うきよの月 0
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ところで。 右大臣源正頼の三条殿には現在、大宮や大殿の上腹の息子達、それにあまたの姫の婿君が一堂に会して住み着いている状態である。 その中でも上達部に属する者は、それぞれ周囲に広い殿舎を建てて、充分に調度や宝を整えている―――のだが。 狭い。 正頼というひとは彼等が他のところに住むことを許さないのであった。 手狭だと不満は皆持っている。しかし不満だからと言って、現在の政治の中心である正頼に正面きって楯突くのも何だし、と面白くないながらも従っている。 ちなみにその一人である仲忠であるが。 彼は母の館も、京極の家もあると言えばあるのだが、格別不満には思わず妻である今上の女一宮のそばに住み着いているくちである。 そんな彼が、ある日その妻に切り出した。「ねえねえ、そろそろ藤壺の御方が退出する頃じゃない?」 女一宮はそういえばそうね、とうなづく。三人目の御子の産み月が近づいているのだ。「今日明日にも女御か后になるかもしれない方が、対にお住まいになるっていうのはどうかな。ちょっと僕としては気が引けるんだけど」「うーん、言われてみればそうよね」 ちなみに現在彼等は女一宮の身分の関係で、この三条殿の中でも高い位置にあたる場所に住んでいる。「だからね、中の大殿は彼女のために空けて、僕等は西の対を住み良いようにしつらえてそっちに移らない?」「……どうでしょ。その辺りはお祖父様にも聞いてみなくちゃ」 その話は早速「お祖父様」である、正頼に届けられた。「……そうだな。なら、いっそもうさすがに手狭になりすぎたことだし、そろそろ皆、住みたい場所に住んでもらうことにするか」 彼が婿君達を住まわせていた理由は二つある。一つは単に、娘の婿は自分の場所を本宅として通わせるという当時の慣習。そしてもう一つは、自分の身近を有望な人材で固めておく、意味。 後者の方が強かったかもしれない。子供が沢山できたのは結果だが、沢山の子供、特に娘はその様に自分の周囲を固める「武器」にすることができる。特に実の息子が大したことがなかった時には。 正直、正頼にとって息子達は婿達より悲しいかな、出来は宜しくない。唯一有望だった仲純は親にも分からない理由で命を落としてしまった。それだけに、彼は婿達を実に大切にしていた。―――つもりだった。 しかしそれが彼等の不満を生み出していたとしたら、対応を考えなくてはならない。彼も手狭だと考えない訳ではなかった。ただ、何かしらの理由がないと、物事は切り出しにくい。 ということで、彼はもっとも良い婿の一人の案に乗ることにした。 聞きつけた婿も息子達も皆それぞれに喜んだ。 藤壺―――あて宮のすぐ下の妹である今宮の婿である、仲忠同様「良い婿」の一人である源涼もまた同様に。 一世の源氏ではあるが、その一方紀伊国の「富の長者」である神南備種松の孫である彼は、近くに豪奢な邸を構えていた。いつ移っても構わなかったのだが、引き留められていたくちである。「あら、でもあて宮が退出してきてからでもいいじゃない」 妻はそう言ってすぐの引っ越しを引き留める。「あなたお迎えしたいでしょ?」「それもそうだね」 彼自身はさほど藤壺には興味は無い。が、藤壺を迎えるという行事は面白そうだ、と思う。 さっさと引っ越した者も居る。六の君の婿のである左大臣藤原忠雅、五の君の婿、民部卿宮など。 七の君の婿である大納言忠俊は三条殿の西北の町に留まっている。ちなみに彼は忠雅の息子である。 正頼の息子達もそれぞれの妻の家へと移っていった。 ちなみに仲忠は宣言通り、西の対に住んでいる。京極の家はまだ大々的に造ろうとはしていない。彼なりに何かしらの考えがあるのだろう、と周囲は考えているのが、当人が黙っているので何も分からない。 さて、これらの人々が去った後、まず仲忠が住んでいた場所は仁寿殿女御に譲られた。 婿や息子達が住んでいた町は藤壺に。 そして空いた中でもう一つの町は大殿の上へと譲られた。 息子達は出てはいったものの、正頼の大殿のすぐ近く、あるいは向かいや隣に住むことにしていた。 その中で遠くなった者も、せいぜいが一町二町程度離れた位で、殿の内に住んでいるのと大して変わらず「軒並み」という程度である。
2011.03.14
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「おお、二人の大将が揃って参内か。梨壺の退出の迎えかな」 しぶる兼雅を仲忠が何とか引きずり出す様にして参内すると、東宮が上機嫌で梨壺へとやってきた。「左大将はまた、久々だな。今年は初めてではないか?」「恐れ入ります。最近は家に籠もってばかりおり、久しく内裏にも参上致しませんでした。突然、我が娘梨壺の君が退出すると聞き、こんな貧乏なので車のお供をする下郎も居ないだろうと私が車添になろうと思いまして」 まあ来てしまったものはどうしようも無い、と兼雅は立て板に水の如く、すらすらと口上を述べてみせる。 東宮は見事に笑ってみせ、機嫌良さげにこう言った。「ずいぶん豪華な車添を梨壺は持っているのだな。貧乏ではなく、とんでもない贅沢者だ。それにしても父や兄という近親を近衛の両大将に持って護衛してくれるなど、昔も今も無いことだ。ありがたいことだな、梨壺よ」 梨壺の君は東宮のその言葉にややはにかんだ様子を見せる。「しかし今退出しなくとも、もう少しゆっくりしてもよかろう? 今月は神祭の行事が多く忙しいというのに。藤壺も退出したいしたいと言っているが、このままではそう簡単にはさせられないな」 そう言って東宮はくっ、と笑った。兼雅の後に控える仲忠はその表情に藤壺の苦労を思った。「……そろそろ。夜も遅くなりますし」 そう仲忠は口を挟む。判った、と東宮は愛想良く仲忠に笑いかけた。 さて、三条堀河の屋敷に退出した梨壺は南の大殿にと住むことになった。食事は兼雅の殿の政所からたいそう豪華なものが用意されていた。 その席で兼雅は久しぶりに娘と語り合う。 だが内容はと言えば。「なあ、この度のそなたの妊娠のことは東宮様はご存じなのだろうな? 本当にご信じになられているのだろうな?」 途端に梨壺の表情がやや怒った様なものに変わる。「い、いや別に私は何も思っては無いが、人々の噂というものは怖いもので、……色々私もついつい思い悩んでしまって。それに東宮様は藤壺の御方のことも何やら仄めかしたろう? そのことはそなたはどう思う?」「父上……」 はあ、と梨壺はため息をつく。そんな話ばかりではせっかくの御馳走も美味しくなくなってしまうではないか。 彼女はできれば、全てにおいて心のどかに過ごしたい方である。別に藤壺が妊娠しようがどっちでもいい。 自分は自分だし彼女は彼女だ。藤壺が美しく才あることも良く知っているしそれに嫉妬する気も無い。 また東宮の寵愛が藤壺に異様な程だと聞けば、自分にはそこまで執着してくれないで良かった、と胸をなで下ろす方なのだ。 無論自分は藤原の家から入内したのだし、せっかくの背の君なのだからできるだけ愛された方がいいのは判ってる。だが正直、しつこすぎるのは嫌なのだ。 母を見ればいい。女三宮も今では生活も気持ちも落ち着いているが、かつてこの父が今の尚侍の元へと去ってしまった時ときたら。入内した自分のことを忘れたかの様に仲忠のことばかり構っていることを知った時は。 そういうのは嫌だ、と梨壺の君は思うのだ。「東宮様の本当のお気持ちは判りませんけど、私が退出したい、と申し出ましたら、お召しがあってもう少し居て欲しい、とは口にされましたが」「……その、することはちゃんとしているのだろうな」「父上」 むっとした顔で彼女は父を見る。「お召しがありましたら、それ相応のことは致します。当然でしょう。東宮様一筋に」 その強気の言葉に、ああやはり仲忠の妹だ、と兼雅は思う。母は違ってもそういうところばかりは似るのだろうか、と。「……なら、いいんだ。安心したよ。私も嬉しい。実に喜ばしいことだ。そなたの懐妊を東宮様が御承知だということさえはっきりしているなら、あとでどんなことが起ころうと恥じることも無い。ただただ喜ばしいというものだ」 心底ほっとした様に、兼雅はうって変わって明るい声になる。 それからは兼雅も浮かれて、会わなかった歳月を埋めるかの様にあれやこれやと梨壺の君と話をした。そしてそのまま娘のもとにその晩は泊まった。 明けて早朝、薬湯をすすめられていた梨壺の君の元に、東宮から文が来た。「昨晩は妙に急いで退出してしまったので、私の方も変なことを言ったかもしれない。以前はそんなこともなかったのに、他の妃達に恨まれる様な今では私もみじめで、あなたの退出を心淋しく思うよ。とりわけ今夜は。 ―――あなたが宮中に居ても会わない日が多かったのに、この春の夜は何とも恋しくて眠れなかった――― まあ、あなたから見たら私など空言びとになっているだろうけどね。 では、希う通りの安産であることを。そして早く参内して欲しい」 そう薄い紫の色紙に書いて、梅の花につけられた文を兼雅も手に取り、何度も何度も目を通しては感激する。 そして梨壺に返しながら言う。「ああこれで安心した。この御文は大事に取っておくんだよ」 使いの者には酒を振る舞ったり、物を与えたり、たいそうなもてなしぶりである。 その間に梨壺の君は返しの文を書く。「昨夜は夜が更けたと申して皆がせき立てましたので、落ち着かなくて失礼申し上げました。『空言びと』とおっしゃる方へ、それだけが私の咎でございましょう。 ―――宮中と里との間を自由に出入りなさる方々を私はよそながら羨ましいと見つつ、随分久しい間退出も致さず宮中で堪えておりましたこと…… たとえお側にお仕えしていましても」 一方仲忠は東宮の文が喜ばしいものであったことを受けて、檜破子などを用意した。そして梨壺の女房達に銘々取らせ、振る舞った。 兼雅は寝殿へと渡っていった。
2009.08.14
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それから程なくして、梨壺の君が退出するという噂が立った。聞きつけた仲忠は早速父の元へと向かった。 だがその父は何やら難しい顔をしている。「なあ仲忠、梨壺が退出するらしいが、どうしたんだろう? 東宮の御寝所で奉仕するのが何よりもの勤めなのに。そう簡単に退出が許されるとは思わないのだが」 仲忠はきょとんとして首を傾げる。もしや父は知らないのだろうか。それとも深読みして? ともかく聞いてみる。「そんなこと無いですよ」「どうして」「この間、梨壺の君本人から聞きましたよ。元々、最近はちょくちょく東宮から召されている様だし」「……そうなのか?」「父上、本当に宮中の噂に疎くなりましたね」 強烈な一撃が仲忠から放たれる。おそらく兼雅自身は梨壺の妊娠自体は知っているだろう。だがそれが果たして本当に東宮の胤なのか疑っているのだ。「先日梨壺に挨拶に行った時、彼女自身から聞きましたよ。東宮様から『藤壺も妊娠している様だ』と言われた、と。『も』ですよ」「『も』か」「『も』ですよ。東宮様ご自身がご存じなんだもの。まさか父上、ご自分の可愛い娘が密通などしていた等と疑ってはいませんよね?」 ははは、と兼雅は力無く笑った。「別に疑ってはいないさ。ただ噂というものは怖いものだからね…… まあともかく、退出するというなら、車をやって迎えに行こうか」 はい、と仲忠はにっこり笑った。 車を整えさせながら兼雅はふと考え、そして頼りがいのある息子に問いかける。「あれの里内裏は一条だが、今は荒れ果てたあそこじゃさすがに可哀想だよね」「当然ですよ。そう、母君である女三宮も今は居られますから、ぜひ三条へ迎えた方がいいです」 よしよし、と兼雅は納得し、一条殿にあった調度などを女三宮の住む辺りの西面、西の対にかけて運ばせる。また女三宮にもその旨を伝え、迎える準備を頼む。 その結果、車が十二、先駆もあちらこちらからわらわらといつの間にか沢山現れる。女三宮の女房も二十人程入り、用意は万端となったところで。「どうして当の父上がお迎えに行かないんですか」 仲忠はむっとして問いかける。兼雅は参内のための服に着替えてもいない。「嫌だよ。だって色々と内裏の方でまた噂が立つだろう? お前も行かない方が」「何言ってるんですか!」 とうとう仲忠は怒鳴った。「女性というのは、しかるべき人がお供をすると、自然、立派に見えるものですよ。大体父上、その昔母上を連れてきた時のことを考えてみてくださいよ。父上だったから皆、落ちぶれた家の娘だった母上に関心を持った訳じゃないですか」「お前の母は違うよ。元々が素晴らしい人だから」「そんなのは、母上の姿を見られる父上や僕くらいしか判らないことでしょう? ああそう、女性達もかともかく世間を納得させるためにも」「何に納得?」「こっそり退出するなんて、噂を認める様なものじゃないですか。後ろめたい思いがあるから、と。僕と父上が重々しく迎えに来て、東宮様もそれをしっかり認めるという形を取れば、馬鹿馬鹿しい噂だってすっ飛ぶというものです」「すっ飛ぶ、ねえ…… けどこのこの間の正頼どのの一件、お前も覚えているだろう? 藤壺の御方の所へぞろぞろ引き連れて、東宮様に惜しまれるのはそれは名誉なことだが、結局勘気に触れて、いろいろややこしいことになったじゃないか……」「はいもう面倒だから皆、父上を参内するための格好に着替えさせてやって」 女房達が仲忠の言葉を合図に、兼雅に飛びかかった。
2009.08.13
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兼雅は一条殿から戻ると、尚侍にため息まじりでこぼす。「ここ数年、一条のことは心に掛かっていたけど、女達が待っているだろうと思うと何となく気が重くて行けなかったんだ」 尚侍は黙って兼雅の話を聞く。このひとは決して強くない。いいひとだが、それが万人に対してのものではない。尚侍はそれを良く知っている。「それで人が居なくなったと聞いたので、今後の建物のことの管理のこともあるし、行ってきたんだ」「そうですか…… 如何でした? あなたから見たご様子は」「辛くなったよ」 そう言って兼雅は尚侍の膝に甘える。「ただただ色々屋がある広い家に、もう住む人も居なくて荒れ果ててしまってね。気配も音も無くて、ただもう草木ばかりが風にそよぐ音ばかり」 荒涼とした風景が尚侍の心の中にも浮かぶ。ああこれは。彼女はふと、自分が昔住んでいた場所を思い出す。京極。 そっと硯を引き寄せると、彼女はさらさらとこう書き付ける。「―――あなたを待ちあぐんで、私はいつも尾上の滝のような涙を流していました。それに比べあなたはその頃、一条に通って住み心地が良かったのでしょう」 ひらり、と彼女はその歌を夫に見せる。「自分のかつての身につまされて同情?」「私は嫌な女ですから、今こうやって『あの頃』とばかりに書けるということが幸福じゃないかと思いますのよ」 実際そうなのだ。 誰を迎えたにせよ、兼雅がずっと過ごすのはこの尚侍の所ばかりなのだ。 女三宮にはあえて贈り物などをする訳ではない。 かと言って冷淡にするという訳ではない。彼女はわざわざ贈り物などされなくとも裕福なのだ。 兼雅の屋敷内に居る、ということだけで、彼女の元には兼雅の家来が何かとあちこちの荘園から物が持ち込まれる。 また同腹の宮達からも、あちこち移り住みする彼女を心配し、何かと贈り物をして豊かな生活をさせている。「あれは生来のものだな」 兼雅はそう思う。自分が居なくとも彼女にはあれこれと世話をしてくれる人が居るのだ。そして彼女自身にもそうさせたくなる様な何ががあるのだ、と。 一方中の君は、と言えば女三宮の様に心配してくれる身内が誰も居ない。なので兼雅や尚侍は、贈り物があるとそれをいつも少しずつ中の君に分けてやる。 そして、兼雅はこの二人の元には夕方に出向くことはあっても泊まることはなかった。
2009.08.12
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その頃の一条殿には何とも言えない空気が漂っていた。 女三宮や中の君の殿移りの際には、兼雅が車をぴったりつけさせてそっと連れ出したおかげで、その当日には他の女性達も気付かなかった。 だが翌日からはもう大っぴらに女三宮や中の君の物を運び出すやら、部屋の掃除をするやら。残っていた女性達はそれを見て愕然としたのだ。 彼女達が残っていればこそ、兼雅が通う可能性もあり、そのついでに自分達も… という期待があった。だがこの二人が居なくなってしまっては。「ああもう駄目だわ」 一人はそう言って嘆く。「あの方々がいらしたからこそ、それでもここに住めたのに。もう何もかも駄目だわ。一体どうしたらいいの」 また一人、また一人、と嘆きが止まらない。そして嘆きは噂となってそれぞれの縁者へと伝わって行く。 真言院の律師は、父の妹のために家を購入し「引っ越していらっしゃい」と招いた。 彼女はそれでもなかなか思い切れず、兼雅の出方を見ようと思って一条にしばらく留まっていた。 だが皇女や、宮の縁につながる人々は迎えても、自分達はもう無理だろう、とやがて彼女も気付いた。 彼女から同意の文を受け取ると、ある夜、律師は自ら車を出して迎えに行った。少ない身内である。できるだけ幸せになってもらいたい、と彼は思うのだった。 北の対に住んでいたのは正頼の大殿の上の妹に当たるひとだった。后の宮の御匣殿の異腹の妹でもある彼女は、仕えているうちに兼雅と知り合い、やがて引き取られ世話をされるようになっていた。 顧みられなくなった彼女に、きょうだい達は多少の非難めいた言葉を投げた。「だから、そんな大っぴらな仲にならずとも良かったじゃないですか」 それでも、別納を家にして移し、世話をすることは忘れない辺りが、やはりきょうだいであろう。 西の対に居た梅壺の更衣は、実家である宰相の中将の私邸に引き取られていった。 西の一の対に居たのは、皇女腹の宰相中将だったひとの娘だった。彼女には兄が居たので、そこに引き取られて行った。 仲頼の妹は仲忠が、二条の院のささやかな家に「しばらくの間」と言って住まわせることにした。 その様に女達が立ち去った後の一条殿は、ただ女三宮の家司達が集まり、管理のために家族と住むばかりだった。 やがて花盛りの頃、兼雅は仲忠を一条院に誘った。「一条は人の気配も無いだろうけど、女達がどんな風に住んでいたのか、その跡を見に行かないかい?」 仲忠も気にはなっていたので、あっさりとうなづいた。 まず北の御殿へと入ると、中の君が居た場所に彼女の手でこう書かれていた。「―――夫が通わなくなり、自分も去ろうとする宿なので、やはり名残惜しく涙を流すことよ」 次にに西の対の、梅壺の更衣の居た場所へ行くと、柱に歌が書き付けられている。「―――身近な雲井―――宮中に落ち着いて奉仕すべきだったのに、風に吹かれる塵の様に惑った私は何という浅はかな女だろう」 彼女は院に仕えていたところを兼雅が無理矢理奪ってきた様なものだった。 そんな若い、浅はかだった頃の思い出を兼雅はしみじみを思い出す。 そしてまた同じ西の一の対を見ると、今度は宰相の君の手でこう書かれている。「―――この一条殿に久しい間夫を待って待ちくたびれて去ろうとするのに、その折りにすら訪ねても来ないのだろうか」 さすがに兼雅も女達の嘆きの声に「ああ可哀想に、一体皆何処へ行ってしまったのだ。どうにかしてこの返歌をしてやりたい」と思う。 次に東の二の対に入ってみると、やはり柱にこんな歌があった。「―――来ない人を待ちわびて(ここを去って行く)私が居なかったら、籬の竹よ、お前は誰を払うのだろう?」 同じ東の一の対にも柱に歌があった。仲頼の妹である。「―――(ここに居ればこそそれでも)訪れて姿を見せた宿だけら、またいつかはと頼みになっってしまったけど、私自身さえ知らない宿へ行ってしまったら、どんなに心細いことだろう」 兼雅はふとつぶやく。「これを書いたひとは一体何処に行ったのかな。母宮の元にはきっと居ないだろうに」 するとそれを聞きつけた仲忠がすかさず答える。「僕が二条の院に移しました。あそこもそのうたち増築されるはずだから、そこで女一宮が淋しくならない様に、話し相手にでもならないかと思ったので」「まだ若くて頼りない境遇のひとだから、色々困ることもあるだろうに」 兄は出家してしまっている。母宮の元にも居ない。そんな不安定な境遇を兼雅は心配する。「大丈夫です。僕が色々用意しました。友人の妹ですし、そのうち、我が家にとっても必要なひとになってもらうつもりですから、それ相応に」 そうか、と兼雅はしみじみとうなづく。そしてゆっくりと辺りを巡り歩く。「昔は女達がそれぞれに我も我もと様々に庭の花など凝らして住んでいたものを。今は花だけだな」 眺めているにたまらなくなった兼雅の目には涙がにじんでくる。「―――心ない花でさえ昔に変わらず美しい色に咲き出たのに、私を待っていると思った人達は皆居なくなってしまった」 すると仲忠がこう返す。「―――長年の間父君を待っていた女達をも遂に去らせてしまった程の宿ですから、春に咲く梅も不安に思うことでしょう」 さりげなく母のことを匂わせる。尚侍に対し、そんな仕打ちをこの父がする訳は無い。判ってはいるが、この光景を見た仲忠としては、やはり一本釘を刺しておきたい。「お前、こんな時にもきついよ」 涙目のまま、兼雅は息子に向かって言う。「仕方ないでしょう。自業自得です。皆それぞれの人生をこれからは歩んで行くんですから。父上もさあ」「さあ、何だい?」「とりあえずは修理するところとか、指図してくださいよ。持ち主のお役目でしょう?」 全くきつい息子だ、と兼雅は思う。それでも彼は最後にはきちんとその「役目」を果たしていった。
2009.08.10
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兼雅は女三宮の元に来るといつも思う。 このひとは非常に気高く威厳があるのだが、そこがどうも近付きがたい印象を与えると。「まあ兼雅殿。お久しぶりですこと」 女三宮は涼しい声で兼雅に声を掛ける。「申し訳ございません」 兼雅はそう答えながらふと思う。 昔はずいぶんと仲睦まじく暮らしていた様な気もする。その時はこのひとも―――いや、それなりに気位の高い所はあったが、これほどによそよそしいことはなかったものの。 それというのも、自分が。「…この数年来、頼りない振る舞いをしておりましたから、せめて近くにおいでいただいている時でも度々こちらへ寄らせてもらいたいと思うのですが」 だったら来ればいいのに、と一方女三宮は思っている。おそらくこの後もくどくどしい言い訳が続くのだろう。昔からそうだった。口が上手い―――「ここに住まわせている、仲忠の母であるひとは、その昔… まだ自分が世間も知らない少年だった頃に出会った女です。ところが子供ができたことすら教えずに何処かへ身を隠してしまって…」 その間に自分の所へ素知らぬ顔で通ってきたのだ。女三宮の表情はますます硬いものになる。「それをひょんなことから見つけてしまい、それ以来ここに居着いてしまいました。あの頃はあなたから離れるなんてほんの少しの間のことだと思っていたのに… あなたはさぞ変だと思っていたでしょう」 思ってはいた。だがその一方で男を信用していない自分の存在にも女三宮も気付いていた。元々兼雅は色好みで有名な男だ。自分もその口に乗ってしまい、…そしてまだ微妙に冷めきれないところがあるのが癪に障るのだが。 兼雅は彼女が黙って聞いているのをいいことにべらべらと続ける。「今はもう、色好みと言われた昔など嘘の様に静かに暮らしております。宮仕えも昔ほどには致しません。そんな風にいつも近くに私が居ますので、ここに住むひともそれに慣れてしまったのでしょうか。もし突然私がまた誰か別の女性の所へ行くと、ふっと姿を消してしまうのではないかと心配で」 結局は尚侍の側に居たいのだ。その理由をひたすらべらべらと喋り立てている。少し煩い、と女三宮は思う。 昔はこの立て板に水の様な口調で自分を褒め称えたものだ。 だが、それは既にこの男には過去のことなのだろう。 兼雅は続ける。「今はもう、子である仲忠がここに居るので、彼女も私をその親として扱ってくれます。そう簡単に何処かへ消えてしまうことは無いととは思うのですが… その仲忠がまた、今の世に珍しく真面目な男なので、私の過去の不行状を見て何かと私を責めるのですよ」「まあ」 ふっと女三宮は可笑しくなる。すらすらと並ぶ言葉の中で、そこは妙に真実味が感じられた。「そのうちに自然ご覧になることもありましょうが、あれは本当に不思議と私に似ない子で、まだ若いのに、先程も申しましたが本当に真面目で、帝の女一宮一人を守っております」 それは噂でも良く聞く。帝や院からの命による婚姻だったというのに、実に仲睦まじく暮らしているという。 あっさり子ができたこともあるが、何よりも仲忠の態度だ。先日の先祖の文を読むべく内裏に詰めた時、何度も何度も女一宮の元に文を送っていたという。「…そんな息子に、若い頃の様に浮かれ歩くのを見られるのが恥ずかしいので、あなたの元に度々伺うことはできないのですが… 忘れている訳では無いのですが…」「何もそんなに次々と言い訳をすることは無いですよ」 女三宮はそこでようやく口を挟んだ。「仲忠どのも、以前はあなたの様に浮気者だと言われたこともありますが、何と言っても女一宮が美しく名高い方だから、大変真面目になられたのでしょう」 そうだろうか、と兼雅は内心思う。女三宮は続ける。「あなたにしてもそうですのよ。そちらの尚侍が美しく賢いことは世の中にも広く知られたことです。そんな方がご一緒だから、私を含めた他の女達を省みなくなったとしても、それはどうしようもないことでしょう」「や、それは…」「私には無理でした。あの方だから、あなたを独り占めすることができたのですよ」 ふふ、と女三宮は笑う。 仲忠の母が、帝の要望で参内して琴を弾き、またその件で尚侍に任じられたことを女三宮は良く知っている。 帝は直接尚侍に会っている。話をしている。その上で琴を弾かせている。彼女の腕と賢さと、そして美貌を目の当たりにし、その上で役職につけたのだ。帝自身が。 これ程一人の女性の評価において確かなことがあろうか。「私のことはいいのですよ、もう。ただ娘の梨壺のことは忘れないでくださいな。それだけが私の願いです」 参った、と兼雅は息をついた。
2009.08.10
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翌朝早く、辺りがよく見える様になってから兼雅はじっくりと息子が用意した家の中を検分してみる。 鎖を差して鍵を結い付けた美しい唐櫃が唐櫃が二具。よく見ると香木で出来ている様だった。中には様々な衣装が入っている。美しい絹のものもあれば、綿や、様々な紙も入れられている。 衣桁には覆いをして、衾などを掛けてある。 全体的に見て、机や唐櫃といったものが多かった。 寝殿の外に出てみると、他には四尺の厨子が三具、三尺のが一具、覆いをされていた。兼雅はまたそれも開けてみる。すると男女の調度である二段重ねの厨子が十具。覆いをかけた硯の具などもある。 また大きな厨子が二つあり、その中の一つには、唐の珍しい品々がよく整えられて置いてある。他の厨子には、調度や燈台の具などもあった。 また北には新しい長屋も造られており、その中に沢山の区切りをして、様々な用に使える様にしてあった。贄殿、酢酒つくり、漬け物、炭木油などが置かれている。 蔵も一つあった。そこには銭、米、粗末な布などが置かれており、またそこも鎖がかかっていて、鍵は厨子の中にあった。 御厨子所には、兼雅のためのものが良く揃っていた。 兼雅がそうやってこの新しい住まいをあちこち見ていると、中の君は昨晩兼雅が用意した綾や掻練、織物の細長といった装束を身につけていた。 中の君はもう四十近かったが、非常に可愛らしく、髪も身の丈より二尺程長く、年よりずっと若く見えた。 連れてきたことに兼雅はほっとした。一体あのまま置いておいたなら、一体このひとはどうなっていただろう、と。 兼雅は女房達に命じた。「一条に残った人々へ伝えてくれ。『一条殿にあるつまらない道具類は留守番をする乳母に皆やってしまい、あちこちを掃除して、夕方にはこちらへやってくる様に』と」 そして中の君には家の券に、仲忠から贈られた家財道具類の目録を添えて渡した。「いいかい? この家の券と目録だけは、ちゃんとした所に納めておくんだよ」 中の君は少女の様にこくんとうなづく。 兼雅はこれだけはちゃんと守ってもらう様に、と彼女を真っ直ぐ見据えて言い含めた。「私もいつも来る訳にはいかない。近いから、時々訪ねては来るけどね」 すると彼女の目の中に、不安げな色がよぎる。「ねえ、あなたももう今では若くは無い。両親もお亡くなりになってしまった。私を頼るのはいい。暮らしのことは安心していい。だが家の中のことは別なんだよ。今までの様に何も考えずに暮らして行くことはできないんだよ」「…殿」「乳母どのは向こうで留守番をしてもらう。ここではあなたがこの家の女主人なのだから、女房や下仕えに対しては、きちんとした態度を取るのだよ」「…私に出来るのでしょうか」 弱々しい声に兼雅はふっと表情をゆるめる。脅かしすぎたかもしれない。 「あちらに仲忠の母が住んでいる。今どき珍しい程に心映えが良いひとだから、あのひととは疎々しくなることはせず、仲良くしておくれ」 はい、と中の君は小さく返事をした。 さてその足で尚侍の元へと兼雅は戻って行く。 それまで手のかかる子供の様な女性を相手にしていたせいか、目の前に居る妻の姿に彼はほっとする。 元々美しい人であるが、この時は尚更だった。装束は清らかにし、髪も手入れをしたばかりの様に艶々と、さっき婿取りをした娘の様である。 住居の様子も文句のつけようが無い。 尚侍の居る所は決して明るく無いはずなのだが、彼女自身の姿がまるで光り輝いて見える。使う香の素晴らしさは言うまでも無い。 女房達も美しいのが三十人位いつも出入りし、そのうちの二十人が主人の側を離れずに居る。童や下仕えも沢山居る。 ここ三条堀河の、尚侍の住む殿は元々一町である。 それを尚侍を迎えてより、建て増し建て増しされている。建物だけでなく、庭にしても、趣味を映し、心を込めた殿が造り重ねられているのだ。 兼雅は尚侍の側に座り、話しかける。「可哀想なひとを三条に連れてきたよ」 あああのひとだ、と尚侍はすぐに気付く。「元々ね、父君である式部卿宮は大層多くの財産や荘園を持っていたんだ。それで亡くなった時に中の君はそれを受け継いだのだけど、この数年私が放っておいた間に、仕えていた者達が皆それを無くしてしまったんだ」「…まあ」 胸が痛む。尚侍にとってそれは人ごとではない。自分もかつて、その様にして父の残したものを失ってしまったのだ。「仕えていた人々もだんだん減っていってね。…あなたも今、特別頼りにする人も無い様だから、近しい人として中の君のことを思ってやって欲しいんだ」 尚侍は大きくうなづく。「若いひとが親も無く、世話をしてくれるひとも無いのはどんなに辛いことでしょう。…いえ、それより世の中ですね」 ふっ、と尚侍の口調が珍しく皮肉気になる。「世の中?」「ええ。それほど苦しまなくて良かった私でさえそうでしたから。一応姫育ちで、生活する方法も知らず、親も私に『運が悪ければ、どれだけ幸せを求めても苦労するだろう。運が良ければどれだけ恐ろしい目に遭ったとしても、きっと困難に打ち勝つだろう。全ては神仏の思し召し次第』と言ったきり」 尚侍は苦笑する。「それだけですのよ。実際にどう生活して行くか、なんてこと、誰もまるで教えてくれませんでしたもの。仲忠だって、ちゃんと生まれていたかどうか…」 ふとあの頃世話を焼いてくれていた「さがの」のことを思い出す。そして今まであまり思い出しもしなかった自分を軽く苦々しく思う。「それで両親とも引き続いて無くなりましたから、もう私はあの頃どうしていいのか判らなくなっていました。その私ですらそうだったのですから、宮の御子とも言われる方がそんな不幸な目に遭ったのでしたら、もう何とも」 全くだ、とばかりに兼雅は大きくうなづく。若子君だった彼が出会った頃の彼女の生活もひどかった。夢の様な逢瀬だったから、それはあくまで大人になってから冷静に思い返してみると、だが。 それだけに彼もまたしみじみと言う。「全くだ。私も女の子を大勢持っていなくて良かった。もし私にそんなことがあったら、と思うとぞっとする」 そして娘、という言葉から梨壺―――女三宮を思いだしたのだろうか。「そうだ、今日は気の毒なひとを訪ねる日にしよう。今から女三宮のところへ行って来るよ」「それが宜しゅうございます」 尚侍はにっこりと笑った。
2009.08.06
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やがて二月になると、仲忠は三条殿に以前から言われていた家の券を兼雅に渡しに行った。「前に父上から頼まれていた家の券です。言われればこの位の家ならすぐに造りますよ。ちなみにこの家は父上ほどの方には残念な程小さくて貧弱なものですけど、これを、ということですので」 無論仲忠は兼雅自身が住むのではないことなど承知している。あの一条の家に住む女性の誰かに与えるのだろう、と予測していた。なので。「家はそのまま、家財道具もそっくり添えて差し上げます。はい、これが目録です」 そう言って、仲忠は家財道具類一式を書き留めた書類を兼雅に渡した。兼雅はそれを手に取ると、満足そうにうなづいた。厨子、唐櫃、几帳、屏風を始め、一切の道具がある。また蔵も別にあり、その中にも必要なものを用意してある。「何に父上がお使いになるのか僕は知りませんけど、一応、家の周りの雑草は刈らせましたし、垣根もすっかり新しく造って、檜皮の御殿らしくして、いつでも人が住める様にしておきました」「それはありがたい」 目録を戻しながら、兼雅は微笑む。「ところでお前、二条の家の代わりはどうしようか? できれば春渡したいが」「要りませんよ。何も」「いやそれでは」「近江守に僕も一応代わりの家のことを聞いてはみたんですよ。そうしたら、『私をどんなに不甲斐ない者と思ってらっしゃるのか』って恐縮してしまって。そうなるとわざわざ用意するのも逆にあれに可哀想かな、と思いませんか?」 それもそうだ、と兼雅はうなづく。「それでは今日はここでお暇します」「おいおい、用件だけかい? 薄情だなあ」「僕も色々忙しいんで。…あ、父上」「何だ?」「ちなみにこの家へのお移りはいつ?」 兼雅は具体的なことを聞かれ、少し息を呑む。この分では誰を移そうとしているのか、仲忠は知っているのだろう。しかしここではあえて名は出さない。「五日に。お前は格別手を出すことは無いよ」「そうですか。では」 あっさりと言うと、仲忠は三条殿へと戻って行った。 五日になると、一条殿に住んでいる式部卿宮の中の君のもとへと車が三台用意される。 その中には中の君が三条へ移る時の衣装を入れた箱も乗せている。 お供には気心が知れ、安心できる人を五、六人程選んだ。 夜更けになってから、兼雅は一条殿へと忍びで出かけた。 中の君の対屋へそっと入って行くと、おつきの女房達が四人、童や下仕などが二人、きちんとした装束をつけて控えている。中の君自身も白い衣を沢山重ね、かつての寒そうな様子とは大違いである。 御殿油も灯し、付近が暖かそうな雰囲気に包まれていた。「まあ殿様」 女房の一人が気付いて驚いた素振りで迎える。兼雅はあえて迎えに来る日を彼女達には告げてはいなかった。あたふたと出迎える準備をしようとする彼女達を兼雅は手で制す。 そして中の君に近づき、そっと手を取るとささやく。「突然来てしまってすまないね。この間も格別にしっかりしたことも言わないで。あなたにはずいぶんと不安な思いをさせてしまったことだと思う」「…いいえそんなこと」「それでね」 中の君が何か言う前に、兼雅は本題の口火を切る。 「あなたを守っていきたい、という気持ちは昔と変わらないのだけど、あれから不思議なことに、幼い頃契って、行方も知れなかったひとをある日、見つかってしまったんだよ」 女房達は顔を見合わせる。無論それが世間でも噂の仲忠の母、尚侍であることは彼女達も良く知っているのだ。「そのひとをずっと哀れに思って一緒に何年か暮らしているうちに、ついあなたへの御返事もせずに過ごしてしまったんだ…」 女房達は無論尚侍が素晴らしい女性だということは聞いている。かつては「色好み」と言われた兼雅を独り占めできる程の女。帝にぜひと乞われて弾き、そのおかげで地位までも手に入れたという琴の腕。そしてあの素晴らしい仲忠右大将の母… 判っている。自分達の主人が彼女と比べ者にならないことは。しかし。「いや、それはまた今度ゆっくり話しましょう」 女房達の不穏な気配を察したのか、兼雅は話題をうち切る。「実はね、今私がその女と住む三条の東角に小さな家を用意したんだ。あなたのためにだよ」「お家を、ですか… 私のために?」 中の君ははっとして兼雅を見上げる。「そう、あなたのためにだよ。これからは近くで、時々様子を見にも行きやすい。そこでのんびりと暮らせばいい。そう思って今日はあなたを迎えに来たんだ」「…そんな、急な…」 それまであまり変化の無い生活を送ってきた彼女には、さすがに兼雅の申し出はあまりにも唐突なものだった。無理だ、と即座に思った。 だが兼雅は畳みかける様に続ける。「持って行く程の家財道具がここにあるという訳でも無いだろう。それでも、というなら残った調度はここに置いて、乳母を留守番にすればいい。向こうにはもう、何もかも揃っているからね」「でも…」「あなたには今日が吉日なんだ。さあ、行こう」 さすがにそこまで言われては、中の君も了承せざるを得ない。 兼雅は車を呼び寄せ、中の君をそこに乗せた。副車にはそこにいた女房達と、当座の荷物を載せる。そしてそっと一条院の西の門から出て行った。 三条殿に用意された家に着いてみると、中の君の御座所が新しく用意され、近くには美しい屏風や几帳などが置かれている。 中の君はもちろん、女房達も日常の手回り品が全て揃っていることに驚いて口もきけない。「今日はここに泊まるからね。ゆっくりと今までの話をしようよ」 兼雅はそう言うと、食事の用意をさせ、その晩は中の君のもとに泊まっていった。
2009.08.06
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仲忠は東の大殿の南の方へと向かった。 そこで藤壺腹の宮達の前に沈の折敷に小さな瑠璃の坏を捧げる。 次いで可愛らしい雛形の小車や銀や黄金で作られた馬等を並べ「宮様達、お出でなさいませ」と声を掛ける。 若宮と呼ばれている一宮はこの時、綾掻練を一襲、袷の袴、織物の直衣を身につけていた。現在五歳で、年の割に大きく、肌の色や髪の筋の美しさは母である藤壺の御方に似ている。高貴さは父東宮譲りであろうか。髪は背中にまで伸びて、海松の様にふさふさとしている。 同じ格好をした弟の宮は一つ下で四歳。髪はまだ短くて、肩までかかり、兄宮の様に気高い。 仲忠は兄宮弟宮の二人を一緒に膝の上に乗せ、話しかける。「あちらに居る、うちの子に餅を食べさせるのですが、まずお二人に召し上がってもらって、そのお下がりを貰おうと思いまして」「大将の子ね。僕、見に行ったことあるよ」 一宮は無邪気に仲忠に向かって言う。仲忠は内心はともかく、にっこりと若宮に笑みを向ける。「そうですか、如何でしたか?」「うーん、けど僕、見られなかったんだ。女一宮が隠しちゃって」「僕がひどく泣いたの。そうしたら見せてくれたよー」 弟宮が割って入る。ぴく、と仲忠の頬が引きつる。「それでね大将、抱っこさせてもらったんだけど、重くてね、落としちゃって。みんな大騒ぎ」 さっと仲忠の顔から血の気が引く。「…そ、そうですか。で、どうでした? みっともない子だったでしょう?」「ううん、すっごく可愛かった! こっちに連れて来ようとしたけど騒いで止められちゃった。ねえ、大将が今抱いてきて」 子供だ子供だ。しかも宮だ。仲忠は内心の苛立ちを必死で押しとどめながら、精一杯言葉を紡ぐ。「…今は汚れていてきっと気持ちが悪いし、色々失礼なこともしますよ。いつか大きくなったら近くにお召しになって可愛がってやって下さいね」「わあい、嬉しいな。遊ぶ子が居なくてつまんなかったんだあ」 ね、と若宮は弟宮とうなずき合う。 子供は純真だ。さりげなく仲忠の言葉の端に、未来の後宮入りを匂わせているのにはさすがに気付かない。 その後は仲忠が手ずから食事の用意をし、宮達にも箸で「あーん」と口まで御馳走を運んでやる。「雛に子の日をさせるために、車を引いてきました」 そう言って用意した小さな車を宮達に渡すと、宮達は喜んでそれで遊びだした。 仲忠はいつもこの様に趣のある玩具をこの小さな宮達にあげたりする。含みが無い訳ではないが、それでも基本的にはこの藤壺腹の宮達は彼も好きなのだ。 その後仲忠は中の大殿に戻った。 一方、尚侍は賭弓の料に用意しておいた被物を三条へ取りに行かせる。 仁寿殿女御の宮達には、袿袴を添えた女の装いが贈られた。祐純や行正には例の装束を、親純や行純には織物の細長、袷の袴などを。 やがて皆帰途についた。 尚侍は南面に御座をしつらえて、自分の共の者達をそこに控えさせ、自身は仁寿殿女御との会話を楽しんでいた。 それからやや日が経ち、司召の日となった。 この時行純は侍従に、正頼の六男兼純は左衛門佐になった。 この時、自分の使人の中で昇進させたい者が居る場合、それなりの力がさりげなく行使される。 たとえば仲忠は、その昔自分が住んでいたうつほのある北山から三条堀河へと移る時、馬添として忠勤に励んでいた者を今回伊予介に、と申し出た。彼は当時大学の允で、蔵人所の雑役をしていた。 さすがにこの任官はなかなか困難なものがあったが、そこは仲忠の力で実現させてしまったのである。
2009.08.05
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さて、一月の最後の子の日である二十五日はちょうど犬宮の御百日に当たっていた。 この日の祝いの席は、祖母にあたる尚侍が賄いをすることになっていた。 当日になると、尚侍は車六台を仕立ててやってきた。 食事の用意となると、犬宮の前に沈の折敷が一二、それに金の坏といったものがずらりと並べられた。料理の入った檜破子は百も用意された。 曾祖父である正頼は司召の夜だったので昨晩から参内し、その場に居ないが、左大臣はやってきた。 仁寿殿女御や男宮達の前にも衝重や破子が並べられる。大宮や女宮、東宮の若宮達、その他の人々隅々にまで、檜破子が用意される。 また、藤壺には檜破子と、普通の破子をやはり十ずつ差し上げようと、仁寿殿女御が文をつけた。「…新年には早速に賀状を差し上げないといけないとは思っていたのですが、不思議にも貴女様はこちらからの文はごらんにならないと承っておりまして。 その様に此方も控えているうちに、犬宮の百日の祝いをする頃になってしまいました。さすがにそれは申し上げない訳にはいけないと思いまして…―――幾千万の御代を、かねて生まれ出た小松―――犬宮―――に月末の子の日の今日が百日の祝いであることを知らせてきます―――」 女御はその様に青い色紙に書くと、小松につけて送った。 藤壺は月半ばにあった踏歌の夜からは東宮から許されたのか、下屋に居た。おかげでこの消息文も読むことができる。 皆そのことにはほっとしていた。彼女はここしばらくというもの、ずっと東宮の側に居ることを強いられ、窮屈な思いをしてきたのだ。 若宮達もこの折りに母の元を訪ねることができた。 藤壺は送ってもらった檜破子は殿上人に分け与え、その後女御へと返しの文を書く。「誠に不安になる位、この数日は里のお文も見ることができませんでした。お祝いの言葉はぜひ直接お目にかかって申し上げたいです。 犬宮はどんなにか大きくなられたことでしょう。楽しみです。 ―――仰せの通り、幾千万にも及ぶ御代の子の日を迎えるはずの姫松―――犬宮―――に、私も色々告げてあげたいことがあります――― 退出したいと思うのですが、なかなかそれが思うに任せないのが…」 女御はそれを受け取ると苦笑する。全く大変な妹だ、と。 やがて犬宮に祝いの餅を、と女御が折敷の洲浜を見ると、鶴が二羽と松が設えてある。そこへ兼雅の手でこう和歌が書き添えてある。「―――百日の祝いが乙子の今日だ、と知らせてくれた。その乙子を数えていけば、姫松の齢は幾千年の代を保つだろう―――」「これは大層立派なお手本ですこと」 女御は柔らかに微笑み、こう詠む。「―――生まれてからもう百日の祝いになりましたね。めでたい子の日に当たって小松はその日を幾千代も数える程迎えることでしょう―――」 そしてまた尚侍、女一宮がそれに続き、犬宮の長寿を願う。「―――百という数のの今日を今知った姫松は、どうして千という数を知らないことがあるでしょう―――」「―――めでたい子の日に百日の祝いを迎えた姫松は、これから子の日を数え数えて長寿を保つことでしょうよ―――」 尚侍はそれらの和歌と洲浜を一緒に外に居た仲忠へと渡す。彼はそれを見てまた詠む。「―――姫松は限りない乙子を迎え迎えて先年にもなる春を見るに違いありません―――」 仲忠はこう詠むと、また元の場所に差し入れたので、この歌は誰にも知られることはなかった。 その後、正頼、仁寿殿の宮達、祐純、行正、親純、行純などが次々に祝いの歌を詠んだのだけど、ここには特に載せない。
2009.08.04
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その後仲忠は、東宮が藤壺の元へ向かった辺りを見計らい、異母妹の梨壺の君の方へ向かった。「まあ、お兄さま」 穏やかで爽やかな気性の彼女はこの日も仲忠を気持ちよく迎えた。 だがこの日、梨壺の君はさらりと、だが心配そうに問いかけてきた。「近頃、東宮さまと正頼どのの間に何かあったらしいのですが、お兄さま、何かご存じですか? 何でも、東宮さまは帝から何やら言われた… とも聞いているのですが… それがまた、私のことらしいので驚いているのですが…」「うん、あなたのことを確かにこの間、帝と東宮さまの間で聞いたよ。内容はぼんやりとしていてあまり判らなかったけど」 本当は知っている。だがそこは本人の前では内容が内容なので、少しぼかす。「最近はあなたはどうなの? 東宮さまのお召しはあるのかな」「先夜お召しがありました。参上致しましたところ、東宮さまは女四宮さまを召したいのだけど、少し前の… ちょっとした騒ぎのこともありまして、どうもその気になれないと…」 確かに、と仲忠は思う。話に聞いただけでも、男としてはためらいたくなるいきさつだ。「藤壺の御方はどう?」「…可哀想です。ただもう東宮さまの御簾の前に居間をしつらえせされて、そこで窮屈な思いをしてらっしゃる様です」 そう言って梨壺の君は自分の広々とした空間と比べるかの様にふっと天井を仰いだ。「あちこちの乳母達も―――、ええ、藤壺に仕える方々も、噂しています。嘆いています。『どういうことでしょう、東宮さまは全くよそ目さえ遊ばさない。お二人は一体どういう御仲でございますのでしょう』と」「まあ、ねえ…」 ふう、と仲忠は一息つく。「ご寵愛が深すぎる方にはそういうこともあるんだろうね。ただ人であっても、愛しい愛しいと思うひとは、一時も離したくないと思うものだもの」「そういうものですか。お兄さまも?」 彼はそれには笑って答えない。逆に問い返す。「で、あなたのことはどう?」「どう、と言われますと?」「父上ったら、あなたの今度のことで、何か馬鹿げた想像もしてるんだよ。今更一体、まさか、ってね」 梨壺は少し考えていたが、やがて頬を赤らめて声を立てる。「まあ、父上ったら」 娘が東宮を置いて誰か別の男と通じたのではないか、と想像しているなど。「そんなことある訳ないじゃないの。東宮さまももちろんご存じでしょ?」「ええ。昨晩『藤壺もそなたと同様に懐妊している様だ、ここ数年そういうことも無かったのに、不思議なことだ』と仰いました」 仲忠は苦笑する。 それまで淡泊だった方が、藤壺が入内したことで、何かしらに目覚めたのかもしれないな、と。 やがて七日になって人々の位階の昇進が発表された。 右大臣正頼は正二位、左大将兼雅は従二位、左衛門左は四位、宮あこと呼ばれていた行純はここで正五位となった。 一方、女叙位の方にもやや動きがあった。尚侍である俊陰娘が三位となった。
2009.07.30
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さて年も明けて、一月一日。 三条殿の正頼が住む北の御殿の東面に、子息達十一人がずらりと並び、大宮と正頼に新年の挨拶をする。 また、仁寿殿女御の元にも、息子達四人の皇子、続いて仲忠が挨拶をする。 彼等はその後に正頼の元へ向かった。そこでは青色の表衣に蘇芳襲の汗衫を着た童が褥や御馳走を運んで来る。 やがて正頼は皇子の一人に杯を持たせると、そこにこう書き付ける。「―――私の大切な人とこうして団欒できることは何と嬉しいことだろう。今日の様に毎春を皆と共々祝いたいものだ」 歌と共に杯が仲忠に渡される。杯の中の歌を見て、仲忠も返しを詠む。「―――たとえ春が来ない様なことがあったとしても、今日のように団欒することは決してありませんよ」 その様な応酬の後はもう皆で酒を酌み交わすばかりであった。 その後正頼の一族は皆で参内することとなった。 この日、内裏には公卿達がずらりと揃う。ただ一人、藤大納言を除いて。 妻である七君が籠もってしまって装束を整えることができないのだ。仕方なく彼はお気に入りである娘を可愛がってあやしていた。 この様にして上達部達は内裏の右近の陣に到着した。女御腹の皇子五人、正頼、仲忠が帝の元へと向かおうとする。 彼等がいつもの様に女御や更衣の局の前を通って行くと、中宮の女房達の囁き声が聞こえる。「…あの仁寿殿女御の皇子達をごらんなさいよ。ずいぶんとおませなことじゃありません?」「皇子達というより、まるで皇女達が揃っている様に見えますこと…」「この名高い美しい皇子が、どうして仲忠どのに目をつけられたのでしょうね」 など、口さのない言葉がぽんぽんと行列に投げ付けられる。 ちなみに仁寿殿女御腹の皇子は、一宮が三品、帥の宮は四品の位を与えられている。 次の皇子は、親王ではあるが位は与えられていなかった。ただ、この宮も上の二人同様、黄丹色や梔子色の袍を着ることが許されている。 六の皇子はさすがにまだ大人では無いので、その扱いは受けられなかった。 皆揃って蘇芳襲の綾の表の袴をつけ、御所へと向かって行った。 そんな中、仲忠は一人、目的の場所へと足を進めていた。 彼がまず向かったのは藤壺だった。「まあ、仲忠さま」「久しぶり」 取り次ぎに出た孫王の君の表情がふわりと明るくなる。仲忠もまた、昔なじみの笑顔に気持ちが明るくなる。「仲忠が拝賀に参上した、と藤壺の御方に伝えてくれないかな」 すると相手の表情がふと曇る。「…このところはこちらではなく、上の御局にいらっしゃるのですよ…」「と、言うと?」 怪訝そうな表情で仲忠は問いかける。東宮は藤壺をずっと離さないというのだろうか。「先日、大殿が御方さまをお迎えにおいでになって以来、東宮さまのご機嫌がずっとお悪く…」「引き込んだままってこと?」 孫王の君は黙って苦笑する。「その時一緒に居た女房以外、同じ局であっても近づくことを許されないのです」「誰?」「兵衛とあこぎが一緒でした。それは確かです」「兵衛の君とあこぎなら、まあ安心だ… 他の女房や女童よりは信頼できるしね」「ですので、せっかくおいで下さったのに折角なのですが…」「いやいや」 仲忠はゆったりと首を横に振る。「そういう事情なら仕方無いよ… じゃあまた日を改めて… あなたも元気でいてね」「仲忠さま」 孫王の君は不意打ちの言葉に顔を上げた。ここで仲忠が自分のことを気に掛けてくれるとは、彼女は思ってもみなかったのだ。「僕はこれから梨壺の妹の所に行くけど。他人のことに熱心なのはいいけど、根を詰めすぎてあなたが倒れでもしたらどうするの」「…私は大丈夫ですわ」「そう?」「いつだって、そうだったじゃないですか」 少しの沈黙の後、そうだね、と仲忠はつぶやくと藤壺を立ち去っていった。 その背を眺めながら、孫王の君はつぶやいた。「あなた様こそお元気で」
2009.07.18
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その頃、正頼の三条殿では大宮の所に、大納言の北の方である七君が訪れていた。「…呼ばれた理由は判っていますね」 大宮は優しく、しかし毅然とした態度で問いかけるる「こんなに自分から離れよう離れようとしていれば、大納言もあなたのことを頼りにならない女だ、と思っているでしょう」 七君は黙ってうつむいたまま、母の言葉を聞く。「あなたのこの様な態度は父上も良くない、と思うでしょう。…そもそもあなた方、どうしてこんな仲違いをしたのです?」 七君はしばらくうつむいたまま考えていたが、やがてぽつりとつぶやいた。「…何と申しましょうか、あの方は今では私のことなど人とも思っていない様ですから」 言葉はひどく平板なものだった。「今では私のことなど軽蔑しているだけなのでしょう。そんな人と会うのも何ですので」「…そうは言っても七君、あなた、幼い子も居るのですよ。それにあなた… その身体」 すっ、と七君の頬が赤らむ。「また子供ができたのでしょう? ますます良くないことですよ。そんなことじゃ来春早々、大納言も一人で困ることとなるでしょう。今夜にでも早くお帰りなさい」 大宮は一人の母として、七君が一人前の妻であることを望む。 大納言がどんなことをしたのかは具体的に知っている訳では無い。 しかし娘がその様に言って夫を遠ざけている以上、何となく予想はつく。たとえば自分以外の女に軽々しく手を出したとか。 よくあることだ。 そもそも、大宮の夫である正頼にしてもそうだ。 彼は自分と大殿の上の二人を、それぞれ公平に扱ってはいる。だが自分の身の回りの世話をする女房に全く手を出したことが無い訳でも無い。 よくあることなのだ。そのくらいで、妻の立場にある自分や大殿の上が慌てふためくことは無い。 もっとも七君の場合は、貴宮程では無いにせよ、蝶よ花よとばかりに育てられた一人である。その彼女一人を大納言は大事に守っていた。 そう思っていたとしたら、ちょっとした好き心も七君にはひどく自分を馬鹿にしている様に感じられたのかもしれない。 だが現在、彼女は「姫」ではなく「妻」である。 大宮は母として、ここはその立場をわきまえる様、強く言わなくてはならないと思ったのだ。 だが七君はそれからずっと口をつぐんだままだった。強情な子、と大宮は思う。 やはりその辺りは貴宮や今宮とも通じるところがあるのかもしれない、とふと彼女は感じた。 だがこのままではいけない。 彼女と大納言の間には五歳の男の子、三歳の女の子が居る。特に女の子の方は、大納言が大層可愛がっている。 そしてその上、現在もまた、七君の腹には次の子が居るのだ。きっと次の子も大納言は可愛がるだろう。いい父親になるに違いない。 だとしたら、余計に。 だが押すばかりでは仕方が無いことも、沢山の子を持つ大宮は知っている。「…とにかく二人の子、これから生まれてくる子のこともよく考えなさい。それにあなたのここのところの様子に、五君が心配していますよ」「お姉様が」 七君はようやく顔を上げ、母を見つめた。沢山居る姉妹の中でも、同じ大宮から生まれ、歳も近い五君は、七君にとって一番心を許しあえる仲だった。「…ああそうそう、五君はいつも安産でしたね」「お姉様に会いたいわ、お母様」「まあ、子供の様な言い方だこと。五君にあなたの所に顔を出す様に伝えましょう」 姉の言葉だったら聞くかもしれない。そんな気持ちを込めて大宮は七君に言う。 五君の方には、その辺りを言い含めて置かなくてはならない、と一方で考えながら。 その様に女が悩む正頼邸ではあるが、着実に正月の支度は進んでいた。 種松が正頼に届けた米五石と炭五荷は仁寿殿女御と女一宮の元に回されたとのことである。
2009.07.16
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その様にして大晦日の日がやってきた。「父上が?」 三条殿で兼雅が自分を呼んでいる、と聞いた仲忠はすぐに出向いた。「何でしょう御用とは」「うむ、ちょっと頼み事があってな」 兼雅はできるだけさりげなく切り出した。「何ですか?」「今度任官した近江守は知っているな」「ええ無論」 即座に彼は答える。知ってるも何も、今度の司召で近江守になった男は、そもそも仲忠の使人の一人である。「その男の現在住んでいる家が是非とも欲しいんだ」「家を?」 仲忠は訝しげに父を見る。「そう。家だ。その代わりに、と言っては何だが、二条の院の東側にある私の家と交換ということでどうだ?」「交換ですか」 ほぉ、と仲忠は兼雅をまじまじと見た。なかなか本気だ、と感じる。「…いや別に、交換などなさらずとも」「しかしそれでいいのかね」「ええ」 仲忠は大きくうなづく。「近江守は僕の目にかなった人物です。今回の司召では、正頼どのからは『まだ早いのではないか』と乗り気ではなかったところを、僕が強引に話を進めて役につけた者ですから」「…強引に、ねえ」 息子にそういう一面があることも知らない訳ではない。だが政治的な場面でもそうだったか、と今更の様にこの父親は思う。「そういういきさつもありますから、近江守はちょっと今回良い目を取りすぎ、ということで話をまとめましょう」「そうか。それはありがたい」 兼雅は微笑する。「守の家は、三条の院の傍にあります。大きくは無いのですが、とても趣のある造りです。元々宮あこ君―――ああ、今は元服して行純と名乗っていますね。彼が妻にしようと思っているひとのために建てたということですが、彼は若いながらもなかなかの巧者ですので、ちょっとあの家では物足りないでしょう」「…その女のことなら私も聞いているが、何でまた、お前の勧めた女の方ではなく、別の女なんだ?」 さて、と仲忠は軽く目を伏せる。「いろいろ考えるひとですからね。どうせ紹介してもらうにしても、もっと出世してから、と思ったのではないですか」「出世してからねえ…」 ふむ、と兼雅はふと、正頼宅の息子達のことを考える。「あの家では、今は蔵人の少将になっている親純がなかなかのものじゃないか? 兄弟の中では群を抜いて出世頭だ。気だてもいいし。彼には妻は居るのか?」「以前は居た様ですが… でも今は独り身となりまして、行純と一緒に親元に居る様です。気だて…」 くす、と仲忠は笑う。「何だ」「いやね、見方は色々だと思うのですよ」 兼雅は首を傾げる。「外面はいいのですがね。さすがに同じ屋敷の中に居れば何かと耳に入ることがありまして」「じらさずに言いなさい」 はいはい、と仲忠は口元をゆるめた。「まあそんな女関係のことや、いろんな心がけが実は結構… なので、正頼どのや大宮さまが咎めることもあるのです。が」「が?」「そこで彼は言うのですよ。『そういうことでは自分以上の仲忠が居るじゃないか』ってね。何かな、ずーっと独身でいれば、僕の様に内親王がいただけるとでもいうのかな」 最後の方はやや冗談めかす。こら、と兼雅は小さくたしなめる。「で、正頼どのがまたそれに対して言う訳ですよ。『何を言ってるんだお前は。仲忠どのと女一宮のことは、帝のお言葉で決まったことだ。お前とは違う』と。でも何か思うところがある様で、親純くんの行状はなかなか改まらない訳ですよ」「成る程。お前もなかなか罪作りな奴だな」「僕のせいじゃないですよー。まあともかく、正頼どのは『全く、親の心子知らずだ!』と嘆いてます」 子供が多いとややこしい問題も多いものだ、と兼雅は嘆息する。問題。ふとそこで彼は思いだしたことがあった。「そう言えば、あの兄弟のなかで亡くなった…」「仲純さんですね」「そう、お前と特に仲の良かった… 彼は誰に恋い焦がれていたんだろうな? 女一宮か?」「さあ」 仲忠は素っ気なく答える。「僕ももしかしたら、と気にはなっていたので、正頼どのとの話の折りに聞いてみたりもしたんですが、どうやら違うようです。まあもっとも、夜も昼も管弦の遊びのために悩んでいる様なひとでしたし。元々そういう短い命の運命だったのかもしれないし」 ふう、と兼雅はため息をつく。「そういうことがあったから、正頼どのも息子達のことには悩みが尽きないな」 ええ、と仲忠もうなづく。「息子だけではない様ですね。今、七の君が背の君と喧嘩中なのだそうです」「何、喧嘩」「と言うか、七の君の方が一方的に怒っているとか何とか」「はて」「背の君の大納言どのはここ最近毎晩の様にやって来るのですが、いつも簀子で夜を明かす羽目になっているそうです」「そりゃひどい」「それだけじゃないです。最近では七の君が母屋の格子まで早く下ろしてしまって、周りに錠を掛けてしまっています。可哀想に思った女房が大納言どのに話しかける様なことがあったら、後でその女房は激しく責められるとか。だから本当に、簀子でお一人、ぽつんとお休みになるとのこと」 兼雅は呆れて顔をしかめた。「…浮気かい」「それ以外何があります? で、さすがに見かねた兄弟達もどうにかしなくては、と思ったのでしょうね。まずは忠純さんが気の毒に思って大納言どのとせめてお話でも、と行ったら、『夫婦のことに口を出さないで』とばかりに追い出されてしまったそうです」「ほぉ」「で、今日はとうとう正頼どのが七の君の所に直接話をつけるべく向かう、と聞いてはいるんですがね」「大納言は口は軽く冗談ばかり言って軽薄に見えるのだけど、ああ見えてなかなか真面目なのだけどね…」 大変だ大変だ、と兼雅は軽く首を振る。「そうって考えてみると、歳を取るというのはなかなか便利なものだね。私も若い頃だったら、女を捨てるなど、考えも付かなかっただろうな」「おや、若返りなさったらいいのに」 薄い笑顔で仲忠は父を暗に責める。兼雅はそれは聞かないふりで。「ちなみに行純は誰が欲しいと思っているのかい?」「忠純さんが三宮にあげようと思って準備している姫の様です」「忠純は行純に、とは考えているのかね?」「全く」 大きく仲忠は首を横に振る。そしてため息混じりに。「だから面倒なんですよねえ」 「忠純にしてもせっかくの娘を行純にあげても何の利も無いからなあ。可哀想だけど行純は全く望みは無いね」「ちなみに」 にっ、と仲忠は笑った。「忠純さんは三宮を表向き、仁寿殿女御にも僕にも頼む、と言ってるんですよね」「…何を企んでいるのやら」 さあ、と仲忠は晴れやかに笑った。「…ではそろそろお暇いたします。家の件は何とかしますから、また何かありましたら僕に言いつけてください。できるだけのことはしますので」 頼むよ、と言いながら、兼雅はついこの頼りがいのありすぎる息子と正頼の息子達を比べてしまうのだった。
2009.07.11
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「…あなたをうつほで見つけた時、胸が潰れそうになったんだ」 兼雅はやや拗ねた様な声で言う。「その時他の女のことは頭から吹き飛んでしまったんだ。あなたのことで頭がいっぱいになって、他の女のことなど思い出しもできなかったんだ」 その言葉には尚侍もさすがに心を動かされるものがある。「仲忠が言うまですっかり忘れていた」「嫌な方」「そう言わないでおくれ。私だって彼女達のことは哀れに思っているんだ。ただ仲忠もああ度々親に向かってそう責めなくとも…」 最後の方は口の中でつぶやく様な声になる。「ああもう。どうやって彼女達を助けてやったらいいのかな。あなたには何か考えがあるのかい?」 急に言われても。尚侍もすぐには考えが浮かばない。 と、その様に二人が話している所に、仲忠からの贈り物が届けられた。「ほぉ、なかなか趣のあるものだな、持っておいで」 近くに持って来させて開けると、それは仲頼の妹君に与えたのと同じようなものだった。「たいそう美しい白絹… そうですわあなた、これをそのまま困っている女君達に分けてくださいな」 それはいい、と兼雅はなかなか考えも浮かばなかったところなので一も二もなくうなづいた。 牛を外した車に破れた下簾をかけさせ、納殿にあった貴重品や衣類、贅殿に保存しておいた魚、鳥、菓物の中からよさげなものを選び、長櫃に入れた炭や油などと一緒にその中へ入れさせる。贈り物なのだ、と。 そこへ文を添えて。「先日はあなたに会ったことで、目がくらみ、頭もぼうっとしてしまったので、大した話もすることができなかった。どうか許して欲しい。今となっては、 ―――亡き父君はあなたを案じて訪ねることもあるでしょうが、今となっては私が訪れても仕方がないことです。 さて、この「こめ」は夏衣でしたね。今すぐという訳にはいかないでしょうが、そのうち役に立つこともあるでしょう。情と同じようにね…」 急な、そしてありがたいはからいに皆一様に嬉しがる。贈り物だけではない。金子もあったのだ。 主人である中の君は、先日の自分の文を見たからだな、と思って返しを書き出した。「先日は思いもかけないお便り… 夢心地でございました。けど、 ―――私の待つ人は久しい間見えませんけど、夕方雲が見えない日はありません」 微妙に嫌味が混じってしまうのは気のせいではないだろう、と彼女自身も思う。こんな思い出した様にぽん、と贈ってくるのも―――悪くは無いが、何よりいつも会えるならもっと嬉しいものである。自分としても、自分の元に集ってくれている者にしても。 ただ兼雅の贈ってきた金子は非常にありがたかった。何せ百両近くあったのだ。 元々その金子は彼女に与えるためのものではなかった。 たまたまこの頃は唐人が渡って来る時期で、兼雅自身、何か珍しいものがあったら彼等から買い求めようと用意していたものである。 中の君はこれで使用人達に衣類を用意してやることができた。皆喜んだことは言うまでも無い。 それがまた噂になり、それまで何かと適当なことを言って彼女の元を飛び出した使用人も戻ってきたということである。 彼女の住む辺りは物が豊かになり、賑やかになってきた。それを見た一条院に残る兼雅の他の女達や、使用人達は非常に羨ましがって騒ぎ立てたということである。
2009.06.24
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十二月も大晦日になると、あちらこちらで正月の節会の準備の品を持ち寄って来る。 その中でも種松は、正頼と仲忠の両方に、粥の材料を皆揃えて贈った。 正頼には炭を二十荷、米を三十石。 仲忠には炭は十荷、米を十石。その中の炭二荷と米一石を彼は三条殿の女三宮へと贈った。 また同じ量だけ一条殿に残っている仲頼の妹君にへと贈る。その際仲忠は、草刈と馬人が居れば済むところを、童を二人、大きな法師や雑仕をも他から雇い入れて遣わした。 そして「―――先日はもっとお話を伺いたいと思いましたが、日が暮れたので残念でした。その折に貴女にに申し上げた様に、これからはもっとどなたとも仲良くなさって下さい。 さて、この炭は水尾からのものとどうぞ見比べてやって下さい」 と手紙をしたためた。 それを法師の使うような素朴でさっぱりとした紙に包んで、その上に「山より」と仲頼の字に似せて書く。 そして側仕えの上童を呼ぶとこう命じた。「一条殿でね、この間僕に栗を投げつけた方の所へこの文を入れて帰っておいで」 上童は妹君の所へ行くと「水の尾からの使いです」と言って手紙を渡した。 そして手紙に引き続き。「まあ、何ってことでしょう」 急なことに皆が慌てふためく。女房達が騒ぐので妹君も身を乗り出す。 三十を越すか越さないか、くらいの彼女はどちらかというと可愛らしい女性である。生活は質素ながら貧しさは感じさせない。この時もつれづれに琴を爪弾いていたところだった。 するとそこには、精巧な細工をした籠が二十。その全てに炭が入れられている。またその炭籠の一つには、銭二十貫を入れて、覆いをして結わえてある。 また米俵がしけ糸―――粗い絹糸で編んであり、全部で四つ。 そのうち三つには、米を入れずに絹を三十匹ずつ入れ、残り一つには非常に美しい綿を二十屯が入っていた。「まあ…… 私の身に過ぎた節料だわ。兄上からとはあるけれど、今のあの生活をしてらっしゃる兄上からこんなにいただける訳は無いし……」「ですがお方さま。正直、いただけるものは嬉しゅうございます」 女房達の言うのも尤もである。「さて、ではどうしましょうね」 女主人として妹君は彼女達に問いかける。すると乳母が進み出る。「これは全てあの仲忠どのからのものでしょう。……全く何処の誰とも知れぬ懸想人からというならともかく、あの方は、あなた様の背の君の御子で、それに水の尾の御兄上のご友人。きっと真心からなのでしょう。素直にお受け取りなさいませ。それが宜しゅうございます」「そうですわ、早くお返事を」 周囲もそう急かす。急に彼女の周りが明るくなった様だった。そうね、と鷹揚に微笑むと妹君は使いの者達を呼び入れて、彼等に食事や酒を振る舞った。 童の大きい方には白い袿、小さい方には単衣を一枚ずつ渡し、懐に入れさせた。 その間に妹君はお返しの手紙を書く。「―――有り難く受け取りました。 先日はそちらの仰る通り、申し上げたいことも尽くしませず残念でございました。 山―――兄の代わりと仰ると、馬のたとえの様な気持ちが致しまして、何とも嬉しゅうございます。 ところで、炭焼きまでなさっていらっしゃいますから、どんなに御手が黒いだろうと思いやられます」 そう書くと彼女は使いにまた託す。 そしてふと視線を巡らすと、頂き物を広げては心から喜んでいる様な家人達の姿に妹君も嬉しくなる。だがあえてこう釘をさしておく。「もう少し静かになさいな。あの方からの贈り物と周りの方々に気づかれたら、きっと私達呪われますよ」 皆はそれを聞いてこっそりと笑い合う。久々のことだったのだ。こんなに暖かな正月の備えができることなど。「あと、皆様にもお分け致しましょうね」 妹君は母宮や水の尾へ送る分などを分けて取り置く。宮内卿の所へも送る様に指示する。向こうも困っていることを彼女は知っている。 水の尾の兄には仲忠からの手紙も添えて、必要だろう、と男の子二人の装束なども整えて贈った。 種松は兼雅にも絹や綿などを大きな櫃に積んで贈った。錦など世にも希なものである。 また、三条殿に移った女三宮の方にも彼女の持つ領地から節料が沢山送られてくる。 ところで、そんな彼女の元に兼雅が訪ねることが増えたかというと―――大して以前と変わらなかった。 彼はひたすら北の方の元にのみ昼も夜も居続け、食事もそこで摂る。女三宮のところには時々昼間行くことはあっても泊まることは無い。 ある日兼雅は北の方に、一条殿に住む中の君の様子を話した。 彼女の貧しく哀れな様子、別れて帰る時に投げ出された文に北の方は堪えきれず涙を流す。「親に先立たれて心細い生活をするのはどんなに淋しく辛いことか……」 あなたには判らないでしょう、という皮肉をやや込めて彼女は夫の方を見る。「まだお若い頃にそんなことになられたのです。お辛かったことでしょう…… なのにあなたときたら、そんな方を放っておくなんて…… お父君からも頼まれたのでは無いですか?」
2009.06.16
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正頼達は夜半過ぎまで立ち尽くしたが、結局暁には引き上げることとなった。 朝早く、親純を使いにして藤壺に正頼から文があった。「昨夜は道が心配でお迎えに伺ったのだが、お許しが出ないので暁に退出した。車などの用意をするのも色々と厄介だったのだが… 子供は二十人がところ居る訳だが、そなたばかりを秘蔵っ子扱いに育て、早く人並みになって、光栄ある身になる様にと思ってきた私だ。実際入内させ、次々と皇子を誕生させてくれたことは非常に嬉しく思う。 だが昨夜、そなたを待つ間、そこらかしこで聞こえてきた忌々しいそなたへの悪口に、私は大層気が塞いだ。 …いや私自身はともかく、そなたのきょうだいなど、若い者達に聞かせたい様なことではない、と思った。 どうか早く退出して、皆の気持ちを鎮めてやってくれると嬉しい」 藤壺がそれを読んでいると、東宮は「見せなさい」と言って取る。 父親としての正頼の心については、東宮も「実に気の毒だ」と思う。だがその一方で「退出せよ」との言葉に腹が立つ。 そこで彼は文を持ってきた親純にこう言伝させる。「藤壺を謗る言葉を聞いてしまったことは気の毒だと思う。だがここの他の妃達の女房が勝手にすることにまで私は責任が持てない。正頼よ、そなたにとって面目が立たないというならば、そういう言葉は聞かなければいい。態度が目に余るなら見なければいい」 親純はしぶしぶそれを帰って正頼に伝えた。無論彼の気分が怒るやら悲しむやら最悪のものになったことは言うまでも無い。 そんな夫の様子を見ながら、大宮は呆れ半分、情けなさ半分にこう言う。「だいたいそんな、これ見よがしに子供達皆ぞろぞろと引き連れて行くからいけないんですよ。しかも困った消息までして。あなたはともかく、子供達の将来のために困ってしまいますよ」 一方仲忠はそんな大宮の言葉をまた人づてに聞き、はあ、とため息をつく。 そして。「だから言ったのに。そう簡単に退出なんて無いだろうって。藤壺の御方自身は人並みでなく慎重なひとなのに、ああいうことがあっちゃ大変だ」 そう独り言を漏らしたとのことである。 十二月。 京官の日がやって来て、左大臣忠雅、右大臣正頼、左大将兼雅が宮中に召された。 そして翌朝早くから、行事が済んだと言っては皆騒いでいた。 この時、正頼の家に関わる者達の中でも、大勢が新たに任命された。 衛門督には忠純の中納言、右近少将には親純、あこ君の一人が内蔵頭兼左衛門尉になった。だが彼等は誰一人として、東宮のもとへと慶びの挨拶には出向かなかった。 仲忠は、と言えば、帝の側に東宮が居ることから、皆に交じって参内する。その場で東宮が仲忠に向かって嫌味めいたことを口にするが、仲忠は気にしない。いちいち気にしていたらお勤めなどできないのだ。 挨拶もきちんとする。「先日は文書の講読で大変お近くに寄らせていただきましたのに、他のことで色々と忙しく、ご挨拶もできなくて失礼致しました。御仏名が終わってから是非、とも仰有られ、ひたすら文を読むようなことが続きそうだったのですが、何かと用事がございまして」 ですので、と仲忠は続ける。「年が明けましたら致すつもりでございます」 その様子を見て東宮は「上手く逃げたな」と思う。彼が決して好きで講読をしていた訳ではないこと位は東宮にも判るのだ。 そんな東宮はと言えば、ここしばらく藤壺を側から離さない。 本来彼女が居るべき藤壺ではなく、自分の御座所の近くに局を特別にしつらえ、そこから出そうとしない。 兵衛の君、孫王の君、あこぎの三人だけを側に置かせ、東宮はこう彼女に言い放った。「用があるならこの三人に言いつけるがいい」 それ以外の者を近づけるな、自分の側から離れるな。 そんな東宮の思いが鋭く彼女に突き刺さるかの様で、藤壺はぞっとする。 怖い。ひどく怖い。だが彼女はその一方でくっと口の中を噛みしめ、心に強く決意する。何も言うものか。脅えてみえるならそれでもいい。 いずれは退出できる。しなくてはならない。その時までは心を強く持たねば。 不安になるのは自分ばかりではない。腹心の女房達、いやそれ以上に自分を宮中に入れた父母、一族郎党に及ぶのだ。 怖い。だが。 藤壺は耐える。
2009.01.28
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さて仲忠が返した車は予定通りに使われることとなった。退出する予定の藤壺の御方を迎えに行くのだ。 中心となるその車に、糸毛の車が三台、黄金作り、髫髮車、下仕えの車、合わせて二十台ほどが添えられる。 前駆もまた凄く、今現在都に居る四位五位の者は殆どやって来ている。 とは言え、実際のところ東宮は藤壺の退出を許した訳ではない。仲忠の読みより更に事態は厄介なことになっていたのだ。 仕方なく、正頼は皆を引き連れ、自分が直接東宮に頼んで退出を許してもらおうと思っていた。さすがの東宮も、これだけの用意をされては断れないと彼は考えていたのだ。中納言忠純を除く一族の男達を皆連れて行くのだから。 そのまま彼等は朔平門、縫殿の陣に車を引き立てて行く。 一方東宮はと言えば。 正頼達のその様子を寝所にて昼頃から眺めだし、不機嫌そうな声で「妙に気分が悪いな」とつぶやく。その手には藤壺を捉えたままで。「…そろそろお起きにならないと」「嫌だ」 きっぱりと東宮は答える。 外では正頼が東宮に会おうと女房達に取り次ぎを頼む声がする。だが中の様子を聞くと、彼もそれ以上足を踏み入れることは出来ない。 仕方なく下に立ち、息子達はそのまた下、階を昇ることもできず、地面の上で待つ。 正頼は幾人もの人々を間に入れて藤壺に迎えに来たことを告げようとするが、なかなかその言葉が届かない。 そうするうちに、昭陽殿の君に女房が告げる。「御方様と比べて長年宮仕えをしている訳でもないのに一人寵を集めていた女が今夜やっと里帰りをなさいますよ。すっと致します」 承香殿では下仕えの童などが、わざと聞こえる様な声で口々に言い立てる。「御方さまー、今日は絶対に吉日ですよー。縫殿の陣の方に、物でも散らした様に車が立ってます」「今日退出するんですよきっと。いえ絶対」「出て行くひとなんて、百本の楚の鞭で打ってやるのがいいですよ」 あははは、と不躾なまでの笑い声が正頼の耳に飛び込んで来る。彼は思わず爪弾きをする。せずにはいられない。 正頼は口走る。「…は、娘を持った親などいい犬乞食だな。娘の中でも出来の良いと思ったのを宮仕えさせたというのに、こうも悪口を聞く様な羽目になるとはな… だったらいっそ、犬や鳥にでもやって大切にしてもらった方がましだったかな」 ちなみにそんな正頼の言葉は東宮にもちゃんと聞こえていた。 女房達に「もう夜が更けました」と正頼が催促しても、知ったことではない、とばかりに無視し続ける。 困ってしまい、彼女達は正頼には「お伝えすることができません」と告げるしかない。 正頼は仕方がない、と孫王の君を呼び立てる。「…殿!」「いいか、藤壺に後ろの方からそっと申し上げるのだ。『度々退出をお願い申し出てもお許しが出なく、また今こうやってあなたに思いもかけず敵が多かったのを知り、心配のあまりお迎えに参りました』とな」「承知致しました」 うなづくと孫王の君はするりと裏側から忍び込む。 だがそれに気付いた東宮は慌てて起きあがる。あっ、と藤壺が思う間も無く立ちあがり、荒々しく出ようとする。 だが運悪くそこに脇息があった。「うわ」 東宮はつまづいて倒れ込む。屏風や几帳がばたばたと倒れ、彼自身は腰をひどく打ち付けてしまった。 孫王の君はうわぁ、と思いつつ、東宮のその様子をしばらく躊躇いながらも眺めていた。 やがて来た時同様、彼女はするりと抜け出すと、中で起きたことを正頼に伝える。東宮たる者のあまりの醜態に、正頼は大きく深く、しかし聞こえない程度にため息をつく。「ああ更に御気分を害したことだろうな」「…恐れながらその通りかと」 孫王の君も聞こえるか聞こえないか程度の声で答える。「だが翁のわしが夜分ここまでやってきたというのに、そのまま帰れるか」 めげてはいられない、とばかりに正頼は息子の一人に命じる。「顕純、そなたが行って春宮に申し上げるのだ。そなたは春宮亮だから、蔵人でなくともお側に上がって申し上げられるはずだ」 しかし顕純も気がすすまない。その役目であるから余計に、東宮の性格は良く知っている。「…ご機嫌が宜しくなさげですので…」「不甲斐ない奴め!」 そして東宮はその様子を聞こえる範囲で聞き耳を立てている。無論聞いていて気分の良くなる話ではない。ただでさえ腰も痛い。醜態を藤壺に見られたことも情けない。 その藤壺は、と言えば、それでもできるだけ平常心を保とうとしている様だった。表情をできるだけ動かさず、失態も見ないことにしようと決めているかの様だった。 だが東宮にしてみれば、それが余計に腹が立つ。彼はぐい、と藤壺を引き寄せた。「そなたが呼び寄せたのか?」「いえ、そんな…」「いや、そうだろう。そしてああやって親兄弟大勢で詰めかけて、私を責め立てるのだ。それも私に黙って」「…知らないことです」「そんなことは無いはずだ。いいか、これから私に黙ってそんなことをしてみるがいい。死んでやる。そなた無しで私は生きていけない」「…何をそんな不吉なことを…!」「いいやそうだ。ああやって皆で詰め寄ってそなたを無理矢理にでも退出させようというのは、一度出してしまったらもう参内させる気がないからだろう。そんなことは許さない。許さないぞ」 ぐっ、と抱きしめる力が強くなり、藤壺はうめく。 その動揺が伝わったのか、彼女の中、五ヶ月に育った子が無闇に動く。騒ぐ。外からも中からも責め立てられ、藤壺はどうしていいのか判らず、知らず、涙を流していた。 さすがにその様子に東宮も力を緩めた。自分に言わず、勝手に退出したがる。軽んじているのか、と憎くなる。だがそれを遙かに越えて、藤壺のことは愛おしい。 自分のその気持ち自体が東宮は嫌になる。そしてついこう口にしてしまう。「そなたが何も言わないからだ」「…」 藤壺は震えて何も言うことができない。「私はそなたのためなら何でもする、と行った筈だ。してきた筈だ。なのにそなたは今でもこうだ。強情なまでに私から離れようとする。誰のせいだ? 仲忠か?」「…そんな」「ああそうだ。入内さえしなければそなたは仲忠と一緒になれたかもしれない。あれと一緒になった妹の様な幸せが待っていたかもしれない。そうだ仲忠。私もとても大好きな男だが、時々居なくなってしまえばいいと思うこともある。親が大事にしている一人子、父帝にとっては、最愛の女一宮の婿に許した男、二つとなく労りたくなってしまう様な!」 違う、と藤壺は声も出ないままに首をただ横に振る。「その様にしていてもそなたはただただ美しいな、藤壺よ。だがその美しさは罪だ。一体そう、仲忠にも匹敵した様な男達が、どれだけそなたのために無用の者となってしまったことか! 天の下全ての人々を悲しませるためのものだな、そなたの美しさは。なのに心は善くない。何故だろうな」 矢継ぎ早にまくし立てられる言葉に、藤壺は水を掛けられた様にがたがたと震えた。 彼女自身、東宮がある程度その様に思っていることは知っていた。判っていた。 だがこの様にあからさまに怒りをぶつけられるとは考えていなかった。 怖い。怖くて仕方がない。彼女は汗と涙でびっしょりと濡れたまま、腹のことも忘れたかの様にうつ伏せで震えるだけだった。 そして東宮は思う。この様な姿をしていて、それでもこの女は美しいのだ、と。どうしようもない程に。「これからは私に隠し事などしないように。いずれにせよもうじき嫌でも出なくてはならないだろうから、それまでの辛抱と思うがいい」 その言葉に、東宮は自分をぎりぎりまで退出させないつもりなのだ、と彼女は気付く。「無理に退出しようとするなら、どうなっても知らぬぞ」 どうなっても。藤壺は脅えた。他の妃達から四面楚歌の中で、たった一人守ってくれなくてはいけない人からこう言われなくてはならないなんて。 彼女はぐっ、と息を詰め、見えない様に拳を握りしめて堪える。 そして強く思う。誰も自分を無条件に守ってくれる者など居ないのだ。 強くあらねば、と彼女は思った。
2009.01.22
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女三宮の辺りでは、兼雅が食事をしていた。 すると彼の目に、見覚えのある女房がよぎった。「そなた、そう、左近と言ったな。昔を思い出して、私に湯漬けをもてなしてくれないか?」 言われた側の左近はああ覚えていてくれたのか、と恐縮しつつ、金の坏に湯漬けを用意し、おかずとなるものを一緒に非常に美しく盛りつけて兼雅に差し出す。 やがて酒も進むままに時も経ち、日も暮れる頃、車の用意を整わせる。 十二月という寒い時期だというのに、政所から炭を沢山取り出し、所々に火を起こさせる。車に付き添って供や前駆けをする人々には餅や乾き物を出すなどの気遣いも忘れない。樽に入れた酒は貝づくりの器でもって温められる。果物や乾物などもそこに添えられる。 やがて出発の時間が来る。まず髫髮や下仕えと言った者達が控えの車に乗る。 やがて次々に人々が乗って行く訳だが、その様子が外を窺っていた中の君にも判る。「…そうよね、今日は女三宮さまをお迎えにきたのよね…」 乳母達は女主人を心配気に眺める。「私は一体どうしたらいいの。この返しの文さえ、あの方に見せることすらできないままなのかしら」 先程書いたものの、渡せないままになっている文を中の君は握りしめる。 そんな彼女の気持ちが伝わったのだろうか。女三宮を車に乗せて出した後、中の君の所へと足を向けた。 顔を出す訳ではない。だが言葉は伝えなくては、と兼雅は声を上げる。「今日は女三宮のためだから、今度改めて必ず迎えに来るよ」 すると中の君はたまらなくなって、手の中の文を思い切り投げた。 お供の一人がそれを拾うと、兼雅に届ける。彼は後で読む、とばかりにそれを懐に入れ、車に乗り込んだ。 仲忠は馬に乗って、前駆の役をしていた。 その様子を見た世間の人々は驚くやら感心するやら。「…大将ともあろうお方が、継母に当たる宮をお迎えして前駆の役をお勤めになっていらっしゃるとは!」 家に居たものも車を引き出してわざわざこれを見物しに来る。中にはわざわざ馬を駆り立てて来る者も居る。由緒ある檳榔毛の車から簾を上げて身を乗り出し、落ちそうなくらいの姿勢でしげしげと眺めている者すら居る。 さすがにその様子には仲忠も呆れて、見物車の側によるとこう言った。「何をご覧になってるんです? 僕? そうでしょ、僕以外に見るものは無いでしょう?」 くすくす、と笑いながら。そして適当に女三宮からは視線を外させながら。 やがて三条の家へと辿り着くと、南の大戸のに車を寄せて、皆それぞれ降り立った。 この夜の家移りについては、宮、兼雅、仲忠とそれぞれがしなくてはならないことをそれぞれに分担していたので、移動中はまるで顔を合わせることがなかった。 その三人がようやく皆一斉に顔を合わせた。 兼雅はそのまま南の大殿に、女三宮のところにこの晩は泊まることとなった。 仲忠は母尚侍の方へと向かった。「今から三条殿の方へ戻ります。でも母上、僕はまた明日も来ますから」 そう言って彼は戻った。 何せ車も返さなくてはならない。涼の方もあんまりのんびりしていてはやきもきするだろう。
2009.01.18
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「…今では、こんな風にでも生きていけるものだなあ、と思う様になりました」 女三宮はおっとりと言う。長い間自分を放っていた相手を恨むという風でもなく。「私のことはそれでいいのです。ただ心苦しく思うのは、私も、妹の女四宮も心柄からだとはいえ、夫に見捨てられ落ちぶれてしまった、という評判が多少なりとも立ってしまったことです。私たち自身がどう思おうと、世間の口に戸は立てられません。『親である嵯峨院や大后の宮の面目を潰した』と言われる中、参内もできないこと、それが苦しうございました」 ことさらにさらりと言うだけに、彼女の言葉は兼雅に突き刺さる。「以前は暫くのことだとあなたは仰有って、時々はおいで下さったものの、その後… それを思うと、今の妹の様子も非常に自分と重なって悲しく思われることです」 そうかそういう問題もあったのか、と兼雅は思う。女三宮だけの問題ではなかったのだ、と。彼は自分の迂闊さを呪った。「それで先日仲忠どのに申し上げたのです。私も何ですが、女四宮のこともあるから、と」 成る程それで熱心だったのか、とようやく兼雅は納得した。 やがて彼の前には、昔と変わらぬ程の御膳部が出た。 一方その頃、仲忠は仲頼の妹の住む方へと向かっていた。 簀子の辺りに彼が立つと、女性の声がする。「まあ、思いもかけない方がおいでになって。…お間違えになったのでは?」 いいえ、と仲忠はにこやかに答える。「皆さんがあなたをお探しだったから、それをお知らせしようと思って」「そんな人は知らないよ、と仰有ったので、まあそんなお気持ちだったのか、と気が付きました」 妹君はそう言うと、簾のもとに几帳を立て、仲忠に茵と、絵を美しく描いた赤色の火鉢を火を起こして差し出した。「もう少し近くにいらっしゃいませんか? 今山に住むあなたの兄君とは僕も仲良くしていて、いろいろお話したものです。あなたもそれは聞いていると思うのだけど」「あなた様のような素晴らしい方のことなど、法師となったひとの知ることではないだしょう。それに私の所には何の音沙汰も無く」「どう致しまして。とっても良く知り合っている仲です。そう、先日もこれはあなたに言うべきだったと思ったんですが、あなたが彼の妹君だということを知らなくて、大層失礼致しました。父から聞いて、これは大変だとこうして伺った次第です。あの仲頼さんの妹君ならこれはもう、急がなくちゃ、と慌てて」 くす、と妹君が笑う気配がする。「本当言うと、色々聞いてはいました、あなた様のことは、兄から。でも今は疎遠になっていると噂に聞いておりましたので…」 遠慮していたのだ、と仲忠はぼかした言葉の向こうを推し量る。「これからは双側に親を持っていると思って欲しいんです。うちの父と、仲頼さんの代わりになりたいんです。僕は大した者ではないけど、あなたにとって、多少の頼りにはなるとは思うんです。どうでしょう? …あ、そうだ」「はい」「仲頼さんは出家してしまって… あの奥方はどうなさったのでしょうか。今どちらにいらっしゃるのでしょう?」「ああ、あの方でしたら、親元にいらっしゃいます。先頃お訪ねした時には、私も身につまされて悲しく思いました。吹上から兄が帰還した頃がございましたでしょう。あの頃を思い出したのか、ずいぶんとお泣きになりました。あの頃はとてもあのお二人は仲がよろしかったのに…」「あの頃は、楽しかった。確かに…」 仲忠もしみじみと思い返す。「あの方も、兄同様出家したいと言われている様ですが、ご両親がお許しにならないので、せめて心ばかりは、と思っている様です」「彼には子供も沢山いて賑やかだったと思うんですが、男の子だったか女の子だったか… 今幾つくらいですか? どうしてますか?」「女の子が一人、十少し、というところですか。男の子は二人。女の子より一つ二つ下ですわ。女の子は母君のところに、男の子は何やら物を習わすと言って、兄の元に呼ばれています。この上の子が、兄によるとずいぶん見込みのあるらしくて、自分より優れていると言ってましたわ。弟の方はさほどではないので、兄は困っている様です」「彼は楽器なども、大層良いものを持ってたけど。山に持っていったのかな」「子供に習わすから、と後で取り寄せました。ただ女の子には習わせません」「何故でしょう」「さあ… ただ、兄はいつも、今居るところよりもっと山奥へ奥へと入りたい、と言ってよこします」「…どういうつもりなんでしょうね。そういう寂しいところに、幼い子供達と住んで。 ―――睦まじいひとも妻までも捨てて、寂しい山にどうして独りで住む気になったのだろう―――」 そう仲忠が詠めば、妹君はわっと泣き出し、こう返した。「―――頼みにした夫も時々見えた兄も忘れることができないで、独り住みは里にしても心憂いものでございます」 彼女が落ち着くのを待って、仲忠はこう言った。「今日は女三宮が三条にお渡りになるというので参ったのですが、私の住まいもそのうち広くなると思います。その時にはあなたをお迎えしようと思いますので、暫くはご辛抱願えますか」「…そんな」「僕がそうしたいのです。それでは」 そう言って、仲忠は女三宮の居る側へと戻っていった。
2009.01.18
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その翌日。「三条の父上の家に行ってくるよ。ずっと考えてた、やらなくちゃならないことをやって来るから」 そう言うと仲忠は、装束を改めて、香もしっかり薫きしめて出かける。 まずは三条殿の南の御殿へ向かう。 暫くすると、お揃いの装束を整えた男達二十余人を付けて、新しい黄金づくりの車が涼から用意される。 糸毛の車には身分の低い男の侍どもに束帯を着せて三十人ほど付けている。 また四位の者が十人、五位が二十人、六位ともなると、三十人もお供に、と控えている。 仲忠は彼等に命じた。「馬に鞍を置いて、内緒の通い先から帰る男達の様に引き連れて父上の家へと向かって欲しいんだ」 その様にして、仲忠は一度三条の兼雅邸へ向かう。 それから親子揃って一つ車に乗り込み、先駆けも二人ばかりで、女三宮の一条の家へと向かった。 一条の家に着くと、二人は西の門の方で車から降りた。 そのまま仲忠は女三宮のもとへ挨拶に、兼雅はこっそりと中の君の様子を窺いに向かう。 う、と兼雅は思わず声を立てそうになった。そこで彼が見たのは、あまりにも哀れな光景だったのだ。 うち破れた屏風が一揃い置かれ、煤けた夏の帷子をつけた几帳を一つ二つ立てたところに彼女は居た。 煤けて黒ずんだ白の袙に、所々破けた綾の掻練の袿を重ねただけ。やはり煤けた火桶に少しばかりの火を起こし、夜の食事とも朝のそれともつかないものを食している様に見える。 食台を立て、白い陶器の椀に姫飯を少しだけ盛って、おかずには山椒と蕪の漬け物、それに固い塩だけ。 また彼女の前の調度と言えば、古びた革の蒔絵の梨地の箱や、硯の箱等が置かれているくらいなものである。 ふと見ると、乳母が櫛の箱の蓋を取りのけて、いつぞや兼雅が彼女にと贈った黄金の粒が入った柑子の壺から残りを掻い出している。 そしてその乳母の娘や孫が、中の君に仕えている様なのだが―――それだけである。他にちゃんとした下仕え一人も居ない。 兼雅は愕然とした。昔は華やかに暮らしていたのに。そのはずだったのに。 思わず彼の目から涙が溢れた。袖がびしょぬれになる程に泣いた。 元々彼は決して悪い男ではない。ただあまりにも正直で迂闊なだけなのだ。 ふっと見渡すと目の前に硯があった。そこから筆を少し借りると、兼雅は懐紙にさらさらと歌を書き、それを硯の上にそっと乗せる。 今すぐに彼女と直接顔を合わせるのは実に辛かったのだ。 一方、中の君は兼雅がそっと来て去って行ったのを知ると、嗚呼、と転がり廻って嘆いた。「あのかたに今のこんな様子を見られてしまったなんて… でもどうしたらいいの、どうにもならないことだわ、もうどうなったっていいわ、私に何ができたって言うの、全てあのかたのせいじゃない…」「御方さま」 乳母はなだめようとするが、彼女の動揺はなかなか治まらない。「それにしても嫌だわ。恥ずかしいわ。隠していたのに。どうして私ばかりがこうなの? 私ばかり不幸なの? 生まれつきそうなる運命だったっていうの? ええきっとそうなんだわ。私のせいじゃない。運命よ。宿世よ。だからどうしようもないじゃない。けど嫌嫌、恥ずかしい…」 自分でもどうしようも無い気持ちをただただ繰り言にする中の君に、乳母もその子もおろおろとするしかない。ただその中で孫の童が一人、彼女に紙を差し出した。「…何」「御硯にかかっておりました」 見覚えのある筆跡に、中の君の表情が変わった。「―――見るからに涙が雨のように降って何もかもわからなくなり、言うべき言葉も見つかりません」 中の君はどう返事をしたものか、と思った。せめて、何か。すぐには浮かばない。 が、結局こう書いた。「―――かつては二人で眺めた雲井を、別れたきりお見えにならないので、独り恨んで眺めています」 さてそれではこの返しをどうしようか、と彼女が思ったとしても――― 悲しいかな、ここには兼雅を追いかけて渡せる様なちゃんとした女房がここには居ないのだ。 中の君はたった今書いた返しを握りしめて、立ち上がり、寝殿に面した柱の辺りにたたずむ。 ちょうど兼雅が東の一の対へ行くところが彼女の視界に入る。う、う、と中の君はただ声を押し殺してうめくしかなかった。 兼雅に追いつけないのが悲しいのか、悔しいのか、向かう女三宮が憎いのか、彼女にもよく分からなかった。 ただ暫くの間、じっと男の背中を見据えていることしかできなかった。 その兼雅が向かった先では、二十人余りのきちんとした装束の仕える者や青い袙を着た童の姿がまず目に飛び込んできた。 ここは昔と変わらない、と兼雅は思う。建物も、御簾や屏風や几帳といった調度も、その整頓も、そこで仕える人々の立ち居振る舞いも、彼がまだここに住んで居た頃そのままだった。 女三宮は仲忠が先に先触れをしていた為か、既に兼雅を迎える準備を充分していた。彼女は御簾の前に、褥を敷いて夫を待ち構えていた。 ああ本当にここは変わらない、彼女は変わらない、と兼雅は思う。 年こそ少し重ねたが、さほど容貌が劣ることもない。綾掻練の濃いもの薄いものを重ねた細長を季節に丁度良い程にきちんと着こなしている。火桶もすっきりと手入れがされており、炭櫃には赤々と火が焚かれている。 やがて兼雅の前には昔と変わらず豊かな御馳走が出された。 兼雅は女三宮に向かって言う。「ここ数年は、朝廷からは見すてられた様なみじめな有様なのだ。昔はそれなりに自分も出世するものだと思って、あなたとそれなりにつり合いが取れるのではないか、と思っていたのだが… 今では私の出世も立場もここ止まりではないかと思っている」 女三宮はそんな兼雅の言葉を黙って聞いている。無論彼女は夫の言い分が本当ではないことは判っている。兼雅はあくまで仲忠の母である尚侍一人に心を奪われて、自分達を放っていたのだ。そんなことは良く判っている。元々そういう人だということも、良くよく判っているのだ。 兼雅は尚も続ける。「そんな自分が恥ずかしく、わざわざそんな男があなたの様な方についていては、あなたの評判にも関わると思って、似合いの程度の女のところにずっといたのだ。だが私の命もこの先そう長くないと思うので、今私の住んでいる所… まあ、漁雄の住む様な所だが、時々いらしてはくれまいか?」 長い長い前置きの末、ようやく兼雅は本題を切り出した。
2009.01.17
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そのうちに例の典侍が非常に立派に装束をまとって仲忠夫妻の前にやっていた。「犬宮さまが非常に恋しくなりましたので、向こうからも今日明日のうちは居てくれと引き留められましたが、こちらに参上してしまいました」 仲忠はそれを聞くと、「それはありがたい。嬉しいな。あちらの皆さんはどうしているの? 御簾の中は大勢の方々が居らした様に思えたけど、何人くらい居たのかな」 そうですね、と典侍は首を傾げる。「女二宮さま、大納言忠俊さまの北の方の七の君、宰相実正さまの奥方の三の君、左大臣忠雅さまの北の方の六の君などがいらっしゃる様です」「ふうん、どなたが一番綺麗だった?」 少し茶目っ気を出して仲忠は問いかける。「皆それぞれにお美しくございますよ。取り立ててどなた様が、などとは申し上げられません」「女二宮は裳着もお済みになったことだし、綺麗だろ?」「まだお小さい方ですから、何とも申せません」「強情だなあ。それじゃ、顔立ちとか」「畏れ多いことですが、はかなげに美しい方、と思われました」 すると女一宮が口を挟む。「二宮は本当に美しいわよ。元々顔立ちは美しい上に、皇女ということで傅かれているから、髪もとっても素敵。もう滅多に見られない程の綺麗な子だわ。髪が肩にかかって扇の様に開いた様子なんて、幾ら見ても見飽きない感じだったもの。私も見たい会いたいと思うのだけど、あまりそういう機会も最近は無くて」「髪も顔立ちも素敵なひとはここに居るじゃない」 む、と女一宮は仲忠を見る。「ここに居る女一宮と、そう、中の君かな、この二人は特に髪が珍しい程に立派だよね。そう、あなたの様な髪は他には見られないよ」 そう言いながら途中から仲忠は妻の方を見る。「まあ嫌なひと。顔かたちなんて年によるものよ。今は私、髪も昔ほど大事にしていないで放っているから大したこと無いわよ。でもあちらの妹は、もう最近じゃお母様が夜も昼もおそばで大切にお世話しているから放っておかれている私とは比べものにならないわよ」「でも評判だよ。あの方はあなたの様だ、だから美しい、って。あと藤壺の御方とも良く似ているって聞くね… ねえ典侍」「何でしょう」「この女一宮は典侍の目から見てどぉ?」「それはそれは。藤壺の御方に似て大層お綺麗でございますよ」「見ることもできないひとにたとえられてもなあ」「そうでしょうか? ご存知という専らの噂ですが」「うるさいねえ。じゃ典侍、涼さんのところの北の方はどう?」「今宮?」 女一宮は不意に飛び込んできた仲良しの名に首を傾げる。「典侍の目から見て」 またそうですね、と典侍は考える。「そうですね、向こうの北の方は、こちらの女一宮さまを少しお若くした様な、すっきりとした方でいらっしゃいます。もっとも、ここの方々は皆すっきりとお美しくございますが」 宮はそれを聞くとびっくりして、思わず声をあげた。「もういいわよ、そうやってべた褒めにするのは聞き苦しいわ」「あれ宮、どうしたの、突然大声なんかあげて。夢でも見たの? それとも人が何か言ったの?」「そういう訳ではないけど…」 典侍の言うことを聞いていると、結局誰もかれも皆同じ様に綺麗だ、と言ってるだけなのが、彼女のかんに障った。彼女の大好きだった友でもある今宮と自分が同じように美しいなんてことは無いだろう。ましてやあの貴宮となど。 顔かたちは似ていたかもしれない。だが醸し出す雰囲気は全然違ったろうと。 無論その辺りは典侍は口にはしない様にしていたのかもしれない。だが長々と同じことばかり言われるとちょっと腹が立つのだ。 仲忠は少しばかり妻が敏感になっていることを察知して。話題を変える。「ところで典侍、涼さんと北の方は仲はどう? 彼、僕がうちの子犬ちゃんをあやすみたいに抱いたりするかな」 先程の友の言葉が仲忠はやや気になっていた。 典侍はええ、と大きく笑ってうなづく。「お二人の仲は大変お宜しいということですよ。北の方の具合がひどくおなりになった時など、もう中納言さまも泣きながら困っておいででしたよ。けどお子さまはまだお抱きになっておりませんね。ご覧になることはご覧になるのですが、怖いと言って、一向に抱こうとはしないのです」「…まだ見てないなんて、嘘つきだなあ、涼さんも。変だと思った」 しかし「怖い」というのは。仲忠は少し気がかりになる。 「怖い」と思ってしまうのは、涼の生い立ちのせいなのだろうか。それとも男の子だったからだろうか。難産だったからだろうか。 それは自分もいつか同じことが起きた時、思ってしまうことなのだろうか。 そう考えると仲忠自身もやや不安になるのだった。 やがて典侍は犬宮を抱いて奥に入っていった。その様子を窺うと、仲忠は女一宮に向かって言う。「ねえ宮、ちょっと起きて涼さんのとこからの被物見ようよ。良いものだし、取っておいた方がいいね。またこういう品が必要になった時に、急に取りそろえるのは難しいし」 さすがにそう言われるとのそ、と女一宮も起き上がって眺める。「誰でもこういうことはするんだろうけど、涼さんはこういうのを特に立派にするんだよね。調度や装束も」「そうね、確かに」「この袿を添えた装束はあなたが取るといいよ。唐衣を添えた方は内裏のどなたか… そう、あなたの母君、女御さまが参内の折の御料にすればいい」「片方の装束は三条の尚侍さまに差し上げらればいいのに」「母上には似合わないよ。あのひとは家の中に中に閉じこもろうとしているから。そういう方の着る様な装束じゃないもの」 などと言いながら、仲忠はその日はのんびりと御座所で過ごしたということである。
2009.01.14
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さて、ここには犬宮の世話をしていた典侍が来ていた訳だが。「犬宮さまの御湯殿のために参上しておきながら、ここにこうして招かれてしまっていること、きっと仲忠さまもご機嫌を損ねてしまわれているでしょう。普段並々ならぬご厚意を頂いている身と致しましては、このまま誰かに御湯殿を任せておくのは非常に心許ないと思いますので…」 そう言いながら今宮の前から退出しようとする。彼女はよく事情を知っていたので、そこは快く了承しつつ、こう付け加える。「今日はどうもありがとう。向こうは確かに大変そうですからね。ただこちらにもこういう折のことを良く知った者はそう居ませんので、頼りになる者が時々来てくれると嬉しいのだけど」「ええ、ええ、時々で宜しいのでございましたら、ぜひ通わせていただきます。何と言いますか、あれ程賢い殿に、こちら様が私を随分労ってくれているので長居をしているのではないか、と思われるのが大層私も恥ずかしく思われまして」「まあそう思うのも当然でしょうね」 そう言って今宮は微笑む。「ところで典侍よ、犬宮はどんな子なのだろうか?」 そこへ母大宮が口を挟む。「私はもう心配で、先日殿方達が宮中においでの頃、見に行ったのだがまるで見せてもらえない。どうしたことだろう。どこか身体に悪いところでもあるのだろうか」「まあ縁起でもございません! もうただ父君を小さくした様なお可愛らしいお美しい赤さんでございます。あの折は、仲忠さまが一日に二度も三度も御消息文をお送り下さいましたが、その都度『犬宮を誰にも見せないように』とばかりありましたから、それで皆つい」「そうなの。だったら良いが…」「大きくおなりあそばしたら、藤壺の御方よりもお美しくおなりにございましょうよ」「さあて、どれだけ美しくとも、あまり周囲で騒ぐというのは聞き苦しいものだよ」 そう正頼が言ってその場が治まった。 典侍にはこのお産の被物として、御衣櫃に女の装束を一具、夜の装束を一具、絹を三十匹、あと綿などを入れて持たせた。 さて戻った仲忠は、と言えば。 彼はひたすら昼の御座所に犬宮を抱いてごろごろしていた。女一宮も一緒に親子水入らず、のんびりとしていると、やがて涼からの祝いの品々が届けられた、との知らせが入った。 どれ、と仲忠が見ると、これがまた、涼らしい豪華なものばかりである。 まずは、藁の代わりに糸を使った白い組緒であらまきの様にし、そこに腹赤に似せた一包みの絹を括り、そこに五葉の作り枝をつけたものを全部で十。 同じように絹で作った鯛や鯉も、あたかも生きて動いている様にして、作り物の五葉の松の枝につけられていた。 銀製の雉子の腹には、練香の黒方をまるめたものが、黄金の鳩の腹には黄金が入れてある。また、黒方そのもので作られた小鳥もある。 銀の折櫃には沈木で拵えた鰹、黒方で拵えた壺焼きの鮑、海松と青海苔は糸で、甘海苔は綿を染めて作られている。 全てそれらは先の銀の折櫃の中、綾を強いた上に載せられている。 また衝重には蘇芳の木で拵えた食べ物が入れてある。 仲忠は一緒に送られてきた洲浜を見やると、そこには涼の手で書かれた歌が添えてあった。「―――絶え間なく流れる水が澄んで、君の影が移り住み、汀に立った鶴が君に代わる程成長してくれるといいな」 そしてまた、碁手の銭にもう一つ、白い袋が。そこには涼の手で消息文が添えられていた。「人はお金にかけては将来を思って大切にするのに、君は自分のものになった碁代すらすっかり忘れているんだね。中にはお金に汚い上達部も居るのにね」 祐純のことか、と仲忠は苦笑する。確かにあれは見苦しかった、と彼は思う。 早速仲忠は返しを書く。「碁代を預けたら黄金に変わったんじゃないですか? そんなとこでどうですか」 と軽く。
2009.01.13
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「ああもう、今宵は散々な目にあいましたよ」 宰相中将祐純はぼやく。「碁にひどい負け方をしてしまったので、うちの子が大声揚げて泣くだろうと思って碁代をちょっと失敬して借りたら、この父を盗人呼ばわりするのに大声を揚げられてしまったよ」「…ずいぶん多くお持ちで」「まあ、な」 実際少々多めに盗ませてあるからまだこれだけあるのだ、と祐純はこそっと問うた者に耳打ちする。「宮はた君は立派ですよ。僕もこの間不思議に仲良くなって契りまで結んでしまったんですからね」 仲忠は先日の殿上の間で宮はたと語り合ったことをほのめかす。すると祐純は慌てて問いかける。「どんな契りだね」「いや、それは内緒です」「それはもう、…うらやましい限りですな」 そんな他愛ない会話を交わしているうちに、時が経ち、暁が来てしまった。 再び酒宴が始まり、御簾の内から君達からの被物が差し出される。それを涼が受け取ると、客人達へと渡すこととなる。 赤色の唐衣、綾掻練の綾摺の裳、三重襲の袴といったものに赤子の衣類や肌着を添えたものを。 殿上人には細長の着物、袷の袴など様々なものを渡す。 涼の伯母である西の方からも袿一重、唐綾の掻練、袷の袴などを上達部や殿上人にも贈られた。 そろそろお開き、という辺りで、仲忠は思い出した様に涼に問いかける。「そうそう、涼さん、先に言おう言おうと思っていたことがあったんだけど」「ああそうそう、君から何かあったな、と私も思っていたんだよ。何?」「うん。実は、明日車を借りられないかな、と思って」「また何で?」 涼は不思議に思って問いかける。仲忠や、兼雅の所にも無い訳ではないだろう、と。わざわざ自分に借りなくてはならない事情とは。「うん、実は一条殿に住んでらっしゃる女三宮を三条のうちにお迎えしようと思って」 おおっ、とその話を聞いていた人々はたいそう驚き、そして喜ぶ。「それはいい。私も姉上にあたる女三宮のことは心配してたんだ。梨壺の君の御母君でもあるのに、今までのご様子は非常に痛々しかったから… そういうことになれば、皆安心できるし」 仲忠側の体裁もいい、ということはあえて口にはしなかった。「それはお父上の言い出したこと? それとも君が?」「さあて。そういうことは当人達以外の知ることじゃないでしょ。そうしようと仰有ったから僕もするの」 あえて父の肩を持つな、と涼は苦笑する。兼雅が自分からそういうことを言い出す者ではないことを涼は、いやそこに居る人々のかなりが知っている。皆兼雅の女三宮への仕打ちには何処かしら良からぬ思いを抱いていたらしい。「車は用意するよ。…ああ、でも明日藤壺の御方が退出されるというから、その時には使いたいんだ」「あ、そうなんだ。でもそう簡単には退出されないと思うよ」「そうかな」「予定が明日なら、きっと明後日の暁方、ってところかな。東宮さまのお許しが出るのは。僕の方は、昼頃女三宮の方をお迎えに行きたいから、暁のそちらの御用には間に合わせるよ」「判った」 それからは皆ばたばたと帰り支度を始めた。あまりにも慌ただしかったので、種松が客人の上達部へと決めていた被物を渡す間も無かった。 さてそんな最中、これこそは帰っていく仲忠を眺めながら、少しばかり胸の中にもぞもぞとするものを感じていた。被物だけくれて、あとは何も無しで仲忠は帰ってしまうのか。 そう思いながら被物をふと見ると、その袴の腰に何やら結びつけてある。 人目に触れないようにそっと文を開いてみると、さらさらと何やら書き付けてある。「―――人に知れないようにそっとてあなたを思い染めて浮き名を流すかもしれないのだけど、やっぱり会いたいと思うよ。何処にいるのか僕に教えてね――― 君を見初めた宮中のあの辺りを忘れかねているよ。寒そうに見えたから、これを重ねて着るといいよ」 これこそはこの文を見て、躍り上がりたいくらいに嬉しくなった。 何と言っても仲忠の文だ。彼からの文など滅多に宮中の女房でももらえないのだ。筆跡も見事で、皆一行でもいいから、と欲しがって右往左往しているというのに。それが自分になんて。 そう思うと嬉しいことは嬉しいのだが、何となく勿体ない様な気持ちにもかられてくる。 結局これこそは、受け取ったものの中から細長を袷と一重に分けて、袷の方は同僚の兵衛の君に、一重の方は中将の君に渡し、残りを自分のものとしたのだった。
2009.01.13
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御簾の内側からは呑んでも呑んでも仲忠のもとに杯が差し出される。 仲忠も閉口し。 「―――杯が廻っては自分の所に来る回数を数えると万世ともなるように、あなたの栄をお知らせしようとしても、どの位続くか判りませんよ」 ちなみにこの時、御簾の中には今宮のきょうだい達がずらりと並んでいた。彼等は仲忠の戯れ言を聞くと、ここぞとばかりに杯を薦めてくる。「えらく面倒なところに来たものだよ」 さすがに仲忠も音を上げ、そう言って立ち去ろうとする。 すると式部卿宮の北の方が、涼の持つ世にも名高い琵琶をさらりとかき鳴らしてから御簾の外に押し出してきた。「おや、これは話に聞く名高い琵琶ですね」 琵琶ならば、というのか、仲忠はそれを手に取ると、先日髫髮達が歌っていた歌を大層面白い調子で弾いてみせる。「あああの子は何処かなあ、こういう時こそあの扇拍子がよく似合ってるのに」 そう言って、弾きながら仲忠は立ち上がる。すると兵衛の君が彼の前に立ち塞がって引き留める。「こういう所にお入りになったからにはそのままお帰りになるなんてあんまりですわ」「ううんもう、面倒だな。まるで猿にわらわら群がられたみたいじゃないの」「あらそれはあなた様の舎人ですわ」「うるさい随身だなあ」 そう言っているうちに、再び内から何かが差し出される。 今度は綾掻練の黒いまでに深みのある赤の一重に、薄い紫の織物の細長が一重、それに三重襲の袴が一重である。実に美しいそれらの着物を中将の君が受け取り、仲忠に、とかずけ渡した。 仲忠は女房達が歌を書き付けた硯のある所へ行くと、筆を取り、懐紙に何やらさらさらと書くと、腰に結びつけた。 そして高欄の辺りで押し掛かっている「これこそ」のところへ向かった。「やあ」「た、大将さま」 これこそは驚いて急に返事もできない。そんな様子には構わずに仲忠は囁く。「この間君に会った時はまだ知らなかったからそのまま別れたけど、これからは宜しく」 そう言って仲忠はたった今貰ったばかりの被物をそっとこれこそに与えた。そのまま近くの階からそっと降りて出て行こうとする。 だがそれを目聡く見つけた者が居た。涼である。彼は裸足で南の階から降りてくると、素早く仲忠に追いつく。「捕まえた」「…涼さんか。見つからないと思ったんだけどな」「奥まで入っていったというのに何を言ってているの。舎人の山の法師の様だよ」 そう言ってまた引き戻そうとする。「知らない場所じゃなし。知らない人ばかりという訳でもなし。そうそそくさと帰ろうとばかりするというのはね」 仲忠は苦い顔をする。「それに凄く上つ方が居るという訳でもなし。大納言忠俊どのだってお互いに親しい仲だから皆でごろごろしながら昔語りやらこの先々の契りも交わしたりしているよ」「僕はただ、これこそと話をしたかっただけなんだけどな」「おや」「簀子で見つけたものだから、こちら側に来てみたものの、そうしたら女房達に見つかってしまうわ、酒を勧められすぎるわ…」「それで困り果てて逃げ出した?」 あはは、と涼は笑う。「でも仕方ないねえ、今日は私のところのお祝いなのだから、そう簡単に逃げ出してもらっても困るよ」 そう言って涼は再び仲忠を引き戻す。 二人が正頼の息子達三人が揃っている所へと参入してしばらく話をしていると、亡くなった仲純の次の弟で、現在は内蔵頭で蔵人の地位にある基純が杯を持ってそこに現れた。 彼は仲純に負けず劣らずの姿かたちや心ばえの持ち主であったが、兄とやや違ったのは、類い希なる色好みのところであった。 仲忠はそんな彼がやって来たのを見て言う。「基純を見てると、宮中の憂さもみんな晴れてしまうくらいだな」「そうそう、そのくらい美しい」 そんな、と多少の謙遜は見せるが、その様子もまた慣れたものである様だった。「ねえ基純さん、前々から御仏名が終わったら参内する様に僕、言われてるんだけど、なかなか行けなくて。できればお上に折があったら、『病気で参内できない様です』とでも奏上しておいてくれませんか」 基純はあっさりと了承する。彼は彼で仲忠のことは非常に好ましく思っているのだ。「ああ良かった。気がかりだったんだ。基純さんだったら安心安心。…ところで、こういう席では、あのひとのことを皆さん、思い出さないですか」 仲忠は問いかける。ああ、と皆合点がいったようにうなづく。「今は水の尾に住む仲頼さんが居たならば、もっと趣深いことを色々とできたのに、とこういう席があるとつい思い出してしまうんだ」「そういう意味では、藤壺の御方には多少罪があるね」 涼がそれを受けて続ける。「昔から人を悩ませるために生まれてきたような方だ。私なぞ、おかげで一生が台無しですよ。今では仲頼さんと比べても、単に出家するかしないか程度の違いでしかないよ」「涼さんも酔ってるね」「酔わなくとも、私の口癖であることは君が一番知ってるだろう? 君だって偉そうなこと言っているけど…」 涼は言葉を濁し、ふっと笑った。「おっしゃる通り。僕は賢人ぶる愚か者だもの」「ほら見て。向こうで平中納言どのも苛々しているよ」 ああ成る程、と二人の会話を側で聞いていた人々は一人合点してうなづいたり、口々に「そうだったのか」などとつぶやいたりする。 そんな外での言葉を、御簾の内に居る藤壺のきょうだい達は微妙な気持ちで聞くしかなかった。
2009.01.12
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正頼が来ない、ということで若い公達は 銘々好きずきに酒を酌み交わす。 高位高官、えらい人が居ない、ということで皆気も緩んでいるのか、座った足も崩しまくり、色んな遊びに興じていた。 そんな中、仲忠は一人、東の簀子に立って柱に寄りかかるって奥の方を見やる。 すると御簾を二尺ばかり巻き上げた所に、赤や青の唐衣の上に草で摺って模様を出した綾の裳をまとった四十人ばかりの女房が並んでいる。 この夜の歌を書いたり詠んだり、中にはそれをああだこうだと議論している者も居る。 童も十人余りが、青色の五重襲、綾掻練の袙に三重襲の袴を着て、大人達の前ごとに白い銭を置いたりしている。 簀子には間ごとに灯籠が掛けられ、所々に蘇芳の大きな櫃に火を起こし、銀の箸を添えて据えている。 東の渡殿にはすみ物などが棚に置かれている。 やがて、紀伊守である種松が、自国の部下達を引き連れてやってきた。 さあさあと引き出されたものは、まずはざっくりと藁などに「あらまき」。その中には鮭が十匹そっくり入れられている。 鯉には大角豆と鯛。雉と鯉を一緒にしたものには大角豆を三つで一枝に、鳩は大角豆二つと一緒にして捧げられた。 どれも暖かな紀伊国の産物であり、冬にはありがたいものである。 加えて銀製の餌袋には、貴重な蜜と甘葛を入れている。 種松はそれらを東の渡殿に持って来させて並べ立てた。 また種松の北の方からは、衝重が三つ、高坏に台のついたものが四つと、口を結んだ壺四つが祝い物として贈られる。 そちらは涼夫妻の御座所のある場所の簀子にずらりと並べられた。 器を開けてみると、中には鰹や壺焼きの鮑や海松や甘海苔が入っていた。 そんな中、仲忠はふらりと廂の中へ入って行った。 中の女房達はさすがに驚く。そんな彼女達に仲忠はさらりと。「いいじゃないですか。僕と君等はお互いに奥の方に入ることを許し合った仲でしょ」 などと言ってのける。 仲忠は女達をかわしつつ、辺りをざっと見る。母屋の簾の前にはあちこちからの産養の祝い物が届いているのが判る。正頼や左大臣忠雅、それに種松からのものもある。 特に種松からのものは他に比べる物が無い程に素晴らしい。 御簾の内には、産屋らしく白装束をまとった女性達も多く居る。 仲忠はその女性―――いや、女主人たる今宮に話しかける。「もうこんな、お子さんをお抱きになる様な大人になってしまったんですね。それに比べて僕は。恥ずかしいくらいです」 すると奥の方から呆れた様な声が返って来る。「あら、そちらの方がよっぽどお子さんは良く見てるはずじゃあなくって?」「おや、恥ずかしがって直接お声を聞かせてくれることなぞ無いという評判ですけど、今日はそうではないんですね」 くすくす、と仲忠は笑う。元々彼は涼から開けっぴろげな今宮の性格については良く聞いていたので、今更、という気分だった。「兵衛府の誰かさんはやって来ましたか?」 彼女に思いを未だに寄せているという者の名をさりげなく出してみる。「さーあ。おっしゃることがさっぱり判りませんわ。だいたい涼さまのお友達とは言え、ここにざっくり乗り込んで来るのは失礼じゃあないですの?」 今宮は素っ気なく返す。まあそんなものだろう、と仲忠も思う。「僕は近くで衛る近衛の大将だもの。構わないんだ。そうでなくてどうしてこんなところまでやって来るって言うの」 呆れた、とばかりに簾の向こう側が動く様子が伺える。簾の前の衝重には、四寸くらいの銀の皿に果物が皿の大きさより高く積まれている。 その辺りがそっと動くと、簾の内側から盃が差し出される。「―――この先幾年経っても二度とはないことでしょうね。こんな風に幾千万かけてあなたに祝杯を差し上げることは―――」 その様な歌が添えられたので、仲忠もすかさず返す。「―――そんなことないですよ。度々これからも産養の祝杯をいただくことでしょう。まあそれにはまず、最初のお子さんをみせてくれなくちゃ」「ところで、何か騒がしいけど、何の役目のひと?」 仲忠は女房達に問いかける。すると一人がこそっと口にする。「お酒を呑まない方わとっちめようというのですわ」 そうそう、と周囲の女房達も同意する。「あ、大将!」 南の方から宮はた君の声がする。「どうしたの」「大将さまー、父上が盗みを致しますー。ここにあるものを盗ろうとするんですよー」 仲忠は無論、子供の言い分をそのままの意味には取ってはいなかったが、何と言っても酔いの場である。「宮はた君ー、盗みをする様なお父上は打ってしまえばいいよ、早く早く」 そう笑って言って許されるのだ。
2009.01.12
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「そう言えば」 仲忠はふっと目を細める。「僕等が吹上に出かけていって、あなたと最初に出会って色々遊んだ時には、こんな今が来るなんて思いもしなかったな。あの時は本当、今では思いつきもしないようなことを色々やったなあ」 確かに、と涼は黙ってうなづく。「あの頃僕等はまだ上達部の端くれに引っかかった程度だったけど、今は公卿で。…あの時一緒だった仲頼さんも出家しなかったら、蔵人頭くらいにはなっていた筈ですよね。元々身分の高いひとだったし、帝からも目をかけられていたひとだったのに… そんなひとが山に籠もってしまって… どうしてるかな、最近忙しくて訪ねたりできなかったんだけど… 涼さんはどう? 仲頼さんの所へは」「私は時々出かけているよ。そう、ちょっと前には、寒くなるから、綿入れの着物とかも縫わせて、草餅とかと一緒に送ったり」「年が明けて花盛りの頃になったら、皆で仲頼さんの所には行きましょうよ。行正さんも連れて、皆で詩を作りたいな。懐かしい楽しいことは忘れちゃいけないと思うんだ。今が世知辛いのだったら余計に、あの頃のことはきらきらした思い出として大切に大切にして、ずっと持っていたいよね」「今はそんなに世知辛い?」 涼は問いかける。「ううんそういう訳ではないけれど。今は幸せさ。本当に。宮は愛しい。子犬ちゃんは目に入れたくない程。だけどそれでもあの頃、僕等男だけでわいわいと何処かで浮かれ騒ぐ、なんていうのはもう思い出の中にしか無いでしょ」 決して今が嫌な訳ではない。けど。「それに今は殿上の間に彼が居なくて、管弦の時なんかもう一層寂しいじゃないの。いつ何が起こるか判らない世の中だもの。聴きたいと思う音楽をいつでも聴けるからって惜しんで聴かずにいて、そしたら何の前触れも無く明日死んでしまうようなことがあるかもしれないじゃない。そしたら何の生きてる甲斐があるんだろ」「…」「それにいつかは僕等も年とって行くんだよ。その時にはいくら身につけた技芸だって、手が動かなくなり声も出なくなるし、頭だってそう。気付かないうちにいろいろ忘れていってしまうんだ」 だからね、と仲忠は涼の手を取る。「ほら今から琴を弾いて下さいよ。平然と雲の上に居る様な顔してないで、この世の中に降りてきて、僕にも帝にも、あなたの養父母にも皆に聴かせてくださいな」「…そうだね」 涼はうっすらと微笑む。「したいことをできる時にするってのはいいね。生き甲斐のある世の中だ。じゃあ君も弾くんだね」「いやそこはまず涼さんから」 そんな戯れ言の様な、そして何処かに本気が混ざっている様な会話をしながら、結局は琴に手を触れない二人だった。 元々弾かせる気はあっても弾く気は無いのだ。できるだけ人前では。 ややして、涼の元に、正頼から文が届く。「お祝いに参上したいとは思うのですが、持病の脚気でどうにもこうにも。 そこに息子達が居りましょう。私の代わりに何か雑役でもさせてやって下さい」「おやまあ、大殿は来られないのか」 涼は了解した、とばかりに返事をすぐに用意する。「了解致しました。おいで下さらないので、皆大変寂しそうでございます」 などと書いて使いの者に渡す。 正頼が来ないのが判ったからなのかどうなのか、さて、と涼は色紙に碁手を多く包ませて皆それぞれに配った。「涼さんの宝は皆で今晩賭け碁で取ってやろうよ」 仲忠は楽しそうに皆に呼びかける。皆で賭け碁が始まった。 涼は「負けた」と言っては碁手を相手の結び袋に入れる。またその入れ方が鷹揚なものだったので、相手をしていた仲忠の餌袋が一杯になってしまった。入れすぎだ、と仲忠は笑うが無論涼はそんなことは気にしない。仲忠は碁手入りの大きな餌袋を二つ持つ羽目になってしまった。 それを見た、負け組の男達は仲忠の元に近付いて「いいじゃないか用立ててくれ」と欲しがるのだが、そこはそこ。仲忠は首を縦には振らない。「駄目ですよ。だってこれ、僕が今度負けた時に使うぶんですもん」 そう言われては皆も引き下がるしかなかった。ちなみにその中に入っていたのは黄金の銭だった。
2009.01.11
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姿形はそう変わらないかもしれない。しかし性格は。 そのことを知っている二人はただもう笑いを噛み殺すしかなかった。 涼は流れにそって話を進める。「だからこそ今こうやって居るんじゃないか。今更何処へ行けるって言うんだい? とは言え、天下広しと言えども、貴宮以上の方が居たかどうか。…と世間の評判だけどね。そうそう、入内されてからなら君は結構見てるんじゃないかい?」「何言ってるんですか。そんなことできる訳が無いでしょ」「ふふーん? さてどうかな? まあ私が知ってるのは、髪がとっても美しくって色が白くて目鼻立ちが整っているということぐらいだけどね。君ならもっと良く知ってると思ったけど」「ふうん。それで、次にご執心のひとのことは?」「さあそんなひと居たかな」「涼さん、今夜は可笑しいよ」「そうかな」「そうだよ」 とうとう堪えきれずに仲忠は笑い出した。周囲はいきなり様子の変わった仲忠に唖然とするが、涼は名の通りの表情で友を眺めているだけだった。 やがて笑いが治まった頃、涼はおもむろに杯を渡す。礼を言って口にすると、人心地ついたのか、仲忠は周囲をぐるりと見渡す。「どうしたの」「うん… 実は、さっきここに来る時に、どっかで見た様な童が居たと思ったんだけど。いい子は居る?」「童ねえ… まあうちには沢山居るからね。さてどの子かな。承香殿女御に仕えていた子も居るけど」「うーん… もしかして、僕がまだ中将だった時、灌仏会の童に召し出された子かなあ」「ああそうそう、その子。『これこそ』って言うんだ」「そうなのか。僕が前ここに一日居た時、扇を鳴らして『夕方いらっしゃい』と言った子が居たんだ。なかなか物慣れた子だと思ったら、そういう縁があったのか」「まあそういうこともあるかな。私は童だったら藤壺の御方の所に居る『あこぎ』が一番だと思ってるけどるそれ以上の子は今のところ居ないと思うね。ええと、兵衛の君の弟だったかな」「『あこぎ』は木工の君の弟だよ。そうそうこの間、宮中に呼び出されていた時、結構暇つぶしにあこぎを捕まえてはお喋りの相手にしたな。話しやすいんだ」 そんな風に仲忠も涼も、話ばかりをただただ続け、側にある楽器にも手を触れずじまいだった。 いや無論、自分の子の産養であるし、気分ではないのは仲忠も判る。だがやはり楽器があって名手が弾かないというのは。彼は自分のことを棚に上げて考える。 そこでついこう口にしてしまう。「ところで涼さん」「何だい?」「どうしてあなたは今日この場で、僕を呼んでおきながら、琴を弾くでもなく、話し相手にばかりさせておくの」「いいじゃないか、ここ暫く君もそう来ることもなかったし、せっかく人の親となったことだし、今までを思い出してしみじみと語り合うばかりというのもいいんじゃないかな? だいたい私の琴など聴く人も居ないだろうに」「僕が聴くんじゃ物足りない? 一生懸命に聴くけど」「君の様に人をとんでもない格好で走らせてしまう程の腕じゃないもの。まあ男は漢才などを身につけるのが一番いい訳で、様々な遊芸はそうそう極めることなどできないのだから、しない方がいいのさ」「成る程。じゃああなたはその琴の腕は今度生まれた子に伝える気は無いんだ」 涼は意味ありげな顔で黙って微笑む。「…うちのは女の子だしなあ… うん。子供はいいよ、涼さん。もう抱っこした?」「…や、まだ…」 それには涼はやや言い籠もる。「まだ汚い頃だから、ちょっと見ることもできなくて」「何言ってるの。僕はもう、生まれたらすぐに懐に入れてたよ。汚いなんてそんなことないって」「そりゃ君の子の様に姫だったらね。でも男の子だし。きっと私より出来の悪い子だよ。けど男の子で、大したことが無いんならどうしようもないね。女の子だったら将来が楽しみなんだけど。琴も習わせるし、色々綺麗なものを与えて、様々な所と交際もさせて… 楽しいだろうな。うちには女の子に必要なものを集めた倉だってあるんだよ。なのに使うこともできない。つまらないじゃないか」「だったら僕に下さいな。あなたに役に立たないなら、うちの子犬ちゃんにあげるから」「そうだね、君のとこの姫がうちの子の妻になってくれるのならね。そう約束してくれるのなら、全部あげたっていい」 くすくす、と涼は笑う。「やだなあ、縁起でもない」「いつかはお后に?」「さあどうでしょう。ただ、生い育つに従って夢というものが出て来るでしょう。その夢が最初から無いというのも、ちょっとね」 成る程、と涼は仲忠にもそれなりの野心があることに心の奥をくすぐられる。「けど涼さん、僕等はまだまだ自分達が子供だと思っていたけど、とうとう親というものになっちゃったんだよね。気持ちの準備はできている?」「…いやあ、その辺りがね」 実を言うと、と涼は目を伏せる。「晦日の夜までは、私は産屋に入れてもらえないんだ。何かしきたりがあってね」「…妙な家風だなあ。僕はもう、親になったかどうかという気持ちも無いまま、ともかく女一宮のところに飛び込んでしまったよ」「…そりゃ帝の女一宮を得た君だもの。誰も止めやしないさ。鬼も神も遠慮してそうそう邪魔もしないだろう。鬼やらいも急がなくていいくらいじゃないかな」
2009.01.11
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やがて涼の妻、今宮の産屋では七日の産養があった。 涼の里方である紀伊守種松が、その際の御馳走を引き受け、御座所の準備もしていた。 簾の縁には浅黄で緑色の綺をつける。 南の廂に懸けて巡らせた壁代には白綾を使って光沢を出した。 畳には紺の真綿で作った薦畳に紫の裏を張って、唐錦の縁を付けている。席には白い綾を使っている。 茵には上席を敷き、またその上にもう一つ重ねている。それらは簀子にも置かれている。 浅香の机、銀の容器、黄金の土器、外側を檜皮色、内側に金箔を塗った沈製の火桶、そして銀で作られ、内側は黒く塗られた火鉢。その起こし炭までが全て上等なものである。 そのうちに正頼の息子達が皆やって来た。上達部は上に、息子達は簀子に控える。その他の客はまだ来なかった。 そんな中、涼は仲忠にこう招待の文を送ってきた。「―――松風をはらむあなたもおいで頂きたいものだな。生まれた子があなたにあやかる様に――― ぜひ来て欲しいな」「ああもう、こんなに催促されないうちに行こうと思ってたのに!」 受け取った仲忠は苦笑しつつ返事を書く。「―――あえることをご存知のお子さんは、千年を経た待つを吹く野分の様に末が長いだしょう――― すぐにでも行くのに、『和え物』と言われるとちょっと行くのが恥ずかしいですよ」「あそこは流石に人が大勢見えるし、晴れがましい場所なので…」 そう言って仲忠は紅の装束も綺麗にして出掛ける。涼はやってきた友をたいそう喜んで出迎えた。 近衛府の者や奏者などもずらりと既に揃っていた。 やがて平中納言や藤大納言忠俊や藤宰相実正といった人々もやって来る。 料理が出てきて、酒を酌み交わし、談笑などする中で、詩の議論も始まった。 だが涼と仲忠はその仲間には加わらず、二人で話し込んでいた。 涼は仲忠に向かい、しんみりと語る。「人の心程判らないものは無いですね。少し前まで、私は自分がここの婿として住むことになるなど、考えたことも無かった。藤壺の御方が入内なさった時は、それこそ絶望のあまり法師になろうか、死んでしまおうか、それとも滋野の帥がした様に、怒りにまかせた文を帝に奉ろうか、などとも考えたものだよ」 仲忠は涼のそれが言葉だけのものだということを良く知っているので、黙って聞いている。「でも考えてみれば、皆馬鹿馬鹿しいね。そんなことしたって何にもなりはしない。それでまあ、当時は気を紛らわすために多少そこらの女にも手を伸ばしていたんだけど」 くす、と仲忠は笑う。「おやおや、嘘だと思っている。まあどっちでもいいさ。そのうちここの大殿に、今宮の婿にどうだ、ということを言われてね」 何ですか何ですか、と周囲は涼の言葉に耳をそばだてている。それ故に彼は本心ではない自分を作る。「さすがにそれはひどい仕打ちだと思った訳だ。姉は駄目だからせめて妹を、という。だからちょっと大殿を懲らしめてやれればな、と思って了承した訳さ」 内情を知る仲忠からしてみれば、涼の冷静なその話っぷりが可笑しくてたまらない。笑いを抑えるのが精一杯だった。口を開くと何やらぼろが出てきそうなので、彼はただもう、黙って聞いてやるふりをとっていた。「で、一晩通って、今宮が綺麗な女だったらもう一晩は行ってやろう、可愛かったら二晩は行ってやろう、と思ったのさ。だって、大殿は私のことを融通の利かない田舎人と思ってそういう仕打ちをするのだもの。そのくらいの仕返しもしなくちゃ、と思って二晩は通った訳さ」「実際美しかった訳でしょ?」 仲忠はようやくそう口を挟む。「まあね。だから二晩泊まった訳さ。でもほら、君同様に三日目、帝から召された晩があったろう? あの時はさすがに、もう止めだ、と思ったんだけどね。で、帝の御前で夜が更けるまでお仕えしていたんだけど、そのうちさすがにこのままじゃあ彼女が可哀想だよな、と思ってね。…そんな訳で、今この三条殿で君や皆と一緒に居るのさ。都で生い育った皆だったらこうやって納まってはいないと思うよ」「まあ。ね。でもここの大殿もあなたのことは元々色んな約束を破ってしまったこととか、気にしていたから」 ふふ、と仲忠の言葉に涼は微笑む。「そうかな?」「少なくとも帝や院のお言葉に背いてしまった訳だからね。東宮さまに藤壺の御方を入内させてしまったことは、かなり無理矢理だった訳だし」 そうそう、無理矢理でしたよね、と耳聡い周囲からも同意の声が挙がる。「でもそもそも僕等が当時の貴宮に恋して文を送ったのは、彼女が美しい、という評判からだったでしょ。その点だったら涼さん、あなたの今の奥方もそう変わりはしないでしょう? 小さな頃から大殿も大宮も大事に育ててきた姫なのだから」 そう言いつつも、二人は苦笑をお互いに隠せはしない。
2009.01.11
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「成る程、酔っぱらったふり、ですか」 仲忠は相槌を打つ。「そうそう。それで傍の者が騒いだら、『ああひどく酔ってしまったな、ここは何処ですか、中の大殿ではなかったですか』とあくまで酔っぱらいを決め込むんだよ」「…ずいぶん悪いことを色々なさってきたんですね?」 ちら、と尚侍は横目で夫を見る。兼雅は慌てる。しまったこんなことまで、と。「仲忠は、父上がどんなことを言っても聞かないように、はやくあちらへいらっしゃい」 はい、と笑いながらうなづく仲忠に、尚も兼雅は言葉を投げる。「けど仲忠。男というものは自分をいちいち反省して、外聞を憚っていたら、理想の妻など得られないよ。普通に文を通わせて、親から許される時を待つという様なまだるっこしいことをしてるだけじゃ、何も出来やしない」 仲忠は何も言わず、口元だけを片方上げる。「相手の隙を見て、奪い取ってしまえばいいんだ。ましてそなたが心を乱して漁り歩いたところで、いい女にぶつかるという訳でも無い。まあ、藤壺の御方と、そっちの涼どのの所の奥方は早くものにするといいよ」「…いつまでもその話をしているのでしたら、もう一つの用件は勝手に決めさせていただきますよ」「もう一つの、とは何だ?」「車のことです。女三宮を迎える時の」 ああ、と兼雅は急に現実に戻った様な声で答える。「できれば新しいものが良いので、そういう所から借りて来ようと思うのですが」「ああそのほうがいいね。今からいちいち作るというのも何だし」「…で、此処暫く、太政大臣どのがご病気ということで―――父上、何かその辺りで御消息は?」「いや、今はどのくらい病気が重いのかな… 弔いがある様なことがあったら消息もあることだろう」「右大弁の藤英どのの言うことには、大臣の病は重いもので、辞表を二回提出したそうです」「二回か… それはもう結構重いものだ」「そういうこともあってか、何かと皆車が出払っている様で。ああそうだ、涼さんに借りようかな」「彼の所なら十台くらい軽くあるだろう、妻に一途な様だし、物持ちだし」「そうですね。そうした方がいいかも。ですので父上、お迎えの時にはよろしく。僕も出来る限りのことはしますから、もうどしどしと」 仲忠が帰ると、兼雅はようやく、とばかりにうーんと伸びをする。 そして傍らの妻に向かって宥める様に囁く。「ああもう、妙なことをする子だ。自分ばかりいい子になろうとして… 全く、母の敵を引っぱり出してくるなど、子として何を考えてるんだ。そりゃ仲忠にも考えはあるんだと思うからいけないとも言えないが…」 と言葉では言うのだが、心の中では仲忠に感謝する兼雅であった。 さてそうこうしているうちに、涼の妻、今宮の産屋では七日の産養があった。 涼の里方である紀伊守種松が、その際の御馳走を引き受け、御座所の準備もしていた。 簾の縁には浅黄で緑色の綺をつける。 南の廂に懸けて巡らせた壁代には白綾を使って光沢を出した。 畳には紺の真綿で作った薦畳に紫の裏を張って、唐錦の縁を付けている。席には白い綾を使っている。 茵には上席を敷き、またその上にもう一つ重ねている。それらは簀子にも置かれている。 浅香の机、銀の容器、黄金の土器、外側を檜皮色、内側に金箔を塗った沈製の火桶、そして銀で作られ、内側は黒く塗られた火鉢。 起こし炭までが上等なものである。 やがて正頼の息子達が皆やって来た。上達部は上に、息子達は簀子に控える。その他の客はまだ来なかった。 そんな中、涼は仲忠にこう招待の文を送ってきた。「―――松風をはらむあなたもおいで頂きたいものだな。生まれた子があなたにあやかる様に――― ぜひ来て欲しいな」「ああもう、こんなに催促されないうちに行こうと思ってたのに!」 受け取った仲忠は苦笑しつつ返事を書く。「―――あえることをご存知のお子さんは、千年を経た待つを吹く野分の様に末が長いだしょう――― すぐにでも行くのに、『和え物』と言われるとちょっと行くのが恥ずかしいですよ」「あそこは流石に人が大勢見えるし、晴れがましい場所なので…」 そう言って仲忠は紅の装束も綺麗にして出掛ける。 涼はやってきた仲忠をたいそう喜んで出迎える。 近衛府の者や奏者などもずらりと既に揃っていた。 やがて平中納言や忠俊や実正といった人々もやって来る。 料理が出てきて、酒を酌み交わすうちに、やがて詩の議論をし始めた。 だが涼と仲忠はその仲間には加わらず、二人でしんみりと話し込んでいた。
2007.12.09
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「ところで父上、除目がありますけど、おいでになりますか?」 仲忠は父に問いかけた。「は、どうして参内なんかできようか」 兼雅は皮肉気に笑う。「また何故」「何故とそなたが聞くのか? そなたにとっても面目つぶれなこの父に」「また面目つぶれなどと」「実際そうだろう。先にそなたが昇進した際も、正頼どのは右大臣になったが私はなかなかなることができなかったではないか」「大臣に欠員が無かったんですから、順番として仕方ないでしょう」「その欠員だ。どうしてその欠員が無かったんだ。誰かが職を辞していれば良かったではないか。この頃ではもうあの右大臣の一族で独占して、金釘の様に固めてしまった。そなたさえ引き込んでな」「またそんな」「いやいや実際そうだ。だいたいそなたを女一宮の夫にして一族に組み入れてしまったではないか。そなたを中納言にするべく空けさせた場所には、親である私こそを入れるべきではなかったか?」 仲忠はまた始まった、とこっそりため息をつく。父は基本的に悪い人物ではないのだが、能力の無さを愚痴にするあたりは仲忠もややうんざりするのだ。「正頼どのは仁寿殿女御を大事にするあまり、そなたもまた大事にしてくれる。まあそれはそれでいいんだが、では私は何だ? そのそなたの父親であろう? その私を差し置いて、正頼どのは今は内裏で好き勝手している。全くけしからんことだ」「はあ」「新嘗祭の時もしばらく参上してなかったから、帝の御顔も勿体なく思いつつ行ったら、右大臣が我が物顔に内裏で得意になっているし、孫である女御腹の皇子が選りすぐった玉の様に居並んで、子供達のほうはまたそれに群がる雲の様に着座して跪いていたよ。東宮になるべき藤壺の御方の皇子のことまで考えに入れると、もう私などこういう栄華には縁が無いことだよなあ、と考えるともう気が塞いで気が塞いで」 兼雅はため息をつく。「ああもう、一体どういう人が、そんな素晴らしい皇子達を産むあそこを持つ娘を持つのか、と思うよ。そうかと思えば、もう一つのそれがあって、こっちはこっちで蜂の巣か何かの様に皇子を産みまくっている。天下の皇子達は皆正頼どののところのあそこから出てきてしまうかの様だな。今度の御産でも藤壺の御方は、きっと男皇子を産むよ。私の梨壺は、今頃妊娠したところで、十二月の月夜の様に誰にもいちいち気にされたりしないだろう、凍える様に弱々しい女皇子を産む程度だろうよ。運が無い者というのはだいたいそういうものだ」「まあ何をおっしゃるのです」 尚侍はさすがに口をはさんだ。「どうしてちゃんとお話にならないで、こんな品の悪い、毒づく様な事ばかりおっしゃるのですか! 昔を思い出して不機嫌になるのではないですか? 仲忠を子に持ったことを嬉しいとは思わないのですか?」 彼女にしては珍しく強気で兼雅に詰め寄った。「まだ腰が曲がる程歳をお取りになっている訳でもありませんから、人並みに出世なさることもありましょう。娘では上手くいかなかったとしても、男の子の子孫にもいい事があるのではないですか? ああ嫌だ、世間の人が思いついたことをぽんぽんと口にするのは、はしたない人だけですよ。あなたの様な方は、特に口になさらない様にしているはずのことなのに、わざわざ随分詳しくおっしゃること!」 さすがに妻の滅多に見られないその怒った調子に、兼雅は驚いた。決まり悪そうに笑い、何とかこれだけ絞り出す。「冗談、…そう、冗談だよ」 何とか機嫌を直してもらおうと尚侍のほうを向くと、彼女はぷいと背を向けてしまっている。 その背に掛かる髪ときたら長さは九尺くらいで、つやつやと美しく、御座所一杯に広がって、実に見事である。 兼雅はその一房を手に取ると、顔に近付ける。「…そう、この髪の美しい後ろ姿に魅せられて、私は聖人君子の様になってしまったのではないか。美しい女をたくさん家に据えて、女三宮を奪う様にして連れてきて、然るべき御方と崇めて、その一方では人妻にもあれこれ手を出していたなあ。行かないところは無いというくらいに。おかげであちこちの人から憎まれたりもしたものだ」「ほー」 仲忠はやや呆れた様に声を立てる。「それに比べ、今時の人は不思議に真面目だな」「それは僕のことを?」「さあて。ともかく私は恐れ多くも天下の帝の御娘を妻にしながら、その宮の御姉妹の皇女達や、人妻なら帝の女御まで残さず自分のものにしてきたものだ。きっと前世の罪が軽かったので、私にはそういうことが許されていたのだなあ」「何ですかそれは」 さすがに仲忠も脱力した。「自慢げに言うことじゃないですよ。僕は独身だった頃に貴宮のことを好きだったこともあったけど、良い機会があっても何もしなかったものですよ」「私だったらそんなことはしないよ。いや今だって。そうそう、その女が退出して里内裏に居たら、その時酔っぱらったふりをして、部屋に入り込んでしまうんだ」
2007.12.09
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物も言わずに兼雅は、橘の方を見る。 それもまた、中身をくり抜いた中に、黄色の色紙に歌が書かれている。「―――昔のことを忘れかねて、住み慣れた宿を離れることが出来ないでいます―――」 慌てて兼雅は柑子の方も手に取る。そちらには赤みがかった色紙にこう書いて入れてあった。「―――私の親は私共二人を結んで安心してこの世を去りました。それなのにどういうおつもりで私のことをすっかりお忘れになってしまったのでしょうか―――」 ああ、と一声うめくと、兼雅はその場に泣き崩れた。 その様子を見て尚侍は気付いた。「…このひとは、この様に沢山の、相思ったひとを全て捨てて、私とだけで暮らしてきたのだわ」 そう思うと、様々な思いが胸に沸き上がってきて、彼女もまた涙を流さずにはいられなかった。 仲忠はその母の涙を見て、ここで出すのでは無かった、とやや後悔する。母を悲しませるのは本意ではないのだ。 兼雅はしばらくして何とか立ち直ると、ぼつぼつと話し出した。「…この柑子を投げてきたのは、故式部卿宮の中の君だ。父宮が私を呼んでこう仰った。『私はもう長くない。可愛い可愛い娘のことが心配だ。そなたは浮気者だという評判ではあるが、私の娘は大事にしてくれるね』と。そして彼女が十三の時に見初めて、その後まもなく宮はお亡くなりになった」「ほう」 仲忠は冷たい目で父を眺める。「堀河へ来てからずっと放っておいてしまった。きっと私のことを恨んでいるだろう」「そうでしょうね」「そう言ってくれるなよ」「だって実際そうでしょう。では栗を投げた人は?」「彼女は仲頼少将の妹だ」「…仲頼さんの!」 仲忠は驚く。自分の親友の。「あのひとは、立派な人の妻に治まるべき素質を持っていた。遊芸の面では、兄の少将にも勝っていただろう」「…そんなにも」「この様な暮らしをするべき人では無いのだ。姿形も美しく、愛嬌もあった」 仲忠は思わずため息をついた。「では橘の所は?」「あれは先日話したろう? 先の大臣、橘千蔭どのの妹だ。大臣とは腹違いでな、皇女を母とする方だ」「…ちょっと待って下さい父上、当時お若かった先の方々はともかく、先の大臣の妹君ということは」「うむ、まあ何というか」 やや言い辛そうに兼雅は口ごもる。「嵯峨院の梅壺の御息所と言って、大変な色好みだった方を」「無理矢理妻にしたのですか」「…そういうことになる。歳は私より大分上で、親子くらい離れているはずだ」 何とまあ、と仲忠は呆れる。「…他には?」 もう驚かないぞ、とばかりに仲忠は重ねて問いかける。「西の対には、もと更衣だったひとがいる。先の宰相中将の娘だったが、琵琶の名手だった。その女は子供を一人生んだ様だが…」「生んだ様だが、じゃありませんよ!」 どん、と仲忠は床を叩く。「…い、いや、他にもあるんだよ。数えきれない程にはね」「…威張ることですか」「いいじゃないか私は色好みだったんだから。それが許される立場だったんだから」「他の誰が許そうとも、この仲忠には納得がいきません。…ああもう、その方々に、母上がどんなに恨まれているかと思うと」「…そ、そうか…そういうこともあるな。…うん、ともかくこの中の君には返事を書こう」「どうして中の君だけなんですか! 全部書きましょう全部!」「…全部かね」「受け取ったのは僕ですし。受け取らなかった、父上に見せなかったと思われるのは嫌ですし」「そうか…」 兼雅はやれやれ、という顔になると、人を呼んでこう命じた。「納所にある大柑子の中から、大きくて疵の無いものを三つ持ってきてくれ」 そして底の凹みのある所から中の実を取って壺の様に細工する。「…さて、何を入れたものやら」 細工を終えた兼雅はつぶやく。すると尚侍がすっと小さな桂の箱を兼雅に差し出す。「何かね」「御覧になれば」 そこには金の粒がぎっしりと詰められていた。「…ああこれは。向こうも助かるだろう」 尚侍は黙って微笑む。 渡された金を兼雅は柑子の壺の中にそれぞれ縁までいっぱいに満たし、蓋として切り取った部分を乗せ、全体を黄色の薄様の一重ねで包み込んだ。 その一つにはこう書き入れる。「―――父君と昔固く約束したことを忘れていないのに、あなたと訪ねないという私は真の私ではないのでしょう―――」 栗を投げた仲頼の妹の所にはこう書き付ける。「―――宿を出るとどこと言って当てもなく彷徨うので、どう歩いているのかはっきりしないのです―――」 そして最後の一つ、橘の所には。「―――私が通った宿を形見として、物思いに沈んでいるあなたを哀れに思わない日はありません―――」 そう書き付け、それぞれに印をする。 そして「これは南の大殿、それは…」と区別し知らせる。仲忠はそれを聞いて、御供の中の小舎人の中に居た殿上童を呼ぶと、届ける様に命じた。
2007.12.02
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「そのようなもの…」 女三宮は躊躇する。「わざわざ書かずとも、私がこう言ったとあなたがおっしゃって下さればいいでしょう」「それは困ります」 仲忠は本当に困った様な表情になる。「御返事をいただかないことには、僕のほうが本当にそちらのご意向を伺ったのか、と父上に疑われてしまいます」 そうですね、と宮は考え込む。 仲忠がその様に女三宮と話している間、お供について来た人々は、宮の家司から政所に呼び入れられ、酒などを出されていた。 仲忠のほうには、美味しそうな果物や乾物などが湯漬けや酒と共に出される。 この賄いをしたのが、昔兼雅の召し使っていた右近というひとだった。今でもその容貌は衰えず、美しいままである。「…ああ、これが、父上が忘れず、数少ない者の一人だと言っていたひとですね」 思わず仲忠は大きくうなづく。「そういうことを? 私の所には、良いとか悪いとかそういうことでは、そう思い出す様な者はおりませんのよ」 宮は苦笑する。「今は僕もあなたを忘れないよ」 そう言って仲忠は改めて右近に杯を差す。 その様子を見ていた宮は、几帳の側まで進み、仲忠に度々酒を勧める。「ああずいぶんと酔ってしまった」「まあ。そんなに勧めた覚えはないのですけど?」「御返事が無いと帰れないし。女三宮さま、どうぞこちらへ置いて下さいな」「まあ」 宮は思わず呆れる。困ったものだと思いつつ、返しを書き出す。「珍しいあなたからの御文は本気でもあるまいと存じますが、不思議にも誠実で熱心なお使に心を惹かれてしまいました。 ―――どれほどの年月をお恨みしていたから存じませんが、その間中泣き暮らしておりました―――」 宮はそう書いて、醜く枯れ、葉が枝にしがみついている様な紅葉の一差しに文をつけて仲忠に渡した。「夜の錦ということですね」「あなたが辛いと思うことは無いのですよ」 それでもやはり、やや申し訳無さそうに仲忠はそこから退出する。 その彼が、南の大殿に差し掛かった時、柑子を一つ投げつける者が居た。「待っていました」 仲忠はそう言うと、それを拾って胸元辺りまで差し上げる。 同じように東の一の対二の対から、橘と大きな栗が投げ出されてきた。 仲忠はそのどちらも拾い上げる。 すると一の対から、三十歳くらいの人が、上品な愛嬌のある声でこう問いかけた。「さあ、誰の所へ投げたのでしょう」 ふふ、と仲忠は笑う。「きっと『浮かれ人』にじゃないですか」 そう言って帰途についた。 三条の家に戻ると、仲忠はまず兼雅に女三宮からのふみを渡して、その時の様子を話した。「…お気の毒なことを仰る。時めいていた昔でも、皇女としては栄えの無い立場だった。ましてや今は、生きるにも甲斐がないと思うのに… よく承諾したな…」「父上」 咎める様な目で仲忠は父を見る。「ああそうそう、仲忠、一条殿は荒れてはいなかったか? どういう風にお住まいだった?」「奥の方は見ませんでしたが、見える限りでは、違った様子もありませんでした。政所の家司も沢山居りましたし、下人も多く、倉を開けて物を出し入れしていました」「それは良かった。困っている様子は無いのだな」「はい」「元々あの宮は、嵯峨院から見れば三人目の皇女だが、母君からすれば一人娘だからね。その母君という方が結構な資産家だったから、受け継いでそのまま裕福に暮らしているのだろう。特に細やかな調度などは、宮の方にあるのだろうね」 成る程、と仲忠はうなづき、納得する。「…ん? 何かまだ言いたいことがあるのかね?」「ええまあ」 仲忠はそう言うと、懐から先程投げつけられたものを取り出した。「これは?」「お気の毒な所へ行って、ひどく打たれてしまいましたよ」 どなたのせいでしょうね、とばかりにちら、と仲忠は父を見る。 「…変なことをするものだな。どれ、見せてみなさい」 兼雅はそう言ってまず栗を取る。するとその栗は、割って中の実を出し、その後に檜皮色の色紙に次の歌を書いていれてあった。「―――去ってしまうとしても、来ればお立ち寄りになった道ですのに、今ではお通りになっても過ぎてしまうあなたの無常な仕打ちを見るのは悲しいことですわ―――」 これは、と兼雅の顔色が変わった。
2007.12.02
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女三宮の住む一条殿は二町の広さがある。 中の大殿、すなわち寝殿には宮が住み、その東西に対の屋があり、渡殿がそれぞれについている。 寝殿から東の対屋にかけては、宮が占め住んでいる。 他の対には、兼雅の子を一人生んだひとや、昔寵を受けて全盛だった人達が、対屋の一つずつに住んでいた。 庭の池、木立の佇まいなど、実に良い風情がある。 この一条殿は、元々兼雅が梨壺の君のために作ったものであり、今ではその母である女三宮が主として住んでいる。 他の人々も、上達部や皇子の娘ではあるのだが、親からは見放された形となっており、ただもう兼雅の世話にだけなって暮らしてきた。 それだけに現在の様に寵も衰えてしまったというのに、帰るべき里も無い。立ち去ることすらできないのだった。 妻妾達の使人らしい者は、見込みの無い主人を捨てて、次々と去ってしまった。 とりあえず仲忠は、東の一、二の対、南の御殿の前から、宮へと丹後丞を使いとして文を送る。 すると兼雅の妾達についている女房は、こそこそと言い立てる。「…ご主人様を悩ませた盗人の一族が何を! 冗談にも程があるわ。きっとあれよ。ここを寺と間違えたんだわ。そして途方もない願文を捧げてるのよ」 もっともその様に言う者だけではない。 今までの生活から救い出してくれる方がやっときた、とばかりに揉み手をする者も居る。 或いは様々な呪文を唱える者も居る。「…ああ、何って素晴らしい方なんでしょ。あの方を子に持つ方だもの。どうして殿がおろそかになさることがあるのかしら。私達の不幸は全て前世の宿縁が切れたからよ」 そう言って泣く者も居る。 中には自分の不幸も忘れ、仲忠を見て褒め称える女主人も居る。 仲忠はそんな周囲の騒ぎなど知らぬまま、静かに歩いて、多くのお供を率いて寝殿の階の所に立った。 すると宮の使う、可愛らしい童が四人程、大人が十人程やってきた。「…宮様はこう仰っております。あなた様に来て頂く筋は無い、間違いだろう、と」「今日このたびは、父兼雅の使いで参りました」 仲忠はそう返させる。 女房達は南の廂に御座を敷くと、可愛らしい童を通して仲忠に「こちらへ」と伝えた。 やがて女三宮と対面が叶うと、仲忠は即刻用件を伝えた。「度々参上したいとは思っていたのですが、いつも何やかや、忙しいことがありまして…」 宮からの返答は無い。「今日は父の使いで参りました。と申しますのも、『この御文を他の者から差し上げても信用なさらないだろう、ちゃんと御覧になる様に』ということで僕が直接」 そう仲忠が告げると、ようやく女三宮は返事をする。「仰る通り。あなたの様なお使いでなかったなら、思い出すこともなかったでしょう…」 そう言って兼雅からの文を受け取る。「…仲忠どの、これは誠に兼雅どのからの文ですの?」「はい」「怪しいですね。一体、本当のお心でこの文をお書きになったのでしょうか」「どうして嘘など。ご安心下さい。父は『三条の館には大勢住んでいますから、昔のようにはいきますまい。もしかしたら不愉快なこともあるかもしれない。だがやはりこちらへ来て欲しいのだ』と申しておりました」「…」「向こうには格別な女人は居りません。ただこの仲忠の母のみが、女主の様にして宿守をしております」「その…ような、という方お一人こそ、さばさばして考えも無い女達大勢より、私には恥ずかしい方なのです。…時々お会いした折りにも、私の側から嫌なこともあったでしょうに、一体どういう」「そんなことはございません」 仲忠はきっぱりと言う。「その母こそが、いつも貴方様のことを思っては悲しんで父に申しておりました。それ故に、父もこうして思いだし、御文を差し上げるのです」 宮はため息をつく。「私の人生はまあこんなものです。このままでも生きていけるでしょう。ただ父院が、『私の面目を潰す様な者が生き長らえるのが気がかりだ』と仰るのを聞くのが、大変悲しいのです」 やがてその目には涙が溜まり始める。「何も気の強いことを申したとて、勇ましい訳ではありません。兼雅どのが私のことを少しでも考えてくれた、と父院のお耳に入れば充分です。本望です」「ああ、それなら」「…ただ、何れにせよ、これとはと人に見られもし聞かれもする位に言い交わした女が、男から忘れられてしまう程情けないことは無いのです。そしてあなたの母君、あの申し分も無い北の方が現在は居るというのに、そこへどうして私が行かれましょう。…でも」 宮は苦笑する。「ここはあなたに免じて、私は参りましょう」「本当ですか?」「嘘は申しません」「ありがとうございます! ああ今日ここに来た甲斐がありました。では二十五日あたりにお迎えに参ります。つきましては、父へその故を少々お書き願えませんか」 そう言って今度は宮からの返事を催促する。
2007.11.25
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「…何故だ? そんないきなり」 兼雅は息子に向かって問いかける。尚侍は不安そうにそんな二人を眺める。「ここはとても広いですから。僕のためにと父上が新築して下さった所にぜひ」「…何でそういうことを言うんだ。ここ三条の家は、そなたの母のためにと上げたところだ。そこに他の者が住むのは―――」「心変わりだ、と母上に思われたくないと。そういうことですか?」「仲忠!」「すみません。でも母上の気持ちを聞いた上でのことですか?」「いや、それは…」「全く違う宮とか女性ならともかく、女三宮でしたら母上とて何の不都合も無いのでは?」 ちら、と尚侍の方を仲忠は見る。「元々父上の正妻であった方なのですし。それにこの三条の家全てを宮に差し上げるのではなく、おいで頂いて、時々父上が通うだけなら、何の遠慮がいりましょうか?」「お前そうは言うが」「母上だったら、きっとこう思うのではないですか? 自分が来る前はあんなに遠慮も無く振る舞っていたい方が、自分のせいで肩身の狭い思いをしているのは辛いことだ、と」「ええ…確かに」 尚侍はそう言ってほろほろと涙を流す。「最近まで連れ添った方で、しかも今は宮仕えをする娘までお持ちになっているというのに、今こうして侘びしい生活をしているのとは、どんなに悲しいことでしょう。どうかお二方、このことをお許し下さい」 仲忠の言葉に、尚侍は口を添える。「仲忠、何も心配することはありません。母はここ数年ここにこうして居ることで、殿の御志は充分判りましたから。もし今殿が母を忘れてしまったとしても、何も恨む筋合いすら無いことです。それより何より、そなたの口からその様なことが出る、それが母はとても嬉しいのです。立派なことです」 二人の会話を聞いて、兼雅はため息をつく。「…ああもう、二人で勝手に… 私は知らない。二人の間で勝手に決めるがいい」 そう言って退散しようとする父を、仲忠ははっしと引き留める。「そうはいきませんよ父上」「…一体何をさせようというのだ? お前は」「御文をお書き下さい。『何日に御迎えに参ります』と。それを持っていった上で、向こうの方にはこれからのことは詳しく申し上げましょう」「…そなたの口から言えばいいだけじゃないか。今更私が何を?」「いいえそうは行きません。父上の御文無しでどうして僕は行けましょう」 そう言うとてきぱきと仲忠は硯や墨を揃えて父の前にどん、と置く。「…何を書けばいいんだ? さて。今更別に書くことも無い」 そう言いつつ、兼雅はさらさらと書いた。「数年来、如何と申し上げるのも恥ずかしく、今ではどうおなりかとお案じ申し上げております。 不思議な気がするのですが、どうしたことでしょう。昔の様に歩き回りもせず、無精になったのは。衰えて役にも立たなくなったのでしょうか。もうろくしたのとかさえ考えます。 そういう訳で、そちらにも疎遠になりました。 ここ三条は誰かしらおりますから、嫌だと御覧になる所もあろうかと恥ずかしくて、わざわざ申し上げることもできませんでした。 こちらに住むひとのことは全くご存知ではないとのこと。この際、むさ苦しいところですが、こちらへお引き移りになりませんか? そうなさって下さるなら、当日迎えに参ります。 改めて考えてみると不思議です。 ―――どうして長い間疎遠に過ぎたろうと思います。恨むという時さえ無しに。 詳細は使いに出す仲忠の方からお伺い下さい。仰せは承る様に、と申しつけておきます」「はい、素晴らしい御文です」 仲忠は満足そうにうなづくと、それを押し巻いた。「さすがに今日すぐに行くことはできませんが、明日参ります。女三宮のことはいろいろと思うにつけて、おいたわしく存じ上げることがありますからね」 そう父に言い置く。 そして日が暮れてから、仲忠は涼のところへと、家司の中でも気の利いた者を召して使いに出した。 「何を」と問いかける父に、仲忠は「少々借りたいものがありまして」と答える。 仲忠は三条殿の中の大殿に戻った。 その夜髪をとかせて入浴などしていると、涼からは「喜んで」と返事が来た。使いの者には沢山の禄を渡した。「ずいぶんと身支度を熱心にして。どうなさったの」 寝所に入ると、そう女一宮は問いかける。「明日はね、そのまま会うには恥ずかしくなる様な方のところへ行かなくちゃならないんだ」「…何処」「女三宮。あなたの叔母にあたるひとだね。僕の妹の梨壺の君の母にあたるひとだ」「その方のところへわざわざ…?」「色々あるの」 そう言うと、仲忠はそのまま休んだ。 翌日目覚めると、美しい直衣装束を取り出して、薫物をしっかり染み込ませて、出掛けることとする。 その途中で藤壺の生んだ宮達が走り回っているのを見て、ふっと仲忠は笑った。
2007.11.25
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「亡くなった前の右大臣どのの帯だと聞きました。これは僕が持っているより、父上の方がいいのではないかと思って」「私にか?」「だって最近何かぱっとしないですよ、父上」「…それはあんまりじゃないのかい?」「僕はいいんですよ。お祖父様の蔵の中には、唐渡りの品の中に、良い感じの石もありましたから、それを帯に付けて細工させようと思います。その貞信公の石にも劣らない様なものがありますから」 そう言って仲忠はにっと笑う。「…何を言うのだろうなこの息子は。せっかく帝が勿体ないお心でもって下さったものを。節会などに付ければいいではないか。何も私の所へ持って来なくとも。ここには他にもいろいろあるし」 しかし仲忠はそんな父の言葉などさらりとかわし。「だったら、僕のところの石や、そうそう、角もあるんです。拵えて父上に贈りましょう。何かと宝物を持っていると危ないことが起こるところでした」「…そういうことは軽々しく口にするものじゃないよ。それで。他に言うことがあるんじゃなかったのかい?」 石帯のことをきりにしたいと思ったのか、兼雅は次の話をうながす。「ええ。何と言うか、実に珍しいことが起きましたので」「何かあったのか? 宮中で」「ご報告が遅くなって非常に申し訳ないと思っているのですが」「…じらすな。何があったんだい」「梨壺の君ですが」「…ああ、ずいぶん顔も見ていない」「薄情な父上ですね」「…そういうことを言いに来たのかい」「まあ近いですが」「…全くお前は本当に私のことを父親と思っているのかい?」「時々疑いますが」「…おいおいあまり私を虐めないでくれ。ともかく話を戻そう。梨壺に何かあったのかい?」「退出する時に、せっかくだから異母妹の顔を見ていこう、と梨壺へと出向きました。御前でおめでたいことを聞きましたので」「おめでたいこと」 兼雅はすぐには判らない様だった。だがやがて。「そ、それは」「ご懐妊されております」「い、いつからだ、それは… 東宮さまはご存知か? …まさか梨壺が、何処かの男と…」「何言ってるんですか父上!」 ぴしゃりと仲忠は怒鳴りつけた。「冗談でもそんなこと言わないで下さいよ! 東宮さまがどうして知らないことがありますか! そもそも梨壺の君のところには、まあ藤壺の御方はともかく、他の妃の方々よりは随分と出向かれているのです」「そ、そうか…」 兼雅はほっと胸を撫で下ろす。ああもう、と仲忠は眉を寄せる。「七月くらいからだということです」「そうか… それならまあ、よかったよかった。いやもう、昔梨壺を入内させて、この先頼もしいと思った頃にはしなかったのに…」「こればかりは天の配剤。どうにもならないことでしょう」「だがしかし、こう騒がしい世に、ともかく懐妊したということは、何か不思議だな」「僕が参内していた時、東宮さまも帝に知らせよう知らせようとしていた様でした。帝のお側に二日ほどいらっしゃいましたよ。東宮は以前よりも御立派になった様な気がしました。御即位が近づいたせいでしょうか」「東宮さまか…」 ふむ、と兼雅は顎に手をやる。「とても御立派な方だとは思うのだが、現在藤壺の御方以外の妃に目もくれない状況というのは困りものだ…」 仲忠は黙って微かにうなづく。兼雅は続ける。「藤壺というのは凄い方だ。現在はもう、后並みの扱いを受けている様なものだ。次の東宮に成りうる皇子を一人でなく、二人までお持ちだ。こういう幸人を、何でもない私達只人までが懸想していた訳だ。何とまあ、お気の毒なことをしたものだな」 どちらにとっても、と兼雅は微妙に含める。「あちらも梨壺同様、またご懐妊だそうです。少し梨壺よりは遅れて、だそうですが」「それは… ふむ。惜しいことだ。明王とおなりになる筈の東宮が、大勢の方々を嘆かせておるのだな」「ええ」「藤壺お一人のために、他の妃達が父母同胞と一緒に嘆く。その下も嘆く。一体どれ程の者があの方一人のために嘆くことになるだろうな… 特に嵯峨院の女四宮はどう思っておられるのだろうな」「帝もそれをたいそうご心配に。…それでですね、父上」 口調がやや改まったものとなる。「な、何だ」「どうか梨壺の母君、女三宮をお訪ねになって下さい」「は? 何を突然」 兼雅は驚く。まさかそこで自分が出てくるとは思わなかったのだ。「帝はこちらにもそう仰られたのですよ。さりげなくですがね。妹君お二人までが似た様な境遇にあるのはたまらないものでしょう。…と言うか、女四宮の件と梨壺の件があったから、きっともう一人の妹君のことを思い出されたのですよ」「ううむ」「嵯峨院の御世も長くはお続きにならないでしょう。ですから、せめてお元気なうちに。宮にこう申し上げて下さい。『こちらにいらっしゃい』と」
2007.11.18
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仲忠が女一宮を連れて行ってしまったことで、乳母の右近は頭を抱えた。「だから申し上げたではございませんか。せっかく御髪をお洗い申し上げたのに、また滅茶苦茶になってしまうではないですか。ああもう、また明日もお洗い致しませんと」 すると女御は苦笑しながら諭す。「静かになさい。まあそう言うものでは無いですよ。仲忠どのも夜も昼も御前にいらしたのだから、随分お疲れでしょう。宮と一緒でようやくゆっくりできるというならそうなさったほうが良いではないか。何も御髪のことなど、また洗えばいいだけのこと」「その御髪洗いの手間が…」 と口の中でぐずぐず言っているので。「何もそなたが気にすることではない」 女御はそう言った。さすがに右近もそれ以上ぐずぐず言うことはできなかった。 仲忠は結局それからずっと寝所の中に籠もりきりで、翌日の昼になるまで出てこなかった。 御膳部を持ってきて食台などの音をさせても全く聞きつけた様子も見せない。 女房達は困ってしまい、とうとう中務の君が「お食事でございます」と直接仲忠に呼びかけた。 すると仲忠はこう答えた。「…凄く眠いからね、小さい盤に少し分けてくれないか?」 仕方ない、とばかりに女房達は中の盤に分けて、また別に少し分けた菜などを出すことにする。 仲忠はそれをまず宮に食べさせて、自分はその残りを少しだけ食べて、またごろりと横になってしまった。 その翌日もまた彼等は寝所を出ようとしない。「それでもこれでは出ない訳にはいかないでしょうね」 女房達はそう顔を見合わせる。「仲忠さま、尚侍さまからの御消息でございます」「母上から?」「どうしてまるで消息をくれないのですか。以前からあなたが言っていたことを、こういう時に、と考えておいたのではないですか。今日はそれにとてもいい日だと思うので、こちらにいらっしゃい」「あ、そっか」 そういうことがあったな、と仲忠はようやく思い出したらしい。「ああもうこんな時に」 そう言ってとりあえず「これから行くから何も申し上げない」という意味の返事だけ持たせ、出掛ける準備を始めた。「ずいぶん急ぐのね」 女一宮はそんな仲忠の様子を見ながら、やや呆れた様に言う。「だって母上の言葉には動いた、という噂が広がれば、また他に行くところがすぐにできたら困るじゃないか」「ふーん。そういうもの?」「そういうものなんだよ」 そう言いつつばたばたと仲忠は支度をし、実家の方へと出向いた。 三条の屋敷では、犬宮の産衣の品々を調えてあった。女一宮への贈り物も同じく、その様子は正頼方へ持っていっても引けを取らない程だった。 たとえば洲浜。湧き水の側に鶴が立っているものなのだが、その鶴の足元に、金の毛彫りで葦手書きにした次の歌があった。「―――今夜から鶴の子/犬宮が絶えず流れる水に幾代住むのを、老いた私達/祖父母は見ることができるだろう」 その様な贈り物の数々を尚侍は仲忠に見せる。「これはまた、凄いですね」「全くだ」 兼雅もそれを見て感心する。「それにしても仲忠、ずいぶんと閉じこもっていた様だが?」「えー」 こほん、と一つ咳払いをしてから仲忠は改めて挨拶をする。「ここしばらくずっと参内して、夜も昼も御文をお読みしてまして。やっと一昨日退出できまして。そのままこちらへ伺いたいと思っていたのですが、どうも気分が悪くなりましたので、その日は一日、中の大殿に居ました。まあその名残でしょうか、昨日も今日もなかなか起き出すことができなくて。それでも御文がありましたので」「それはそれは」 兼雅はにやりと笑う。「ただ伺おうとは思っていたのです。お見せしたいものもあったし、父上に申し上げたいこともありましたし」「見せたいもの?」「これです」 そう言って仲忠は帝から貰った例の石帯を兼雅に見せた。「例の蔵から、お祖父様の文書が出てきました。そのことを帝に申し上げたら、見たい見たいと仰るので」「成る程それでか」 納得した様に兼雅はうなづく。「ええ、この帯は、その講読に対し賜ったものです」 そうか、と兼雅は苦笑する。「祐純が言っていたよ。『帝は世の中の貴いものは全て仲忠にやってしまう。皇女の中で最も可愛がっていた女一宮も、いつまでも手元に置きたいと願うような宝物も』ってね。まあ間違いじゃあないようだ」 そう言って石帯を取り上げて眺める。
2007.11.18
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やがて女御が自身や宮達の前に膳部を供えさせる様にする。仲忠はまだ食事前だったので、正頼が酒を奨める。 そうこうしているうちに、急に邸内が賑やかになった。「どうしたのだ」「源中納言さまの北の方が、ご出産とのことですが、大層お苦しみでいらっしゃるということで」 そう言う女房の口調も、何処か焦り気味だった。正頼は女房に命ずる。「典侍をやりなさい。こういう時には、良く心得た者で無いといけないだろう」「は、はい。既に典侍どのは昼頃お召しがありましたので、参上しております」「よし、それではわしも行こう。立って見守るしかできないのが辛いが…」 そう言って正頼は涼と今宮の住む側へと向かった。 仲忠も友人とその妻のために出向きたいと思ったが、少々疲れた身体に酒が入ったので、気分が悪くて行くことができない。 やがて生まれた、との知らせが入った。仲忠はほっとした。 女御はそんな仲忠の様子を見て、考えるところがあったのか、奥へと入る。「宮、髪は乾きましたか? 早く中の御殿へいらっしゃい」 それを聞いて仲忠は屏風を押し開けて中を見る。 女一宮は濃い紫の袿に、黄が勝った鮮やかな赤の細長を重ねていた。髪が湿っているからとその上に白い衣をまとっている。 その白い衣の上に、つやつやと黒い四尺程の長い髪が波打ち、輝いている。 近くには小さな台が持ち出され、その上に湯漬けや菓物などが置かれている。 仲忠はさすがにそののんびりとした様子に苛立ったのか、その様子を見て言う。「何そんな意地はってるの。中の大殿で乾かそうよ。あっちでもできるでしょ。僕はもう、一人で待ってるのなんて嫌だからね」「ちょ、ちょっと」 女一宮はつかつかと近づいてくる仲忠にやや躊躇する。「さあ行こうね」 そう言うと、仲忠は女一宮を一気に抱き上げ、そのまま中の大殿まで連れていった。そのまますぐに寝所の中へと入り、そこでようやく宮を下ろす。「…ずいぶんと乱暴ね」「だって宮があんまり薄情だから。文を出しても向こうでもこっちでも返って来ないし、僕はただもうあなたの返りや帰りをひたすら待ってたって言うのに」 仲忠はそう言うとさあ寝ようとばかりに宮の手を引く。「ああもう、やっと会えた。本物の宮だ。何でずっと知らない顔してたの。こっちは向こうで色々あって疲れたんだから」 はいはい、とばかりに女一宮は甘える仲忠の背を撫でる。「別に格別あなたを嫌がっていた訳じゃないわよ。ただ折角洗ったんだから、ちゃんと干さないと、後でくしゃくしゃになるじゃない」「けどねえ」「はいはい。それで向こうでは何があったの? そんなお疲れと言うのなら、きっと色々面白い話題があったんじゃなくて?」「意地悪だなあ。まあいいや。…そうそう、確か宮はた君は知っている?」「ええ。祐純おじさまの子でしょう? なかなか頭がいい子と聞くわ」「頭の回転は早いし、可愛らしいけれど、あの子はちょっと軽々しいよ」「そうね。あの子は殿上であちこちふらついていて、こっちでもそれと同じ気でいるのかもしれないわ」「それであなたや妹君のことも見たのかな」「見たかもしれないわね。子供だから油断して」「犬宮も?」「かもしれないわ」「…それは困る。ああもっと犬宮の護りは固く固くしなくちゃ」 少々一宮は呆れる。「あの子はなかなか顔も頭もいいと思っていたけど、その目端が効きすぎるあたりはちょっと憎らしいな。…ああそれで、祐純さんはこっちには来た?」「おじさま? まさか。私の所になど訪ねては来ないわよ」「しっ」 唇に指を立てる。「静かに静かに。あなたのおじさん達は、皆心やりの無いひとばかりだよ。…一人は亡くなってしまったし…」 ふと仲純のことを思い出したのか、仲忠の目が遠いものとなる。「…全く誰だろうな。叶わぬ恋に身を焦がす様なひとは。誰か大層物思いに沈んでいる様なことはない? 噂にも聞かない?」「変なことを言うのね。そういうことを言うなら、あなただって」「だって今居る女宮達の中では、…帝の御妹君達ではないだろうし、かといって他の方は、皆あなたより小さいもの。だったらあなたしかいないでしょ」「…そういう嫌な冗談を言うなら、私ここから一人でも向こうに戻るわよ」 ぶん、と女一宮は怒る。その顔が大層可愛らしかったので、仲忠は思わずしっかりと抱きしめた。「ああもうごめんよ。それというのも長い間離れていて辛かったからなんだ。もう言わないから僕を許して」 その後も周囲の人々がどうしていいか判らなくなる様な言葉が続いたがここでは記さない。
2007.11.11
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そして女御に向かって。「今朝宮中で帝の仰言がありましたから、できるだけ早くこちらへ申し上げようとは思ったのですが、ちょっと気分が悪かったので、なかなか出て来れずに…」「帝は何と仰せでしたか?」 女御は問いかける。「『仲忠が女御に犬宮の乳母の真似事をさせているのではないか』とのことでした」 あら、と女御は首を傾げる。「そういうものかしら。見ると聞くとは大違いだとよく言われますが、成る程、帝はそんな風に捉えていらっしゃるのですか。でも駄目ね。今ではこの犬宮を見ずにはいられないわ」 心底嬉しそうに話す。「私も沢山宮達を生んだけれど、皆顔もろくに見ないうちに参内することが多かったのですよ。けど犬宮はもう生まれる所から見て、毎日毎日こうやってお世話しているから、とっても愛着が湧いて。置き去りにして参内なんて、とつい思ってしまうのですよ。それに何と言っても、宮中の様に、見栄を張ったりして表向きに気を配る必要もない宮仕えですもの」「これこれ何をおっしゃる。私の子供の中では、あなたが一番果報者だというのに」 正頼が口をはさむ。「この多くの宮達を全く悪いところも無く育ててくれて、それぞれ将来も頼もしい様子で、元気で走り回り、また兄弟一緒に仲良く遊んでいるところを見ると、私はよくぞ娘を持ったものだ、と有り難く思うよ」「そうでしょうか? 私はこの大将や犬宮を見ていると、天下の后の位も羨ましいとは思いませんわ、父上。あの子は今までもこれからも、比べる人も無いほど幸せだと思いますのよ? 様々な物思いも知らずに来られているのだから。私などそれに比べれば」 仲忠はそれを聞くと笑った。「なかなか耳が痛いですね。女御さまがおっしゃる様なことはこちらには特別には無いのですよ。女一宮ときたら、僕が犬に食われたとしても、そんなことはどうだっていい、という顔をするでしょうから」 まあ、と女御も正頼も笑う。「それはそうと、帝から、東宮の御即位の儀が近づいた様な仰言がありました」「そうか。朱雀院の修理が終わったらしいので、そういうこともあるのだろう」「今回は東宮も殿上にいらしていて、間近で講義を致しましたので、よくお姿を見ることが出来ましたのですが、しばらく見ないうちに、また御立派になりました」「いや全く、我が国の帝としては勿体無い程のお方だ」 正頼は大きくうなづく。「今回は宮中でなかなか厄介な事を仰せつかりました。あの素晴らしい東宮の御前では、さすがに気後れ致しました。その時に五宮もいらしたのですが、あの方は大層派手で、しかもいつも何かしらそこで見つけようというご様子で御覧になるのです。読むだけと言えば読むだけなのですが、非常にやり憎うございました」「それは難儀なことだったな」 ははは、と正頼は笑う。「まあそのおかげで、貴重なお品を賜りました」「どんなものを?」「帯です」「…ちょっと見せてもらえるかな?」 仲忠は早速その帯を取りに行かせる。 やがてしっかりと包まれた、袋に入った螺鈿の箱に入れられて、帯が持って来られた。 正頼はそれを引き出してみて驚いた。「これは…」「どうなさいましたか?」「これはまた、世に二つと無いものだ。これを帝が差し上げたい、と思うあたり、凄いものだ」「一体…」「これは小野宮の大臣―――貞信公秘蔵の石帯で、大変貴いものだ」「そうなのですか!」 仲忠は改めて驚く。「かつて、この石帯のために、あの真言院の律師は家を出て、山に籠もることとなった。我が子が行方をくらましたことに絶望した、この元の持ち主である大臣は、それ以来小野に籠もってしまわれた。その時に『もうこの帯を譲る者も居ない』ということで嵯峨院に奉ったものなのだ。そして院が今の帝が東宮の位に居た時に、お渡しになったもの。帝はこれを貴い宝としていたものだ。貴重な帯は沢山お持ちだが、これほど大切にしていたものは無いだろう」「…そんな素晴らしいものを―――ですが、これを賜ったのは、藤壺の御方のお陰です」「またあの子が何を」 ふっ、と正頼は笑う。「実は、東宮さまが藤壺の御方に御文を送り、その御返事を待って大層深くお考え込みになっている、そのご様子が僕は気になって気になって。ついつい変だな、と思っているうちに、書を読み違えてしまったのです」「それは」 ぷ、と正頼も吹き出す。「帝がお笑いになったので、これはまずい、困ったことになった、と思って、震え声で続きを読んだのですが… それでいて、『この講読の禄には何がよかろう』などと仰せられ、…結果、この帯が」「それはそれは」「そんなことでもこんな重い禄を頂戴できるものなのですね」 そう言いつつ仲忠は苦笑した。
2007.11.11
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「僕が帰ってくるって判っているのに何で今日髪洗いなんだよ。もう」 仲忠は少し膨れる。「そこはまあ、綺麗な姿でお目にかかりたいという女心でしょう」「僕はただもう宮に会いたいだけだって言うのに。ところで子犬ちゃんは何処?」「犬宮さまも向こうに」 ああもう、とやや苛立たしげに仲忠は腕を組むと女房の大輔の君に犬宮を連れてくる様にと呼んだ。「ただいま~ お父様だよ」 仲忠は犬宮を抱き取ってまじまじと我が子を見る。粉で作った団子の様に白くまるまると肥えて、まるで何か知っているかの様に話しかけようとする。無論本当に話ができる訳ではないが、その様子が仲忠をだらしない程にとろけさせる。「ああもう何って可愛いんだろう」 そう言いながら仲忠はもう一方の愛しい相手に文を書く。「四日間も宮中に閉じこめられてようやく帰ってきたというのに、何でこっちに居ないの? ひどいな。よりによって今日髪洗いなんて。 ―――久しぶりに折角会うという大事な今日に髪を洗うとはどういうこと?――― そっちへ僕から行こうか?」 だが特に返事も来ない。さすがにそれには仲忠も閉口した。 仕方ないとばかりに犬宮を抱いて昼間の御座にごろんと横になった。「ああ大輔の君」「何でしょう」「僕の居ない間、この子を誰かに見せた?」「いいえ誰も。皆が西の御方へおいでになったので『見せて欲しい』とおっしゃったのですが、女御さまがやっぱりこうしてお抱きになって、寝所の中にばかり」「そう、それは良かった」 仲忠はほっとする。「ただ」「ただ?」「東宮の若宮達が大殿さまに抱かれていらっしゃいまして」「若宮達が」「ええ… それで私どもも、犬宮さまをお隠し致しましたのですが、若宮さま達ときたら、女御さまや女一宮さまに『宮の赤ちゃんを見せてよ、見せてよ』とぶったり引っ張ったり乱暴なさるので、さすがに宮も…」 黙って仲忠は眉を寄せる。「まあ若宮さま達は、犬宮さまをたいそう大事にお抱きになっておりましたが…」「…そういうことじゃないんだよ。あの年頃にしたことって言うのは、結構後あとになってもしっかり覚えているものなんだ。だから男君達がたとえ子供であったとしても、女の犬宮を抱っこさせるなんて、以ての外のことなんだよ。大輔の君、これからは若宮にも若君にも、ともかく皆から犬宮を隠してくれ」「はい、判りました。ただ今度のことは、若宮達が、女御さまや女一宮さまの御髪を引っ張って泣いてお騒ぎになったので、お二方にもどうにもならなかったのです」「ああもう」 仲忠は頭を抱えた。 一方、髪洗いをしている女一宮だが。 髪洗いは実に大仕事である。朝早くから日の暮れるまでその作業は続く。 何せ普段はせっせと梳ることでほこりや何やらを落とすだけのその長い髪を洗うのである。 湯汁で度々洗い、お側の女房達がその側に並び、その度に洗髪料である「ゆする」を通すのである。女一宮の髪は長く豊かなので、その作業も一苦労である。 ゆするで洗った後、清水ですすぐと、丈の高い御厨子の上に褥を敷いて、その上に髪を広げて乾かす。ちなみに厨子は、仁寿殿女御の部屋の前に廂に横様に立てられた。 そして母屋の御簾を上げて風通しを良くした上で、それでも見られてはならないと几帳を立てた。 髪の大本、宮の居る母屋には火桶を据えて火を起こし、薫物をくべて匂わす。そして濡れた髪の湿り気を女房達が集まって拭いて、火に炙って乾かすのである。「…こっちに渡って乾かせばいいのに」 さすがに焦れた仲忠がそう言って寄越すと、女御は娘に苦笑混じりに言う。「ああ言っていることですし、向こうで乾かしたらどう?」「別にこっちでいいわ」 素っ気なく女一宮は答える。 そこに右近の乳母という女が口を挟む。「ぜひそうなさいませ。そのままもし殿が宮さまをお連れして寝所にお入りになられたら御髪が滅茶苦茶になってしまわれます。御産をなさったその日にもご一緒なさった方ですから、せっかくの御髪にお障りにならないとは言えません」「何ってことを言うの。黙っておいで」 宮はぴしゃ、と叱りつける。 そう言っているうちに、直衣を着た仲忠が、中の妻戸を押し開けて女御の前にやって来てひざまづいた。 ちなみにその場には正頼も居た。 女一宮は姿が丸見えになってしまう、とばかりに屏風を取り出させたりする。 すると仲忠は呆れた様に、「そのままでもいいのに。早く乾かしてね。…向こうにも御厨子はたくさんあるけどね」 多少嫌味など言ってみる。
2007.11.04
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「まあお兄様」 仲忠が来ると知るや、梨壺の君は席を設けさせ、早く早くと女房達を軽く促した。女房達もこの「異母兄君」を嬉しく誇らしく思っていたので、いそいそと準備をする。 梨壺の君は嬉しそうに微笑んだ。「毎日参殿はしていたのだけど、なかなか抜け出せなくて、悪かったね」「そんな。帝の御前ですもの。仕方ありませんわ。ですからこちらからも消息は控えておりましたの。お体は如何ですの?」「ありがとう、大丈夫。ところで、身体と言えば、あなたこそ」「私ですか?」 彼女は首を傾げる。「水くさいな。こういうことは真っ先に言ってくれても良かったのに」「…あら、どういうことでしょう」「僕や父上にはすぐにでも伝えてくれていいことがあったでしょ」「あ…」 梨壺の君も女房達も、顔を見合わせる。「おめでたいことだよ。もう藤壺の御方ばかりで、妃は誰も要らないんじゃないか、と口さの無い連中が噂していた中だもの。あなたがやはり東宮さまからそうやってご寵愛を受けていたことはやっぱり嬉しいし、何より僕等にとっても名誉なことだもの」「お兄様、そうはおっしゃいますが、私の身にもなって下さいな。胸はむかつく身体は怠い、私からすれば何もおめでたいことは無いですわ」 仲忠はごめんごめん、と笑った。女一宮も懐妊中は気分が良くなかったことを思い出したのだろう。 「それで、いつ頃からですか? その」「相撲の節会の頃からちょっと暑気あたりかな、と思う様な気分だったので、その頃じゃないかと…」「七月から… もう師走じゃないの。ずいぶんと隠してたね。父上は知っているの?」「父上に私が会う機会があると思いますの? お兄様」「あー…」 仲忠はぴしゃ、と額を叩く。「でもお兄様、どうしてお知りになったのですか?」「実は五宮が」「あの方が」 梨壺の君は眉をひそめる。「あの方は前々から私に言い寄って来ていたのです。私に東宮さまの訪れが無いから、と。自分だけは私のことを大事に思う、などと甘い言葉をつらつらと並べたのにまあ。信じられない方!」「何か言われたのですか?」「普段『私だけはあなたのことを大事に思っています』とかおっしゃってました。けどさすがに最近は音沙汰が無くて気楽なものです。私が身籠もったということで、どうでもよくなったのでしょう」 あはは、と仲忠は笑う。「五宮は聡明な東宮の弟君だと言うのに、どうも落ち着かないひとだな。あのひとは世間から色好みだ色好みだと騒がれて、自分勝手に振る舞い、帝に対しても控えめにすること無く、何でもかんでも皆奏上してしまう方だ。あなたも気を付けて」「はい」「宮中は皆良くない心持ちの者ばかりだ。特に多くの妃やその周囲の女房といった者達の心無い噂などは流してしまえばいい」「皆悪い方という訳では無いのですよ、お兄様。何と言うか… 太政大臣の方のすることが、何かと皆の評判まで落としてしまうのです」「…そう言えば、嵯峨院まの女四宮の所へは最近東宮さまもお通いにならないということだけど」「…あの… 何と言うか」 梨壺はやや言いにくそうに。「ちょっとこの春、あの方のところで少々いざござがありまして。東宮さまの御衣が破られてしまって…」「…女四宮がですか?」 仲忠は思わず目をむく。「ええ… まあ私も伝え聞いているばかりですが。それに、あちこち東宮さまのお体を引っかいたり傷を作ったりなさったということで…」「それは… ちょっと…」 同じ男として状況を想像してみたらしい。仲忠の表情も微妙なものになる。「でも、だからと言っていつまでもこのままでは居ないでしょう。前はあの方が一番ご寵愛されていましたし。東宮さまは私を召した時にでも、『女四宮を可哀想だとは思うのだが、さすがに今は…』と仰せになりますし」「…もしかして、男として大切な所を傷つけられたのかな。そうだったら大変大変」「まあ! お兄様!」「それじゃあますますお嫌いになってしまうかもね」「嫌なかた!」 ふん、と梨壺の君はそっぽを向く。さすがに彼女も東宮の妻の一人であるが故、意味はすぐに理解できたのだろう。「それでは僕はそろそろ」「もうお帰りですの?」「うん。さすがにね。二、三日後にまた来るね」「お待ちしてますわ、お兄様」 そう言って仲忠は宮中を退出した。 三条殿に戻り、仲忠は女一宮の居る筈の所へ向かうが、昼間の御座所にも寝所の中に見当たらなかった。 不思議なことだ、と彼は女房の中務の君に問いかけた。「宮はどうしたの? 何処かに行ったの?」「ああ大将さま。ほほほ、今日はお髪を洗う日ですので、西の対に」
2007.11.04
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「まあお兄様」 仲忠が来ると知るや、梨壺の君は席を設けさせ、早く早くと女房達を軽く促した。女房達もこの「異母兄君」を嬉しく誇らしく思っていたので、いそいそと準備をする。 梨壺の君は嬉しそうに微笑んだ。「毎日参殿はしていたのだけど、なかなか抜け出せなくて、悪かったね」「そんな。帝の御前ですもの。仕方ありませんわ。ですからこちらからも消息は控えておりましたの。お体は如何ですの?」「ありがとう、大丈夫。ところで、身体と言えば、あなたこそ」「私ですか?」 彼女は首を傾げる。「水くさいな。こういうことは真っ先に言ってくれても良かったのに」「…あら、どういうことでしょう」「僕や父上にはすぐにでも伝えてくれていいことがあったでしょ」「あ…」 梨壺の君も女房達も、顔を見合わせる。「おめでたいことだよ。もう藤壺の御方ばかりで、妃は誰も要らないんじゃないか、と口さの無い連中が噂していた中だもの。あなたがやはり東宮さまからそうやってご寵愛を受けていたことはやっぱり嬉しいし、何より僕等にとっても名誉なことだもの」「お兄様、そうはおっしゃいますが、私の身にもなって下さいな。胸はむかつく身体は怠い、私からすれば何もおめでたいことは無いですわ」 仲忠はごめんごめん、と笑った。女一宮も懐妊中は気分が良くなかったことを思い出したのだろう。 「それで、いつ頃からですか? その」「相撲の節会の頃からちょっと暑気あたりかな、と思う様な気分だったので、その頃じゃないかと…」「七月から… もう師走じゃないの。ずいぶんと隠してたね。父上は知っているの?」「父上に私が会う機会があると思いますの? お兄様」「あー…」 仲忠はぴしゃ、と額を叩く。「でもお兄様、どうしてお知りになったのですか?」「実は五宮が」「あの方が」 梨壺の君は眉をひそめる。「あの方は前々から私に言い寄って来ていたのです。私に東宮さまの訪れが無いから、と。自分だけは私のことを大事に思う、などと甘い言葉をつらつらと並べたのにまあ。信じられない方!」「何か言われたのですか?」「普段『私だけはあなたのことを大事に思っています』とかおっしゃってました。けどさすがに最近は音沙汰が無くて気楽なものです。私が身籠もったということで、どうでもよくなったのでしょう」 あはは、と仲忠は笑う。「五宮は聡明な東宮の弟君だと言うのに、どうも落ち着かないひとだな。あのひとは世間から色好みだ色好みだと騒がれて、自分勝手に振る舞い、帝に対しても控えめにすること無く、何でもかんでも皆奏上してしまう方だ。あなたも気を付けて」「はい」「宮中は皆良くない心持ちの者ばかりだ。特に多くの妃やその周囲の女房といった者達の心無い噂などは流してしまえばいい」「皆悪い方という訳では無いのですよ、お兄様。何と言うか… 太政大臣の方のすることが、何かと皆の評判まで落としてしまうのです」「…そう言えば、嵯峨院まの女四宮の所へは最近東宮さまもお通いにならないということだけど」「…あの… 何と言うか」 梨壺はやや言いにくそうに。「ちょっとこの春、あの方のところで少々いざござがありまして。東宮さまの御衣が破られてしまって…」「…女四宮がですか?」 仲忠は思わず目をむく。「ええ… まあ私も伝え聞いているばかりですが。それに、あちこち東宮さまのお体を引っかいたり傷を作ったりなさったということで…」「それは… ちょっと…」 同じ男として状況を想像してみたらしい。仲忠の表情も微妙なものになる。「でも、だからと言っていつまでもこのままでは居ないでしょう。前はあの方が一番ご寵愛されていましたし。東宮さまは私を召した時にでも、『女四宮を可哀想だとは思うのだが、さすがに今は…』と仰せになりますし」「…もしかして、男として大切な所を傷つけられたのかな。そうだったら大変大変」「まあ! お兄様!」「それじゃあますますお嫌いになってしまうかもね」「嫌なかた!」 ふん、と梨壺の君はそっぽを向く。さすがに彼女も東宮の妻の一人であるが故、意味はすぐに理解できたのだろう。「それでは僕はそろそろ」「もうお帰りですの?」「うん。さすがにね。二、三日後にまた来るね」「お待ちしてますわ、お兄様」 そう言って仲忠は宮中を退出した。 三条殿に戻り、仲忠は女一宮の居る筈の所へ向かうが、昼間の御座所にも寝所の中に見当たらなかった。 不思議なことだ、と彼は女房の中務の君に問いかけた。「宮はどうしたの? 何処かに行ったの?」「ああ大将さま。ほほほ、今日はお髪を洗う日ですので、西の対に」
2007.11.04
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「何でしょう」「何かしらの機会が無いと、そなたに会うことも今は難しくなった。いい機会だから、少しそなたに話したいことがある」「それでは私は」 そう言って仲忠が席を外そうとすると。「仲忠はいい。聞いていなさい。そなたは将来東宮の後見をするはずの者だから。―――して東宮よ、そなたは近頃、殿上にも出てこないとの専らの噂だが」「…それは」「きちんと殿上にお出なさい。そして常に作法に合わせて政事をさせなさい」「…はい」「それに、特に気に召した妃があるならば、夜殿上に召して、昼は上局に置くようにすれば良い。そなたは何かと慣例と違うことをするという評判なので、わしは心配しているのだよ。その中でも弟の五の宮がたいそう嘆き悲しんでいるということだ。なのにどうしてそうもつれなくするのだ?」「…」「いつかは嵯峨院のお耳にも入ることでもある」「女四宮のことでしょうか」「さてそれは御自分で考えるが良い。ともかく院も今ではご高齢になり、あまり心配などお掛けしたくはないのだ。多少そのあたりをそなたは気に留めた方が良いのではないか」「それはもう、仰せの通りに考えております」 東宮はしっかりとした声で返す。「先日も、宮の元へ渡りました」「しかし」「ところがあの方はここの所どういう具合なのか、私が何を言っても聞く耳を持たず、大層荒々しい様子だったので、彼女のことを思い、私は少々遠慮していたのです」「だがその様に宮が振る舞うというのにも、何かしらの理由があるのではないか?」「まあ確かに。私が親しくしている藤壺を、宮は快からず思っております。当初は親しくしておりましたものを…」 そう言って東宮は言葉を濁す。「それに宮の方にもやや問題はあるのです。私が『今日はいらっしゃい』と伝えても、何も返さず、それ以来行き来が絶えてしまったのです。藤壺が私の所に居ると言って機嫌が悪く、それこそどうしたのかと思うのは私の方です。ですので彼女の怒りが解けるまでは、と色々遠慮していたのですが… 宮への私の気持ち自体は変わるものではないのですから、何かの機会にはきっと自然に判ってもらえるものと思っております」「それはそうかもしれんが」 帝はうなる。「いつかは心も離れて払え者にしてしまうこともあるかもしれないが、院の御在世中にその様なことをお耳に入れるのは、非常に辛いことだとは思わぬか? 或いはそういうことをお聞きになったのだろうか、院の上も宮も出家なさろうとしている。そなたの即位もそう遠くない。できるだけ人から謗りを受けない様になさい」「それは重々」「外つ国でも、誰よりも飛び抜けて一人の女を愛した皇帝は、世の非難を受けたものだよ。そなたもそう言われそうな程の妃を持っている様だから、あえてわしも忠告するのだ。…とりわけそなたの所には、美しい妃達が集まっているというのに、これじゃあ無闇に誉めることもできない」「そういうことを露骨に口にしたのは嵯峨院の宮ですね。言葉も慎まずに言い騒ぐのは彼女しかいませんよ。…まあ何とかしましょう」 そう東宮は吐き捨てる様に言う。 心配そうにその姿を眺める仲忠に、帝は少々待つ様に、と指示した。「そなたに相応しいと思われるものがあるのでな」 やがて、昔から伝わる有名な石帯が運び込まれてきた。帝はこれでもないあれでもない、と仲忠と見比べた上で、一本の石帯を取り出した。「これがいい。そなたはこの帯を、朝拝などの際に付けなさい」 は、と仲忠は舞踏をして受け取った。 帝は退出しようとする仲忠に向かって言う。「仏名が済んだら、年内にもう一度来て集を読んではくれまいか。目出度い年の初めには読む様なものでも無いから」「承知致しました」「それにしても、仁寿殿女御は年内には参内するつもりは無いのだろうか」「は」 突然変わった話題に、仲忠はふと首を傾げる。「自分のお産の時よりも長く里に滞在するのは、やはり女一宮が乳母の代わりをさせているのかな?」 そう言うと帝は口の端を軽く上げる。「そんなことは…」「…というのは冗談だが、そなたからも早く参内する様に言ってはもらえぬかな。以前はこの様なことは無かったのだが… 末法の世になると、女に軽んじられる様なこともあるのだろうか」 仲忠はその言い方にくす、と笑い、帰ることとする。彼が持ち込んだ文は、皆封をされて、清涼殿の厨子に納められた。 やがて東宮が退出する、と言うことで、仲忠は殿上人や学士と共に、藤壺まで東宮を見送った。 戻るが早いが、東宮は寝所に入ってしまったということである。 そのついでに、と仲忠は梨壺へと足を向けた。異母妹の所である。
2007.10.28
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さてその娘が四つの夏のことである。 俊蔭は娘が技芸を習得するのにちょうどいい年頃になったと感じた。そこで自分が命を賭けて習った琴を教えようと決心した。 そこであの波斯国から持ち帰った琴を取り出すと「なん風」「はし風」の二つは誰に言わずに隠しておき、残りの十の琴のうち、三つを残して、あとは周囲の人々に送ることにした。 まず娘には「りゅうかく風」を習得用に残した。自分のためには「ほそお風」を。そして家のために「やどもり風」を。 残り七つは、まず帝に「せた風」を。 「山もり風」は当時の后の宮に。 「花園風」は当時の東宮に。 「みやこ風」はその東宮の女御に。 「かたち風」は当時の左大臣忠恒に。 「おりめ風」を右大臣千蔭に。 残り一つ「あわれ風」も何処かへと送ったのかもしれないが、此処では記されていない。 帝はこれらの琴の鳴り響く様に驚き、俊蔭に問いかけた。「この琴は、どうやって作りあげたのだ。波斯国から持ち帰ったのなら、しばらく手も触れないでいたものであろうが、その声が衰えることもなく素晴らしく鳴り響き、しかもそり七つとも、皆同じ音であるのはどういうことであるか」 そこで俊蔭は、琴の作られた由来をそこで詳しく話した。「そうであったか。では俊蔭よ、この琴の声はまだ慣れてない様だ。そなたが弾いて整えるが良い」 そう言って「せた風」を俊蔭の前に差し出した。 俊蔭はそれを受け取って、大曲を一つ弾き始めた。 するとこの響きは凄まじく、宮中の建物の瓦が砕けて、花の様に散る程であった。 また、もう一曲掻き鳴らすと、今度は六月の半ばだというのに、雪が凝り固まって降り出した。 帝はこの様子に改めて驚いてこう言った。「何とまあ、この琴は、この調べは素晴らしいものよ。これは『ゆいこく』という曲だ。もう一つは『くせこゆくはら』といあう曲だ。唐の皇帝が弾いた時、瓦が砕けて雪が降った、という謂われのある曲だ。だがこの国ではまだその様なことは無かった」 ふうむ、と帝はほとほと感心する。「俊蔭は、その昔から進士と秀才の二度の試験で、その才を示してきた。素晴らしい者である。とは言え、学問においては、俊蔭を凌ぐ者は居る。だが琴に関しては、今見た通りだ。俊蔭に勝る者は居ないだろう」 全くだ、と周囲に居た者もそれには納得した。「俊蔭、そなたぜひ学士ではなく、東宮には琴を教えてくれぬか。東宮はこう言っては何だが、わしの子ながら、素晴らしい才能の持ち主だ。心を入れて打ち込み、そなたの持つ全ての曲を東宮に伝授したなら、そなたを公卿の身分に取り立てよう」 帝はそう言って俊蔭に命じた。 だが俊蔭はそれに申し立てをした。「私はまだ十六の歳に、父母のもとを離れて、唐へと渡りました。嵐や波に流され、知らぬ国にうち寄せられました。戻ってきたら、父母は既に亡く、誰も私を迎える者はありませんでした。昔、帝のお言葉にかない、様々な御厚意の上で遣唐使となった私です。しかしその果てにあったものは… 思い出すだけで、悲しくなります。失礼になるのは承知の上で、ここはお断り申し上げます」 そう言って彼は宮中を退出した。 それ以来、俊蔭は出仕することもなく、官位も辞して、三条の末の京極大路に広く趣のある家を建てて、娘に琴を習わせることだけに心を打ち込んだ。 娘は一度で一曲を覚えてしまう程の者で、一日に大曲を五、六曲は習ってしまっていた。彼女が掻き鳴らす琴の声は、父に勝る程のものであった。 さてそんな風にして彼女が琴を父から習い始めてから暫く、歳が十二、三になる頃から、容貌の方も際だってきた。 そうなると、周囲にも次第に噂が立つようになった。 帝や東宮は文を送ってくる。上達部や皇子達からも当然であった。 だが俊蔭は誰の文にも返事をさせず、皇子や上達部に至っては、見もしなかった。 だが俊蔭自身は、こう帝には返していた。「娘の行く末については天道にお任せしております。その天道に掟があるならば、国王の母とも、女御ともなるかもしれません。無ければ仕方がありません。山賎や民の妻になる、それもいいでしょう。私は貧しく零落した身です。どうして高い身分の方々と交わりができましょう」 困ったものだ、思いながらも帝は俊蔭を、もし気が変わったら、とでも思ったのだろう、通りの良い治部卿兼宰相の役を与えておいた。 俊蔭はそれから亡くなるまでずっと娘に琴を習わせることしかしなかったという。 *「これは尚侍が見るべきものだな」 帝は仲忠にそう言った。「はい。戻りましたらぜひ母上に」「しかし長いものだ。この夜長にも読み尽くせそうにない。これからはこの草子などは自分で読むこととしよう。そなたは歌集や日記などを読んでおくれ。おおそうだ、十二月の仏名会の後にでも」 は、と仲忠はうなづく。「そなたも三日間も昼夜通して講師を勤めたから疲れたであろう。…ところで東宮」
2007.10.28
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「この山の七人は、残った業も尽きることであろう。兜率天に帰るがいい」 はっ、と七人は顔を上げた。「そして日本のそなた。そなたは以上の様な訳でこれからは幸福になるだろう。そしてこの七人のうちの一人を、孫に得るだろう」「私の、孫…」 俊蔭は思いも掛けない言葉に唖然とする。「その孫は、人の腹に宿る様な者では無いが、これも何かの縁である。その者により、そなたの末は、豊かな報いを受けるであろう」 その場に居た八人は皆、仏を拝み奉った。 俊蔭はこの琴を仏と菩薩に一つづつ渡した。するとあっという間に二人は雲に乗り、風に靡いて戻って行った。その時には天地も震えた。 この様にして、俊蔭はもう日本へ帰るべき時だ、と考え、七人に一つづつ琴を渡した。 七人は涙を流して別れを惜しんだ。「とてもここを離れがたいのですが…」「おお、それは我々とて同様。我々にせめてできることは…」 七人は音声楽でもって、孔雀が彼を渡した川まで送った。「我々は日本まであなたをお送りしたいのだが、残念ながらそれはできない。ですからせめて」 そう言って印を結び、呪文を唱える。 あ、と俊蔭は声を立てる。彼等はその手に傷をつけ、その血で琴に書き付けたのだ。 りゅうかく風。 ほそお風。 やどもり風。 山もり風。 せた風。 花ぞの風。 かたち風。 みやこ風。 あわれ風。 おりめ風。 その様に十の琴を名付け、七人は戻って行った。やがて琴は吹き上げる風に巻き上げられて行った。 俊蔭は来た道を戻り、最初に出会った三人の元へとたどり着いた。「…おお、よくお帰りに」「…様々なことがありました」 そう言ううちに、風が天女の名付けた二つも含めた十二の琴が名を付けられなかった白木のものを加え、彼の前へと降りて来る。「…今までお世話になりながら、何もできずに」「いえいえ、楽しい日々でした」「せめてこれを」 俊蔭は白木の琴を彼等に渡した。彼等が喜んだことは言うまでもない。 そして俊蔭はようやく日本へ帰る気になり、まず波斯国へと渡った。 その国の帝や后、そして皇太子にこのことを一つづつ報告すると、帝は非常に驚き楽しみ、俊蔭を呼んだ。「この琴だが、まだその音が馴染んでいない様に思える。しばらく弾き鳴らしていくがいい。他国の者とはいえ、既に国を離れて久しいだろう。この国に居るのなら、わしが便宜をはかってやろう」 それは、と俊蔭は返した。「…私は日本に、既に年老いた父母がおります。ですがそれを見捨ててこの様に彷徨い来てしまいました。きっと今は亡くなり、荼毘にふされ、既に塵や灰となってしまっていることでしょう」「だったら尚更」「私はせめて、その白い屍だけでも見たいのです。見なくてはならないのです。…ですから、せっかくの仰せですが…」 そうか、と帝は非常に哀れに思い、帰国を許した。 波斯国の交易船に乗り、帰途についた俊蔭が日本についたのは、三十九の歳。日本を出て既に二十三年の月日が流れていた。 父は亡くなって三年、母に至っては五年になるという。 俊蔭は嘆いたが、そうしたところで父母が戻ってくる訳ではない。三年の喪に服し、それからようやく朝廷に帰国の報告をした。「おうおう、亡くなった者も多い中で、よく帰ってきたものだ」 と帝は彼の帰国を喜んだ。 俊蔭が長い月日の間にあったことを報告すると、帝は哀れに思ったり、興味深く聞き、彼を式部少輔の役につけた。殿上も許し、東宮の学士に任じた。「学問に道については俊蔭に任せる。順を追い、東宮の才に従って教え、治世のことも心配の無い様にしてくれ」 すると、その様に帝から頼りにされ、容貌も有様も全てが人より優れている俊蔭には「うちの娘を」と持ちかける者が一気に来た。 しかし当の本人は、仏に伝えられた、前世の淫欲の罪を思い、慎んで用心していた。 そのうちに、それでも一人、一世の源氏にあたる女性に出会った。心映えの優れたひとだったので、この人なら、と俊蔭は北の方とし、女の子を一人儲けた。 ようやく訪れた穏やかな幸せに、俊蔭は妻も子もどちらも非常に可愛がった。 やがて位も上がり、式部大輔となり、左大弁と掛け持つ様になった。 そしてその頃から、娘の才能が際だってきたのだ。
2007.10.21
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山の主はそう言うと、二つ目の山に俊蔭を連れて行った。「蓮華の花園からの客人なのだ。我等が母上のことを思いだし、つい懐かしく、そなたにも引き合わせたくて連れてきてしまったよ」 俊蔭の事情も説明すると、二つ目の山の主も感動し、他の兄弟に会わせよう、という話となった。 そして次々に同行は増え、とうとう七つ目の山へと入った。 そこの風景はそれまでの六つとは他と異なり、地面は瑠璃でできていた。 花を見れば香りが非常に良いし、紅葉を見れば色が格別美しいし、浄土の楽の声が風に混じってすぐ近くに聞こえてくる。 そしてその花の上では鳳や孔雀が連れだって遊んでいる。 そこへ俊蔭と、六人が連れだって入って行くと、七番目の山の主は喜んだ。「久しぶりですね。どうなさいましたか」「実はこの日本の方が、母上の蓮華の花園からいらしたのです」「おお、それは」「母上絡みということで、ついきょうだいを誘ってここまで来てしまいました。清原俊蔭どのです」「ああ…」 七番目の山の主は、俊蔭に向かってゆったりと微笑みかける。「我々は、天上から来た方より生まれし者達。母上はこの山に下ると、一年に一人、我等をお産みになって、そのまま天上にお帰りになられた。我等は母の乳房も知らぬまま、花の露を養いとして受け、紅葉の露を母の乳として嘗め、今まで生きてきたのである。…母は天上に帰ってのち、天つ風につけてもこちらへはいらっしゃらない。我々が居ることなど知る者もなく、我々は…」 そこで一度主は言葉を切り、ふっと視線を逸らした。「…風に乗りて、母上が東の花園に春と秋にお下りになると聞き、どれ程嬉しかったか。その花園より、と聞けば、それは… 決して罪深い普通の人間が来られる場所ではないのだが、…それでもあなたからはその場所の香りがする。…私はあなたを歓迎したい」 そして彼等はそれから八つの琴を皆で弾き合わせ、七日七晩それを続けた。 琴の音は高々と響き、仏の国まで届いたという。 そしてその国では、仏が文殊菩薩にこう告げた。「ここより東、唐よりは西に、天女の植えた木の鳴る音がするのだが」「はて、それは」「判らぬ。故にそなた、見てきてはくれぬか」 文殊菩薩は獅子の背に乗り、あっという間にその地にたどり着いた。 驚く彼等の前に、文殊は降り立った。そして俊蔭にこう問いかけた。「そなた達は何処のどういう者達だ」 俊蔭以外の七人は、文殊の前に頭を下げて答えた。「我等は昔、兜率天の内院に住んでいましたが、いささかの罪を犯した罰として、とう利天の天女を母として、この世界に生まれ変わった者です。この七人、普段はそれぞれ別々の山に住み、会うこともありません。そんな時に、この方が、母の降りる場所から来たということで、懐かしさに集まり、琴を弾き鳴らしていたのです」 そうだったのか、と文殊はうなづくと、再びあっと言う間に仏の元へと戻って行った。 文殊が報告すると、仏はこう言った。「私も行こう」 言うが早いが、仏は文殊を引き連れ、雲の輿に乗った。 近づくと共に、流れる川はいつもと違って荒れ狂い、山自身も大きく震えた。大空もそれは同様だった。 雲の色、風の声が変わり、春の花、秋の紅葉、その他様々な美しいものが、季節を問わず咲き乱れた。 その様子に、俊蔭達もいつも以上に声高く琴を弾いている中に、仏が渡ってきた。雲からそのまま孔雀に乗り、花の上を飛び回った。 その間俊蔭達は、琴に合わせて阿弥陀の名号を一心不乱に念じていた。 七日七晩その様なことを続けた後、仏は彼等の前に姿を現した。「そなた達は昔もその勤めは熱心であり、犯した罪は些細なものだった。それ故兜率天の者として生まれたのだ。 しかし先には、呆れるほどあさましい、怒りや恨みというものを見せたものだ。それがそなた達をこの穢土へと生まれ変わらせたのだ。そしてその業がようやく尽きたのだ。 また、この日本から来た者は、生まれ変わり生まれ変わりしても、永劫人の身を受け続ける者なのだ。前世で色欲の悪行がはかりしれない程酷かったのだ。それ故にこの者は、輪廻した一人の腹に生まれ変わり生まれ変わりして八度も宿り、二千人その各々の腹に五度又は八度宿る筈だった。 しかし、昔大そむはむなという仙人が居た。物惜しみをし、無慈悲な国王のために滅んだ国が滅び、人々が疲れ果てた時期があった。その時、この仙人が七年の間、莫大な数の衆生に手持ちの穀を与え、尊勝陀羅尼を人々に伝えたという。 その時に、この日本から来た者の前世が、三年心身を慎み、その仙人の食事の世話をし、水汲みをした功徳で、三悪道に輪廻し生死を繰り返す罪が消滅して人間となることができたのだ。尊勝陀羅尼を念じる人を供養したからだ。 現在再び人間に生まれ変わることも難しいことではあったが、今、この山にて私と菩薩を驚かせ、怠けおこたり無慈悲なあの連中に良き心を持たせたことはなかなかのものである」
2007.10.21
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それからというもの、俊蔭は清く涼しい林に一人、琴の音を有る限りかき立てて過ごした。 やがて三年の年が過ぎ、その山から西に当たる花園へ移り、そこで琴を並べた。 大きな花の木の下で、故郷日本のこと、父母のことなどを思い出しつつ、特別な音色の二つの琴に手を伸ばした。 春の日はのどかで、山を見ればぼんやりと霞んで緑に、林を見れば、出だした木の芽がみずみずしく、花園は花盛り、何処を見渡しても生き生きとした素晴らしく感じられた。 朝から昼までずっと琴を弾き続けるうちに、その声が大空にまで響いたのだろうか、やがて真昼頃、紫の雲に乗った天人が七人降りてきた。 俊蔭はそれを見るなり伏し拝んだが、演奏は止めることはなかった。 天人は花の上に降りて来て言う。「そなたはどの様な素性の者か。ここは春には花を見、秋には紅葉を見るために我等が通う所であって、自由に飛ぶ鳥すら来ることは叶わぬというのに… もしやそなた、ここより東に居る阿修羅が預かった木を得た者ではないか」 俊蔭はそれを聞くとうなづいた。「はい。私はその木をいただいた者でございます。この様に仏のいらっしゃる所とはつゆ知らず、ただ素晴らしい場所とだけ思い、ここ数年居させていただきました」「そうであったか」 天女は微笑んだ。「そなたがそういう者であったなら、ここに住まうも当然であろうな。天上の掟により、そんたはこの地上で琴の弾き手、その一族の始祖となるべく定められた者なのだ」「何と」「私は些細な罪で地上に降り、ここより西、仏の御国からは東にあたる場所に七年住んだ。その間に七人の子が生まれた。我が子等は極楽浄土の楽において、琴を弾き合わせる者どもである。そのまま地に留まっているはず。そなたは今からそちらへ渡るが良い」「何故にですか」「その者どもの手を受け取れ。そして日本国へ戻るが良い」「帰ることができるのですか」「何を言う」 天女はふわりと笑う。「今までも帰ろうと思えば帰れたことだろう。居続けたのはそなたの琴への執心が為。だがそれも我が子等の手を引き取れば、鎮まるであろう」 おおそうだ、と天女は三十の琴を見てつぷやく。「このうち、特に声が素晴らしい二つに名を付けようではないか。一つ『なん風』。そしてもう一つを『はし風』とせよ」 俊蔭は思わずその二つを手にする。「ただその二つの琴は今から行く山の者達の前のみ鳴らし、彼等以外に聴かせることはならぬ」「何故に」「それはそなたが考えるが良い。我等、この二つの琴の音のする所、人間の住む世界であれ、迷わず訪れるであろう」 俊蔭は天女の言葉に従い、花園より西を目指して歩き出した。 やがて大きな川があったが、突然現れた孔雀が彼を渡してくれた。 三十の琴は、既に例の旋風が送っているはずだった。 更に西へ行けば、今度は谷があった。谷は龍が出てきて渡してくれた。 険しい山は、仙人が出てきて越えることができた。 虎狼が出る山には、象が出てきて越えさせてくれた。 そして更に西へ行ったところで―――やっと七つの山に七人の天女の子の住む場所へとたどりついた。 最初の山には、旃檀の木陰に歳三十くらいのひとが林に花を折り敷いて琴を弾いていた。 彼は伏し拝む俊蔭に気付くとすぐには声も出せない程驚いた。「…あなたは」 俊蔭は即座に答えた。「私は清原俊蔭と申します。…様々な経緯を経て、天女の仰せにより、ようやくここまでやって参りました」「…何と。そういうことがあったのですか。あの蓮華の花園は、私の母が通って来る場所です。日本から来た只人とは言え、あなたはそちらからいらした。それだけでも、私にとっては仏がいらっしゃるよりも貴いことに思われます」 そう言うと、彼は俊蔭を自分と同じ木の下へ導いた。「さあ今まであったことを、ぜひお話下さい。私はとてもあなたという人に興味があります」 俊蔭は乞われるままに、そう言うと日本から出たこと、流れ着いたとこ、阿修羅との出会いのこと、そして天女にこちらへ来る様に言われたことを語った。 その時例の旋風が、琴を運んできた。 天女の子である山の主は、一つ一つその音を確かめる。「おお… 何と素晴らしい」 感に耐えない、という声を漏らす。「どうでしょう。これを持ち、私のきょうだいの元へとご一緒して下さいませんか」「きょうだいの」「私達は七人きょうだいです。皆琴を愛する者です。きっと喜ぶでしょう」
2007.10.14
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「我もまた四十人の子、千人の眷属は愛しい。気持ちが全く判らない訳ではない。だからお前の命は助けてやる。直ちに我等が前を去り、我等が為に大般若波羅密多経を書いて供養するのだ。それを約束するならば、我はお前が日本へ、父母の元へと帰るための便宜をはかろう」 俊蔭はそれを聞いてほんの少し心が動いた。だが次の瞬間、彼は阿修羅の前に伏し拝んで頼み込んでいた。「私はその父母の元を去ってここまでやって来てしまったのです。日本国王の仰せのもとに、彼等の嘆きを振り捨ててやって来たのです。父母は私が旅立つ時、血の涙を流してこう言いました。『そなたが不孝の子なら、私達に長い嘆きを与えるだろう。孝の子なら、我々の嘆きが浅いうちに戻っておいで』と」「だったらそうしたがよかろう」「できません」 俊蔭は悲痛な声で答える。「一緒の船で来た者達を皆死なせてしまい、私だけが生き残っている。そして一人この知らぬ世界を彷徨い、既に十年近くになりました。既に私は不孝の子なのです。その罪を免れるためにも、あなた方の倒された木のほんの少しでもいい、頂いて、その琴の音を聴かせることで、長い間苦労させた父母への不孝の罪の償いとしたいのです」 すると阿修羅は先程以上の怒りを見せた。「お前の子孫代々の命に換えようと言ったところで、この木一寸も得ることなぞできないぞ」「何故ですか」 必死で俊蔭は問いかけた。「教えてやろう。この木は、我が父母が仏になった日に天稚御子が下られて三年掘った谷に、天女が降りてきて音声楽をして植えた木なのだ。天女は仰った。『この木は、阿修羅の万劫の罪が半ば過ぎた時に、山より西を指した枝が枯れることでしょう。その時に倒して、三つに分けて、上等の品は仏を始め、とう利天に至るまで奉りなさい。中位の品は、前世における親の供養のためにお使いなさい。そしてその残りを、私の行く末の子のために使って下さいな』 とな。そしてこの阿修羅を山守となされ、春は花園、秋は紅葉の林にあの方々は下られてお遊びになられるところなのだ。人の子たるお前ごときが容易く来られる場所でも無いのだ。ましてこの長い年月、我々がこの木を大切にして成長させたのは、何とかして万劫の罪を消滅させたい、自分の様な罪深い身から逃れたいと思うがこそ。育てたからと言って我等には何の得も無い。それをどうしてお前にほんの少しでも与えることができようか!」 そう言うと、阿修羅は俊蔭を一気に食らおうとした。 と、その時だった。 にわかに大空が暗くなり、車の輪の様な大粒の雨が降り出し、雷が鳴りだした。 そしてその間を縫う様に、龍の姿が。「待て!」 その背には一人の子供が。「阿修羅よ、これを見るがいい」 黄金の札を渡して去った。「…天の御使いが、何を…」 阿修羅はそうつぶやきながら、札を見る。途端、その表情が変わった。「―――三つに分けた木の、残りの部分は、日本から来た俊蔭という者に渡すのだ―――だと? 何と」 まさか、と阿修羅は俊蔭の方を見る。「それではお前―――いや、あなたは」 俊蔭は何を言われているのかよく判らないままに、ともかく食われるのは回避できたらしい、と納得できた。「ああ何たること。あなた様があの天女の末裔でございましたか」 そう言って阿修羅は七回彼に向かって伏し拝んだ。「私が… 天女の末裔?」 驚く俊蔭に、阿修羅は慌てて説明する。「だったらもっと早くそれを言って欲しかった! この木の上と中の品は、ほんの少しの木片でも、何でもない土を叩くと、無限の宝物が湧いて出てくるものです。そしてあなたに与えよ、との残りの部分は、その声の素晴らしさによって、永遠の宝となるものです」「声を―――」 それまでのことなど忘れた様に、俊蔭の表情がぱっと輝いた。 阿修羅はその「声の木」を取り出すと、割始めた。 やがてその音を聞きつけたのだろう、天稚御子が現れ、木を琴の形に三十、形作り、再び天へ戻っていった。 次に天女が音声楽と共に降りてきた。そして木に漆を塗り、織女に琴の緒を縒ってすげさせると、やはり天へと戻って行った。「三十も―――」 その様子を俊蔭は呆気にとられて見ていた。ああこの琴をこの西に当たる旃檀の林で弾いてみたい。そんな思いで心が一杯になり、すぐにでも飛んで行きたい気分だった。 その思いを聞き届けたのか、突然の旋風が、三十の琴と、俊蔭をその林へと飛ばしていった。 阿修羅はその様子を感慨深そうに眺めていた。 林に移って音を確かめると、三十の琴のうち、二十八までは同じ声だった。 だが二つは特別なものだった。それを弾くと、山が崩れ地が割け、七山が一つになって揺さぶり合うのだ。
2007.10.14
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俊蔭が日本に居た頃、最も好きなのは琴の琴を弾くことだった。 その琴を彼等は弾いていた。 毎日毎日、琴ばかりを弾いていた。 俊蔭は彼等の腕に、曲に、すぐに心を奪われた。「教えていただいていいでしょうか」「構いませんよ」 三人は応じた。 俊蔭はそれからというもの、彼等について、一つの曲をも残さず全部習い覚えた。 花の露、紅葉の滴をなめて命をつなぎながら、彼は三人とそんな日々を続けていた。 至福の時間だった。 翌年の春から、西の方に木を切り倒す斧の音が聞こえる様になった。「ずいぶん遠い所のはずだけど、よく響くなあ。ずいぶん音の高い木なんだろうな」 そう思いながらやはり琴を弾き、時にはそれに合わせて漢詩を歌ったりしているうちに、三年が経った。 三年経ってもまだその音は続いている。 毎日毎日聞いていると、どうもその音は自分の弾く琴の音にも似通っている様にも思える。 そこで彼は、三人に問いかけた。「ここは天地が一つに見える程、一目で見渡すことができ、他に世界らしい世界は無いと思われますが、何処からか木を切り倒す音がします」「そうですね」 三人はさほどの頓着も無い様にうなづいた。「でも木は山にあるものです。山は何処にあるのでしょう」「ここから見えない何処かにはあるのかもしれませんね」「琴の音に良く似ているのです」「どうしたいのですか、あなたは」 答えをうながす様に彼等は問いかけた。「この木のある場所まで出掛けて行って、琴を一つ作る分だけを手にしたいのです」「では、ここを離れるのですか」「随分とお世話になりました」「いいえそんなこと。我々こそあなたが一緒で楽しかった」 別れは悲しかったが、俊蔭はその地から立ち去った。 彼は斧の音が聞こえる方へと足を進めた。今までに無かった程の強い力を振り絞り、海、河、峯、谷を越えてその年は暮れていった。 翌年もその調子で過ぎた。 そして旃檀の林を出てから三年目、大きな峯に上って見渡すと、頂上が天につく程の険しい山を遠くに見た。 俊蔭は力を奮い起こして、足を速めた。 やっとのことでたどり着いたその山には、千丈の谷の底に根指し、末は空につき、枝は隣の国に生えている桐の木を切る様な者―――阿修羅が居た。 その頭に生えた髪は、剣を立てた様。 顔は炎のごとく。 足や手は鋤や鍬のごとく。 眼は大きくぎらぎらと光って、まるで金椀の様だった。 だがそんな彼等にしても、女や翁や子供や孫といった者が居て、皆が一緒になって木を切っている。 彼等は阿修羅の眷属なのだ。俊蔭は悟った。 ここまで来たのだ、命をかけてでも、と心を決め、彼は阿修羅達の中へ進んで入っていった。 人間だ。人間だ。眷属達が騒ぎ立てる。阿修羅自身も気付いて驚いた。「何だお前は、何処のどいつだ」 そう俊蔭に問いかけた。 さすがに怖かったが、俊蔭はしっかりした声で答えた。「私は日本国王の使いで、清原俊蔭という者です。この木を切る音を聞いて探し歩いてもう三年になります」「それだけか」 阿修羅の表情が険しくなる。「お前とどういう訳で、こんな所へ来たのか。来ることができたのか。ここは阿修羅の罪業を償うべき場所。萬劫の罪を償うまで、虎、狼、いや虫けらとても、人という人は側に寄せることは無い。そして我等は、そんな山に来る獣は食い物として良いとされておる。ここはそんな所だ」「…そうだったのですか」「それも知らずにやって来たのか! 一体何という! 言え、何故にお前は人の身を持ってここまでやって来られたのか。速やかに話せ。さもなくば」 阿修羅は眼を車の輪の様にくるくるとさせて睨み付け、歯を剣の様に鋭く湯むき出して怒りを露わにした。 俊蔭もさすがにそれには自然と涙が流れた。「何と勿体ない! …無論様々なことがございました」 俊蔭はこの山へやって来るまでのことを話した。炎で焼かれたことも、獣には剣を抜いたことも、毒蛇に立ち向かったことも話した。「それだけではございません」 更に、国から出てきた時のこと、その時の父母との別れに至るまで切々と話した。 阿修羅はそれには感じ入った様だった。「我等はその昔の罪の深きにより、阿修羅と呼ばれる者となった。慈悲の心など持ち合わせの無い者だ。しかしお前のその孝心にはなかなか心打たれるものがある」 はっ、と俊蔭は顔を上げた。
2007.10.07
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この様にして時も経ち、暁の頃帝が言った。「この草子がこんなに感動させるのも無理は無い。この草子を書いた母皇女は、昔有名な能筆で家人だった。嵯峨院の妹君で、先々代の女御から生まれた方だ。その様な方が、その折々に書いておいたものなのだから、見事なのだ。仲忠よ、これはぜひ女一宮に見せたのか?」「一応は」 仲忠はうなづく。「ただ、見つけたばかりのものなので、宮は中身は見て無いのでは。題名くらいしか知らないでしょう。いつもいつも『今夜こそは』と構えている様ですが」 すると帝はくす、と笑う。「これは宮にそなたが読んでやるといい。…さてまあこっちは置いて…」 帝は別の草子を示す。「こちらを」 それは俊蔭自身の日記だった。 遣唐使に任命され、京から筑紫へ出発し、唐へ渡った間のことから始まっている。 その間の様々な数奇な出来事。 やがて京に戻ってから北の方を貰い、娘のことを心配するその折々に歌がある。 これは少し読み出しただけでも、その母の草子より非常に興味深く心を打つものであった。 帝は一つを途中まで読ませたところで止めた。「この俊蔭の日記は尚侍が見るべきものであろう。そなたの母には見せたのか?」「いいえまだでございます。長いものではありますし。しかし仰せの通り、これは母に見せましょう」 そう言って仲忠がしまいかけると、帝はそれを制した。「いや、終いまで読みなさい。実に興味深い日記だ」 その通り、それは非常に素晴らしいものだった。 *** その昔、清原俊蔭というひとは、小さな頃から様々な逸話には困らない人だった。 格別両親が教えもしないのに、七歳の時に高麗人と会った時に、父親の様子を真似て漢詩を作り、応酬した。 それを聞いた世間の人々は俊蔭を賞賛した。 彼は十二の歳に元服した。 帝はその時、唐に三回渡った文章博士の中臣門人というひとを召して、難しい題を出させて俊蔭を試した。 すると彼は、何度も受験させてきた学生が、手つかずのまま、まごついているところを、さらっと素晴らしい文章を作ってみせた。 天下の人々は皆意外だ、と驚き感じた。 彼はこの時最年少の俊蔭一人が進士に合格した。 また次の年、同じように秀才となる題を出され、それにもすらすらと答えた。 「方略策」への「対策」が非常に素晴らしかったことから、六位相当の式部丞に任命された。 世間の人々は、俊蔭の才にまず驚いたが、彼の姿形にも驚かされた。 さて。 やがて当時の帝は特に才ある人を大使副使として、遣唐使にした。 この時俊蔭は副使に任命された。十六の時である。 俊蔭の父母は悲しんだ。 二人と無い子である。大切な目でも二つあるが、この子は一人しか居ない。その子を失うこととなったらどうしたものか。 たった一人の子。しかもその子の出来ときたら、とてつもなく素晴らしい。ちょっと帰りが遅いだけでもなかなか帰らない辛さ、無事帰ってきたことの安堵に涙を流す程だったというのに。 そんな子が居なくなることを考えることも恐ろしくも悲しかった。 出立まで父母は彼と額を付き合わせて共に別れに涙を流したものだったという。 それでも帝の命に背くことはせず、俊蔭は舟に乗った。 しかしそれが不運の始まりでもあった。 唐に向かった舟三艘のうち、二艘は嵐でもって沈んだ。 俊蔭の乗った舟は、幸いなことにそれは免れたが、唐へは行かず、波斯国の方へと流されてしまった。 海岸に流れ着いた時、彼は涙を流して観音の救いを祈った。 すると渚に不意に鞍を置いた馬が出現した。俊蔭は観音の導きに感謝し、その使いであろう馬を七回臥し拝んだ後、鞍にまたがり駆け出した。 やがて馬は清く涼しい林へと彼を連れていった。 その林の中、旃檀の陰に、虎の皮を敷いた三人のひとが並んで琴を弾き遊んでいた。 馬はそこに俊蔭を下ろすと、そのまま消え去った。 俊蔭は林の元に立ちすくんだ。 旃檀の林。香り高い仙境である。白の白檀、黒の紫檀、赤の牛頭旃檀、それらの香りが林全体をほうと包み、佇む俊蔭を夢見ごちにさせた。 やがて三人が俊蔭に気付いた。「…そなたは?」 俊蔭ははっとして答えた。「私は日本国王の使いで清原俊蔭という者です」 そしてそれまであったことを話すと、三人は彼に同情し、並んでいた木の陰に同じ皮を敷いて座らせた。「何って気の毒な旅の方でしょう。しばらくここにいらっしゃい」 俊蔭は言われる通りにそうした。
2007.10.07
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