この辺りから、そろそろ皆、こんな色になってくるさ」「皆、か?」「一面。真っ赤になるよ。月が出れば、また綺麗だよー」 スペイドは呑気な声を出す。「…いいのか?」「何が」「お前今まで、ここの場所に、人を来させないようにしていたんじゃ、ないのか?」「やだねー。そうだよ」 それもまた、あっさりと肯定される。「だから、言ったじゃない。俺は、客を選ぶの、って。あんたは俺に選ばれた。それだけ。それで、だ」 今度はその腕がふい、と前を指す。ぽっ、とその手から炎が上がる。「そろそろ見えにくくなってきたからね。足元、注意して」「月が」「あんたが転んでも大丈夫かもしれないけどさ、女の子を落としちゃいけないだろ?」 や、違うな、とスペイドはにやりと笑う。「あんたが、落としちゃいけない、と思ってる」「俺の考えていることが判るのか?」「少しはね。そっちの力はそう強くはない」「ほう」「あんたこそ、驚かないんだな」「俺にも、軽いものなら、ある」 やっぱり、と相手はうなづく。「だろうな。でなきゃ、俺の幻覚が通じない訳がないもん」 二人はそのまま、足を進める。 スペイドの手の炎に照らされた、道の両側にそびえ立つ岩壁は、言われた通り、次第に赤みを増してきていた。「開発でもしたのか? 能力の」「や、俺の星系では、たまに出る」「星系で?」「ランプ、って星系を知ってるか?」 いいや、とスペイドは首を振った。「俺はこのアリゾナから長いこと、出たことが無いからな。遠くのことは良くは知らない」「そうか」「そうだよ」 とてもそうは見えないのに、とジャスティスは思う。「そのあんたのランプ、って星系は、能力者を生む場所なのか? それとも、やっぱり上手く組合わさった何かか?」「? 言ってる意味が判らないが」 ああ、とスペイドはうなづいた。「…出てくる、ほうか」 勝手に納得しているようである。「なら、大丈夫か」「何が、大丈夫だ?」「や、殺されることも焼かれることも、無いなあ、と思ってね」「…何だと?」「アリゾナは、それで焼かれたんだよ」 葉巻がぽろり、と口から落ちる。それに少しの間ジャスティスは気付かなかった。「ここが俺の住処」 両側の岸壁が血の赤で満たされた、と思った時、いきなりそれがぱあっ、と開けた。ぽっかりと、草原がそこには広がっていた。 そしてその草原に、小さな小屋が一つ。「ほら来いよ」 スペイドは手招きする。丸く広がる空の中に、既に月がぽっかりと浮かんでいた。「いいのか?」「肉と酒くらいはある、って言ったろ? あ、女の子はそっちにでも寝かせておけばいいよ」 そう言ってスペイドは、片隅にあるベンチの様なものを指す。その上に不器用に縫い合わされた毛皮が置いてある。その上で眠っているのだろう、とジャスティスは思った。 バーディをその上にそっと乗せて、毛皮をふわりと掛ける。まだ目を覚ます気配は無い。 だが。「…一人で住んでいるんじゃ、ないのか?」「一人だよ。ずっと」「椅子が、三つあるじゃないか」「昔、もう二人居たんだよ」 もう居ないだけさ、とスペイドは付け足した。ああ、とジャスティスは短くうなづいた。「親父と、お袋」 それで三人か、と彼はつぶやいた。「昔むかし、アリゾナが焼かれた時に、お袋は俺達を守るために飛び出した。親父はそれからしばらくして、歳くいすぎて死んじまった。俺は残されて一人きり」 ん? と彼は何気なく青年の言った言葉に首をひねった。「アリゾナが焼かれた時、っていつだ?」「昔だよ」 言いながら、スペイドはバーディの休んでいるベンチの下から樽を一つ取り出し、とん、とテーブルの上に乗せる。がた、とテーブルが一瞬揺れた。「…で、肉、と…」 棚を開けると、昨日今日獲ってさばいたのだろう、大きな肉片が、吊されて、幾つか並んでいた。ずいぶんと大きな動物が居たものだ、と彼は驚く。 それを取り出すと、炉に火をつけ、刺してある串ごとその上にかざす。 あくまで、平然とした、毎日繰り返している様な動作だった。 だが。 ジャスティスは「アリゾナが焼かれた」時期について考えていた。少なくとも、自分が生まれてから三十数年のうちに、そんなことが起こった記憶はない。 いや、「焼かれた」ということ自体、そうそうどの星系でも起こっているはずが無いのだ。「戦争」は統一国家では起こり得ない概念だから内乱… 何かしら、アリゾナに関連したことを思い出そうとする。だがそういう時に限って、思い出せない。すやすやと心地よさげに眠っている女だったら、きっとそのあたりをすぐに口にするだろうが、あいにくジャスティスはそういうタイプではなかった。 そういう時には。「…戦争以来、焼かれたことがあるのか?」「いや、ねぇよ」 スペイドは軽く言った。言いながらもその手は、ぐるぐると肉を焼く手を止めない。 戦争は―――今は、共通星間歴830年代だ。 いくら、彼がシニア・ハイ時代ベースボールばかりやっていて勉強していなかったとしても、戦争が終結して、帝都政府が統一した年くらいは知っている。…570年だ。「戦争の、終わり頃かな」 彼の思いを見透かした様に、スペイドはつぶやいた。「冗談はよせ」「冗談じゃ、ないさ」 ぐるぐるぐる、と肉はあぶられる。脂身が溶けて、じゅ、と音を立てる。「お袋は、当時の最強の軍隊の脱走兵だったの。流れ流れてアリゾナにたどり着いて、ちょうど牛なんか追ってた俺の親父と何故か恋に落ちちゃったの」
2006.08.21
コメント(0)
そしてその制服の主が、今、私服で目の前に居た。 当初、錯乱していた私は東府の病院へと運ばれる予定だったが、当局の意図していた以上に、「凶悪な二人組の被害者」であり、「当局への協力者」である私に対し、関係報道機関がうるさいので、病院側も辟易して当局のどこかへ移すことを希望したらしい。 私の錯乱も一時的なものらしいという診断がついた(つかされたのかもしれないが)ので、それならいっそ、と最初に私を助けた局員が名乗りを上げたらしい。局の方も、やっかいなことは少しでも少ない方がいいというのか、その局員の申し出をあっさりと認めた。 そして私は現在、トオエという名の局員の部屋に居た。「それで、君はこれからどうするつもりなの?」「どうするって」 言っても。「帰るしか、ないですね。東府に来た理由は…果たしたいのですが」「ここに来た、ということは、受精卵を託しに来たんだね?」 私はうなづく。「…止したほうがいいかも、しれないよ」「え?」「せっかく、あんな思いまでして、届けに来た君に、こんなことを言うのは…夢を壊す様で悪いかもしれないけど…」 思わず眉を寄せる。何をこのひとは言おうとしているのだ。「言いかけたことなら、言ってくれませんか? そこで放って置かれるのは、逆に何か…」「ああ」 そうだな、とトオエはうなづいた。「俺も、当初は君の様に、妻との遺伝子を残そうと思ったんだ。だが、さすがに局の人間という奴をやっていると、聞きたくもない情報まで、耳に飛び込んでくる。…君は、今回の船が、そんな受精卵だけを運ぶなんて、考えてはいないだろう?」 ええ、と私は答えた。それ以上の説明は要らなかった。誰もが知っていて、それでいて口に出さない共通認識。行ける奴なんて、最初から決まってるんだ、というあきらめまじりのつぶやきと共にそれは口の中で噛み潰される。「予定地は、明かされていない。下手すると、決まっていないのかもしれない。それでも、この地球上に残って、花に殺されるよりはましと考えるのか…」 そこまで言って、彼は一口コーヒーをすすった。「まあそれでも、全くの目標がゼロという訳ではないだろうね。遠い未来であろうが、いつかは、新しい大地に立とうという気なんだろう。だが、そこで、だ」 とん、と彼はカップを置く。「その新しい場で、彼等と彼等の子孫は、果たして、汗水流して働きたいだろうか」「…え?」「そんな、特権階級にずっと居た奴らが、新天地の、何も無いところで、苦労して切り開いて行こうと思うだろうか? いや、それ以前からもだ。長い長い航海になったとして、やがて自分達も増えるだろう。その中で、自分の世話を自分でやろうと考えるんだろうか。そもそも乗り込む時点で、そんなこと、頭に無い連中のほうが多いと思わないか?」「…どういう、意味ですか?」「…こういう、噂が立ってるんだ」 ちょっと待ってくれ、と私は彼を手で制した。飲みかけのコーヒーを慌てて飲み干す。いいかい? と彼は問いかける。私はうなづいた。口に入るものがまずくなる話のような気がしたのだ。「奴らは、自分達に仕える者を連れて行こうとしているんだ」 私は顔をしかめる。すぐには意味が取れなかった。だが、その言葉の意味していることが理解できた瞬間、私の中で、ひどく熱い塊が、大きく膨らんだような気がした。「…それって…」「船の中には、人工子宮もあってね。最初から、奴らに仕えることを教育された人間を生み出そうって魂胆らしい」「…そんな…」 私は思わず口を押さえた。「奴らなら、考えそうなことだ」 吐き捨てるように、トオエは言った。「同じ数の人間を連れてくより、ずっと効率的。効率的だよと! …噂だけどな」 噂では、無いだろう。私は奇妙に確信していた。そのくらい、やりかねないだろう、と。「噂だよ? あくまで噂」「でもわざわざ私に言ってくれるとということは…それが、信憑性の高い噂ってことでしょう?」 私は彼に問いかけた。彼は少し困ったような顔をした。「…そうだな。だから、局員で、そんな恩恵にあずかれなかった連中は、絶対に、自分の血のつながる子孫をそんな場所にやりたがらない。全国の都市から、何も知らずに、報道機関が流す情報を鵜呑みにする、けなげな連中の持ってくるものをより分けて行くだけさ」 そうですか、と私は言いながら、視線を落とした。結局、どこへ行ったところで、希望なんか無かったというのか。何だか、おかしくなってくる。笑いたくなってきそうだ。 と、ふと落とした視線の先に、私は彼の荷物を認めた。そういえば。「…奥さんは、どうしたんですか?」「え?」「奥さんがいる、って今さっきあなたは言われたけど…」「ああ」 視線の先に気付いて、彼は少しだけ笑った。「彼女は、引っ越し先に、片づけに行ってるんだ。せめて人間の住める場所にしようって」「…引っ越し?」「もうじき、管理局も辞めるんだ。36番都市の近くの島に引っ越そうと思って」「…島」 海の風景が、私の脳裏を横切った。「妻の父方の先祖の土地らしいんだけど、温暖で、かなり昔に捨てられた所だから、機械がほとんど入っていないというんだ。そこへ行って、…そんな生活をしてみようか、と」 へえ、と私は声を上げる。「奥さんと、二人で?」「いや、子供が三人いるから。妻と先に行っている。それと、局で家族ぐるみの付き合いをしている友人夫婦と」「…楽しそう、ですね」「いや、そんなことないよ。大変だよ。俺も妻も、畑仕事も魚取りも何もしたことないからな。下手すると、飢え死にするかもな」 そしてははは、と彼は笑う。違うんだ。そういうこの人の表情が、ひどく楽しそうなんだ。 だってそうだろう、と私は思う。都市に居たところで、このままでざいあが、都市に入らないでいるという保証はない。いや必ずその時は来るのだ。悲観している訳じゃない。どこから入ってきたのかすら判らないあの生物は、この先もどこから入ってくるかなど、判らないのだ。「…そうだ、君もどうだい?」 え、と私は顔を上げた。「島はいくら島だとは言っても、決して箱庭じゃないから、人手はあったほうがいいんだ。無論、それなりに苦労はあるだろうけど…」 彼はにっこりと笑う。「だけど、黙って殺されるよりは、ましだろう?」 * 数日後、都市へ戻る代車が手配されたということで、私は東府を出ることにした。 出る前に、トオエの案内で、受精卵を託す係への登録をも済ませた。本当にいいのか、と彼は言ったが、いいのさ、と私はうなづいた。 「協力者」の特権を利用して、私は局へ二つのケースを委託した。二つだ。 あの時。呆然としたまま、局の車に連れ込まれた私の上着のポケットには、二つの受精卵のケースが入っていた。気付いたのは、トオエの部屋に着いて、椅子の背にそれを掛けようとした時だったが。 いつの間に、と思ったが、すぐに予想はできた。ミルは私をマシンガンで脅しながら、自分のベルトポーチの中から取り出し、ポケットの中に滑り込ませたのだろう。 ただそれを、区別している余裕がなかった。自分達のなのか、あんへる達のなのか。 私はそれを見つけた時、どうしたものか、と思った。一瞬それを床に叩き付けようかとも思った。 でもできなかった。 都市の友人の名を出して、本人でなくて申し訳ないけど、と付け加えて、自分のものとして、それを託した。「それじゃ、色々世話になりました」「本当に、その気になったらいつでも連絡をくれよ。願いが叶ったからって…」「トオエさん」 私は車の窓から乗り出す様にして、世話になった人の顔をまっすぐ見据えた。「…考えたことはないですか? あのタマゴの中から、あの連中の社会を思い切り破壊してくれるような子供が産まれて来ないか、って」「君…」 何を言っているのか、という表情になる。私は冗談ですよ、と笑う。そうか冗談だな、とトオエも笑った。「妻と相談して…まとまったら、すぐにでも、そちらへうかがいますよ。その時はよろしく、お願いします」「ああ、それまで君も元気で」 彼は手を伸ばした。私もその手を取って、強く握り返した。 冗談ではないのだが。 いつか、遠い未来、彼等の遺伝子を持った子供達が、反旗を翻すだろう。 いや、遠くはないかもしれない。でも私は既にこの世にはいないかもしれない。 それはそれでいい。私はこの地球の大地の上で、精一杯、あがいてやる。うなだれて、ただ死を待つだけなんて、ごめんだ。 彼等の様に、銃は持たないけれど。 それじゃまた、と私は手を振り、アクセルを踏んだ。 …さて、何処から話そう? ねおんには。 彼女はきっと、賛成してくれるだろう。
2006.04.28
コメント(0)
「158発」 目の前の男は、そう言った。「ナガサキの遺体から摘出された弾丸の数だ。ちなみにミルの方からは116発見つかったそうだ」 そう言いながら、男は、とん、と私の前にコーヒーを置いた。太い指に、濃い色の毛が長い。 殺風景な部屋だった。まるですぐにでも引っ越してしまうかの様に、荷物がまとめられ、板張りの床からは、カーペットもはがしてある。 生活のにおいがあるのは、今私が座らされている、台所のテーブルの上だけだった。「こんなところで済まないね。どうにも今、局の中で上手いとこ空いている場所もなくて。駄目になった分の代車が用意されるまでの間だから、ちょっと我慢してくれな」「気をつかわないでください」 私はコーヒーを受け取りながらそう言った。 私より十歳は上だろう、気さくな口調の管理局員は、自分のカップに砂糖を二つ放り込むと、正面に座った。「…いや実際、君は『被害者』で『協力者』なのだから、もう少し、当局も丁寧な扱いをすべきなんだよ。だが、君も判るだろう? あの騒ぎ…」「ええ」 私は小さくうなづく。 * あの時。 まず、タイヤの空気が抜ける音がしたのだ。 正確な射撃の腕は、四つのタイヤをスピンさせることなく、同時に役立たずにした。 そして次の瞬間。 自分が撃ち抜かれたかと、思った。 めまいがしそうな程の連続する銃撃の音の中で、遠い視界の中で、私の乗ってきた車は、扉が跳ね上げた。 目が、離せなかった。 窓ガラスが割れた。砕けた。 開いた扉から、女の身体が、何度も何度も、突き出され、跳ね飛び、やがて腕を大きく伸ばして、その場に倒れた。 見えたのは、ミルの方だけだったが、座席に居たナガサキもそれは同様だったろう。 私は痛む足に、それでも力を込めて立ち上がった。しかしすぐにそれはくじけそうになる。 動かなくなった彼らに、一斉に人々が群がる。黒と白の制服は着けていない。あの時のノイズ混じりの通信の声を思い出す。関係報道機関に告ぐ… 関係報道機関、って何なんだ、と私は思った。砂糖に群がる蟻の様に、彼らは血に濡れた車体へと近づいて行く。あっという間に、私の車は、人の中に埋もれて見えなくなった。 正面の、その光景から目が離せないまま、私はずるずると足を引きずりながらその場へと向かって行った。 と、群がる蟻の一匹が、私に気付いて、何やら声を上げた。私は何がその時起きたのか、さっぱり判らなかった。 判ったのは、ただ、その蟻の群の一部が、私の方へまで群がってきたということである。 彼らはマイクを突きつけた。「この車はあなたのものですか?」「彼らとの関係は?」「危険は無かったですか?」「何か彼らが残したものがあったら」 矢継ぎ早に、質問が私に降りかかってきた。私の頭は余計にぼんやりとしてきて、何が起こっているのか、なぜ私にそんなものを向けるのか、さっぱり判らなかった。 だから私はどいてくれ、と彼らに言った。私は見たかったのだ。彼等に。ナガサキとミルに、一体何が起きたのか。目の前で起きたことが、信じられなかった。この目で、彼の、彼女の血を見るまで信じられないような気がしていた。「どいてくれ…」 私は叫んでいた。「どいてくれ!」 だがそんなことを全く意にも介しないように、「関係報道機関」の蟻達は、よけいに私に近づいてくる。押し寄せてくる。やめてくれ、潰される。そう思った時だった。 私の手から、銀色が飛び出した。 それに気付いたのは、私だけだったろう。あ、と目を見張ったのも、私だけだったろう。ナガサキが、最後に私に返してくれた、あのケース。 私がはるばる、運んできた。 身動きのとれない状態で、私は必死で足下を見た。手を伸ばした。 こん、と音がしたような気がした。 実際には聞こえない。私に向けられる声が、声が、声が邪魔して、そんな音は聞こえなかったろう。 だが私は見た。そのケースを、その蟻の中の一匹が、ぐちゃりと踏みつぶすのを。 思い切り伸ばした手から、力が抜けていくのが判った。 その後のことは、よく覚えていない。 ぼんやりとした記憶の断片をつなぎ合わせてみると、どうやら私はその時ひどい声を上げ続けたらしい。錯乱したかと思ったのか、マイクやカメラを持った報道機関の連中は、そんな私の様子をも治めようと実に楽しそうな笑みを浮かべていたような気がする。 だがその時、救いの天使が現れた。 驚いたことに、その天使ときたら、管理局の黒と白の制服を着ていたのだ。 その黒い制服が、私の頭の上から掛けられた時、私はどうやら、意識を手放してしまったらしい。
2006.04.27
コメント(0)
「え、何?」 そう口にしたのは、ミルだった。それまで心地よさそうに音楽を聴いていた表情が、一瞬にしてこわばる。『…管区…配置完了…』 ノイズの中に、堅い声が混じる。『…号道路の…に……OK…の指令…ど…』 私は車を止めた。ラジオのヴォリュームを上げる。音楽は鳴り続けている。伸び上がれ、その手を叩け、と歌が鳴り響く。 だがそのすき間に、がりがりというノイズと共に、声が聞こえてくる。二人は顔を見合わせた。 私は旧式のラジオのチューナーを指で細かく回す。端から端まで回す。時々、耳を塞ぎたくなるような音が車内に響きわたる。お、と身を乗り出したナガサキが、声を上げた。『…解。了解。第28分局、現在目標物はどの位置なのか? 正確な視点を』『東府開門より南西に20.45キロ。現在進行を停止中。どうぞ』 私は窓の外をちら、と見た。だがそこには何も無かった。空はただひたすら青く、雲一つない。音もない。止めた車の外には、風の吹く音すらない。 少し遠くで、風もないのに、蔓状の植物が、大きな葉を揺らせている。絡み合いながら、かつては鉄道だった小高い場所を埋め尽くしている。音もないと思った外で、その動く音だけが、微かにざわざわと耳に入ってくる。私は思わず自分の腕を抱え込んだ。『関係報道機関に告ぐ。予定では30分以内に目標物は当地点に到着する。きっちりと諸君はその役目を全うするように』「…何を…言ってるんだ?」 ナガサキの声が、震えている。おい、と彼は私の肩を掴む。「おにーさん、今あたし等、どこにいるの?」 私はすぐに答えることができなかった。いや、答えはすぐに出せる。今がどの地点かは、少し前に見えた標識が答えてくれる。 十五分前に見た標識は、旧名で書かれた東府まで30キロと示していた。 私は思わず外に出た。そして大きく空をふり仰ぐ。やはり何もない。 …いや、ある。 この青い空の、ずっと、ずっと上。その昔、こんな風に車で移動することが日常茶飯事だった時代の名残。ナヴィゲーションシステム。地球の周囲を動く衛星がとらえる、対象物の正確な位置。 でざいあに侵されない領域。…それを左右できるのは。 私は思わず、口を覆う。 何なんだよ、一体。「おにーさん、入んなよ」 ミルは窓から顔を出して私に呼びかける。「どうやら、あたし等を待ってるみたいだよ。今、言ってた」「すごいねえ、オレ等、すごい有名人じゃん」 くくく、とナガサキも笑う。そしてその手がゆっくりと上がる。 手には、最初に出会った時の様に、マシンガンが握られている。彼はその銃口を、車内に戻った私の喉に突き立てる。その顔が、にやりと笑う。「おにーさん、車出してよ」 私はミルの方を見た。やはり同じ様に、手にはマシンガンが握られている。「聞こえなかったの?」 真っ赤な唇が、そう動いた。 私は言われるままに車を出した。『…目標が移動を開始。局員は配置につけ』 ノイズ混じりの声が、そう告げる。カンマ1キロごとに、その声は距離を告げていく。 開け放した窓から、風が飛び込んでくる。私はできるだけ速度を上げないようにする。すると遅いよ、と後頭部に堅いものが押しつけられる。いいのか君ら、このままで!『10.358キロ』 機械的に、抑揚のない声が告げる。私は仕方なく、速度を上げる。「…何だって、君達…」 待っているものが何だろうか知ってるというのに。「黙って」 ミルもまた、同じように私に銃を突きつける。私は黙った。黙るしかなかった。 刻々と減っていく、距離を告げる声。ひんやりとした銃口。耳にぶんぶんと飛び込む、風の音。 ひび割れたアスファルトの、前方には逃げ水。 じんわりと額から、わきの下から、首筋から、汗が流れていくのがわかる。『5.158キロ。弾倉装着』 前方に分岐点。左に抜ければ、当局の検問からはひとまず逃げられる。私はハンドルを左に切ろうとした。 だがその時、喉にぐい、と両側から銃が押しつけられる。駄目だ、と無言で二人は抗議する。「あんたは、オレ達の言う通り、行けばいいんだ」 それまでずっと友達のことを話していた時の口調とはうって変わった強さで彼はつぶやく。決して大きくもない。激しくもない。だがその声は、私に対して圧倒的なものだった。『1.458キロ』 緩やかな斜面を登りきった時だった。抑揚のない声が、そう告げた時、一気にそれは、私たちの視界に飛び込んできた。「止めろ!」 ナガサキは叫んだ。私は慌ててブレーキを踏んだ。斜面の天辺とも言える場所で、車はかろうじて止まった。「出ろ」 ナガサキはそう言うと、後部座席を開き、私を引きずり出した。その手つきは鮮やかなものだった。まるで、彼がずっと褒め称えていた、友人のように。 待って、と私は突き飛ばされた不安定な姿勢のまま、閉じた扉に取りすがった。するとナガサキは銃の先で私のあごを強く突いた。私はバランスを崩して、今度こそ尻餅をつく。ナガサキはそこへぽん、と手を翻した。きらり、と小さなものが光り、私の曲げた足の間へと飛び込む。受精卵のケース! 慌ててそれを手に取ると、にやり、とナガサキは笑った。 おにーさん動かないで、とミルはつぶやくと、窓からマシンガンを何発か、私の周囲のアスファルトに打ち込んだ。ぴし、とかけらが腕に当たる感覚。 危ない、と目を閉じた時に、ナガサキはアクセルを踏んでいた。 ごぉ…ん、と低い音が、地面から伝わって来た。なかなか立ち上がれない。衝撃のせいなのか、どこか打ち所が悪かったのか。足に力が入らない。ゆっくり。そう、ゆっくりだ。 目を開けて。 斜面の上から見た光景は。 こんなに、どこから、人が、わいて来るんだ? 私は駆けだしていた。東府開門のすぐそばには、道を挟んで、何十台、という数の東府管理当局からだろう、車が並んでいる。そして、その中に、それぞれの局員が。黒と白の制服を着て… 何だって、こんなに、遠いんだろう? もどかしく思いながら私はただ駆けていた。運動不足の身体がうとましい。呼吸が乱れる。慣れない地面を蹴りつけさせられる足は悲鳴を上げる。もつれる。転ぶ。ひざをすりむいたみたいだ。だがまた起きあがる。ざらざらしたアスファルトに、手のひらまでがすりむける。 駄目だ。 私は苦しい呼吸の合間につぶやいていた。 お願いだ、彼らを、殺さないでくれ! ――――――――――――――――――― …私は、足の力が抜けるのを感じた。
2006.04.26
コメント(0)
目の前に、古い青い標識が見えてきた。白い文字で、そこには東府の旧名が書かれている。意味的には同じだ。東の都。かつては最大の人口と、流通と、文化を誇っていた都市。 今でも、物資は自然とこの地に集まってくる。だがそこには、人は集まらない。そこに住んでいるのは、そこから飛び立つことができる人々だけである。 すなわち、特権階級。 旧財団であったり、代々の政治家だったり、地球に住むことをステイタスシンボルとして、わざと都市に広い土地を買い占めて、優雅な暮らしをしていた人々。その間に、列島の周辺都市の人口は、居住限度を越えていたこともあった。 今となっては過去だ。 人々は減っていくばかりだ。「あ」 ミルが不意に声を立てた。「ねえちょっとおにーさん、ラジオのヴォリュームを上げてよ」「ん?」 私はそれでも言われるままに、ヴォリュームを上げる。するとそれまでぶつぶつ言っているだけだと思っていたラジオから、急に明るい音楽が流れ出した。「お、なつかしーじゃん」「でしょ?」 ふんふんとミルはそれに合わせて鼻歌をうたう。確かに懐かしい曲だった。いつだったろう。もうずっと昔だ。 ミドルハイスクールの頃に、よく聞いていた曲だった。 ゆっくりとした、それでいて強いリズムを響かせながら、眠くなりそうな優しいメロディと言葉が乗っていた。 音楽は、一瞬にして、その時間を呼び起こす。その頃の空気、その頃のにおい、その頃の風景、そしてその頃の気持ち。 振り向いてもらえなくてもいい、と思っていた女の子が、私にも確かに居た。居たのだ。 後ろを振り返ることを知らず、それでいて遠い未来を見ることもできず、ただ毎日にひたすら立ち向かい、壁にぶつかり、もがいていた自分が、確かにいたのだ。「ほら、ここから先が好きだったんだ」 ミルは前の座席の背に腕を乗せ、身体を乗り出すようにして楽しそうにつぶやく。「生き急いでも、何もしないよりいい、って」 音の上には、確かにそんな言葉が乗っていた。 そうかもしれない。 どうしようもない、今のこの状況を、私も心の何処かで、何とかしたいと思っていたのかもしれない。 ただその方法が、見つからないだけだ。見つからないから、何かと自分に理由をつけて、あきらめることだけを考えようとしてきた。…やがてそれが元から自分の考えだと思いこんでしまうまでに。 だけど。 その時、不意にノイズが飛び込んできた。
2006.04.24
コメント(0)
「この馬鹿は何も大して知らないから、もう滅茶苦茶。だけど、さ」 彼女は言葉を切った。「向こう側を見てんのよ。あたしと同じように。それがあんへるを見てたんなら、今頃こいつ、死んでるわよ。でも、こいつが、あたしをべたべた触りながら、それでも見てたのは、カモンだったから」 仕方ないじゃない、と彼女は乾いた口調で言った。「あたし等は、同じなんだ、ってわかっちゃったから」「別にあの二人に話した訳じゃないのに、それから、何かあいつ等、オレ等をカップルみたいな目で見てさぁ。オレ達が見たように、あいつ等もオレ等が何してんのか、気付いたのかもしれない。そしたら、こんなことも言うんだぜ? ほら部屋取ったからさ、こっちでお前らやれよ、こっちでオレ達やるからさ、って、一つの部屋の中でだよ? オレ等、何か訳判らないままに、いつも連中を見ながらやってた」「残酷って言えば残酷よね」「気付かなかったの? あんへるとカモンは」「ぜーんぜん」 ミルは呆れたように両手を開いた。「そんなこと、考えもしなかったみたい。だってそうよね。いつも二人で、前だけ見てさ、それ以外のことなんて、何も見えてないの。最初っからそう。あんへるがカモンのこと、口に出し始めた時から、ずっとそう。あたしはずっと、それを良かったわねとか聞いてるのよ。だってそう。言わないうちは、あたし、彼女の一番の友達じゃない」「言ってしまったら、終わるって、オレも思ってた。何をどうしても、奴にとって、オレはそんな目で見られるもんじゃなくてさ。って言うか、男とレンアイだなんて、考える奴じゃなかったんだよ」 それはそうだろう、と私は思う。確かにそういう趣味を持つ人々は居るだろう、という認識はあっても、自分がいざそんな思いを寄せられていたとした場合、…私だったら、訳が分からなくなる。 そして一番の友人を自負していたとしたなら、相手がそんなことを受け入れられるタイプかどうかは、確かに判るのだろう。判ってしまうから、それ以上、どうしようもない。手詰まりだ。「…だけどさ、誤解しないでよ?」 ミルは上目づかいで私を見据えた。「だからって、あたし等がかわいそうだった、なんて考えないでよ? あたし等は、それでも、あの二人に出会えて、しあわせだったんだから」「幸せだった?」 何だろう。何となく、引っかかるものがあった。「そう、しあわせだったわよ。だって、何はともあれ、あんなに大好きになれたひとが、居たってことだけでも、あたしはしあわせだったと思うわよ」「それに、奴がいなかったら、オレはこんな風に、外に出るなんて、考えなかったし」「…そうなのか?」 ナガサキはうなづく。だがその姿からはやっぱり考えにくい。「オレは二番都市で、泣かされてた方のガキだったのよ? 奴が来るまでは。奴がいたから、オレは泣かされないようになろうって思えた。少しでも、強くなって、奴に置いていかれないようにしたかった。…そりゃ今でも、血ぃ見るのはキライだけどさ、それでも、今だったら、泣かされる前に、泣かしてやる」 …その割には私の前ではよく泣いた様な気がするが。「だからさ、おにーさん、あたし等のことは、心配しないでいいよ」「心配なんか」 顔をしかめて見せると、ミルは苦笑した。
2006.04.23
コメント(0)
起きてちょうだいよ、と女の声で目を覚ました。ねおんかと思って、ついその手を引っ張ったら、思い切りはたかれた。「あ…ごめん、ミル」「何寝ぼけてんの、おにーさん!」 いーっ、と彼女は歯をむき出しにして怒った顔を見せる。まるで別人だ、と私は思う。月の光の下で、私に笑いかけた、あの顔とは。 同じように、ちゃんと唇は赤いというのに。「今日中には、東府に着くんじゃないかな」 彼らの取ってきたパンとソーセージ、それに林檎を口にしながら、私は告げた。「今日? じゃあまだ大丈夫なんだな?」「ああ。ちゃんと期限には間に合う。その様に私も動いていたんだから」「よかった。よかったよな」「うん。よかったよね」 二人は顔を見合わせて笑った。どこをどう見ても、昨夜のあの雰囲気は見あたらない。当人達がそもそも言った様に、恋人という空気はそこには無かった。 だがあれは目の錯覚ではない。ない…と思う。 しかし食事の時にする話題ではないと思ったので、私はそこでは切り出さなかった。 二人はこの日も食欲は旺盛だった。手に入れた食物を、次々に開けていく。ドリンクを飲み干し、パンを口にし、ソーセージにかぶりつき、林檎をかじる。その食べっぷりがあまりにも豪快なので、私は何となく目が離せなくなってしまった。「何見てんだよ」 案の定、ナガサキはやや不機嫌そうな顔になる。「…いや、元気だなあ、と思って」「元気だよ、オレ達は」 しゃり、と林檎をかみ砕く音がする。残りを口にどんどん詰め込み、頬を膨らませて何度もあごを上下させる。どうやらそれで彼らの食事は終わりのようだ。 ようやく飲み込むと、ナガサキはミルに向かって言った。「元気でなくちゃならないもんな」「そうよね」 ミルもまた、そうつぶやく。「でも君ら、東府で受け入れてくれる受精卵は一組一つだけど…それでも、やっぱりその、あんへるとカモンのものを届けたいのかい?」 今更のように、私は訊ねる。ミルは首をかたむけ、何を判らないことを、というように私を見た。「だからおにーさん、前から言ってるでしょ? あたし等のは、ついでなんだってば」「じゃどうして、その友達の方を何とかしたいんだ?」「だって」「ねえ」 二人は顔を見合わせ、うなづく。「好きだったんだもの」「そうだよな」「好きって」「だから、好きは好き」 彼女はきっぱりと言う。「あたしが男だったら、彼女を誰にも渡さなかったわ。誰からも守って、うんそうよね、彼女連れて、何とかして、この星の外へ出てやったわ」「オレだって、奴好みのイイ女だったなら、誰が何と言おうと、絶対に、モノにして、こっち向かせて、べたべたにくっついててやったよ」 ねえ、と再び二人はうなづきあう。ちょっと待て、と私は手を挙げた。「そういう意味で、好きだったのか?」 うん、と二人はあどけない調子でうなづいた。いや無論、そういうことが私の回りに全くない訳ではなかった。だがそれは、こんなにあっけらかんと当然の様に告げられることではなかったから。「…でも君ら、昨夜…」 思わず、私はそう切り出してしまっていた。「やーっぱり、見てたんだ」 くっくっ、とミルは人差し指を曲げて唇につける。その笑いは、確かに昨夜見たものとよく似ていた。指の白さが、唇の赤を引き立てる。「出刃亀だね、おにーさん」「私は…」 あんなところで、そんなことをしているなんて、思いもしなかった。だがそう言ったところで弁解に過ぎないだろう。「いいよ別に。すぐにあん時おにーさん、あそこからどっか行っちゃったじゃない」 それはそうだ。あれは見るものじゃない。「君らは、恋人同士じゃない、って言ったけど」「違うよ」 ナガサキは首を横に振る。「そんなんじゃない」「じゃあ何で、…してたんだ?」「やりたかったから」 あっさりと、ナガサキは言った。そして親指を立ててミルに向け、こいつも同じ、と付け足した。「昔っからそうだよ。そーだったよね」「ああ。俺達六人のうち、あの二人はカップルだったけど、あとは誰もそうじゃなくて。だけどそーすると、奴ら、どーしてもいつも、二人きりになろうなろうとするじゃん」 それはそうだろう。「それはそれでいーんだよ。奴ら、それでシアワセだったんだから。オレもそれは良かったけど…オレも、見ちゃったんだよ、おにーさん、あんたのように」「私のように?」「カモンがあんへるを抱いてるトコ。やっぱりさ、海じゃなかったけど、あーんな、コンクリの橋げたのトコで。月がキレイな夜でさ」 ナガサキはうつむいた。「彼女が、あんへるが、長い巻き毛をだらんと降ろして、首をかくんと後ろに倒して、すげえキレイな顔で、あえいでる顔が、残ってさ。ホント、すげえキレイだったの。髪なんか、月の光に透けてさ」「それで、…ミルと?」「や、それでソコでおっ立っちまったのはホント。だけどおにーさん、あんた、何か違ったコト考えてるかもしれないから、言っとくよ。オレは、そん時の、あんへるにそーなったんじゃないって」「そん時、ちょうどあたしは、ぼんやりと突っ立ってたこいつを見つけたのよ。馬鹿みたいにぼけーっとしてるから、何かしらと思ったら、あたしはあたしで、息が止まりそうになった」 ミルは目を伏せた。「あたしだって、判ってるわよ。判ってたわ。だけど、判ってることと、目の前でそれが繰り広げられるのって違うじゃない。信じたくなかったんだね、やっぱり。で、何か足がすくんでしまってた時に、急にこいつが抱きついてきて」「止めなかったの?」「しょーがないじゃない。あたしも何か、そーいうものがあったんだから」「そういうもの?」「オレさぁ、あんへるのその顔見た時に、自分の中で、すげーむかついたの。そん時。だってさ、彼女がすげえイイ顔してる時、その正面で、カモンも、何かすごい顔してるんだよ? オレなんか見たこともない、イイ顔。胸がどきどきした。なのに何でこの女は、そんな顔を見ることもなく、自分のキモチよさに浸ってんだよこの馬鹿とか思ってさ…そしたら何か、いつの間にかこいつが近くにいて、何か、急に、したくなって」「それで…良かったの?」「いい訳ないでしょおにーさん。それじゃーゴーカンよゴーカン。普通ならね。でもあたしもその時普通じゃなかったから」 仕方ないわね、と言うように彼女は肩をすくめた。
2006.04.22
コメント(0)
目を覚ました時は、それでもまだ朝ではなかった。ただ、開いた扉から入り込む風と、潮の香りが首筋をよぎったのだ。月の光が、まぶしかったのだ。 空はまだ暗かった。腕時計を見ると、まだ二時だった。晴れた夜空には、半分の月と、満点の星。降り注ぐような、というのはこういうことを言うのだろうか。きらきらと輝く星々は、目をこらすと、どんどんその数を増やしていき、空いっぱいを埋めていることに気付く。 このどこかに、星間歴を成立させた、遠い場所もあるのだ。ここは取り残され、どこかの宗教で決められた暦を未だに守り続けている。 あの向こう側に行けたら。 そう思ったことが無い訳ではない。いや、今でも心の片隅では思っているのだ。確実に。 ただそれがどうしても無理なことが判っているから、せめてもの思いで、遺伝子だけでも残そうと、こうやって走っているのだが。 遺伝子だけで、満足なのか? 私は首を横に振る。そんな訳がない。そんなものは、言い訳にすぎない。 できることなら、この惑星を飛び出して、妻と二人、生きていきたいのだ。こんな、どんなものが生まれ出てくるか判らない「遺伝子」に頼るより。 そんなことを思いながら、私はふらふらと砂浜に足を伸ばした。 二人はどこへ行ったのだろう。いつの間にか、私は彼らを置いて行こうという気が失せていることに気付いた。目が探していた。砂浜を、テトラポッドを…「あ」 ふと、そんな声が自分の中から漏れた。通ってきた、上の道路の橋桁が、そこには大きく、柱の様に砂浜に突き刺さっていた。 その陰で、人の動く気配がした。「ナ…」 ガサキ、と呼ぼうとして、私は言葉を止めた。 コンクリートの、橋桁に背をつけて、彼は座っている。月の明かりが、まだ少年ぽさを残した彼の顔を照らし出す。その顔が、時々苦しそうにゆがむ。腕が、何かを… 彼女の身体を、かき抱いている。 砂浜に腰を下ろした彼の上に、彼女は大きく足を広げて、乗りかかっている。何をしているのかはすぐに判った。 むき出しになった腕が、足が、相手の身体に巻き付いている。月明かりに、それはただ白い。彼女が昼間は隠すように袖の下にしていた火傷のあとも、月明かりには、かき消えてただ白い。その腕が相手の首に回る。その身体を、彼は腰のあたりで抱え込むと、時にはゆっくり、時には激しく、上下に左右に揺さぶっている。 そのたびに、押し殺す様な、それでいて漏れずにはいられないような、ミルの声が聞こえてくるのだ。 その唇が、時々何かの形に動く。大きく開いて、閉じて、また開いて。 名前を呼んで。 妻はそんな時、そんなことを言った。 ナガサキの口も、何かの形に動く。名前を呼んでいるのだろうか。私は苦しそうに目を閉じる彼の唇を追った。 彼は大きく口を開けた。 何度も、何度も、その言葉を繰り返した。 でも彼女の名前に、そんな発音は、ない。「…カモン…」 ナガサキは、そう叫んでいた。 どういうことだ、と私は思った。 気がついた時、刺す様な視線が、自分に注がれていることに私は気付いた。胸で、相手の顔を覆うようにして、ミルは私の方を向いていた。服に隠れた胸は、その姿を月の光にさらすことはしなかったけれど、その隠れれた部分の上を男の唇が、舌が動き回っていることは、想像ができた。 彼女は時々目を軽く細めながら、改めて私がいるのに気付いたというように、にっこりと笑った。 消えて、とその唇が動く。 あんへると名前を呼んでいたその真っ赤な唇が。
2006.04.20
コメント(0)
その夜は、海辺で休もう、とミルが言った。私は車が止められるところならどこでも良かったので、彼女の言う通りにした。実際、私も海は初めてだったので、その近くまで寄ってみたい、という気持ちも多かったのだ。 ずっと走ってきた道路は結構な高さがあったから、下へ降りる道を苦労して探し、ようやく砂浜までたどりついた時には既に陽が暮れていた。 夜走るのは好きではなかった。延々続く闇を、ライトの灯りだけでまっすぐ走ると、次第に自分がその闇の中に引き込まれて行きそうな気がする。 闇は、そのまま、自分達の未来を思わせる。行き止まりの世界。外へ逃げることもかなわず、閉じこめられたまま、いつか必ず死んでいく。 引き込まれていく。闇の中へ。自分の力ではどうにもならない、暗い、深い闇の中へ。 それが今まで人間が地球に対してしてきたことの代償というなら、それはそれで構わないと思う自分もいる。だがその一方、ただそれを怖い怖いと思い、逃げ出したい自分もいるのだ。 ラジオの音が、微かに聞こえる。だが今は、波の音の方が大きい。ただ延々と、同じくらいの高さの音が私の耳には鳴り響いている。 くりかえし、くりかえし。…眠くなりそうなほどに。 私はいつの間にか、眠ってしまったらしい。
2006.04.19
コメント(0)
それからしばらくは二人も言葉少なになって、私は黙って車を進めて行った。 相変わらず道には行き交う車の一つも無い。私達は延々続く道を、ひたすら走っていくだけだった。 昼を過ぎ、夕刻近くなった頃に、東府の隣の地区境へとたどりついた。 トンネルを過ぎたら、右側に大きく海が広がっていた。「すっげー!」 それまで黙っていたナガサキが急に大声を立てたので、私は思わずブレーキを踏みそうになった。「ほら見てみいお前、これが海だぞ海っ!!」「すごーい! 水平線が見える!」 ミルまで一緒になって、後部座席が右側に傾きそうな勢いで、窓を開け、外の景色に目を奪われている。…いや実際私もかなり感動しているのだ。トンネルを出た瞬間の、あのいきなり広がった視界には。 まぶしかった。ぬける様な青空が、過ぎてきた西側に向かって、だんだん赤の色を増してゆく。その境目の、曖昧なパープルが。ナガサキが騒ぎ出すまで、私は口を半開きにしていたことに気付かなかった。「いいよなあ…こっち側って。オレ達の育ったとこって、こうゆうの無かったじゃん」「君らは海沿いの都市じゃなかったのか?」「あたしは一応海みたいなものはあったけど、海じゃなかったな」「オレは都市の片隅生まれだからさ、都市から出たことなかったし。カモンに出会うまで」 「海に似てるけど、海じゃないから、よくあんへるは本当に海が見たいって言ってたんだ」「ああそうそう、そうゆうとこに、アイツ、いかれちまったんだよなー」 そうだったそうだった、とナガサキはうなづく。「…君らが、林檎団を結成したのは、いつ?」 聞いてないの、とミルは問い返す。一応聞いたことはある。だが何となく私の中に、私の聞いてきた情報への信頼が亡くなりつつあったのは事実だ。「君らに聞くのが一番確実だろう?」「そらそーよね」 ミルはうなづいた。「最初はね、あたし等でもなければ、カモンやあんへるでもなかったのよ」「違うのか?」「林檎団ってのは、あたし等が出会った五十一番都市の中に、わりあい昔からあった『団』なの。下は十五くらいから、上は二十三くらいまでの下町育ちの連中が、徒党を組んでるだけの」「ただそれがさ、奴が来て、リーダーの座を奪った時から、何か変わったんだよ」「…ってことは、ナガサキ、君は五十一番都市の生まれじゃなかった?」「オレは二番都市の生まれだよ。でも何となく、居心地が悪かったんだ。だからもっと生きやすいトコへ行こう、っていう奴の手を必死で掴んでさ。そう必死だったよ? 奴はオレにこと絶対に甘やかさなかったから」「それは正しいわよ。あんたなんか甘やかしてどーすんのよ」「るさいなー」「ミルは?」「あたしは五十一番都市の生まれだったわ。うん、こいつ等が来る前から、林檎団には居たの。あんへるはその頃、元々の林檎団の男から目をつけらけてたんだけどね。でもあたしが居たから、あの娘に手を出そうってのはいなかったな。もっともさ、本当に手を出した奴もいたけど」「カモンはちゃんといい仲になったじゃんか」「じゃなくて、別の奴! 無理矢理襲おうとした奴がいたの!」「えーっ、それオレ初耳」「ったり前じゃない。あたし言ったことないもん」 頼むからもっと声のヴォリュームを下げてくれ… 一応ラジオもぼそぼそとつぶやき続けているが、その声がさっぱり聞こえてこない。 と言うか、この車は何処か壊れているのか、ラジオはずっとつきっぱなしなのである。ただ、音量をずっと絞ってあるので、気にならないだけだ。「でもそん時も彼女は彼女だったわ。あの可愛い顔で、冷静に男の股間を蹴りつけてたもん。すぐさま逃げて、あたしのとこにやってきて、それであたしが上のひとに言って、治まったけど。でもすぐにけろりとしてたな。むしろあたしの方がショックだった」「その度胸の良さに、カモンは惚れたとか言ってたな。…だからそこからなんだってば。おにーさん、あんた等が知ってる林檎団は。五十一番都市で、そんなガキばかりの集団でも中からこわれてきてさー、殺すまで行かないでも、ずいぶんとケガ人出して、結局オレ等、六人で車や単車を調達して、都市を出ちまったんだ」 そこから、「あの」林檎団の歴史が始まる訳か、と私は納得した。「でもきっかけは、あんへるが当時のリーダーに奪われそうになってたからだよね」「そうそう」 ナガサキは不服そうにうなづいた。「五十一番都市に立ち止まったのも、あんへるを見てしまったからなんだよ。都市の近くで。だから都市にこっそり入り込んで、…奴は見つけてしまったんだ。オレには止められなかった」「そんなの、あたしにだって止められなかったよ」 ひどく苦しそうに、ミルは言った。「最初から、判っちゃったもん。やだよね、一目惚れって、ホントにあるんだよ? おにーさん判る?」「…いや」「奥さんいるんだろ? そうゆうこと、無かったのかよ?」 そうは言われても。妻とはそんな、激しい恋をしたという訳ではなかった。 ねおんは職場で出会った、大人しい女性だった。名前の華やかさとは裏腹に、大人しく、人が勧めるものを素直に受け入れるタイプだった。 つまりは、私に関しても、彼女の友人からの勧めだったわけだ。彼女の同僚と、私の同僚が、つき合っていた。その関係で私達も何かと顔を合わせる様になり、気に掛かっていたところを、お互いの友人が引き合わせた。格別の美人というわけでもなく、話の内容が格別面白いという訳でもない。ただ、一緒に居ると、奇妙なほどにくつろげた。 それでいて、仕事などで頼み事をするのがとても上手い。それも頭で考えてそうするのではなく、育ちがそうさせるのだろう、というように。頼んだ方はちゃんと相手がやりやすい様に段取りをつけておくし、きちんとお礼を忘れない。 そんな、もの柔らかなしたたかさの様なものに、私はいつの間にか惹かれていた。 でもそれは、一目惚れではない。時間を掛けなくては判らない部分もあるし、おそらく私が惹かれるのは、そういう部分なのだ。「そういうことは、なかったな」 私は正直に答える。この二人は、とにかく嘘はついていない。そんな気がする。言葉や動作が乱暴でも、嘘だけはついていないと。「ふうん。でも、奥さんをアイしているんでしょ?」 ああ、と私はうなづいた。
2006.04.18
コメント(0)
私は車を止めた。急に真剣な顔になった私を、二人は不思議そうに見る。「何あんた、知らなかったの?」とナガサキは思いっきり眉を寄せた。「ラジオだけじゃないよ。いつだったかなあ」とミルは天井を向く。しばらく考えていたと思うと、ぽん、と手を叩いた。「うんそうそう、あの二人が殺されてからちょっと後だよ。何かもう、二人してわんわん泣いてたんだけど、それでもお腹は空くからさ、不思議だよね、あたし等その時、まだ二人が捕まった二十三番都市に居たんだ。あたしは腕が痛いし、こいつもところどころにかすり傷があったから、すぐに車や単車奪って都市を逃げようっての、無理だったの。一応あたし等のことも、追ってるの知ってるからさ、あちこちの目立たないとこに隠れたり、反対に人混みに紛れたりしてさ、少しづつ都市の出口の近くへ行ったんだよね。でお腹空いたから、結構人がざわざわさしてるごはん屋に入ったの」「ホント、すげえ混んだとこでさ、安かったから、皆、どんどん職とか無くなってくしさ、ほら、新しいことなんかできないじゃん。金ねーからみんな、そうゆう店に来るんだよ。オレ達が誰か、なんて気付くヒマもなく、カウンターではどんどん定食よそってく、そうゆうとこでさ」「で、そうゆうとこって、必ずっていい程、テレビがあるんだよね」 そうだよな、とナガサキはうなづく。予想はつく。だいたいそういうところで流すのは、東府の電波だ。エネルギーが少ないから、発信する局も少ない。一方的なニュースが流れ、それを疑うだめの比較もできない。 だけどそれに関して疑問を持つ程、私達の都市に住む人間は元気ではなかった。 同じ様な食堂を知っている。都市の中でも、わりと端にあって、屋根が高くて、鉄骨の梁がむき出しになっている様なところもある。 倉庫だったような所が、今ではそんな顔をしているらしい。その倉庫の端で、大鍋でスープを煮込み、飯を炊く。白い調理服を着た腕の太い女達が、すすけた盆を手に並ぶ人々に一様にスープと飯をつけていく。まるで戦場だ、とその様子を見に来た私の友人は、そう言った。 私もそう思った。もっとも本当の戦場なんて、知らない。昔はよく家庭でも見られたらしい映画にしたところで、今は電力の割り当てがあるから、見ることはできない。 だから、そんな食堂にはわりあい大きな画面のテレビが置いてあり、それはこの食堂にやってくる者達のつかの間の気晴らしになる。気休めではない。気晴らしだ。 食事時でも、連続強盗犯人が捕まって射殺された、というニュースは飛ぶのだ。そこに真っ赤な血が飛んでようが。「ちょうど麺をすすっている時だったわ」とミルは言った。「こいつの方がでかい肉のかたまりが入ってたので、取ってやろうかと狙ってた時だったから覚えてる」「お前そんなこと考えてたのかよ」「目の前にある肉がいつまでも食われなかったらそう思うのはとーぜんじゃない!」「オレは好きなものは最後に残しておくんだよっ!」 何に対して怒っているのか判らなくなって、私は思わずため息をついた。それに気付いたのか、ミルは少し顔を赤らめると、わざとらしい咳払いを一つした。「とにかく! そんな時だったけど、ニュースは耳に入ってきたのね」「見ちゃいけない、と思ったよ。顔上げるな、って。だからとにかくそこでは麺をすすってしまうことにオレ達は全力をそそいだんだっ」 ナガサキはこぶしを握って力説する。ずるずると音まで聞こえてきそうだ。「だけど耳に入ってくるじゃねーの。『指名手配中のアプフェル・パーティのメンバーを発見』ってさ」「ちょうど並んであたし等食ってたのよ。でもう、お互い聞こえてるんだけど、もう必死。…でも聞こえて来るわけよ。そこであたしびっくりしたわよ。あたし達は、林檎団は、あちこちの銀行だけでなく、レストランや劇場まで襲って人殺して宝石とか取って逃げた悪党なんだって」 …確かに、私はそう聞いていた。「でもそんなこと、してない。確かに銀行は襲ったよ。人も殺したよ。警官が発砲したら撃ち返したよ。あんへるとカモンはでも、銀行以外で人殺してまで襲おうなんて言わなかったもの」「それ以外のとこじゃ、そんな風に襲ってもしゃあないって。てっとり早く金を奪って後は逃げろって。それが奴だったんだ。オレはそういう奴がすげえ好きだったよ」「あたしだってそうよ! だからあんへるのドレス選ぶ時も、ひたすらあたしも脅し役に回ったわよ。あたしをそこでつけるあたり、殺す気なんかなかったってことじゃない? ただドレスが欲しかっただけで、金出して買っても良かったのに、何かうさんくさそーな顔するから、カモンの奴、怒ったんだ。それであたしとこいつに、店員縛り上げて脅しつけてろ、って言ったんだもの」「撃てない…んだよね、君ら」「カッコいいんだけど、オレ、血ぃ見るのやだから」 ナガサキは言った。「だからカモンはオレにはできるだけそんな役ばかりやらせた。しんどいならついて来なくてもいい、って言った。だけどオレがついて行きたかったんだ。奴に」 しょーもないよね、とミルはそう付け足した。
2006.04.17
コメント(0)
「…恋人同士でもないのに、いいのか?」と私は前を向いたまま、ナガサキに問いかける。「イイんだよ。ついでだったんだし」「ついで?」「あたし等のなんて、どーでもいいのよ。あたし達が送りたいのは、も一つのほうなんだもん」 そう言ってミルは、ベルトポーチの中から、私が持ってきたのと似たようなケースを出した。弾薬かと思ったら、どうもそうではないらしい。「そ」 ナガサキもうなづいた。「別にさあ、オレ等、自分達のなんてどーでもいいんだもんな。問題はこっち」「こっちって」 私は思わず問い返していた。自分達のでもないものの方が大切だというのか?「あんへるとカモンのよ」 その名前は聞いたことがあった。「確かそれは…」「あ、モリヤのおにーさん、知ってるんだあ」 そしてミルは大事そうにそれを元通りにベルトポーチにしまう。「確か、君らの、亡くなった…」「ばかなヤツ等」 吐き捨てる様にナガサキは言った。「ホント、ばっかじゃねーの。ワナだって判ってるのに、ヒシバやウタシナイを助けようとか言って、管理局の包囲線に引っかかりやがって」「そう馬鹿馬鹿言わないでよ!」「ばかだからばかだって言ってるんだよっ!」 そう言うと、いきなりナガサキは膝を抱え込んで顔を伏せた。するとミルはその彼の頭を後ろからはたく。いてーな、と顔を上げた彼の目には涙が浮かんでいた。「んなこと言ったとこで、あの二人が戻ってくる訳じゃないよ!」「何言ってんだよそーやっていつも言うクセにお前何よその目」「何よ」 あ、と私はミラーの中身に、思わず声を立てそうになった。相棒をののしっていたはずのミルの目にもいつの間にか涙が浮かぶ。「…ったく…」 ぽろぽろ、と涙が彼女の頬を転がり落ちる。どっちがどっちということもなく、彼らはその直後、抱きしめ合って大声を立てて泣いていた。 しかし立ち直りも早かった。三分もすれば、二人は泣きやんで、赤くなった自分自身の頬をぺしぺしと叩くと、私に対してちゃんと進むようにと言い出した。 やがて小さな町が見えてきた。都市と違って、入り口に壁がある訳ではないのは新鮮だった。屋根も無い。雨の時不便だろうな、と私は思った。 やがてそれでも家やそれ以外の建物が建ち並ぶ場所に入っていく。ナガサキはここいらがいいな、とつぶやくと、相棒の肩を掴む。ミルがうん、とうなづく顔がミラーに映った。「ほらおにーさん、ちょっと止めてよ」 ナガサキはそう指示した。私は言われるままに車を止める。その時、しゃきん、という金属の音で私は後ろを振り向いた。 ミルが、背負っていた小さなトランクの中から弾薬のカートリッジを取り出すと、マシンガンに取り付けていた。 まさか。「ちーっと、待っててくれよ」 ナガサキは後ろのドアを開ける。その手にもやはり、マシンガンが握られていた。ちょっと待て。「ちょっと待てよ、おい…」「待ってろよ」「先に行ったらこれで止めてやるからね」 窓越しに二人は銃を突きつける。最初に会った時の様に。 私ははあ、と気のない声を二人に返した。 二人は赤い屋根と板張りの壁にペンキの塗られた一軒の店へと入っていく。あれって果たして店なんだろうか。特に看板も出ていないが。何を扱っているのか、都市生まれ都市育ちの私にはいまいち想像ができない。 だがその答えはすぐに明かされた。 悲鳴が、耳に飛び込んできた。 私は思わずドアを開けた。耳に入ったマシンガンの銃声に、その身体を凍らせた。撃ったのか、連中。 だが次の瞬間、私は驚くより先に、呆れた。 がちゃん、と大きな音がして、穴だらけの扉が倒れた。 そして、その中から、扉を蹴り倒してナガサキが飛び出してきた。…なるほど、蹴り倒さなくてはならなかったはずだ。 両手には、これでもかとばかりに、食料が抱え込まれている。パンを抱え、つながったソーセージを首に掛け、かんづめを両手に抱え込み…林檎がいくつか、今にも転がりだしそうだった。 それはその後に飛び出してきたミルも同様で、彼女の両腕には、数本のドリンクのボトルが抱え込まれていた。 二人ともマシンガンには吊りひもがつけられており、そのせいで両手が空いているのだ。「後ろ開けろーっ!」 ナガサキは強烈な声で叫んだ。私は思わずその声につられて、後ろのドアを大きく開けた。彼は先に飛び込み、その後に彼女が飛び込んだ。「早く出せ早く!」 むん、という熱気が私の首筋に感じられる。二人も汗をかいている。私は慌ててアクセルを踏んだ。エンジンは切っていなかった。「待てこの野郎!」 背後から、年輩の男の声が追いかけてくる。「いっぱいにスピード上げろよぉ!」「これで精一杯なんだよ!」 私はちら、と追いかけてくる男の姿を見る。別にどこかケガをしている様子もない。少しばかりほっとする。 町の「入り口」を出ると二人は大きく息をついた。「こんだけありゃ、東府まで保つだろ!」 ナガサキは座席にふんぞりかえりながら、満足そうにそう言った。「…ちょっと聞いていいか?」「はん?」「君達、また誰か、…殺したのか?」「んなことするかよ」「だってさっき銃が…」「しないったらしないのよ!」 ミルはとってきたばかりのドリンクのふたをぐいぐいと回しながら叫んだ。「だって、ニュースでは君等がもうずいぶんと、たくさんの人々を銀行荒らしの間に殺したって言ってるけど」「そりゃあまあ、そういうこともあったかもしれないけどさ、それはあたし等じゃないわよ! そんな上手いこと、あたし等はできなかったってば」「う、上手いこと?」 私は思わず身構える。「あんへるはすごかったなあ…」 ふう、と彼女はため息をつく。「彼女はすごかったのよ? ねえおにーさん。彼女の顔知ってる? 天使の様に可愛いの。だからあんへる。天使。あたし達はそう呼んでたわ。だけど、中身はすごいザンコクなの。すごいのよ」「カモンもすごかったんだぜえ?」 うっとりとして話す彼女の言葉をナガサキはさえぎった。「あいつがマシンガン持って、あの黒づくめのカッコで、サングラスかけて銀行の窓口でがん、と足かけて撃ちまくったの見た時、オレ、ホントに惚れ惚れしたよなあ…」「それを言うだったら、あんへるだってそうよ! 覚えてる? ほら、カモンが三十一番都市を襲った時に、彼女にアンティークな黒白の膝丈より少し短いワンピを奪って着させたじゃない。あれでいて、あの柔らかそうな巻き毛で、大きな目で、綺麗な顔で、笑いながら狙いも確かに撃ちまくるのよ?」「でかくて黒いバイクを調達した時は、カモンはあんへるを後ろに乗せて、走り回ったよなあ」「それで火炎ビンとか作ってさ、投げ込む時の表情ときたら!」 ねえ、と二人はうなづき合う。「なのにさ、仲間にはすごく義理堅い二人だからさ、あんな馬鹿なワナに引っかかっちゃうのよ!」 だん! とミルはバスケットの上にドリンクのびんを置いた。「嫌な予感がしたのよ。行くんじゃない行くんじゃないって止めたのよね」「そーだよ。オレだって、絶対変な予感がする、よせよって、カモンに言ったんだ。だけど奴は、それでも仲間だからって」 …そう言っては、また今にも泣き出しそうな勢いが、二人の間には漂っていた。「二人ともその二人が好きだったんだなあ」 思わず私はつぶやく。そこまで悲しがられれば本望だと思うが。だがミルは顔を上げて叫んだ。「違うわよ!」 え、と私は思わずのけぞる。「あたしが悲しいのは、あんへるの為だけよ! 誰がカモンのためなんかに」「オレだってそーだよ! 何だってそんな女のためにいちいち悲しがらなきゃならねーんだよ」「あれ? じゃあ君らって」「あたしはあくまで彼女の友達だったの! こいつだってそうよ。カモンの腰巾着だったんだから」「腰巾着たぁ何だよ!」「だってそーじゃない! いっつもさ、べったりくっついてて」「お前だってそーだろが! まあお前っー怖い女が居たせいで、あの女、別に悪い虫もつかねーで、カモンみたいないい男に出会えてシアワセってトコだろーさ」「天使と出会えてしあわせだったのは奴じゃない! あの子にだったらどんな綺麗な服も着せてあげたいと思えたもの」 はあ、と私はため息をついた。つまりはあの一枚板の様に報道されていた林檎団も、そういう集団だったのか。私はふと、がっかりする自分に気付いておかしくなった。「でもさ、ちゃんと待っててくれたんだね、おにーさん」 ミルは身体を乗り出して、私に話しかけた。手には再びドリンクのびんを掴んでいる。呑む? と彼女は私に問いかける。少し、と私はびんを受け取った。「殺しゃしないわよ」 彼女は言った。「あたし達そんな、度胸無いのよ、ホントは」「おいミル」 ナガサキが口をはさむ。「いいじゃない。どーせこの人も、短いつきあいなんだし、愚痴くらいこぼしたって」 愚痴なのか。「だけどニュースでは、君らのことは極悪犯人のように言ってるけど」「確かに、あの二人が居た頃は、あたし達のパーティもそういうことしたわよ。でもそれはあの二人がやっていたことよ」「だよなー」 だるそうな声で、ナガサキも付け加える。「奴らはすごかった。オレもこいつも、そんな二人に惹かれてて、それぞれくっついてんのに、絶対、マシンガン持ってもさ、じっさい引き金引いてもさ、当たりゃしねーのよ」 そういえば、あの店から出てきた男には傷一つなかったようだ。「悪いかどーかなんか、オレ知らない。だってさ、始めた時はどーだったか、忘れたけど、今じゃオレら、それこそあんたの言う通り、極悪犯じゃん。何したって言うのよ。せいぜい今のように、食べ物屋襲ってしこたま逃げ回るだけなんだぜ?」 見なよ、と不意にナガサキは彼女の手を掴んで腕の内側を見せる。「これさ、ワナ仕掛けられた時に、焼かれたんだぜ?」 引きつった様なあと。火傷のあとだったのか。「見つかれば、こんなことされるのかもしれんのよ? オレ達だって生き残りたいじゃん。だったら、銃があったら、撃たなくちゃ」 さも当たり前の様に、ナガサキは言う。「でもさひどいよね。あたし前、ラジオ聞いたんだ。そしたら何、あたし等がやってもない様な場所の強盗まであたし等のせいになってるじゃない!」「何だって?」 私は思わず、問い返していた。
2006.04.16
コメント(0)
おそらく現在、この列島の上では、同じ様に東府へ向かって車を走らせている者がいるに違いない。同じ様に、受精卵を持って、旧首府である東府に。総合宇宙局の分室があるのはそこだけなのだ。 でざいあに侵されていない恒星間宇宙船は、地球上でも今では数えるしかない。この列島には、たった一つだけだ。 そしてその一つに誰もが乗れるという訳ではない。「大変ねと妻は買い物の帰りに立ち寄った共同掲示板の前でそう言った。「大変?」「大変でしょう? 宇宙へ飛び出すのは」「大変…そうだね、大変だ」 ねおんは他意があって言った訳ではないだろう。買い物袋を持って、ただ二人で歩く。それは日課であり、私達の数少ない楽しみだったのだ。 資源が無くて、生産するものが少なくなっているから、仕事もたくさんは無い。私が働いているから、と妻は結婚した時に仕事を辞めさせられた。かつては同僚だったのだが、夫婦ものを両方勤めさせて置くほど、仕事は都市の中には無いのだ。 彼女には時間が増え、料理の腕も上がった。家の中はきちんと整頓され、毎日少しづつ、手作業で洗濯をすれば、結構に時間は過ぎてゆくらしい。目に見える程ではないが、減ってゆく配給される食糧で上手く栄養を考えた献立を作っていれば、退屈はしないだろう。 退屈は、時間に余裕のある者が持つ特権ではない。物資に余裕があるめ者が持つ特権なのだ。「宇宙に出たい?」 私はその時彼女にそう訊ねた。「それは出たくないと言ったら嘘になるけど」 そこまで言って、彼女は首を傾げた。「でもあなたは、出られるわけがないと思っているでしょう?」 茶色の紙袋ががさ、と音を立てた。彼女の言う通りだった。私はそんなこと、決して信じていないのだ。そこには一欠片の希望も、無い。 会社の食堂のTVで見た公式発表では、パイロットとその家族以外の乗組員のことを聞いた覚えはない。 だがそんなものは、容易に想像がつく。たとえばまだこの列島に国の名前があった頃からの、旧政府の要人を代々やってきた一族。 そんなふうに、乗り込むにはきっと資格が要るのだろう。かつての首府近くで、権力とか金とか、そんなものを当たり前の様に手にしてきたという資格が。 発表はない。だが誰だって知ってる。 そして、それをどうこうしようと思うには…私達は疲れすぎていた、とも言える。 ゆっくりと減っていく割り当ての食物、共同の掲示板に貼られた解雇の知らせ、学校にも行かず道に溜まる子供達の姿。「たまんないよな」 仕事は都市の施設の補修整備だった。だから日々都市の中を駆け回る。だからそんなつぶやきが、つい漏れてしまう。 仕方ないさ、とトクシマも言う。「そういえば、二局のイケノハタ、最近見ないけど」「ああ、奴だったら、何か外に出た、って言ってたぜ?」「外?」 私はその時、かなり顔をしかめていたに違いない。 都市の外で生きていく者も…無くはない。だがそれは少ない。 外で生きていると言ったところで、この大地を農地にして生きていくことは難しいだろう。少なくとも、それまで人々がそれなりに集まって生きていた場所には。 どこまでが意志を持たない植物で、どこからが意志を持つでざいあであるのか、見分けがつかなくなっている以上、人間達は、無闇に直に農作をすることが難しくなった。 でざいあがそこにあれば、農業機械そのものが侵される。だが全てを生身の手で行うのは難しい。できないことはないだろうが、難しいだろう。…少なくとも、私には無理だ、と思った。「…上手くやっていければいいよな」「全くだ。俺だって、何かいい場所があったら、こんなとこ飛び出したいよ」「上手いとこ?」「だから、ほら、廃村とかさ。ずっと人が居なかったようなところとか」「そんなとこ、この狭い列島にあるのかな」「狭い狭いって言ったって、今じゃ、最盛期の十分の一程度の人間しかいないんだぜ? あの気色悪い連中が入る前に、村ごと宇宙に出ました…ってとことかさ…無いよな」「どうかな」 私は苦笑する。そんな都合のいい話があれば、既に誰かが飛びついている様な気がするのだ。 それでも、無いかなあ、とのんきに友人はつぶやいている。 それを見ながら、私の中ではあきらめろ、と声がする。 あきらめろ。もう何をしても無駄なんだ。 だけど。 そんなある日、政府は、列島全土に告知を出した。 私達はやはり、昼食を取りながら、そのニュースを見ていた。今では一つしかない放送局の、それでも毎日入れ替わり立ち替わりするアナウンサーの一人が、実に上機嫌な口調でこう言った。「列島市民の皆さんに朗報です」 視線が皆思わず画面に引き寄せられた。「列島唯一の恒星間宇宙船『うつそら』における規制が緩和されました。残念ながら、やはり、市民の皆さんを乗せる訳にはまいりまぜんが、何と、皆さんの子孫を乗せることはできるのです!」 はあ? と私達は思わずハシを持った手を止めた。「今すぐ、最寄りの病院で、皆さんの愛するパートナーとの間で、卵子と精子の体外受精を行ってください。そしてそれを冷凍し、*月*日までに、東府の中央管理局まで直接提出が条件です」 はあ、と思わず私はうなづいていた。「カップル一組につき、受精卵は一つです。さあ、すぐにでも!」 さあ、と言われても。私はハシを口にくわえたまま、動きが止まってしまった。 しかし私は、その中央管理局の提案に、はいそうですか、とすぐに乗り気にはなれなかった。生き残りたいと思うのは、自分であって、子孫に望みを託してどうするというのか。 いや、それより、そもそもそんなやり方で、子孫に望みを託せるとでも言うのだろうか。 私はそのニュースに驚き、興味は持ちはしたが、それ以上の関心は持てなかった。あと数年で全てに終わりが来るなら、まあそれはそれで仕方がないのではないか、と思っていた。思うしかないのだ。 都市の機能が我々の手から離れた時、それは起こるのだろう。それがどんな方法であれ、どうしようもないことに焦るのは嫌だった。 怒る気力も無かった。 だが告知から一ヶ月程経った時、ねおんは言い出した。「ねえ、私達の子供も送り出しましょうよ」 私は驚いた。彼女がそう言い出すとは思ってもみなかったのだ。 私達の間には子供は無かった。結婚してから五年は経つが、それなりに私は仲が良かったというのに、彼女に子供ができる兆しはなかった。 だが彼女が子供を強く求める様なことはなかったので、さほどそれを私も深くは考えていなかった。 もっとも彼女だけではないのだ。生まれてくる子供の数もどんどん減っているらしい。「君は子供がそんなに欲しかったのかい?」 私はその時読んでいた新聞を閉じ、彼女に訊ねた。彼女は首を横に振った。「そういう訳ではないけど」 彼女はそれ以上は答えなかった。彼女自身も、そう考える気持ちに上手い理由を付けられなかったのかもしれない。私も強いて訊ねるようなことはしなかった。 だが彼女のその一言で、私が東府行きを決めたのは確かだ。 そして一ヶ月で、運転を少し習った。車はトクシマから借りた。彼は家庭を持たない。その分を古い車に回している、といった感じの男だったので、二台持っているうちの一台を借り受けることができた。 燃料代がなかなかの負担だったが、我々には既に蓄えておくだけの意味は無い。ここで潔く使ってしまうのも、一つの方法かな、と思わなくはなかった。 道行きの方法が整ったところで、私達は一緒に病院に行き、処置をした。病院には同じ様に処置を頼む夫婦が結構いた。夫婦でない者もいた。 ある若い恋人同士は、どう見てもまだシニア・ハイの生徒だった。できることなら、自分たちがその船に乗って生き残りたいだろうに、と私は小さくため息をついた。 無論私も生き残りはしたい。だがその方法が、この地上にいる限り、どうにも手詰まりなのだ。 互いに目線を合わせることなく、ただじっと、待合いの椅子に座った少年少女は、肩を抱き、抱かれ、その時をじっと待っているかの様に見えた。
2006.04.15
コメント(0)
だがしかし、もともと一人分の食料を三人で食べれば、すぐに尽きるのは当然だ。 命を弁当の一つや二つで救えるなら安いものではあるのだが、それでも妻の一生懸命の手作りを横取りされるのは決して喜ばしいものではない。 彼らが乗り込んだ翌日の昼には、バスケットの中は空っぽになってしまった。 もう何も無いの? と大まじめに訊ねる二人に、私はさすがに呆れた。「仕方ねえなあ」 ナガサキはするとそうつぶやき、地図くれねえ? と私に訊ねた。助手席に置いてある地図を渡すと、後部座席でがさがさと彼はそれを開く。目を細めながらナガサキはしばらくそれを眺めていたが、やがて口の端をぽりぽりと引っ掻きながら言った。「あ~…あんたさあ、次の大きな交差点で、左にちっと曲がってくんね?」「へ?」「すげえちょうどいい。『都市』じゃない街があるぜ」「あ、いいねえ」 買い物でもしていけ、ということなのだろうか? 燃料にも限りはあるので、あまり寄り道はして行きたくはない。だが下手に逆らうと後が怖そうだったので、私は言われる通りに次の大きな交差点で左に曲がった。基本的に私は事なかれ主義なのだ。「ところでさあ、あんたのこのタマゴ、奥さんとの?」 胸ポケットに入れた私の小さなケースを取り出すと、ナガサキは軽くそれを振る。「当たり前だろう」 運転中に話しかけるな、という私の言い分を、この男は結局ことごとく無視してくれる。仕方がないので私は少しだけスピードを落として、できる限りは彼らの言葉に答えていた。まあさすがに、運転に慣れてきたから、というのもある。「あたり前ってこたぁないでしょ。別に誰との間でも、生きてるタマゴはできるワケだし。オレ達なんて別に恋人じゃねーしー。なー」「ねえ」「私は、そうなんだ。あいにく」 思わず語調が強くなる。ミラーに映るナガサキの目が丸くなった。「そう怒るなよ」「怒ってはいない」 そう、怒ってはいない。ただ、そんな風に私と妻の間の受精卵を振り回されていい気持ちはしないだろう。 そう。私はこの自分と妻との受精卵を届けに、東府へ向かっているのだ。
2006.04.13
コメント(0)
「なあおにーさん、結構疲れてるようじゃない。ドコの都市から来たの?」 後部座席に陣取り、ナガサキという名の男は、馴れ馴れしく話しかける。 正直言って、私は運転中に話しかけられるのは嫌だった。運転など慣れていない。東府へ向かうと決めてから、列島管理局から車の手配と運転を習ったのだ。 無論対向車が来る訳ではないし、道も入り組んでいる訳ではない。だが所々でアスファルトが盛り上がっている所もある。そんなたびに私はぼこんぼこんと跳ね上がるこの車体に恐怖を覚えるのだ。事故でも起こしたらどうしてくれると言うんだ。機会はたった一度しかないというのに。「黙ってる気い?」 べし、と男は私の後頭部をはたく。私は黙って車を止めた。そしてゆっくりと振り向く。「悪いけど、黙っててくれないか?」 ナガサキは目を大きく広げた。「私は運転が苦手なんだ! 後ろでごちゃごちゃ言われると、いつ事故を起こすかもしれないんだ!」 すると彼はふーん、と両の眉と肩を上げた。「慣れてないんだとさ」「へー」 ミルという名の女もまた、呆れた様に目を見張った。私はそれ以上弁解するのも嫌だったので、再び前を向いた。 がたん、と車体が一瞬揺れる。エンジンの音が止まる。あ、と私は声を上げた。どうも妙な感じになっている。「何だよぉ、エンストかよ?」 ナガサキは座席の間から体をのぞかせる。私は何となくその口調に苛立つ自分を感じていた。「頼むから、黙っててくれよ!」「そんなこと言っていいの?」 がちゃん、と金属の音が頭の横で聞こえる。だがどうも、苛立ちは私を好戦的にさせていたらしい。突きつけられた銃口に私は指を突っ込んだ。「撃ってみればどうなんだ?」 ひゅう、と男は口笛を吹く。「本当に悪いけど、私は今すごく、苛立ってるんだ。事故起こしたくなかったら、黙っててくれないか!」「ふーん…なかなか元気あるじゃん」 そう言って、ナガサキは銃を引っ込めた。「オレはさぁ、そうゆうとこで、黙ってるよぉな奴ってだいっきらいなの」 初耳、とミルは呆れたように言葉を放った。 二時間程走りの後、休憩を取ることにした。 道のりは長い。この車は昔のもの程にはスピードが出ない。時速四十キロ。よく出て六十キロと言うところだ。 でざいあの干渉が利かない旧時代の車と言ったら、そんな程度にしか走らない。もっとも、私自身それ以上のスピードで走れと言われても、怖くて仕方が無いだろう。 車を止めて、私は大きく扉を開けた。二人は相変わらず私に銃を突きつけている。「逃げんなよ」「逃げないよ。私だって、時間は無いんだ」「あ、お弁当だあ」 ミルは後部座席に置かれた私のバスケットに手を伸ばす。あ、と言った時にはもう遅かった。白い手が、そのフタを開ける。「おっきなバスケットだと思ったら、すごいよこれ」「おおっ!」 やめてくれ、という間も無く、二人の手が伸びた。中から一つのパッケージを取り出すと、添えてあったフォークにもハシにも目もくれずに、チキンの唐揚げをつまみ出し、口へと放り込む。「冷めてるのに、美味いよぉ…」 感動したような声で、ミルは両手を握りしめている。それホントか、とナガサキも手を伸ばす。口に手を当てて、一瞬顔がくしゃりとゆがむ。「ちきしょお…どう思っても合成タンパクなチキンだって判ってるのにどぉしてこんなに美味いんだよぉ…」 …だからって…それは私の弁当なのだが… ねおんが。私の最愛の妻が、心を込めて作った、この長い行程を元気で走り通せることを願って作った弁当なのだ。美味くない訳がない。唐揚げだけではない。冷えたら冷えたで味がこっくりとするような野菜の煮物、彩りを添える緑のブロッコリには、専用のソースが別の小さな入れ物に入っている。 さすがに煮物を手づかみという訳にはいかないことに気づいたのか、二人組はハシとフォークをそれぞれ手にして、…奪い合う様にして口に放り込む。 私はため息をつきながら、別のパッケージを取り出した。少し多めに入れてあるのよと彼女は言ったが、奇妙なところでそれは正解だったらしい。「…食い終わったら、そっちの袋に入れておいてくれ…」 私にはそれだけ言うのが精一杯だった。その声にようやく私の存在に気づいたのか、ナガサキはわりいわりい、とその顔全体に笑みを浮かべた。呆れるくらいにその笑顔が子供っぽかったので、何だか怒る気もしなくなってしまった。 しかし、トクシマの話では、一応彼らも恋人同士と聞いているのだが…とてもその様には見えない食い方だ。「…美味かったぁ…」「ホント、すごい久しぶりだよ」「おにーさん、何か飲み物無い?」「モリヤだ。…そこのタンクに何本かある」 私はあきらめ半分で言った。ミルは自分たちの分と一緒にもう一本、タンクの中から容器を取り出すと、私によこした。ありがとう、と私は言った。するとミルは奇妙な顔をする。「…あんた変わってるねえ」「え?」「あたし等にお礼は言うし」「…習慣なんだ」「それにさあ、今だったら、食事中、あたし達銃離してたじゃん。頭ぶっ飛ばしてそこらに置いて逃げれゃ簡単なのにさあ」 私は思わず顔をしかめた。
2006.04.12
コメント(0)
「本当に大丈夫か?」 慣れない手つきでエンジンを掛ける私に、同僚のトクシマは、不安そうな声で訊ねていた。 その表情が、初めての長距離のドライブに出る私を気づかってのものか、それとも貸した自分の車に対してのものかは判らないが。「大丈夫だよ。だって、昔と違って、対向車、とか横から入って来る車なんて、今じゃほとんど無いって、管理局でも言ってたし」「…だけどなあ、モリヤ」 ちら、とトクシマは壁に貼られた新聞を見た。今ではもう紙が少ないから、戸別に配られるより、こんな風に壁に貼られることが多くなっていた。「ほら、また今日も載ってる」 何、と私は友人の指す方を見た。カラーの写真入りのニュース。おなじみの顔だった。「アプフェル・パーティ」「や、だって、奴等、こないだ捕まったとか当局に殺されたとか何とか言ってなかった?」「うんそれも確かなんだけどさ。見ろよモリヤ、何か残ったのが、一番凶悪とか何とか書いてあるぜ?」 ち、と彼は舌打ちをした。「ほらここにも書いてあるぜ。見ろよ」「どれどれ」 ペンキのはげかけた掲示板に近づくと、その一番大きく載せられた記事に私は目を通す。 連続銀行強盗の集団犯人…林檎団。「ほらここんとこ。連中の襲った銀行の数を挙げてあるぜ?」「あ、結構色んな都市にまたがってるんだ」「そうだなあ…でも今のとこ、この四十三番都市には来てないのが救いってとこだよな」「あ、まだ来てなかったっけ」「順番の様に言うなよ? 連中が来てみろよ。ウチの様な工業都市崩れの場所なんか、すぐに滅茶苦茶にされちまうぜ?」 そうだな、と私はうなづいた。「それに抵抗する奴には、女子供にも容赦ないって言うぜ? 俺、こないだ、昼のニュースで、連中の襲った後の十五番都市の姿って奴、見たことあるけど」「どうだった?」「ひでぇよなあ。もう、何か…そうそう、台風って奴? まだ都市が外にあった頃には、結構それで滅茶苦茶になるってこともあったらしいけどさ…写真で見たことあるけど、そんな感じかなあ」「いまいち例えが悪いよ、トクシマ」「だから、何って言うんだ? 物は散らばる、人は死ぬって。見てみろよこの表情! 何か楽しそうに銃を撃ってるだろ」 それはひどい、と私も思った。ただでさえ少なくなっている人間をこれ以上減らすことはあるまい。 西暦2184年。外宇宙のどこかでは記念すべき星間共通歴という奴が始まったらしい。あちこちで自転も公転も時間がまちまちだから、と基準となる時間を決めたのだという。 だけど地球では相変わらず西暦を使ってる。そしてそれもやがて終わるだろう。 地球は末期に向かっている。 いや訂正しよう。末期に向かっているのは地球に住む人間だけだ。 人間以外のものは元気だ。日々元気になっていくようだ。空は綺麗だ。かつてはあれだけ問題視された大気の汚染もない。どこまでも青い空が、高く高く続いている。 ちょっと足下に目を向ければ、ひび割れたアスファルト。その周りには今にも破壊しかねない様な勢いで、草や花が取り巻いている。すき間に入り込んで、根を張り蔓を伸ばし、太陽の光を受ける。 花も草も元気だから、虫も元気だ。虫も元気だから、小動物も元気だ。そして… 人間を除いて。 いつからだったろうか。この地上に、花と、花に似たものが共存を始めたのは。 でざいあ。 それはそう呼ばれている。花と同じ美しさと欲望を、その面に表した花もどき。一つ一つが意志を持ち、集団になればなったで意志を持つ、そんな集合体生物。 そう花。花だったから、それは、何の疑いもなくこの地上に入り込むことができたのだ。地球の外に出た人間は閉め出しても、綺麗な綺麗な花だけは、綺麗だからと、中の人間は喜んで迎え入れた。 そう誰も、予想だにしなかった。 春の薄青の空の下、満開の桜の花が、一陣の風に花びらをはらはらと舞い散らす。その地面に降り立った一枚一枚が、風も無いのに再び舞い上がると、誰が想像したろう? やがて花びらがその風に乗り正体を現しだした時、人間は既に負けていたのだ。 奴等はメカニクルと手を組んだ。人間のしたがらない仕事を任せたメカニクルと。わずらわしい都市の世話を任せた管理頭脳と。 でざいあに入り込まれたメカニクルは意志を持った。自分達がどれだけ理不尽な状況に置かれてきたかに気づいて反旗を翻した。都市機能は混乱し、やがてそんな都市は人間を締め出した。 気づいた人間は、慌てて都市の扉を閉ざした。これ以上花が入り込まない様に。そしてその都市に人間も一緒に閉じこもった。 花は外で手を振る。出ておいでと手を振る。外の世界は、ひどく美しくなっていった。 だが長い間の暮らしの中で、もろく弱くなってしまった人間達は、管理された「清浄な」大気と「混じりけの無い」水の供給される都市から離れることができない。 もう時間の問題だ。 どれだけ扉を閉ざそうが、都市間の出入りを規制しようが、地上に点在する都市は刻一刻と、でざいあに目覚めさせられつつある。明日いきなり、水と大気の供給が止まったとしても、おかしくはない。 逃げよう、と誰もが思った。しかし使える外宇宙仕様の宇宙船も、大半がでざいあによって目覚めさせられてしまった後だった。 火星や月や、そんな短距離だったらまだ可能だったかもしれない。小さな船は、それでもまだ残っていた。だがそんな船を、受け入れてくれる場所は無い。 かつて地球政府は、一度宇宙に出た人間を締め出した。地球の土地はステイタスシンボルとばかりに、特権を持つ人間だけが住む場所だと言い放った。 貧しく、生きていくために飛び出した移民達は火星やコロニー、やがては外宇宙の植民星で必死で生き抜き、とうとう地球など無くても成立する世界を作り上げた。 その道のりは決して平坦ではなかったろう。東府で管理され、漏れ聞こえてくる程度の情報でも、それはよく判った。 彼らは必死だった。受けた仕打ちを思い出して。 なのに。 住めなくなったからと一夜の宿をと求められたところで、そんな虫のいい話はない。 どれだけ金を積まれようが、どんな誠意を見せようが、それはたった一つの言葉で返されるのだ。「今更」 彼らにはその権利がある。「でもさ、それでもお前行くんだね。奥さんは何って言ったの? ねおんさんは」 トクシマはあきらめた様に苦笑する。「行ってらっしゃい、って」「それだけ?」「お弁当を、くれた。三日分」「三日分って」「どのくらいかかるの、ってあいつが言ったから、私は三日、って言った。そうしたら、ほら、そこのバスケットに詰めてくれた」 車の脇に置かれたバスケットに、その時ようやくトクシマは気付いたらしい。「ふうん。ならいいんだ」 何が「なら」なのか、結局トクシマは言わなかったが。
2006.04.11
コメント(0)
「ドコ行くんだ?」 マシンガンと声が、同時に窓から突っ込まれた。「馬鹿かあんたは! いまの今どき、単独で東へ車動かそうってんなら、東府だろ!」 その後に、女の高い声が飛んだ。 窓ごしでは、その足しか見えない。都市の人間ではそう見られない程の、むき出しの太ももが、すらりと伸びていた。 数分前、道端で一組の男女が手を振っていた。私は思わず車を止めた。急いではいたが、そのくらいの余裕はあった。 だけど、そんなことするんじゃなかった、と気付くに時間はいらなかった。 車を止めた瞬間、男は背中に隠していた銃を高々と揚げて、その口を半分だけ開いた窓ガラスの間にぐっと押し込んできた。 そしてほとんどさわやかとも言える位に顔中に笑みをたたえながら、こう言った。「開・け・ろ・よ」 容赦ない口調。でかい声。 がたがたがたと銃口を上下にふり、ガラスをそのまま叩き壊しかねない勢いで、男は私に命令した。 私はしぶしぶ、窓を開け、扉を開けた。 困ったものだ、と思った。友人の忠告は素直に聞いておくべきだった。こんなとこで死にたくはない。それが近々誰にでも共通に来るものだとしても、まだやることがあるのに。「素直だねえ? 出なよ」 かかか、と男は笑った。 まだ若い。少なくとも、私よりは若いだろう。脱色した髪、やせた身体、趣味の悪い柄と色のシャツと、黒い色あせたジーンズ。 男はそのまま車内へとぐっと手を突っ込み、私を引きずりだした。細いのに、大きな手は、妙に力があった。 抵抗の一つもしようと思えばできたのだろうが、胸にマシンガンの銃口を突きつけられたままなので、どうにも身動きがとれない。だらだらと脂汗がわきの下に染みを作っているのが判る。嫌な感触だ。臭ってきそうだ。 ほら、と男は私を女の方へと突き飛ばした。 女の手にも同じマシンガンがあった。奇妙なもので、同じものなのに、何となく男のものより大きく見える。 よろける私を、女は空いた方の手を伸ばして支える。ぶどう色のTシャツから、すんなりとした白い腕が伸びていた。 その白い肌に、引きつった様な跡がびっしりと広がっていた。私は思わず顔を上げた。 だが次の瞬間、しまった、と思った。 真っ赤な唇が、最初に視界に飛び込んだ。そして次に視界に入ったのは、銃の背だった。 頭の横に、ひどい衝撃が響き、今度は本格的に地面に転がった。 砂ぼこりに私は思わずむせた。その肩を、女は靴の堅い、厚いかかとで一度、強く蹴りつける。痛みに私は思わず声を上げた。「どぉ?」 女はそう男に向かって訊ねた。ちっ、と男は舌打ちをする。大げさに手を広げて、呆れた様に声をひっくり返す。「ダメだこりゃ」「駄目だって何よそれ!」「オレの知ってるタイプじゃねーよこれ。何だよこれ。ハンドルが丸いじゃねーか!! どこの都市だよ、こんな旧式のヤツ!」「ぎゃーぎゃーうるさい、この無能!」 腰に空いた手を当て、吐き捨てる様に女は言う。私を蹴りつけたその足で、今度は車のボディをがん、と蹴りつけた。ああ、と私は殴られた頭をさすりながら、ため息をつく。友人からの借り物だというのに。トクシマには何って言い訳をすればいいんだろう。「知るかよ! とにかくミル、オレぁこんなの、運転できねーからな?」「んなこと言って、どーすんよ! 時間無いって言うのに」「…まだお前、殺しちゃいねーよな」 ほこりを払いながら私が立ち上がろうとしたところだった。ふと男の方を見ると、どうもこちらへと近づいて来ようとする。 思わず私は後ずさりする。しかし行き場は無い。さっきから、道路の端で、アスファルトを突き破った大柄なクローバァが、風も無いのにうねうねと動いている。直接危害を加える訳ではなくても、近づきたくはない。花ではない、花もどき。「でざいあ」と呼ばれる、集合生物。どんな姿にもなれるが、一番この地上で多いのは、花の姿だ。そして人の整備したアスファルトを、隙あらば割り崩そうと舌なめずりをしている。 同じ様に舌なめずりをしながら、男は私に近づいてくると、にこやかに笑いかけた。「なあおにーさん、あんた東府へ行くよな?」 私は黙っていた。殴られた頭に手を当てると、こぶができているようだ。何となく、言いたくない様な気がしていた。「これなあに?」 あ、と私は声を上げた。男の手には、金属の小さなケースが握られていた。「いやあ奇遇ね。オレ達も東府へゆくのよ」 そう言いながら、男は四角いケースを時々上に放り投げる。だらだらと脂汗が、また流れだす。「や…やめてくれ!!」 思わず叫んでいた。頼むから、それだけは。「うん、そーだね。大事なもんだよねー。返してもイイけどさぁ、おにーさん、ちっとばかり、オレ達の頼みも聞いてくんない?」 にこやかに。実ににこやかに、男はケースをぐっと握ると、私の前に突き出した。「この車で、オレ達も乗せてってよ」「下手なことしたら殺すよ」 女は真っ赤な唇を開いて物騒な言葉を吐く。「…乗せてくよ。だから返してくれよ」「そーだね」 そう言うと、男はくっと掴んだケースを、ジーンズのポケットに突っ込んだ。そんな場所に突っ込まれて、壊されたら。私は思わず手を伸ばしていた。すると今度は手首に強い衝撃が走った。女が銃身で殴りつけたのだ。青あざができたのは確実。だが。「お願いだ、頼む。それはどうしても…」 痛む手を押さえながらも、私は言った。「心配しなくても、こわさねーよ」 ぽん、と男は言葉を投げる。「ちゃんと東府までたどりついたら、返してやるさ」「そーだよねえ」 切れ長の、少しつり上がった目で、女は私を見据える。「一組一つって決まってるんだからさ、このタマゴは。あたし等がもらってもねえ」 その笑顔。思い出した。行く時の見た、共同掲示板の、新聞の写真。彼らは、指名手配中の連続銀行強盗犯だった。名前は確か…「ちゃーんとあたし等のも、持ってるんだろーね? ナガサキ」 …思い出した。ナガサキとミル。 この国で今一番危険な、二人組だ。
2006.04.10
コメント(0)
「お父さんお母さんには悪いと思うけど…そういうことに、昔っからあたしは、全然魅力を感じなかったし、今でも感じてない。好きな男も居ないし、これから先、男を好きになるかどうかも判らない」「だけど美咲、会ってみなくちゃ判らないでしょう」「おかーさん…」 私は苦笑する。「…ごめんなさい。どうしても、結婚する対象として、ずっと一緒に暮らしてったり生きてく相手として、男は、考えられない」「ノリアキだってもう三十になるっていうのに、そういう話一つ聞かないっていうのに」「それは仕方ないだろう、母さん」 親父どのはぼそっと言った。「だけど楽じゃないぞ」「判ってる」 兄貴を見てれば、好きなことを貫き通すことの、困難さはよく判る。楽なんかじゃ、絶対にない。 楽じゃない。だけど、楽しいはずだ。「だったら、これを好きに使えばいい。そのかわり、もし結婚したくなったとしても、うちからは何もしてやれないぞ」 そんなこと。初めから期待していない。私はありがとう、と言いながら苦笑した。謝らない。 私達はお互いがお互いに期待していた。自分のこう思うだろう、親とか娘の姿を。だけどそれをもう、終わらせよう、と。 後で聞いた話だが、その日名古屋にラジオの生放送で来た兄貴は、私と入れ替わりで実家に寄っていったらしい。短い黒い髪になった兄貴を見て、両親は一体どんな顔をしたことか。 そして私は店にする場所を決め、そこに自分の住居も移した。はっきり言って、「学校の宿直室」程度の住処だ。 会社も辞めた。すっぱり辞めた。上司とあのボス0Lさんには念入りに「今までありがとうございました」と言った。本当にありがとうございましただ。おかげですっぱり辞める気になったのだから。きっと私が居ない方が彼らも気楽だろう。 店にしたのは、住宅街と繁華街の間にある町の、小さなビルの一階だった。雑居ビルと言ってもいい。隣には美容室が入っている。 その店にするスペースは、元々は何かの事務所だったようで、少し大きな部屋と、キッチンと、そしてプライベートに使えるような小さな部屋が二つと、シャワールームがついていた。シャワールームであって、ユニットバスではない。その点も私は気に入った。 私はすぐにその小さな部屋に移り住んだ。どうせほとんど店に出ずっぱりなのは目に見えている。昼食夕食も、そのあたりで適当にかきこむような生活になるだろう。だったらプライヴェイトは、寝る場所が確保できていればいい。 住み込んで、改装を始めた。なるべく資金は大切に使おう、と思ったから、自分でできる部分は自分でやり、友人の応援を頼める所は頼み、それでもできない部分は、業者を入れた。 店の形になったのは、夏だった。何度も何度も練習して、何とか形になったメニュー。店内の印刷物は、あの会社をさっさと飛び出していったひとの印刷/デザイン事務所に相談して、少し安く上げてもらった。 私はそういうものを綺麗に作るセンスは無い。サラダがここに居たら、と何度も思った。だけどそれを口には出さなかった。出したらおしまいだ、と思った。彼女はやって来る、と私は思っていた。思いながら、日々の作業をしていた。だけどそれは「こなす」なんてものではない。試行錯誤の連続だ。決して「楽」ではない。だけど「楽しい」。 届け出もして、とうとう開店することになったのが、夏の終わり。食品を扱うから、暑いうちよりは、涼しくなってからの方がいいだろう、ということもあった。 そして始めた。「この秋堂々デビュー!」と言ってはやしたてたのは、カナイ君だった。 デビューしたばかりの新人は、と言えば、バイトのスタッフを一人抱え、それから毎日が戦争だった。練習しているうちと、実際に客が来る状態ではまるで違う。 そして、その場所の立地条件もあってか、曜日によってずいぶん客の出足も違う。そんなことを読みとるまでは、用意した食材を無駄にしてしまうこともずいぶんとあった。 そんな時には、よくRINGERのメンツを呼んだ。彼らは彼らで、夜も昼も無い生活をその頃していた。レコーディングに追われていたと言ってもいい。そんな時には、いちいち行く店を考えるのも億劫になるらしい。時には私が残ったものをかき集めて、スタジオまで宅配したこともあった。 そうする日々の中で、何となく、兄貴との距離が近くなったような気もする。 いや違う、兄貴は何も変わらない。あの男は、絶対変わらないのだ。変わったとしたら、私のほうだろう。認めたくはないが、そうとしか考えられない。 赤字続きの日々が続く。だけど店を閉じようという気はさらさらなかった。赤字になるなら、どう今度は工夫しよう。それを考えるのは、しんどいが、実に楽しかったのだ。 そして、時々手が空くと、サラダに電話をしていた。 いつもそれはひどく短いものだった。弱音を吐きたい時もあったが、それを言ったらおしまいだ、という気持ちもあった。正直、彼女になぐさめて欲しい、という気持ちが無い訳でもなかった。だけど。 向こうは向こうで、今日はどんなことをした、というのを手短に話す。何とか立ち上がれるようになった、とか、それでもまだずいぶん感覚が鈍い、とか。 そんなことを言われては、私は弱音を吐ける訳が無い。いつか会った時に、思い切り一気に吐いてやろう、と思った。 そうすると、どうしてもいきおい話は短くなる。 本当に彼女が必要なのだろうか、と疑問を持ったことが無いとは言えない。 だけど、彼女とこの先全く会えない、と考えたら、それはそれで胸が締め付けられるような気持ちに襲われる。 やっぱり思うのだ。会いたい、と。 そして冬が近づいたある日、私は彼女の故郷へ、と出向いたのだ。「一人だって立派にやっていけるわよ、ミサキさんだったら」 サラダは目をそらす。「確かに身体はね。だけど気持ちはどうなのよ」「ミサキさん…?」「ずっとあんたがいつか戻ってくる、って思ってたから、あたしは一人でやって来れたのよ?」「だけど」「あたしが全くあんたの身体のこと、考えていないと思う?」「あなたがそういうとこ、すごく考えるひとだってこと、知ってるよ。だけど」「やってみなくちゃ、判らないじゃない!」 どん、と私は畳の上を叩いた。「それに、ずっとここにあんたが居られるとは、あたしは信じないわよ」「あたしが?」「あんたはきっとこの先、ここに居たら窒息する。判るじゃない。あんただって、判ってるはずだよ? それに、こう言っては何だけど、ご両親がずっと居るとも限らない」「…残酷だよ、そういう言い方。ミサキさん」「だけどホントだよ。あたし達だって、ずっと若い訳じゃあない。あんたが完全に治るのは無理だとしても、あんたが働くことはできると思うよ」「簡単に言う」「簡単だよ。あんたがその気になりさえすれば。そりゃああたしには判らないよ。あんたが今すごく動けなくて、どういう気持ちか、なんてね。あたしは動けるんだもの。同じ気持ちになんて、なれやしない。仕方ないよ。同じ気持ちに沈み込めたら、それはそれで心地よいかもしれないよ。二人して、ああ辛いね、ってやって居るのも、それはそれで気持ちいいかもしれないよ。だけどそれじゃあ食っていけない」 私はそう言って、彼女の手を取った。サラダはその手を振り払おうとする。だけどできなかった。何って細くなってしまったんだろう。「ずいぶん痩せちゃったのね」「…食欲が出ないから」「でももうここには自転車は無いよ。あんたは一人でここから出て行くことは難しい。だから、あたしはあんたを連れて帰るのよ」 ぐい、と手に力を込めた。真っ向から、視線を合わせた。 そして口にする。「一緒に来て欲しいの。あんたが必要なの。一緒に居て欲しいの。ずっとずっと、一緒に居たいの。結局はそれだけよ。あたしのわがままよ。それじゃ駄目?」 もう一方の手も、ぎゅっと握り込んで。どれだけもがいても、放さない。そんな強い力で。「駄目?」 私は重ねて問いかけた。 サラダはしばらく私の目を見たまま、黙り込んだ。私は息を呑む。勢いにまかせてしまったかもしれない言葉に、今頃頬が熱くなる。これではまるで愛の告白じゃないか。 それでも、まあいいけれど。「…ほんっとうに、あたしが必要なの?」「ほんっとうに」「冗談でなく?」「冗談でなく」 そうでなくて、どうしてこんな所までわざわざ私がやってくるものか。開店前の短い時期に、取りたくもなかった免許を取って、安く車を調達したのも、何のためだか。 彼女はまたしばらく押し黙った。「…あたしは迷惑かけるよ」「そんなの。かけられてみなくちゃ判らない」「嫌になったらとっとと送り返してよ」「嫌になったらね」 だったら行く、と彼女は小さな声で言った。 いかんな、喉元過ぎると熱さを忘れる。今の彼女に必要なのは、「いざとなったら自分を捨ててくれる」相手かもしれなかった。 そう難題は見えている。彼女が、健康にくるくる動き回っている私達の姿そのものに傷つくことだってあるのだ。私達は鈍感だから、気づかない可能性もある。 だけど、その時には、今度は私が何かをしよう。何でもいい。私が放心していた時に、彼女が待ってくれていたように。彼女が欲しいものを、私が今度は、少しでも、それに近いものを。 この手は、離さない。
2006.03.07
コメント(0)
春先のある週末、私は新幹線に乗って、実家へ向かった。目的は、サラダが事故にあった原因と同じだ。 私は両親に金を借りに行ったのだ。 必要な金額には、あと百万から二百万は必要だった。それだけあれば、会社を辞めて、今まで考えてきた計画をスタートさせることができる。私とサラダの貯めたお金、そして兄貴をはじめとするRINGERのメンツから出資してもらったお金。カナイ君やマキノ君にまで、十万づつ出させたのだ。実家に居るとは言え、何かと物いりな彼らにまで。 それでももう少し足りない。 ―――ここからだけは、絶対に借りたくはなかったのだが。 一年、まるまる帰っていなかった。私もサラダも、ゴールデンウイークも盆も正月も返上して働いていたのだ。さすがに少し敷居が高かった。 そして更に。 話を切りだした時、母親は「面白そうな話ね」と言った。だがそれが本気だ、ということが判ると、いきなり血相を変えて、冗談は止しなさい、ときた。冗談で二人で一年で二百万の貯金はできません、おかーさま。私達はほんとうにしがないOLとフリーターだったんです。 私は何か言おうとすると母親は遮ろうとする。人の話を聞いてよ、と何度繰り返したことだろう。「とにかく聞いて、あなたがたは一体、私の話を本当に聞いたことがあるの」ととうとう私は叫んでしまった。言ってしまってから、はっとした。「それでは」 親父どのは、その時ようやく口を開いた。それまで私と母親のやりとりをじっと聞いていただけだったのに。「お前の本当の望み、っていうのは何だったというんだ? 本気で言ったことは無いだろう?」 さすがにそう言われると痛いものがあった。「お前は本気なものは無いように思えたから、せめて楽な道を、と考えるのは親としては当然じゃないか」「…そうよ」 絞り出すようにして私は言った。「そうよ、ずっと何も無かったわよ。兄貴のように、この家も何もかもどうでもいい何か、って奴は無かったわ。確かにそんな兄貴を見てて、そんな奴になりたくはない、と思ったのも確かだけど、それ以上に、あたしには何もしたいことなんて無かったわよ」「それが今はある、というのか? 今更。お前幾つだと思っているんだ?」「二十六よ」 言ってから、ああもうそんな歳なんだ、と思った。四捨五入すれば、兄貴と同じだ。三十路に差し掛かってしまう。「だから、なのよ。今の会社に居たところで、先は見えてるのよ。どんなに優秀で熱心なひとだって、昇進はできない。別に昇進したい訳じゃあないけれど、でも、そういうとこなのよ。親父どのは、それが当然だと思うかもしれないけれど、あたし達は」「誰かが一緒なのか?」「美咲あんた結婚はしないつもり?」 二人の違う言葉が同時に降りかかる。「結婚は、しないわ」 きっぱりと言う。「大事なひとは居るけれど、それはそういうひとじゃないの。一緒に店をやりたいと思えたたった一人の、友達なのよ。そのひととずっと一緒に居たいから、結婚は、しない」「何を馬鹿なこと言ってるの。あんたもう二十六なのよ?」「だから」 サラダに対する感情は、恋愛ではないのは自分でもよく判っていた。のよりさんにそうしたようには、サラダにはできなかった。彼女もそうしなかったし、そういう雰囲気には、私達はどう転んでもなれなかった。そういう相手ではない、と思った。そういうことがしたかったら、別に調達すればいい、と思った。それでも、私達は、一緒に居たかったのだ。それの何処がいけない?「いつか何処かで子供の一人くらい作るかもしれない。けれど、結婚はしないわ。子供作ったとしても、そのひとが一番じゃあないもの」 母親は黙って頭を横に振った。理解しがたい、と言った表情だ。それはそうだろう。彼らは兄貴の性癖は知らないだろうが、知ったところで理解はやっぱりできないだろう。そして私に関しても。「そのために、この一年びっしり働いてきたわ。必要になるだろう資本の1/3は何とか稼いだのよ。早く始めないと、店をオープンさせるタイミングも失いかねないから。勉強もしたわ。暇ができたら、色んな店のリサーチもした。兄貴はそれを知ってたから、バンドの人たちと一緒に、1/3を出資してくれたわ」「ノリアキがか?」 親父どののその時の顔ときたら。「あいつの何処にそんな金があったんだ!」 そう思うのは仕方ないと思うけど。ただ私は気づいていた。放り出してあった新聞の、TV・ラジオ欄に赤鉛筆で丸がついている。ローカルなFMラジオ局の、夕方の番組だ。何でそんなところに、と思ったら、その番組のゲストはRINGERだったのだ。RINGERはこのところ、メディア出まくり期間らしかった。ライヴが終わったら、今度は二人組になってあちこちのローカルラジオ局にシングルのプロモーションに出ていた。兄貴は「営業」と言ったが、その通りだろう。そして、その時の組み合わせが、兄貴とオズさん、カナイ君とマキノ君であるあたりが、実に「仕事」である。プライヴェイト交えていたら、確実に兄貴はカナイ君と組むだろうし、オズさんはマキノ君と組んでいるだろう。 …そんな番組に、彼らは丸をつけているのだ。何だかんだ言って、このひと達は、息子のことが大好きなのだ。その事実に胸が痛まない訳ではないが、そんなことを考えている暇は無い。「あいつがなあ」 親父どのは感心半分、信じられない半分、という顔で、腕を組み、何度も繰り返す。「バンドの皆も出した、か」「だけど兄貴が半分もったわ」「半分」「アマチュアの頃から、ずっと貯金してた分を、あたしに回してくれたのよ」 ああ、と母親はうなづいた。そういう所がお兄ちゃんはあったわね、とつぶやく。どんな所なのか、私には判らない。「お年玉を結構ちゃんとお兄ちゃんは取っておく子だったからね」 初耳だ。そんな話、聞いたことが無い。私も結構取っておくほうだったが…いや、この人に没収されたんだ。貯金するから、と。…あれ?「…おい、美咲の通帳は、どれだけ貯まってる?」「あたしの通帳?」 初耳だ。 母親は立ち上がると、戸棚から通帳を出してきた。ずいぶん古いものだ。ATMがまだ使えないタイプだ。そうしょっちゅうお金の出入りが無いのだろう。「見てみろ」 親父どのは、それを私の方へと突き出した。言われるままに、私は開く。そしてぎょっとする。「な」 んですか、この桁数は。「お前の嫁入り道具用に作っておいた通帳だ」「…ってもしかして、昔没収されたお年玉とかも、ここに入っている?」「当然でしょう」 きっぱりと母親は言った。 しかしこのあたりの嫁入り道具の量のとんでもなさは、有名な話である。無論その通説通りにこの家がやるとは思えないが、それでも、娘には嫁入り道具を十分持たせて嫁がせる、という気持ちがあったのだろう。 通帳には、今の段階で186万あった。「持っていけ」「お父さん」 母親が、慌てて口を挟む。「お前は、結婚するつもりは無いんだろう?」「無いわ」 私はきっぱりと言う。
2006.03.06
コメント(0)
「迎えに来たって」 床に座ったまま、サラダは私を出迎えた。「遊びに来てくれたのは、ミサキさん、うれしいよ。だけど、からかっちゃいけないよ」 彼女は首を横に振る。窓の外には雪が降っていた。「今のあたしに、何ができる?」 私はサラダの実家にやってきていた。 確かに田舎だ。思いっきり田舎だ。ここに来るまで結構苦労した。車の免許を取らなかったら、どれだけかかったことだろう? 道路でちら、と見かけたバス停の時刻表は、三時間に一本くらいしか止まらない。横を過ぎていく中学生達は、皆自転車だ。高校生の姿は見あたらない。もしかしたら、近い学校が無いので、高校は下宿しているとか、寮に入るとか、そういう地域なのかもしれない。 山がどん、と目の前に迫っている。自然は好きだが、この大きさは、圧迫感しか感じない。 サラダはこんなところで育ったのか、と私は空を見上げて目を細めた。 確かにこの田舎だったら、私や彼女、それにまりえさんの様な人間は、息が詰まる思いだろう。私はまだそれに比べれば良かった。一応名古屋に近かったから、「都市の空気」はある程度味わって育った。息抜きができた。 だけどこの自然は、それすらもさせてくれないような気がする。大きすぎる。 確かに自然で癒されるひとも多いだろう。ただ私達はそうではない。それだけだ。 サラダはあの病院でしばらく入院したあと、実家にそのまま移った。完全に歩けなくなるという訳ではないが、神経だか何処かのバランスが崩れてしまったのは確かのようで、つかまり立ちや手すりがあれば歩くことができるが、それはひどくゆっくりしたもので、しかも長続きはしない。 荷物をまりえさんが取りに来た。残念ね、と彼女は言い残した。本当に残念だと。「これでまた、振り出しに戻ってしまうのかな」 ほつりと彼女は荷物を車に積みながら言った。元々多くは無かった彼女の荷物は、まりえさんがレンタルしたワゴン車に楽々積み込むことができた。乗り切らないものは、私に持っていて欲しい、と彼女は言った。 荷物が無くなった部屋は、ひどく広くなった。一年と少しを二人で過ごした部屋。手作りのボックスをどかしたあとのカーペットは、そこだけ色が元のままだ。ああ、広すぎる。 私はまた、引っ越した。ただ、今度の場所は、マンションでも一軒家でもなかった。「あたしがそういうことで、あんたをからかったこと、あった?」 無いけど、と彼女はまた首を横に振る。でしょ、とあたしは返す。 ふとぐるり、と彼女の部屋を見渡す。決して狭くはない。田舎の家だけあって、敷地が元々大きいし、天井も高い。 そして和室だ。彼女はその和室にべったりと座り込んでいた。時々物を取ろうとする時には、ほとんど這って行くようだった。それでも全く動けない訳ではない、ということに私はほっとした。「あたしはあんたを迎えに来たのよ。約束したじゃない。一緒にカフェをやろうって」「何言ってんのよ。あたしがこの身体でできると思ってるの?」「別に前に言ったような役割分担しなければいいじゃない。あたしが客の間をくるくる回ればいいのよ。あんたはカウンターに居てくれればいい。時々そこからゆっくり出てきて、作ったカードを貼ればいい。ディスプレイやコンセプトやら、できることは幾らだってあるじゃない」「そんなこと」 できる訳ないでしょ、と彼女は吐き捨てるように言う。「ふうん」 私は出されたお茶を一口飲んで、ソーサーの上に下ろす。「こんなお茶で、満足してるんだ」 それは彼女の母親が、私が来てすぐに出したものだった。塗りのお盆の上に、近所のスーパーで買ったのだろうソフトクッキーを盛った皿と、レモンのついた紅茶が出された。 一口飲んで、ティーバックをカップに入れたお茶だな、ということが判った。「何もあんたのご両親を馬鹿にする訳じゃあないけど、ここで、あんたが気持ちよくやっているとは思えないわよ、あたしは」「…だってそれは、仕方ないでしょ」 サラダは目を伏せた。「ふうん。それでまた、引きこもってしまうんだ」「ミサキさん!」 顔を上げる。その言葉にはさすがに反応が早かった。「だって、そうじゃない。あんたが昔言ってた、状態みたいなものじゃない。生きにくい、息苦しい、窒息しそうだって言うのに、守られなくては生きてゆけない子供だったから、仕方なく居た、って感じの。それでもそこで生きていかなくちゃいけないから、引きこもるしかなかったっての」「だってどうすればいいって言うのよ! この足が上手く動かないっていうのに!」 ぴたぴた、と彼女は自分の膝を叩く。長いスカートに隠された足は筋肉も落ちて、きっと最後に見た時よりひどく細くなっていることだろう。 あの頃きびきびとアルバイトで客の間をすり抜けていった、筋肉が綺麗についた足では無くなっているだろう。 それだけではない。運動不足のせいで食欲が落ちてるのだろうか。食事が合わないのかもしれない。上半身の肉もずいぶん落ちていた。正直、彼女の部屋の扉を開けて、その姿を見た時、思わず目を見張った。私のその視線の意味に気づいたのだろうか、彼女は少し目をそらした。だけど驚いたことは、間違っていないと思う。私は確かに驚いたのだ。 あのぽちゃぽちゃとした丸い肩は何処に行った? どうして首筋にあんなに線が浮く? 何となく、私はその状況に怒りに近いものを覚えた。それは彼女が事故に遭った、動けなくなった、と聞いた時以上のものだった。「リハビリはしたわよ! あたしだって前みたいにするする動きたいとどんだけ思ったか判らないわよ! だけど駄目だった。確かに車椅子にはならないで済みそうだけど、それ以上に治る方法が判らない、って言われたもの!」「そうだねそれが今のあんただね」 容赦なく、私は言葉を投げつけた。「だけどあんたが居て欲しい。もう店は動き出しているのよ」「嘘」「こういう時に嘘なんかついたことある?」
2006.03.05
コメント(0)
だけどだめだ。彼女は入院して、生活費もそっちに取られるだろう。まりえさんだの実家だのがそのあたりは出してくれるだろうが、シェアしている彼女の部屋代まで手が回らないだろうから、貯金はまたしにくくなる。 ようやく掴みたい、と本当に思ったのに、それが、手の間からすり抜けていく。冗談じゃない。 天に向かって何度も悪態をついた。馬鹿野郎。言ったって仕方かないのに、朝の、綺麗な空に向かってまで、そんな言葉を吐き続けた。「…美咲お前、さっさと店開いちまえ」「何言ってんのよ、だから資本がね」「百万だったら俺出せるぞ」「兄貴? ちょっと待ってよ、あんた達まだそんなに売れてないでしょ」「それとは別だ。お前俺が貯金してたの、知ってるだろ」「…うん」 どうしてこの男にそんなことができるのだろう、と思いながら、知っていた。「それから…おーい、オズ!」 何だよ、と向こう側でマキノ君やサポート・キーボードのフジガワラさんと呑んでいたオズさんは立ち上がってやってくる。相変わらず歳より若く見えるひとだ。「何? いきなり。あ、美咲ちゃん来てたの」「お前さ、『スタジオ資金』まだちゃんと安泰か?」「あ? やぶからぼーに何だよ。安泰だよ。一応、給料はちゃんと出てるし、少ないけど印税入ってきたし」「ホントに少ないけどな」 へへへ、と二人は顔を見合わせて笑う。オズさんも原曲作りで名前が出ているから、印税は入っているらしい。それにしても。「『スタジオ資金』?」「お前それで百万くらいはあるか?」「百万は無いけど、八十万くらいはある」「それ、美咲に出資してくれないか?」「兄貴!」 私はまた声を上げていた。「無論俺も出す」「ちょ、ちょっと待ってよ」 オズさんは一気に酔いがさめた、という顔になる。「出資って…美咲ちゃん、何かやるの?」「こいつはカフェを出すために、ほんっとうに真剣にここんとこ働いてきたんだと。ところが、あれも出すのにタイミングって奴が要るだろ?」「…ああ、そうだよね。とりあえずブームがあるうちに、客を掴んでおいたほうがいいってのはあるね」「だろ。だけどその欲しい資本の今、1/3しか貯まっていないんだと」「1/3でも凄いよ」「そう。で、そのすごさに俺は感動してしまったの。…で、俺も虎の子の百万を出そうと思っているんだけど」「兄貴そのスタジオ資金って」「あのさ、美咲ちゃん、スタジオでも何でもいいし、どうしても俺達メジャーに引っかからなかったら、その時には自分達で事務所を作れるくらいのことはしておこう、と思ってたわけよ。ほらこのひとももうそろそろ三十路近いし」「るせー、まだ二十九だ」「四捨五入すれば一緒でしょ。…でまあ、俺ら結構地道にやってたでしょ。まあ代々のヴォーカルとベースはともかく、俺はずっとこいつとやってこうと思ってたからさ。こいつより少し遅れてだけど、貯金してたって訳」 はあ、と何となくバンドマンとは思えぬ発言にため息をついた。「…そーだなあ。あとカナイとマキノにも十万くらいづつ出させるか」「ああそれがいいね。俺はお前がいいって言うならいいよ」「ってオズさんまでそんな簡単に」 さすがに私も焦った。どうしてそういう展開になるんだ。「間違えるなよ美咲。俺はお前等に出資しよう、って言った訳で、金をやるって言った訳じゃないぜ?」「…って」「だから、お前の持つだろう店を、RINGERの巣にもさせてくれ、って言ってるの」 巣、ですか。「何がこの先俺達に起こるか判らないからな。無論お前が前に言ったように、俺達はBIGになる予定だが」「何美咲ちゃん、そんなことこいつに言ったの」 恥ずかしながら、言いました。「…もし何かあって、RINGERが路頭に迷うようなことがあっても、その時に食うのに困らない店があると、いいと思わないか?」「おおそれはいい考え」 ぽん、とオズさんは手を叩いた。「俺はそのセンでオッケーだからね。うん、マキノとカナイにも言って来よう」 そう言ってオズさんは少しわざとらしい程さっと立ち上がった。それ以上のことを自分が言っても何だ、と思ったのだろうか。 それとも。「…俺はな、美咲、お前に何もしてやれたことが無いんだ」「それは別に、今更」 彼が負い目を感じていることは、知ってはいるけれど。でも今更。「だからな美咲」 ぐい、と彼は私のほうを向いた。「お前とっとと店出せ。それでサラダちゃんが座ったままでできる仕事作ってやれ。それでいいじゃないか?」「座ったままで」「そういうスタッフに、すればいいじゃないか。店内のディスプレイ? とか結構好き? とか言ってなかったか? 立てなかったら、歩けなかったら、そこに手が届かないとこにはお前が手を出せばいい。だけどそれを考えるのはお前よりサラダちゃんの方が向いてるんだろ?」「兄貴…」「カウンタの中を高くして、椅子に座って接客や簡単な調理とかできない訳じゃないだろ?」 探せよ、と彼は言っているのだ。立ち止まっていないで。私がすぐにでもカフェを作れる方法を。サラダがそのカフェで働く方法を。「俺はこれまでお前に何かしてやったことも無い。いつもお前に迷惑ばかりかけてきたと思う」「…そんなこといいよ。面と向かって言われると気色悪いし」 しかし彼は構わずに続けた。「この先お前に何かしてやれるという保証も無い。だけど今だったら、できる。金で解決、という方法しか俺には上手く浮かばないけれど、お前が役立てろ」「あ」 りがとう、とは言えなかった。 また喉が詰まったのだ。 * そしてあと百万から二百万が必要だった。私は土曜日の午後、思い切って新幹線に乗った。
2006.03.02
コメント(0)
こっちに戻って、翌日会社に行ったら、上司にいきなりどやされた。何だ一昨日は無断で早退して。おまけに昨日は欠勤で、自宅にも電話はつながらないし! 何故そんなことを言われるのか判らなくて、私はきょとんとしていた。確か私はあのボスOLさんに伝えていったはずだ。 そのことを上司に言ったら、聞いていない、と言う。はあ? とその時私は問い返した。そしてやってきた彼女に聞くと、自分は話した、という。何処かで話が食い違っていた。 良く判らないままに、とにかく言葉だけでも謝罪した。無断であるかはともかく、唐突に休んだことには違いない。とりあえず仕事に戻り、たまっていた分を片づけることにした。午前中はそれで手一杯で、他のことを考える余裕も無かった。 だがお昼。後輩OLちゃんと久しぶりに外に食べに行ったのだが、その時彼女が言った。「**さん、先輩が休む、ってこと伝えてませんよ」 思わず問い返した。「聞いたんですけど、結局**さん、配置換え無いらしいんですって」「…ってことは、**さん、昇進とか無いってこと?」 そのようです、と後輩OLちゃんは言った。「あたしも先輩が休むってことは聞いていなかったけど、一昨日、先輩が何か**さんに言ってから会社三時頃に出てくの、一応見てる訳じゃないですか。だからきっと、そのこと言ったのかな、とか思ったんですけど」 何でまた。さあっ、と全身を風が通り抜けていくような感じがした。嫌な、感じだ。「…で、そのことは」「…言えませんよ。すみません…」 それはいいわ、と私は言った。なるほど。なるほどね。 そして午後。さすがに仕事はずいぶんたまっていたので、残業になった。兄貴達のライヴがツアーファイナルってこともすっかり忘れていた。無論バックステージ・パスは家の何処かにあるはずだが、サラダのことでかき回してしまった部屋は乱雑になっていて、何処かに埋まってしまっているかもしれなかったのだ。 そして疲れ果てて帰ってきたら、留守電が入っていた。まりえさんからだ。戻ったら電話ください、とアルトの声が告げていた。 掛け直したら、まりえさんの声はこの間以上に低く感じられた。どうしたんですか、と私は問いかけた。 彼女はこう言った。『…やっぱり脊髄の方もやられているって』 その言葉の意味を、疲れた頭で必死にたぐりよせた時には、電話は終わっていた。私は何かしらはいはいと返事はしたらしい。いつの間にか。 壁にもたれて、それからしばらくぼうっとしていた。何もする気が起きなかった。 それからカナイ君からの電話が来たのだ。 …どのくらいその姿勢で居ただろう。じっとりと濡れたナプキンを目から外した時には、その周りの化粧までそこにはついていた。きっと凄いことになっているとは思うのに、直そうという気も起きない。「…ごめん、いきなり」「まあいいさ。ところで髪のことだが」「…ああ、決意表明って言ってたよね。何のこと」 まだ上手く口が回ろうとしない。「こう言ったらお前は笑うかもしれんがな。メジャーデビューできるまでは絶対切らない、って願かけてたんだぜ」「へ」 願とは。「またずいぶんと古風じゃないの」「うるさい。それにな、長い髪が視界に入れば、伸ばしている理由が俺にいちいち突きつけられるだろう?」「突きつけなくちゃいけないものだったの?」「いや、そんなことは無い」 きっぱりと彼は言う。「だけどな、わかりやすいだろう? 俺自身に対して、周囲に対しても」「…それはそうよね」「メジャーデビューした時点で、すっぱり切る予定だったんだがな」「何でしなかったの?」「さすがにメジャー行った途端に切ったら、何かと言われるだろう? それでインディのファンを裏切ったとか何とか。俺にしてみりゃどうでも良かったが、ま、それは周囲の圧力」「兄貴にしちゃ、珍しいじゃない」「お前は結構俺を買いかぶってる」「そお?」「で、お前のほうは? 今度は泣くなよ」「泣かないわよ」 私は顔を上げた。醜態だった、と思うのだ。兄貴の前だけは、そういう顔を見せたくなかった。「…サラダが、事故に遭ったのよ」「サラダちゃんが?」「一昨日、中央本線で事故あったの知ってる?」「ああ、何か新幹線で名古屋通った時に、そんなこと言ってたかも…って事故ってそれか?」 私はうなづいた。それは、と彼は眉を寄せた。良く見ると、その眉も以前より太くなっている。「…で、さっき電話があって…背中打って…脊髄のほうもやられて…」 喉が詰まる。「…しばらくは…立てないって」「おい!」 ぎゅっ、と私は一度目をつぶる。大丈夫だ。泣かない。「それで、おかしかったのか」「うん」 素直にうなづく。それは事実だからだ。「一緒にいつか店を持とう、って言ってるから…だから一緒に住んでたし…資金も貯めてたし…」 ああ何を言いたいんだろう。「しはらく歩けないんだったら、働くのは無理だな」 あっさりと彼は言う。そのあっさりさに、私は一瞬かちん、と来る。「兄貴!」「でも本当だろう?」「だけど!」 ああまた喉が詰まる。言いたいことの半分も言えやしない。「何の店をしたいんだ?」「え?」「だから、ブティックとか雑貨屋とか、喫茶店とか」「兄貴言い方古いよ…カフェをやろう、って言ってたんだよ、あたし達。あと二年もがんばれば、お金貯まるからって」「でもな美咲、結構あれはブームも手伝ってるらしいから、急がないとまずいかもしれんぞ」「そんなこと判ってるわよ!」 思わず声を張り上げる。周囲の目が一瞬こちらを向く。兄貴が手をひらひらと振ると、その視線はそっぽを向いた。「…ごめん。…でも兄貴、女二人組になんて、銀行も何処もお金を貸してはくれないわよ。それにそういうのは嫌なの。利子とかまた考えなくちゃいけないし」「幾ら必要なんだ?」「…五~六百万ってとこかな。あたし達、この一年ですごくすごくすごくがんばって、二人で二百万、貯めたのよ」「すげーじゃないの」「そうよすごいのよ、あたし達。だけどそれはあたしだけじゃないのよ。サラダが居たからできたのよ。彼女と一緒にやろうと思ったから、がんばれたのよ。楽しい空間が作れればいいなって思ったのよ」
2006.03.01
コメント(0)
ぴろぴろぴろ、と電話のベルが鳴る。何度も鳴る。ひどくうるさい。 ひどく。 ああ鳴っているんだ。電話なんだ。 その日待っていた電話は既に来てしまったから、もう次の電話なんてどうでも良かった。放って置こうか、とも思った。身体が重い。腕を伸ばすのも、重い。面倒だった。 だがベルはぴろぴろぴろ、としつこく鳴り響く。ああ鬱陶しい。 仕方なく私は受話器を取り、もしもし、と低い声で答える。『あれ、美咲さん…だよね?』 知っている、よく響く声が私の耳に飛び込んできた。背後もひどくうるさいのだが、その声だったから、ちゃんと耳に入る。「…カナイ君?」『うんそう俺。ねえ美咲さん、今ひまー?』「…君酔ってるでしょ…」『酔ってないよーん。俺まだ二十歳前だしー』 嘘ばっか。スタッフもスタッフだ。「…でどうしたの?」『やーだーねー、今日ツアー最終でさー、戻ってきたから、ライヴ来てって前々から言ってたじゃないー』 そういえば、そうだった。メジャーデビューして一年少し。確か今回のツアーは二月の終わりから始まった長くて細かくて…結構鬼のような日程だった、と記憶している。 その最終が、今日だった。ACID―JAMの十倍は人が入りそうなライヴハウス。ホールじゃないか、という人数だけどスタンディングの。そこが今回のツアーファイナルなんだ、と聞いていた。そしてその後に、打ち上げがあるから、と。『ライヴはまあ、美咲さん仕事忙しかったら仕方ないけどさあ、今うちに居るってことは、身体空いてるんでしょ? 明日土曜日だし。ねえおいでよ。ごはん美味しいし。あのひとも連れて来ればいいじゃない。一緒に住んでる…』「…今日は居ないの」『だったら暇でしょ。美咲さんだけでも来てよ』「カナイ君何か寂しいの?」 少しの間が空いた。『俺待ってるからねー。場所はねー。渋谷の…』 そして電話は一方的に切れた。時計を見る。十時を少し過ぎた所だ。行けない程ではない。 そう確かに行くと約束していた。断る理由も無い。そして今部屋にサラダが居ない。居ないのだ。 私は上着を取り、のそのそと動き出した。頭の中が妙にクリアになっていた。人ごとのようだ。そういえば、前にもこんな感じで身体を動かしていたことがあった。確かあれは、のよりさんが出て行った後だ。毎日毎日を、とにかく動かずにじっとしている訳にはいかないから、のよりさんのことを考えてる頭と、日常のことをする頭をとりあえず切り離していた。何とかなった。そのかわり、所々がおかしくはなっていた。それをサラダが見ていてくれて、目を覚まさせてくれた。 なのにそのサラダが居ない。 居ないのだ。 打ち上げ会場になっていたのは、結構広い、個室が幾つかある、中華料理の店だった。そこで彼らメンバーと、スタッフと、事務所の人達が入り交じって、食事なのか飲み会なのか判らない様相を呈していた。 私は入り口で名前を言うと、その会場になっている部屋に通された。「あれ、お前今来たの?」 へ、と私はその姿を見て、思わず唖然とした。「兄貴…その頭」「あ、これ? あ、お前今日ライヴ来なかったろ。あれだけ来い来いって言ったのに」「いや用事があったから…それより兄貴…それ」 何年も何年も、トレードマークの様になっていた長い金髪が、無くなっていた。それだけでない。色も黒になっているし、その短さときたら、何処の中学生だ、というくらいになっていて… およそ、私の知る兄貴の姿ではなかった。 いや違う。この姿の兄貴は、中学くらいまで知っていた。ただその下の顔は、確実に時間が積み重なっている。だから妙にアンバランスなのだ。「似合うっしょー」 けけけ、と笑いながらカナイ君はそんな兄貴の頭を背後から襲う。「何するんだが!」「むぼーびなんだもんなー、あんたのこのこーとーぶ」 けたけたけたけたけたけたけた、と際限なくカナイ君は笑う。こんなに彼は笑い上戸だったのだろうか。「とにかく美咲さんも呑んでー。食べてー」「…ごはんは済ませてきちゃったのよね」「じゃあ俺、何かカクテル取ってくるね。何がいい?」「こいつは何でも飲めるぞ」と兄貴が付け足した。はいよーっ、とカナイ君はぱたぱたと会場を走り出した。転びそうになっては、マキノ君に何やってんだこのボケ、と怒鳴られたりして。 その様子が、何処か遠くにあることのように感じられて、仕方がなかった。「…髪だけどな」 肩をすくめて、兄貴は弁明のように言う。「もともと、あれは、決意表明のようなものだったからな」「決意表明?」 私は彼の斜め前に腰掛けた。はい飲み物、とカナイ君が私の前にどん、とストローの入ったグラスを置く。「おいカナイ」 ひらひら、と兄貴は彼に手を振る。何、と彼は顔を寄せる。「いい子だから、しばらくあっち行ってろ!」「何だよー」「おーい、サンノウさーん」 兄貴はスタッフの一人を呼ぶと、カナイ君を押しつけて、しばらく来させないでくれ、というジャスチュアをした。「何かつれないわね」「まあいいさ。酔っぱらいの戯言はほっとけ」「いいの?」「いーさ。酔っぱらって、つぶれて、がーっと寝てしまえって感じだからな。一番走り回ってたし」「そう」「…で、何があった?」 え、と私は顔を上げた。頭の中の焦点が合う。「何が、って」「俺はあんだけくどく、ラストには来いって言ったし、バックステージ・パスも送っておいたし、お前の同居人も良ければ来いって言ったし、打ち上げあるから食事は抜いてこい、って何回言ったか覚えてるか?」「え…」「しかもカナイが言うには、お前の同居人は留守だって言うし」「…それは」「だから、何があった? 何も無いんだったら、それはそれでいい」「…」 私は少し黙った。それまでここに来るという行動に頭の半分を回しておいたから、考えないようにしていたことが、いきなり押し寄せる。 ぼとん、とテーブルに水滴が落ちた。あれ。 あれあれあれあれあれあれあれあれ。 頬をだらだら、と流れているものがある。目が熱い。喉が痛い。何だろこれ。 何だろ。ハンカチハンカチ。私はバッグを探る。なのに、なかなか目が上手く開かなくて、ハンカチが見つからない。「ほら」 兄貴はそこにあったナプキン立てを私に突き出した。数枚、そこから抜き取る。ああこれそのへんのカフェにあるような奴じゃない。もっと一枚が大きくてふんわりしている上等なものだ。慌ててそれで目を押さえる。言葉が出ない。喉が詰まって、声が出ない。 声を抑えて、私はしばらく泣いた。ここ数日にあった出来事が、一気に頭の中に押し寄せる。
2006.02.28
コメント(0)
私は重ねて聞いた。聞きたくない、とも思った。だけど聞かなくてはならない、とも思った。彼女は私の未来の夢のパートナーなのだ。聞かなくては、ならない。「…もしかしたら、しばらく歩くことができなくなるかもしれない」 まりえさんは、それまでとは違った、無機質な声で答えた。「神経のほうがやられていたら」 ひどくかさかさとした声で。「歩けない」「歩けない、ではなくて立てない、かもしれないわ」 それって。二の腕から急に悪寒がはい上がる。「それって」「先生が、ひどく難しい顔していたのよ」 彼女はひざの上で、こぶしを握りしめる。あまり明るくない部屋の中でも、その指が白くなっているのが判る。 私はふらふら、と首を横に振った。それって。 それって、あんまりじゃないの。 想像ができない。歩き回れないサラダ。走り回れないサラダ。小さい頃再放送で見た「ハイジ」のクララのように、車椅子に乗らないと動けないサラダなんて、想像ができない。ちょっと待て。ちょっと待ってくれ。それは本当に、現実なのか?「嘘でしょう…」 ふらふら、と首を横に振る。「嘘に決まってる」「わたしもそう思いたいのよ。だけど今の時点では、まだ判らないの。この子もまだ麻酔が効いているし…」 冗談じゃない、と私は思った。何だって、今、彼女が。 故郷で、嫌なことを思い切り味わって、出てきた場所で、今度は、夢を見て、その夢を現実にするために走り出していたのに。 なのに、つまづいて、もう立てないなんてこと、有り? 冗談じゃない。 冗談じゃ、ない!! 私の中で、ふつふつ、と熱いものが湧いてきていた。最初は悪寒だったそれが、次第に全身に満ちて、熱になる。「…それって、ひどいじゃあないですか」「ひどい、わよ。…だからわたしまだ、明日明後日、この子が目を覚まして、…ちゃんと診察を受けて、…それまでは、絶対、その可能性は信じたくない」「あたしだって、信じたくないです」 もしもそんなこと、本当に起こってしまうのだったら。 思わず私は何かに向かって祈っていた。無信仰だから、誰に、ということもない。ただ、何か、そんな、大きなものがあるのだったら、サラダにその可能性を与えないでくれ、と。 大声で、叫びたかった。「…でも何で、いきなり実家になんか行ったんだろ…」 ふと思いついたことを口にする。まりえさんに聞こう、という意識があった訳でもない。「え? 知らなかったの?」「知らなかったの、って…サラダはあたしに何も言っていきませんでしたから。ただちょっと様子が違ったから、駅に着いたら電話して、とは言ったけれど」「そうなの」 ふう、と彼女はため息をついた。「お金、貸してもらおうとしたみたい」「え」「事故の話を、あの子の実家のほうにも言ったら、怒っていたのよ、いきなりあんな話持ってくるから、何かおかしくなったんだ、って」「あんな話」「あなたがた、店を出したい、って言ってたんでしょ。その話を持ち出して、足りない分のお金を貸して欲しい、って言ったみたい」「そんな」 そんなこと、一言も。頼んでもいない。「知らなかったのね。そうかもね。何をまた夢みたいなことを、って向こうも断ったみたい。そりゃあそうよね。額が額だったから…」 今現在、私達の資金は200万くらいだ。それではまだ確かに足りない。目標は、500万から600万なのだ。そのくらいあれば、ちゃんと場所を借りて、改装して、初期資本にもできる。足りないところは自分たちで手作りしよう。そう言い合っていたのだ。 何を一体、いきなり先走ってしまったのか。「だってミサキさん、疲れているようだったし」 翌朝、目覚めたサラダに、ほとんど怒鳴る様な調子で私は問いつめた。無論ちゃんと彼女が目覚めたことがうれしくて…その照れ隠しもあった。 開口一番、ごめんねえ、と彼女は言った。何やってんのよ馬鹿、と私は言った。「ミサキさんがどんどん、会社ですり減っていきそうだったから、もっと早くできるものだったら、早く始めたいなあ、って思った」 とろんとした目で、彼女は私を見た。「…何言ってんのよ。自分達の資本で始めるとこに意味があるんじゃない。女二人じゃあ何処の銀行も貸してくれないからって…」「うん。貸してくれないね。ウチの親もだめだった。あたしの説明も下手だったしさ」「あんたの口が下手なんて、どうしてそんなことがあるよ」「通じなかったもの。どれだけあたし達が一生懸命なのか言ってもだめ。…そういうひと達だしさあ」 仕方ないね、と彼女は笑った。そしてごめんね、と付け足した。「冗談じゃないよ」 私はかがみ込んで、身体がまだ起こせない彼女の首を抱える。「それでこんなことなって、どうすんのよ。とっとと治って、どんどんバイト入れてよ。あたしもがんばるから」「でもミサキさん今も顔色良くないし」 ああもうどうしてそういう時なのに、そんなことばかり言うのだろう。「あんたこそ、ケガしたとこ、痛いんじゃないの」「ううん、変な感じはするけれど、別に痛くは」「痛くない?」 嫌な予感がした。「ただ、ひどく重いんだけど」 ものすごく、嫌な予感がした。 その日のうちに私は帰らなくてはならなかったので、その言葉の意味は、さらに翌日になってから聞くこととなった。
2006.02.27
コメント(0)
「投げ出された…」 それがどういう衝撃なのか、私にはよく判らない。単に転がった、というだけではないような気もするし、それだけのようにも思えなくもない。 とにかく、目の前に居る彼女は、それでケガをしているのは確かなのだ。「…それで、もし脊髄をどうかしているとかだったら、どうなんですか?」「どうなのかな…」 まりえさんは口を濁した。「まだ何とも言えないのよ。何せ、今この病院で、事故に遭ったひと、皆収容してて、その中でも個室に入れられたってこと自体、わたしも気になってはいるのだけど」「と言うと」「軽いケガのひとたちは、大部屋でしょう?」 それはそうだ。しばらくの入院の必要が、安静でいる必要があるということで。ふう、とまりえさんはため息を大きくついた。「…とにかく今日はありがとう。ここに泊まる?」「ええ、一応明日は休む、と言ってきましたから」「本当に、ありがとう。…いい友達、できたのね、菜野」 お茶入れましょう、とまりえさんはポットの電源を入れる。私は部屋の隅にあったドーナツ椅子を引っぱり出す。部屋全体の照明が強くないので、椅子の赤がひどくくすんで見えた。血色の悪い女のつけた口紅を思わせた。「はいどうぞ。紅茶で良かった?」「ええ…」 ふう、とまりえさんはもう一度ため息をついて私の隣に椅子を置いた。「あの子のアドレス帳に、まりえおばさん、って最初にあったから、私のほうに連絡が来たのよ」「そうですか…」「で、その中に確かルームメイトであるあなたのケイタイも書いてあったから…」「アドレス帳なんて、持ってたんですね、サラダ」「アドレス帳って言うよりは、メモ、だけどね。何か笑っちゃった。笑ってる場合ではないのに。まりえおばさんの編集部、なんて書いてあるのよ、この子」「編集の方、なんですよね」「ええ。一応」 彼女はある雑誌の名前を出した。驚いたことに、私も時々立ち読みする音楽雑誌だった。そう言えば、サラダのおばさんなのだから、結構歳もいっているはずなのに、そんな風には見えない。若作りではなく、長いウエーブの髪をざっと束ねただけのその姿は、年齢を感じさせないものだった。「今ちょうど、エアポケットの時期だったから、すぐに飛んで来れたけれど…これがもう少し後だったら、正直、こうすぐにやってこれなかったかもしれないね」「…そういうものですか?」「まあね。その代わり、その時にはどんな手を使ってでも、仕事を早く終わらせるか、この子のそばに居る人を捜すけれど…うん、正直あなたが居て、かなりほっとした。こんな早く来てくれたし」「友達だし」「友達だって、そうそう一緒にいつも居られる訳ではないでしょう?」「サラダは…一緒に店をやろう、って言ってる…仲間…っていうんでしょうか。何か上手い言葉が今浮かばないんですけど」「ああそれで、あの子が今一緒に住んでいるのね。あの子にしては、何かすごい上等、というか、進歩というか」「進歩、ですか?」「進歩よぉ」 少しばかり、その口調は彼女の姪のものと似ていた。「そうかも、しれないんですね」「聞いてるんだ。あなた」 まりえさんは首を傾げて、私の顔をのぞきこんだ。「あの子が引きこもってた子だってこと」 私はうなづく。言ったんだ、とまりえさんは感心したようにうなづく。「そうよね。じゃないと、今のあの子を見てるだけじゃあそういうことは言えないよね」「あなたが、逃げ出せと言ったと聞きました」「あらそんなことも言ったの」 あはは、と彼女は小さく笑った。「そうよ。わたしが言った。そしてそれは間違いじゃなかったと、思うしね。そこに踏みとどまってがんばれ、なんて、言うのは簡単じゃない。だけど当の本人にしてみりゃ、たまったものじゃない。痛みの度合いなんて、皆それぞれ違うのに、あの子より感じ方が鈍い連中が、その鈍い神経であの子を傷つけていたから、生きたいのだったら、生きやすい方においで、と言ってやっただけ。そうしてもいい環境だったら、黙ってることはない、と思ったからね」「環境?」「たとえばね」 彼女は胸の前で腕を組む。「ものすごく、貧しい環境に生まれてきた子だったとするでしょ。そういう子はそういうところでがんばっているんだから、って言葉で責めることってあるじゃないの」「ありますね」 好きではない論法だ。「でもそういう子は、そこに生まれて、そういう現実を見て育って、ある程度の耐久力がある訳じゃないの。誰に教わるでもなく。でもあの子にしても、たとえばあなたにしてもそうかもしれないけれど、食べることや生活費に困らない子供に、いきなり同じトラブルを突きつけたらどう?」「困りますね」「それでも現実は現実、と言えば言えるし、そんな場合にぶち当たったら、そんな甘っちょろいこと言ってどうする、ってこともあるわよ。だけどあの子はそうじゃなかったからね。環境ってのはそういうこと。そういう現実が来る可能性が全くない、とは言わないけど、現実問題として、あの子がそんな状況におかれた訳じゃないでしょ。無理なたとえを持ち出して人を非難するのは楽よね。一人一人傷の負い方ってのは違うのにね」 伏せ加減にした目の、眉だけ彼女はひょい、と上げた。最後のほうはほとんどつぶやきの様だった。私に話している、というより、自分自身に言い聞かせているような気もした。私は話を変えた。「…けど、しばらく入院することになると、大変ですよね」「ああ、あの子保険に入っている、って言ったから、ある程度はそこから出せる様よ」「保険」 なるほど。その程度に心配はしていたのだ。「ただ、もし脊髄のほうに響いていたとすると、もしかしたら、今までのようなバイトをして行くことは」 ぐっ、と私は両手を握りしめた。「…まりえさん、あの」「なあに?」 こちらを向く。その拍子に髪がざらり、と揺れた。「それって、確実なんですか?」「何が?」「その…サラダが、脊髄がどうの、って…」 彼女はそのあたりを結構ぼんやりとした言葉で覆っている。その中身が何なのか、私は薄々感づいている。それはひどく嫌な予想だ。聞きたくない、と思わせるたぐいのものだ。「…それは、どういうことなんですか?」 彼女はゆっくりと目を閉じた。「それは、サラダが、どうなってしまう、ということなんですか?」
2006.02.26
コメント(0)
ぐらり、と私は一瞬、目の前が薄暗くなるような気がした。息が、詰まる。 ―――市は、東京からそう遠くはないが、まだ一応山梨の部類だ。何で、そんなところに。『加納さん?』「な…にが、あったんですか? サラダ、けがでもしたんですか? 事故? それとも病気?」 立て続けに私は彼女に問いかけていた。『加納さん、ニュースまだ見てない?』 ニュース?「まさか」 少しの間が、空く。その時私は、彼女の受話器の向こう側では、騒がしい病院の廊下の様子に気づいた。確か、死亡したひとも出た、と後輩OLちゃんが言ってた…『…あ、心配しないでも大丈夫。命に別状はないのよ。ただ、足をやられて』「足を」 ばん、と思わずタイルの壁に背中をもたれさせる。『しばらく動かせそうにないのよ。だからこっちでしばらく入院するってことで』 私はすぐにはまりえさんのその言葉に答えられなかった。ひどい傷を負ったのか、それとも折れたのか、ひびくらいだったら、そんな、しばらく入院ということもあるまい。いや、折ったとしても、東京の、こっちにすぐに移ってくることもできるはず…だけど… 頭の中で、悪い想像ばかりがぐるぐるぐるぐる周り出す。くらくらくらくら。頭の芯が、揺らぎ出す。『加納さん? ミサキさん!?』 名前を呼ばれて、私ははっとする。声の感じは違うけれど、発音が、サラダと彼女は良く似ていた。「…だ、大丈夫です。…しばらく、動かせないほどの、ケガなんですか?」『まだよく判らないのよ』「判らないって」『もしかしたら、脊髄のほうにも』 ぞく。私はケイタイを握りしめる。彼女の言葉の意味が、私にも想像できた。彼女もまた、それを口にしたくないのだろう。「…わ、…かりました。できるだけ、早く、そちらに向かいます。あの、住所を教えてください。…それと、今中央本線のダイヤが乱れてるってことですけど…」 そうなのよ、と彼女は言った。『だからそのあたりも見計らって来てほしいの。…でも無理はしないでね。あなたに無理をさせたことを知ったら、わたしが菜野にしかられてしまうから』 シンク横に置いてある、来客接待用の依頼書を一枚破くと、私は胸ポケットに入れておいたボールペンで、彼女の言う場所を書き取る。全然知らない住所だ。全然知らない地名だ。サラダにまるで似合わないじゃない。 ありがとうございました、と言って私は電話を切った。時計を見る。まだ二時半だ。何でまだ二時半なんだろう。定時は一応五時だ。忙しい用事は無い。無いはずだ。正直、あったとしても、すべて放り投げて行きたいぐらいだ。 私はそれでも、なるべく平静を装って、自分の席に戻った。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。あとどれだけ仕事が残っている? ちゃんと定時で終わらせることができる? 願わくば、何もこの後に入ってこないことを! ボスOLさんのところに行き、急だけど明日休む、という意味のことを言った。彼女はさりげなく理由を私に聞いてきたので、私は正直に言った。「同居している友達が事故に遭って…入院したんです。少し遠いので、仕事終わってから、そっちに荷物とか持っていかなくてはならないので…」 すると彼女は目を大きく見開いた。「…それだったら、今からでも行ってらっしゃいよ!」「いいんですか?」「いいも悪いも」 だとしたら。時計を見る。三時ぐらいだ。上司は席に居ない。「仕事、急ぎのものは無いでしょう?」「ええ、まあ今のところは」 じゃあ大丈夫よ、とボスOLさんは言った。それではすみませんお願いします、と私は頭を下げた。おそらくは「お三時」で何処かでコーヒーでも呑んでいるのではないかと思われる。頭を下げたのは、その上司に伝えておいてくれ、という意味もあった。 慌ててロッカー室に飛び込み、すぐさま着替え、会社を飛び出したのは、その会話から五分足らずだった。 そのまま部屋に戻り、荷物をまとめ、まりえさんの言った病院へ向かうべく、駅へと向かった。 その病院に着いた時には、既にとっぶりと周囲は暗くなっていた。いやそれだけでない。その地自体が暗かった。住宅地から少し離れた場所にあるせいか、県境を越えているからか、それは判らなかったが、とにかく外は暗かった。星がぴかぴかと瞬いていた。実家のあるところでも、こんな風に星は見えなかった。 受付でサラダが入れられている部屋の番号を聞き、私は鈍い光の廊下を荷物を抱えて歩き出した。 病院の持つこの雰囲気は嫌いだ。エレベーターの文字盤が、ひどく古いもののようで、灰色の上に点滅するオレンジ色が、背中をぞくぞくとさせる。何が怖い、というのではない。ただ怖いのだ。何がこの先に待ち受けているか判らないせいかもしれない。 病室棟は何やらまだざわついていた。どうやら同類項か多いらしい。荷物を持ち、慣れない足取りでうろうろしている人があちこちで見られる。事故は一体どのくらいの規模だったのだろう。ニュースをちゃんと見てくれば良かった、とあらためて思う。 ダイヤは乱れに乱れていたが、それでも一応列車は動いていた。時刻表を気にしなければ、とにかく待っていれば乗れそうだったので、やってきた列車に乗って行った。 窓の外の風景は、どんどん暗くなっていく。普段そう見ることの無い景色だから、いつもだったら結構見入っていることが多いのに、今日はそれどころではなかった。 言われた部屋の番号をやっと見つけて、そこが個室であることを確認して、ノックした。どうぞ、とアルトの声がした。「…こんばんわ…」 我ながら間抜けな挨拶だとは思うのだが、他にどう言いようがあっただろう? 椅子に座っていた女性が立ち上がった。そう大きくはない。どちらかというと小柄だ。ボーダーのTシャツを中に着込み、シャツを羽織っている。「あなた」「初めまして。加納美咲です」「ええ…ええ、来てくれてどうもありがとう」「これ、彼女の荷物です。…どうなんですか?」 本人は、ベッドの上だった。ぐっすりと眠っているようだった。「うん、今は麻酔が効いてるから」「…ってことは、手術か何かしたんですか?」「ええ、結構強く背中を打ってたみたいで…足自体も骨折していたし、…それ以外は、まあ、腕も頭にも何も問題はない、ってことなんだけど…」 私は何も返せずに、眠る彼女を見下ろした。髪が乱れている。顔には取りきれなかった、泥だかすすの様な汚れがついている。「ぶつかった車両ではないのよ」 黙ってうなづいた。「だけどそれで脱線して、転がってしまった車両に居たの。それで投げ出されてしまったんだ、って聞いたのよ」
2006.02.25
コメント(0)
「あれ主任、今日出張じゃなかったんですか?」 後輩OLちゃんが、お昼頃会社に出てきた上司に向かって言う。彼は今日確か、長野だか山梨だかに出張のはずだったのに。私は内心がっかりする。せっかく今日は少し風通しが良くなると思ったんだけど。「や、出張だったんだけどな。中央本線が何か事故起こしたらしくて、ダイヤが滅茶苦茶になってるらしいんだ」「事故お?」 後輩OLちゃんは、首をかしげるが早いが、さくさくとPCをネットにつないで、ニュース速報を画面に映し出した。「…車両が線路につっこんできて…あ、これですね」「それって結構ひどいものじゃないの?」「ひどそうですよ~ほら見てくださいよ先輩、数人亡くなったひとも居るみたいですよ」「そりゃあなあ、横から突っ込まれりゃ、その衝撃だけでもとんでもないものだからなあ」 上司はそう言いながら煙草に火をつけた。「おかげで特急も全部今運休中。こういう時、東海道とかだったらなあ。まだ在来線が事故っても、新幹線とか、私鉄とかいろいろあるんだが」 そういうものなのか、と私はその時はそれ以上の興味も無く、またすぐに仕事に戻った。 昼過ぎに、ぴろぴろ、と着メロがいきなり鳴った。 私は慌てて受信する。仕事中だった。普段は仕事中にケイタイは鳴らさない。更衣室のロッカーの中へ入れておく。だけど今日は電話を待っていたのだ。 サラダが、三日の予定で実家に行っている。突然どうしたの、と訊ねたら、何となく、と答えた。 そう答える時は、だいたい何か結構深刻なことを考えていることが多い。彼女はそうだ。 一年も同居していれば、さすがにそういうことも判ってくる。 そう。一年が経っていた。私は相変わらずあの会社に勤めている。そしてあのナンバー2のOLさんが結婚するから、と辞めていった。 結構これは不意打ちというか、早業というか。あの「向こうの仕事に専念したい」という彼女とはまた別の意味で、唐突だった。 何せ何処に浮いた噂があるんだ、という人だったのだ。あの温厚な笑みの下では、結局何を考えていたのか、私にはさっぱり判らない。きっといい家庭を作ることだろう。何を考えていたかは判らないが、彼女が居たおかげで、職場がスムーズに動いていたということは確かにあるのだ。 何処かの本で、OLの位置関係を身体にたとえたものがあったけれど、あのばりばりに働く最年長のボスが「頭」とすれば、彼女は「心臓」だった訳だ。何だかんだで、私達は、ボスの彼女には陰で首をひねっていたことがあったのだが、彼女に関しては、素直にはいはいと言うことを聞いた。それは彼女の性格もあったろうし、スタンスもあっただろう。 そして新しい子が二名増えていた。…結局今私は、ナンバー2の位置に居る訳だが…正直、重い。 確かに未来にできるカフェの図を思い描けば、毎日の仕事もそう苦にはならない。残業に関しても、「ここまでの残業はお金になるがここからはサービスだ」とか考えてそれまで以上にきっちり時間で終えるとこは終わらせて、上司に嫌な顔されようが、そんなことは大したことではない。 だけど、どうもそのボス的OLさんが、配置換えするという噂があったのだ。女性で配置換えはそうそうあるものではない。つまりそれは、彼女がただの事務職から、管理職へとステップアップしようとしている、ということらしい。そして会社側も「優秀な」彼女をとうとう認めたということだ。 それはそれでいい。めでたいことだ。 だが私からしてみると、彼女が居たおかげで何となくやらずに済んでいたことが自分にのしかかってくるおそれがある。それは正直、避けたい。 逃げだというなら言えばいい。しかしそんなことは、会社では絶対口にはしないようにしていた。まだもう少し、ずるずると居座り続けなくてはならないのだ。固定の収入は、無くすのは惜しい。 この一年で、私とサラダはずいぶんがんばったと思う。予定の金額を越えて、200万弱、今私達の共同の通帳には入っている。ただし私はボーナスを必要経費以外全部そこにつぎ込んでいる。これを使えばすっからかん、という感じだ。 このぶんだと、あと一年みっちり働けば、資金はできる。そう私達はふんでいたのだ。 だからもう一年、保ってくれ、とボスOLさんには思わずにはいられない。利己的だとは思うのだが、正直な気持ちだ。 けれどそんな私の憂鬱は、サラダには伝わってしまうらしい。彼女は何も言わないが、バイトしているカフェからケーキを持ってきてくれたり、休みの日など、カードのモデルになって、などおどけて言うものだ。 そして突然の帰省である。 一体何があったのだろう。理由はそれ以上、結局は聞かなかったのだが、駅に着いたら電話してよ、と私は言っておいた。 しかし予定の時間より、何か妙に早い。だってまだ、午後三時にもなっていない。彼女のことだから、私がまだ仕事中だということは知っているだろう。そんな時間に、「着いたから」と言ってかけてくるような奴ではないし、もし着いたなら、ある程度時間をつぶしているはずだ。 なのに。「もしもし」 小声で答える。上司の目がどうも気になる。ちろり、と一瞬だけ見て、すぐに書類のほうに視線は戻ったが、ぬるり、とした感触が一瞬背中に広がった。『もしもし、加納美咲さんですか?』 そうですが、と答えてから、私は聞いたことのない声に、一瞬とまどった。落ち着いた、アルトの声だった。「そうですが…」 言いながら、私は給湯室へとそっと向かった。まあそっと、と言ったところで、たかが知れている。「どなたですか?」『菜野がいつもお世話になっております』「は」『菜野の叔母で、宇田川まりえと申します』 まりえさん、とサラダが呼んでいた―――彼女の味方だった、おばさん?「あ…初めまして」 つい頭も下げてしまう。目の前にそのひとが居る訳でもないのに。「…あの、それで、何の…」『えー…加納さん、今あの子と一緒に暮らしてるんですよね』「はい。そうですが…」 どうも歯切れが悪い。『お仕事が終わってからで無論かまわないのですが、あの子の着替えとか、持ってきていただけませんか?』「え?」 言っていることの意味が、すぐには分からなかった。『下着とか…Tシャツとか』「ちょ、ちょっと、何が何なんですか?」 何か、ひどく嫌な予感がした。「まりえさん、今すみません、あなた、どちらに居られるんですか?」 名前で呼んでしまったことにも私は気づいていなかった。それはそうだろう。私は彼女のことはこの一年間、サラダからよく聞いていた。だから私の頭の中では、彼女はあくまで「まりえさん」だった。宇田川さん、とかそういう堅い名前ではなかったのだ。『―――市の、市民病院です』
2006.02.24
コメント(0)
マキノ君単品で、だったら私は逆に驚かなかっただろう。彼はピアノをやっていたということだから、そういう曲の作り方とかには長けているのではないかと思う。しかし違った。おおもとはオズさんが作ったのだ、という。「俺はその手助けをしただけ」とマキノ君は言った。「俺にはそういうものは、浮かばないの」 にっこりと笑って彼は言った。そういうこともあるのだな、と私は思った。そしてオズさんは音階がある楽器は基本的にできない。だったらいい組み合わせなのかもしれないな、と私にもうなづけるところだった。 彼等が作った曲は、一つは割と明るめな…ポップな曲だったが、もう一つが、バラードだった。と言うか、ワルツだった。三拍子の、不安定なものを持った、綺麗な曲だった。「まあ俺だったら絶対作らないだろうなあ」と兄貴はそれを二人から披露された時、呆れ半分、感心半分で言ったそうである。 いずれにせよ、メンバー全員が何らかの形で原曲を作ることができる、というのは強い。そして立場として有効である。まだ売れもしないうちから言っては何だが、印税の問題、というのもある。メンバーの誰かに収入が偏る、というのはあまりいい気はしないのではないだろうか。 何だかんだ言って、原曲はほぼ全部兄貴のものだったのがそれまでのRINGERだ。その状態だといつか来るかもしれない袋小路という奴も、違う色合いの曲が常に用意されているならば、はまらないで済むかもしれない。 無論すぐにそのデビウ曲への反応は出なかった。正直、全く無視されていたと言ってもいい。そんなものだよなあ、と皆顔を合わせて笑ったが、本心からの笑いではないことは、すぐに判った。「そういう時には美味しいものを挿し入れしてやらなくちゃあ」とサラダが言うので、私はカフェごはんのために、と試作しているあれこれを彼等に回していた。 また菓子かよ、と兄貴は言ったが、高校生組、オズさんやその友達の紗里さん、ローディのハシモト君やフェザーズ事務所の事務員嬢達には好評だった。「ちゃんと感想聞かせてくださいねっ」と笑顔を振りまいておいたおかげで、焼き菓子の類は、結構どんなものがいいのかめどがついてきている。 焼き菓子以外のものは、テイクアウトできるメニューで試してみた。例えばサンドウイッチ。普通のサンドから、そこに備え付けのオーブントースターで温めると美味しいホットサンド、ベーグルサンドの時もあれば、パニーニにすることもあった。兄貴とオズさんはあまりこじゃれた物は好きではない。というか、どうでもいいらしい。そういうものが結構好きなのはやっぱり高校生組だったりする。「甘いのもいいけどさー、さすがにミスドでバイトしていた時には参ったよなー」とカナイ君は言っていた。「そういうもの?」と少し強めにスパイスを効かせた、厚手のクッキーを口にしながらマキノ君は友人に問いかける。「おう。だってさ、油使ってるんだぜ? 油と砂糖。甘ったるいにおいがなあ…」「そぉ? 俺は結構あの前に通るとする匂いって好きだけど」「お前はそういうけどなー、それが毎日、になってみろよ。しばらく甘いものは見たくなかったぜ?」 道理で当時、彼がスナック菓子に目を輝かせたものだ。 しかしそれを考えると、単に甘いものだけのデザートというのも何だかな、という気もする…「とりあえず、大きな店はできないよ」とサラダは言った。そりゃそうだ、とテーブルの向こう側で私もうなづいた。「それと、あくまでカフェ…飲み物とゆっくりできる時間を中心にするのか、それともごはんできる場所、というのがいいのか、そのあたりをきっちり考えないとね」「ごはんができるのが理想だけど」「ただキッチンの大きさにもよるよね」 あ、と私は顔を上げた。「例えばあたし達で借りることができた物件が、たまたまキッチンの設備が小さくて、凝った料理はできない、とか素早く料理はできない、って場合もあるじゃない。その時には、あくまでお茶と、数絞ったお菓子が中心ってことになるよね」「うん。確かに」 サラダは昼間のバイトの他に、最近はカフェでバイトも入れるようになった。夜だ。昼間のバイトが9時-5時のものだとすると、その後、ちょっとごはん入れて、6時-10時くらいでカフェのバイトを入れている。「体には気を付けてよ」と言ったら、あたしの方にも残業が多いじゃない、と彼女は切り返した。 それはそうだけど。「でも緊張の度合いってものが」「やーだ、バイトだもん。っていう目で向こうもある程度見てくれてるから、大丈夫大丈夫」 そうは言うけれど。 そうは言うけれど、サラダは決して「バイト」だからって手を抜くことが無いことを私は知っている。自分のやっていることに、後悔をしたくないのだ。 それは判っている。そしてそれは正しいことだ。 だけど、サラダは一つだけ計算に入れていない。自分の体のことだけば。 結構無茶やっても平気な程の体力を持っていることは知っている。それに私より若い。だから多少の無理もきく。 だけど。 訳なく、私の中では不安があった。 * そしてその不安が的中した。
2006.02.23
コメント(0)
兄貴達のバンドは、それから約半年後にメジャーデビウした。新年早々、というところだ。 格別大きな宣伝を打った訳ではない。どこにでもある新人バンドが一つぽん、と出ただけだ。音楽業界全体を見れば。 それまでのインディーズのシーンでも、そう大きな売り上げがあった訳ではない。よく考えてみれば、彼等はインディーで「CDは」出していないのだ。結局カセット止まりである。 戦略からすれば、一年ほど―――そう、例えばカナイ君とマキノ君が高校生のうちは、インディでの実績を上げておいて、その「実力の」ネームバリューをひっさげて、メジャー展開してもいいはずだった。 ただそれには兄貴が首を横に振ったのだと比企さんは言った。自分とオズさんはもう充分待った、と。それが食っていくための仕事にならないことには意味が無いのだ、と。 高校生組は、と言えば、ちょうどいい、と言った。「俺はどうせ、大学行ったって目的なんか無いし。だったらこのままこの世界に飛び込んでみたい」とカナイ君は言ったらしい。 問題はもともと音大を目指していたらしいマキノ君だったが、彼は彼で、何か思うところがあったのだろう。夏のある日、メンバーを連れて地元に帰省し、そこでどういう話し合いがあったのだか、彼は実家を説得して帰ってきた。 暮林さんも比企さんも、帰ってきた彼等に訊ねたが、彼等は実にその点において口が堅かった。結束が強かった。 さてそのあたりからなんだが、どうもオズさんとマキノ君の接近度が強くなってきたように私には思えた。いや無論、見えるところでどうの、ということではないが、何と言うのだろう? ちょっとした動作が、私の目には引っかかっていた。 一方の兄貴と、ヴォーカリスト君のほうは、と言えば。 そっちのほうがよっぽど「何も無い」ように私には見えた。 実際何かあるのか無いのかすら、私には判らない。兄貴も聞かれれば何かしら言うだろうが、聞かない限り言わない男だ。 ただ、今までと違って、カナイ君は兄貴のところに転がり込んでくることはない。彼は実家に住んで(当然と言えば当然だが)学校に通い、夕方から夜にかけて、RINGERの活動のためにスタジオやら事務所に通ってくる。そしてまた、音楽をはさんでの激しいバトルがあったりするのだ。 音楽。本当に、音楽だけの関係と言っても、決して間違いではないのかもしれない。そもそもそこにそれ以上の関係が今まであったことがおかしいのかもしれない。 あの強い目をした少年は、そのあたりをきっちり分けているのかもしれない。兄貴は兄貴のことだろうから、声に惚れたから人に惚れた云々は当人には言っているのかもしれない。 …でもまあ、結局は兄貴のことだ。 メジャーデビウは正月だったが、その前に、夏と冬に二回、全国ツアーをした。はっきり言って初の全国ツアーだ。…もっとも、マネージャーが車を運転し、ローディ君一人が参加し、後は皆自分達で機材移動とか、食事とか用意する…実に地道なものである。私なんぞ、想像しただけで背中が痛くなりそうだ。 だがさすがに若い二人はもう大はしゃぎだったらしい。そして年寄り組の二人は、と言えば、…何故か全国美味いものめぐりをしていたらしい。 私と兄貴の故郷や、オズさんの故郷のある街にも行ったらしい。私達の故郷はともかく、オズさんの故郷のある港町の場合、さすがに…閑古鳥とまでは行かないが、知名度の薄さが厳しいところだったらしい。 それでもローディのハシモト君(彼は「フェザーズ」の正社員候補生なのだという)によると、その少ない観客は、出てくる時には何か首を傾げたり、物販のカセットに手を出していたりしたそうである。 カセットは、時々手作業でダビングダビングして作っていたらしい。まだ彼等は新しいメンバーでの音源は出していないから、めぐみ君やのよりさんの声の入ったカセットだ。それ以外彼等には売るものなど無い。こんなの売ってどうするの、とカナイ君が言ったかどうかは知らない。 ちなみに何で夏と冬なのか、というと、それが学生の休みだったからである。 正月休みが明けて、私は久しぶりに彼等が居るスタジオに遊びに行った。「あ、美咲さんあけましておめでとーです」 へへへ、と椅子の背に左の腕を投げ出していたカナイ君は私に笑いかけた。「あけましておめでと。兄貴は?」「あ、今日は遅れるんじゃないすかあ?」 のんびりとした調子で、マキノ君も答え、それからあけましておめでとうです、と付け足した。「そしてこれは言い忘れていたけれど、メジャーデビウ、おめでと。ちゃんと発売日に買いに行ったのよ」 ほらほら、と私は彼等の前でCDを振る。「なーんだ、言えば一枚回してくれたんじゃない? ねえ」「んー、どうかなあ」 マキノ君は首を傾げる。穏やかな笑顔の少年だ、と私は彼を見るたびに思う。どうしてこののほほんな少年が、ステージではあんなべきべきべきべきのベースを弾くのか、私にはよく判らないというものだ。大きな目が、ぐい、と見開いて、口をつぐんで、有無を言わせないベースの音を放つ。それがオズさんの安定したドラムの上で動くと、実に面白いグルーヴ感が出るのだ。 そしてカナイ君のヴォーカルは、と言えば。 私は何度か見に行った。確かに、すごい。 一応これでも、RINGERの持ち曲はそれなりに知っていたのだが、それがまるで形を変えてしまっている。知らない曲も数曲あった。 それは兄貴がカナイ君ヴォーカルのために書き下ろしたものもあったし、一曲、カナイ君が作ったという曲もあった。SSでやっていた曲はその曲以外、全てギターのミナト君というひとが作っていたらしい。 ついでに言うなら、そのミナト君のアレンジを、兄貴は全く無視して、このバンドならではのアレンジにすっかり変えてしまった。兄貴にしては珍しく、この曲に関しては、その奇妙な展開に惚れ込んだらしい。一見さわやかな曲なのだが、新生RINGERでは、それは轟音に変わった。 正直、私はこのバンドでそういう音が出せるとは思っていなかった。けどそれは間違いだった。 今までのヴォーカルは結局、皆同じ声だったのだ。 カナイ君は違う。声質的には確かに似ているが、まるで違う。彼の歌には、伝えたい何か、があるのだ。 例えばその新しい、カナイ君の作ったという曲。兄貴はこう言った。聞いた瞬間、頭の中に花畑がぱーっと広がった、と。 じゃあ何でああいうアレンジになるんだ、と聞いたら、こう言いやがったのである。「その花畑を思い切り踏み荒らしてやったら楽しそうじゃないか?」 ふてぶてしい程の笑顔で、兄貴はそう言ったのである。この野郎、と私がその時舌打ちしたのは言うまでもない。 そしてこれが驚いたのだが、オズさんとマキノ君の競作で、二曲、出来上がっていたのである。歌詞はオズさんの原型に、カナイ君が自分の歌いよい様に修正した、という感じだった。 正直、オズさんが曲を作るなどということは聞いたことが無かったので、私は驚いた。そしてそれがマキノ君との競作ということに、二度、驚かされた。
2006.02.22
コメント(0)
一方私の方だが。 兄貴達には今までとまるで変わらない私、という奴を見せつけるがごとく動き回っていたりするのだが、水面下ではまた別の動きをしつつあった。 その一つが、引っ越しである。「家賃もっと安くしようよ」とサラダが提案した。そこで私達は、更新時期でもあったことであるし、と2DKくらいの広さのアパートに引っ越すことにしたのだ。つまりは同居することにしたのだ。 だいたい今までだって、結構同居していたみたいなものだ。隣同士だし、よく一緒に食事していた。 無論同居はそれだけではない。つまりは台所とトイレと風呂が一緒なのだ。朝起きて夜寝る時に相手がこの部屋に居るのだ。そこで一応、プライバシイを考えて、二部屋プラス共同部分、という感じの部屋を探したのだ。 家賃は格安だ。何ったって、築三十年以上経っている物件である。一部屋の作りや、「ユニットバス」な部屋の広さが尋常ではない。 ユニットバスというと、だいたいあのホテルにある、トイレと風呂がくっついているものを想像するだろうが、この場合は違う。単に水回りが一つの部屋に入ってしまった、という感じで、台所と同じくらいの大きさあるのではないか、と思える。 さすがに床のタイルは古い。壁のタイルも、昔通った学校のそれを思わせるが、大家さんがなかなか太っ腹なひとで、「綺麗にするなら改装してもいいよ」と言ってくれた。お言葉に甘えて、いずれはこの風呂場/トイレの壁をクリーム色に一面塗り替えてやろう、とサラダと画策している。 どん、と置かれた浴槽のそばには大きなすのこを置いた。トイレとの間にはカーテンを吊った。 キッチンも、今までよりずっと広い。さすがに古いだけあって、給湯器もついていないのだが、まあそれは後で何とかしよう。私が持ってきたタイルつきのワゴンは元々の役割である調理台兼、に戻り、二人して行った中古家具屋で買ったテーブルと椅子を置いた。椅子は揃いではない。だけど一緒に置くと、サラダが塗り直した色合いのせいだろうか、結構まとまって見える。ペンキ塗りの腕も、慣れたものだ。 引っ越した日には、さすがにその日から料理を作ろう、という気力が起きなかったので、「CUTPLATE」まで食べに出かけた。生活費を切りつめようというのに、最初から外食というのも何だが、そもそも切りつめようという目的が、カフェを本当に作ってしまおう、ということからなのだから、そう無駄でもあるまい。 夢を夢でしておくのは楽しいけれど、現実にしてしまったほうがもっと楽しい。そうサラダは言った。だから一緒にやろう。お金貯めて、場所借りて、内装を思い通りにして。 そんな訳で、まずは先立つものだったのだ。しかし私は一介のOLに過ぎないし、彼女はフリーターだ。この都会で一人暮らしをしている以上、それだけてお金がかかって、貯金どころではない。 ところが二人暮らしになると、まず家賃ががくん、と下がる。その上に古い物件なら尚更だ。私達は、それまで一人で出していた家賃で、二人で充分広々と暮らせることになったのだ。古さは、改造次第で何とかなる。それこそ未来に作るカフェの内装の予行演習だと思えばいい。とにかくそれで、月に二人で5~6万は浮く訳だ。 そして公共料金。電話の権利の解約はしないが、それでも話相手が常に居る、ということは、必要以上の会話の相手を外に求めなくていい訳で。ガスや電気代水道代も、どう考えても、一人の時点より割安になる。 そして食費。これもそうだ。一人分作るよりは、二人分作るほうが楽なのだ。まとめ買いも可能だし、ごはんだって、たくさん一度に炊いたほうが美味しい。 兄貴がちょくちょく誰かと同居していた気持ちも分からなくはない。彼は人の居る気配、という奴には鈍感だったり、もしくはそれを心地よいと思う人種だ。私も彼ほどではないが、それが大丈夫なタイプで本当に良かったと思う。いや、正直言えば、誰かと一緒に居たいのだ。私という人間は。「一月に家賃分で六万。その他で銘々持ち出しで何とか、四万で、まとめて十万貯めようよ」 通帳はミサキさんの名義にしておいてね、とサラダは言った。「何でよ。共同出資するんだから、そういう名義を作ればいいじゃないの」「だって作るあかつきには、あたしミサキさんがオーナーになって欲しいもん。あたしはそうゆうタイプじゃないもん」「タイプってねー」「ともかく、ミサキさんが持ってるほうが安心なんだってば」 そう言われたので、私はとりあえず、郵便貯金に新しく口座を開いた。不況だ何だで、何処の銀行にしたものか、とつい考えた結果だ。「…で、あたしがボーナス期に二、三十万はいけるね」「そんなに出せるの?」 サラダは目を丸くした。「普通の企業ってのは、案外出るもんよ」「だからOLさん達って、海外旅行とかぽんぽん行くんだあ」 へえ、と彼女は肩をすくめた。「そう。だからさ、月給そのものはフリーターもそう変わらないんだけど、正社員の特権ってのはそこにある訳よね。福利厚生とボーナス…そーいえばサラダ、ちゃんとあんた、健康保険料、払ってる?」「払ってるよぉ!」 なら良かった、と私は笑った。「病気にはかからないようにしてるけどね」「そういうもの?」「そういうもの。かからないって思ってれば、かからないってば」 確かに彼女が風邪一つ引いたところ見たことが無いが。「…っとじゃあ、年間に、単純に十二ヶ月だから、120万、とボーナスにいくらかプラスして…」「でもボーナスのほうにあまり期待したくないよ。不公平じゃない」「あたしは出せる立場なんだからいいよ」「ううん、それはそれ。だからまあ…年間、150万は貯められる、かな。上手く行けば」「上手く行かせなくちゃ意味がないでしょうが」 多少嫌みまじりに言ってやったが、彼女は真剣に紙の上で計算をしている。確かにあまり計算は得意そうではない。何処の小学生が計算してるんだ、って大きさで筆算をしていたりする。私はそんな姿につい見入ってしまう。「えーと、じゃあとんとんと上手くいったとしたら、二年で会社作るための資金はたまるね」「そうだね。だけどそれだけじゃあ足りないから…」「うーん」 目標は、三~四年だろう、と私達は予測をつけた。その間にやることは山ほどある。それも仕事の合間だから、目も回る忙しさだろう、と予想された。「あたしカフェのバイト、どっかで仕入れてみるからね」「じゃああたしはもう少し、ちゃんと料理のほうを何とかしなくちゃね」 必要な知識。体験。そして資格。そう言ったものを、私達はチェックし始めていた。 不思議なもので、そういうものができると、普段の仕事でどれだけ面倒だろうが厄介だろうが、とりあえずそれを横に置いておくことができる。 ああそうか、と私はようやくその時思った。 兄貴のように強烈なものではない。だけどそれは確かに、兄貴の音楽とよく似たものだった。大切な、ものだ。 それがあれば、足元がふらつくことが無い。そんな、たった一つの大切なものなのだ、と私は最近判り始めていた。
2006.02.21
コメント(0)
「弾けるんだあ」「マキノはもともとピアノのほうが本業だったってさ」 オズさんは笑った。実際、そう言うだけあって、マキノ君の指は実になめらかに動く。こんな感じ? とか鍵盤を見ずにひらひら、と音を奏でて行く。それに対してカナイ君は、うーん、と真剣な目になったり、目を閉じたりしながら、もう少し上、とかちょっとづつ指令する。こうかな、と首を傾げるマキノ君は、何処か猫を思わせた。 そんな日々がしばらく続き、高校生二人を加えたRINGERは何だかんだ言って、「フェザーズ」という事務所と契約してしまい、何とメジャーデビューのための支度に入ってしまったのだ! いや確かに私も兄貴に決まった、おめでとう、とは言ったが、なかなかそこに現実味を感じなかったのは事実だ。まだ心の何処かで嘘じゃないか、と思っている自分もいるのだ。 だけどスタジオに、その「フェザーズ」の社長の暮林さんとか、彼等を事務所に紹介してくれたPHONOの比企さんがやってきた時には、さすがにそれが現実だと判った。ううむ。 比企さんは兄貴から私のことは聞いていたらしい。時々妹が出入りするから、と。「美咲さん、か。綺麗な名だね」「ありがとうございます。兄貴達、どう思います?」「ふうん?」 すると彼はやや値踏みするような目で私を見た。「君はどっちかというと、頭のいいほうじゃない?」 私は黙って笑った。「ま、出来のいい妹だ、ってケンショーも言ってたけどね。そうだね、僕はRINGERもSSも少し突っつけば化けるな、と思っていたけど、合わせたらどう化学反応起こすか…」「化学反応」「バンド・マジックとも言うけどね」 そう言いながら彼は煙草に火を点けた。あ、嫌い? と点けてから言うのは何だが、聞くだけましかもしれない。「まるで違う二つのバンドがくっつくんだ。何が起こるか判ったものじゃない…でもどうなるか判らないっていう面白さはあるね。ケンショーの作る曲も、カナイ君の声も、充分魅力的だ」「でもプロだし」「プロにはするもんだよ。素質がある奴らを、それで食ってくだけのプロにするのは我々だ。そういう仕事だからね、僕らは」「仕事」 ふと私は、彼に問いかけていた。「…比企さんは、仕事、好きですか?」「好きかどうかと言われれば、まあ好きだけど。…何でそんなこと聞くの」 口元を軽く上げる。「や、別に。何となく興味があって。あまり会ったことが無い職業のひとだから…」「ふうん」 意味ありげに笑う。嫌だなあ、と私は思った。「まあいいけどね。まあ今の仕事もそうだけど、僕は割と、こうゆう風に、面白い人材を見つけて、面白いことをしてくのが好きなんだ」「面白いこと?」「あいにく僕は音楽とかの才能は無いからねえ。別にそういうのが欲しいとも思わないし。ただそういう連中ってだいったい、世渡り下手じゃない」「それは…言えてますねえ」「まあ世渡り下手なくらい、物事に一途じゃないと、モノは作れないのかもしれないけどね。幸か不幸か、僕はそういう体質ではないから、そういうものを外から見て楽しむだけでなく、自分の手でプッシュするってのが好きなんだろうなあ」「じゃ、やっぱり好きなんじゃないですか」「まあね。ただ彼等と違って、始めっからリスクとコストのかかる行動だから『仕事』なんだよ」「リスクとコスト」「結局、そうでしょ?」 そうだろうか、という顔を無意識にしていたに違いない。彼は続けた。「何だってそうでしょ。そこに金がかかった時点で、それはこの社会では『仕事』だよ。金が動けば社会が動く」「…でも、インディの頃のステージだって、そうではないですか? 例えば、知ってるバンドの中には、あくまでそっちは趣味だってひともいるし…」 あのバンドはそうだ。ベルファはそうだとナナさんは言っていた。「そうだね。だから自分が出すコストより手に入れる利益が多くて、それで食ってくことができる場合、と補足しなくちゃならないのかなあ。コストコストコストなのは趣味。だけどコスト支払ってる分だけ、責任は要らない。自由勝手気ままにできる」「責任、ですか」「金払ってもらって生活支えてもらっている以上、絶対に、ロクでも無い音楽は作っちゃいけないんだよ? そして僕等は、それをハイクオリティにするために切磋琢磨する訳ざあ。まあ、見つけた奴らが原石だ、ってこともあるから、僕等のカット次第で輝きが鈍る場合もあるから、そのあたりは僕等も慎重で」 おっと言い過ぎた、と彼は笑った。「正直、前のRINGERや前のSSだと、ちょっと手を掛けなくちゃなあ、と思ってたんだ」「じゃ、今はいいんですか?」「と言うか、無法地帯にしておいたほうが面白そうだ」「無法地帯…」 私は絶句する。「僕はねえ、割と前からRINGERは見てきたんだけど、ケンショーがヴォーカルと言い合いできるなんて、考えられなかったんだよ? 音楽の点で」「そうなんですか?」「ケンショーは音楽を作るという点についてはワンマンだったろ」「…さあ…」「そうだった、と思うね。オズ君もそう言っていたし。彼はプレイヤー気質の人間だから、ケンショーの曲をどう生かすか、ということに気が回ってたほうだし。とにかく代々のヴォーカルは、奴に口を挟めるほど気が強くなかったし、音楽もそれほど好きではなかったじゃないかな?」「めぐみ君は歌うの、好きだったけど…」「うん、彼は好きそうだね。だけど、好きだけじゃ、辛いよ。こういう世界は。僕は彼に関しては、歌う姿しか知らなかったけど…」 比企さんは軽く目を伏せた。「ああいう子が、あの世界でつぶれて行った姿を幾つも見てきた。だから正直、抜けてくれて良かった、と思ってる」「カナイ君なら、大丈夫ですか? めぐみ君よりずっと若いですけど」「歳は関係ないんだよ」 灰皿を引き寄せて、たまった灰を落とした。「カナイ君は、『攻撃は最大の防御』だからねえ」 そういう子なのか。はあ、と私はうなづくしかなかった。確かに比企さんの言うめぐみ君像は当たっている。彼は毎日毎日起こっていく物事を、いちいち心にすりつけては、かすり傷を増やしていた。無論兄貴だってそれはあり得るだろうが、…彼はそれ以上に、回復力が強かったのだ。「ま、だからその無法地帯でどう奴らが、切磋琢磨してくか、ってのを僕も見たくてね」 にやり、と比企さんは笑った。食えないひとだ。
2006.02.20
コメント(0)
新しいヴォーカルはカナイ君、と言う。仮名のカナイ君、ということらしい。最初聞いた時には金井君とか金居君とかの字が頭に浮かんだのだが、なかなか珍しい名だ。 一方ベースの子はマキノ君という。こっちは浮かんだ通り、牧野くんらしい。私の故郷にはよくあった名前だが、出てきたのは違う地方らしい。 二人ともどっちかというと、ロック少年の必須条件のように痩せているほうではあるのだが、カナイ君のほうがまだ伸びそうな雰囲気はある。腕の細さが、まだまだいける、と言いたげだ。整っているほうだとは思うのだが、かと言って、強烈に目立つという顔でもない。まあ普通の高校生のガキ、という感じだ。実際、スタジオに来ても、マキノ君と一緒にはしゃいでいるあたりは、ほんっとうに高校生なのだなあ、と思わずにはいられない。 高校生。私が、そして兄貴やオズさんが当の昔に通り過ぎてきた時間。兄貴は学校に行った時間は少なかっただろうが、それでも一応高校生という時間を過ごしてきた。教室で休み時間や放課後に騒ぐ男子の姿。笑い声。無闇な食欲。そんなものが一気に思い出させる。 そう、彼等は実に欠食児童のようだった。何だかなあ、と思いつつ、私は今までより頻繁に差し入れに行くようになっていた。ただし、代々のヴォーカルの時のように、ケーキとか持ってくことはしない。彼等には、何と言ってもスナック菓子だ。コンビニやスーパーで安く沢山買えるものだ。悔しいことに、そんなものを実にぼりぼりぼりぼりやっていながら、カナイ君もマキノ君もまるで太るということとは無縁のようだった。 マキノ君など、それこそ華奢なのに、何処にそんな量入ってしまうのだろう、というくらいよく食べる。しかし聞くところによると、彼は地方出で、マンションに一人暮らしなのだという。とすると、栄養が偏っている可能性はある。せっかくこの子は猫を思い出させる可愛らしさを持っているのだから、お肌が荒れるようなことになるのは嬉しくないのだが。 そして彼等は、と言えば、「ケンショーの出来のいい妹」と、やっぱり私のことを認識したようだ。それはそうだ。彼等には、それ以上の顔を見せたくはなかった。外面だ。 さて。そのカナイ君マキノ君がどんなヴォーカリストなのか、ベーシストなのか、私が知るまでにはもう少し時間が必要だった。兄貴もオズさんも知ってはいるようだったが、説明はできないようだった。「兄貴の好みなんでしょ?」 ううん、とスタジオの時間待ちのオズさんは眉を寄せた。ジャニーズ顔が微妙に歪む。隣の椅子に掛けて、私は問いかける。夕暮れの光が、廊下の窓からざっと射し込んでいる。日に日にその時間は遅くなってきている。「確かにそうなのかもしれないけど…でもいつものとはちょっと違うんだよなあ」「違う、の?」 どういうところが、と私はオズさんを問いつめる。「俺はあまり言葉では説明が上手くできないからなあ…」「上手くなくたっていいわよ」「うーん…そうだなあ…」 彼はふわっとした髪をかき回した。「何かなあ…ほら、今までのウチのヴォーカルって、わりと感情的だけど、ふわふわしてたじゃない」「ふわふわ?」「めぐみにしても何か俺としては、あいつの声聞きながら叩いてると、ちょっと頭くらっとしたんだよなあ」「頭くらっと?」 それは何となく危ないような。「のよりちゃんにしても、ハコザキにしても、割とそういうふわふわ感はあったな。…まあ、めぐみがその中では群を抜いてたんだけどね」「カナイ君は違うの?」「違うな」 オズさんは断言した。「だから…声質としては、似てるって言えば似てるのかもしれないけれど、全然ふわふわじゃないんだよな。どっちかというと、がーっと」 オズさんは腕を上げ、それをすっと前に突きだした。「がーっと?」 私は問い返す。何処かでその言い方を聞いたことがあるような気がする。「何って言うか…声は似てる。だけど、何か、…そうだな、例えば、ステージを見てない客がフロアの後ろに居るとするだろ?」「うん」「その一番後ろの客の首根っこひっ掴んで、『おらおらおらこっち向け!!』って感じ」「げ。それ凄くない?」「だから、凄いんだってば。面と向かっていうのは恥ずかしいけれど、俺からしても結構強烈だったもんなあ。まあでも、めぐみが居なくなった時の、あの日のステージの時には助かったけどな」「そうなの?」「うん。あいつが消えてから、すぐにライヴ予定は入ってたんだ。それがカナイとマキノの居たSSも出るイベントでね。うちは仕方ないから、トーク・ライヴみたいなことにしてしまったけれど、SS目当ての客もかなり多かったおかげで、助かった。その時には俺も始めて聞いたんだけど」「へえ」「でもそれが、SS最後のステージになってしまったんだよなあ。結局」「最後?」「ケンショーの奴、その時のカナイ見て、バンドに入れよう、っていきなり俺に言ったんだぜ? めぐみ消えて、まだ一日二日ってとこでだよ」「すっごい、兄貴らしいよね」「全くだよな」 私達は苦笑した。「ま、実際俺は奴がカナイを手に入れられるとは、思ってなかったよ」「そうなの?」 ああ、とオズさんは膝の上に肘を置く。「今までの奴ってみんな、ケンショーの押しには結局負けただろ? でもカナイってそういう奴じゃないんだよな。…正直、今見てて、奴のほうが、ケンショーを振り回してる。俺にはそう見えるんだけど」 ううむ。 しかし言われてみればそうだ。練習している所を見ていても、兄貴とカナイ君ときたら。「ちょっと待てよ、何でここでこの音なんだよ!」 少年は兄貴にかみついてくる。「出ないのか?」「出るよ! そうじゃなくてさ、ここは上がらないほうが、もっと広がりが出ると思う!」「広がりかあ? 俺はどっちかというと、ビルとビルの合間みたいな感じで作ったんだがな」「だとしても、だよ! 今ここで上がるより、後で一気に上がったほうが、あんたの言うビルとビルの間だったとしても、目一杯の落差を感じさせるじゃないか」「ふうん?」「違うかよ?」「歌メロはお前が歌うものだけどな。だったらちょっと時間やるから作ってみろよ。それで納得したら変えるぜ」 おお、とカナイ君はマキノ君にちょっと音くれ、と言ってピアノのところへ引っ張って行った。どうも彼は楽器はまるで駄目らしい。マキノ君は逆にオールマイティらしく、ピアノの魔えに座ると、さらさら、とそれまでの歌メロを弾きだした。
2006.02.19
コメント(0)
…期待されていた息子。自分達の子供だから、いつかはマトモな生活になるだろうと期待する両親。放っておいてくれ、と兄貴は無言で抗議した。それでも未だに両親には判らない。「おばさんのとこに、飛び出したのは15歳の時。転校手続きをしてくれたし、保護者もちゃんとしてくれた。そりゃあ色んなこと、自分でしなくちゃならなかったけど…それが良かったんだね。成績なんか無茶苦茶悪かったけど、あ、美術と国語は良かったよ」 あはは、と彼女は笑う。「進学したくなければしなくていい、って言ったし、したいのだったら、できる範囲のことはしてあげる、って言ってくれた。だからあたしは高校じゃなくてね、美術系の専門学校行ったんだけど」「あ、それで」 うん、と彼女はうなづく。ポストカードに描いてた絵は、全く下地が無かった訳ではないのだ。「ただ、その学校行ってる時に、おばさんが結婚することになったの」「結婚? …ってそれは結構」「遅いって言うか。でもずっと付き合ってたひとらしいよ。実際よくそのひとのとこに泊まりに行ってたりしたし。何かさあ、その二人は見てても気持ち良かったな。その相手のひとは、おばさんとは違って、ごくフツーの会社のひとなんだけど」「え? おばさんって何してるの?」「雑誌の編集だって言ってた。ただ何の雑誌かは結局教えてくれなかったけど」「へえ」「そういうことしたくて、田舎から一人出てきて、ずっとやってきたひとなんだよね。でまあ、時々同僚らしい男のひとも来たりするんだけど、ぜーんぜん色気もへったくれもないの。だけどその相手のひとには違ったんだよね。何か可愛いの」「か、わいい?」「で、そのひともおばさんをすごく甘やかすんだよね。あ、すげえいいなあ、ってあたし思ったなあ。その相手のひとが普段会社でどういうひとなのか、とかあたしまるで知らないんだけどさあ、二人とも三十代後半、とかまるで思えないほどにらぶらぶなのよねえ。こーんな感じに髪の毛とかわしゃわしゃしたりさあ」 そう言って彼女は、私の髪をくしゃくしゃにした。心地よい、柔らかな手の動き。「だからその時思ったなあ。何か、こんな感じに、誰でもいいから、シアワセになりたいなーって」「こんな風?」「普段がどんなにきつくても、そのひとと居る時には、のんびり気持ちよく、ふわふわとやってくの」 のんびり気持ちよく、ふわふわ。それは私も好きな時間だ。「それがあれば、他の時間がどれだけきつくても、何とかなるじゃない。あたしはさあ、ミサキさん、別に何が欲しいこれが欲しい何になりたいなんて思ったことないよ。ただこうゆう時間がいつもあって、それが一生続けばいいな、ってそれだけなんだもの。それが悪い、なんて、誰にも言わせたくないよ。だってそれが必要なんだもの」 生きてく上で。それが省略されている、と私は思った。 確かにそうなのだ。そんなもの、と思うひとは思えばいい。だけど私達は知ってる。私達は何処かでその人達が何の苦労もせずに得てきたものを与えられなかったか、無くしたか――― いずれにせよ、その「無いもの」をいつも何処かで欲しがってるのだ。「ねえ、あたしはミサキさんと居る時間が、好きだよ。あなたと居る時間が、今までで一番楽しい」「誰よりも?」「誰よりも」 そういえば、と私も思い出す。それでも彼女はずっと、私の近くに居たのだ。のよりさんが消えた時も、私が何処かおかしくなっていた間も、ずっと。「いちばん夢が見られるもん。小さい店を出して、好きな雑貨を集めて、好きな音楽を流して、美味しい食事とお茶とお菓子があってさあ」「椅子やテーブルは中古の家具屋に行って?」「拾ったっていいよ」 彼女は笑った。「窓が大きいところでさ。緑をたくさん置いてね。あちこちに置くスタンドのかさはあたしが作ってもいいな。それで、近くに住むアーティストの作品なんかも飾っちゃってさ。あたしのカードもあちこちに飾るんだ」「壁にはペンキを塗らなくちゃならないね。それとも打ちっ放しのコンクリート?」 その調子、とばかりに彼女は黙って笑った。「花を切らさないようにしようね。ありきたりかもしれないけれど、あたしかすみ草好きだな。ガーベラとかはグラスやびんに一本挿しにしてね」「鉢植えのグリーンもいいけど、吊り下げるのもいよね」「でもきっと手入れが悪くてずるずる床まで落ちてしまうよ」 あはは、と私達は笑った。 ああそうか、と気持ちが暖かくなってくるのが分かる。夢を二人で見られるのはこんなに心地よい。 そしてその見ている夢は、次第に具体味を帯びてきている。「あまり大きくなくていいのだから、普通のビルの一室でいいのよ。ただ歩く通りに面しているほうがいいのよね。そうでなきゃ、ちゃんと常連がやってこれるような店にしなくちゃ」「でもそういうとこって入りにくくない?」「隠れ家みたいな店って、最近結構できてきてるのよ。でも最初のひとが入りにくいのは確かに良くないよね。二階くらいで、ちょっと見上げたら、カフェがあることに気付くくらいのものがいいよね」「窓から旗でも吊す?」 * 言い忘れたが、兄貴の新しいヴォーカリストとは既に顔を合わせていた。彼が出ていく少し前のことだ。私は、と言えば、久しぶりに同居人が居る状態に、少し浮かれていたに違いない。 私は兄貴が予約している、というスタジオに、スーパーで買った缶ジュースと箱スナック菓子を一杯に抱えて行った。 正直、どんな子なのか、非常に気になっていたのだ。オズさん情報では、何とそれは現役高校生だ、ということだったから。 そして出会い頭にぶつかった。何だよ、という目で一瞬少年は私を見た。「あ、新しい子達?」「あ、ケンショーさんの妹さん?」 ケンショー「さん」。そうかそういう存在なのか、と私は改めて思った。と言っても、一回り違うのだ。敬意あって当然ってとこか。 私はとりあえず先制攻撃を打ち出した。「あの馬鹿にさんなんて付けなくてもいいわよ!不肖の兄貴、生きてる!?オズさんお久しぶり!ねえねえ君達、少年達よ、甘いもの平気?」 私は一気に言い放った。「み、美咲ちゃん、いつもにも増して元気だね」 オズさんは冷や汗混じりで私に笑顔を向けた。引きつっているってば。そして不肖の兄、はいつものことだと平然としている。「俺は平気」 腕組みをしたヴォーカルの彼は、すぱっと言った。「俺は好きですよ」 こっちがベース、というのがやや驚きだった。どっちかというと、今までの兄貴のシュミからしたら、こっちがヴォーカルではないかと思ったくらいだ。「本当!ねえ、じゃあ練習の後、暇?」 二人は顔を三秒ほど見合わせ、うなづいた。「実はこの先のホテルで…」「それは駄目っすよ!」 間髪入れずにヴォーカルの少年は口を挟んだ。私はすかさずべし、と頭を軽くはたく。「いてーっ!!」 声がスタジオ中に響いた。どき、と心臓が一瞬跳ねる。めぐみ君や前のヴォーカル達とは、少し響き方が違う。私は得意の外面を作る。「阿呆!何考えてる青少年!ホテルのレストランで、ケーキバイキングがあるの!」「あ、ティールームですね」「うん、ケーキ、好きは好きなんだけど、やっぱりちょーっとバイキング一人じゃ行きにくいじゃない…」 めぐみ君が居る時に、サラダは誘いにくかった。だから正直、誰かと一緒に行きたかったのは確かだ。「だから付き合ってほしいと?」「さすがに二人分、全額出すとは言えないけど」「俺、いいですよ。お茶代程度なら出します」 先にベースの子が笑いを浮かべながらそう言った。「あ、じゃ俺も。その位なら」「本当?良かった。何しろうちの猫は甘いもの苦手で」「猫?」「うん、うちの同居人。可愛い子よ」 それは嘘だ。めぐみ君は甘いものが平気だ。いや、好きと言ってもいい。ただ、昼間のケーキバイキングに付き合ってくれないことは本当だ。バイトに思い切り気合いが入っている彼に、それを言い出すことはできなかった。「でもケンショーさんやオズさんじゃまずいんですか?」 ベースの子はは軽く首を傾げた。「…兄貴連れてくのは不毛よっ」 本当は、こっちが甘いものは苦手なんだけどね。「それに兄貴、良かれ悪しかれ、結構目立つののよねえ。恰好悪い訳じゃないし、ポリシーがあんのは判るけど、何っかほら、バランスが悪いと思わない?あれとあたしが並ぶと」「…うーん」 高校生達は顔を見合わせた。やがてヴォーカルの子は、肩をすくめて答えを返した。「ま、つまりは俺達の方がいいセンスしている、ということですか?」「そ。それにやっぱり食べ頃の男の子二人も連れていくのって、結構おねーさんの夢なのよ」 冗談だけど、さ。
2006.02.18
コメント(0)
全212件 (212件中 1-50件目)