うきよの月 0
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その三の二のニ 仲頼の三条殿来訪 翌日のことである。 その日、左大将は中の大殿で娘の琴を楽しんでいた。 中君なかのきみから八の君、ちご宮までの姉達もそれをうっとりとして聞いている。 女達は音の流れを邪魔しない様に、しかしそれでも話をすることを止められない。「…やっぱりあて宮の琴は格別ね」「羨ましいわ。どうしたらあんな風に弾けるのかしら」「でもあて宮が稽古とか熱心にしているのを見たことがあって?」「私は無いわ」「私も」「才能って素晴らしいけど… 残酷ね」 さざめく様な小声が、御簾の中で交差する。 と。「四郎、どうしたの」 中君が弟の姿を認めた。「お久しぶりでございます、姉上。父上、少将仲頼が参りました」 息子の一人の声に、ああ、と左大将正頼は顔を上げた。と同時に琴の音も止む。「仲頼が戻ってきたのか、しばらく噂にも聞かなかったが、遊び歩いているうちに斧の柄も朽ちてしまったらしいな」 ほほほ、と女達の笑い声が響く。「一体何処へこの一月行ってきたのやら」 そう笑いながら、呼び寄せる様に息子に命ずる。「ここでお会いしよう」 そう言うと、簀子すのこに御座おましを用意させ、招き入れた。 御簾の向こうには女達も控えている。「お久しぶりでございます」 仲頼は深々と挨拶をする。「どうしたのかと思っていたよ。ここの所、内裏でも姿を見ないし、うちにも来ないし」 皆寂しがっていたぞ、と左大将は軽く皮肉めいた口調で言う。「大変恐縮にございます。粉河こがわの寺に参ろうと存じまして、紀伊国に行きましたところ、不思議な方と巡り会いまして、やっと昨夜戻ることができました」「おや、その不思議な人とはどなたのことかね。わしにはとんと思いつかないが」 ほら来た、と仲頼は思った。 仲頼ら内裏の人気者が揃って吹上へ行ったことは、表沙汰にはなっていないが、周知のことだった。「かの国の政人まつりごとびと、神南備種松かんなびのたねまつという者の孫にあたる源氏の君が、その途中に住んでおいでなのです」「ほぉ」「部下の松方が居りましたのを見つけ、立ち寄ったころ、あるじの君が一日二日、馬や牛を休めてから帰京なさいとお止めになりましたので」「だが一日二日では済まなかった様だな」「それはもう。世に言う西方浄土に生まれた様な気持ちになる場所です」 ほぉ、と更に周囲は話に耳を傾ける。「四面八町を金銀瑠璃など目の眩む様なもので造り磨き、周囲には千もある供養塔や、金堂や講堂、その他色々な建物が限りなく立ち並び、孔雀や鸚鵡おうむも鳴かんばかりの、実に荘厳なところに住んでおいでです」 女達の口からもため息が洩れる。「…でまあ、実際のところ、見たものをそのまま申し上げることもできませんので、あちらの様子を少しでもお解りになっていただこうと思い、本日はあちらのお土産を持参致しました」 なるほど、と左大将はうなづく。「それは楽しかったろうに。確かにその昔、神南備かんなびの女蔵人から帝の御子がお生まれになっていたとは聞いていたが。そう、あの女蔵人は――― 父親の身分は低かったが――― 非常に品良く美しく、ちょっとした気配りも細かく、心憎いまでにゆかしいひとだった」「出立する前に立ち寄った右大将どのもそうおっしゃってました」「さもあらん」 ははは、と口を大きく開けて左大将は笑う。「兼雅かねまさどのはまだ子供だったろうに。さすが天下の好き人と言うべきか」 いやいや、と扇をひらひらと振る。「本当に素晴らしい人であったから、子供の心すらときめかせたのであろう。しかしここ数年来、噂も聞かなかったのだが、その若君はどんな風にご成長なさっていたのかな」「まことに素晴らしい方です。姿形はともかく、どことなく侍従仲忠と似通ったものを感じました」「しかし、琴ばかりはそうはいかないだろう?」「いえ、それが、琴の方もなのです」「何」 え、と女達も思わず身を乗りだした。「仲忠と言えば天下の名手。帝すら彼に弾かせるのは至難の業と言われている。その彼に勝るとも劣らないというのかね?」 そうよそうよ、と女達も小さな声で抗議する。何と言っても仲忠びいきの者がこの場には多かった。「少なくとも聞いた自分の耳にはそう感じ取ることができました。仲忠がその場では弾くことを拒みましたので、比べることはできませんでしたが…」「ふむ。誰と誰が一緒だったのかね?」「仲忠と行正を誘いました。他も近衛司人の中から選んだ者ばかりで」「何とまあ、贅沢な旅だったのだな。それだけの者が集まって何かと遊んだとは! 道理で内裏も閑散としていたものだ。帝も話をお聞きになれば悔しがられるのではないかね?」 恐縮です、と仲頼は顔を赤らめる。「しかしその吹上の宮というところは何というか、凄いところの様だな」「いやもう、本当に凄いです。種松という男は大層な物持ちです。そうそう、これです」 そう言って、仲頼は持参した馬二頭と、鷹二羽、それに旅籠はたごを背負った馬の銀細工を左大将に見せた。「ほぉ、これは面白い」 左大将は細工の馬を手に取ると、あっちに返しこっちに返し、どうなっているのかと興味津々の様子である。「おい、ちょっとお前達の婿君や子供達も呼んでおいで。面白いものがあるからと」 早速呼ばれた男達も、特に子供達が、ひとりでに馬が動くからくりに目をむいていた。 仲頼はやや得意になって言う。「これは頂いたものの千分の一に過ぎません。こういう玩具の様なものだけでなく、実用品も色々ありました。いやもう、何の気なしに都を発ったのですが、思いがけない物持ちになって帰ってきてしまいました」 すると左大将は笑い、「それはまた羨ましいね。わしも近衛府の役人になって行ってみたいものだ」 いやもう、と仲頼は照れるばかりだった。 【和菓子/京都】【わがし/きょうと】【送料無料】和三盆糖のお干菓子 ゆうすい(千代箱)ゆうパケット発送のため、同梱不可【楽ギフ_包装】【楽ギフ_のし】【楽ギフ_のし宛書】【楽ギフ_メッセ】【楽ギフ_メッセ入力】
2017.11.27
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その三の二の一 母北の方の微妙な不安 数年、そんな日々が続いた。 仲忠はともかく、彼女は息子以外の誰とも会わず、ただ琴を引き、少しばかりの身の回りのことを覚えながら、自然と共に生きていた。 時には動物達が琴の音に惹かれて来ることもあった。そんな時彼女はひどく穏やかな気持ちになったものだった。 そんな二人だけの世界が終わったのは、それから五六年も経った頃だろうか。 仲忠は日々山の中を駆け回っているせいか、日には焼けているが、肢体もすんなりとし、衣服さえ整えれば、昔の若小君にも似ている様に思われた。 既にその頃、仲忠は母の教える琴の全てを収得していた。だが自分の手とはやや調子が違うな、と彼女は感じていた。 ある日、東国から数百の兵がやってきた。 何かしら現在の政治に不満がある者達が徒党を組んできたのだろうが、彼女はそんなことは知らない。 ただもう、都へ入る途中にあるこの山にまで入り、食べ物を求め、目に入る様々な獣や鳥を殺しては食う。彼女はそれを直接見た訳ではないが、いつもと違う山の様子に怯えた。 人の怒号、逃げる鳥の羽ばたき、獣の叫び声。 彼女には初めてのものばかりだった。 逃げよう、という息子に向かって彼女は首を横に振った。怖くて、立つこともできなかったのだ。「さっき見たんだけど、多くの男達が、もうじきやってくるんだ。手には刀や弓矢を持ち、火を掛けようとする奴もいる。…このままでは、僕等が危険になるよ」「母を置いて、お前は逃げなさい。母は動けません」「では僕が母様を背負うから」「いいえ、そんなことはしてはいけません」「ではどうしろと!」 仲忠が自分に向かって怒ったのは、その時だけだ、と彼女は記憶している。「吾子あこよ」 彼女は仲忠に言った。「母は怖くて、足が竦んで立てません。…そなた、その奥から『なん風ふ』を持ってきてはくれませんか」 「なん風ふ」と「はし風ふ」という琴がある。 それは「ほそお風ふ」などとおなじく、俊陰が外つ国から持ってきたものだが、彼は娘にこう言い残した。「今が一番幸せだ、と思った時、もしくは不幸だと思ったとき―――」 俊陰はひどく辛そうな目で娘を見たものだった。「どうしようもない禍がお前を襲い、生命の危険があった時――― あるいは、獣を友にする様な生活の中で、正に食い殺されそうになる様な時――― 兵に殺されそうになった時…」 そんな時でなくては、この二つの琴は弾いてはならない、と彼は娘に強く言い残した。 今がその時だ、と彼女は「なん風」を取り出した。 初めて弾くその琴は、ひどく大きく響いた様に感じられた。 いや、実際響いていた。どういうつくりになっているのか、「なん風」から出る音は、「ほそお風」に比べ、大きく、太かった。 七弦琴の、高低幅広き音が、山の木々に反響し、豊かな、しかし奇妙な音の連なりになって行く。 仲忠は「様子を見てくる」と木々に昇って飛び渡っていった。 彼女は弾き続けた。ただひたすらに、大小問わず知る曲を全て。 そうすることで、彼女の恐怖も薄れて行くかの様に思えた。 夜中から始まった独演は、翌日の昼まで続いた。いつの間にか、そこから兵達の気配が消えていた。 何がその時起こったのか、彼女には判らなかった。 正直、今でも正確に理解しているという訳ではない。 兵達が何故気配を絶ったのか、彼等は消えたのか、立ち去ったのか、それとも。 何も彼女には判らないことだった。 ただその時、帝の命で山から聞こえる妙なる音を探索していた兼雅が、彼女達親子を発見したことだけは事実である。 そしてあの「若小君」が彼女を見た時、自分と判ってくれた。 それが彼女には、何よりも嬉しかった。 彼には昔の面影があった。その一方で、仲忠と似ていると思った。 本当に嬉しかった。 彼女は「なん風」への疑問を忘れた。忘れることにした。 やがて仲忠ともに三条の屋敷に引き取られた彼女は、それ以来平穏な日々を過ごしてきた。 仲忠の元服の折、その母である自分の素性も世間に知られることとなった。 右大将の妻として、相撲すまいの節会せちえの還立饗かえりたちのあるじも立派に行う様になった。 息子は十八の歳、侍従となった。やがては右大将家の跡取りとして、そのまま出世して行くだろう、と彼女は思う。 だがその息子は、微妙に周囲の公達と異なっている様に思える。 頭は良い。だが良すぎる。 三条に引き取られ、「あめつち」から読み書きを始めたというのに、元服する頃には「私ですらここまでは判らないよ」と兼雅が嘆息する程の知識を屋敷にある沢山の書から身につけていた。 筆跡も見事だった。宮中の誰もが彼からの文を貰いたがっている。 父の代筆をする時など、用が済んだ手紙を貰いたがる女房があちこちから出たとか。 そして何よりも、楽才が。 うつほ住まいの時、彼女は七弦の琴きんの琴ことしか仲忠にも教えることができなかった。 十二弦の箏そうも六弦の和琴わごんも弾けた。だが肝心の楽器が無かったのだ。 仲忠は父親より少し年下の、仲頼なかよりと行正ゆきまさを師に、他の楽器をも習いだした。すると宮中一の腕を持つ彼等が、あっという間に追い越されてしまった。 夫は無邪気に笑いながら話すが、彼女は少しばかり不安を感じた。そんなに急がなくていいのに、と思った。 かつて自分を養ってくれた時の様に、息子は急いで一人前になろうとしている様に思われた。 だが彼女にはどうすることもできなかった。 急ごうと何だろうが、息子の選んだことである。自分は何もできない。したくても判らなかった。 「姫君として」「奥方として」の物事はそれなりにできるとしても、生きるための知識も知恵も無かった自分が、息子に何を言えるというのか。 今でも、あの頃どうやって食べ物を手に入れていたのか、彼女は息子に聞けずにいる。 昔と違い、大勢の女房にかしづかれる今は、世間を良く知る彼女達からの情報で、それらしき答えを見つけだしている。 だがそれをはっきりとした言葉にしたことはない。するのが怖い。 夫も息子もそのことは触れられたくなさそうだった。 彼女は息子を愛している。だが息子の方もそうなのか、彼女には自信がなかった。 彼女はただ息子からの言葉を待つばかりである。 *「あて宮にも贈り物はするよ。絶対に受け取ってもらいます」 仲忠はのほほんと、だがきっぱりと言う。 彼がそう言うならばそうなのだ。仲忠は他の青年と違い、その点にぬかりはないだろう。 話題を変える。「吹上では楽しかったですか? 文では美しい宮の話が面白かったですよ」「うん。涼さんという方と友達になったんだ」「あるじの君ですね」 仲忠はうなづいた。「僕とは違って、よく焼けた、逞しいひとだったな。渚の院が一番良く似合うひとだったよ」「母はちょっとそういう方は」 彼女は想像して苦笑する。 息子の友達となった青年は、どうやら都の美的基準とはやや異なる姿の様である。「渚の院も、林の院も、鷹狩も、楽しかったなあ」「珍しいですね、あなたがそういうのは」「そうかなあ」「そうですよ」 そう、実際珍しかった。 仲頼や行正との遊びのことを話したとしても、そんな感想が出たことはない。兄弟の約束をした左大将家の仲純なかずみでも同様だった。 彼等が多少歳上のせいか、元々遊びの師のせいなのか、何処か一線を引いている様な気もする。「歳が近いのですか?」「ええ」「それは良かった」「それだけではないんだ。涼さんはね、僕と一緒に砂浜を駆け回るんだよ」「駆け回る。本当ですか?」「本当だよ。涼さんは何かというと吹上の浜をぶらぶら歩くのが好きなんだって。時には漁人と一緒に舟を曳いたりするんだって」 それは珍しい、と彼女は思う。「本当に楽しかった。また会いたいなあ」 そう、本当に珍しい、と彼女は思う。アップル&ローゼスタルト ブーケ Lサイズ
2017.11.27
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その三の一のニ 若者たち帰宅――仲忠を見ては母は過去を思う「ずいぶんと長かったね」 仲忠は宮内卿宅からその足で、桂の別荘へと戻った。「心配かけました。父上。母上はお元気ですか?」「そんなに心配ならすぐさま行ってやるがいいさ。ところでお前、吹上はどうだった?」「文で色々お伝えしたでしょう」「お前の口から聞くのが一番さ」「まあそれはおいおい」「おいおいかい」「一言では言い尽くせません。あ、素晴らしい馬をいただきましたので、それは父上に差し上げます」「馬かい?」「素晴らしい馬ですよ。皆四頭づつもらいましたが、それだけではなく」 細工の馬を渡すと、ううむ、と兼雅かねまさは腕を組んだ。「そういうものをぽん、と土産にできるとはさすが『財たからの王』だ。さてさて他の話は無いかい」「……っと、僕は母上にお土産を渡さなくちゃ」 素っ気なく仲忠は父の元を立ち去った。 *「まあお帰りなさい」 そう言ってゆったりと北の方は微笑む。 透箱や、細工物を渡すと彼女はまあ、と小さく声を立てた。「…こんな、勿体ないわ」「母上以外には誰もあげたいと思うひとが居なくて」「そんなこと言って。聞いていますよ。あて宮に文を出しているのでしょう?」「ええ」 やはり素っ気なく仲忠は答える。 北の方はそんな我が子を見て、少し不安になる。本当に息子はその女性に恋をしているのだろうか。 世の中の男が一体どうなのか、彼女は知らない。夫一人である。 息子が外で何をどうしているのかも知らない。 彼女はただ、いつもじっと待っているだけである。昔から。 そう、父、清原俊陰きよはらのとしかげが存命中からそうだった。 父が何をどう思って、当時の帝、現在の嵯峨院さがいんからの誘いを疎んじ、治部卿じぶきょうという肩書きのもと、人に殆ど会わない生活を続けていたのか判らない。 ただ彼女がその人嫌いの余波を受けていたのは事実である。 母の早世がそれに拍車をかけた。 父は母を追う様に亡くなった。 それ以来、その頃には彼女に打診されていた入内の話や、様々な公達からの文だのは影も形も無くなってしまった。 当時の彼女は知らなかった。 宮内卿忠保が思う様に、世間では親の権勢や財産を武器に婿を手に入れることが多かった。「治部卿」亡きあとの彼女に用のある男は無かった。 彼女は一人残された。 仕える者も一人減り二人減り…… 出て行く際に彼等は家財のなにがしを持ち出した様だが、奥床しい、言い換えれば世間知らずの姫君は無論知らなかった。 気付いた時には、寝起きする部屋の、更に一角にしか物は残っていなかった。 忠実な乳母めのとは死ぬまでそんな彼女を心配したが、現実には何の力もなかった。 せめてもと、乳母はその召使だった「嵯峨野さがの」という名の媼おうなに彼女を頼んだ。 ―――嵯峨野は実に現実的な女だった。 特にその力は、彼女が兼雅と契って後に発揮された。 彼女が兼雅と出会ったのは、秋八月も半ばの夜である。 賀茂詣かものもうでのついでに、荒れ果てた京極の俊陰邸に当時十五の兼雅が彼女を垣間見てしまった。 彼は夜になってから一人出かけていったのだ。元服前の甘やかされた「若小君」にしてみれば冒険だったのだろう。 聞こえてくる琴の音に彼は誘われ、彼女の元へと辿り着いた。 二人はその日のうちに恋に落ち、二晩幼い手で互いを求めあった。 だが次に二人が出会うには十年という月日が必要だった。 何しろ当時の太政大臣の秘蔵っ子の四郎君と、何処と誰とも知れぬ娘である。 彼には彼女を探す術も力もなかった。 そして彼女は彼どころではなかった。妊娠していたのだ。 その妊娠を、産み月近くなるまで気付かなかった。いやそもそも、そんなことが起こるとも知らなかったのだろう。 身体の変化に気付いて指摘したのは、嵯峨野だった。 月のものが無かったか、と問いかけても「そんなものかと思っていた」とあっさり答える姫君である。 任せておけぬ、とばかりに、この媼は老体にむち打って走り回った。 食事の世話から出産、生まれたばかりの赤子の世話も、授乳以外の全てをこの媼は受け持った。正直言って、仲忠が無事生まれたのはこの嵯峨野のおかげである。 やがて仲忠が五つ程になった頃、この逞しい媼は亡くなった。 兼雅の北の方となった今だったら、どれだけのことが嵯峨野に返せるかと思うと、非常に彼女は胸が痛む思いをする。 しかし嵯峨野亡き後の暮らしには辛いものがあった。 正直、彼女は自分が日々何をしたらいいのかもさっぱり判らなかった。 それまでは、嵯峨野が食事を用意してくれたら食べ、しなかったら何も食べない。 彼女は食事を作ることができなかった。 それ以前に食べ物を得ることを彼女は知らなかった。 どうしたらいいのか判らないままに、それでも残されたものや水を口にしていたうちはいい。 それすらも無くなった辺りから記憶はぼんやりとしている。 腹が満たされたと思ったのは、仲忠が運んできたものを口にしてからだった。 幼い仲忠は、親切な人が食べ物をくれた、と言った。彼女はそれをそのまま信じた。信じようとした。 時には魚を「自分で取った」と言った。 時には疲れ果てた格好で木の実や芋を手にしていた。 それらを調理したのも彼である。母親は何も知らなかった。「母様は何も心配しないで」 そう仲忠は言った。確かに言った。 およそ子供の言葉ではなかった。思えなかった。 それ以来、彼女は息子の言葉には何でも従っている。 疑ってはいけない、と思っている。 それが良いか悪いかは判らない。彼女には判断できない。 彼女が判るのは、琴だけだった。 琴。 そう、彼女は父、清原俊陰からその手の一切を伝えられていた。 当時、人嫌いになった父は。屋敷から出ることが殆ど無くなっていた。 名手と謳われたその琴の琴を彼女に教えること以外、何もする気が起きなくなっているかの様だった。 血であろうか。四歳位から習い始めたが、十二三歳くらいで、父の教えること全てを覚えてしまった。 その父から受け継いだ琴だけを持ち、彼等は当時、山の空洞うつほに移り住んでいたのだ。 そこは不思議な所だった、と彼女は今になれば思う。 人が住むべき場所ではないにも関わらず、住めるかの様に仲忠が整えてくれたのだろうか。寂れ果てた屋敷の一角と大して違いは無いくらいの場所になっていた。 いや、近くに果物や木の実の採れる木、清らかな水がわき出る泉があるあたり、屋敷よりずっと住み易く思えた。 ここなら誰かに水を汲んできてもらうのを待つではなく、自分で立ち上がり、取りに行くこともできる様な気がした。 それに何と言っても、そこは山深く、誰の目も気にする必要が無いのが嬉しかった。 つまるところ、彼女が何もしなかったのは、彼女自身の「姫君」という自意識が、身体の動きそのものまで縛っていたとも言える。 仲忠は「母上はそんなことをしなくてもいい」と言った。 だが彼女もさすがにその時には、自分の身の回りのことは自分でする様にしていた。鏡に映る自分の姿があまりにも悲しかったのだ。 顔を洗い、豊かな髪を梳り、暖かく爽やかな日には洗髪もした。 仲忠は何故か色々なことを知っていた。 時々ふいと姿を消すと、山の食料を取って来て、時には火を起こし、簡単ではあるが調理もした。 汚れた服は洗う。破れれば繕う。寒くなれば、何処からか持って来る。 無理してはいけませんよ、と言いながらも、彼女には息子を止める力はなかった。息子が何もしなかったら、育ち盛りの少年と、女盛りの母は生きては行けなかったろう。 何もできない自分というものを、彼女はひどく思い知らされることとなった。 せめても、とばかりに彼女は仲忠が七歳になった頃から琴を教えだした。 俊陰から伝えられた琴のうち、比較的穏やかな音を出す「ほそお風ふ」を自分のものとし、かつて自分が学んだ「りゅうかく風ふ」を仲忠に与え、記憶している手法や曲の全てを彼に伝えた。栗もなか 【20個箱入】 (内祝い お茶菓子 プレゼント 贈り物 最中 もなか あんこ つぶあん お土産 菓子折り くり マロン 栗のお菓子 お返し 高級和菓子 お取り寄せ 和スイーツ スィーツ 贈答用 お礼 手土産 入学祝い 卒業祝い お花見 栗菓子 退職 母の日ギフト)
2017.11.26
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その三の一の一 若者たち帰宅――仲頼の土産に舅感激 さて、仲忠一行が都に戻ったのは四月四日のことだった。「すぐに皆さん帰ります?」 問い掛ける仲忠に仲頼はいや、と首を横に振る。「俺はそのまま在原ありわらの家に戻る。お前等も一緒に来いよ。やっぱりあの舅どのにはきちんと挨拶をしなくてはな」「そうですね」 笑いながら誘う仲頼にうなづきながら、行正は宮内卿のことを思った。 宮内卿くないきょう・在原忠保ありわらのただやすの家は、仲忠や仲頼の実家の様に生まれながらに裕福なところではない。「…何でも、あの殿は仲頼さまを婿にお取りになってからのお世話で、ずいぶんと物いりだったそうです」 目端のきく女房が、彼に何かと伝えて来た。「この今の世の中、どれだけ美しい娘であろうと、物持ちで無い限りそうそう通う男など無いところに、仲頼さまを婿にできたことが何よりもの喜び―――とばかりに、先祖代々の財産や、女の方には無くてはならない髪道具の一式まで、惜しいと思われる様なものはずいぶんと売ってしまわれた様です」 それはまた、ずいぶんなことだと行正は思った。「だが仲頼が仲頼らしく過ごすには、ずいぶんな費用が必要ではないか?」 自分と同程度に帝のおぼえめでたいとしたら。 自分は先の帝、嵯峨院さがいんのおかげで独身でありながら困る様なことは何もない。 だが一度婿取りされてしまったとしたら。「はい。ですからあの方が婿入りされてから、ここ数年のうちに、長年年貢や地代を待って家計に当てていた近江の土地も売ってしまわれたそうです」 行正はそれを聞いてため息をついた。「仲頼はそれを知っているのだろうか」 女房はいいえ、と首を横に振る。「向こうの女房に聞いたところ、婿君には決して悟らせない様に、とのことでした」「そういうところは全くもって、鷹揚な奴だからな」 そこまでして尽くしてくれる舅が居ながら、どうして奴はあて宮に恋などしてしまったのだろう、と行正はしみじみと思う。 少なくともこの直情型の友人が、左大将に繋がるのを目的であて宮に文を送っているとは思えない。そんな器用な奴ではない。 だとしたら、直接姿を見たか、声を聞いたか、はたまた名手と言われている琴の音を聞いたか。 いずれにせよ、実体のはっきりしないものではなく、あて宮そのものに惹かれなくては友人が動くことはなかっただろう。「それでは今度の吹上行きでも向こうは苦労するだろうね」「はい。…正直、失礼ながら、仲頼さまが少し憎らしゅうございます」「憎らしい」「旅支度のために、節会せちえの時にだけ取り出す太刀を質に入れたということでございます」「…きっとそのことも、決して仲頼には気付かせないのだろうな。奥ゆかしい人だから」 実際、出かける時の支度はきちんとしたものだった。 供人も、道中の食料も吹上までの充分なものが用意されていた。「仲頼さまの北の方は『正月の節会にはどうなさるのですか』と驚いたそうですが、父君は『今年の稲が豊作だったらすぐ返せるよ。心配はない』とおっしゃったそうです」 しかし稲が豊作かどうかなど、決して思う通りに行くものではない。苦労を知っている人がそのことに気付かないはずはない。 行正は、戻った折りには何かしらの礼をしないことには、と思ったものだった。 と同時に、友の心を奪うあて宮が、恋しいながらも多少憎くも感じられた。 * 宮内卿宅では早速、彼等の帰りを祝ってささやかな宴がひらかれた。「あちらは如何だったかな? 浜辺のご馳走に満腹しておいでになっては、この山里など大したものではないだろう」 宮内卿は謙遜して言う。仲頼は答える。「いえ、こちらが気掛かりで、おちおちご馳走も頂く気持ちになれませんでした。どれだけ美しい景色、素晴らしいもてなしを受けたとしても、側に居るべきひとが居ないことには」「そう言って下さるのは非常に嬉しい。これからも私達の大切な娘を大事にしてやって欲しい」 宮内卿の言葉が、行正には非常に重く響いた。「そう言えば、お土産があるのです」 仲頼はそう言って、吹上からの土産ものを持って来させる。「おお、これはまた素晴らしいものを…」 ……そう、吹上で、彼等は帰り際、贈り物をどっさりと受け取っていた。 種松たねまつは涼すずしのためなら、とばかりに精巧な細工物を三人に用意させていたのだ。 まず「はたご」一掛。 「はたご」とは通常、馬の食料を入れる「竹」籠のはずだ。 だがしかし現実のそれは、明らかに銀製。しかも高価な沈木で作った鞍を置いた銀の人馬に牽かせている。その山形の蓋を開けると、唐の綾、羅や紗といった美しい布が積み重ねられている。 次に沈木作りの男に引かせた同じ作りの破子わりこ。これも普通なら道中の食事を入れるもの――― つまりは弁当箱である。 だがそこには丁字ちょうじ、沈香じんこう、麝香じゃこうやその他の薬、練り香の材料が乾飯ほしいいやおかずに模されて詰められている。 また、色々の唐の組み紐で籠の様に編んだものが、蘇芳すおうの箱にかぶせられ、中には上等の絹がそれぞれ三十匹入れられている。しかも背負い牽くのは蘇芳の馬だ。 洲浜すはま――― 風景を象った置物もあった。 銀を散らした鋳物の海。 そこには造花を付けた沈木の枝を沿えた、合薫物あいたきもので作った島があり。 島の上には銀や沈で作った鹿や鳥も置かれている。 海には大きな黄金の舟。 舟には薬や香の入った袋、沈の折櫃おりひつや金銀瑠璃の壺も載せられている。 そして折櫃には銀の鯉や鮒が。 煌めかしい壺には、またそれに似つかわしいものが入れられ、麻で結んである。 それらの美しい見立て物に加え、帰りの旅行用の装束を「一日一装」ということで一人につき三装、それに被物かづきものとして、女装束を一襲ひとかさねずつ。 加えて、それぞれに動物の贈り物。仲忠には様々な班馬まだらうまに美しい馬具一式を付けて四頭、黒斑くろぶちの牛を四頭、鷹と鵜を四羽づつ。 仲頼と行正には、馬は黒鹿毛で、牛は堂々とした暗黄色のものだった。 無論、道中の食料も用意された。いやそれだけではない。また別に米をそれぞれに二百石入れた舟を二艘ずつそれぞれ送られている。 北の方からは銀の透箱を送られた。それぞれに黒方の香木の墨、砂金、金幣、銀幣が入っていた。 ―――で、これらの煌々しいもののうち、沈の破子を仲頼は宮内卿に送ったのである。「義父上、それに加えて、牛も四頭頂戴致しました。ぜひ受け取って下さい。それに妻と義母上には」 と、透箱を渡した。 ありがたいことだ、と宮内卿はうっすらと涙ぐんでいた。「花の都」 和菓子 詰め合わせ 送料無料 老舗 送料込み 香典返し 引き出物 日本のお土産 京都のお土産 京菓子 プチギフト ブライダル 内祝い 京都 お菓子 ギフト 激安 金平糖 結婚式 【楽ギフ_のし】 【楽ギフ_包装】 スイーツ 高級 お取り寄せ プレゼント 敬老の日
2017.11.25
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その二の二のニ 懸想人の噂―――誠実なはずの仲頼「実忠さねたださまを今宮が嫌いなのはまあ判らなくもないけど」 女一宮は同じ歳の叔母に向かって問い掛ける。「他の方はどう?」「だから言ったじゃあないの。行正ゆきまささまは声はいいけど軽薄そう、って」「だってあなた、ここは嫌ってことばかりしか言わないじゃない。私は好きなとこは無いのかしら、って聞きたいの」 ね、と軽く拗ねた顔をして一宮は今宮に顔を寄せる。「でもねえ一宮、好きってのは私には難しいわ」「そういうもの? 私はやっぱり仲忠さまが一番いいなあ」「まああの方は特に嫌なところは見つからないですからね」 ちご宮もうなづく。「ただ少しばかり、おっとりしすぎとは思うけど」「そこがいいんじゃないの!」 一宮は両手を握り締め、むきになる。今宮はそれを見て可愛いな、と思う。「幼い頃に山の『うつほ』に棲んでたことが卑しいだのどうの言う人はいるけど、そんなこと無いわ。そこで母君に琴を一心に学んでいたって素晴らしいことじゃないの」「それはまあ、そうだけど」 ね、と一宮は同意を求める。 何処をどう見ても、これは恋する乙女だ、と今宮もちご宮も視線を交わす。「そのお父君はどう?」 ちご宮は右大将・兼雅かねまさに話を切り替える。「そぉねえ、あの方はどっちかというと求婚自体が礼儀って感じよね」「まあ」 あて宮はくす、と笑う。「そう見えて?」「あら、あて宮はそうは思わないの? さぁ、とか何とかで誤魔化すんじゃないわよ」「そうね…」 ふっとあて宮は目を伏せる。「あの方は、部下であるうちのお兄様を使って文を届けさせたりはしているけど、私も本気ではないと思うわ」「そうよね!」 今宮は大きくうなづく。「あんなに三条の奥方を大事にしている方が、今更あて宮を、なんてありえないわ! それに上司だからって、何かそれを利用するあたりが嫌よ」「私もそう思うわ。もっとも、それを言ったら、平中納言さまもちょっとそういう感じよね」 ちご宮はまた別の人物を話に持ち出す。「そうそう」 だいたいね、と今宮は指を立てる。「あの方は以前の右大将さまと同じよ。名の知れた女性なら誰だっていいんだわ。皇女だろうが、御息所みやすどころだろうが」「実忠さまとは逆ね」 あて宮は短く言う。「そうそう。だからあのひとの本気は信じられないと私は思うわ。実忠さまのあのしつこさはちょっと身震いものだけど、ああいうのも嫌ね。兵部卿宮ひょうぶのみやさまもそう。ああ! どうして男ってああいう人が多いのかしら」「あなた本当、嫌なものばかりじゃない、今宮」 ちご宮はそう言うと、袖で口を押さえ、ほほほほ、と高らかに笑った。「あなたのきょうだいもちょっとね、一宮」 弾正宮だんじょうのみやと呼ばれている、帝の三宮、女一宮の一番上の兄のことをちご宮は次に口にする。「あら、どうして? 身内ならそれはそれで気楽でいいのではないの?」 昨年の九月、彼は月の宴の時、あて宮をつい垣間見てしまったらしい。 そこにちご宮も今宮も一宮も居たにも関わらず、彼の目はあて宮にしか向かなかった様だ。 彼は菊の花を「あて宮に」と差し出したのだが、あて宮は書き付けられた歌の方には目もくれず、つれない歌をただ詠んだだけだった。 ちご宮は書き付けられたそれを見て、慌てて取りなすような歌を詠んだ。 弾正宮は二人のその返歌を見て「空しい」とばかりに戻っていった。 あのままあて宮の歌だけを見たら、歳上の甥は一体どういう行動に出たのだろう。 そう思うと、ちご宮は今でも冷や汗が出る。 と同時に、あて宮は何を考えているのか、という気も起きる。「身内でも頼りになる方ならいいけどね。それに同じきょうだいというなら、それこそ、東宮さまだって一宮、あなたにはきょうだいでしょう?」「まあそれはそうだけど」 一宮は軽く首を傾げる。 同じ母を持つ弾正宮はこの屋敷に棲み、時々顔も合わせて心易いが、中宮腹の東宮は、兄とは言え、遠い存在だった。「まああの方は、身内というにはおそれおおいけど… ともかく、弾正宮はもう少し大人になられたら、って感じね」 今宮は決めつける。「じゃあそういうあなたからしたら、仲頼なかよりさまは?」 一宮は少しばかり不服そうな顔で、今宮の顔をのぞき込む。「仲頼さまは、そうね、他の人達に比べればいい方だわ」「あら、今宮の合格点が出たわ」「でも駄目。あて宮には駄目よ」「どうして?」 目を丸くして一宮は問う。即座に今宮は答える。「何言ってるの一宮、あの方にも北の方とお子様が居るじゃあないの」「あ、そっか」 うんうんと一宮はうなづく。「あんまりあの方が蹴鞠だので元気だから、ついそういう感じがしなくて」「北の方はたしか」「宮内卿くないきょうの在原忠保ありわらのただやすさまの姫よね」 そうだ、と今宮は思う。 入内を勧められた程の姫だということだが、宮内卿は決してその話を進めなかった。 美しい素晴らしい女性だ、ということだけでは駄目なのだ。 在原家は決して裕福ではなかった。 充分な後見無しの入内など、普通の結婚をするより不幸が目に見えている。 普通の結婚においてもある程度当てはまる様で、素晴らしい女性だという評判は立っていても、現在のあて宮の様に求婚者が沢山現れはしなかった。 ちなみにその頃、源少将仲頼は様々な女性の元を訪ね歩いていた。 高貴な女性も居たし、裕福な後見を持つ者も居た。 だが彼女達は仲頼には物足りなかったらしく、通い続けることはなかった。親達は歯がみする思いだったらしい。 にも関わらず、その宮内卿の娘にぱ殆ど一目惚れの様なものだったという。しかもその後はずっと彼女一筋だということだった。 どうも彼にとっては、後見というものはさほどに問題ではなかったらしい。裕福な大臣家に生まれた彼らしいと言えば彼らしい。 それはそれで今宮には好感が持てるところだった。 それから五、六年、慎ましくも幸せに暮らし、子供も姫一人、若君二人が居るという。 さてそこまでならいいのだ。 仲頼は帝のおぼえめでたい。そして幸福な家族を持っている。 いい人だなあ、と今宮は童女の頃からずっとそう思ってきた。 だが今年の正月の賭弓の儀の時に、彼はあて宮を垣間見てしまった。 これがいけなかった。 そこでちょうどその場に居た木工もくの君にこう言ったという。「自分という存在をあて宮に知ってもらいたい」 また別の女房に聞くと、仲頼は自分達他の娘も居たのに、あて宮にしか目が行かなかったらしい。 それを聞いて今宮は何となく、むっとした。 別に仲頼が好きだった訳ではない。 ただ何故か自分達が一緒に居ても、垣間見る男達は引き寄せられるかの様にあて宮にしか目が行かない。 微妙なのだ。「そう言えば、仲頼さまは、仲忠さまや行正さまと一緒に吹上ふきあげの方にいらっしゃるのではなかったかしら」 思い出した様にちご宮は言う。「あ、そうそう。確かお三方からそれぞれに、吹上の様子をしたためた文が来たんじゃなかった? あて宮」「…どうだったかしら。木工?」「はい」 控えていた木工の君が山と積まれた文を差し出す。「いい加減ご覧になって下さいと申し上げておりますのに…」 これが源少将さま、これが兵衛佐さま、これが藤侍従さま、とそれぞれの山を彼女は差し出す。「…ちょっと、あて宮、これだけ来ているのに、まだ何も見ていないの?」 今宮はややうらめしそうな声で問い掛ける。「ごめんなさい、琴を弾いてたら忘れちゃっていて」「忘れていたも何もないわ。私達も、吹上のこと、聞きたい!」 一宮は「いい?」と問い掛けると、返事も待たずに山に手を伸ばす。「はい今宮は仲頼さま。ちご宮は良正さまをお願い」「…そう言って一宮、仲忠さまのを独り占めしようって言うんでしょ」「無論ちゃんと回すわ。でも最初は… いいでしょう?」 語尾が小さくなる。肩をすくめる。 その様子がとても可愛らしかったので、二人とも「まあいいか」という気持ちになった。「…へえ、涼すずしの君って方、そんなに琴が素晴らしいんだ」 今宮はつぶやく。 旅の発起人の書いたこの源氏の君は非常に彼女の興味を引いた。 ちら、と視線を移すと、一宮は熱心に仲忠の文を見ている。美しい文字。今宮はそれが一宮へのものでないことを少しばかり残念に思った。「…ああ、お三方とも、お帰りは四月になりそうね」 ちご宮は嘆息した。もっちり お餅のような お饅頭 【 富士山のように 20個入 】 あっさり やさしい甘さの こし餡 ≪ のし対応 ・ メッセージ対応 可 ≫
2017.11.24
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その二の二の一 懸想人の噂―――実の兄・仲純からの困った思い 一方ちご宮はちご宮で、口に出せない懸想人のことを思っていた。 同母兄、仲純なかずみである。 大宮腹の七郎であるこの兄は、この時二十五歳。 自分やあて宮とは一回り違う。 大勢居るきょうだいの中でも最も出来が良く、父左大将にも母大宮に将来を期待されていた。 ただ一つ、両親を嘆かせていることがあった。 彼には浮いた噂の一つも無いのだ。 釣り合う女君が居ないからだろう、と当初は両親も呑気に構えていたらしい。いざとなったら、子供さえあればいいのだ、と。 だが召人めしゅうどの一人も居ない、という話になった時に、少しそれは困ったものではないか、と思い出した。 まさか女が嫌いなのでは… いやそうではない、と言ったのはやはり同母兄の一人、祐純すけずみだった。彼と仲純は三つ違いの兄弟だが、親子の契りをした仲でもあった。「誰か心に秘めた女性が居る様です。奥ゆかしい奴なので、はっきり妻にできると確信できるまで、動くことも誰かに相談することもできないのでしょう」 そう言われればそうかもしれない、と両親は思った。 仲純は生まれながらの才はあるし、それ以上に人一倍の努力家だった。 周囲の者への気配りも、実に自然であり、もの柔らかな物腰は、宮中でも人気があった。 無論帝からのおぼえも非常にめでたかった。 現在、仲忠・仲頼・行正に仲純を加えた四人の優秀な楽人が帝にお願いすれば、叶わない人事は殆ど無い、と言われていた。 無論そこには、帝に願って叶うことと、そうでないことをきちんと把握し、根回しをした上でのことなので、一概に彼等が偏愛されていたからとは言い難い。 それでも同じ条件で何かしらの頼みがあったなら、帝はまず確実にこの四人の申し出を呑むだろう。そう誰からも考えられていた。 その兄から、ちご宮はある時相談を受けた。 何だろう、と彼女は思った。自分ごときに何か相談する程の兄ではあるまい、と。 確かに最近大人の仲間入りはしたし、結婚もした。 だが未だ昼間は、夫の居る対ついではなく、両親や姉妹の住む寝殿で碁を打ったり琴を弾いて過ごす自分である。 結局はまだまだ子供なのだ。 しかも妹の様な楽の才もある訳でもない。一体そんな自分に。 仲が悪い訳ではない。元々楽器を教えてくれたのは彼なのだ。今でも時々一緒に合奏する。 だからこの時も、ただそんないつものことだと思っていたのだ。 二人きりということだけが、やや気になったが。「本当にこんな風にお兄様と合わせるのは久しぶりですわね」「そうだね。最近は少し忙しくてね…」「嘘」 くすくす、とちご宮は笑う。「どうして笑うの?」「だってお兄様が忙しいのはいつものことじゃないですか。今更言うことではなくてよ」「…そう… だったかな」「最近では、同じ侍従の仲忠さまともずいぶんと仲がおよろしいということではないですか。仲忠さまのことは、一宮がずいぶんと知りたがってますのよ。もっとちょいちょいいらして下さいな」「…仲忠か… そうだね」「おにいさま!」 はっとして仲純は顔を上げた。「私の話をちゃんと聞いてくださっているのですか?」「…いや、ごめんごめん」「それとも何か、物思いでもあるのですか。私に隠し事など、水くさいですわ」「うん…」 彼は少し躊躇った後、口を開いた。「ぜひちご宮、君に話したい話したいとは思っていたんだ」「あら、わざわざ私にですか?」「君じゃないと駄目なんだ」「…一体、本当にどうしたというのですか?」 その時突然彼は几帳きちょうを押し退けた。「聞いてくれ、ちご宮」「は、はい?」「僕はあて宮に恋している」「は?」 ちご宮は思わず問い返していた。「あて宮が好きなんだ。もうずっとずっと」「…って、お兄様、あて宮はあちらの――― 大殿おおいどのの上から生まれた訳じゃあないのですよ? 私達と同じ、大宮のお母様から生まれた妹ですよ?」「そんなことは判ってる」 彼は両手で顔を覆った。「だからこそ、僕達はそれ程の隔ても無く育って来た。彼女が年を追う毎に美しくなって行く様も、他の懸想人が羨む程に見ることができた。だけどそのせいで、僕は―――」「お兄様」 困った、とちご宮は思った。「判っているんだ。これはいけないことだと。だけどこの口が、あて宮に向かって困ったことを言ってしま…… いそうなんだ。いや、言っているかも」「まさかお兄様、あて宮に――― 言ったのですか?」「あれは賢い子だ。僕の言うことの意味くらい判るだろう」「そうでしょうか」 あの冷淡なまでの懸想人に対する態度を見ていると、ちご宮にはそうは思えなかった。「いや判っている。判っていてあて宮はどうすることもできないんだ。僕が戯れで恋の歌を投げかけているのか、それともいけない心持ちで、それでも呼びかけずにはいられないのか、問うこともできないのだろう」 そう言われればそんな気もする。 妹の今宮いまみやはあて宮が何を考えているか判らない、とよく自分に言う。 だがそれは表に出さないだけで、中では深く考えているのかもしれない―――「だからせめて、君の口から、僕が本気であて宮を思っていることを伝えてはくれないだろうか」「私がですか」 彼女は露骨に顔を歪めた。「そう、君だ」「でもどうして私なのですか。今宮も女一宮も―――いえ、彼女達の方が、夜も一緒に休んだりして、仲が良いでしょうに」「あの子達はまだ結婚していない。この様な話を聞かせるのは困りものだろう」「私ならいいのですか?」「少なくとも、君は誰かと一緒に居るということの意味を知っているだろう?」 知っている。夜はそれでも夫と共に過ごすのだ。まだ幼いからと、自分をいたわってくれる夫を、彼女は嫌いではなかった。「お願いだ、頼む、ちご宮。最近の僕は、見かけこそそれまでの僕だが、気持ちはもう全くの別人になってしまったかの様だ。あて宮のことを考えると幸せだ。うっとりとするよ。だがその一方で、それが絶対に叶わない恋だと思うにつけ、僕の胸は焼ける様だ。張り裂けるようだ。…きっとこのままでは僕はいつか、死んでしまうよ」「…お兄様!」 そんなことは言わないで、とちご宮は琴を手放し、兄の両腕を掴む。「しっかりなさって。そんなことでどうなさいます。お兄様はお父様もお母様も、この家の中で誰よりも愛し、期待している自慢の方ではないですか。死ぬなんて、容易く言わないで下さい」 仲純は首をぐらぐらと横に振る。「…いやもう駄目だ。僕は必ず死ぬ。いや、死にたいんだ。叶わないならもう―――」 視線が泳ぐ。 どうしよう、とちご宮は思った。 人払いをさせているので、もしここで彼が狂乱したとしても、止めることもできない。 だがそもそも自分がどうこうできることなのか? いや無理だ。決まってる。 そしてそのことは、仲純自身がよく知っているのだ。 彼が言っているのは愚痴だ。 どうにもならないことに対する絶望を、勝手に彼女に語っているだけなのだ。 それに気付いた時、ちご宮は奇妙に冷静になっていく自分に気付いた。「…判りました、お兄様。自分の心であっても、恋ばかりはどうにもなりませんものね。何かのついでに、あて宮にお話致します」「本当に?」 かっと目を見開く兄の顔が、無性に気持ち悪く感じたのは、この時が初めてだった。* あて宮にはその後、折りを見て話した。 気付いてはいたらしい。どう答えたものかと考えてはいた様である。「返事くらいはした方がいいと思うの」 ちご宮は妹に言った。「しなければしないで、どんどん思い詰めて行くだけだから」「…そうね」 ふらり、とあて宮はいつもの様に首を傾げる。 やはり何を考えているのか判らなかった。 紫いも大福(4個入り)。 11月限定・紫いもを使った生地で芋餡を包みました。秋/手土産/ギフト/和菓子/期間限定
2017.11.24
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その二の一 三条殿の姫君達の懸想人の噂―――異様に執着の激しい実忠「あなたはどう思っているか知らないけれど」 拳を握りしめ、一人の少女がまくし立てる。「私はあの方、一番困った人だと思うわ」「そうかしら? 一番熱心じゃないの」 その側で、別の少女は目をきょとんとさせて問いかける。「確かに実忠さねたださまは、一番熱烈なお文やら贈り物を下さるけど、何か私、あのひと嫌」「そぉ?」「そうよ」「そうねえ」 更に別の少女は脇息に頬杖をつきながら言う。「あなたはもっと若くて綺麗な方が好みだものね」「や、そういうことじゃあなくて」「違うの?」「や、それはそれで違わないけど… もう!」 くすくす、と少女達は笑い合う。 そしてそれを傍らで眺める少女がもう一人。薄い笑みがその表情を覆っている。「んもう、そもそもあなた自身はどうなのよ、あて宮」「…そうね」 それ以上の答えは無い。 * 都の三条大宮に、数町の広大な屋敷が建っている。 今を時めく左大将、源正頼みなもとのまさより邸である。 「三条殿」と呼ばれるそこには、彼とその妻子、そしてその連れ合いが同じ屋根の下に暮らしている。 正頼は妻を二人持つ。 身分といい、後ろ盾といい、どちらも正式な妻である。 その彼女達からは息子が十二人、娘が十四人生まれている。 そしてそのうち、帝の妹君である大宮から生まれた子供達は特に出来が良かった。 女御となっている大君を初めとして、息子達は将来を嘱望され、娘達には次々と求婚者が現れた。 中君から八の君は既に婿が通う身である。 宮や大臣、さもなくば将来を期待される若者の元に彼女達は縁付いている。 故に現在、男達の視線は、そのすぐ下の娘に向けられている。 「左大将の婿」という地位が欲しい者、好色な者、ただひたすらに純情に慕う者、理由はそれぞれであるが、狙いはただ一つである。 九の君、あて宮。 彼女はそう呼ばれている。 *「また黙って。あて宮は誰が好きとか、そういうのは無いの?」 少女の一人はぐっと身を乗り出す。「あなたはいつもそうやって本当のことを知りたがるのね、今宮」 あて宮は今宮と呼ばれた少女に問い返す。「ええそうよ」 良く似た顔同士が近づく。「私は色々なことが知りたいの。全てがはっきりするのが好きよ。姉上達とは違ってね」 そしてぱっ、とあて宮から離れると、あはは、と口を大きく開けて今宮は笑う。 彼女は十の君。あて宮の一つ下の妹である。 顔立ちは姉と良く似ている。美しいと言って間違いは無い。 違うのは印象だ。 明るく華やかな色の小袿をまとい、その上に艶のある黒々とした真っ直ぐな髪が流しているあて宮に対し、今宮は地味な色合いの細長に、やや赤みがかった髪を耳ばさみに後ろで括っている。 この時代の美しさはその「印象」にかかっているだけに、二人の違いは大きかった。「あなたの乳母が嘆くわよ、また」「構わないわよ。ねえ一宮」 脇息にもたれていた少女に呼びかける。少女は身体を起こし、ねえ、と今宮と声を揃える。 一宮いちのみやと呼ばれた彼女は今宮と同じ歳。姉妹ではなく、姪にあたる。彼女達の一番上の姉、仁寿殿じじゅうでん女御と呼ばれる女性の娘で、帝の「女一宮」である。 女御が生んだ宮は皆、この三条殿で育てられた。 特にこの女一宮は、あて宮と今宮、そしてもう一人、結婚したばかりの八の君、ちご宮と一緒に居ることが多かった。 そして女が集まると姦しい。 この時期、彼女達の話題は、あて宮の求婚者に集中していた。「さて、今までどれだけの人から、あて宮はお文を頂いたかしら?」 一宮が訊ねる。「沢山よね」 ちご宮は答える。 それに応える様に、今宮は指折り数える。「確か、右大将兼雅さま、平中納言へいちゅうなごんさま、源宰相実忠さま、兵部卿宮ひょうぶのきょうのみやさま、兵衛佐ひょうえのすけ行正さま、藤侍従とうのじじゅう仲忠さま、源少将仲頼さま、それに一宮、あなたの兄上の弾正宮だんじょうのみやもね」「ふふふ。上野宮かんづけのみやや、致仕ちじの大臣、それに滋野の宰相なんてどう?」 一宮が面白がって付け加える。 あて宮は不愉快そうに眉を微かに寄せる。 彼等三人はある方面では有能だが、多くはその奇行ぶりで冷笑の的となる者達だった。「ああ、それと何と言ってもこれを忘れてはいけないわ。東宮さまもその一人!」「どの方が一番素敵だと思う?」 一宮は皆に問い掛ける。「難しいわねえ。皆それぞれに素敵な方じゃないの。それに私にはもうその話をしても仕方ないでしょう」 既に夫を持つ身のちご宮は苦笑する。「ああ御免なさい。でもそれはそれとして」「それはそれとして?」「そう、それはそれとして」 それなら、とちご宮は首を傾ける。「何と言っても、姿が素晴らしいのは、仲忠さまかしら。美しい方よね。でも私、行正さまの声は好きよ」「あの方は確かにいい声だわ。でも少し軽薄そうに感じるのよね。本気が感じられないって言うか。丁寧すぎるって言うか」 今宮は軽く眉を寄せる。「姿なら私も同じだわ。仲忠さまが一番よね。今の都の若い方で、あの方に姿形で勝るひとなんて居るのかしら、ねえ、一宮」「もう!」 一宮は頬を赤らめ、大きく首を横に振る。「…蹴鞠の時なら、仲頼さまが結構格好良かったわ」「そぉねえ。あの方は動いている時の方が格好いいのよね。お歳はもう右大将さまに近いというのに元気だこと! 仲忠さまは全然そういうことはしないのが残念」「お父君の方は? ねえあて宮」「立派な方ね」 短く答える。 三人の少女はまただ、と吐息をつく。 今宮は思う。一体、この姉には好きとか嫌いとかいう感情があるのか、と。 * 今宮は姉の求婚者の大半が嫌いだ。 そしてその中で一番嫌いなのは、源宰相実忠である。 彼は熱意がある。恐ろしい程にある。それだけは認める。 だがそれが、彼を嫌いな最大の理由であった。 今宮は自分づきの女房に調べさせていた。 実忠があて宮に思いをかけ始めたのは、裳着の式を行った十二歳の二月からである。 あて宮の乳母子である「兵衛ひょうえの君」に渡りをつけて、雁かりの卵に歌を書き付けて渡したのが始まりである。 あて宮はその時こう答えたという。「その卵の様に、恋心が孵らないことを願うわ」 次に彼は、桜の花びらに歌を書き付けて兵衛の君に渡したという。 困った兵衛は「誰宛とも知れませんが」とあて宮に見せた。 するとあて宮はこう言ったという。「誰ですか、兵衛に言い寄って来るのは」 無論、誰宛てかなどお見通しだった様である。 また別の時である。 島が趣深くできた洲浜すはま―――風景の模型である――― に千鳥を幾羽か行き違いに歩ませたものが送られてきた。 大層手の込んだものであったせいだろうか、あて宮はこう言って兵衛を怒ったと言う。「どうしていつも困ったものを私に見せるの」 だが兵衛もここは引かなかった。「まるで物事を知らない方の様に思われますよ」 と。 そこまで判らないひとだと、自分の姫君が思われたくないのだ、と彼女は暗に訴えた。 そこであて宮はこう言ったという。「では兵衛の言葉としてお返しなさい」 そして歌を返した。 実忠はたいそう喜んだとのこと。 しかしそれで味をしめたのだろうか。次の文にはこう書かれていたという。「強いて申し上げたのでお気に触ったと思います。これからは思い切って文は出さないことにします。 ―――死ぬと言ったら世の中の人は物笑いにもするでしょうが、私にとっては、いっそそれも本望です。あなたを思い続けている私の命はあなたの思いのままなのですから」 兵衛はため息をつきつつ、今度ばかりは、と頼み込んだそうである。 仕方なくあて宮も歌を詠み、今度は自分からのものとして渡したという。その歌もまた実につれないものだったという。 だがそんな歌であっても、それを受け取った実忠が嬉しがったことは言うまでもない。 そしてとうとう、月の美しい夜に寝殿に立ち寄った実忠は、兵衛を呼び出し、庭の花の美しい様子と共に、自分の苦しい物思いを切々と語ったという。 御簾みすのかげで聞いていた女房達も貴公子のその様子にすっかり同情した。 特に「木工もくの君」という経験長い女房は、その場にいた主人達にこう訴えたという。「この様にあの方におっしゃらせて、こちらが何もしないということがありましょうか」 だがあて宮はそれには平然として応えなかった。代わりに仕方ない、とばかりにちご宮が動いた。箏の琴を弾きながら、歌を返したのだ。 ちょうどその時、今宮もその場に居合わせた。 実忠は聞こえてきた箏の音と歌に対し、喜びに満ちた返しをした。 さてそこで、今宮の中に微妙な嫌悪感が生じた。 ちご宮の歌自体が、誰とも推測のできないものだったからかもしれない。だが実忠の返しもまた、誰に対してなのかはっきりしないものだった。 彼女は実忠が居なくなってから、ちご宮に尋ねてみた。「あの方は、さっきのがお姉様なのかあて宮なのか判っているのかしら」 ちご宮は困った顔をした。そして取りなすように木工の君が答えた。「こういう場面では、実際には誰であっても良いのですよ」 それに彼女は余計にむっとした。 それじゃあ「あて宮」という名がついていれば、誰でもいいということになるじゃないの。 彼女はそう思ったのだ。 おりしも上野宮による「偽あて宮略奪」事件が起きた頃である。 古皇子・上野宮は、あて宮の懸想人の一人であったが、こともあろうに、彼女を盗もう、という行動に走ってしまった。 元々無頼の者などを多く身内に入れている宮のことである。乱暴にやり方であれ何であれ。結果さえよければ満足だったのだろう。 だが事前に計画は漏れ、素知らぬ振りで左大将正頼は、美しいが身分は低い少女達を使い、偽あて宮を用意して盗ませた。 上野宮はそれに満足し、その偽あて宮との盛大な婚儀をあげ、―――今もってそれが偽者と気付いていないらしい。 それでは、今この目の前にいるこの姉は、一体何なのだろう。 そんな気がしないでもない。 確かに美しい。 だが、自分や姉と並んで鏡で見比べた時、何処がどれだけ違うのか、という気がしないでもない。 そして噂ばかりで懸想する男達。 実忠はその後、志賀に詣でたり、比叡山に籠もっては歌を送ってくることが多くなった。 あて宮はそれに対しては、返したり返さなかったりと、気まぐれだった。正直、兵衛の君も自分の主人の気持ちを量りかねた。 とりあえず彼にはこう言っているという。「あて宮様は、あなた様に北の方がいらっしゃることが気がかりの様です」 そう、彼には既に妻子が居るのだ。 三条堀川のあたりの自宅に北の方を据えて、真砂子まさご君という息子、袖君そでぎみという娘と共に、仲良く暮らしていたという。 だがあて宮に懸想してからというもの、彼は左大将の屋敷に客人としてずっと居座り、家には全く寄りつかなくなってしまった。「いやもう何というか、哀れで…」 偵察に出した彼女の女房は涙ながらに語った。 二人の子のうち、十三になる真砂子君は、特に父親が大好きで、帰りを今か今かと待ちわびていたのだという。 母君も実忠に帰りを促したが「もう少し待って欲しい」というだけだったという。 北の方は「今までが幸せ過ぎたのだ」と思ってただもう堪え忍んでいたが、子供はそうはいかなかった。「父上がいらっしゃらないのは、もう私達の――― 私のことをお嫌いになったからだ」 真砂子君は実際はともかく、そう思いこんでしまった。 どうやらこの少年は、思い込みの激しい性格を受け継いでしまったらしい。 少年はそのまま次第に病気がちとなり、やがて父君を恋い慕いつつ亡くなってしまったのだという。 実忠はそれをまるで知らなかった。 それどころか、彼がそれを知ったのは、比叡に恋の成就を願いに行った時だったのだ。 同じ場所で真砂子君の四十九日の法事を行っていた。その時ようやく彼は、自分の息子が亡くなったことを知ったのだ。「それでも懲りずにあて宮に恋しているなんて」 熱心を通り越して気持ち悪い、と彼女は思わずには居られないのだった。■在庫限定■スライヴ つかみもみマッサージャー MD-411 オレンジ MD-411D家庭用電気マッサージ器 MD411 MD411D THRIVE スライブ マッサージ機 小型 肩もみ くびもみ 首コリ 温熱機能 腰 太もも ふくらはぎ
2017.11.23
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その一の四 仲忠くん、涼くんに自身の生まれと育ちを語る「そう、その方だ。あて宮。貴あてなる姫宮。私も都からの噂で聞きました。左大将どのの、掌中の玉と言われる姫君だそうですね」「ああそうだ」 仲頼はうなづく。「今の都で美しい人と言えば何と言っても左大将の九の君、あて宮だろうな」「氷室に眠る雪の様に冷たい方とも聞いていますが」 それは、と男達は顔を見合わせる。「それもまあ…… 嘘ではないですね」「そうそう。私なぞ、最初に使った手段がいけなかったのでしょう。すっかり嫌われてしまっています」 ねぇ、と行正は仲頼と顔を見合わせる。「そうだよな。子供を使っちゃいけないよな」「たぶん今、あて宮からの返事を一番良くもらっているのは」 二人の指は、仲忠を指していた。「僕は別に」「嘘言うな。俺の懇意にしている女房が、そう言っていたぞ。お前への文は楽しそうに見るとか、返しをきちんと書くとか」「僕はただ。琴のことを書くからじゃないのかなぁ」「琴のことを?」 ええ、と仲忠は涼の方を真っ直ぐ向く。「涼さん、あて宮の琴は本当に素晴らしいのです」 真剣な眼差しがそこにはあった。「本当に。僕の拙いものなど比べものにならないくらい」「おいおい、お前がそれを言うのかよ」「だけど本当のことだもの。仲頼さんだって行正さんだって、春日詣の時には聞いたでしょう?」 むむ、と二人は押し黙る。「それにただ、僕は琴の話をしたいんだ。彼女とは」「ふぅん、それじゃあお前は、あて宮の婿になりたいとは思ったことはないのか?」「それは…」「なかなか楽しそうな話ですね」 助ける様に、涼は言葉を差し挟む。「しかし美しい左大将の姫君は、琴も素晴らしいのですか…… 私も興味が湧いてきました」 涼はふっと笑い、扇を口元に当てる。「そうだなぁ… 涼さんとあて宮と、一緒に演奏ができたらどれだけ楽しいだろう」 うっとりと仲忠は目を細めた。 そのまま天にまで昇ってしまいそうな友人の肩を仲頼は強く掴み、大きくうなづく。「判ったよ。お前の気持ちは純粋だ。だが世の中はお前の様な奴ばかりじゃあない。例えば実忠さねただどのはどうだ?」「源宰相げんのさいしょうか… あれは手強いですね」「どういう方ですか?」 涼は問い掛ける。「何と言うか…」 三人は顔を見合わせて言い淀み、苦笑した。 その時ははっきりしたことが三人の口から出ることはなかった。 * 吹上では三日の節句を皮切りに、様々な宴が行われた。 浜のほとりの花が盛りになった頃には、林の院に皆、直衣姿の徒歩で出向いた。 十二日には、渚の院で上巳の祓が行われた。漁人や潜女を集め、大網引かせなどをさせた。 渚の院は林の院と同じ東の浜辺にあるが、潮の満ち引きする辺りに大きく高く作られている。 林の院の様に華やかではない。 見える景色と言えば、遠く見える島々、布で頭を包んだ潮汲みの女達、点々とある小さな漁人の庵の軒に海藻が沢山掛けて干してある――― その程度だ。 だがそれが都から来た客人達の目にはひどく珍しく面白いものとして映る。 何も無い所だけに、宴の際の楽が一層心に染み入る。 夕暮れになって、大きな釣舟に漁人の使う栲縄を一舟いっぱいにたぐり集めて漕いで行くのを見た仲頼がふとこう言った。「この縄はあんなに長い様に見えるけど、俺の志には及ばないな」 それを聞いた涼は詠んだ。「―――いらした心のうちは判らないけれど、その長い栲縄にまさるとおっしゃる志が嬉しいです」「僕等の気持ちは縄以上ですよ」 仲忠も笑って言う。「―――志の長さと比べちゃいけないけど、比べたってことで、この栲縄は有名になるだろうなあ」 仲頼がそう詠んでいるうちに、陽も暮れてきた。 詠んだ歌そのものは技巧じみていて、やや気取る所があったが、涼はこう言ってくれる彼等のことが本当に嬉しかった。 海の上を浜千鳥が飛んで行く。それを見て彼はまた詠んだ。「―――せっかく来てくれた友達が都鳥の様に一緒に帰ってしまったら、残された自分は泣く泣くこの浜に暮らすことだろうな」 すると仲忠はすかさず返した。「涼さんをどうしてそのままに置こうって言うの。都への雲路を翼を連ねて一緒に行きましょうよ。遊び仲間の同じ千鳥ではないですか」「そうそう」 仲頼も加わる。「―――都鳥が千鳥を自分達の翼の上に据えて都に帰ってこそ、吹上の浜の土産ですと言って、帝にさしあげることができるんだし」「―――あなたをお連れしなかったら、私達は帝に何とお答え申し上げましょうね」 行正も続く。「必ずいつか、あなたと都で暮らしたいんです」 仲忠は力を込めて言う。その瞳の強さに、涼は一瞬胸の奥に跳ねるものを感じた。 * 二十日には藤井の宮で、藤花の宴が行われた。 紀伊守と権守もそこにはやってきて、少将の顔を見て驚いていた。「おやまあ! こちらでお会いできるとは思ってませんでしたよ」「いやあ」 あはは、と仲頼は笑う。「こちらから参上しようと思っていたのですが、すみません」「いやいや。ところで都では変わったことはありましたか? おお、左大将殿はお元気でしょうか」「変わったこと… まあ、あると言えばあるし、無いといえば無いし… あ、左大将どのはお元気ですよ」「こちらはもう大変ですよ」 紀伊守は嘆息する。「前の守が乱れた政治をした後の赴任でしょう? そこにまた朝廷の使が入り混じって騒いで、今はもうその後始末で大変ですよ。何だか都の遊びやら何やらすっかり遠いものになってしまって、今や田舎者です」「あー… そう言えば、前の紀伊守が、何か訴えたとか、騒いでましたなぁ」 嫌だ嫌だ、と仲頼は手を広げる。 その様子を見ていた種松は、まあまあ、とばかりに二人を宴の席へと導いた。 * 三月末には客人達もそろそろ都に帰らねばならない、ということで、鷹狩りや春を惜しむ宴、名残の宴が開かれた。「それにしても」 仲頼はその宴うたげで貰ったものをずらりと見渡しては嘆息する。「涼どのは、本当に大変な『財の王』だよなあ。全く」「そうですねえ。種松どのがどれだけ涼どのを大切にしているのかがよく判ります」 仲忠は何も言わず、そっと館から抜け出した。*「やっぱり居た」 夕暮れの浜辺に、彼は佇んでいた。「仲忠君」「何となく、涼さんはこちらに来てる様な気がして」「私が?」 仲忠はうなづく。「もう一緒にこの浜を見られないのかな、と思ったし。―――僕は、この時間の浜が一番好きだな」「そうだろう? 一番綺麗だと私も思う」 夕暮れの海。どんな空であろうと、そこには美しさがある。 ちょうどこの時間の海は凪ぎ、空は穏やかな色の移り変わりを見せていた。やがて星が瞬く藍から次第に紅が重なり、陽の朱に収束するだろう。「涼さんは都に出て行こうとは思わないの?」「田舎者よ、という目で見られるのが怖いんだ。前にも言ったろう?」「涼さんが田舎者と言うなら、僕も田舎者だよ」「君が?」 仲忠はその場に座り込む。ざく、と砂のきしむ音がする。「僕は確かに、右大将の藤原兼雅の子だし――― お祖父様はかつて遣唐使を勤めた清原俊陰。血筋は都人。それは嘘ではないんだけど」「では何故」 そんなことを、と言いかけた彼の言葉を仲忠は聞かなかった。「僕は生まれてからかなりの年月を山で過ごしたの」「山」 そう言えば、そんなことを言っていた様な気がする。涼は記憶をたどる。「聞いたこと無い? 清原の祖父が亡くなってから、家は恐ろしく貧しくなったのだ、と」 そう、その噂だ。確か。「父上と母上がその貧しくなった清原の京極の屋敷で出会って、一晩だけ語り合って、僕が生まれたらしいの」 凄い偶然、と仲忠は笑った。逆光ではっきりしなかったが、それまでに見たことの無い類の笑みだった。「でもその頃、母上の世話をするのは、たった一人、嵯峨野さがのという名の媼おうなしかいなかった」「一人だけ」「ええ、一人だけ。僕の母上は何も出来ない人だったから」 仲忠は言葉に力を込めて言った。「嵯峨野は大変だった様だよ。家に残っていたなけなしの物を何とか処分して金をつくり、僕が生まれるための用意をし、それすらどうにもならなくなった時には、自分の娘に食糧や衣類を頼んだりしたみたい。母上はその時も、ただ困ってぼんやりとしていることしかできなかった」「それは」「うん、判ってるんだ。母上は姫君で、姫君ならそれは仕方がないことだと。だけど嵯峨野は年で――― 僕が三つか四つか… そのくらいの時に、流行病で死んだ」「それで君は、山へ」「都の人々にはこう噂されていると聞くんだけど」 冷たい声だ、と涼は思う。「僕は変化へんげの者の生まれ変わりだから、その頃から乳も呑まず、母上を養って河へ釣りに行ったとか、その河が凍った時には、『私が孝の子であるなら魚よ連れろ』と願ったら釣れた、とか」「違うの?」「そんなことある訳ないでしょ」 仲忠は言い放った。「あれは父上の作り話。僕はただの人間で、その頃はただの子供。いや、何もできない子供ですらなかった。ただね、無闇に可愛らしかったらしくて」 口元がくっ、と上がる。「母上のために食べ物を探したのは確か。だけどそんな奇跡は起きないでしょ。だけど食いつないだのも確か」「では」「貰ったの。親切な人達から」 表情が見えないのが幸いだ、と涼は思った。今この時の仲忠がどんな顔をしているのか、見たくはなかった。 次第に朱の陽は紅に変わって行く。「親切な人達は、僕を抱き上げると、食べ物が欲しいのか、と聞いた。そうだと答えると、あげるからちょっとおいで、と答えた。うん、確かに親切にしてくれた。後で腕一杯の食べ物をくれて、またおいでと言った。僕は何って簡単だろう、と思ったよ」 簡単。 かもしれない、と涼は思った。この青年の小さな頃だとしたら。「母上は僕が抱えてきた食べ物を見て、それは仏の思し召しかしら、と無邪気に問い掛けたよ」「…」「親切な方がくれた、と正直に僕は答えた。そう、と母上は答えた。間違ってはいない。あんなことで、食べ物がもらえるなら簡単なことだった。―――今でもそう思うけど」「本当に?」 仲忠はうなづいた。「だって涼さん、今だって、何がどう変わるというの。父上に引き取られて初めて、それが遊び女みたいなことと判ったけど、殿上人と遊び女と何が違うというんだろ」 涼は答えを探そうとした。だがそれは難しかった。何よりもそう口にしている仲忠自身がそう信じて疑わない。「人のご機嫌をとって、沢山のものを貰って。それが食べ物でも金銀財宝でも美しい姫君でも大本は変わらないと思うけど」 くすくす、と仲忠は笑う。「山へ行こう、棲もうって言ったのは、母上なんだ。あのひとも、さすがにだんだん僕のやっていることの意味が判ってきて。そんなことを僕にさせるくらいだったら、と先祖の琴を幾つも持たせて、清原家にゆかりの山に籠もったんだ」 それで山か、と涼は思った。「十二の時に父上に見つかってからは、もうしごきにしごかれたよ。都で同じ歳まで育った子供に追いつき追い越せって」「でも、君にとっては決して難しいことではなかっただろう?」「ああ、それはね」 ふふ、と彼は笑う。そしてつと涼に近付くと、軽く口を合わせた。「確かに難しいことじゃあなかったんだ」 ** 彼等が都へと出発したのは、四月一日だった。 親友の約束をした四人は、またすぐ会おう、と歌を詠み、杯を交わした。 また、なるべく早いうちに。 涼は彼等の姿を見送りながらそう思った。
2017.11.22
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その一の三 気がつくと管弦の宴、そして女性のはなし「違うのではないのか? 宮というのは、帝の認めた皇子のことを言うのではないか?」 涼すずしは少し物心のついた頃、訊ねたことがある。「だとしたら、私は違う。この屋敷も違う」「何が違います」 祖父―――神南備種松かんなびたねまつは即座に言葉を投げかけた。「あなた様は確かに帝の胤。我が娘が粗忽にも時の帝に奏しあげなかったばかりに、こんな所に埋もれることに…」 当時まだ壮年だった祖父は、そう言うと涙ぐんだ。「もしも私の娘の腹に生まれて来なかったら、あなた様は親王にもなり、都で生い育つこともできたものを…」 その母は顔も知らない。涼を生んですぐに亡くなった。 彼は祖父母のもとで育てられた。 母は帝に仕える女蔵人だった。心映え良く、美しい人だったという。 それなりの家の出であれば、女御更衣として時めいてもおかしくない人となりだった。 だが種松は決して身分の高い者ではなかった。 紀伊の国では守、介に次ぐ地位にはあったが、都でその地位が何であろう。 一方、北の方は大納言の娘だった。 一度は結婚もしたが、その夫に先立たれ、そしてまた親にも。 後ろ盾の無い女は、どれだけ身分が高くとも落ち行くばかり。 先を不安に思っていたところに種松の手が差し出された。明日をも知れぬ身には拒むすべも無かった。 とは言え次第に夫婦として慣れ親しむうちに、女の子を一人授かった。 やがてその娘が美しいという噂が当時の守から、更にその上へと広がり、娘は女蔵人として召し出された。 やがて浮かぬ顔で戻ってきた娘の腹には、帝の胤が宿っていた。 種松は宮中に居辛かった娘の気持ちは理解できた。そのままそっと子を生ませ、母子共々静かに暮らさせるのも良かった。 だが娘は涼と引き替えの様に亡くなった。 残された子が並みの子だったら、ただの自分の孫として育てても良かった。だが。「いつか必ず、あなた様は帝の元に戻ることが出来ます。その時のために、私はどんなことでも致します」 * その種松がこの日、彼の客人達のために自ら宴の支度をした。 涼は用意された礼服を着て、寝殿で客人達と酒を飲み交わし、楽器をかき鳴らす。 種松はその様子を陰から実に嬉しそうに眺める。 何度か杯を交わした後、赤らんだ顔の仲頼なかよりが上機嫌で言う。「俺は本当言うと、こっちへ伺う予定ではなかったんですよ。予定ではね。粉河の寺へ行くことになっていたんですな。でももうそんなこと、どうでも良くなってしまったみたいですよ」「それはそれは」 涼は笑みを浮かべる。「粉河行きの話をしていた折りに、松方がこちらのことを申しまして。それを聞いたらもう居ても立ってもいられなくなって、こうして来てしまったという訳で」「がっかりしたのではないですか?」「いやいやいやいや」 大きく手を振る。「来た甲斐あったというもの。涼どの、どうしてここに籠もってらっしゃる。都へぜひお出で下さいな」「田舎者よ、と笑われるのが関の山ですよ」「東宮がお望みですよ」 行正ゆきまさが口を挟む。「珍しい音を出す楽人をぜひ手に入れたい、と御所望です」「それならあなたがたがいらっしゃる」「いやいやいやいや」 再び仲頼は手を振る。「俺や行正はいい。だがこの仲忠なかただときたら、東宮どころか帝の度々のお召しにも、琴だけはと言う頑固なうつけ者。琴の音に憧れる者がどれだけ都には居ることやら」「別に僕は、嫌だ嫌だと言っている訳じゃあないんだけど…」 仲忠はほんのりと染まった頬を軽く握った拳で支える。「別に自分の琴が良いとかどうとか考えたことは無いから」「そんなこと言って、なあ」「ねえ」 二人は顔を見合わせる。「でも僕も、涼さんが都に来たら嬉しいなぁ、と思うんだ」 にこにこ、と仲忠は笑う。「笑い者になるのが辛いですね。私の噂が都にまで伝わったというだけでびくびくしておりますのに。これで都で人付き合いなどしたらもう」 涼の表情は変わらない。「でも東宮はおっしゃってたよ。ご自分は身分のために軽々しく出かけることはできないから、僕等が羨ましいって。風の噂に聞く叔父の一人とぜひ会いたいって」 そうですね、と涼はただ答えるだけだった。* ひと月の間、仲忠、仲頼、行正の三人は吹上に滞在することとなった。 三日の節句には、神南備種松が手づから彼等の為にもてなしをしてくれた。 それだけではない。彼等の連れてきた供人達の席をもずらりと並べ、大饗宴が行われた。 酒を酌み交わすはもちろん、食卓の打敷に描かれた胡蝶や鶯などを題材に、あるじである涼共々歌を詠む。 ほろ酔い加減の中、誰かしらが楽を始める。「君も一つ、どうですか」 涼は仲忠に勧める。仲忠は黙って傍らに置いていた袋を彼に差し出す。「あなたに」「何でしょう?」 やや、と開いた途端、仲頼も行正も声を上げた。「仲忠お前、それはもしや」 仲頼は思わず身を乗りだし、涼の手の中にあるものに目をやる。「琴ですね… 何やら実に、手にしっくり来る」「『やどもり風ふ』と言います」「ああやっぱり!」 行正もまた嘆く。「祖父とおっしゃると、あのかつての治部卿、清原俊陰きよはらのとしかげどのですね」「はい」 仲忠はうなづく。「祖父が外とつ国くにから戻って来た時には、この他にも幾つかあったのですが、あちこちに散らばってしまって」「ああ、そんな貴重なものを。いけない」「いいえ。これは母の勧めでもあるのです」「母君の」 仲忠の母のことは、涼も噂で聞いていた。 「三条の北の方」と呼ばれている、右大将兼雅の一の人。 兼雅かねまさは既にその時、時の帝の女三宮を正妻に持っていた。一条に帝から送られた屋敷を構え、中に様々な身分の多くの妻妾を囲っていた。 だがいつの間にかその一条の家を捨て、三条の屋敷に、そのひとの元にしか居着かなくなったと。 それ程の方だ、と人々は噂する。 と同時に、どれ程の方だ、と邪推もする。 それがどちらかは涼には判らない。だが目の前の仲忠に似ているなら――― それは大層な麗人ではないかと思うのだ。「『やどもり風』は宿守。家の守りの力を持つと言われています」「それを私に。それは何と嬉しいことだ。しかしできれば、君にこれで一曲弾いてもらいたいものだが」「僕の手など、大したものでは無いです。もうずいぶん弾いていないですから、かき鳴らすことも考えてなくって」 仲忠は素っ気なく言う。ああまただ、と仲頼はびしゃ、と額を叩く。「…あ、その、仲忠はこういう奴ですから」「いえいえ、琴を弾かれる方は、その時を選ぶべきだと思いますからね。彼が弾きたくないのなら、今はその時ではないのでしょう」 涼はやどもり風の調子を合わせ、一曲弾き始めた。 三尺六寸。琴きんは、和琴わごんや箏そうに比べ小振りである。だが太さの違う七弦をそれぞれ異なった調子で合わせた時には、どんな楽器よりも幅広い音を作り出す。 やがて皆、つられるかの様に、ある者は笛を。ある者は箏を。またある者は声を張り上げ、いつの間にか宴の場には音が溢れていた。 笛を手にした仲頼はすっかりいい気分になって言う。「主上の御前で色んな節会せちえごとに、皆腕前を惜しむことなく演奏するけど、俺は今日のこの合奏ほどに素晴らしいものは無いと思うぞ」「左大将どのの春日詣での宴の折の演奏も素晴らしかったけど、私も今日の方が楽しいです」 琵琶を手にした行正も言う。「それにしても、涼さんの琴は、珍しい手ですね。祖父の奏法にも何処か似ているかも」「それは光栄だ。私の師匠は、既にこの世には亡い人ですが、そのことを聞けば、きっと喜ぶでしょう。ところでこの世と言えば」 顔を向けられた行正ははっとする。「左大将、正頼まさよりどののところに美しい方がおられるとか」「そういうことは仲頼が詳しいでしょう」 素知らぬ顔で、行正は友人へと回す。「俺が? 俺は別にそういう話に詳しいという訳じゃ」「けど最近じゃ、宮内卿どのの愛娘の所へ通っているという噂じゃないですか? さぞその方は美しい方なんでしょう」「通うところの一つや二つなくてどうするんだよ。だいたい都にはいい女が一杯いるからな。『いい女一人妻にするより、大したことない女二人を妻にしている奴の勝ち』が都というものさ。だから俺の様な奴でも婿としてやっていけるんだよ」「あれ、…と言うことは、仲頼さんには決まった方がいたの?」 仲忠は大きく目を見開き、問い掛ける。「あのね、仲忠君」 行正は苦笑しながら友人の背を叩く。「この歳になって、女の一人も居ない君の方が不思議ですよ」 その手を払って仲忠はふくれる。「別に居ないという訳じゃないよ。父上の女房の中には綺麗な人が居たし…」「でもせいぜい召人めしゅうどでしょう? そんなこと言ったら、彼など両手では数え切れないでしょう」 行正は断ずる。「だけど涼さんだってお独りの様だし。別に僕一人そうだって、誰が困るって訳でもないでしょ」 ねぇ、と仲忠は同意を求める様に涼の方を見る。 そうだねぇ、と涼は微かに笑う。 いやいや、と仲頼は手を振る。「どんなに四季折々の美しい花々、木々、鳥、海の景色、名手を集めての遊びをしたところで、独り身ではつまらないと俺は思うんだ。こんな美しいのに――― いや、美しいからこそ、独りで見るなんてたまらないと思うんだ」「そうですか? まぁそうかもしれませんね」 涼はゆったりとうなづく。「別に私も、好きで独り住みしている訳ではないのですが。と言って、こんな都から遠く離れた場所まで、わざわざ連れて来たい様な方も居ないことですし」「いやいやいや、俺には駄目だ」 仲頼は両手を大きく広げる。「やはり誰かが必要だと思うんですよ」「君の場合はそれが宮内卿の方だと」 行正はしつこく話をそこまで戻す。「ではやっぱり綺麗な人なんですね。綺麗なものが好きな君が、それほど入れ込むなんて」「知らないね。もしそうだとしても、お前にどうして言わなくちゃならない? お前こそ、例の姫に、弟君を使って文を渡しているというじゃないか」「それを言うなら君だってあの方には」 即座に行正は切り返す。「何を言う。美しいと噂される姫君に求愛の歌一つ送らないで何が都人だ。だいたいこの仲忠ですら、折々に文を送っているということだぞ… そうだな? 仲忠」 ふふ、と仲忠は笑って答えない。「ほらいつもこうなんだから。涼どの、こうやっていつも仲忠ははぐらかしてしまうのですよ。女のことについては」「別にはぐらかしている訳じゃないよ。確かに僕もあて宮には文を送っているんだから…」「あて宮」 涼はその名を繰り返す。*****琴の琴については、http://guqin.jp/about/japan.html 日本古琴振興会のページに詳しいです。実際の音に関しては、「古琴」で検索するとhttps://www.youtube.com/watch?v=HIOpBOzvJrMのような中国での実際の演奏シーンが多数見られます。英訳した時に「スライドギター」とも称されますので、奏法はそれに近いものだと。せつない動物図鑑 [ ブルック・バーカー ]
2017.11.21
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その一の二 仲忠くん、吹上のあるじ、源涼くんと浜で出会う「何?! 仲忠がいない?」 仲忠の供人が、顔色を無くして報告してきた。仲頼と行正は二人は顔を見合わせた。またか、という表情である。「は、はい… 急に何か思い立たれたのか… 馬を走らせて…」 あっという間に見えなくなったのだという。「若君のことですから、こういう所では何かしらなさるかも思ってはおりましたが… こう不意に… 申し訳ございません」「まあ… それはいい。そなたも苦労だな」 仲頼はふう、とため息をつく。 周囲では自分の供人達が何事かと彼に問いたげな視線を送る。 少将の供人には将監以下の部下、それに馬副や小舎人などで総勢四十名を越える。 行正や仲忠も多少の違いはあるにせよ、多数の供人を従えているのは同じである。 その彼等を放って、主人は何をしているのか。 ふと行正は空を見上げる。春先ののどかな空だ。風も柔らかで、微かに潮の香りがする。「馬は?」 問い掛ける。「少し向こうに乗り捨ててありました。…それに烏帽子も」「烏帽子だけか?」「い、いえ、履き物も…」 仲頼はそれを聞くとちら、と友人に目配せをする。「松方、浜は近いのか?」「へ? 浜ですか?」「以前、そなたはここに来たのだろう? ここから浜は近いのか?」「ええ」 松方はうなづく。「馬を走らせれば、吹上の浜はもうすぐです」「待ちきれなかったんだな、あいつは…」 行正は口の端を歪める。「けど烏帽子まで取るか?」 ぽん、と仲頼は自分のそれを叩く。行正はふっと笑う。「しかし判らなくもないですね」「そうかぁ? 俺は駄目だな。裸になっちまった様な気がいる」「それはあなたが子供の頃から見慣れているからですよ。私には少し彼の気持ちが判りますがね」「…あの、」 仲忠の供人は戸惑いながら言葉を投げかける。だが続かない。「ああ、そうだな… 松方」 仲頼が呼びかける。「はい?」「道を知っている者は、そなたの他に居るか?」「先日私と一緒に参りました者なら」「では俺達は少々寄り道をするぞ。そなたも一緒に来い。浜への案内をしてくれ」「わ、私も参ります!」 仲忠の供人が慌てて声を張り上げた。* 涼すずしが仲忠に最初に会ったのは、浜だった。 珍しい。 彼は思った。 見渡す限りくすんだ色の砂、砂、砂。 浜のこの場所に人が来ることなど滅多に無い。ましてや、自分と同じ年格好の青年など。 足跡の先は、遠い。 そっと近寄る。見下ろす。しゃがみこみ、水に手を浸している。「何をしているの?」 問いかける。青年は、黙って顔を上げる。 丸く瞳が見開かれる。 と。「あわわわわわ」 声が上がる。 す、と波が引いていく。足元の砂もまた。ぴしゃり。青年は尻餅をつく。「おやおや」 くすくす、と涼は笑う。青年はむっとした顔で見返す。「海は初めて?」「初めてですよ」 膨れる。くるくると変わる表情。珍しい。「初めての方が、裸足で波打ち際? 怖いもの知らずだ」「…珍しかったんです。ただもう」「珍しい?」「湖とは違う。とても広い。こんな広いとは思わなかった」 ゆっくりと立ち上がる。「湖には行ったことが?」「幾度か。悪友達に連れられて行きました。湖は静かで、果てがある… 安心できる」「ここには果てが無い。で、怖くなった?」 青年は黙って口を曲げる。「怖くてはいけませんか?」「いや」 即答する。「海は広くて大きい。そして恐ろしい。それは当然のこと。ほら、あの波を見てごらん」 指さす。 青年はつられる様に顔を上げる。低い音と共に、白い波が湧き立つ。 光の方角。朝の終わり。「眩しい」 青年は目を細める。「眩しくはないのですか?」「私は平気。慣れている」「僕も眩しいものには慣れていると思ったのですが」「湖で?」「いいえ、山で」「山」「ああでも、あの眩しいのは光じゃあなかったな…」 言う間にも、波はその形を刻々と変えて行く。「空と海との境が判らない…」 青年はつぶやく。「空と海はつながっているのでしょうか」「空は空、海は海だ」 涼は答える。「空は何にも侵されることはない。たとえ澱んだ雲に覆い尽くされ、降り注ぐ雨が海に還ったとしても、空は空であり、それ以外の何ものでもない。海はその空の色を映す。映すことができる海は、空と同じではない。そこには必ず境がある」「…よく判りません」 青年はぐっ、と目を一度瞑る。「だけどこんな、光に満ちた瞬間には、…確かに、空と海はつながっている様な気持ちになる。海の果ては夢の果てだ、と知っていた人が言っていた。その人は、海に友人を送り出した。だが戻っては来なかった」「僕の祖父も海に出たのだと聞いています」「君の」「いえ、祖父は戻りました。運の良い方でした」「戻られたのか」「ええ。でもそれから祖父の心の中には、大きな空洞うつほができてしまったのだと、―――母が教えてくれました」「ご存命ではない」「僕が生まれる少し前に」 ごぉ、と遠い波の音が流れて行く。風の音が耳に飛び込む。「だから、ずっと海のことは気になっていました。その果ての国のこと。果ての国に居る方々のこと。音。音楽。それに」 青年は涼の方を真っ直ぐ向く。ふっと笑う。「琴」 琴? 問い返そうとした時だった。「おーい、仲忠ぁ!」 波の音に混じって、声が聞こえた。「…あ、見つかっちゃった」 青年は肩をすくめる。 声は、彼の足跡の向こうからだった。やがてその主が馬で駆けてくる。「若様ーっ! あれほど勝手に行かないで下さいって言ったのに!」 馬の脇には、徒歩の男達が幾人か。「仲忠… と?」「はい」「では君は、もしや藤原の?」「ええ。…あの、あなたは?」 苦笑する。 ここで、この浜で、一人勝手気ままに振る舞える者など、一人しかいない。「私は涼と言います」 そして付け加える。「この吹上の宮のあるじです」 *「…全く、烏帽子も履き物も無しで、あるじの君に会ってたなんて、お前の父上に知れたら何と言われるか」「いや、だって、空が綺麗で、何か爽やかな匂いがして」 ようやく合流した友人は、既に目的の地のあるじの君に出会っていた。「涼どの、お久しぶりにございます」「ああ松方どの、本当にまたいらしてくれたのですね」 青年は満面に笑みをたたえる。松方はどん、と自身の狩衣の胸を叩く。「無論です。必ず近い内に、そして都で有名な方々をお連れします、と約束したではないですか」「それではこの方々が」 側で声を張り上げている三人の方を向くと、涼は思わず自分の顔がほころぶのを感じる。 先程出会った仲忠に、身分では変わらぬだろう二人が烏帽子をかぶせ、履き物を揃えている。「あの三方は仲が良いのですね」「いやもう、都で一番よく知られている公達ですからね」 ほぉ、と涼はうなづく。「あそこで怒鳴りながら烏帽子をかぶせているのが左大臣家の少将仲頼どの、小さくなってかぶせられているのが侍従の君仲忠どの、その向こうで笑っておられるのが兵衛佐ひょうえのすけ行正どの」「彼だけが少々お若い」「ええ。でもいつも皆で楽しそうです。それに今ここにはいらしてませんが、左大将家の侍従仲純どの、この仲の良い四人が奏上して叶わないことはないと言われている程です」「なる程、帝の覚えもめでたく」「ことに、管弦の遊びに関しましては、彼等に並ぶ者は今の都には居ないのではないでしょう」「彼は」 涼は視線を仲忠に移す。「いや、彼等は遊びは何が得意なのですか」「皆それぞれに素晴らしいのですが…そう、仲忠どのの琴の琴は飛び抜けて素晴らしいとのことです」「あなたはまだ聞いたことは?」「残念ながら、無いのです」 松方は苦笑する。「あの君は、本当に滅多にその手を披露なさいません」「確か帝の御前でも」「ええ全くもって。帝もしかし、あの君に関しては仕方がないとお思いの様子です。本当に優れた手の持ち主は、場を選ぶのだろう、と」「…成る程」 涼は微かに口の端を上げた。 * 浜からさほど遠くない場所に吹上の宮はあった。「う… わぁ…」 仲忠は馬上で息を呑む。そうだな、と仲頼もつぶやく。「松方の言った通りだ。本当にこれは『宮』としか言い様が無い」「そうですね。…あ、今あそこに孔雀が」 行正が遠くを指さす。「孔雀だけではありません」 客人達に、あるじの君は笑う。「色鮮やかな鸚鵡おうむも夏の林で遊んでおりますよ。また後でお見せ致しましょう」「鸚鵡かぁ… 仲頼は見たことがある?」「いや俺は無いな。確か行正は、唐に居た頃見たと言っていたろう?」「…遠くからですけどね。街で鳥売りを少しだけ見かけたことがあるだけですよ。確か、人の言葉を真似るんですよね」 行正は涼に向かって問いかける。「ええ。賢い鳥です」「楽しみだなあ」 のんびりとした仲忠の声に、涼の口元が緩む。「ああ… 花盛りだ」 仲忠は手を上げ、示す。 宮の東側には海。 岸に沿って、藤の懸かった大きな松が二十町ばかり続く。 その内側には桜。樺桜が同じ様に二十町の並木となっている。 そして更に内側に紅梅が。更に更に内側、北の方にはつつじの並木が、春の色を存分に浮かべていた。「…ああ、花に酔ってしまいそうだ。―――こう言っては何ですが、御所より大きく、華やかだ」「吹上の宮と呼ぶだけのことはありますね」 客人達の賛辞に涼は笑う。 「…ただそう呼んでいるだけですよ。目立つ家ですから、そう言えば誰も間違いなかろうと…」 そう。 涼は思う。 本当に、宮などというものではないのだ。ただそう呼んでいるだけだ。祖父がそう勝手に。 涼が住む場所だから「宮」なのだ、と。【送料無料】 クイジナート マルチグルメプレート GR4NJ[GR4NJ]
2017.11.20
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その一の一 「琴の琴で有名な吹上の源氏の君のところへ遊びに行こうぜ」 発端は一つの訪問だった。「こんにちはー! 仲忠、居ますか?」 声を張り上げ、源仲頼みなもとのなかよりが良峯行正よしみねゆきまさを連れてやって来たのは、如月の終わりの桂の里。 右大将、藤原兼雅の別邸がそこにはある。 花盛り、紅葉盛りには家族を連れて滞在するのが常。 その頃兼雅は、最愛の妻「三条の北の方」とその息子の仲忠と共に花の季節を過ごしていた。「どうしたの? こんな所まで」 自宅ということで、楽な格好でくつろいで居た仲忠は、慌てて客を迎える。「友達に向かって、どうしたもこうしたも無いだろ?」 ええ? と仲頼は笑う。「おや、琵琶が。弾いてたのですか?」 かつては彼の琵琶の師でもあった行正は目敏く見つける。「鶯の声が美しかったので…」 言葉を濁す。 仲忠はそれ以上は言わない。仲頼はそんな仲忠に、いつ見てもぼぉっとした奴だ、と思う。「だったら笛にすれば良かったのに。それなら俺の領分だ」「おやおやそう言って。あなたの笛で鶯が逃げてしまったらどうするのですか」「まあまあまあまあ」 仲忠は笑う。二人はその笑顔に力が抜ける。「そういう話をしに来たのではないのでしょ? わざわざ桂まで」「ああそうそう」 うん、と仲頼は大きくうなづく。「実はな、俺達明後日あたりからちょっと面白いところへ行こうと思っているんだ」「面白い所? あなた、もうあらかた回ったって言ってませんでした?」「いやいや、都じゃあないんだ」「都じゃない」 首を傾げる。「吹上の浜を知っているだろ?」「紀伊国だね。遠くはないけど、近くもないなぁ。でも仲頼さんと行正さんが一緒なんでしょ? そうするとずいぶんな人になるじゃない。そんなに面白いところなの?」「そう、そこだ!」 ぽん、と仲頼は膝を叩いた。「仲忠、お前、そこに住んでいるという源氏の君のことを聞いたことないか?」「え、もしかして」 仲忠はぱっと顔を上げる。「そのもしかしてですよ」 ふふ、と行正は笑う。「いや、この間、うちの部下の松方がその吹上の宮にこの間行ってきたんだと。あいつ、陣でもう、自慢するする」「そうしたら、この好奇心旺盛なひとは、まず真っ直ぐ私の所へやってきたのでしたね。じっとしていられない、行こう行こうってしつこくって」「…うるさいなあ。行正だってすぐに乗り気になったくせに。行きたいけどすぐに休暇が取れるか判らないから、いつ行くかを教えろって俺を急かして」「僕も、父上からそのことは話を聞いていたんだ」 するりと仲忠は口を挟む。「右大将殿が?」「うん。あのひとは本当にそういうことについては、耳とか手とか早いんだ」 おいそれ、自分の父君のことだろう? 仲頼は言いたい気持ちはあったが、言葉にはしなかった。「右大将殿はお前にどう話して下さったんだ?」「うーん。色々話してくれたんだけど…… 琴が素晴らしいってことしか覚えてなくて」「お前らしいよ!」「あなたらしいです!」 二人の声が重なった。「…だって、琴だし」「…まあ、そのあたりが実にあなたと言えばあなたなんですけどね… 何をおいても琴琴琴! それも琴きんの琴! そう簡単には会得できない琴の琴!」「それでいて、いつの間にか、箏の琴も和琴も笛も琵琶も、師匠である俺達を追い抜いてしまうんだからなあ」「だってお二人とも、女の方程、笛も琵琶もお好きではないでしょ?」 ああ! と仲頼は額を押さえる。「比べられるものではないでしょう?」「んー…」 行正の反論に口ごもり、仲忠は視線を逸らす。「だいたいあなただって、あの『例の方』には何かと文を送っているという話ですよ」「やめとけよ、行正。その話になると俺達は、自分の無様さを曝さなくてはならなくなるぞ」 そうですね、と行正は素直に引っ込む。「話が逸れたぞ。ともかく俺達は行く。お前はどうだ? 一緒に行かないか? と言うか、行こう」 そう言って仲頼は仲忠の肩をぽんと叩く。「うーん… 僕も行きたいなぁ、とは思うんだけど」「…けど? 煮え切らないなあ」「いや、父上がいいって言ったら行くよ。何かと僕が一人で遊びに行くのにうるさくって」「一人じゃなけりゃいいじゃないか」 なぁ、と仲頼は行正に同意を求めた。そうだねぇ、と仲忠はのんびりと答えた。 * 「と言う訳で、父上、出かけてもよいでしょうか」「と言う訳じゃ判らないが、一人じゃあないのだな?」「この通り仲頼さんと行正さんがお誘いに」 控えている彼らを手を上げ、仲忠は示す。見えている、と父親は思う。「念のため聞くが、都の外れの怪しい所ではないのだろうね?」「父上ではありませんのでそういうことはありません」 さらりと仲忠は言う。 背後の二人は思わずのけぞった。何はともあれ、自分達が子供の頃から既に右大将を勤めているひとに。 だがその当人はそんな息子の言いぐさには慣れているのか。「まあこの二人が一緒なら安心だ。しかし一体、何処まで行くのだい?」 視線を仲頼達に向ける。仲頼は答える。「紀伊国の吹上の浜のあたりです」「もしかして、源氏の君の所かい?」「はい。今朝、松方が先日訪問した折のことを私に色々自慢致しまして。こうなったら行かずにはいられない、と」 ほぉ、と兼雅はうなづく。「いいねえ。私ももう少し君等の様に身軽だったら行きたいところだ。ぜひ行ってきなさい。仲忠も琴が琴が、とばかり私に聞くが、私はあまり琴のことには詳しくはない。そういうことは、噂よりは実際に行ってみるべきだ」「父上」 ぱっ、と仲忠の表情が明るくなる。「私はその間、そなたの母を独り占めするとしよう」 途端に表情が引きつった。「その方は確か、神南備かんなびの女蔵人に生まれた方だったな」「父上は、その方のことをご存じですか?」 そうだな、と兼雅は顎に手をやる。「ずいぶん昔のことだ。まだそなたの母とも出会う前。童殿上していた頃、時々見かけたことがある。子供心にも美しいひとだった」「当時から父上は、そういう所には目敏かったですね」「言うな。それでも、そなたの母が最初の恋人なのだぞ」「それはよく判っております」「しかし、そなたの母とはまた違った美しさを持ったひとだった。彼女の父親の神南備種松かんなびたねまつという男をそなた達は知っておるか?」「―――確か、紀伊国では介のに次ぐ地位ですが、ずいぶんな物持ちと聞いております」 行正が答える。「そう。『財たからの王』と呼ばれている程だ。実際、牟呂の郡の本宅の方では、広い土地で、職人も沢山雇い入れ、色々なものを作りだしているとも聞く。吹上の方にあるという屋敷は、そこで作られた金銀財宝で飾られているらしい」「へえ…」 仲頼は思わず口をぽかんと開ける。「種松という男はかなり有能らしいな。国で三番目の地位にあるなら、人々から搾り取ることもできるだろうが、不平不満を出すこともなく、ずいぶんな成果を上げているらしい。そのせいか、代々の紀伊守も彼には何かと気をつかう。大納言の姫だった北の方を紹介したのも、当時の紀伊守だ」「それはもう…… ずいぶんと身分違いではないですか」 行正は驚く。うむ、と兼雅は頬杖をつき、大きくうなづく。「運の悪い方だったのだな。父君と、当時の夫君をほぼ同時に流行病で亡くされた」「それは確かに、困りますね」 しみじみと仲忠は言い、ちら、と父親を見る。兼雅はその視線に気付いたが、あえて見ない振りをする。「そこでかつて、故大納言に世話になっていた、当時の紀伊守が姫の身の振り様を心配した。夫君を亡くしたと言ってもまだ若かったし、心映えの良いひとだったから、いっそ自分が、とも思ったらしい」「よく思いとどまりましたね」 仲頼は肩をすくめる。「さあそこだ」 兼雅はぽん、と脇息を扇で軽く叩く。「執心していることは、それでも行動で伝えてはいた様だ。何かと物を届けたり、女ばかりの家の守りを固めたり。だがそれを北の方が知ってしまった」 仲頼と行正は顔を見合わせる。「まあ可愛そうな姫様、とは言っても奥方、それ以上のことは決して許しませんよとばかりに、守の下の政人の妻達にさりげなくその話を回したのだな。美しく心映えも良い方が困っていらっしゃる。誰か裕福な再婚の当ては無いものか、と」「それで種松が?」「いやまず、当時の第二の者…… 介にどうか、という話がきたんだ」「けど?」 仲忠はふっと笑う。「駄目だったのですね?」「まあな。気後れがして文の一つも出すことができない。何せ大納言の姫だ。入内させて、時めくこともできる身分だ。そんな姫にそうそう介程度の男が近寄ることもできまい。普通はな。だがこの神南備種松という男はそうではなかった」 三人の若者は大きくうなづいた。「彼には召人はいたが、妻はまだ居なかった。話を聞いて、どういう伝を使ったか、文を届け、贈り物をし、文を届け、贈り物をし、贈り物をし、贈り物をし、贈り物をし、姫より何よりまず、家の者達が折れた」 まあそれはそうでしょうね、と行正は内心うなづいた。「家の者が折れれば、もう後は簡単だ。手引きをしてもらい、通いだし、紀伊の守に話を持ちかけ、正式な妻として引き取ってしまった」「素晴らしい!」 思わず仲頼は膝を叩いていた。仲忠がそんな友人をちらり、と横目で見た。 * そんな経緯から紀伊の国、吹上へと出向いた彼等だったが。 目的の地に辿り着く直前、一行に異変が起きた。【送料無料】50周年 かんたフェ ココアラテ120袋&豆乳カフェ20袋[BROOKS/BROOK'S]
2017.11.19
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