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Sometimes, it is hard to distinguish between the reality and the imagination. 時として、事実と夢の差をみわけるのが難しいことがある。 私の本にも。夢か誠か!と言うなはしがでてきます。 「Happy介護」の本、日本のAmazonのは売り切れだそうですが、ご注文下されば印刷するとおもいます。 宜しく
2021.11.06
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とんでもなく忙しいこの頃で、日本映画祭、地元の雑誌に特別な記事をたのまれたり、娘の家に一週間ばかり、留守番にいったり、あれこれあれこれ。。。。。先ずは、11月号の、感謝祭特集と、連続のエッセイをのせます。写真だとよみいくいので、原稿をのせますね。 ハッピー・サンクスギビング アメリカ暮しも57年になると、料理の本なしでもサンクスギビングやクリスマス・ディナーなど、問題なく作れるようになった。「マムのパンプキン・シフォン・パイ食べたい」と娘からのリクウェストに目を細め、「七面鳥ばかりで飽きた。ローストビーフにしてくれないかな」という夫に、『おぬし、ぜいたくを言うな!』と思いながら、あっち向いて卵を泡立て、こっち向いて七面鳥にガーリック・バターをぬたくり、ローストビーフに塩コショウをふりかけ、いそいそと用意する。だが、いつもこうだったわけではない。 始めて七面鳥を焼いたときは、レシピの言葉を理解するために辞書と首っ引きだったし、摂氏と華氏が分からず苦労した。それでも、まあまあきれいに出来上がったと思ったのに、「グレービーは?ジブレットは?」と前夫に聞かれたとき何の事か分からなかった。「ほら、とりの首とか心臓とかが入ってただろう?」「どこに?」「え?そのままローストしちゃったの?」といわれ、慌てて七面鳥のお尻を覗いてみたら、あった!紙の袋に入っていたのだった。 後にグレービーの作り方を義母から教わったが、その時は知らずに、七面鳥からタラタラたれてくる油は捨ててしまい。これも失敗。カボチャでパイを作るなど、聞いただけでゾッとしていたのが、今では定番になっている。 感謝祭のいわれは子供達も学校で習うので知っていたが、大人になってからは、「ねぇ、食べる前に一人ずつ何に感謝してるか言わない?」と誰かが言いだしたのが始まりで、以来ずっとそれが習慣になっている。「マムが御馳走を一人で作ってくれる事に感謝します」と息子。「我々も招いてくれてありがとう」と、前夫とその奥さん。 去年は自粛でキャンセル、今年も最少人数で祝う事になりそうだが、今回は、「皆がコロナにもめげず健康で過ごせていることに感謝します」と言う計画である。 距離 アメリカの大学時代の必読書で題名も著者の名前も思い出せないが、明治初期に元信州のお姫様が富山に嫁入りした自叙伝を英語で綴ったものであった。大勢のお伴に守られて、駕篭にゆられて、いくつもの山河を越え、さまざまな問題にぶつかりながら何日もかけて嫁いだのだが、国を出るときは親兄弟とはもう一生会えない悲壮な覚悟であったと書いてあった。グーグルマップでみたら、今なら車で数時間もかからないであろう距離であった。 私は戦争中に東京から静岡県興津という海辺の町に疎開し中学までそこで育ったのだが、東海道線各駅停車だと横浜駅まで4時間かかり、そこから東横線にのったり、バスに乗ったりして、祖母が間借りしていた目黒の家に着くまで丸一日かかったから、途方もない距離に感じた。 その時は十数年後にアメリカに住むようになるとは、想像だにしなかったが、それから何十年か経って、英語しか話せない成人した我が子達と里帰りした時、富士山を過ぎた頃、新幹線の中から「私の・・・育った町は・・・この辺・・・だった・・・筈だけど」と探している内に、名古屋駅についてしまった。横浜から1時間前後だったように思う。 昭和30年代に、今はサンフランシスコに住む従妹とウクレレ持参で北海道を1ケ月旅した事がある。世田谷の家から玉電で渋谷まで行き、渋谷から山手線で上野駅、そこで従妹と合流して常磐線で青森までいって、青函連絡船で夜を明かして函館というコースであったから、周りの人々は、まるで外国にでも行くように仰天し『お餞別』などをくれた。まして『嫁入り前の娘』の旅などは考えられなかった時代である。余談だが、その旅で阿寒湖から乗った観光バスの中で巡り合ったアメリカ人の学生が、2年後に日本に戻って来て求婚した前夫である。 その話をしたせいか、数年前に日本を旅した際、北海道にも行ってみたいという息子の願いを叶える事にした。「泊まりに来て」と言った友達のMが「成田から札幌まで国内線で1時間くらいよ」というので、空港前のホテルに一泊し、翌早朝の国内線で一っ跳び。あっという間に札幌に着き、迎えに来てくれたMの娘達がそこからすぐ、車でアイヌ村や支笏湖につれてってくれたり、昼食したり、「まだ時間があるので」と、チョコレート工場に行ったり、Mが勤め先から帰宅するまでの長い1日を充分楽しませてくれたのだった。恐らく上記のお姫様が何日も駕篭で旅した距離だったろうと思う。 日米間もしかり、船で10日かかったものが、飛行機だと10時間でついてしまう世の中、ましてアメリカ大陸に長い事住んでいると距離感に麻痺してしまうようで、ある日、画家の夫の絵をロスアンゼルスの画廊に届け、その帰りに日本のスーパーに立ち寄って買い物をし、薬局で処方箋をピックアップすること200キロという、ごく当たり前の日課をブログに載せたつもりだったら、日本の読者が、「ヒェ~!」と驚いた。何故驚くのだろう?と日本の地図を見ながら考えてみた。驚く筈である。我が家を東京の中心とすると、箱根を越えて熱海か三島くらいまで、関西なら大阪から舞鶴位の距離を往復する事になるのだから。しかも3,4時間くらいで終わらせて、別に大したことではないと思っているのだから。 慣れとは恐ろしいもので、そういう生活を半世紀以上続けていると、従妹の住むサンフランシスコまで片道711キロあるが、何度も一人で車で行っているし、カナダのヴァンクーバーの友達の家までも片道2200キロの道を運転して行った。夫の個展がメキシコ側である時など、作品の配達に800キロくらい飛ばしていき、無論オープニングには出席し、又終わってから作品を取りに、計3回行くわけである。サンフランシスコ等は飛行機でも行くが、車だと景色を楽しめ、重いものでも沢山積み込めるし、途中下車して買い物や食事をする楽しみもある。 娘の生まれた年に、人間が月を歩いたが、人々は「いつか、娯楽として宇宙旅行をする日がくるだろうか」「いや、我々の生きてる間は無理だろう」と話していたが、つい最近その日が来た。テスラの創立者マスク氏とアマゾンの創立者ベゾ氏である。ひょっとしたらトイレに行ってる時間より短い、たったの10分で、ロケットに乗って地球を何周もする途方もない距離を往復したのである。 そんな世の中になっているのに、まだ人間達は、人種差別をし、互いの土地を奪い合い、権力争いは相変わらず続く。欲望の距離はぴったりと人間に付きまとっていて、石器時代からあまり変わってないようである。
2021.11.01
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何か、凄いスケジュールになってしまったので、暫くは写真日記です昨日は、アーバインにあるグレート・パーク(これは、元海兵隊の練習場で、ここから、沢山の飛行機が飛び交っていた場所ですから、広大な場所でしたから、公園といっても、はんぱでないサイズです。そこで、毎年グローバル・ビレッジ・フェスティバルが行われてましたが、コロナで、やっと再開しました。我々の合唱団も20カ月ぶりに公衆の中で歌ってきました。団員の半分以下の人数でしたが、マスクをしてうたっても、とても楽しかったですそして、昨夜は100キロ先の、ポモナという町までいってきました。アステカの死者の日のダンスをやってました。画廊巡りのつもりでしたが、画廊はあまり開いてなくて、日本の縁日のおおきなものみたいに、屋台がいっぱいで出ました。アステカ系のメキシカンが大勢住んでる町です。骸骨の衣装でおどってました。西洋建築には、季節を飾る床の間がないので、私はテーブルセンターで季節感をだしてます。我が家の庭のドラゴンフルーツが、何年振りかでなりました。月下美人と似た花が咲きます。50年前に私が陶器をやっていた頃つくったボールや、35年前に息子がつくったマグでの朝食は幸せ感たっぷりにしてくれます。グレッグの腰が痛むので、マッサージに数カ月言ってたのですが、「凄くよいから、弘子もやってごらん。僕が払うから」というわけで、どこも悪くないのに、90分のマッサージをしてきました。
2021.10.11
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16年目のジャパン・フィルム・フェスティバルが開催されました。この発端者が、朝倉氏で、私の「Happy介護」の本を出版してくださった方です。このなかの、なんくるないざあには、私の親族もかかわっているというので、楽しみに見てみます。ネットでもみられますので、是非、リンクをクリックしてみてください。*Youtubeも観てください。この野球帽の男性が朝倉氏です。よろしく。
2021.10.04
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*数年前から連載してる、地元の月刊誌、10月号がでました。考えたのですが、写真を撮って載せると、字が小さくてよみにくいので、原稿を貼ることにしました。 アメリカのプレジデント・ウィルソン号で横浜港を出たのは1964年4月の末で、ハワイに着いた頃は5月になっていた。当時はカラカウア通りを車で走るとビルと椰子の木の間に間にビーチがみえ、泳ぐ人、カヌーを漕ぐ人、サーフィングする人などを楽しめた。ムームーを着て花を髪に飾ってる人、水着で大通りを歩いてる人も大勢いて、「あ~、これがハワイか!」と、すべてが物珍しかった。 勿論テレビも珍しくてよく見たが、6月に入った頃、学校の卒業式を放映してるのを見てアメリカの学校は夏休み前に終わるのだと知った。つまり進学先が決まった後で、安心して思いっきり遊んでから新学年に挑むわけだから、心身ともに余裕があって良いシステムだと思った。 * 「人間は、死ぬまで学ぶものです」と祖母に言われ続けて育った私はその教えを忘れず、子育てを終わらせた49歳で大学生になり53歳で大学を卒業し、公立高校と私立大学のパートの教師になった。小学校から学校の先生になりたかった夢をアメリカで叶えたのである。日本では考えられないことであろう。戦後の日本の母子家庭では食べるのに精いっぱいで、ともすれば高校に行く余裕さえなかったから、大学など果てしもない夢であった。又、相談する先生の判断が進学に影響したから、その先生に嫌われてる学生は夢をつぶされる可能性も充分あったと思う。たとえ経済的に困らない人でも、両親そろっていないと推薦状を書いてくれないとか、親の職業や収入、ワイロまでが入学基準に影響した時代であった。「お父さんいないんだろ?お母さんの仕事は何?お宅の経済力では昼間の高校は無理だよ」そう言われた若者達は、成績優秀でも定時制の高校や大学に行かされたのだが、日本の社会は卒業後の就職も昼の学校の卒業生と別扱いされるような雰囲気でもあった。 例をあげると、両親がそれぞれ再婚、母親がアメリカに住んでいた従兄などは定時制大学の英文科卒で英語は抜群だったが日本の会社は見向きもしなかったので外国の会社に応募、一回の面接で合格し差別もされずリタイアするまで勤め上げた。このように日本の社会は肩書に重きをおき、欧米の会社は実力を重視した。 日本のそれほどではないが、アメリカの高校でも大学の進学相談には、カウンセラーが個人的にアドバイスをするというので、私は日本の経験から、アメリカの学校ではどうするのか興味があった。ある日、娘が不機嫌な顔で帰宅し、「カウンセラーが、あんたは女だから映画監督になるなんて考えをやめなさい、あれは男の仕事だよと言った」と報告したので、憤慨した私は翌日高校に行き、男女同権を主張するという噂のカウンセラーに替えてもらった。そのカウンセラーに「男女関係ありません、夢に向かって進みなさい」と激励されて娘は意気揚々と帰宅した。 大学で映画科時代に、教授が国際アジア映画祭に内緒でだした娘の作品が2位になり、卒業後アメリカで1番若い女性のアニメ監督となった。数々の賞をとり2021年は娘の監督したアニメシリーズがピーボディ―賞を獲得。娘自慢になってしまって申し訳ないが、カウンセラーの意見で将来のコースを決められる事の危険さを感じた1件を書きたかった。同時に不服であったらとことん挑戦できる社会構成はアメリカの長点でもある。思ったことを言わないとどんどん蹴落とされていく社会がアメリカであるから、強くならざるを得ない。 アメリカの大学システムは、朝から夜までのクラスの中から自分のスケジュールを自由に組む事が出来るので、昼間働いて夜のクラスだけを選んでも就職には関係ない。同級生にカナダからの留学生がいて、夜10時から朝の6時までお年寄りの介護をする仕事なので、勤務開けに自宅に立ち寄ってシャワーを浴び朝食をしてから大学に来ていた。 更にアメリカのシステムの良いところは必修科目を入れて合計120ユニットのクラスを合格点でとれば、2年で終わらせてもいいし、10年かけて終わらせてもかまわない。ちなみに、娘の小学校の同級生は22歳で医学博士になったし、85歳で大学を卒業した近所のご婦人も知っている。つまり、私のように53歳で卒業して教師になる事も別に驚くことではない。更に大学を替えるのも簡単で、母校には修士号のコースがなかったので別の大学に行ったのだが、テストも無く簡単に入る事が出来た。このように、年齢にも時間にも関係なく学べるアメリカの教育システムは合理的だと思う。日本にもこのシステムが取り入れられたら、経済的に苦労して勉強したくても出来なかった人々にチャンスを与える事が出来る。また、「その歳では無理」と言わずに、社会的経験豊かな人を雇う企業が増える事を祈っている。
2021.10.03
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書き留める 心の残影 消えぬうち 子に語り継ぐ 我が来たみちを I write down my thoughtwhile afterglow of the pastremain within me.I pass on to my children,so they’ll know which road I took.
2021.09.27
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これは、レスリーのずっと若い頃、ラグナビ〜チで人魚の最初のモデルになった時の写真ですが、以後様々の形で人魚の作品が町に広がりました。50年くらいたった最近、銅とガラスでとうしんだいの人魚をつくり、50人くらい招いて打ち上げパ〜テイを彼女の家でやりました。家も自分達で建てたものです、 下半身はガラス細工で、ドップがどうばんです。 客の一人に昔、隣に住んでいてお母さん同士でお守りを交換しあった時の赤ん坊が、レスリーの離れを借りる人を探す周旋屋になって来てました。「弘子❣️」とハグした時、私とレスリーが義姉妹だと知って驚いてました。前夫も知ってたからです。アメリカも57年になると、こういうハプニングも良くあります。 前にもみせましたが、レスリーは離婚した時、家にいて子育てしながら稼げる仕事として、ステンドグラスを作り出したのですが、売れ残りを窓に入れたのです、木の枠も、浜辺で拾った流木などを使ってます。 トイレも綺麗。ディズニーランドとか、ナッツベリーファ~ム、銀行、企業のオフィスから、どでかい注文がくるようになりましたから、経済的には余裕ができましたが、息子が大学卒業した時に大きい仕事はやめ、(重いですから)小さな作品にきりかえまし。80に近ずいた今、昔懐かしい人魚を作ろうという事になって、ボ〜イフレンドと、グレッグの手を借りて 半年かけてつくったのです。その打ち上げを祝ってます。 裏庭のバ〜も手作りです。 我々も自分の家を建てましたけど、そういう時代を通って来た人は私もそうですが、貧乏になっても強いです。自分達で作り出すからです。また、そういう人たちはツテとか、人材もピンからキリまでいて広いです。
2021.09.20
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コロナがあっても、なくても、季節は回って来ます。もう秋ですね。それで、こんなリ〜スをつくってみました。 2005. 6 年から毎週一度のラナとのスピードウォーク。秋晴れでした。 胡椒の木は、何処にでもはえてます。 マラ〜ドみたいです。 食欲の秋。コロナ禍で太ったのでちょっと気をつけてお刺身とカッパ巻だけ。 古い手紙を捨てる前に読んでます。 母の手紙はやはりすてられないなあ。子供にはよめないから、どうせすててくれるでしょう。
2021.09.14
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【これも20年前にある月刊雑誌に載ったもので、その雑誌をゴミ箱に捨てる前に書きうつしておきます】【】←は今の私の意見です。『霧のもうもうと立つジャングルの中、一滴の水でもほしい砂漠の中、そして何千年も人間の目にふれなかったような秘境の土地、私はカメラ・クルーと共に、世界のあちこちを飛び回って夢を実現させる映画監督である…中略・・・ 私はこういうありがたいチャンスに恵まれたが、世の中には生まれ持つタレントがありながら、それを発揮できずに終わってしまう人々が大勢いるに違いない。私は今、そういう人々を救いだすだけの経済力も社会的地位もあるので、全力を尽くしてタレントサーチを続けて居る』 これは、娘が18歳の時大学願書に添えて出したエッセイの一部を8年後に私が思い出して翻訳したものだが、その時希望校の願書に≪20年後の自分を想像して書け≫という質問があって、それに答えたエッセイである。【その娘は今52歳で、アニメ監督として世界中をかけまわってます】 希望校にパスして、在学中に作ったアニメがアジア・アメリカ国際フィルム・フェスティバルに入賞し、卒業と共にワーナーブラザースで働いて、1年後にはハナ・バーベラ社から、プロデューサー・ディレクターとしてスカウトされた。「30歳ごろにはディレクターになれるかなあ~」と言ってたのが信じられない速い出世で、24才にしてその夢に到達し見事に45分のアニメを完成させた。 今またワーナーブラザース社に戻って、今度はテレビアニメではなくシアターアニメにかかっている。23才で家を買い、25才で父親をはるかにしのぐ高給取りになったが、子供時代の態度は変わらず、外装にこだわらず、着実に自分の夢を追う姿は見事である。 ワーナーブラザースに最初務めた時も、チャリティー活動は必ずボランティアとして参加し、1日に200枚の絵を描いたり、アニメの作り方を小学校に教えにいったりしていたが、ハナ・バーベラ社の契約がおわって得た3か月の休み中には、母校の歯科部の壁に大きな絵を描きまくった。そのサイズをのべにすると80メートルはあると思われる。【あまりにも、大きすぎて助けを求めてきたので、私も息子も手伝いにいきました。娘の下描きに塗り絵みたいに色をいれるのが、我々の仕事でした。春夏秋冬の夢溢れるシーンで、ロス・アンゼルス・タイムズにも大々的に載りました。USC歯科部門に今もありますよ】 そこは、ロス・アンゼルスの低所得者に無料で歯の治療をするのだが、親につれられて泣きながら、こわごわ入って来る子供達が、壁の絵を見てにっこり笑ってくれるのが楽しいと、娘が言った。他の医者からも、自分のオフィスの壁にも描いてくれとたのまれるらしいが、いくら大金を出すと言っても、きっぱりことわるところも彼女らしい。 このように、8年前願書に書いたエッセイにだんだん近づいてくる娘をみるにつけ、人間の信念の素晴らしさに感動しているこの頃である。【29才でディズニーの劇場アニメ監督になり、ティガームービーで世界中に知られるようになったのです。7年前からパートナーとBread over Bomb(爆弾でなくパンを、つまり戦争なんかやめて、困ってる人をたすけましょう)というフードバンクみたいなものを設立して、食品の無料提供をしています。お若い方々、夢を大きくもってください。】*残念ながら、一つの壁の写真しかもってませんでしたが、このシーンから、気球が秋の野原に飛んで、色とりどりの楓とかの下に、リス、兎、鹿とかどうぶつがのどかに草をたべてる、シーンになり、気球はさらに雪をかぶった山々に飛んでいきます。スキーシーンがでてきます。そして、春になって、花畑で、動物たちがピクニックをしてる絵がでてきます。娘は、夏になっても海にもいけず、冬のスキーなどもテレビでみるだけの子供達に夢を与えたいと言って描いてました。
2021.09.07
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2021.09.05
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昔なら当たり前だったのに、手紙を貰って、嬉しくて何度も読み返しました。喜久子さんというお友達ですが、1964年に横浜港から乗ったアメリカン・プレジデント・ラインのウィルソン号で知り合ってからずっと付き合ってます。私より三つ年上で、英語もスペイン語も堪能ですが、コンピュータ―は一切しないので、いつも手書きの手紙なのです。私はめんどうなので、すぐ電話。携帯も、彼女はテキストはしません。彼女は東大卒の人と離婚して、傷心の旅でした・・・・何か月かアメリカに滞在して帰国し、又東大卒の人と再婚し子供が出来て、メキシコに5年くらい住んでました。だんなが、メキシコの大学で物理だったか、エンジニアだったか教えていたと思います。二人で、我が家にも泊まった事ありますし、私は日本に行く度に泊まってましたが、ご主人は、タバコ喫ったこともないのに肺癌で亡くなってしまいました。その息子達ふたりとも東大卒という秀才一家。更に長男は東大の同級生と結婚。ときくと、「うわ!なにそれ?最高じゃない」とおもうでしょうが、さにあらず。 物静かで優しいご主人との平穏無事な生活から未亡人になり、寂しい思いをしてるのに、二人のお嫁さんはとっても冷たいのだそうで、息子と会いに来てくれないし、共稼ぎでいそがしいから来るなというし、長い事孫にも合わせてくれなかったとぐちっていましたから、世の中分からないものです。 考えてみたら、6年前に娘一家と日本に行ったときに、家を借りたのでパーティーをした時に彼女も招待したけど、当日になったら具合が悪くなって来られなかったので、最後にあったのは8年くらい前なんだなあ、と、驚いてます。 昨日アップしたエッセイの住職は、喜久子さんから紹介されたのを今思い出したところです。思えば、22歳の時から、の付き合いですから57年になるのですね。もう会わないでしょうし、コンピュータ―も出来ないから、Zoomも出来ない、電話と手紙だけで終わりそうです。ま、これも人生の一つでしょう。
2021.09.04
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このシリーズは、断捨離中に見つけた手紙の束や、私の記事が載ってる雑誌をみつけたので、捨てる前に公開しています。「へぇ、20,30年前に結構良い事書いてら~~」などと、自己満足もいいかげんにせい!というか、20年、30年後の今と比べて楽しんでます。 私には、ありとあらゆる知人がいて、これはあるお寺の住職の一人。結構文通を続けていた仲です。それで、タイトルが「夢のカリフォルニア便り」になってます。私の事ですから、若い頃から単刀直入にずばずば物をいうのですが、それが、とっても気に入ったらしく、「お姉さま」とか「弘子姫」とか、おだてられて、ながい付き合いとなりました。丁度同じころ彼は、十何代目かのお寺を継ぐことになり、私は自分が大学に行くことになったりで、互いに忙しくなって、いつの間にか音信不通になっていましたが、彼が出版していた雑誌が現れて懐かしくなったので、ここに書き写しています。この頃から私は(しみ、しわ、しらが、難聴の)外見以外は考え方もあまり変わってません。あえて言えば今は人をそのまま受け入れる事が昔より上達してきてます。そんな私が嫌いなら別に付き合ってくれなくてもいい。つまり、自然体なのです。ここから、エッセイです。息子が一年生位の時の話を20数年後に思い出してるエッセイですから40年前の話になります。 昨日スーパーで買い物をしている時、母親に連れられてショッピングに来ている、6,7歳の男の子とその友達らしい男の子との会話が耳に入った。「僕のママは先週100ドルも買い物したよ」【現代の300ドルの価値】「僕のママは150ドルも使ったよ。え~と、よく考えてみたら180ドルだっけ」この時、ふと私の息子が同じとし頃だった時の話を思い出した。いまだに私はボランティアー活動を続けているが、その時私はカブスカウトのデン・マザー(組長)をやっていた。今でこそラグナビーチは高級住宅地として知られているが、全部が全部金持ちばかりではない。もともと住んでる人々、親代々の家を継いだ人々、本当に大金持ちで別荘として家を持ってる人々と様々なのだが、この15年位前から急に成金族が続々と移って来た。そして、そのほとんどといっても大げさでないほど、メキシカン【南米系】の女中をおいて、プールを持ち、ベンツの2台や3台乗り回し、ひどいのになるとロールスロイスを子供の登校につかう連中もいる。そういう環境の土地で主人と私はまだ安い頃買った土地に、1973年から二人の手で土台から家を建てているのである。【私は20年以上この家をたてたのですよ。夫が出勤する前にリストを書いて置いていくので、帰宅する頃には終わらせましたから、60%は、私の手で建てた家です。Happy介護の本にも出てきますよ】 いつものように放課後クラスを借りてスカウトのミーティングを終わらせ、母親達の迎えに来るのを待つ間、ひとりの男の子が泣きそうな顔で「僕のママとパパ、スキーに行っちゃった」と言った。何となぐさめようかと考えている内に思いもよらない会話が始まった。「僕の両親はスキー場にキャビン持ってるよ」「僕の両親は自家用セスナでキャビンに行くんだ」と別の子が言った。始めになきそうな顔して「スキーに行っちゃった」と言った子がキッと頭をもちあげ「ぼくんちはプールがあるよ」「僕んちだって」「ぼくんちも」と続き「ぼくんちは女中がいるよ」「うちだって」「おなじく」そして会話は、延々とヨーロッパの旅に飛び、ジャガー、ポルシェ、フェラーリ、ベンツ、ロールスロイスから、スピードボート、豪華ヨットと、エスカレートしていった。 時々私の顔をジロリとみていたが、それまでじーっとだまって聞いていた私の息子が急に、「僕の両親は二人で家を建てる事が出来るんだ!!」ザマーミロ!といわんばかりの顔で言ったのだ。そのとたんに10人位の子供達のくらべっこがピタリと止んだ。 息子としては、シートから中身がはみだしているvwでは威張れないし、女中もいなければプールもないから頭をひねって一生懸命何か自慢するものはないかとやっと考えついたのがそれだったのである。 今では主人や私より重い物も運べる体になって、いまだに建築中の家をよく手伝ってくれるが、この時価値の本当の意味を我が子に教えられた。息子は心から「こんなに素晴らしい両親をもっているのだぞ」と思ってくれ、他の子達もそれには”ぐうの音“も出なかったのである。(↓のイラストはその住職が描いたもの)(その下は私達が建てた家。私が離婚してからは、あまりすすんでいませんから、まだ終わってません。この家の話もHappy介護の本に出てきます。第一章はこのバルコニーからはじまります。日本のアマゾンでどうぞ)
2021.09.03
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コロナ禍の爲に、合唱団のサマー・コンサートもバーチャルになってしまいました。これは、個人個人で録音したものを先生に送り、オッケイがでたものを、ボランティアーの人がミックスしたものです。プロではないので、ずれがあり、画面と口があわなかったりします。実際の舞台の上とは全く違いますが、精いっぱい出来るだけの事をしました。よろしかったらご覧ください。私は、若い頃はソプラノ、この団体に入った頃はアルトでしたが、いまでは、テナー・ベースのリーダーをしています。こういってんです。ははは、
2021.08.30
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ながいお付き合いで、実際にもお会いしてるお茶と英語の先生をしてるお友達です。俳句の達人でもあります。でかでかと、宣伝してくださいました。うれしい!私がパソコンに触り始めたのは55歳の時でしたから、早や二十年近くにもなりますが、その早い頃からのネットを通じてのお友達、アメリカにお住まいのヒロコ・ファルケンシュタインさんは何冊もご本を出版していらっしゃいます。いつもいつもバタバタしててゆっくりと読書もできないのですが、ようやく彼女の「Happy介護」というご本を取り寄せてじっくりと読ませて頂きました。アマゾンで求めたのですが、ふとレビューの欄に目が留まって、初めてレビューなるものを書いてみましたよ!(^^)!そしてポチッと送ったと思ったら、なにやらすぐにはそこへ反映されませんので・・・と書いて来られました。??なにか審査のような物があるのかも・・・?こちらにコピーした物をお出ししてみます。ここから↓作者のブログの長年のファンでしたので、内容をある程度分かっているにも関わらず本を読みだしたら、次は次は・・・とその展開を追わずにはいられず、ほぼ一日かけて一気に読み切ってしまいました。しかも、その場面場面での言葉や情景が豊かで、急いで読み飛ばすにはもったいなくて味わってゆっくりと読みました。人それぞれの来し方生き方の人間模様が、作者の驚くような記憶力でさまざま披露され、詐欺のような盗人の様な生き方の人々に対処する一方、あきれるほどの良心的な生き方の人々も描かれ・・・時に行間に織り込まれる抒情的描写にも引きこまれました。また本の中の、愛する妻が認知症で壊れていく時に示す夫の深い愛の姿は、今介護をしている人達にも、介護の世代となっている人々にとっても、これからの我々に大切な手引きとなるように思いました。今の高齢者社会において他人事ではなく、まさに明日の私のこと貴女の事と思えます。夫にも読んで貰いたいと思いました。多少の校正の間違いは私には微々たる物に思え、読み進むのにはまったく問題なく感じました。 ↑ここまでさてアップしてもらえるのかな?良かったら、アマゾンの本の所でHappy介護と入れてみて下さいませ。定価2200円 あはっ!ついでに宣伝しちゃった! お節介かもしれませんが私はとっても良いなと思って読ませて頂いた本でした
2021.08.27
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その1の『個人的な話』には後日物語がある。ジュンのボーイフレンドの母親は人種差別よりも見栄の方が強く影響していたようである。そうだと思った理由は、他でもない。彼女の娘が私の日本人の知り合いと白人のご主人とに出来たハーフの息子とで歩いていたのだった。つまり、兄妹で日本人のハーフとデートをしていたわけである。私の知人は大学の日本語教師だし、ご主人は歯科医で、娘のボーイフレンド家族と同じ超高級住宅が密集しているゲートガード付きのプライベート・コミュニティーにすんでいる。つまり、経済的に釣り合わないのと、お行儀が悪くて表面的なことにこだわらないジュンが気に入らなかったと言う方が本音のようであった。【彼女を知る数人に話してみたら、表向きばかり気にして軽薄な人だと知った】 二人は大学を卒業して、娘はワーナーブラザーズ社、元ボーイフレンドはディズニー社でそれぞれアニメ家として生活してい、時々電話で話したり合ったりしているそうだ。 ところが彼は、二十一歳のとき【大学三年生】、突然親に内緒でディズニーランドに神父、花嫁、親友を連れて行き、宙ぶらりんのゴンドラの中で四人だけの結婚式をしてしまった。何事にも百人位まねいて、仰々しくパーティーをやる母親にとってかなりのショックであったらしい。彼にとって、ささやかな抵抗であった。【その後、あっけなく一年で離婚してしまい。男の友達と暮らしだし、町中に彼はどうやらゲイらしいという噂まで広がった。】 社会的『人種差別』は、微々たるものでも年々少なくなっていくようで嬉しい。人種ミックスのカップルが非常に増えてきている。アメリカは段々、差別する人の事を軽蔑視する社会になりつつある。【三十年後の現在はもっと、ミックス・カップルが増えて来てるし、黒人の大統領まで選ばれたから、絶対に良い方向に向かってる筈である】 人種差別は社会的影響の結果とみて良いと思う。何故なら、小さい子供達には人種差別など全くない。育って行く過程に周りの人達から習っていくからだ。大人になったら個人のチョイスであろうが、残念な事に大多数の人々は正しいと思う本心を無視して周りの人の影響で行動することの方が多い。仲間外れがこわいのである。でなければ、無神経か、他人の意見をそのまま信ずる頭の悪い人であろう。いずれにせよ、色々な人達が混じり合って住いんでいるのが社会であり世界である。一般社会の意見が良いとか悪いとかは、人間達が勝ってに決める事だと近頃悟ってるが、私自身は勿論、二人の子供達も、正しいと思ったらそれを主張する、仲間外れにされても平気な人間に育てたつもりである。願わくば世の親たちが、自分の子供達を人の意見に惑わされず、考え深い大人になるようにそだててほしい。【後日物語:娘は大学を卒業して数年後にアニメの監督になり、2000年にはディズニーのティガームービーの監督になって、元彼は彼女の下で働いていた。ジュンはそれからもアニメ一本で今年はアップルTVの(パンダのしずか)の総監督でピーボディ賞を獲得。元彼はアニメ家を諦めたが、美術大学でアニメを教える方に切り替えずっと教師をやっており、今でも同じ男性と暮らしているから、噂は本当だったのかもしれない。『人種差別』にかんしては、トランプ大統領の四年間で、アメリカが大きく揺れ動いて、ありとあらゆる種類の差別や問題が渦を巻いているところに、更にCOVID19がパンデミックとなって地球を荒らしまわっているから、今は静まるまで様子をみるしかないだろうと思ってる】
2021.08.26
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アメリカには Affirmative Action(アファーマティヴ・アクション)という法律がある。【ちょくちょく変わるので現在はどうなったか知らない】これは、どの公共団体でも有色人種をある決まった率の人種を受け入れなければならない、という法律であり、大学、警官、役所などで一定の白人に対し何人かの有色人種を受け入れなければならない。これも困りもので、例えば定員何人か募集した場合、資格のある白人が落ち、資格がない有色人種が合格する事がままある。 私が大学に通っていた頃、黒人の学生が「私もこの法律に反対。だって、どんなに良い成績でも、私が黒いから入学出来たと思うんだもの」と、こぼしていたのを思い出す。そういう訳で、最近は反対に落ちこぼれた白人達が「これは人種差別だ」とデモったり、裁判沙汰になる事がよくある。【反対に成績が悪くて受け入れられなかったとしても、この法律のせいにした白人学生もいただろうと思う。私は自分が白人でなくても最初からこの法律は嫌いである】 もう一つは、仕事中ドラッグをやったり、自分達の働きや態度が悪くて首になった有色人種が「自分は白人でないから首にしたのだ」とか、勉強もせず怠けていて悪い成績をとると「白人でないから悪い成績にした」とくってかかり、法律を悪用する連中も大勢いる。つい先週も、首になった黒人が元の職場にピストルを持って行き、従業員五人を射殺した事件があった。これは資格もない人を受け入れた結果ではないだろうか。【義父がまだ生きていた若い頃、従業員200人ほどの会社の経営者であったが、一人の社員が遅刻はする、喧嘩はする、盗みはする、ドラッグはするで首にしたら黒人だったため、人種差別だと訴えられて負けた経験があると話してくれた事がある。他の黒人達は問題なく働いていたのにである】 私は、このaffirmative actionは、本当の意味での人種差別だと思う。黒とか、白とか、茶色とかに分けること自体が差別だと思う。【私など、太陽にさらされると黒光りしたこげ茶色になる】資格のある人は何色でもいいではないか。皆、人間ではないかと思うのだ。それより、本当に勉強したくても貧乏で学校に行けないような人に、もっと奨学金や低利のローンを貸付けるとか、仕事をしたい人に見習いさせる制度を取り入れるべきだ。 【このエッセイを書いてから20年以上経っていて、周りを見回すと我が町の郵便局も、DMV(日本語を知らないが、運転免許証や車の登録をする部門)などは東洋ではないかと勘違いするほど、東洋人、メキシカン系が過半数で、白人の方が少ない。土地斡旋業も、医者、弁護士もありとあらゆる人種がいるから、随分変わってきている。ピアノを教え始めた50年以上前の時の私の生徒は、白人だけであったが、30年後には黒人、インド人、韓国人とか、すこしずつ混ざって来て、リタイアした頃は、国連のようになっていた】続く
2021.08.25
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アメリカの人種差別は「白人対黒人」だけのように見られるが、もっと込み入っている。元々はイギリス、ドイツのアングロサクソン系が、社会の主導権を維持するために始めた事で、スペイン、イタリア、フランス系、アメリカン インディアン、ユダヤ系、又は鉄道工夫として働いた中国人、日本人までが差別されていた。白人の中でもアイルランド人は差別された。いわゆる一般的に知られているアメリカの人種差別の始まりは、黒人を奴隷としてアフリカから連れて来た頃なのだが、奴隷解放後も根強く差別が続いている理由は、十九世紀の終わり頃 ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)というイギリスの哲学者がダーウィンの進化論をもとにSocial Darwinism (ダーウィン式社会論)を唱え出したからだと言っても良い。 スペンサーは「生物の世界は、強い優秀な種が自然に生き残る」と言う説を真似て「社会経済は有力者によってつくられる。自然に優秀な人が有力者となる。それゆえに優秀人物が大地主になるのも巨大な富を得るのも当然である」と論じた。貧乏人の中にもチャンスを与えれば有力者となれる素質がある事や人種には、まだこの時点では触れてないようである。 ところが、これをイェール大学教授がアメリカで演説をして回り、それに尾ひれがついて『黒人と白人は別種である』というような、もっともらしい本を次々に出版したからたまったものではない。ひどいのになると、『黒人は人間にあらず・・・であるから感情も持たず、痛いという感覚もにぶい』とか『ゴリラ並みの体力があり、きわめて危険であるから要注意』と科学的に説明までしてある本まであったそうである。そういう本が売り出されたから、学のない一般市民はもとより、教育をうけた人々までが「フン、フン、なるほど」と信じ出したから黒人たちが迫害されやすくなったのは当然である。 元をたどれば、解放された黒人たちのなかに優秀人物が大勢いて、放っておくと白人に近い富も権力もすぐ手にいれられる恐れがあったから、【アメリカの】人種差別とは、白人達が自分達の権力維持のために作られた実に卑劣な手段だったのである。【後に日本の移民達の中から優れ者が続出したときも、同じ事が起こっているが、これを書き出すと長くなるからやめておくが、つまり、白人の嫉妬である】そのうえ、白人と黒人の人口の差が大きく、法律も白人本位につくられていた。【今だって、これはかわりない。現に白人が主に主導権を握る保守党は、有色人種が投票できないような細工をし、これを書いてる今、国会で選挙法を自分達本位に改正しようとしている】 当時黒人は闘う資金も、学問を受ける資金もなかったから、生きるためには白人達を頼るほかのすべもなかった。時の流れと共に、優秀な黒人達が自分達のなけなしの金を集めて代表者を選び、カナダやイギリスなり海外に送り出し、成功した者が仲間たちを助け出す方法を取り出した。実際にかなりの教育や富を手に入れた黒人達の名前が歴史の本に出てくる。しかし、百年以上に渡って洗脳された一般の誤解はそう容易にきえるものではない。 白人達のとった行為は、日本に炭鉱労働者や紡績工場の女工として連れてこられた(個人のチョイスで来た人も含めて)韓国人に対する日本人がとった態度ともよく似ているではないか。日本人も権力維持のために彼等に対して卑劣な事をしてきた。現在の世の中になっても、「3Kの仕事は外国人にやらせよう」という態度はかわっていない。【これはどこの国でも同じであろう】そういう仕事でもしなければ食べていけない人々を助けて、何が悪い!とでも思っているのだろうか。【それなら、それ相応の報酬を払えと、私は言いたい。二束三文の賃金しか払わないのは人間として言語道断である】 アメリカでは、一応法律で人種差別をすると罰せられる。一応と書いた理由は、法の裏をくぐって差別をする輩(やから)はどの世の中にも大勢いるからだ。それでも日本と違うのは、アメリカで生まれた人は誰でも市民権をとる権利がある。何代も日本で生まれ育って日本人と同じように税金も払っていながら一世が韓国人だったという理由だけで市民権を与えない日本とは大違いである。 コンピューター技術が発達し、ファックスで遠い国までメッセージもインスタントに着く、飛行機で世界も一っ跳び、着るもの、食べる物も、テレビ番組も全世界が似通ってきていても、いじめやら、テロ行為やら、人種差別は人間の独占欲がある限り、いつまでも続くであろう。【これを書いてから二十余年たった今では、もうインスタントにウェブカメラで顔を見ながら世界中の人と話せるようになっているが、煩悩は変わっていない。・・・であるから、20年前にかいてあたためていた、「ハッピー介護」の本も、無論ハイテクになって医療器具やシステムは改良されてきてはいるが、人間の行動にかわりがないから現代でも通ずる話だとおもって今年出版したのである。これは、介護だけの本ではなく、私の人生哲学がびっしり詰まっている。】 (続く)日本ではアマゾンで買えます。アメリカでは、8pkaigo@gmail.com にお問い合わせください。8Pで、ハッピーなので、8pkaigoと覚えておいてください。
2021.08.24
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「立つ鳥水を濁さず」80に近づいてきてるので、残った人がこまらないように、あれこれ整理しはじめ、断捨離をひんぱんにやってるのですが、途中で、20数年前の日本からの手紙やら雑誌の束が出て来ました。手紙を読んだのは覚えていても同封されてきた雑誌は殆ど読んでいないか、開けてもなかったものがあり、捨てるまえにパラパラとめくってみたら、私のエッセイがあちこちに出てきたのです。その中の『人種差別』というエッセイを読み返してみたら、皆さまにも興味深いと思うので、数回に分けて載せてみます。その1は、高校時代の娘の話ですから、33-30年前の話です。読み返しながら、この30余年に世の中どれほど変わっただろうか?と考えている所です。繰り返しますよ、30余年前の話ですからね・・・・【】のなかは、現在の私の意見です。その1『個人的な話』 10年前の話になるが、娘のジュンが高校二年生のある日、ウキウキした声で「ただいま!」と学校から帰って来た。彼女の話によると、学校の掲示板に学校新聞がでてい、マンガが載っていたので、その横にいたずらのつもりで自分もマンガを描いて彼女のキャラクターが新聞マンガのキャラクターに話しかけたら、翌日新聞のキャラクターから彼女のキャラクターに返事がきていたらしい。それがエスカレートして掲示板がマンガで一杯になってしまったそうな・・・で、ついにマンガ家同志であうところまで漕ぎつき、今日は初めてのデートなのだと言った。【娘は大学でも学校新聞のマンガ担当になってましたが、卒業後アメリカで一番若い女性の監督となり、アニメの世界にどっぷりつかって三十年アニメ業界ではかなり知られてます】 それからと言うものは 明けても暮れても二人一緒か、さもなくば夜中は二、三時間電話で話すようになって、いつの日か自分達のアニメ会社を作ろうと大きな夢を見ていた。ところが、一年位たったころ、彼の母親から私に電話があった。「お宅の娘さんはどうやら我々が外出している時こっそりと息子に会いに来ているようですね。宅の息子はクリスチャンで礼儀正しく育てておりますから悪影響を与えられたらこまります、あなたはご存じでしたか」と言う。「私には殆ど何でも話してくれますが、娘はお宅の息子さんがとうしてご両親に逢わせてくれないのか、どうして留守中しか招いてくれないのかと、いつも不思議がっております。息子さんは毎日われわれの家に来てますよ。」と答えた。彼女は、エッっと一瞬おどろいた様子だったがそのまんま続けた。「あの~、人種差別でも何でもないんですけど、白人以外のお嬢さんではこまるんです。もうお宅の娘さんと息子の付き合いはやめていただきたい。息子には白人のガールフレンドがちゃんといるおですよ」と嘘を言った。 翌日、娘は一晩泣き明かして顔が腫れあがっていたので学校を休ませたのだが、後から、彼も泣き明かして学校を休んだと聞いた。彼の母親は、彼の部屋から電話も車の鍵もとりあげ、コンピュータ―で話し合ってるのを見つけてそれまで取り上げてしまった。二人の仲は更に親密になり、彼は男の友達と学校に行くふりをしてゲートで待ち、毎日娘の車で送り迎えをし放課後かならず我々の家で夕方まですごした。 彼はあの手この手で電話をして来た。【携帯など無い時代】例えば、ガレージの車にとりつけてある父親の電話からとか、休みに家族でコロラド州までスキーに行けばトイレに行くふりをして、レストランから電話し、ヨーロッパからも公衆電話から娘に連絡があった。それもある日バレて、娘との交際をこれ以上続けるなら大学の費用を出さないと親に言われた彼は自殺でもしそうな雰囲気になっていた。 それでも無事高校を卒業し、同じ大学へ行ったのだった。【親への反抗の#1】自由になった彼は娘にいりびたりになり、娘から「男の同級生と話すだけで嫉妬するし、電話にでないと他の男と話しているのだろうと疑うし、毎朝まだ寝ているころからドアをノックするから、ルームメートまで怒り出すしで怖くなってきた」と言う電話がきたので、ルームメートとなるべく行動を共にするように注意したのだが、内心危険を感じた。ついにキレタ娘は、ある朝絶好を宣言した、と知らせて来たのでほっとしたのを今でも忘れない。(続く)
2021.08.23
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恐らく、先月のエッセイ載せるの忘れていたとおもいますので、 両方載せますね。
2021.08.05
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カリフォルニアで50年近く仲良くしてるスミエさんとお寿司屋へ。いつも行く店が閉まってたのでファンシーな店に行ったら100ドル近い値段!! 友達夫婦と、園芸センターで合流。二時間位見物買い物して 老舗のシ〜フ〜ドのみせで早い夕食。 私はホタテ。この店は全部炭焼きなんです。 クロアチアの家族から、近況を知らせてきたり、ドイツの友達がクロアチアで夏を過ごしたりで、今すぐすっ飛んでいきたい。
2021.08.03
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アマゾンで買えます。日本から「ハッピー介護」の感想です。実家が秋に大規模な建て替えをするにあたって、数ヶ月母を我が家で受け入れる事になりました。義理の妹との関係はなかなか複雑なものがあり、間に挟まれた弟にはには不甲斐なさを感じたりもしますが、老人と同居することの難しさもしみじみ感じます。そんな時いつもヒロコさんの「happy介護」を思い浮かべます。本当に本当に壮絶な介護でしたね〜。お2人同時に、しかもお一人は認知症で何をしでかすか分からない状況で。そしてその実の息子である当時の旦那さんが、その苦労に労いの気持ちどころか、逆恨みなんて...ヒロコさんの本には介護する側の裏側の色んな人の感情や事情も正直に書いてあってとても共感出来ました。それにしても、もう何年も前の事といいながら、本当によく頑張られてすごいです!最後お父様が旅立たれた所は、本当に胸が熱くなって涙しました。ヒロコさんの生き様をこの様に本に残すことが出来て、良かったですね〜。どうして義理の関係でありながら、あそこまで出来るのか。きっと私なら途中で投げ出してしまうか自分が潰れてしまうかどちらかだと思います。本当にヒロコさんの人間力の大きさに脱帽です!
2021.07.25
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私の人生には不思議なことが数々起こる。私が前夫と離婚した後も義両親の最後まで看取った事は本に書いた。義父は脳溢血、義母はアルツハイマーであった。(ハッピー介護はその経験談である・アマゾンでどうぞ)義母は、住んでいた道の名前から、チキタ・人形劇団というグループを作り出し、義妹が小学生3年の時に5人の同級生を対象に始めたもので、高校を卒業するまで続いた。その内、4人は嫁いできた私とも懇意になった。一人は私がこの町に来た頃は、他の州に引っ越していた。 1960年代に始まった劇団は、当時インスタント・センセーションとなって、南カリフォルニアでは引っ張りだこになったくらい売れっ子になり、ディズニーランドからも招待されて、パーフォーマンスをしたし、ラグナ・ビーチのアート・フェスティバルでも毎年パフォーマンスをしていたj。(後に、これは美術には入らないから、フェスティバルから削除しようとした人もいたが、その後も、他の人形劇団がずっと続けていた。それだけでなく、地方テレビからも毎週番組を続けてほしいといわれ、彼女等が卒業するまで続いた。話は半世紀以上後の2021年に飛ぶ。ある日、フェイスブックで、リンダという人に巡り合った。「あなたは、知らないと思うけど、私はチキタ・人形劇団チームの一人だったものです。今は他州に住んでますが、この夏は久しぶりにラグナ・ビーチに行く計画なので、是非あってください」というものであった。つまり、5人の内、1人だけ会えなかったリンダであった。玄関のドアを開けると、にこやかな白髪の女性が大きなバインダーをかかえてたっていた。招きいれて、そのバインダーの山とある新聞記事やら、プログラム、宣伝パンフレットなどをみせてもらい、半世紀以上昔の四方山話に花を咲かせて楽しんだ。義母からとってもかわいがられたという。そういえば、母からもリンダの事はよく聞いていたので、「じゃ、母から受け継いだ、イギリスのティーカップで、お茶を飲みましょうね」と、言うと「懐かしい食器棚に、ティーカップ!」と、とても嬉しそうだった。私の本にも書いたが、義妹と母はウマがあわず、高校を卒業してから、ずっと、東側に行ったきり、殆どあいに来なかったし、「母のものなど、何もいらないから、弘子に全部あげる」といったので、私が、食器棚ごともらったのだ。また、母の認知症が進んでからは、私が、母の替わりに全国からくるファンレターに答えていたというと、リンダは「それは素晴らしい」と言った。楽しい数時間を過ごして帰って行ったが、まるで一か所欠けて、気になっていたジグソーパズルが、やっと完成したような、不思議な空間の出来事であった。
2021.07.23
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「弘子さん、同じ道を反対に帰ろうと思うのですが、電車の駅からバス停まで車で連れてっていただけますか?」というメッセが入ったので、三日前に降ろして送った駅まで迎えに行きました。我が家から10分内の場所。「今、リバーサイド駅をでます」というメッセ。無人駅です。ここから1時間後には、わが町の駅に着きますから、そこでピックあっぷして、コーストハイウェイのバス停まで送りました。「もう、これ切れだと思ってたけど、また会えたね。我が家でトイレとか行かないでだいじょうぶ?」「はい、大丈夫です」コーストハイウェイは、ターンするところが無いので、彼女等をバス停でおろして、2キロ位先の病院でターンして戻って来たところで、信号が赤になったので、「げんきでね~、またいらっしゃい」と、私が車から怒鳴ってるのを、あきよちゃんが写したものです。」 5.6年間、鬱がひどくなって雲の上に住んでいた、グレッグが、地上に戻り、又、絵を描き始めたら、もう二か所の展覧会にまねかれ、3作おわらせ、2作を額屋にもっていきました。HangoutMadre Antonia (シスター・アントニア)両方とも水彩です。下の絵は、世の中に良い影響を与えた女性というテーマの展覧会ですが、このアントニアは、ベバリーヒルズで、富豪の娘として育ち、二度の結婚で子供が7人。その一番下の子が15歳になったときに、メキシコ一番、危険、汚い、貧乏な監獄に移り住み、犯罪人たちの心のよりどころとなって、一生をささげた人なのです。見た事あるなあ、、、と思ったら、ラグナビーチにも、12室もあるような別荘をもっていて、丁度わたしが子育て中によく学校や、教会で古着、台所用品、何でもの寄付集めをしてたと本に書いてあったので、その時にあっていたようです。かいつまんで書くと、メキシコのLa Mesa ラ・メサという監獄は、一つの町になっていて、男女にわかれてはいるけど、別にここの牢獄があるわけではなく、自分達で勝ってに囲いをつくり、土やコンクリートの上に寝るのですよ。水も食事もだしませんから、自分達でお鍋も、コンロも用意するのです。ですから、ドラッグ王のような金持ちは、ガンも、ライフルも、ベッドも、テレビも、何でもそろっていて、電話もあって、外からグルメの料理を注文したり、彼女を呼んだりできるのです。もちろん金をふんだんにばらまいて、子分も大勢いるし、監視人たちにもワイロを払って、監獄内で外の麻薬の売買を続けている、という具合。悪いけど、興味深い話です。反対に、貧乏で空腹で、パンを盗んだくらいの人でも同じ場所にいるのですが、そういう人達は、飲み水を買うお金もない。誰かの食べ残しをたべ。毛布とかもなく、一張羅で床で犬のようにねるのです。そういう人達は家族や知人がたよりで、家族が食べ物などを差し入れたり、自分達も中にはいってきて一緒にたべたりするのです。もちろん、シャワーも水だけ、トイレっとペーパーもないので、それも手に入れなければならない。病気になっても怪我をしても、薬などかえませんから、死んでいく人も大勢いるわけです。そういう人達の爲に、シスターは、家具、服、食べもの、水、薬、石鹸、トイレっとペーパー、タオル、毛布などを与え、歯の無い人のために、歯医者まで監獄にやとって、一人一人治療していくのです。暴動が起きて、警官たちも怖くてなかには入れないのに、不思議と、この小さなシスターは、弾丸が飛び交うなかに、両手をあげて入っていき、止めるのですよ。それでも、いつも傷ひとつなくして、暴動を止めるので、それだけでも奇跡だと人々は言います。そして、ついに、ポープにも会っています。私に巡り合う前ですから、26,7年前でしょうか、グレッグも、ある人を釈放しようと、お金をもって行った事があるそうです。このシスターも同じ時にいたわけですが、あえなかったそうです。私が言いたかったのは、グレッグの絵は、そういう物語があるものが沢山あり、物凄いエネルギーを注いで描きます。ですから、売れるような絵ではないけど、人の心を動かすのです。
2021.07.21
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独立祭のあたりから、急にバタバタ忙しくなり、今日も本当はネットのプロバイダーの全面的アップグレードで一日TVもネットも使えないという通知がきて、今さっきやっと接続しましたので、写真日記です。私をアメリカの母とする、あきよ親子が2年振りでメリーランドから3拍4日でやってきました。「信じられないけど、私、ひろ子さんちに泊まるの初めてなんです」という事でした。カリフォルニアに住んでいた時は、別に泊る必要なかったからでしょうね。きっと、メキシカン料理が食べたいだろうとおもって、まずはメキシカンレストランで昼食。グレッグの誕生日だったので、彼の希望でお寿司屋へ。翌日は、ラグナビーチのおが屑祭りで一日過ごしました。三日目は、子供に安全な海水浴場に、和食のお弁当や麦茶をもって行き、パドル・ボードなどかりて楽しみ。最後には、必ずいくアイスクリーム屋へ。翌日は、次の目的血に電車でいったので、これが最後だとおもいきや・・・・・
2021.07.20
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やっと、息を吹き返した古巣 ア〜トフェスティバルに、行ってきました。 娘と同級生のママ、彼女の作品素敵なデザインが、1杯 2Dに見える3Dの陶器 プリントメ〜カ〜ののりほさん、両手首骨折がなおったばかり、 コ〜ラスなかまにばったり、会った 義妹、めい、その子にも、ぱったりあった。 やっぱり、昔からの友達は良いもの。このふたりの5人の子供達にピアノをおしえました。 まりちゃんも、プリントメ〜カ〜。コ〜ラス仲間。 左のラナは、私のスピードウォーク友達で画家。、そのとなりはラナの友達のスカルプタ〜。ラナと一緒に生き返った街を、たのしんできました。たくさんハグ!人間、やはりコンタクトが大事だと思った一日でした。
2021.07.04
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又、二人には下記のような想定外のエピソードもあった。 大学が別の州になってから、会う事は出来なかったが、メールでコンタクトは続けていて、2001年の夏休みには二人で、寝袋バックパックで激安ヨーロッパの旅に出かけた。つまり、野宿もしたり、YMCAに寝袋で雑魚寝したのだろう。ブルックは片言のスペイン語が話せ、デレックは結構ドイツ語も話せたので、行き当たりばったりの旅では「家に泊まっていけよ」という、親切な見ず知らずの人にも何度かめぐりあっている。日本でもそうだったが、大抵そういう人達は、農家とか漁夫とかで、自分達は国から出たこともないような人で、旅人たちから四方山話を聞くのが楽しいらしい。そして、決して裕福ではないが、心から歓迎してくれる。これは、私も、メキシコやヨーロッパでも経験しているから知っている。ツアーでは経験できない醍醐味がある。 デレックは、ドイツのお祖父さんお婆さんに会う目的もあったのだが、やっと見つけて、わくわくしながらドアをノックしたらお婆さんがでてきて、「我々を置き去りにして、アル中の男と勝ってにアメリカに逃げて行った娘などの子とはあいたくもない」と、門前払いをされたときいて、その時のデレックの胸の内を察して、「なんという嫌な人間だろう、そんな親から逃げたお母さんは正解!」と言ってしまったが、ずっと後になって、そのお婆さんの言葉にも一理ありかなと考えた。何故なら、その男なるデレックの父親のアルコールの量がだんだんふえて、暴力を振るうようになったのが恐らくデレックにも悪影響を与えたのだろうし、更に両親の離婚に至ったのだから。ただ、孫に罪はないではないかと、今だに憤慨している。あの時、「おお、はるばる、よく来たね。床でよかったら泊まっていきなさい」とハグして大歓迎をしてくれたなら、お互いに素敵な未来があったろうに、許すか許さないかが人の運命を変えるチョイスなのである。 幸い次の日は、私が1982年にタヒチで巡り合ってから付き合ってるフランス人の家族にパリで再会し、大歓迎をうけたのが救いになった。帰宅してから、皆で乾杯してる写真などをみせてくれた。そこの息子オレリアンが、私の息子#3と称する子で、3歳のころから知っていて、14歳の時ひと夏我が家に住んで、ブルックやデレックと兄弟のようになった子で、ブログにも何度か写真入りで書いた。今はトルコ人の妻との間にハンサム息子が生まれて、アニメ家になり、良いお父さんになってロンドンに住んでいる。 (かなり、薄れて来た写真だが、そのくらい時間が経っているのだ。これが、オレリアンが14歳の時夏休み2か月私の息子#3となって一緒に暮らした時) その旅の最後の日、イタリアのミラノの飛行場から帰国するはずの、息子から切羽詰まった電話が来た。そう、あのニューヨークのテロ事件の9月11日であった。「ニューヨーク凄い事になってるんだね。僕達の飛行機キャンセルになった!アメリカ行きはどの飛行機もキャンセル。お金も今日が最後だからと使い果たした、どうしよう?」というので、「ホテル代だすから、どこかに泊まりなさい。そのホテルから又こちら払いで電話しなさい。その間にわたしが、空港会社に連絡する」と言って切り、すぐに彼等の空港会社に電話したが、お話し中。何時間か後にやっとつながったが、今度は数時間またされて、切られてしまった。「マム。ホテルやっと見つけた。どこもキャンセルされた客で満員で、悪いけど高級ホテルしか残ってなかった。いつか借金かえすから」と申し訳なさそうな声。「そんな事どうでもいい。生きて帰ってくればいい。とにかく、マネージャーを出しなさい。私のクレジットカード番号をあげて部屋も食事も全部それで払うように説明するから」と言って、話しがまとまり、そこに泊まることになった。「ちょっと風邪ひいたらしくて熱があるけど、高級ホテルでよかった。バスタブにつかってぐっすりねるよ」と、息子から電話がきた。 長い話を簡単に書くと、私は一晩中航空会社に電話をし続け、やっと出た人に「緊急です、1度3時間まって切られました。切らないでください!」と叫んで、やっと次の日のカナダ経由の飛行機にかえてもらい、一晩ぐっすり心地よいベットで寝た息子はケロリと治り、無事に帰国したのだった。 デレックは、この30年、私の実子よりも先に誕生日、クリスマス、母の日のカードなり、電話なり、メッセージなりしてくるが、ある日二人だけの時にこういった。「今だから言う。実は、中学時代にブルックとママ#2に巡り合わなかったら、死んでたと思う」という、ショッキングな話であった。 よくよく聞いたら、毎日、毎晩のように、両親は口喧嘩、夜になると父親はアルコール漬けになり暴力まで振るうようになったので、「ピストルもライフルもあったので、よほど親父を撃ち殺そうと思った瞬間もあったけど、それを教えてくれたのは、親父、ヨットを操るのを教えてくれたのも親父だと思ったら、出来なかった。それで、もっと酷くなってきた時は、自分が消えたら悩みも無くなると思って、ピストルで自殺しようかと何度も考えていた」と言ったのだ。 この話を私に.打ち明けた頃は、もう社会人になっていたので、「そうだったのか・・・ある心理学者が、多発事件を起こす子の弾丸は男の涙 と言っていたけど、君のような悩みを持った子が起こす事件なんだね。みんないい子なんだよね。苦しさをどこに持っていったらいいか悩んでるんだよね」と言ったら、「全く、その通り。あちこちの学校で多発事件がある度に、僕だってやりかねなかったと思う。今考えてもぞっとするよ。本当にブルックとママ#2に巡り合って良かった。一生わすれないから」と言って、ハグしてくれた。運もあるが、世の中、本当にちょっとした親切で一人の人間、いや多発事件なども防げたかもしれない事に繋がるものだと、つくづく思った。これが、私とSon #2との関係である。**** 今回は、6月26日に一人で私に会いに来たのだが、(昨日の写真)「(ブルック)#1は、親父さんとの旅で明日までもどらないので、猫に餌やらなければならないから、名残惜しいけど、また来る日まで。お昼、とっても美味しかった。ダンケ!」とハグしてブルックの家に戻って行った。(完)
2021.07.02
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高3になったとき「カウンセラーから、君の成績では受け入れてくれる大学はカリフォルニアにはないよ、と言われた」と、デレックがふてくされて言った。「なにも、カリフォルニアでなくていいじゃないか。じゃ、どこならあるのか聞いてこいよ。大学卒は大学卒だ」とブルックに言われて再度カウンセラーに相談に行き、「オレゴン州にならあるが、そこでも最低の成績はXXだから、この一年で追い着いたら入れる可能性はあるといわれた」というので、「じゃ、僕がてつだってやる」と、今までよりもっと数学と科学にフォーカスして手伝った。その結果、合格の成績に追いつき、デレックはオレゴンの大学に受け入れられた。 デレックは車を持ってなかったので、亡くなった義父のボルボをあげようと思った。中古といってもブルックのおじいさんが最後に持っていたものだから、殆ど乗らずマイレージは物凄く低く最低でも$4,000の価値があった。ただ、無料であげるのは自尊心を傷つけるし、自分で払ったという優越感や責任感を与えるために、500ドルで売る事にした。「毎月いくらなら払える?」と聞いたら、「バイトやって$20」というので、「それでよし!利子もいらない。その代り、毎月必ず最初の週に私に小切手を送るんだよ」と言ったら、一度も忘れずに二年ちょっとかけて払い終えた。保険は親がはらった。その車に寝具、小さな家具、タオルやら服、ギターなどを積み込んでデレックはオレゴンの大学寮に落ち着いた。数年後、母親もラグナビーチに持っていた家を売って、オレゴンに引っ越した。 オレゴンの大学は、芸術を重んじてくれたので、数学や科学が苦手でも、外国語としてドイツ語はできるし、音楽の好きなデレックはギター奏者になり、ほれぼれとするくらい上手なクラシックギターを弾くようになったから、勿論音楽は最高点をとった。心理学も上出来だったらしい。 (大学時代に送って来た写真) 後に「クラシックが好きなんて知らなかった」といったら、「両親はクラシックをよく聞いてたし、毎日ヒロコが弾くピアノも、クラシックだったから嬉しかった」と意外な事を言ったが、大学生中は、ウェディングや、パーティーなどのバイトで弾くようになった。その内に、カメラに凝りだし、これまたウェディング写真などを撮ったりしていたが大学を卒業したらそれもやめ、高級車のメカニックのライセンスをとり、高級車の修理会社に努めたが、完璧な仕事だが遅過ぎるからと首になった。次は危険コ―スの運転のライセンスもとったりで「スタントマンにでもなるかなあ」といってたのは良いが、そのどれも正式な仕事にはせず、結局は母親とコーヒーの店を開いてギターを弾いたりしていた。人懐こく、好かれるタイプなので結構流行る店になって、私もオレゴンまで訪ねていったが、バブルのはじけだした頃で、次々と店じまいが広がり、ショッピングセンターはガラガラになり、客も来なくなって閉店してしまった。 (これは、大学を卒業してから、私とブルックが気球に乗ってるのを写してくれた中の一枚) 折角二人で二軒買った家も、ローンが払えなくなったので一軒は貸家にして、自分達はもう一軒の二部屋だけに住んで、あとの二部屋を貸してすんでいた。その内に三人子連れの女性にほれられて結婚、我々も結婚式に行ったが、結局は数年で離婚してしまい、自由きままに動ける、コンピュータ―のプログラムを売るセールスマンになって、再婚しあ母親の家と、これまた離婚し独身になったブルックの家と、離婚した前の奥さん(そう、三人子連れの)の家に、好きな時に好きなだけ泊まるという渡り鳥生活をしている。あのイジメ男が、誰からも嫌われず、三軒の家の鍵をもって、自由に泊っている不思議な男である。 仕事はパソコン一つで出来るので、時々我々が旅をするときに、ハウスシッティングをしてもらっている。つまり、自分の家が二軒あるのに、住めない状態なのであるが、それなりに老後の計画はしていて、「オレゴンの家も値上がりして、やっと二軒売ればローンを払った後に、可なりの儲けになる計算だから、あと何年か待ってみる」と知らせに来たのだった。(その時の写真がこれである。私は小さく見えるが、168センチある。。あった???1センチくらい低くなったかも)(続く)
2021.07.02
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ブルックは小学校1年生位から、模型の飛行機を組み立てて飛ばしたり、リモコンで車をはしらせたり、自転車でも直してしまう器用な子だった。中学になるころは、近所の洗濯機やら、ラジオ、ミシンなどを直して(もちろん無料で)いたので、おばさん達に可愛がられていた。勉強は、お姉さんのストレートAにはかなわなかったが、それでもA、Bの成績で、算数と科学は高校で大学コースをとるほど秀でていた。ヒョロヒョロ細くて、静かなる男だったが、下級生にも親切だし怖いもの知らずで、肝っ玉は太いことでも知られていたので、怒らせたらどう出るかわからない不気味さで、デレックも近づかなかったのだと思う。(実際には私自身、彼が怒ったのを見たのは一度しか覚えてないくらい喧嘩もしない、とっても大人な子であった) デレックの評判は学校中の問題だったらしいが、現行犯をみなければどうしようもないので、大人達も頭をかかえていたわけだ。実際問題としてデレックは学校中で一番背が高くなっていたのも大人達が近寄りがたかった理由の一つだったのであろう。もう一人、デービッドという背の高い目つきの悪い同級生がいて、その二人でグルになってイジメをやったから、学校中で恐ろしがっていると聞いていた。 たまたまデービッドの母親がPTAの役員をやっていたので、直接話をしたら「いい子なんだけどね、自信のない子でね、勉強もできないし、特技もないからね、主人と飛行機のパイロット・ライセンスをとらせようかと話し合ってる」というのだった。お父さんが民間航空のパイロットで、デービッドも飛行機が格別好きだったらしい「グッド・アイディア!」と私は賛成した。 デービッドの態度が急に変わりだした。まず、目つきが和やかになり、前は顔を背けていたのが「ハーイ」というようになり、高校前にパイロットライセンスを取った頃は別人となり、(パイロットのライセンスに年齢制限はないそうだ) デレックから離れて行ったし、別の高校に進学した。 我が家を訪ねてきたのは、その頃のデレックである。玄関のドアをあけると、入口の上に頭をぶつけそうな巨人が背の低い子分と立っていた。「ブルックいる?」と、つっけんどんに言ったので、スワ何事?と思ったが、外側でまたせといて、三階の息子の部屋にいって、「デレックがあいにきた」というと、「へ~?」と首を傾げながら降りて来て、私に聞こえないようにドアを閉め外に出てから、すぐに入って来て、「壊れた自転車をなおしてくれだってさ。だから、直してやるから下のガレージ前で待ってろといった」と、下に降りて行った。我が家は三階建てで、二階、三階が住処になっていた。(この百坪近い家も自分達の手で土台から全部建てたのだが、その話は又別にするか、しないか(笑) その日から、デレックはブルックの子分になり、ブルックのいう事をなんでも「イェス・サー」と聞くようになったのだ。それだけでなく、宿題の問題がわからないと、息子が彼の家に出かけて行って手伝ってやっていたから、デレックの母親から電話がきて、「礼儀正しくて、ハンサムで、何でもなおしてくれて、何という素敵な息子さんでしょう。忍耐強く、デレックの勉強を手伝ってくれて感謝してます。息子にブルックの爪の垢をせんじてのませたい」と言ったから、「あははは、息子らしい。あの子は、小さい頃から壊れたものがあると、すぐ直したくなるのですよ」と笑ったが、彼女の名前もその時初めてしった。学校でもブルックと一緒に行動しはじめてから、デレックのイジメが完全におさまったと、皆喜んでいた。 高校に入ると、ほぼ毎晩のように我が家にきて夕食を一緒にするようになり、週末は泊まったりしていた。食事が終わると、自分の食器は自分で流しまで持って行くことになっていたので、デレックもちゃんと真似するようになった。又反対にデレックの父親がヨットの小さいのをもっていたので、時々招待されて、セーリングなども教わり、夏休みには、隣町のニューポートで、デレックと一緒に小中学生にサボット(一人乗りのオモチャのようなヨット)のコーチをするアルバイトをしたり、射的場にいってライフルやピストルを射撃などすることも、デレックから教わった。つまり、お互いに教えあっていたのである。 やがて、彼の両親が離婚して、デレックがイジメを始めた理由もそこにありそうだと分かった。どうやら二人の毎日の喧嘩から逃れるために、我が家にきたようであった。 デレックは繊細な子で心優しく親切なので、だんだんやさしい目つきになり、高校にはいったら友達も結構出来たが、相変わらず勉強の方は落第点ではない程度であった。高校最後の夏休みには、昔近所に住んでいたジェーソンという友達に会いに、サウス・ダコタまで車に寝袋をいれ、一月くらい二人で旅をした。「途中でタイヤがパンクしたり、エンストおこしたけど、ブルックがいたから問題なし」とデレックがいえば、「ジェーソンの家のトイレ、凄かったなあ。そしてあの狂犬!」と言って、爆笑しながらブルックが、落書きだらけの壁に、トイレの蓋をあけると化け物が口をあけてるような写真とか、小さな犬が目を光らせてタオルを噛みついて引っ張りっこしている写真とか、「これ、ジェーソンと三人で、誰が一番遠くまで飛ばせるかやってるところ」と、後ろ向きにおしっこしてる写真とか見せながら、さも男の子らしく、でも小学時代にキャンプ場からくれたハガキのように、こまかく旅の話をしてくれた。 その兄弟のようになった二人が、分かれる時がついに来た。(続く)
2021.06.30
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今年50歳になった実子ブルックが2年生の頃だから、もう何年前になるだろうか。学校のサマーキャンプで、一週間ばかり親元から離れるプログラムがあった。たしか、科学の先生が計画したもので希望者だけだったが、ほぼクラスの全員が参加したように覚えてる。 植物探検(食べられるもの、毒物のみわけかた)、石ころの勉強、星座の勉強、方角の勉強、昆虫、爬虫類の見分け方みたいな事が含まれていたと思うが、その中には「家族にハガキを送ろう」という時間があったので、家族も楽しみに待っていた。他の父兄達は、「早く家にかえりたい」「つまんない」「・・・をたべたいけど、がまんしてる」みたいな文句を数行しか書いてこなかった、と笑っていたが、驚いた事に、ブルックのは小さい字で、ぎっしり書いてあって、書ききれない部分は宛て名を書く側にも延長していた。『毎日興味あることをしてる。乗馬したり、キャンプファイヤーで歌ったり、踊ったり、川で泳いだり、暗くなると肝試しもあって、僕はそれが一番好きだ』と始まって、どんなものを食べてるとか、ポイズンアイビー(ツタウルシ)の見分け方もならったよとか、人工呼吸のやり方も覚えたから家族をたすけられる、とか細かく書いてあったので、大体なにが起こっているかわかった。その中に一つだけ「マミーマミー」と毎晩泣いてばかりいてうるさいやつが、一緒のキャビンにいるのが、玉にきず。みたいなことも書いてあった。まさか、その子デレックが私の第二の息子になるとは想像だにしなかった。 デレックは、両親がドイツから移民してきたので、家ではドイツ語も話していたようだ。金髪のオカッパで、図体は大きかったのに弱虫で皆からいじめられていたらしい。らしい、というのは同学年でも同級生ではなかったからだ。その内に、カブスカウトで一緒になったが、いつの間にかやめてしまったし、友達もあまりいなかった。 それから中学になるまで、たまに顔を合わせた程度で、両親の名前もしらなかったが、中学PTAの会長になった事で、人々が色々な問題を私に相談するようになった。その一つが、『イジメ』であった。 他の生徒のお弁当は取り上げる、給食用の金をまきあげる、野球帽をとりあげて崖の下になげてしまう、いいつけるとひどい目にあわせるぞ、という生徒が今、学校中で問題になってるのだというのだ。それが、よりによって、あの弱虫デレックであった。 息子に聞いたら、「僕にはちかよらないから、よく知らない」といったが、その悪名高きデレックが、ある日我が家の玄関をノックした。(続く)
2021.06.30
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娘が総監督をしてる(現在進行形)Stillwater が、ピーボディ―賞を獲得しました!!一昨日の夜、私はその夢をみたので、メッセで知らせたばかりなのですよ。今、喜びでわくわくしてます。今年は、アカデミー賞、アネシ―映画祭にもノミネートされているので、これは三つ目ですが、ついに賞を獲得。もうひとつ、テレビのなにやらいう賞にも、ノミネートされてます。(トニー?) 幼児向け部門です。この子は、これから、ますます忙しくなるでしょう。
2021.06.25
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グレッグを引っ張って、中国系マ〜ケットに行ってきました 「タコの子供が一杯つまってる!可哀想に」、いけすの魚達のことも、かわいそうがっていたので、「グレッグだって、金魚の子を餌にする魚飼ってるじゃないの」と言ったら、「それとこるとはちがう。」 勝手な人ですね。 魚のミンチボ〜ルの数々 イカと、ホタテをたくさん買って、イカはバ〜ベキュ〜にしました。 グレッグが買った、裂きイカと、梅のお菓子 中庭の池は、睡蓮の葉で覆われる季節になりました。金魚達もホットできる事でしょう。 ジャスミンの花が一度に咲いて良い香りを放っています。
2021.06.25
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When?いつの間に親子の役が入れ替わり孫を見上げる歳になりしかWhen did it happen?mom and children’s positionhas almost reversed I’m looking up my grandkidsI used to curess their heads犬は、ケンジから、タローに替わりました。
2021.06.23
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「イタリアン レストラン見せた?」と娘が言った。冗談だけど、そう名付けたコ〜ナ〜があるから、と庭の一部に連れてってくれた。この家は日本なら昭和時代の1930年代に、フランク・ロイド・ライトの息子が設計した家で、土地は1000坪くらいあり、庭も、八箇所に別れている。家はボロボロで外から見るとあばら家。ブラッドが、一年中何処かを修理している。我が息子同様、何でも玄人肌。古い水道管もあちこち取り換え、デッキにも水道をつけたり、家中の電気もア〜トデコ骨董品にかえてあった。(イタリアン レストラン)(プ〜ルサイド)(屋外バ〜も、ボロボロだが、まだ使っている)父の日に、家族が集まって、バ〜ベキュ〜冷蔵庫には、シルビアからお父さんあての作りカ〜ド。漫画家を目指してるだけある。そっくり孫三人バラバラなので、こんな写真も、もうなかなか撮れないかも知れない。私は、168センチあるから、孫達のサイズがわかるだろう。タローも、写真撮ってと言うように入って最終的には、来てすわった。楽しい3日間であった。今は、我が家にいます。
2021.06.22
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コロナ禍の自粛の一年間、ブラッドは沢山の果物の木を植え、やさいも、あちこちに植えていた 食べたアボカドのたねからだそうだ 蜘蛛の巣城だったグリーンハウスも、ブラッドが来てから息を吹き返した これは、今回私がもってきたザクロの苗 ピ〜マンやら、メロンやら レモンらしい ガッチリした、プランター箱は、ブラッド作、野菜も彼が作ってる サボテンガ〜デンも出来ていた
2021.06.21
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これは、音楽室。何処にも寝転がれるカウチがある。 仕事中の娘を寝転がって見られるカウチ 反対側のかべには、サザエさんやら、アトムなどの日本の漫画もおいてある。 仕事部屋の入り口の壁に、契約切れた仕事部屋の名札がはってある。思い出なのでしょう、 音楽一家なので、ありとあらゆる楽器がある。全部は見せられない。アニメの擬音に使うこともあるそうな ギターは、左右のが20ちようくらいある。左利きようね、ベ〜スは、地下室(ベ〜ス 😁😁においてある) ピアノ、オルガン、キ〜ボ〜ドなど、いくつあるか分からない 娘はべ〜スギタ〜の名手らしく、よくあちこちのバンドにゲスト出演してる。
2021.06.21
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夫婦だけのパティオ。寝室の横にある ティガ〜の監督した思い出を残したいのでしょ 階段の一つ、どの壁も違う色 私がマルタ島から土産にもってきた、ミニ 騎士 ランプも面白い木になってる 彼女の家は、年中クリスマス。庭も夜になると豆電球がともる 最近家中のライティングを昭和時代にしたらしい。これは、トイレの一つ 日本の暖簾を日除けとしてつかってる。 続く
2021.06.21
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昨日は又バ〜ベキュ〜。週二回は炭火で、夕食の支度をしてます。 そして、今日は1年半ぶりで娘の家に来ました。大きな温室には、色んな野菜、どでかい庭には、ビワの木、さくらんぼ、オレンジ、レモン、金柑、グレ〜プフル〜ツ、アボカドの木が植わってました。コロナ禍自粛で、時間がたっぷりあったから、ブラッドががんばったようで、トイレの一つもデザインが、かわってました、 ビワの木 家中のライティングを50年代のに、かえてありました。 このプランターボックスも、ブラッド作 雑草も消えて、すっきりな庭になってました。
2021.06.19
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先日一番下の孫娘シルビアが高校を卒業した。 自粛解禁でかなり緩和されているものの、コロナ禍のお陰でまだ卒業式は屋外、しかもソーシャルディスタンスを保たなければならない爲に、家族は三人までということで、他のメンバーはパソコン・リモートにての参加であった。正直いって、自宅で、お茶を飲みながらのんびりみられるから、私にはこの方が楽であった。ちなみに、式に参加中の娘に「シルビアおめでとう!自分の子でもない三人を育て上げたあなたも立派、あっぱれ!」と勿論英語でメッセをしたら、「炎天下に三時間も座ってるので溶けそうだ」と返信してきた。話を十ニ三年前にもどすと・・・・ 娘がブラッドと一緒になる一週間前に私は不思議な夢をみたので、電話をした。「へんなのよ、急にあなたが、三人の子持ちになって、てんてこ舞いしてる夢」と言ったら、「まだ、ボーイフレンドもいないのに、そんなわけないじゃない」と笑われたのだった。何年か付き合っていたボーイフレンドと別れて、一人だったころで、仕事が忙しくてデートどころではない。。。とか言ってた時代である。「でしょう?全然、理屈にあわないね」と言って電話を切った。次の週、娘から電話があった。「マムの先週の夢、当たってたよ」というので、「何それ?」ときくと、高校時代の同級生からフェイスブックで「僕のこと覚えてる?」とメッセが来たと思ったら、仕事先まで会いに来たそうな。「ほら、ブラッドよ。バイバイ・バーディーのミュージカルで主役やった子。すっごい恰好よい子で、女の子がきゃ~きゃ~おっかけてたじゃない」「覚えてるわよ。ロックシンガーになって世界中ツアーしてるんじゃなかった?」と私、「そうだったらしいけど、今は三人の子持ちで・・・」という話だったが、まさかそのブラッドと一緒になるとは夢にも思っていなかった。 それで、娘は急に三人の継母になり、私にも孫ができたわけだ。(皆を、お座敷のある和食レストランに招待した時)わけあって、詳細は書かないが、ブラッドが前妻から生活費というか、チャイルドサポートといって、子供の教育費をもらうという形の離婚だったので彼は仕事はせずに、作曲をしながら、フルタイムの両親の役をやっていた。いくら前妻と半々に面倒を見ると言っても、六、九、十歳だったから、お弁当をつくり、学校の送り迎え、学校の行事、宿題のめんどう、掃除洗濯、医者につれてったり、食事の支度、買い物で大変だったからパートナーを必死で探していたのだろう。しかも、三人もいたので、そうかんたんに相手が見つかる筈はなかったと思う。それより、三人の子供達に好かれる女性をみつけるなどとは、そう簡単な話ではなかったろう。(グレッグが美術館に展示したときに、娘が全員つれえやってきた) 娘はアニメの監督をやっていて、家族五人養うだけの経済力はあっても、子育てをしたことがないので心配していたが、三人ともすっかりなついてしまい、信じられないだろうか、最初の頃は、隔週ごとに実母の家に帰る日は三人とも彼女にしがみついて「かえりたくない」と泣いていたのだった。実母がどんな人か想像できると思う。(シルビアは実母に反抗して長い髪の毛をばっさり切ったので、実母は怒って、シルビアの学校のイベントにも、嫌がる彼女を美容院につれだしメークをさせ、手描きの特別なドレスをつくらせた。一度着ただけで、シルビアは捨ててしまった) 十二年の間には、色んなドラマがあった。実母の家には住み込みのメイドがいて何でもやってくれるので、三人共「片づける」ことをしなかったのでいまだに、散らかすのが上手だが、私が行く時は、「おばあちゃまがくるのよ」と娘にいわれると、あわてて片付けるらしい。 娘と一緒になる前までは、この子達はヨーロッパ中を旅していて、旅慣れてたが、東洋はまだだということで、数年前には、娘の家族と私の六人で日本を旅行して三人とも日本びいきになった。シルビアの高校は修学旅行が日本になっていたので、心待ちにしていたのだが、コロナでキャンセルになってしまった。 今年長男は大学四年で卒業予定だったが、コロナ禍のために、一年のばした、次男も大学三年だが、一年のばしたから、この秋からは孫娘のシルビアも大学生になり大学生が三人になる。「少しは、楽になりそう」と娘は言う。 難しい年頃といわれる、ティーン時代も、ぐれることもなかったし、まるで娘の実子のように、三人ともブラッドと娘の影響をうけて、男の子二人は音楽を専攻、むすめはアニメを目指している。コロナ禍でリモートの勉強するより、といって、長男は娘とブラッドが持っているもう一軒の家でレコーディング会社を設立、同級生をプロモートして、結構よい収入を得ているし、次男は歌手を目指してというか、お兄さんのレコード会社で自作自演のCDをつくってネットで販売している。シルビアも、芸術高校で習ったビデオアニメの腕が上達して、ニューヨークのメディア系の大学(School of Visual Arts)に行くことになっている。ゆくゆくは、アニメ関係の仕事をするつもりらしい。 「娘もブラッドも、孫達も皆よくがんばったね!」
2021.06.15
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レッグがまた、造園の店に行きたいと言うので、トニーも連れて出かけました。 依存性と言うのは、何か始めるとそれに凝ってしまうので、善し悪し。トマト🍅を植え出したら人通りのある前にわにも、ゲ〜トから玄関までの通路にも鉢を置きます。 ビワの木もガレージの入り口 リンゴの木、ア〜ティチョ〜クも、トマトの鉢とならんで車道に繋がるガレージまえの庭にはえてます。裏庭など葡萄、桃、杏、オレンジ、ダチュラ、薔薇、桐木、イチジクの木、スターフルーツの木、ありとあらゆるサボテン類でぎっしりなのに、さくらんぼうの木、レモンの木を植えたがってます。その内に、座るところもなくなるでしょう。
2021.06.10
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人間79年もやってきても、まだ、見た事のない花にめぐりあうのですね。これだから、人間業やめられない。「グレ~~ッグ!すっごい素敵な花。見たことない花。大草原の煙って名前なんだって」と言ったら、すぐパソコンを見に来て、「これ、植えてやるから、種をかえ」とは、なんとも、せっかちな男。でも、「オッケイ」といって、その場で注文する私も、かれに輪をかけたせっかちだろうな。
2021.06.06
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赤い杏です。 今年は、果物類が美味しい。 こ と し 今年最後のビワ。皮むくのが面倒 たったこれだけしか出来ませんでした、 でも、ワッフルの上に乗せて最高に美味しい朝食ができた時は満足。 自然にはえて、たくさんの実を大勢の友達にあげ、訪問客や楽しませてくれました。子供たちにも、コンポートや、ドライフルーツにして持たせ、楽しませてくれたビワの木。また来年も宜しくね。
2021.06.05
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あれから10年以上たってしまい、グレッグの母親が亡くなり、彼女の土亀と犬を引取りたいとグレッグが言うので、「そのどちらかにしてよね、面倒みるのは結局は私になるのだし、私ももうかなり年取って来てるからね」と言ったら、「じゃ、犬。僕全部やるから心配ない」という。「爪切ったり、シャワー浴びさせたり、病気になったら医者につれていかなければならないし、餌だって毎日かかせないし、散歩もしなければならないのよ」と私はいった。「そんな事かんたんさ」とグレッグは言ったが、さて、どうなったかというと・・・そう、又、私がほぼ全部やっていて、私につつかれて、やっと散歩に一度は行くが、大抵、寝っ転がってトニーと吠えながら遊び、だっこして一緒に寝るし (そのために、我々は寝室を別にした) 自分の皿から、ステーキでも、ポークでもなんでも食べさせたり、自分のアイスクリームを舐めさせたり、どこに座っても「いいこ、いいこ」と頭を撫で、キスするわけで、グレッグにべったりとくっついている。つまり、グレッグは『いい顔しい』で無責任、躾とか責任をもって餌をやるのは私である。 そういう日が何年も続いて、ピーウィーの事はすっかり我々の頭からきえさっていた先週、「ヒロコ!すぐこい!」とグレッグがどなった。「また、すぐこいが始まった。今パソコンで忙しいの。あとじゃだめ?」「すぐじゃないと消えちゃうかもしれないから」「何よ、いったい?」「ピーウィーが戻って来た!」といったので、私はパソコンの手を止めて急いで台所に行った。塀の上に尻尾のふさふさの大きなリスがいたのだった。 この辺のリスは、Ground Squirrelといって、地上、または地下に住み、スルスル滑るような、這うような歩き方をする。尻尾が細く、目の大きなネズミみたいである。サボテンの実などのように棘のあるものでも、平気で食べるのだが、ピーウィーはBushy Tailといって、ふさふさの尻尾で、木に住んで、木から木を飛び回る。遠くの山にはいるが、この辺では一度も見かけたことがないから、すぐわかる。「あ!ピーウィーだね!古巣にかえってきたんだ」と、いいながら私は、胡桃をグレッグに渡し、彼がドアを開けたとたんに屋根に逃げたのでバルコニーに行ったのだろう。その間に胡桃を塀の上にならべて待っていたら、反対側から似たようなリスが、もう一匹現れたのだった。「グレ~~ッグ!二匹連れだよ!ピーウィーは、雌で子供連れて来たのだろうか?それとも雄で、パートナーを連れて来たのだろうか?」というと、「落胆させて悪いけど、リスの寿命は5年位だと思うから、ピーウィーじゃないと思う」とグレッグが言ったので、がっかりしたが、二日ばかり消え去って、また二匹で同じ場所に現れた。10年前にピーウィーがバルコニーから木の茂みまで歩いた、同じ通り道に突然見知らぬリスが来る筈はない。何十軒も似たような塀が並ぶ中で、我が家の塀を目指して歩くのはピーウィーだけだと思う。私は、ネットで調べてみたら!!「グレ~~ッグ、このタイプのリスは15年から18年の寿命だって書いてあるよ~~、ピーウィーに違いない」と叫んだ。「お~~、そうか!やっぱりそうか!」と、グレッグも興奮した。二匹とも、可なり年取ったリスにみえたが、12年も経ってるのだから当然である。二匹は二度現れただけで又、姿を消してしまった。 (この辺のリスは、しっぽがネズミのように細い。これはふさふさ尻尾で、この辺にはいないタイプ) 野生のエルザが、育て親がもうとっくに再会は諦めていたところに、パートナーや子連れであらわれたように、ピーウィーも、パートナーと一緒にもう一度会いに来てくれたのだと思う。確たる証拠などいらない。私達はそう思う事にしたのだ。 (完)
2021.06.03
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(写真は、2009年のピーウィー、バルコニーで)その頃は、私の手からでも、木の実を食べるようになついていたので、水と餌の入れ物を置き、毎朝「ピーウィー!」と呼ぶと、風のない日でも、ワサワサとあちこちの木が揺れて、どこからともなく現れ塀を伝わってバルコニーにやって来て食べるという日課が一月ほど続いたが、ある日何度呼んでも来なかった。「ピーウィー来なかった」「その内に戻ってくるよ、他で美味しいものみつけたんだろ。この辺は沢山の果物の木を植えてる人がいるから」とは最初の日の会話。「ピーウィー今朝も来なかったよ」二日目に私が言うと、「最近、コヨーテ警報がでてるからなぁ。昨夜もコヨーテの群れの遠吠えがきこえたし。食われちゃったのかなあ」と、グレッグが心配顔。「コヨーテは木に登れないから先ず大丈夫だと思うけど、この辺は時々ボブキャットが出没するからね、あれは木にも登るから危険性はあるわね。でも最近は見かけないし、警報もでてないから・・・」と私は、まだ生きてる方に期待した。 この辺は、飼い犬、猫、馬をのぞいて、コヨーテ、狐、ボブキャット、リス、ウサギ、スカンク、オポッサム、ラクーン、鹿などがいて、希だが、マウンテンライオンもでるし、池の周りにはアヒルや鴈もたくさんいる。50キロ位先の山には熊もでるが、我が町には出てこない。100キロくらい北に住む、娘の家の近所では、結構熊が頻繁にでて、よく庭のプールで泳いでいたり、ジャクジで遊んでいたり、窓を揺さぶって家に侵入しようとしたり、ゴミ箱をあさったりするビデオをネットでみる。防犯カメラがふえたからであろう。これを書いた理由は、コヨーテやボブキャットがいても、彼等の餌食となる動物も結構たくさんいる事を表すためで、ピーウィーが餌食になる率はかなり少ないとグレッグや自分を慰めたいからでもある。 我が町では掲示板ならず、ネットで山火事、コヨーテ、ボブキャットの警報が出されるが、ここに25年住んでいて、ボブキャットは一度しか見たことはないし、警報も二度であったから、ピーウィーがボブキャットにやられる可能性はまずないと思う。 しかし翌日、グレッグが散歩の途中で動物の死骸の一部をみたけど、ピーウィーかもしれない、と悲痛な顔をして帰宅した。そのせいだろうか、「昨夜、ピーウィーの夢を見た。一抱えもある大きなリスになっていて、いままで面倒を見てくれてありがとう、とヒロコに伝えてくれっていう夢だった。死ぬ前に知らせに来たのだろうか。夢っておもしろいね。動物と会話できるんだから」とグレッグが言った。「あなたが、夢を覚えてるなんて、珍しわねぇ。死んだのかどうかはわからないけど、きっと、さよならを言いに来たのね」と二人ではなしたが、それっきりピーウィーは帰ってこなかった。 (続く)
2021.06.02
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離婚5年後絵描きのグレッグと一緒になったら、この人は浦島太郎でもあるまいに、「子供達にいじめられていたから、救って来た」と、へびだとか蜥蜴だとかを家に持ってきて、裏庭に放していたので、今でもわが庭には蜥蜴がたくさんいる。蛇はたまにしかみない。考えてみたら、亡くなった彼のお母さんのベティーも、オポッサム、兎、土亀とかを助けてきて自宅で飼っていたから、その影響があるに違いない。 ある日、羽の折れたカラスを連れ帰り、「野鳥レスキューにつれていくまで」と、飼っていたが、Wild Life Center では、カラスは受け取らないというので、カーロスと名付け、結局はラクーンにかみ殺されるまで中庭にいた。3年もの間グレッグは可愛がったり、遊んだりしても、餌をあたえるのや、掃除をするのはいつも私の仕事になった。ついでだが、肉食のカラスの糞はコンクリートの床がくさくなるので、毎日ホースで洗わないとハエだらけになった。カーロスがついばむ被害は、半端でなく二か所のガラスドアと、木のドアを取り換える所までに至り、ついにはガレージドアーまで取り換え、ネズミ退治屋まで雇わなければならなくなったから、100万円位の出費になった。「レスキューもいい加減にしてよね」と言ってもきくような人ではない。 その話も、ブログに書いたことがあるが、20年くらい前になるから、簡単に書くと、二重ガラスのドアの周りの防水用のゴムを全部ついばんだために、水漏れでガラスが曇りだしたのと、ガレージに繋がる中庭のドアの下を10センチ位ついばんだために、ネズミの出入りが激しくなったのだった。何故ネズミかというと、カーロスの餌の残りを狙ってきたのである。屋根裏で死ぬと家中臭くなるので専門家に来てもらったら、ガレージドアにも、左右に隙間があるから取り換えないと、中庭のドアを取り換えるだけでは、何にもならないと言う事で全部取り換えるはめになったのだった。つまり、『風が吹けば桶屋が儲かる』の落語ではないが、物事は全部繋がっているから、グレッグがカーロスを救って来たからこうなったのであり、そのグレッグを家に住まわせたのは私であるから、私の責任である。(カラスは、キラキラするものが好きなんだ、といって、オモチャなどあたえて、遊んでいた)やっとカーロスの問題が終わった2009年に、グレッグは展覧会の用意で我が家から20キロ以上はなれたサンタ・アナという町の画廊にいたのだが、車の交差する、ビルばかりの街中でリスの赤ん坊がうろうろしているのをみて、「木もない場所で、放っておいといたら、車にひかれちゃうか、餓死するだろうから」と家に連れかえったのだった。鳥のケージにいれて飼ったのだが、勿論、又私が面倒を見る事になり、ピーウィーと名付けた。ふさふさの尻尾で大きくみえるが、最初は本体はテニスボールより小さかった。あれよあれよ、という間に倍の大きさになったので、鳥かごではかわいそうだから、「森のように木がいっぱいある裏庭で、自由にしてやろう」と、二階のバルコニーに放したら大喜びで木の中に消えて行った。(続く)
2021.06.02
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昔昔、その昔。私がまだ日本にいた昭和35年に、Joy Adamson 著のBorn Free という、ノンフィクションの本がベストセラーになった。日本語に翻訳された名前は確か『野生のエルザ』と言ったと思う。夫婦でアフリカのサファリに行ったとき、孤児のライオンのカブを見つけエルザと名付けて自分達で育て上げるのだが、あまりにも二人になついてしまって「これでは独立出来ないだろう」と思った二人は、ある日獲物がいそうな遠くまで連れて行って放つ。エルザは、何故捨てられるのか分からずに、二人のジープをどこまでも追っかけて来る・・・その時の二人の胸が張り裂けるような思いを読みながら感じて、私も声をあげて泣きながら読んだのを覚えている。 1966年に映画になったときは、ハワイに住んでいたが、早速ハンカチを用意して見に行った。(この先は、はっきりとは覚えてないが)そのエルザがある日、子供二頭つれてアダムソン達がいつもテントを張っているところまで戻ってくるという実話である。 ライオンとまでは行かないが、私も二度ばかり巣から落ちた野生の小鳥を育てた事がある。両方ともまだ目が開いてないブヨブヨした葡萄のようであった。最初のを放した時は、杏子の木に数日いたが、空高く飛び去って戻ってこなかったが、二度目のは家の中を自由に飛び回って、手を叩くと私の頭や肩にとまるくらいなついた。ピーパーと名付けていたのだが、仲間がいる裏庭に連れて出ても、私の肩にとまってなかなか野生に戻りたがらなかった。ある日、やっと仲間と遊びだし飛んで行ったので『やれやれ、やっと巣離れしたか』と思ったのもつかの間、夕暮れになると窓の前まで飛んで来て私が開けるのを待っていた。窓を開けたら、パーッとシャンデリアにとまって一泊していった。数回そんな繰り返しをしていたが、自分で餌をさがして食べてるらしいので、早く独立させようと思ってある夕方、つらい思いで窓を開けなかったら、諦めて他に飛んで行った。それからも、時々窓辺にくるフィンチが一羽いるが、窓を開けると逃げて行ってしまう。ピーパーかもしれないし、違う鳥かもしれない。(続く)私や、息子の肩にとまった写真、どこかにあるのですが、みつかりません。昔、載せたことがあります。
2021.06.01
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6月号です。5月のを載せたか忘れました。なんだか、やたら、ボランティアー活動で忙しくしてるので、なかなか楽天ブログ書く暇ないのです。でも、面白い事があったので、また、あとで書いてみますね。
2021.05.30
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グレッグの鬱は、確実によい方に向かってます。「トマトの苗や、植木鉢を買いたい 」と言うので二人で買い物に。帰宅して忙しく植えてました。そして、一昨日から二泊でメキシコまで一人旅に出かけたので、私はのんびりと若いお友達と食事におしゃべり。 私はコロナ禍で5キロ以上ふとりましたけどね、80近いから気にしない、気にしない 凄い量でしよ?勿論残りは持ち帰って、夕食にしました。 翌日は、アイロンかけ、お掃除したり洗濯ざんまい。グレッグがいると、中断される事がしばしばで、落ち着いてできません。 あっちゃんの、ハズバンドが焼いたサワード-のパンをト〜ストにして、ロ-ドレスから貰った金柑で自分で作ったマ〜マレ〜ド。孫娘のお下がりのマグでしょうこちゃんから頂いたサラファンとか言う上品な味のお茶をいれ、グレッグの育てた花や、彼や子供たちや友達の芸術品に囲まれて食べる朝食!これ、すなわち、私の幸せな一時。人は一人では生きられないのです。1人で住めないという事では有りませんよ勿論。この世は全部繋がってるのです。このブログを読んで下さってる貴方とも繋がってるのです。 その幸せ感を味わいながら洗髪した時に、ぱらりとタイルに落ちた一本の髪の毛が、なんとト音記号になってました!
2021.05.26
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1970年代に、ストゥーシーは、私の住んでいたラグナ・ビーチに、サーブボードを削るスタジオを持ってました。「え・誰?その人」と、私など、知らなかったのに、サーファーの弟は、日本に住んでいて、よく知っていて、「彼のボードとか、Tシャツを売る、特権をもらいたいので、お姉ちゃんのところに行くから、連れってって、通訳してくれない?」といって、やって来たのです。その時の写真です。もう一枚あって、それはショーンが手を合掌させて、弟にお辞儀をしている写真でしたが、それはどこかに消えてしまいました。当時は、フィルム写真ですから、なくしたら、それっきりです。「ああ、一月早かったらなあ!」とショーンが言いました。弟よりいち早く、ショーンのデザインの腕を見た、他の日本人がもう、契約してしまった後でした。「それでね、日本に招待されてるんだ」と言ったので「残念!」といって握手をしてるところです。弟は、その頃、日本でも一はやくハワイのマカハチャンピオンシップに参加したのですよ。日本人としては、最初の頃です。自分のサーフボード会社もつくり、結構成功していたけど、中国製の安物がはいってきて、うれなくなりました。その後も、ながいこと、サーフィング大会の審査員などをやってましたね。結局、彼はチャンピオンになれなかってけど、末っ子の息子がチャンピオンになって、あちこちのツアーにいってました。ハンサムな子でクイックシルバーの専属モデルをやっていたので、洋服とか、ボード、ウェットスーツなどは、無料でもらっていたようです。今は、その甥も三人の子の親になってサーフィング学校みたいな事やってるようですが、私もよくっしている、マーク・ブースという娘の同級生がサーフィングの世界チャンピオンになったのも、弟から聞いたのですよ。灯台下暗しとは、このことですね。余談ですが、子供達の卒業した海辺の町の高校は、サーフィングのクラスもあったのです。(今でもあるでしょう)前夫も同じ高校。私はその高校で日本語を教えました。この一枚の写真から思い出した事を、とめどもなく書いてみました。
2021.05.24
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100個以上のビワの皮むいて種とって乾かしてたったこれたけ!でも、孫娘が「美味しかった」と、メッセージして来たから頑張っちゃった。一年半ぶりに、カウンターでお寿司!グレッグが、「植木鉢つくってやったよ」と、世界に一つの鉢をくれた、早速花を植えた小さいパラダイスは、色とりどりの花グレッグを公園に連れ出す事に成功!24年かかったけど、重い腰あげて一緒に歩いた。「悪くないでしょ?スペインにいったら、毎日3-5キロ歩くそうだから、予行練習ね」「うん」 鬱が、だんだん遠くなって来たようです。一度やり出すと、依存性ですから毎週歩くと思います。(この秋に、スペインに行く計画です)
2021.05.20
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「ハッピー介護」の本、お読みくださった皆様にお礼を申し上げます。時々、読者の方からメールやチャットがきます。実は昨日編集長からメールがあって、私の日本語はもう日本では使われていない言葉が沢山でてくるのだそうで、それに気づかずに編集してしまったた事のお詫びでしたが、「言葉は生きてる」ので、57年もアメリカ暮しの私の日本語が奇異だとしても、当然でしょうね。私は、自分の曾祖父の字すら読めませんから。以下は、あるチャットラインで繋がってる男性と、私の本についての会話をしたものです。許可を得たので、ここでシェアーしますね。興味深い事に、読者の半分は男性なのですよ。Y氏:「遅ればせながら『ハッピー介護』読了しました。 移民国家の多様な価値観の違いの中で米国民は暮らしているのがよく分かりました。 次々と現れるヘルパーさんの描写が、驚きの連続です。 血が繋がっていない義理の父母でも、天寿を全うするまでヒロコさんは愛情を保って尽くされたのですね」私「元のタイトルは愛の功績といったのですが、編集長が替えたのです。このタイトルだと看護の話でつまらなそう。。。と思われがちですけどね、どちらかというと、義両親の介護にたずさわった人々の人間模様ですよね」Y氏:「たしかに『ハッピー介護』だと読む前は苦労話に思えました。 したたかなヘルパーとヒロコさんの戦いが面白かったです。」私「いるのですよ、凄い人達が!弱い者いじめをみると黙っていられないたちですからね。」Y氏「 私は両親とも死に目には会えませんでした。霊感は無いのですが、不思議な出会いや縁は沢山あります。魂の存在をうかがえるかのような、不思議な現象の数々も興味深かったです。」私「まぁ!ありがとうございます。私も両親の死に目には会えませんでしたが、霊感はあります。両親、祖母など皆、夢や霊感で同時に知らせてくれました。」・・・とまあ、こんな会話でした。「ハッピー介護」の本は日本ではアマゾンでも買えます。アメリカでは、8pkaigo@gmail.com 弘子宛てにお問い合わせください。
2021.05.16
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