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ふね やしま す まさおかしき 舟八島を過ぐ 正岡子規 ばんり ふ きた はろう かぜ おうじ ついし すで くう な 万里 吹き来る波浪の風。 往事を追思すれば已に空と成る。 せいざんいったい ひと み ただ たんのう えんむ こ あ 青山一帯 人 見えず、 唯 淡濃 烟霧の籠むる有り 詩文説明屋島を望みながら瀬戸内海を舟で通り過ぎようとすると、この辺りは風が強く、波がしらが怒濤の如く打ち寄せてきて、かっての源平合戦の激しさが想像されるのだが、ふと我に返れば、戦いの後などは何処にも見当たらず、青々とした山並みの屋島の辺りは人影も見えず、ただ靄が濃くあるいは薄く立ち籠めるている。1、正岡子規は舟旅で瀬戸内海を通りかかった。(瀬戸内海 屋島)2、八島の近くを通り過ぎようとすると昔の源平の屋島の合戦が思い出されてきた。 (屋島の合戦図) -屋島の合戦図ー1、那須与一(扇を射る)。 2、徳島から屋島へ進む源義経。3、佐藤継信 義経の身代わりとなって戦死した。1.正岡子規横顔と 2、結核を患っていた正岡子規画像。3,昭和も終わる頃四国を旅した時の、子規堂の入場券 (当時50円でしたが現 在は如何程?4 、正岡子規17歳頃の当時、入ってきたベースボールに夢中になり、自分の幼少名の「のぼる」をアレンジして「野球」と命名したベースボール。作者 正岡子規(1867~1902)正岡子規の本名は正岡常規(つねのり)幼名を処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。慶応3年9月17日松山市新玉町に生まれ明治35年9月19日に36歳の若さで死去した。外祖父大原観山について漢文を学び、11歳で漢詩を作り始める。松山中学を中退し、上京して大学予備門に入学する。この時、子規17歳。このころベースボールが這入ってきて自分の名前の幼名「升(のぼる)「の(野)ボール(球)」をかけて野球という名前を付けた。子規は野球に熱中し、やがて松山の地に初めて野球を伝えた。俳句では革新を志し、旧派俳壇を驚かせた。明治25年日本新聞社の社員となる。日清戦争では従軍記者として活躍、28年東京時代の学友であった夏目漱石が松山中学の教師として教壇に立っていたその漱石の下宿、愚陀仏庵に子規が同居した。やがて、肺結核を病んで、病床の中新聞「日本」の俳句雑誌「ホトトギス」等によって子規は日本新派俳句を全国に普及させた。また叙事文、写生文を提唱して当時の小説家達に大きな影響を与えた。子規堂はもとは子規の友人でもあり、文学仲間であった正宗寺住職仏海禅師が子規の業績を記念して17歳で上京するまで住んでいた住居を寺の中に残したのが起こりである。神戸、須磨、松山での療養から再び上京したが、36歳で没するまでには幾度か瀬戸内海の舟度をしている。日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人である。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。
2013年04月20日
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