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こっちは男の子。長男のお人形です。長男に名前を付けさせてみました。名前は「サンガモン」戦争マニアなので戦艦?の名前。たぶん。いろいろな材料が必要なのですが、キットで売っている所があるんですよね。で、通販で買いました。そして、昔せっせと作ったような気がします。 男の子と女の子の違いは髪の長さだけです。そのあと子供たちが喘息になってしまい、人形やヌイグルミはダニがいてよくないと思いしまってしまったのです。でも先日ふっとまあいいかという気になってまた出してきたのです。子供たちはもう大きくなっているのでどうでもいいやという態度なんだけどね。セーターも編みましたし、したのシャツもズボンも手作りです。かおがシンプルなのは、子供たちが人形に自分の気持ちを投影させられるようになのです。うれしいときは人形も笑っているように見えます。悲しいときは人形も悲しそうに見えます。そして、自分の気持ちにに沿ってくれる人形を抱きしめながら、人と心をつなげる練習をするのです。というのがウォルドルフ人形なのですけど、しまっちゃってたからなあ。でも、出してきたら、なんかかわいい。子供たちはもう大きくなってしまって、私の相手をしてくれないので、私にとっての子供たちの代用になりそうだ。シュタイナー
2007年01月28日
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むかーしつくったんだ。シュタイナーのウォルドルフ人形です。男の子はおにいちゃんの。女の子は娘の。ところが名前を忘れてしまっていてぜんぜん覚えていないのです。ごめんね。また、つけるしかないかなあ。デジカメからの画像取り込みは初めてなので縮小率とかわからなかった。四苦八苦で、今日はここまでがせいいっぱいでした。よれよれ~~~~。ウォルドルフ人形と小さな仲間たち確か、この本を見て作ったのですよ。ああなつかしい。子育てのつ・ぶ・や・きシュタイナー
2007年01月27日
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アイルランド独立闘争を描いた映画なのだけれど、日本でアイルランドがイギリスとは別の国ということを知っている人たちはどれくらいいるだろう。世界史の授業もおろそかになった昨今、アイルランドの独立の歴史を知る人は少ないに違いない。 日本人の目から見ればイギリスの二つの島は「セットでイギリス」のイメージが強い。だから、この二つの島が数千年に及ぶ対立の歴史を繰り返していることを知る人は少ないのではないかと思う。 イギリスの圧制に苦しむアイルランドの1920年を舞台に、独立闘争の物語は始まる。そして、イギリスからの独立を勝ち取ったはずなのに、今度は内乱にによってさらに闘争は続く。その悲しいアイルランドの悲運を描いた映画と、取ることも出来る。 けれど、この映画は果たしてアイルランドの悲哀を描いただけのものだろうか。 武器、兵器、暴力、武力によって自分たちの意思を通そうとすることは果たしていいことなのか。 武力によってアイルランドを搾取するイギリスも、武力によってイギリスに対抗するアイルランドも、武力によって同胞同士がお互いの思想を通そうとする共和軍も、結局底辺にある考え方は同じなのだろう。 力によって他人の意思を押さえつけ、こちら側の意志を通そうとすること自体が無理があるのだと気づかないのだろうか。 抵抗軍はイギリスの兵たちを情け容赦なく、銃殺していく。そんなにどんどん殺しちゃっていいんですか。西洋人て過激だなあ。 確かにイギリス兵たちがアイルランド人たちにしたことはひどい。しかしだからといって、アイルランド側も同じように武力で戦うことが本当にいいことなのか。武力によって手に入れた自由と誇りはさらに武力によって覆され、あるいは武力によってしか維持し続けることはできない。 そう考える時、同じようにイギリスからの独立を勝ち取るために戦ったインドの偉人ガンジーを思い出した。彼は武力による闘争を否定し、ただ、開放を望む意志だけを示し、何年にも及ぶ投獄すら耐え抜いて、ついにインドを独立に導いた。武力によって自由を得ても、今度はその武力によって自分たち自身が苦しめられることをガンジーは知っていたのだろうか。 インドがイギリスに支配されたのは三百年程度だけれど、アイルランドとイギリスの対立自体は数千年に及ぶのだろう。『トリスタンとイゾルデ』の逸話にも、アイルランドとイギリスの対立が描かれる。二国間の対立がその当時から今に至るまで続いていることがわかるように、地理的に近く、民族的にも近く、にもかかわらず決して交わることのない二つの民族の統合と戦いの歴史はそんなに簡単にはいかないのだろう。似て非なるもの。この二つの島は。 映画を見始めてしばらく、主人公が誰なのかわからなかった。どうも、医師のデミアンがそうらしい。デミアン?デミアンといえば、あの『オーメン』にでてくる悪魔の申し子の男の子の名前じゃないか。けれどこれはたまたまではなくて、意図的につけられた名前だと思う。医師でありながら悪魔の名を持つ主人公デミアン。 そして、物語の冒頭で、ミホールという名の青年がイギリス軍に殺されてしまう。ミホールというのは、たぶんケルト語の読みで、英語ではマイケル、つまり大天使ミカエルの名前なのだ。光の象徴、善の象徴であるミカエルは冒頭でイギリス兵に殺されてしまうのだ。アイルランドの光はイギリス軍によってけされてしまった。そして、主人公デミアンは、イギリスとの闘争にその身を投じ、独立後の対立抗争のすえ、銃殺されてしまう。なんとも象徴的ではありませんか。 さて、その後のヨーロッパはEU統合される。争っていた二つの国も同じEUのもとに政治経済が統合され、国としての闘争は意味のないものとなり、1998年には、連立政府を作り、イギリスはそれぞれに自治権を委譲することを決めた。長い闘争の歴史に光が見えたように思えた。 けれど、数千年の闘争の歴史は人々の心に深く残り、そう簡単にアイルランドの人々は過激派アイルランド系住民の武装組織「IRA」(アイルランド共和国軍)は、武力による闘争をすっぱりと捨てることは出来なかったらしい。 武力によって自分たちの意思を通そうとすることの無意味は世界中の戦いのすべてに対して言えることであるけれど、監督は、なおいまだに、武力による行動にこだわり続けるアイルランド人たちに新しい目覚めを訴えたいのだろう。 敵は外にいるのではない。敵は自分の中にある。自分の心の中のこだわりこそが自分たちに銃を向けているものの正体であり、デミアンという悪魔はイギリス軍の中ではなく、独立を目指して戦うアイルランド人の中にいたのだ。映画ではデミアンは殺されたけれど、いまなお、アイルランドの中にはデミアンはい続けているのではないか。アイルランドの中のデミアンを殺さない限り本当の平安はこない。 そして、我が家が焼かれてもなお、その家にい続けることにこだわる老婆は、大天使ミカエルが殺された場所をなお、その光の地を見捨ててはならないと、こころの中にも光は残っていて、守り続け、そして忘れてはならないものなのだと、言っているように見える。 ところでずっとイギリス軍と書いてきましたが、正しくはブラックアンドタンズつまり、治安警察補助部隊のことです。物語の中で主人公たちが捕まってアジトをはかせるために拷問をうけるシーンがありましたね。いやあ、それにしても、あの生爪はがすシーン。痛そうでしたね。胸がずきずきしましたよ。これを見てて思い出したのが、日本の赤狩り。やっぱり日本でも、指と指の間に鉛筆はさんで握らせるなんてことやってたそうですけどね。よくわかんないけど、痛いらしいです。人間ていっくらでも、残酷なこと出来るものですね。 てことでつまりブラックアンドタンズがやってたことって要するに赤狩りなんでしょうね。だってデミアンたちは資本主義に対して否定的ですし、デミアンたちを通報したのは、農場主だったでしょう。つまり資本家ですね。そのあと、デミアンたちはこの農場主を銃殺しますね。その時の農場主の言葉が『お前たちにこの国はわたさない。」とかいうセリフだった。つまり、この戦いは独立戦争であるとともに、資本主義と社会主義の対立戦争でもあったのです。イギリスは第二次大戦に前後して世界を覆い始めた、社会主義の波がアイルランドを浸食しつつあり、自分たちの国の隣が社会主義国家となることに恐怖していたのでしょう。アイルランドが社会主義国家となった場合、自分たちの国自体も危ないわけですから、イギリスにすれば必死の攻防戦なわけです。実際朝鮮やドイツやベトナムなんかが分裂して片方が社会主義国家になってしまったり、内紛の結果社会主義の国になってしまったりしているわけですから。 しかし、その後、ベルリンの壁はこわされ、ソ連は崩壊し、社会主義の恐怖はうすれてきましたので、その後のイギリスのアイルランドへの対応もずっと緩やかなものになっていったのでしょう。 この物語は、支配される苦痛と悲劇にとどまらず、さらにその後ろに宗教的な問題や、社会的な問題、経済的な問題などいくつも絡み合っており、それゆえにそんなに単純には解決しないことをも語っているようだ。 この記事のためにアイルランドの歴史もいろいろ読んでみたけど、なにしろ、複雑で難しくて、えーよくわかりませんでした。もっともっとアイルランドの歴史を読み込んでいくといっそう面白くなる映画だと思います。 補足★インドですが、ガンジーほどの偉人がその生涯をかけて独立させたにもかかわらず、結局その後の内紛によって国は分裂し、やっぱり武力闘争があるようで。人間てほーんと懲りないって言うか。いくら教えても、失敗しても、学ばないんでしょうねえ。ただ、内乱というのは、一つの国が国としてまとまるために避けては通れないイベントともいえるわけですから、本当はもっと早くにやってたことをイギリスによる植民地状態のために保留になっていたともいえますので。インドもアイルランドもある意味仕方ないのかなーと。早く国としてまとまって平和な国が出来上がるといいですね。参考サイト『麦の穂をゆらす風』公式サイト「終わり方がわからない北アイルランド紛争」 イギリス映画麦の穂をゆらす風@映画生活
2007年01月26日
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グロそうだったけど、見ました。ネタバレなし。 見たのはいいんだけど、見終わってよくわかんなかった。で、ネット上に精神科医の人が書いたすごい解説があって、これを読んだら、もう私が書くことは全然ありませんでした。無料レポートなので、誰でも読めます。文庫本一冊ぶんの量って宣伝してあるけど、全然そんなことない。ちょっとがんばれば読みきれます。さすがにお医者さんなので、医学的知識に裏付けられた説明はとても参考になりました。一応グロイ映画なんだけど、なるほどーと思いました。 ある日突然どこかの古いビルの地下室に二人の男が足を鎖でつながれていた。二人の足元にはのこぎり(ソウ)がおかれていた。彼らが助かるには、六時までに自分の足を切るか相手を撃ち殺すか。それ以外に彼らが助かる方法はないのだろうか。 なんとなく、アクションホラーゲームのような雰囲気。これは、頭を使った脱出ゲームなのか?彼らはどうやってこの状況からぬけだすのか?わくわく!! と予想してたら、全然違ってました。がっかり。 要するに極限状態に置かれた人間の心理の変化を見る映画らしいのです。話が複雑でこみいっていてしかも説明が少ないので、一つ一つのシーンからいろいろと裏読みして楽しめる映画みたい。 でも、お医者さんほどの知識がないと無理だね。 映画自体より、この解説が面白かったです。でも、解説を楽しむためには、まず映画を見ないとだめなんだけどね。だから次は『SAW2』が見たかったりして。 げっ!アフィリエイトとはいえ、こんなにSAWばっかり貼ると これだけでかなりグロイジャン。きもちわるいよ。
2007年01月25日
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買いました。デジタルカメラ。さんざん悩んでこれにしました。 パナソニックのルミックスのピンク。他のは安すぎか高すぎで、このあたりが無難だった。うーん。こればっかりはまじめに取説読まないとだめだろーなー。私よりダンナの方がうれしそうで、プログラムもパソコンに入れちゃって、ためし撮りしたやつもすでにパソコンの中。ゲーム終わんないと、とりかかる気になれません。でも高いよね。私は三万弱で買ったんだけど。私より娘の方が面白がってばしばし取っちゃってるし。コレカラであります。
2007年01月23日
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つぎつぎにゲームのハードが出る中で、Xボックスは不調だね。という話から始まって、アメリカのゲームはなんでだめなんだという話題になった。息子がなぜかと聞くので、それはやっぱり日本には漫画文化があるからね。と言った。 日本のゲームが人気があるのは、システムの面白さだけじゃなくて、やっぱりキャラクターの魅力とストーリー作りの技術だと思うんですね。それはゲームを作り始めてからいきなり作るより、もともとあった漫画文化、アニメ文化のキャラクター作画能力や絶対引き込まれるストーリーテリングが日本のゲームをより魅力的で面白いものにしているんじゃないのかなと。 アメリカの最近のアニメーションは技術的な部分やストーリーはよく出来てそうだけど、キャラクターや独特の絵柄がもつ魅力が感じられなくて、つまらない。だから、どうも見に行く気になれないんですよ。 日本の漫画文化は全国的に徹底した義務教育のおかげで文盲率ゼロですから。小学生なら全員字が読める。この状況が漫画雑誌を売るのに好条件だったのはもちろん。日本全国つつうらうらに漫画を売りさばき、アニメが売れ、その世代が大きくなってさらに漫画文化をきづいてきた。そういう文化の中にさらにゲームが入り込んで、漫画やアニメーションの作画がゲーム画面の中に当たり前のようにはいりこんでいるんだから、かわいくって楽しくって魅力的なキャラクターのいっぱいいる日本のゲームのほうが人気があるのも当たり前。技術的にすごいだけじゃだめなんじゃないのと思うのよ。 といったら、なんとなーく納得してたみたい。そうか。この子達の世代は、日本の中で漫画が侵食していく歴史を見てないものね。 で、今の子は、てか、うちの子はあんまり漫画を読まない。どっぷりと漫画にひたって育った私からすると不思議ですけど。今の子たちはそのぶんゲームで育ってるみたい。この子達がこの文化で育ってそしたら、それを土台に次はどんな文化を育てていくのか。楽しみ。
2007年01月22日
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見よう見ようと思いながらなかなか手がでず。今頃です。 潔癖症の人間が増えましたが、それも度を越すとさすがにこの人危ないよと思うものですが。人が触ったものは触りたくないとか、他人が触れたドアノブに触るのもいやとか、電車の座席に座るのもいやとか。 でも、そういう極度の潔癖症が、精神とか、自分の行動、価値観、道徳観、倫理観の部分で現れるとどうなるのでしょうね。ちょっとした悪行も許せないほどまで行くとなるとそうとう怖いんじゃないのかなと思う。たとえば大概の人なら、信号が赤でも、無視してちょろっとわたっちゃったり。会社の備品をいただいちゃったりとかね。悪いことって知りつつやっちゃったりしてるよね。 でも、それがものすごく厳格に育てられてちょっとした悪行も許せないほどの感覚、価値観を持ってしまった場合は。 エミリー・ローズはアメリカの片田舎の非常に厳格なカソリックの家庭に育っています。そして、都会の大学にやってきます。そこで知り合った友人の誘いによって彼女は今まで田舎の自宅にいた頃は決してありえなかった悪いことをしてしまう。それが何だったのかはわかりませんが、私たちにすればそのくらい誰でもやっているようなちょっとしたこと。けれど、厳格な家庭に育ち、牧師さんからも、「聖人と呼んでもいい」と言われるほど潔癖であった彼女とっては、とてもシッョクなことだったにちがいありません。その罪悪感は少しづつ彼女の中で、彼女のこころを苦しめ、責めたて始めていきます。 「あんな悪いことをするなんて私はいったいどうなってしまったのだろう。私はもう悪魔と同じだ。私の中には悪魔がいるんだ。そうだ。あれはきっと私の中に入り込んだ悪魔のせいに違いない。」そんな考えがだんだん彼女を侵食し始め、とうとう悪魔にのっとられたという彼女の意識は実際に彼女の精神状態や肉体を犯し始める。 悪魔つきのようになった彼女は、微妙に精神疾患とはちがいます。罪悪感による精神的な恐慌状態にある彼女に医学による薬は効くはずもない。彼女自身の罪悪感を消し去らない限り直るはずはありません。だから、じっくりと考え自分の内面を見つめ直さなければいけないその状態の時に薬によって脳の考える機能を麻痺させてしまったのではだめなのです。 裁判ではまず、医学的な治療の観点から論じられていきます。当たり前なことですが。 精神疾患だったのだから、きちんと治療薬を投与していけばよかったはずなのに、それをしなかったから彼女は死んだのだと。この部分にまさに現代医療の問題点を見るような気がします。医療にかかる上で現代の科学技術医療技術があくまで開発途上のものなのに、今の最新治療を施しているのだから、必ず直るはずだし、自分たちは正しいことをしているのだと彼らは言う。ここにまさに今の医学の傲慢と科学の傲慢さを感じます。 つまり、現代の人間に精神的な疾患が増え、うつ病やそのほかの精神的な病理が増えたのも、実は科学技術の発達により、いままであった精神的なものや宗教があまりにも否定され、追い払われてしまったということによるのではないかということです。 医学にはたしかに精神科という人の心の部分を直そうとする分野もあります。 そして、科学の発達により、悪魔つきや悪魔祓いが精神的な疾患によるものだという科学の光があてられ、解明されたように見えます。けれど、うつ病やいじめや自殺のような精神的病理が医学の力で直せるものであるのなら、それでもなお、現代社会に精神的な追い詰められおかしくなっていく人間が増え続けていくのはなぜなのでしょう。それは、精神医学がまだまだ発展途中であること、そして医学だけでは直せない、あるいは、予防できないものだからなのではないでしょうか。 人は善という光だけでは生きていけない。どんな人間の中にも闇の部分、悪魔の部分はあるのですから。そういう人の心の闇の部分を拾い出し、許しを与え、自分を責めて苦しむ人々の精神を救い、予防するための装置として、宗教は全世界のいたるところに古代から現代まで、決してなくなることなく、あり続けたのではないかと思います。 戦争映画を見ていると、戦士たちは「神様。自分たちをお守りください」と念じながら、戦闘に向かい、「きっと自分たちの神は自分たちを守り、勝利に導いてくれるはずだ」と信じています。これが、戦闘する両方の兵士たちがどちらも神に対してそう祈るわけです。変な話ですよね。神という存在は一つであって、どんな宗教の形をとっていても、その神は共通の一つのものだし、人が善行をするように導いているはずなのに、おたがいを殺しあおうとするそれぞれの兵士たちに味方するなんて。けれど、兵士たちは、相手を殺さなければ自分が殺されてしまうから、なんていう理由だけで、人間を殺した罪悪感をそんなに簡単に消し去れるものでしょうか。本当は悪いことをしていることにきずいているはずです。だからそのままなら、こわれてしまうかもしれない兵士たちの精神を守るための保護装置がまさに、宗教なのではないのかなと思うのです。神様はきっと自分を味方し、まもり、たたえてくれるはずだと。 けれど、現代社会は科学によってそれらの宗教の存在を否定し、軽視し、取り去ろうとさえしてきてしまった。人が宗教なくして、自分の意志と精神力だけで自分の心を守るというのは、かなりきついのではないかと思います。強い人もいますが、弱い人もいます。そして、とても、正直で素直でまじめで感受性の特別に高い人間であれば、それはさらにきついことなのではないでしょうか。 悪魔祓いというのは、そういう人の精神の追い詰められた心の状態を解きほぐすための儀式化された手法であると思えます。昔から、その手のデリケートすぎる人たちを救うためにつくられ、システム化マニュアル化によって、ある程度のレベルの宗教従事者、(たとえば神父とかまたは牧師とか、僧侶とか、)でも出来るように作られたものなのでしょう。 科学はそれらを非科学的で意味のないものだと否定してきました。そして、その一方で、精神医学を開発してきましたが、まだまだ研究の途中なのですから、それらが、宗教のもつ意味に到達するまでにはまだまだ時間がかかりそうです。けれど、そういう人の心と部分と宗教のからみを研究している一人の学者が映画の中にもでてきます。まさにこのシーンこそがこの映画の大事なところですが、彼女の説明を理解しきるのはかなりむずかしいのではないかと思えます。 さて、映画の最後の方でエミリーの手紙が読まれ、エミリーが聖母マリアに出会い、マリアの言葉によって生きることをうけいれることが語られます。 「私の中の悪魔をどうしても追い出すことが出来ない」とエミリーはいいます。マリアは応えます。「悪魔は貴方の中から出て行くことはありません。貴方はその良き心だけを持って今私と一緒に来れば楽になれますが、それでも、それらの六体の悪魔とともに生きていく道もあるのですよ」と。 人の中には、善の部分と悪の部分があってそのどちらも切り捨てることは出来ないし、それらが自分の中にあることを認め、受け入れ、その苦しさに耐えながらもなお生きていかなければならないのだと、エミリーはこのとき初めて気づいたのでしょうか。そして、自らの手に聖痕を作ります。それは奇跡でもなんでもなく、エミリーが自分で自分の手を有刺鉄線にさして、作ったもの。彼女がそれを意識してやったのか、無意識にやったのか。けれど、人はすべてキリストの末裔であり、キリストが人の罪を背負ったように、自分もまた、人の罪を背負って生きていかなければならないという覚悟だったのかもしれないと思うのですが、どうでしょう。 けれど、皮肉にも、過渡の拒食によってすでに彼女はその命を保つことが出来なくなってしまっていたのでした。悪人である自分は生きていくためにものを食べる価値もないのではないかと、そうい意識が彼女を追い詰めていったその結果なのでしょう。 きちんと正しく生きることは大切だけれど、それが過渡になりすぎたり、潔癖になりすぎたり、厳しくなりすぎたりするのは良くないんでしょうねえ。ま、何事もほどほどにってことで。 ところで、山岸涼子の『天人唐草』を思い出しちゃった。厳格な父親に育てられた主人公が最後にとうとう精神的におかしくなってしまう話。これを読んだ当時私はまだ若かったので、このお話はものすごく怖かったんですよ。今でも怖くて絶対二度は読めないなあ。 映画ビデオ、映画DVD実話をもとにした映画 エミリー・ローズ@映画生活
2007年01月21日
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この話題のニュースを見てて思うのは、日本人ほど、人がよくて利己主義な民族はいないなということだ。残業代がでないなら、残業なんかしないでさっさと家に帰ればいいのに。安倍首相は、「みんな早くに家に帰って、そして子供と一緒の時間をすごす。子育てにもいいはすだ。」といった。この発言に対して、安倍はなんにもわかってないという非難がでてるけれど安倍さんの言ってることは正しいと思う。ものすごく正しい。それなのに、その正しい言葉が否定されちゃうのは、現実がそうならないからだ。 たしかに残業代のない状態で勤務時間外もえんえんと働かされれば問題だ。けれど日本の場合残業代を狙ってわざと昼間の時間はのんびり仕事して、五時をすぎてから延々と残業といいつつ仕事をしている社員は多い。残業代が出なくなって、ちゃんと就業時間内に仕事を終わらせて、さっさと家に帰ればいいのにと思うような場合も多い。あるいは、たいした仕事もないのに、なぜか職場の雰囲気ですぐにかえりずらくて、あるいは家より職場の方が居心地がよくていつまでも社内にとどまり、残業代をもらっている社員もいがいと多い。 そして、もし本当に就業時間内に自分に割り当てられた仕事が終わらないのなら、会社側にもっとその仕事をする人間をわりあてるよう、採用するよう要求すべきものなのだけれど、なかなかそんなことをする人はいないし、しずらい。割り当てられた仕事がこなせないと、クビになるのではないかとか、自分の評価が下がるのではないかという心配のためにどれほど時間がかかろうと無理して一人でこなしてしまう社員がほとんどなのである。そのあげく、過労死だったり。 会社のフロアというものは残業で残っている社員が一人でもいれば、その広いフロアのすべての照明をつけ、冷暖房をいれつづけるわけだから、企業にすれば、その社員の残業代だけでなく、それらの電気代の負担も増えるのだ。これは、環境保護の観点から見ても、資源の無駄遣いといえる。マイナス要因の方がはるかに多そうで、そして今の日本の現状に合わないということで法案は流れたけれど、実施されて、くだらない残業習慣がなくなればいいのにと思う。こなしきれない仕事にたいしても企業側に人材の補強を要請するような社会の共通意識が出来上がればいいのにと思う。 それはつまり、少ない人数の人間で、仕事を占領しないで、なるべく仕事にかかわる人を増やすワークシェアリングってことなんだけれど、本当に日本ではこのワークシェアリングが普及しない。会社にすれば社員の数が少ない方が得なのだ。社員が多ければ、そのぶん会社が負担しなければならない年金の会社側負担分の支払いも少なくてすむし、社員に割り当てる机やいすや事務スペースなども少なくてすむからだ。そして、社員にしてもなるべく残業で収入を増やしたいという計算がある。つまり、残業は、双方にとって都合がいいのだ。けれど、そのせいで、本体の給与自体がなかなかあがらないのだとは、考えないのだろうか。そして、もっとワークシェアリングを進めて、正社員を増やした方が、より多くの年金保険料が支払われて、将来的には自分たちの暮らしへの安心度だって上がるし、自分たちの子供たちの就職先だって増えるのだ。実は残業というのは、わが子の職場を奪っているともいえるのだ。常態化した残業習慣を少しでも減らすのはいいことだと私は思う。そして、政府はそのためにいろいろな施策をとろうとするのだけれど、なかなか企業も国民もそうならないのだ。 残業を減らし、正社員を増やし、自由時間を増やして、優秀な人材、いい仕事への正当な報酬を上げていく。企業の都合を優先されないためには、労働者側は必要以上の残業を拒否するしかない。そのために社会全体が意識を価値観をそろえていくしかない。すべての社員が無謀な残業を拒否しうるのなら企業の横暴をとめられるはずなのに。残業を拒否した社員を解雇しても、次に雇用した社員も拒否し、全体がそういう姿勢をとるのなら、いちいちやめさせる方が無駄な経費がかかるのだから、会社の対応も変わってくるはずなのだが。そのためにはすべての労働者が自分個人の損得にとらわれない社会の共通意識をきっちりと進めて作り上げていくしかないのだか。 でもってこれがなかな難しいんだよね。 お父さんたち、いつまでも会社にいて無駄な時間すごしてないで、さっさと家に帰って子供のことも責任もってください。 ちなみにうちの場合は残業しても、ちゃんとそれに見合う残業代でませんから。実施されても、影響ないんだよね。はっきりサービス残業ですね。うちの場合はさっさとかえってきますけどね。 そしてこのシステムのいいところとしてはさらに、優秀な人の収入がふえるようになるかもしれないということだ。今までのような、残業システムだと、仕事が遅かったり、だらだらやってたり、能率わるかったり、無能な人ほど、残業代を稼いで収入が多いということだ。有能だから、短時間で仕事をこなしてもさっとかえると、収入が少ないのだ。このシステムによって能力に見合った収入になるといいんですけどね。いまのままだと、有能な人たちはくさっちゃうんだな。日本の企業システムだと。 政府がどんなにいろいろ努力しても、日本人の残業体質は変わらないんですよね。正しいことが正しいとして評価されないというのは、明らかに日本という国の病理なんじゃないかと思う。社会問題
2007年01月20日
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昔、本屋で漫画版の『犬神家の一族』を読んだはずなのに、全くストーリーを覚えていない。だから新鮮に見られましたけどお。ネタバレ…してるなー。 面白かった。でも、横溝作品独特のおどろおどろしい感じはなかったような…。 なにか明るくさわやかに楽しくただの謎解きとして見終わってしまった。たんに私が鈍感になっただけかしら。最近怖いものとか、平気になってきたし。年をとって神経がタフになってきたんだわ。いいことなのか、悪いことなのか。うーん。 一代できづいた製薬会社を経営する犬神家当主犬神佐兵衛は初めての恋人が自分の財産を目当てに近づいてきたことを知る。金目当ての強欲な女を自分の子供を生んだからといって正妻にする気にもなれず、次にであった女もまたやはり財産めあてであった。そして三人目の女もまた。自分の財産目当てに擦り寄ってくる女ばかり。人間の卑しさに絶望する彼が出会った始めての心美しき女性晴世は、しかし、敬愛する恩師の妻だった。それでも佐兵衛は自分の思いを抑えきれず、ひかれあった二人は一人の娘を授かる。けれど、不義密通の相手の子供を公にすることは出来ない。そんな彼がさらにであった自分の工場の女工だあった、うら若い娘菊乃。そして、彼女は初めて男子を産んでくれた。すでに生まれていた三人はいずれも女子。そして、人妻の晴世との子もまた女。初めての男の子を授かり、佐兵衛はこの子こそ跡取り息子だと喜んで、犬神家の家宝を与える。しかし、そのことに怒った三人の娘たちは突然菊乃の家を訪れ、菊乃たち親子に制裁を加える。そのことを知って怒った佐兵衛は彼女たちの母親と同じように犬神家の財産にしか興味を示さないその強欲さいやらしさに絶望し、彼女たち三人の娘に財産を譲らないことを決める。しかし、このことがあって菊乃は行方をくらませてしまう。最後に出会った菊乃すら、失い、佐兵衛は人間の欲望の醜さにさらに絶望するのだった。三人の娘もその母たちにもとても、自分の財産を譲る気にはなれず、菊乃親子は行方も知れず、晴世との間に出来た娘は公に出来ず、その娘である孫の珠世が自分の血を継いでいることも公にできないのだから、いったいどうすればいいのか。そして、彼は愛する心優しき唯一の孫娘珠世と佐清が愛し合っていることを知る。悩んだ末に佐兵衛は珠世が三人の孫の誰かと結婚をすることで全財産を珠世に譲るという遺言を残すこととなる。しかし、死後もなお、自分の財産が心正しきものに譲り渡されるかを心配した彼は、長女松子に乗り移って、自分の欲望のために嫌がる珠世に無理やり迫る二人の孫を殺害し、佐清のフリをして犬神家に入り込んでいた菊乃の息子静馬をも殺害する。財産の為にはどんなことでもするような強欲な二人の孫と一人息子を殺し、愛し合う二人珠世と佐清に財産を譲ることに佐兵衛は成功したわけだけれど。 けれど、母を思って自分が犯人になろうとした心清き佐清と美しき珠世の二人がやがて子供を生めば、その子の中にだって、松子の母の卑しい血は入っている。人間はどんな人間だって光の部分と闇の部分を内包しているものなのに。 人間の醜さに絶望した佐兵衛だって、人を助ける薬というものを売ることで財を成したけれど、本当は裏の部分で、麻薬をつくり、何度かの戦争においてその麻薬を売って儲けたのだから。彼自身も彼の財産もまた、光と闇の部分をもっていたのに。 彼自身もまた善の部分と悪の部分を持ち合わせていたはずなのに。 心の美しいものにだけ伝えたはずの彼の財産は本当に美しい人間にだけ伝わっていくことはありえないんだけどな。 えーと。松坂慶子さん、太りましたね。女優さんて、仕事だから、根性でやせられると思ってたけど、プロの女優さんでも、体質には勝てないんだろうな。だから、私がやせないのも体質なのよー。しかたないのよーと映画を見ながら考えた。 でもって松子役の富司純子さん。もうかなりのお年のはずなのに、キレイだった。顔の少しのしわとかしみとか肌のあれなんかは多少カメラの技術でごまかせるけど、顔の造作だけは無理だもんね。こーんなきれいな人なんだなーと、惚れ惚れしました。立ち居振る舞いがすごくきれいでした。こんな長野のド田舎のおばさんがこんなにエレガントなはずはなかんべと思いはしたんですけどねー。 フカキョンもあんないなかの旅館の女中にしてはきれいすぎ。石坂さんもあの高齢であんなに走るのはつらかったのでは。なーんて突っ込みどころはいくらでもありまっせ。 母をかばう息子、息子を心配する母。美しき親子愛です。三人も殺した人間の中にも、こんな部分があるんだからね。旧作もみました。日本映画、邦画犬神家の一族@映画生活
2007年01月19日
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連日テレビでシュークリームの画像が流れるので、なんだかだんだん食べたくなってきて、とうとうコージーコーナーのシュークリームを買ってきてしまった。おいしかった。 不二家ももう終わりだな。っと私は思います。ヒトゴトなので。いまだにメグミルクは買いませんもの。メグミルクはもう違うかもしれない。けれど、それでもやっぱりいやですね。事実の発覚したメーカーのものを買いたくない。デモデモ、不二家じゃないと売ってないスイーツがけっこうあるんだよねーーー。 バブル崩壊以降、経費削減のためにどれほどの社員が会社をやめさせられたか知れない。あるいは、どこの企業でも、人減らしのために退職勧告をし、そのためにどれほどの数の有能なベテラン社員を企業は失ったのだろう。 それ以降いろいろな業種でのトラブルやミス、事故のニュースを聞いてきたように思う。 企業の人材の質的低下は大きい。 そして、くだんの不二家でも、自らの管理責任を全く感じさせない、言い訳や、管理体質の結果がこれなんだろう。 会社の都合の前には、衛生管理のずさんな食品を販売することもできるその無神経な管理者たちは、じゃあ自分たちの衛生管理自体はどうなんだろう。 かならず、毎日風呂に入り、いちど着たワイシャツは必ず、洗濯し、ぢめんに落とした食品は、絶対口にしないのじゃないのだろうか。毛の入ったお茶も蠅の入ったチャーハンも絶対食べないだろうに。 かつての日本の不衛生な日常生活のために伝染病が流行り、そのために徹底的に行った衛生管理や衛生教育は、北里柴三郎の努力によって成功し、日本は世界でも、スペシャル級の清潔な民族になりました。木村治美さんのエッセイによると、ロンドンの町を歩いていてきれいな身なりの人が珍しくいるなーと思うとたいがい日本人なんだそうだ。イギリス人はそんなにぴかぴかの服は着ないんだって。 もっとも、最近は地面におしりをぺったりつけて制服のまま平気ですわってる女子中学生とか、よごれたままの下着を何日もはきつづける女の子の話も聞いたことあるし。こんな汚ギャルもでてきてるんだから、そろそろそんな呪縛がきかなくなってきている世代もいるんでしょうか。 日本人てきれい好きだよね。自分の事に関しては。で、他人に対してのキレイはどうでもよくなってきてるんですねえ。 次はどこのメーカーの不祥事が出るんでしょう。サーティワンか、ヤマザキか、コージーコーナーか。厚生省は衛生管理の企業チェックはしないのでしようか。 一般ニュース
2007年01月18日
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やっぱし山本周五郎はいいなあ。ほれぼれ。久しぶりに読んだんですけどね。もう、どれも良作ばっかり。藤沢周平みたいに無理やり手篭めになんてご都合主義な展開もないし。人情があって、情があって、愛があって、道徳観も倫理観もうそくさくなくて、ナーイス!あとのない仮名改版 でも特にこの中のよかったのが、『桑の木物語』でした。いままで読んだ山本周五郎のなかでいっちゃんよかった。 この話には人間のすべて、人生のすべて、がつまってると思います。でもって、子育ての基本とか、何が大事かとか、子育てのポイントとかも書いてあるし。人間てこうやってそだてるものなのかーというのがとーってもよくわかるんじゃないかと思います。とにかく含みがとても多い。 主人公裕二郎は武家の次男坊。生まれてすぐに船宿に養子に出されちゃう。そのおかげでものすごく元気でやんちゃでがき大将な子供ができあがります。裕二郎のおじいさんは藩でも要職につく人。藩主のあととりの育て役。この祖父の考えによって裕二郎はこんな風に育てられたんですね。 実のところ主人公の裕二郎は、この病弱な若殿を健康な人間に育てるために祖父が計画して、育てたように思えます。わざと船宿に預け、あまりしからずに野放図に育てさせたのも、学問よりは、体と健康を重視して、腕白坊主に仕上げて、やがて若殿を健康に育てるための計画だったと思えます。本来武家に生まれ、そのまま普通に育てれば普通に育ったかもしれない裕二郎を、あえて、あのように育てたということは、若殿を育てるための捨て駒であったのではないでしょうか。もしかしたら、船宿に預けても、予定通りに裕二郎は育たなかったかもしれない。そのまま、庶民としても、武士としても、半端なままの人間になってしまったかもしれない。それでも、将来の藩主のためにそんな育てられ方もされてしまう。やっぱり武家社会なんだなあ。 しかし、裕二郎と一緒に屋敷を抜け出して、浅草の町で幾度も遊び、庶民の暮らしを見てすごした若君は、裕二郎とは、違うものを見ていたのです。長じて、藩主となった彼は、裕二郎とともにみた庶民の暮らしぶりを参考にそののち、名君とまで呼ばれるようになります。 同じように遊んで同じものを見ても、やはり人によって見るもの、得るもの、興味の行くところは違う。ただのがき大将にしか過ぎない裕二郎と、藩主となることを覚悟している若殿では、視点が違うんですね。 若君にはもうひとり、勉強のできる学友がいたんですね。若殿は遊びもしたけど、やっぱり勉強もしたようですね。 若殿のおそばに最後まで残って小姓となったのが裕二郎と、秀才のと、のんびりやの。人間に必要な要素ってつまりこの三点なのでしょうか。 さて、長じて藩主となった正篤は、意外なことに裕二郎を退職させてしまいます。もっとも正篤と心を通わせていた、一番の部下であるはずの裕二郎にとっては晴天の霹靂。とうとう、彼は自分の故郷の船宿に戻ってしまい、おさななじみのおみつと結婚し、船宿をついでそこで一生を終えるのでした。正篤との接点がなくなった武家社会は裕二郎にとってはもう意味のない世界になってしまったようです。 ラストで、裕二郎は藩主正篤によびだされ、かつてともにすごした下屋敷で再会することが出来ます。そしてそこでなぜ自分が正篤から離されたのか知ることができます。 正篤は、自分がこれから藩政の改革をする上で必ずそばにいる裕二郎が他の藩士たちの恨みを買うことを予想したのです。裕二郎にそんなつらい立場に立たせたくなくて、涙を呑んで裕二郎を仕事払いしたのでした。正篤は二十代の若さですでに人の憎しみや嫉妬などの感情が本人ではなく、その少しずれた位置にいる人間に向かうことを知っていたのです。すごい。山本周五郎もそういう人間の心の機微を知っていたのですね。こういうことをはっきり小説の中で描写されるのを読んだのは初めてでした。すごいです。 この物語には、ずいぶんたくさんのことが詰め込まれているように思えます。 人は武士として窮屈で堅苦しい世界で生きるのと、庶民の中で、のびのびと生きるのとどちらがいいのでしょう。勉強も大事だけれど、人の心や庶民や普通の人たちの現実の暮らしを知ることの大切さも、リーダーとして人身を読むことの大切さも、人の一生が長さよりも、その濃度にあることも、人の幸せが出世することばかりではないことも、そのほかにもいろいろなことが書き込まれている濃いーお話でした。読書好き集まれ~
2007年01月17日
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しゃばけシリーズ第三弾です。読み終わりました。 この小説を読んでいて困るのは、とにかく、大福とか、饅頭とか和菓子が食べたくなってくることです。とにかく若だんなが自分の部屋に住むあやかしたちにやたらめったら和菓子を食べさせてあげる。友達の和菓子屋の店に和菓子を買いに行く。山盛りの大福。これを読んでいるとだんだんだんだん食べたくなってきて、スーパーに買い物に行った時につい買ってしまうんですね。買った後は家に置いとくと、私以外の家族が食べるからいいんだけど、でももちろん私も食べるからさあ。 小豆を煮るのってそんなに難しくないのに、どうしてあんなに作品中で和菓子屋の跡継ぎ息子は失敗してるんでしょうね。 大店の跡取り息子の若だんなはいつも過保護でお金の心配なんかしたことないのに、今回は、お金に困る話が出てきます。前回は、仁吉の過去のお話があったので、今回は佐助の生まれたところからの話。佐助のお父さんが弘法大師だなんて、しらんかった。あやかしって偉い人から生まれることもあるんだ。じゃ、佐助は悪とか、ダークサイドじゃないんですね。 でも佐助が経済的に苦しくなったお店のためにいろいろ苦労するお話。どきっとしましたが、実はタネありでした。これは、画像のない小説だから出来ることだけど。 次の作品はは、まだ文庫になってないから、読めないですねえ。 書評、レビュー
2007年01月16日
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今年の第一作は、これにしました。やっぱりファタジーファンとしては、見ませんとね。でも、原作は読んでません。てか、この作品は軽視してました。 ストーリー自体はファンタジーの王道を素直にいってますね。でも、わるくないんだけど、なーんかいまいちだったような。で、なんでかなーと考えてみたら、キャラクターの魅力がいまいちだったんですね。ルーク・スカイウォーカーとか、レイア姫みたいなバーンとくる魅力的なキャラがいなかったような。大作のわりに登場人物も少なかったかな?ストーリーも王道そのままで練がない。もちろんファンタジーファンが望むとおりのストーリーではあるのですけれど。 主人公のエラゴンはごく普通の農夫の息子です。この設定はルークと同じなんですけどね。なーんでちがうのかなあ。どうも、主人公がごくごく普通の青年で特にこう惹かれるようなものがない。 それとやっぱりラブストーリーがないからでしょうか。プリンセスは出てくるんですよ。しかも、エラゴンはすっごく弱くて、剣も魔法もぼろぼろの癖にいきなり、敵の第一の部下である魔法使いの城にプリンセスを助けるために乗り込んでました。えー。いくらなんでも、むちゃくちゃジャン。まだ、魔法だって覚えたばっかりなのに。計画性ゼロじゃん。ただ、無鉄砲なだけ。で、プリンセスもレイア姫ほど惹かれません。んー。こまったな。 とらわれの姫君を竜にのった伝説の勇者が助けに行くなんてあまりにも王道すぎ。王道すぎて今まで誰も書かなかったからこそ、今頃映画になってるんだ。そういう意味じゃほんとにまってましたあってはずなんですけど。私もドラゴンほしいよお。 ドラゴンと魔法と剣。そして、お姫様。ファンタジーで絶対必須ノアイテムはそろってます。 魔法を使う上で言葉が重要なのは、『ゲド戦記』と同じ。 そして、竜騎士という設定も面白い。 竜騎士ものといえば、やっぱりなんといっても、『パーンの竜騎士』(アン・マキャフリィ著)なんですが。卵がかえる時竜騎士とドラゴンが感応するところとか、心が通じ合うところとか、竜にとってライダーが一人だけとか、竜が間隙に移動する能力があるところとか、このあたりの設定は『パーンの竜騎士』と同じです。作者はこれだけのファンタジーを書いているのだから、当然ファンタジーファンでしょう。だから、この本も読んでいるはず。で、『パーン』を読んでると、ドラゴンがいきなり、異空間に飛んで、でもっていきなり成長して戻ってきても、あんま違和感なく納得で来ちゃう。だって間隙に行ってたわけだし。『エラゴン』もいいけど、『パーン』も読もうぜえ。 ファンタジーの基本設定や登場するキャラクターは大体設定が同じでも、いいんだけどね。ファンタジーの基本だから。でも、『パーンの竜騎士』の方が面白かったかな。そういえば、『パーン』を読んだきっかけは『花冠の竜の国』(中山星香著)のネタもとだって聞いたからでした。花冠もドラゴンに乗った王子様とヒロインのラブラブのお話です。やっぱドラゴンはいいなあ。わたし、ドラゴンがだーいすきなのです。だから、ドラゴンライダーの話なんてまさに待ってましたってはずなんだけどなあ。最近はCGのおかげですんごくリアルなドラゴンが出てくるから、そういう意味では楽しいんですけどね。 それと、ドラゴンて、本来トカゲなんだけど、この作品では、哺乳類っぽかった。赤ちゃんのドラゴンはかわいかった。でもって、メスだから、この先、エラゴンに彼女が出来たら、やきもちやいたりしないのかなあ。 原作読んでなかったので、見てる間は面白かったんですけどね。見終わった後の感動がなかった。ま、続き物らしいので、第二作に期待しましょう。 花冠の竜の国(4) 花冠の竜の国(7)エラゴン 遺志を継ぐ者@映画生活☆ファンタジー映画☆
2007年01月14日
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娘が私のおなかの中で、妊娠九ヶ月の頃。冬だったので、風邪をひきまして、吐くは、下痢するはで、上からも下からもげろげろ。ああ、汚い話題でごめーん。とにかくすごーくひどい風邪をひきました。 そして、おなかがぎゅーっとしまって、痛くて痛くて、下痢もものすごかったんだけど、その最悪の状態の中で、娘は全然平気だったのです。 普通、妊娠九ヶ月といえば、こんなことになったら、流産とか、破水とか、早産とかになりそうなものなのに、私が風邪でげろげろの状態なのに、娘は私のおなかの中で、自分の周りの嵐など全く関係ないというように、かっこたる大きな丸い塊として、泰然自若として平気だったのでした。 流産の気配も、早産の気配も全然なく、風邪薬の飲めない私は心置きなく、風邪の最悪の状態にへろへろになっていたのでした。 運気の強い子ってほんとに強いんですねえ。 この話をこないだ娘にしてあげた。 こーんな強い運をもってあなたは生まれてきたんだよ。って。 どんな逆境になってもびくともしないような強い運をもっているんだから、あなたはすごく恵まれていて、だからあなたの人生はばりばり大丈夫なんだよ。って。 こんなエピソードのひとつひとつがいつか娘を守ってくれるといいなと思う。
2007年01月13日
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年末の読売新聞を読んでいたら、いまどきの東大は、学生の思考力を育てるために、囲碁ゼミとかあるんだそうだ。 税金かけた天下の東大に、やっと入ったその後でわざわざゼミまで開いて囲碁をわざわざ勉強してるのかあ。 囲碁なんてさ、ちょっとルール覚えて、ネットとか、クラブとかで、対戦すればすぐできるものだよ。ちょっと本を買って読んだり、定石を覚えたりして、わざわざ東大のゼミなんかでやらなくたってできるものだよ。 それをわざわざ大学のゼミでやんなきゃなんないほど、東大生の頭は固いんでしょうか。そんなことやるよりも、そもそもそんなに頭が固くなっちゃうような東大の入試試験を改善すればいいのに。 それをわざわざ頭の固くなるような問題で受験生の頭をカタークしておいて、はいってから思考力を育てなくちゃいけないなんて、本末転倒な気がします。 囲碁なんて十歳くらいまでに始めないと、もう大学生くらいになってると、頭固くなってるから、無理でしょう。 ばかげちょる。 頭のやわらかくなる入試問題、思考力、考える力を育てる入試問題って作るの難しいですか。だとしたら、問題作る先生たちの頭も固いんだ。 大学
2007年01月12日
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日本インターネット映画大賞です。昨日の外国映画部門に続いて日本映画部門の投票でーす。日本映画は洋画に比べてどうも、少ないです。洋画に比べると良作が少ないというか、どうもいまひとつ勢いがないんですね。だから、一つあたりに割り振れる点が多かったんですけど。とにかくいきましょう♪[作品賞投票ルール] ・選出作品は5本以上10本まで ・持ち点合計は30点 ・1作品に投票できる最大は10点まで-----------------------------------------------------------------『 日本映画用投票フォーマット 』【作品賞】(5本以上10本まで) 「紙屋悦子の青春 」 8 点 「時をかける少女 」 8 点 「ブレイブストーリー 」 4 点 「武士の一分 」 4 点 「博士の愛した数式 」 4 点 「花よりもなほ 」 2 点 【コメント】日本映画は全体にこれだーというほど感動したものはなかったように思います。『博士の愛した数式』がたぶん今年の大賞になりそうな気がします。『紙屋悦子の青春』は地味に話題でしたね。戦場を一切描かずに反戦を描いたシナリオが見事でした。でも、地味だから賞には入らないですね。きっと。日本映画はなんといっても、アニメでしょう。アニメや漫画が原作のものが一番日本映画の中でも、大きな部分を占めているという現実がもっと公認されてもいいんじゃないかと思います。アニメが受賞するといいのになあ。-----------------------------------------------------------------【監督賞】 作品名 [ 細田 守 ] (「時をかける少女 」)【コメント】原作をこれだけ変えたのに違和感なく、面白く今っぽくわかりやすく出来上がっていたところがすごい。【主演男優賞】 [ 岡田 准一 ] (「 花よりもなほ 」)【コメント】力んでない演技がよかった。【主演女優賞】 [ 原田 知世 ] (「 紙屋悦子の青春 」)【コメント】彼女でなければ、出来なかった役だと思います。【助演男優賞】 [ 笹野 高史 ] (「武士の一分 」)【コメント】そのまじめで誠実な働き振りが作品のテーマをより浮き上がらせる上で大きく影響していたように思います。好感度はかなり高かったのではないでしょうか。【助演女優賞】 [ 寺島しのぶ ] (「 男たちの大和 」)【コメント】最近めだちますね。がんばってますね。いろんな作品で見かけました。チョー美人でない割りになにか独特のものを持っていますね。コレカラに期待。【新人賞】 [ 不明 ] (「 」)【コメント】俳優さんとかはよくわからないのでここまでですね。今年もいい邦画がみられることを期待しています。----------------------------------------------------------------- この内容(以下の投票を含む)をWEBに転載することに同意する。映画批評
2007年01月11日
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日本インターネット映画大賞さんからのお誘いがありましたので、素直にありがたくおもしろく、私も投票させていただくことにしました。でもそんなに映画には詳しくないし、監督とか、俳優さんとかは全然わかりません。だから、よかったなと思う映画を選ぶのが精一杯であります。 [作品賞投票ルール] ・選出作品は5本以上10本まで ・持ち点合計は30点 ・1作品に投票できる最大は10点まで-----------------------------------------------------------------『 外国映画用投票フォーマット 』【作品賞】(5本以上10本まで) 「イルマーレ 」 3 点 「トリスタンとイゾルデ 」 3 点 「シン・レッド・ライン 」 4 点 「ニュー・ワールド 」 3 点 「バタフライ・エフェクト 」 4 点 「マザー・テレサ 」 3 点 「父親たちの星条旗 」 3 点 「ナイト・オブ・ザ・スカイ 」 3 点 「ロード・オブ・ウォー 」 4 点【コメント】「イルマーレ」アジア映画のリメイクが多い中で、珍しく成功していた。タイム系のネタによって現在の行動が未来にどう影響していくかを考えさせてくれる作品だと思う。今を大切にしようね。「ロード・オブ・ウォー」戦争が誰の都合によって起こるのかその真実を考え直すきっかけとなっている作品。本来悪役であるはずの職業を持つ主人公によって見せる展開になっていたのが秀逸。「ナイト・オブ・ザ・スカイ」珍しく実写映像を堪能できた作品。明らかにフランス空軍の宣伝映画であるが、久しぶりにフランス映画を楽しめました。「バタフライ・エフェクト」流行のタイム系。過去を修正することで未来が改善されていく様子を見せることで現在の若者への訓話となっているにもかかわらず、それ故の説教くささををきづかせないシナリオがうまい。「ニューワールド」今年のアメリカ映画は全体に今までのアメリカのイメージを覆し、今のアメリカのあり方を考え直そうとする作品が多かったように思えます。その中でも、そのさきがけとなった作品。そもそも、アメリカ大陸侵略の発端から考え直すのもいいかもしれません。それは、主人公のイギリス人とヒロインのインディアンの娘が損得なしに愛し合ったように、アメリカの国内のあり方も人としての原点に帰るべきなのかもしれません。「シン・レッド・ライン」かっこいいものでも英雄物語でもない戦争の現実を語った作品。戦争映画を娯楽として作る姿勢にテレンスマリックは疑問を投げかけているように思う。「マザー・テレサ」名前は知っていても、彼女が実際に何をしたのか知らない人は多いはず。彼女の人生と基本の姿勢、考え方などとてもよくわかり、ぜひいろんな人に見てほしい作品です。「父親たちの星条旗」アメリカの階級社会の現実を如実に語っていて、日本人の知らないアメリカの影の部分をとてもよく見せてくれた。硫黄島の戦いを多くの人に知らせた功績は大きいと思う。「トリスタンとイゾルデ」古代イギリスを舞台にした歴史と恋の物語。中世ヨーロッパは好きです。現在のアイルランド闘争の原点を知るうえでもいいのじゃないのかな。かわいそうでした。当時の雰囲気をよく表現してあり、美しく、手の込んだセットがとてもよかった。作品の質的な是非は別として、個人的には、これが一番好みの映画だった。★特に一番て決められないものですね。今年の話題作硫黄島二部作はきっと選ばれることでしょう。でも、いい作品が多くて絞り込むのが大変でした。本当はどれも10点つけたかったんですよ。そのあたりがつらかったんですが、悩むほどいい作品が多いって言うのはすごくいいことですよね。今年はアメリカ映画の中で今までのアメリカのあり方を考え直すような作品が多く出たことに気がつきました。世界的にも批判され始めたおごれるアメリカが本来の良さを取り戻して、よりすばらしい国になっていくうえで、映画のもつ意義は大きいかもしれません。また、「太陽」「硫黄島からの手紙」など、外国が作った日本を舞台にした映画。良作として評価されていましたが、一見真実を描いているように見えるので、今の若い人たちはそのまま日本の真実だと捉えがちですが、実際には違う。あくまで外国から見た日本なのだということにきずかないまま、素直に信じてしまう怖さを感じました。出来れば、日本で、このテーマをさらに製作してほしいなと思います。-----------------------------------------------------------------【監督賞】 作品名 [テレンス・マリック ] (「 シン・レッド・ライン」「 ニュー・ワールド」)【コメント】普通の人とは一線を画した価値観の表現に彼の人生の戸惑いを感じる。今の時代に彼のような価値観が再認識されてもいいのではないかと思う。でも、たぶん、今年の監督賞はクリント・イーストウッドでしょうね。【主演男優賞】 [ ニコラス・ケイジ ] (「 ロード・オブ・ウォー 」)【コメント】個人的に好き。嫌悪感も違和感も感じさせなかったのがすごい。油がのってますね。【主演女優賞】 [ ソフィア・マイルズ ] (「トリスタントイゾルデ」)【コメント】きれいな人でした。【助演男優賞】 [ ] (「 」)【コメント】【助演女優賞】 [ ] (「 」)【コメント】【新人賞】 [ ] (「 」)【コメント】もう、このあたり↑は私の能力ではむりなので、パス。ではでは、よい作品が賞に選ばれるといいですねー。----------------------------------------------------------------- この内容(以下の投票を含む)をWEBに転載することに同意する。☆ところで今週の日曜は「華麗なる一族」が始まる。たのしみ♪フッキーも出るしね。忘れないようにしないと!
2007年01月10日
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初詣で成田山に行ったら、ものすごく混んでいてびっくり。とにかく、参拝客が多いので、階段の下から入場規制。そもそもその前の富里のインターを出るまでは順調だったのに、そのあと、車とめるまでにえんえん渋滞でした。そのあと、お賽銭までにも、えんえんと並んだので、疲れちゃって、いつもの成田山公園散歩はパスしました。だから、その後はじゃがバタ食べて、たこ焼き食べて、大判焼き食べて、おそばを食べて、チョコバナナをお土産に買った。 成田さんに行くまでの新参道は民間駐車場がいっぱいありまして、去年はどこも一律700円で、談合してるのかなーと思ったものですが、今年は下の方は500円だった。その後、上っていくと順に600円になり、700円になっていた。世間の談合批判はこんなところにも現れているんでしょうか。今年の成田山駐車場協会は談合による駐車料の統一はやめたみたい。もちろん私は500円のところに止めましたとも。一応健康なので、なるべく歩いておまいりした方がいい。 ひいきのそばやがなくなって以来、成田に行ってもいい蕎麦屋を見つけられない。さびしいです。今回はいったお店もはずれだった。 それにしても、今年の初詣はとっても混んでますね。こんなに混んでたのは初めて。前日が大雨だったせいなのでしょうか。それともスピリッチュアルブームのせいだとか?細木数子とか、オーラの泉のせいとか? おみくじを引いたら、大吉でした。ものすごーく久しぶり。少しは運勢よくなったのかな。 ところがですね。次の日に亀戸天神でひいたら、末吉。一緒にひいたダンナは大吉。成田ではダンナはおみくじはひかなかったのです。やっぱり絶対私の運勢はダンナに吸い取られてるよ。 うちのダンナは人の運勢を吸い取るんだよ。だってうちのダンナをいじめた上司の人はそのあと、身内に葬式が連続したんですから。 こわいですねー。ホラーより、ミステリーより怖い。 はっ! 初詣の話がいつの間にこんな話題になってるんだ。
2007年01月09日
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私も今日は医療関係のネタを書きまーす。患者取り違えについてですが、鈴木厚さんの『日本の医療に未来はあるか』という本の一部を読んでの感想です。 平成11年、横浜の病院で心臓手術の患者と肺手術の患者が取り違えられて、手術されてしまった事件です。 医療ミスといえば、大概はその理由として人数不足が挙げられます。確かにそうではあるのですが、この実例を読むと必ずしもそれだけとは限らないのではないかと思うのです。 患者取り違えの場合、実際に手術にかかわったスタッフたちは、まったく気づかなかったのだとばかり私は思っていました。しかし、実際には、多くのスタッフが何度も患者に名前を読んで声かけをし、何人かのスタッフや医者が患者を見て、「違うのではないか」とか、「おかしい」ということに気づき、疑問の声を発しているのです。 モジュール方式というアメリカの医療現場で採用されているシステムを導入していることも原因の一つに挙げられています。それもまた、考えられます。 しかし、この検証と、実際の現場状況から考えた時、日本人独特の特質が見事な形で現れていることに驚いたのです。二人の患者は他人の名前で何度も呼ばれているのにもかかわらず、そのたびに「はい」と返事をしている、または、うなづいているのです。状況として、二人とも声の発せない朦朧とした状態ではあったのだけれど、それでも、アメリカ人であれば、はっきり不愉快な顔をしたり、違うという意味のなんらかの意思表示をするのではないかと私は思う。アメリカ人などにすれば、他人に間違われるなんてこんな不愉快なことはない。しかし、日本人はここで、相手に悪いというようなへんな遠慮が入ったりする。 さらに、医療スタッフ側の何人かが、疑問点を投げかけたにもかかわらず、結局周りに訂正されたり、うちけされたり、否定されたりして、そこで意見を取り下げてしまっています。 アメリカ人なら、ここでもう少し強く自己主張したり、きっちりと、確認を取りそうな気がするのだけれど、日本人というのは、基本的に自分の意見を強く主張したりしない。異論を唱えても、その場で否定されたりした場合はすんなり、引いてしまう。それは、人とのトラブルや摩擦をきらい、自己主張を強く発することをしない、まさに日本人の特質そのもので、この事例を読んでいると、その部分こそが実は医療ミス、患者の取り違えをおこした一因のように思えます。 おかしいと思うのなら、たとえ、その後で自分の勘違いだったと周りから叱責されても、きちんと確認を取る。こういった指摘に対して、あとから勘違いで、手間と時間を無駄にしたというような非難をしない雰囲気というか、システムというか、慣習というか、そんなものがあれば、異論も疑問も発しやすいのではないかと思います。 システム以前に存在する日本人の特質ゆえに起こる医療過誤は、やはり、日本人独特の性質を考慮に入れた上で、システムを再構成すべきではないのでしょうか。 ところで、本人確認が名前を呼ぶだけというのも、なんとも古臭い。最先端の医療を喧伝する大病院でもこんななんだから、日本の国ってお粗末だよな。 名前を呼ぶ以外に、相手に名前を聞く、言わせるという方法もありだろうし、さらには、指紋認証システムなどの科学的な先端技術を導入した、固体の判別方法などの導入なども考えられていいはずなのではないかと思います。カルテに張られた指紋のデータと実際の患者の体の指紋とを照合することによって、患者の意識がなくとも、顔を知らなくとも、固体が判別できるではないでしょうか。 でも、もちろん、スタッフはちゃんと患者さんと面識を持ってからの方がいいでしょうけどね。もちろん。 すべての看護師、医者とすべての患者が顔見知りなのが理想だけど、大病院ではやっぱり無理でしょうねえ。 医療機関、病院、医院、診療所 医療、医学
2007年01月08日
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映画『ダーク・ウォーター』を見たので、原作も読みました。でもこれは短編集になっていた。その一話目のお話が映画になっていたようです。でもって原作では、主人公は死なないし、テーマもちょっと違う。幽霊もちょっとしかでてこなかった。 原作で描かれているのは、都市の持つ恐怖なんだと思う。 幽霊に取り殺されるホラーではなく、都会の持つ得体の知れないものというか、都市ゆえにそれも日本の都市のもつ独特の恐怖なのかな。 映画『ダークウォーター』では母と娘の愛がメインになっていました。でも、原作では違う。 主人公は非常に感覚というか、触覚というか、感性というか、それがものすごく敏感なんですね。夫婦の性生活にすら嫌悪感しかわかないような、現代社会には意外に多い潔癖症の度合いのやたら高いタイプ。だから、夫の無神経にもがまんがならなかった。 そして、この感度の高さゆえに、マンションの屋上にある貯水槽のなかに死体があることにきづくわけです。都市に住むほかの人たちが二年たっても気づかなかった謎にきづくわけです。 そして、死体にきづいた途端、今まで自分が飲んでいた水、風呂に使っていた水、食器を洗ったりしていた水が、死体づけの水だったことにきづいた時、主人公は激しい嘔吐に襲われ、そしても動けなくなってしまう。 物語の中に出てくる幽霊の美津子は、それを主人公に気づかせるための道具立てに過ぎない。だから、これは幽霊話の怖さではない。 ま、敏感な主人公でなくても、わかったら、そりゃー気持ち悪いですよ。十分。昔、マンションの屋上の貯水タンクを調べたら、ねずみの死骸やいろいろなごみ、苔、の生えた非常に汚い水であることがわかったという驚愕のニュースを聞いたことがあります。それからは、法的に定期的にチェックするようになったのじゃないかと思うんですけど、やっぱりこの話のように管理のずさんなマンションはいまでもいっぱいあるでしょうねえ。そして、そのことにきづかないまま、無頓着に使っている人たちは多いはず。 そして、貯水タンクの水にかぎらず、今の都会、だけでなく、現代社会で生活しているということは、今自分たちが口にしているものが実のところなんなのかわからないという恐怖をこそ、この物語は書いてあるわけですよね。ちょっと前の某大手牛乳メーカーのタンクも細菌だらけだったことが発覚して、世間的に大ニュースになりましたよね。 普段の食品だって、いろんな添加物がはいってるわけでして、でも、自分でつくっているのでないかぎり、買ってきたものを食べて生活している限り、本当のわからないまま食べているわけですね。 ある程度はてづくりできるにしても、限度がありますから、もう無神経に無視するしかないかもしれないけどね。 でもこのヒロインがそこまで気づいてしまったら、もう、現代社会では生きていけないかもしれません。 この物語にかかれているのは、そういう恐怖です。 こないだだって餃子に残飯のようなものが入っていたことがわかって、その会社の社長は自殺しちゃったなんてニュースもあったし。今日本にでまわってる安い中国野菜だって、中国の汚染された景色や土壌の写真なんかみちゃったら、怖くて買えないんですけど。 で、こういうことをすごく気持ち悪い質感を感じさせる描写ですごく怖く描写してあるわけですよ。鈴木光司の小説は。 でも、『リング』も、『らせん』も読んだことないし、この本もまだ、一話目しか読んでないけどさ。 そして、それとともに、自分の不愉快、不快にはすごく敏感なのに、他人の不快、不愉快には意外と無頓着な現代の都会の人間たちの無神経振りをも、見事に描写し、指摘してある作品でもあるわけですね。 主人公は自分の不快感にしか意識がいってないし、主人公の夫もとっても無神経。 そういう現代社会の問題点と怖さが描かれているんですね。で、なぜか、これが映画になると、死体入りの水の気持ち悪さなんかはどっかいっちゃって、母と娘の愛の話とかになっちゃう。 原作のテーマを平気で無視している映画製作者側の無神経ぶりもなかなかすてきじゃあないか。はっはっは。 今日の読書日記
2007年01月07日
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見終わってみると、普通に普通の時代劇なので、おもしろかったですけど。 武士の剣術なんてのは、お茶やお花とおんなじで一種の作法みたいなもんだと、免許皆伝の腕を持ちながら、剣を抜いたことなんかなく、普通の下級武士の暮らしを送る主人公片桐。 ところが彼とともに同じ師匠の下で剣を習っていた旧友を、藩の命令によって討ち取らなければならなくなる。 武士であれば、断ることはできない。 彼は初めて剣を抜き、人を切った。 そののち、その友人の妻をだまして、寝取った上司を隠し剣鬼の爪によって、討つ。 秘伝の隠し剣を使った最初で最後の殺しなのである。そののち、片桐は鬼の爪の剣を友人の妻の墓に埋める。こののち、隠し剣、鬼の爪が次の世代に伝えられることはない。時代は、明治へと大きくかわろうとしていた。 藩命によって友を打ち、鬼の爪によって家老を殺した、初めて彼は、武士というものが人を殺す仕事であることに気づく。それまで彼が日々訓練した大砲もまた、実は人を殺す道具なのである。武士を続けていく限り、また、人を殺さなければならない。片桐は、武士を捨て、家を捨てる。 そして、すでに武士でなくなった片桐は、身分違いゆえにあきらめていたかつての片桐家の女中きえを妻にして、蝦夷へ向かう。 というわけで、上司に手篭めにされる下級武士の妻、そして、隠し剣によるあだ討ち。話のメインは先日見た『武士の一分』とほぼ同じ。手篭めにされるのが友人の妻か自分の妻かというのが違うくらい。 どちらもいい作品なのだが、『武士の一分』では、不貞の妻への不満のある人もいるみたいだし、『鬼の爪』の方では、自害しているのでいいのですが、『武士の一分』の方は復縁してしまうのですね。それが納得いかないという人は多いみたい。私も実を言うと、見終わった後で、「三村(キムタク)はこのあと、妻の不貞を思い出して時々むかついたりしないのかな。本当にこれですっぱり忘れてこれまでどおり二人で夫婦仲良く暮らせるのかな。」という疑問が残ったんですよね。この時代にお武家の奥さんがこんなにあっさり体を許しちゃったりするものなのかな。少なくとも私が今まで習ってきた封建時代の武家社会の道徳観価値観のイメージから言うと、疑問だったりするんですよ。それで、『鬼の爪』の原作を本屋さんでチラッとみてきたら、なんと、片桐はきえを押し倒していっちゃってるんですね。きえが実家に帰ったのはその後。その後で武士を辞めて片桐がプロポーズしにいってる。えー。家のお女中に手をだしちゃってるの? で、『蝉しぐれ』も、映画ではプラトニックラブなのだけど、原作では、肉体関係があるらしくて、その後で主人公とヒロインが別れてるみたいなの。 つまり藤沢周平原作の映画は原作とイメージや設定が違う。 映画のストーリーはよく出来ていて、感動できるいい作品なのに、どうしても、この一部分の道徳観がしっくりいかなくて違和感が゛あったのはこの辺りのせいみたい。 原作では、結構、肉体関係までいってる。藤沢周平が書いているのは、武士のプライドとか、正義とか清廉な世界というより、人間のもつ、情愛や情欲なんかなんだろうと思う。 それが、映画になると、主人公たちはすごく、清廉で、正義感があって、道徳観倫理観がきっちりした、やたら美化された人間像で描かれている。 それゆえに登場人物が頼みごとのために体を使ったり、欲にはしってだましたり、不貞の妻を許していることに違和感というか、ずれが生じてしまうのかもしれない。 藤沢周平の小説の中の人物たちはこんなに身奇麗ではない。自分の欲望どおりに行動しているように見える。だから、欲望に走り、道徳を超えて行動してしまう。人のもつそういう業といったものを物語の中ですっぱりと切って見せるのが、つまり、一連のシリーズにえがかれる隠し剣なのだろう。 原作は武士の誇りとか、武士道とかを書いてあるわけじゃなくて、人の世界に普通にある情欲、情愛などであるのだと思う。 それが、映画になった時、武士の世界が美化されて描かれてしまうゆえに、ずれが生じて納得のいかない物語になっているのではないのかと思う。 鬼の爪は刺客の使う剣だ。悪を裁く剣なのだから、藩の都合で罪人にされた友人に対しては使えない。まして、人前で藩命による場で使えば、その秘術はばれてしまう。この剣はひっそりと伝えられ、どうにもならない悪に出会ったときにだけ使われるもののようだ。 鬼というのは、地獄にいて、閻魔様とともに人を裁く妖鬼だ。その名も、その剣の形も、その技も、使いどころも、まさに鬼の爪とは抜群のネーミング。作中で、たった一度使われるその技は見事だった。面白かったですよ。 ちなみに松たかこは、貧農の娘という役には、会わない気がするんですけど。品がいいっていうか、どうみても、いいとこのお嬢様っていうキャラクターですよね。 最後に作中三回使われる「それは命令ですか」というせりふの意味が解明できませんでした。絶対意味深なんだけどな。 日本映画、邦画隠し剣 鬼の爪@映画生活
2007年01月06日
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鈴木光司原作『仄暗い水の底から』のアメリカ版。 仄暗い水なんてネーミングはすごいですね。あまりにも怖そうで観なかったんだけど、これが不思議なことにアメリカのものになると、それほどでもなくなって来て、「見たい」って気になるんだから不思議。 水とか、湿気っていうのは、特に日本のホラーでは、怖さを演出するのに重要なアイテム。というか、日本の怖い話ってのはどこか湿気を帯びたじとじとじめじめした独特の日本らしさが怖さを演出してる部分て多い。 で、それがもろメインの黒い水なんてのがタイトルなんだから、いくらなんでも怖いはず。な、はずなのに、どうしてアメリカで作ると、あんなに水がびちゃびちゃ出てくるのに、やっぱりどこか、ドライな気がするんだろう。 日本の怖いはアメリカにいくと、カラッと乾いて怖くなくなっちゃう。で、結局こんなに水を使ってびちゃびちゃにしたのに、やっばり日本のもののような湿度は感じなくなって。 で、おかげで見る気になったのは、いいんですけど、さいわい怖くなかったのです。全然。 シナリオとストーリー自体はなかなか面白かったので、よかったんですけどね。 こんなの観ちゃったら、夜困るなーなんて心配はなくなった。 だって、幽霊がすごくはっきり出てくるし、最初の段階で、すでにネタの想像がつくんだもの。そして、ラストは予想通りの展開。 でも、ヒロインが死んじゃうとは思いませんでした。 母親との親子関係がよくなかった主人公のダリア。幽霊のナターシャもまた、両親に愛されなかった子供。そういう共通点が二人をリンクさせてしまったんでしょうね。 母親との関係がよくないと娘を愛せないんじゃないのかなと思うのですけど、ダリアは娘のセシーをとても愛してかわいがっています。 この母娘の愛情がこの物語のメインなのですね。 母子関係の悪さのせいで結局ダリアは、夫との関係をうまく構築できなかったのでしょう。 母親との関係と言うのは、人間関係を人生のうちでうまく作り上げることが出来るかどうかのとても、大切な部分だと思うのです。それがうまくいってないと人間関係がつくれないまま育ってしまう。 いまどきはパートに出てて、忙しいお母さんが多いですからね。どうしても、母子の関係が育てられない。ゆっくりのんびりした時間を共有して、一緒に遊んだり、おしゃべりしたりって大事なんだと思うんだけどね。アメリカの母もまた、いそがしいようですね。ダリアの母も子供の彼女をなかなかむかえにきてくれなかったり、すごく怖い顔で彼女を嫌っていたり。ダリアは、結局その部分を自分で克服しきれなかったのでしょう。その関係にたいしては、それ以上の描写はないので、なぜなのかはわからないのだけれど、アメリカでは日常茶飯事でいまさらなので、そのくらいの描写で十分なのかも。 それでも、ダリアはセシーをとても愛していて、大事にしています。映画『フライト・プラン』でも、母の愛情が異常な状況下という設定によって強調された描写になっていて、娘をもつ母には共感度の高い物語でした。そして、この映画もまた、母と娘の愛情が物語の主軸になっていて、『フライトプラン』を思い起こしました。ただ、『フライトプラン』と違って、幽霊が出てくる以外には、ごく普通の日常が舞台なのです。 離婚したダリアは一人でいろいろなことをこなしていかなければならず、世間て厳しいな、夫がいればこんなに甘くは見られないのになと思うシーンもしばしば。水道の修理を頼んでも、たらいまわしにされたり、後回しにされたり、弁護士にも適当にあしらわれたり。夫がいれば、こんな大変なことはなさそうなんだけど、でも、その夫と別れるために苦労してるわけですから。 やっぱ別れない方がいいよな。 実際ダリアも元夫に対して折れて、もっと近所に住んで助け合おうと言い出すところまではいくのです。 でも、彼女を追い詰めるために二人の若者を雇って彼女に嫌がらせをした夫の行為に対しての怒りはどうなっちゃったんでしょう。 それから、学校で水浸しになったトイレにいたセシーがその後どうなったのかも不明。どうなったんだろう。 セシーとナターシャが似ていて見分けにくかったのも、ポイント。 セシーを助けるために自分の命を引き換えにしてダリアは死んじゃう。いかにも日本の母らしい。原作は日本ですからね。アメリカ人はこのあたりのところ、理解できたかな。子供のために自己犠牲をするのは世界中の母共通なんでしょうか。 最後は父親に引き取られてセシーはアパートを出て行くのだけれど、エレベーターの中で幽霊になったダリアに髪を三つ編みにしてもらうシーン。娘を持つ母には共感度バッチしです。このあたり、母親の愛情と娘の心のつながりを表現するのに秀逸な表現でした。 男の子の髪は触らないけど、娘の髪はしょっちゅう触りたくなって娘におこられてます。娘の長い髪を結うのってお母さんの仕事だもんね。うちの子は嫌がるけどね。 そして、セシーがこのアパートを出て行くところで物語は終わるんだけど、考えてみると、もしかしてセシーはこの後、思春期とかに悩んだり、さびしくなった時、このアパートに戻ってきそうな気がします。ダリアに会うために。でも、ダリアはナターシャに請われてナターシャの母代わりとして、幽霊になっているわけだから、セシーがダリアに会いにくることはいやなはず。そうなると、セシーとナターシャでダリアの取り合いになって、『エクソシスト』バリのすごい戦いが展開しそう。 こういう設定で、『ダーク・ウォーター2』とか、作れるじゃん。などと考えてしまいました。 うーん。メインは母と娘の愛の物語なんだけどな。 映画の感想外国映画、洋画ダーク・ウォーター@映画生活
2007年01月05日
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昨日は初詣で増上寺に行って、ついでに箱根駅伝を見てきました。 箱根駅伝を見たのは初めて。毎年テレビでは見てたんだけど、時間を計算して増上寺まで行って、沿道まで行ったら、あと、六分で先頭が来ますということでナイスタイミングだったのでした。 でもって読売新聞の旗をおばさんが配っていて、私たち娘と三人なのに、四本くれた。 おお!!↑証拠写真。 これがあのテレビでみる旗なんだわー。 でもって右下のところに小涌園の宿泊券が当たる懸賞応募券がついているので、すてないように。てか、旗を振った後、みんなが旗をすてて、沿道を散らかさないように、こんな工夫があるんですね。いろいろ考えてるものですね。 先頭の順天堂大学が来たーっと思ったら、あっという間に通り過ぎてしまった。テレビみたいに選手をゆっくり眺めるどころではないのです。ほんとに一瞬なの。よーっく見てないとあっという間に通り過ぎてしまう。私が必死になって走るよりはるかに早い。マラソンて早いんだー。 当然写真をとる余裕なんてありません。 その後の第二群が二人。とにかく早いので、日大しかわかんなかった。その後も群れてるので、どこの大学なのかも読み取れないうちに通り過ぎちゃうの。 で、終わると、沿道の人たちはあっという間にばらばらばらっといなくなってしまうのでした。その間三十分くらいかなあ。テレビで見てると、東京から箱根までずーっと道端には人がいるんだけど、実際には、選手がとおる一時間くらいの間しか沿道の人たちっていないものみたい。 とにかく初めて生を見ました。おもしろかった。 その後は増上寺をお参りして、守矢を買って、焼きそばとトン汁と大阪焼きを食べて帰ってきたのでした。ここの焼きそばは麺屋さんが作っていて、しかも、スープをかけて作るのでおいしいのです。太麺です。 それと、増上寺は毎年おサルの芸もやってるのです。最近はあきたから見ないけど。 でも増上寺ってほぼコンクリートで出来てて、なんか殺伐としてるのがいまいちです。都内でも、有名なお寺何だけドナー。でも、実は普通の人は入れないところに、日本の有名な百人の画家が書いた天井画があるんですよ。加山又造とかのね。 おみくじ引いたら、小吉だった。最近大吉って引けなくなりました。独身の頃はよくひいたのにー。ぜーったいだんなに運勢吸い取られてるんだわ。 それにしても、今年はお正月でも、町に人が多かった。歩いてる人もいたし、三日の都内はかなりな車の量だった。景気よくなったのかな。それとも、いまどきはどこのお店もお正月でも営業してるから、買い物とか、遊びに行くとかなのでしょうか。昔はお正月はどこも休みで、行くとしたら、初詣とか、お年賀とかそんなくらいしかなかった。時代も変わったね。みんな口をそろえてお正月らしさがなくなっていくって言いますね。凧揚げもこま回しもなくなったしね。お正月はゲーム三昧でしょう。 でも、猿回しはやってましたよ。
2007年01月04日
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デジカメが欲しい! と、ブログをはじめて以来ずーっと思ってまして。 よそのブログ見ながらくそーっ!!と思ってました。 いい加減買おうかなあと思い始めたんだけど、 どう選べばいいのかぜんぜん検討つきません。 相場はいくらなの? 四万かなーと思ってたけど、三万くらいでも買えるのかなあ。 最近でた一眼レフなんてそんなすごいのじゃなくていいんだけどさ。 かわいいピンクのがいいとかも思うんだけどさ。 えー。全然決断できません。 で、どこに買いに行けばいいんだろう。 この段階でこんなに悩んでるんじゃ、買った後も使い方わかんなくて悩むに違いないよ。 なんかお勧めはない?
2007年01月03日
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私の実家のお雑煮は、江戸っ子らしくなのかどうか三つ葉となるととお餅だけのしょうゆ仕立てでした。結婚したら、だんなの実家は小松菜を入れるのでした。それで、小松菜と三つ葉となるとと鶏肉の入ったしょうゆ味のお雑煮を作った。鶏肉は私が入れたかったから。 そのうち三つ葉は邪魔になってはぶき、毎年食べてるうちに、野菜嫌いの息子が雑煮は小松菜が入ってなきゃいかんというようになって、小松菜と鶏肉となるととお餅のお雑煮を我が家ではつくります。 地域ごとにお雑煮はすごく違うらしいけど、二人の人間が結婚したら、その家のお雑煮はどうなるんだろう。 だんな様の家に従うのか、奥様の実家のものがそのまま押し通されるのか、二人家のものが合体するのか。 うちはまだ、二人ともぢ元ですから、ほぼ好みは同じですけど。 しょうゆ仕立ての雑煮で育った人と味噌仕立ての雑煮で育った人が結婚したら、どうなるものなのでしょう。 今年最初のはてなです。さて、これからだんな様の実家へお年始です。
2007年01月02日
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今年もよろしくお願いします。さてこれから年始でございます。
2007年01月01日
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今年もいろいろあったなと思うのですが、やっぱり一番なのは、父が亡くなったことです。でも、二月のことなので、なんかもう記憶のかなた。今年のことなんてぴんときません。 喪中欠礼のはがきとかきらいで全然やりませんでした。だから、年賀状がきたらきたでいいやーとか、思いつつ。ふだんやり取りしてないのに、あのはがきだけ届くのってむっとしませんか。あ、そんなのは私だけかな。 ブログをはじめて一年三ヶ月くらい。今年もすでに終わりです。 たくさんのアクセスと、たくさんのコメントありがとうございました。来年も続くかどうか、わかんないですけど、黙ってそっと読んでくださっている方もいるのかもしれないし、日々いただくコメントを励みに来年も書けるところまで書いていけたらいいなと思います。毎日読みに来てくださる方々は特にありがとうございました。いろいろと感謝感謝です。 なんとなく、始めたブログですが、毎日考えているいろんなことを、私の頭の中だけで終わりにしたくなくて、ブログの上に書き出してきた毎日。私の中で漠然としていたものが、文章という形を得て、残されていくのは、面白いものです。 来年もよろしくお願いいたします。
2006年12月31日
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なにやらものものしいタイトル。でも内容はそのまんまですから。 おとといの読売新聞を読んでたら、最近の死体は骨に色がついているんだって。緑色とか、ピンクとか、青とか。これはつまり、金属のせいらしい。生きている間にとったもので、体の中に金属が蓄積されていくんだって。 で、死体は焼いた後、墓に入れるほかにあまったものは、土にうめたり、さらには、海や山に散骨したりするので土壌汚染や環境破壊が怖いそうです。散骨は、確か日本では、法的に禁止なんだけど、ニュージーランドまで持っていって散骨してくれる業者があるらしい。 いまどきの人間はは死んだ後まで環境破壊してるんですね。怖いですね。 ちょっと前に読んだ『ホリック』でも、腐らない死体ってのが出てきた。この漫画は、オカルト系の話なんだけど、この部分に関しては、オカルトとか、摩訶不思議なものというより、実際の現実だなと思って、なかなか怖かった。 いまどきは食品にも防腐剤とかその他にもいろいろな添加物なんかも入ってるので、死体が腐らないんだって。昔は人が死んだら、腐らないようにいろいろと防腐処理とか対策とか大変だったのに、いまどきはもう体の中に防腐剤がたっぷり入ってるから、なんにもしなくても、腐りにくいらしい。思わず納得しちゃいました。怖いですねえ。科学が進んで、ドライアイスなんかのおかげだけではないらしいということのようで。もう、いまどきの現実ってそれだけですでに、ホラー、ですねえ。ひゅるるるるる。 死体の骨に色のつく理由には、抗生物質なんかもあるらしい。医者がきらいで、薬飲まないで済ませても、養殖えびとか、ブロイラーチキンとかの段階で抗生物質ばんばんはいってるから、それを食べていれば、抗生物質づけなのは必定ですしい。 除草剤にはいってる薬も体の中には蓄積されてるそうですよ。土にまかれた薬は雨によって川に流れ、川の水は水道水になって人間の口に入る。 こうなると、どんな手立てをとっても、もう現代社会の生活をする限りそれらの汚染物質から逃げるのは、無理なんでしょうかね。 で、こんな話を旦那としてたら、「給食にも、成長促進剤が入ってるらしいってどこかで聞いた。たしか、リジンとか、レジンとかそんな名前の物質らしい。」とかいいだしはじめて、 げげっ!! これはさすがに私も初耳です。 どっから聞いたのーって聞いてみたけど、出所は不明です。だから、確証ないし、どこまで本当かわかんないので、そのくらいの感じで読んでね。 しかし、だとしたら、給食費払わないいまどきの現状をそうそおこってもいられないような気がします。 私立にいった息子の身長がいまいち伸びたらないのも、公立中に入った娘が最近やたら身長伸びてきたのもだからなのかーと、思わず信じちゃいそうです。 これのせいで骨は何色になるのかなあ。 ところで関係ない話ですけど、この『ホリック』の中にはかかわるだけでかかわった人を不幸にする運命を生まれつきもった女の子というのが出てきます。のろいがかかってるとか、変なものがついてるとか、そんなのじゃなくて、普通の人間なんだけど、なぜか人を不幸にしてしまう運命を持っているとは、恐ろしい。すごくかわいくて、すごきいい子なんだよね。これが。でも、思わず、ありかもとか、思っちゃったよ。ただのオカルトより怖いです。 自分がそんなじゃないことに感謝。いやーでも、ほんとに大丈夫かなあ。あるいは…。 このネタが出てくるのは、もっと先の巻だったな。 何巻だったっけー。
2006年12月30日
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昨日の二時間ダイエットスペシャル観ましたか? なんか許せない作りだなあ。 テレビのダイエット番組ってやたら過酷なプログラムをやらせるでしょう。あんなに太ってるのに、あんな過酷なことやったら、絶対からだ壊しちゃうよ。番組でも、足痛めたり、ドクターストップがかかってたりしたでしょう。いくらやせても体壊したら意味ないでしょう。 精神を鍛えるんだとか言って、過酷なプログラムが多かったけど、あんなの出来なくてあたりまえ。根性ないとかいわれてもなあ。 栄養バランスを無視した過食とお菓子、スナックの食べすぎが原因なんだから、いっさい間食が出来ないような閉鎖されたところで、栄養バランスのよい食事をきちんと三食取らせて、軽い運動をこなす。これを時間をかけてやるのが一番いいはず。その上で、栄養学などの教育なんかが大切なんじゃないのかな。一ヶ月の過激ダイエットではそれほどやせなかったみたい。画面でも、まだ、太ってたし、スタッフもそのあと、あまりやせないし、みんな体調こわすしで、困っちゃったんじゃないのかな。 結局その後は、日本に戻って、大塚整形外科に助けてもらった感じ。全八ヶ月のうち、残りの七ヶ月は大塚整形の指導のおかげでやせたようだし、最初から、大塚整形のプログラムでダイエットをやった方がよかったんじゃないかな。 苛酷なダイエットを泣きながら友情を育てつつ、がんばっていくというドラマ仕立てにしたかったみたい。そんな番組の企画の生で体壊しちゃう出演者はたまったもんじゃないですね。 それで、結局たるんだお腹や二の腕の皮の部分は整形で、切り落としてるし。何だー、そんな裏技やってるんじゃ、ずるーい。過酷なダイエットを耐え抜いて、見事自力でやせましたっていう番組の宣伝と違うじゃん。反則技だよね。番組だから、お金出してもらってるけど、私ら一般人の場合、自腹切らなきゃならないわけだし。 脂肪吸引もしてるしね。 こんなことなら、最初から、大塚整形外科のダイエットプログラムに挑戦ていう企画でその経過をずーっと全部見せてほしかった。整形のほかにも、いろいろとダイエットプログラムや、アメリカのものほどには、きつくないプログラムがあるはずで、食事指導もあるはずだし。そういう医学的に計算されたダイエットを取り上げた番組が見たいんですけど。 ようするに、テレビをみて自分たちも実践できそうとか、一部だけでも、取り入れられそうとか。 ダイエットの最新研究なんかをとりあげたものとか。 とにかく挑戦者の体壊すような企画はやめてほしいな。 それと、途中でリタイアしたEさん。彼女こそ、大塚整形でやせさせてあげてほしかった。 ようするに、大塚整形の宣伝みたいな番組だった。結局過酷な運動だけじゃやせないんだよなあ。 高いんだよね。こういうのも。
2006年12月29日
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野良先生の話題はもう旬ではなくなったかな。『塾禁止』 誠意のある良心的な塾を熱心に一生懸命やってる個人塾の先生たちはこの事態にはかなり怒りを感じているんだろうな。と、思う。 でもねえ。そういういい塾に行ける子供はその塾に通えるところにすんでいる運のいいごく一部の子たちだけなんだよね。 大概の子供はとにかく自宅から通えるところにある塾の中から選んで行ってるわけだけど、ほとんどは大手のチェーン系の塾に行ってる場合が多いと思う。そして、その手の塾は上位生のクラスは、いい先生を当てるけれど、その下はアルバイトのほとんど力量のない学生教師を当てる。そして、子供たちの成績は塾通いによって上がることは少ない。高い塾代と、塾にかける時間と労力は大概の場合無駄に終わる。あげく、あがらない成績にいらだってやめてしまう場合も多い。 大手の塾の中位、下位のクラスの先生たちが力量のないバイトであることは、ちょっとしってる人なら当然の事実である。 そうやって無駄なお金と無駄な労力を塾に取られ、塾なんてたいして役に立たないという評価はじわじわと増えはじめているかもしれない。 たとえば食品であれば、買って食べてみて、まずければ、その一度でやめてしまえばすむことだ。 たとえばレストランだって一度入ってみてまずければ、二度と行かない。それだけのことだ。 けれど、塾というものは半年くらいは通わせてみないと、その成果はわからない。子供の時間は短いのに、その貴重な時間を半年も使わないと質の評価のできない塾というものは、だから水物なのだろう。 これでは、塾禁止なんて評価が下されるのも無理はない。 塾という業界ほど業界内の結束がなく、縛りがない業界も少ない。 それは塾という業種ゆえの特性なのか。 たとえば喘息治療の場合は、ある先生によって研究され、それまでの対処両方とは違う、発作を起こさないための毎日継続的に行う薬の投与によって発作を起こさなくすることで直していくという革新的な喘息ガイドラインがつくられ、全国の喘息治療の医師にあまねくもそのガイドラインは配布され、オープンにされている。だから、全国のどこの医者にかかっても、ほぼ同じ治療を受けることが出来る。 もしこれが、その先生がその方法を自分のいる病院の中でだけ行い、外部にはいっさい出さないということであれば、患者はその病院に行かなければ、その治療を受けることは出来ず、自宅の近くの医者では治らないとなれば、やっぱり、医者なんて当てにならない。ちっとも病気を治してくれないという評価になるはずだ。 これは、他の治療方法でも同じだと思う。 あるいは、弁護士の中坊公平先生のように、自分が依頼をうけた事件を自分の仕事の範囲を超えて、弁護士会全体で対応していくようなスタンスで、弁護士会を変えていこうとしたような、仕事を自分の事務所だけのものとはとらえないで、弁護士会、そして、社会全体にとって有効なものとなるような仕事のしかたはすばらしいと思う。 しかし、塾業界というのは、大手の経営のあり方に対して、誰もクレームをつけない。京伸スクールの事件のように質の悪い先生が雇用され続けている現実は相変わらず、是正されていない。 どこの業界だって、業界内の協会を作って同業者同士の連携を高め、同業者が質の悪い仕事をしないように監視していたり、修正したり、質やモラルを保つよう努力しているものだ。 しかし、大手塾の内実は変わらないし、それを是正しようとするような行動は塾経営者たちには、見えない。 あくまで、自分の塾に通う生徒にしかその関心は向けられていない。 自塾の生徒を可愛がり、成績が上がるように指導することはもちろんいいことなんだけれど、仕事が自分の塾の中のことだけで終わってしまい、同業者との連携が進んでいかない限り、塾という商売は、あいかわらず、水物の、世間から正当な評価を受けにくい業種でしかない。 どこの塾に行かせても、最低ラインぎりぎり受けることのできる質の良さ、安心して行かせられる塾というものに対しての信頼感がほしい。 そうでなければ、いつまでたっても、うそばかりで、成績のあがらないまま、高い塾代だけが苦しい子育て家庭の家計から搾り取られていくだけのように思える。 マックドナルドは全国どこに行ってもマクドナルドであって、高級なものではないけれど、最低限の質は、保障されていて、安心して食べることが出来る。それは、全国のマクドナルドに同じレシピが配布され、質の低下をチェックするシステムがあるからだろう。 マクドナルドと塾を比較してもしょうがないけれど、安心して手近な塾に行かせられるような、塾の質の保障、是正、修正を塾業界はいつやってくれるのだろう。 そういう姿勢がないかぎり塾はどこまでいっても、所詮、塾なんだ。
2006年12月28日
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学校の先生と面談すると、先生たちは、子供の欠点なんかあげつらって、私が必ず、なおしてみせますとか、ここがよくないけど、どうしたらいいでしょうとか、何とかしてくださいとか、いろいろとうるさい。私はちょっと位の子供の欠点なんてそのうち直るよと思ってるのに何でかなあと思ってたんだけど、要するにまあ子供とかかわる時間のスタンスが違うんだよなあ。 親の場合は、子供とは子供が生まれてから、自分が死ぬまでのすごく長い時間の付き合いだから、今ちょっとくらい子供に欠点があっても、そんな簡単に直らないし、大人になる頃にはそのうちなんとかなるかもとか、そんな感じで考えてるんだけどね。 でも、先生が子供の欠点にかなり必死なのは、職業のせいもあるけど、かかわる期間が短いための強迫観念に近いような感覚があるのかなあとまたまた考えた。 なにしろ先生の場合、子供とかかわるのは、大概は一年くらいしかないもんね。 自分がうけもつ子の一年の間にすべきことはしないと、と必死になるんでしょうかねえ。 とりあえずできるところまでやって後は次の先生に申し送りして長い目でみてもいいんじゃないですかねと思う。 その一年の間に生徒がよくならないからって誰もそれほど文句言わないと思うけど。 でも、いつも学校に苦情がくる原因になってる生徒なんてのもいるしねえ。 それでも、やっぱり子供はそんなにすぐには直らん。 先生、うちの子はとりあえず、適当でいいですから。
2006年12月27日
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子育て本もずいぶん読みました。あんなもの当てにならないということで人によってはきらいだけど、私は結構好きなのでよく読みました。たしかにあてにならないところも役に立たないところも実戦なんてとてもじゃないけどできないようなことが書いてあったりもするけれど、それでも何冊もいろんな人の書いた本を沢山読むとね、共通して書いてあることってのがあるんですね。 そういう共通した部分って言うのは、信じていいと思うわけです。 それで、そんな本の中で特に好きだったのが、平井信義先生なんだけどね。 要するに、彼が何冊もの本でかいている一番共通のことは、 「親の言うことを聞くよい子に育ててはいけない。」 これですね。親の言うことをよく聞くってのはつまり、自分ではなんにも考えないわけで、親にとっての都合のよい人間を製造するために子育てやってるわけじゃないんだし。 ていうか、私の親もわりとそんな感じの考え方の人だったような気がして、そんな風に育てられたような気がするんだな。母はうるさかったけど、父はわりかし、子供にうるさいことをやいのやいの言うのがきらいな人でした。 で、私もあんまり、うるさく子供にさしずしたり、しつけたり、言うこと聞かせたりするのがきらい。 それで気がつくとそういうことが書いてあるような子育て本を意図的にないしは、無意識にえらんでいるような気がする。そんでもってそういう本をいい子育て本だったって評価しているような気がする。 よくよく考えてみると、基本的な価値観はすでに自分の中にあって、その上で、そういう自分の価値観、子育ての方針にあったことが書いてある本に対して、いい本という評価を与えて、好んで読んでいるのかも知れない。 そうなると、絶対的に役に立つ子育て本なんてないのかも。 でも、実際には、子供なんて親の育て方ですべて決まるわけじゃないし、生まれつき持ってるものがあって、親が必死になってしこんでもどうしても身につかないこともあるし、親がちょっと間違えて育てたり、手を抜いたり、よくわかんなくて、教えそびえたりしたことなんかも、子ども自身が育っていく途中で、自分でみにつけたり、学んだり、修正していくこともあるし、環境なんかも影響するし。 つまりは、子育てなんてそんなに気を入れてやらなくても大丈夫なのかもしれない。 だったらほっぽらかしにして育ててもいいかもしれない。 でもやっぱりそうもいかないだろうな。 できる範囲で、いいと思う方法で子育てしていくしかないし、あとは運を天に任せるしかないかも。 そんなに必死にならないでも、子供は育つし、きりきりしないで、子供と一緒すごせる少ない時間を楽しく過ごすほうがいいと、思う。
2006年12月26日
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なんだか教育再生会議で、野依良治先生の言った爆弾発言が意外と話題みたい。 今朝もテレビでやってました。 「塾なんて禁止にしてしまえ。」 確かに無茶なこと言ってる。でも、ある意味ほとんどの人が思ってるけど、大きな声では言えない、本音だなあと思う。 確かに今現在、いきなりなくされたら、大概の人は困るだろう。でも、子供を塾に行かせながら、本音はしんどいと思っている親は多いはず。(ありがたいとも思ってるだろうけどね。)なんせ、お金はかかるし、それに塾のおかげで入試問題が必要以上に難しくなっていってしまう。 子供だけでやっていれば、子供のやることなんてたかが知れてるし、馬鹿なことでミスしたり、読みが甘かったり、やりこみがたりなかったり、対策がずれていたりする。 でも、塾がなくて、すべての子がそのレベルで受験に望むなら、全体がそんななのだから、入試問題がやたら難しくなることもない。 塾によってうまく指導してもらって希望の学校に入れるのはありがたい。 その一年だけの部分だけをみればたしかにそうなのだけれど。 難関校を目指して何年も塾に通って精神的に疲れきって、社会に出る頃にはすりきれてしまう子も多い。 社会が望んでいるのは、頭のいい、コミュニケーションのとれる人材なのだが、難関校を目指すための塾通いはその反対側の人間ができるような生活になるということはどうにも避けようがない。 社会の優秀な人材が塾の猛勉強によって、数多く擦り切れていくのは事実だし、あまりにももったいないし、社会的損失だ。 野良氏の言うように、数学や、英語の勉強より、理科や社会、音楽や芸術の方がよっぽど実生活に重要なことを教えているのに、受験のせいでそれらの大事な科目が軽視され、はずされてしまう。子供たち全体にとってのおおくな損失ともいえる。 社会や理科がはずされやすいのは、暗記科目として、やりこみの対象になってしまうこと、暗記なので、受験生の頭の良さを図りにくい科目だからだ。けれど、最近の入試数学はパターン暗記が増えてきて、数学でさえ、受験生の頭の良さは図れない。 こないだわが子と話していたら、学校で勉強してるのに、ミルクにレモンをいれたら、科学反応で固まるのも知らないし、姥捨て山の話もしらない。 野良氏の発言によって、この問題がより多くの人たちを巻き込んでデイスカッションされ、考え直されるのなら、それはそれでいい機会だと思う。 ただね。成績の悪い子だけ、塾に行くって事は、塾に行くイコール落ちこぼれとして、いじめの対象になったりしないのかなあと思う。 教育再生会議ってみんなで集まっていろいろ言ってる割に、肝心な本音って意外と論議されてないかもよ。 さすが、ノーベル賞受賞者だ。でも、野良先生をほめると塾の先生たちに怒られそうだ。 塾の先生たちも夜だけ子供との共有時間なんて、遠慮してないで、学校の先生になって、毎日一日中子供たちと過ごしたっていいんですぜ。塾が禁止になって塾が激減して、困った塾の先生たちが、みんな学校に就職したら、どうなるかなあ。おもしろそうだなあ。塾代もかかんなくなるし。夜塾に行かせなくても、すむし。 そういいつつ、うちの子たちも塾通い。塾に行っても、たいして、成績は変わんない気がする。塾って上位の子しか実質相手にしてないですからね。それでも、行かせるのは、塾の受験にたいするマネージメントや、模試の斡旋、志望校の相談や、裏事情を教えてくれそうだからなんだけどね。 そのあたりだけは、学校だけじゃあ困るんだなあ。さて、野良先生はこれからどう出るんでしょうね。
2006年12月25日
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クリスマスは毎年、ケーキを焼いて、ローストチキンを焼きます。 ずーっと毎年やってきたんだけど、最近ちょっと飽きたかぁ。 チキンは足じゃなくて、丸を焼くんだけど、子供たちが大きくなってきて、食べるようになったので、一匹じゃ足りないのよね。でも、だからって二匹も焼くのもちょっとなあ。 ケーキもスポンジケーキがどうしても、硬くなっちゃう。、もっとふわふわの柔らかーいやつ食べたいし、今年はお店で買おうかなあとちょっ迷ってしまいました。 こうなると、ネットでレシピ検索して、なにか独特のコツなんてものをチェックして、作り方を考え直した方がいいかも。 材料はいいから、変な添加物も入れないし、生クリームも動物性のものを使ってるので、だから、味は悪くないんだけどね。でも、スポンジが硬いのはいかんともなんとも、ねー。 で、レシピ検索してみました。どうも今までは、時間かけて焼きすぎだったみたい。もう少し時間少なくていいみたい。そうなのよね。外側が硬すぎだったもんね。で、牛乳とか、コーンスターチとかも入れるといいのかもしれません。 最近のケーキは昔みたいにふくらし粉とかは、入れないでしょ。 でも、チキンはやっぱり買ってきたものより、家で焼いた方が絶対おいしい。 ケーキはもう焼いたので今さましてるところ。後で、デコレーションします。といっても、生クリームと、イチゴだけだしね。それで、なにか抜群にかっこいいデコレーションて、ないかなあ。 ケーキやさんてほんとに上手に飾り付けてあるよね。うまいよね。うううん。 あとは、チキンを焼くのだわ。 クリスマスは、忙しい。明日は、レッグを焼くのです。
2006年12月24日
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ヤフー動画で無料配信していたので見てみました。 終戦の四年後くらいの製作なんですよ。日本が戦後の復興に必死だった頃にこんな映画作ってたんだなあとびっくりでした。 それでも、昔のものなので、今のようなすごい画面ではないのです。ほとんどのシーンはスタジオで撮っていて、戦闘シーンだけ、実際に戦場で撮影した本物を使っているのです。 そのわりに不自然でなく、うまく挿入されていて、しかも、太平洋戦争の実録のフィルムがみられる。やはり本物は迫力があります。それに、これ本当かなあとくだらない疑いをしないで、そのまま見られるもの。 なかなか参考になります。不謹慎だけど、面白いし、興味深い。 まだ本物の戦場で戦ったことのない兵隊たちが、厳しい隊長に鍛えられていく。最初は隊長に対して反感も感じていた隊員たちが、実際の戦場での隊長の勇気ある行動や判断力を見ていくにつれ、だんだん隊長を慕うようにもなり、一人前の兵士として成長していく。 ハワイ沖の島での戦闘そして、最後は硫黄島での戦闘です。 そして、ラストはまさにあの星条旗をすり鉢山にたてるシーンを隊員たちが見ているところ、そして、さあ、まだまだ続くぞと戦場に出ていくでシーンで終わります。 そして、その後に音楽とともに、われわれは祖国のために戦うんだという内容の歌詞が流れる。 びっくり。 戦争映画といえば、テーマは「反戦」と思っていたら、この映画はなんと戦争賛歌の映画。戦うのは大変だけど、それでも、自分たちは祖国のために戦うんだとそういうテーマなんです。 作中にでてくる日本兵は黄色い兵隊と呼ばれ、いかにも、憎憎しげな演出。明らかに悪いやつという描写です。 そして、硫黄島についた兵隊は浜辺の砂を手にとって見ながら、「こんな荒れた島を何で占領するんだ?」という。 硫黄島戦の戦略的な理由なんて全く知らないまま、いわれたままに戦ったいるだけなんだなあと。 少なくとも、当時、日本軍の兵士はみんなその理由を知っていたはず。うーん。日本側ほどの切迫感が全然ないんだよね。 日本兵とアメリカ兵は戦場での意識やスタンスがぜんぜん違うんだなあと、そういうのが、よくわかります。 作中、一人の兵士が隊長にむかって、「俺の息子は兵隊になんかしないぞ。ちゃんと大学に入れてもっとまともな仕事をさせるんだ。」というシーンがあって、ラストちかくでこの兵隊は死んじゃうんだけど、その時彼がもっていた十歳の息子宛の手紙を隊長がその場で、読むんですね。これこそまさに「硫黄島からの手紙」でしょ。タイトルはもしかするとここからなのかもしれない。 で、手紙は途中までしか書いてなくて、結局彼は息子に将来何になれとかこうとしていたのかわからないまま。いかにも意味深です。 大学に行けといいたかったのか。それとも、兵隊も悪くないといいたかったのか。 けれど、大学にいかせようと考えていた彼の手紙が結論のないままというのは、彼の中で迷いが生じた。兵隊もいいんじゃないかと考え始めた。そんな含みをもってラストシーンの歌が流れる。 硫黄島戦は大変だったけど、まだまだアメリカは戦争するから、祖国のためにみんな軍隊に入って戦おうぜと、まさにそういう作りなんですね。 これって今の北朝鮮とぜんぜん変わんないジャン。明らかに国策映画なんだもの。戦場の悲惨さなんてほとんど伝わってきませんよ。 部隊のメンバーが見た、星条旗のシーンはありありと、あの写真と全く同じポーズを俳優たちがとっているのです。 『父親たちの星条旗』は、まさにこの映画の裏番組というか、アンチテーゼとしてつくられたものだったのだとわかりました。 スピルバーグは、長い間この映画に対して、思うところがあって今回初めて、星条旗の真実を描いた映画を作ることで、やっとすっきりしたんじゃないのかな。 自分の愛する映画が国策や戦争の道具に使われたことへの怒りとか、あったのかもしれないなと。 戦争映画
2006年12月23日
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『しゃばけ』シリーズ第二段。 今度は短編集ですが、一巻で出てきた登場人物たちのその後なんかもわかってすっきり。 相変わらず面白くて読みやすい。 私は子供に厳しくするのがどうにも苦手で、過保護じゃないけど、甘い親だと自分では思っている。だから、いいのかなあ、もっときびしくしっかりしつけるべきなんじゃと常日頃不安な思い。 でもやっぱり、厳しいことはできない。 しかし、この物語の主人公一太郎は、江戸時代の江戸で大店の跡取り息子でありながら、体がチョー弱いために、やたら、過保護に育てられている。二人も手代がつきっきりで面倒を見てもらい、お金に困ることもない。 それでも、一太郎はわがままで、傲慢で、いやなやつとは程遠い、心根の優しい、人情のある人物である。 わがままに育てたり、物を与えすぎたりしたら、ろくなやつに育たないというのが、子育ての常識として、通っているにもかかわらず、こんなやさしい一太郎のような人物が育つなら、私も子供は思いっきり甘やかして育てたい。その方が楽だもの。 子供がほしがるものをだめーっといウより、ほいほい与えて、子どものうれしそうな顔を見たほうが、楽しいし、うれしいし、楽だもん。 それにしても、どうしてこんなやさしい人物に育つのかなあと、いろいろ考えてみると、私としては、やっぱり、周りに彼を心配しいつもきにかけ、近くから、遠くから彼をいつも愛している沢山の人たちに囲まれているからなのかなあと思う。 なにか行動するとき、自分を大切に思う人がいたら、やっぱり馬鹿なことはできないし、悪いことはできないし、わがまま勝手はしずらいだろうし。 彼自身体が悪くてつらい思いをしているせいもあるでしょうね。 病人てわがままなものというのも、通り相場だけど、そうじゃない人もいっぱいいるからね。 そして、彼自身、自分がつまんない存在価値のない人間にはなりたくないと必死なわけだ。 あやかしの助けを借りているとはいえ、数々の江戸の事件を解決するその聡明さもまた、彼をただのわがままものにしない理由なのかなあ。 甘い甘いといいながら、結構二人の手代は、一太郎にきびしいきがする。だからかも。やっぱ厳しくないとだめか。厳しいというより、とにかくよくみてる。ともいえましょうか。 この二人の手代。実はあやかしなんだけど、CLAMPの『ツバサ/RESERVoir CHRoNiCLE』にでてくる、ファイと黒鋼のイメージで読んでるとキャラぴったりなのよ。ふふふふふ。 最近私は、星占いとか、性格占いとか、なんだかもうばかばかしくなってきて、どうでもいいやと思うようになってきた。若い頃は何にもわかんなくて不安で不安で、いろんなことを占いや、目に見えないなにかの力のせいだと思うことで自分の不安をごまかしていたのかもしれない。でも、そんなものを信じてみてもしょうがないし、めんどくさいし、かったるいし、それより、うまくいかない現実を正直に受け止めた方が話が早いと思うようになった。悪魔のせいでも、運のせいでもない。 でも、それは別に目に見えないものを否定するということじゃない。 あやかしの話は面白いけれど、もし、本当にあやかしが今私に見えてしまったら。それはもう、謎でも不思議でも、目に見えない不思議なちからでも、存在しない得体の知れないものでもなく、はっきり目に見える現実になってしまう。 あやかしが現実になったら、それはもう、あやかしじゃないような気がする。 だからやっぱり、あやかしは見えないほうがいいみたい。 不思議なものはわからないままの方がいい。 そうして物語の中だけで、不思議な力を見せてほしい。 『四布の布団』では、やたら声のでかい店主が出てくる。あんまり声がでかくて、怖くて、いつも怒鳴ってばかりいるから、奥さんも従業員もびくびくびくびくしている。 彼は彼なりに、店を抱え、がんばらなきゃと必死でがんばってきたわけで、それは決してわるいことじゃない。でも、自分ひとりでがんばりすぎて、きりきりしてるものだから、その被害をまわりに及ぼしているんだけど、彼はそのことに気づいてない。 がんばるのもいいけど、しんどいなら、周りに助けを求めたり、泣き言を言ったりしたほうがいい世という話みたい。 私の母がこのタイプです。他人なんてあてにならないといってがんばるのはいいけど、途中で息切れして、周りに迷惑かけてるのに、いくらいってもわかんないんだよねえ。 『空のビードロ』は、一太郎の腹違いの兄松之助の話。当時の江戸庶民の生活がいかにぎりぎりで、仕事を失えばいつ野垂れ死にしても不思議じゃない。そんな時代のぎりぎりの生活ぶりや、人の心の綾がかかれていて、そして、せつない。 この二人が表紙ってめずらしいのよ。
2006年12月22日
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十何年も主婦業やってると、どうもやっぱり飽きてきて、だれてきて、いい加減になってきて手抜きになってきて、なんだかつまんないなあ、もっと意味のある仕事やりたいなあ、なんてそんな風に思い始めるもんです。掃除とか片付けとか、だんだん手抜きになってきまして。特にアイロンかけが嫌いです。ちなみにネタバレありありです。 でも、そんなのいかんなあ。自分に与えられた仕事はきちんと責任もって一生懸命やるべきなんだ。そうじゃないと命を落とします。この映画の人たちのように。 この映画にでてくる人物の三人もまた、二人は自害し、一人は失明した。なんでかっていえば、それはつまり自分の仕事を甘く見て、手を抜いていたからです。 主人公三村新之丞(木村拓哉)は、お毒見役という仕事をつまらないと思っている。武士らしくない。それよりはいっそ道場でも開いた方がいいとすら思っている。教える相手は武士の子でも、町人の子でも、下働きの子でも、とにかく剣を使うような武士らしい仕事であるなら、今のお毒見役のような、形ばかりの儀礼的な仕事よりよっぽどいい。 藩主の食事は必ずお毒見役が毒見をしているのだから、毒なんか入れても意味なさそうだし、いまさら、そんなことするやつはいないだろう。それでも、やっぱり、毒見はしないといかん。やめれば誰かが、また、毒殺を企てるかもしないし。それでも、ずーっとこんな仕事をやってると、だんだんだれてきて、形式的になってきて、みんなどことなく、緊迫感なし。 そこに油断があったのだろう。主人公三村は「貝の刺身」によって中毒となり、高熱の後、失明する。三村は貝を口にしてほどなく気分が悪くなる。横にいた同僚は気がついて、「どうした」と声をかける。それでも「いや大丈夫」といったその挙句、倒れてしまう。それに気づいた広式番が、すでに御前に上がっている料理の食事をとめに入る。 毒見役なら、まず自分の体調の異変にきずいた段階ですぐに「しばしおまちください」と声を発するべきであったはず。それ以前に口に入れた段階で、これはなにかおかしいと気づいてもいいはず。本当にプロであるなら、毒見役として、食べ物を口に入れた一瞬できずくべきものなのではないだろうか。しかし、三村は自分が倒れるまで、毒見役らしい仕事をしていたとはいえない。そういう仕事への甘えが実は彼を失明させたとも言える。口にした段階で、ほんの少しの体調の変化にきずいた段階で、上司に速やかに告げるべき仕事なのであるから。 彼は自分の仕事を侮り、手を抜いていた。それこそがまさに命取りとなったのである。 そして、この事件で、毒見広式番、樋口(小林稔侍)もまた、切腹せざるを得なくなる。彼は、高齢とはいえ、毒見の仕事の最中にあろう事かうたた寝までしている。毒見役五人の顔色や体調のチェックもなおざりなまま、形式どおりに、食事を藩主の午前に運んでしまっている。明らかに職務怠慢である。彼もまた、自分の仕事をたいしたことのない形式的なものに過ぎないと、軽んじていたのである。その結果、あと、数秒遅ければ、主君の口に赤粒貝の毒が入っていたかもしれないのである。 そして、その結果、自害せざるを得なくなってしまった。 仕事の失敗で命までなくなるなんて、大変な時代だなあなんてヒトゴトみたいに気楽にみてちゃいかんよ。今だって仕事ってのは、命がけでやるべきものだ。それをいい加減にやるから、逮捕されたり、裁判になったり、免職や辞職に追い込まれ、仕事をなくして、路頭に迷うなんてことになる。その挙句野垂れ死になんてのもありですよ。今現在。 そして、もうひとり、番頭の島田藤弥(坂東三津五郎)もまた、己の仕事を利用して、三村の妻加世(壇れい)の体をいいようにした。頼みごとにきた彼女を手篭め同然にし、その後もそれをたてに彼女に要求した。その挙句、夫三村の怒りをかって、そののち結局切腹となる。自身の仕事を自分の欲望のために使った。彼もまた、自分の仕事を甘く見ていたのだ。 そしてまた、妻加世もまた、島田に迫られた時、声を上げることもなく、されるままになってしまった。声が出なかったというのは、言い訳に過ぎないといったら、ちょっと厳しすぎるだろうか。彼女は夫のためといいながら、今現在の暮らしを維持したいという欲望の前に、妻として貞操をまもるという妻としての仕事を二の次にしたのかもしれない。そういう一瞬の心の好きに悪魔が入り込んだとも言える。 与えられた仕事はちゃんと命がけでやらなきゃいけないんだよなあと思った。 そうじゃないと、失明したり、切腹したり、離縁されたりなんてことになるんだよねえ。 三村は盲目の身でそれでも、妻と自分の無念を晴らすために島田との命がけの一騎打ちを果たす。 これが要するに武士の一分だとそうとってもいいんだけどね。でも、本当の一分は自分の仕事を命がけでやることです。 ラスト、三村は、離縁したはずの妻加世の存在を、その声を聞くでなく、足音を聞くでもなく、ただ彼女の作った料理の味だけで自分の家の中にいることに、きずいた。まさにお毒見役として、本領なのである。 だからこそ、感動の涙も出ようというもので、ハッピーエンドの少ない最近の映画の中でほっとする結末だったのです。もちろん、三村の目は失明したままだけどさ。でも、妻の料理が見分けられるようになったんだから、克服したと思いますよ。 私も妻として母として主婦として、自分の仕事を命がけでやらなきゃいかん。 でもやっぱりアイロンかけは嫌い。 中間・徳平が良かった。彼の仕事ぶりには、手抜きもだれもなく、ただ、ひたすらに三村と加世のために働く姿が好対照として、特に印象に残り、物語に深みが増したといえる。 武士の一分@映画生活 日本映画、邦画
2006年12月21日
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あさのあつこの『バッテリー』が大好きで、そのせいで買ったあさのあつこの新作です。高校生の女の子のお話。舞台は底辺校。主人公たちはあっけらカーンと日々を暮らしながら、卒業後に就職もおぼつかない自分たちの将来への不安を心のそこに沈めながら暮らしている。 こんな底辺校の授業にすらついていけず、勉強が大嫌いで、中退した女の子や、体が悪くて高校に入れたことすら奇跡だと親にちょー甘やかされている女の子。高校野球で天才と騒がれている兄の存在がこころに影を落とす男の子。 今ちゃんと勉強しないといかんのよとわが娘に悟らせるにはいいんじゃないかと思って娘に勧めたけど、娘はいやだといって読みません。こういう親のせこい計算に使われるために作者はこの本を書いたわけじゃないものね。 底辺校だろうと、進学校だろうと、高校時代なんてみんな不安で、将来どうなるかわかんないのは同じ。高校で天才野球少年なんて期待されたってプロになれない方が多いだろうし。 高校生と中学生の子供をもつ母として読みましたけどね。 私が高校の頃はここまで世の中景気悪くなかったしなあ。低羽化、私が高校の頃なんて就職のことなんて考えもしなかったしな。彼らの方がよっぽどしっかりしてるかも。 どんな学校でても、就職のおぼつかない現在ですからね。不安がいっぱいの現実はどうしようもありません。 たいした事件もなく、いまどきの高校生の日常と高校生の本音がなにげなーくだけど、すごくうまく書いてあってさらっと読める本でした。 主人公の女子高生の気持ちの描写など、さすがにあさのあつこらしいするどい指摘。こういう本当の本音を実にうまく書いて見せるところがあさのあつこはすごいんだよねえ。 書評、レビュー
2006年12月20日
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進研ゼミの高校入試説明会にいってきた。なかなかよかった。中学校の説明会とかより、ぜんぜんわかりやすいし、聞きやすい。さすがに民間企業は気合が違う。 しかし、話の対象はあくまで、上位校だけ。 底辺校に行く子供の親はもちろん、こんなものをわざわざ聞きにこようなんて気合はない。 そして、相変わらず、公立中学は親にわかるように親切な説明なんてぜんぜんしてくれないし。 真ん中へんの親はどうすればいいのかなあ。 そんでもって都立高校の過去問をくれた。数学だけだけど。息子にやらせてみたら、正答率ほぼ八割。都立って簡単だと思っていたんだけど、最近の都立は融合問題とかいろいろ工夫してあって以外に難しそう。各教科の平均が例年ほぼ60点なんだそうだ。以外に良問みたい。都立高校恐るべし。 高2の息子でも、どうしても解けない問題とかあったんですよ。 こうなると娘には六割も危ないかも。塾の月例試験の点数が悪いけど、問題が難しすぎだからなんて思ってたけど、甘いかもしれない。月例試験の問題が解けないようじゃ都立も危ないかもねえ。それにくだらないケアレスミスも多いみたいだし。こういうのは、ケアレスなんていうネーミングが悪いのよ。ケアレスっていうと、ちゃんとやればできるんだからって、そんな含みがあるもんね。もうちっとこれは危ないミスなんだぞーって気持ちになるようなネーミングはないものかなあ。ディンジャーミスとかねー。 て、わけで有意義な説明会だったと思うよ。 しかし、ついでに子供がためがちな進研ゼミの教材を確実に子供にやらせるテクニックとかも教えてほしかった。やらなきゃ役に立たないもの。 これが一番知りたいと思いませんか?
2006年12月19日
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こんなひどい三者面談は初めてです。娘と先生が話し始めて聞いていたら、「先生が君に恨まれたら怖いなあ」とか、のろいの人形がどうとかって話になってきて、目の前に親がいるのにそんなこと言い出す先生って何ナノ。 この先生は評判が悪い。よく生徒を殴るので、あと一回殴ったら、転勤ということになっているらしい。いま時言うことを聞かない腹の立つ生徒はいっぱいいるから殴りたくなる気持ちもわからないでもない。 でも、話を聞いていたら、話がどんどん悪い方へ悪い方へと行く。生徒の悪いところを見つけるのに必死という感じである。何でこんなに無理やり生徒を悪いやつに仕立て上げるんだか。そこには生徒への愛情なんてかけらもない。 生徒に対していつもこんな思考回路で接していたら、そりゃあ殴りたくもなろうというものだ。 生徒の心のそこにあるもの、生徒のとる行動がどんな感情から生まれているのかに対して、善意的な解釈はおよそなさそうである。この先生。見た目はニコニコしていて、優しそうな人のよさそうな人物に見えるのだ。私の人を見る目は役に立たないみたい。 つくづく公立中の先生の質は悪いんだなと思った。去年の担任の先生はこんなじゃなかった。 これじゃあ、公立中でいじめや自殺が連続するのも無理はない。子供が悪いとか言う前に、このひどい先生たちを一掃した方がいいんじゃないのかと思う。 教員の採用試験は民間企業の採用が終わった後の最後の土壇場におこなわれる。なんで、子供達を育てる重要な教員採用試験をそこまで民間企業に遠慮して日程設定しなきゃいけないのか。 子供の世界と少子化といじめを改善しようというなら、まず、民間企業に先立つ採用試験を実施すべきなんじゃないのかと思う。 そうじゃないといつまでたっても、民間企業でも採用されないかすしか教員にならない。
2006年12月18日
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硫黄島二部作を見た後でこんな映画を見ているなんてちょっとおかしい。 確か昔テレビで見たような気がするんだけど、ぜんぜん覚えていない。でも、ジャングルの中に架かった橋が爆破される話だったはずで、そのシーンだけがわずかに思い出されるのだから、たぶん見ているのだろう。 戦争映画としては、かなり有名な名作で、劇中に流れる「クワイ河マーチ」は、学校の運動会でもよく使われる有名な曲なので、曲を聞けば大概の人は知っているはずなのである。曲自体は快調なテンポの明るい曲で、映画のストーリーの悲惨な結末とは対照的で違和感がある。どうしてこんな軽快な曲が映画のテーマ曲にされたのかちょっと不思議。 現在のように残酷なシーンはほとんど出てこない。昔の戦争映画はほとんどヨーロッパ、アメリカが善というかかれ方をしていたものなので。そして、完全懲悪的な、最後には、爽快感を残すようなそんな牧歌的な時代の映画なのである。 しかし、今になってこの映画を見直してみれば、そんなお気楽な評価をしていていいのかどうか。日本とイギリスの将校同士の友情なんてそんなちゃっちい話とは私には思えなかった。そして、戦争映画というよりは、戦場という特異な場所を使うことによって描き出された、人間のもつプライド意識への揶揄を描いた話なのではないのだろうかと思う。 とにかく映画を見ていると、イギリス人将校のプライドの高さに驚くばかりである。それはあまりにも過渡なので、ある意味ばかばかしく、滑稽であり、思わず笑ってしまうほど。 一部隊まるまるが降伏して、タイの捕虜収容所にやってくる。アレック・ギネスの演じるイギリス人将校ニコルスン中佐はとにかくプライドが高い。「将校はジュネーブ条約で決められていて、労役は免除されているのだから、私は、労役なんかやりたくない」と拒否する。 しかし、日本人の斉藤大佐 (早川雪洲 )は、それを無視して、将校クラスもみんな労役につかせようとする。 その結果、ニコルスンは、オーブンと呼ばれる独房に幽閉される。 この時斉藤大佐は「やつは自分が偉いと思っているから働かないんだ」というのである。 この時斉藤大佐は日本の軍人が話のわからないばかだから、ジュネーブ条約を無視しているように見える。しかし、斉藤大佐は、実はイギリスに滞在していたことのある教養のある人物なんである。イギリスという国の内情をしっており、イギリスという国の中の貴族というもの、身分格差などをよく知った上で、ニコルスンのジュネーブ条約遵守を拒否しているのである。 イギリスの貴族はアメリカとは対称的に戦争が始まれば、まず戦場に向かうものらしい。しかし、貴族なので、入隊の最初から、将校の位を与えられる。自分達は貴族なのだから、庶民のような労役はしたくない。戦場でそんなことにならないようにという貴族サイドの要請によって取り決められたのが、ジュネーブ条約なのだとしたら、そんな西洋のご都合主義によって一方的に決められた条約なんてものを、貴族階級を持たない日本が守らなければならない道理なんかどこにもない。まして、将校クラスの捕虜はいっぱいいるし、彼らにも食事を与えなければならないのなら、働いてもらわないとたまったもんじゃないと思う。日本側にしてみれば。 つまり、斉藤大佐は話のわからない馬鹿だったから、ニコルスンの要請を拒否したわけではないのではないかと思う。 しかし、その状況で、炎天下に独房にいれられ、食事もないまま、それでも、労役を拒否しつづけるニコルスンのプライドの高さには恐れ入る。すごいねえ。 さて、しかしである。この捕虜収容所の重要な仕事はクワイ川に橋を架けることなのだが、なかなか思うように行かない。さすがに困った斉藤大佐はニコルスンを独房から出し、機嫌をとって、何とか橋の建設を手伝ってもらおうと考える。苦労の末、ニコルスンの説得に成功し、ニコルスンは二人の部下を使って橋の建設を始める。 ニコルスンは貴族のプライドによって労役を拒否したわけだが、橋の建設という「貴族のプライドを維持し、将校として、部下たちを指揮し、隊を統率する上でちょうどよい仕事」を得たことで橋の建設に夢中になる。 ところでここでポイントなのは、斉藤大佐はニコルスンが貴族だから、将校だから、それを認めて、彼を独房から出したのではないということだ。ニコルスンの技術力や知識に対しての敬意なのだ。ニコルスンはプライドゆえに労役を拒否していたはずなのだが、彼はそのプライドへの敬意でないにもかかわらず、斉藤大佐を許して、ご満悦になっている。橋の建設は、彼のプライドを満足させるのに十分な仕事だったようである。 しかし、ここで軍医がニコルスンに注意する。「この橋を建設することは敵(日本)を助けることになるんだぞ」と。しかし、ニコルスンは聞き入れない。 さて、同じ収容所にいたアメリカ人のシアーズ(ウィリアム・ホールデン)は脱走に成功したのだが、橋の爆破計画の重要な任務を与えられ、しぶしぶクワイ川に戻ってくる。 とうとう橋は完成し、そして、シアーズたちによって橋には爆破用のダイナマイトが仕掛けられる。 ダイナマイトの導火線にきづいたニコルスンは、発火装置のところまでやってくる。彼につれられて、斉藤大佐もやってくる。対岸でシアーズもまた、爆破の瞬間を待っている。 爆破スイッチのところにいたイギリス兵は、まず、斉藤大佐を戸惑うことなく殺す。しかし、イギリス人将校であるニコルスンをどうしても殺せない。時間は迫っている。早くしないと列車が橋を渡ってしまう。対岸にいたアメリカ兵のシアーズがやってきて、爆破をとめようとするニコルスンを殺す。イギリス兵も殺されている。 そして、最後の瞬間、傷をおったニコルスンが爆破スイッチの上にたおれかかり、橋は爆破される。 イギリス兵は日本人である斉藤大佐は躊躇なく殺せたのであるが、イギリス人将校であり、貴族であるのニコルスンはどうにも殺せなかったのである。そして、アメリカ人であるシアーズは、ニコルスンを殺すことに戸惑いがない。 シアーズは本来二等兵だったのだが、物語の中でずっと、中佐と偽っている。なぜかといえば待遇がいいからである。軍隊の階級というのは、正確な確認もなく、本人の言葉だけで信じられてしまう程度のものなのであり、それを罪悪感なく、偽証してみせるアメリカ兵のシアーズという人物の存在もまた、階級や貴族意識のばかばかしさを揶揄しているようである。ジュネーブ条約なんていうのはそんなものなのであろうか。 原作はフランス人のピエール・ブールによる。ブールは、大戦中、有色人(日本)の捕虜となった屈辱をこの物語によって描いたのであるが、そのブールの特権意識を揶揄したテーマに摩り替わった映画をイギリスが作っているとは、なんというか、その皮肉ぶりには恐れ入るばかりである。 「第二次大戦を背景に戦争の愚かさと人間の尊厳を描いた」というのがこの映画の映画評であるのだが、本当にそうなのだか。イギリス人将校と日本人将校の友情なんていうけど、そんなものこの映画のどこにあるんだか。ニコルスンは将校らしい仕事にご機嫌なだけで、斉藤は橋が着実に建設されていることにご満悦なだけだ。 結局最後は三人とも死んでしまった。彼らが死んだのは、戦争だからなのか。それとももっと別の理由からなのか。 戦争映画
2006年12月17日
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やっぱりヘンな日本がでてくるよー。 何とかして。イーストウッドは最初日本人の監督でこの作品を作らせるつもりだったらしい。でも、結局自分でやっちゃったみたい。監督はイーストウッドでもいいからさ、せめて大道具係りとか、シナリオとかは、日本人入れてほしいんですけど。 だって、ヘンだよ。硫黄島の島民が住んでるあの家。なんであんなに障子だらけなの。普段見てる時代劇と明らかに違うもの。障子って結構高級品なんだよね。それに弱い。建物の一番外周部にあんなにいっぱい使いませんてば。あんな外側の野ざらしのところに障子なんてつけたら、あっというまに穴だらけですから。障子ってガラス戸とおんなじじゃないんだよ。それとあいかわらず、島民がへんな帽子かぶってるし。 しかも、準主役の西郷さんの職業がパンやだし。 いったい、日本で個人経営の自家製パンのお店なんてこんな時代にあったんですかね。いまでこそ、店舗で焼いたパンを売ってるベーカリーは日本のそこかしこにありますが。私が子供の頃は、パンといえば『山崎パン』でしたし、そのあとですよ、町のパンヤさんができたのは。 所詮向こうの人が考えるとこういう設定になるんですよねえ。ぱんやなんてハイカラすぎるよ。日本でパンヤなんて貧しい一般庶民の商売なんかじゃないはずですから。せめて、豆腐やとかにしてくれたらよかったのにね。 こういう時代考証とか、いろいろとちゃんとやってほしいなあ。 で、ストーリ自体も前回の『父親たちの星条旗』ほどには感動もなく、気がついたら、見終わっていたというか、えーっとこのての話はいまさらっていうか、いままでテレビドラマで見てきた話の方が面白かったかなあとか。 私的にはいまいちかなあと。 主役は二人。栗林中将(渡辺謙)と、ただの平の兵隊さんの西郷さん(二宮和也)と。 この西郷さんがね。今までの日本の戦争ドラマにでてくるキャラクターと違うなあと。うーん。アメリカ人が日本人に化けて日本軍に混ざっているような感じがなぁ。 ものの考え方とか、しゃべり方とか感覚がね、今までの日本のドラマに出てきた純朴な普通の青年兵とちょっと違うんだな。 『墓穴を掘る』なんていうしゃれもね、日本人でこの当時でこんなこと思いつけるやついたのかなあと。今の日本でも、かなりめだつかな。二宮くん演じる西郷はいかにも今現在の日本の若者そのもので、立ち居ふるまいから、しぐさ、口の利き方まで。それも、まじめな青年じゃなくて、学校の教室の中にいたら、優等生ではなくて、あきらかに不良の部類に近いポジションのような。 この時代にこんなタイプの人間は珍しい気がして。 栗林中将や、バロン西の場合は将校で、しかも、洋行の経験があって教養もあるから、時代に対しておかしいことにきずいているのだけれど、西郷のようにごく普通の人間で特別な教養もなく、将校でもなく、外国も知らない、ごく普通の青年が、この時代この状況で、陸軍内部の感覚に染まらずに、この戦いの場で最後まで生き抜いたということがすごい。 すり鉢山内部での集団自決の場で彼とその友人だけが自決せずに逃げ出している。その後もアメリカに投降しようと考えもする。 なぜかといえば、彼が集団にそまらないタイプの人間だったからなのかなと。 学校の集団の中には、先生のいうことよくきき、学校の校則にも素直に従う優等生タイプの人間がいる一方で、規則に従うことをよしとせず、反抗し、ルール違反を繰り返し、不良のレッテルをはられる人間がいる。 思うに西郷くんはまさにこのタイプ。 集団自決でなんの疑問も持たずに真っ先に死んじゃうのが、優等生タイプのやつだろうなあと。 でも、いまどきの学校に優等生なんていないけどさ。 それで、西郷くんは、「硫黄島なんてさっさとアメリカにやっちゃえばいいんだ。」とか、考えるんですね。 実際、5日だろうが、30何日だろうが、守ってみたところでどうなったものでもないというのが、本当のところだなあと思うので、彼の発想はそういう時代を超えた価値観に瞬時に跳んでいたともいえる。 一方で将校であり、外国に行ったりもしている、その時代にしては、なかなかハイセンスな栗林中将もまた、当時太平洋戦争のばかばかしさには気づいていたわけで、それにもかかわらず軍人として、忠実に自分に与えられた仕事をこなしている。 彼がアメリカに行った折にかかわった多くのアメリカ人は彼にとって友人である。その友人を含む同じアメリカ人を非常に緻密な計画によって、二万人も殺している。彼が硫黄島でのゲリラ戦を計画し実行している段階で彼自身その戦略によって多くのアメリカ人を死に至らしめることは十分想像できただろう。 友人であるはずのアメリカの人間をより数多く殺すための計画。戦争なのだから、仕方ないといってしまえば仕方ないのだが、それでも、そういうことができるこのまさに精神の二重構造を内包しつつ、精神的に破綻をきたさないという、職業軍人としての怖さ。平和な世界なら、友をどううまく殺すかなんて計画を立てるのは明らかに異常性格なんだけどね。 そうして、その友人であるはずのアメリカ人を殺さなければならないのは、栗林にとって友人以上に大切な、家族、妻、子供を守るためのものだからだ。けれどそれは、もしかすると、言い訳に過ぎない。実際彼の妻と子供たちはこの時すでに、長野に疎開していたのだから。 友人を敵として殺さなければならない栗林の心の中の葛藤は、『父親たちの星条旗』で、主役のドクが衛生兵として、一緒に戦う同胞を、友人を、助け続ける姿と対称的だ。 ドクは、国家が見捨てる一兵士の命を救うのは、友として、同じ戦場で働く同胞としての自分なんだと。 そして、国家の命令によって、友を殺さなければならない栗林の心の葛藤と見事な対称をもってこの二つの物語は描かれる。 国家の命令によって、国債を売り、国家の命令によって、友を殺し、国家の命令によって友を助ける。 一個人の意思では抗いようのない国家とはではなんだろう。 戦争とは、国と国との戦いと一般には思われる。 けれど、本当にそうかといえば、必ずしもそうともいえない。古代中世の国レベルの戦争と、現代近代の戦争とはすでに様相を異にしてきている。 戦争を仕掛けているのは、国の中のごく一部の集団に過ぎない。太平洋戦争においては、日本陸軍の上層部であって、陸軍でも、下の方の普通の兵士はもちろん戦争なんかしたくないし、当時の日本の政府だって海軍だって戦争なんかしたくなかった。 今現在すでに戦争をしているのは、国同士ではなくて、それぞれの国の中の極一部の勢力が国という仮面をかぶって戦争を仕掛けているに過ぎない。そこにお国のためというもっともらしいお題目がついて、世界平和のためというお題目がつく。まきこまれる普通の人間はたまったものじゃない。それでも友や、恋人や子供のために、仕掛けてくる相手を振り払わなければならない。 たとえ国家が切り捨てたとしても、友達だから、助けるんだというドクと、大本営から切り捨てられたとしても、妻と子供のために戦いつづけようとする栗林は、おなじみたい。 ただねえ。こんな優秀な頭脳がこんなばかげたことに使われて、捨てられたことの腹立たしさはなんともいいがたい。もったいない。ばかばかしい。ついでに、これ→ 映画『硫黄島の砂』の感想それから、これも→ 映画『父親たちの星条旗』の感想 外国映画、洋画戦争映画硫黄島二部作 ↑ぜひ参加してください。硫黄島からの手紙@映画生活
2006年12月16日
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『硫黄島からの手紙』を見たんだけど、その記事を書くのにちょっと模索中。だって日本人の私としては、アメリカの話の方が新鮮で面白かった。で、今、あーでもないこうでもないと思索中なんだけどね。こないだ書いた『プラダを着た悪魔』も苦労しました。実は。見終わった直後はなーんも感想なかったもん。で、今日は『戦場に架ける橋』を途中で二度も寝ちゃいつつ、一日かけてみていた。面白かった。いまどきの映画みたいに残酷なシーンとかぜんぜんないんだもん。で、どう感想を書こうかなあとやっぱりこれも思案中です。
2006年12月15日
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たんなるファッション映画と思ってたんだけど、評判がいいので見たくなってしまいました。 結果、なかなかよかった。意外に見ごたえありました。ただ、ストーリー自体は特に新しさはないかなあというか、やっぱりこういう終わり方になっちゃうのかあというかんじだったでしょうか。 でも、そういうありきたりなストーリーでありながら、見せるし、面白い。製作者側に力量があるんでしょうね。 アン・ハサウェイがすごくかわいくて、きれいで。彼女の素敵なところを見せるための映画かなあ。目はでかいし、口はでかいし、細いし、スタイルいいしね。 ジャーナリストを目指すヒロインがそのための手段として人気ファッション雑誌『ランナウェイ』の編集長のアシスタントになる。彼女自身はファッションなんてものにはたいして興味がないから、ださいファッションで出社する。 そういう彼女に対しての編集長ミランダのセリフがすごいよかった。うならされた。 「『私はファッションなんてそんなものには興味ないわ』ということを表現するために着ているその安物の青いセーターのその色は、まさに私たちが企画して流行らせたものなのよ。」というセリフ。実はもっと長くて、そのブルーが流行った経緯をもっと詳しく説明していて、さすがファッションリーダーだなあと思わせられるんだけど、この言葉によってアンディは変わっていくわけですね。 ファッションセンスがサイテーであるにもかかわらず、アンディが採用された理由に、 「今まで雇ってきた子はファッションセンスはよかったけど、みんな頭が悪くて使いものにならなかった。あなたはファッションはひどかったけど、自己紹介のスピーチといい、頭の良さを感じさせた。だから、採用したのよ。」 というわけで、アンディはだんだん変わっていきます。そして、ミランダに認められていく。 ファッションなんて、あとからでも、磨けるのだから、まず勉強すること。頭脳を磨くことが大切ってことでしょうか。 アンディは最初はダサかったけど、それまでに鍛えた優秀な頭脳で、あっという間に仕事を覚えて、鬼編集長ミランダにも一目置かれるようになります。ファッションセンスもやがてちゃんと身に着けてしまいます。 そののち、同僚や仲間を切り捨ててでも、出世すること、自分の仕事を守ることを優先させるミランダに嫌気が差して仕事をやめてしまいます。 美を生み出す仕事。そのすばらしさに開眼したはずのアンディ。でも、美を作り出しながら、その過程でそのために自分自身が見えなくなっていき、醜くなっていることにも気づかなくなっていくとしたら、怖い。家族や友人を傷つけてまで、仕事にとらわれてしまうことが果たしていいことなのか。美を作る仕事は人を幸せにするためにしているはずなのに、いつのまにか、そのために自分が醜く、汚くなっていくことに気づいた時に、アンディは仕事をやめてしまいます。美しいプラダを着ていながら、その中身が悪魔のように醜くなってしまっているミランダを見るにいたって、彼女は自分もまた、ミランダのように、家族や友人を切り捨て、幸せになるための仕事が自分を知らない間に不幸に追い込んでいることに気がつくわけです。 仕事って本気でやればすごく大変だし、なにかの犠牲を伴ってしまうことは十分ありえる。でも、それをみんなが認めてしまったら、どんどんみんなが不幸になっていってしまう。気がついて、方向修正しなければいけない。人は幸せになるために、いろんな仕事をしている。人のために。自分のために。 そのあとアンディは念願の新聞社に採用されます。 ランナウェイで働いていた時の服はみーんなかつての同僚にあげてしまいます。 でも、きっとそのあと、新聞社で働いてベテランになったころに、アンディはやっぱりブランドのかっこいいファッションを、かっこいいスーツを、着こなしているはず。 ただ、今度は会社から与えられたものではなく、本当に自分の目で見て、自分で選んだ、本当にいいものをさらっと上手に着こなしているはず。 そして、仕事のために家族や友人が二の次になることに嫌気がさした、アンディだけど、ジャーナリストの世界だって、それは同じはず。本気で仕事をしていけば、家族や夫とのすれ違いはかならずあるはず。 その時彼女は今度は本気で悩まなきゃならないはず。そして、今度は本当に逃げ出せないはず。その時彼女がどんな結論を出すのか。 まあ、つまりこの映画は、これから社会に出て働く女性たちに向けたメッセージというところでしょうか。 ファッションばかりに夢中にならずにきちんと勉強すること。無茶な命令をだしてくる上司がいるのはどこも同じなこと。使えない新入社員にいきなり取引先からの仕事をさせられないのだから、上司は、まず、自分の私的な用事をやらせてみて、使えるかどうか試してるんだから、私用に使われているなんて思わずに与えられた仕事はきちんとやった方が、早く認めてもらって出世できること。与えられた仕事はどんなものでも、一生懸命やること。社会にでるならその場にあった服装をするべきであること。どんな仕事でも自分の仕事なら、その仕事をきちんと理解して愛情をもって接すべきであること。仕事が忙しくなっていった時、無我夢中で自分の大切なもの、恋人、友人、家族を失ってしまわないよう気をつけなければいけないこと。自分を守ろうとして、知らないうちに自分の周りの人たちをきづつけて人間として醜くなっていくことにならないように気をつけること。自分が本当にやりたい仕事を目指すこと。一番大切なものが何なのかを忘れないようにすること。 私が社会に出た時、こういうことぜんぶわかってなくて、散々でした。馬鹿だったなあとつくづく思う。当時このことがわかっていれば、もっといい人生があったかもと、相変わらず無茶なことを考えています。でも、今だから、わかるんだけどねえ。 ところで、会社の携帯を噴水に捨てちゃいけないと思うよ。それと、やめるときはいきなりじゃなくて、いつやめるかきちんと会社に通告して、次の人にきちんと引継ぎしなくてはいけません。【ネコポス発送可】エプロン/かわいいエプロン/大人用/Jessie Steele/ジェシースティール/大人用ジョセフィーヌ/花柄エプロン/楽ギフ_のし/楽ギフ_包装/結婚祝/誕生日/母の日/新生活/入学祝い/クリスマス/保育士エプロン/セレブ愛用価格:2,750円(税込、送料別)外国映画、洋画 プラダを着た悪魔@映画生活
2006年12月13日
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中二の娘は数学だけ塾に行かせてる。それなのに、月例テストの偏差値は下がるばっかりです。どうしたものかなあと思っていると、他の中二の塾生がばかばかやめてるらしい。どんどん人数が減っていって、このままだと、集団のお値段で個別指導になりそうだ。考えてみればある意味お徳です。でも、へたすると、つぶれるかもね。受験直前で通ってる塾がつぶれるのは困るなあ。 それで、娘の友達で一緒の塾のクラスの子が「いまの塾では成績がよくならない」と言ってよその塾に冬期講習だけ行くらしい。「お母さん今の塾高いんじゃないの。もっと安いところあるらしいよ。」と娘が言う。うーん。だいたい相場なんだけどなあ。 それで結局チラシを気をつけてみていたら、なにやら最近できた塾が冬期講習を無料にして生徒の募集を図っているらしい。しかも、今申し込むと12月分も無料ですよってまあ、なんて魅力的。これは確かに行かせようかな、なんて思うかも。どうやら、娘の友達が行くのもそこらしい。 そうは言いつつ、今行ってるところを変えるのはめんどくさいし、やっと慣れてきたところだし、なんてったって近いしねえ。室長先生ともだいぶ仲良くなってきて、娘によくしてくれるそうなきがするのに。(せこいか。) 娘に「その安い塾いってみる?」と聞いたら、「遠いからいやだ」と言った。だって別に電車乗ってくわけでもあるまいし。遠いといってもたかが知れてるんですけどね。 それで調べてみると、最近いろんなところにがんがん新規の教室を開いているみたい。つまり伸び盛りなんですね。なんでこんなに急成長してるんでしょう。ホームページを見てみると魅力的な自慢の言葉がいっぱい。素直に読んでると、わが子の成績ががんがん上がりそうで思わずうっとりしてきそうだけど、でも、この手の文章はどこの塾のホームページにもかいてあるしねえ。それに授業料は今の塾とたいしてかわらないし。こんなに急に教室増やしてて、教える側の先生は足りてるのかなあ。テキストとか、システムに自信があるのかな。 というわけで、うちの子は教室の閉鎖しそうな、いや、そんなことはいくらなんでもないか…今の塾の冬期講習に行かせておくことにしました。非常に消極的な母です。ちょこちょこ塾かえるのもやだし。あっちこっちの塾に行かせるとカリキュラムが重複したり、無駄も有りそうだし。だからといって、今の塾もあてにならなそうですが。どうもこのあたりには手ごろな塾が見当たらない。 やっぱ自分で勉強しないと成績は伸びないものねえ。でも、やらないけどさあ。娘よ。君の人生なんだぜ。
2006年12月12日
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男を裏切る時、女は赤いドレスを着る。 ショーン・コネリーは、もっとエレガントでスマートだったのになと思った人は多いはず。 007誕生の物語で、まだまだ未熟で若いボンドだから、破天荒なことはするし、向こう見ずなことはするしで、見ていていたいたしかった。 建設中の現場を壊しまくったり、追いかけてる相手をがんがん殴りつけて殺しちゃったり、戦争映画の戦闘シーンよりはるかに不快感があったのは何でなんでしょうね。 なんだか全体にどたばたしていて、下品だなとそういう感想になっちゃって。それでも、映画の人気度ランキングでは、一位なので、面白いと思った人は多かったみたい。もっとも、あの「太陽」が一位だったくらいだから、やっぱりランキングなんて当てにならない。 それでも、登場する美女の衣装がなかなか素敵。追いかけてる敵の奥さんと浮気するシーンで相手の人妻がきてた赤いドレスがすごくかわいかったのよ。胸はなかったけどね。 そのあとにでてくる財務省からきた女性も最初は黒い服を着てるのに、ラストで赤いドレスを着る。それまでずっと地味な黒か紫のドレスだったのに。 それはやっぱりボンドを裏切る複線だったのですねえ。 赤いドレスはかわいかったのにあぶないんだな。 ベニスで舟遊びって「ロシアより愛をこめて」のラストシーンと同じだよね。他にもいくつかシリーズに関係した場所が出てきたのでしょうか。 それにしても、今現在沈みそうなベニスが実際建物の底辺でたくさんのフロートによってなんとか維持してるんですね。あと、百年で沈むといわれてるけど今現在もう沈んでるジャン。 あのシーン。どうやってとったのでしょう。貴重なベニスの街を破壊しないのでしょうか。私はそっちのほうが気になっちゃって。 破壊しまくりの映画なのでね。私には爽快というより不快でした。 しかも、やっとカジノで勝ったのに、その時の仲間二人にも裏切られて、愛した女性はしんじゃって、なんかかわいそうなお話。 恋人の死によって精神的に成長したボンドを見る前に話が終わってしまったのでした。 やっぱり、ショーン・コネリーってすごかったんだなあ。と、実感しました。 外国映画、洋画 007シリーズ007 カジノ・ロワイヤル@映画生活
2006年12月11日
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金曜日、帰宅した息子がもう一度学校に行くという。明日から期末試験だというのに、これからもう一度学校に行って、忘れ物をとってくるという。何を忘れたのか聞くと、教科書やノートを数冊あげた。明日からテストで、貴重な前日の時間が二時間おじゃんではないか。 帰ってきたかばんの中には、教科書ノートがごっそりと入っていた。「一度じゃ持ち帰れない量だから、やっぱり仕方ないでしょ。」という。でも、すっかり疲れたらしくて、その日はさっさと寝てしまった。明日試験なんだけど…。 いや、普通はね、数日前から計画的に少しづつ持って帰っているものなんですけどね。普通の人は…。 どうせ、普通じゃないし。 それで、結局翌朝四時半に起きて勉強していた。 朝の「おきなさーい。」をやらなくてすんで、私は助かりました。 健闘を祈るぜ。
2006年12月10日
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月曜日の朝、地震があった。その日の夕方母と電話で喧嘩した。その次の日にも続きの喧嘩。息子の乗る地下鉄は人身事故で朝トラブルとなり、我が家の近くのマンションでは、夕方火事になった。 磁気嵐が吹いていたのかもと、私は相変わらず、くだらない想像をしています。 磁気嵐は人の心を不安定にする。 普通の風や嵐のように音や姿が見えず、普通の人間の五感ではわからない。 だから自分の気持ちが不安で、いやな気分になっていてもそのせいだなんて思いもよらない。 けれど、磁気嵐のふいている時は人の心が不安になる。 普段あまり電話をかけてこない母がめずらしく夕方電話してきたのも、磁気嵐のせいで、さびしくなっていたのかもしれない。 でもね磁気嵐のせいで、私の方もいらいらしていたのかもしれない。 最悪である。 こんな時は電話なんかかけずに家でじっとして体を休めた方がいいのかもしれない。 あったかくておいしいものを食べて、さっさと寝るに限る。 昔の人はこういうのを、「逢魔」あるいは、「通り悪魔」、「魔に取り付かれる」と言った。なかなかうまい。目に見えない、存在のわからないもの、人の心を不安にさせるもの。 磁気というのは、でも、地球上にあって、地震なんかでも、激しくなったり、磁場の強い場所があるらしい。これは、科学的な研究による。磁気嵐というのは、太陽のフレアが原因なんだそうですが。 姿の見えない魔が、科学の目で、磁気という正体を見せる。 うーん。天気予報みたいに、磁気予報なんてないのかな。 人とトラブらないようにご注意ください。とか、今日の自殺願望は磁気のせいによる気の迷いですから、あさってまでお待ちくださいとか、テレビでやってたら、面白いな。
2006年12月09日
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念願の映画。やっと見れました。 主要な登場人物4人 主人公 エヴァンその恋人 ケイリーケイリーの弟 トミー友達 レニー注 トミーはDVDでは、兄と訳されているけど、どう見ても弟に見えたのは私だけでしょうか。 一匹の蝶が羽ばたいた結果、地球の裏側で竜巻が起きる きみを救うため、ぼくは何度でも過去に戻る それは、神にも許されない行為 映画『サウンド・オブ・サンダー』では、過去の蝶を靴の裏で踏んづけてくっつけてしまったまま、現在に戻ってきてしまったために、現在が変わっていくという物語でした。なるほど。『バタフライ・エフェクト』というタイトルはここから来てるのか。と、思ったんですけど、それとも、蝶によってタイムパラドックスを説明した話があるから、『サウンド・オブ・サンダー』で、タイムパラドックスのきっかけのものを蝶にしてあったのか。わかりません。どっちがさき? というわけで、時間を跳ぶこの話はSFなのか? と言うとそうでもなくて、不幸になった恋人を救いたくて、何度もタイムリープにトライする主人公の話。なので、ラブストーリーかなあと思う宣伝文句なんだけど、実はその裏に現代アメリカの若者と子供たちに向けたお説教に近いお話。だから、話を無理なく設定し、引っ張っていくために主人公がこだわる理由にぞっこんの恋人のためのタイムリープという設定はぎりぎりというところでしょうか。 そして、やっぱりアメリカ映画なので、説教話としては、道徳や倫理を説く上で、やはりキリスト教は欠かせない。だよな、やっぱり。 だから、物語の中で、前半メインキャラクターたちが見ている映画が『セブン』であったりする。これはつまり、七つの大罪と七つの美徳を暗示しているわけらしいです。 他にも、主人公エヴァンが刑務所で同室の男の協力を得るために、彼を説得するため、過去に一瞬だけ跳んで両手に聖痕をつくるシーンがでてくる。 つまりここで彼はキリストとなったということか。同室のやたら信仰心の高そうな男はじゃあ、洗礼者ヨハネを意味してでもいるのでしょうか。悪夢のようにいじめられまくりの監獄の中で、彼だけはエヴァンに優しい。 物語は、自分の過去にだけ跳ぶ事のできる主人公エヴァンが、恋人ケイリーを救うために何度も過去に跳んで、現在を塗り替えていくものだ。 4人のメインキャラは、そのたびにいろいろな人生を与えられる。娼婦、犯罪者、障害者、がん患者、精神障がい者、身体障がい者などなど。 見ていると、結構ハードです。 さらに子供時代の彼らは、13歳のくせに、タバコは吸ってるし、よその家のポストに爆弾を入れてるし、犬は焼き殺すし、友達は殺すし、ひどいです。 とにかく現代アメリカの若者や子供ってこうなのか?ひどいなあ。アメリカってこれが当たり前なのかなあと思ってみてると、それがね。だんだんね。変わってくるの。 最初は、エヴァンだけが、大学生で、過去のことを思い出して、ケイリーに会いに行く。ケイリーは安い場末の店でウェイトレスをしている。エヴァンに悲惨な過去のことを聞かれて、自殺してしまう。エヴァンは、なんとかケイリーを幸せにしたくて、タイムリープをはじめる。 一度目のリープで、エヴァンとともにケイリーも大学生となっていて、美しいケイリーは幸せそうだ。ところが、そのために刑務所にはいってしまったケイリーの兄のトミーと、出くわして、彼を殺してしまったエヴァンは、今度は自分が刑務所にはいってしまう。 過酷な刑務所から脱出しようと二度目のタイムリープ。 以降タイムリープのたびにだんだん彼らの運命は悲惨になっていくように見える。しかし、順を追ってみていくと、実は四人の未来は少しづつよくなっている。最初大学生はエヴァン一人だった。けれど、パターン2では、エヴァンとケイリーの二人が大学生。パターン4では、四人とも大学生。そして、パターン6では、全員大学生で、しかも、エヴァンは医者。ケイリーはキャリアウーマンになっている。 パターン1 エヴァン 州立大学の大学生 ケイリー ウェイトレスそして自殺 レニー ひきこもり トミー 少年院そして工場の工員 パターン2 エヴァンと、ケイリー エリート大学生 トミー 少年院 パターン3 エヴァン 大学生 ケイリー 娼婦 トミー レニーに殺され死亡 レニー 廃人状態 パターン4 エヴァン 爆発のショックで手と足を失い障害者 ケイリーとレニー 大学生、恋人同士 トミー 信心深い大学生 エヴァンの母 肺がん患者 パターン5 ケイリー 死亡 エヴァン 病院にいる パターン6 全員大学生、卒業、 そして8年後 エヴァン 医者 ケイリー キャリアウーマン 物語としては、二人は結局結ばれない。悲しい悲恋の物語ではあるのだか、しかし、四人の人生はタイムリープを重ねるにつれて、じょじょによくなっているのである。 タバコをすったり、爆薬をしかけたり、そんなことしてると、将来はろくなことないよ。それより、きちんと正しい行いをしていけば、いい未来が待ってるんだよという、キリスト教をバックにした、説教というか、現代の若者に対しての実は訓話の物語なのである。 前半で彼らがみている映画『セブン』は物語の重要な複線となっている。エヴァンがタイムリープを繰り替えして作られる未来も7パターン存在する。と思うのですが、私は6つにしか分けられなかった。DVDニに入っているアナザーエンディングをいれれば、7つのパターンになるんじゃないかと思います。けどね。これは、七つの大罪におき変えられるのかも知れない。さらに最初の方でエヴァンが父の埋葬の帰りに車窓から見える墓場の中に、十字の墓のひとつがわずかに光る。エヴァンの手に作られる聖痕は、エヴァンをキリストと見立てている。神にしか許されない行為をキリストであるエヴァンは繰り返す。 キリストが人類の罪を背負って十字架に架かったように、エヴァンもまた、タイムリープのたびに他の三人が受けていた不幸をその身に引き受けてしまうようになっていくとも取れる。 細かいキリスト教の教えを知らないのだけど、もしかしたら、もっと他にもいろいろあるかも知れない。 ラスト、二人は結ばれない。彼は己の欲望を捨てることではじめて、ケイリーを救うことができる。 結ばれることができなくても、彼女の人生がしあわせなものであるのなら。 ラストシーンで二人がビジネス街の中ですれ違う。七歳の時に会ったっきりなのだから、ケイリーの方はエヴァンのことをもちろんわからない。けれど、エヴァンは、もちろん気がつく。最後の人生では、七歳で別れたきりだけれど、エヴァンの方はケイリーを忘れていない。忘れられるはずもない。 神様が、決して結ばれない、結ばれてはならない恋人に、最後に一度だけ、エヴァンをケイリーに、あわせてくれたのではないのかなと、ちょっと想像してみた。 やっぱり神様にはかなわない。 純潔をあらわすケイリーの真っ白なスーツ姿がなんともいえず、美しい。 まるで、花嫁衣裳のようで。 映画ビデオ、映画DVDバタフライ・エフェクト@映画生活
2006年12月08日
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やっと準新作扱いになって安くなったから借りてきた。 かちんこちんで融通の利かない県庁のエリートが、民間スーパーで働くうちにだんだん人間らしくなっていく。という話だと思ってたんだけど、それだけじゃなかった。前半は確かにそういう話なんだけど。 箱物行政とか、クレームをつけてくる民間団体とか、けちをつけるのが好きなマスコミとか、あたりまえだから、当然出てきたけど、お話自体は、必ずしも腐ってるのは、役所だけじゃないだろと、そういうお話だったのかなあ。 出向いた先のスーパーも、在庫だらけの倉庫とか、古い売れ残った食材で作られた惣菜とか、すごく当たり前なんだけど、エリート県庁さん(織田裕二)には、がまんできなかったみたい。 でも、「そんなこといってたら、採算取れないの。そしたらスーパーつぶれちゃうの!」と、指導係のパートのお姉さん(柴崎コウ)は怒り出しますけど。 ところがスーパーをつぶしそうになったのは、実はそういう危ない管理、経営体制でした。 在庫だらけの状況や、衛生管理のずさんさが警察や保健所、消防署などのお役所に摘発されて、スーパーは営業停止となったのでした。 それで、後半、県庁さんが活躍し始める。きちんとした、在庫管理。衛生管理。マニュアルづくり。ルールづくり。 婚約者にふられ、同僚に先をこされ、目指していたプロジェクトまではずされて、県庁さんは人生で始めての挫折を味わう。 今までずっとトップの成績でここまで来たんだぞと、すでに聞き覚えのあるようなセリフがやっぱり出てきた。実際官僚さんて、人生に一度も挫折しないで着たからこそ、ここまで出世してきたんだものね。 やっぱ、人間挫折は必要みたい。 少しづつ人間らしてなっていく県庁さんは県庁に戻って、新たな視点でお役所の仕事を変えていってくれるのでしょうか。 たのしみであります。 ラストで県庁の最上階のラウンジの職員専用のコーヒーは一杯百円と、有料になります。 物語中なんどもコーヒーを飲むシーンが出てくる。ところが途中から、県庁さんはそのコーヒーもスーパーでだしてくれる安いインスタントコーヒーすらも、飲まなくなる。何でだろうと思ってたら、こういうことだったんですね。 体制を大きく変えるのは大変だけど、でもまずは自分の目の前から。近いところから、変えていく。 できないなんて思わずに、懲りずに根気よく、あきらめず。気長に少しづつ。と、そういうことでしょうか。マザーテレサのように。 役所も民間もよくなるのも悪くなるのも、中にいる人間しだい。役所だからでも、民間だからでもない。と、そういうことのようです。 日本映画、邦画県庁の星@映画生活
2006年12月07日
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