全275件 (275件中 151-200件目)
生活の発見誌に、次のような疑問が寄せられていた。1 、欲望を実現へ近づこうと意欲を高めるほど、不安は強くなるのではないか。2 、不安と欲望の調和とはどういうことか。全て調和がとれたものは、時間の経過とともに、その調和は崩れていく。より本質的に言うならば、調和の固定化は時間の停止を意味するのではないか。これらについて、私の考え方を述べてみたい。まず1ですが、欲望と不安は正比例しています。ですから、欲望が大きくなれば不安もそれと同程度に大きくなります。裏を返せば、不安を全く感じないようにするためには、欲望をなくすればいいわけです。しかし、欲望はなくすることはできません。欲望があるから、意欲ややる気も出てきます。欲望に沿って、頭や体を働かせていくことが人生の醍醐味となります。とりわけ神経質者の場合には、この欲望がとても強い。生の欲望の範囲が広いと言われています。この質問の場合は、欲望はともかくとして、不安が発生し、強くなることは由々しき問題であると思われているように見えます。私は不安が発生すること人間が生存する上で必要不可欠なものだと考えています。五感で感じた不安や恐怖の情報は、扁桃体に集められます。海馬や前頭葉などと連携を取って、戦うか逃げるか、瞬時に対応方法が検討されて、行動に移ります。その結果、命の危機を乗り越えているわけです。もし、不安や恐怖が発生しなかったならば、容易に命を落とすことでしょう。ここで大事な事は、生の欲望の発揮です。不安にだけ深入りしてはならないのです。次に大事なことは、欲望は無制限に追い求めてはならないということです。人間には欲望が発生すれば、それを抑圧する気持ちも同時に沸き起こってくるようになっているのです。これは欲望を車のアクセル、そして不安を車のブレーキに例えてみると分かりやすいと思います。車のアクセルを踏みこまないと車は前に進みません。しかし、いったん動き出した車はブレーキで制御をしていかないと、どこかにぶつかって最悪命を落とすことになります。森田理論学習では、欲望と不安の単元があります。ここで、それぞれの特徴や役割をよく学習することが大切になります。世の中はは欲望が暴走して様々な惨禍を引き起こしているケースが多いのです。しかし、神経症の場合は、欲望の追及を忘れて、不安や恐怖を取り除くことばかり考えています。世の中とは反対の方向に向かって、格闘したり逃げたりしているのです。森田理論学習によって、その弊害を理解し、対応を変えていく必要があります。2番目の質問ですが、 一旦調和がとれても、時間が経てばすぐに調和が崩れていくと言われています。おっしゃる通りだと思います。ですから、生きていくということは、絶えず欲望と不安のバランスを維持していく必要があるのです。これはサーカスの綱渡りの芸が参考になります。これを見ていると、長い物干しざおのようなもの持っています。これを微妙に操りながらバランスをとっています。そして目線は到達点をとらえて、一歩一歩注意深く前進しています。ここでは、一方的に欲望を追求するのでもない。また一方的に不安にとらわれているのでもない。注意や意識はその2つのバランスをいかに維持していくかに注力しているのです。私がよく提案しているように、やじろべいや天秤などもその意識付けとして役に立つと思います。森田理論の中に、「精神拮抗作用」の説明があります。森田理論学習の中では重要なキーワードです。これがまさに、ここで言うところの調和やバランスの説明となります。私の知っている住職さんで「ほどほど道」を話される方がおられます。その人の話を聞くたびに、「行きすぎたら戻る、戻りすぎたら行く」という生活態度のことを思い出します。バランスのとれた生き方をしている人は、神経症になることはないと思います。
2018.08.02
コメント(0)
集談会の仲間の人が、NHKの「ガッテン」の番組を紹介してくれた。題して「肺ストレッチで体が変わる!呼吸コントロールSP」だった。これは大変役に立った。集談会ではこういう有益な情報の交換ができることがうれしい。これらの有益な情報を実行するだけで、自分の生活の幅がどんどん広がってくるのである。それによると、普通の人は一分間に平均15回の呼吸をしているという。まず自分の場合は何回か調べてみるとよい。調べるときは、息を吸って吐くのを1回として計算する。それを13.7回ぐらいに減らすと、ストレスの軽減、肩こり、低血圧、冷え性、不眠症に効果があるという。「ガッテン」という番組では、その仕組みを明確に説明していた。呼吸数は、大脳の中の「呼吸中枢」と「扁桃体」が共同で指揮命令をしている。私たちが問題にしている不安、恐怖、不快感、違和感が発生するとすぐに「扁桃体」が活動する。「扁桃体」は生命の危険を察知して、生命を危険から守る防御の役割をもっている。「扁桃体」が反応することによって、闘うのか逃げるのか即座に判断する。「扁桃体」が反応した時、「呼吸中枢」と一緒になって、心拍数の増加、呼吸数の増加、血圧の上昇、交感神経の活動を促進する。これらはほとんど、人間の意志と無関係に行われる生理現象である。ところが、この中に例外が1つだけある。呼吸数は人間の意志によってコントロールできる。裏を返せば、深呼吸などをして呼吸数を減少させれば、過度な扁桃体の活動を抑えられるということである。我々神経質者は、ちょっとしたことですぐに不安やストレスを感じやすい性格特徴を持っている。そういう人は日ごろから、呼吸の回数を少なくする「肺ストレッチ」をすることが有効であるということが分かっているそうだ。呼吸の回数を少なくすると、腸内の炎症を抑えることもできる。また呼吸の際、鼻呼吸や鼻歌を心がけることで、一酸化窒素を血管に届ける量が多くなり、毛細血管の血流がよくなることも紹介されていた。「肺ストレッチ」を行って、肺の動きは本来のしなやかさを取り戻すと、逆に呼吸の回数は少なくなっていく傾向があるという。 「肺ストレッチ」のやり方は次の通りである。息を吸う時のコツは、体の前で組んだ両手を、そのまま前に伸ばす。伸ばす時に息を吸うようにする。その両手を体に戻すときに息を吐く。息を吐く時のコツは、両手を後ろに回して腰のところに置く。息を吐くときに、腰の上で組んだ両手をななめ後ろに伸ばす。息を吸う時はななめ後ろに伸ばした両手を腰の上に戻すときに行う。これだけである。以上を一日に2~3セット行う。朝昼晩と時間を決めて行なうようにする。ただし注意点として、腰や背中に傷みのある人は行わない方がよい。ストレッチで傷み等が出た場合は、すぐに中止した方がよい。こういう有益な情報は試してみる価値があると思いますが、皆様いかがでしょうか。
2018.07.19
コメント(0)
今日は神経症を克服するために、 「欲望と不安のバランス回復手法」について説明してみたい。神経症に陥った人は、不安、恐怖、違和感、不快感などに対して、なんとか取り除こうとエネルギーを傾けている。どうにも取り除くことができない場合は、逃げまくっている。そのような行動をとればとるほど、精神交互作用によって症状は悪化し、固着してしまう。これはこの回復手法から見れば、欲望が蚊帳の外になり、不安と欲望のバランスが崩れているということになる。神経症から回復するためには、欲望と不安は一体のものと考えて、いかにそのバランスをとっていくかということにエネルギーを投入する必要があるのである。このことの意識付けをするために、よく目の見えるところに「やじろべい」 「てんびん」などを置いておくことをお勧めする。そもそも不安、恐怖、違和感、不快感などは人間にとってなくてはならないものである。それがあるおかげで、身体の危険の存在を教えてくれている。あるいは問題や課題の存在を教えてくれている。それに対応することによって、身体や財産の安全が保たれている。また、不安などは欲望の暴走を制御するという役割も持っている。不安は意味もなく存在しているのではない。大きな役割を果たしていて、人間にはなくてはならないものなのである。神経症に陥る人は、不安の使い方、対応の仕方を誤っているのです。神経質者は、心配性という性格特徴を持ち、不安などに対する感受性が非常に強い。いわば、高性能のレーダーや魚群探知機を標準装備しているようなものです。その高性能な機能の使い方を誤っているために正常に機能していないのです。そういう不安や恐怖が強い人は、その裏に大きな欲望を持っている人です。不安と欲望は正比例しています。不安は大きければ大きいほど、欲望もそれに見合って大きなものがあるのです。不安と欲望は、コインの裏表の関係にあります。もっとわかりやすいのは、車のアクセルとブレーキの関係と同じです。アクセルは欲望、ブレーキが不安と考えると分かりやすいと思います。アクセルを踏みこまないと、自動車は決して前に進む事はありません。アクセルを踏み込むという事はとても重要なことです。しかしアクセルを踏み込むだけで、スピードを制御するというブレーキがなければ、すぐに大事故を引き起こしてしまいます。アクセルをふかしながら、ブレーキを適度に使いこなして前を向いて前進するという態度が大切です。我々が手がける事は、不安を取り去ることでも、欲望を無制限に追い求める事でもありません。ただ、その2つのバランスをいかに取っていくかということに意識を向ける必要があるのです。神経症に陥った人は、不安や恐怖の解消のことばかり考えています。これは片手落ちです。生の欲望の発揮のことを忘れてはなりません。むしろそちらの方を6ぐらいに考え、不安や恐怖の方を4ぐらいに考える必要があります。神経症に陥っている人は、バランスを回復するために、不安や恐怖はこの際考える必要はありません。必要な事は、 「生の欲望の発揮」に目を向けることが大切です。 100%そちらのほうに意識を向けてみてください。具体的には、昨日「実践・実行手法」で取り上げたことに取り組んでいくのです。そうすれば次第に、不安と欲望のバランスが回復してくるものと思われます。これが神経症を克服するための第二の着眼点となります。これはすぐに忘れがちになりますので、「やじろべい」などで意識付けをすることが必要なのです。
2018.07.02
コメント(0)
アインシュタインの相対性理論の業績は計り知れないものがあります。 その彼が「神はいると思いますか」と聞かれて、こう答えています。 「この世の中をつぶさに見て、これほどの調和が、なにか計り知れない偉大な存在なしに実現しているとは思えない」と答えているそうです。彼ら物理学者たちはsomething greatと言っているそうです。まだ解明されてはいないが、なにか目には見えない大きな力が働いているに違いないと直観しているのです。アインシュタインは生と死の織りなす世界に自然の驚異を隠せなかったのかもしれません。どんなに大変なことが起きても、神の見えざる手が働いているようだとみていたのです。 雪の結晶がどうして全部六角形になっているのか。地球の自転軸はなぜ一定になっているのか。超新星爆発という巨大な星の死から、新しい星が次々と生まれる。ブラックホールはどうなっているのか。この自然界にはまだまだ分からないことだらけです。 でも自然界は、宇宙のいとなみにしろ、私たちの体の仕組みにしろ、2つの相対立するものが互いに影響を与えあって存在している。そしてそれらはすべて調和を志向している。さらなる調和を求めて絶えず変化流動しているようです。これが自然界の偽らざる節理だということは間違いないようです。これだけははっきりと分かっています。 これは私たちが森田理論学習で学んでいる精神世界も同じだと思います。不安や恐怖はむやみやたらに沸き起こっているのではありません。その裏には欲望があり、2つのせめぎ合いの中で流動変化しているのです。不安や恐怖は、調和、バランスのゆがみを知らせてくれているサインなのです。 そう考えると、どんなにつらいことが立ちはだかってきても、いつかは揺り戻しが起きて、最終的にはバランスがとれてくるというのが自然の法則でしょう。そう考えると、不安や恐怖を取り除いたり、すぐに逃げ出したりするのはいかにも芸がありません。また欲望の暴走を許すことは、自己と世界の破滅を招きます。不安や恐怖にかかわりすぎることなく、生の欲望に注意や意識を向けて、常に調和の回復を図ることこそが私たちの進むべき道ではないでしょうか。このことを森田理論では、精神拮抗作用ということで説明しています。人間の頭には相対立する考えが同時に沸き起こるようになっている。これは自然の摂理です。性急にどちらかに態度を決めて行動すると、たちまちバランスが崩れて前進することはできなくなってしまう。2つの相対立する考えの中で、うやむやのままにやり過ごしていくという選択肢もあるということを忘れてはなりません。ここでは恐怖や不安を持ちこたえたまま、次の段階に進むことが大切です。このキーワードの学習は大変役に立つもので外すことはできません。
2018.06.17
コメント(0)
生きがい療法の伊丹先生は、免疫力を増加させるために簡単な方法があると言われる。1つはカラオケを歌うことです。ただし、カラオケの嫌いな人が渋々歌うとストレスになって、かえって免疫力が低下する。下手でも楽しむことが大切です。また、高齢者の女性がが、毎日丁寧に化粧を続けますと、免疫力が強くなる。もうひとつ簡単な方法としては歩くことです。ガンの学会で9,000人くらいのある会社の社員を16年間追跡調査すると、毎日1時間以上歩いている人とほとんど歩いていない人を比べますと、 16年後のガン死亡率が2分の1になりました。ウォーキングを続けると、いろんな病気での死亡率も2分の1になります。3年寝太郎のような生活をしていては、身心の機能だけではなく、免疫力もどんどん低下してくるのです。免疫力は、例えば悲しみが強くなったり、憂鬱が長く続いたり、ストレスが強くなると弱くなってしまう。それらはなるべく短く乗り越えることが大切です。とくにストレスが高い人は、免疫力が弱い。これは、タバコを吸わない人と吸っている人との免疫機能の差よりももっと大きな差がある。タバコよりもストレスの方が免疫機能に悪影響を及ぼしているのです。阪神大震災の後、多くの人は、免疫力が大幅に低下しました。免疫力が全国平均並みに回復したのは、 3年後のことでした。大きなストレスに遭うと免疫力が1年ぐらいは弱ったままになってしまうのです。もう一つ要注意なのは、うつ病です。うつ病は、免疫力を低下させます。また癌に対する抵抗力も低下させる。一般人口のうつになっている確率は5%くらいですが、がん治療中の人はうつ病の確率が高く、 45%から55%という研究結果があります。ガンの専門病院の多くは、ガンになってもうつ病を見逃して治療していない場合が多い。家族がよく注意して異常を早く見つけ、心療内科などの専門医にかかって早めに治療することが大切です。うつ病は薬物療法で治る病気です。(生きがい療法と精神腫瘍学 伊丹仁朗医師の講演より要旨引用)普通ガンになると、ガンの専門病院に行って、外科手術、放射線治療、抗がん剤治療を受けます。しかし再発や転移があるともうお手上げです。病院から余命宣告されてホスピスに送られます。そこに決定的に欠けているのは、がん細胞に打ち勝つ免疫力を高める治療の導入です。ガン治療には、この2つの治療をセットとして導入する必要がある。ガンになるような生活習慣や食生活を見直し、ガンで意気消沈して何もしないのではなく、ガンと戦っていく気持ちが大切なのではないでしょうか。森田療法理論から「生きがい療法」を開発された伊丹先生は、手を尽くしたがんの治療とともに、一方では生きがいを持った生活態度が自然治癒力を高めて、結果としてガンの克服につながるものだと言われています。私は5年生存率10%以下と宣告された方を知っています。その方はガン治療とともに、生きがい療法にも取り組まれました。現在手術後12年になられますが、主治医から「がん細胞は見当たらないので、今後は定期健診は不要です」といわれたそうです。森田では心身同一論の立場ですが、そのことをまざまざと思い知らされました。
2018.06.04
コメント(0)
私は水を取りすぎると身体を冷やすことになり、体調が悪くなるという話を聞いて、極力水を飲むこと控えていたことがある。その結果、水分不足になり、体調が悪くなり、それが原因かどうかはわからないが、尿道結石になった。今考えてみると、私の場合、 1つの考え方をまともに信じてしまって、全体的に統合の取れた考え方が出来なくなってしまうという特徴がある。これだという考え方で突っ走ってしまうのである。これから得た教訓は、何事も「ほどほど」が大切であるということだった。森田理論学習をしていて思うことだが、例えば、不安、恐怖、違和感、不快感などは自然現象なので、どうすることもできないものだ。それらをやりくりするのではなく、それらを持ちこたえたまま、目の前の日常茶飯事、仕事や勉強に取り組んでいけばいいのだと学習する。しかし、この考え方に取り付かれてしまうと、ともすると不安や恐怖に対して抵抗することなく、全て受け入れるのがいいのだと考えてしまう。そうなると、危険を回避することが全くできなくなってしまう。例えば田舎でまむしに出会ったとき、駆除しないで逃げてしまうと、いつまでもその恐怖に取り付かれてしまう。そうしないと田舎生活を楽しむなどということはあきらめてしまうようになる。人に知らせたり、手慣れた人に頼んだりしてすぐに駆除しなければならない。日本は地震が多い。これに対して、家具をきちんと固定しておく事は自分の身体や家族の安全を守る。そういう不安がありながらも、何も手をつけないということは、誰が考えてもおかしなことだ。生命保険もそうだ。一家の大黒柱である自分が、いつ不慮の事故や病気になり路頭に迷うことにもなりかねない。こういう不安を感じた場合、積極的に対応策を立てて準備しておくことが不可欠である。だから不安や恐怖に対して、森田療法的な考え方を学習することは、神経症に陥った人や神経質者にとってはとても大事な事ではあるが、その前に、不安や恐怖一般に対しての基本的な考え方を学ぶことも必要である。私たちは素直というか、すぐに言われたことを信じてしまう特徴があるようだ。なんでも極端に走ってしまう事は問題である。こういうのを盲信という。私は、不安や恐怖に対して森田療法理論を学ぶ前に、次のように言い聞かせている。それはラインハート・ ニーバンの言葉である。1 、変えることができないものについては、それを「受け入れる冷静さ」を持つ。2 、また、変えるべきものについては、それを「変える勇気」を持つ。3 、肝心なことは、変えることのできないものと、変えることのできるものを「区別する知恵」を持ちなさい。これに関連して、松下幸之助氏は次のように言われている。「人間万事、天の摂理でできるのが90% 、あとの10%だけが、人間のなしうる限度である」やりくりしないで素直に受け入れたほうがよいことが大半である。しかし残り10パーセントのことには対応策を立てて積極果敢に動かなければならない。それに対しては、決して指をくわえて放置してはならない。共に含蓄のある言葉であると思うが、皆さんはどう思われるでしょうか。
2018.05.29
コメント(0)
神経質者の大きな特徴は、 2つの相対立する考えが頭に浮かぶと、性急にどちらかに態度を決めようとすることである。例えば、付き合いたいと思うような素敵な異性がいたとする。その人のことを思えば思うほど、どうにかして友達になりたいと思う。できれば将来結婚できたらよいなと思ってしまう。ところが、そうした強い欲望があるにも関わらず、一方でもし交際を申し込んで断られたらどうしようという不安も浮かんでくる。神経質者の場合は、交際を申し込んで断られることばかりをネガティブに考えてしまう。そして最終的には、そんな嫌な辛い思いをするのだったら、交際を申し込むのをやめておこうと考えてしまう。この場合は、付き合いたいという欲望は蚊帳の外になり、 一時的な安楽の方法を選んでいるのだ。その結果はどうか。嫌な辛い思いをすることはなかったが、異性と付き合う事は永遠に巡ってこない。すでにチャンスは逃げていってしまったのである。その時、思い切って相手の気持ちを確かめておけばよかったと思っても、すでに時遅しである。神経質者の場合、こういう例のオンパレードである。別の例を出してみよう。今日は会社の懇親会だ。アルコールの好きな人は、始まる前から嬉しい。今日は飲み放題、食べ放題だ。たらふく美味しい料理が食べれて、浴びるほどビールが飲める。しかし一方では、持病がありお医者さんからアルコールは控えるように言われている。このような場合、普通はビールをたくさん飲みたいという欲望と健康のためにアルコールはたしなむ程度にしようという気持ちがせめぎあう。自分の態度が右へ行ったり左へ行ったり落ちつかない状態にあるのだ。その気持ちはどっちつかずで実に居心地が悪い。その時、そのどちらかに態度を決めてしまうと、気分的にはスッキリする。神経質者の場合、性急にどちらかに態度を決めてしまうという特徴がある。一般的には、今日だけは例外だ。徹底的に飲もうと決めてしまうことが多い。そういう態度になると、誰よりも先におかわりをし、時には一気に飲み干したりする。料理を食べるよりも飲むほうを優先する。次第に酩酊状態に陥り、饒舌になり、人の気に障るような事を言う。そのうち意識が朦朧として、 1人では歩けなくなる。次の日は二日酔いになり、仕事にはならない。これは極端な例かもしれないが、ビールを思い切り飲んでしまおうという風に態度を決めてしまっているのである。本来は、ビールを思い切り飲みたいという欲望と無茶苦茶に飲んではいけないという抑制力との調和を取ることが肝心なのである。神経質者はそのバランスをとることがとてもへたくそなのである。態度をはっきりさせて気分的に迷いのない状態、すっきりした状態に持っていきたいのである。これを気分本位な態度という。しかし実際には気分がスッキリしないどころか、その後の展開がよくない。あまりにも悪すぎる。結果が分かってから反省しても遅いのである。どちらにしようか迷っているうちに、その居心地の悪い状況を持ちこたえながら、右や左にさまよっている状態が1番適切な対応なのである。これは森田理論学習で言うと、両面観、精神拮抗作用、不安と欲望の関係でしっかりと理解しておくべき内容である。森田理論学習では、調和やバランスの理解と実践がとても大きな柱となっているのである。
2018.05.28
コメント(0)
筑波大学の田神助教授は次のような実験を行った。ネズミを2つのグループに分けて3週間実験を行った。1つのグループは、毎日餌を好きなだけ食べさせて、温泉に入れた。もう一つグループは、餌を少ししか与えなかった。さらに毎日水泳をさせた。その後、両方のグループを寒さにさらした。風邪をひいたのは、餌を腹いっぱい食べさせて温泉に入れたグループであった。空腹と水泳をさせたストレスいっぱいのように思えるグループは風邪を引かなかった。しかもキラー細胞(ガンを攻撃する細胞)という免疫機能の働きを調べると、空腹と水泳をさせたグループのほうか強かった。この結果から、適度の運動を実行して、適度のストレスを受ける方が免疫力を高めることがわかった。一般的にストレスや悩みを抱える事はよくないことであると受けとめられている。しかし、実際にはストレスや悩みがまったくない順風満帆な生活を送っている方が、心身の健康にとってはよくないということである。適度なストレスや悩みを抱えながら、日々の生活に立ち向かっているほうがより健康的な生き方をしているということである。適度なストレスや悩みは我々の心身の健康にとても役に立っているということである。さらにアメリカで次のような実験をした。ボランティアの方を2つのグループに分け、それぞれ別の部屋に入れて、大音響の騒音に耐えてもらいました。片方グループの部屋にだけは、騒音に耐えられなくなったらスイッチを切って止められるような仕掛けがしてあります。その部屋の人がスイッチを切ると、両方の部屋で騒音が止まる仕組みになっています。この実験の後、 2つのグループのキラー細胞を測定してみると、自分たちの意思でスイッチを切ることができる部屋にいた人のキラー細胞は減少していなかった。もう一方のグループの人はキラー細胞が明らかに減少していた。このことから、ストレスに対して受け身になって対応することはよくないことがわかった。ストレスに対して、自力で解決する姿勢があればキラー細胞は減ることはない。免疫力が持続する。これに対して、ストレスに無防備で受け身になってしまうとキラー細胞が減少し、ガンや難病に侵されやすくなる。(笑いの健康学 伊丹仁朗 三省堂 51頁より要旨引用)神経症の人は、不安、恐怖、違和感、不快感などが湧き起こってくると、あってはならないものと認識して、取り除こうとする。思い通りにならないと逃げてしまう。この対応は1番まずい対応である。それらに対してどのように対応していけばよいのかは、森田理論学習が明確に教えてくれている。対応するための理論を知っているか知っていないかは、精神や身体の健康に大きく影響するのである。森田理論では、それらは欲望があるからこそ発生しているものであるという。不安などに関わり続けるのではなく、欲望のほうに目を向けて日常茶飯事や仕事に取り組んでいくことを教えてくれた。また不安があるからこそ、無制限に欲望を追い求めるということがなくなる。欲望の暴走を食い止めることができるのだ。それは丁度自動車のアクセルとブレーキのような関係にあたることを学んだ。車はアクセルを踏み込まないと絶対に前に進む事はない。アクセルを踏み込むことが1番大事だ。しかし、その時ブレーキが壊れていては、追突事故や大惨事を引き起こす。アクセルを踏み込むことに重点を置きつつも、ブレーキの果たしている役割を十分に認識することが大切である。適宜アクセルとブレーキを使いこなしていけば、安全に目的地に到達することができる。これはサーカスの綱渡りの芸にも似ている。綱渡りでは、長い物干し竿のようなものを持って常にバランスを取っている。バランスを取りながら、慎重に一歩一歩目的地に向かって移動している。神経症に陥っている人は、不安などに取り付かれてバランスが崩れている状態である。神経症が治るということは、不安と欲望のバランスを回復させることだと言っても過言ではない。
2018.05.18
コメント(0)
ヨーロッパの最高峰モンブランの頂上に達する最後の道は、頂上直下で非常に細い稜線になっている。そこはいわゆる「ナイフリッジ」と呼ばれ、ナイフ状の稜線になっている。そのナイフリッジの幅は20センチ足らずで、両側の斜面は削ぎ落とされたような断崖絶壁である。視界が良好な時にその細い道を進んでいくことはとても恐ろしい。なにしろ、左右が断崖絶壁のために目がくらむような恐ろしさである。風があれば吹き飛ばされそうになる。視線を谷底に向けてしまうと足がすくんで這いつくばってしまう。しかしモンブランの頂上を目指すためには、その恐ろしいところをどうしても通過しなければならない。ここで死の恐怖を避けようと思えば、前進することをやめて中止して下の小屋に帰り、他の人が降りてくるのを待っていればいいのである。そうすれば今直面しようとしている死の恐怖を感じなくてすむ。しかし、その代わり一生に一度のモンブラン登山という、人生の目標は捨てなければならない。一旦人生の夢や目標を捨てると、やる気やモチベーションは急激に低下してくる。生きる屍と化してしまう。そのこと考えてみれば、ぜひ渡り切りたい。大きな目標があれば、それには様々な不安や死の恐怖はつきものなのである。これは生きていればどんな人にとってもいえることである。その場合、心の安楽を求めて目標を放棄するか、大きな目標に心を向けて、死の恐怖と共存しながら懸命に目標に向かって進むかのどちらかなのである。実際には「生きがい療法」の伊丹先生が、ガン患者とともにモンブラン登山に挑戦された時は、ナイフリッジ付近は猛吹雪で、視界が1メートルぐらいだった。ほとんどもう周りが見えず、どこを歩いているのかわからない。そのせいで、死の恐怖はなかった。しかし、そのために素晴らしいアルプスの眺めは全く見ることができなかった。果たしてどちらがよかったのか。これはガンでいうと、自分がガンにかかっているという認識がないことと同じである。心の安楽は確かにあるかもしれない。しかし、自分の身体がどのようにガンにむしばまれているのか見当がつかない。疑心暗鬼になる。すると、ガンの克服に向けて、本来家族、友人達が心を合わせて闘い、ガンに負けずに生きる目的に取り組もうとするすばらしさ、人生の手ごたえもないであろう。そのうち痛みでのたうち回るようになる。ガンという病名を知っていれば、死の恐怖はあるけれども、家族や友人と力を合わせて、生きている間にしたいこと、あるいは病気と闘いながら、素晴らしい人生に取り込むことができるのではないか。心の安楽だけを求めることは、大事なものを失う結果になるという事をよく考えてみる必要がある。(生きがい療法でガンに克つ 伊丹仁朗 講談社 209ページより要旨引用)この話は森田理論に通じるところがある。事実、自分の置かれた状況に向き合わなければ、感情が発生し、高まっていかない。意識化できなければ、気づきや発見は湧き上がってこない。関心や興味も出てこない。工夫やアイデアも思いつかない。意欲ややる気が出てこない。生きがいや人生を謳歌することは永遠に閉ざされてしまう。たとえ心配や恐怖があっても、目の前の事実や現状に真正面から向き合い、十分に事実を見極める態度が大切である。
2018.05.17
コメント(0)
田舎のお寺の住職さんから伺った話です。昔TVドラマに「北の国から」というのがありました。純という息子が中学を卒業して、東京に出て定時制高校に学びながら働くことになりました。いよいよ東京へ出発する日、父親の五郎は東京へ向かうトラックの運転手に純を乗せてもらうようにお願いしました。無愛想でぶっきらぼうの運転手に、五郎はペコペコして頭を下げ、純のこと頼みます。やがてトラックは出発し、助手席に乗った純は両耳にイヤホンをして音楽を聴いていました。しばらくしたら純の付けていたイヤホンのコードが引っ張られます。運転手が話しかけているのに聞こえないのでひっこぬかれたのです。驚いた純に運転手は車のダッシュボードに置いてある封筒をアゴで指し示します。純は「なんですか」と聞くと、運転手は言いました。「金だ。いらんと言うのに親父が置いていった。その金見てみな。ピン札に泥が付いている。お前の親父の手に付いていた泥だろう。俺は受け取れん。お前の宝にしろ。一生とっとけ」純が恐る恐る封筒を手にして、中を見ると1万円のピン札が2枚、その縁には確かに泥がついている。その時、純はお札の泥を指でなぞって泣き出してしまいます。この話は「北の国から」の脚本家である倉本聰さんが、 ガッツ石松さんから聞いた実話をもとに作られたそうです。ガッツ石松さんはとても貧しい家で育ったそうです。彼はお母さんの事をいつも誇りにしていました。お母さんはいつもガッツ石松さんに言っていたそうです。「お前はバカだし、私も貧乏で何もしてやれない。ただお前を信じてやれる事は出来る」ガッツ石松さんは中学を卒業して、ボクサーを志して東京に出ましたその東京に旅立つ朝、彼はお母さんが働いている工事現場に行きました。当時お母さんは家族6人を食べさせるために、早朝より男たちに混じって、 日給240円の道路工事の仕事をしていました。「かあちゃん、じゃ行ってくるから」と言うと、お母さんはツルハシの手を止めて、ポケットからくしゃくしゃになった泥のついた1,000円札を出して持たせてくれました。ガッツさんはとても感動したそうです。以後、ガッツ石松さんの人生の支えは、その1,000円札になったそうです。どんなに貧しくても、決してその1,000円は使ってはいけないと思ったそうです。その1,000円札にはお母さんのありったけの愛情が込められているからです。ガッツ石松さんは、つらい時、悲しい時、いつもその1000札を取り出してながめていたそうです。この話は、涙が出るほど感動的な話です。それは、生きるのに不器用で、最低限の生活をしているにもかかわらず、自己中心を前面に出すのではなく、利他の気持ちを失うことなく日々懸命に生きているからではないでしょうか。昨今の公文書偽造の官僚たちの生き方と比べてなんと崇高な生き方でしょうか。我々は、必要なものは全て買い揃え、食べたいものはいつでも腹いっぱいに食べるという飽食三昧の生活をしています。一般的に考えると、自分が豊かであればあるほど、人に対する思いやりも出てくるのではないかと思われます。ところが、事実は違うということです。生命を維持するために、日々懸命に働かなければならない人ほど、人に対する思いやりも深くなるのではないかと思われます。物質的に豊かであればあるほど、利他の心が忘れ去られて、ますます自己中心の考え方に突き進んでしまうのです。巨大な国際企業がなりふり構わず、世界制覇を狙って利益を荒稼ぎしているようなものです。私は森田理論を学習して、自分の生活を豊かにすることは生の欲望の発揮であり、それはそれで尊いことだと学びました。ところが、欲望というのは、どんな欲望であっても際限なしに追い求めては、必ずその弊害がやってくるのだと思います。森田理論では、欲望は不安によって制御してバランスをとらなくてはならないといいます。これは車のアクセルとブレーキの関係にあたります。バランスや調和を意識した生き方こそ我々の目指すところではないでしょうか。そういう意味では物質的豊かさを際限なく追い求めるという生き方は、どこかで歯止めをかける必要があります
2018.04.30
コメント(0)
3月号の生活の発見誌に次のような記事があった。・現実的不安と神経症的不安を混同しない。これは森田理論学習の「不安と欲望」の単元を学習する前に理解しておいてほしいことだ。では現実的不安とは何か。例えば、不慮の事故に備えて生命保険に入っておく。自動車保険に入っておく。地震に備えて家具を固定しておく。耐震工事を施しておく。生活習慣病の結果を受けて、食生活の改善や運動に取り組む。神経質者はこのようにいくらでも取り越し苦労をする。その中でも手を出しておけば、将来大きな惨禍を免れる事はいくらでもある。このような不安は気づいたら直ちに手を出していくことが大切である。私は不安に学んで積極的に手を出さなければならないものは次の2点であると考えている。1つは積極的に手を出すことによって、人のために役に立つ行動である。少々うっとうしがられても、将来、あの人の一言が今の自分につながったと思われるような事は、積極的に手を出すべきである。もう一つは、今積極的に手を出していけば、将来大きな問題を回避することができる場合である。松下幸之助さんは、積極的に手を出さなければならないことは、不安全体から見れば1割から2割であると言われている。その1割から2割の部分に、手を出す人と手を出さない人は大きく差が開いてくると思われる。神経症的な不安は、手を出せば出すほど精神交互作用によって窮地に追い込まれるものである。これらは放っておけば、流動変化の中で、沸き起こっては消え、生まれてはなくなるものばかりである。きちんと森田理論学習を続けていけば、どのように取り扱っていけばよいか、自然に分かるようになる。・パニくったときはちょっと待つ。神経質性格の人は、ちょっと待つ、ちょっと耐える、ちょっと我慢するということが出来ない人である。不安、恐怖、違和感、不快感などに遭遇すると、すぐにそれらを取り除いて、すっきりしようとする。感情の法則1では、どんな感情も行き着くところまで行き着つくという。その途中では、人間の意志の力ではどうにもならない。登り切るところまで放任しておくのがよい。登り切ってしまうと、次第に下り坂に向かってくる。この世の中は諸行無常、流動変化している。その流れに乗って、無理に手を出さない方が、 1番理にかなったやり方である。森田理論学習で、感情の法則をよく学習するとともに、実際の生活で応用できるようになることが大切になる。
2018.03.31
コメント(0)
私は田舎で育ちました。その田舎の山のアカマツが無残にもほとんど枯れてしまいました。マツノザイセンチュウやその運び屋とも言われている甲虫の仕業だと言われています。昔は松茸の名産地でしたが、今は見る影もありません。マツ枯れの山が拡がり、寒々とした光景が痛々しい限りです。マツノザイセンチュウはもともと山にたくさん生存していたそうです。ところが、人間が山に入って、手入れをしなくなったために猛威を振るうようになったのだそうです。また、マツやスギ、ヒノキの針葉樹による単植林になってしまったために大きな被害を出しているのです。スギ花粉症の被害のその一つです。私の田舎では、山の木を全部切り倒して、国の補助を受けて、ヒノキ林にする計画があります。こうしたやり方に警鐘を鳴らす人がいます。宮脇昭さんです。田舎の森を再生するには、現地の植生を調査することによって、土地の潜在自然植生を的確に把握し、その主木群を中心として、それを支えるできるだけ多くの亜高木、低木、できれば下草までを自然の森の掟に従って混植・ 密植します。つまり、その場にふさわしい多種多様な苗木や下草を混ぜて植樹するのです。このようにすれば、 3年も経てば管理費は不要になります。時間とともに確実に生育し、多彩な防災・環境保全機能を果たす土地本来の森になるのです。宮脇さんは、人間の都合によって、自然の植生を無視して、スギやヒノキの単植林にしてしまうと、永遠に管理費がかかるようになる。また生態系が狂って、自然災害によって地域住民の命を脅かすような原因を作ってしまうと指摘されています。そして現代の林野行政を見ていると、将来に不安があると言われている。人間にとって生きるための「最高条件」は「最適条件」を破壊すると警告されている。日本人は、飽食三昧の生活を送っている。贅沢の限りを尽くした生活を送っている。今や日本人は何不足のない「最高条件」のもとで我が世の春を謳歌している。しかし、植物の世界では「最高条件」に達すると、その状態は長続きせず、容易に衰退に追い込まれる。たとえば畑の雑草は301種類あるという。農家の人は、雑草退治に多くの労力を割いている。これを根絶させる唯一の方法は、草を取るのをやめることだそうです。草取りをやめ、耕作もやめると、雑草にとっては「最高の条件」になって一時的には大繁茂します。しかし、雑草にとって、人の手の入らない「最高の条件」のまま1年も放置すると、雑草よりも競争力が強く、草丈が高くなる2年生の雑草に置き換わってしまいます。さらに2年から3年たつと、それらの雑草もセイタカアワダチ草やススキなどなどに入れ替わってしまいます。こうして、あれほどしぶとく生育し続けて、農家の人をてこずらせていた耕地雑草は、見事に駆逐されてしまうのです。植物は「最高条件」の環境下に居続けると、やがて必ず自らの存続そのものが危ぶまれる事態に陥るということです。雑草からすると、自分たちが生き延び続けるためには、適度な人間の介入が不可欠で、そのことが生き延びるための「最適条件」となるわけです。これは動物の世界でもそうです。人間が渡り鳥などにエサをふんだんに与えると、飛ぶこともできなくなる。あるいはヒナが生まれても、育てようとしなくなる。そのうち絶滅していくのです。私たち人間にとっても、自分の欲望だけを満たす「最高条件」を追求するのではなく、多少我慢しながら他者と競争・共生できる「最適条件」が望ましいといえます。(4千万本の木を植えた男が残す言葉 宮脇昭 河出書房新社参照)人間の場合、ともすると欲望の暴走を招いてしまいます。人間の場合、自分たちの思い通りに他者や自然をコントロールしようとします。それが将来、天に唾するようなもので、自分たちに惨禍がブーメランのように降りかかってくる事は考えもしません。そんな不幸な歴史を繰り返してきたにもかかわらず、歴史に学ぶことをしません。森田理論では、生の欲望を無制限に追い求めてはならないと言っています。生の欲望は、不安や恐怖で適正に制御して、調和をはかる必要があると言っているのです。森田理論は現代の人間社会に大きな警鐘を鳴らしているのだと思われます。
2018.03.23
コメント(0)
玉野井幹雄さんは、人をあえてその時の考え方で区別すると、 「積極的な考え方をする人」と「消極的な考え方をする人」と「事実本位の考え方をする人」に分けられると言われています。「積極的な考え方をする人」は、 「現状を善くするためには、 善い部分を増やせばいい」と考え、長所を見つけてそれを生かすように努力します。これに対して、 「消極的な考え方をする人」は、 「現状を善くするためには、悪い部分をなくすればいい」と考え、欠点を見つけてそれをなくそうと努力するのであります。神経症になっている人は、たいてい後者に属していると思われます。「積極的な考え方の人」は、 「善いものを手に入れるためなら苦労してもいい」を考えるのに対して、 「消極的な考え方の人」は、出来るだけ苦労しないで善いものを手に入れようとします。つまり苦労の出し惜しみをするのであります。そうして、 「善い結果が得られない」と言って文句を言っているのが「消極的な考え方の人」ではないかと思います。そういった傾向は、日常生活を送る上でいろんなところに現れてきて、 「不快感」をなくそうとするようになるのも、その現れだと思います。なぜ、そのような「消極的な考え方」をするようになるのかと申しますと、心の中で「不快感と真っ直ぐ向き合っていない」 「不快感をじっくり味わっていない」 「不快感から逃げている」ところに根本的な原因があると私は考えています。「不快感から逃げるようになる」原因を追求していきますと、困難な状況に遭遇したときに発生する本能的な「逃避欲求」に原因があります。その欲求に従っていったら、明らかに「生活が成り立たなくなる」であろう事は容易に想像がつくのであります。普通の人がいつも、 「不快感をじっくり味わって前向きに生きている」のに、 「消極的な考え方をする人」は、 「できるだけ不快感に出会わないような楽な道を選んで生きようとする」のであります。積極的な考え方に転換するためには、まず、感情を自分の思うようにしようとする「誤った願望や認識」を改めるとともに、辛くても不快感に真っ直ぐ向き合って、それをじっくり味わうようにしなければなりません。気分本位な態度で、回避行動をとりたくなった時に、 「ちょっと待て」と言い聞かせて、前向きな生き方を選択できるように自分を変えていく必要があります。このような態度になる「考え方」を、 「事実本位の考え方」というのであります。それは積極的とか消極的とかにこだわらず、ただその時の事実に基づいて最善の方法を考えるというものであります。私どもの現実は、その時の状況によって、 「積極的な考え方」をしたくても出来ない場合がありますし、 「消極的な考え方」をした方がよい場合もあるわけです。ですから、そういった「考え方」にこだわらないで、常にその時の事実に基づいて考えていくのが最も好ましいと言うことができます。(いかにして悩みを解決するか 、玉野井幹雄 自費出版 252頁より引用)
2018.03.17
コメント(2)
水谷啓二先生のお話である。対人恐怖の人などは、目上の人の前でも平気でいられるようになることを治ることだと思っているが、とんでもないことである。目上の人の前でビクビクするのは当然の人情であって、その気持ちがあってこそ目上の人からも迷惑かられず、好意を寄せられ、引き立てられることができるのである。古語に「君主は親しんで狎れず」と言っているとおりである。私は青年時代、対人恐怖で苦しんでいた頃には、人前で恥ずかしいとか怖いとかいう感情を抹殺しようと思って、随分間違った修行をやったことがある。夏の暑い盛りに学生服の上から、ドテラを着込み、その姿のままで汽車に乗って旅行したことがある。なんのためにそんなことをしたくかといえば、 1つには暑さに耐える練習をすることであり、 1つには他人からジロジロ見られても平気でいられるように、自分を訓練するためであった。また自分のおどおどした、臆病な性格を叩き直そうと思って、わざわざヨタ者に喧嘩を売り、 10人くらいに袋叩きにされたこともある。しかし、年をとるにつれて、このような人前で平気になり、大胆になるための練習は無用、有害であることが分かってきた。私どもは常にビクビク、ハラハラしていることによって、初めて人に迷惑をかけずにすみ、また危険を未然に防ぎ失敗を免れることができるのである。 (生活の発見誌 2018年2月号 15頁より引用) このことに関して、帚木蓬生氏は次のように述べておられます。実生活での平常心とは、 「ハラハラドキドキ」したり、恐ろしがったり、悲しんだり、驚いたり、不安があったりするのが、「平常心の心」なのです。手をいくら延ばしても届かない「平常心」を目標にしていると、これまた毎日が「平常心」を入手するための練習に成り下がります。残るのは不全感と落胆のみです。「平常心」とは、そもそも、当然あるべきはずの心であって、普段の心です。寒かったり、暑がったり、雨の日を嫌だと思ったり、朝早くからの仕事をおっくうがったり、嫌な同僚と一緒の当直を気が重いと感じる心が平常心です。今現在のオロオロする心が「平常心」なのですから、 「不安常住」と「平常心」が同じ現象の表裏と考えても差し支えありません。「不安常住 」、言い換えれば、この平常心の上に立って、日々 「恐怖突入」していく。これが生活の実際です。いたずらに、架空の、ありえない「平常心」などを目指しては、毎日が徒労に終わります。「平常心」は足元にあります。不安の入り混じった「平常心」で、日々を過ごしていく。恐怖心が起これば、恐怖突入していく。この繰り返しが実生活なのです。6年間の臥床生活を強いられた正岡子規にとって、毎日は、いつ死が訪れるか恐れる日々だったに違いありません。死の恐怖の前でおろおろするばかりだったはずです。にもかかわらず、そのおろおろからなる平常心を糧にして、つまり「不安常住」の病床を自分の世界にして、 友人や門弟と会い、健康人にもできないような仕事をし続けたのです。「不安常住」こそ平常心であり、日々 、恐怖突入の連続が、人の真の生活です。(生きる力 森田正馬の15の提言 朝日新聞出版 152頁より引用)どんなに不安、苦痛、恐怖、違和感、不快感などの感情に襲われても、それらを取り除こうと悪戦苦闘することをやめる。また気分本位になってそれらを避けることやめる。そして目の前の仕事や家事などに目を向けて、嫌々仕方なく取り組んでいくという態度を習慣化していくことが大切なのだと思われます。
2018.03.10
コメント(0)
生活の発見誌2月号に岩木先生の神経質の特徴についての興味深い説明があった。これによると神経質者には旺盛な生の欲望がある。また、強い自己内省力がある。生の欲望には、向上欲と自己保存欲がある。自己内省力には、強い反省心と強い自己観察力がある。神経質者が不安を起こす状況から回避しようとするのは、この自己保存欲による。自己保存欲は、変化に対して不安を覚えたり、変化を嫌がったりする傾向でもありますから、たとえいまは苦痛な状態であっても、自己保存欲のために、現状維持の方を選ぶ神経質者もいます。また面倒なことや努力を必要とすることに対して、人一倍苦痛を感じるので、それらの行動をできるだけ避けたがる傾向があります。この関係を私なりに整理してみました。生の欲望は、生存や安全の欲求、社会的所属の欲求、向上発展の欲求、楽しみたいという要求 、自由を求める欲求など多方面にわたっています。神経質者における生の欲望が強いというのは、これらの欲望の範囲が広いという事になります。その中の高次欲求として向上発展の欲求があるのだと思います。この要求は下位の欲求が充足されて初めて、生まれてくるものだと言われています。この欲求の充足のためには、目の前に立ちはだかる大きな障害を乗り越える必要があります。その障害を常に乗り越える事はとてもしんどいことです。そもそも能力的に無理な場合もあります。そういう努力を維持することは苦痛ですから、挑戦することを諦めて現状維持に甘んじてしまうことが多々起こってきます。森田理論ではそのような態度を気分本位と言っています。気分本位な生活態度は、逃避したときは一瞬だけ楽になりますが、その後後悔や自己否定で苦しむことになります。だから常に生の欲望を忘れて生活をしてはならないということです。ここで言われている自己保存欲は、この気分本位な生活態度のことを言われているのではないでしょうか。気分本位な感情がわき起こってきたときは、生の欲望を改めて見つめ直すことが必要なのだと思います。次に、神経質者の特徴として、自己内省力を上げられておられます。森田先生は自己内省力が強い人ほど立派な人間であると言われています。普段から自己の行動や思考を振り返って反省することは必要なことです。自己内省力のない人の行動は無鉄砲で自己中心的で始末に負えません。しかし、それが行き過ぎてしまうのは問題です。自己否定に陥ったり、いつまでも行動することに躊躇するばかりではまずいことです。ここでの問題は、生の欲望と自己内省力のバランスが崩れているということだと思います。自己内省力が強すぎると、強烈な不安、恐怖、違和感、不快な感情が襲ってきます。神経症に陥る人は、それを取り去ることばかりに注意や意識を向けて、かえって症状を深めてしまいます。この問題を解消するためには、不安や恐怖が発生するのは、その裏に欲望が存在しているからだという認識を持つことです。不安や恐怖の発生は、強い欲望を暗示しているのです。ここでとるべき態度は、自分の欲望を認識し、生の欲望の発揮に注意や意識を向けることです。そして、不安や恐怖を車のブレーキのように制御機能として活用していくのです。欲望と自己内省力のバランスがとれてくれば欲望が暴走することはなくなります。つまり不安や恐怖を邪魔者として排除するのではなく、大いに活用する必要があるのです。
2018.02.28
コメント(0)
先日薬局の前を通りかかると、次のような文言が書いてあった。少肉多菜、少塩多酢、少糖多果、少食多嚼、少車多歩、少衣多浴、少煩多眠、少念多笑、少欲多施、少言多行である。すべて「少」「多」という字がついている。「少」は抑制すること。「多」積極的に推し進めていくこと。肉食、塩辛いもの、甘いもの、飽食、乗り物に乗る、たくさん着こむこと、ストレスを抱え込むこと、しかめっ面をすること、欲望を野放しにすること、理屈ばかりいうことは行き過ぎになりやすいので普段から抑え気味にする。反対に野菜食、酢の物、果物、粗食、歩くこと、日光をよく浴びること、よく眠ること、笑うこと、人のために役立つことをすること、実行・実践を心がけることは積極的に取り組んでいくようにする。本来はこれらがバランスがとれていれば問題は起きないのである。しかし、人間には好き嫌い、本能的欲望、楽をして人よりよい思いをしたいなどの気持ちがあるために、なかなかバランスが取れないのである。バランスをとることを無視するから、生活習慣病にかかったり、精神的に不安定になるのである。私は、「少欲知足」という言葉が好きである。欲望は放っておくと際限なく膨らんでいく。野放しにしておくと、やがて欲望は暴走を始めて制御不能となる。欲望が起きると多かれ少なかれ不安が発生する。その不安を活用して欲望を抑制する。つまり、欲望と不安のバランスを上手にとりながら生活していくということである。これは森田理論で言えば、精神拮抗作用、調和という考え方につながる。余談だが、京都龍安寺のつくばいは、口という字を真ん中に大きくとって、その上下左右に「吾唯足知」と書いてある。4文字すべてに口という字があるので、それを利用しているのだ。この内容も、欲望は無制限に野放しにしてはならない。欲望と不安のバランスとるという事は大切であるということだ。欲望は生きる上において、とても大切なものではあるが、行き過ぎると、その弊害が大きくなる。欲望と不安の関係は、私がいつも投稿しているように、、サーカスの綱渡りのように微調整を繰り返してバランスをとる必要があるのだ。生きるという事は、バランスを取りながら注意深く前を向いて前進していくことである。一旦バランスを壊してしまうと、自他ともに破滅の方向に向かう。そのことは肝に銘じておくことだ。本能的な欲望を抑制するともう一ついいことがある。鋭い感性が常に刺激を受けて、維持されやすいということである。逆に言うと贅沢三昧の生活を続けていると感性がどんどん鈍化してくるということだ。例えば、自分は霜降り肉が好きだからといって毎日食べていると、最初に食べた時の感動は味わえなくなってくる。マグロの大トロが好きだと言って、毎日口にしていると、最初に味わった感動は薄れていく。我々森田理論学習しているものにとっては、日々小さな気づきや感動が泉のようにこんこんと湧き出てくることはとても大切なことである。そこにある気づき、興味、関心、発見が宝の山となるのである。それによって感情が高まっていく。感情が高まっていけば、工夫やアイディアが浮かんでくる。つまり、やる気や意欲が出てくるのである。そういう積極的な生きる元気の素をいかにたくさん作り出すか。人生は活性化していくのは、主にこの点にかかっているのである。そういう意味からいっても、本能的な欲望は野放しにしてはならない。普通人間は放っておくと欲望が欲望を産んで収拾がつかなくなる傾向が強い。森田理論を学んだ人は、ぜひとも欲望と不安のバランスをとる事を信条にしてほしいものだ。
2017.12.25
コメント(0)
元ヤクルトの古田敦也さんは、人生でスランプに陥った時は「人生のフォアボール」を狙えといわれます。古田さんは野球でスランプに陥った時は、ヒットを打つなどということは考えないようにしてバッターボックスに入るそうです。それは不調のときボール球に手を出してしまう。また不思議なもので、調子の悪い時に限って打ちたくなるからです。だから「ボール球は絶対に振らない」「きわどい球は全部ファールでよい」「結果がでないときは打席に入ってもフォアボールしか狙いません」といいます。普通の野球選手は全打席ヒットを打ちたいのではないでしょうか。全打席そのように向かっていくのかと思っていました。古田さんは不調のときの自分をよく自覚しておられたのではないかと思います。自覚できれば自分の努力目標が決まります。それがフォアボールねらいだったのです。自分の現状に合わせた対策をとられていたのです。もし自覚できなかったら、自分を叱咤激励して、追い込んでいったのではないでしょうか。その結果ますますスランプに落ち込んで悪循環のスパイラルにはまってしまうのではないでしょうか。神経症で苦しいときは、何とかその苦しみから逃れてすっきりしたい。楽になりたいと思います。でも森田理論を少しでもかじった人は、はからいを始めれば、神経症は治るどころか益々増悪していくことは頭では理解できています。でもどうしてもとらわれから抜け出ることができないというジレンマで苦しんでいます。頭では理解できても、体がついてこない状態です。そんな時は、苦しくてやりきれないなと思いながら、何とか最低限の生活だけを維持していくという気持ちでよいのではないでしょうか。それが、古田さんの言われる「人生のフォアボール」を狙うということだと思います。森田理論学習で、症状で苦しいときは「超低空飛行」ということを学びました。墜落しない程度でよいので、何とか生活を維持することがとても大事だということです。そうしていればいつのまにか変化が起きるのだと思います。人生は波のようなものです。一般的には沈みっぱなしということは考えにくいと思います。また反対に、今やることなすことがうまくいっていても、必ず下り坂はやってきます。落ち込んでいるときは、変な悪あがきはやめて、台風が来た時のように活動をできる限り抑えて通り過ぎるのを待つという戦略も考えておきたいものです。台風一過必ず青空が戻ってくることを信じて。
2017.12.01
コメント(0)
森田理論の中で最も重要な考え方は、 「生の欲望」であると思う。もし「生の欲望」に目覚めて、不安とのバランスを取りながら 「生の欲望」の発揮に邁進することができたならば、森田理論学習はそれで十分だと思う。古閑義之先生は次のように述べられている。「生の欲望」の提唱は、森田先生の晩年において、強く浮かび上がった重大な事項で、この「生の欲望」の提唱こそ、森田の神経質の解明への根本要義である、と主張してやまない。ですから、 「生の欲望」の学習は最も力を入れて学習する単元である。これに触れない森田理論は、森田理論とは言えない。森田理論は「生の欲望」から始まって、色々試行錯誤した後、最終的には「生の欲望」に戻っていく理論であると言っても過言ではない。山野井房一郎先生は次のように述べられている。森田先生は、御生前に常々 、 「生の欲望」ということを言われました。そして、 「生の欲望」に伴って、それに相応する不安、心配が存在するものであることを説明されました。つまり、生の欲望とそれに伴う不安、心配は、盾の両面であって、その一面は「生の欲望」であり、他の面は不安、心配であると言うわけです。サラリーマンが、勤め先で成績を上げようとすれば、それに相応する不安があり、学生が良い成績を上げようとしても同様である、とのことです。大会社の社長は、一面において、 「生の欲望」に張り切っていますが、 1サラリーマンに比べて、株主への配当、社会への企業責任および従業員ならびにその家族の生活など、多大な不安、心配をしなければなりません。森田先生はその著書「神経質の本態と療法」の中で次のように述べられています。1 、人前で不安を感じるのは、異常な心理ではなく、当然あるべき感情であるから、これを排除すべきでない。また排除しようとしても不可能であるから、これに耐えなければならない。2 、そして自分の必要な仕事に精を出すべきである。山野井先生は、会社で経理の仕事されていました。自分を認めてもらうには、経理の勉強するのが近道であると考えて、会社にあった経理関係の図書を次々と読破しました。その結果、 5 、 6年もすると経理でわからないことは、 「山野井に聞け」と言うようなことになりました。その後、関連企業の財務の相談にのるようになりました。公認会計士試験にも合格し、会計に関する本を10冊以上も出版しました。私は「生の欲望」の発揮にあたって、次のように考えている。1 、仕事や日常茶飯事に丁寧に取り組む。2 、規則正しい生活を心がける。3 、目の前の問題や課題に対して逃げずに取り組んでいく。4 、好奇心を発揮して、夢や目標を持って果敢に取り組んでいく。「生の欲望」は難しく説明すれば、いくらでも説明できるが、シンプルに考えればこのようなことである。その際忘れてはならない事は、人間は欲望があれば必ず不安が出てくる。強い不安が出てくるということは、それだけ欲望が強いということである。不安と欲望は本体と影のような関係である。不安を敵視してはならない。不安は重要な役割を持っており、不安は我々人間の強力な仲間なのである。不安と欲望のバランスをとれるようになった人が、森田の達人と言えるのではないかと考える。
2017.11.08
コメント(0)
森田先生が三聖病院で講話をされた後、患者の質問をお受けになった。退院間近の患者が次のような質問をした。「自分の主訴する症状はありながら、前ほど気にならなくなり、仕事もできるようになり、体力も病前以上に充実してきました。宇佐先生はもう退院して働いてもよいと言われますが、さて退院となると、またあの怖ろしいことのあった職場にかえるのかと思うと不安が昂じてからだがすくみ、食欲も消えてイライラします。先生、この不安をどうしたらなくすることができるでしょうか」森田先生はこれに答えて次のように話された。「お釈迦様は座禅をして悟ったといわれるが、お釈迦様は一体何を悟って一切が分かり離脱したのでしょう。お釈迦様は入山の後、心当たりの先輩を訪ねて教えを乞うたが、生老病死の悩みを解消し、不安を去る事は出来なかった。その後、自力解決のために座禅に入って最後に悟ったのは、次の3つでした。1 .生老病死の苦悩は人生から取り去ることのできない事実である。2 .人間は一切の不安をなくする事は出来ない。3 .不安の多い人ほど心の上等な人である。この話を聞いた大三輪義一さんは、次のように「形外先生言行録」に書いておられる。 (29ページより引用)「この意外な解説を聞いて、私の全身全霊は、ドシンと雷に打たれたように感激し、今まで血眼になって、求め探していた不安解消法は無意味になって霧散霧消してしまった。その晩は胸の奥底からこみ上げてくる魂の歓喜に涙が止まらず、わくわく興奮して一晩中眠れなかった。私の心は180度転換し、見るもの聞くものなにもかもが生き生きして躍動している。長い夢から覚めたようである。私は森田先生のおかげで、第3の目を開かれたのである。夢想だにしなかったことが身近に展開して、じっとしておられなくなった。それまで本来ないものを探して心身をすり減らしていた自分がいとおしくなった。自分の迷妄、暗愚のためどれほど周囲の人々に迷惑をかけたことであろうか。不安解消のための一切の手段、方法をやめてしまった。不安のまま、ビクビク、ハラハラ、本業に励むことに方針を決め、即日実行を開始しました。何事も事実本位の努力に切り換えました。朝から晩まで天気のようにぐるぐる変わる気分を故意に自分から安心快適にしようとする努力を放棄しました。もちろん、長年の癖がついてくるので初めから全部成功とはいきませんでしたが、苦しいまま不安なままに実行しているうちに、だんだん新境地が開けてきました」欲望がある限り不安はなくすることはできない。持って生まれた心配性という神経質性格も変えることはできない。不安や恐怖などををあるがままに認めて受け入れていくこと。多くの不安や恐怖を抱えたまま、「生の欲望」に向かって努力精進する以外に生きていく道はない。そして、「かくあるべし」で自分と他人、自然を自分の思い通りにコントロールしようとする態度を弱めて、あくまでも事実や現実、現状にしっかりと根を張り、いつもそこを出発点として生活していく態度を身に着けること。森田理論学習の目的は、一言でいってしまえば、それを会得することに尽きるのだと思う。
2017.11.05
コメント(0)
10月の森田理論学習は臨床心理士の先生の話を聞いた。この先生はスクールカウンセラーをされている。また森田療法とマインドフルネスを融合してあちこちで講演をされている。参考に残った話を紹介してみよう。神経症を治すという考え方は間違っている。森田先生も神経症は実際の病気ではない。普通の健康者として取り扱えば容易に治ると言われている神経症を病気とみなして治療しては決して治らない。症状を治す事は不問にすべきである。直接神経症を治すのではなく、生活の仕方を見直したり、誤ったものの見方を修正することによって治るのです。そういう意味では「治る」ことを目指すのではなく、「直す」という言葉遣いが正しい。スクールカウンセラーをされていて、最近よく感じるのは、リストカットする高校生が増えている。高校生は受験や就職、あるいは人間関係などで不安を感じやすい。大きな不安を抱えている高校生の多くは、自分のメンタル面が弱いと考えているようだ。不安を抱えていることと自分のメンタル面が弱いという事は全く関係がないという話をしている。不安は欲望と正比例している。欲望があるから不安がある。不安が不快だからといって、それだけをなくすることはできない。次に不安やストレスの役割について話している。不安は安心のための用心である。危機が近づいていることを教えてくれる。これはちょうど、火災警報機のベルの音のようなものだ。火災警報機のベルが鳴れば、火災の点検をしたり、最悪逃げだせばよい。間違った対応は、ベルの音がうるさいので、火災は放り投げて、火災警報機のけたたましい音を止めようとすることである。不安は安心と安全のために大いに役に立っている。不安でビクビクハラハラは最高の精神的境地である。適度なストレスは生きがいのために必要である。ストレスが全くないとそのことがストレスになる。ただし過度のストレスがたまらないように注意する必要がある。不安に襲われた場合、不安になったかならなかったかは問題にはならない。例えば受験勉強で不安を感じた場合、その不安に学んで勉強を続けていけば、大学などに合格する。反対に、不安に圧倒されて勉強が手につかなかった。受験勉強を放り投げて、不安と格闘していれば、大学に合格したいという夢は達成できなくなる。不愉快なことが悪いことであるとは限らない。不安があるからこそ対策を考え、実行することによって、結果は自ずからついてくる。「正受不受」という言葉がある。これは困難や災難も正しく受けとめれば、受けないのと同じことであるという意味である。自分にとって嫌な事、困難なことが起きた時に、そこから逃げたり手抜きをしたり、適当にごまかしたりするのではなく、正々堂々と受け止め、全力で立ち向かうことが大切なのです。この講話を聞いて私の感想です。私は、不安、恐怖、不快感、違和感などはやりくりしないでそのまま受け入れるということが頭の中にこびりついていました。しかし、不安にはその内容をよく見て、その不安を解消するために積極的な働きかけが大事な場合があるのだと思いました。なんでもかんでも不安を受け入れると言うのではなく、不安に学んで将来の結果が現在より良くなることや、人のために役立つ事は積極的に行動することが大切なのだと思います。このことに関して、ラインハート・ニーバンは次のように述べています。・変えることのできないものについては、それを「受け入れる平静さ」を持とう。・変えるべきものについて、それを「変える勇気」を持とう。・そして、変えることのできないものと変えることのできるものを「区別する知恵」を持とう。
2017.10.30
コメント(2)
私は森田理論は、生活の中でいかにバランスや調和を取り戻していけばよいのかという問題を突き詰めている理論のように思えてならない。そのことを免疫学の立場からわかりやすく説明してくださっている医師がいる。これは再録ですが改めて見直してみたい。 免疫学の権威である安保徹医師は、免疫をつかさどる白血球のバランスが崩れることによって、ガンをはじめとするほとんどの病気は発生するのだといわれています。ガン細胞は健康な人でも毎日数千単位で作られているそうです。実際、現在は2人に一人はガンになる時代になっている。がん細胞を処理しているのは白血球です。その中でも特にマクロファージやTキラー細胞が大きな役割を果たしています。 白血球の95パーセントは、顆粒球とリンパ球と呼ばれる細胞からできているそうです。 顆粒球54%から60%、リンパ球35%から41%の比率になっているときバランス的に安定しており、病気にならず健康に暮らしてゆけるそうです。その割合が崩れてしまうことが病気の原因を作り出しているといわれています。なおこの割合がどうなっているか血液検査で簡単に調べることができます。 つぎにこの微妙なバランスを支えているのは自律神経だといわれています。そのメカニズムを安保医師たちが解明されたそうです。自律神経にはご存知のように、交感神経と副交感神経があります。自律神経がどのように白血球の調整をしているのか。 簡単に言うと、交感神経が優位になると、顆粒球が増えて働きが活発になります。 逆に副交感神経が優位になると、リンパ球が増えて働きが活発になります。普段は昼間は顆粒球優位、夜はリンパ球優位に調整されているそうです。いつもピリピリと緊張状態が持続していると、顆粒球優位の体質になります。逆に、毎日テレビを朝から晩まで見ているような生活は、リンパ球優位の体質に変化してきます。つまり顆粒球54%から60%、リンパ球35%から41%という正常な比率が崩れて病気になりやすい体質になっているのです。 自律神経は私たちの意志とは無関係にコントロールされているのですが、実はストレスの影響を受けやすいという特徴があります。我々のようにいつも不安を抱えて、その不安を取り除こうと悪戦苦闘していると、心身の病気を抱えてしまうということです。 さらに人間関係や争い、気候変動、自然災害などのストレスなどにさらされると、顆粒球の割合が増えて、リンパ球の割合が減ってきます。 ガンで外科的手術を受けると、途端にリンパ球が減少してきます。がんが再発した後亡くなる人が多いというのは、ガンを攻撃するリンパ球が少なくなっているということが原因の一つです。 だから病気にならないために過度のストレスをため込まないということが大変重要になります。「ストレスを減らせと医者が無茶をいう」という川柳があります。仕事、人間関係、薬害、有害食品などストレスの原因はいろいろあります。森田理論では不安への対応方法を見直す。さらに「かくあるべし」という思考パターンを見直して、自然に服従する生き方を身に着けていくことを目指しています。そうすることで精神的なストレスを軽減することを目指しています。それらが身についてくると、顆粒球とリンパ球のバランスがとれて、精神面も身体面も健康体になるものと考えます。
2017.10.20
コメント(0)
対人恐怖症の人は、他人の思惑が気になって仕方がない。相手の反発を恐れて、自分の本当の気持ちを抑圧したり、主張したいこと我慢している。そうしないと仲間はずれにされるかもしれない。いじめにあうかもしれない。集団から見放されると、生きていくことができないと考えている。つまり自分が自由に発言したり振る舞ったりすることは、自分が自分自身に対して規制をかけているのである。こうなると、自分の本心と行動にギャップが生じ、葛藤や苦しみを生み出します。これは岡田尊司によれば、生まれてから3才までの特に母親との人間関係に原因があるといわれる。根本的には無条件に他人を信頼することはできない。甘えることもできない。岡田氏の言われる「愛着障害」を引きずっている状態である。愛着障害の克服については、岡田尊司氏の「愛着障害の克服」 (光文社新書)を参考にしてほしい。愛着障害のためにいつも自分を押し殺していると、相手にとってはいいカモに見える自分のやることなすことについて、批判したり自己主張をしないので、ストレスなどを発散する格好の相手に見えてしまうのだ。そしてすぐに上下のある人間関係を作り上げてしまう。人の思惑が気になる人は、いつも被支配者となる。他人から常に指示命令され、強制や脅迫をされるので、とても生きていくことが苦しくなる。対人恐怖症の人は、常に軽いうつ状態に陥っている。いわゆる気分変調性障害である。うつ病と違い、軽い抑うつ感情が長期にわたって持続している。こういう方は、容易に神経症を発症する。不眠・ 不安・イライラなどの不定愁訴症候群に陥る。気分変調性障害に対しては、薬物療法や様々な心理療法がある。しかしこれは根本的な解決策にはならない場合が多い。私は、森田療法を学んで、極度に他人の思惑を気にするということを「バランスのズレ」と言う面から考えるようにしている。バランスが崩れているから、現在苦しんでいるのだと考えている。極度に他人の思惑を気にするということの反対は、きちんと自己主張をするということである。自己主張とは自分はこう思う。自分はこう考える。自分としてはこうしたい。等々を相手に公表することである。天秤で言えば、その2つがきちんとバランスが取れて釣り合っていることが大切である。ところが、極度に他人の思惑が気になる人は、そちらのほうにばかり重い分銅をつけている状態である。その苦しみを軽減しようと思えば、きちんと自己主張をするようにならなければ、バランスが崩れたままであるからどうしようもない。それでは対人恐怖症のような人にとって、自己主張はどのようにしたらよいのか。まずは、自分はこう考える。自分はこう思う。自分はこのようにしたい。という気持ちをしっかりとさせることである。次に、自分の正直な気持ちを相手に向かって話してみる。しかし対人恐怖の人にしてみればこれができないから対人恐怖になったのである。でも、直接面と向かって言えなくても、集談会の仲間に向かっては話すことができる。とりあえず、誰でもよいので、信頼できる人に自分の思いを口に出すということが大切なのである。次に、レポート用紙にまとめてみる。あるいは、自分の気持ちを日記に書くことも有効である。とにかく頭の中でああでもない、こうでもないと循環論理に陥るのではなく、自分の心や身体から一旦吐き出すということ実践するのだ。まず手始めにすることはこれだ。次に目の前に自分のやりたいこと持っているということが重要になる。趣味、問題点や課題、夢や目標である。これらは自己主張とは関係ないと思われてる人がいるかもしれない。しかし、これらを持って少なからず取り組んでいるということは、自分の頭や手足を使って、精一杯自己主張をしていることと同じことなのである。自己主張の基本は、衣食住などの日常茶飯事に対して、ものそのものになりきって、丁寧に取り組んでいるかどうかに行き着く。バランスをとる一助となるのである。このように考えると、人の思惑が気になるという人は、これらの自己主張が全く行われていないか、あるいはあまりにも中途半端である。つまりバランスが崩れて、天秤の用を果たしていないのだ。直接対人恐怖症や人の思惑を改善するために操作するよりも、バランスを意識して、自分にとってはどのような自己主張をしていったらよいのか考える方がよい。その2つのバランスがとれ、天秤がつり合ったときには、他人の思惑が極度に気になるという不安が、問題にならないほど小さくなっていることに気が付くであろう。
2017.10.19
コメント(2)
過去に栄えた世界の四代文明はすべて衰退した。この事実から私たちは真摯に学ぶ必要がある。その原因の一つに砂漠化があげられている。人口が増えて水不足になったのである。また牧畜を始めて、肉を多量に食べるようになった。羊や牛が周りの草を食べつくしてしまい、砂漠化に拍車をかけたといわれている。自分たちの目の前の欲望の充足ばかりに目がいっていなかったのではなかろうか。もっと自分たちの文明の永続性に目を向けて、欲望と不安のバランスをとる必要があったのではなかろうか。森田では、もともと人間は欲望が湧き起れば、同時に不安も湧き起るように作られているといわれている。バランスや調和を無視することは、自分たちの首を絞めるような行為である。アメリカでは小麦やトウモロコシの大凶作が続いているという。単一作物の生産による連作障害と水不足が原因である。その対策として、作物の遺伝子操作を行って連作障害や病害虫に強い品種を作り出した。しかし地下水位が下がっている水不足は解決できないでいる。また小麦の世界一の産地であったロシアは生産量が減って日本に輸出できない状態である。今後中国、インド、ロシア、ブラジル、その他後進国が力をつけてくると、世界的な食糧の奪い合いは必ず発生してくる。最近の自然災害は異常である。巨大台風、巨大地震、猛吹雪、大洪水が世界各地で猛威をふるっている。それだけではない。オゾン層の破壊、酸性雨、資源の枯渇、ジャングルでの森林破壊、CO2の上昇、北極の氷の溶解、伝染病の脅威など人類の生存を脅かすような不気味な自然現象が忍び寄っている。これらもその多くは、自分たちの便利で快適な生活を無制限に追求してきたなれの果てである。子孫に明るい社会や自然を残してやろうという気持ちはないのである。自分たちが豊かで飽食三昧の生活ができれば、あとは野となれ山となれという考えである。その最たるものが原子力発電である。今の自分たちが無制限に電力を消費するために、処分することのできない核廃棄物を大量に作り出して、将来に先送りしているのである。日本はその先頭に立って原発を世界各国に売り込んでいる。その原因を考えてみた。最も大きいのは、欲望が暴走して制御不能に陥っていることだ。現代人は本来自分がなすべきことまで他人に依存するようになっている。その結果、武力や経済力で弱い人や力のない国を我が物顔で支配し収奪するようになった。そのような関係を続けることは、共存共栄を目指すものではなく、お互いに憎しみを生む。裕福な人や国は、益々マネーゲームに突き進み、自分たち自身の心と体の健康を害している。反対に自国の生産品を強制移転させられる国の人たちは、飢餓と貧困で苦しんでいる。欲望の暴走は人間の宿命なのだろうか。私はそうは思わない。森田理論では人間にはもともと、欲望が発生すれば、その暴走を制御する考えが自然に湧き起るように作られているという。精神拮抗作用という考え方だ。そして欲望の暴走に歯止めをかけて、欲望と不安のバランスがとれた生き方を目指していくのが大切なのである。それが本来の人間の姿であると思う。人間は原点に戻って生き方を変えていく必要がある。他人や後進国の人たちを飢餓や貧困に追いやるような欲望の暴走は断じて容認できない。そのためにすぐにできることがある。自分たちが食べる食料は自分たちが作ることだ。地産地消という生存の基本である、自立の方向性を目指すことである。次にあれがほしい、これがほしいという欲望が起きたら、今あるもので代用できないか、今あるものを改良して再利用できないかと考えることである。自分たちは欲望の暴走の社会で生活しているという認識を持っておくことが大切である。そういう方向で欲望の暴走に歯止めをかけていかないと、過去の四大文明が跡形もなく衰退したように、私たちの高度に発達した文明もいづれ衰退してくるだろう。それよりも全人類の滅亡という最悪のシナリオも現実味を帯びているような状況である。そういう意味では、森田的な考え方をもっと世の中に紹介し普及していく必要があると思う。
2017.10.08
コメント(0)
森田先生の「意識の目的性」について説明してみたい。我々の意識は、常に自分の行為の目的の尖端にのみ集中されて、これを実行する態度や、過程については、ほとんど気がついていないものである。我々はお茶漬けを食べるときには、箸と茶碗の持ち方、特に左の手の左腕の回転具合は、極めて微細な働きであるけれども、この方にはほとんど気がつかないで、意識はご飯をこぼさないようにとの目的ばかりに向いている。また球を投げるときに、球の方ばかりに注意を集中していさえすれば、適切に球を受けることができるけれども、意識がひとたび、自分の手つきや腰の曲げ方のほうに向かうようになれば、すぐに球を受けることができなくなる。小指を怪我したときなどでも、球が受けられなくなるのは、意識がその目的物を離れて、手元のほうに向かうようになるからである。薪割りの時に、打とうする1点のみを見つめていれば、百発百中であると言うのも、この理由に基づくものである。(森田全集第5巻 644ページより引用)神経症に陥った時は、自分の気になる症状に注意や意識を集中させている。気になるというのは自然現象であるので、どうすることもできない。しかし、われわれは意志の力でどうすることもできないものにとらわれて、戦いを挑んでいる。ドンキホーテが水車に向かって戦いを挑んでいったようなものである。森田先生がここで言いたい事は、意識が過度に自己内省的に働くようになると、注意や意識が本来向かうべき方向に向かわなくなる。するとやることなすことがうまくできなくなってしまう。ちゃらんぽらんになり、目的は果たせなくなる。これはゴルフのパターなどでよく見られる。練習の時は何度も成功しているのに、いざ本番になると緊張して手の動きが固まってしまい、肝心なところで入らなくなる。そして肝心な勝負に負けてしまう。この時は、意識が自己内省的に働いている。「どうしても沈めなければならない。ギャラリーの前で恥をかきたくない。これを逃すと優勝はできない」等々。目的物から注意や意識が離れていってしまうので、その分、球への集中力がなくなるのである。これはエネルギーの配分の間違いを起こしているのである。我々の意識は、第一に目的物に照準を定める必要がある。それは我々の欲望と言ってもよいものである。森田理論では欲望が存在すると必ず不安が出てくる。欲望と不安はコインの裏と表の関係にあるという。欲望や不安に対する我々の態度はどうあるべきなのか。まず欲望は決して見失ってはならない。いつも欲望の先を見つめていなければならない。生の欲望の発揮は人間の生きる意欲の源である。ではそれに付随して出てくる不安に対してはどうすればよいのか。これについては森田理論学習で、不安の役割、欲望と不安の関係、不安への対応方法について事前によく学習しておく必要がある。これらがよく理解できていると、不安にとらわれて、手段の自己目的化などが起きないようになる。むしろ不安を生かして、予想される困難をあらかじめ想定して対応できるようになる。また、緊張感があるために、本番では集中できて、予想以上の成果をあげることもできる。不安を排除するのではなく、不安と友達になれるようになる。神経症で悩んでいる時は、不安を目の敵にして戦っているのだが、神経症を克服してくると不安というのは唯一の無二の親友のようなものになれるのである。
2017.08.18
コメント(0)
森田先生は実践や行動をするときに、不安や恐怖をなくして、おもむろに実践や行動するという態度を諫めておられる。また、実際に行動する前に、意欲ややる気を高めて、勢いをつけて取り組むこともだめだといわれている。決心とか自信とかいうものを、思いっきり投げ出してしまって、ただ自分の机の上に、原稿用紙とペンと参考書などを並べて、静かに退屈しながら、それと、にらめっこをしていればよい。その時間は1日に、 10分なり、 30分なり短い時間で、何回でもよいから、なるべく度々 、机の上に座ればよい。そして、あるいは三行でも、落書きし、また参考書を手当たり次第、開いたところでたらめに読んでいればよい。このありさまを1週間なり、 3週間なり、忍耐して続ければよい。その全体の意味から言えば、できても、出来なくとも、いやでも応でも、しなければならぬ事は、ともかくもするということに帰着する。その時に、勇気とか自信とか言うものの、付け焼き刃をしてはいけない、ということである。今、私の言う通りにすれば、たちのよい人は、 2日目から、早くも書く気になる。遅い人でも、 1週間もすれば、自然に調子に乗ってくる。ただ、そのはじめの皮切りの間が、少々苦しいと言うまでのことである。 (森田全集第5巻 267頁より引用)私は大学を卒業して初めての仕事は訪問販売の飛び込み営業の仕事でした。しかし、対人恐怖症の私にとって、それは精神的にとてもきつい仕事でした。最初は同期入社した仲間たちに負けたくないという気持ちが多少ありました。しかし冷たく断られてばかりいると、しだいに訪問する意欲がなくなりました。森田先生に言わせると、そこで仕事をさぼってはいけない。いやいや、仕方なしに、断られ続けても仕事から逃げてはならないということだと思う。仕事から逃げると、一時的には精神的に楽になるが、そのうち何もすることがなくなって虚しくなる。大学まで出たのにどうして訪問営業の仕事で苦しまなければならないのだろうと思う。さらに、営業成績が上がらず上司や同僚から軽蔑したような目で見られる。しだいに針のむしろに座らされているような気分になる。同期入社をした人たちは、今や続々と定年退職を迎えている。OB会のお誘いをみると、その人たちが定年まで仕事を継続してこられたことに対して、大変な驚きと尊敬の念でいっぱいになる。森田理論学習を積み重ねた今だったら、仕事から逃げないで、頑張ることができたであろうか。これについては残念ながら未だ自信がない。冷たい断りの嵐の中で、その辛い気持ちを抱えたまま、次の訪問先に向かうことができたであろうか。頭ではわかるが、たぶん今でも体がついていかないのではないかと思う。そういう気持ちがいつもあるので、たまに訪問営業の辛い時が夢にまで出てくる。神経症で悩んでいる人は、逃げてはいけないのはよくわかっているのだが、それができないから神経症に陥ったのだ。不安や恐怖を持ったまま、目の前の仕事にイヤイヤ仕方なしにでも取り組みなさいといわれてもどうしても体のほうがついていかない。森田理論はそれができないから症状に陥ったのに、強いてそれをやれと、どうして無茶なことを言うのかと反発される人も多いと思う。私の場合、振り返ってみると、そういう冷たい断りの嵐の中でも逃げずに訪問営業に取り組むことができた時期がある。それは2人1組で訪問営業活動をやっていた時である。その時は先輩や同僚がいるので、おいそれと逃げ出すことはできない。それが歯止めとなって、冷たい断りを受けてもある程度水に流して、次の訪問先に向かうことができた。冷たい断り文句を二人で分散できていたような感じだった。訪問先から受けるダメージも軽く感じた。ここで教訓として得たことは、私のような場合は、自分ひとりで不安や恐怖を抱えたまま、目の前の仕事に取り組んでいくということは大変難しいことだ。のべつ幕なしに不安や恐怖を抱えたまま、イヤイヤ仕方なしにでも仕事をしなさいというよりも、このように視点を少し変えれば目的が果たせる場合があるのだ。自分をサポートしてくれる仲間がいれば、すぐに逃げ出さないで、目的を達成できていたのだ。さぼらないので1日中仕事をするので、一人で営業活動をするよりも、成績は良かった。だいたい営業マンは上司の目がないので、使命感が強くない限り、容易にさぼり癖がついてしまう。そういう場合は、ここに症状の克服の何かのヒントがあるのではないかと思った。考えてみれば、倉田百三氏が普通の人では考えなれない強迫観念で悩まれたとき、森田先生が症状で苦しくても休まないで筆を執りなさいとアドバイスし続けた。倉田氏は、そういうサポートを得て、森田先生に素直に従って強迫観念を乗り越えていかれた。森田先生の日記指導と面談による親身なサポートがなかったとしたら完治は望めなかったと思う。神経症を乗り越えるというのは、森田理論もさることながら、「森田正馬」という人の存在が大きくかかわっていたということだと思う。だから神経症で悩んでおられる方は、森田理論を学んで自分一人で乗り越えようとするよりも、人の力を借りて乗り越えようと柔軟に考えられたほうがより現実的であると思う。そういう意味では、困難に陥ったとき、集談会の仲間や尊敬する先輩をイメージすることができることは大きな意味がある。不安や恐怖で押しつぶされそうになったとき、何かあったら多くの仲間たちやあの先輩が話を聞いて相談に乗ってくれる。さらに症状の真っただ中の仲間たちも不安や恐怖にさらされながらも頑張っているのだと思えれば不安や恐怖には確かに耐えやすくなる。そのためには、1回や2回の参加だけではそんな人には巡り合うことはないだろう。最低でも1年ぐらいは参加していると、自然にそういう先輩や仲間を見つけることができる。森田理論の理解は、そういう状態が土台としてできた後に、少しずつ身に着けてゆけばよいと思う。
2017.08.12
コメント(0)
森田先生は、「苦楽はあざなえる縄の如し」と言われている。楽をしようと思えば、苦しみを乗り越えなければ、楽にならない。働いて給料を得たということと、苦痛をおして働いたという事は、同一事件の裏表、両方面です。給料を得たことを喜びといい、働いたのを苦痛という事は、単にその一面を取り立てて高唱し、注意を促すというのにとどまり、実は必ず同時に、その両面が切っても切れぬように、接続関連しているのであります。楽と苦は互いに関連して取り離すことはできない。苦楽は、同一事の両面の見方であると言ったほうがよいと思う。森田先生は物事を見る時に、先入観や決め付けで判断すると間違いが多くなると言われている。物事を見るときは、プラスの面を見れば、必ずマイナスの面も見る必要がある。これを両面観でものを見るという。これを発展させていくと、あらゆるリスクを検討・考慮して物事を判断するという多面観に行き着く。私はこの両面観については、 2つの点で役に立っている。1つは対人恐怖症で神経症に陥った時は、人の思惑が気になり不安や恐怖にとらわれていた。森田理論を勉強していくうちに、その状態は1方面に偏ってバランスが崩れている状態だと気がついた。私の対人恐怖症の葛藤は、他人から良い評価を得たいという強い欲望があることに気がついた。不安や恐怖はその欲望が阻害されているときに発生していた。その時に私が取るべき行動は、その欲望に向かって努力精進していけばよかったのである。そうすれば不安と欲望のバランスがとれて何も問題は起こらなかったはずだ。ところが私は生の欲望の発揮は無視して、不安や恐怖を取り去ることにばかりエネルギーを使っていた。そして最終的に行き詰まるようになってからは、逃避することばかりを考えるようになった。森田理論学習で、欲望と不安の単元を学習してからは神経症の成り立ちがよく理解できるようになった。それからは少しずつ生の欲望の発揮に力を入れることができるようになった。次に私は「神経質の性格特徴」を学習するまでは神経質性格は良くない性格だと思っていた。神経質性格の人は、細かい事が色々と気になり気苦労ばかりする。損な性格だと思っていた。小さいことを気にしない性格に修正していかないと、社会に適応することはできないのではないか思っていた。しかし森田理論学習で神経質性格は類稀な素晴らしい特徴を持っていることを学んだ。細かいことがいろいろと気になるという事は、鋭い感受性を持った人間であるということである。人の気持ちもよく分かるし、音楽や芸術などの鑑賞などもより深く味わうことができる。また、様々なことに興味を持ち、思索したり分析する能力も兼ね備えている。これは向上・発展したいという生の欲望が極めて高いということである。一つのことに粘り強く取り組むこともできる。真面目で責任感も強い。神経質性格の人は、ネガティブで悲観的な面ばかりに目を向けて分析してはならないのである。マイナスの面があれば、それと同じだけのプラス面があるはずだ、という気持ちで性格分析をする必要がある。メンタルヘルス岡本記念財団の元理事長の岡本常男氏は、 「自分で10の欠点があれば、必ずその裏に10の長所がある。それを見つけ出して、その長所で勝負していかなければならない」と言われていた。私の机の前には「やじろべい」が置いてある。さらに小学生が理科の実験で使う天秤も置いている。本当はお土産物屋で売っている傘がバランスよく配置されたものを天井にぶら下げたいと思っている。これらは、一方的な考え方で自分を自己否定したり、他人を批判したくなった時に、「ちょっと待って。それは一面的な見方になっているのではないか」といつも警告してくれているのである。
2017.07.05
コメント(0)
形外会で布留さんが、森田先生に次のように質問した。勉強しているとき、遊びに行きたいという気持ちになったとき、いくら抑えようとしてもだめです。たいていは欲望に負ける。そんな気分が出ると、我慢しようとしても、どうにもしようがない。ついにやぶれかぶれで遊びに行く。そんな時、どんなに苦しくても我慢して、本を読むようにした方が良いでしょうか。これに答えて森田先生曰く。「遊びに行きたい」という欲望と、 「勉強しなければならない」という2つを、我々の心の事実として認め、これを両立させて自由に解放、発展させておくと、悪知なくなって、必要に応じては、楽に勉強もでき、さほどの必要もなければ、愉快に楽しく、遊びに行くことができて、心に拘泥はなく、自由に適切に、その行動を選ぶことができるようになる。これに反して、 「遊びたいと言うような、のんきな心を起こしてはならない」 「勉強に興味を起こし、 身を入れるようにしなければならない」という風に、 「かくあるべし」ということを強いると、我々の心の事実を否定しようとする不可能の努力となって、これが悪知となるのです。本の上に目を走らせながら、上野に行こうか、浅草に行こうかと考えながら、この本をもう1ページとか、この章だけを、とか考えて、読んでいるうちに、その本の内容が、自分と同感するところや、あるいは排斥すべき説などにぶつかると、ついついその方に心がつり込まれて読書のほうに没入することになる。 (森田全集第5巻 白揚社 359ページより引用)勉強しているときに、遊びに行きたいという考えが次第に強くなって、勉強が上の空となった時どうすればよいのか。そういう時、ふつうは「遊びに行きたい」というのはよくない考えなので、その気持ちを否定する。否定をして、勉強に取り込もうとするのだけれども、「遊びに行きたい」という気持ちが収まるどころか、どんどんと強まってきて、収拾がつかなくなる。こんな気持ちでは、どうせ集中して勉強なんかできるわけないんだから、破れかぶれになって遊びに出かけてしまう。こんな二つの相反する気持ちに振り回されることは、日常生活にいくらでもある。例えばパチンコの好きな人は、お金を無駄に使ってはいけないという気持ちもあるが、どうしても一勝負しなければ気が収まらない。これらに対して森田先生が上記のごとく適切に回答されていると思う。私はこんな経験があった。夏暑いときビヤガーデンで会社の暑気払いがあった。ところが次の日は生活習慣病検診が予定されていた。次の日のことを考えると、今日は理由を話して欠席することがよいと思った。でも根っからの酒好きである。特にビール飲み放題には眼がない。少しぐらいなら影響はないだろう。それに会社の人間関係は大事だ。同僚も盛んに誘ってくるし、行くことにしよう。ビヤガーデンでは盛り上がって、健康診断のことは眼中になかった。そして、さらにスナックに行ってカラオケをした。帰ったころは12時を過ぎていた。よく朝起きると頭が重い。完全な二日酔いである。健診結果は散々なものであった。「たくさん酒を飲みたい」「明日の健康診断に不都合があってはいけない」この二つの相反する気持ちを、どちらも認めてほどほどの行動をとればよかったのだが、ビールを飲み始めると、健康診断のことはすっかり忘れてしまった。というよりも、あとで考えると、酒の誘惑に負けて、健康診断を受けるということを無視してしまった。両方の調和を心得ていると、ガブガブとビールのお代わりをしないで、例えばジョッキ2杯までと決めて控えめに飲む。二次会は丁重にお断りする。いろんな方法はあったのだ。森田先生は「精神現象は常にある意向が起これば、必ずこれに対抗する反対の観念が起こって、我々の意志の行動が抑制されている。対立する純な心を、理知でもって調整することが大事である」と言われている。「遊びに行きたい」でも「勉強しなければならない」このような対立する気持ちがある時、どちらかに決め付けてはいけないということである。 2つのどちらの気持ちも、否定しないで、泳がしておくということである。あとは、状況次第ということになる。明日試験が控えているという場合は、遊びに行く事は許されない。反対に差し迫った勉強でない限りは遊びに行ってもよい。私たちの特徴は、対立する気持ちのどちらか一方を、 「かくあるべし」で抑圧してしまうことである。この場合、 「遊びに行きたい」という気持ちを意志の力で、そう思ってはいけないと押さえつけることである。抑えつければ押さえつけるほど、その感情は高ぶって手がつけられなくなる。そして最後には、その時の状況を無視してやぶれかぶれな衝動的な行動へと突っ走ってしまうのである。相反する感情や気持ちがある時は、まずは、その2つを自然現象として素直に受け入れる。そして行動としては、その時の自分の置かれた状況によってどちらかを選択する。本を読んだり、勉強するということは努力を伴うことであり、苦痛を強いる事であるが、状況に応じては、そちらの行動を選択してゆかなければならないこともあるのだ。本能の赴くまま軽率な行動をとるのではなく、2つの相反する気持ちの調和を図るということが大切だ。
2017.05.19
コメント(0)
イチロー選手の体つきを見ているとそんなに大きくはない。スリムな体つきである。あれでは筋肉隆々の外国選手と比べると互角に勝負できるのだろうかと心配になる。ところがイチロー選手は、「外国の選手とは骨格が違います。でも、日本人はアメリカ人のような筋肉を目指す必要はありません」「大きさに対する憧れや強さに対する憧れを強く持ちすぎなくてもいい。体が大きいことには意味はないと、アメリカに来てから強く思うのです」という。イチロー選手は、パワーを生み出す筋肉をつける方向でトレーニングを続けているのではない。ではなんで勝負をかけているのだろうか。筋肉だけを鍛えているのではないという。イチロー選手は身体を素早くスムーズに動かすことを心がけているという。そのためのイチロー専用のマシーンを持っている。筋力だけが突出するのではなく、身体全体のバランスがとれていて素早く動くように意識しているのです。さらに走攻守のバランスについても次のように述べている。「僕のプレーヤーとしての評価はディフェンスや走塁を抜きにしては計れない。どの部分も人より秀でているわけではないし、すべてはバランスと考えています。」そういう方面で体を鍛えて、50歳までプレーすることを目指しているのです。バランスといえば、ガンをはじめとするほとんどの病気は白血球のバランスの崩れから発生するのだといわれています。白血球の95パーセントは、顆粒球とリンパ球と呼ばれる細胞からできています。その顆粒球の割合が54%から60%、リンパ球の割合が35%から41%の比率になっているときバランス的に一番安定しており、病気にならず健康体を維持してゆけるそうです。このバランスの維持に影響を与えているのが自律神経だそうです。自律神経には交感神経と副交感神経があります。不安やストレスが続くと交感神経優位になります。そういう状態が続くと血管が収縮して緊張状態が続きます。本来は速やかに不安やストレスを解消して副交感神経優位の状態に戻すことが必要なのです。自律神経失調症は、がんなどの病気を作り出す原因になります。森田理論のバランス・調和を意識して行動するという考え方はとても重要な考え方です。「不即不離」という考え方にしても、「欲望と不安」についてもバランスという考え方を抜きにすると理論そのものが成り立ちません。調和、バランスの考え方は、是非とも生活の中に定着させることが大切です。私はそのことを意識するために、机の前に「やじろべい」を置いています。「欲望と不安」の単元の話をするときは、理科の実験用の天秤を持ってゆきます。本当はお土産物屋で売っている傘がいっぱいぶら下がったものを吊り下げたいのです。それらが視野に入るとバランスや調和の意識化を強化してくれるように思います。森田先生はバランスの重要性を「精神拮抗作用」や「不即不離」などで説明されています。また太陽と地球の関係でも、太陽の強力な引力に地球が飲み込まれないのは、地球が太陽の周りを高速で回転することによる遠心力が発生して、求心力と遠心力のバランスがとれているからだといわれています。宇宙に存在しているものは、すべて相対立する者同士が調和を保っているからです。バランスや調和を無視すると、存在そのものがありえないということだと思います。神経症で苦しんでいるときは、「欲望と不安」のバランスを無視している状態だと思います。不安を取り除くことや不安から逃避することばかりに注意や意識を集中しています。その結果バランスを崩して、調和が保てなくなっています。神経症から解放されたいのなら、不安をやりくりするのではなく、不安に対するかかわり度合いを軽減することがポイントです。その時、「生の欲望の発揮」は蚊帳の外になっています。バランスを回復するためには、「欲望の発揮」の方に力を入れることです。バランスが崩れている場合は、この際、不安への対処は放っておいて、「生の欲望の発揮」の方に100%エネルギーを投入していくことです。そうすることで、少しずつバランスが回復してくるものと思われます。
2017.05.01
コメント(0)
最近若年層に広がる新型うつ病とは何か。こうしたタイプの人々は、気分の落ち込みよりも、疲れやすい、だるい、集中力や気力が湧かないという訴えが主であり、従来のうつ病のような自責感が目立たず、職場の帰属意識や仕事の役割意識が希薄であることが特徴に挙げられています。また一度休職に入るとなかなか職場に戻ろうとしない、休んでいても趣味の領域などには案外意欲的に取り組むといった点から、しばしばわがまま、自己中心的、他罰的な性格に起因するとみられがちです。中村敬先生は、確かに自己中心的といいうる側面もあるのですが、その原因を本人の性格に求めるべきではない、と言われています。こうした現代的なうつ病が増加した背景には、 1990年のバブル崩壊以降、若年層を取り巻く雇用・労働環境の悪化が存在するからです。このように社会的、経済的な要因が絡んでいるだけに、現代的なうつ病に対しては、休息と薬物だけではなかなか効果が上がりません。彼らは無力感から脱し、環境に対して能動的に働きかけていかれるような心理的援助が必要とされています。具体的には、次のようなことです。1 、これまでのような気ままな休養生活から脱して、徐々に行動を増やしていくこと。2 、起床、食事、活動、就床の時間を一定にして、生活リズムを整えること。3 、グループによる治療環境を利用していく事。4 、薬物は補助手段として位置づけ、薬だけで問題の解決を計ろうとしないこと(メンタルヘルス岡本記念財団 メンタルニュースno. 34より引用)私も現代的なうつ病は確かに個人の性格だけに、その原因を求めることはできないと思う。誰でも会社に入ると、ライバル会社との熾烈な競争を強いられて勝つことを求められる。それが今や日本国内にとどまらず、グローバル世界での熾烈な生き残りをかけた競争となっている。そこで求められるのは能率、効率、実績、成果、結果である。能力主義、利益優先、株主優先、実績優先、目標管理である。休む間もなく、夜遅くまで緊張を強いられる。土曜日、日曜日もあってもないようなものである。仕事を通じて豊かな人間関係を築き、自分の能力を磨き、自己実現を目指すなどという目標は切り捨てられている。そういう働き方が普通になってくると、いつの間にか健康を害して、うつ病、適応障害などの心の病に陥る。現代的なうつ病になる人は、意識するとしないにかかわらず、そういう働き方はどこかおかしいのではないか、と気づいている人であるのではないだろうかと思う。そうかといって、生活の基盤を崩すわけにもいかない。そこでやむなく、緊急避難的に有給休暇の取得、休職という道を選ぶことになっているのかもしれない。それで持ちこたえられれば良いのだが、なかなかそのようにはならない。新型うつ病に対して中村先生は入院森田療法の中で上記の4つの視点を提案されている。これらはいずれも新型うつ病から解放されるためには、大事なことばかりである。老婆心ながら、私はこれにさらに2点ほど付け加えたい。まず、今まで仕事一辺倒だった人は、生活のバランスを整えることである。仕事、家族関係、地域社会、スポーツや趣味、子育てや生き方の学習などである。これらは生きていく上において必要なものばかりであり、それらに意識や注意を向けていく必要がある。そういう気持ちを持っていると、仕事中心に偏った考え方や行動は少なくなってくると思われる。競争社会、能力主義の仕事にのめり込んでいくと、一旦躓いたとき、取り返しのつかないことになる。仕事は自分や家族の生活を守るために、ある程度止むを得ずに行っているという認識があれば、のらりくらりしながら、あるいは転職をしながらでも、なんとか仕事を続けることができるように思う。今の仕事ぶりは問題が大きいので、客観的な立場に立って批判的に見るほうがよいと思う。なおこのバランス、調和という考え方は森田理論の核となる考え方の一つである。次に、会社の株主利益第一主義という資本主義社会のあり方そのものは、人類の将来を考えたとき、破滅の方向に向かっているとしか思えない。人間を粗末に扱い自然を破壊している。人を窮地に追い込んでも特定の人たちが儲かればそれでよいというような考えはいずれ淘汰されてくるだろう。森田理論で言えば、欲望の制御機能が効かなくなり、多くの人が馬車馬のように全速力で意味もなく走り続けているような状態だ。その結果、多くの人が幸せとはほど遠く、生きることそのものがもはや苦痛になっている。本来は人間に生まれたことを喜び、日々の生活をしみじみと味わいながら、周りの人たちとの共存共栄を目指して、人生を全うできるのが当たり前のことではないのか。株主資本主義といわれるような一部の人が、どんどんと富を積み重ねていって、その他大多数の人を踏みにじっていくような社会は、おかしいしもし可能であれば修正していく必要がある。このまま欲望の暴走を放置していけば、貧富の差が拡大し、地球環境が破壊され、いづれは現存する核爆弾が使用されて、人類が最後を迎えることになるかもしれない。そういう悲惨な状況を子孫に押し付ける事は何としても避けたい。そういう問題のある資本主義社会の学習は、今後人類が生き残っていくために人類に課せられた大きな課題であると思う。 ポスト資本主義の社会が到来するとすれば、どのような社会になるのであるのか。森田理論はその点について明確な答えを差し示していると思う。私は全人類が無制限で無限大の欲望の追求を、できるかぎり制御していく方向に舵を切りなおしていくことが必須であると考えている。そのように考えて、あるものを最大限に活かしていくような生活に切り替えることができれば、馬車馬のような仕事だけに片寄った生活は見直すことができるかもしれない。
2017.04.30
コメント(0)
布留氏が森田先生に次のような質問をされた。「勉強しているとき、遊びに行きたいと思い出すと、いくら抑えようとしてもだめです。たいていは欲望に負ける。そんな気分が出ると、我慢しようとしても、どうにもしようがない。ついにやぶれかぶれで遊びに行く。そんな時、何苦しくても我慢して本を読むようにした方が良いでしょうか」これに応えて森田先生は次のように回答されている。「遊びに行きたい」と言う欲望と、 「勉強しなければならぬ」という努力の両方をそのまま我々の心の事実として認め、これを両立させて自由に解放、発展させていくと、必要に応じては楽に勉強もでき、さほどの必要もなければ、愉快に楽しく遊びに行くことができる。これに反して、 「遊びたいというような、のんきな心を起こしてはならぬ」 「勉強に興味を起こし身を入れるようにしなければならぬ」という風に、 「かくあるべし」ということを強いる。これは我々の心の事実を否定しようとする不可能の努力となって、これが悪知となるのである。それで、 「ずぼらてはならん」ということと「身を入れなくては」という2つの間の葛藤となり、これが循環論理の形で繰り返される。そしてついには、 「やぶれかぶれで、遊びに行く」という無謀・捨て鉢の結果になるのである。これに反して、楽々と本の上に、目を走らせながら、上野に行こうか、浅草にしようかと考えているとか、あるいは一方には、 「あの映画を見たいなぁ」と気ままに思い巡らしながら、この本をもう1ページとか、この章だけをとか考えて、読んでいるうちに、その本の内容が、自分の同感するところや、あるいは排斥すべき説にぶつかると、ついついその方に、心は釣りこまれて、読者の興味に没入するようなことになるのである。悪知の葛藤がないと、煩悶がなくて自由になる。試験などで必要なときは勉強するし、今日は頭がぼんやりして、腹の具合も悪いと言うときには、運動して遊んでこようかという風に、その時と場合に応じて臨機応変に適用するようになる。これに関連してこんな例もあります。独身の人で目の前に素敵な異性がいる。何とかお付き合いできたらどんなにいいかと考える。でもどう声をかけたらよいのかわからない。また下手にデートの申し込みをして断られたらどうしよう。またそれを友達などにおもしろおかしく話題にされるようなことがあってはいたたまれなくなる。そんなイヤな思いをするくらいなら、なにも声をかけないほうが被害にあわないから、そのほうがよい。相反する気持ちのうち、抑制力のほうに大きく振れてしまって、全く融通が利かない状態になってしまっている。これではお付き合いをしたい、ゆくゆくは結婚して、子供を作り、楽しい家庭を築きたいという夢はいつまでたっても叶うことはなくなってしまう。これはどんな感情でもやりくりしたり否定しないで受け入れることの大切さを話しておられるのだと思います。私たちは神経症に陥ったときのことを考えると、不安や恐怖、違和感や不快感を目の敵にして取り除こうとしたり、逃げたりしました。その結果、楽になるのではなく、ますますそのことにとらわれて、どんどんと増悪していったのです。ここで述べられているような相反する感情がわき起こってきたとき、どちらか一方を観念の力でねじ伏せようとするのではなく、 2つの相反する感情をそのままに認める。そしてその時、その場の状況に応じて臨機応変に対応することが大切なのだと思います。この場合は、気分転換に遊びに行ってもよいのかもしれません。あるいは、もし試験が明日に迫っているという場合は、いやいや、仕方なく勉強していくことが必要になると思われます。この場合、 2つの揺れ動く感情を自由に泳がせておき、観念でどちらかに決めつけないと言うことが大切になります。このことを森田先生は理知本位になってはいけない。また予期不安から安易に気分本位の道を選んでもいけないと言われています。ここで大切なことは、自然にわき上がってくるどんな嫌な感情に対しても、自分の観念や理想の立場から否定してはいけないということです。自然現象に対してはそのまま受け入れていく。服従していくという態度が重要になります。このことを森田理論では事実本位といいます。(森田全集第5巻359ページから360ページ要旨引用)
2017.03.05
コメント(0)
私たちの身体を観察すると何事も行き過ぎはよくないということがよく分かる。人間の皮膚は真皮と表皮の二層からできている。この二層が体内の水分を一定に保ち、病原菌や有害物質の侵入を防いでいる。さらに、外敵から身を守っている。 これには2種類のものがある。1つは、毛穴から分泌される皮脂。これが皮膚を薄く覆い、外敵の侵入を防ぐ第一のバリアになっている。もう一つは、 「常在菌叢」である 。人間の皮膚には、表皮ブドウ球菌やにきび菌、真菌類など約10種類ほどの細菌類が棲みついている。これらの細菌叢が病原菌を寄せ付けないようにしている。これらの常在菌叢は、体を洗った後では一時的に9割はいなくなるという。身体を洗いすぎると、当然「皮脂」も失う結果となる。皮脂を失うと、 「ドライスキン」と言ってカサカサの肌になってしまう。これまではお年寄りに多かったが、最近では若者にも見られるようになった。ドライスキンになると、皮膚が過敏になる。ほこりや紫外線、汗のような弱い刺激でも、湿疹や炎症の引き金となる。日本人は世界のどこの国の人よりもきれい好きだと言われている。どこの家にも風呂場には石鹸やシャンプーなど様々な洗剤や抗菌グッズが置かれている。でも、あまりにも潔癖すぎるとむしろその弊害が出てくるということだと思う。また杏林大学医学部の神谷茂教授は次のように語っている。人間は生まれた直後から、微生物と共に生きている。清潔にするのは悪いことではないが、我々の敵か、仲間かを見極めず、すべてを敵視するのは行き過ぎだ。腸の内部には、多くの細菌が長い歴史の中で人類と共生するようになった。 「常在菌」が約100種類、 100兆個も棲んでいる。 1平方センチ当たり数千万個という莫大な数になる。神谷教授はネズミを使って、食中毒の原因となるサルモネラ菌に対し、腸内細菌がどの程度の抵抗力を発揮するのかを調べた。その結果、あらかじめ抗生物質を与えて腸内細菌を殺してしまったネズミは、抵抗力が1万分の1程度にまで落ちることがわかった。抗生物質の投与で腸内細菌の生態系が乱されると、抗生物質に比較的強いディフィシール菌だけが生き延び異常繁殖する。その結果、大腸炎になることがある。現在「腸内細菌は臓器の1つ」とまで言われている。腸内細菌には、乳酸菌、 ビフィズス菌、大腸菌、ウェルシュ菌などがたくさん棲んでいる。健康な腸では、これらがバランスよく存在することが大切である。大腸菌のような悪玉細菌をすべて駆逐するようなやり方はすぐに腸内バランスを壊してしまう。たとえば大腸菌の中にO157というのがある。この大腸菌はベロ毒素という物質を出す。腸内に様々な細菌がバランスよく存在していればO157は増えてこない。日本人は清潔志向の延長で、抗生物質や消毒剤を乱用してきた。その結果、大腸菌の生きる環境を奪ってしまった。大腸菌といえども立派な生き物である。生きる環境を奪われた大腸菌は、なんとか自分の生きる方法を模索し始めた。その結果、人間に害を及ぼす数百種類の大腸菌が出現してきたのである。 O157は157番目に発見された大腸菌である。O157による食中毒が発生し、死者まで出たことがあった。これは人間がバランスの取れた食事を取らなくなり、抗生物質や消毒剤を用いて腸内細菌のバランスを崩してきたことが、元々の原因である。このように、人間は自分たちの思い通りに、身体をコントロールしようとしている。人間が勝手に手を加えなければバランスが取れていたものを、都合に合わせて自由自在に操っているうちにバランスが崩れてきた。そのバランスが壊れた原因が分かると、原因となるある一部の細菌や物質と取り除こうとして、薬や医薬品で攻撃する。その結果、優良細菌まで殺してしまっている。本来は自然なバランスを取り戻していけばよいのに、すぐに対症療法に走るのである。このような短絡的なやり方では、仮に一時的にうまくいっても、必ずすぐ新たな問題を生じる。そうこうしているうちにがんじがらめにからまった糸のようになり、泥沼にはまってしまうのである。これは人間の傲慢さのなせる業である。そのうち自然界から強烈なしっぺ返しを食らうだろう。森田理論では欲望と不安のバランスを維持しながら生きていくという事をことさら強調している。サーカスの綱渡りのように、長い棒を持ってバランスを取りながら、注意深く前進していくという態度が欠かせないと思う。とりあえず、森田理論学習をした私たちがその見本を示そうではありませんか。(清潔はビョーキだ 藤田紘一郎 朝日新聞社参照)
2017.03.03
コメント(0)
今月号の生活の発見誌に、 「ガスの元栓が閉まっている」という情報を脳はどうやってしているのかという説明があった。健康な人の情報収集が、 「五感から情報を取り入れている」のと異なり、強迫行為を行う人は、 「閉まっている」と言葉にして、 「思考回路」を使って情報を取り入れており、 「感覚(五感) ・直観回路」は機能していないのが最大の特徴です。こうして、 「思考回路」を使うことから「しまっていないのでは? 」という「反対観念」に悩まされることになり、 「葛藤の世界」を越えることができずに苦しむことになるのです。強迫行為者が、こうした自分の「確認スタイルの特異性」を認識できるようになると、 「なぜ、なんども確認を繰り返すのか」ということが自然に納得できるようになる。(生活の発見誌 2017年2月号 59ページより引用)これを私の体験からご説明します。私は人前でアルトサックスの演奏をします。演奏するまでは、徹底的に練習をします。最初は楽譜を見ながら、小節に区切って、少しずつ指の動きを確かめていきます。試行錯誤の段階です。この時点では、脳の中では、前頭前野が盛んに活動しています。全てが終わると、録音機に吹き込み、違和感がないか確かめていきます。問題がなければ、何回も練習して、最終的には暗譜で演奏できるようにします。暗譜で演奏できるようになっても、そこからさらに30回も50回も繰り返して練習します。この時点では何回演奏してもほぼ完全に演奏できる状態になってきます。この時点になると脳の中では、前頭前野が休んでおり、感覚運動野から直接指に電気信号が伝わっていると思われます。そして演奏当日を迎えます。演奏当日はとても緊張します。もし途中で間違えてしまうと、観客の人を白けさせてしまうという予期不安が出てきます。また間違えてしまうと、他の演奏者にも迷惑をかけてしまいます。私は対人恐怖症なので、その点の不安がとても大きくなりやすいのです。この時の不安や恐怖は、脳で言えば前頭葉が大きく活動している状態です。前頭葉は、あーでもないこーでもないと、様々にチャチャを入れてくるのです。この時点では前頭葉がおとなしくしていてくれることがなによりも大切なのです。にもかかわらずといった感じです。今までの猛練習によって、感覚運動野に記憶が刻み込まれているわけですから、本来前頭葉の役割はないはずです。それなのに、前頭前野が活動してくる。これは迷惑な話ですが、自然現象なのでどうすることもできません。これは完璧な演奏をして聴いている人から称賛を得たいという欲望があるために、それに応じて不安や恐怖が発生しているのです。本来の目的は素晴らしい音楽を聴衆に届けたいということですから、不安や恐怖ととらわれることなく、本番に備えて着々と衣装を整え、ウォーミングアップを続けていくことしかありません。そうした行動をとっていると、多少なりともそちらのほうに注意や意識が向けられて、前頭前野の働きが抑制されてきます。このことの重要性が今までの経験上よく分かっています。あとは、本番の時間が来ると、不安や恐怖を抱えながら、舞台に向かって思い切って飛び出していくことです。まさに背水の陣と言った感じです。今までそうしたやり方で、ほとんどの演奏会はほぼ80%から90%の出来でなんとか事なきを得ているのです。考えてみれば、イチロー選手、羽生結弦選手なども本番前にはとても緊張するそうです。彼らを見ていると、本番を前にすると、ルーティーンをとても大切にしています。本番に向けて、いつも同じ時間に同じ動作を繰り返しています。そのことに意識を向けています。そうしないと、前頭前野が働きだして本番前にネガティブな不安や恐怖を生み出し、パフォーマンスに影響してしまうのです。ルーティーンに専念することは、勝手な前頭前野の働きを抑制する効果があるのではないでしょうか。
2017.02.21
コメント(0)
不安や不快な感情に反発しないで受け入れていくにはどうすればよいのか。そのヒントを考えてみました。感情が湧き起ってくるというのは自然現象だといいます。自然現象と言うのは感情の発生だけではありません。雨が降る。雪が降る。暴風雨になる。大雪になる。雷が落ちる。台風が来る。土砂災害が起きる。台風が来る。地震が発生する。火山が爆発する。火砕流が起きる。隕石が落ちてくる。これらも感情と同じ自然現象です。この中で台風が来た時はどうしているか。気象衛星ひまわりが刻々とその進路と強弱を監視して情報を流してくれています。地上ではその位置と大きさが瞬時に分かります。その情報をもとにして気象庁が警戒情報を流しています。上陸が予想される県では、県の防災組織が立ちあがります。上陸が予想される現場にはテレビ中継車が出て、海の荒れ具合、被害状況、風雨の状況を逐一教えてくれます。その時、海上保安庁や自衛隊が出動して台風の勢いを止めたり、弱めたり、進路を変更したりしたりしているという話は聞いたことがありません。そんなことはできないし、むだなことだとよく知っているからです。一方私たちは不安や不快な感情の発生の際にはそのような対応をとっているでしょうか。なんとかして取り除こうとしているのではないでしょうか。感情の自然に対しても服従するにはどうしたらよいのでしょうか。ここで私が特に注目しているのは、テレビアナウンサーの現場からの中継です。たとえばこんな中継をしています。「現在私は台風の上陸が予想される鹿児島県枕崎市に来ております。中心付近の気圧は925ヘクトパスカル。今世紀最大クラスの台風がまもなく上陸します。現場では午後から風雨が強まり暴風雨となっております。傘は役に立ちません。雨合羽を着て中継をしています。ちょうど満潮と重なり、海岸では堤防を乗り越えて大きな波が国道にまで達しております。現在国道は通行止めとなっています。街路樹や家が倒壊し、信号機が大きく揺れています。道路には飛んで来た看板などが散乱しております。付近の住宅では板塀が打ちつけられて台風に備えております。また海岸近くの住民は避難所に退避しておられます。私も風でいつ飛ばされるか予断を許さない状況です。以上現場からの中継でした」これを応用して自分に湧き起ってきた不安や不快な感情を実況中継してみるのだ。コツは出来事と感情の事実を具体的に生々しく伝えることです。それ以上の説明は必要ありません。たとえば、「現在夜の10時です。中学生の娘がまだ帰宅していません。連絡もないので大変心配です。携帯は持たせているのですがどうしたのでしょうか。最近はたびたび殺傷事件がテレビで放映されています。まさかうちの子がとは思いますがいても立っても居られません。心配で気が動転しています。警察に届けたほうがいいのでしょうか。あっ、たった今娘が帰ってきました。娘は何事もなかったかのような顔をしています。それを見て急に腹が立ってきました。何があったのか。どうして電話して来なかったのか。娘を叱りつけてやりたくなってきました。憤懣やるかたない感情が湧き起っています。以上現場からの中継でした」別の例です。「ただ今会社をでて飛び込み営業に向かっております。いま見込み客の玄関前に到着しました。鏡を見て笑顔の準備体操をしております。深呼吸も2回3回と繰り返しております。また断られるのではないかという予期不安でいっぱいになっております。思い切って訪問しようか。でもどうせ断られるだろうから訪問は取りやめようかせめぎ合いが続いております。取りやめる方がよいという気持ちがやや優勢となっております。訪問までにはいましばらく時間がかかりそうです。私は今混乱しております。以上現場からの報告でした」このポイントは湧き起ってきた不安や不快な感情を口に出してみるということです。観念的にやりくりをするのではなく、いったん自分の外に吐き出してしまうのです。相手がいなくてもかまいません。独り言でもよいので客観的な第三者の眼で湧き思ってきた感情を詳細に説明していくのです。その際その感情には言いも悪いもありませんから是非善悪の価値判断はしてはいけません。あくまでも湧きあがってきた感情をそのまま詳しく述べていくことが肝心です。よく森田理論学習では湧き起ってきた感情はそのまま受け入れる、よく味わってみることが大切だと言われます。ではどうしたらイヤな感情を受け入れて、味わうことができるのかと言うことが問題になります。その解決方法の一つとしてこの方法があるのです。聞いてくれる人がいれば、「私は今こんな気持になっているの」と話してみてもよいでしょう。この方法はもう一つ書くという手もあります。日記を書いている人でしたら、ある出来事に対してどんな気持ちが湧き起ってきたのか書いていくのです。肝心なことはその状況を具体的に詳細に書いていくということです。その感情に基づいてどうしよう、こうしようというのは別なことです。まずは第3者になりきって自分に湧き起ってきた感情の事実を吐き出していくということです。ここまで来ましたら、それをすっぱり横に置いて、次のステップに進みましょう。次はその感情に基づいてどんな行動を選択してゆくのかということです。これについてはまた明日投稿します。
2016.12.17
コメント(0)
東洋経済オンラインでグッチーさん(山口正洋さん)が「カープがこれからも勝ち続ける7つの理由」を書いておられる。我々カープファンからすれば涙の出る内容であった。でもこの記事に対する反論のコメントを見て反省することがあった。野球ファンといえば、自分の贔屓のチームが負ければ、とたんに機嫌が悪くなるという人が多い。その日のテレビは見ない。翌朝の新聞も読まない。次の日の仕事でもそのイライラがでて他人に迷惑をかける人もいる。とにかくイライラが収まらないのだ。感情は自然現象だからどうにもならない。この記事はよく分析はされているが、他チームと比較して、自画自賛の記事のオンパレードだった。自慢話は身内の人が聞いている分はよいが、他人にとっては嫌悪感そのものだ。たとえば自分の息子や娘が有名大学に合格した。あるいは配偶者が有名な会社に勤めている。役員に出世した。またスポーツや舞台で拍手喝采の大活躍をした。等と自慢話をとうとうと聞かされて周囲に喜ぶ人が何人いるだろうか。自慢話を長時間にわたって続けられて、さらに自分の子どもと比較されては聞いている方はたまったものではない。うんざりする。沸々と怒りがこみ上げてくるのではなかろうか。これに近い話を森田先生もされている。森田先生が入院患者に「よくなったか」と聞かれた。ところが、正直に答えなければならないと思っている人は、「まだまだです」等と答える。先生が一生懸命に治療にあたっていることは全く考えていない。すると森田先生は張り合いが無くなってしまうと言われる。ふつうは、実際にはよくなっているという感じがしなくても、先生の前では、「先生のおかげで、だいぶ良くなりました」と答えるのが人情である。意固地な人は、それは事実と違うではないか。事実に従えと言われる森田理論とは相いれない。納得ができないと言われる。どうしてそんなことになるのだろうか。できるだけ正直に言わなければということに執着しているのである。言葉にとらわれているからである。まだよくなっていないということを言うと、一生懸命に治療してくださっている先生に申し訳ないという気持ちを無視している。当然湧き起ってくる感情を無視している。そういう気持ちを抑えつけている。それは自然に素直な態度ではない。普通の人間は一つの考え方が起きてくると、それと反対の考え方もセットで湧き起るようになっているのだ。そのことを森田理論では「精神拮抗作用」と言っている。人のできないことができたり、社会的に認知度が上がったり、幸運が舞い込んだりするとつい自慢話をしたい気持ちは誰にも起きる。でも自慢話は相手をみじめな気持ちにさせてしまうという気持ちが同時に湧き起ってくるのが普通の人間である。天秤にたとえるとそれが右と左に分かれてせめぎ合いをしているようなものである。行動するにあたっては右、左に偏ってはならない。両者の中間あたりをめどにしてバランスを取っていくことが大事である。ホドホド、中庸を心がけた行動が肝心である。森田理論では感情は自然現象であるからコントロールできるものではないという。どんな感情でも受け入れていくことが基本です。でもその素直な感情を相手に伝える時は、同時に湧き起ってくる反対の感情との調和を優先する必要があると言っている。
2016.11.14
コメント(0)
私は以前金の先物取引に手を出して、それまで貯めていた貯金を大きく減らしてしまったことがあった。その業者は高校の同窓会名簿を持っていた。名簿を見て親しく電話をしてきたのだ。同窓会名簿には個人情報が詰まっているのである。以前ベネッセコーポレーション、日本年金機構から個人情報が大量に流失して大きな社会問題となった。今や個人情報はお金のなる木として、データや名簿自体が売り買いされているのである。名簿からDMを打てば商売に結びつくのである。個人情報は悪用しようと思えばいくらでもできる。だから多くの人が自分の個人情報が独り歩きすることを恐れている。そのため平成17年4月より「個人情報保護法」が全面施行され、「個人情報取扱事業者」が守るべき義務が強化されました。今では個人情報の管理はどこの会社でも厳しくなった。私の会社でも、個人情報の管理はとても厳しい。情報漏えいは解雇事案にあたるのである。そのための教育・研修も徹底している。耳にたこができるほど聞いてきた。しかし、あまりにも厳しいので生活に支障も出ている。たとえば、自助組織の仲間に連絡を取りたいときでも、連絡先が全く分からない。以前は名簿があったのですぐに分かっていた。講師の依頼をする時も困っている。仮に知り合いのつてをたどって分かったとしても、誰に聞いたかと言われたら、自分の名前は言わないでほしいといわれる。本部にお願いすると守秘義務の誓約書が必要だといわれる。面倒だから連絡をとるのは止めてしまおうかということになる。会の運営に少なからず影響が出ているのである。なんとも融通のきかない社会になったものである。以前こんな事件があった。勤務先のマンションに放置自転車があったのだ。マンションのシールを貼ってなかったので分かった。交番に電話した。するとすぐに警察官が駆けつけた。その自転車には防犯登録がしてあった。警察官はすぐに本署に無線連絡をとられた。しかし盗難届は出ていないということだった。盗難届が出ていないものは持って帰れない。警察の役目はこれで終わりだというのだ。それなら持ち主の電話を教えてもらえば、私から電話をしますといったところ、個人情報は教えられないという。そのまま放置しておくのかと尋ねたところ、それしか方法がないという。しばらく待って大型ごみにお金を出して処分してくださいという。こんな立派な自転車を捨てるのはもったいないので、私が使ってもよいかというとそれは泥棒のすることだという。確かにもし街中で持ち主に見つかると、その自転車を盗んだと思われるだろう。まだ使用できる立派な自転車なのに、処分費を使って捨てるしかない。こんなことがまかり通っていいのかと思う。個人情報という法律に振り回されて、がんじがらめになって全く融通がきかないのだ。私は現在個人情報の関わることは会社にあらかじめ聞いて指示を仰ぐようにしている。自分が勝手に判断して、よかれと思ってすることはほとんど否定されるのだ。相手に迷惑がかかるとともに、自分自身にも困ったことが起きる。個人情報の取り扱いは判断に迷う時は人に聞いてみることだ。それもできれば一人だけではなく、数名の人の話を聞いて総合的に判断することだ。たとえば私はこんな事例に出くわした。すべて人の意見を参考にしたので問題は起きていない。警察官が来て、自動車が傷付けられたという届け出に対して、監視カメラの映像を調べさせてくれという。また傷つけられた人がUSBに録画してくれという。これは理事長と管理会社の許可がいる。また申請書類を書いてもらう必要がある。ちなみに録画映像は管理人が勝手に見ることも許されてはいない。民生委員がお年寄りの最近の生活具合を聞きに来る。知っていても答えてはならない。国勢調査、生活実態調査などで部屋番号と居住者の名前を聞きに来る。玄関ドアを開けてもよいが、個人情報は一切答えてはならない。長期不在者の郵便受けがいっぱいになっているので、管理人が開けて整理してくれと言われる。管理会社の営業マンが来た時に2人で整理する。善意で一人で処理してはならない。居住者と世間話をしてはならない。なぜなら世間話で他の居住者の噂話を聞いていると、それは管理人が話していたといううわさが立つことがあるからだ。生命保険会社の人が転居した人に連絡しなければならないことがあります。住所や電話番号を教えてくださいと言われる。うっかり教えると大変なことになる。こちらから転居者に電話して、転居者から保険会社に電話してもらうようにする。宅配業者が何号室にこういう名前の人が同居していますかと聞いてくることがある。娘婿が同居しているのを知っていても知りませんというしかない。掲示板に個人を特定したものを貼りつけてはならない。机の上に名簿などを無造作に置いてはならない。居住者名簿は鍵のかかった書棚に入れておく。など注意することはいろいろとある。そういえば最近自分あての封書は、ゴミとして処分する時住所名前の部分は切り取って細かく裁断している。それだけ疑心暗鬼の時代になってしまっているのだと思う。結局、個人情報は事実に素直に対応しようとすると「ちょっと待て」ということだと思う。不安と欲望の関係と同じで、不安が大きくなって社会生活がやりにくくなっているのである。
2016.11.13
コメント(0)
外出の時玄関の鍵がきちんとしまっているか気になる人がいます。4回も5回も鍵の確認に戻ります。ちょっと変わっていますが、普通の人と神経症に陥る人は大きな違いがあります。普通の人は、その行為を「私のクセ」と思っているのです。というよりもことさら意識していないのだ。目くじらを立てるほど悪いクセではない。むしろ慎重だから、泥棒には入られないからよいことだ。これは私の個性だ。私の特徴の一つだと無意識的に思っているのです。そのクセを敵視していないのです。そのクセを認めて受け入れている。慎重で取り越し苦労するという自分の特性を認めて、活かしてゆこうとしている人だと思います。クセと仲良く付き合っているのです。こういう人は、監視カメラを取り付けたりします。ダミーの鍵をもうひとつ付けて、用心することができます。「不安は安心のための用心である」を実践しているのです。これに対して神経症の人の受け取り方は違います。これはクセ等で簡単に片づけられるようなものではない。仮にクセとすると悪いクセである。大いに意識しています。現実に生活に支障が出ている。とるに足りないことが気になってイライラする自分はおかしい。また絶えず不快な気分になってつらい。自分は心配性という悪い気質を持っている。これは人と比べると弱点であり、欠点でもある。こんなものを抱えていては生きてゆけない。こんな悪い気質はなくしてしまいたい。そうでないと将来いつか発狂してしまうかもしれない。つまり神経症になる人は、そのクセを敵や異物とみなしているのです。当然果敢に取り除こうとあらゆる手段をとって闘うようになります。その結果精神交互作用で神経症を発症します。このことを生活の発見誌2016年10月号の47ページに分かりやすく説明してある。「症状(クセ)+(嫌な思い、これは病気だとの思い、治さなければ)」が一緒になった状態が「神経症」を作りだす。症状(クセ)が大きくても「嫌な思い」がなければ、神経症にはなりません。「嫌な思い」が大きいと症状(クセ)はささいでも、すぐに神経症に陥ります。森田療法は、「嫌な思い、これは病気だとの思い、治さなければ」という気持ちや努力やめて小さくする療法です。つまり嫌な思いを受け入れ、治すことをやめて症状を治そうとする精神療法なのです。ここで注目したいのは、症状(クセ)と(嫌な思い、これは病気だとの思い、治さなければ)が結びつかないと症状に発展することはないという点です。嫌な気分に翻弄されて関わり合うからこそ神経症に発展してしまう。それなのにどうして関わり合うのか。現実には、クセそのものは、いいも悪いもないのです。クセはクセとして存在しているだけなのです。クセとしての存在感を少しだけ示しているだけなのです。それなのに私たちは、自分たちの持っているクセがよいとかよくないと勝手に価値判断して、喜んだり苦しんだりしているのではないでしょうか。自分が自然に持ち合せているクセを、いいとか悪いとか価値評価をして関わり合っているのです。ここから問題が発生して苦しんでいるのです。森田先生は神経症が治るということを3つに分けておられる。一つは苦しいながらもなすべきことに手をつけられるようになる段階。二番目には、事実を自分の観念で持ってねじ曲げようとしない段階。つまり事実を受け入れて、事実に服従して生きていけるようになること。思想の矛盾が解消された状態です。三番目に、事実に対してよい悪いという価値判断を持ち込まないこと。二番目で事実を受け入れられるようになっても、事実に対していい悪い、正しい間違いだと価値判断をしているようでは、本当の意味で神経症から解放されることはない。一番目は比較的取り組みやすい。そして即効的に神経症はある程度は楽になる。二番目は、少し難しいが、森田理論学習ではいろんな手法がすでに提示されており、習得できないことはない。三番目は正直言って難しい。一言でいえば、風の吹くまま、気の向くまま、自然の流れ沿い、空に漂う風船のように生きていけるようになることでしょうか。事実そのものに身を任せて生きている段階です。でも二番目が身についた人は、是非とも三番目にも挑戦してみてほしいものである。私もぜひそういう段階に到達してみたいと思っています。
2016.11.10
コメント(0)
森田理論では「不安や恐怖」の感情はそれだけを見て問題視してはならないといいます。不安や恐怖は、欲望との相互関係の中でしか解決はできない。また不安はそもそもそういう相互関係の中でしか存在しえないものである。だから不安や恐怖だけをことさら取り上げて、意のままにコントロールしたいというのは自然の法則に反する行為です。不可能を可能にしようと無駄なエネルギーを使い続けると、最後には、ヘトヘトに疲れて、惨めな結果になってしまいます。この考え方は、森田理論では精神拮抗作用といいます。森田理論の要となる考え方です。森田先生は、精神現象は常にある意向が起これば、必ずこれに対抗する反対の観念が起こって、我々の意志の行動が抑制されている。プラスがあれば必ずマイナスがある。これがコインの裏と表の関係にある。宇宙の営みも同様の原理で動いております。太陽を中心として、その周りを地球や火星等の惑星がものすごいスピードでまわっています。この流動変化の中で、太陽の強大な引力と惑星が動き回っている遠心力がバランスよく釣り合っています。その調和は見事というしかありません。その結果多くの惑星が存在すること自体を許されているのです。その太陽は一カ所にじっとしているわけではありません。太陽系は天の川銀河の輪の中心から3分の2ぐらいのところにあり、3億年かけて猛スピードで銀河系を回り続けているのです。その天の川銀河は、隣にあるアンドロメダ銀河と猛スピードで接近しており、遠い将来この2つの銀河は合体する運命にあるそうです。このことは、すべての物質はそれ自体が単独では存在しきれない。持ちつ持たれつ、他のものとの相互関係の中でこそ、はじめて自分の存在が許されている。その関係性を無視して、自分の意のままにコントロールしようとすることは人間の思い上がりだと思います。人間がその方向に向かえば必ず大きな惨禍に見舞われる。そういう自分と他者の関係性が分かれば、そのなかでどううまくバランスをとって生活していくのかが問われてきます。調和、バランスを崩さないように、絶えず注意を払いながら、注意深く前進していくことです。これ以外に別の生き方はないものと思います。ここでは不安を取り去るために、ことさら不安だけを取り上げて対処しようとすることは片手落ちではないのか。不安を止揚するためには、生の欲望とのバランスの調整の中にこそ宿っているのだということを分かっていただきたいと思います。ここでもう一つ重要な点があります。宇宙の現象と一緒で「不安や恐怖」の感情は一カ所にとどまっているものではないということです。諸行無常で常に流動変化しているものであるということです。どんなに大きな「不安や恐怖」の感情であっても、時間の経過とともにどんどんと変化していくものであるということも大切な視点だと思います。
2016.10.31
コメント(0)
神山五郎さんという医師はどもりで苦しまれました。まず買い物に不自由されました。郵便局で「はがき3枚」とすらすら言えないのです。窓口で黙ったまま立っていることはできません。とっさに「切手3枚」などと心にもないことをしゃべってしまうのです。駅の出札窓口では、目的地の地名が言えず、別の駅までの切符を買ったことが何度もありました。ごく簡単なこともしゃべれない自分自身にひどく嫌悪感を抱きました。一番困ったのは自分の名前が言えないことです。これがどれだけ苦しいことか。どもりは命にかかわらない障害ですが、本人にとっては重大な悩みです。命にかかわらないから、周囲の理解も得られず、一人で悩むしかなく、深く心を病んでしまうのです。不思議なことにどもりは、歌を歌ったり雑談をしたり、気楽な場面では現れないそうです。ところが、改まった場面で、重要なことを言おうとする時に限って現れるのです。子どもの頃何か質問したいことがあっても、質問できませんでした。どもってはいけないと思うから、質問できないのです。先生にあてられた時は、答えが分かっていても「わかりません」とだけ言いました。どもりながら正答を言って恥ずかしい思いをするよりも、バカだと思われた方がまだましだったのです。でも答えが分かっているのにそのように対応するということは、自分に嘘をついていることになります。すると「自分はうそをついた。自分は不正直な人間だ」と自分のふがいなさ、悔しさを責めてしまうのです。多感な少年時代の経験は、その後の人格形成に大きな影を落としました。多くの吃音恐怖の人はなんという苦しみの中で生きてこられたことでしょうか。またそれを治すためにあらゆる努力をされている方が多いようにも思います。ところがそういう努力をする人は、よくなるどころかかえって、そのことにとらわれて蟻地獄に落ちしまう。不安や恐怖に振り回されて、神経症に陥って行った対人恐怖症の私たちと一緒です。私の知っている人で、どもりながらも逃げずに、必要なことを人前で一生懸命に話す人がいます。人に笑われても、軽蔑されても決して逃げない人なのです。仕事で自分と家族の生活を守ろうとする真摯な姿に誠実さを見るのです。その姿を見ていると心を打たれるものがあります。その方に限らず、どもりがありながらも優秀な営業マンとして働いている人もいると聞いております。その人たちは、表面的にはぎこちない会話ですが、その人の人生に対する姿勢というものがにじみ出ているのではないでしようか。つまりドモリを治すのではなく、それを抱えたままでその人の人格を一段と高めている。ドモリは自分の特徴、個性であるかのように捉えておられる。人間として魅力にあふれている。ことさら意識はされていないかもしれませんが、対応した人はそのことをひしひしと感じる。逆に対応した人が励まされている。大切な人生の教訓を教えられたような気持になる。最後にはこの人をなんとか応援してあげたいと思うようになる。その結果、一見すると不利に思えるドモリが自分の営業のかけがえのない武器になっている。その結果スムーズに言葉巧みに話す営業マンを差し置いて高い営業成績を叩き出しておられる。我々神経症で悩む人もそういう風な乗り越え方もあることを学んでほしいと思います。森田では、症状と共存したままで、生の欲望に力を入れることが大切であると言われます。言葉では森田理論学習をした人は誰でも知っています。これは頭で理解しただけでは、絵に描いた餅を食べようとするようなものです。自分に落とし込んで、実行する力に変えていくことが大切です。その方法は森田理論が教えてくれています。
2016.10.24
コメント(2)
一昨日来、「不安」は「生の欲望」とのバランスをとることによって解消されるものであると投稿しました。では自分を苦しめて生活に支障を与えていた「不安」はどのように変化していくものなのかを見ておきたいと思います。不安には手をつけないで、生の欲望の発揮に力を入れて行動・実践していると、それに伴って新しい感情が発生してきます。自然の流れとして、新しい感情の方に意識や注意が向いていくようになります。すると今まで自分を苦しめていた不安や恐怖にばかり関わってはおられない状況が生まれてくるのです。つまり以前の不安や恐怖と関わる時間がしだいに少なくなっていくということになります。言いかえれば、目の前のイヤイヤ仕方なくの行動・実践が、以前の不安や恐怖の感情を押し流してくれているのです。感情の法則にも時間が経過すれば、以前の感情は薄められる。流れていくものだといわれています。行動・実践はそれを強力に後押ししてくれるものなのです。このことは少し考えてみれば誰でも経験されていることだろうと思います。このように生の欲望の発揮に邁進することによって不安そのものがよい意味で変化流動していくということなのです。そうはいっても、神経質性格を持っている人は、不安に圧倒されてしまい容易に手や足が出ないということを聞きます。頭の中で100%納得できないと行動に移すことができないということも聞きます。そういう人は神経質性格そのものを活かして行動することをお勧めします。神経質な人は心配性の人です。裏を返せば他人の気がつかないことも、どんどんと気がつくという優れた性質を持っているということです。人の気がつかない小さな気づきをメモするなどしてキャッチするようにするのです。確実に捕まえておかないと、その気づきはすぐに忘却の彼方へと飛び去ってしまいます。そしてその小さな気づきを活かして、少しずつ行動・実践に移していくということです。たとえば、毎月の集談会にはできるだけ参加する。会員になって経済面で発見会を支える。集談会では苦しんでいる人の話をよく聞いてあげる。自己紹介の内容、体験交流で話す内容を用意してみる。会場作りを手伝ってあげる。お茶を入れてあげる。お菓子を配ってあげる。お茶碗を洗ってあげる。世話係を一つでも引き受けてあげる。これらに一生懸命に取り組むことが生の欲望の発揮につながるものだと思います。これは自分の不安の解消に役立つばかりではなく、人の役に立つ行動でもあります。こういう行動が積み重なっていくと信頼を獲得して、人間関係がよくなっていくと思います。つぎに生の欲望の発揮に邁進していると、不安は次から次へと発生してくるものだという認識も持ってほしいと思います。対人恐怖症の人は、今まで予期不安がある場面はさけてばかりいたのですが、症状が軽くなるとイヤイヤながら人前に出る機会が増えてくるようになります。当然不安の種は増えてくることになります。ところが不安と生の欲望のバランス感覚が身についてくると、不安に対する対応方法が全く違ってきます。以前は不安にとりつかれて、格闘、逃げ回っているうちに精神交互作用で、不安はどんどん膨らんで最後には神経症として固着していました。バランス感覚が体得できると、不安に押しつぶされそうになった時に、生の欲望の発揮に立ち戻ることができるようになるのです。不安の種があると、注射針を刺された時のように一瞬の痛み、恐ろしさはありますが、いつまでも苦しむことはなくなります。つまり不安が坂道を転がる雪だるまのように大きくはならない。また苦しむ時間は格段に短くなってくるのです。これは実は神経症に陥らない普通の人の生き方です。森田療法の不安と欲望のバランス療法は、真の意味で不安との付き合い方を教えてくれているものだと思います。
2016.10.20
コメント(0)
2016年10月号の生活の発見誌の学習会シリーズ「行動の原則」もよい記事だった。心というものは、目の前のちょっとした状況の変化に伴い、変わるものだ、単に、変わるだけでなく、新しい状況によく溶け込むものだ。行動は、単にその行動の目的を達成させるだけではなく、間接的に、感情や心を動かす手段にもなる。その例として「幼児の公園でのエピソード」(今泣いたカラスが、もう笑った)を紹介されている。幼児と母親が、砂場で遊んでいた。幼児は砂場が大好きで、満面の笑みで、はしゃぎまわっていた。突然、転んで、顔面砂だらけになった。そして大声で、泣き出した。それに母親が気付き、子どもに駆け寄り抱き上げ、怪我の様子を確認したところ、幸い傷もなく大丈夫のようだったので、子どもを抱きあげ「大丈夫だからもう泣かないで」とあやしたが、子どもは泣き止まなかった。母親が途方に暮れている時、急に子どもがご機嫌な声で「わんわんだ」と叫んだ。母親が子供の指さす方を見ると、近所の人が犬の散歩で通りかかっていた。それを見つけて、犬が大好きな子供は大はしゃぎをしたのである。今まで大泣きをしていたのに一瞬にして満面の笑みに変わったのである。これが本来の心の変化なのです。神経症で苦しんでいる人は、不安、恐怖、不快感、違和感は永遠に続いていくと思っている。そういう状態は無視できない。手をこまねいて放置できない。だからなんとしても取り除こうとする。でもうまくゆかない。どんどん状況は悪化していく。対応が間違っているから改善できないのだ。楽になるためには、対症療法よりも、急がば回れの道を選ぶことだ。エピソードのように実践や行動によってイヤな感情を速やかに変化させ、希薄化させてしまう方法をとるべきなのだ。基本的には不安等に対してはこれが唯一正しい対処法となる。イソップ物語に北風と太陽の話がある。冬の寒い日に旅人がしっかりとコートを着ている。北風は自分のありったけの力でコートを脱がそうとするが、旅人はいつまでも抵抗していくだけで失敗に終わる。次に太陽が出てきて燦々と温かい光を注いだ。すると今まで頑強だった旅人はいとも簡単にコートを脱いだ。森田理論学習では最初にこのことを学習するのだが、いつまでも不安に振り回されているというのは、体得されているわけではないのだと思う。
2016.10.11
コメント(0)
慈恵医大森田療法センター編の「新時代の森田療法」(白揚社)という本にQ&Aがある。Q8 森田療法で神経症は完全になくなりますか。それとも症状が軽くなるだけなのでしょうか。A 素直な質問ですが、この質問自体が神経症的ともいえます。というのは不安や恐怖を完全になくしたいという考えが見てとれるからです。不安や悩みは「よりよく生きたい」という健康な欲求があるからこそ生じるものであり、コインの表と裏のような関係にあります。その自然な感情である不安や悩みのみを完全に排除しようとする、いわば不可能な試みが不安へのとらわれを強め、逆に不安を増大させているのです。森田療法では、こうした不安や症状に対する誤った態度を是正することを目標とします。したがって、神経症の症状を完全になくすることが「治る」ことだと期待している限り、症状から自由になることはできないのです。そう言われると森田療法では、神経症は治らないのか。がっかりされる方がおられるかもしれません。でも森田療法は神経症を治す治療法です。一般の治療法と比べて治し方が違うのです。森田では、まずは症状と付き合いながら、そこでできる行動を探っていくことです。そうした姿勢から、たとえ症状があったとしてもできることがあるという事実や、不安と付き合うことで不安が変化(軽減)する事実を体験するでしょう。そうして不安や症状と上手に付き合う姿勢を森田療法によって身につけたとき、逆に生活を縛っていた症状から解放されていくのです。分かりやすい説明だと思います。さらにつけ加えるならば、不安や恐怖だけを取り上げて、それらを取り除こうとしている限り目的は達成されないということだと思います。むしろ精神交互作用によって底なし沼にはまり込んでしまう可能性が出てきます。森田理論では不安は生の欲望との相互関係の中で解決すべきものであるとみているのです。どちらが欠けても日常生活に支障がでてきます。不安でパニックになったときは、それは横に置いておいて、生の欲望に沿った行動・実践をとるようにする。つまり不安と生の欲望のバランスをとることに注意を向けるのです。そうすると不安に押しつぶされそうになった自分を立て直すことができる。そうすれば不安を取り除こうとしたり、気分本位になって逃げたりすることは無くなります。
2016.09.30
コメント(0)
幼児とトランプの神経衰弱をすると、子どもの記憶力のすごさに圧倒される。神経衰弱というのは裏返しにしたトランプの同じ数字の物を見つけるというゲームだ。そのゲームの差は10対1ぐらいではないかと思う。幼児が圧倒的に強い。そう言えば最近物忘れが多くなった。毎日日記をつけているが2時間も経つと今日の夕御飯のおかずは何だったのか思い出せないことがある。歳をとると脳の神経細胞がどんどん減って認知症になるのか考えると悲観的になってしまう。それに対して脳科学者の池谷裕二氏はその考えは違うという。2005年にオランダで115歳の女性が亡くなりました。最近の脳科学の技術で、彼女の脳が徹底的に解剖されました。その結果、神経細胞の数だけではなく、シナプスの数、遺伝子の状態、タンパク質の量など、調べた限りにおいて若いころと大差がないことが分かったのです。何事にも好奇心を持ち、体を十分に動かし、目標や課題に向かっていれば脳がスカスカになることはありません。つまり生きがいを持って、生きてるといつか楽しいこともあると思っていれば大丈夫である。何もしないでテレビばかりを見ているような生活は、脳の廃用性萎縮が起きて脳がその働きを止めてしまいますので注意したいものです。それでは最初の問題提起はどう説明するのか。池谷氏は、子どもと大人は記憶の量が違うといわれる。その中でも長期記憶の量が違う。子どもには長期記憶は少なく短期記憶が中心である。大人は長い人生の中での長期記憶が多く、頭の中にパンパンに詰め込まれている。そういう状態では、記憶の収納場所があまりない。生命の維持にかかわることや使用頻度の多いいもの以外は記憶の網からスルーしてしまうというのだ。そう言えばトランプの神経衰弱の記憶は生命にかかわるような重要なものではないですよね。なるほど、重要な記憶とそうでない記憶を選別して、重要な記憶のみをストックしようとしていたのか。脳の衰えとは違うことなのか。不安や神経症の関連でも脳の面白い解説をされている。「モズのはなにえ」という現象があるそうだ。モズは隠した餌の場所を忘れてしまうという特徴がある。この現象はモズが正確に場所を記憶しているために、周囲の環境が変化した場合(たとえば枯れ葉が落ちるなど)、その風景が記憶内の風景と照合できなくなるから、餌を発見できなくなるのではないかといわれています。これに対して人の記憶は、他の動物に例を見ないほどあいまいでいい加減です。でもこのあいまいというのは臨機応変に変化に対応するために必要なものです。記憶のあいまいさは、実は欠点ではなく、能力だといわれています。たとえば始めて会ったAさんを記憶する過程を今一度考えてみましょう。今Aさんは正面を向いて立っているとします。その姿を見て「これがAさん」と覚え込みます。するとAさんが右を向いたら、その人は別人になってしまいます。だからと言って、「右を向いた姿こそAさんだ」と、もう一度完璧に覚え直したら、今度は右向きの姿だけがAさんになってしまって先ほどの正面の姿は別人になってしまいます。この二つのAさんの姿を結びつけるためには、「前の記憶の保留」が必要です。先入観や決めつけをしないで「記憶を一時的に留保」しているのです。言い換えれば、記憶を確定させないであいまいなままにしているのです。そして時間をかけて2つの記憶を結び付けていくのです。すると、眼鏡をかけていたり、髪形を変えたり、服装が変わっていてもどれもAさんだと判断できるようになるのです。これを逆手にとると不安、恐怖、不快感に対する対処法が見えてきます。それらを抽象的で漠然とした状態でとらえていると、最初誰もが持っているような小さい不安や不快感であったものが、憶測を膨らませて得体のしれない魔物のようなものになってしまうということです。森田理論で学習しているように、不安、恐怖、不快感は、具体的に赤裸々に、事実を事実として詳細に見つめていく態度がいかに重要であるかということです。それを心がけていると、不安などが坂道を転がる雪だるまのようにどんどんと膨れ上がり、身動きの取れない状態に追い込まれることは少なくなるだろうと思われます。(のうだま2 池谷裕二ほか 幻冬舎参照)
2016.09.01
コメント(0)
前橋市内のビジネスホテルで40代の女性従業員に乱暴したとして、群馬県警に逮捕された俳優、高畑裕太容疑者は大きくマスコミで報道されている。母親で女優の高畑淳子さんは、息子の謝罪会見まで開いた。痛々しかった。これで彼の俳優としての将来は完全に閉ざされてしまったという報道がなされている。日本では一旦不祥事を起こすと永遠に世間から見放されてしまう。再起不能であるばかりではなく、ひっそりと影をひそめて暮らすか、外国に移住するしか生きていく術はない。この点はアメリカとは全く違う。彼は性的欲望が高まるとそれを抑えることができず、衝動的な行動に向かいやすいという特徴を持っていたようだ。それを悪化させる“トリガー”の役目を果たしたのが、アルコールだった。アルコールでわずかに残っていた理性の抑止力が無くなり、動物的本能といわれる性欲が一挙に表面化して暴走を始めたのだ。一旦そういう状態になれば、食い止めることは無理だと思う。本来人間は性的欲望が高まってくると同時に、抑制力も高まってきて、反社会的な行動に歯止めがかかるようになっている。ところが小さい頃に、親が過保護や自由放任でやりたい放題に子どもを育てているとそのバランス調整機能は育ってこない。反社会的で、自分で自分の行動をコントロールできない放縦児になってしまうのだ。これは幼児期、小児期時代に身につけることで、その時期を逸してしまい、青年期以降に獲得しようと思っても難しい。ほとんど不可能なのだ。高畑裕太容疑者も逮捕後、お母さんと面会した際、「申し訳ありません」と言っていたという。自分でもあとで振り返れば、その時の抑えきれない衝動で取り返しのつかないことをしたという罪悪感でいっぱいになっていることだろう。どうにもやりきれないことだ。この傾向は自己内省力の強い神経質者には問題はないのであろうか。私は神経質者でもこういう傾向は大いにあると思っている。神経質者は本来目指すべき「生の欲望」の発揮は蚊帳の外になって、気になる不安や不快感を取り除くことばかりに意識や注意を向けている。アンバランスで自己閉塞的な生き方をしている。その生きづらさは大変なストレスとなっている。そのストレスは何らかの形で解消しないと、葛藤や苦悩でいっぱいになる。その発散の方法として、一つには刹那的、衝動的な快楽追求へと暴走する下地があるとみている。特に親が過保護や自由放任でやりたい放題な子どもを育てている場合はその方向に向かいやすい。だから高畑裕太容疑者の事件は他山の石として簡単に片づけられない。性犯罪者らの更生をめぐっては、法務省は2006年から、再犯を防ごうと「性犯罪者処遇プログラム」の導入を始めているという。プログラムでは受刑者を再犯リスクなどに応じ「高・中・低」に分類。10人程度のグループを作り、自身の性的特徴、事件に至った要因などを特定させ、性的欲求のコントロール方法などを話し合いの中から探らせていく。受講の効果については12年に法務省が報告書を公表している。それによれば、調査対象者のうちプログラムを受講していないグループの全犯罪の再犯率は29・6%で、受講したグループ(21・9%)よりも再犯の可能性が高かったという。私はそういう傾向のある人は衝動が暴発するような場所には出入りしないようにするしかないと思う。満員の電車やバスなどの公共交通機関は使わない。高畑さんのようにアルコールがトリガーとなる場合は、公衆の席では酒は飲まない。たとえ飲んでも終わるとタクシーなどですぐに家に帰って寝るようにする。あるいはそういう場合、第3者と行動して制御機能を果たしてもらうようお願いしておく。自分には理性が働かなくなるという自覚を普段から自分に言い聞かせていくことである。衝動的行為が最悪どういう結果をもたらすかは普段から十分に検証しておくべきであると考える。そうしないと自分の人生に未来はなくなってしまう。また家族を巻き込んで大変な事態になる。そういう人の自助グループへ参加して、学習して仲間同士助け合うことが必要である。
2016.08.31
コメント(0)
ロシアの風刺作家のクルイロフにこんな寓話がある。(完訳クルイロフ寓話集 内海周平訳 岩波文庫)豪華な邸宅に住む大金持ちの徴税請負人の向かいに靴直しが住んでいます。この靴直し、めっぽう歌好きで、陽気な男。朝から晩までひっきりなしに歌っています。一方、大金持ちは、破産するのが心配で睡眠不足。そこへ向かいの靴直しの歌でよく眠れません。そこで大金持ちは靴直しの歌を止めさせるために、500ルーブルの硬貨の入った袋を進呈しました。靴直しは袋をつかむと、走るというより飛ぶようにして家に帰った。贈り物は衣服の下に入れて持ち帰り、その夜は地下の穴蔵に隠してしまった。袋と一緒に持ち前の陽気さも!歌が出なくなったばかりではなく、眠りもどこかへいってしまった。(彼も不眠というものを知ったのである)すべてのものが疑わしくなり、すべてのものが彼を不安にさせた。夜中に猫が爪で引っ掻いても、もう泥棒が近づいてくるような気がする。全身に寒気を感じ、耳をそばだてる。要するに、人生が過ぎ去ってしまって、川へ身を投げたいくらいの気持ちだった。靴直しは考えあぐねた末、やっと気がついた。袋を持って徴税請負人のところへかけつけて、こう言った。「ご親切ありがとう。これはあんたの袋です。お収めください。袋をいただく前は、不眠というものがどんなものか知らなかった。あんたは自分の財産を身につけて暮らしなさるがいい。だが、あっしは歌と眠りのためなら、100ルーブルだって要りません」この寓話を森田理論で考えてみたい。森田では欲望は生きる源であると言っている。欲望のない人は哀れなものだと言っている。欲望にはどんなものがあるのか。物欲、財欲、金銭欲、性欲、食欲、飲食欲、名誉欲、出世欲、権力欲、独占欲、所有欲、睡眠欲、排泄欲、完全欲、自己顕示欲、向上欲、健康欲、生存欲、安全欲、所属欲、自己承認欲、奉仕欲・・・。ざっと挙げただけでもこんなにある。これらを求めないということは生物とは言い難い。人間とは言い難い。欲望を持って自然や他者に働きかけることで、自分の生命を維持できているのである。欲望の存在なしに人間は生き延びることはできない。ところが欲望が暴走することは、その思いとは反対に、自分たち人間の破滅を招いてしまうというジレンマに陥ってしまう。そのひとつに原子力発電がある。チェルノブイリ、スリーマイル島、福島原発の放射能漏れの惨事は目を覆いたくなる。これらは人間のあくなき欲望の暴走の果てに起こした事故であった。将来私たちの子孫が末広がりに幸せになる方向に向かう欲望の追求は大歓迎である。ところが今現在の欲望に目がくらみ、刹那的快楽を求めて突き走る方向は如何なものか。欲望の追求は、けっして暴走を許してはならない。人間は進化の過程で、欲望の制御機能を身につけていった。脳でいえば扁桃体や海馬が淘汰されずに残されてきた。森田では、このことを「精神拮抗作用」という。今の人間は欲望の追求に弾みがついて、暴走している状態だ。そして残念ながらもう破滅を味合わないと自己内省できないところにまで来てしまっている。私はいつもサーカスの綱渡りの芸を思い浮かべる。サーカスの綱渡りは、長い竿を右に左に揺らしながら、バランスを取りながら、注意して少しずつ前進している。そうしないとすぐに地上に落ちてしまう。下手をすると命を落としてしまう。森田理論は、欲望と不安の調和を目指している。このことに思いを馳せて、世の中にその真意を訴えていく必要がある。
2016.08.18
コメント(2)
岩田真理さんがこんな話をされている。ときどき強迫系の人の話を聞いていて、そんなにすごい強迫行為をしていて、風邪をひかないのかしら、身体がどうにかならないかしらと心配になることがあります。ところが、寒い冬に湯船にも入らず、シャワーを浴び続けていても、風邪もひかず病気にもならないのです。とても不思議です。おまけにいろいろなこだわりで食事を抜いてしまったりしていて、それでも平気なのです。(流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 84ページより引用)これは精神が緊張状態にあるために風邪が入り込む隙間がないのだと思います。森田正馬全集第5巻の中に、武士が戦の中に睡眠をとっているとする。ところが水鳥の羽ばたきの音を聞いただけですぐに飛び起きて戦いの準備を始める。あるいは生まれたばかりの乳児を抱えているお母さんは、寝ていても赤ちゃんがぐずり始めるとすぐに目覚めてめんどうをみる。いずれの場合も、安静時といえども、精神が緊張しノルアドレナリンなどの神経伝達物質が出続けている。これがぐっすりと睡眠をとって状況変化に反応できないとなると簡単に命を落したり、子育てに支障をきたすようになる。だからこう言う状況下では、精神がある程度の緊張状態にある方がよい。強迫系の人やうつ病の人は、病気が軽快して精神的にゆとりが出てきたときは要注意である。過度の緊張状態の時は苦痛から逃れたいという強い希望や意思を持っていたのである。そういう状態で頭の中がいっぱいの時は、それ以外のことを考えるゆとりはない。ある意味では安心である。余計なことを考える余裕がないからである。これは100%症状のことばかり考えている状態です。ところが症状が徐々に軽快したときは、10%、20%、30%と他のことを考えるゆとりが出てくる。そのゆとりというか隙間を狙って風邪が入り込んでくるのである。風邪だけではない。自分の身体のふるえや違和感などにいち早く気づくようになる。あるいはイライラして不安定な自分の心の状態を嫌悪したり、否定するようになる。こう言う状態の時は周りにいる人はよほど注意しておかないと取り返しのつかないことにもなる。森田先生は森田正馬全集第5巻の中で、風邪を引く時の状況について何回も説明されている。それによると、寒い日に外出先から家に帰ってきて、ほっとして、さっそくこたつにもぐり込んで転寝などをはじめる。こういうときに風邪をひきやすいと言われるのだ。その時の精神状態は、緊張状態でピリピリとしていた心身が、急に真反対の弛緩状態に切り替わったのだ。そういうやり方は問題がある。スポーツの選手などが全力走などをおこなうと、すぐに休まないでクールダウンをおこなう。緊張状態を自然に弛緩状態に移していくのである。このソフトランディングが大切なのである。経済活動などでもデフレ経済になると、政府や日銀によってインフレ誘導策がとられる。これも過度のインフレで経済が混乱を招かないように慎重におこなわれている。急激に行うとハイパーインフレを招き、貨幣価値は紙くずにまで落ちてしまうことがある。過去の歴史が証明しているとおりです。我々もこれを見習う必要がある。精神の緊張、弛緩は、サーカスの綱渡りの芸のように墜落しないように長い物干しざおのようなものを持ってバランスを取りながら前進していくことである。過度の緊張状態にあるときは、弛緩状態に序々に下げていく。弛緩状態にあるときは、緊張感で刺激を与えて持ちあげていく。森田理論学習では、バランス感覚を磨き、その能力を身につけることを目指しています。
2016.08.11
コメント(2)
子どもを育てるにあたっては、好奇心が強くて、積極的で、意欲的な子どもに育てることが何より大切です。そういう子どもは、神経症に陥ることは少なくなると思います。ところが、あまりにも子どもの自由自在にさせていると放縦児になってしまいます。放縦児というのは、欲望に対してほどほどということがなく、欲望が暴走している状態です。人間にはもともと欲望が暴走しないように、抑制機能が備わっているものです。ところが、親が過保護に育ててしまった結果、抑制機能が働かなくなっているのです。自発性の育成を前面に押し出しながらも、ぜひとも自己統制力も同時に身につけさせたいものです。自己統制力はどのように身につけさせていったらよいのでしょうか。平井信義氏によると、自己統制力のしつけは1歳から始めることが重要だと言われます。例えば、時間でもないのにお菓子をほしがったときに、「時間まで待ちましょうね」という提案をします。その提案をしたならば、親たちがそのけじめをきちっと守ることが大切です。子どもがどんなに泣いたり騒いだりしても、親が提案したことについては親自身がきちっと守ることです。デパートやスーパーに子どもを連れていくと、「あれを買って、これを買って」とせがみます。これは出かける前に今日はお菓子とかおもちゃは買わないけど、それでも一緒に付いてくるか、家でお留守番をしているか子どもたちに選択させましょう。あるいは今日は108円までなら自分の好きなものを選んでもいいよと伝えておきましょう。そして約束したことは子どもも親も絶対に守るようにしましょう。そこを「今日だけは特別よ」などと妥協していては、子どもは親を甘く見てしまいます。次に小学校高学年になると、こずかいは毎月ある程度の額をあたえて、こずかい帳のつけ方を教えましょう。親の月々の予算の立て方や家計簿の付け方を、小さいうちから見せながら教えてゆきましょう。ボーナスの使い方は家族で相談しながら決めている家があるそうです。必要な支出を除いた後のわずかなお金の使い方を家族会議で決めるのだそうです。次に、どこのうちでも子どもはお年玉をたくさんもらいます。小さいうちから多額のお金を子どもに渡すのは感心しません。小さいうちは親が管理して貯金しておくのがよいのではないでしょうか。でもそれは子どもが将来必要なときに使うお金であり、親が勝手に使えるお金ではないことは自覚しておきましょう。しつけで大事なことの一つに子どもにも家事の役割分担をすることがあります。家族がそれぞれ家事の役割分担をして協力し合うことはぜひとも実行したいものです。幼児には食器の後片付けや掃除、小学生になれば食事作りに参加する機会を与えて、家族に奉仕する心を育てることが大切です。でも家によっては家事を手伝ったら駄賃を与えているというのがあります。お金を与えるという習慣がつきますと、お金をくれなければお手伝いをしないことにもなってしまいます。気をつけたいものです。それからなんといっても親が欲望を抑えて生活をしているという姿勢を子どもに見せるということが大切だと思います。森田理論学習をしている人は普段から「少欲知足」の生活を心がけておられることと思います。「子どもは親のいうことはしないが、親の後ろ姿を見て育つ」と言います。親がお金を無駄遣いしないように気を配り、最大限に活かして使う姿勢は子どもが自己統制能力を身につけることに役立つと思います。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP参照)
2016.07.05
コメント(2)
高良武久先生のお話です。対人恐怖の人は、絶対に人から変に思われてはいけない、というふうな心の態度があるわけで、そういう心理は裏返してみれば傲慢な心理といってもいいでしょう。これは自分は完全な人間として見られるべきだということです。本当はもっと謙虚であっていいわけで、自分は欠点、弱点の多い人間だから、好ましいことではないけれど、時として人からいやに思われたり、軽蔑されたりすることもやむをえない。ただ、自分は自分のやれるだけのことをやればいいんだ、という態度が望ましい。実際、人間はみな不完全だから、人から変に思われることもあります。そしてもう一つの欠点は、自分がそうであるという実態よりも、人からどう思われるかという見せかけの自分に重きを置くということです。内面はどうであっても、ともかく人からよく見られればいいということにも通じ、極端にいえば、自分はバカであってもいいから、人からバカと見られることはよくないということです。対人恐怖の私には、この心理はとてもよく理解できる。私は、身体的、性格、能力、境遇などすべての面にわたって人と比べて、劣っていたり負けているということが我慢ができなかった。せめて人並みに引き上げあげないと、受け入れてもらえなくなる。すぐれたところは見向きもしないで、そういうところばかりに注意を向けてきた。またミスや失敗などは他人からつけ入れられる一番の原因となるので、いつもびくびくして、恐る恐る手をつけていた。特に仕事は楽しめないのだ。苦痛で仕方なかった。そのうち精神的に苦しくなって仕事などへの意欲が無くなっていった。自分のやるべきことややりたいことに目がゆかなくなり、不都合な事実を隠す、ごまかす、逃避する、否定することばかりしてきた。つまり自己防衛ばかりしてきたのである。将棋でいえば、攻撃面は全く頭にはなく、王将を隅の方に移動させて、周りを多くの駒で防衛させるようなものだ。これでは絶対に勝利することはできない。そのうち徐々に攻め込まれて、最後には丸裸にされて敗北してしまう。対人恐怖の私は、人から評価されたい。重要視されたい。一目おかれるような人間になりたい。等の欲望がとても強い。反面、批判される、無視される、否定されるなどということは耐えられない苦しみなのだ。そんなことで飯が食えるわけでもないのだし、どうでもいいことだと言われて納得したこともあった。でもあきらめきれない。身に沁み込んだ欲望であっていかんともしがたい。森田理論によると、不安はそのままに「生の欲望」に沿って、努力を継続していくことといわれる。私は大学卒業後訪問営業の仕事をしていた。訪問営業は8割方断られる。それも罵詈雑言を浴びせられ、自尊心が粉々に打ち砕かれることが多かった。そんな中でいつもよい成績をあげている人がいた。その人に聞くと、成績をあげる人はとくかく見込み客にたくさん会うことだという。数打てば確率的に必ず営業成績は上がってくる。断られたら「蛙の面に小便」のような気持ちでいるという。その人にいつまでも関わり合っているよりも、次の見込客に会うことだという。それはセールステクニック以前の問題であるという。優秀な営業マンというのは、一番多くの屈辱の断りを受け続けてきた人だという。それをたえず心に言い聞かせているという。それといつも自分の営業成績よりも少し上の人を目標にして、ライバルに追いつこう、勝ちたいという明確な目標を持っている人だった。森田でいう、不安や恐怖心がありながらも、目線は「生の欲望の発揮」に向いていたのである。私は、不安や恐怖にとりつかれて、なにかにつけてさぼってばかりだった。営業成績が上がらず、同僚たちから軽蔑され、そのうち退職に追い込まれた。それが時が経つうちに雲泥の差となって、その人は管理職になり雲の上の人になっていった。(どう生きるか 高良武久 白揚社82ページより引用)
2016.06.11
コメント(2)
つもり違い12箇条というのがあるそうです。1、 有るつもりで無いのは記憶2、 無いつもりで有るのは思い込み3、 高いつもりで低いのは教養4、 低いつもりで高いのは気位5、 深いつもりで浅いのは知識6、 浅いつもりで深いのは欲7、 厚いつもりで薄いのは人情8、 薄いつもりで厚いのは面の皮9、 強いつもりで弱いのは根性10、 弱いつもりで強いのは我11、 多いつもりで少ないのは分別12、 少ないつもりで多いのは無駄これを壁に掲げて毎朝声を出して読んでいる人がいるそうです。一つ一つはとても含蓄のある言葉ですね。こういう謙虚な気持ちで生きていければ素敵ですね。ハワイには「ホ・オポノポノ」という考え方があります。森田理論でいう「かくあるべし」で人間は苦しんでいるのだという考え方が根底にあるのだと思います。実際には毎日、「ごめんなさい」「許してください」「ありがとうございます」「愛しています」をいつも口ずさむのだそうです。それではたして「かくあるべし」が少なくなるのかどうかは疑問ですが、気持ち的には分かるような気がします。我が家の亡くなった母は良寛さんの「丁度よい」という文章を掲げていました。お前はお前でちょうどよい。顔も体も名前も姓も、お前はそれは丁度よい。貧も富も親も子も息子の嫁もその孫も、それはお前に丁度よい。幸も不幸も喜びも、悲しみさえも丁度よい。歩いたお前の人生は悪くもなければ良くもない、お前にとって丁度よい。地獄へいこうと極楽へいこうといったところが丁度よい。うぬぼれる要もなく卑下する要もなく上もなければ下もない死ぬ日月さえも丁度よい。お前はそれは丁度よい。母は無い物ねだりをしないで、与えられたものを大切にして、精一杯生きていこうとしていた人でした。
2016.06.02
コメント(0)
3歳の子どもが犬に近づき急にワンワンと吠えられたとします。その時のお母さんの対応として、次のようなものが挙げられます。その1 だから近づくなって、いつも言っているでしょ。その2 飼い主にクレームをつける。そして子どもに、「もうやられないから、泣きやんでね」と慰める。その3 こわかったねぇ、こわかった。おっ、びっくりしたねえと言う。その1は、子どもの見方になっているようではあるが、犬と遊ぶ機会を端から奪ってしまっている。こんなことばかりしていると、子どもは引っ込み思案になって冒険をしようとしなくなる。過保護で無気力、無関心な子どもを育てているようなものです。また、これは親の価値観を子どもに押し付けている。これでは子どもはこれから少しでも危険を感じるものには近づくことはしなくなる可能性がある。たとえば田舎でイチゴ狩りをしていてヘビが出てきた。気持ちが悪くなってすぐ逃げたのはよかったが、その後ヘビがまたいつ出てくるかと恐ろしくていちご狩り自体ができなくなった人がいた。また田舎に行くのもイヤと言いだした。ましてや田舎に住むことなんて考えられないというふうにエスカレートしてきた。これと同じ現象が起きる可能性がある。森田理論でいえば親の「かくあるべし」を子どもに押し付けて、親の価値観に子どもを手なずけようとしているようにも見えます。これが高じると子どもは大人になって神経症で苦しむようになります。その2の対応は、その原因を作った飼い主に苦情を言うことで安全を確保しようとしています。少しやり過ぎです。何でも親が先回りして、問題解決をしてしまうので、依存的で無気力な子どもになってしまいます。子どものやる気や自主性は育ちません。命に別状がない限りは、大人は少々子どもがケガをしようが、手出し無用なのではないでしょうか。その3は好ましい対応だと思います。森田でいう「純な心」からの対応です。ネガティブな感情をそのまま受け入れています。これは恐ろしいという感情から逃げないで向き合っているということがいいのです。すると犬がいなくなったあとは、その感情はすっと消えてなくなります。ところがその感情と向き合わないといつまでも、不快な感情に悩まされることになります。この話は森田先生の「神経質の本態と療法」の183ページにも出てきます。犬に吠えかかられた本人の立場で書かれています。幼い子どもは、母にしがみついて、顔をうずめて、泣き叫ぶ。母親に依存しています。普通の大人は、犬をよく見て、逃げるとか追い払うとか臨機応変に態度を決める。注意は犬に向いているので無我夢中である。ところが強迫観念はこのどちらでもない。それは、吠えかかる犬の恐怖に耐えかねないで、一時逃れの目先の安心を得ようとして、その犬を見ないように顔をそむける。その時本人の注意は、自分の不安な心の状態、つまり、自分の胸騒ぎ、脱力の感とか、さむけや震えということばかりに集中し、心を奪われて、現実の対象を忘れ、自分の恐怖、不安の結果がどうなるかということが恐ろしくなる。この場合は、「煩悩の犬追えども去らず」という状態になり、日夜その恐怖に悩まされることになるのである。どちらの話も基本的には不安や恐怖、不快な感情からすぐに眼をそむけないで、対象物をよく見るということが大切なのだと教えてくれている。
2016.05.16
コメント(0)
森田理論によって神経症を克服したいと考えるなら、第一に不安の取り扱いをよく学習して生活に応用できるようになることが大切である。これを国家試験にすると、「不安取り扱い主任技術者」とも言うべき資格になるであろう。これは何も神経症で悩んでいる人だけでなく、普通の人にも役立つ考え方である。特に神経症に陥っている人は、必須科目となる。ポイントは4つある。1、 不安は取り除くことはできないし、取り除こうとしてはならないという考え方である。欧米の心理療法ではほとんど不安を取り除くというところから出発している。森田理論と欧米の心理学の違いはよく検討してみる必要がある。2、 森田理論では不安は欲望があるから発生するのだといいます。不安と欲望はコインの裏表、表裏一体と考えます。長谷川洋三氏は、欲望を本体(形)とすると不安は影であるといわれています。本体がゆくところ影はどこまでもついてゆきます。私たちはその影が気になり、ほうきではいて無きものにしようとしているようなものだ。本体がある限り、いつまでたっても影はなくすることができない。そうした行為は不可能に挑戦していることであり、最後は疲れ果ててしまいます。欲望が小さい時は不安も小さい。欲望が大きくなると不安もそれに比例して大きくなります。不安が嫌だから不安をなくしたいと思われれば、欲望を無くすればよいのです。でも人間は欲望を全くなくすることはできません。3、 不安は意味もなく存在しているのではありません。予期不安があるからこそ、あらかじめ危険を察知して身を隠し、生命の危険を回避することができます。また不安は欲望が暴走しそうになるときに、それを阻止とどめる役割を持っています。欲望が暴走すると自己中心的になり、他人を痛めつけるようになります。また自暴自棄になり将来に禍根を残すことを平気で起こすようになります。それを押しとどめる役割が不安にあります。森田ではこのことを精神拮抗作用と言っています。それでも欲望が暴走するというのは不安の活用法が希薄であるといえます。4、 不安と欲望はどのように生活に応用してゆけばよいのか。まず「生の欲望の発揮」を前面に押し出して生活することである。生の欲望というと大げさなようである。具体的な中身は日常生活を規則正しくものそのものになりきって取り組むことである。安易に他人任せにしないで自分のことは自分でやるようにする。次に仕事、勉強、家事、育児、介護等イヤイヤながら取り組んでいくことである。それから先は自分の興味のあることはいろいろと手を出してゆけばよい。その際補助的に不安を活用して欲望が暴走しないように注意する。イメージとしてはサーカスの綱渡りの曲芸を思い出してほしい。長い物干し竿のようなものを持っていつもバランスをとっている。欲望が優位になれば、不安の方を持ち上げ、不安が強くなれば欲望の方を持ち上げる。バランスをとりながら注意深く自己内省を繰り返しながら向こう岸に向かって歩みをつづける。以上の4つの視点をしっかりと頭にたたみこんで、生活に応用していただきたいと思うのである。
2016.01.13
コメント(0)
全275件 (275件中 151-200件目)