全36件 (36件中 1-36件目)
1
玄侑宗久さんの人の話をよく聴くというお話です。他人の話を聴くとき、すぐに言い返したり、話し終わる前に「分かった」と言ってみたりすることはありませんか。あるいは「要するに」「まとめると」「結論を言いなさい」「何を言いたいんだ」「君の言いたいことはこうゆうことなんだろう」「時間がないんだ」「君の話を聞いているといつもイライラする」などということはありませんか。これはもう聴きません、聴きたくありませんというメッセージを発信しているのです。「誰々さんも同じことを言っていた」「そんなことみんな知ってるよ」「いつも同じことをいうのね」こんなことを言われると、相手は急に話す気持ちがなくなります。あと無視するというのもそうですね。こうした態度では、人は寂しさとか、怒りさえ感じるようになります。すると人はだんだん予防するようになる。「結局」とか、「どうせ」とか、「やっぱり」とかいう言葉を頻繁に使うようになります。何事も 言うべきことは なかりけり 問わで答うる松風の音松風の音を聞くようなつもりで、とにかく素直に聴いてみることが大事です。その際大切なことがあります。玄侑さんいわく。別に自分のヴィジョンを捨てることはないですよ。ただ、それは保留して、一旦相手の認識に沿ってみてみる。自分の気持ち、意志はしっかりと持っていて構わない。むしろ持っていなければならないということだと思います。他人の思惑ばかり考えている人には耳の痛い言葉です。また、相手の話を聴くときは、五臓六腑すべてが相手の話に耳を傾けている。顔を背けたり、姿勢が横を向いたりしていては、本当に相手の話を聴いているということにはならない。心しておきたい言葉です。私は集談会に参加した時に他の参加者がしゃべられたことはメモしています。以前やっていたことで効果があったことがあります。それは参加者を「あいうえお」順にインデックスをつけて該当のところにあらかじめ名前を書いておくのです。これをすると重複する発言は記入しなくてよくなります。また新しい発言内容などはどんどん蓄積されてきます。だからある程度のスペースをとっておく必要があります。これだけで相手のことがより深く分かるようになります。それを家に帰ってから、気になったことことなどを整理して、次回の集談会での対応を考えてみるのです。あるいはもっとこんなことを聴いてみたい内容を整理してみるのです。普通は見逃してしまうような小さなことを関心を持っていてくれるということは、相手にとっても大変うれしいものだと思うのです。相手の話をよく聴くというのは、奥が深いことなのです。それから自己紹介で相手の話をよく聴こうと思うと、自分の番なったら何を話そうかと考えていると、相手の話は上の空になってしまいます。私は初心者が一人でもいるときは、その人に対して自分が神経症でどん底の状態であった時のことを話します。それはあらかじめ原稿にして用意しています。それを説明するだけです。初心者がいないときは、そういう話はしません。主としてこの1カ月の間に、森田理論を生活の中に活かしたことや生活の中での最近困っている話などをします。これは、集談会の当日の午前中に日記を見て話す内容を整理しています。これを怠るとソワソワして、他の参加者の話を真剣に聴こうという気にならないような気がします。
2017.01.31
コメント(0)
集談会には時々 、不登校の子供を抱えた親子さんがお見えになる。私にとっては全くのお手上げである。多くの人はどう対応していいか戸惑っておられることと思う。何とか相談窓口だけでも教えてあげることができたらと思っている。その1つの手がかりが見つかった。「ひきこもり 500人の ドアを開けた! 」宮淑子著 KADOKAWAという本である。副題として、精神科医・水野昭夫の「往診家族療法」 37年の記録とある。この本によると、水野医師は、不登校や引きこもりの子供に対して、日本全国往診されているという。水野医師は本拠地は宮崎である。宮崎から飛行機などを使って往診をされているのである。これは極めて異例である。普通の精神科の病院では、不登校や引きこもりの相談に対して往診してくれるということは聞いたことがない。水野医師は往診すると言語的には伝えられない様々なことがいろいろと分かるという。夫婦の構造、親子の構造、そして家族と子供の歴史、その他家庭内の状況がよくわかる。これが診断の正確性を上げるために役立つという。水野医師は、不登校や引きこもりの原因を、家族全体の問題としてとらえ、家族全体を治療の対象とする治療方法とられている。従来のように、不登校や引きこもりの原因を、本人の問題や親のせいであるとは見ていないのである。不登校や引きこもりは家族のあり方に問題があると見ているのである。水野医師は、家族療法に必要な認識を5つに整理しておられる。1 、子供たちの症状の原因は、家族の中にある。子供たちの人格形成の8割から9割が家族の中で行われる。中でも父親と母親の関係が大きな比重を占める。2 、家族全体(父親・母親)が本質的に変わることは極めて難しい。3 、家族が少しでも変われば、子供は大きく変わる。4 、家族は第三者の介入がなければ変われない。5 、家族の外に心を割って話せる人を見つけて初めて、引きこもりから解放される道が見つかる。子供は家族という空間の中に、 「蜘蛛の糸に絡まれた塊」のようになって出られなくなっているが、このからまた糸をほぐすためには、両親と子供と第三者の共同作業が必要なのである。水野医師は、不登校や引きこもりの子供たちを一旦親から引き離すという方法とられている。引き離した子供たちは宮崎にある自立支援アパートで生活することになる。ここから勉強、就労訓練、様々な人との交流をすることになる。このような活動の中から、不登校や引きこもりから抜け出した若者は多い。詳しいことは先に紹介した本や水野昭夫医師のホームページがあるので参考にしてほしい。我々は直接相談に乗ることは難しいが、ある程度の情報は教えてあげるとよいと思う。
2017.01.30
コメント(0)
毎日6時30分前後にきちんと投稿されているのですが、どうしてそんなことができるのですかという質問が寄せられた。不思議に思われるのも無理はないと思う。でも、これは内情を知ってしまえば訳はないことなのです。楽天のブログには2か月先まで、指定の日、指定の時間に投稿する予約機能があるのです。それを利用しています。決して無理を重ねて投稿しているわけではない。現在2月15日まではすでに投稿原稿は予約しているのです。それから、投稿にあたってたくさんの本を引用してありますが、いつ読書をしているのですか。またどれくらいの頻度で読んでいるのですかという質問があった。私は投稿原稿のネタは書籍から得ることが確かに多い。考えるきっかけがないと森田理論を考えるきっかけがつかめないのである。土日、祝日は全く本は読まない。ウィークデイはほとんど200ページぐらいの本は1冊は読んでいる。大体斜め読みである。琴線に触れるところだけは丁寧に読んでいる。内容は、生活の発見誌、森田理論関係、教育、医療、子育て、社会問題、人生論、伝記などである。本は図書館で借りる。2週間毎に10冊貸していただいている。そのほかブックオフやアマゾンの中古本の利用である。だから新品の本を買って読むということはほとんどない。先日友人が来たとき、ここは図書館みたいですねといっていた。投稿に使える部分にはまず付箋をつけていく。あるいは自分の本には、自由にマーカーや鉛筆で印をつけていく。それをA4用紙に要旨を書きだしていく。それから私のつかんでいる森田理論と突き合わせてみるのである。この作業が最も大切だと思っている。それを主として音声入力で原稿の下書きを作り、さらに訂正をして原稿を作り、順次予約をしているということなのである。これを過去4年間続けてきた。今年は5年目に突入してきた。そのおかげで、森田理論を深めることができて、さらに実践的になってきた。高良武久先生は同じことを10年も続けていると、その道のエキスパートになれるといわれている。エキスパートになると人間関係でそんなに悩むことはなくなるといわれている。そういう意味では自分がその実験をしているのである。皆さんも、ブログに取り組んで見られたらいかがでしょうか。ホームページと違って、個人のプライバシィを公表していないので実害はない。また、異論を持っている方もあろうが、誹謗中傷はほとんど発生せず、ブログの炎上に至っていないのは幸いなことだと思っている。
2017.01.29
コメント(0)
和田秀樹さんのお話です。我が子が根気がない。集中力がない、飽きっぽいと感じる人がいます。その場合、お母さん自身が「この子は勉強ができない」と短絡的に考えないことが重要です。その子にあわせた勉強のやり方さえ身に付ければ、成績を上げる事は可能になるはずです。重要なことは親が、子供の得意なことを見つけて、自信をつけてあげることが何より大切です。その上で、集中できる時間が短い場合、正確に何分だったら子供が集中できるのかを、まず調べましょう。そして、その時間が3分だったら3分間は頑張るように言って、勉強をさせてみます。勉強を3分間にあったら区切って何か別のことをやり、しばらくしたらまた勉強を3分間・ ・ ・と言うように、 1回3分間の、 1日5回から始めて、だんだん増やしていきます。このように集中できる間に、ドリルを1ページやるのも良いですし、計算のプリントを1ページやるのもいいですから、細切れの時間に勉強させてはどうでしょう。また、動きながら記憶した方がやりやすい、というタイプの子もいるので、勉強するスタイルにはこだわらず、動き回りつつ勉強させてもいいと思います。じっとさせることだけに執着するよりも、子供が勉強してくれること重視してください。(頑張れる子の育て方 和田秀樹 学研パブリッシング 176頁より引用)やる気が起こらない、飽きっぽいとか集中力がない、といった事は大人にでもあります。そんなときどうすればよいのか。森田先生はこんな話をされています。中学時代は数学が苦手で、手を出すのが億劫で、やさしいものだけ手をつけていた。そこで、数学は5分間だけでよい。いやになったらすぐやめることにして、とにかく取り掛かるという風に自分を騙すつもりでやり始めた。そうするとつい興味が出てきて、勉強が苦しくなくなった。神経質者はやる気が出るまでなかなか手を出さない傾向があるか、仮に手を出す。いやになったらいつでも中止と言うつもりで手を出すと言うことが大切です。(森田全集第5巻 445頁より引用)神経質者は嫌なことを取り除いてから、手を出そうとする。苦しいながらも勉強するの従順という。その従順は、最初はほんのフリをするだけでもよい。とにかく、実行しさえすれば、心のうちの感じはどうでも良い。これを気分本位を捨てて事実本位になるというのである。また同じ作業を長時間行っていると体が疲れてくる。また緊張状態が緩んでだらけてくることがある。そんな時に疲れたからといって睡眠をとったりすると、実にもったいない。立ち仕事や体を動かす仕事をしていた場合は、頭を使うような仕事に切り替えてやるとよいと言われている。すると、今まで酷使していた部分を休めることができ、また新たな緊張状態が生まれてくる。臨床心理士の岩田真理さんは、家事など、 30分おきに仕事を変えていくと能率が上がると言われています。森田先生が「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にあり」というのはこのことだと思う。これを生活に応用すると、疲れを感じずに、実に多くの仕事ができる。
2017.01.29
コメント(0)
小学生の子供を持つ母親からの相談です。息子は「めんどくさい」が口癖です。勉強やらせようとすると、親子で言い合いになります。宿題などがあっても、 「めんどくさいから嫌だ」と言った挙句、外へ遊びに行って、なかなか帰ってきません。毎回こんなやりとりに疲れてしまい、今度は私の方が子供の勉強がめんどくさくなってしまいそうで恐ろしいです。これに対して、精神科医の和田秀樹さんは次のようにアドバイスされています。なぜ子供が勉強を面倒くさがるのでしょうか。その原因は2つあります。1つ目は、勉強を子供ひとりでさせていることです。小学生頃までは、親が付き添ってあげないと、嫌になってしまう子が多いと思います。親が見守っている方が子供は安心してはるかに集中でき、勉強がはかどります。親御さんも忙しいと思いますが、なるべく時間をとってあげてください。もう一つの原因は、基礎的な問題を繰り返し練習することが「めんどくさい」と感じられる場合です。基礎を身につけるには、読む、書く、計算するの反復学習が欠かせません。これらは確かに変化に富んだ内容ではありませんから、諦めてしまう気持ちもわかります。ここは親の工夫のしどころです。毎日の勉強を終えたら、カレンダーに好きなキャラクターのシールを貼るなど、やったことを可視化して「こんなに続けられたなんてすごいね」と褒めてあげるといいでしょう。(頑張れるこの育て方 和田秀樹 学研パブリッシング 192ページより引用)私は子供が小学生の頃、勉強見てやったことが全くありません。私の考えは、親が勉強好き、あるいは本が好きであれば、子供はその親の後ろ姿を見て勉強好きになるはずだ、と思っていました。子どもをよく観察し、寄り添うということが全くありませんでした。いい言葉で言えば、子どもの自由にさせていた。裏を返せば放任状態であったということです。親子の人間関係が希薄であったということです。和田秀樹氏によると、逆境にも強く、逆境に対して立ち向かってで乗り越えていく子どもと言うのは、子供が 12歳になるまでは、親が常に子供に寄り添い、子供をサポートしていくことが重要であると言われています。その契機となるのが、子どもの学習意欲を高めるために、親が学校の先生以上に子供の勉強に関わることです。子供が学習意欲をなくしてしまうのは、親が子供の勉強に関心がなく、無関心になってしまうことです。私の場合、今であれば、もっと良い子育てができるような気がするのですが後の祭りです。親の後ろ姿を見て子供は育つ。これは確かに真理だとは思いますが、これだけでは心もとない。しつけも含めて、積極的に子供の身近にいて観察して関わっていくこと。子育て、その他子供のことでわからない場合は、関わり方について詳しい人に聞いてみる。あるいは、自分でも本などを読んで研究してみる。などが必要なのではないかと思います。
2017.01.28
コメント(0)
NHKの番組で「サイエンスzero 」と「ガッテン ボケない脳が若返る 瞑想パワーSP 」という番組があった。この番組は、瞑想やマインドフルネスと脳の関係を説明したものであった。大変興味深い番組であったので紹介したいと思う。人間の脳には記憶や感情の司令塔として「海馬」がある。うつ病や認知症になると海馬が萎縮してくることが分かっている。「扁桃体」には不安や恐怖を受け止める働きがある。絶えずストレスにさらされると扁桃体が徐々に大きくなる。その結果、ごく小さな不安や恐怖に対しても敏感に反応するようになる。瞑想やマインドフルネスによって海馬を大きくし、扁桃体を小さくできることが科学的に証明されたという。これはハーバード大学のサラ・ラザー教授が実験をされている。それによると、マインドフルネスによって海馬が5%増加した。反対に、扁桃体は5%減少したという。瞑想やマインドフルネスによって、うつ病、不安障害、パニック障害などが、薬物療法と同じような効果があったという。どうしてそういうことが可能になるのか。私達の脳は1日に18万7,000項目のことを考えている。問題なのは、考えていることの半分は、過去のことを悔やんだり、将来のこと取り越し苦労していることだ。これは主に前頭前野で行われている。そこで考えられた事は海馬なのに送られている。だから海馬は常に働いており、休む暇がない。海馬は酷使され、過労死寸前なのだ。瞑想やマインドフルネスはこの前頭前野を休ませるという事だそうだ。そうすると海馬も休むことができる。働きすぎの海馬などを休ませてあげるということだ。つまりストレスから逃れることができるというのだ。寝ていて夢を見ているときは、脳からはシータ波が出ている。この時前頭前野は休んでいる。瞑想やマインドフルネスで、呼吸に意識を向けていると、すぐにこのシータ波が出てくるという。これらは、集中するとか、リラックスするという事では無い。雑念を排除し、いろんなことによく気づく。体の状態にも気づく。空間にも気づく。ということらしい。その他、瞑想やマインドフルネスは、慢性の炎症の元となっているRIPK2という遺伝子の活動を抑制することもわかっている。これは肥満、老化、がんなどは弱い炎症反応が継続している状態であるという。この遺伝子のスイッチをoffにしておく働きがあるという。私たちは不安、恐怖、違和感、不快感などに振り回されているわけですが、森田療法に取り組むとともに、瞑想やマインドフルネスに取り組むことが、より効果的であると思います。その他、 1月24日に投稿したコーピングも取り入れると良いと思います。マインドフルネスについては、 1月25日にそのやり方を紹介しています。まずは1日10分ぐらいから初めてみられてはいかがでしょうか。
2017.01.28
コメント(0)
最近会社のOB会の案内がよく届く。 私は定年までに、 2つの会社にいた。その2つとも毎年1回以上はOB会を開催している。 私はいまだかって参加したことがない。酒が飲めないというわけではない。むしろ好きな方だ。またみんなとワイワイ騒いだりするのも好きな方だ。私が参加しないのは理由がある。最初に勤めた会社は出版社であった。配属先は営業で、わかりやすく言えば、飛び込み営業の仕事だった。その会社では、対人恐怖症のため仕事をすることがとても苦痛であった。どちらかというと、サボってばかりで熱心に仕事をしているわけではなかった。会社には申し訳ないことをしたと思います。また、部下が5名ぐらいいたが、部下の教育や指導が全くできなかった。そのために、参加しづらいのである。部下の成長の芽を摘みとってしまったような気がする。その頃のことを夢に見て時々目が覚めていたたまれない気持ちになることもある。 次の会社は、営業事務の仕事であった。この会社は、最初勤めた会社とは違ってまだマシであった。でも、誤発注をして会社に多額の純損失を与えた頃から、少しおかしくなった。パソコンに入力した発注内容が、もしかすると間違っているのではないかということに囚われだした。間違ってはいけないということに囚われて、仕事をすることが苦痛になってきた。それ以来積極的に仕事に関われなくなった。人の目ばかりを気にするようになった。ここでも中間管理職として部下の教育や指導の仕事をしてきたが、十分な成果を上げることができなかった。むしろ会社内では、 一部の人を除いて、人間関係が良好ではなかった。だからOB会に参加することはとても苦痛なのである。仲の良かった同僚などとは交流は続けているが、正式な大勢の人が集まるOB会には出席できないのである。 今考えることは、早くから森田理論学習を続けていたら、楽しみにして参加しているのではないかとも思う。今現在、対人恐怖症のため職場で苦しんでおられる方はたくさんおられることと思います。その人たちは是非森田理論を学んで欲しい。必ずや役に立つことと思います。 そもそも私は、大学を卒業して就職する時点で、大きな適用不安を感じていた。大学の同期生は早い段階から自分の進路についてしっかりとした目標持っていた。私は目標もなく、適用不安を感じながら安易に就職先を決めてしまった。それらのことが、働き盛りの頃に大きな問題や葛藤を抱えることになったのだと思う。 私が森田理論に出会ったのは37歳の時でした。もう少し早く出会っていたらと思います。 でも今更そんなことを言ってもということです。最終的に森田に出会い、学習を続けてこられたことは、私の人生にとっては、一番の幸運であったと思います。若い頃は苦しみの連続でしたが、遅まきながら、今現在、心豊かな生活を送ることができるようになったのだから、むしろよかったのではないかと思います。初めに苦労を味わい、人生の後半になって生きる意味がわかってきたのは大きかったと思います。どうしてこんなに役に立つ森田理論が、世間に認知されていないのかとても不思議に思います。
2017.01.27
コメント(0)
あるお医者さんがこんな実験をした。神経症で疲労を強く訴える患者さんの尿を採取して疲労の程度を科学的に調べた。すると患者さんの訴えとは異なり、少しも疲労していなかったのである。次は道路工事をしている肉体労働者に頼んで、尿を検査させてもらった。彼らは疲労感を訴えていなかったが、実際にはかなり疲労していた。神経症の人で、 「疲れた、疲れた。こんな生活をしていると、過労死になりかねない」とゴネている人が増えてきたような気がする。この種の人たちはおしなべて人生目標がしっかりしていない。ただ惰性で毎日を送っている。自分の好きな遊びや興味には意欲的であるが、仕事や勉強になるとすぐに疲労を訴える。自分の人生目標、生き方、そういったものを重視して、一生懸命、その日その日を頑張ると、他人はおろか、いろんな症状も消えていく。哲学者のニーチェは、 「人生の目標さえしっかりしていれば、あらゆる苦痛に耐えることができる」と言っている。疲労も同じだ。今の仕事や生き方に不満だらけの人は、ちょっと何かしただけで、すぐに疲れたと疲労感ばかりが強く感じられる。しかし、きちんとした人生目標がある人は、肉体的に少々疲労していても、それほど疲労感は持たないのである。(不安な心と上手に付き合う本 大原健士郎 、 PHP研究所 178ページより引用)五十肩や腰痛などの痛みで苦しんでいる人は、確かに器質的な疾患である。私も長らく五十肩で腕が上がらなかった。整形外科やマッサージ、鍼灸の治療を受けてきた。今振り返ってみると、肩の痛みをなんとかしようと四六時中やりくりをしていた。つまり、注意や意識を肩の痛みばかりに向けていた。その結果、目の前の仕事や、家の中の掃除、整理整頓、あるいは町内会の役割などを、痛みを理由にして逃げていたように思う。その結果、注意や意識はますます肩の痛みだけに集中してきた。肩の痛みは実際の痛み以上に、何倍にも膨れ上がっていたのである。これは私が精神交互作用で対人恐怖症が固着していった過程と同じであった。森田先生は、 「自分は退屈したことなど1度もない」とおっしゃっていたという。また、 「見るところ仕事あり」 「仕事を探すのも1つの仕事」と言われていた。人生にとても貪欲な方であった。森田先生が残された色紙に、次のような言葉もある。「休息は仕事の転換のうちにあり。仕事の中止にあらず」1つの仕事や家事を長時間続けていると疲れが溜まってくる。またやっている事自体に緊張感がなくなり飽きてくる。そういう時は、今やっていることを中断して、仕事を変えていけば、疲れが蓄積することがなく、新たな緊張感が出てくると言われているのである。人並みの生活を送っていれば、仕事や勉強に疲れたからといって、すぐに休息を取る必要ない。それは疲労感であって、本当の疲労では無い。仕事に飽きたり、疲労感を覚えたら、その仕事を中断して、寝転がって行いるのではなく、別の仕事をすればよい。目先を変えてやることによって、また新しい意欲が湧いてくるのだ、という意味である。私たちは気分本位で行動するのではなく、その時その場で必要なことに手を出すという姿勢が大切なのだと思います。
2017.01.26
コメント(0)
次に早稲田大学の熊野宏昭教授による『マインドフルネス入門』をご紹介します。なおうつ病などの治療を受けている方は、自分の判断で始めず医師に相談してくださいとのことです。マインドフルネスとは「今の瞬間」の現実に常に気づきを向け、その現実をあるがままに知覚し、それに対する知覚や思考とらわれないでいる心の持ち方です。最初は、10~15分を目安に始めます。(1)背筋を伸ばして、両肩を結ぶ線がまっすぐになるように座り、目を閉じる脚を組んでも、正座でも、椅子に座っても良いです。「背筋が伸びてその他の体の力は抜けている」楽な姿勢を見つけて下さい。(2)呼吸をあるがままに感じる呼吸をコントロールしないで、身体がそうしたいようにさせます。そして呼吸に伴ってお腹や胸がふくらんだり縮んだりする感覚に注意を向け、その感覚の変化を気づきが追いかけていくようにします。例えば、お腹や胸に感じる感覚が変化する様子を、心の中で、「ふくらみ、ふくらみ、縮み、縮み」などと実況すると感じやすくなります。(3)わいてくる雑念や感情にとらわれない単純な作業なので、「仕事のメールしなければ」「ゴミ捨て忘れちゃった」など雑念が浮かんできます。そうしたら「雑念、雑念」と心の中でつぶやき、考えを切り上げ、「戻ります」と唱えて、呼吸に注意を戻します。「あいつには負けたくない」など考えてしまっている場合には、感情が動き始めています。「怒り、怒り」などと心の中でつぶやき、「戻ります」と唱えて、呼吸に注意を戻します。(4)身体全体で呼吸するようにする次に、注意のフォーカスを広げて、「今の瞬間」の現実を幅広く捉えるようにしていきます。最初は、身体全体で呼吸をするように、吸った息が手足の先まで流れ込んでいくように、吐く息が身体の隅々から流れ出ていくように感じながら、「ふくらみ、ふくらみ、縮み、縮み」と実況を続けていきます。(5)身体の外にまで注意のフォーカスを広げていくさらに、自分の周りの空間の隅々に気を配り、そこで気づくことのできる現実の全てを見守るようにしていきます。自分を取り巻く部屋の空気の動き、温度、広さなどを感じ、さらに外側の空間にも(部屋の外の音などに対しても)気を配っていきます。それと同時に「ふくらみ、ふくらみ、縮み、縮み」と実況は続けますが、そちらに向ける注意は弱くなり、何か雑念が出てきたことに気づいても、その辺りに漂わせておくようにして(「戻ります」とはせずに)、消えていくのを見届けます。(6)瞑想を終了するまぶたの裏に注意を向け、そっと目を開けていきます。伸びをしたり、身体をさすったりして、普段の自分に戻ります。以上、NHKスペシャル「ストレスキラー」ホームページより引用しました。私がストレス対策で思ったことは、まずは適度に体を動かす。自分なりにストレス解消法をできるだけ書き出してみる。できれば100個ぐらい。ストレスの時はそれらをいくつかを組み合わせて実行してみる。つぎにマインドフルネスを毎日10分程度行う。以上を実行してストレスをためこまない生活を心がけたいと思いました。
2017.01.25
コメント(0)
人間は危険やストレスにさらされるとどうなるか。その情報は扁桃体に伝えられて対応を始めます。その情報は副腎皮質に伝えられます。副腎皮質はすぐにストレスホルモンを出します。そして心臓の鼓動を活発にします。血管も収縮させて即座に目の前の危険に対応できる態勢をとります。でも一旦危険が去るとストレスホルモンは出なくなり、緊急時対応は終息してきます。ところが過去の失敗にいつまでもとらわれる。あるいは将来のことに取り越し苦労をするようになると、ストレスホルモンは常時出続けることになります。ストレスホルモンの本体は「コルチゾール」です。長く続くストレスでコルチゾールが多量に分泌されると、脳の海馬で、神経細胞の突起を減少させることが分かってきました。損傷すると、認知症やうつ病につながる可能性が見えてきたのです。ストレスは長く抱え続けることは心身に悪影響を及ぼしてしまうのです。NHKスペシャル「ストレスキラー」では、誰にでもできる画期的なストレス対策を紹介されていました。ウォーキング等の運動、ストレスを軽減させるための「コーピング」。そして、瞑想をベースに生まれた「マインドフルネス」です。今日は「コーピング」。明日は「マインドフルネス」を紹介します。まずストレスを軽減させるためのコーピングの手法のやり方は次のようなものです。(1)ストレスに対してどんな気晴らしや対策を行えば効果的かリストアップします「できるだけ多くあげる」ことが大切です。できれば100個ぐらいあげてみましょう。「ストレス対策を100個もリストアップするなんて難しい!」と感じますよね。そのコツは「行動するコーピング」だけではなく「認知するコーピング」も取り入れること。ストレスが下がる場面や行動を『イメージ』するだけでも立派なストレス対策です。たとえば「こんな場合イチローならどうするだろう」と考えてみることなどです。伊藤先生が指導した男性の100個のリストが「キラーストレス第2回」のホームページに紹介してありますので参考にしてください。(2)実際にストレスがかかった時、それがどういうストレスなのかモニターします弱いストレスか強いストレスか。そして、自分の体にはどのような反応として現れたか、例えば心臓がドキドキする体の反応か、気分が沈む心の反応か、客観的に観察します。(3)そのストレスに見合った気晴らしや対策を行います体に反応が現れることが多い「頑張るストレス」の時には、音楽を聴いてリラックスするなど、気分をしずめるものが効果的と考えられています。逆に、心に反応が現れることが多い「我慢するストレス」の時には、カラオケで盛り上がるなど、気分を上げるものが効果的と考えられています。(4)その結果、ストレスが減ったかどうかを自分で判断まだストレスを感じていたら、さらに対策を続けたり、別の対策に切り替えたりします。このように、自らのストレスの観察、そして対策を、意識的、徹底的に繰り返すことが大切です。
2017.01.24
コメント(0)
森田理論を使ってアメリカ大統領トランプ氏の政策を考えてみた。トランプ氏の政策の要は「アメリカファースト」 、つまり「アメリカ第一主義」です。今まで世界経済は自由経済、自由貿易でおこなわれてきました。その結果、アメリカには他国の安い商品が入り、自国の多くの企業は競争に敗れて疲弊してきました。また、アメリカの大企業は賃金の安い発展途上国に工場を移転させて、国内から出てゆきました。その結果、アメリカの多くの国民にとって働き口がなくなり、最低限の生活に甘んじている。経済の自由化、クローバルーリズムは、アメリカにいささかの利益ももたらさなかった。これからは、アメリカ国民だけのこと考えて保護主義でいくというのだ。TPP離脱、 NAFTA見直し、貿易の不均衡の是正(中国、メキシコ、日本など)を打ち出している。つまりトランプ氏は行き過ぎた自由経済、自由貿易に待ったをかけた政策を推進していくという。しかし、このやり方は第二次世界大戦前の保護政策とほぼ同じことです。その時のことは教訓としてよく学習されているのだろうか。国内の工場を海外にでていかないようにして、アメリカ国民の働く場所を確保する。貿易不均衡を是正するために、輸入品には多額の関税をかける。これをやられると特に中国は大変だと思います。それから、これまでのような野放し状態の移民の受け入れも厳格に制限をしていく。日本の自動車産業などは、アメリカから出て行ってもらいたいような言動を繰り返している。これに対して日本自動車メーカーは戦々恐々としている。今までの政権とは全く異なる考え方であり、政策運営が成功するかどうか予断を許さない。しかし、私が思うには、理念としては決して悪くはないと考えている。というのは、この考え方を推し進めていくと、人間の欲望の暴走に制限をかけることになるからである。人間というのは野放しにしておくと、欲望が欲望を産み、加速度がついて世界の破滅の方向に動き出していく。人間は、その中に放り込まれると、容易に抜け出すことができなくなる。無制限な自由貿易、グローバルリズムの考え方は、何らかの制限をしないと、戦争などを引き起こして人類の破滅をもたらしてします。近い将来、もし第3次世界大戦が起こるとすると、核爆弾によって人類の将来はない。保護主義は、今までのような無制限な物質的な豊かさを追求することはできなくなる。自由な経済活動や自由貿易が制限されてしまうからである。ただ、この保護政策は過去の歴史で国際社会が戦争へと突き進んでいったつらい経験を持っている。日本が戦争に突き進んでいったのは、アメリカが日本への石油をストップしたからであった。私は、過度の保護政策、過度の自由貿易のどちらも問題だと思う。森田理論で言うと、欲望を追い求めるに際しては、必ずその追求が度を過ぎないように制御することも必要である。どちらにも偏らないようにして、自由とその制限のバランスをいかに取っていくかが最も大事なことだと考える。トランプ氏はビジネスマンであり、アメリカ国民の利益優先をどう実現していくのだろうか。他の国の指導者も、自国の利益を優先して、ビジネスに当たればよいという。トランプ氏は不動産を通して百戦錬磨の戦いを勝ち抜いてきた自負がある。多国間交渉よりは、二国間の交渉では決して負けないという自信があるのだろう。そこには話し合いとか協調という考えはない。勝か負けるかの世界観で支えられている。相手の国のこと思いやるという考えはない。二国間の考え方の違いを調整してwin winの妥協を目指すという考えもなさそうである。自分の考えを一方的に相手に押しつけて説得するやり方である。このやり方では軋轢をあちこちで生み出し、新たな問題を噴出させるのではと思う。みなさんはどのようにお考えでしょうか。集談会で他の人の意見を聞いてみたいと思います。
2017.01.23
コメント(0)
フランスのクロード・ショーシャ博士は次のように言われている。臓器は24時間 、休みなく働いているわけではなく、それぞれに活動している時間帯と休んでいる時間帯がある。消化に関わっている肝臓、膵臓、腎臓、胃は代謝のリズムが大きく異なっている。だから臓器の活動時間にあわせて、最適な食事をすれば、内臓の負担が少なく、細胞の炎症も少なくてすむ。例えば、朝は肝臓が活発になっていく時間帯だ。肝臓は午前11時ごろのピークに向かって高まっていく。だから、朝食ではエネルギーの元になる脂肪と、新しい細胞の材料となるたんぱく質を取るのが良い。卵、魚、鶏肉などが勧められる。朝食を甘い菓子パンとコーヒーで済ませる人もいるかもしれないが、実はこれは最も内臓に負担をかける。朝は膵臓が不活発のために、糖分を分解するインスリンの分泌が十分ではない。そんなところに、吸収の早い糖が入ると、膵臓の負担が大きくなって細胞に炎症が起きる原因となる。昼食は、肝臓の代謝機能が高まっている時期だから、やはりたんぱく質をメインに摂ることが好ましい。3時か4時ごろ間食は、膵臓の代謝が活発になって、インスリンの分泌がピークになる。甘いもの食べてもいい時間帯だ。甘いものを食べても太りにくい。夕食は、肝臓の代謝機能が下がっている時間帯なので、動物性脂肪は控えたい。また、膵臓も不活発になっているため、砂糖や炭水化物、果物を控えることが望ましい。逆に夜、代謝活動が上がってくるのが腎臓だ。日中、肝臓や膵臓の代謝で作られた老廃物を排泄のために処理する時間帯である。水分を多めに取って、うまく処理を進められるようにするのが理に適っている。次に、食べる順序も大切だ。というのは、食べ始めに炭水化物をとると血糖値がドーンとあがる。インスリンが大量に分泌されて血糖値を下げると、今度は食事の間ずっと血糖値が上がりにくくなる。こうした血糖値の激しい上下は、内臓に大きな負担となって細胞の炎症を引き起こす。だから「食事ではまずたんぱく質から」と覚えておくと簡単だ。その点、日本食は理にかなっているといる。日本の会席風の料理なら、まず先づけが出て、刺身、焼き物と続く。油を使った揚げ物がだされるとしたらその後だ。たんぱく質からとることになるので、血糖値は緩やかに上昇する。(「がまん」するから老化する 和田秀樹 PHP新書 116頁より引用)ここで注目すべき事は、内臓の働きにもリズムがあるということです。このような事は考えたこともありませんでした。つまり、内臓のリズムを無視した食生活をしていたのです。例えば、朝から炭水化物を大量に取る。あるいは、甘いものもたくさん食べるなどです。森田先生もリズムの研究をされておられました。我々の人間の生活機能は、心臓の鼓動、呼吸、消化器の活動、筋肉の運動など、みんなリズム運動であると言われています。また、われわれの精神機能もリズムがあります。例えば注意という機能も、知らず知らずの間に、緊張と弛緩とが交代してリズム運動になっている。リズムというのは波があるということだと思います。我々の生活態度としては、そのリズムの波にうまく乗って生活をしていくことが重要になると思います。リズムに反する活動は心や体に変調をもたらすものであると思われます。
2017.01.22
コメント(0)
新聞によると、将棋の現役最高齢記録を持ち、長くトップ棋士として活躍してきた加藤一二三 ・九段が、 1月19日第75期名人戦順位戦のC級二組から陥落、規定により現役から引退することが決まった。将棋界というところはとても競争の激しいところである。棋士は、A級(定員10名) 、 B級1組(定員13名) 、 B級2組(約22名) 、 C級1組(約26名) 、 C級2組(役54名)の5ランクに分けられ、 A級リーグの優勝者が、名人位をかけて7番勝負を争う。 A級とB級1組の上位2クラスは、毎年2人が降級するシステムになっており、苛烈なことに、対局料はこのランクを基準にして決定されている。段位はどうなっているのかというと、基本的には、 1度でも A級に昇格したものは 八段、以下B級1組が7段となり、 順に段位が下がり、最後がC級2組の4段ということになる。これに勝数による昇段規定が加わる。つまり、毎年、昇級者、降級者を出す将棋界にあっては、 八段や九段の先生がC級1組やC級2組に在籍することにもなる。ちなみに九段は、タイトル獲得数や、通算勝数などが規定に達した棋士に与えられる称号である。加藤さんは、 14歳でプロデビュー。順位戦では毎年昇級を続け、最高峰クラスのA級に昇級した時が18歳という離れ業。その後ずっと第一線のトップ棋士として存在感を示した。将棋の三段以下は奨励会員として上を目指す。 三段と四段は実力的にはほとんど紙一重の差しかないのだが、身分、待遇は、 天と地ほどの開きがある。現在、奨励会の規定では、 26歳の誕生日までに四段になれなかった者は退会になる。定員が限られており、 三段にまで辿り着けずに辞めていくものが多い。めでたく四段のプロ棋士になれるのは、奨励会入会者の2割程度と言われている。それほどプロ棋士として生活を成り立たせることは至難の業である。そう考えると、加藤一二三・九段が77歳まで現役のプロ棋士として活躍されたのはよほどの精進のたまものであったのだろう。驚異そのものであった。
2017.01.21
コメント(0)
政府が今月20日召集の通常国会に「農業改革関連法案」を提出する。内容としては、日本の農業の国際競争力向上を図ることを全面的に押し出している。農業競争力強化支援法案は、アジアでの覇権をねらう中国に対抗するためあらゆる手段が考えられている。また、高齢化が進む農家の世代交代を促すため土地改良法を改正し、高齢農家が自費負担なく農地を貸し出せるようにする。離農する高齢農家の農地を集約して国際競争に耐えうる農業生産を行うようにするという。はたしてこのような方向で進んでもいいものか。森田理論を学んだものとして納得できない。私は日本の農業というのは、国際競争力があるかどうかというよりも、日本が主要農産物を自給できる方向を目指しているかどうかが重要であると思っている。この法案には食料の自給という考えは全くない。儲かる農業、稼げる農業、外国と競争できる農業という面ばかりが取り上げられている。力士と高校生にガチで相撲をさせようとしているようなものなのだ。要するに、政府は食料を自前で確保するという考えは端から持っていないのである。食料は基本的に工業製品などを売って、安い農産物を買って食べていけばいいではないかという安易な考え方をしている。もし今森田先生が生きておられたら、このような考えをどう思われるか聞いてみたいと思う。森田では自分のできることを安易に放棄して、他に依存してはならないという。安易に依存してしまえば当面今までの苦労から解放されてほっとするかもしれない。でもしばらく経つと生きがいを失い、心身ともに衰退して病気を誘発してしまう。最後には生きる屍となり果ててしまう。森田先生は、日本人の食べ物は自分たちで作る。地産地消が基本だと言われるのではなかろうか。それが日本人として本来の進むべき道でのような気がする。また、食料を他に依存した場合、世界的に食料不足になった場合、日本人が生命の危険にさらされるのはもちろんのこと、日本という独立国が容易に被支配国へと転落していくことを意味しているのだ。核爆弾で脅しをかけなくてもよい。食料を餌にして日本を自由に支配できるのである。さらに世界の人口は爆発的に増加している。将来は90億人を超えると見込まれている。日本がいつまでも世界の食料を買い付けることが可能になるとは到底思えない。その時には、日本は中国の属国となる可能性すらある。農産物の自給を目指していくことは、どこの国でもやっている当たり前の政策であるということが分からないのであろうか。政府は国益、つまり大企業の代弁者としての役割を果たしている存在なのだと言ってしまえばそれまでのことであるが、残念なことである。国の方向性を見誤っているとしか思えない。
2017.01.21
コメント(0)
2011年に75歳で亡くなった立川談志師匠の弟子である立川談春の著「赤めだか」(扶桑社) に、立川談志師匠が弟子を育てるときの言葉が残っています。 「あのな坊や。お前は狸を演じようとして芝居をしている。それは間違っていない。正しい考え方なんだ。だが、君はメロディーで語ることができていない。不完全なんだ。それで動き、仕草で演じようとすると、わかりやすく云えば芝居をしようとすると、俺が見ると、見るに堪えないものが出来上がってしまう。形ができてない者が芝居をすると型なしになる。メチャクチャだ。型がしっかりした奴がオリジナリティを押し出せば型破りになれる。どうだ、分かるか?難しすぎるか。結論を言えば、型を作るには稽古しかないんだ」 成長するためには、形ができていることが必要で、そのためには稽古しかない、という主張なのですが、その型とは先人達から伝承される知識と応用技術のことを指します。そして先人たちの知識と応用技術を受け継ぐためには、まずそのすべてを教えられる通りに覚えることです。 逆に考えれば、成長を阻害する要因は、未熟な頭で先人たちの知識と応用技術にケチをつける。不用と決めつけたりして、すべてを受け入れないことにあります。 ところが、表面的な個性が格好良いと思われるようになった現代では、自分の意見を表に出すことをよしとする風潮が強いように感じます。立川談志師匠は、まさしくそのような考え方を戒めているのです。 (理不尽な評価に怒りを感じたら読む本 藤本篤志 ダイヤモンド社 183頁より引用) 武道に「守・離・破」という言葉があるが、この事と同じことを言われているのだと思う。 つまり武道では、最初は師匠の技を真似して身につける。技が身についたら、自分の独自のもの付け加えてみる。そして最終的には師匠とは違った自分のオリジナリティを開拓していく。 これは森田理論学習に即して考えるとどういうことか。 私たちは神経質性格を持ち、神経症で苦しんできたわけですが、そういう人たちが社会に適応していくためには、独りよがりの生き方を打ち出していくより、まずは森田理論を学習していく。それも謙虚な気持ちで徹底的に学習していく。その際、最初に森田理論の基礎知識を学んでいく。神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、認識の誤りなどである。 その次に、私が提唱している「森田理論全体像」を頭に叩きこんでいく。次にその中で述べている森田理論の4本柱を深耕していく。ある程度学習が進んだら、いったん森田理論学習から離れてみる。つまり学習したことを生活面に応用していくことに専念する。森田理論を様々に応用していく。あるいは森田理論をもとにして神経質者の生き方・生きがいについて考えてみる。世の中の様々な問題点について森田理論の視点から考え直してみる。そのように展開するほうがよいように思います。 森田理論学習は、より深く学習することは必要ですが、ある程度学習が進んだ後は、思い切って学習一辺倒から離れてみることも重要になるのではないでしょうか。
2017.01.20
コメント(0)
大原健士郎先生の話です。 動物は仮面をつけて仲間と接することはない。大人の人間として求められることは、この仮面をきちんとつけているということである。大人同士の付き合いは、仮面をつけた上で作られると言ってもいいだろう。 身近な例でいえば、赤の他人に対しては、家族に対するのとは違って、言葉遣いや振る舞いに十分気を遣うだろうし、ときには、自分の欠点をカモフラージュしたりもするだろう。また、会社では心を鬼にしてでも叱らなければならないこともあるが、そんな時は怒っている仮面をつけて厳しく接する。逆に、自分がむしゃくしゃしていても、にこやかに接しなければならないときは、笑顔で接しようと心がける。これらは、現実の生活の中では当たり前のことなのだ。皆それぞれ仮面を被っているのだが、その時に、 「自分だけが特別で、これは病気だ」などと思ってしまうと、非常に苦痛となって神経症の状態になってしまいかねない。仮面と言うとなんだか偽善的に思われがちだが、これは人づきあいには必要なものと知るべきなのだ。(「不安な心」と上手に付き合う本 大原健士郎 PHP 105ページより引用) 大人の対人関係は、人格と人格との付き合いである。人格を英語で表すと、パーソナリティーとなるが、このパーソナリティーの語源は、ラテン語の「仮面」(ペルソナ)である。ギリシア劇で俳優たちは仮面をつけて演技をしたと言われている。日本の能などでもそうである。人間は自分の欠点を隠し、長所だけを表面に表して仮面で対人関係を形成している。顔色の悪い女性は頬紅や口紅をつける。儀式に参加する人はそれなりの服装をする。あれもこれも仮面の1つである。 「仮面を拒否する」生き方は、人間関係を窮屈にするだけだ。自分の心をむき出しにするのではなく、隠してくれる「仮面を認める」ことで、人間関係はスムーズに運ぶのである。 (同131ページより引用) この話は、森田理論学習で言うと、感情と行動は別物として取り扱うと言うことだと思います。普通の人は人間関係において、明確に感情と行動を切り離している場合が多い。私たちはこの2つをなかなか分離して取り扱うことができない。つまり大原健士郎先生が言われるように仮面をつけないで、感情のままに行動していると言えるのではないでしょうか。たとえば、心の中で「あの人は嫌いだ」といったん思ってしまうと、その気持ちをそのまま相手にぶつけてしまう。不機嫌な態度をとる、挨拶をされても挨拶を返さない。こんなことが何回も重なると、相手は逃げていってしまう。また、こういう態度はあらゆる場面で発揮され、ついにはみんなから背を向けられて孤立してしまう。そうなってしまうと、人間関係が破綻してしまい、ついには会社を辞めざるを得なくなる。実に残念な結果となる。 森田ではどんなに相手のことを憎んでもよい。でも、その気持ちを態度としてあらわしてはいけない。役者のように演技をしてみるという気持ちをしっかり持っておくことが大切となる。
2017.01.19
コメント(0)
超高齢社会を迎え、「日本老年学会」は、現在65歳以上とされている「高齢者」の定義を75歳以上に引き上げるべきだという提言をまとめました。提言では、そのうえで現在は「高齢者」とされている65歳から74歳までの人たちについては新たに「准高齢者」と位置づけ、健康な間は仕事を続けてもらう。経験を生かしてボランティアに参加するといった活動を後押しするなど、活力のある社会をつくっていく必要性を強調しています。その一方で、今回の提言を年金の支給年齢の引き上げなど、今の社会保障の枠組みに直接結びつけず、慎重に議論するよう求めています。日本老年学会の大内尉義医師は「この20年ほどで老化のスピードが遅くなり、今、高齢者と呼ばれる人は生物学的に5歳から10歳ほど若返っていると見られる。若い労働者が減るなか、現在、高齢者とされている人たちの意識を変えて、社会を支える側に回ってもらう必要があるのではないか」と言われています。事実、平成27年の平均年齢は男性が80.79歳、女性が87.05歳となりました。また、介護の必要がなく、健康的に生活できる「健康寿命」も、平成25年の時点の推計で、男性が平均で71.19歳、女性が74.21歳です。私は高齢者、准高齢者という区分けはなぜ必要なのだろうと思います。一人の人間として命を全うするまで現役ではないのかと思います。私の周りでも、定年を迎えて全くリタイヤーして、趣味や旅行等で消費一辺倒の生活を送っている人もいます。それまで仕事をもって緊張感の中で生活されていた人です。仕事をやめた途端に解放されて、肉体的にも精神的にもほっとされて弛緩状態に入ってしまった人です。エブリデイ・サンデイといって喜んでいる人たちです。夜遅くまで起きていてテレビを見る。あるいはテレビゲーム等をしている。朝はいつまでも寝ている。生活にメリハリが無くなっている。話し相手も配偶者だけになっている。ジムに通う。カラオケなどの趣味のサークルに入る。食料の買い出しについていく、家に帰ればDVDをみる。録画していたテレビを見る。こんな生活をしていて、「今日は何もすることがない。どうやって一日を過ごそうか」などと考えるようになると、かなり心身ともに衰弱してきているのではないでしょうか。認知症の予備軍、あるいは病院通いが日課という状況に追い込まれていくのではないでしょうか。森田理論学習を続けている人は、定年前から好奇心のあることには積極的に手を出す。人の役に立つことには積極的にかかわっていく。仕事以外にも多方面に人間関係を作りあげている。日常茶飯事を丁寧に行う。家庭菜園などもこなしている。規則正しい生活を維持する。等森田的な生活が身についている。つまり定年を迎えても、緊張感が今までと変わらず維持できている。急に心身が弛緩状態になって、ただ生きながらえている状態とは雲泥の差がついていると思います。森田理論学習を続けてきて、末広がりで、納得のできる人生を謳歌できるようになってきたなと感じる今日この頃です。
2017.01.18
コメント(0)
過労死問題でブラック企業と言われている電通では社長が辞任することになった。電通に勤めていた高橋まつりさんが一昨年12月に自殺したのは、直前に残業時間が大幅に増えたのが原因だとして、三田労働基準監督署(東京)が労災認定していたことが分かった。遺族代理人の川人博弁護士が明らかにした。認定は9月30日。川人氏によると、高橋さんは東大卒業後の四月、電通に入社し、インターネット広告などを担当した。本採用となった10月以降、業務が増加し、11月上旬にはうつ病を発症したとみられる。2015年12月25日、東京都内の社宅から投身自殺した。労基署は発症前一カ月の残業時間は月約105時間に達したと認定。2カ月前の約40時間から倍増していた。電通という一流と言われる会社でこのような働きを強制されていたことに驚きを隠せない。これはみなさんも少なからず身をもって体験して追われることだろうと思う。私も残業は毎日9時ごろまでは普通だった。月末などは12時までの業務は普通だった。仕事に追いつくために土曜、日曜日に出勤することは常態化していた。有給消化はほとんどなし。係長までは残業手当が付いていた。ところが課長になった途端にカットされた。つまりサービス残業と言われるものである。企業では同業他社と熾烈な生き残りをかけて、競争を続けており、リストラ等で人員削減が行われていた。辞めていく人も地獄、残るのも地獄と言われていた。こんな中で出世競争に心血を注いでいた人、責任感が強くまじめに仕事に向き合っていった人ほど悲惨な結果となった。むしろ出世を望まない人。リストラされない程度の仕事しかしない人。こういう人が定年近くまで生き残っていったように思う。仕事は苦痛だが命をつなぎ、家族を養っていくためにはしないわけにはいかない。また森田では、仕事は物そのものになりきって、工夫や発見が出てくるようになれば面白くなる。仕事が苦痛だというのは言われた事を機械的にこなしているからではないかと言われることもある。確かにそうだ。それでも今の働き方は問題が大きすぎる。合理化、成長力、競争力、能力査定、実績査定、目標管理等でがんじがらめに縛られている働き方はどうなのだろうか。効率、能率、出来高一辺倒の世界だ。人間を物や道具としてしか考えていないのではないのか。これが人間らしい生き方に結びついていくのだろうか。私は仕事にのめり込んでいくというのは、一時期はよくても必ず破綻してくると思う。仕事中毒と言われる人はとても危ない。うつなどになって休職に追い込まれるのは神経質でまじめで責任感の強い人が多い。そういう人にはホドホド道を勧めたい。多少出世しなくても、給料が少なくても、定年近くまで会社で働くことを第一目標にする。リストラ対象になっては大変であるが、それでも働きすぎには注意をする必要がある。厚生労働省では「労働者の疲労蓄積度自己診断チェックリスト」、家族による「疲労蓄積度チェックリスト」を作っている。その診断をしてみることが大切だ。悪い診断結果が出た場合は何らかの手を打った方がよい。森田では、職場生活、家庭生活、地域・社会生活、ゆとり生活等のバランスをとった生活を勧めている。職場生活に偏った生活を続けていると、いずれ心や体に問題を起こしてくると思う。バランスのとれた生活を維持することがもっとも大切である。
2017.01.17
コメント(0)
今日の集談会で親子の人間関係、夫婦の人間関係、親友とは何かなどについて話し合われた。 それによると、テレビドラマに見られるようななんでも話し合えるような和気あいあいとした人間関係現実にはあまりないということが分かった。 それぞれにぎくしゃくした人間関係で苦闘しておられるケースが多かった。 親子の場合は、全く会話がない、離れて暮らしていて音信不通という人もおられた。 夫婦の場合は全く無干渉という場合があった。実質破たん状態にある人もおられた。 また意外にも友人関係の少なさが浮き彫りになった。友人関係の場合は、交際範囲がとても狭く偏っているように感じた。 これらは幼少期から、あるいは結婚当初から始まっている場合が多かった。 親子の場合は、過保護、過干渉、放任などが原因となっている場合が多かった。 特に子供を自分の思い通りにコントロールしようとしている場合、幼少時は問題がなくても、大人になって、対立関係に陥りやすいことがわかった。 夫婦の場合は、自分の意見を無理やり押し通そうとするとうまくいかないことがわかった。 腹が立った時など、ストレートに相手にぶっつけているような場合はすぐに溝ができてくる。なかには奥さんが寝静まったころを見計らって帰宅する人もいる。 仲良くしている夫婦でも、四六時中べったりひっついている人間関係では息苦しいという話が出た。特に女性からは、旦那がいつも家の中におられては息が詰まるという話が出た。 「亭主はいつも元気で留守がいい」というのだ。 夫婦の人間関係は、森田理論で言うところの、「不即不離」の人間関係が望ましいという話が印象的であった。 また、夫婦の人間関係で大事な事は、いくら腹が立ってもその感情はそのままにしておくこと。そして家事や親せき付き合いなどは、その時その場で為すべき事を着実に実行していくことが大事であるということがよいという話であった。 次に親友であるが、いつもべたべたと引っ付きあっている関係ではなさそうだということが分かった。親友はいつも動向を気に留めていて、何かあったときに何かと相談に乗ってくれるような関係。つまり困ったときに何かあったらあの人に相談すればよいという「心の後ろ盾」のような関係ではないか。確かにそういう人なら私にも3名ほどいる。 そして友達関係はコップに少しだけの人間関係をたくさん作り上げておいて、臨機応変に、そのときその場で軽めの付き合いを継続していくのがよいと感じた。
2017.01.16
コメント(0)
小学5年生で1985年12月号に掲載された「嫌いなテストにがんば・ ・ ・ 」は、ドラえもんマンガのエッセンスを凝縮したもの、と言っても過言ではありません。 このお話では、のび太は「今度こそ、 0点取るわけにいかない。徹夜で勉強しなくちゃ」とドラえもんに力説し、勉強を始めます。でも「いつも同じことを言っている」とドラえもんが軽くいなすと、 「そう、そこが問題なんだ。いつも今度こそやろうと決心して、結局、何もしないで朝を迎えるんだ」とのび太も同調しています。それに対して、 「わかっているんだね」と相槌を打つドラえもんに、 「だが、今度こそそうはいかない。せめて20点は取らなきゃ人間やめるしかない」とまでのび太が主張したので、ドラえもんも「よし、そこまで言うなら力をかそう」と応援を決心します。 そうしてのび太は勉強始めますが、続かないので、ひみつ道具やしずかちゃんに協力してもらいます。それでも勉強始めないのび太を、ドラえもんは見放してしまいます。すると、のび太は大粒の涙を流しながら「許して!君に見放されたらおしまいだよ。どうやら僕は2人いるらしいんだ。机に向かうまでは本当にやる気満々なんだよ。それが・ ・ ・机に向かった途端・ ・ ・コロッと人が変わって怠ける事しか考えない・ ・ ・ 」とドラえもんに訴えます。 のび太の2つの心、つまり怠け心を持った黒いのび太と、がんばり心を持った白いのび太が突き出されました。そこから、何度も何度も黒いのび太と白いのび太が激烈に戦うことになります。白の勝利を願えば、白が強くなります。白が勝利すると苦労は消えて、のび太はバリバリの頑張り人間になることができます。でも、のび太が「少しぐらい昼寝をしたり、遊んだりしたいな」と考えると、黒いのび太が白いのび太をノックアウトしてしまいます。 黒いのび太に比較して、白いのび太はひ弱です。しかし何度ノックアウトされても、よろよろしながら立ち上がる白いのび太の健気な姿を見て、ドラえもんは白いのび太を消さないように根気よく育てることが自分の天職だと考えるのです。 ( 「のび太」という生きかた 横山泰行 アスコム 170ページ引用) この話では、森田理論で言うと生の欲望に関係があります。不安に振り回されることがなく、生の欲望の発揮に向かうことができても、目的や目標に向かって精進を続けると言う事は並大抵の事ではありません。高い壁に阻まれて意欲を失ってしまうこともあります。 また、人間は、もともと 「休みたい!楽をしたい!人が見ていないとサボりたい」という面もあります。つまり、のび太が言うように、常に黒い自分と白い自分がいます。しかし、ここで大切な事は何度ノックアウトされて、一方後退しても二歩前進していくという気持ちを持ち続けることです。目標は大きく実践目標は小刻みに着実に歩み続けることが重要です。 森田では不安に翻弄されることなく、生の欲望の発揮にまい進することを学びますが、生の欲望の発揮にはそれなりに乗り越えなければならないハードルが待ち構えているということだと思います。
2017.01.15
コメント(0)
ドラえもんは人間の子守用として開発されたネコ型ロボットです。 21世紀の野比家でのび太の孫の孫であるセワシ君の子守をしています。 そのドラえもんが、セワシ君が幸せに暮らせるように、最も出来の悪いご先祖様の歴史を修正するたびに出かけます。それがのび太くんだったのです。この作者は藤子・F・不二雄さんですが、人間の生き方について大切なことを私たちに教えてくれているように思います。 その1。現実と夢の間には大きなギャップが必ず介在しているものです。そのギャップを一歩一歩うめて、夢の世界へ架け橋をかけるのが人生の営みではないでしょうか。なるほど、うまい表現ですね。森田では生の欲望の発揮ということですね。 ところが普通は苦手な課題に対しては、やる気の水準も低く、チャレンジする精神も弱いのが普通です。 最初から100%解決できる方法は残念ながらありません。 やる気を育てるには苦手な課題に対して、興味を思ったり、周囲の人たちから適切なアドバイスを受けたり、あまりくよくよ考えないでしゃにむに取り組んでみることです。 チャレンジしつづけるエネルギーがある限り、問題の解決に至る道は決して消え去る事はありません。 ともすると私たちには、日々の生活で、いやだなと思うことはたくさんあります。いやだと思うことから逃げてはいませんか。耳の痛い言葉です。 その2。 良かれと思ってとった行動で失敗してしまう事は誰にでもあります。 移動時間を短縮しようと、タクシーに乗ったら渋滞に巻き込まれて、かえって時間をロスしてしまう。 同僚の仕事を手伝ったらやり方が間違えて二度手間になる。こんなことなら最初からやらなければよかったと思うことがあります。でも後悔してしまうような行動でも何もしないでいるよりはマシです。それは失敗から自分に合ったやり方を探す鍵が見つかるからです。 たとえ自分のしたことが裏目に出てしまっても、1つ学んだと思えるのではないですか。 あれこれ考えず、即行動を始めるスピード感も夢を叶えるために必要な条件です。 仕事を依頼されたのに何日も手を付けない。またはフットワークが悪いと信頼感をなくして、仕事がなくなってしまうことがあります。 また行動しないと注意と意識がどうしても外向きにならず、内向化してきます。これは神経症の原因になります。 やるべきことにすぐ手をつけると言う事は1つの能力です。森田ではそういう能力を獲得していくことが一つの目標になります。(「のび太」という生きかた アスコム 横山泰行 参照)
2017.01.14
コメント(0)
キネマ旬報社が選出する「 2016年第90回キネマ旬報ベスト・テン」の受賞結果が発表された。日本映画部門の第1位に輝いたのは「この世界の片隅に」というアニメ映画であった。アニメ作品が第一に輝いたのは1988年の「となりのトトロ」以来となる。1月12日、クローズアップ現代+では、この映画を紹介していた。この映画は、太平洋戦争末期、アメリカ軍が日本中で、空襲を行っていた時の人々の生活を描いたものであった。広島市および呉市を舞台にして、身近な死と向き合いながらも、明るく前向きに生きていく1人の女性「すず」さんを描いたものであった。クローズアップ現代+で印象に残ったことがあった。それは広島市で原爆の悲惨な状況を映像として残し、後世に戦争の悲惨さを伝える活動をしている人の話であった。この方は、原爆で廃墟となった広島の街の風景、原爆で大やけどを負った人々 。これらをフイルムに収め、各地で上映会行ってきた。ところが、その映像はあまりにも衝撃的なためか人々から敬遠されていた。この方の戦争の悲惨さを伝えたいという思いは強かったが、思いとは裏腹に、十分にその思いを伝え切れないでいた。そんな時にこの映画に出会うことができた。その人が言われるには、戦争の悲惨さを、これは真実だからという思いで、活動してきたが、それは間違いではなかったのか。「この世界の片隅に」という映画は、戦争の真っ只中で、過酷な運命に翻弄されながら、 1人の女性が明るく前向きに一生懸命に生きていったその姿を資料を基にして忠実に描いていた。。そのことを描き切ることで、いかに戦争が人間の尊厳を踏みにじるものであるかをはっきりと伝えていた。戦争の悲惨さの伝え方と言うのは、ストレートに悲惨な状況を克明に伝えるということは、かえってマイナスになるのかもしれない。この方は戦争の悲惨さについて、今までのやり方とは違ったやり方で取り組んでみたいと言われていた。このことは、森田理論学習をしている私にとっても考えさせられる事であった。我々がつかんだ森田理論を声を大にして神経症に陥っている人々に伝えることが果たして正しいのか。それよりも、私の普段の生活の中で、森田理論をいかに応用し、活用しているのか。そういう方面からの伝え方を真剣におこなっているのであろうか。そういう伝え方の方が相手への伝わり度合いが強いのではないのか。これからはそういう方面の伝え方も前面に押し出していきたいと思う。
2017.01.13
コメント(5)
2017年1月号の生活の発見誌で北西憲二先生が興味深い話をされている。生活の発見誌にはよく傾聴の重要性が記事になっています。しかし北西先生は、傾聴はもちろん大事だが、傾聴だけではロジャーズの来談者中心療法と変わらないと言われているのです。その上で森田が意味を持ち得るのは、傾聴にプラスして「人間に対する理解」があるところです。「生の欲望」に対しもっと注目して、それをどうしたら引き出せるかということ、そして生活の実践を重視するということです。また、「治る、治らない」は症状であり、そこは医療従事者の領域です。自助グループである発見会は、「成長モデル」を担うべきだと言われています。成長していくことで悩みや問題は扱いやすくなっていく。成長を助けようとする人は、結果やアドバイスを「教える」のではなく、寄り添い「歩む」姿勢が必要。共に歩むことで、ベテランも学び、成長する。私も全く同じ思いです。あまり成長したいと考えることはありませんが、納得できる生き方をしたい、味わい深い人生を歩んで人生を全うしたいという気持ちはとても強いものがあります。森田理論はそのために学んで深めていくべきであると考えています。森田理論を神経症克服のためのツールとしてのみ取り扱うことは本末転倒であると思います。断っておきますが、森田理論が神経症克服の有力な力を持っていることを否定するものではありません。そういう意味では、現代の森田理論学習は目的や目標をとり間違えているのではないかと思えるのです。この際「治る、治らない」は医療従事者を信頼して任せてしまったらどうか。私たちは森田理論学習をどのように生活場面に活かしていくのか。生の欲望の発揮、不安と欲望の調和、「かくあるべし」や事実の取り扱い方等に重点的に注意や意識を向けていく必要があるのではないか。そして自分なりに確信を持って生きていけるようになることを目指すべきであると考えます。
2017.01.13
コメント(4)
神経質者は好奇心が旺盛です。好奇心の発揮と「ものそのものになりきる」ことで人生を謳歌することができます。たかが人生、されど人生という素晴らしい体験ができます。たとえばベートーベンの交響曲第九の第4楽章「歓喜の歌」の大合唱です。準備するものは、ショパンという会社が出しているドイツ語で書かれた楽譜です。そして練習用のCDです。これは女性用としてソプラノかアルト、男性用としてテノールかバスがあります。ちなみに私はテノールです。あとから自分一人で楽しむためにテレビで放映されるオーケストラの演奏をビデオなどにとっておくことが役立ちます。一人で楽しむときや仲間と楽しむときそれに合わせて歌うのです。終わったら祝杯をあげるのです。第九の合唱は、1回は指導してくれる人について正式に習うことが必要です。何しろドイツ語で、しかも暗譜で歌うことが条件です。ドイツ語の発音は教えてもらわないと分かりません。一人でマスターできるようなものではありません。発声練習のやり方も教えてくれます。これは今でも役に立っています。これは必要不可欠だと思います。あとは録音機にとったものに合わせて自宅練習です。私はテレビ局が毎年やっている練習会に参加しました。初心者用です。費用は5000円ぐらいでした。7月からはじまりました。練習会には15回程度行ったと思います。最後には指揮者が来ての合唱指導もあります。普段話のできないような名指揮者の指導を受けることができます。そして12月中ごろに本番への参加となります。2回目からは11月からの参加で十分こなして楽しむことができます。目標がはっきりしないとモチュベーションが高まりませんので本番にも参加されるとよいと思います。本番では2000人ぐらいの人が各パートを歌いますのでまさに圧巻で感激を味わうことができます。もちろんテレビ放映もありますのでこれも録画をとっておくことです。合唱の中ごろにクライマックスがあります。ここは聴衆と一緒に歌う部分です。「人類はみな兄弟となる」というような意味です。フろイ デ シェー ネル ゲッ テル フン ケン トホ テル アウス エリーズィウム ヴィーる べ トれー テン フォイ エる トるン ケン ヒム リッシェ ダイン ハイ リッヒトゥム ダイ ネ ツャウ ベル ビン デン ヴィー デる ヴァス ディー モーデ シュトレンゲ ゲ タイルト アーッレ メン シェン ヴェる デン ブリューデル ヴォーダイン ザンフ テる フリューゲル ヴァイルト ダイ ネ ツァウ べる ビン デン ヴィ デる ヴァス ディー モー デ シュトレンゲ ゲ タイルト アーッレ メン シェン ヴェる デン ブリューデル ヴォーダイン ザンフ テる フリューゲル ヴァイルトちなみにフロイデは歓喜という意味です。メンシェンは人々、ブリューデルは兄弟です。みなさんも今年は目標として取り組まれてみてはいかがでしょうか。人生の楽しみ方というのはこのようなことだと感じております。
2017.01.12
コメント(0)
今年に入ってから投稿する原稿は音声入力で作成している。 こんなに便利なツールがあるとは思ってもみなかった。 私が使っているのは、 「ドラゴンスピーチ11ライト」というソフトである。 このソフトは専用マイクが付いて1万円程度であった。ソフト自体はダウンロードですぐ使えるようになった。マイクと使用説明書は後から届いた。 最初の作業としては、自分の音声の特徴をソフトに認識させることだった。これはこのソフトに用意されている、30分程度の文章を読み上げることだった。これが4本あった。ちょっと時間はかかるかこれをするととても認識率が上がる。 それから特殊用語、例えば「思想の矛盾」「精神交互作用」「森田正馬」「純な心」「精神拮抗作用」などは、単語登録してしまえば簡単に認識してくれるようになる。 これをすることで格段に認識効率が良くなった。実感としては80%以上正しく変換してくれる。今はほとんど原稿の下書きは音声入力で行っている。この原稿もwordを起動して直接音声入力している。入力が完了すると名前を名づけて保存し、後で見直すことにしている。すぐにアップしてもいいのですが、音声入力の場合はあまり深く考えないで入力してしまうので、少し問題があるかなと考えています。 記号の入力はすべて音声でできます。例えば、 「 . 」 「 。 」 「 ・ 」 「ー」 「 ( ) 」 「 〒」 「 ~」 「 ※ 」 「 □ 」 「改行」などです。 直前の入力内容を取り消したい、文章の1部を削除したい場合もすぐにできます。直前の入力内容を修正したい場合もすぐにできます。 これはたぶんテープ起こしの作業にも使えるようになると思う。今まではPCM録画機で録音したものを、後で再生しながら少しずつ入力を行っていた。今後はイヤホンでその内容を聞きながら、ダイレクトに音声入力すればすぐに文章化できると思います。今後は会議録を作るときに活用したいと考えています。音声入力のソフトは他にもいろいろあるようですので、導入したい人は、いろいろ比較してみる方が良いと思います。口コミが参考になります。以上、音声入力のソフトの紹介でした。
2017.01.11
コメント(0)
29年1月号の生活の発見誌に近藤章久先生が次のように語っておられる。我々神経質者は部分にとらわれて全体を見ることをしない。不安感に悩んでいるという人を見ていると、その方の全部が不安ではない。全部不安だったら、私の話は聞いておれないはずだ。またさっき不安であったとしても、今真剣に聞いておられるこの瞬間には、不安ではないはずです。こうしてみると、自分の生きている全時間が、全部不安であるということはないのが現実です。ところが神経質な人は、自分は絶対にいつも不安であってはならない。ちょっとした部分でも、ちょっとした瞬間でも、不安であったら大変だという理想的な自分の状態についての標準で、自分の状態を気にしてみる。そうすれば、当然現実には完全に人間が不安でない状態があるはずがないのですから、わずかの不安にも気づく。そうすると、途端にそのわずかな不安を大変だと過大に感じてそれに圧倒されてしまうのです。これは完全主義、完璧主義の人だと思う。神経質性格の人は「かくあるべし」が強く、観念や理想に振り回される。たとえば車のガソリンが減ってきて気になって仕方がない。いつも満タンでないと気になってイライラしてくるような人だ。車に乗れば当然ガソリンが少なくなってくるのに、メーターが下がってくると気になってしい、その不快感を取り除こうと格闘をしてしまうのだ。やることに対して、60%のホドホドのところで折り合いをつけることができない人だ。そういう人は行動すること自体が苦しくなり、最後には手も足も出なくなる。どうすればよいのか。そういう意味では完璧からズボラ人生に転換することが大切である。そういう人は感情面ではどうしても気になってしまうだろう。目に見えないグレートサムシングが、不安、不快感を取り除くことを専念しなさいと誘惑しているようなものだろう。森田理論学習をした人は、これが神経症に引き込まれる原因になることはよく分かっている。したがって感情と行動は別であるということをしっかりと肝に銘じておく必要があると思う。次に森田では、物を見る場合に一方向に偏ってはならないという。決めつけや先入観で見てしまうと、現実、事実との間にギャップが生じる。それをもとにして行動を決断すると、どんどんと横道にそれてしまう。これはまずいことである。本来両面観、多面的な見方をしないと、物を正しく見たことにはならない。また下から上を見るのと、上から下を見る感じも全然違って見える。見る視点が違うと感じ方も違ってくるのだ。我々神経質者は物事を悲観的にマイナス思考で見る傾向がある。よく観察しないで安易に決めつける。先入観で物を見る。いかにそれが一面的で、無茶で、おおげさで、飛躍しているかには気づいていない。考えたことが事実そのものであると信じて疑わない。それらは大いなる認識の誤りである。認識の誤りは反対の見方考え方を紙に書き出してみる認知療法がある。論理療法も同じ手法である。コラム法等を身につけて偏った一面的な見方を修正していく方法がある。一人でやる方法もあるが、集談会等の体験交流の場等で他の人の協力を得ながら身につけることが有効であると思う。
2017.01.11
コメント(0)
神経質性格を持っている人は小さいことによく気が付きます。その特徴を自覚していかんなく発揮していくにはどうしたらよろしいでしょうか。誰でもやればいいなとかよい思いつきは、日常いくらでもあります。特に心配性な神経質者はいろんなことによく気がつきます。それらをそのままにしておきますと、すぐに忘却の彼方に飛んで行ってしまいます。こうなりますと神経症のよさは発揮できなくなります。神経症に陥り主観の世界に入り込んでしまうと、自分の特徴が発揮できなくなって、普通の人以下になってしまいます。また感情の法則の3にありますように、最初に思いついた気づきやアイデアをそのまま放置しておきますと、鈍くなり薄まってしまいます。実にもったいないことです。後で思い出すことすらできなくなってしまいます。ですから、気づきや発見をメモとして残しておくということは大変大切になります。私は100円均一で買った小さなメモ用紙にストラップつけました。そこに小さなボールぺンをつけて持ち歩いていました。道路を歩いている時などに急に森田の投稿テーマなどが浮かんできます。するとすぐにそれをメモするのです。それ以外にも仕事のこと、日常生活のこと、趣味のこと等など思いついたことはすぐに書きとめるのです。1日10個ぐらいはすぐにたまります。次にそれらを一つずつ片付けるのです。手をつけたら線を引いて消し込みます。この実践によって、当面のどん底から抜け出すことができるようになります。最近はもっとよい方法を思いつきました。スマホを利用するのです。スマホにメモ帳というのがあります。これに思いついたことを打ちこむ方法です。ところが私には打ち込むというのがパソコンほど楽ではないのです。ある人がいいことを教えてくれました。メモ帳に音声認識機能があるというのです。確かにありました。メモ帳画面に音声入力で文章化しておくのです。小さな声でもほぼ正確に変換されることに驚いてしまいました。感激しました。自分の求めていたのはこれだと思いました。現在はこのメモ帳に気の付いたことをどんどん音声入力しています。多分これをパソコンに転送できるのではないかと思っています。できたらこのメモ帳をパソコンに送って、編集作業でブログの投稿原稿を短時間で完成させるようにしたい。あるいは日記などもこの機能を利用してできるのではないか等と考えています。皆さんもよいアイデアがあったら是非生活に応用してみてください。私は今度の集談会でこの話をしてさらによいアイデアを教えてもらうことにしています。集談会は宝の山だと思っていますので、活用しないともったいないと思っているのです。
2017.01.10
コメント(2)
最近カラオケに誘われることが多くなっている。誘われる日は事前準備が欠かせない。これに時間をかける。私の最近歌うのは「娘よ」「還暦祝い唄」「博多時雨」「祝い船」「栄冠は君に輝く」に決めている。家でYou Tubeの歌手の歌声をPCM録音機にとる。次にリピート機能を使って小節ごとに分けて何回も聞く。すると歌声の長さが分かる。これを紙に書いている。ここは伸ばすところ、伸ばさないところがすぐ分かる。つまりリズムをつかむということだ。次に歌手が歌っているのに合わせて自分も歌い、録音して聞いてみる。この段階は、まだ音程は度外視している。音の長さ、休止符を重視している。ここまでできればかなり楽になる。これは音痴な人でも誰でも努力すればできることだと思う。次に問題になるのは音程である。カラオケは嫌いだと思っている人は低い音が出ない。また高音が出ない。この点私は新しい発見をした。確かに私は低音、高音に難がある。でも車の中で移動中に1時間ぐらい決めた曲をカラオケに合わせて練習していると、最初は詰まっていた高音がなんとか出るようになった。何回も練習しているとさらにスムーズに出るようになった。その時に思ったのは、プロの人も本番前には念入りに発声練習をしている。スポーツ選手が本番前にストレッチをして、準備体操をして体を慣らしているのと同じことだ。我々カラオケが苦手な人も発声練習をしないとダメなのだ。練習しないでうまく歌えないと言って逃げまくっているのだから始末が悪い。練習次第で高音もある程度は出せるようになるのだと思った。発声練習としては「お・う・あ・え・い」という発声練習をするといいそうだ。つぎに「あ・う・あ・あ・あ・あ・え・い」の練習をする。この場合、「あ」が4つあるが、音としては、「あ・あ・あ・あ」としだいに音の高さを意識して上げていく練習をする。それが終わると順次、「う・あ・え・え・え・え・い・お」というように一つずつずらして練習をしていく。最後の「い・お」は下げていく。私はカラオケの合間にこの練習を取り入れている。カラオケはリズムに乗ることが一番だと思う。次には低音と高音がある程度は出せることだと思う。それ以外にもバイブレーションというテクニックもあるそうだが、素人がみんなと一緒にカラオケを楽しみたいと思えば、この2つの練習で十分だと思う。欲をいえばきりがないが、70点でもよしと思えば満足できる。カラオケは自分でも普段の生活のストレスを発散できるし、なによりみんなが拍手してくれるのがうれしい。対人恐怖の人はみんなにほめられたいという思いが強いが、手っ取り早いところカラオケでそれが可能になるのである。私も自分の生活範囲がまた一つ拡がったようで自信が出てきた。先日昔の仲間と一緒にカラオケに行ったところ、以前はリズムも悪く高音は出なかったのにどうやって修正したのかと不思議がられた。知ってしまえば簡単なことでも、誰も教えてくれる人もなく、解決の手がかりがつかめず四苦八苦していたのである。今となっては笑い話である。
2017.01.09
コメント(0)
森田先生の話に、悲しいから泣くのではない。泣くから悲しくなるのだという話がある。小さい時お姉ちゃんが泣いていると、それを見ていた妹がつられて泣くということがある。悲しいという感情が先にありきではなく、泣くという行動が悲しいという感情を誘発させてきたと見るのが順当なところだろう。為末大さんがブログでこんなことを書いている。表情筋の研究で、割り箸を口にくわえて、コメディドラマや漫画を読むと、何割か面白さが増すという実験がある。口角があがり、笑っている時と同じ表情に近くなり、それを人間の脳は楽しいのだと認識し本当に楽しくなるのだという。さらに笑いを引き起こす大きな要因の一つにつられ笑いがある。つられて笑い、笑ったから楽しいと認識する。楽しいという感情も認識することでうまれるのかもしれない。これらのことから、つらい時、悲しい時、不安な時、恐ろしい時、不快な時の対応方法が分かる。それらの感情に合わせて、行動、実践を抑制してしまうと、双方がシンクロして益々増悪の一途を辿ってしまうということだ。感情と行動の波長を合わせてしまうということが精神衛生上は問題であるということだ。精神的につらい時何もすることが無くて退屈だ。今日はどうやって時間をつぶしていこうか等と考えているとまずい。それらの感情を抱えたままで、行動、実践だけは自分のやりたいこと、目の前の日常茶飯事に手をつけていく方向が望ましい。たとえばお笑い番組を見る、カラオケを歌う、スポーツをして汗をかく、コンサートに行く。家では掃除をする。整理整頓をする。料理を作る。そのために買い出しに行く。友人を誘って居酒屋に行く、旅行に行く、釣りに行く、趣味に手をつける。森田ではいったん起きた感情は取り消すことはできないという。でも新しい行動実践によって新しい感情を作りだすことができると言っています。絶えず新しい感情が湧き起ってくるようになれば一つのことだけでいつまでも悩むということはなくなります。その態度は流れと動きの中に身をおいて、あるがままの生き方をしているということになります。
2017.01.08
コメント(0)
茂木健一郎氏の話です。自分が何かをするためにする脳活動は、「何かをしよう」と意識する前にすでに始まっている。「行動を起こすための準備」は、意識するよりも前、無意識のうちになされているものだと言われている。これはベンジャミン・リベット氏がマインドタイムという本で明らかにしている。それによると、針がぐるぐる回っている時計を前にしたような状況で、あらかじめ被験者に「好きなタイミングでボタンを押してください」と言っておき、被験者がボタンを押したときの脳活動を調べるというもの。すると被験者が「ボタンを押そう」と意識する前に、脳の運動にかかわる領域が、「手を動かす準備」を始めている。意識する1.5秒前に、その運動領域に手を動かすための「準備電位」が発生していたのです。そこで分かってきたのは、「行動を起こす準備」をはじめるのは無意識の方であり、意識は、その行動を「後追い」して理由づけしている存在だということ。そして、意識の役割とは、どちらかというと、無意識の行動を抑えるための「拒否権発動」に近いということです。これは森田理論学習をしているものにとってはとても興味深いことです。森田先生は衝動的な欲望や感情等は理知の力で調整することが大切であると言われました。また森田先生は衝動的な欲望や感情等は否定してはいけない。それらは自然現象でありどうすることもできない。むしろそこを基準にして出発しなければならないということをいわれている。たとえばギャンブルに手を出す。酒が飲みたくなる。女性を見るとムラムラする。不快になれば言い返したくなる。困ったものですがこれが人間の自然な姿です。このような衝動的な行動は、脳内ではまず無意識の領域で「行動を起こすための指令」がすでに発信されているということです。ここが自然現象と言われる所以です。つまり行動の見切り発車が起きているのです。そのまま行動に移れば幼児や動物と同じです。社会の秩序は壊れますし、自分も社会から排除されてしまいます。でも人間の場合は、ほとんどの場合1.5秒後に前頭前野がすぐに「拒否権発動」をしている。行動抑制がかかっているというのです。その結果大事に至らないようになっているのです。しかし神経症の場合は欲望が大きいために不安も大きい。その不安が「拒否権発動」と結びつくとなすべき行動が抑制されて手も足も出なくなってしまいます。その弊害が大きすぎる。前頭前野が仇となっているのです。衝動的な欲望を満足させるための行動は歯止めをかけなければなりません。人に迷惑をかけるようなこと。あるいは将来後悔するようなことは抑制力を働かせることが必要です。それ以外は基本的には無意識の脳の働きを信頼してその働きの波にのって生活するということがはるかに意味のある生き方となります。このことを、不安と欲望のバランスをとる、調和を図ると言ってもよいかもしれません。森田先生の言葉でいえば、健康で長生きをしたい、他人に認められたい、幸せになりたい、向上発展したいという欲望は制御をかけるのではなく、無意識の脳の働きをそのままにしておいて、ますます発揮していくべきだと考えます。(龍馬脳のススメ 茂木健一郎 主婦と生活社 116ページより引用)
2017.01.07
コメント(0)
正岡子規にしろ、森田先生にしても大変な病気に苦しんだ人達であった。普通の人は前途に悲観して人生を投げ出してしまうかもしれない。多分私なら破れかぶれになり、何も手につかなくなることが予想される。お二人は病気を抱えたまま情熱を燃やして生き抜いてゆかれた。感動ものである。正岡子規は、7年にわたる肺結核と脊椎カリエスによる仰臥に、耐え忍ぶことのやりくりや心構えを求めることをしなかった。病苦に泣くのみであった。極貧の中にあって看護人もなく、寝返りを打つには柱につないだ紐を引っ張ってこれをやるという仕儀であった。子規は痛みと喀血の耐えがたきことを、はからうことなくただ慟哭していた。痛みに常に襲われながらも俳句と随想の創作活動は続けていった。死の二日前まで書いていたのが「病床六尺」である。森田先生は、15歳のときから心臓神経症にかかっておられる。20歳のとき腸チフス。23歳の時坐骨神経痛。29歳肺結核。46歳反復性大腸炎。47歳呼吸器系疾患。50歳肺結核で血痰をみる。51歳喀血。52歳肋膜炎。57歳喘息が悪化。肩関節痛に苦しむ。61歳熱海で喀血。63歳赤痢を病む。64歳肺炎のため今でいえば想定外の若い死であった。その間56歳の時一人息子死去。61歳妻死去。64歳母死去と家族にも不幸が続いている。森田先生の身にはこれほどの悲運が次々と襲ってきたのである。たまらない試練である。そのような状況の中57歳の時、九州医学会招待講演に出かけられている。福岡、熊本、鹿児島を回っておられる。付添は古閑善之先生であった。講演前は衰弱はなはだしくとても講演ができるような状態ではなかったという。講演前は横になって伏せっておられたという。それでも講演の時間になると毅然として立ち上がり講演を滞りなく行われたという。帰京後は相当な疲れが出てきたようである。それにもかかわらず断行されたのである。形外会という会合でも森田先生は病気で苦しいにもかかわらず、布団の中で体を休めながら参加して発言されていたという。森田先生曰く。運命は耐え忍ぶに及ばず。運命は切り開いていくべきであると言われている。その考えを死ぬる直前までまで自ら実践された人であった。
2017.01.06
コメント(0)
森田理論では治り方に3種類あるという。1、 症状に振り回されながらも普通の生活ができるようになること。2、 「かくあるべし」という考え方が少なくなり、「かくある」という事実に基づいて生活できるようになること。3、 事実や出来事を是非善悪で価値判断しなくなり、あるがままに受け入れていくようになること。3番目は難しい事ですが良寛さんは次のように言われています。(良寛全詩集266ページより)人はえてして、自分に似た考えのものは、間違っているのも正しいとし、自分と異なる考えのものは、正しくとも間違いだとする。正しいか正しくないかの判断を、はじめから自分の中に置いているが、仏道とはそのようなものではない。自分の考えだけで仏道を理解しようとするのは、船の竿で深い海の底を測るようなもので、ただその場かぎりの愚かなことだと思うのだ。(草堂集88ページより)そもそも人々がこの世にいる様子は、ちょうど草木の長さがふぞろいのようなものである。それぞれ一方的な見方に執着し、よいとかよくないとどこへ行っても議論している。自分の見方に似ているのは、よくなくても正しいとし、自分の見方と違うものは、よくても正しくないときめつける。ただ、自分のよいとし正しいとする点を、他の人はよくないとしていることにどうして気づかないのだろうか。よいとかよくないという判断は、はじめから自分自身においているが、真理の道はもともとそのようなものではない。(良寛全詩集181ページより)人はそれぞれ、その場だけの自分の考えにこだわり、どこへ行っても互いに正しいとか正しくないときめつける。正しいのは自分の立場から正しいと判断するだけであり、正しくないのは自分が正しくないと判断することだけになっている。ただこのように、自分の主張だけを通してゆくと、どうして客観的な是非の基準というものが得られようか。
2017.01.05
コメント(0)
森田先生は、「人間は欲の深いものであり、中でも神経質は欲の上に欲の皮が突っ張っている」といわれています。また「欲のない人は哀れである」といっています。脳科学者の茂木健一郎氏によると、退屈であるというのは危険な兆候であるといわれています。退屈の空気の中に長い間浸っていると、人間の脳はだんだん退屈に慣れてくる。退屈に慣れてくると脳の成長が止まってしまう。人間はもともと好奇心旺盛にできているのです。それにそって行動実践しないといけない。自分でも神経質者であった森田先生は、「あれもしたい、これもしたい」と自分の欲の深さを認めています。欲が深いからこそ、常に何かを求め向上心を働かせているのだから、人間の欲望こそ生きる力である、というのです。「欲のない人間は下等な人間である」とさえいっていますから、私たちは欲が深いからといって恥じることはありません。普通欲望の強い人は貪欲にお金儲けをしたり、自己中心的で人を蹴落としたり、色欲のとりこになったりする人のことを想像します。悪いイメージがあります。でも思うことはいくら思ってもよい。そういうエネルギーの旺盛な人の方がよい。ただ思うことと行動は別ということが分かっておればよいのだと思う。またこれはあまりにも一面的な見方だと思います。人間には向上発展欲、自己実現の欲望が備わっていることを忘れてはいけません。ここでいう欲望とは、「生の欲望の発揮」のことです。対象に働きかけて前向きに生きるエネルギーの高まりのことです。森田理論では理論全体の土台となる部分です。森田理論はここから出発して、症状に苦しんだりしますが、乗り越えたのち、最終的にはまたここに戻ってくるものなのです。ますます生の欲望の発揮に邁進するようになることに生きる意味があるといっているのです。
2017.01.04
コメント(0)
森田理論の学習会で「あの人は神経症が治っている人、治っていない人」と選別する人がいる。では何をもって「治った人」と判断しているのだろうか。森田理論に精通している人を見て判断しておられる場合がある。これはまずいと思う。私は「治った人」と言うよりは、「症状に振り回されなくなった人」「楽に生きていけるようになった人」「森田理論を身につけた人」等と言ういい方が好きである。そもそも仕事や生活に目が向けられるようになっても、不安や不快なことはたくさんでてくる。そんな時はやはりイライラして右往左往してしまう。振り回されて仕事や日常生活が全く滞ってしまうことは確かに少なくなる。それでも抱えきれなってパニックになることはよくあるのだ。「治っている人、治っていない人」と選別する人は、もう一つ困ったことがある。そういう人は、神経症で苦しんでいる人を見て、その人を自分の力で救ってあげようとする気持ちがとても強くなってくるのだ。私は救ってあげる人、あなた方は救われる人にはっきりと分離している。救ってあげる立場に立っていると思っている人は、相手のことをよく見ていない。というよりは見えなくなってしまう。それよりも自分の掴んできた森田理論を説明することに力が入り過ぎてしまう。森田理論はこんな理論だ。だからあなたはこのようにしなさい。こうすれば神経症は克服できるというような話が中心になる。しかしその思いは相手になかなか伝わらない。それは信頼関係ができていない。相手の悩みに寄り添っていない。相手の話を聞いていないから当然のことである。これは自分の立ち位置が、上から下目線になっているからではないのか。相互学習とは程遠い。そういう上下の人間関係の中での森田理論学習は、馬を水飲み場までは連れていけるかもしれないが、馬は決して水を飲もうとしないようなものだ。相手が引いてしまうのだ。こうなると森田理論は素晴らしい理論なのに宝の持ち腐れになってしまう。それはとても残念なことである。でも森田先生の入院療法はそういうやり方だったのではないかという疑問が残る。森田先生が強力なリーダーシップを発揮されて、神経症を治していかれたのではないか。だから同じやり方は今でも通用するのではないか。森田先生の入院療法は一般社会から40日程度は社会から隔離されて行われていた。また一週間の臥褥があった。入院中は森田先生や奥さんたちが、一日中注意深く入院生を見ておられた。そして入院中には、症状には手をつけないで、日常生活に丁寧に取り組むことを徹底して指導されていた。意識や注意の向き方が内向きから外向きに変わることを目標にしておられた。感情が動き出し、高まっていくことを身につけさせておられた。体得が中心だったのである。それらが身につけば完治として退院させておられた。系統立てて森田理論の学習はされていなかった。座学ではなく体得療法だったのだ。「神経質の本態と療法」で述べられているような森田理論を講義形式で解説されていたわけではない。それらは退院後に参加された形外会や数多くの出版物であった。先に体得があって、理論は後付けになっていたのだ。最初から森田理論の注入することは、入院生を益々観念的にさせるばかりだということを森田先生はよく分かっておられたのだろう。我々の相互学習はこの点が大きく違う。この点をよく自覚しておく必要がある。先に森田理論学習で理論を頭に叩き込んでいるのだ。それで神経症を克服できるかのように思ってしまうのだ。これは大きな錯覚だと思う。ここは大きな問題だと思う。森田は体得、実践が欠かせない。理論と行動はよく車の両輪にたとえられる。同じ大きさの車輪の場合は前進することができる。理論の車輪がバカでかいとどうなるか。行動と言う車輪を起点にして理論という車輪が空回りすることになってしまう。そうなると元々あった神経症は以前よりも増悪させる役割を果たしてしまう。自分を救うための森田理論が、自分を苦しめてしまうと言う皮肉な結果になってしまうのだ。森田理論の学習会で「神経症が治っている人、治っていない人」と選別することは、理論学習の偏重に拍車をかけるものであって、本来の森田の取り組み方とは違うのではないかと思う。
2017.01.03
コメント(0)
「神経質の無神経」と言われることがある。それはどういう意味なのだろうか。神経質性格の人は細かいことが気になります。そのことに注意や意識を集中させていると、普通の人が当たり前にやっていることがお留守になってしまうということではないでしょうか。特に神経症に陥って苦しんでいる人ほど無神経だとみなされてしまうことがあります。たとえば、甥や姪の結婚式などに招待されても赤面恐怖が気になって欠席したりします。親戚の葬式なども神経症を理由にして取りやめたりします。あるいは大勢の前でプレゼンする予定の日になって、突然症状のために仮病を使い休んでしまう。身体的欠陥を気にしてひきこもり生活を続けている。飛行機に乗ることがイヤなので、いろいろ理由をつけて海外出張を断る人がいます。納期が無いのにいつまでも仕事を抱えて、次に回さないで迷惑をかけている人がいます。叱られることを恐れて、ミスや失敗を隠蔽し、発覚したときは修復困難な状況に追い込まれている。知っている人と会ったのに全く挨拶をしないで知らん顔をしている。雑談の場などに、一人だけその輪に加わらないで苦虫をつぶしたような態度をとっている。自分のことを否定されたりすると、すぐに不機嫌になり感情を爆発させる。このようなことが度重なると、あの人は普通の人とは違うという見方をされる。無神経で他人の気持ちが読めない要注意人物だというレッテルを張られてしまう。自分はそんな気持ちはない。本当はみんなと仲よくしたいと思っていても、その思いが空回りしている。どうしてこのようなことになるのか。1、 神経症に陥ると意識や注意が自分の気になる症状一点に絞られて、周りの物は見れども見えずという状態になる。2、 症状と言う大きな問題を抱えているために、周りのことが気にはなっても手をつけずにそのまま放置してしまう。3、 苦しみや葛藤に耐えきれなくなって、つい破れかぶれな衝動的な行動で解放しようとする。どれも症状のために霧の中で車を運転しているような状態です。周りの状況が見えていないのです。また症状を解決しないと他のことに手がつかない状態になっています。そしてどうにもならない苦しみを和らげるためについ衝動的な行動をとりがちです。これでは人間関係が壊れ、仕事や生活が回ってゆかなくなるのも無理はありません。その状態を他人がみれば、普通の人と違う無神経な人とみなしてしまうのです。症状をやりくりする。症状からすぐに逃げ出してしまうことが裏目に出てしまっているのです。神経質性格はよい面を活かしていけば全く問題はありません。むしろ神経質性格を持っている人はたぐいまれな素晴らしい素質の持ち主だと言えます。その性格を仕事や生活に活かしていけばこんなに育みあいのあるものはありません。神経質性格を活かして仕事等で大きな成果をあげている人もたくさんいます。また鋭い感性を活かして音楽、絵画、書道等の分野で認められている人もいます。でも一歩活用の仕方を間違えるとこのように無残な状態になってしまうのです。無神経というのは自分も苦しいし、他人にも迷惑がかかります。神経質性格のこまやかさ、感性の豊かさを殺してしまうものです。無神経という汚名を返上するためには、森田理論を学習して、生活面に応用していくことだと思います。特に不安、恐怖、不快な気持ちを持ったまま、日常生活や対人折衝を続けていくという森田の基本は是非とも身につけてほしいものだと思います。
2017.01.02
コメント(0)
読者のみなさま、明けましておめでとうございます。4年前に始めたブログが今年当初の目標としていた5年目を迎えました。少し振り返ってみたい。「森田理論」自体は、中学生や高校生の正規の授業に組み込んでもいいような内容を持っている。たとえば原発問題、TPP参加の是非、紛争、地球環境の悪化、子育て、人間の生き方や生きがいなど森田の視点からいくらでも提言できることがある。それなのに「森田理論」の認知度があまりにも低い。宝の持ち腐れとなっている。このままでは森田は細々と生きながらえていくしかないのであろうか。森田によって恩恵を受けて、絶望の淵から生還することができたものからすれば、残念で仕方がなかった。これはなんとかしなくてはという思いであった。やっと思いついたのがこのブログであった。一人でも多くの人に森田理論を知ってもらいたいという必死の思いからだった。森田で多くの恩恵を受けてきた私ができる精一杯の恩返しのつもりであった。結果としては、予想外の反響に驚いた。1年目終了時点の総アクセス3万人、2年目8万人、3年目19万人、4年目42万人であった。私は当初1年に2万人、4年を終わった時点の総アクセス数8万人を予想していたのである。これはどういうことを意味しているのだろうと考えた。森田は医療としての神経症治療は保険点数の対象外だし、自助組織としても風前の灯である。神経症治療としての森田は残念ながら世間から見向きもされていないのである。それなのに「森田理論学習のすすめ」という一ブログに熱心にアクセスして来られる方がおられる。つたない内容にもかかわらず、倍々ゲームで増加の一途をたどっている。森田はまだまだ捨てたものではないのではないか。森田理論というのは伝え方を変えればまだまだ一般に受け入れられる役に立つ理論なのではないか。前方にかすかな明かりが見えてきた瞬間であった。ここで大きく認識が変わったことある。今までは森田を神経症の治療に絞って取り扱っていたのだ。その枠外に出ることはタブー視されていた。確かに森田療法は森田先生によって神経症を治癒するという目的のもとに創始された。医療的側面が強かった。それは間違いない。しかしそういう目標を創始後100年経とうとしているのに持ち続けることが果たして正しいことなのか。それは森田理論の壮大な枠組みからいってあまりにも矮小化されているのではないか。森田理論のその奥にはとてつもない大きな鉱脈が隠れているのではないか。森田理論は神経質性格を持った人の一生を左右する生き方や生きがいを問題にしているのではないか。あるいは教育、社会の諸問題にも森田的視点から提言を行うことを宿命づけられているのではないか。もし今森田先生が生きておられたとすると、神経症治療に甘んじておられるであろうか。医師としての本分を守りつつも、神経症的な人間社会と時代そのものを相手にして戦っておられるのではないか。社会運動家として活動域を拡大しておられるのではないか。その思いはますます強くなっていく。森田理論を学習して身につけて実践できるようになると社会に出てからの生き方が変わってくる。楽な生き方が身に付くし、生きることが楽しくなってくると思う。森田理論はできれば学校教育の中で日本人すべての人が学んでほしい。もし学校教育に組み込まれないのなら、社会人になって学ぶことが人間として必須であると思う。これを学ぶだけで、自分の生き方のみならず、現代の社会が抱えている多くの問題が解消できるのではないかと考えていますが如何でしょうか。1年が経つのはあっという間です。今年も森田の深耕で新たな発見があることを期待して走り抜けてゆきたいと考えています。どうぞご期待ください。最後にみなさまが今年1年、健康でますますご活躍されますようにご祈念申し上げます。
2017.01.01
コメント(0)
全36件 (36件中 1-36件目)
1