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当直中なのでお正月が来るという気分はゼロ。今年は正直いろいろあった。入院患者数を多く持っていれば(実はためているだけ。よくして退院させていないだけの医者がいる)、仕事をたくさんやっていると評価されるような病院では仕事をするのが辛い。私はおそらく担当患者さんの平均在院日数が少ないほうの医者。不要な入院もさせない。再入院率の低さは多分ここではトップだと思う。だから、入院患者さんが溜まらない。なかなか退院させない医者の患者さんは、溜まる一方だから、空き部屋が無くなる。無くなってくると、私のほうは新たな入院を断らざるを得ない。その結果、どちらかといえば自分の入院患者さんがじりじりと減っていく。一方で、外来通院の患者さんは、少しずつ増えていく。これだけ精神科のクリニックが増えてきた時代において、入院病床を持つ病院の外来、というのはやはり基本的には入院した患者さんの退院後フォローアップがメインだと思う。入院したことがなく、今後も入院治療を行なう可能性の少ない疾患、あるいは患者さんについては、クリニックで診ていただくのが役割分担として適切なように思う。来年は、「じゅびあ先生は××先生と違って、入院患者さん少ないし、何でも雑用に呼んでいいよね」的な扱いを看護師から少しでも受けないようにしたい。来年また院長から「この貧乏神!」と冗談半分に言われるのは避けたい...。
2006年12月31日
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昨日も少し関連した話題に触れたが、子どもに手が出てしまう、ただ叱るだけでなく激しい暴言が出てしまうお母さんというのも、確かに少なからず、いる。こういうお母さんたちに、父親の協力はどう?と尋ねると、意外なことに父親は育児に協力的で、仕事に忙しくても休日には家事も手伝い、家族サービスを怠らなかったりするのだ。「夫は私にはもったいないほどよく出来た人です」と。そういうお母さんたちの話を聞いていると、自分が夫に言われていること、夫に言われていなくても自分が夫からどう見られているか(と少なくとも、自分が思っている)を無抵抗な子どもに対して投影しているんではないかな、と思う。例えば、夫が妻に「誰が食わせてやっていると思っているんだ」と何かにつけて言うとする。言わない場合でも、妻が夫に対して、「こんな自分の生活を面倒みてくれている」という強い思いがある。そうすると、その妻は子どもを叱るとき、「誰が育ててやっていると思っているの」と怒ってしまう。夫には、本音は言えない。言って「別れる」「捨てられる」のを極端に怖れている。一方で夫には、妻のおかげで外で仕事をしてこられる部分がある。妻だって本当はそう言いたいのだが、それよりも自分が食べさせてもらっているという思いのほうが強い。どこか夫が威圧的な場合もあるし、勝手に妻のほうが自分を卑下している場合もある。溜まったストレスが、無抵抗な子どもに向く。子どもは夫と違って、「それならお前となんか別れてやる」と言えないからだ。子どもに暴力や暴言が出る母親が、自分と自分の親の関係を投影しているという見方をする専門家は多いが、夫婦関係の見直しを勧める専門家は少ない。過去の育てられ方をどれだけ反省したって、否定したって仕方ない。たとえどうあったとしたも、今の自分は両親あって、存在するもの。両親を恨むのも、無駄。その考え方だと、未来永劫、自分の子孫は同じ育てられ方をすることになってしまう。それよりも、今、見直せることを考えたらどうだろう。
2006年12月29日
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育児ノイローゼ、とは言わないまでも育児の悩みを訴えてくるお母さんたち。皆さん揃っておっしゃることは、「子どもの言動に、イライラしてしまう」。もちろん、手を上げてしまうお母さんもあれば、子ども相手に暴言が出てしまうお母さんもある。かく言う私だって、子どもに一度も手を上げたことがない、とは言わない。過去にはいくら口で言っても、どうしても聞かない時というのもあった。お母さんだって人間だから、ガマンできないことはある。最近は言葉で済むので、ないけれど。体罰はいけない、とメディアのいたるところにあるから、子どもを一度叩いてしまったから即「私は子どもを虐待しています」と悩んでしまうお母さんたち。世の中のほとんどの母親が、本当に子どもに一度も手を上げたことがない、と本気で思っている。私は体罰容認派ではないが、それはそれで神経質になりすぎ、という気もする。手を上げないに越したことはない、だが上げてしまったから私はもう母親としてダメ、というのも短絡的過ぎないか。子どもの言動にイライラって、子どもって親と一心同体じゃないんだから、思うとおりにならなくて当たり前。なまじ変な期待もあるから、イライラする。親をイライラさせるものなんだ、子どもって。中にはそう言って相談にいらっしゃるお母さんの中に、保育士とか、幼稚園や小学校教員免許を持っているなんていう、私よりよほど育児のプロと思われるお母さんがいたりもする。みんな、自分の子どものこととなると、話が違ってくるらしい。診察にも、結構お子さん連れでいらっしゃるが、子どもさんの様子を見ていると、お母さんとの心の距離感が分かる。「お母さんは普段は優しいけど、怒ると怖いです」。それでいいじゃない。一方で、実際「それはちょっと」と言いたくなるような怒り方をするお母さんもいらっしゃる。こんな小さな子どもに、「誰が産んでやったと思ってる」みたいな怒り方。イライラすると突き飛ばされた子どもが壁にぶち当たったりしている。診察室の中をあちこち動き回ってイタズラしているのを、私が「気にならないから、いいですよ」と言っているのに、子どもの年齢に不釣り合いな剣幕で怒っている。さすがに、通常範囲を逸脱しているな、と感じた。子どもが一生懸命ピアノの練習をしているのを、ミスタッチをちょっとしただけでイライラが募り、ピアノを弾く手を叩き払ってしまうというお母さんもあった。また、子どもの距離の取り方から、母親がおそらくニグレクトしているんじゃないか、と推測されるケース。普段家にいる母親とべったりのはずなのに、仕事に出ているはずの父親にばかり子どもはまとわりついていて、母親と一度も視線が合わない。視線が合わないといっても父親や私とは合うので、子どもが発達障害というわけではなさそうだ。母親は精神科医に無理な要求をしていて、こちらがその要求に応えられないことを告げると、逆ギレして罵声を浴びせている。子どもは当然母親の敵である私を怖れるだろうと考えられるが、何故か私の白衣の袖をつまんできょとん、と私を見上げている。今は虐待の可能性があると思われるケースを見つけたら、誰でも児童相談所に通報する義務がある。身体に明らかに不自然な怪我をしている、というような目に見えた根拠があるわけではないので、どうなんでしょう、と問い合わせたら、それくらいでは虐待とは言えず、動けないという返事。通報や問い合わせの件数も多いようで、仕事は山積み、その程度で連絡されては迷惑、という感じだった。子どもに怒ることって、いくつか種類がある。1.許しておくと、子どもが危険なこと。怪我や病気の原因になること。2.許しておくと、お友達や周りの人の身体や心をとても傷つけてしまうこと。3.許しておくと、お母さんがイヤなこと。困ること。上の2つは、怒って当たり前。問題は一番下のこと。私は、子どもには正直に「ねえ、これはお母さんが嫌なんだけど」とか「お母さんが、後で困るんだけど」と言うようにしている。もう少し心に余裕があるときは、「これを止めてくれるとお母さん助かるんだけど」「これをしてくれると、お母さん嬉しいんだけど」となる。そういう言い方の中で、自分の怒りたい内容(?)を整理して見直してみる。この話をすると、「私がイヤなんてことを言っていいんですか」って言うお母さんがあるけれど、子どもだって対1の人間なんだから、当たり前。うちも実際は毎朝、学校に出すまでが、戦争。朝起きてからずーっと、私もキーキー怒りっぱなし。よそのお母さんを見ると、にこにこ「行ってらっしゃい」をしてるように見えるけど、本当はどこの家も、そうなんじゃないかな。前に住んでいた地域で、私は自分の子どもの3歳児健診を踏み倒した。インフルエンザが流行っている時期、どうしても不特定多数の子どもが集まる場所に連れて行きたくなくて。その後保育園休み出したら、仕事に困ってしまうもの。多分、私そこの児童相談所の虐待家族リストに載ってると思う(笑)。
2006年12月28日
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今勤務している病院医局は、以前書いたように複数の大学(国公立2私立1)の混成チーム。年末年始の当直の一部が決まらず、会議(なすり合い)になったのだが、その過程で、とんでもないことが判明。何年か前から、年末年始の日当直料は、普段の土日の1.5倍になっていたというのだ。しかも、それは既に退職した例の接待ゴルフドクター(国公立)が勝ち得たものだという。私立から来ている非常勤ドクターたちも、一昨年から知っていたことになる。私と、同じ大学から来ているもう一人のT先生だけが、それを知らなかった。慌てて、自宅に帰り1年前、2年前の給与明細を探し出して愕然。私たちのだけ(他の先生の給与明細は確認していないから、推測だが)、1.5倍になっていない。私とT先生は、年末年始が通常の日当直と同額でも、常勤医である以上入院中の患者さんを守るのは仕事だから、と思って少しずつ毎年引き受けてきた。この年末年始も、誰も手を挙げないので、やれるところを少しずつとっくに引き受けていた。しかし、他のドクターたちは、1.5倍でもやりたくない、と言うことで、「やりたいところ以外でもやってもらえないか」的な依頼がこっちへ回ってきた。他の先生たちは、実は常勤先以外に非常勤で当直をやっている先がある。常勤先が1.5倍になっても、それでもなお他のほうが割がいいから、自分の常勤先で当直をやることを避けている。しかも非常勤先での当直は、以後の責任もないし、看護の職員も比較的当直医コールをしないので、肉体的、精神的に楽。そんな実態を分かっていて、無理をしてでも引き受ける気になるか、と言われたら、なれない。安いところだから、自分はやらない、あんたやって、って言われているようなものだ。29日~3日なんて、子どもの学童保育もないし、シッターは特別期間料金で利用料2倍。深夜はさらに2倍だから、二人預けたら、当直料が倍でもまかないきれない。しかもその上、私たちだけが安い日当直料で、引き受けさせられていたのだ。病院のため、と善意で引き受けてきたのに、すごい、裏切られた気持ち。何年も気づかなければ、私たちだけ、そのままにされていたのか!院長と同じ釜の飯を食べた私立大の医局派遣の医師(シークレットコード:釜飯倶楽部)との待遇格差も凄い。出張申請も、あっちは入職後すぐでも通るがこっちは勤続×年初めてで却下。入職時にした契約も、あっちは守ってこっちは無視。何か業務の改善を要求しても、あっちの(改善と言えない)言い分にはすぐに看護師までも従わせ、こっちのまともな言い分には「会議で通さなければダメだ」と言っておいて会議の議案にも載せない。紹介された患者さんが入院を拒否して帰ったら、こっちは「本当に君は心から入院を勧めたのか」と院長から厳重注意だが、あっちは外来で喧嘩別れしようと電話を叩き切ろうと、何も言われない。委員会の構成メンバーからも外されているので、委員会で決まったことだから通達、という内容は全て管理職が都合のいいように決めたもの。組合にも入れられていないし、一切現場からの口出しができないように、封じられている。差別の根底にあるのは、自腹で医者になった自分たちより、国民の血税で医者になった私たちは下で当然という意識?職を転々とするのはよくないよ、といつも患者さんたちに言っているけれど、時々辞めたくもなるわ...。でも、辞めたら私の患者さんたちを誰が診るのか、という思いが私を踏みとどまらせている。
2006年12月26日
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サンタが実在しない、と知った日のことを私はよく覚えている。小学1年のクリスマス。私は当時女の子たちの間ではやっていたリカちゃん人形が欲しかった。その話を家族にしたら、父が「リカちゃん人形なんてつまらないよ。プラレールのほうがずっと面白い。電車で遊べるんだぞ」と言った。私は、プラレールなんて男の子のおもちゃをサンタクロースが私のところに持ってくるわけがない、と思ったものだ。サンタクロースは男の子には男の子のおもちゃを、女の子には女の子のおもちゃを選んで届けるに決まっている、そんなことも父は知らないのか、と思ったので、それ以上反論もしなかった。クリスマスの日の朝、目を覚ました私は枕元に大きな箱が置いてあることに気づいた。今年もサンタが来たんだ、とわくわくして開けると、中身はプラレール。「サンタクロースが、こんな電車なんか置いて行った。私はリカちゃんが欲しかったのに。私のことを男の子と思ったんだ」と私は失望して泣いた。父はとても悲しそうな顔をしていた。その瞬間、私はサンタクロースがこの世に実在しないことを知った。でも、サンタクロースが父であるということへの失望まで伝えてはいけないと子ども心に思ったような記憶がある。次の年、両親は私を玩具店に一緒に連れて行きリカちゃんを選ばせたから、サンタクロースへの夢が破れたことにも気づいたのだろうな。結局そのプラレールを一番楽しんだのは、時々遊びに来ていた同じ年の従兄弟だった。ずっと父が何故電車に何の関心もない私にプラレールを選んでしまったのかは分からなかったが、それこそ今ブログを書いていて、父は私と一緒に遊びたかったんだろうな、と初めて気づいた。私の実家はとても質素だった。おもちゃを買ってもらうといえば、年に一度、クリスマスの時くらい。お正月はお年玉をもらうが、松の内が明ければ母に渡して貯金してもらうものだったし、誕生日はクリスマスや正月に続いていたので、プレゼントなんてないのが当たり前。「クリスマスと正月でもらったばかりでしょ」とケーキを買って祝うだけが当然だった。両親からバースデープレゼントというものをもらった記憶がない。当時、歳が離れて大学生だった姉が、毎年水森亜土のイラストのついたバースデーカードに、小さなペンダントなどを同封して送ってくれたのが唯一のバースデープレゼントだった。...母は記憶が定かでないので、この話をすると「何言ってるのよ。毎年誕生日はプレゼントをあげていたわよ!」と私に言うのだ。一度ももらってないのに贈ったつもりでいられては、すごい損した気分(泣)。幼い私は家の経済事情などよく分かっていなかったが、学生も20歳以上国民年金加入が義務付けられた折、保険料免除申請ができるくらいだったから、実際かなり苦しかったのだと思う。大学も、授業料免除申請ができるくらいだったけれど、父と母は「他人様に恥だからそれだけは止めてくれ」と断固支払うことを選んだ。いつも穴のあいた靴下やシャツを自分で直して着ていたような父。その父が亡くなってから、大量の新品の下着がタンスから出てきた。私が海外旅行でお土産に買ったフェンディのマフラーも、バリーのお財布も、すべて箱に入ったまま、大切にしまわれていた。父のことだから、もったいなくて使えなかったのだろう。洋服もセールでしか買った事がなかった(今思えば、セールだからと勢いよく買うのは、かえって後であまり着られない物を買ってしまったりするので、どうかとも思う)。旅行に出かけて帰りが遅くなっても、どこの旅館も高くて泊まれず、結局夜中に帰って来たこともあった。父を含んだ家族で唯一出かけた1泊旅行では鳥羽国際ホテルに宿泊したが、レストランが高くて食べられるものがなく、あちこちうろうろした末、結局うどんか何かを外で食べた。ここまで書くと、すごい貧乏そうだが(笑)、両親は私たち子どもの教育には、本当にお金を惜しまなかった。「うちには財産も何もないから、子どもに確実に残してやれるのは、教育だけだから」が父の口癖だったらしい。毎晩遅くまでコタツで背を丸めて伝票を整理していた父。元々はいい家のお坊ちゃんだったが、先の空襲で防空壕への直撃を受け、学徒動員に出ていた妹2人を除いた家族全員と、家も財産も失ってから、身一つで生きてきた苦労人だった。...そんな父が建てた家を「こんな小さな家」と言い、つい数日前まで温かかった父を「死人」呼ばわりした夫(離婚のカテゴリー参照)を私が許せなかったのを分かってもらえるだろうか。「死人」と言われた瞬間、私の思い出の中の、確かに生きていた父が、冷たく凍りつくような感覚だった。気も短いし、テレビくらいしか楽しみも持たず、子どもが見ている番組途中でもいきなりチャンネルを替えるような人で(笑)、しょうがない思い出もいろいろあるが、とにかく許せなかった。母がよく、「父は命がけでじゅびあをあの男のところから連れ戻したのだ」と言った。そこまでは思わないけれど、もし今父が生きていたら、私が一緒に住むことをたいそう喜んだだろうし、子どもたちのことを可愛がって、本をたくさん持ってきてくれたと思う。最後まで働き続けて亡くなってしまったが、もう少しで店も畳むはずだった。そうしたら地味なくせに美味しい物好きの父に、いろいろ食べさせてやりたい店もあった。天ぷらは天つゆが甘めの店が好き。今度こそ値段を気にせずホテルのレストランで食事するのもよかったよね。私が月に一度、当直のために実家に帰省していた頃、父は母にこっそり、こう言っていたという。「自分の娘が稼ぐのをどうこう言っても仕方ないが、一晩当直していくら、なんて話を聞くと僕は働くのがイヤになっちゃうよ」父が亡くなった後、共同経営していた店のほうから退職金代わりとして渡されたお金は、1000円札で100枚だった。70過ぎるまで、50年もあんなに働いてきて、たったこれだけ?と思った。年末年始に当直すれば、病院によっては私がまる1日で稼げる金額なのだ。父が苦労して私を育てたのだということが本当に分かったのは、その時だった。私はその1000円札を握り締めて泣いた。一度も私が使うことを許されず貯金されていたお年玉は、なんと今の家を建てるときの購入資金の一部(定額貯金で繋いできても、さすがにわずかだけど)になった。そして、父サンタがくれたプラレールで、今は私の息子が0系こだまを走らせて歓声を上げている。自分で選んだリカちゃんは、汚くなっていたから実家を解体するときに全部捨てたけれど、30年経っても、プラレールは遊べるね、お父さん。でも、うちの子にはまだ1冊も、本を持ってきてくれてないんだよ。
2006年12月25日
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私は普段、いろいろな出身大学、いろいろな医局派遣の医師たちの中で仕事をしている。私自身は、あの先生はどこの大学出身だから、という見方をあまりしない。優秀とされる大学を出ていても「あれ?」という医者もいれば、どこぞの掲示板で悪口を書かれているような大学出身でも素晴らしい治療技術とプロ意識を持って仕事をされている先生も多数おられる。人格の良し悪し、腕の良し悪し、勤務姿勢の良し悪しは、本来大学とは無関係。派遣医局≠卒業大学ということも知らない人が多いが、動かせる駒を1人でも多く確保したい医局は、卒業大学とは関係なく医者を登録するので、どこの医局から来ているかを聞いて「安心」だの「心配」なんてのはますますナンセンス。私は医者の卒業大学に関心が無いので、かなり付き合いが長くなってから、他の人に「あの先生はどこの大学?」と訊かれて答えられないので初めて、今までその話題について触れたことが無かったと気づくくらいだ。自分がどこの大学出身、というのも患者さんから訊かれるまでほとんど普段は忘れている。そんなことを意識して仕事をしたことはない。だが、今の病院に勤めるようになってから、地元の大学病院の威張りっぷりには驚いた。接待ゴルフに出かけるため、「大学の用事ですから」と平気で当直をドタキャンした医者。長期休暇の当直は誰もやりたくはないのだが、「常勤医として、みんなで少しずつは分担しませんか?」と提案すると「僕は、○○病院のもやっていますから。そっちは大学の命令ですからね」とのたもうたのも同じ医者だった。大学から命令された他の病院の非常勤勤務が長引いたと、平気で常勤先を遅刻。それでいて午後から大学、という時には病棟で急変があっても一切放り出して、定刻に出発。大学の名を出せば、何でも通るの?また、この大学、患者さんを紹介するときに「ああ、今すぐ入院が必要だね。関連病院だから、ここへ行って入院させてもらいなさい」という送り方をする。患者さんと家族は、「入院させてもらいに来ました。」引き受けるほうの医者の判断、話し合いの余地は、一切無し。大学が自分ではあまり診たくないと思われる、手のかかる患者さん、人格的な問題のある患者さん、もしくは家族に何らかの問題あって対応が通常の数倍かかる患者さんだ。大学って、市中病院や民間病院で診切れない大変な患者さんを、大勢の医師と看護師のマンパワーで引き受けるところだと思っていた私は、驚かされた。少なくとも、私の知っている大学は、そうだったから。地域で最高の精神科医療を提供しているとどこにも書いてあるけど、それなら自分でやったらどうよ?大学から送られてきた患者さんで、診断も治療も全くハズレ、というケースも少なからずあった。仕方がないので入院させがてらガラリと処方を変更して、症状は軽減し、退院、大学の外来へ戻す。そんな中で、数週間後にまた「入院お願いします」と戻ってきた患者さんがあった。紹介状を開封してまたまた!!!!!外来にかかった途端、まるっきり、以前の投薬内容に戻されているのだ。よほど、自分ではもう診たくなかったのか、それとも民間病院のヒラ医者ごときに診断治療を覆されたことが許せなかったのかは分からない。人格の問題や家族の問題で入院してしまった患者さんで、ある程度のレベルが保たれた人だと自分の同意で入院しても暫くして「退院します」と言い出すことも多い。入院していても、解決しないということに自分で気づくからに他ならない。それで大学の外来に戻ったりすると、「よくなっていないのに退院させたとは何事か」と某教授に電話で怒鳴り込まれる。長年、自分たちが診てきてよくならなかった(もしくは悪化した)ことを棚にあげて、何を言う。自分たちの治療が悪くて悪化してしまった、本当にお恥ずかしい、申し訳ないけど、今満床だから、入院でとってもらえないだろうか、って気持ちはゼロ。大学で治療していてよくならなかった患者さんを、こっちで引き受けてよくなったケースは、ほとんど大学に戻りたがらない。「どうにか、このまま引き続きこちらでお願いできないでしょうか」って、言われる。上に書いたケースもあるので、黙ってその後も外来を引き受けている。だから、大学の医者は、自分の診断治療の間違いにも、自分の処方内容への反省も、する機会が無い。自分の送った患者さんがよくなったかどうかも知る由が無い。それで、「あなたは、いつも十分治療しないうちに退院させている」と言われてもね。某教授は、常日頃部下に、私の出身大学の悪口を言っているそうだ。大学の医者よ、気に入らない医者に、患者さんを送るなよ。さらに、気に入らないからって、送り先の医者の悪口を患者さんに吹き込んでから送るのも、やめていただきたい。私は、自分の行なっている精神科医療が、大学より、一流総合病院より劣ると思っていない。設備やマンパワーでは敵わなくても、そういうところが「引き受けきれない」患者さんを引き受けているのに、自分のほうが下ということがあるわけがない、とまで思っている。
2006年12月24日
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このブログのURLにある、「feijoa(フェイジョア)」をご存知だろうか?フェイジョアとは、フトモモ科の、熱帯果樹。グァバとかに近い。園芸店のチラシを隅から隅まで見ていただくと、「最近人気!」と時々掲載されているので、「ああ、そういえば」と思う人もあるかな。フェイジョアは、一般的には自家結実性がないので、品種の違うものを2本植えたほうがよいとされているが、中には1本で十分な品種もある。果実に憧れて何回トライしても、冬場に枯らしてしまう、という話もしばしば。3年前に新築し、庭を造るときに、植木屋さんの棟梁が「花がとても可愛いし、実も楽しめるので、オススメです」と勧めてくれたのが、わたしとフェイジョアの出会い。ちなみに、私の家の庭には、レモン、ブルーベリー、イチゴの木、オリーブ、ヤマボウシと食べられる実をつける木が並んでいる。残念ながらイチゴの木とオリーブはまだ実を見ていない。レモンはかなり大きな木を持ってきてくれたので、1年目、20個ほど市販にはないようないい香りの実をつけた。ところがその年、根元から虫が入ってしまい、枯らされてしまった。少し小さな木からやり直しになったので、2本目は花が咲いたが実はまだだ。ブルーベリーは、そこそこ実をつけるのだが、よく色づくと片っ端から野鳥に持っていかれてしまう。ヤマボウシは、何となく食べられそうな顔をしていないので、まだ試していない(本当は食べられるそうだ)。さて、本題のフェイジョア。植木屋さんは2メートルくらいの果樹を1本だけ地植えにしていった。熱帯地方特有の、一見幹も枝も細くてなよなよした木。楕円形でぺたんと平ら、裏が銀色に見える葉がまた可愛らしい。レモンの花が沈丁花のような香りをさせて散った後、入梅頃にフェイジョアの花が咲く。白い花びらに赤いおしべが、まるで小さなバレリーナ。ちなみに、この花も甘酸っぱくてかなりいける。あくがほとんどないので、サラダに入れても美味しい。台風のシーズン、かなり木がしなったので、折れないか心配だったが、さすがに熱帯の木。強風にも大雨にも、大きくしなりながら外力を逃がしている。植えて1年めから、50個ほど、梅くらいの大きさの実をつけた。果皮は緑色で硬いので、野鳥が見向きもしない。いつ熟したかもよく分からないので、自然に落ちるのを待つ。ところが、少しずつバラバラと落ちる感じではない。木枯らしが吹くとある日突然、一気にボタボタボタッ!と音を立てるように落ちるのだ。実は落ちても、果皮は緑色のままなので、グラウンドカバーになっているツルニチニチソウ(これがまたすごい増殖した)をかき分けて探す。ナイフで2つ割にして、スプーンで中をかき出すと、硬くて青臭そうな見た目に反して、果肉は軟らかく、甘酸っぱく野趣溢れる味。初めての冬越しは、寒さに耐えるか心配だったが、枯れる様子なし。あれ?簡単。拍子抜け。2年めの果実は、巨峰かマスカットくらいの大きさになった。数も100個を超え、珍しいので子どもの保育園や、病院の看護師さんにもおすそわけ。そして、3年め。今年の果実は、大きいものは枇杷くらい!しかもおそらく数は200個十分あったと思う。しかも熟した頃の大雨で、一度に130個落ちてしまい、大変なことに。寒い中、落ちた実を毎朝探すのも大変だが、量も...。フェイジョアは美味しいが、なんというか、一人が大量に食べる、という雰囲気の味ではないし、結構かき出すのも面倒。病院へ片っ端から持って行って試してもらった。看護師さんの中には、また今年も先生が持ってくる、と楽しみにしてくれている人もいる。そのうちの一人が、今年は果実酒にトライしてみる、と言ってくれたので、かなりそこで捌けた。それでも、終わりのほうは食べきれずにかなりたくさん腐らせてしまった。ごめんね、フェイジョアちゃん。来年は、もう少し花のうちにサラダで食べよう.....。我が家は、土も環境もぴったりのようで、本当にほうってあるだけなのだが、重さで枝が下を向いてしまうほど、実がつく。ちなみにうちは別に沖縄とかではありません(笑)。ねっとり甘い実がつくという、ポポーにも憧れているんだけど、あれは巨木になるからと知っているドクターに止められた。ポポー、庭にある人いないですか?
2006年12月23日
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サンタクロースは、今年も来るだろうか。「クラスの××ちゃんが、サンタはいないって言ってたよ。本当はパパやママなんだって。」「ちがうよ。サンタはフィンランドから来るんだよ。お手紙を出すと返事が来るんだもん。」子どもたちが言い合いをしていた。いよいよ、サンタの存在が危ぶまれる時が来たようだ。去年は、やってきたサンタクロースを捕まえて、おもちゃを大量に強奪する計画だった子どもたち。もちろん、真夜中前には睡魔にノックアウトされた。「サンタお母さんじゃないよー。だってお母さんが当直だった年も、来たでしょ。」「あー、そうだね。」「そうだそうだ。」......まだまだちょろいもの。今年は枕元に、サンタへのお礼のお手紙と、お菓子を置いて寝ると言っている。「ちゃんと食べてあったら、サンタが来たっていうことなんだよ!」すごくいいアイデアを思いついたように得意げに言う娘。お菓子を置いて寝ると、来るのはサンタじゃなくて、ゴキブリだよ.....。「枕元でこぼされたら大変だよ。ゴキブリ来るて。」「じゃあ、机の上にする。」何となく娘がサンタをお菓子で釣っているような気がする私。でもね、もし夜中に目を開けた時、サンタの格好をした人が枕元に立っていたら。それは相当オカルティックに怖い。幽霊か。いやそれは間違いなく侵入した強盗だから、警察を呼ばなきゃいかんって。
2006年12月22日
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措置入院、というのはまた「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」に規定されている精神科特有の入院形態。簡単に言えば、精神障害により自傷他害(自分を傷つけたり、他人に害を及ぼす可能性がある)の恐れがある患者さんを、指定医という資格を持つ医師の判断に基づいて、都道府県知事が強制的に入院させることができるようになっている。ただ、自傷他害の恐れがあるから、というだけでは措置要件を満たさない。例えば、若い女の子が、剃刀で手首を切って、死んでやる、とわめているとする。彼女は思うようにならない時にこれを繰り返すが、自分がやっていることを分かっているし、それによって周りに迷惑をかけているのも知っている。それでますます「私なんていないほうがいいんでしょ!」と騒いでいる。これでは、精神障害により、ということにはならない。明日、倒産すると分かっている社長さんが、今、自殺しようとしている。彼は自殺をするだけの確固たる理由があって、誰がなんと言おうと、死のうと決めている。人目につかない場所さえあれば、とチャンスを窺っている。時々こういう患者さんの入院依頼があるが、これは正直、私たちの力でどうにかできるという問題ではない。口先だけ「もう大丈夫です。死のうとは思っていません」と演技されたのを、医者が見抜けなかったのは何事だ、と言われても困ってしまう。いつまで入院させておけば大丈夫かなんて分からない。退院すればやられてしまうし、下手をすると病棟内の死角でも....。認知症のお年寄りが徘徊して車にはねられるという事故が先日ニュースであった。徘徊すればもちろん、事故に遭う可能性があるが、これも自傷の恐れ、とは言わない。「措置入院」はある程度刑法に抵触する犯罪を、精神病によって善悪の判断できずに犯したかどうか、ということで現場では判断されている。口で「やるぞ」と言っているだけの人はいくらでもいるので、片っ端からやる可能性がある、とも言えない。また誰しも他人のことを「この人は絶対未来永劫犯罪を犯さない」とは言えないだろう。健常といわれる人であっても、犯罪を犯すことはある。だから、基本的には精神病の幻覚妄想状態で、「殺せ」と聞こえてきて怪我をさせたとか、「隣りの人が自分に毒を飲ませるから火をつけようとし現場を押さえられた」とかでないと、措置入院には至らない。実際にはこれらは、警察官通報か、検察官通報による。他の通報、も法律的には存在するが、施設入所の人を施設長とか、病院入院中の人を管理者が通報しても、「自分のところでちゃんと看ればいいでしょ」と言われて都道府県は動かない。警察官の中には、自傷他害の恐れが明らかにあるのに、手続きを面倒くさがって、「おらぁ、措置入院なんて手続きはしないんじゃ。患者も家族も希望しているのにすぐとらないだと、覚えとけよゴルァ」みたいな電話をかけてくる人がいる。都道府県に連絡し、命令が来てから2名の指定医に措置鑑定をさせ、要措置になったら入院。これは半日仕事だ。特に終業間際や当直帯は嫌われる。そんな手間と時間がかかることなんてやりたかない、今目の前にいるこの訳の分からんことを言っている人を、どこかの病院に押し込んで自分の時間帯の仕事を終わりにしたいと思っているんだろうな...こういうところが、公務員。確かに家族(配偶者のいる人は、それ以外はダメ)がついていれば、本人が訳分からなくても、手続き上、医療保護入院にはできるだろう。措置入院というのは、ある意味拘留の代わりに、病院で犯罪者の身柄をお預かりしている、という意味がある。だから、お金の無い人でも税金で入院費用が賄われる。医療保護入院で入院させてしまうと、もし保護者である家族が翌日にでも「気に入らないから連れて帰る」「もしくは後は家でやるからいい」と言い出せば、入院が継続できなくなってしまう。それが通用するのなら、誰しも犯罪を犯したら、おかしなことを言って精神病院に1泊して、翌日家族に連れて帰ってもらうだろう。そうすれば前科もつかない。措置入院だからこそ、医療機関が主導権を握って、家族が何と言っても面会、外出、外泊、退院を制限することができるのだ。だから、措置の手続きは、きちんととってもらわないと困る。すぐに退院されて、こっちが逆恨みされて刺される事だってあるのだ。ここまで話をすると措置入院の患者さんは怖い人ばかりだと思われそうだが、実際はピンからキリまで幅広い。それこそ上は殺人、現住建造物放火。このへんは、医者だって看護師だって本当に怖い。連れてこられた人が、屈強な刑事何人かで押さえつけられていたら、「ちょっと、このまま置いて帰るつもりなの?あんたたちが手を離したら、私どうなるのよ」と正直思う。猿ぐつわまで噛まされていて、診察しようとしても話の聞きようがない、とか。医者も看護師も訓練を積んで特殊なわけではなく、普通に会社員なだけだからそこまで覚悟はない。もし治療でうまく幻覚妄想がとれなかったら、一生だって退院させられない。逆に数ヶ月で症状がとれたとしても、罪状から鑑みても、すぐに退院させるのには躊躇する。(法律的には、症状がとれればすぐに措置解除しなければならない。解除して、本人も家族も帰ると言えば、連れて帰れてしまう。だが現実的には違和感を感じるのが常識的な感覚だろう。)可愛らしい?(被害を受けた人にとってはおおごとなのは承知の上だが、あくまで入院を引き受けた医者が怖いか怖くないかだけの判断だから、そういう意味で読んでね)ところでは電柱に登ったとか、踏み切りの中に入って石で三目並べをしていたとか(軌道往来妨害)、バスの中で刃物を落としちゃったとか(銃刀法違反)、停めてあった車にいたずらをしたとか、店のガラスを割ったとか(器物損壊)、捕まえようとした警察官をどさくさ紛れに蹴飛ばしたとか(公務執行妨害)。しかしどのレベルの?措置入院を引き受けることになるかは、ロシアンルーレット状態。当番病院として順繰りに回ってくるのを、引いてみなければ分からない。殴られそうになっても、目だけは避けないと、下手をすると一発で以後仕事を失う。精神科医も、本当は腕力鍛えなきゃいけないよね。
2006年12月21日
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あっという間に今年もあと10日あまり。だんだん年をとると時の経つのが速くなる。先日、テレビで女子フィギュアスケートのグランプリファイナルを観ていて思った。去年安藤美姫が「戦メリ」を滑っていたのも、荒川静香が青と水色のツートンカラーの衣装でトゥーランドットを滑っていたのも、真央ちゃんがアルプスの少女ハイジみたいな衣装を着ていたのも、まだ記憶に新しいのに、あれから1年!小学生だったときの1年なんて、無茶苦茶長かったような気がするが、特に30を過ぎたあたりから、1年が短い。精神科の病院、というのも患者さんの多い、少ないの波がある。多い割合を占める統合失調症と、うつ病の患者さんが増えれば混むし、減れば空いている。統合失調症の患者さんは、今の時期、ぐっと冷え込むと駆け込み寺的に増える。寒さ、というのは生命もおびやかすからだ。特にこの時期駆け込んでくる人は、年明けまで待てないような、緊急性のある人たち。保健所や警察がらみ。初診即入院も多い。うつ病も少し前からどうにもならなくて来た、という人が多い。季節性うつ病、というのもあるくらいだから、11月の末くらいのみるみる日が短くなりだす頃から、不調になりやすい。クリスマス、年末年始と、世間のうかれた雰囲気に取り残されてしまうのか?というような患者さん、年末の激務や決算で追い詰められるのか?というような患者さんも増えてくる。一方で、ちょっと睡眠がとりにくいとか、お悩み相談のような患者さんは、忙しくて年末に受診どころではないようだ。こういう人たちは、年が明けて一段落してから、まあ病院でもかかってみるか、と思うようである。1月いっぱいは年末に来た患者さんたちの治療に追われる。病棟も外来も落ち着き始めるのは、およそ1ヶ月過ぎた頃。2月の精神科はやや閑散期、ほっと一息。またちょっとした悩みで病院にかかるには、寒すぎる、ということもある。3月に入ると、そろそろ次のピークに向けて心の備えが要る。年度末ということで人事異動などが決まってくると、またまた適応できない患者さんが押し寄せてくる。春休みに帰って来た学生さんたちも「ちょっとおかしいのでは」と家族に連れられて来院。いわゆる、芽吹き時、暖かくなりがけに精神病の発症は明らかに多い。病院の外でも、意味不明な独り言をブツブツ言いながら自転車に乗っている若い子を見て「あっ、未治療のシゾ(統合失調症)だな」と思うことがあるが、不思議と3~4月だ。年度初めに就職先や、異動先に適応できず、やっぱり...という患者さんも来るので、少し新患さんが落ち着き始めるのはGW明けといったところ。逆にこの頃になると、外来へは少し眠れないとか、悩みを相談したいとか、いわゆる五月病のような症状の患者さんが訪れる。こういう患者さんたちは見た目にあまり病気っぽくないことが多い。これらが一段落するのが、また6月頃。梅雨時に入ると、病気っぽくない患者さんも病院に出るのが面倒臭くなるので、私たちも一息。梅雨明けして、暑さがカーッと押し寄せると、また患者さんが増え始める。暑さで頭がぼーっとするばかりではないと思う。夏休みということでまず学生さんが外来に来やすい。一方で家族がお盆前に入院させてしまいたい、と連れて来るケースもある。お盆は個人開業のクリニックが長期休暇をとることも多いので、その間に調子を崩したとか、薬がなくなったから、と飛びこんでくる人も目立つ。お盆が明けると、新患さんは少し減る。お盆あたりまでの患者さんをのみこんだ病棟が少し空いてくるのは10月のいい季節。9月10月の異動、11月の日照時間短縮で入院にまでは至らないくらいのうつ病患者さんが恒常的に来続けるけれど、比較的落ち着いたシーズンだ。お悩み相談の患者さんが「まあ、気候もいいし病院でも行ってみるかな」と来られる事が多い。そして、私たちは、またやがて来る寒波とともにやってくる患者さんの波に備える。そう、これから年末まで、忙しい。年末年始というのは、病院の機能が停止してしまうので、どちらかといえばそろそろ気分的には守りに入りたいんだけど、逆に来られる患者さんは緊急性が高い。だが実際は検査もできなくなってしまうし、職員も手薄になるし、近辺の総合病院も休みになるので、身体の病気のある患者さんを、どうやって見極め、入院させないかが大切。高齢の方も、精神科的に今急に発生した緊急性がなければ、なるべくお休みの家族で年明けまで看てほしい。高齢者の肺炎がとても多い季節。こういった方々は環境の変化に弱い。隙間風の入る自宅で過ごしていた間はよかったのに、何故か気密性が高くて空気の暖かく乾燥した病院に入った途端、発熱したりしてしまう。とにかく身体の病気のある患者さんは、そっちへ行ってもらわないと、年明けに出勤したら、検査もできずに亡くなっていたなどということにもなりかねない。とにかく「精神科の病院に今、入院している」というだけで、近辺の機能と設備と人員に恵まれた総合病院は「今、そっちに入院しているのなら、そっちの患者さんでしょ?一応医者もいるんでしょ?そっちでそれくらい診られるんじゃないの?」と身体の病気で紹介しようとしても断る。そこを平身低頭お願いするのだが、ひどいときは医師と話もさせてもらえず、医療連携室のワーカー職員とか、救急担当の看護主任レベルで、断ってくる。入院していない患者さんを家族が救急当番の病院へ連れて行く分には、応召義務があるから相手も断れない。だがひとたび精神科病院に入院した患者さんには、診るだけなら診ますけど、必ず連れて帰ってもらいます、入院が必要そうなら、最初から他へ頼んでください、と平気で言う。精神科の患者さんは、身体の病気にかかる自由もない。ガタイさえ元気なら、どんな大暴れの患者さんでも私たちは引き受けるけれど、身体の病気がらみは本当に困る。家族の思惑とは異なるかもしれないけれど、高齢者と身体の病気がある患者さんは、心から年明けに来てくださるようお願いしたい。
2006年12月20日
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母はイレッサが効きやすい「女性の非喫煙者で腺癌(非小細胞がん)」の3条件を満たしているため、点滴による抗がん剤治療を6クールと脳に対するアキュナイフを行なった後、イレッサ250mgを隔日で内服することになった。母は当初、保険が利かなかろうと高かろうと新薬だろうとなんでもやると主治医に言ってくれと懇願したり、「テレビでは家族があらゆる治療を探し出して連れて行ったりしてくれていた。どうしてあなたはそこまでしてくれないの」と涙ながらに訴えたりした。実際私は免疫療法と重粒子線治療も検討した。免疫療法は紹介状と画像の資料を取り寄せ、仕事を休んで母を遠方まで連れて行った。免疫療法を行なっても、その上から抗がん剤(イレッサ以外)を使ってしまうと、その免疫細胞を叩いてしまうので、併用するにはスケジュール調整が必要だった。母自身が、主治医にスケジュール調整をさせるのは悪いからイヤだの、抗がん剤治療が済んでからにするだの言い、しまいには、遠方まで新幹線で行く間に風邪がうつるから止める、と言い出したのだ。重粒子線治療は、やはり多発性脳転移があっては、適応外になるということが分かったので、母には説明できなかった。ちなみに、免疫療法も、重粒子線も、保険適応外。一通り治療すれば、それぞれが300万円くらいかかる。いざイレッサをという話が出た途端、あれだけ勇ましいことを言っていた母が躊躇した。あまりにも、副作用が重篤で致死的である、というイメージが先行していた。イレッサについてはいずれその話が出るだろうと思っていたから予め、「これだけの病気なんだから、副作用についてはよく病院で観察してもらいながら、やるとして、効く可能性があるなら、やろうよ。やらないで悪くなったら、やっておけば違ったかもって思ってしまうんだよ」とずいぶん吹き込んでおいたのだが、ダメだった。こんな薬をのんだら、死んでしまうんじゃないか、のみ始めたら、ずっと誰かが傍にいてくれなければ、何とか肺炎になって、急に息ができなくなったらどうするんだ、など母はかなり取り乱した。イレッサは、他の抗がん剤に比べたら、死亡率は3倍くらいか。3倍、というのは数パーセント、ということだ。だが、これは私の胸に秘めていることだが、母は既に遠隔転移のあるstage4(ローマ数字)。余命は1年もつかどうか、というところだった。がんで死ぬのは自然だからいいが、薬の副作用で死ぬことは人為的だからいかがなものか、という論理は、健康な人や、外科手術で完治が望める人の論理。また、高齢だからもう自然に任せるのが正しいのではないか、そうまでして薬を試すのか、という考え方も、若い人の論理。末期がんの患者本人や、その家族にとっては、賭けだろうとなんだろうと、やれる限りのことをやってみる、という以外にない。私自身も、母をいたずらに延命だけしようとは思わないが、普通の生活を一緒に出来る時間が少しでも長くもてるようにしてあげたい、と考えていた。イレッサは、自宅で内服し、定期的に通院してチェックを受けるだけでよい。その他の抗がん剤と違って、髪も抜けないから、「外食に行けない」「買い物に行けない」「近所の目があるから、新聞を取りにも出られない」と家に引きこもらなくても済みそうだった。もともと効く薬に副作用のないものなど、ない。いくら大変な治療をしたって、それで自分で自分の生活を縛っては、無意味。もう一度、普通の生活を取り戻してみようよ、お母さん、と説得した。結果として、母は、もう二度と一緒に行けないと覚悟していた夏休みの北海道旅行にもう一度行くことができた。秋は温泉にも連れて行った。次の子どもの誕生日も、祝えるだろう。母が疲れているときは別として、出勤後の食器の片付けと夕食の準備は普通にやってもらっている。肺がんが分かって治療を始める時に姉と言っていたことだが、もし治療がうまくいって、再び普通の生活に戻れたなら、腫れ物に触るような扱いだけはしないで、普通に母がやれることは、どんどんやってもらおう、と決めていた。母も、一人でぼーっと過ごすより、私たちの役に立っているという感覚があるほうが張りがあるようだ。この生活がいつまで続けられるかは分からない。いつまた、母に脳の症状が出て、あの生活に逆戻りするか、その恐怖と常に隣り合わせ。それでも10年ほど前の内科治療を知っている私から見れば、やはりイレッサに感謝。
2006年12月19日
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母は全部で6クールの抗がん剤点滴を行なった。やはり脳の症状が重かった1回目が家族も一番大変だったように思う。私も勤務が終わって保育園に子どもを迎えに行き、一度家に置いては(やはり感染症を考えると子どもを連れて病院には行けないし、まして駐車場には残せなかった)病院へ荷物を運び、洗濯物を受け取っては(これがまた、母は未使用の下着などを間違って持たせたりしてしまう)、自宅にとって返していた。連日、夕食は惣菜か、外食。ほとんど何も作れなかったと思う。帰り着いたときにリビングで子どもが二人とも寝てしまっていたこともあった。子どもが寝るのも遅くなるので、自分もそれから洗濯を済ませて干して寝ると遅い。しかし、夜中に母から携帯で電話がかかってくる。朝はまた朝食の準備をして、完全に片づけまでして出勤するから、慢性寝不足。正直この時期自分が何をどうしていたか、よく覚えがない。思い出して文章を書いても今ひとつ順番がはっきりしなくて、まとまりがなくなってしまう。母は外泊で帰ってくると、テレビをつけっぱなしで眠っていることがよくあった。「テレビが子守唄みたいなもので、ついていないと眠れない」と言っていた。だからテレビを見ながら早い時間にソファで寝てしまい、夜中にゴソゴソし始める。浴室乾燥機のある浴室に洗濯物を干して寝たいので早く入浴を済ませて欲しいのだが、なかなか入ってくれないのも辛かった。やむをえず急かすと、「私は年だから、休まないと次のことはやれない。あなたは若いからいいけど」と口癖のように言うので私も諦めて、ネットをしながら母が起きるのを待っていた。これも、脳の器質的な変化によるせん妄(軽い意識障害)の症状。軽いうちは夜に症状が強くなりやすく、重症になれば日夜問わなくなる。テレビを消さなければならないので、病院では眠れないそうだが、これはおそらく静かな環境だと余計に幻聴が気になったのではないかと思う。私も姉もさすがに音を上げて、主治医面談でとにかく夜、母を眠らせてくれるよう頼んだ。オーベン(上級医)の先生には、「何の薬がいいですか?先生のほうが専門家ですから」と言われたため、いわゆる睡眠薬ではなく、少量の抗精神病薬を使っていただくようお願いした。しかし、眠れない時に使うという形だったため、毎晩のように「もらいに行ったほうがいいかしら?でも睡眠薬(母はそう思っていた)なんて、なるべくのまないほうがいいわよね」と電話がかかってきた。2クール目が終わる頃には、それでも少し脳の症状は軽減していたように思う。だが今度は副作用の脱毛がかなり激しくなってきた。一度入浴すると、排水口が真っ黒になるほど毛が抜ける。リビングは、床を手でちょっと撫でると髪の毛がごそっと固まって拾えるほど。母が下着のシャツを普通に脱いだだけで、髪の毛が大量に絡みついているので、洗濯機にそのまま入れると、他の衣類まで髪の毛だらけになってしまう。母が寝てから母の脱いだ洗濯物をこっそり洗濯機から取り出して、ひとつひとつ、1本残らず手で髪の毛を取ってから、洗濯機を回した。夜中に、どうして私はこんなことをしているんだろう、と泣きながら、髪の毛を摘み取った。母は何かと「自分で掃除するからいい」と言ったが、抗がん剤の副作用で抜けた髪を自分で拾わせるなどという惨めなことをさせたくはなかった。だが、私が母の目の前で掃除をしているだけで「悪いわね」「私がいると大変なのよね」と被害的になってしまう。なので夜中に母が入浴している間、こっそり掃除機をかけたりしたが、とても追いつかず、私はついに全自動掃除ロボットを購入した。機械が勝手に掃除をしている分には、母は何も思わなかったようだった。点滴による抗がん剤の治療が終わり、定期的に外来通院をしながらイレッサ(ゲフィチニブ)の服用が始まった。またこれが、昨今副作用を取り沙汰されている薬。確かに重篤な副作用が報告されているが、末期がんの患者はそんなことで躊躇している場合ではない。ちょうど治療が切り替わる6クール目の終わり頃、若い主治医クンが遠方へ転勤になった。呼吸器外来はオーベンだった先生が再び診てくれることになった。脳外科の主治医も転勤。情報は当然引き継がれると思っていたのだが、交代した脳外科の先生が、「頭のほうにもイレッサ、効いてるようですよ」と言ってしまう。抗がん剤の治療が効いている母は、以前ほどボケてはいないので、帰宅してすぐに大騒ぎになってしまった。「イレッサが効いている、ということは頭のも転移って事でしょう?しかも先生、ひとつじゃないって言っていた。むくみっていうのは嘘だったの?あなたたちは、何か聞いているんじゃないの?」せっかくわざわざ、母への病状説明には私も姉も初めて聞くような顔をして同席して、口裏を合わせていたのに。「私は、説明を一緒に聞いたじゃないの。それしか知らない。ひとつじゃないっていうのも他にも細かいむくみはあるかも、って先生言ってたでしょ(本当は、言ってない)。あの時お母さん、ぼーっとして全然頭に入ってなかったから、覚えてないのよ」と適当に誤魔化す。「イレッサのことは、何かの勘違いじゃない?ほら、お母さんも聞き違いや勘違い、多いから。また、確認してごらんよ」そう言っておいて、事情を把握しているはずの、呼吸器内科医にこっそり電話をし、脳外科医との口裏合わせを改めて確認した。これは同時に、呼吸器内科の主治医に、「先生も、話の内容に気をつけてくださいね」と伝える意味もあった。
2006年12月18日
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患者家族として看護師に直接連絡してお願いをしたところ、相手の声や口調から判断するに、どうも気を悪くされたようだ。母も職員の悪口をよく言った。但しこれには母の被害妄想もかなり含まれているので、話半分に聞いてはいた。母は、看護師に物を頼むことを相変わらず嫌い、私によくこんな無理を言った。「あなた、私がいくらお金を出したら、仕事を辞めて、ずーっとついていてくれるかしら?1ヶ月100万円くらい出したら、辞めて私の面倒を看てくれない?」子どももいてこの先ずっと生活していかねばならない私にとって、金額の問題ではないのだが、いかんせんこの頃の母は、おかしなことばかり言っていた。一方母は敏感で、病棟の廊下を歩いていると、看護師に「▲▲さん、どちらへ?」と尋ねられるようになったとすぐに言いだした。「私のことを、ボケていると思っているみたい。やたらに見張られているのよ。だから、詰所の前を通るとき、エレベーターが来るのを見計らって、さっと乗ってやるのよ」実際、病院の売店の開店時間よりえらい早く行ってしまって、下でぼーっと待っていたりする(どう見ても徘徊する老人だった)ので、看護師に注意してもらうしかなかったのだが...。...お母さん、そういう患者は、一番嫌われるよ。自分が医療機関に勤めているから、よく分かる。母は、病院食をほとんど手付かずで残すことがよくあった。体力を維持するためには、食べなければいけないので、私や姉が好きそうな物を選んで運んだ。味が気に入らなかったのではない。病棟へ給食のカートが上がってくると、歩ける患者さんは、自分の名前の書かれた給食を取りに行く。おなかが空いているのか、時間の少し前に面会コーナーなどに座って待っている人も多い。病院食は美味しくないが、入院していると食事くらいしか楽しみがない。カートが来るのを待ち構えて取りにいく人の中に、呼吸器病棟なので、咳のひどい患者さんがいる。母は、その咳が気持ち悪いと言って、蓋のない器に入っている食事には手をつけなかったのだ。あまりにも手をつけないので、理由を訊かれ、その後「▲▲さんのは一番に持ってきますから」と看護師が部屋まで運んでくるようになった。これは、マニュアル外だろう。確認はしていないから、本当に一番で抜いてきているかは分からない。だが母は看護師さんが持ってきてくれるようになったのよ、いいですよ、と言っていた、と平気。それでいて、看護師が訪室すると、「すみませんねぇ。本当にいつも。お忙しくないですか?」などとしつこく言葉だけは丁寧。「いいですよ」と運んできている看護師の、マニュアルちっくな作り笑顔。お母さん、そういうのって、伝わる。嫌われるよ。医者の対応にも、うーん...と思わされることが多かった。医療機関から家族へ直接連絡したいときのために、入院時の連絡先には私と姉の携帯電話番号を書いた。以前、外来でも直接知らせ、カルテに書いてもらったはずだか、オーベン(上級医)の先生はそれを忘れてしまうらしく、家族に直接連絡したいとき、いつも母に私の電話番号を尋ねる。...これって、ダメでしょ。「先生が、あなたの電話番号を訊いたのよ。私には直接話せないことがあるらしいわ。きっと治療の結果がよくないんだわ」母はそのたびに落ち着かなくなってしまう。また、主治医の話の中にも、ポロッポロッとぼろが出る。例えば、抗がん剤の点滴、これが非常によく効いていいですよと母に言うのはいい。ところが、「頭のほうにも薬が効いているみたいですね」と余分なことを言ってしまう。これって、頭のほうもがんの転移だって言ってしまっているじゃないか。高次機能をもった一流病院というところは、患者や患者の家族は医師の指示を二つ返事ですぐに聞いて当たり前と思っている。そこに、若干患者側の都合の入る余地はない。例えば、私の勤務中に、看護師から電話が掛かってくる。「今日午後3時から先生が面談をされますのでお越しください。」言葉遣いは丁寧だが、有無を言わせず今日?今日って今日の今日?完全な日時指定なので、勤務を抜けて面談に行かざるをえない。急に呼ばれて新幹線に乗っていたのをUターンしたこともある。私はいつも、緊急時を除き、自分の患者さんの家族面談にはいくつか候補の時間帯を挙げて、都合をつけてもらうようにしているが、そういうサービスは無いようだ。当日朝の採血結果で、いきなり「じゃあ今日の午後に退院ですね」と言われ、その日たまたま遠方にいた私はどうしても消灯時間までの迎えに間に合うことが出来ず、1日延期を頼んだことがあるが、これも主治医の心証を悪くしたようだ。入院時の契約書には、「退院指示が出た場合、即時患者の身柄を引き取ります」とあり、確かに署名した。でも急に言われたって物理的にどうしても無理、ということはある。その前数日はいつでも退院できるよう備えていたが、検査結果で退院が延びてきていて、その日だけやむをえず遠出をしていたのに。どうやら主治医クンの態度から想像するに、母の退院後、すぐに個室を使いたい、先輩医師の担当患者があったんじゃないかと思う。母は化学療法のために全部で6回入退院を繰り返した(1回目だけは、脳への放射線療法も行なった)が、いつも退院指示は急だった。白血球が2300しかないから感染が怖いので退院延期、と言われたのに翌日2600になったから今日退院しましょう、と言われた時は、さすがに姉と主治医への家族面談を申し込み急遽乗り込んだ。白血球の正常値は一般的に4000~9000。2300と2600の差は、それこそ誤差みたいなもの。どれほどの意味がある?その時の主治医クンの態度は、「この家族、何を言いに来るつもりだ」と明らかに表情固く、身構えているのが分かった。...こんなことくらいで、これほど態度に出てしまうなんて、修行がなってないぞ。常日頃、精神科の患者さんたちや、その家族の皆様に、もっととんでもないことも言われている私から見るとまだまだね、と思ってしまった。病院は、営業上1日たりとも個室を空けたくない。一方で次の人が決まれば、早く出したい。そういう裏事情が、私には手に取るように見えてしまう。また、この総合病院は、普段精神科の患者さんに身体疾患が出て紹介しようとしても、絶対引き受けてくれないような病院。同じ地元で精神科医の私には、よく分かっている。多分入院する時はまともに見えた母が、様々な精神症状を出したので、本来守備範囲外、という見られ方をしただろうなと思う。でも、もっと早くちゃんと診断してくれれば、精神症状に家族もこんなに苦しまなくて済んだのだから、そこを考えて欲しい。一度主治医面談で、「今後精神症状が進行して来た場合」という話をしたことがあるが、主治医はあっさりこう言った。「身体のほうの治療で、やれることがなければ、後方病院へ依頼することになります」...よくぞ簡単に言ってくれるわ。後方病院、というところが、集中した身体の管理なんてやれない、ということはよく分かっているのだぞ。何年も誤診をしてきたではないか、と訴えたい気持ちもなかったわけではないが、そんなことをしても母に手遅れだと思い知らせるだけだった。医者として私自身も連携をしているということもあった(実際にはあの病院で誰もとってはくれないが)。医者である私ですら、泣き寝入りせざるをえないのだから、世の中の医者でない人々はなおさらだろうな、と思う。
2006年12月17日
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現代の医療は、スタンダード化(標準化)されているほうがよい、とされている。これは、同じ疾患の患者さんが、誰しも平等に、同じ内容の医療サービスを提供されるべき、という考え方からくるもの。こう言えば聞こえはよいが、結果として、医療はどんどんマニュアル化される方向に来ている。患者さんの立場から言えば、全体よりも自分や自分の家族がよくなるかどうか、それが全てなのだが、ひとりひとり個別への医療の存在が軽視される方向。ハンバーガーをオーダーしたら、「ポテトはいかがですか?」「ただいまセットがお得になっております」「ドリンクをお選びください」そこに、もれなくスマイル0円がついてくる。財団法人日本医療機能評価機構の、病院機能評価マニュアルなんてものは、まさにそう。今、「当院の基本理念」を掲げている病院は多くあるが、これはこの機能評価対策だ。自分のかかっている医療機関の基本理念が頭に焼きついた患者さんはどれくらいいるだろう(笑)。委員会はいくつなきゃいけないの、ゴミの分別がどうだの、新しい試みがあるかの、基本理念を職員全員が覚えているかだの、美辞麗句の基本方針が患者さんの目に触れるところで告知されているかだの。だいたいこの「機能評価認定病院」と認定証を誇らしげに受付に貼っていたりするが、患者さんたちはこの機能なんたらが何なのか知らない。認定されていたらどうなのか、とかも知らないし、認定証があったかどうかも記憶に残らないだろうと思う。まあ、そういうものに認定されていないと周囲より遅れているようで不安になる、という意識につけこんだ、天下り先の資金集めみたいなもの。母の入院先も、もちろん機能評価認定病院。入院すると、今までの外来主治医がオーベン(上級医)になり、若い医者が入院主治医、ということになった。ある日面会に行くと、ベッドのところに、脳転移に対して行なう放射線治療の説明書と検査治療のスケジュールが置いてあった。最近どこの病院でも導入される方向の「クリニカルパス」というものだ。同じ疾患の患者さん全てに同じ内容の説明と、同じ内容の検査、治療が行なえるように、と作られた、要は印刷物だ。母はボケているので、「読んでもよく内容が分からないけど、明日から始まるのかしら?でも先生は明後日みたいなこと言っていて、よく分からない...。明日はとにかく1日用意して待っていたほうがいいのかしら。」と混乱。混乱していたので、まだよかった。私はこの印刷物を読んで愕然。「この治療は、脳の腫瘍や血管奇形などの病変に対して行なうものです」とはっきり書かれているのだ。「など」という逃げ道はあるが、母には「脳の腫瘍」なんて言葉を見せるのも困る。個室入院なので、携帯電話を室内では使用してよい、ということになっていた。母に携帯を持たせていたのだが、またこれが参った。勤務中だろうと、真夜中だろうともナースコール代わりにかけてくる。「今トイレに入っていたら、何か物音がして、先生が来られたみたい。慌てて出たけれど、もう誰もいなくて、もう一回来てくださるかと待っていたのに、来ない。どうしたらいいのかしら。看護婦さんに言いに行ったほうがいいのかしら(多分、物音そのものが、幻聴)」「今部屋に戻ったら、洗面所に置いておいた新しいコップが無くなって、違うものが並んでいるの。私のベッドにおじさんが座っているの。変態よ。気持ちが悪い。(自分が間違えて隣の部屋に入っている)」「さっき若い先生が来て、説明して帰っていったのだけど、『それでどれくらい治るんでしょうか』と訊いたら気を悪くするかもしれないと思って、私は訊きたいことが訊けなかった。あなたのほうから訊いてみてくれないかしら。医者なんだから。(そのことばかり考えていて、説明された内容は聞いていない)」「さっきおねえちゃんが頼んだものを持ってきたのだけれど、どこにも××がないの。もし、時間があったらでいい、無理はしなくていいけれど、あなた買ってきてくれないかしら。本当に悪いけど。(時間があったら、と繰り返し言うが、待てずにまた少しすると同じ内容の電話がかかって来るので、すぐに何とかせざるをえない。しかも探し方が悪いだけで、実際は荷物の中にあったりして、どんどん部屋の荷物が増えてしまう。病室はホームレスのダンボールハウスのように紙袋の山になった。しかもその紙袋を床に直接置くと汚い、と言って新聞を敷かされた。ちょっとでも誤って床に紙袋が触れると、また電話で使える紙袋が無い!と大騒ぎ)」「テレビがつかないのよ。昨日おねえちゃんが新しいのを買った、と言っているけど、どれを挿してもつかないわ。全部終わっているのを置いていったんじゃない?(テレビカードを逆向きに入れたり、テレホンカードを入れたりしてしまう)」「今、携帯がブルブル鳴ったような気がしたけれど、あなたかけた?(と夜中の2時でも私を叩き起こす。その後着信履歴を確認したが、携帯が鳴った形跡は無い)」母はこの時期、ほとんど看護師の手を煩わさない模範的な患者だったと思うが、実際はナースコールで言うような内容を、全て私や姉に携帯で電話していた。さすがに、幻聴で携帯が鳴った気がして夜中でもかけてくるのには参ってしまい、姉と私は母に(消灯後は使えない)公衆電話を使うように言い、携帯を回収することにした。母はこの携帯だけがあなたたちと繋がっている命綱なのに、と泣き喚いた。...公衆電話は、他の咳をしている患者が使っているから、汚くて触りたくない。私は、抗がん剤を使っていて、免疫力が下がっていて、絶対風邪をひかないようにと言われているのに、公衆電話なんて使ったら、肺炎になってしまう。それに、何度もナースステーションの前を通って公衆電話に行くと、看護婦にジロジロ見られるから、使えない...可哀想だとは思ったが、私たちにも生活がある。やれる限りのことはするが、子どもの世話もあるし、仕事も休めない。公衆電話にしたらしたで、一度使ったテレホンカードは、全てと言ってもいいほど抜かずに部屋に帰ってしまい、気がついた頃にはもう誰かに持ち去られてしまうが、それには目をつぶった。しまいに、「テレビがつかない」と何度も電話がかかってくるので(しかもそのたびに1枚ずつテレカが紛失する!)やむを得ず私のほうから看護師に見てくれるよう、電話で頼んだ。また、母はボケているので、(感染症は怖いと言いながら)ふらふら寒い売店へ行っていつまでも戻ってこないことがあるため、よく観察してくれるようお願いした。後にも先にもこちらから看護師に電話して物を頼んだのはこの時だけなのだが、どうもこの時から我々は「要注意家族」のレッテルを貼られたようだ。
2006年12月16日
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母は、元気な頃に時々、病気の告知の話をしていた。「治る病気ならいいけどね、治らない病気だというのなら、やっぱり失望してしまうかしら。とにかくアンタの判断に任せるわ。医者なんだし。」結局丸投げされているのだけど...。呼吸器の主治医の話では、手術不能で、化学療法をやるしかないが、強い副作用に耐えて治療を続けていくためにはそれだけの動機が必要なので、告知すべきではないか、と言う。確かに隠し通すのは難しいだろう。だが、姉と私と相談して、原発巣については告知するが、とにかく脳に転移していることだけは、告知しないと決めた。脳外科のほうの主治医はそれではやりにくいらしく、告知すべきだと言ったようだが、私たちは断固、遠隔転移については告知しないとつっぱねた。したところで、根治的な治療が出来るわけではない。既に精神症状まで出ている母のことだ、さらに激しく取り乱すだろうし、巻き込まれてしまう家族もたまらない。せめて、落ち着いて受けられる範囲の治療を受けさせるしか、私たちにできることはない。手術を取りやめた理由説明は、腫瘍の場所が心臓に近いこともあって、切り取るとかえって腫瘍組織が散ったりする危険が大きい上、組織的にも薬物がよく効くものなので、そちらを選択しましょうという、苦肉の策。それまで、悪いものかもしれないという程度ではっきり母には伝えていなかったが、肺についてははっきりがんであることが伝えられた。脳については、これはたまたま見つかったのだが、浮腫があって物忘れなどが出ているので、一緒に治療しましょう、と説明した。実際には画像上3つほど転移巣が写っているのだが、2つは小さい。1つは明らかに大きく、かなりの面積を占め、その周りがむくんだ状態。だが素人目には画像上のむくみは分かりにくい。私は主治医に、この一番大きい転移巣そのものを、むくみと説明しましょう、多分周囲が抜けているのは、素人の目に付かないから、と提案した。それで、いずれ、患者本人への説明と食い違ったためにトラブルが生じたことについては、すべて私たちで責任を取ります、と約束した上だ。インフォームドコンセント、患者自身の知る権利、と誰もが言う。呼吸器の主治医も脳外科の主治医も、すでに末期がんなのに告知して当然という姿勢なのに、違和感を覚えた。そりゃあ、患者が全部知っているほうが、話の辻褄合わせも面倒くさくなくていいだろう。私が医学部に入学する頃、がん告知は最大のテーマ、小論文課題の常連だった。入学試験で読まされ、面接でその内容を問われた英文も、それだった。私が研修医だった頃は、家族の希望で全てを告知されていない患者さんはたくさんいたはずなのに、いつから告知は迷うまでもなく当然になったのだろう。家族が決めかねているうちに、医者のほうから「告知したほうがやりやすい」などと言われる時代になったのだ。だが、実際、告知は当たり前の時代になっていたらしい。医者はテレビドラマ以上に、嘘が下手だった。私たちはこの後、いくつもの壁にぶつかることになる。
2006年12月15日
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朝、子どもたちを送り出してから出勤するまでの間、ゴミを分別し、集積所へ。洗濯物を乾燥機のついた浴室に広げる。いつもと同じ、朝。母が朝食の後片づけをしている間に、朝刊に一通り目を通す。毎朝、忘れずに。ニュースを読もうとしているのではない。ニュースは大半ネットで見ている。新聞なら、医局でも読める。私の目的は、ニュースを読むフリをしながら、がんに関する記事を探すこと。肺がんの5年生存率の具体的数字、イレッサの副作用の死亡率などが載ったページがあると、分からないようにそっと抜き去る。母の肺がんが判明したのは、1年余り前。いくら高齢で進行が遅いとはいえ、正直1年もつと思っていなかった。胸部レントゲン写真には、少なくとも4年前から、同じ陰影が写っていた。定期検査は欠かさなかった。レントゲンをこんなに浴びていいのかと母は被爆ばかり心配していた。地元の、だが患者が溢れかえる日本でも有数の病院で、予約に忠実に通い続けた。3年前には一度気管支鏡検査もやっている。その時の結果はシロだった。バイオプシー(生体組織検査)で大出血し、血液で窒息しそうになるほど大変な思いをしたので、二度とあの検査だけはごめんだと言っていた。胸の陰影は、排出しきれない痰が溜まって写るのだろう、と言われてきた。2年ほど前から、胸の陰影が、わずかに拡大傾向になったようだ。通院間隔、検査間隔が少し狭まった。1年半ほど前から、母は認知症のせん妄(軽い意識障害、幻覚妄想)のような症状が出始めた。夜中に階下で雨戸の開く音がした、泥棒が入ったのではないか、と何度も私を起こす。私は連日、睡眠不足で出勤していた。朝になってから、私が真夜中、家に男性を招き入れただろう、それは自由だが、どうして前もって言っておかないのだ、と怒り出す(残念ながらそんな男性はいない)。元々家事などかなりきちんとやる人だが、私が終業後子どもを保育園に迎えに行って帰ると、ダイニングテーブルの上には朝の食器がそのまま。それを少しよけてその隙間で昼食を食べてある。毎日の夕食はほとんどスーパーのデリカになった。それでも買ってあればまだいい方で、ひどい時は私が帰宅した時に「今から材料を買い物に行く」と言い出す。「もういいから、外へ食べに行こう」と言う私と喧嘩になる。1日中、雨戸を開けない日も多くなった。テーブルの上だけでなく、家の中も荒れ放題。どうも何かを探したりして、右のものを左に、左のものを右に動かしているうちに、1日経ってしまうようだった。帰宅してから、二食分の食器を洗ってからでないと、夕食を食べることも出来ない。リビングの床には、紙袋やスーパーの袋に入った要る書類だとか、要らないDMだとかが散乱。夜のうちに洗濯を済ませて全部干して出勤し、今の家の掃除はさせたことがない。夕食の支度以外は家事を残していかないのに、母が1日何をして過ごしているのか謎。それでいて、ちょっとした私の言動に(しかも怒るような内容でない)、被害的になって泣き喚き、すぐに姉に電話して言いつけたり、姉の家に行くからいい、と出て行ったりする。毎日、泣けそうだった。それでいて、母は外では見た目しっかりしていた。いつもかかっている医者も、全くおかしいと気づかなかったようだ。姉にすら理解されず、「お母さんが手伝ってくれるとは言え、もう年なんだから、あんまりあてにすべきではないんじゃないの」「今年の夏は暑いから、お母さんだって、疲れているんじゃないの」などと言われていた。この頃私は毎日昼休みにスーパーへ行き、自宅に届けていた。届けても、夜までに何もやれない、ということも多くて、冷蔵庫の中では次々食材が腐ったが、母に買い物に行かせると、ある物をまた買ってしまったり、別の料理の予定があるのにまた重ねて他の材料を買ってしまったりするので、食費が無駄に膨れ上がっていた。ある日、その日の当直の先生が、忘れ物をして買い物をしたいということだったので、一緒に車に乗せて、スーパーへ行った。その日、母は私が買い物をするということすら忘れていたらしく、私たちと店内で出くわした。私は夕食の材料を買うのを止めて、3時のオヤツを買って病院に戻った。その時は当直の先生(以前に母と面識はある)に会釈をしてすれ違ったが、午後私が勤務をしている真っ最中、半狂乱になった母から携帯にかかってきた。「あんた、今何処にいるの!?」「何処って...病院で仕事をしているけど?(診断書書いてるよ)」「本当のことを言いなさいよ!あんた、アイツ(元夫のこと)と一緒にいたでしょう!」「はあ?お母さんも知ってるうちの病院の★★先生だよ。何言ってるの?」「今●●●(離婚前に住んでいたところ)にいるんでしょ。子どもも連れて行ってるの!?」「子どもは今保育園だよ!昼休みにスーパーでお母さんに遭ってて、まだこれしか時間経ってないのに、どうして●●●なのよ。」「もう、私に隠れてコソコソと。行くのなら堂々と言えばいいでしょ!?」「あの、全然意味が分からないんだけど。」「もう、いいわよ!(ブチッ)」この後、母は姉に「じゅびあがアイツとよりを戻すつもりだ、私に隠れてこっそり逢っていた、私のことを裏切った」などと泣きながら電話し、姉もまるきり母の言うことを信じたため、話が大きくなってしまい、姉からも勤務中に電話がかかる始末で、事態の収拾が大変だった。この時ばかりは、私も母に「あなたの悪いのは、身体じゃなくて、頭だって!頭の医者へ、行きなさいよ!」と怒った(後に、呼吸器の先生に「お母さんにそんなこと言ったの!?」と呆れられた)。夏も盛りの頃、姉が私の家に寄ると、母が炎天下なのに家の外にいた。どうしたの、と声をかけると、家の中で物音がする、泥棒がいるに違いない、怖くて入れないと言う。警報装置は作動していない。姉が鍵を受け取り、家の中へ入った。何も異状はない。結局母に言われるまま、「本当に泥棒がいたら、私はどうなるのよ」と思いながら、家中を見て回ったと言う。この話は、だいぶ後になって聞いたのだが、さすがに姉もこのとき初めて、「これは、暑さの疲れだけじゃないかも。じゅびあの言うように、本当にお母さん、おかしいのかな」と思ったそうだ。夏も終わりの頃、母が定期的にかかっていた病院から、気管支鏡を再度勧められる。母は嫌がったが、何とか説得して検査入院をさせた。左肺に直径3センチの腺がんがあったと連絡が来た。とりあえず腹部CTに異常はなく、肝転移はなさそうだから手術できるでしょう、できるだけ早いほうがいいので、もう少し検査を進めましょう、と言われた。病院へ行くと、母はすでにその説明を受けて落胆していた。手術が怖い、イヤだと言っていた。私と姉は、「手術で治療できるんだからとにかく頑張るしかないよ」と話した。その裏で、私は一抹の不安を覚えた。「頭が怪しいのでは?脳転移がもうあるんじゃないか?手術をする前提で主治医はムンテラ(説明)しているけれど、もし手術ができなかったら、どうするつもりなの?」頭のCT、MRIの結果が出揃ったところで、家族が呼ばれた。私は急だったので、かなり無理をして勤務を抜けて出向いた。診察室に入ると、主治医の横に貼ってある数枚の画像が目に飛び込んできた。「残念ですが」と主治医が口を開く前に、もう「やっぱり」と思った。脳には、すでに複数の転移巣が、はっきりとエンハンス(造影剤で強調)されて写っていた。その時、肺のCTなども初めて目にした。....どうして母の嫌がる気管支鏡ばかり勧めて、つまり組織型の同定にこだわって、もっと早く造影CTとか、侵襲の少ない検査を積極的にやらなかったんだ。これまで胸部X線写真で「もわっと」写って、何年も痰だろうと言われていた塊。CTに写っている肺の陰影は、明らかに造影されていて、血管の塊。1回目の気管支鏡で大出血したのは、血管の豊富な悪性腫瘍組織だったからではないか。写ったものの顔つき(辺縁がギザギザで棘状)で、「素人」の私が一目見て悪いものだと分かる。母の症状は、脳転移による、まさに器質性の「せん妄」だったのだ。一番大きな脳転移はすでに原発巣より大きくて、周りに浮腫をきたしている。その「浮腫」が脳の症状を出していたのだ。今さらどうするのだ。手術をするという方向で話をしてしまって....。帰宅して、姉と告知について相談することにするが、その前にまた母から電話がかかってくる。「ずっと手術手術と言っていた先生が急に言わなくなったのよ。やっと覚悟を決めたのに。私、もうダメかも。手術できないかもしれないわ。」なんで、こうお粗末なんだよ。ムンテラの仕方が、順番がなってない。これが、ブランド志向の患者が押しかける、日本有数の病院?私はこの後も、何度も怒りを覚えることになる。
2006年12月14日
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今さら、という感じがするけど、私の言ってきたのと同じことが、今日付けで記事になっている。毎日新聞http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061214-00000046-mai-soci日刊ゲンダイhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061214-00000015-gen-entそんな売り方はダメって口を酸っぱくして言ってきたけど、そうすると他のもっととっつきやすいドクターのところに流れるだけなのよね、MRさんたち。また、「先生のところでは、この記事で使用を差し控えたりした患者様はありませんでしたか」と飛んでくるんだろうな。私は何も変わらない。同じなんだけど。
2006年12月14日
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精神科の患者さんの中には、職を転々としている人が数多く存在する。もちろん、疾患のために転職を余儀なくされた人、職場の側からリストラされた人もいるが、いわゆる性格的に長続きしない人、職場の人間関係がうまくいかないとすぐに辞めたくなってしまう人がたくさん含まれている。職場を転々とした挙句、「続かないので生活保護を受けるのに、診断書書いてください」と初診でおっしゃる若い人、は極端としても(実際に疾患があって通院治療を続ける気なら、話は違ってくるが、こういった人は一度診断書さえゲットしたら、二度と来るつもりがなかったりする。本当に病気で仕事が出来ず、一定期間治療をしても改善が見込めないのか、という判断は、簡単には出来ないし、治療を受けるつもりがなかったらなおさら出来ない)、どの仕事をしても、どの職場も自分には向いていなかった、などとおっしゃる。話を聞いていて、「興味が持てて、楽しくて、やりがいもあって、自分の苦手な上司も同僚もいなくて、自分より仕事のできる新入りが入ってくることもなくて、みんな話を分かってくれて、お洒落で、社会的地位も高くて労働時間や賃金の条件もよくて、いつも決まりきった仕事でなくて、創造性があって、個性が活かせて、という仕事や職場がそんなにあるだろうか?」と思う。多分、その考え方で行くと、どの仕事も合わないだろうな、と思わざるをえない。というより、やる前から自分に合う仕事、なんて絶対ないと思う。で、確かにこう思うので、多くの医者は、今の仕事を辞めようとしている患者さんにこう言う。「まあ、そう言わずに、もう少し続けてみたら?」「せめて、次の仕事の目処がついたら、辞めてもいいけど、あまり焦って決めないようにね。」「辞めるのはいつでもできるけど、次が思うようにあるとは限らないよ」だけどね。一番職を転々としているのは、アンタたちだよ、お医者さん。医局派遣か何か知らないが、数年であっちこっち動いているのは、誰さ?ちょっと嫌なことがあると、どうせじきに変わるからいいやとか、医局に異動希望を出せばいいやとか、思ってるよね。確かに私だって職場の愚痴をこぼすことあるよ。でもそれを聞くと周りの医者たちは「よくそんなところでガマンしてるね。僕だったらすぐ替わるのに」とか言っちゃってさ。職場で嫌なこと、上司が気に食わないこと、他の医者にむかつくこと、看護師の陰口に腹立つことなんて、いくらもあるさ。でもね、私がそれを理由に替わったら、患者さんたちに迷惑がかかる、例えばそのむかつく他の医者が次の主治医になって、自分の患者さんたちを診るようになったらどうなるか、って考えると、簡単に辞められないんだよ。世の中には、人格的な偏りのある患者さんを、なんとか療法をやります、と称してたくさん集めている精神科医がいる。私があの人たちを見ていて、腹が立つのは、さんざん偉そう言っといて、最後に診きれなくなると放り出して、逃げること。紹介状を書いていきなり押し付けられたって、そういう患者さんたちは、前医を心から信奉し、それまでの方針を継承して欲しいと願っている。入院でお願いします、と言われることもあるが、それまで外来で何年もやってきた末にこうなるって、自分の治療の失敗じゃないのか。同じようにやってください、と言われたって、考え方も違うし、真似はできない。で、自分は転勤して逃げる。何度も自分の患者さんをゼロからリセット。特に××保健センター、みたいな一般の患者さんを診ない施設に異動しちゃえば、どんなに患者さんたちが追いすがろうと、逃げられる。さんざんいじって、症状をさらに開花させて、診きれなくなって逃げるなら、最初からやれません、と言うか、深い部分には触らずに社会適応を維持するべきじゃないのか。こういう精神科医に限って、「私のカウンセリングでよくなります」などという安請け合いをして、治療の失敗を認めない。それどころか、他へ送って途端に何かが起きると、まだ転勤前だからと相談に行った家族に「そちらの医者の言動に原因があるんじゃないんですか」などとしらっと言う。こっちは一応医者の世界の仁義として、本音ではいろいろ思っても、表立った前医の批判や、患者さんがこれまで受けてきた治療の否定をしないようにしているのに。職を転々としている連中が、自分のことは棚に上げて、患者さんには職を変えないように言っている。医者にはそんなこと言う資格、ない。
2006年12月13日
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セクハラについての記事でスキ(隙)の有る無しの話を書いた。セクハラを受けにくくするためにも、スキのコントロールは大事。裏を返せば、スキを見せるか見せないかのコントロールが自由自在にできる女性は、モテる。どこでもスキを見せればいいのではなく、ここぞというと時、自分が振り向かせたい男性の前でだけ、スキを見せる。スキを見せる、と言ってもチラ見せ。普段スキのない女性が一瞬、特定の男性の前でだけ意外な一面を見せてこそ、絶大な効果がある。「あれっ?今のって?まさかね。違うよね。」と思わせるくらいで関心を引くのがいい。いつもスキだらけでは、魅力を感じないもの。積み重なって「ひょっとして、そうなの?」と思わせられたら、勝負あり。何かのきっかけで2人きりになって、ちょっといいムード。でも後で気まずくなっては困るから、はぐらかしてみたり、見つめてみたり、目をそらしたり。(なのに、なぜかセクハラ上司と2人きりになってしまっても同じことをしてしまうあなたは、ご注意。)モテる女性は、こういう時のふっとしたスキを演出するのも上手だ。その後どれくらいお付き合いが続くか、という問題は別として、これができれば、意中の男性をとりあえず振り向かせるまではイケるんじゃないか、と言ったら、言いすぎかな。普段はスキがなくて前向きだけど、いろんなことに危なっかしいほど純粋に一生懸命で、時にハラハラさせられて、ふとした時に守ってあげたくなる女性が気になって仕方ない男性は、多いみたいよ。
2006年12月12日
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先日、学校に個別面談に行ってきたが、そこで恐るべき事実が発覚。...2学期になってから、うちの娘はしょっちゅう宿題を提出していなかったのである。娘は、とにかく、物の管理が悪い。まず、自分で揃えた時間割をこっそりチェックすると、まともに揃っていた例がない。かといって、そこで母親が揃えなおしては、ますます自分できちんと揃えなくなってしまうので、朝起きてから、「●●と××が入っていないけど?要らないの?」と尋ね、自分で入れさせている。明日の時間割でなく、今日の時間割がそのまま入っている日もあれば、全部ランドセルに詰めて往復すれば、時間割を毎日揃えなくてよくなる、と思ったのか、全部の教科書とノートがパンパンに入っている日もあった。筆箱の中身は、いつも指摘しないと、削らない。学校から持って帰ってくるべきものを持って帰ってこないこともしょっちゅう。食べかすのついた箸なんて日常茶飯事。持ち帰るべき給食袋を置いてきて、置いてくるべき歯磨きセットを持って帰ってきてしまう。朝持って出た筆箱の中身が、揃ったまま帰って来た例もない。鉛筆は本数が減るし、赤青鉛筆は持たせても持たせても(学校で販売した丸軸だと転がって余計に紛失するので、別に工夫して六角軸のものを探して持たせている)紛失し、ある日突然見つかった、と大量に持って帰ってくる。消しゴムは最高、1週間(と言っても5日間で)のべ4個紛失した。やっと消しゴムを持って帰って来た、と思ったら、しっかり隣りの子の名前が入った消しゴム。鉛筆の本数が足りない、と思うと、手提げの底やランドセルの底から、むき出しで発見。ランドセルも、手提げカバンも芯で真っ黒になる。手提げやランドセルならまだいいが、ズボンやスカートのポケットにむき出しで突っ込んであり、洗濯機に入れてしまったことも数え切れない。息子の教科書が見つからない、と思ったら持っていたり、隣りの子の教科書を何日も持っていたり(ちゃんと、翌朝返すように言うのにまた持って帰ってきてしまう。しまいに謝罪の付箋をつけたのに、わざわざ外して返してきた)、自分の教科書を隣りの子が持って行ってしまっているのに何日も気づかなかったり、我が子ながら了解不能。体操服なんかも、せっかくちゃんと持っていったのに、フックにかけたのを忘れてたり、手提げの中を探さなかったりして、「持ってくるのを忘れました」と言ってしまう。忘れても、今の先生たちは優しいので、怒られない。娘も、別に困らないもん、借りられるもん、見せてもらえばいいもん、と平気。私が小学生の頃なら、殴られたろう。私自身は忘れ物を1年で数えるほどしかない子どもで、ちょっとした忘れ物をしただけで、「ああ、どうしよう」と困り果てたものだ。宿題も、その延長なのだ。やって行かないわけではない。時間割チェックをすると、採点済みのプリントとか、未採点のおそらく提出すべきプリントが、ランドセルの底で教科書の下敷きになって、しわくちゃになって発見される。朝「これは、持って行くの?出すの?済んでいるの?」と私が大慌てで選別し、クリアファイルに挟んだりして持たせている。やっていないプリントが発見されたことはほとんどない。だから、私は提出しているものと信じていた。担任の先生が言うには、娘はすぐに「宿題を失くしました」と言って、新しいプリントをもう1枚もらい、その場で5分くらいでやって、出すのだと言う。「こんなにすぐできるんだから、家でやってくればいいのにと思ってました」と言われてしまった。つまり、探さないのだ。探そうとも、しないのだ。家でも探し物は、下手。しょっちゅう物を失くすので探しているが、しまいに私が彼女の探し終えたところ、もしくは彼女がそこにだけは絶対無い、と言い張るところを探すと、出てくる。そういうところを私が探そうとすると、癇癪を起こして泣き喚くが、たいてい、そこから出る。多分、家でも探していない。宿題も提出していないくせに、やたらに自信過剰で、もう漢字は書けるとか、英語は全部読めるとか(実際はアルファベットが読めるだけ)、鉄棒も出来るとか、息子に威張っている。それでいて何か息子のほうが優れたことを、親が褒めると、滅茶苦茶怒る。女の子はこれくらい図太いほうがいいか、と最初は思っていたが、ちょっと度が過ぎる。人の話は何も聞かず、自分が喋りたい、勝手なことを喋っている。毎日、今日学校で何を学んだか、1時間目から順に言うのが日課だが、娘はすぐに、▲▲くんが何か余分なことを言って先生に怒られた、とかいうように授業の内容から話がそれてしまう。この間は、何故か遠足の作文を書いていたのに、帰宅してから、夕食にじゃがいもを食べた話になり、じゃがいもは北海道だ、という話になり、そこから夏休みにした北海道旅行の話になり、しまいにはうちのお母さんはよく怒ります、という話になり、全部で原稿用紙10枚を超える大作を書き、1枚目の半分のところで、先生に「ここまででいいです」と赤ペンを入れられた。はー、先が思いやられる。
2006年12月11日
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不謹慎な言い方かもしれないが、私は、統合失調症(シゾ)の患者さんたちの話を聞くのが好きだ。うつ病ばやりの時代、「これからの精神科医は統合失調症をやってもダメだ」と言うエライ先生もいらっしゃるが、私は精神科医の一番基本の疾患は今でも統合失調症であり、統合失調症を診るのが嫌いな精神科医は、精神科医ではない、とまで思う。ところが実際は、統合失調症を診るのが嫌いな精神科医はとても多い。クロールプロマジンだけしかなかった時代に初期治療を受けて、慢性期に移行し、人格水準が下がってしまった患者さんたちが、半世紀近く経って帰るところもなく退院できないのは仕方ない。この頃、というのはとにかくみんな入院させて、最後まで面倒を看ましょうと約束した時代。自宅で座敷牢に入れる代わりを、病院が引き受けていた。今さら自宅に帰そうとしても、家族にもうその心構え、準備がない。ほとんどの身内が、高齢の兄弟姉妹、遠縁。もう、その患者さんが入院していることが前提、の生活スタイルが完全に出来上がっている。患者さんを帰れなくした犯人は、医療機関そのものだ。だが、ハロペリドール、さらに非定型抗精神病薬(リスペリドン、オランザピン、クエチアピン以降)開発後に発症した患者さんも、どうせよくならない病気、とシゾ嫌いの医者自身が思っているのか、病棟に放り込んだらそれっきり。きちんと薬を使えば、うつ病以上にコントロールしやすいと思うのに。シゾの患者さんというのは基本的に嘘のつけない、善良な人々だ。症状としての思考障害があるので、非常に嘘をつくのが、ついたところで隠し通すのが、難しい。普段は無口で、症状が悪化すると突然粗暴性が出る可能性のある男性患者さんを先日診察していたときの会話。「先生、そんなに動き回って大丈夫なの?」「どうして?」「先生、お腹に赤ちゃんいるんでしょ。」「いないよ。これは全部、お腹についた脂肪!」「えーっ、いるんでしょ。そんなこと言って。」....どうしても信じてくれない。私はしまいに診察室で自分のお腹をバンバン叩いて、「ほら、これで信じた?」....いったい何をしてるんだ自分。「分かった分かった。妊娠してないんだ。」「そうそう。」「先生、顔は綺麗なんだから、痩せたら美人なのに。」....言葉を失った。思ったとしても、こういうことを本人の前で口にしてしまう、というところがシゾの思考障害、であることは確か。でも私が妊娠しているというのは妄想なのか、いや傍目に見てそう思えてしまうのが自然なのか!?私の顔が綺麗と思えてしまうこと自体が認知の歪みなのか!?考えたら訳が分からなくなってきた。妄想の世界は奥深い。日本人の場合、自分は天皇だとか、皇室の血を引いている、という血統妄想のある患者さんはとても多い。病棟で、「天皇陛下」同士が「おはようございます」と挨拶していることはよくある。他には日本語しか喋れない「ナポレオン」とか、「火星人」を知っている。採血や注射、点滴のたびに拒否して大騒ぎになる患者さんがいた。自分の時だけではない。他の患者さんがされているのを見ても、「病院は人殺しだ」と大騒ぎになる。なかなか理解できなかったのだが、何度か診察するうちに、「彼の世界」が分かってきた。人間には心臓があって、そのポンプ作用によって、全身の弾力性のある血管に血液が送り出され、また戻ってくる...という当たり前の概念が、彼にはなかった。血液というのは、人体内で作られるから、減っても時間が経てば補充されるし、水分過多になれば、腎臓で漉されて尿となって排泄される、という概念もない。彼にとっては、全身に血管と言う、硬い、閉じた細い入れ物がある。その中を決められた一定量の血液が、充満している。そんな中から血液を抜いたり、充満しているところに無理矢理注射や点滴で、液体を入れるとは!彼の世界は、訂正不能。彼はその世界の中で彼なりのバランスをとって生きている。彼の定期的な採血検査は中止し、必要時に最低限行うことにした。不謹慎かもしれないが、聞いていて面白すぎる。他人にはこんな世界もあるのだ、と自分のキャパが広がる。一般人のちょっとやそっとの話では、驚かなくなる。医学は、医療は、日々進歩し続けている。あと10年もすれば、抗うつ薬は、もう2世代進化するだろう。そうすると、うつ病で入院、はなくなる時代が必ずやってくる。ストレスケア病棟の増床が叫ばれているが、そんなものはここ数年の風潮に過ぎないとまで思う。安全で万人受けする抗うつ薬が出たら、うつ病は内科で治療するのが当然の時代になってしまう。うつ病流行りの世の中で、こんなことをいうのは時代に逆行するかもしれないが、今、統合失調症の患者さんを大切にしない精神科医が、しっぺ返しを食う時が必ずやってくる。統合失調症だけは、永遠に精神科領域だから。
2006年12月10日
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子どもを連れて10年ぶりにミュージカルを観に行ってきた。帰りが遅くなったら子どもがどうしてもお腹が空いたと言い出し、主義に反するがマクドナルドへ寄った。匂いを嗅いでいたら私も小腹が空いてきたが、ここで食べたらさらに大きくなってしまうのでぐっとこらえた。ミュージカルを観たのが10年ぶり、というのは、別れた夫がそういうものを嫌いだったから。練習を積んだ役者が、一糸乱れず舞台で踊ったり歌ったりしているのを観ると、「軍隊みたいで」吐き気がするそうである。私自身は好きなのだが、結婚式&旅行に出かけた先で「キャッツ」を観たら、元夫には耐えがたかったらしい。舞台が進むに連れて不機嫌になり、やばいな、と思っていたら、握手に来てくれた「グリザベラ」にそっぽを向きよった。「四季の会」にも入っていたが、元夫とともには楽しめないとなると、一人で観にいくのもなんなので、いつも母や姉、甥の分のチケットをおごっては、一緒に行ってもらっていた。やっと、演目によっては子どもも一緒に楽しめる年齢になった。子どもは「美女と野獣」のディズニーアニメが大好きなので、またやって欲しいな。感激屋の娘は、休憩を挟んだ前半と後半、両方で泣いた。息子は最初、落ち着かなかったので、一瞬元夫と観た時の悪夢がよぎったが、途中からは夢中になって観劇した。ポケモンやアンパンマンの映画に付き合うのは辛いが(私が寝てしまう)、一緒に楽しめるものをひとつひとつ見つけたい。元夫とは、趣味が違うようにしたい、という意図も、ちょっとだけ働いていたりして。
2006年12月09日
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今日は普段より、少しだけ専門的な話。読みにくかったらごめんなさい。多分私は、平均的な精神科医に比べて、薬の処方量が少ない医者である。ただし、精神病圏の患者さんで、もう長年、多剤大量療法(昔、主流だった)をやってきて、それで落ち着いている方に冒険的に減量を試みることは、あえてはしない。効いている量まで出ていない薬や、どう考えても無意味と思われる薬、後から述べるが無駄に多い副作用止めを減らすにとどめる。よく薬局に、「先生の処方は実に素直で綺麗な処方ですが、一度に日数を出すと調剤に時間がかかるのでやめてください」と言われる。落ち着いている患者さんだと、4週間~6週間処方でやっている人も多いので、そうなってしまう。真夏の暑いとき、真冬の寒いときなど、高齢の患者さんだとつい、間隔を目一杯空けてしまう。もちろん、悪くなったときはいつでも来ていいと伝えてあるが、バスの乗り換えをして山間部から出てくる高齢の患者さんに、2~4週間おきに来い、とは言いたくない。真冬ならインフルエンザも流行る。凍った道でこければ、そのまま寝たきりにもなろう。普段は4週だが、過酷なシーズンは8週から12週、処方を渡している。特に、私の睡眠薬の処方の少なさは、特筆ものかもしれない。睡眠薬が少ない、いや睡眠薬を処方していない患者さんがほとんどだからこそ、2週間を超えて処方できるのだ。(睡眠薬の大半は、保険上一度に2週間までしか処方できない。)いつもいつもどんな薬でも処方量が少ない、というわけではない。薬と言うのは、きちんと効く量まで出さないと、意味がない。例えば初発または再発した統合失調症のケースでは、初期投与量から間もなく、かなり思い切った量(と、一部の人には見えるらしい)の薬を出す。最初は多少フラフラになっても、眠り続けても、ゴハンがあまり食べられなくても、しっかりした量を効かせる。不思議なことに、処方量を減らしていないのに1週間位すると、皆さんちゃんと起きてこられる。しばらくその量を維持したら、今度は薬の整理を始める。最初にどーんと鎮静をかけるために出したような薬を慎重に減らし、種類も整理。精神病圏に睡眠薬やマイナートランキライザーを使うことは、基本的に意味がないので最低限に。結果的に、そのほうが予後がよい。入院期間も短い。社会適応もよい。いわゆる古典的な抗精神病薬であっても、きちんと使えば、ほとんど見た目には精神病と分からない、本当に普通に生活・仕事をされている外来患者さんがたくさんいる。遠慮がちに遠慮がちに処方をし、それで症状が抑えきれないと、また薬を増やす、というような後手後手に回る治療をしているドクターは、どんどん薬の量と種類ばかり増えてしまって、それでいて症状がよくならない、という事態に陥る。はっきり言ってしまうと、一度後手に回ると挽回はかなり難しい。でもって、副作用の薬剤性パーキンソニズム(小刻み歩行や手の振るえなどが代表的症状)ばかりが目立ってしまい、副作用止めの薬もどんどん増える。だが、実はこの副作用止めの薬自体が、抗精神病薬に相反する作用を持つわけだから、幻覚や妄想を誘発する。副作用を怖れるのか時々副作用止めてんこ盛りの処方を見かける。抗精神病薬の種類と量を考えても、どう考えても副作用止めが多くて、どちらをメインにのませているのか分からない、処方だ。副作用止めが多ければ多いほどよい、安心、副作用止めには害がない、と勘違いしているんじゃないかと思えるほど。またそういうドクターに限って、マイナートランキライザーの処方が多い。副作用が少なくて使いやすいのかもしれないが、小手先の処方調整は薬の種類ばかり増やす素。抗うつ薬も、基本的には、きちんとした量をのまないと、効かない。また、以前にも書いたが効き目が現れるのには3週間ほどかかる。本当にシンプルにうつ病なら、フルボキサミンは150mg/日3週続けてのんで初めてなんぼ、ミルナシプランは100mg/日3週続けてのんで初めてなんぼ、という薬だ。パロキセチンだけは、ちょっと違う考え方をしている。今をときめくパロキセチンは、病名によって40mgとか50mg/日まで保険適応になっている。だが私は、パロキセチンは基本的に20mgで勝負する薬だと思っている。20mgである程度効果が認められたが、もう一歩効果が欲しい、という時に初めて30mg使う。20mgで全く効果がない時は見切りをつけるべきで、諦めずに40mgとか50mgとか使う薬ではないと思う。このパロキセチンという薬は、とてもいい薬だと私も評価しているのだが、合う患者さんと合わない患者さんがはっきり分かれる。大体、第一印象で分かるのだが、昨今内科医が1stチョイスで安易に処方しているケースが多い。合わない人にのませると、衝動性が暴発するから、パロキセチンは専門家以外には難しい薬。内科医からの紹介で、元はおとなしかった人が手をつけられなくて入院か、というケースは、たいてい紹介状を見なくても「パ●●●出てるでしょ」と言うと当たる。パロキセチンによる自殺の誘発がマスコミでも話題になったが、何を今さら、と思った。もともとそういう薬なのは判っていた。売り込みに来る薬屋さんにも、パロキセチンは内科医でも安心して1stチョイスとして処方できる薬です、なんて売り方はしないほうがいい、相手を間違えずに使えばせっかくのいい薬なのに、売り方で評価を落とすことに繋がるよ、ということは言ってあげていた。なのに、薬屋さんは煙たいと思ったのか、他のドクターのところにばかり売り込みに行くようになっていた。「40mgまで使えるようになりました。それくらいで効果がよく出るのでぜひ試してください。」「50mgまで使えるようになりましたので、しっかり使ってみてください。」だから、その売り方が、ダメなんだって。精神病圏の睡眠障害なら抗精神病薬で何とかすべき、うつ病圏の睡眠障害なら抗うつ薬で何とかすべき、睡眠薬は、一時しのぎにすぎない。私はそういう考え方だから、睡眠薬の処方がいやでも少なくなる。先日、ある紹介患者さんの処方を見て、私は気分が悪くなってしまった。抗精神病薬が新薬である非定型抗精神病薬3種+古典的なものが2種。抗うつ薬が、上記3兄弟一通り極量まで+1種。マイナートランキライザーが、4種。それとほとんど化学的に同じ種類の睡眠薬が3種類。副作用止めが、てんこ盛り。何をしたいのか判らない処方だが、統合失調症の論文を数多く発表しているような先生だ。思わず「本当に統合失調症だけなんですか?」と確認の電話をしたら、私のことをずいぶん失礼だと思われたようで、大変機嫌の悪い口調だった。私が見ただけて気分が悪くなった処方を、服用している患者さんはもっと凄い。外来で引き続き治療をしろと言うことだったが、とてもじゃないが一度たりともこんな処方を出すことはプライドが許さないし、生理的にも受け付けない。患者さん本人はこれだけ薬をのんでいても完全に昼夜逆転生活をしていて、全く社会生活、家族との日常生活のない状況。これは外来でなく、入院で薬を整理するよう勧めよう、と方針を決めたが、頭がクラクラ、吐き気がして、手足が冷たくなってきてしまい、なかなか診察にかかれなかった。紹介状を見ただけで自律神経症状をきたしたのはコレが初めて。まだまだ修行が足りませぬ。この患者さんは、といえば抗うつ薬とマイナーを無事に全廃し、抗精神病薬を3種類まで絞ってピシッと使ったら、退院後もう少し時間がかかったが、昼間起きて家族と生活できるようになった。論文の統計に、この患者さんも入っているんだろうなと思ったけど、統計をとるよりひとりひとりの患者さんに、もっと大事なことがあるような気がした。
2006年12月08日
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外来に来る患者さんが初診でよく訴えてくる。「今の私は本当の私じゃないんです」「学生時代はいじめられていましたが、ある時自分の『性格』を努力して変えたんです」「その後ずっと無理をしてやってきたので、疲れてしまいました」「どれが本来の自分なのか、もう分かりません」「私には、自分がないんです」...そういう転機って、誰しもあるのではないか。少年少女期から青年期へ移行する過程で、対人関係のあり方を見直す時期が。そういう患者さんたちには、こうお答えしている。「努力して作り上げたあなたも、その前のあなたも、どちらもあなた自身ですよ」「今ここにいるあなたが、そのままあなた自身なのです。それでいいのですよ」私自身にも、転機があった。中学校に進学しても、小学校とほとんどクラスメートは同じ。小学校時代、クラス替えのたびに、一番いじめる子どもと同じクラスになったが、中学1年でも、また同じ。見かねた母親が進学してすぐに、中学の担任教師に相談に行った。ある日突然、私のことをしょっちゅう殴っていた、「十で神童...」の教師に小学校へ寄るように、呼び出された。...やっと縁が切れたと思ったのに、まだ、何か言ってくるつもりなのだろうか?小学校時代の担任は、中学の担任から、私へのいじめに関する問い合わせを受けたと言うのだ。そして、「いじめられているなんて、全然気づかなかった。問い合わせを受けても何も答えられなかった。申し訳なかった。」と謝罪した。私は、とても冷ややかな気持ちで、元担任教師を見ていた。...あんたが、いじめを助長していたのに、よく言うよ。「中学ではどうだ?」などと訊いてくる元担任にたいして話もせず、「もう、いいです」と言い捨てて帰った。元担任の心の中では、この謝罪で片がついたものとして、忘れ去られているようだが、私は一生忘れないと思う。今、大人になって振り返ってみても、小学生の子ども相手に、あんなにすぐにキレて手が出るというのは、元夫と同じくらい尋常ではない。その後元担任がどこかの教頭、校長になれることがあったかどうかも知らないが、ここ10年くらいだったら、マスコミからも教育委員会からも、タダでは済まなかったはず。中学になってからも、いじめは続いた。私のあだ名は、「天才さん」「コンピューター」「計算機」。これは成績がよかったからついたのだろうが、敬意を含んだあだ名ではないことは分かってもらえるだろう。嫌味が感じられて、大変な苦痛だった。自分が勉強が出来るということがイヤでイヤで、出来なかったらどんなにいいか、と思っていた。テストを前にして、何度も白紙提出しようかと悩んだ。課題ができた者から提出するような時、一番に終わってしまっても出しに行くことができなくて、他の誰かが先に行くのを待った。ところが、そうすると、先に出した子どもが今度は「あの天才に勝ったぞ」とはやし続けるのだ。それはそれで辛かった。英語の弁論大会のクラス代表を選出する時、自薦他薦で候補者を出し、その中から多数決をすることになった。そうすると、後ろでひそひそ囁かれるのが、聞こえてくる。「じゅびあのところで、多数決になったら、誰も手を挙げないで、『シーン』ってやってやろうよ」私はもちろん、自分から立候補できるような性格ではなかったから、他の子が手を挙げて「じゅびあさん」と言い、候補者として黒板に名前を書かれる。そして、計画通り、多数決の時には、私には誰も手が挙がらない。名前を挙げた子も、他の子どもに手を挙げる。「シーン」とやって、私のことを支持する者はいないということを明らかにすれば、クラスメートは満足なのだ。その時、クラス代表になった女の子は、今頃どこかで心臓外科医をやっているはず。ようやく、中学1年の終わる頃になった。次からは、もう少し恵まれたクラスに入れるだろう、と私は期待していた。そんな時、1年生の担任が、クラス全員の名簿を一人一枚ずつ、渡した。「自分を除くクラスメート一人一人、全員のいいところを書きなさい。」書かれた名簿は回収され、一人一人の欄がバラバラに切り離され、自分について書かれたものが、2つ折の画用紙に貼り付けられて、戻ってきた。もちろん、原則誰が何を書いたかは、分からない。筆跡で分かるものもあったが、無記名。大半のクラスメートたちが思う私のよいところ、は思ったとおりだった。「天才」「計算機」「コンピューター」。初恋の男の子にも(筆跡で分かった)、「コンピューター」と書かれて悲しかった。ぽつりぽつりと「やさしい」「分からないことを教えてくれる」と書いてくれた者がいた。一番最後に、担任教師のコメントがあった。「じゅびあはとても優秀だし、それはとても、いいことだ。でも、それがあまりにも目立ってしまって、他の面が気づかれにくくなってしまう。勉強が出来るのと同じくらい、目立つ個性が出せるとみんなじゅびあのことを分かってくれると思うよ。」私はそれを見て涙が出たのを、よく覚えている。当時の担任は、私のことをよく分かってくれていたんだ。中学2年になって、私は初めて比較的穏やかなクラスに恵まれた。それまで仲間外れ同士で固まるような友達しかできなかったが、初めて友達らしい友達が出来た。授業で、2人組とか、4人組とか作らされても、やっとアブれなくなった(←これって、方言?)。この年は、多少大事にならない程度のイタズラもしたし、クラスメートが教室でキスしているのをベランダに隠れて覗き見してからかったりしたし、仲よし4人組で随分いろんなことをやった。中学3年になって、また一部、昔イジメをしていたクラスメートと一緒になった。だが、この時には、前の年からの友達がいた。1学期は、何度かはやし立てられたりすることがあったが、2学期以降は苦手なクラスメートがいても、トランプゲームなどに自ら加わって、負かしたりした(代表的なゲームは、今でも強い!)。勉強だけでなく、行事などにも率先してアイデアを出したりしてみた。そうこうしているうちに、「じゅびあさんって、面白いじゃない」といじめられなくなった。クラスの中に何人か、受験前だから、と修学旅行や運動会の行事を欠席して休み時間も片時もなく勉学に打ち込む女の子がいたので、非難の対象がそちらへ向いた、ということもあった。そのうちの一人は、中1の時英語弁論大会でクラス代表に選ばれた子。「じゅびあちゃん、あの子たちだけには負けないでね」とかつてのいじめっ子たちが言うようになった。あの年頃の女の子たちは、残酷だ。公立高校入試の前には、クラスメートたちが、「じゅびあちゃんの頭、お守りに触らせてよ」と集まってきた。髪の毛をくしゃくしゃにされた。「お願い、ちょうだい!」と髪の毛を1本抜く子もいたが、もはやいじめとは感じなかった。今思えば、あの中学1年の終わり~中学2年のあたりが私の転機。その時作り上げた対人関係の作り方は、今の私にも生きているように思う。「勉強で目立っちゃうのなら、それ以外のことでも、もっと目立ってごらん。」そう言ってくれた中学1年の時のU先生。私にとって一番の恩師は、あなたです。
2006年12月07日
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今日は午後から仕事休み。小学校へ面談に行かなくてはならないから。行く前にちょっと一息。先日、私が帰宅すると、息子の担任教師から連絡があった。息子が、給食の時間に後ろの席の女の子のタイヤキをつついて落としてしまったと言う。結局手をつけていなかった息子のタイヤキをその女の子にあげ、息子には、嫌いで食べられない子に、半分だけ食べるように切り分けた残りの半分を食べさせました、そういう対応をしましたのでよろしく、謝罪して問題は解決していますので、相手の女の子のおうちにお母さんから電話をかけたりする必要はありません、と言われた。また担任教師が理由を訊いても言わないので、お母さんからもよく話を聞いてあげてください、とのことだった。担任の先生には電話口で「本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません」と平謝りした末、息子に理由を訊いてみたが、やはり言わない。「ふざけていただけ?」と尋ねると「そう」と言うだけ。少し時間を空けて、一緒に風呂に入っているときに、訊いてみた。「Mちゃんのことが嫌いなの?」「ううん。」「じゃあどうして落としてしまったの?自分がそんなことをされたら、イヤでしょう?」「うん....だって、Yくんが、後ろから叩いてきたんだ。」「Yくん?Yくんがどうして出てくるの?後ろの席はMちゃんじゃないの?」「後ろの席はYくん。Mちゃんはその隣。」「Mちゃんが斜め後ろなのね。」「そう。」「Yくんは、何と言って叩いてきたの?」「Mちゃんのタイヤキを落とせって。」「それで、やってしまったの?叩いてきたら、イヤだ、止めてって言わなかったの?」「言ったよ。でも、また叩いてきたんだ。」「全部で、何回叩かれたの?」「4回。」(涙...)「Mちゃんは、そのこと分かっているの?」「隣だから、ずっと聞いていたし、知っているよ。」小学校低学年で、もう来たか、という感じだ。いじめというトラブルは昨今のマスコミを賑わせているが、こんなのは今に始まったことじゃないし、どこにでもある。うちの学校にいじめはない、事件が起きてからも把握していなかったという学校があるが、いじめなんて無いはずはない。あることを前提に、最初から考えるべきこと。児童が大勢集まれば、その中で、立場の強い子、弱い子、仲間外れになる子は必ずいる。私もこれくらいで、息子がいじめられたと騒ぐつもりは無い。息子には、「自分が正しいと思うことしかしてはいけない」と強く教えた。たとえ、他の人から言われても、正しくないと思うことをしたら、それは自分の責任だよ、と。そして担任の先生には、事情をお話したところ、相手のYくんに確認してくれたそうである。さすがにまだ小学校低学年。あっさり自分が言って叩いたと白状してくれた。もう少し学年が上がると、知恵がついて「そんなこと言ってない。アイツが嘘をついているんだ」と言いかねないが。この一件は落着したが、うちの息子も人から言われるとノーと言えない性格である。この前も、2日後に音楽会で使う手作りのお面(紙製。ほとんど私が作った)を、見本にしたいから貸して、という女の子に持たせてしまった。しかも、雨の日に。Yくんには他の時にも、「やってこい」と仲のよいお友達と喧嘩を命じられたことがあるそうだ。横で聞いていた娘(こちらは、大変気が強い)が「そうだよ。Yくん強いし、いつも上級生の強い子と一緒にいるもん。怖いよ。」と言っていた。とりあえず、芽はひとつひとつ摘まなければならないが、先を考えると気が重い...。こんなことがあると、先生との面談も、仕事があるので辞退、というわけにいかない。私自身、幼稚園から中学1年まで、いじめられっ子だった。周囲は、今の私から想像がつかない、というが、本当に暗い暗い小学校時代を過ごした。学校が楽しいと思ったことはないが、学校は行かなくてはならないものと思っていたので、不登校はしていない。毎日毎日クラス替えの日や、卒業の日を指折り数えて待っていた。今だから言えるが、小学校時代、私はお勉強が、かなり飛び抜けて出来た(笑)。だから私の幼少時代を思い出す人も、いじめられっ子としての私より、優等生としての私を思い出す人が多くて、毎日学校へ行くのが辛かったと言っても信じてもらえない。担任教師もいじめられているという認識が無かったようだ。例えば、遠足が雨天中止になって、教室でお弁当を食べる。お菓子も持ってきていたが、自分のクラスは食べるの禁止、隣のクラスは食べてOKだった。休み時間に隣のクラスに連れて行かれた私は、こっちのクラスはいいんだって、食べなよ、と自分のクラスの子にしつこく勧められる。断りきれないのと、断るとまた「じゅびあはいい子ぶっている」といじめられると思う私は、お菓子を口にしてしまう。私を連れてきた自分のクラスの子も、食べる。ところが午後になって、担任教師が「禁止されているのにお菓子を食べた奴がいる」と言い出す。そうすると、私を隣のクラスに連れて行った子が手を挙げて言う。「最初に食べたのは、じゅびあさんです。頭のいいじゅびあさんが食べたので、私もいいと思って、食べました。」掃除の時間、教師の目が届かないと、男の子たちなどはほとんどふざけていてやっていない。長ボウキと、紙くずで、ホッケーをしている。ほうきの役を取れる子は、クラスの中でも強い立場の子。私は雑巾だったが、ホウキの子たちが掃除をしないのだから、雑巾がけをやりようがない。仕方なく、廊下と教室の間のガラスを、別の子と向かい合って拭いていた。どうせなら楽しく拭こうと、交代で、片方が拭いたところをもう片方が鏡のように合わせて拭いていた。そこへ、突然担任教師がやってきた。担任教師は私の姿を見るなり、「掃除の時間に、何をふざけてやっている!」と怒鳴った。それまで掃除をせずふざけていた子たちは、突然しーんと静まり返り、黙々と掃除をしているフリをし始めた。私は近視だったので、眼鏡をかけていたが、こういう時すぐこの担任は、「じゅびあ、眼鏡を取れ」と命令する。眼鏡を取らせるのは、殴るため。首を曲げてどちらかの頬を上に出すと、容赦なく上からビンタがとんだ。私はこの時、机2~3個と一緒にひっくり返り、鼻血が出た。不思議なことに、この時一緒にガラスを拭いていた相方にはお咎め無しだったが、卒業してから、そちらのお母さんはずいぶん何度も担任のところに通い、いろいろ個人的なお願いをしていたと、うちの母が知ったそうである。本当に、しょっちゅうこの担任には顔を殴られた。授業中、隣の男の子がちょっかいを出すので、止めてよ、止めてよ、とやっているうちに廊下に立たされたこともある。廊下に立たせるといっても、その教師の授業だけではない。私の学校は科目担任制をとっていたから、次の時限になれば別の教師の授業だったが、それすら受けさせてもらえず、担任の気が済むまで、教室に入ることを許されなかった。1日のうち半分授業を受けていない、ということも、ざらだった。何事も無く1ヶ月過ごす、ということはなかったんじゃないかと思うくらい、よく殴られ、廊下に出された。それでも勉強だけはできたから、余計担任には気に入らなかったらしい。授業でやることなど、その時間だけで全部頭に入ってしまい、家で勉強する必要なんてなかった。多少授業を聞かなくても、考えれば分かった。教科書は、学年の初めにもらうと、面白くて一度に全部読んでしまい、後は二度と開かなかった。テスト前に、何故勉強する必要があるのか、理解できなかったくらいだったから(笑)。その担任が、ある時こう言ったのを覚えている。「十で神童、十五で天才、二十歳過ぎたらただの人、というが、今勉強の出来る奴は、将来必ず落ちる。今、下のほうにいるやつほど、後になったら上へ行ける」クラス全員の視線が、私に突き刺さった。さらに丁寧に、担任は、地元の進学校いくつかの名前を挙げて、どこの小学校で学年1番、中学で学年10番、某高校で学年200番、というように、実例を説明し始めた。ものすごく、傷ついた。担任によるイジメだ。私は、将来ダメになるのだ、と思った。その後国公立大学の医学部に現役合格したとき、恩師全員に電話で報告をした。この担任教師のことは、かけらも恩師だとは思っていないが、電話をしている。「お前の予想通りにはならなかったぞ」と言いたかっただけなのだ。この時の担任は、自分がイジメに加担していたという意識は全く無いようだ。電話したときも、「それはすごい。よかったな。どんな風に勉強したんだ?」という調子で、私は拍子抜けした。この担任は、小学校高学年のときの担任だが、卒後20年の節目の同窓会で、どうやって仕返しをしようか、私は20年間考えてきた。ところが、20年目、いよいよ、というときに同窓会は30年が節目と知った。また、宿題は残っている。法律に触れないギリギリの範囲で、どうやって復讐をするか。いじめられたほうは、忘れられないし、それくらい執念深いものだ。よく患者さんの家族が、「まだこの子は、昔の担任を殺してやりたいと言ってるんです」というが、そんなのは心理的には当たり前。いじめている人、いじめたことのある人は、よく覚えておいたほうがいい。
2006年12月06日
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精神科をやっていると、時々患者さんの勤務先から、奇妙な診断書を書けと言われることがある。もちろん勤務先が直接言ってくるわけではない。最初は患者さんを通して言ってくる。決まった書式もなく、病院の用紙でいいので、診断名と、のんでいる薬の名前と量、いつになったら完全に治るのかだけを記載して、提出せよ、というやつだ。患者さんは休んでいたわけでもないし、これから休むつもりもない。この手の診断書は、まず精神科疾患を理由に、厄介ごとを避けて患者さんを解雇しようとする目的で勤務先が要求していると考えて間違いない。冷静に考えてみよう。風邪をひいて、あるいは血圧が高くて、あるいは糖尿病で薬をのみながら、しかし欠勤することなく仕事をしていて、投薬内容や量を書いた診断書提出を求められることが通常、ありうるか?患者さんは、「職場で出せと言われたのですが書いてもらえますか?」と連絡してくるので、「そういった内容の診断書は、あなたに不利になる可能性があるがそれでも書きますか?」と尋ねる。そうすると、「それは困ります。どうしたらいいでしょう。でも職場は毎日、どうしても出せと言うんです」と言われるので、そのような診断書は作成しないから、どうしても職場が病状説明を求めるのなら、あなたの診察日に上司を連れていらっしゃい、と指示する。そうすると大概、職場からじかに電話が掛かる。「診断書を作成しないとは何事だ!」と。だが、患者さんの前でしかお話しません、と電話での交渉を突っぱねる。来院させて、「どういう目的の診断書ですか?」と尋ねると、処方内容や量、病名の診断書から、今後の勤務が続けられるかどうか、大概医者で無い人間が、判断する材料にすると言う返答。「その判断をするのは、こちらですから、必要なら休職の診断書を出すわけです。現状では治療は必要なものの、問題なく勤務もこなせていますし、無理に休ませるという段階ではないです」と言い切ると、「今後絶対何も起こさないと言い切れるのか」とこれまた大概食って掛かられる。「もしこの患者さんが何か起こしたら、普通に刑事責任が問われますよ。世の中で何か起こす人の大半は、正常とか健康と言われている人でしょう?」と私は決まって言い返す。細かい処方内容まで、一般の診断書で求められるのはプライバシーに関わる問題だと思う。そんなことまで職場に答える義務は無いから注意するように、と患者さんに言っているいつになったら治るのかという質問も、いつになったら何も薬をのまなくてよくなるのか、再発しないのか、精神科の薬をのんでいる人間に仕事をされたら困るという職場の姿勢が見え見え。やってきた上司に言う。「あなたは、自分は精神科の病気とは無縁だと思っていらっしゃるようだけど、あなただって、この私だって、明日かからないという保証はないんですよ。この患者さんだけが特別ではないんです。明日どうとか、半年後、数年後どうってことは、誰にも言えないんですよ。」精神科の病気の場合、統合失調症でも、うつ病でも、神経症圏でも、自立支援が利用できる。自立支援(以前は通院医療公費負担。こっちのほうが名称として分かりやすい?)というのは、厚生労働省が医療費削減を目指し、入院医療を減らす目的で、外来通院で患者さんにガンバって欲しくて、通院にかかる医療費負担を支援しましょう、というシステム。だがこの診断書を書いていると、誤解して、「こんなもんが出る重い病気の患者に仕事をしてもらっては困る。どうして休職させないんだ。」と言ってくる職場がある。障害年金の診断書ではないんだから、症状が重くなくても、まとまった期間通院する病気なら、出るんですよと言っても、なかなか理解されない。職場で「精神科にかかれ」言われたので来ました、という患者さんの「職場」はこういう職場が多いので、実は初診の時点で身構えている私。しかも、何度もしつこく「もうかかったのか」と尋ねておいて、かかったと聞くや否や診断書を取って来い、のパターン。診断書一通でも、精神科特有の苦労があるのです。
2006年12月05日
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誰しも一度は書いてもらったことのある、医者のよく作成する書類に「診断書」がある。まず代表的なのが、休職や休学のための診断書。「●●の疾患により、向後約×週間、自宅での休養加療を要する見込みである」というような内容のもの。他には、保険会社から入院給付金を受け取ったりするための入院証明書兼診断書、障害年金や自立支援、介護保険など公的扶助を受けるための診断書などがある。これらはたいてい、保険会社や役所に所定の書式がある。任意後見のための診断書というのは、正式な鑑定書の前置きみたいなもの。鑑定が必要である、ということを申し立てる申請書の一部という意味合いだ。診断書の種類は様々だがどれにも共通することは、患者さんの利益を守るための書類であること。先の某市職員のように、診断書で続けて休み何年も勤務していない、というのは一般的な感覚では言語道断だが、基本的に医者と言うのは患者さんの利益を守る立場だから、書かされてしまった医者の気持ちというのも、理解できなくはない。私たちは患者さんの利益を守る目的で診断書を作成しているつもりなのだが、精神科の診断書により、結果的に退職に追い込まれてしまう患者さんも多くあることには、心を痛める。通常、患者さんの職場から診断書を要求される場合というのは、休職に絡む場合がほとんど。多くの職場が「完全によくなってから出勤してもらわなければ困る」と言ってくる。かなりの患者さんが、その言葉に凹んでしまう。自信を持てなくなってしまうのだ。精神科疾患がよくなった、とは、「普通に勤務できて」初めて言える。勤務の内容や、多忙さにも差があるので、正直、出勤させてみなければ、分からない。無理ないところから勤務を始めるのも、リハビリだったりする。復職について、厳しい職場も多い。要求に従って復職の診断書を書くと、「本当に仕事をさせて、普通にやれるんだろうな。オマエが責任取るんだろうな。また休んだりしないだろうな」と半分脅されることすら、ある。それを言われたら、確信は持てない。精神科の診断は、何かの検査で値がいくつだからもう大丈夫とか、画像上何かの所見がなくなったから大丈夫、と言えるものではない。寛解しても、また元と同じストレス下に置かれたときに悪化しない保証はないし、かといって新しい環境下へというのも、別のストレスがかかる。ここらあたりで一区切りだろう、というところで、職場に少しずつ戻してみる、しか判断のしようがない。復職の診断書を書いても、勤務先の関連病院で認めるまでは、復職させないという職場もある。そちらの判定日に合わせて、あと厳密に数日分休職の診断書を書き直せ、などと言われると、こちらもせつない。復職可能って私は言ってるのに、復職させないのはそっちだし、数日分の診断書を帳尻あわせに作ることで、金銭的負担を負うのは患者さん本人。初診でいきなり3ヶ月の休職の診断書を書いて、患者さんをクビにさせてしまった医者もいることを以前に書いた。教科書的には、「うつ病では最低3ヶ月の休養が必要」とある。医者自身は3ヶ月ポンと休んでも、職をそれで失うことは少ない。たとえ今の職場を退職することになっても、大学医局の世話で、他の病院の働き口を探してもらえばよいだけだから。一般企業で、3ヶ月くらい休養してもクビにならなかったのは、バブルの頃の話。現在はごく一部の大手優良企業と公務員を除いては、「3ヶ月休みます」と書類を出したら「じゃあ、辞めてください」と言われるところがほとんどだ。いきなり長期の診断書を切ってしまう医者を見ると、「世間知らずだなあ」と思う。患者さんの利益を守るための診断書で、解雇させては元も子もない。「休め」と指示するのは簡単だ。書類を作るのも簡単。だが、外来患者さん本人がどうしても休みたくない、諦めきれないとおっしゃる場合、私は休職勧告にとどめることにしている。休職期間に給料が入らないことも、最終的に職場が復職を認めるかどうかも、私は保障してあげられない。私の休職勧告を振り切って勤務を続けた患者さんの場合、たいていはやはり続かず、1週間ほどで「先生、やっぱりダメでした」と言ってこられることが多いので、それを待つことにしている。無理に休職の診断書を作っても、本人が休まないと決めていたら、そんな診断書は提出しないわけで、患者さん本人を通り越して病院が職場に連絡することもない。腰を据えて療養に専念していただくには、いい意味の「諦め」も必要だと思う。患者さんの利益を守る目的の診断書だが、先の某市職員のような、「あれ?」「おいおい」と思う依頼もちょくちょくある。いきなり外来に酒臭いままやってきて「俺は今日とても仕事に行く気がしないから病院へ来た。何する気にならないのはうつ病だ。診断書を書け」と言った患者さん(正確には患者さんではない)。こちらは「素面のときにいらっしゃってください」と丁重にお断り。何の仕事をしてもイヤになってしまい続かない若い方が、生活に困って生活保護を受給しようとしたら、病気で働けないという診断書をもらって来いと役所で言われたから、書いてください、といきなり初診でおっしゃる。...何の仕事をしても続かないと、私たちの払っている税金で養ってもらえるのですか?働ける身体があるのですから、働いてください。知的に障害があるが、そこそこ生活していてどこでも継続して治療を受けていない患者さん。障害年金をもらいたいから、その診断書だけ、書いてもらいたいとおっしゃる。...一度お話を聞いただけで、日常生活レベルの判定は出来ませんので、診断書作成を希望されるなら、ある程度の期間、通院してください。ご家族のお話からだけ、診断書を作成したら、どれだけでも重度の障害と書けてしまう。ロクに通院しないで、あちこちで診断書だけ書いてもらって、継続して障害年金を受給し、パチンコ、ギャンブル、夜遊び、水商売などにつぎ込んでしまっている患者さんもあった。そういう方が来られた時は、「とにかく正直に」記載する。予め「診たとおり、ありのままに記載をします。それで、通るかどうかは、役所が決めることですよ。診断書自体の料金は、8000円かかりますが、書いたから、必ずもらえるというものではないですよ。いいですね?」と説明して作成する。あの方は、それっきり現れないので、多分私の診断書で認定取り消しになったのだと思う。訳の分からないうちに高額の羽毛布団を買わされて、内容証明も送らず返品してしまい、口座から月賦だけが引き落とされる、司法書士に相談したら、病院へ行って認知症だから任意後見が必要と診断書を書いてもらえば助けられると言われたので、来ました、というおばあちゃん。もしそういう可能性があるのなら、ある程度入院していただいて、症状や日常生活の様子を診させてもらわなくてはなりませんよ、それにね、一人で来院されても困るのですよ、と長時間かけて説明したが、なかなか理解してくれない。「とにかくすぐ書いてもらいなさいと司法書士の先生が言っていたから、書いてくれないと困る」「それなら、私はどうしたらいいんですか?どうしろって言うんですか?」の一点張り。これだけ理解が悪いと、確かに認知症の可能性があるが、今度は「訳の分からないうちに入院させられた」「お金を騙し盗られた」とおっしゃりかねないのだから、きちんとした身内の方と来ていただかなくてはこちらとしても手の出しようがない。入院患者さんですら、保険金目的でだらだらと入院しているんだろうな、と思われる方がいる。入院保険金との収支を計算すると、どう考えても、入院すればするほど儲かる。任意入院(患者さんの同意による入院)しているとは言うものの、連日、外出外泊。何しろ、ほとんど院内にいない。社保や国保を使って、ホテル代わりのご利用か。交際相手と出かけて夜遅くまで帰ってこなかった人、酔っぱらって帰って来た人もいる。注意されても、そのせいでストレスが溜まった、死にたくなったと看護師に逆ギレ。一番凄かった患者さんは、主治医が非常勤であまり院内にいないのをいいことに、外泊と称して1週間海外旅行に出かけていたので、主治医権侵害を承知の上で、院長に私から退院を進言した。見て見ぬフリで黙っていられないこの性格が災いして、そちらの主治医とは気まずくなったが、常識的にありえないと思ってくれる人のほうが多いだろう。他の患者さんにも示しがつかない。外泊した日は、入院費が安くなるが、保険会社からの入院給付金日額はそのまま。いざ退院すると、何通もここ数年で加入したと見られる外資系保険会社の入院証明書が届き、なるほど、と思う。自分のところの入院と無関係な既往歴は、それが元で告知義務違反になると可哀想なので普段は必要以上に書かないようにしてあげているが、常識外れな方には、やはり心理的にきっちりと書いてしまう。生活保護も問題がある。生活保護を受けている人だと医療費自己負担はゼロ。もちろん、生活保護を受けている人にも平等に医療を受ける権利があるが、現実はそんなきれいごとばかりではない。退院させられそうになると死にたくなっただのなんだの、ごねる患者さんは実際、いる。生活保護費が底をつくと、運賃無料の救急車を呼んで夜中に来て入院を希望し、「もうダメ」「動けない」「助けて」「死んでしまう」とてこでも動かない常連さんもいる。帰宅させようにも、夜中で公共交通機関はストップ。タクシー代もない、帰れない、とごねる。冷暖房完備3食昼寝付きの入院をしておいて、生活保護費でパチンコをしてちゃ、ダメでしょ。それで、保護費が口座に入る日になると、「よくなったので退院したいです」はないでしょ。しまいにちょっと診断書とは、話がずれた。
2006年12月05日
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弁護士を立てても、なかなか合議には至らなかった。私は自分の出した建築資金全額返却を譲らなかったし、元夫は3年間の居住による価値の下落を主張して譲らなかった。私は家からの退去を、子どもが保育園を出るまで、そこまでが無理でもせめてあと1~2年を主張したが、元夫は明日にでも即刻退去で譲らない。養育費についてはお互いの要求の中間点、大学卒業まで1月1人75000円といったところで、弁護士同士が着地点を探しているようだった。私の弁護士は、現在の固定資産税評価額を新築時の固定資産税評価額で除した割合で、購入資金も目減りしたと考えたとしても、全額に近い回収ができる、そこへ若干の慰謝料を上乗せする形で、トータル全額返済してもらう方向で、攻めよう、と言っていた。幸い、私には味方が多く、様々な情報を提供してくれる人たちがいた。弁護士を立てて半年くらい経った頃、大きな情報が飛び込んできた。...約3ヶ月後、義父が某有名超一流企業の役員を退職する。退職金の額は、半端ではない。おそらく、億単位。このタイミングなら、全額返却を引き出せる。元夫にそんな貯金が無いことは、分かっていた。払うのは、実質的に義父。私には勝算があった。ハウスメーカーに連絡を取り、少しずつ進めていたマイホーム計画を、残り4ヶ月ほどで着工に持っていけるように、本腰を入れてくれと頼んだ。自分の弁護士には、その次の話し合いで、「トータルで全額回収できれば、今年一杯で家を明け渡す」と急に期間を切り上げてもらうよう頼んだ。私はそれまでずるずると、あと2年だの、あと3年だのと言っていたのだ。この機を逃す手は無い。確実にその年一杯で私たちを追い出せるのなら、彼らは払う、と踏んだ。私の読みは当たった。あっさり全額回収に成功したのだ。マイホーム着工まで、あと3週間というところだった。そして、その年をあと10日残して、私たちは忌まわしい思い出のたくさん残る家を出、新居に引っ越したのである。年内完成ギリギリから逆算して、着工日と、義父の退職日と、こちらからの申し入れのタイミングを図り、ほとんど自分の思ったとおりの条件を引き出せたことは、運だけではないと思う。自分の弁護士には成功報酬として、さらに105万円(税込)を支払った。弁護士によれば、相手方も、養育費の減額成功分などから計算して、ほぼ同じくらいを支払ったはずと言う。つまり、元夫がほぼ私の条件をのまされたにもかかわらず、争ったために双方で270万円ほどを、捨てたことになる。それでも、私としては、弁護士に依頼したのは成功だったし、気持ちも楽だったし、自分だけで半年闘うことは、無理だったろうと思う。子どもたちは、3階建てでも、エレベータ付でもないが、引っ越した先の新しい、日当たりのよい家を「こっちのほうがいい!」と気に入ってくれた。荷物も、必要なものは残らず持ち出せた。こうして私の離婚騒動は一段落。間もなく元義父がガン再発。月1度、面会のたびに病院へ連れて行き、子どもたちの記憶に義父を植え付けようとする元夫を、私は複雑な気持ちで見ていた。冬は、感染症が心配なので控えて欲しい、と言っても、VIP個室で専用口から出入りするので心配ないと、元夫は病院に連れて行くのを止めなかった。元夫のために、たった1度、それも1時間足らずしか、子どもたちと会う機会のなかった父を思うと、たまらなかった。その義父も、1年と少し経った頃、亡くなった。義父が亡くなった後、「『馬鹿馬鹿しい、死人のことでしょ』と必ず言い返してやろうと決めていた」と子どもの面会に来た元夫に言ったら、さすがに言葉が無かった。その元夫は、1年後も、そして2年後になる今度も、法事があるので面会日をずらしてくれ、と言ってきた。あれほど、葬式だの、法事だのは許せない、と言ってきた元夫が。夫婦のことは、どちらかが一方的に悪い、ということはないとは思う。そんな男性を選んで結婚してしまったのは、私自身で、それは私の責任で、誰のせいでもない。確かに離婚は大変だったけれど、自分が決めてしまったことのつけを、自分で始末しただけ。...それでも私は、今でも彼を許してはいない。私には秘密にしたまま月1度子どもを迎えに来るが、多分彼は再婚(少なくとも、事実婚)しているはず。やたらに自宅に連れて行きたがった子どもを、今は元義母のいる実家にしか、連れて行かなくなった。そういった自分に都合の悪いことを、彼はいつでも隠して、子どもたちの前で決して怒らないよい父親を演じ、私に対してした仕打ちなどなかったことのように、自分の親に関しては当然のように会わせたり法事を営んだりを怠らない。それを見るたびに、私は過去を思い出さなければならないのだ。
2006年12月04日
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こちらの弁護士から、「じゅびあさんの代理人になった」という連絡を相手方にしてもらって数週間。弁護士に頼んだから話がサクサク進む、というわけではない、と知った。こちらからひとつ連絡を取れば、相手の弁護士が元夫側に連絡を取り、それに対する方針を決定。それが書面になってこちらの代理人に届き、連絡を受けた私がまた事務所へ行って、それに対してどう返答するか決定。これの繰り返しだから、ひとつこちらが返答しても、次にこちらが動けるのは1ヶ月くらい先、ということになる。私は相手方の弁護士からの呼び出しをブッチしたので、改めて相手方の要求を知ることになる。1.直ちに現在の住居を明け渡すこと。2.現在の住居の1/4がじゅびあの持ち分になっているが、対価として固定資産税評価額の1/4を支払うので、直ちに権利を元夫に移すこと。3.養育費は、相場の1月1人5万円を支払う。4.子どもと父親が会う権利を保障すること。弁護士と言うのは、代理人の利益が最大限になるように、要求してくるから、こんなもの。他は誰が読んでも意味の分かる内容だろうが、2が笑わせる。固定資産税の評価額!?固定資産税の評価額というのは続けて居住し続けてこそ、意味のある価格。売却するときにその値段でと言われて、納得する人間はいない。しかも、当時の住居は、元夫の祖母名義の土地を使用貸借して建てたもの。土地と住宅の名義が違って売却しにくい、という理由だけでも固定資産としての価値は、著しく下がって評価されている。相手方は、私が新築時に負担した金額の、1/3しか、払わないと言っているのだ。3も笑わせた。一応、元夫の給与がどれくらいか、手に取るように分かっている。こっちはパート。当直の数をやれば稼ぐことは出来ても、子どもを抱えて数は撃てない。仕事をしている間、子どもを看てくれる大人が必要なのだから、そこの経費もかかる。うちの弁護士と私の会話。「相手方は本当に、家の価値がコレしかないのにこんなに死に物狂いで返して欲しいと思っているのか、訊きたいね。」「3年経っているから、経年分目減りしているとしても、新築した瞬間から、固定資産税の評価額は、建築価格の1/3~1/4だからねえ」「直ちに出て行けって、自分の子どももいるってことは、忘れてしまうようですよ。」「これだけのことを言っておいて、子どもに会うときだけは、いい父親の顔をして、ニコニコしているんです。」「建築資金については考え方だけど、相手は今住んでいる家の価値がこの固定資産の評価額しかない、と言っているわけ。だから、持ち分1/4は、その1/4しかない、とね。でも、新築時に、じゅびあさんがそれだけのお金を貸して、建てたと考えれば、全額返すのは当然ってことになる。」「離婚後については、家賃を支払ったほうがいいでしょうか?」「いや、それはそれでややこしいことになるよ。またまた家の評価が分かれるだろうし、ますます家は相手の持ち分って意味合いが大きくなる。払いたいわけでなければ、そんなことは言い出さないほうがいいよ。」「子どもの保育園の間はここにいたいと言ったら、そんな長期間とんでもない、すぐに近所で賃貸でも借りて住め、って言うから、じゃあその家賃を出して、と言ったら『なんでオマエの住居を保証しなきゃならないんだ』と言ってましたよ。」「それで、子どものことは可愛いって言うんだから、不思議だねえ。」現在でもうちの子どもたちは、父親に家を追い出されたことは分かっていないと思う。住んでいた家は、土地が狭かったこともあるが、3階建てで、ホームエレベータ付だった。そこを出て、賃貸マンションの1室に引っ越したら、さぞかし子どもたちは差を感じるだろうな、と思った。......だいたい、荷物もかなり諦めて置いていかなくてはならない。うさぎも、家具も、ワインセラーと子どもの生まれ年のワインも。そのことも、元夫の頭にはあるだろう。私は、実家のあるところに、家を建てることを本気で考え始めた。実家には、姉が家族と戻ってきて事業をしていた。実家の古い家で全員暮らすのは、無理。泊まりにいくだけでも、布団を持ってあっちこっちというくらい、狭い。実家は、土地は150坪、2軒家を建てても十分な広さだったが、借金の嫌いな父が手持ちの現金で買ったため、家は土地の手前にちょこん、としか建てられなかったのだ。私がマイホームを持つためには、どうしても3年前の資金を全額回収する必要がある。もう少し自己資金も増やしたい。少しでも時間を稼ぎたい。私は前年度の自分の年収と、もと夫の年収を、提示するため、確定申告書の控えを持って行った。元夫は、住宅建築資金の申告も、所得税の申告も、私任せだったため、そのデータは幸い全て私の手元にあったのだ。今後私が仕事を増やせば稼げる、という条件は、相手にも同じことが言える。いかに養育費1人5万円が不当であるか、明確にした。また、もし住宅建築資金の全額返却に応じないのなら、DVに関する慰謝料の要求も考慮に入れ、調停だろうと裁判だろうと徹底抗戦することを宣言。決着が着くまでは絶対に住宅の明け渡しには応じないので、保育園の卒園まで粘るぞ、と告げた。子どもたちがいるから、強くなれた、と思う。相手方の弁護士は、DVのことなど、一切知らされていなかったようで、こちら側の弁護士が私の原稿を読み上げるのを、熱心にメモを取っていたそうである。自分から離婚を言い出しておいて、子どもを盾に取り、大半元夫とその親族の持ち分である住居から退去もせず居座る元妻、というように相手方の弁護士は私をイメージし、圧倒的に自分たちが有利だと思っていたようだ。私側の弁護士が、言った。「この前、他の案件で、向こうの先生と顔を合わせたので、言っておいたよ。『うちの依頼人は、頭がいいからね。そっちの思うように事は運ばないよ。調停でも裁判でも来い、そっちがそのつもりなら慰謝料だって取ってやる、って息巻いてるのを、僕がなんとか止めているくらいだから、よく考えたほうがいいと思うよ』ってね。」...そりゃあ、嘘ではないけど、脅しだよ(笑)。こちら側の言い分を聞いた元義父が、自分側の弁護士に激怒したと、後で聞いた。「こんなもん払わされてどうする。何のために雇われてるんだ。あいつらに一日だって居座る権利はないんだ。とっとと追い出せ!」おそらく、自分たちに結構不利な点があり、こちらの要求をいくばくかのむ必要がありそうだ、と聞かされたんだろう。同時に、住んでいた家を建てたハウスメーカーに、「もう一度、建てるので来て!」と連絡。新築3年で、もう一度新築する施主というのも珍しかったろうと思う。ハウスメーカーと家を建てるノウハウは持っている。前回も隅々まで、自分がほとんど決めた家。図面も、見積もりのチェックも全て自分でやった。その家を手放して、資金は少なくても、もう一度それ以上の家を建ててやる。ハウスメーカーには恥も外聞もなく、現在自分が置かれている状況を話し、まだ建築時期を確定できないが、準備していきたいことを告げた。それだけのバトルをしながら、月に一度の面接交渉権を主張して、元夫は定期的に子どもたちを迎えに来た。よくそんな顔で子どもを迎えに来られる、と思ったが、元夫と顔を合わせて心の中では苦々しく思っても、堂々巡りのけなし合いをしなくて済むようになったのは、精神的には楽だった。
2006年12月03日
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やはりもうダメだと思う。離婚をしたい。やっと私が元夫に告げられたのは、結婚生活を始めたときから7年、籍を入れて3年、別居を始めてから既に2年余り経過した頃。告げるまでには、多少経済的な画策もした。まず、自分名義の貯金は新たに増やさず、非課税枠いっぱいまで、毎年子どもに貯金をした。夫名義の住宅ローンを繰り上げ返済する必要は皆無なので、あとはいざとなったら売却すればいいや、くらいの考えで、自分にブランド物や時計を購入。離婚を避けられないと悟った元夫は「親権を当然自分がとれるつもりでいるんだろうが、僕だって黙っていないぞ。そう簡単にはいかないからな。」と半ば脅しのようなことを言ってきたが、それに対しては「闘うつもりなら、自由にどうぞ。子どもたちはまだ小さいから、あなたがどんなに機嫌をとったって子どもの意思で決定はされないし、現実に育児は私がしているのだし、裁判を起こされたって、あなたに勝ち目はないわよ。」と応じた。それきり、親権のことを元夫が口にすることはなかった。そうしておいて、新しく仕事先を増やすのをきっかけに、「ここで苗字を戻してしまいたいので、離婚届にサインを」と求めた。離婚届にサインをさせたら、不受理届を出されないように、その足で即時間外の役所へ提出。翌朝一番で再度役所へ行き、戸籍謄本をとるからと、作業を急がせた。自分の姓と親権者の記載は届けだけでいいが、親権をとっても子どもの姓は変更されない。これとは別に、家庭裁判所へ姓変更の申し立てをしなければならない。医師免許と保険医登録の書き換えも時間がかかる。なんとか新しい病院への勤務が始まる前の2週間ほどで、ぎりぎり全ての手続きを終えることが出来た。しかし、ここから家と養育費を巡る壮絶なバトルが始まった。私は、実際には慰謝料は要らないが、とにかく家を建築するときに出した費用の全額だけは返して欲しい、養育費は1人5万/月が相場だが、元夫も医者なのだから、1人10万/月を、と要求した。元夫は、病棟を持たない外来医療だけの、公的な「センター」で働いていた。その医療機関には当直はない上、公務員という立場なので、バイトはできない。といっても、自分さえ希望すれば当直のあるような病院に移ることはできる。今、自分が勤務内容としてそこで働きたいから、そこで仕事をしているだけだった。「養育費養育費って、当直いくらでもできるんだから、お前のほうが稼げるだろ」元夫が言い出した。「家だって、僕を追い出して僕の家に3年も住んでおいて、金を返せって言うのか。こっちが家賃を取りたいくらいだ」「これまではともかく、離婚した以上さっさと家を空けて出て行くべきではないのか」「実家に戻れない、保育園が困るというのなら、近くに賃貸でも借りればいいだろう」「父が、離婚しておいてどうしていつまでも居座っているのだ、離婚したら同時に出て行くべき、と言っている」.....そういう問題なのか。家だって、あなたの子どもが2人、住んできたんですけど。養育費だって、小さな子ども二人抱えて片方が病気になれば身動きできないのだし、当直をがんがんやるなんて到底無理。私は家を出てしまったら元夫が自宅に戻り、絶対に自分の払った金額は返らないと分かっていたので、要求が通るまで動かない、と家に居座り続けた。いくら元夫でも、ヤクザさんを使って自分の子どもに立ち退きを迫るとか、強制退去させるとかは、できないだろう。そんなこんなで数ヶ月が経過したとき、突然一通の封書が届いた。何とか言う弁護士が、元夫の代理人になったという連絡。ネットで調べると、関西地区の超一流大学法学部出身の弁護士。元義父の、同窓のよしみだろう。しかも、いきなり期日と時刻の指定をして、この時間にその弁護士事務所に来い、という内容。「どうしたらいいの?これって裁判所でもないのに出向かなきゃいけないの?ほうっておいたら私に不利になるの?自分で対応できるものなの?」全く分からない。その日から1週間ほど、私はほとんど眠れなかったと思う。私と付き合いのある友人といえば医者ばかりで弁護士はいない。とりあえず法学部を出てから医学部に入りなおし、精神科をやっているドクターがいたことを思い出し、書面を見せて訊いてみた。「こんな一方的な呼び出しには、応ずる法的義務はないよ。でも相手がプロを出してきたら、自分もつけたほうがいいと思うよ。つてはある?」...つては全くなかった。だが、勤務先の顧問弁護士さんから、居住地近くの弁護士さんを紹介してもらうことができた。初めて訪ねた弁護士さんは、思ったより気さくな雰囲気の先生だった。とりあえず、着手金として30万と、書類などの発行にかかる手数料実費。シングルマザーとなり、パートだけで生計を立てる私には、手痛い出費だったが、一通り話を聞いてもらい、「呼び出しは放置していい。とにかく全て私を通して折衝し、自分ではお金の話などを直接する必要はない。」と指示されて、気持ちが軽くなった。これまで日記に書いたような経緯を文書にして持参したが、読んだ弁護士は驚いていた。「この元ご主人って、自分が精神科医なんでしょ?それで、こんなことするの?仕事はちゃんとやってるの?これだけのことがあれば、あなたが泣き寝入りする必要なんてないよ。いくらDVの証拠が無いって言ったって、調停に出せば調停員だって読めば嘘じゃないって分かるよ。」「先に離婚届だけは書かせたの、正解だったね。あなたは極端な話、お金が取れなくても、離婚だけはしたかったでしょ?生活費くらいは、なんとか稼げるだろうから。協議離婚と言っても、協議できてない、という形だけど、お金を要求するなら離婚はしない、と相手は踏ん張ることができないんだから。」「離婚してからも、財産分与の時効は2年ある。その間に取り返すものを取り返せばいい。本当に賢いやり方だったよ。」「相手もこういう仕事をしていたら、DVをやっていたことが裁判で公になるのは困るはず。そのへんもつついてみよう」相手弁護士のいきなりの呼び出しも含め、弁護士さんって、脅したりすかしたり、実は凄い事もするんだな、とこっちも驚いたものだった。
2006年12月02日
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子どもたちを保育園に出し、本当に細々と仕事を始めながら、私は離婚に踏み切れないでいた。小さい子ども二人と、自分。子どもがどちらか一人、病気をしただけで身動きが取れなくなる。今は母が力を貸してくれるが、母も高齢。いつまで頼りに出来るか、分からない。元夫とは話し合いを続けていた。夫は離婚だけは避けたいと訴えていた。育児を一緒にしていきたい、別居を続けて自分が名誉挽回する機会を与えないのはおかしい、時々は自宅へ戻らせろ、と要求してきた。そうして、私自身は気が進まなかったが、月に数度、週末になると母が実家へ戻り、夫が泊まりにくるようになった。夫は帰ると、この時とばかり子どもの相手をし、やたらに張り切って世話をし、スキンシップをとって喜ばせようとするのだが、私は何とも言えない違和感を覚えていた。まだ子どもたちは小さかったから、ワガママを言って困らせるというわけではなかった。だが、病気もする。自分の都合のいい時だけ面倒を看ればいいというものではない。仕事の無い、自分に時間的・気分的余裕のある週末だけ、遊べばいいというわけにはいかない。仕事から帰って、疲れてへとへとで、もう動けない、笑えない、という時でも容赦なくのしかかってくる。平日の夜中でも、吐いたり、下痢をしたり。下手をすれば吐物の中で寝ている(汚い話でごめん)。夫はもちろん、夜は別の部屋で眠ったが、私にとってはおぞましいほどの苦痛だった。もう、生理的に、同じ屋根の下にはいられない。そこまで思っていても、先々の不安で、離婚には踏み切れなかった。眠れない夜が続いた。自分の将来はどこまでも真っ暗で、一人になっては泣いてばかりいた。この1年ほど、自分が何をして、何を考えて過ごしたか、あまり記憶に無い。間違いなく一種のうつ状態だったと、今なら思う。何を考えてもまとまらず、何をしても楽しいと感じることはなく、何も決断できなかった。スーパーやデパートへ買い物に行っても、1時間くらい店内をウロウロするばかり。子どもの服も、食品も、買うものがなかなか決まらない。万引き主婦みたいで監視員にチェックされていたかもしれない(笑)。1年経った頃、子どもたちが保育園に慣れてきたので、仕事を少し増やした。それでも暫くは同じような気分が続いていた。職場の人たちは、私のことも夫のことも知っている。「ご主人は今度の学会へ行くの?」と訊かれたり。別居のことを隠し通しながら明るいフリで勤務を続けるのも辛かった。別居開始後1年半を過ぎた頃、少しだけ、考え方のベクトルが変わってくる。せめて、私自身が変わらなくても、少しお洒落をして、いいものも持って、胸を張って生きよう。私は妊娠して以来何年も、洋服を買うことも、化粧品を買うことも忘れていた。子どもから見て、お母さんみたいになりたいな、と思ってもらえるようになろう。一種の買い物中毒かもしれないが、形から入った。初めて10万を超える時計を買ってみた(それほど高級とは言えないが...)。シーズン最新の化粧品を揃えてみた。仕事着に、数千円のTシャツを止めて1点数万円クラスのプレタを買ってみた。靴も揃えた。ここまで頑張ってきたご褒美に、と10万を超えるダイヤモンドを普段着けに買ってみた。通勤バッグを某ブランドのバッグに替えてみた。世の中のセレブな女医さんたちには程遠いが、私に出来るのはせいぜいこの程度が限界(実際、これ以上高価なものは職場に着けていけない)。不思議なものだ。それまで背を丸めて、のそのそと下を向いて歩いていた自分。前を向いて、胸を張って歩かないと身に着けたものと不釣り合いな感じがした。胸を張って、これから先の人生を歩いていくために、私は自由にならなければ、と思った。別居を始めてから、すでに2年の月日が経っていた。...ちょっと今夜は風邪っぽい。文章まとまりなくてすみません。
2006年12月01日
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