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日本の『食の芸術』は世界一だと思うのは私だけではあるまい。プロだけでなく家庭料理でも、日本人は盛り付けに気をくばり、お弁当にいたっては、もう世界中から驚きの目で見られているだけでなく、結構あちこちの国でも『ベントーボックス』と言って真似をしはじめている。 太平洋戦争で家屋敷をうしないホームレス同様になった我が一族は、疎開さきから東京に戻ったとき、生きるために母は赤坂の一流料亭で住み込みで働いていたことがある。母自身、娘時代に嫁入り修行としてフランス人からフランス料理を習っていたそうだが、そのフランスの料理界も『食の芸術』は日本から学んだと聞いた。 母が働いていた料亭は政界や大企業のVIPが世界中のVIP客をもてなす場所だったから、シェフもその道の一流ばかりであった。家に戻ると、母は目を輝かせて素晴らしいお料理の話をしてくれた。「昨日の前菜は日本庭園のシーンでね、ちゃんと魚もおよいでる池や橋、築山があって季節の花々や・・・・外国のお客様もオーとびっくりして写真をとっていたわ。本当に食べるのが惜しいくらいだったのよ。」 母は、ある日どうしても私に見せたいと言って料理長の許可を得て私をその料亭に招いてくれた。大勢の見習いがいそがしく準備をしているところだった。一人は、大根を麻雀のパイのサイズのように切り、人参を鼻緒のように切り下駄を沢山つくっており、一人はパセリのようなもので松の木を作っていたし、一人はキュウリで扇をつくっていた。まだ中学生だった私は彼等の包丁の手さばきを手品師をみるように見張っていたのを思い出す。兎に角、『食の芸術』にかんしては、日本人の目はかなりこえているとおもう。 皆さまが素敵な日本料理のシーンを想像していらっしゃるところに、どんでん返しのような話で申し訳ないが、アメリカに来て、その日本人の繊細さを破壊するような話がよく身近で起こるので、どうしても書いてみたくなった。 つい最近、何年振りかで日本人の知人一家が手土産を持って訪ねてきた。大きな箱には、沢山のお煎餅やアラレを種類ごとに包んだ袋が美しく並べられて8袋入っており、小さな箱には、兎、水に戯れる魚達、ススキや桜の花びらとか、日本画を描いたような和菓子が並んでいて思わず「うぁ~きれい!」という言葉がでたが、食べる前に写真をとっておいてフェイスブックで皆に見せてあげようと思い、二階に携帯を取りに行った。その間わずか二分、写そうと思ったらもう一個なくなっていた! 私と住んでいるのは夫と犬だけであるから、犯人は分かっている。そして和菓子の芸術も観賞せずに、パクリと数秒で食べたであろう夫を想像して「野蛮人!」と一人で憤慨していた。 写真をとったあと、喜んでくださりそうな日本人のお友達におすそわけしてあげようと思って、彼に見つからない場所に置いたあと久々に、半世紀以上前に日本をはなれた時いただいた由緒ある湯飲み茶わんをおもむろに出し、緑茶をきちんと入れ、母の遺品の輪島塗の木のお皿にキラキラ光る朝顔のような花模様の和菓子をのせて、静かなダイニングルームに行ってまず茶碗を愛で、和菓子を愛で思い出にふけりながら暫くの間一人で日本人を楽しんだ。 お茶の時間をおわらせ、束の間の夢想から目覚め台所にいくと、カウンターに大きなお煎餅の箱が開けっ放しになっていて、はさみと、ちょん切った袋の先が二つ置きっぱなしで、お煎餅も二種類を試した形跡があり、『食の芸術』を無視したアメリカ人と住んでいる現実に引き戻された。乾燥した地方だから良いものの、袋も開けっ放し。「もぅ~~っ!」と言いながら片付けたが、夫はケロリとして、「もうお腹いっぱいだから、昼飯ぬきだ!」と、まるで握り飯でも食べた態度でのたまったのだ。「食べものだろう?ライス・クラッカーだろう?」 彼にしてみれば、私がお茶碗を手にとって眺めたり、折角の熱湯をさましてから急須にそそいだりするのは不思議なわけで、その国に住んでみないと分からない文化の違いなのだろう。結局、いただいたお煎餅などは、ありがたがりながら、いただく私の口に数枚はいっただけで8袋ぜんぶ数日中になくなってしまった。これだから、『野蛮人』には山積みになってるスーパーの、大安売りのお煎餅で充分なのである。
2022.11.05
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娘が、エミー賞にノミネートされました。私は知らなかったけど、婿が、「これ、3回目なんですよ。ジュンは誰にもいわないのですけどね。」とのこと。追加:「パンダのシズカ」もノミネートされたので、二つのノミネートです。娘曰く「賞を獲得しなかったら、誰にもいいたくない」のだそうです。彼女は、アカデミーにもアニー賞にもノミネートされてるのですよ。去年は、ソニーテレビの「パンダのシズカ」でピーボディ―賞を獲得。シリーズ毎に監督がいますが、娘は、その全部の監督の総監督なのです。でも、ネットでは、プロデューサーまでしか、紹介されないそうです。娘の名前をタイプすると、でてきます。
2022.11.02
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【帽子、ボタン付きシャツ、政治的ニュアンスの文字や候補者の写真や名前がかいてあるティーシャツ、ブローチやバッジは全て禁止されてます。これらを無視すると、投票場に入る事ができませんのでご了承下さい】これを読んだ時、今様の言葉でいう「まじ?」という言葉が自然にでた。信じられないが本当の事である。最初は、投票場で働く人だけだとおもったら、そうではない。一般投票者も、候補者の宣伝物の着いたものは一切持ち入り禁止で、もし候補者の名前とかが入ったペン等をもっていても駄目で、無視すると逮捕されるのだそうだ。筆頭にかいたルールは、カリフォルニア、デラウェア、キャンサス、モンタナ、ニュージャージー、ニューヨーク、南カロライナ、テネシー、テキサス、ヴァモント。州により、投票場のルールが違うので、必ず注意書きを読んでから投票場に行くこと。例えば、アイオワ州では、候補者のシャツを着てもよいが、投票したらすぐに出て、投票所の100フィート(33メートル位)より近づいてはいけないというルールがある。つまり、投票者に選択の影響を与えそうなものは一切禁止されているというわけだ。グレッグも私も、昨日まで知らなかったのである。
2022.11.01
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長い事、エッセイを書いていないのは、「これを書こう」と思っている間に事態がかわってしまったり、とんでもない別の事件が起こったりで、世の移り変わりのスピードに付いていけないのが事実であるが、それにも増して、いつまでも、いつまでもくすぶり続けている『トランプの悪事』と、その後援者が後を絶たないという事が気になって、さてエッセイを書こうかな?と思っても、ついニュースをみてしまうからだ。 アメリカ市民として恥ずかしいのは、上記の後援者の大多数が保守党の議員であり、トランプのパワーに授かりたくて、又は彼の味方をしないと身に危険が起きるのを心配して、でっち上げの話を、嘘だと知りながら吹聴して歩いている事で、その為に無教養のアメリカ市民達がカルトの信者のように全てを鵜呑みにして行動しているから、そういう信者の誰かが次々に起こす事件が後を絶たず、私はタイプをする暇もないのである。 例えば、数日前は多数派(民主党)リーダーのナンシー・ペロシの夫が、家に侵入してきた超右派の男に金槌で頭や腕を殴られ病院に担ぎ込まれたり、投票日が近付いたいま、あちこちの州の投票場の入口で武装にマシンガンや、ピストルをもった男達がたむろして、民主党支持者を投票場に入れないように脅したり、トランプが大勢の前で「保守が勝ったら、偽の大統領のバイデンや息子のハンターは国賊として死刑になるだろう」とか、「民主党は悪者ばかり、あいつらはマフィアみたいなものだよ」とか演説をしているのを聞くと、「また、自分の事を言ってる」と憤慨して、エッセイなども書きたくなくなるのである。 カリフォルニアは民主党が強い州なので、投票場での脅しはないが、投票は投票日だけでなく郵送でも直接投票箱にでも入れられるシステムなので、グレッグと私は半月前に投票をすませた。数日前に「あなたの投票を確認するサイトがあります」という通知が来たので早速調べたらちゃんと、名前、住所、生年月日、投票箱の住所、が出て「あなたの一票は記録されました」と出て来て安心した。 なんせ、トランプが落選後、彼はいまだに自分は勝った「俺の票は盗まれた」と言い続けてるが、ちゃんと、自分が負けたことを認めてる録音も出て来たり、取り巻き連中の密告や証言でわかっているのに、その連中でさえ、コロコロと意見をひっくり返して「トランプ様、あなたのご意見はごもっとも、バイデンは偽物デス」ハハハーと、土下座しているのをみると、卑怯者!とがっかりする。 デモクラシーが危険になるサインとして、トランプ派がやってること。1. 選挙の結果を認めない2. 真実を伝える記者達を「フェークニュース」と悪者にする。3. 選挙の結果を認めないから、自分の勝利を唱え続ける4. 反対派の議員、家族、知人などに「殺すぞ」と脅迫電話、メールなどを送り続ける。5. 1月6日の暴動のような事件を起こす。6. 国のトップ・シークレットなどを10箱以上自宅に盗み出し、「これは俺のだ。FBIは家宅侵入罪で罰せられてしかるべき」などという。 私が理解できないのは、これでもか、これでもかという証拠があるのに、大統領だったからという理由だけで、逮捕しないのはなぜ?どこかの国の核兵器の秘密などが、書いてある書類がなくなってるのに、一年も報告がなかったのは何故? その間にコピーだってできるし、隠してあとで恐喝につかったり、高額で他の国に売る事もできるではないか。何がこわいのだろう?市民戦争になる事をおそれているのだろうか。トランプ信者達は、独裁者の国になれば、もっと怖い事になる事がわからないのだろうか。 私はもう80歳だから、いつ死んでもかまわないが、子供や孫達の時代が平和であるためにも、今回の選挙はデモクラシーを保持するために、近代で一番大事な投票だと思っている。 「アメリカ国民なら、必ず投票してください!!」
2022.10.31
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私の友達、漫画家で、ちょくちょくNHKにもでる赤星たみこさんの、旦那さんの ’しんちゃん’こと、新野敬一氏が、俺の猫展を新宿で12月に行います。お友達をお誘いあわせの上、どうぞご覧になってください。それは、それは、素晴らしい絵ばかりですよ。俺の描いた猫をみてくれ。小さなキャンバスに命を込めたぜ!12月13日~18日時間:平日・11時~19時 土日・11時~18時場所:ロムマーイ 東京都新宿区南町17*超忙しいので、エッセイ、ちょっとまってくださいね。弘子
2022.10.25
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銃「もう、あまりにも毎日の多発事件で、ご愁傷様ですとか、これ以上の悲劇は起こらないように祈りますとか、いう言葉が、白々しくて意味がなくなったように感じられて疲れてきた」と、政治家だか、メディアのニュース・キャスターだったかがつぶやいたが、私でさえ「またか」と独り言を言ようになり、一週間後にはその事件の記憶がうすれていく、というより、もう次の事件がおきてるのがアメリカの現状である。アメリカにある銃器の数は、世界中の銃器トータルの数倍あるそうだ。 私がピストルやライフルを初めて見たのはアメリカの映画『Stagecoach駅馬車』という西部劇でジョン・ウェインがリンゴー・キッドという主役で出ていた。疎開先の漁村にすんでいたが、アメリカかぶれの母に連れられて隣町の映画館まで行った。私はまだ小学生で、タバコの煙がもうもうと立ち込める中での立ち見であったが、目の前に現れる桁違いの広い荒野、馬にまたがっての撃ち合いの別世界を無我夢中でみていたので、煙の不快さも感じなかったと思う。良いカウボーイが金を輸送する馬車を襲う悪いカウボーイをやっつける、という単純な筋書きだったが、子供ながらに犯罪を犯した人は罰を受けるのだと学び、リンゴという果物のような名前も気に入って、ジョン・ウェインは人生初のあこがれの俳優になり、以後来る日も来る日も、リンゴーと駅馬車の絵ばかり描いていた。 私の人生には、『想定外』の話がつきまとっていて、半世紀後にはこのあこがれのジョン・ウェインがもっていた海辺の崖っぷちの別荘の庭からプライベート・ビーチに降りるガラスのエスカレーターに乗ることになるのだが、その話はここでは省く。 西部劇は、日本の時代劇に似ていて一応武士道的なルールがあった。つまり、自分の名を言って「寄らば切るぞ!」とか、「にっくき親の仇」とか殺す理由をちゃんと伝えてから、たたかうところも似ていて、不意打ちとか後ろから撃ったりするのは卑怯であり、そういう人間は最低であるとされていた。そして、二刀流の宮本武蔵のように、両手でピストルをうてる達人でも、今のように一人で一度に20人とかは殺せなかった筈である、しかも数分で。 私がアメリカに嫁いできて、義両親の家に住んだとき義母が、階下の寝室の天井を指し「あそこに穴があるでしょう?あれは、ダディー(義父)がピストルを点検してた時に、弾丸が入っているとは思わないで引き金を引いたときの傷あとなのよ。穴を修理しないのは、二度と馬鹿な事をしないようにというリマインドなの」と言った。日本人の私は、それを聞いただけで怖くなって、「・・・で、そのピストルは今でもあるんですか?」と聞いたら、「自分の顔を撃たなかったのが奇跡!そんな危険なものは家におかないでちょうだい、っていったのでお向かいの家に預けてあるのよ」とイギリス生まれの義母が言った。『お向かいさん』は、この町のポリス・チーフであった。 前夫がそれをもらい受けて、我が家に持ち帰った時は可なり怒ったが、「玉は入ってないし、別に弾丸を買おうとも思わないから安心しろ」と言われたが家にあるだけで不気味で怖かった。 当時は、幼児が「これ何?」と言って引き金を引いて母親を射殺してしまったり、子供同士で遊んでいて兄弟を撃ってしまったりという事故死が多かったが、射殺は今とは比べものにならないほど少なかった。 軍隊用のマシンガンの所持はビル・クリントン大統領によって、1994年に違法になったが、保守の支持するNRA(全国ライフル・アソシエーション)のプレッシャーで10年という制限を付けたために2004年からは市民が合法的に買えるようになったのだ。多発事件が起きだしたのはそれからである。市民には、普通のピストルでさえ不必要であるのに、軍隊用のマシンガンの必要性など更にない。最悪なのは、昔の西部劇のように、良いカウボーイが犯罪を犯す悪漢を撃つのではなく、悪い輩が罪のない子供達や市民をマシンガンで射殺するこである。 そして更に恐ろしいのは、あんなにピストルを恐れていた私自身が、ピストルやライフルを見ても怖がらなくなってることや、事件がおきても「ああ、またか」と思うように市民の感知が正規化されつつあることである。 他の国のように、銃器が違法になれば悲劇も激減する筈。日本人は利口であるから明治時代に廃刀令で99%の侍達が刀を捨てたし、一般人の銃所持は最初から違法にしてある。オーストラリアも武器廃止例で全国民が銃を捨てた。イギリスでは警官でさえピストルをもっていない。一般市民には絶対に銃の所持を違法としなければ、いつまでも悲劇は続くであろう。政治家が銃メーカーからのワイロを受け取らなくなり、アメリカの国民が利口になるのはいつだろう。 (携帯で横にうつした写真はPCで縦になおしても、ここにいれるとmた横になってしまいます。画像管理で直せても面倒なので、やめました。証拠写真ですので、別にみる必要ないでしょう。文章は私の原稿のコピペです)
2022.10.08
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今、日本で話題になっている、ピアノと朗読の集い小説:津田梅子ハドソン河の約束こだま ひろこ著2022年10月8日 (土曜日) 13時開演大阪茨木市近辺にお住まいの方、日本女性史をつくった津田梅子の超人的活躍の世界をピアノと朗読で表現いたします。是非おいでください。
2022.10.03
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日本には、敬老の日というのがあるのを忘れてました。「ヒロコさんは80歳になりましたか?」「はい、今年の2月になりました」「あ、それでは、9月の敬老の日に賞状がでます」「え?私、賞状などいただくような事してませんけど」「いえ、80歳になると、出るんですよ。まっててくださいね」私が、2017年からエッセイを書き続けているOrange Networkは、どうやら、オレンジ郡日系協会の雑誌らしく無料で書いているので、会員扱いになったようで、長生き賞に、お弁当、パン粉、カレールー、グミー、インスタントほうじ茶、大福など沢山の付録(爆笑)が付いてきました。お弁当を取りに行って帰宅したら、夫が、「はらへった」といって、お弁当を、全く何も残さずに平らげました。梅干も大好き男なので、なにも残りませんでしたよ。「なぜ、お弁当くれたの?」と聞くから「日本には、敬老といって、年寄りを敬う日があるのよ。日本では百歳になると、金一封もでるらしい。」「じゃ、百までいきたら?」というから、爆笑。「ここは、日本じゃないから駄目」1時からは、Zoomで、敬老のイベントがあるというので、私は二階のパソコンで、開会式から色々な番組をみて、しばしの間、日本人を楽しみました。日本の総領事のメッセージやら、太鼓、93歳のエクササイズのトレーナーのビデオやら、物忘れの『あれ、あれ、あれ』というユーモアたっぷりの歌などをきいて、あっというまに、終わりましたが、長生きしてると面白い事が沢山ありますね。来年からは、ライブのイベントになるといいですね。といってましたが、生きていたら、来年もきっと招待されるのだと思います。
2022.09.26
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若くして巨大な富を築けども才女の友もアルツに勝てずbrilliant was sheeverything she touched grew bigproduced a great wealthalas, even she could notavoid Alzheimer’s disease9/24/2022
2022.09.25
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(やっと、書く時間をみつけました) 我々がスペインの旅から我が家に戻った次の週に、スピードウォーク友達のラナと、彼女の夫君が2週間のヨーロッパの旅にでた。ラナが帰宅して二人で歩いたときに、当然「旅はどうだった?」と聞いたら、「本当にききたい?」と、ニタリとした。「それ、どういう意味?」と聞いたら、彼女のグループは28人で始まったそうだが、コロナ陽性者が続出して、終わるころには16人になっていたというのだった。「ただね、その内の一人は微熱と喉が痛いくらいで、後の人は全く症状なしだったのよ。それでもグループから外されるっての、どう?」 この、リック・スティーブ・ツアーではバディーシステムといって、先ず最初に、自分の連れ合いでないだれかと組んで、存在を確かめ合うシステム、添乗員が選んだ人と組んで、「はい、バディー・チェック!」といわれたら、お互いにその人がいるかどうか確かめ合うシステムである。それが、ラナのグループでは、数日後彼女のバディーが見つからなかったので、「私のバディーはいませ~ん」と報告したら、「コロナテストで陽性とでたので、グループから外れました」と言われたそうで、また新しい人と組まされたらしい。で、どうやら一度陽性がでると、そのツアーではテストを頻繁にやらされて、一週間後には10人落ちたのだそうだ。だけど、その内三組はグループから外れても、同じコースを個人でついて来たという。彼等は症状もなく、全くいつもと同じ健康体なので別のホテルや、バス、電車を自分達で予約して、見え隠れする影のようについて来たというのだ。勿論自費である。最後の三日になってまた二人落ち、とうとう16人になってしまった。 そして、最後のテストの時、ラナとハズバンドも陽性と出たのだが、「翌日はどうせ帰国するのだから、その日だけ外されてなんになるか、とおもって黙ってた」と言った。Honor System(名誉制度)だったらしい。 「悪い事したとは思ったけど、二人共まったく症状がでなかったし、マスクしてるし」と言った。我々の時は、陰性証明なしでは帰国できなかったから、「アメリカ側でよくオッケイしたわねえ」といったら、彼女達のツアーの一週間前に、つまり我々が帰国した翌週からノーテストでオッケイになったのだそうだ。タイミングの問題である。 ちなみに、彼女等はアイルランドにいったのだが、やはりアメリカの東海岸側にすむ知人もアイルランドへの旅でコロナの陽性になって帰国した。症状もでないけど一週間は自宅に閉じこもってるといった。 私が思うのは、ワクチンをした人々は感染しても殆ど症状がでないようになっているから、もう流感と同じレベルになっているのだと思う。今月からオミクロン菌を含んだ流感のワクチンがでると聞いていた矢先に、私の薬局から携帯に「booster ショットが入りましたからいつでもおいでください」というメッセが入っていたから、来週あたりにして来ようと思う。来月あたりから、マスク規制も無くなるそうだ。 スペインから戻ったとたんに、西ヨーロッパ、特にスペイン、フランス、ポルトガルは史上最大の山火事、極暑、コロナ感染が広がったので我々はラッキーだったと思う。グループツアーは初めてであったが、気に入ったところなら、数日いたいし、好きなレストランに行きたいし、見たくもないものは最初からいかないから、やはり私は、自分で計画をたてて行動する方が好きだなあと再確認した旅であった。(完)余談:私は、もともと旅に出ても土産品など殆ど買わないのだが、それでも雨に降られたので、仕方なく買ったフラメンコの傘、そこで売ってたサフラン、ショーホースの土産屋で買った馬のモチーフのスカーフ(午年の私)、オリーブの工場でつい買ったオリーブとか石鹸、フラメンコ・ギターのCDとか、闘牛牧場の土産店でかった瀬戸物の牛とか、結構あるので驚いてる。
2022.09.16
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私の祖母が「梅子先生の授業は寸劇が多かった」といってたのを思い出してます。発音にきびしかった、というたけあって、祖母の英語(片言でしたが)発音は良かったです。日本の女性史を替えた人だと思うので、多くの日本人にしっていただきたいですね。それで、作家のこだまさんを、応援してます。小説津田梅子ハドソン河の約束♪ピアノと朗読の集い 東京かねてから企画していた「ピアノと朗読の集い」がスタートします。津田梅子の素晴らしさを知っていただきたく各地で開催を予定しています。明治4年、6歳で「岩倉使節団」と共に米国へ留学。11年間米国で学び帰国。その後の憂鬱から立ち直り見事に近代女子教育を成し遂げた津田梅子の生涯をクラシックピアノと共にお楽しみください。ピアノ 松浦泰子津田梅子 吉田珠子ナレーション 藤原みき子 松本ゆみ楽曲 ベートーベン悲愴第二楽章 メンデルスゾーン出発 モーツァルトソナチネ 他_______📕日時 2022年10月30日(日) 15時開演 14時45分開場場所 cocobunjiリオンホール JR国分寺駅北口直結 ミーツ国分寺5階チケット代 3000円 小学生1500円 (未就学児不可)主催 ウィメンズコミュニティチケット予約は、私までメッセンジャーにて受付いたします。#ピアノと朗読の集い東京#小説津田梅子#ハドソン河の約束
2022.09.12
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水滴が水晶のごときらめくに胸踊らせる干ばつの土地I find on flowersthe sparkling water dropletslike many crystals make my heart dancing with joy it's a rare treat for drought land9/10/2022
2022.09.12
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https://www.youtube.com/watch?v=ctkdRw1oMX0今日のコンサート中継の録画です。私の属する合唱団の3年振りで観客のいるコンサートをやりました。私が英語で司会をやってます。男声が少ないので、私はテナーをやってます。まだ団員も7割くらいの参加です。観客もワクチン接種証明か、陰性証明をみせなければならないので50人弱でした。でも、徐々に普通に近づいてる事はうれしいです。私のように、日本を離れて半世紀位になる人が大勢います。日本をなつかしんで、沢山、日本の歌をうたいます。
2022.09.11
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<span;>インフレも<span;>何処吹く風と<span;>昼寝して <span;>ただ愛される<span;>犬になりたい <span;>so what inflation? <span;>like no worries in the world<span;>he lay leisurely<span;>getting abundant of love<span;>sometimes I wish I were dog <span;>9/5/2022
2022.09.06
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動くのも極度にひかえなまけ気味極暑にうれし冷たいスイカwe move minimum (5)to keep our comfort level (7)in this extreme heat (5)slice of cold watermelon (7)tastes heavenly like oasis (7)
2022.09.05
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カメラが少数の人しか持てなかった時代から、カメラを持っていない人を探す方が難しい時代に入って来た。テクノロジーの発展は良し悪しで、昔は探偵やスパイなどが尾行をして秘密の写真を撮ったりしていたが、現在では誰が、いつ、どこでシャッターを切って公開されるか分からない。その上、生年月日、住所や履歴、趣味までインターネットで調べることができる世の中、プライバシー等ないも等しい世の中である。 私の新しい携帯なぞ、「昨日あなたは〇〇歩、歩きました」「先月あなたが行った場所です」など、余計な報告が入って来る。こうなると、うっとうしくて、時々オフにしてみるが30分と続かない。電話が鳴るからである。こういう時は、テクノロジーが恨めしくなるが、運転中にタイヤがパンクしたり、迷子になったり、処方箋を聞かれたり、スケジュールのチェックが必要な時は、携帯が救いの神となる。 フィルムカメラの時代には、写し終えたフィルムを現像してもらうと、写したフィルム全部をプリントしたものが封筒に入って戻って来た。勿論、拡大したいものや、追加がほしかったら、又それだけを現像してもらう事は出来たが、要らないものはゴミ箱にすてたから可なりの無駄をだすことになった。その点、デジタル・カメラの場合は欲しいものだけ保存できるという利点がある。更に、プリントしたくなるまでコンピュータ―なり、メモリー・スティックなり、カメラに保存しておけるので場所をとらない。 フィルムカメラ時代は、このプリントされた写真がくせもので、すぐにアルバムに入れないと、あっという間にたまってしまったのである。サービスのつもりで、ある写真屋など必ず二枚プリントしてくれるようになったが、ありがた迷惑であった。アルバムに入れてもまだ一組残ってしまうのだ。勿論、他人が写っていれば、その人に郵送したが、不思議なもので、家族、友達や自分が写ってるものは二枚あっても捨てられなかったから、数十年後にダンボール3個分の写真が出て来た時は途方にくれた。 ある日、それらをより分けて、それぞれの人に送ったが、それでもまだ残ったものは、「エイ!ヤッ!ごめん!」と独り言をいって焼き捨てた。ゴミ箱で他のゴミと一緒によごれて捨てられるのが嫌だったからで、人間の心理とは摩訶不思議なものだと思った。 ところが、一つだけ困った事が起きた。母が生きていた頃、サンフランシスコ近辺に住んでいた実姉のアン (ドイツ語と英語が堪能な私の叔母)の家から古いアルバムを持ってきて「これアンから、自分が死んだら捨てられるだけだから日本に持って帰って、と頼まれたけど重いからあなたの所に置いていく」といって、一冊のアルバムを置いていったのだ。 開けてみたら、祖母の字で名前や場所や年が書いてあるものもあったり、書いてないものも沢山あった。祖母は華族女学校十二期生だったから、同窓生には歴史上人物の娘達がぞろぞろいた。祖母に育てられた私には知ってる人の写真が沢山あったが、日本の弟も妹も興味ないというし、我が子達に至ってはことさらに知らない人ばかりで興味のない話。叔母ではないが、私の死後はゴミ箱にすてられるのが目に見えている。さりとて、捨てがたい明治時代の恐らく貴重な海軍の写真や、皇族や、侍や、大名行列のような曾祖父のお葬式の写真、移民した知人一家のブラジルからの写真などが200枚も入っていたので困ったのである。 こういう時にネットというのは便利で、「どなたか良いアイディアありますか」と聞いたら、早速「福岡に海軍を祀った東郷神社というのがあるから、そこに持って行ったらいかがでしょう」という人がいて、「それだ!」と思った。早速ネットで調べて宮司さんに連絡を取り、私の祖父の一人が平八郎の従兄弟だと説明したら、話しがすぐまとまった。しかも、女性の宮司さんで「5月27日が海軍記念日ですから、その日においでになったらいかがでしょう」という事になった。 その日が来た。私はただ社務所で宮司さんにお渡しするだけの予定だったが、「先ずこちらへ」とお茶を御馳走になり、「おいしゅうございました。では宜しくお願いいたします」と帰ろうとしたら、「いえいえ、あちらにお席を用意してありますので。御榊をあげてください」と軍艦の形をした記念碑の所に案内され、見渡すと沢山のテントの下に赤白のリボンをつけた数百人のVIPがぞろりと並んで座っていて、私は東郷平八郎の親族でアメリカ代表として参加したと紹介されて驚愕した。 榊の捧かたも知らない私は、『どうか一番最後になりますように』と祈りながら、司会者が一人一人呼ぶのをじっくり見ていたら30人目くらいに呼ばれてほっとした。29人が捧げるのを凝視していたから、その真似をしただけである。 というわけで、そのアルバムは福岡東郷神社の宝庫殿に収められたのでほっとしている。
2022.09.04
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ひろこさん先日は本当に久しぶりにお会いできて嬉しかったです。『Happy介護』読ませていただきました。(遅くなってごめんなさい)色々な意味で衝撃でした。 今までの固まった考え方や価値観という「かさぶた」を少しずつ少しずつ剥がされているような(笑)。読み終わった後は自分がこれから担うであろう親の介護、自分が老いたときの娘への負担、、、など色んな気持ちが絡み合って消化するのに時間がかかりました。一番印象に残った言葉は、まえがきにある「二度とやりたくないとは思うが、苦労だったとは思わない」というヒロコさんの言葉です。ヒロコさんが義理両親を看取ったことは知っていましたが、読み進めば進むほど大変な出来事が続くのに「苦労だったとは思わない」と言えるヒロコさんに正直驚きました。そのポジティブな物の考え方、捉え方を心から尊敬し私も存分に真似しようと思います。 どんなに辛いことも大変なことも苦労だと思う思わないは自分次第なんですよね・・・。ヒロコさんの義両親が言っていたように金銭的蓄えさえあれば老いても誰にも迷惑をかけずに済むって私も思っていました。さぁどうやって老後の蓄えを作っていくかと丁度考えていたところです。 しかし、どんなにお金があっても誰にも迷惑をかけずに人生を終えるなんて不可能だということがよくわかりました。 もちろんお金はあるに越したことはないし、計画は大事ですが、何よりもまず人を思いやり、徳を積むことが一番大切でそれこそが生きている意味だとこの本に教えていただきました。私もヒロコさんほどではないですが、日本よりアメリカ生活の方が長くなってある程度のことは経験したりして、人生をFigure Outしたような気持ちになっていましたが、とんでもなかったです。 まだまだです。(汗) この本を今この人生のタイミングで読めて本当によかったです。私の今後の生き方を大きく変えていくと思います。ヒロコさんの貴重な体験を本に残してくださりありがとうございました。この本が助けになった方は沢山いらっしゃると思います。そして私も確実にその人達中の一人です。どうもありがとうございました。昌子日本では、アマゾンでどうぞ。アメリカは 8pkaigo@gmail.com へご連絡ください。
2022.08.28
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レスリーの介護をしていたから、一週ぬかしたので、坂道はちょっときつかった。ラナとのスピードウォークはもう、かれこれ20年近くつづいているが、その持続性の理由は、お互いに絶対に無理をしないことで、自由にキャンセルをしてよい事になってることや、途中で、「じゃ今日はこのへんで、ターンしよう」とか、「今日は、お茶のんでいこうか」みたいに、兎に角自由なところだと思う。ラナの方が3歳年上なのに、私より二倍のエネルギーですたすたあるく。 そして、何よりも、お互いに「何でも」話し合える相手なのだ。これは、とても貴重な存在である。最近のラナの悩みは、夫君の足が悪くなって、一緒にすたすた歩けないことと、記憶力が日にひに衰退してることらしい。それと、互いに、80を超えているから、友達が次々に亡くなっていくことも、話題のひとつになっているので、「だから、若い友達を大勢つくろう」と話し合っている。 これは、今朝の散歩コース、我が家から車で5分内。
2022.08.27
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先々週、買い物から帰宅し、車をとめると、後ろから、お腹を抱えて私の後ろから、グレッグの姉のレスリーが、「ちょっと家に入らせて」というので、トイレに行きたいのだと思って、「どうぞ、どうぞ」と言いながら、私は、買い物袋を台所に運び入れていたのですが、彼女はゲストルームのベットに靴をはいたまま横たわったのです。 何事が起ったのかグレッグも私も訳が分からずに、いたら、お腹に激痛が走り、運転もできなくなって、途中下車したというのです。温シップでもだめ、冷シップでもだめで、痛みは増すばかりで、ついに救急車を呼ぶ事になり、ERにいき、検査をしたら腸捻転で、即手術ということになったのです。それから一週間、彼女はICUで激痛とたたかって、私がピックアップに行き我が家の一階の部屋で一週間看護しました。スペシャルダイエットを用意したり、歩く練習をしたり、薬をとりにいったり、ドクターにつれていったり。やっと、一昨日、彼女の家にもどったのです。彼女の家は、道路にガレージがあっても、そこから住居まで33の階段を登らなければならないのです。それで、数年前に手術したときも、我が家で介護しましたが、今回はながかったです。というわけで、楽天もちょいと、ご無沙汰をしていますが、少しずつまた書いていきますね。、
2022.08.27
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小説・津田梅子「ハドソン河の約束」をお書きになった、こだま ひろこ様から、こんなに素敵なご感想文をいただきました。[Happy 介護」は、日本では、アマゾンでご購入なされます。アメリカでは、8PKaigo@gmail.com にご連絡ください。Happy 介護アメリカ人の義両親を看取った日本人嫁の介護奮闘記!ヒロコ・ファルケンシュタイン著私の著書「小説津田梅子 ハドソン河の約束」に身に余る感想文をいただいたカリフォルニア在住のHiroko Falkensteinさまの著書です。読み始めからビックリ続きでした。まず米国人の義両親を介護したこと、最後は同居しますが、ご自分の家から義両親の家に通っていたこと、2人の老夫婦には病気があること。施設に入らず最後まで看取ったこと。日本の介護事情と米国では明らかに違っていますが、作者の優しさとポジティブな感覚で修羅場さえ、ユーモアが感じられました。あとがきに1995年に英吾で書いて著作権をとり、その後地元の日系月刊紙に日本語で2017年から連載が始まったと書いてありました。ご義両親は、かなり裕福な会社経営者で大邸宅にお住まいで、別荘もお持ちです。お元気な時は素敵なライフを送っていたことが感じられられます。私も1人になった母親を引き取り、夫の協力のもとに介護をしましたので、作者のようなすさまじ介護ではありませんでしたが、どんどん記憶が無くなる母親に涙したことを思いだしました。介護はひとりではできません。時には孤独感に苛まれます。作者はいつも明るくポジティブで、ご義両親、ファミリー、さらには雇っていた介護人に対しての愛をも感じました。作者は80歳ですが、動画を拝見しましたら、張りのある声に驚きました。22歳で渡米、ハワイから南カリフォルニアへ移り、現在もポジティブにご活躍です。人生誰でも山あり谷あり。「Happy 介護」で勇気を頂きました。素晴らしいご本です。有難うございました。 発行所 日米出版 📲05053626424
2022.08.11
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こだま ひろこさんの著書「小説 津田梅子」への感想文をおくったのですが、その返信をいただきました。小説津田梅子ハドソン河の約束アメリカカルフォルニア在住のHiroko Falkenstein様から素晴らしい感想文を頂きました。有難う御座います。繋いでくださいました如意・にょい ナオミ様に深く御礼申し上げます。とても勇気がわいてきました。信念を持って活動して参ります。添付の写真はお祖母様が「華族女学校」(現在の学習院中高)時代に津田梅子に英語を習ったクラスメイトです。こだまひろこ様封建的な時代の大和撫子達に独立心を目覚めさせた津田梅子の生い立ちから、本人自身のアメリカ人と日本人の魂をバランスよく操って、志を貫いた波乱万丈の人生の終わりまでを、つぶさに書いた『小説・津田梅子』先週、やっと読み終えました。 先ずは、ブラボー!とても良く研究していらっしゃいますね。読みながら、小説とは書いてあるけど、日本の女性史の教科書としても通用するのではないかなと考えてました。それほど、政治の流れも、世界情勢も読み取れる御本です。(中略)祖母に育てられた私ですから、鹿鳴館のくだりを読んだ時は祖母の話を思い出しながら想像していました。祖母も何度か色々なイベントに招待され行った事があるので、その経験談を私にシェアーしてくれたのです。あなたの御本にでてくるシーンと、ほぼ同じです。 17歳でドイツに留学し、アメリカで最後を迎えた、大正生まれの叔母(実母の姉)の独立心も、梅子さんが撒いた種の影響が多いにあります。津田塾で英文タイプの教師を終身職としていた、もう一人の叔母も、梅子さんの影響をうけており、当時の女性としては珍しく、考え方も発言も一人の人間としてはっきり主張していました。 私の代になると、もっと独立精神旺盛になっていて、夫が大学生時代に私が働いてサポートしたり、娘の場合は更に男女が入れ替わって、彼女が稼ぎ手で彼が家事と子育てをするような立場になってます。 この100年の間に、世の中の男女関係は物凄いスピードで進化していますが、これも梅子さんのような開拓者が開いた道から始まってると思ってます。そして、その歴史をしっかり紹介してくださったあなたに感謝をするとともに、多くの方々に読んでいただきたいと思っています。弘子ファルケンシュタイン8月6日2022追伸:同封した写真は祖母の華族女学校のクラスメートですから、全員、津田梅子さんから英語を習った人達です。勝海舟の娘とか、伏見宮とか、いらっしやいます。でも、一番仲良しだったのは、一級上の九条さんで、平成天皇のお祖母様になった方です。
2022.08.08
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私が日本からアメリカに出て来て、夢を全部叶えたはなしです。1時間ちょっと、プラス最後の応答に興味深い話もでてくるかもしれませんよ。お時間のあるときどうぞ。昭和時代の話が沢山でてきます。イイネをクリックしてくださるとうれしいです。よろしく。
2022.08.05
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我が家には明治、大正、昭和初期の写真が沢山あった。父はライカというドイツのカメラを持っていて、時々写真を撮っていた。私は小学生だったから、それが当たり前で、どこの家族でも同じだと思っていたのだが、高校生くらいになって、そんなに古い写真やアルバムが沢山ある家庭はそうあるものではない事を知った。 アルバムには写真館で写したものも多かったが、母の子供時代の学芸会とか、海水浴やピクニック、パーティー、スキーなどの写真もあったので考えてみた。祖母の兄(大叔父)が明治時代にCalifornia Institute of Technology(カルテックス)を卒業しており、エンジニア専攻で、当時カメラの研究をし日本に帰国後、カメラの発展に協力したと聞いていたので、恐らくその大叔父がいくつかのカメラを持っていたのではないだろうかと思う。 皆亡くなってしまった今となっては、誰にも聞きただす事はできないが、上に述べたように個人的な写真も多かったから、大叔父は多分フィルムの現像なども自宅でやっていたのではないかと想像している。さらに、叔母もドイツに留学していた訳だから、父のもっていたライカはその叔母の土産だと思うのが一番理屈にあう。ここまでは親の代の話で、カメラというと大事な物、子供は触ってはいけないものという感覚であった。 我々の代になると社会状況も変わり、色々新しいメラがでてきた。話しを少しそらすが、質屋という職業が昔からあって、期限がきれても預けた客が取りに来ないと質流れというかたちで、品物を安く売りに出すのはご存じだろう。とくに私が育った戦後20年の日本は経済困難だったため、この質屋が可なり流行っていた。社会人になっていた年上の従兄が、ある日そういう質流れのカメラを買って来た。四角い箱のようなカメラで、上からのぞくと被写体が逆に見える物だったがとても良く撮れたから時々借りた。出来上がった写真は真四角であった。従兄はいつの間にか、そのカメラを又、質屋にいれて、かわりに手のひらに乗ってしまうくらい小さなカメラに買い替えており、フィルムも1センチ位の高さのロールであったからポケットに入れて持ち歩くことが出来た。従兄が外国のスパイ映画に夢中になっていた頃である。背広やズボンのポケットからだして隠し撮りをするスパイが格好良く見えたのだろう。 母も私もまだ、カメラに対して全く無知で、ある日二人で新宿御苑にそのカメラと、お弁当を持ってお花見に出かけた。数枚写した後シャッターが動かなくなってしまった時、母が「フィルムがつっかかったかもしれないから開けてみたら?」と言うので、カメラの後ろを開けたら母の言った通り、何故かフィルムの穴がポチポチから外れていたので、キチンといれて蓋をしたら、シャッターが動き出した。 その後、二人でにっこり微笑んで写しあったり、他人に頼んで一緒に写してもらったり全ロール終わらせたのだが、現像してもらったら、真っ黒であった。今なら爆笑ものである。「バカ!ちょっとでも光が入ったら駄目なんだよ。だから暗室で現像するじゃないか」と従兄に笑われて利口になった。無知とはそういう事である。 後にアメリカの学生と結婚し、日本を離れる前に夫となった彼が、「日本のラジオとカメラを買って帰りたい」と言ったほど、日本のカメラや電気製品は世界に誇れる立派なものになっていた。アメリカに住むようになってからも、写真家の殆どが日本のカメラを使っていることを知って誇りに思った。戦後わずか20年で世界のトップ級の品物をつくりだした日本人は、それほど優れているのである。 更に、義母が芸術家で彫刻、銅像作りの他に芸術写真にも没頭した時代があって、家にはフィルム拡大機も含み玄人の写真屋並みの暗室をもっていた。しかし私がその家に出入りしだした頃は、ガラクタが一杯つまった物置と化していたから、とっくにカメラもなかったが、整理整頓の下手だった義母の死後おびただしい数の写真が家のあちこちからバラバラに出てきた。余談であるが、その義母と義父を最後まで看取った話を、当Orange Networkに連載させていただき『Happy介護』という単行本にしていただいたのである。 カメラの進化には目覚ましいものがあり、ただシャッターを押すだけで写せる(バ〇チョン)カメラとか、数分でプリントされて出てくるポラロイドカメラだとか、使い捨てカメラ、水中カメラなど色々つかってみた。使い捨てカメラは、治安の悪い所に旅したり海に行ったりする時に盗む人もいないから便利であった。 更に私の子供達の代になると、デジタル・カメラが出始め、フィルムの現像所がどんどん消え去って行き、フィルムも手にはいらなくなったので立派なカメラをもっていても使えなくなり、デジタル・カメラを買わざるを得ない時代に入った。そして、今ではそのデジタル・カメラさえ陽の目を見なくなっていて携帯一個で電話から、写真、支払い、メールのやり取り、つまりカメラ付きコンピュータ―を持ち歩く時代に替わってしまったのである。
2022.08.04
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久々にお客様がみえるので、夏のテーブルセットをたのしんでます。 おままごとのように、このお皿になにいれて、これには、あれをいれてとか、あれこれ想像して楽しむのです。スペイン紀行のエピローグの前に、やることいっぱいなので・・
2022.08.02
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目覚ましが鳴った。朝の3時半であった。私はそれまで4時間ぐっすり寝た。ゆっくり起きてシャワーを浴び、最後の点検、冷蔵庫の中をみたり、アンティークの洋服だなや、金庫を空にして、ベランダに干してあったグレッグの水着を取り入れたり、処方箋の薬をのんだり, 忘れやすい携帯の充電器を抜き取り、飛行機のチケット、パスポートの再点検をして、まだぐうぐう寝ているグレッグを起こした。「ほら、4時よ。あと30分でタクシーがくるのよ」「眠いなあ」と言いながらゆっくり伸びをして、シャワーを浴びだしたので、「先にフロントで、チェックアウトしてまってるからね」と、フロントにいった。 このホテルは、ドイツ人が買ってモダンに改築したと言う。ホテル中に楽器という楽器をかざってある。屋上のテラスの絵も楽器、待合室もダイニングも、客室、廊下にまで音楽に関係のあるデコレーションがあり、バスルームに置いてある、シャンプーや石鹸を載せるトレイも音符のデザインであった。そして、日中は館内にクラシックのバックグランド・ミュージックが静かに流れている。 ロンダの豪邸ホテルもドイツ人が買って、素敵に改築したし、クロアチアでも私の知人のドイツ人が古い家を買って改築しているので知ってるが、彼等のセンスは抜群である。彼等はまた、旅好きで、過去に、キューバやメキシコの奥深くいっても、ツーリストは大抵ドイツ人であった。 グレッグが下りて来た。ロビーもフロントの部屋も、我々しかいない。4時半ピッタリに、タクシーの運転手が来たと、フロントのクラークが知らせに来た。シーンとして真っ暗な中を、ガラゴロと鳴らしてスーツケースを引っ張るのは気が引けたが、車は入れない道なので仕方がない。 飛行場について、料金をきいたら35ユーロだといったが50ユーロ札しかもってなかったので、「おつり要らない」と言ったら、大喜びをしていた。 これで、全てがスムースに行ったわけではない。飛行場のカウンターで予約を見せたら、荷物は何個あるかきかれ、チェックインするのもサイズで違うといわれて、150ドル位とられた上に、席は真ん中しか残ってないというではないか。4か月前にちゃんと窓際の2席をコンファームしてあったのにである。セビリアから、バルセロナまでであるから、我慢をしたが、一時間のフライトで荷物に150ドルもぼられて、嫌な気がしていたら、バルセロナからニューヨークまでの荷物料もまた200ドルとられたのである。しかも、離陸が1時間半遅れたために、ニューヨークで乗り換える時間が極端に短くなってしまっただけでなく、予定のゲートに行ったら、別のゲートに替わったというサインが出ていた。そのゲートが、とてつもなく遠いところで、とてもじゃないが、びっこひいてる私では間に合わないと思ったので、グレッグが私のバックパックをひったくって、走り出した。 「先にいって、ヒロコがくるまで離陸させないようにする」といって消え去った。ニューヨーク飛行場での30ゲートの違いはとんでもないきょりである。125から90に逆戻りするのだが、途中から番号が消え去ってしまい、どちらに行ったらよいか分からなくなったりで、やっとゲートが見えて来たら「おーい、はやくしろ、ヒロコが最後だぞ!」と、大声でどなるグレッグが手をちぎれんばかりに振っていた。そう、私が最後であった。 チケットをみたら、グレッグと私は離れ離れであった。これも、1年前からの予約と違ったので憤慨したが、二人の黒人が、親切にもあれこれ入れ替わってくれて、最終的には二人並んで座れることになったのだった。そして、これまた1時間遅れて離陸したのだが、最終空港のロスアンゼルスには時間通り着陸。出口には留守番をしてくれてた、第二の息子というあだ名のデレックがちゃんと迎えに来てくれていて、やっと旅が終わったのだった。
2022.08.01
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「アメリカに帰国前にCOVIDテストが陰性でなければならないので、明日は〇〇時に、この部屋で専門家が来るのをまっていてください。朝食後に皆で、COVIDテストを受けてから徒歩でパレスを見に行ってホテルに戻ったら自由時間です。夕方は全員、馬車で町を一時間半くらい見物して、ラスト・サパーのレストランに直行する計画です」と、ハビエルがいった。スペインの旅も、今日が最後である。 全員テストが陰性になるといいけど、と心配顔だったが、17人全員陰性でパス。晴れ晴れとした顔でホテルをでた。パレスは、現在でも王家の人や、首相などがセビリアを訪問する時の宿舎としてつかっているそうだが、そうでない時は、一階は一般人が見学できるようになっていた。建築のスタイルは、アルハンブラによくにていたが、小高い丘の上から、城下町を見下ろすアルハンブラ宮殿と違って、ここは街中にあった。つまり、門を一歩でたらダウンタウンで、車が行き交い賑やかな場所にある。又、アルハンブラ宮殿は誰も住んでいないが、ここには記者会見の部屋があったり、二階の部屋は泊まれるように、家具、寝具がそろっていて一部だけは、人数制限で見せてくれるらしいが、一階でも博物館のように沢山の絵や歴史を織り込んだタペストリーが沢山かざってあり、庭も色々な行事にもつかっているらしく、生活がみられた。 一見は百聞にしかず・・・であるから、私の写真よりこのサイトの方が分かりやすいと思う。3分程度なので、ごらんになることをお勧めする。オバマ大統領も訪れた様子がはいってる。 (帰り道で、アメリカ人でこの町に30年すんでる絵描きと話てるグレッグ) ホテルにもどったら自由時間と言われても、荷造りをしたり、エアラインのコンファメーションから、朝4時半のタクシーの予約など色々やることがあるから、のんびりとはしていられない。とは言っても、それは私だけ。グレッグは、ITに至極弱く、携帯でもサイトをみたりチャットをしたりする程度だから、自分の荷物をパックして、屋上のジャクジに消えた。「朝3時半起きだから水着が乾かないかもしれないじゃない」と言ったが、「大丈夫だよ」と我関せず。こういう時には、80才にして、結構携帯やPCを扱える自分は損だなあと思う。 一時間以上すったもんだのあげく、一応コンファメーションを終わらせ、ホテルのフロントでタクシーを予約してもらったが、このホテルの前は車が入れないので、100メートル位歩くことになると言われた。 7時にロビーに降りて行くと、もう10人くらい待っていて、私にピアノを弾け弾けと、うるさい。小さなロビーの真ん中にグランドピアノがおいてあるのである。このホテルは『アマデウス』といって、どの部屋にも楽器が沢山かざってあり、ピアノ、セロ、ギターなどはだれでも弾けるようになっていた。(枚数に制限があるので写真は明日別に載せます) 「指が曲がって、もう7,8年弾いてないから無理。楽譜もないし」と本心を言ったのだが、皆あとにひかない。仕方なく、暗譜で弾ける『エリーゼの爲に』を弾き始めたが、最悪であった。皆は「素晴らしい」とか拍手されて、穴があったら入りたかった。 皆が集まったので、大通りまで行くと、4人乗りの馬車が5台我々を待機していた。全員が座ると、ハビエルは、皆にプラスチックのシャンペングラスを手渡し、なみなみとシャンペンをそそいだ。クレッグと、ロレーンには、コカ・コーラを渡した。私も、「1インチだけ」といって、ちょこっと入れてもらい、ハビエルの音頭で「かんぱ~い!」 そして、馬車は走り出した。物凄い渋滞の目抜き通りを、まるでツーリストに優先権があるかのように、すいすいと走った。5台つらなって、シャンペンを飲みながら通り抜ける馬車は、人々の目に異様に映ったと思う。我々とシェア―したカップルの奥さんが、「エリザベス女王は、どうやって手を振ったかなぁ」というので、「こうじゃない?」と私が手をたててヒラヒラさせたら、「あ、そうそう、それだ!」といって、通る人に女王の真似をしたので、大笑い。 町を一周してから、今夜行くレストラン前で馬車をおりた。店の入口がまるでファンシーな魚屋のように、ケースの氷の上に新鮮な魚や貝類、ラブスターなどをならべてあり、「最後だから、フレッシュなラブスターとか、生カキの前菜などがでるのかなあ」と期待していたのに、そこを通り抜けて裏の大広場のテントの下にテーブルがセットしてあって、何時も食べてるオリーブ、チーズやら、サラミがならべてあって、相変わらず沢山のワインが用意されていたので、「なんだ、つまらない」と思った。(乾杯するハビエル) (牛の尻尾)「長い旅も、今日で終わりになります。皆さんで乾杯しましょう。カンパ~イ!」とグラスをかかげて一揆に飲み干すと、ハビエルは「今日はスペイン独特の特別な料理を選びました。Ox Tail(牡牛の尻尾)です!」と言ったら、グループの人々は気味悪そうに顔を見合わせていたが、グレッグと私は、ベトナム・レストランでOxTailのフォーをちょくちょく食べてるので、慣れていたし、コーンビーフのような食感だというのも知っていたから「大丈夫よ、きっと美味しいでしょう」と言って皆を安心させた。 最後の晩餐にしては、貧弱だなあとは思ったが、最後に闘牛で有名な国で牛の尻尾を食べるというのも、忘れがたい思い出となるかもしれないから、「ま、いっか!」と思った。我々は、皆がまだ寝てる間にホテルをでるので、皆にさようならをいった。ここから、ポルトガルに行く人、まだあちこち旅する人、数日ここにとどまる人と、皆それぞれ。 ホテルに戻ったらもう11時。翌日は3時半起きだから、シャワーを浴びたら4時間しか寝られないというのに、グレッグはテレビをつけた。「僕はねられないよ」といったが、アラームをセットして目を閉じたらテレビの音もきにならず、私はすぐ寝てしまった。
2022.07.30
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実を言うと、私がスペインに来たかった理由の一つは地元で見るフラメンコにあった。フラメンコにも色々な宗派があって、とりわけセビリアのフラメンコは絶妙だと聞いていた。 グレッグと一緒になって今年で26年目になるのだが、巡り合って4,5年たったころ、私は不思議な夢をみたのだった。この話は、「深い知識」という本に書いたので、かいつまんで書いてみる。私のブログを20年前から読んでいらっしゃる方は、もう珍しくもないだろうが、初めて読む方には信じられないかもしれないので、ちょっと説明すると、私は子供の頃から霊感が強く、更に意義深い「夢」を沢山みてる。それは、同時に進行してる事柄 (事故とか、竜巻とか)、予知夢、正夢、問題解決、教え、シンボリックな夢の他に前世の夢をみる。ちなみに、去年の1月6日にアメリカの国会で起こった暴動も、3年前に夢でみており、「トランプ率いるクーデターが失敗に終わった夢をみた」とフェイスブックに書いた。人々は笑っていたが、実際にその通りになっている。 筆頭の夢だが、リズムをとって床を蹴る音に目覚めそうになり、何だろう?とフォーカスすると、私がフラメンコダンスの練習中のシーンであった。物凄いスピードを要する踊りで、カスタネットを鳴らしながら踊り狂ってたのだが、ギターの伴奏をしてる男がちょっと間違えた途端に私もつまずきそうになったので、怒ってカスタネットをその男に投げつけたのだった。その男は、文句も言わず静かにカスタネットを拾って「ごめん」と言いながら私に渡したのだが、よく見るとそれがグレッグだったのである。 この夢は延々と続き、面白い物語になっているが、その話を書くためではないので、ここでやめとく。兎に角、私達は前世でも恋人同士だった夢だったので、もしかしたら、スペインのどこかに行ったら、とくにフラメンコをみたら何か感ずるかな?と思って期待していたのだった。 劇場に入っても、別になにも感じなかったが、ギターが奏でだし、若い女性のダンサーが凄いエネルギッシュに床を踏み始めた途端に爪先から頭のてっぺんまで鳥肌が立って、物凄く『懐かしい‥‥』という感覚になりウルウルしてる自分に気が付いた。体中の全細胞が踊りだしたくてうずうずしている自分に気が付いた。(日本人なのに、と思う方。私はオランダの血も1,2滴入ってるのです) グレッグは「フラメンコなんか別に見たくもない。一度、ハリウッドでみたじゃないか。つまんなくて途中から帰ろうっていったじゃないか。いきたくないなあ」と言って、待ってる間も貧乏ゆすりしていたのだが、ギターが鳴り出した途端にビクッとして最後まで釘付けになっていた。(撮影禁止で、これは、写真用に違う衣装で出て来た時のものです) ショーが終わった時に、「何かかんじたかい?」と聞いた。彼も私の夢の話を思い出していたらしい。「踊りだしたとたんに、体中に電気が走った感じになった。これは、ハリウッドの時には全くなかった感覚。確かに自分は踊り子だったという感じはしたけど、この土地ではない」と答えた。今度は私が「グレッグは?なんか感じた?」と聞いた。「始まるまで、何故来たんだろう?ホテルでジャクジに入ったり泳いでればよかったと思ってたけど、ギターがはじまったとたんに、ジーンと体中がしびれた。歌もよかったねえ。来てよかった」と言ったのだ。彼にしては、とても珍しいことだった。 物語は、夫を亡くした未亡人が嘆きながら墓参りをする・・・みたいな暗い筋だったが、表情や動きに、怒り、悲しみ、哀愁が現れており実に見事な踊りであった。ひらひらした華やかな衣装ではなく、喪服でバラの花を頭にさして踊り、烈しい動きでバラが舞台におちても表情も替えず、緩やかな動きの時にひろって口にくわえたり、実に見事であった。 劇場から出る前にギターのCDを買い、夕食は自由行動なので皆ばらばらに消えて行った。 「さっき、寿司の看板でてたところに行ってみようよ」とグレッグがいったが、閉っていたので、一時間くらい歩いてる内に小雨になってきた。劇場に入る前までは青空だったのにである。 行けども行けども、日本食堂などない。その内に小雨がもう少しひどくなって、これではびしょ濡れになるだろうと思ったら、目の前に『日本料理』の看板があったので、飛び込んだ。中国服のオーナーがでてきたけど、グレッグは「寿司しかたべたくない」といったので注文したが、最低であった。雨宿りをしたつもりになればよいと自分に言い聞かせ、ホテルに戻った。
2022.07.28
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セビリアというと、母が良くロッシーニの「セビリアの理髪師」の後半を口ずさんでいたのを思い出すが、クリストファー・コロンブスの永眠の土地であるとは知らなかった。それだけでなく、今でも子孫が代々この町に住んでいるというのだ。ちゃんと彼の横たわってるという立派なお棺も見てきた。 (この中に本物のコロンブスが入ってるとのこと) この町に着いたときに、ローカルガイドの女性が待っていて、最初に連れて行ってくれたところは有名なラ・マカレナ、別名Weeping Virgin(涙する乙女)の立像がまつられているカテドラル。驚いた事に、建物に入った右側にメキシコの聖グアダルペがいたことで、奇遇にもグレッグは自分のデザインしたグアダルペのTシャツを着ていたのだった。よりによって、その日に着ていたのがとても不思議であった。 本堂は他のカテドラルと比べると、さほど大きくはなかったが、その隣の部屋がちょっとした博物館兼ギフトショップになっていて、二階と三階にフェスティバル用の山車とか、人々が着る衣装とかが飾ってあった。考えたら、イースターが終わったばかりだったので、その数週間前にはここに展示してある山車がパレードにくわわったらしい。ツアー会社は、その期間は数年前からどのホテルも満員になるので、我々のツアーはそれが終わってからになると言ってた。 そのパレードのマカレナに選ばれるコンテストが毎年行われるとか、選ばれるのは、大変に光栄なことらしい。その時代の装束にみを固めた人々がパレードをするというが、ネットで調べたらでてきたので、興味のある方は、どうぞ。そこから、バスでホテル近くの大通りの道で降ろされ、「全員自分のスーツケースを持って、素早く降りてください。マドリードからずっと一緒だった運転手のホゼは、これで終わりです。いまからマドリードまで戻るのです」と言われて、それぞれに握手をして、バスは去って行った。 我々のホテルまで、10分くらいゴロゴロと荷物を引っ張って繁華街をあるき、小型自動車が一台くらいしか入れない路地に入って暫くすると、『アマデウス』という洒落たホテルがあった。そこに荷を置いて、またすぐロビーに集まり、スペインで一番大きなゴシック・カテドラルまで徒歩で行くことになった。 ダウンタウンと、そのカテドラルは、我々のホテルから歩いて15分位の便利な場所にあった。バルセロナから始まって、沢山のカテドラルを見て来たが、一番大きいといわれるだけあって、トレドでもそうだったが、建物の中に柵にはいった教会のようなものがいくつもあって、人でごった返しているので、ちょっとよそ見をしていると迷子になる。「奇跡の像」というのがあって、順番をまって私も触って来た。別にご利益とか期待しなかったが、無事に帰宅したことだけでも利益だったとしよう。 「ここから、自由行動ですが、今夜はフラメンコを見に行きますから、xx時にロビーに集まってください」という事で解散になった。
2022.07.27
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スペインが誇る文化の一つにアンダルシアのショー・ホースがある。血統のよい馬を、丁寧に、大事にそだて、歩き方の数々、ジャンプ、お辞儀とか、ラインダンスのように、他の馬と足並みをそろえて闊歩する事を教えて観客に見せる行事で、毛並み、姿勢のよさ、お行儀の良さにはほれぼれするし、感心するのだ・・・・・・が・・・・・私には、いつも、この・・・・が・・・・が続く。 ショーに出すまでのトレーニングは、馬にとっても人間にとっても大変な仕事。我々が行った牧場、飼育場、リングの設備はグラディエーターのトレーニングを思い起こさせるもので、円形の場所に巨大な輪があって10頭くらいの馬が繋がれており、同じスピードで歩く訓練をされていた。ただ、機械を一定のスピードに設定してあって数時間ぐるぐるあるきまわるのだ。また、馬車を引く馬は、一か所にじっと待っている訓練もされるらしく、50センチくらいの鎖で壁に繋がれていて向きを変える事もできない。さらに、優秀な馬は、乳離れをするくらいになると親と離されてしまうそうで、そういう時に親子で悲しむらしい。 トレーニングにパスした馬は、昇格(?)して自分の馬小屋がもらえるのだろう、立派な馬小屋がずらりと並び、ブラスでできたプラックに生年月日や名前が書いてある。そうでない馬は、肩寄せ合って、そのた大勢の柵の中にいた。「この大きな牧場に放し飼いしないのですか」と聞いたら、「野原に放つと喧嘩をして噛みついたりするので、トレーニングにはつかうけどあまり自由時間はない」と言った。 劇場にはいって、まっていると一頭の馬が入って来てショーの一部を披露してくれたが、10分くらいで終わりテレビ局のインタビューに行ってしまった。(私のヴィデオを見せられないので、YouTubeのリンクをいれましたから、興味おありでしたらどうぞ。こんな感じだというのが分かるでしょう) https://www.youtube.com/watch?v=0Z7AvrSztpY ま、そういうわけで、私は馬たちの自由を取り上げてしまってるようで気の毒になってしまうのである。私が好きなのは、荒野を自由に走り回るマスタング、オオカミやクーガーという敵もいるが、それは自然の世界。私はそれでも、スペインの文化を見学のために皆と一緒に行ったが、グレッグなどは「馬の自由を束縛されてる所なんか行きたくもない。こんなに素晴らしい景色の町にきて、散策しないって手はないから、行かないよ」と、ホテルで一日過ごした。 ただ、グループは牧場だけでなく、市民が食材の買い物をするダウンタウンの市場や、おしゃれな官庁街などにも行ったので、彼は色々見逃したわけだが、ホテルに戻ったら「とても平和な一日だった」と言って、ホテルの周りにはどんな植物が生えてるか、カリフォルニアと似たような花もあったとか、ゆっくり昼寝をして体が休まったと気嫌がよかった。私達は、ダウンタウンで食事やスナックをしたのだが、彼は「一日、何もたべてなかったから腹減った」と言って、早めの夕食をとりにいった。そして、今回の旅では二度目の鹿肉のシチューを食べていた。動物愛護家でありながら、珍しいから食べてみたいとは複雑な男である。
2022.07.22
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どの国でも同じだろうが、大都会の他はツーリストで経済が成り立っているのだと思う。アルコに来て、特にそれを感じた。ツーリストは勿論自分の国民も含むが、スペインは、ポルトガル、モロッコ、フランス、イタリアに近く, 隣国の人が旅にきている。カリフォルニアで考えたら、オレゴン、ネバダ、アリゾナ、コロラドに行くくらいの距離で、簡単に車で来られるわけである。 アルコで何故それに気づいたかというと、あちこちの店が閉鎖されていたり売りに出ていて、その理由がコロナのパンデミックだからである。ただでさえ、この16世紀位に出来た崖の上の町は不便なところなのに、ツーリストが2年半くらいストップしてしまったわけだから、次々に破産してしまったというのも良くわかる。ここまで乗ったタクシーの運転集も「客が激減して、タクシーやめた仲間も大勢いる」と同じ事をいっていた。 ここはスクーターや、オートバイ又は日本で軽という車しか入れない場所だらけ。駐車場にある車の90%が、でこぼこなのは、左右が石の建物の道がせまくて壁にこすりつけるのは、日常茶飯事だからであろう。歩いていると、目の前で次々に車が壁にぶつけてはしっていくし、歩行者もちょっとへこんだ、建物のドアに張り付くように立っていないないと大けがをすると思う。 我々の2★ホテルはWiFiが届かなかったり、シャワーが壊れて居たり、自分で荷物を持ち運ぶ。二階の足音、椅子を動かす音などが、びんびんと響くような建物だが、清潔で絶景であったから文句はない。私はどこでおすぐ寝られるから問題はない。ロビーでお茶を入れて、ベランダでお茶をのみながら、その景色をしばらくたのしんだ。「ここで、気球フェスティバルをやったら、素敵だろうなあ」とグレッグに話していたら、翌朝聞きなれた気球の音がして、一個だけ浮いて来た。私は気球に乗ったことがあるので、あのシューシュー・ゴーゴー言う音を知っている。 「今夜は、夕食抜きにする。グループディナーに一人でいってきてくれ。どうせまた、タパスだろう」とグレッグが言うので、一人ででかけた。 とても洒落たレストランで、タパスではなく8コースのディナーで味もよくサービスも満点であった。ホテルに戻ると、グレッグはテレビを見ていて「腹減った、なにかある?」と聞いたけど、何もなかったので、「じゃ、ちょっとどこかで何か買ってくる」と出かけて行ったが、「真っ暗で、どこもしまってた」と、すぐに戻って来た。ラテン系の国は夜食がおそく真夜中までにぎわってるというが、場所によりけりである。「のど飴と、ピーナッツの残りならあるよ」と言ったら、それをむさぼり食っていた。
2022.07.17
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私の母は、戦後、化粧品など買えなかった時代、顔や肌にオリーブ油を塗っていた。その頃、疎開先の田舎町でオリーブ油などどこから手に入れたのか、今考えてみると叔母が米軍で通訳をやっていたから、米軍の基地経由ではないかと思う。叔母は食料として買ったのだと思うが、小さな瓶にはいっていて、今の私ならマリナラ・ソースを作る時に数回でつかってしまうだろう量であったが母はもったいながって食べものにはつかわなかった。そういう訳で、私は幼児の頃からオリーブ油の存在も香もしっていた。 又、ダヴがオリーブの木の枝を船に持ち帰ったことで、土地が見つかった証拠として、洪水で長い事閉じ込められていた箱船からでられる希望が見えて来たというくだりを子供のころ『ノアの箱舟』という本で読んだのを思い出した。それで平和とか希望とかのシンボルにオリーブの木の枝を使うようになったそうだが、スペインはまさにその産地。バルセロナからマドリードまでの三時間、特急の窓から左右に見えたのはほぼ80%がオリーブ畑であった。 ハビエルが、スペインを支えてるのはオリーブと、ワイン産業だと言うのが頷けられる光景であった。「ところが、その産業で働く人は全国民の3%以下で、年々減るいっぽうです」と言った。どの国でも、お百姓さんが減っているとうのは、食料の生産が減ってるわけで農産物が高くなる筈である。 我々のバスは、道なき道をどんどん上っていくと、普通の農家に20世紀にできたような機械がおいてある場所についた。周りは野原とオリーブ畑で、次の家など何十キロも先の場所であった。 人の好さそうな夫婦が現れて「こちらにどうぞ」と案内されたところに、昼食のよういがしてあった。それをチロリとみせてから、工場を案内してくれ、オリーブ油の作り方を説明し、そのあとオリーブ油の味見をした。ワインの試飲と似たようなやり方で、「先ずは、においをかいでください。そして、ちょっと口に含み、舌で左右に動かして、ちょっと飲んでみてください」と言った。油だから、まさかがぶがぶ飲めるわけはないので、本のちょっと飲んであとは捨てるのである。 「バージンオイルという意味はなんですか」と聞いたら、上等でとりたてのオリーブを低温で時間をかけて絞り出すのだと言った。時間をかけることによって、コクのある濃い味になるのだそうだ。食後、売店で、そのExtra Virginのを一本買ったが、アメリカで買うボトルの5分の1位のボトルで、昔母がつかってたオリーブ油のボトルくらいだなと思ったが、値段は$20くらいしたからアメリカの5倍の換算になる。COSTCOならその5倍の大きさのボトルで$20以下である。 食後また2時間くらいバスにのって、中世期にできたような今夜の宿のある、アルコにむかった。(写真は、なんどやっても横向くのがあるので、あきらめました)
2022.07.16
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生きてますよ!昨夜は、Zoomのセミナーをやっと終わらせてほっとしたので、また、ブログを書きますね。明日は、またグレッグの叔母さんの追悼式にいくので、今夜時間をみて、スペイン紀行文をつづけましょうね。下のサイトは、もう数カ月前のですけど、興味あるかたどうぞ。1時間くらいあるけど、私がどういう人間かわかりますよ。ここに「Happy 介護」についてアマゾン・シェルパのエミリさんとのインタビューをしたのがありますから、全くそのものの私がでてきますよ。日本語がおかしくなってきてるから、英語がでちゃったり、あちこちでつっかかったりしてますけど、これが私です.「現在介護してる人へのよいヒント」なども、出てくると思いますよ。
2022.07.15
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テレビが出始めた昭和20年代にプロレスラーの力道山という人がいた。元々は力士だったが、『空手チョップ』で有名になった人だった。色々な悪い噂もあったが小学生だった私にはそんな事はどうでもよく、初めてのテレビの思い出は?と聞かれたら、寸を入れず「力道山の空手チョップ」と言うであろうほどのインパクトがあった。 まだ、疎開先の町に住んでいたが、当時テレビは電気屋のショーウィンドウと、駅前のタクシー会社と、A医院にしかなかった。力道山が出る日は、電気屋とタクシー会社前は黒山の人だかりで小さな私には殆ど見られなかったので、母に頼んでもらってA医院に見に行った。そこの座敷もぎゅうぎゅう詰めだったのを思い出す。 中学生頃、東京に戻ってからもテレビのある家などは聞いたこともなく、相変わらず電気屋のショーウィンドウや駅とかデパートとか公衆の場所に置いてあった。ただ都会であったから、沢山の電気屋があった。 昭和30年代になって、やっと小さな白黒のテレビが我が家の床の間に鎮座し、V型のアンテナをあちこち動かして、揺れ動くスクリーンに見入ったものである。この頃から、沢山のアメリカの番組が入りだし、と言うか恐らく日本はまだ放映を始めたばかりでニュースとか中継はあったけど、テレビ番組は少なかったのではないかと想像する。『ローハイド』『ベン・ケーシー』『スーパーマン』『ラッシー』『ララミー牧場』は序の口、次から次へとハリウッド番組を家でみられる時代に入った。 余談になるが、想定外の話なので書いてみる。その『ローハイド』の隊長役をエリック・フレミングという役者がやっていたのだが、番組を見ていた娘時代にまさかそのエリックにキスをされる立場になるとは、誰が想像できただろう。でも、それは実際にハワイのホテルのフロント勤務中に起こったのだった。「僕はつい昨日までプロモーション・ツアーでクリント(イーストウッド)と日本に行ってたんだけど、日本が一発で大好きになっちまった、特に女性に惚れてしまったんだ」と言った。私はただ、「あら、そうですか」と答えたのだが、「君のような人を奥さんにしたい、キスしていいかい?」と、急にカウンタ―に上半身を乗り出してキスをされてしまった。カウンターの後ろは狭く、とっさの事でよける暇もなかったが、「私は結婚してます」と言ったら残念がって、手を振って消え去ったのだった。それから間もなくして、彼はロケ中に濁流にのまれて溺死してしまった。スタントマンを絶対に雇わないで、全部自分でやる人だったと聞いた。 私は最初の東京オリンピックの年に日本を出て来たのだが、そのすこし前にカラーテレビが出始めたと思う。カラーでみたハワイの虜になって、何時かハワイに行こうと夢をいだきはじめ、ウクレレを習いだし、ハワイアンを練習するようになった。その頃、鎌倉に住んでいた親戚が「ミス鎌倉になると、アメリカ旅行にいけるってよ。ひろこちゃん試してみたら?」と知らせて来た。 水着で人前にでるのはいやだったが、貧乏時代アメリカ往復航空券は魅力があったので、「あら、いいじゃない」という母にも勧められて参加してみた。200人くらいの美女達が厚化粧、ビキニでハイヒールを履いた人が多く、ワンピース水着、ローヒールに口紅だけの私など出るまくではないと思ったが、最後の5人に残ってしまったのだった。結局一等賞は花嫁道具一式でアメリカ旅行ではなかったから、「ばかみたい、行って損した」と母に文句を言ったのを覚えてるが、帰宅したらNHKのテレビ・ニュースに出ていた。舞台上の豆粒みたいな私だったが、テレビの中の自分をみるのは、面白い経験であった。 日本を出た頃には、日本のテレビ番組も増えて来ていたが、局数は少なかったからハワイに来て日本の数倍のテレビ局があるのには驚いた。それにしても、あの時代に夢を抱いてから4年内に私はハワイに住み始めていたのだから人生とは面白いものである。しかも、夢中でみていたテレビ・シリーズの主役にキスされたのだから不思議としか言えない。 テレビは分厚い四角い物から始まって、今では2センチ位の厚さの大きなスクリーンになり、携帯でも腕時計でも見られる時代になったが、テレビ局も、映画チャンネルもチョイスが多すぎ、コンピュータ―につなげたり、携帯でリモート操作などできる世の中で複雑になってきてるので、娘や息子の家にいって「さて見よう」とテレビをオンにしても、ゲームが出て来たり、音楽チャンネルが出て来たり、全く操作法が分からないので、いつも自分のラップトップを持って行き、コンピュータ―でテレビを見るようになっている。ハイテクは便利なようで不便である。昔のシンプルなオン・オフ時代が懐かしいのは私だけだろうか。
2022.07.04
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羅府新報にも宣伝がのってました。Orange Netweork 7月号にも宣伝されてます。私のエッセイは、あとで載せます。スペインの紀行文もかきたいけど、明日は独立祭だし、このセミナーの原稿をかいてるしで、てんてこ舞いなので、お待ちください。
2022.07.04
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闘牛の牛は、闘志満々で、頭が良くて、健康で、強くなくてはならない。そういう牛を見抜いて育てるファームの見学に行くことになった。ロンダの宿を出て直接行くので、グレッグのように行きたくない人も否応なしにバスで行くことになった。 田舎道をでると、ちょっとしゃれた郊外になって、左右に牧場のようなものがでてきて、ゲートが見えて来た。ゲートで、中年の女性が手を振ってまっていて、バスを降りたハビエルをハグし、キスして、スペイン語で会話してから、我々をみて「ウェルカム」と英語で言った。 その英語が堪能なガイドは、まず、闘牛場でバンディネロが乗る馬のトレーニングをしている円形の馬場に案内し、馬が円をかいて走り回るのを暫くみせてから、こじんまりした展示場にはいると、マタドール(闘牛士)の写真とか、衣装が飾ってあった。 有名なマタドールになると、ロックスター並みの扱いになり収入も、ファンもぐんと増え、将来の嫁さん候補もよりどりみどりになるので、マタドールにあこがれる男の子は後を絶たないらしい。ちなみに、貴族から求婚される事もあるそうな。 (牛のいる所では、バスからおりなかった)牧場には沢山の樫の木が生えていて、広い牧場には牛が放し飼いになっている。どんぐりが筋肉隆々の牛をそだてあげるのだそうだ。そして、牛の世界でも代々チャンピオンの闘牛を生み出した種牛を大事に扱うらしい。そして、候補の牛は闘牛場でマタドールに殺されるために健康かつ強くなるように育てられるわけで、なんとも悲しい性ではある。とは言え、闘牛にならない牛も肉として売られていくのだから、どのみち悲しい運命である。 ある日突然グレッグが、「四つ足動物を食べるのをやめよう」といいだしてから、一年たつ。彼は簡単にいうけど、料理する私は結構メニューにあたまをつかう。前にも一年くらいやめたことがあるが、人の家に招待されたときとか。メキシコの屋台では良いことにしようとか、いつの間にか食べていたのを又やめたのだった。勿論、このスペイン旅行中も食べて良いことにした。いい加減な二人である。(笑) バスで牧場を一回りしてゲートの所に戻ると、ここの持ち主が現れた。ガイドの女性が「元、有名なマタドールで、リタイアしてからこの牧場をてにいれ、闘牛の飼育をしているんです」といって紹介し、質疑応答の時間になった。最初に入った展示場の闘牛士の写真や衣装は、彼のものであった。穏やかで、にこやかな牧場のおじさん風なこの人が、かつてはリングに入ると凛々しく変身したマタドールだったとは! 更に、最初に馬のトレーニングをしていた人も、その馬とツアーバスまでさよならを言いにでてきた。 バスに乗ったらハビエルが、「彼は超有名になって、伯爵の娘さんと結婚して豪邸にすんでます。」といった。つまり、中には貴族と結婚するマタドールもいるというのは、彼の事であった。
2022.06.30
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我々のバスは荒野の細い道にはいったので、ターンするためかと思っていたのだが、そうではないらしい。どんどん狭くなって対向車が来たら、どちらかがバックしなければならないような道になっても、走って行った。農家が数キロごとにポツンとたっていて、バスの左右を木の枝がガリガリこするくらいの狭い所も時々あった。 腰を痛めているので、私はバスの一番前、つまりハビエルの後ろに座っていたのだが、そんな状態の所を曲がろうとしたので、「え?」と自然に声をもらしたら、ハビエルがマイクロフォンをとって、「皆さんも、一体どこにいくのかと思うでしょう?僕もトレーニングの時に会社の人に連れられてきた時は、運転手が間違えたのだと思ったくらいです。もうじきつきますよ」といって、数分した時、急に眼の前に広場があらわれ、大きな門が出て来て、バスはそのゲートの前で停まった。 荷をもってゲートをくぐると、豪邸があらわれた。その昔、スペインの豪農が持っていた家をドイツ人が買ってモダンに改築し20室くらいの寝室のあるプライベート・ホテルとして、一部屋、一部屋が大きく、どの部屋にも素敵な眺めがみられる窓がついていた。 バーは、Honor systemといって、ノートブックが置いてあって、正直に自分の飲んだものを書いておくと、チェックアウトするときに加算されてくる仕組みになっている。応接間も、バーも私の裕福な友達の家に行ったようなフレンドリーで、いつまでも座っていたいような安楽さがあった。おどろいたのは庭で、公園のように広く、公園のようにきちんと木のなまえが表示されていて、整頓されていた。野菜や果物も自家製である。 オリーブ畑が続いているが、それもこのホテルの持ち物で、そこで自家製のオリーブ油をつくって売っていたのでチェックアウトの時に買った。 ここでの、夕食もアルハンブラ宮殿を見ながらのグラナダの夕食に負けないほど、エレガントであったが、なんか心が洗われるような平和なイメージであった。従業員は数人で、フロントから、ウェイトレスから、メイドから、全部やっているようで、とてもフレンドり―で、温かい人達だった。
2022.06.28
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Go with flow (流れのままに)の人生なんですが、面白い事になってきました。これで、今年4回目の講座です。ぼけてはいられませぬ。皆の衆、80過ぎの人生もあきらめてはなりませぬぞ!
2022.06.28
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今夜25日(ロス・タイム土曜の夜6時半)日本は明日朝10時半Zoomでお会いできますか。 私は、正夢、予知夢、教えなど、子供のころから色んな夢をみます。この日は、「Happy介護」25章の「夢」の話をもう少し詳しく、お話ししてみようと思っています。皆さまのおいでをお待ちしております。ZoomミーティングID 864 7039 6946セキュリティパスコード 12345招待リンクhttps://us02web.zoom.us/j/86470396946...弘子(Happy 介護)のご購入は、日本のアマゾンでどうぞ。アメリカの場合は 8pkaigo@gmail.comでおしらせください
2022.06.26
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私の所属するOCFC (Orange County Friendship Chor)は、久々に田中ファームで歌ってきました。これは、東北大震災のチャリティー・ショーで、あの震災後から毎年つづけているのですよ。田中さんという日本人が明治時代に移民して、いまでは三世が経営してるのだとおもいますが、巨大な農場なのです。イチゴを自分でとったり、収穫祭りにはパンプキンをえらんだり、いろんな行事がありますが、6月には、Walk the Farmというイベントで、この日の収入の何パーセントかを、東北の復興に寄付するのです。二年間がまんしていた、会員達が、やっと里帰りできるようになったので、次々と、日本にいくわけで、この日に何人あつまるかなあと、心配していましたが、三部合唱が歌えるだけの人数があつまってほっとしました。
2022.06.24
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動物愛護家のグレッグとは、絶対に一緒に行きたくない場所に行くことになった。闘牛場である。スペインの闘牛といえば、日本の相撲にもひってきする国技として古い歴史がある。グラナダからバスで3時間走って、お昼ごろロンダに着き、街中で全員降ろされたので、否応なしの見学であった。「まず、ここから真っすぐ300メートル位行ったところに、素晴らしいGorge(峡谷)がありますから、是非みておいてください。足の丈夫な人は下までおりる階段もありますよ。ここを右にいくと、見晴台のある公園があります。お昼過ぎまで自由行動ですが、午後、この闘牛場の見学をしますから、1時にこの闘牛の銅像の前に集合してください」とハビエルがいって、自由行動になった。 ちなみに、その銅像は有名な闘牛の等身大だというから、巨大な牛だったのだ。こんなジャイアンツに角を突き付けられたら即死であろうから、闘牛士も必死だっただろう。「牛が勝つこともありますか」と聞いたら「歴史上、怪我をした人が多いけど死んだのは一人だけです」といった。また、「死んだ牛はどうなるのですか」と聞いたら、「全部、無駄なく肉も皮も消費されます」とのこと。 先ずは峡谷を見に行った。グレッグは「わ~!」と驚いていたが、私は、グランドキャニオン、ザイオン、キャニオン・ドシェーなどに、何度もいってるので、!大したことはないと内心思ったが、一緒に、「わ~!」といって、写真をとった。彼は、アメリカ生まれなのに、アメリカを旅していないのである。だから、雪が降るのも初めて見て興奮したり、この峡谷でも目を回しそうだといった。 考えてみたら、かえって外国からアメリカに来た人の方がアメリカを旅行してるのだとおもう。そういえば、ハワイに住んでいた頃、地元の仕事仲間のなかで、オアフ中を見て回り、ハワイ、マウイ、カウアイをしってたのは、私だけだったのを思い出した。皆、ラスベガスやディズニーランド、ハリウッドはしっていても、オアフ島の滝の数々を知らなかったし、横浜ベイも行った事がない人ばかりであった。こういうのを『灯台下暗し』というのだろう。 渓谷をみて、街中を散歩したあとに、レストランで食事をした。現金があまりなかったので、カードの使えるのを確かめてから椅子に座り、二人でのんびりと昼食をとり、トイレに行ったら、トイレのドアが開かなくなって、内側からドンドンたたいて、外側から開けてもらうというハプニングがあった。古い建物には、こういうことがままある。 闘牛場の見学は、私が懸念していたのに反して、「闘牛そのものをみるわけでないから」と、グレッグも皆と行動をともに観客席5000という大リングの見学をした。娘も絶対に来ない場所であるが、私は良くも悪くも、一応この国の歴史の一部であるからみておきたかった。ハビエルは、「闘牛に反対する人も多いのはよくわかってますが・・・僕自身、牛がじわじわと殺されるのは嫌いですが・・・」と前置きして「サッカーと同じく国民がこぞって興奮する国技のひとつなので・・・」とツーリストの中での反対者の気持ちも考慮して、言葉を選んで控えめに説明してくれたが、「夏休みに娘を連れて行くことになってます」と、プライドを隠しきれないのも伝わって来た。 牛がここをとおって、リングにでるのである。
2022.06.23
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アルハンブラと聞くと、先ず思いうかべるのは、私の大好きなフランシスコ・タレガ作のクラシック・ギター、Recuerdos de la Alhambra (アルハンブラ宮殿の思い出)。これは何十年、何度聴いても飽きない。その宮殿に行くことになったのだから、朝からわくわくしていた。 今日のガイドはアラブ系ドイツ人で、ドイツ語、英語、スペイン語とアラブ語を話せる人だった。「アルハンブラって、どういう意味?」ときいたら、「赤という意味ですが、つまり、この宮殿の壁の色です」といった。薄いレンガ色みたいな色を言うらしい。 (アルハンブラは、この壁の色の事) 時節がら、セキュリティーが激しく、パスポート、コロナのワクチン済カードのコピーをされ、荷物の中身を調べられてグループの入口からはいった。余談だが、グループ・ツアーの長所は、1時間くらいかかる行列の時にでも、別の入口から早めにいれてくれる事である。ガイドと一緒に短時間で回るからだと思う。早く入場できる替わりに、長くいたい場所でも、すぐ動かなければならないことはあるが、このガイドはその辺を良く心得ていて、次のミーティングポイントを教えてくれたら、自分のスピードで回れホテルまで自由行動だったので、時間的にはゆったりと見学できた。 いつも思うのだが、エジプトやメキシコのピラミッドにせよ、奈良の法隆寺にせよ、中国の万里の長城にせよ、原始的な道具で100%手作りのしかも千年以上たっても残っている物件を作り出した昔の人間の英知には尊敬とか凄いとかいう表現以上の何か神秘的なものを感ずる。設計者のクリエティビティーは無論の事、細かい計算をするエンジニア、無限に近い経済力のある権力者、そしてその下ではたらく万という奴隷とか労働者、そして、その木工技術の繊細且つ正確なことには脱帽である。気の遠くなるような忍耐力をもった人間達の事、沢山の事故死や大けがをした人々のエネルギーの集まりを、写真をとりながら考えていた。今のインスタント・グラティフィケーションの時代では考えられない歴史である。 砂漠地方では水が何よりも貴重であるから、水をふんだんに使うという事は、権力の象徴であり、それを示すがごとく、広大な敷地には沢山の池や、噴水、休みなく流れる水路がある。いくら王族にしても13世紀の砂漠地帯では無理な話、スペインだったから出来たことである。 上にも述べたように、まるでレースのように、やわらかにみえる壁は全部、大理石のような石であるとわかって驚愕したことは、トレドのユダヤ教殿堂の話に書いたが、ここでは建物の内外の壁だけでなく天井にまで及び、その面積はトレドのユダヤ教会堂でみたもの数百倍もあった。 メインの宮殿から離宮にいくと、風通しがよく寒いくらいであった。良くできたもので、ここは夏用につくったそうで、宮殿は半袖でも良いくらいだったのに、離宮は4月の末でもセーターやジャケットが必要であった。広大な敷地には今でも果物の木や野菜を栽培しており、その昔も恐らく食べ物は豊富であったろうと想像する。 沢山オレンジのような実をつけた木が何百本とあって、これは食用なのか聞いたら、まずくて食べられないのだそうだ。というか、皮をマーマレードにするくらいだといったが、その昔は、別の果物の木だったのかもしれない。 メインの宮殿も、離宮もドアが殆どなかったが、これは観光客に見せるために全部はずしたのだろうが、もしそのままあったとしたら、外側の廊下は明るくても、部屋はまっくらであったろう。明かりを入れるためにドアをあけたなら、かなり寒かっただろとか、いや、以外に中庭をふんだんにつかって、食事をしたり、客の接待などもしたかもしれないとか、色々想像を楽しんだ。 ・・・・さて、先ほどからヘッドフォーンでくりかえし聴いている「アルハンブラの宮殿の思い出」を、そろそろオフにしよう。
2022.06.22
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ミゲール・サルバンテスは17世紀のスペインの劇作家で、ドン・キホーテ、シリーズは何か国語にも訳されて世界の多くの人達をたのしませてくれた・・・というか、未だに進行形で、楽しませてくれている。 お恥ずかしながら、私はその本を全部読んだことがないが、ドン・キホーテは架空の人物であり、物語の中では下級の貴族で、サンチョ・パンサという家来をつれて馬にのって旅をするという設定になってるのは知っている。その中に風車と戦うエピソードも出て来るが、今日はその舞台となったラ・マンチャ地方の風の強い丘の上に行ってきた。どの風車も回らないように、全部針金でとめてあったのは、きっとけが人を出さないためだと思う。 その丘の上で、また酒盛りのランチ。今回は、グレッグやロレーン用にコカ・コーラも用意してあったが、物凄い風でナプキンも紙コップもとばされそうであった。また、ワイン、パン、チーズ、サラミであった。朝食は、ワインの替わりにジュースかコーヒーだが、パン、チーズ、サラミ、果物で、もう今朝たべたばかり。 グラナダのホテルに荷を下ろして、シャワーを浴び、今夜は、アルハンブラ宮殿と夕陽をみながらの特別なディナーだというので、ちょっと気取った恰好をして待機していた。アルハンブラは13世紀頃アラブの王族が建設したもので、この辺にはアラブ系の人がすんでいて、ホテルのすぐそばは、アラブ系の人が経営する店がずらりと並んでいた。 今夜行くレストランは、普通の豪邸の一階をレストランにしてあり、経営者は二階にすんでいるので、予約は必修。メニューの予約も二日前からいれておくようで、バスの中で、ハビエルがその説明をし、「三つのチョイスがあります」といって、全員予約をしたので、何がでるか分かっていた。つまり必要分だけの食材を用意しておくわけで、これは無駄をださない利口なやり方である。 出かける前になって、小雨が降り出し、可なり急な坂を上る事になっていたので、私達四人はタクシーにのった。タクシーはぐるぐると、狭く、急な石の坂をあちこちまがったので、皆で顔を見合わせて「歩いたら、1時間はかかるね」と言ったのだが、徒歩の人達は我々より先についていた。つまり、丘を直接階段で縦に上るなら、すぐの場所であったが、可なり急な坂であった。 「タクシー、私がはらって、領収書をもらうから先に行ってて」といったら、皆消えてしまい、領収書をもらって後ろをむいたら誰もいなかった。御屋敷町で、豪邸ばかりでひっそりしてる。さて、どの家なのだかわからず、あちこち歩いていたら、小雨が中雨くらいになってきたが傘は先に降りた人に渡してしまったし、屋根もないので、せめて大木の下をえらんだが、ぼたぼたと水が落ちてくる。 二人の女性が歩いて来たので捕まえて、聞いてみたが彼女達もツーリストだという。それでも親切にトマト・レストランというのをネットで調べてくれたら、谷の反対側を一山超えたところにある。というのだ。絶対にそんなことはないが、お礼をいって、知らないところを歩くより、タクシーを降りた所で待ってる事にしたら、めかした服もびしょ濡れになったころ、グレッグが心配気にでてきた。なんと、私はその門の前でまっていたのだった。大きな花園をとおり、絶景のテラスをぬけて、ダイニングルームに入っていくと、もうワインをのんでいた。谷をはさんで、向かい側にアルハンブラ宮殿がみえ、暗くなったら、ライトアップでくっきり浮かび上がってきて、とてもよい雰囲気であった。今夜のディナーは今回の旅で一番豪華であった。 これは、鹿の肉のシチューで、牛肉とあまりかわらなかった。 谷の向こうにみえるおが、アルハンブラ宮殿である。
2022.06.21
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父の日を祝う今年の2月で、私は80才になった。毎年、母の日は祝っていても、父の日は忘れがちであった。ひとつには、父は、私がうまれて、すぐに戦争に行ってしまったわけで、戦地から心身ともにボロボロになって帰国したころ、私は3才になっていたこともあって、父というより、知らないやせこけた叔父さんであったから、「これが、お父様よ」と母にいわれても、こわくて母の背中にかくれてしまったくらいで、父にしてみたらショックであり、可愛げのない子だったであろうと思う。父にしてみれば、その後うまれた私の弟や妹が可愛かったに違いない。今にして思えば、PTSD (戦争のトラウマ)も手伝って、物凄い酒乱になり、子供としては、酔っ払った父の思い出の方が多いのだが、素面の時の父は、本当に、なんでもできるスーパーマンであった。学校でも成績は一番うえだったらしく、兎に角数学、科学、国語、英語など私の学校の先生より出来たと思う。海軍中佐であったから、天気の予報の仕方、潮の流れ、星の位置をコンパスで計って、航海する方法などを教えてくれた。もうほとんど忘れてしまったが、潮の流れを馬鹿にしてはいけないこと、つまり表面が穏やかでも、海流はちがう方向に向かってる事もある、あれ海でも、安全に泳いで岸に戻る方法もある。。。。というのは、実際に体験して、助かっていて、「Happy 介護」にも、その考え方を人生に当てはめて書いた章がある。戦後の物資難時代でも、大工道具があれば、ベッド、ダイニングセット、寝椅子、ベンチなど、次々につくっていた。電気の故障も直し、井戸のポンプが壊れると、「空気がもれないように、ここにゴムをとりつけるんだよ」とその理由も教えてくれたので、電気、水道など自分でも直せるようになっていたことが、結婚後も前夫と基礎から家を建てるのに役立った。人間はネガティブな事のほうをよく覚えているので、酒乱のイメージの父の方が大きかったのだが、数年前に英語で短歌の本を書いているうちに、父の事がかわいそうになって来ていた。「今にわかるよ」と言ってた言葉が、頭を横切り、その日から父の良い方を見るようになった。上流家庭に育ち、「xxxxさんは、えらい、えらい。あなたは出世しますよ」と、実母にほめられて、家族の皆からも大いに期待されていただけに、負け戦で、夢が全部潰れてしまった時にめちゃめちゃになってしまった、と思ったのだろう。今のように、精神医もふんだんになく、アル中は病気だという扱いはしない時代であったから、自分でコントロールするしかなかったのだろう。我が家にいた、お手伝いさんと再婚して、素面になったり、また飲んだりの繰り返しであったらしいが、戦争さえなかったら。。。。と考えると実に不運な人であったと思うと同時に、この歳になってやっと父の悩みがよくわかってきた。15年位、音信不通になっていたのに、ある晩父が夢に現れて「なかなおりしようよ」と、床に横たわったまま手を差し伸べて、私と握手をしたのだが、その朝起きて、手にまだその感覚が残っていた時に、妹経由でもらった住所に15年降りで子供二人の写真をいれた手紙を速達でだした。翌週に、異母姉妹から速達がきた、「父はxx日にひろこ。ゆるしてくれといいながら、しにました」と書いてあった。私は父の死を同時に夢でみていたのである。(下の部分んがぬけていたので、追加します)その時に、父と私の強いスピリットの繋がりを感じ、全てを許した。スピリチュアルな人は「死に花をさかせる」とか「なかなおり」をするらしいが、父と私はその「なかなおり」をしたのである。今では、すんなりと父の日に感謝の心を届けている。 父の父、私の祖父は東郷平八郎の従兄弟です。
2022.06.20
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https://www.facebook.com/events/2285994908217220 皆さん今日は。今月25日(ロス・タイム土曜の夜6時半)26日日本時間日曜の朝10時半)Zoomでお会いできますか。 私は、正夢、予知夢、教えなど、子供のころから色んな夢をみます。この日は、「Happy介護」25章の「夢」の話をもう少し詳しく、お話ししてみようと思っています。皆さまのおいでをお待ちしております。ミーティングのインフォメーションはリンクの下の方にあります。弘子(ご購入は、日本のアマゾンでどうぞ。アメリカの場合は 8pkaigo@gmail.comでおしらせください)
2022.06.16
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スペイン紀行・9 なんだかなぁ~の日 京都のお寺の数ほどではなくても、兎に角スペインはカテドラルだらけ。しかも、莫大な経費と何十年という時間をかけて、パワーを象徴するごとくキンキラキンの彫刻やら、気が遠くなりそうに細かい細工のデコレーションが延々とつづき、素晴らしいと思う一方、一体何百万人という労働者の血と汗をながしたのだろうかと考えると息がつまりそうで、はやく建物から出たくなるという複雑な心境になることが多い。 得にスペインで一番大きいといわれるゴシックの殿堂は、まるで教会の中にいくつもの個別の教会があるような感じで、一つ一つの柵のなかにキリストやらマリアやらの偶像、祭壇があったり、パイプオルガンまである。「これら、全部のパイプオルガンを一度にひいたら爆音で建物が割れそうね」とグレッグにささやいたくらい、沢山のパイプオルガンがあった。凝りにこっていたのは、天井に大きな穴が開いており、上から銅像達が見下ろしていて、何だろうと思ったら、ある時間になると太陽光線がキリスト像にパーッと降りそそがれるように計算してあるとか。信者獲得のための、アトラクションだったのだろうかもしれないけど、ご苦労様なことだと、勝ってに考えていた。(写真は一つ前の#8にあります) 「ここからは、自由行動です。ホテルは、こっちの方向。では、今夜は特別なディナー・パーティーをやりますからロビーで8時にあいましょう」とハビエルがいったので、やっと殿堂から出られることになって、ほっとした。 「先ずは、腹ごしらえだね。絶対にタパスもサラミにチーズもいやだ」というグレッグに賛成し、レストランの散策をしはじめたら、10人くらいがついて来て、一緒のレストランに入った。ウェイトレスが「お飲み物は?」と聞いたので、アイスティーがあるかきいたら、聞いたことがないというので、「じゃ普通のホットでいい」と言ったら、気をきかせてポットに紅茶がはいったものと、ティーカップにアイス・キューブを入れたものを持ってきたので、可笑しくなって「パーフェクト!」と笑ったら、安心した顔がいかにも可愛らしかったので、彼女の親切に「グラシアス」とチップをあげた。(ヨーロッパではチップは要りません) レストランをでて、ホテルまでウィンドウショッピングを楽しみ、ちいさなユダヤ教会堂をちょっと覗いたときに、レースのような模様の壁に感激したのだが、それは次の目的地グラナダのアルハンブラ宮殿に行く前の単なる予行練習ならぬ予行感激(こんな言葉はないです)であった。つまり、この教会堂の比ではないものを見る事になる。 夜8時に、ちょっとめかしてロビーに行ってまってると、ハビエルが忙しそうに重そうな袋を抱えて、数回往復し、暫くすると後ろ手でドアを閉め、まるで秘密の国にいくように声をひそめて話をしはじめた。「階段は狭く、暗く、数百年前の昔つくったので階段の幅も均一でないから、しっかりレールを握ってゆっくり降りてください」といって、支配人室と書いたドアをあけると、何年も使ったことのないような物置のような部屋になり、そこから地下に行く階段があった。小さくてもきちんとしたロビーのとなりの部屋だという事が実に奇妙であった。 降りて行くと、こじんまりした部屋がいくつかあって、一番大きな部屋の大きなテーブルに、キャンドル、6本位のワインボトル、ナイフを突き刺した数種類のチーズ、サラミが、乱雑にならべてあり、使い捨てのプラスチック・ワイン・グラスとナプキンがおいてあるだけで、食べ物をのせる紙皿もなかった。周りにベンチがあったので、おしくらまんじゅうのように勝手にすわると、ハビエルが又、おもむろにワイン、チーズ、パン、チョリソの歴史の話をはじめ、ボトルをあけ、皆のカップにそそいで、「では、皆で乾杯をしましょう。ようこそトレドへ。ご自由にどうぞ」といって、自分からチョリソを口にいれ、「うまい!」といった。 グレッグとロレーンも私も飲まないので、水があるかきいたら、ワインしかないと言う。「これが、スペシャル・ディナー・パーティー?」とグレッグの耳元にささやいたら、「昼間、ちゃんとしたレストランで食べといてよかったね。ちょっとだけつまんで、出よう」と同意し、ワイン好きな他のメンバーがわいわい騒いでる間に、そっとでた。。。と思ったら、後ろから、あと3人くらいついてきて、その後ろからも2人ついてきた。だれも何も言わなかったが、恐らく皆同じ思いだったと思う。なぜなら、どこかに食べに行こう、と話していたからだった。なんとなく、狐につままれたような、不思議な夜であった。
2022.06.13
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2月に書いた短歌、英訳の時間がなくてやっと今日、典穂さんの写した写真にぴったりなのでのせます。I've written this TANKA in February but I didn't have time to translate into English until today. 遥かなる八十路の旅を返りみて思えば全て遠くて近し I have accomplishedeighty bends of adventurelife fascinates meseems it took too long and yeteverything passed in a flash02/28/2022
2022.06.07
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本音と建て前・へつらい 遠慮なく言わせていただくと、私は『本音と建前』は嫌いだし、『日本式奥ゆかしさ』も持ち合わせていない。「お口にあいますかどうか存じませんが、どうぞ」というのと、「不味いものですがどうぞ」というチョイスがあるなら、私は前者をとる。「ほんの一口ですが、どうぞ」に対して「何もありませんが、どうぞ」の場合も前者をとる。 実はこの件で、最近日本人の男性と会話をした。「これ(後者の例)、英語に直訳すると大変なことになるわね」と言った私に、「あのねぇ、ひろこさん、これは日本人の奥ゆかしさなんだよ。相手を敬った口のききかたで、我が家には貴方のような方の、お口にめすようなものは何もございませんが、とへりくだってる日本の奥ゆかしい風習なんだ」と説明してくれた。勿論わかってはいる。でも私だったら「これ、とっても美味しいから食べてみて」という方が好きである。だから日本には住めないのかもしれない。 へりくだる、と言えば思い出すのは、私がまだ日本からハワイに来たばかりの1960年代の就職活動のころ、面接ではへりくだって控えめでなければならない、出しゃばったり、しったかぶってはいけないという日本の一般社会の常識があったから、「何々はできますか」と質問された時も「あまりできません」とか「少しなら出来ます」と答えていたら、どこも雇ってくれなかった。 毎日「今日も落ちた」という私の事を不審に思ったアメリカ人の友達に説明したら、「そりゃ落ちて当然だよ。アメリカではね、ちょっと出来る事でも、できます!と言わなかったらどこも雇ってくれないよ」と言われたのだった。それで、次の面接を受けた時に、「タイプは?」「できます、1分70~80ワード位打てます」「でも、経験はないのでしょう?」「ありませんけど、頑張りますからチャンスを下さい」といったら、「では明日から来てください」という事になったのである。しかも、いままで受けた会社の数倍も良い収入!ワイキキの一流ホテルのフロントデスクの仕事であった。勿論、就職したからには、それ相応の仕事が出来なければくびになるから、一生懸命にはたらいたが、この時、アメリカでは日本式奥ゆかしさでは生きていかれないのだと学んだ。 『本音と建て前』の話に戻ろう。私がまだ日本にいた昭和時代のはなしであるが、「親戚同様でございます、京都においでになったら、是非是非我が家にお泊り下さい」とフレンドリーな人がいた。実際に、我が家にもよく泊まった人で、『親戚同様』の付き合いをして数年後、京都へいくことになった時、祖母に「〇〇さんに手紙をだしてみたら?」といわれて、「初めての京都で心もとないので、お言葉に甘えて二泊ばかりさせていただけますでしょうか」みたいな内容の丁寧な手紙をだしたのだが、なかなか返事が来なかった。すると、一月以上たった頃、第三者を通して「何とずうずうしい娘だ、我が家へどうぞというのは社交辞令だという事もしらないのか、との事です」と言う返事が返って来たのだった。これには、祖母も母も立腹し「それなら、最初から来いなどといわなきゃいいのに」といい、親戚付き合いはその場で終わった。 考えてみたら我が家系は、父母も祖父母も親戚も本音と建前の嫌いな人ばかりであった。「先生、本当ですか?」などと聞かれると、父は「僕が嘘を言うとでも思ってるのか!」と、よく怒鳴っていたのを覚えている。又お世辞などもいわない家庭だった。それゆえに褒められると最高に嬉しかったものである。 更に「出来ない事を約束してはいけない」「約束した事は守らなければいけない」これは、私が育った家の躾の一つであり、自分の子育てにも口を酸っぱくして繰り返した言葉である。日本人だとか、アメリカ人だとかではなく、人間の道徳として実行してもらいたかったからだ。 かたちは違えども『本音と建て前』はアメリカでも勿論あり、特に政治の世界や競争の激しいエンターテインメントの世界では成功者の足を引っ張ろうとする人が使う手である。若くして監督になった我が娘を嫉妬した元監督の男性に、人前ではお世辞たらたらで娘を褒めたたえていたその裏で足を引っ張るような事をされて酷い目にあった事がある。 娘も息子も世の中の『本音と建て前』をそれぞれに体験して、悔しがったり、鬱気味になったりして成長してきたが、本人達は今だに『正直であれ』『出来ないことは約束するな』『約束は守れ』という私の教えをまもってるようで嬉しい。因みに、娘の足をひっぱったその男性はそれきり二度と監督職についてないが、娘は30年このかた次々と監督職を続けて今に至る。フェイク・ニュースがはびこる今、誠実さの方が長持ちするこの社会、まだ見捨てたものではない。
2022.06.05
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“Holy Toledo!” ツアーバスを降りたとたんに、私は叫んだ!何人かが、くすくすと笑った。アメリカ発音だと、トリードになってしまう。驚きの表現であるとは知っていたが、トレドに関係あるのかどうか、このエッセイを書くにあたって、ネットで調べたら、ビル・キングという、スポーツ・アナウンサーが ”Wow!”という意味で野球の中継中に発言したところから始まったと書いてあって、別に特別な意味はなかった。でもトレドの町を見た途端にその言葉が口をついて出て来たわけで、川の向かい側の山から、Toledoの町全体が一つになって見えた時は、本当に「ワ~オ!」という景色であった。 この町には、エル・グレコの本物の壁画が沢山あるときいていた通り、これでもか、これでもかという数の作品がでてきて、「もう結構です」という感じになる。他の著名な画家でも同じだが、宗教の絵や肖像画が圧倒的に多すぎるのだ、つまり皇族や宗教団体からのコミッションワークであるから、どれを見ても似てるし、画家が描きたくてではなく食べるために描いているからだと思う。だから、どれを見てもだんだん同じに見えてきて、途中で飽きて来る。画家の妻だから知ってるが、「どうぞ、あなたの好きなように描いてください」というのと、「これを、この色で、こういう風に描いてください」という注文付きでは、描いてるエネルギーが全く違うのである。 旅の間、私は毎日フェイスブックに沢山の写真をいれたが、娘から「トレドには、また行きたい。ほら、私の寝室にexcaliburエクスカリバー飾ってあるでしょ?あれは、トレドで買ったのよ」と娘からメッセージが来た。娘は、自分は騎士の生まれ変わりだと言ってるが、鎧とか刀が大好きなので、この町に来た時にも、土産に買って帰ったという。兎に角、10軒に1軒は、刀を売っていた。 中世のヨーロッパは、敵の攻撃から逃れるために、わざと細い道をくねくねとさせたらしいから、迷子になりやすいので、着いたらすぐにホテルの周りの風景の写真を撮っておき、それを目印にして戻って来るようにしている。その点、大きなカテドラルなどがあると良い目印になる。
2022.06.04
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私は楽天ブログを始めてから20年近くになりますが、実際に、日本、カナダ、アメリカでお会いした方々も100人ではきかないでしょう。さらに、ネット上で会話をさせていただいてる方は、何人かわかりません。人生も80年の間に悟ったことは、人と人との繋がりの大切さです。世の中はピタゴラスウィッチのように、これをこうすると、次にこうなる・・・と、繋がって行きます。私がよく、落語の「風が吹くと桶屋がもうかる」の話を例にあげますが、私が北海道に旅したときに乗ったバスで、アメリカの学生とめぐりあったことから、今ここで皆さんとお話しをしてることにつながっていきます。又、17年日本にかえらなかったことから、忘れた日本語を取り戻すつもりで入団した合唱団。そこから地元の日本語月刊誌にエッセイを書く事になり、ひいては「Happy介護」となって出版されることになり、それをお読みになった、中村エミリさんという、2011年にアメリカで起業をたちあげた方に巡り合います。そのエミリさんが、「ヒロコさんをかこんで、日本と、アメリカ、カナダ、メキシコなどをつなげて、楽しむイベントを作りましょう」という事になりました。お時間のおありの方は、どうぞいらしてください。https://fb.me/e/eQwtN9G7xZoom日本時間: 6月26日(日) 朝10:30~ロス時間: 6月25日 (土) 18:30~ミーティングID 864 7039 6946セキュリティパスコード 12345招待リンクhttps://us02web.zoom.us/j/86470396946...
2022.06.03
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「スペインに行ったら一つだけ見てみたいものがある」と出発前にグレッグが言った。なんだと思ったら、ピカソのゲルニカ(Guernica日本語の発音をしらなくて、今ネットで調べたところです)の事であった。 今日は、セゴヴィア行が大雪でキャンセルになり、午後3時からフリータイムになった。明日はトレドに向かうので、このチャンスを逃せない。一休みしてから、Reina Sofia Modern Art Museum(ソフィア女王モダン美術館) に行くことにした。戦争の歴史展で、当時の兵役ポスターの数々が展示されてあり、その中にはナチスのシュワーツティカが沢山出て来た。ポスターだけでも300枚以上はあって、「国を自分達で守ろう!」「悪魔と戦おう」「勝利は我らの手に!」みたいなスローガンが書いてあり、兵器をつくる工場とか、女性が男の仕事を引き継いでるイラストとか、当時の社会背景がうかがわれる。グレッグは世界中の戦争の歴史には詳しいので、あれこれ説明してくれたが私は上の空。戦争中に生まれて、戦後の貧乏国で目の前で苦労をしてる大人達や、傷病兵、ホームレス、孤児達を見てそだっているから、戦争はこりごり。 一つ一つに細かく見入っていて、閉館になったらくやしがるのは彼だから私は一足先に、ピカソのゲルニカのある部屋を探す事にした。「ゲルニカを探してくるから、この部屋からでないでね」と言って彼から離れ、ボランティアーのドーセントにあう度に、馬鹿の一つ覚え、¿Dónde está el Guernica de Picasso? と聞きまわった。プラド程でなくても、なんせこの美術館も大きくて迷子になりそうだし、5時にホテルを出たから閉館までそれ程の余裕はない筈。 やっと見つけたら、めずらしくロープが張ってあり、黒山の人。この部屋にはボランティアーの監視人が4人もいて、携帯で盗み撮りしてる人を次々に注意していた。上手い具合に真正面の真ん中あたりに立てたので10分くらい眺めていたが、当時のピカソの怒り、悲しみ、悲鳴、心の葛藤が手に取るように伝わって来て、知らない内に目が霞んでいた。「あ、そうだ、グレッグに知らせなきゃ」と、われに返って、元の部屋を目指して彼を探し出して連れて来た。 私は彼の背に手を置いて二人共沈黙でなが~いこと見ていたのだが、急にグレッグの背中が痙攣のように動き出したので、どうしたのかと思ったら、目を真っ赤にして声を出さずに泣いていたのだった。私はサングラスをかけてマスクをしていたから気付かれなかったけど、彼はマスクだけだったので、マスクを上に持ち上げて涙を拭いていた。それほど、インパクトのある作品である。 今、これを書きながらふと口を突いてでてきた短歌、「わが夫ゲルニカの前で涙する心動かす巨匠の力」がぴったりであった。死んだ子を抱えて泣き叫ぶ母親、折れた剣をもって息絶えた男、兵器につぶされて叫ぶ男。私達には、牛馬の悲鳴が聞えてくる。首だけ飛んでくるところも、大けがをして地面をはいずってる人も想像できる。 心魂こめて描く絵は、画家のスピリットが塗り込まれているので分かる人の心に響くものである。ピカソの作品はそれほどパワフルであった。故に巨匠と呼ばれて当然だと思う。美術館内は撮影禁止なので、こちらでどうぞ。
2022.05.31
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