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輝くような素敵な未来に出会うために、今、何をしたらいいんだろう。 ラブストーリーではありますが、作品中に盛り込まれたたくさんのメッセージにどきどきしながら見てました。 特にすばらしかったのが、未来のケイト(サンドラ・ブロック)のためにケイトが住むマンションの玄関の前に、アレックス(キアヌ・リーブス)が苗木を植えるシーンです。アレックスの時代にはまだこのマンションは建設中なのですが。(だから、できるんだけど。)時を越えて手紙をやり取りする二人を表現する中で、二人が同じ場所にいるシーンが何度も出てくるのだけれど、特にこのシーンでは、アレックスが植えた次の瞬間に、マンションの前にいるケイトのすぐそばに一瞬にして成長して大きく葉を広げた木が映し出されるのです。こんな風にリアルタイムに見せられることで、現実には今植えた木が将来どのくらい育つのかわからなくても、未来のためにたくさんの木を植えたい、自然を大切にしたい、未来に生きる人たちのために。そんな思いにさせてくれる、素敵なシーンです。今自分がする行為が未来に生きる人にどんな風に影響するのか。とてもわかりやすい場面なんですね。 「タイムリープなんて普通のことだし」と語ったのは、アニメ『時をかける少女』の中に登場する和子おばさんですが、最近本当に、タイムリープや、タイムスリップや、タイムトラベルは、SFではなく、ごく普通のドラマに使われるネタになっていて、時間を飛ぶくらいじゃSFですとは言えなくなっているくらい、確かに普通のことですね。(現実ではもちろん普通じゃないけどさ。)本来SFであったはずのアニメ『時かけ』は、普通の青春ドラマとして作られていたし、昨年末に放送された戦争ドラマ『終わりに見た街』もタイムスリップしているのに、普通のドラマの扱いでした。 そして、アメリカの有名な物理学者ホーキンスによって、時間旅行や、タイムスリップがありえないことを証明されてしまった今、SFでは、禁忌であったはずのタイムパラドックスを破るような物語が出現し始めているのもまた、面白いなあと思う昨今です。どうしてタイムトラベルがありえないのかは私なんかには全然わかりません。証明の論文も当然読んでないし。てか、あるの、そんなの。でもとにかくできないんだって。ちょっとつまんない。がっかりだなあ。 なにしろ、今まで、SF小説ではタイムパラドックスを起こすような行為をすることは絶対禁忌でしたから。そのためにずいぶん悔しいような、苦々しい、いらいらする思いをタイムスリップ系の話で味わってきましたが。だから、この手のものは今までは、必ず悲恋だった気がします。 それが最近、逆にあえて、未来から過去の出来事に干渉するような、タイムパラドックスルールを違反するようなお話が作られ始めていて、面白い。ここでこうしていればうまくいったのに、ということを実際にやってみて、運命をいい方向に変えていこうとする物語ですね。 そして、そういうパラドックスをあえて無視することで展開していくこの物語に、見ている側は新しい発見と爽快感と心地よさを感じます。そして、そういう展開の中で、自分たちがどんな行動をとれば未来はよくなっていくのかを改めて考えさせてくれる物語といえます。 特にこの物語では、親子の関係が描かれています。すでにいない父をとても大切に思うケイト、父親と意見の対立に悩むアレックス。「どうして前の男性と別れて自分の父と結婚したのか」と、問うケイトに対して、「だから今あなたがいるのよ」と答える母。有名な建築物しか作らない父に対して、ごく普通の大衆向けの住宅作りにこだわるアレックスの行動は、暖かい家庭を与えてくれなかった父へのアンチテーゼなのか。心の叫びなのか。それでも、あえて、父が設計し、子供時代に暮らしていたかつての湖の家を、わざわざ購入して住んでいるということは、やはり彼は父からの愛を求めているのだろうから。ケイトの計らいによって父の愛を再確認して、湖の家の中で涙を流すアレックス。 お互いにお互いを思って、小さな気遣いを、二年という歳月を乗り越えて伝え合う二人の優しさをみせてくれるエピソードの一つ一つもまた、感動を誘うのです。 二年前。まだアレックスを知らないケイトに出会うアレックス。サプライズパーティーでケイトと踊るアレックスのいとしそうな表情はまるで、若紫を大切に育て、彼女が成長する日を待っていた光源氏のようでした。そう、二人は運命の恋人だけれど。やはり、くるべき時がこなければ結ばれることは許されない。もっとも、光源氏も我慢できなくて、ちょっと早めに手をだして、若紫の怒りを買っちゃってましたけどね。 本来出会うはずのない二人を出会わせたものは何なのでしょう。 それはアレックスの父が愛を込めて作った湖の家にこめられた力なのでしょうか。 人が愛して大切にしたものには魂が宿ると言います。 二人が別別に暮らしていた同じ一軒の家。アレックスの父が愛を込めてつくり、ケイトが大切に暮らした湖の家が父との心のずれに孤独を埋めきれないアレックスのさびしさとリンクしたのかもしれません。 自然も家も人もどれもみんな大切にして暮らしたい。 素敵な未来に出会うために。 ところで私はあの湖の家にはちょっと住みたくないなあ。だってものすごーく寒そうなんだもの。夏は涼しくていいとは、思いますけどね。前面ガラスぱりで、湖の上に立ってるなんて、絶対寒いよ。どんなに暖房入れたとしてもね。それに、前面ガラス張りなんじゃうっかり裸で家の中歩き回れないじゃん。いくら隣近所に一軒も家のない場所だといってもね。それになんか怖い。落っこちそうで。それにしてもこんな家の中にいるのにまるで外にいるような気がする家、流行ってますね。 私も自分の家を大切にしないといけないのかも。お掃除まじめにしませんと。片付けもね。と、思いつつ、ゲームに夢中でサボってます。すみません。 ちなみにラスト、泣きました。最近涙腺がゆるいのかなあ。 アクションものの多い二人ですが、しっとりとした恋愛映画、ぴったりはまって素敵でした。しょうゆがおのキアヌ・リーブスが素敵。『マトリックス』で有名だけど、私は彼の『雲の上で散歩』も好きです。いつもおてんばなサンドラ・ブロックも、聡明で心優しくて、ちょっとさびしがりの女医さんがかわいかった。イルマーレ公式サイト 予告編をご覧ください。
2006年09月28日
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FC2ブログを読みに行ったら記事一覧の機能ができていました。おお、ありがたい。 私が楽天を好きなのは、とにかくいろいろ不備はあるにしても、記事一覧があるからです。よそのブログをいろいろ見に行くととにかく過去記事を見るのが大変。映画ブログとか、検索機能がついていればまだ、なんとかなりますが、それでも、過去の面白そうな記事を見つけ出すのが大変。 一生懸命書いてるのに、一日ないしは数日で読んでもらえなくなっちゃうなんて悲しいじゃないですか。ブログってでも、所詮そういうものではあるけれど、ほかの人の記事だって過去の面白い記事読みたいです。でも、ほかのところはなにしろいろんなブログがあるので、それぞれシステムが違っていて、どこをどうしたら、過去記事が読めるのか、探し出せるのか、わからないことが多いです。 だから、記事一覧がある楽天はすばらしいと思うよ。ほかにこの機能のあるところって少ないんですよね。てか、この二つ以外知りません。場合によっては、月ごとに記事が数行出てくるものもあるけど。それでも、タイトルだけの一覧があるとすごく助かる。 過去の記事でも、コメントいただくとすごくうれしい。わたしは、全部見てますから、過去記事でよもろしかったら、気にせずコメントくださいね。ちなみにコメントつけても、お返事をぜんぜんいただけないところもある。ちっとさびしい。 ということで楽天さんこれからも、がんばってね。 ところで最近トラックバックがすごくつけにくいし、つきにくい。これは楽天のせいだけじゃなさそうだけど。それでも、何とかなんないですかねえ。トラバのURLをコピーすると、三つくらいつながってでてきたりとか、するし。 トラバは、もらうとうれしいので、早く何とかしていただきたい。 もらったトラバを張り返しに行くと、どうしても、トラバがつかないときもあります。何でなんでしょう。とにかく何とかなんないでしょか。 よろしくお願いしたいです。 『秋景色』
2006年09月27日
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感動しちゃった。ネタバレしつつ書きますが。 母は強しデスね。 飛行機の内部構造をこんなに見事に見せてくれた映画って初めて。フードサービスの一部にあんなエレベーターがあるなんて予想だにしていませんでした。本当にあんなところにあんなものがあるのでしょうか。それとも映画のための丁稚上げなのだろうか。本当だとしたら、すごいですが、あんなにいろいろな飛行機の中の内部事情を公開しちゃっていいのでしょうか。これから飛行機に乗る人がまねしちゃったりしないのですか。心配であります。だって、トイレの上にも天井裏に抜けられるドアがあるなんて。 もっとも、アクション映画によくででくる、普通のビルに設置されたエレベーターの天井部分の脱出ドアだって、本当はないそうだから。やはりあれはあくまで架空の構造なのでしょうか。誰か教えてほしいよ。 ただ、あの構造が本当だとしたら、すごいなっと思いつつ、手に汗握ってみてました。だって、天井裏やら、貨物室やら機械室やらあっちからこっちまで行くのに、いくらでかい巨大旅客機とはいえ、閉鎖された限界のある密室空間の中を駆け巡りまくりの映画ですからね。 それにしても、子供のいない人とか、まだ若い人だと、ただのヒステリーばあさんにしか見えないだろうな。 スタートからすでに死んでるだんなの遺体なんか出てきて、なにやら異様な雰囲気です。ぴりぴりした感じのヒロイン(ジュディフォスター)ですからね。そして、さらに六歳の子供にしてはやけにおとなしくてびくびくしてるヒロインの娘。いくら父親が亡くなったばかりとはいえ、不思議な感じをあおるわけです。その上すぐ前の席にやたらにぎやかでやんちゃな子供が登場してくることで少女の違和感はなおさら。タクシーに乗る時も、飛行機に乗る時も、誰も見てないような状況作りからして、見ているこちら側は、もしかしてこの少女は主人公の意識の中にだけ存在する幻影なのか。ヒロインはちょっとおかしいのかな。という展開だと、信じ込みそうになってきます。もちろん、作る側はそれが狙いなわけだから。でも、中盤に差しかかるあたりで、あまりにそれらの設定がありすぎなので、これはもしかすると、少女は生きて現実に存在してるんだろうなと想像するちょうどそのあたりで、実際に誘拐され、貨物室に隠されている少女の姿が映し出されるわけです。やっぱりー!とみてるこちらもうなる。そこからストーリーの流れが一気に変わり、全体にアクションものになり始める。母は強し。ここではやり、子供をもつ母だからこその切迫感なわけで、これが父親とか、だとどうでしょうね。子供を奪われているという設定ゆえにこそ、主人公の必死さにみてるこちらも必死になってみてしまいました。 私も娘が誘拐されたら、命がけで助けるぞー。 「娘なんていなかった。」「すでに死んでるんだ。」「飛行機に乗った記録はありませんよ」なんて言われちゃうと果たして人間はどこまで自分を信用できるものなのか。説得する側は、保安官、キャビンアテンダント、機長と、飛行機の中では絶対信用できるはずの人たちなのだから。「絶対安全で信用できるやつが一番危ない」と言うのは、推理小説の常道なんだけど、もし、現実にこんな状況下におかれたら、はたしてどれくらいの人間が、自分の記憶の方が正しいと信じきれるか。そして、相手に主張しきれるか。 私わかんないです。その場になってみたいと。でも、他のことならいざ知らず、わが子のことに関しちゃ、やっぱりがんばっちゃうかもしれない。 それにしても、自分が設計したゆえに知り抜いているであろう機内を縦横無尽に移動し、ハイジャック犯と戦うジョディフォスターは圧巻です。 同じ設定でちょっと前に作られた映画、『フォーガットン』の駄作ぶりと、ネットのナカの評判ではあまりいい作品じゃないみたいなので、見るのをためらっていました。でも、やっぱり結末の謎がどうしても知りたいという欲求に、つまんないかもしれないのを覚悟の上で借りてきましたが、傑作じゃないかー。だれだ、つまんないとか書くやつ。 ただ、ハイジャック側の計画ってホントにこんなにうまくいくんですかね。もし、ヒロインがもっと気弱な人物だったら、どうなのかなとか。本当に誰にもきずかれずに、女の子を誘拐して隠したりできたものかなとか。ちっと疑問が残るんですけど。 「密室殺人」ならぬ、「密室ミッシング」の映画ですね。 これから、こういうカテゴリーが推理小説の中に確立すると、おもしろいかもしれない。殺人と違って、最後は必ず生きてどこかに隠れてる、ないしは隠されてると言う話も面白いじゃないか。
2006年09月26日
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先週に引き続き今週の日曜日も高校の文化祭見学してきました。 先週見たところがいいところなら今回の学校は別に行く気なかったんだけどな。 東京ナカの学校なので結構派手。しかも、よその高校の生徒が結構来てる。ヤマンバっぽい高校生もいたし、どれが、本生徒なんだか、わからない。よくあるパターンの制服なので見分けつかないし。 お行儀悪いというか、はじけちゃってるのは、まあイマドキの高校ならどこでもおんなじなんだろうな。だから、きちんとして、礼儀正しいことを要求して高校生を見ようとすると、見誤ってしまいそうで、文化祭を見極めるのは難しい。でも、あの学校は果たしてうちの娘にあうのかなあ。 娘の意見としては「食べるものがおいしかったから、結構よかった」ですと。おい、違うだろ。 でも、チアガールのダンス、なんとなく、時間があったので見てしまいましたが、よかったです。きちんとそろっていて、これは相当練習しただろうなというのがわかります。高校生ってかわいい。そんでもって、男子高校生が応援してて、若い子達は元気だなあ。他校に見学に来て、かわいい子いないかなと思ってみてるんでしょうか。女の子のミニスカートといい、エネルギーむんむんで有り余ってますね。若い子が元気なのは国に活力があるってことでいいことだと思うよ。お下品だけど。 ただ、美術作品を見ると、先週の学校のものの方がいい作品が多くて、質がよかった。技術的にも先週のほうがレベル上です。こういうところでちょっと考えてしまいます。 先週見た学校よりは気合があったけど、どうでしょう。もう少し近いところにレベル同じの高校がもうひとつあるんだけど、娘は制服がいやだって言うしね。 毎週文化祭で疲れましたが、この後いろいろと学校説明会もある。来年は忙しくなるから、今年いけるところは今年行ったほうがいいのです。 なんかめんどくさくて、受験生の母も大変です。しかーし、その横で娘は遊んでて、勉強しとりませんがな。 『奥入瀬 晩秋 』
2006年09月25日
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EBさんのブログで玉の井部屋のブログが紹介されていました。 いやー。このティーシャツすごいよね。 てか、英語がね。 NO CHANKO NO LIFE だって。 直訳すると、ちゃんこはいや。生きてるのもいや。 となるのかなと思ったら。 ちゃんこのない人生なんてありえない と訳すんだって。 この言葉は、某レコード会社のNO MUSIC NO LIFE ってのがネタモトらしいです。 音楽のない人生なんてありえない。おお、すばらしい。しかし、 英語って…わからん。 日本語と基本構造とかがそもそも違うんですね。 がーーーーん。そんでもってうーーーーーーん。 というかんじでしょか。 ところでこんなティーシャツ自分もほしいとか思いませんか。 CHANKO の部分に自分の好きな言葉を入れるといいわけですね。 NO CHOCOLATE NO LIFE とか、 NO RAKUTEN NO LIFE とか、 … これはちがうか。 ところでそんな自分だけのティーシャツが作れるところがあります。 ちなみに専門用語で、ドロップシッピングというんだそうだ。ますます英語ってわからん。 自分が着たいティーシャツをつくったり、自分で考えたデザインのティーシャツを作ってブログやネットで売ったりできるらしいです。ただのイラストだと売れないけど、ティーシャツにすると、以外に売れちゃうデザインてあるでしょ。楽天のフリマなんかで、自分のブログを介して、売ったりもできるわけだし。自分ちの猫ちゃんの写真をティーシャツにしちゃつたっていいもんね。 ちなみに私は以前ホワイトハウスで記者会見の時に後ろにかかってるホワイトハウスの絵をデザインしたトレーナーがほしいと思ったことあります。きれいなブルーだと素敵だろうなっと。でも、一枚だけなんて作ると高いし。 いまのパソコンて技術的には、自分でも、できるんですよね。でも、それにはいろいろ機会も必要だし、技術も学習しなけりゃなりませんしね。 でもって、もっとらくーに作れるらしいですよ。ここのサイトだと。私はまだ、作ったことないけどさ。 で、よくわかんないけど、普通の商売のように、在庫の心配とかはないらしいです。ま、一枚から作れればそりゃそうだよね。 場合によると、発送や代金回収もやってくれるそうだ。ま、商売もいいし、自分が着たいティーシャツを一枚だけ作るのもいいですね。
2006年09月24日
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武器商人といえば、映画では、悪役のはずなのに、この映画では、武器商人が主役です。ねたばれありありですからね。武器商人である主人公ユーリーの仕事ッぷりは見事なのものです。いくら主役でも、悪者なんだから、と思いつつ、コミカルで面白いシナリオにみているこちらはついつい主人公に味方して、気持ちも同調してみてしまう。インターポールのバレンタインに追われているユーリーが捕まりそうになると、はらはらし、うまく逃げ切るとやったーとつい応援してしまう。 しかし、ラストでいよいよ捕まってしまったユーリーが上からの圧力で釈放される。ここにいたって武器商人なんて所詮大きな力に使われる子飼いに過ぎない。と監督は語る。 戦争は儲かる。武器を売りさばくことはそれ以外のどんな商売より利ざやがいい。戦争より儲かる商売ができない限り、地球上から戦争がなくなることはないのだ。毎度何度も書いていることだけれど、戦争に頼らずになりたたせることのできる経済システムを作り出さない限り、世界から戦争がなくなることもない。その呪縛は国家すら、解きほぐすことができずにあえいでいるのだから。平和を訴え、国連軍を作りながら、その裏で武器商売をする現実を、じゃあいったいどうすればいいんだろうかと、映画を見終わった時、考えてみてほしい。 映画の冒頭でユーリーが言う、「地球上のすべての人間一人に一丁の銃を売るんだ」という言葉は、実はそれくらいになるまで世界の先進主要国はどこもみんな、平和と国連を言いながら、影で武器を売りさばいて儲け続けていることを、指摘しているわけだ。 ロシア人でありながらアメリカに亡命したユーリーは武器商人となる。タイミングよく、ソ連崩壊のチャンスに自身のロシア語とロシア国内の人脈を使ってかつてのソ連軍の武器をいち早く買い付けることに成功する。ここにいたって、なぜ彼が、ロシア人という設定だったのか納得なのだが。アメリカに住むロシア人とはなんとも皮肉なそして、絶妙な設定だ。 かくて、金持ちになった彼は雲の上の存在だと思っていた憧れの美女を妻にする。 美しい妻のために命がけで仕事をする男。 彼の現実に気づかないフリをして、画家や、女優を目指して自己実現に忙しい妻。 女の自己実現が男の命がけの仕事の上にあるという皮肉さは、なんともはや。 自分の人生を生きようとしながら、所詮夫の手のひらで踊っているに過ぎない女。 妻のために命がけで働き、あるいは妻の望みで武器商売をやめても見る。その夫もまた、国家という大きな力の手のひらの上で踊らされているに過ぎない。 それは、正義を目指して自分の仕事に忠実に生きるインターポールのバレンタインもまた同じだ。 みんな自分の人生を必死に生きようとしながら、他者に踊らされているに過ぎない。それでも、必死に生きているんだ。 夫の仕事の真実を知って、「やめてほしい」と願う妻が、かつてモデルとして、夫の行く戦場のあらゆるとこに貼られていた彼女のポスターは、彼女もまた、戦争の上がりでその収入を得ていたという皮肉なのだろうか。 戦争の皮肉も、個人の人生の真実の皮肉も、いろんな意味合いで描かれていて、見終わってうーんとうなりつつ、納得する映画です。 そして、普通の人が普通に見て解りやすい。 ニコラス・ケイジ。相変わらず渋い。 ロード・オブ・ウォー@映画生活
2006年09月23日
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それにしても、岩波ホール入ったの初めてです。若い頃はしょっちゅう神保町あたりうろついてて、ここのことは知ってたんだけど、入ったことなかった。そして、いまだにプライド高い映画館だなあ。イマドキどこでもやってる水曜サービスもないし、整理券の配布もないし、席は高低差がほとんどなくて、すこぶるみにくいし。劇場は小ぶりなままですし。そして、自分たちがいいと思う上作しか上映しないその独自路線はいまだに変わらない。岩波ホールなら、まずはずれはないんでしょうね。名だたる単館上映館です。もっとも映画を見た帰りに「整理券配ってほしい」と他のお客さんが怒ってたけどね。 ちなみに今の時期はすでに以前ほど混んでいないと思います。ホームページには混んでますと書いてあるけど、休日以外は普通に行って、普通に座って見られます。それでも、平日でも、あの入りはすごいですね。満席まではいきませんけど。シネコンが当たり前の昨今。逆に単館上映の映画が新鮮であります。ところで、劇中に見合いの席に出すためにおはぎが作られます。戦中のもののない時代に、いくらやりくり上手な兄嫁とはいえ、小豆なんて、ずいぶん贅沢だなと思ったのですが、よくよく考えてみれば、おはぎというのは、春と秋の彼岸に作られる食べ物です。死者への弔いの食べ物なのですね。ここまで考えるにいたって、監督は戦争で死んでいった当時の兵士たちへの慰霊の気持ちも込めて、登場人物たちに劇中で、おはぎを食べさせたのだなと思いました。悦子の見合いの席で、明石と永与と、悦子がお膳を囲んで、おはぎを食べるシーン。何気ないもてなしのシーンだけれど、この中に監督は太平洋戦争で死んでいった人たちへの慰霊の思いを込めて、彼らにおはぎを食べさせたのですね。 静かで何気ない映画ですが、その何気ない描写の一つ一つに、監督の語ろうとするものが多くひそんでいる映画でもありました。 明石が特攻として飛び立っていったこともそののち死んでしまったことも、永与の言葉で語られるだけです。今までの映画であれば、戦闘機に乗っている明石とそのそばで別れを告げる永与。明石の最後の言葉、うなづく、永与。飛び立っていく戦闘機。太平洋上で撃ち落されるシーン。そんなのが画面にあったと思うのですが、この作品では、そういうような描写はあえて、一切なしなのです。 戦争を娯楽映画にしたくない。監督の作品は一貫して、静かに反戦映画なのだそうです。 もうひとつ、ところでですが、兄嫁役の本上まなみ。正統派の美人で原田知世と好対照でした。知世ちゃんかわいいけど、ちょっとしたすきにビンボーくさいところあるんだもの。そして、あの時代に珍しくかなり自分の気持ちをストレートにいうタイプ。現代っ子代表という感じで、あの時代の理不尽を現代人が見る時の違和感を見事に代弁してくれているのですね。「戦争なんて負けてさっさと終わればいいのに」とか、「悦子ちゃんが好きだから、悦子ちゃんと一緒暮らせると思って悦子ちゃんのお兄さんとと結婚した」とか、自分の本音をためらいなく、語る。とにかくよく喋ります。明るくてとても活発そうです。時代に泣かされない女性を対称的に描いてあるのもまた、計算されたシナリオの見事さなのでしょうか。 そして、彼女によって悦子が同姓にも好かれるような女性であり、明石少尉を慕っていることも語られて、見ている側は、すんなりと悦子の心の中に入っていくことができるのですね。 映画の中のおはぎがあんまりおいしそうだったので、私も始めておはぎを作ってみたけど、難しい。ラップのない時代に美しいおはぎを作るのは大変そうだよ。昔はみんな手作り。安くて、安全でとても、おいしい。今はネットのおかげでレシピにも苦労しないですむし。ちょうどお彼岸ですからね。
2006年09月22日
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願わくは花の下にて春死なん ヒロイン紙屋悦子の思う人は、紙屋家の前に咲く満開の桜の下を去って行った。紙屋家で悦子に最後の別れを告げた後に、戦地へとおもむいて行った。おりしも4月10日。沖縄特攻の直後である。 「昭和20年は確か、終戦の年だったよなあ」と乏しい知識を振り絞って見てるものだから、情けないです。あと数ヶ月で戦争は終わるはずなのになとか。 戦闘機乗りである自分は戦地で死んでしまうだろうことを考えた時、明石少尉は自分の思う女性を信頼できる友に託すことを決める。 惚れているはずの相手が見合いの話を持ってくる。 悦子は一度も明石少尉に好きだと告げたことはないし、明石もまた、彼女に告げたことはない。はっきりとした意思表示の言葉のほとんどないままに、登場人物たちはそれぞれに相手の本意を知り、相手の心を察して、ほとんど直接の会話のないままに、物語は進行する。 シナリオはとてもよくできていて、見事でした。 そして、まるで舞台のように、物語はほとんど、紙屋家の茶の間、客間、台所、玄関の前の桜の道だけで進んでいく。シナリオはとてもよく書き込まれていて、登場人物たちはとてもよくしゃべる。ほとんど、動的な演出のないまま、セリフがえんえんと続く。にもかかわらず、肝心なヒロインと二人の少尉の心中を語る言葉はほとんどない。しいていえば、見合いの席で、永与少尉が自分の本意をつい漏らしてしまうくらい。それすらも、会話の中にかき消されてしまう。 語ってはならないそれぞれの思い。 くしくも、『男たちの大和』の沖縄特攻のその直後に、明石少尉はその命を絶つのだけれど、『大和』や、それ以外の多くの戦争映画のように、血しぶきの飛ぶような残酷なシーンはない。ただ、ヒロイン悦子とその家族とその友人との、ごく静かな日常が描かれているにすぎないようでありながら、会話の端々に戦争の現実が語られる。 戦争の激しい描写を一切せずに、戦争の悲惨を語ろうとする監督の描写は見事である。 平和な時代であれば結ばれたかも知れない二人が、戦争ゆえに結ばれない悲しさは、物語の進むにつれて、切なく心にしみてくる。 自分のいなくなった後に、愛する人が幸せに過ごせるようにと、信頼できる友人を彼女に引き合わせるために、友と二人で紙屋家を訪れる明石少尉。 明石が悦子と永与のためにそっと紙屋家を去っていたことを、玄関先で知った悦子のせつなさと心の動揺がほんの数秒の時間の中で、原田知世の表情の微妙な変化だけで描写される。 そののち、特攻の前日に紙屋家を訪れた明石と悦子がお互いの思いを伝えないまま、お互いの思いを再確認する。明石が去った後の悦子の慟哭に涙がこぼれてしまった。 映画が始まった時、なぜヒロイン役に原田知世なんだろうと思ったのだけれど、映画を見終わった時、彼女だからこそ演じられた役どころなんだなと思った。 確かもう、三十は超えているはずなのに、彼女の少女のような笑顔は十代のデビューの頃と変わらない。そして、こんなに清らかな少女のままの笑顔がいやみなく、自然にできる女優さんも珍しい。というよりもこれは彼女の素地そのままなのだろうけれど。彼女の明るい、邪気のない、少女のままの笑顔ゆえになおさら、恋人と結ばれない女の悲壮が浮き上がってきわだつ。彼女でなければ、女の色気が表に立ちすぎてしまわない彼女だからこそ、見せることのできる演出なんだなと。 この映画で原田知世の演技はとても、見事だった。彼女がうまくなったのか、監督の技量なのか。この映画で始めて、原田知世らしい無理のない美しい演技を数十年ぶりに見た気がする。初めて、原田知世のもつ良さを前面に映し出して、原田知世ならではの演技と原田知世ならではの役を演じさせた監督はお見事。彼女のためにある映画だったと思う。 この作品は女がたってしまったら、ただのイヤミな作品に成り果ててしまうのだから。 言葉を語らずに心が語られる映画。久しぶりに見ました。チャン・ツイィーの『初恋のきた道』以来です。 願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃追記があります。『紙屋悦子の青春』公式ページ
2006年09月21日
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我が家にも庭はあるんだけど、花を植えようとか、花壇作ろうとか、そんな気にならない。 我が家はだんなの実家のそばなんです。姑が時々やってきて、庭の雑草も取ってくれます。結婚して、何十年、ずーっと。ところがその時に私が植えた花もとっちゃうんだよね。かつてはラベンダーを植えて薄紫の花を楽しんだりもしました。パセリも植えて見ました。どんどん増えてくれました。 ところが、姑の雑草刈りの時に「これは抜かないでね」と頼みもしましたが、気がつくとどんどん刈り取られてしまう。ちょっと気を抜くと、私が植えたいろんな花が抜かれて、刈り取られてしまう。 うちの母が植えた花も「これ嫌いなんだけど、抜いていいかしら」といって抜かれてしまったし。私もそれはまあ嫌いだったからいいんですけどね。 ちょっときれいな花を咲かせる雑草もぬかれちゃうし。 その上私の母は母で、勝手に花や木を買ってきて家主である私の意志を無視して、植えちゃうんですね。母が植えた最大の木は柿木三本。これがね。ものすごくよく虫がつくんだ。 毎年夏になると、急に暑くなった翌日にブワッと毛虫が増殖してる。鳥肌をたてながら、それを高枝切はさみで切って、殺虫剤をかけて、ゴミ袋に入れて捨てるのです。大変です。これは、山茶花にもつくな。 私が唯一やるのが毎年秋に植えるチューリップの球根。これだけは、やってます。何にもしなくても、翌年にはきれいな花が咲くし、所詮一年ものなので、姑に抜かれる心配もない。 ちっちゃなものは、いつ抜かれるか判らないし、庭木の大きなものは、私の趣味とは、ぜんぜん別物なので、毎年植木屋さんがやってきて、切っていきます。もうぜんぜん自分の庭じゃない。 たとえ私が自分で庭の雑草を刈ったとしても、私程度のやり方だと、てぬるいから、姑は気に入らなくて、やっぱり雑草とりにくるだろうし。何しろ姑は完ぺき主義のきれい好きなので、雑草は庭の隅の隅まで徹底的に抜いていきます。天晴れです。姑がいずれ、できなくなった時、我が家の庭はどうなるんでしょうね。 やっぱり、いざ雑草がもうもうとしてきたら、蚊が増えていやなものなのかな。 私はあんまり雑草を徹底的に抜いたりしたくないんですけどね。端っことかは残しといたり、本当はワイルドフラワーとかやりたい。 でも、当座はもう庭に関しては、私のものじゃないので、花を植える気もなーんにも起きない。 もっとも私はこの手のことは面倒です。好きじゃないだけかもね。だって抜かれちゃうなら、花壇作ったり、植木鉢でも、できるしね。でもでも、目の前に土の庭があるのに、植木鉢で花なんて情けないし。いやいや毎日水やるのが面倒なだけだ。 もう少しすると、植木屋さんがやってきて、庭の木はばさばさ刈られちゃうんだ。だから、春に花が咲かないんですよ。アジサイとか。 金木犀とか。 いつか自分の好きな庭を作りたい。 それでもはボケやかいどうや、金木犀、アジサイ、銀木犀、ボタン、百合、水仙、山茶花、椿、薔薇、雪柳、なんかが咲いて、少しだけ楽しませてくれますけどね。 やっぱ贅沢か。 そういえば高層ビルの上で花や野菜を育てると、高いところだから、害虫が来ないんだって。だから、農薬とか殺虫剤とかいらないんだって。そこらじゅうのビルの上が畑や花壇になったら、いいね。 まさに空中庭園ですね。いいなあ。 ↑この映画の場合はそんな優雅なものじゃないらしい。 ↑植えるなら今です。
2006年09月20日
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まだまだ、現役の総理大臣が伝記ドラマになっちゃうんですか、という驚きを発したのはうちの息子です。いくらもうじき引退とはいえ、普通はあと何十年かたたないとドラマにはならんでしょう。 でも、純ちゃんのためのドラマというより、ここ五年くらいの政界の裏話、ニュースではわからなかった真実。というところでしょうか。私がびっくりしたというか、知らなかったのは、 阿部さんが純ちゃんの訪朝に同行していたということ。金さんが謝罪していたということ。 ニュース見てたけど、そのあたりってみてないんだな。記憶にありませんでした。 森さんの干からびたチーズの話がわざとやった演出だったこと。 森さんのチーズとビールの話はやっぱり、普通あんなものわざわざ持ち出さないはずだから、なんかわざとッぽいなとは思ってましたけどね。なるほど、あの会談では、解散の根回しの話してたんだ。 田中真紀子さんが外務省のトイレで立てこもったりまでしてたこと。 田中真紀子解任事件は有名だけど、結局どっちが悪かったのか。ドラマでは、純ちゃんは仕方なく免職にしたようにえがかれてますけどね。それにしても、真紀子さん役の女優さん。品よすぎ。 面白いのは、このドラマで悪役なのが、亀井静香だったこと。対抗してたのは、民主党でも、社会党でも、公明党でもなくて、内輪もめが一番の敵なんですね。亀井静香の役どころ、しきりに首動かしてて笑えますけど、本人はこれ見てたら不愉快だろうな。悪役としては、役不足ですしね。どちらかというと、道化役と取れないこともない。 それにしても、郵政民営化が遅れて、純ちゃんの任期が伸びちゃったのは、北朝鮮事件のせいなんでしょうね。 番組の最後で、安部、谷垣、麻生の三人に質問攻め。みてると、みんなしどろもどろで、もうじき総理になるかもしれないのに、なーんにも考えてないんでしょうか。せっかくの機会なんだから、いろいろと自分の考えてる政策とか、言えばいいのに。どうみても、どんぐりの背比べですね。 谷垣さんが結構しゃべってましたね。それで、負けたくなくて、阿部さんも途中から一生懸命しゃべってましたけど。 とにかくそれなりに面白かったし、ためになったし、知らなかったいろんな部分が埋まりました。いろいろ関係者に聞いて裏を取ったのでしょうか。 ただね。このドラマ。今語る真実っていう感じのつくりだけど、ホントーはどこまで真実なのか。ちっと疑問。全部信じていいのかな。どうでしょうね。
2006年09月19日
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こまった。 昨日は都立高校の文化祭でした。娘の第一志望ですから、めんどーと思いつつ見に行きました。ところが。 去年見に行ったB校に比べて、というか、今までいろいろ見てきた中で一番ちゃっちい。つまんない。せこい。偏差値的には、今日みたA校の方が高いのです。去年みたB校の方が偏差値低いのに、文化祭はずっとよかった。活気があった。 今日見たA校は食品扱ってるお店も少ないし、イベントも少ない。生徒も内側しか見てない。学校外の人間が見に来てるのに、そういう外部者に気を配るとか、道を譲るとか、ぜんぜんありませんでした。普段学校はしつけとか、道徳的な教育の部分を育てていなさそうだなと。もちろんしつけは家庭でするものだし、すべて学校に頼って言い訳はない。でも、学校で過ごす時間は長いし、学校できちんとした教育してくれてるのがわかる学校もあります。ここの学校は、ちょっとどうだろう。偏差値は高いのですから、それなりにがんばらないと入れないはずだけど、がんばってここの学校入れるのかな。 とりあえずしょうがないからやってますという、そんな文化祭。文化祭が学校のすべてを語るわけじゃないし、文化祭がよかったからという理由で選ぶのはもちろんよくありません。 でもねー。やっぱり、文化祭で生徒がどんな行動をとるか、どんな内容の文化祭を企画できるか。そういうのって、普段どんな生活を送っているか、生徒の覇気がどの程度のものか、やはり語っているように思うのです。 A校を第一志望にするのを考え直そうかなとちょっと思ってしまった。どうしよう。 来週はC校の文化祭なんで、また、見に行くしかないのかな。それにしても、疲れました。普段運動してないので、この程度でも、ばてばてです。ぴやあ。
2006年09月18日
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カップヌードルのアメリカ進出の話だとばっかり思っていたら、どうも「マルチャン」がモデルらしい。そして、プロジェクトXばりのアメリカへの企業進出の苦労話とか、思ってたのですけど、ちょっと違ったみたい。確かに、アメリカにつくった工場の苦労話ですけどね。 結局買収とか、大量注文なのに、調理のための油が足らなくて調達しようとする話、自由の国アメリカの底辺の貧しさから抜け出せない現地の従業員と、現地に来た日本人正社員、結局は人の情と誠意がものを言う。 それなりに感動ものの物語ではある。世界に日本のカップメンを売ろうとした当時の企業の社員たちの苦労もわかる。しかし、現在そうして苦労して作り上げてきたカップメンの容器のせいでおきている環境ホルモンの問題と、それによる不妊症の増加などなどの現在の社会問題の出発点なわけであるのだから、単純に感動できない。 当時はもちろん、まだ、環境ホルモンなんて、想像もしていなかった時代だから、手軽で安価でおいしいカップメンを必死に売ろうとがんばった社員の人たちには、頭がさがるのだが、かれらの努力によって、環境ホルモンは振りまかれ、不妊症が増えていることをおもうと、その皮肉な状況になんとも複雑な気分になった。 おりしもこのビデオを見た、同じ日の午前中に民放テレビでやっていた「不妊症」の実体験ドラマ特集なんかみてたから、なおさら。原因は女にも男にもある。それらの悲壮さもプラスアルファであった。 がんばってきたその結果が逆に他人の不幸も呼んでしまう場合もある。つくづく運命は皮肉なのか。マーガリンの問題もあわせて、次はロハス、スローフードに目を向けるべきなのか。 そう思いつつ、時々カップメン買ってしまいます。食べてしまいます。でも、子供には極力食べさせたくないです。 うーん。この記事はタイトルは、映画なんだけど、内容は映画をきっかけに考えたことですね。とりあえずこんな映画です。
2006年09月17日
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尾木直樹氏の『子供の危機をどう見るか』のごく一部を読んでみたのだが、どうにも納得がいかない。違うじゃん。尾木先生の意見は結構好きだったのだが、これはどうにも納得いかない。 子供を育てる上で家庭のもつ役割は大きい。しかし、現代その家庭のあり方が大きく変容し、子供を正しく育てる機能が失われつつあるのではないかというのは、この著者のみならず、現在多く言われていることでもある。 その理由として、あげられるのが、 携帯の普及。子供部屋の充実。朝食の孤食化である。 そして、家庭のホテル化であると、尾木氏は述べる。その結果、家族のコミュニーケーション不全に陥っていると言うわけである。 しかし、この文章を読んでいくうちに、なんとも理想化された幻影とも言える家族像にいささか不可解なものを感じざるを得なかった。この中にそして今世間一般に語られる、「家族が仲良く、みんなでそろって食事をし、楽しく会話をする家庭。」こんなものは、昭和中期のごくわずかな期間にしか存在しなかったのではないのか。とも思う。 かつて、たとえば江戸時代であれば、子供は十歳前後で丁稚奉公に出されたのだから、家族どころではないだろう。あるいは、極貧の農村では、女の子は売り飛ばされたわけだし、農家だって仕事に忙しくて、家族でいつも楽しくにこやかに食事をとっていたとも思えない。あるいは、一家の主人だけは奥の間で一人だけ食事を取っていたりもしていたろう。 ちなみにどうして著者はこんなに朝食にこだわるのだろう。イマドキ朝食を家族と一緒に食べているサラリーマンなんているんだろうか。あるいは、朝練で早い中学生や、高校生。むりじゃないですか。 朝食がだめでも、夕食さえ、一緒ならよろしいのではないかと思いますが、もっとも、今は、それすら怪しい。父親は残業で、子供は部活や塾でやっぱり家にいないからだ。最も尾木氏は、同じ家の中にいながら、家族が別々に別々のものを食べていることを嘆いているのだが。 しかし、これだけ食品が豊富になってくると、家族全員が同じものを食べようとすることすら難しい。ちなみに私も家族全員の食の好みのずれに毎度四苦八苦である。誰か一人が嫌いなものはどうしても食卓に出しにくいし、好みが見事に全員違うからだ。それでも何とか一人が我慢することでメニューを組み立てるしかないこともある。 『子供たちの物に対する判断基準』を育てているのは、『物欲をあおる消費文化』であるその以前に、それらの消費文化に洗脳されて、ためらいもなく、子供に携帯やゲームを買い与え、子供部屋にテレビやパソコン、暖房器具まで完備して、物欲を当然のこととして教えてしまう親にこそあるのではないのか。 かつての親には、子供の欲望に対して、「そんなものはいらん」と毅然と拒否しうる強さがあったように思う。 この問題は、一見人間だけの問題のように見えるのだが、実は、気づかないうちに、資本主義と物質文明が家庭の中にまで浸透し、家族という人間関係を崩壊しはじめていることに、誰も気づいていないというところにある。 『物欲をあおる消費文化』の中に生きているからこそ、それらに洗脳されずに自身の意思で選びとっていく判断力、意志力を育てる立場にあるのがまさに親であると思うのだ。しかし、それが親の仕事であるはずのものでありながらに、実際には物を与えてしまっているというそのあたりのいい加減さゆえにこそ、家族関係の希薄、家庭のホテル化が起きるのではないのか。 時代の文化を否定する以前に、その世界で生きていかなければならない子供たちに対して、その処世術、自身の欲望との向き合い方を教える事こそが現代の親の務めといえると思うのだが。 安易に時代を批判してみても始まらないのではないか。それは、どんな時代であっても、常に生きていくのは困難で、待ってましたといわんばかりに生きやすい、都合のいい社会なんてものは、有史以来ほとんどなかったのではないのだろうか。 ちなみに、我が家には、子供用寝室はあっても、子供部屋はない。パソコンはリビングに一台きりで、家族共用。携帯は一台きりで、子供は持っていない。当然テレビを子供部屋に設置するなんてこともない。でも、実は家の中にテレビは三台ある。やはり、信じられないほど安価になったテレビは、一家庭にこれだけ存在する。つくづく物質文明を感じないわけにはいかない。 ついでに書くと、この文章の中で尾木氏はテレビ礼賛の文章を書いている。かつては、一台しかないテレビによって家族が同じ時間、同じ空間、同じ話題を共有できたということだ。一昔前、教育関係者、評論家、専門家が口をそろえて非難し続けたテレビというものが、時代が変わると、懐かしがられ、その価値を評価されているとは、なんとも、お笑いな話である。こののち、家庭のホテル化がさらに進み、家族という顧客がホテルにとまりに来ることすらなくなって、外に常泊の『自宅』を作り始めてしまったら、現在非難の的となっている家庭用ゲーム機は、「とにかく子供を家庭にとどめていてくれたのに」と、礼賛されるようになるのだろうか。なんとも、皮肉な話である。 さて、子供の欲望との対峙もまた、親に求められる重要な仕事である。てか、その辺りが一番重要事項ですね。 ところでこの本は全部読めば、尾木氏なりの結論が書いてあるかもしれませんね。全部読んでませんので。
2006年09月16日
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職業体験も今日で五日目。ラストです。 初日は友達とバス停で待ち合わせ。友達は来てないし、バスはちっょくり来ない。で、家に戻ってきて「間に合わないから、タクシーでいく」とまで言い出しました。冗談じゃないです。こんなことでいちいちタクシー代なんか払ってられません。ただでさえ、職場までの交通費払わされてて馬鹿にならないのに。というので「駅まで歩いていけば」と言ったら、ホントに歩いていった。でも、途中で来たバスに乗ったらしいけど。 遅刻するのも勉強ですから。待ち合わせた友達は反対方向のバスに乗ってたらしい。つくづく働きに行くというより、遊びの乗り。おいおいおい。 と思いました。 所詮、三、四時間程度の仕事。その上たいしてやることもないらしい。それでも、掃除したり、ビラ配りしたり、未経験の世界。ビラがなかなかうけとってもらえなかったり、とにかくはじめは恥ずかしかったりしながら、少しづつ慣れてきて、「恥ずかしくなくなったよ」なんていってました。さすがに五日間ともなると、やはり、試行錯誤や慣れて行ってできるようになってくる部分や、わかってくる部分もあるようで、去年までの二日間だと判らないまま終わってたろうなと思います。今日で五日目。職業体験も終わりです。五日間お弁当もって、がんばったようです。そういえば最初のうちは「外食なの?」なんて馬鹿なことも言ってました。中学生が仕事して、外食なんて馬鹿言ってんじゃないよ。当然、お弁当でしょう。作ったのは、私ですけど。 少しは得たものあったのかな。 それにしても、今回のことでとにかく交通費が馬鹿にならなかった。都バスと都営地下鉄なので一日乗車券を五枚購入。しめて、3500円。馬鹿になりません。学校では後で全員のかかった分を足して、学年の人数で頭割りにして、全家庭で同額負担にすると言ってましたけど、ほんとにやってくれるのかな。近場のおうちが文句言いそうな気がしますけど。それにしたってお給料でないし、この交通費は要するに教材費のくくり。高かったなあ。こういう部分、職業体験を企画する段階で、文部省は考えなかったのでしょうか。しかも、学校のイベントなので、働くところまで、または、駅まで、自転車使っちゃいけないんだよね。だから、普段なら自転車で行くところにバスを使うか、歩きで行くしかない。こういうところ考えてもらってないんですよね。バスもなくて、歩きしか方法がない場所もあったのではないでしょうか。 こういう企画に対しては、乗り物のフリーパス券とか、発行してほしいと切に願います。役に立たないけど、それでも将来社会の人材、資産となる中学生なんですから。だって、高校生の通学なら、定期も学割きくのにね。お年寄りなら、フリーパスとかあるのにね。 それにしても、役立たずで、お邪魔だったのではないでしょうか。五日間も面倒見ていただきまして、ありがとうございました。来年もまた、よろしくお願いします。うちはもう、関係ないけどね。
2006年09月15日
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先日の日曜日に、また、IKEAに行きました。前回のオープンの時は混んでいて、入るのに三十分以上も並びましたが、さすがに今回はすんなり入れた。それでも、結構混んでいて、そんなところなんですね。夏が終わって、少し家の中をきれいにしようとか、みんな思ったのだろうか。 オープンからずいぶんたったから、 すいたかもなんてトンでもでした。それでも、前よりまし。館内がかなり広いので、ウォーキングにはいいだろうとそんなつもりで行きましたので。 目的がはっきりしていて、それだけ買いたいと言う場合はちゃんと店内の定番コースをショートカットできるようになってますけど、それでも、店内の地図をよく見ないと何がなにやら、今どこにいるのかわからなくなってくる。二階から見始めて一階にいく階段のところにレストランがあるのでみんなここで一回休憩。よくできてますね。 しかし、イケアって安いって言うけど、ここのレストランでご飯食べると結構ばかにならないよ。私もだんなと二人で三千円かかったしね。遊びと暇つぶしで行ったからまあ行けど。そのうち、本気で家具買うときは、それだけ選んで終わりにしとくかなあ。 デザインもかっこいいって言うけど、たしかにお店で見てるといいんだけど、買ってきて家に置いてみると、我が家に似合わない。がーん。なんかぜんぜん違うんですけど。しゃれたデザインのものはやっぱし、洒落たマンションとかで使わないとダメジャン。それに、そんなに安いとも思えないんですけど。 それでも、今回一番ほしかったのは、パソコンをソファーで使うためのテーブル。てか机。 以前テレビの通販で見てたんだけど、ソファーにゆったり座りながら使えるテーブル売ってたんだよー。いいなほしいなと思ったんですけどね。高かったんですね。それにメモも取らなかったし。そのまま忘れたし。 でも、イケアにそれと同じものはなかったけど、それでも探したら、サイドテーブルで足がコの字型なら、ソファーで使えるので、少し小さかったけど、1900円で買ってきた。私がかったのは、リーアンの白い方。 以外と悪くないです。 パソコン用の普通のデスクってのならいくらでも売ってるけどね。 でも、文章入力するときはデスクでも、いいけど、ほかのブログ読んだり、動画見たりする時はソファーでゆったり座って見たいなあと、思うわけです。 もう少ししっかりしてて、台が広いとよかったんだけど、そうすると高くなるのか。 ↑あーこれこれ。これがほしかったんだわ。なんだ、楽天で買えるじゃないか。でも、高いなあ。今のがだめになったら、買おうかなあ。うーむ。高いといってもそう高いわけじゃないですけどね。 それから、停電とか地震の時のために100個450円の小ぶりのろうそくとそれを入れるランタンをかって、そのほかクッションとか、いろいろ買って帰ってきました。 ↑あ。これこれ。あるじゃん。楽天に。え?2200円?たっかーい!!イケアではもっとぜんぜん安かったですけど。変ですねえ。それに赤、黒、青、グレーと、いろんな色のものがありました。 結構金額いってしまいました。イケアが安いとは、思わないほうがいいかも。 でも、もちろん大きな家具は安いです。ただ品質はいまいちだろうなあ。安いからしょうがないけど。
2006年09月14日
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『時かけ』といえばふつー大体思い出すのは原田知世主演のやつだようです。二十年以上前のですね。注☆ネタバレあります。たぶん。 でも、私はもーっとずっと前にNHKでやった『タイムトラベラー』が基準点です。『原田時かけ』の時も、「あ、タイムトラベラーのやつだ」と思った。確か吉沢京子主演で、その当時はまだSF自体がきわものだったので、だから、民放だとそう気楽にSF番組なんて作ってない、そんな時代に、あんな先鋭のドラマ作ってたんですよね。NHKって普段評判悪いけど、時々民放じゃ作れないようないいもの作ってくれるんですよね。『プロジェクトX』とか、『その時歴史が動いた』とか。 それで、その当時もまだまだこれからの、日本のSF小説をテレビドラマ化してくれてて、『ねらわれた学園』とかね。いろいろ。 「タイムトラベラー』は連続ドラマだから、一回こっきりじゃない。そういうやつを、さらにばらばらに見てまして、通して見てないから話の筋もよくわかんないままでした。 その当時はまして、今みたいにハーブなんて流行ってないですから、「ラベンダー」ってだけですごく不思議。なにそれーということですね。まだ、見たこともかいだこともなかったんだもの。いまでも、ハーブの中で「ラベンダー」が一番人気なのってそのあたりが原点かもね。 そののち原田知世の『時かけ』が作られましたね。主演の二人があれだけ演技下手だったのに、名作としていまだに語り伝えられるあたり、やっはし監督の力量なんでしょうかね。 年だから昔話が多いなあ。 最近は、毎度、映画見るたびに原作と違うじゃんと思って不愉快だったんですが、今回は原作とはかなり変えてあって、オリジナルストーリーだったにもかかわらず、よかったです。この原作自体がすでに散々映画化ドラマ化されていることもありますが、今回の作品は、オリジナルストーリーではあっても、基本の部分はちゃんと原作の線を守っていたというのもあるからでしょうか。 それでもってこのシナリオが非常によくできていたというのが一番です。「アニメって絵さえよければいいってもんじゃないんだ」と言うのを『銀色の髪のアギト』を見てつくづく思いましたけど、今回の『時かけ』は、絵もすごくいいし、シナリオもすごくよかった。ストーリー上なんどもタイムリープをするんで、結構複雑なはずなんだけど、違和感なくすんなりわかりやすい。そうそうそう。こういう映画、見るだけで全部ちゃんとわかる映画。こういうの待ってたんですね。映画ってわかりにくいのが多くてね。 それにしても、主人公が信じられないくらいものすごく明るい。漫画本来の原点に返ったような話です。最近はねちねち悩んでるような主人公の話にうんざりぎみでしたからね。昔はこういう明るーい子が主人公ってのが普通だったんだけどね。 そんでもって主人公がよく動く。ちゃんとヒロインが活躍してるし、自分の意思で行動してるし、自分の頭で考えてる。少女漫画を描こうとすると、大体どんなに絵がうまくて、話がよくてもヒロインがちゃんと活躍してないと、「主人公がなんもしてないからダメです」って、編集者に言われるんだよね。今回の「時かけ」はそういう少女漫画の本筋をきちんと守ってます。考えてみれば原田の『時かけ』はヒロインなんにもしてないなあ。せいぜい時間を跳んで、好きな彼氏のところに行くくらい。 同じ話でも、こんなにヒロイン動かせるものだったんですねえ。 いやしかし真琴は、この状況で悩まないし、戸惑わないし、がんがんタイムリープしちゃうし。泣く時は人目も気にせず、ワンワン泣いて見せるし。とにかく自分の感情を表に出すことに戸惑いがない。 戦後アメリカナイズすることに夢中だった日本ですけど。結局アメリカナイズの究極ってこういうのでしょうか。 で、実際にはシャイな日本人にはそんなの無理だから、心身症とか、うつとか、引きこもりとか、結局目指すものと逆の方向に行っちゃったりする。無理しないほうがいいと思いますけど。 ほんとにこんなに明るい子っているのかなあ。 でも、だんだん世代が変わっていくとこんなタイプの子が出てくるんでしょうかね。 この映画説教くさいセリフぜんぜんないわりに、結構訴えること、語っていること多い。見終わって「うん、そうそう」って言うものがすごく多い。 だから、それをわざわざ文章にするのはやめとこっかなーとう言うくらい見ればわかります。ふつーの人間なら。って言うくらい、いい映画です。作品としての完成度がすごく高い。評判いいの無理ないです。そして、そういうテーマさぐりなん無視して単純に楽しんで見て、もうそれで十分といえましょう。 ただ、主人公が高校生なので、大人にはいまさらって部分あるし、じゃ当の高校生はこれ見るのかなっていいますか、これ見るくらいなら、ほかの普通の実写の映画選んじゃいそう。そのあたりがこの手のアニメ映画の問題点なんでしょうね。 お子様映画はうんざりだけど、アニメであんまりねちねちした話も見たくないな。 原田知世の『時かけ』は未来で深町君と再会できたみたいなフリがラストにあったけど、今回の映画に出てくる和子さんは、結局深町君に再会できてそうにない。とすると、真琴ははたして、将来千昭に会えるのか。千昭のいる未来は、とてもじゃないけど、真琴がいる今から数十年程度の未来じゃなくて、もっとずっとはるかな未来に思えるんですけど。だとしたら、作品のラストで語られる「未来でまってる」という言葉は、一見とても明るい未来へと誘うハッピーエンドに思えるけど、実をいうと千昭のいる未来はすごく暗くて悲惨で行き詰ってるんですよねえ。『ハウルの動く城』にでてくる「未来でまってて」の言葉は、実際未来でちゃんと再会して、二人は恋人同士になるけれど、『時かけ』の未来でこの二人が再会するとは思えない。 じゃこの「未来で待ってる」はどんな意味あいがあるんだ。一見明るく、行動的に思える言葉なのに、な-んかその場限りのごまかしといえなくもない。 二人がもう一度再会して、結ばれることがありえないのに、「まってるね」「うん走って行くから」という言葉はどうすりゃいいんだ。 明るくて前向きなはずの真琴が、千昭と出会うことで、ただ明るいだけの女の子じゃなくなっていくっていうそんな含みがありそうで。「自分が楽しいだけじゃだめなんだ」ということを語る部分があって、自分にとっていいことだけを追求していくそれだけじゃない生き方を意識するにいたって、ただ明るいだけの真琴が千昭の語る未来の中に潜む闇を意識し始める時、走るだけじゃなくて、立ち止まって少しゆっくり周りを見回しながら、よく考えて生きていくようになっていく一人の少女のやっぱり成長物語とも言えちゃうんだな。 たとえ、タイムリープをしないとしても、自分が楽しいとか、自分の都合だけ考えて行動していれば、知らないうちに周りの他人に不愉快な思いをさせたりしてることはもちろんあるわけで。そのあたりよく考えてください。とわたしなんか申し上げたい。いえ、それが描いてある物語なんです。 この作品では、明るいつくりなのであえて深町君や千昭がいるはずの未来の暗い部分は本編中には語られていないから、ちょっとそのあたりやっぱりよくできたシナリオだけど、わかんない部分が存在しちゃうんだな。 未来だけをみて走ってるだけじゃだめなんだよ。 でも、お話の中では、魔女おばさんと言われる和子さんが真琴に「あなたは待ってる人が来なかったら、走って迎えに行くような子でしょう。」といいます。 こんな、親にも相談しにくいし、友達では役不足なことを相談できるような人が身近にいたらいいよな。この「魔女おばさん」てフレーズに、最近読んだ『西の魔女が死んだ』を思い出しまして、ここからもらったアイデアなのかなっと。不登校になった中学生のヒロインに世間一般の常識的でお決まりのつまらない説教をするような大人とはちょっと違う、だから、魔女なんてあだ名がついちゃうような不思議なキュラクターのおばさんがでてきて、ヒロインの悩みをきいてくれるんだけど。 話戻ってこの和子さんて、話わかりそうだけど、いつも逆のようなアドバイスしてる。来ない人を走って迎えにいく前向きな明るさもいいけど、来ない理由をちょっと考えて待ってあげられる思慮深いやさしさもあっていいんじゃないかと思うし、多分、この物語の真琴も、このあとそんな風に変わっていくんだとしたら、このおばさんの語る言葉のパラドックス性もまた、面白いのかもしれない。 真琴の異様なまでの明るさもまた、ただ明るい女の子を描いただけじゃなくて、その先に変わっていく真琴を描く上での状況設定とも言える。 明るくて前向きで楽しいだけの話だと思って、この作品を見終わっちゃいけないんですぜ。
2006年09月13日
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ネットの評判というのはすごいものだ。 評判どおりすごくよかった。今夏のアニメ映画作品としてダントツの好評価。確かにさもあり何という感じである。絵がものすごくうまくて、美しかった。なにしろあの崩壊した『ゲド戦記』を見た後なのでなおさらです。またまだ、アニメ界にはこんな絵が描けるアニメ監督がいるんじゃないか。私は今回始めて細田守という名前を認識したんですけどね。美大を出て、東宝に入って、そこから、ジブリに出向したんだそうだ。そこで途中までかかわったのが、『ハウルの動く城』だそうだから、作中にでてくる「未来でまってて」という言葉と、こちらの『時をかける少女』の作品の中の「未来で待ってる」という言葉がつまりおんなじわけでして、細田監督が『ハウル』でできなかったことをやっと完成してみせた映画なのかも知れませんね。 アニメ映画のこれからを考える時、アニメ映画がもつ最大の呪縛はその発端が漫画映画であり、とにかく子供向けでなければならないというところにあるんだろうなと思うわけだけど。 アニメが子供向けに作られるのは、子供という観客が必ず母親ないしは、付き添いというもう一人の観客をともなうもので、つまり普通の倍の観客数を見込める。その上、夏休みにやれば、ふだんすいててガラガラで困りものの平日に集客ができるという、映画会社にとってはこのうえなくありがたい条件を持ち合わせているところにある。だから、映画会社はアニメ映画が作りたいのではなくて、子供うけするアニメ映画が欲しいのである。子供うけするとなれば、やはり主人公は子供でなくてはならない。『ゲド戦記』が今回こんなストーリーになったのも、どうしても主人公を子供にしなければならないというシバリのせいもあるということだ。けれど、主人公を子供にすれば、どうしても、主人公の行動や考えることに限界が出てくる。所詮十歳前後の子供ができることなんて限界があるのだから、その条件下で躍動感のあるおもしろいアニメを作るのもつらいものがあるだろう。 その上アニメをみて育った世代が大人になってき始めていて、作る側もまた、アニメ技術、アニメ文化がレベルアップしていく中で、映画会社の求めるような従来の子供向け路線のアニメ映画を作り続けることにも限界が出始めているのだということに、はたして、映画会社側は気づいているのだろうか。 『ゲド戦記』や『ブレイブストーリー』が今ひとついい作品になりえない原因も実は作る側の力量だけではなくて、こういう日本アニメ界の現状にもあるのじゃないだろうかと、『時かけ』を見ながらつくづく思いました。 『時かけ』は主人公が高校生。原作のとおりです。前作原田知世の『時かけ』は角川がうまかったから、子供の集客ができたかもしれないけれど、アニメで主人公が高校生となると、子供の集客はちょっと苦しい。 しかしじゃあ現役の高校生が『時かけ』というアニメを見に来るものだろうか。アニメファンは除くとしても。一昔前なら、アニメやSFは、若者文化だったと思うけど、今の世代の若者はすでにアニメとか、SFとかに対しての興味は昔ほどではなさそうである。その一方で漫画アニメを育った世代が大人になっていて、漫画やアニメは昔よりはるかにその存在というか、社会的地位は高くなっている。 そして、作る側もまた、子供向けではない、普通の実写映画とかわらない大人向けのアニメーションを望み始めているのだとすれば、映画会社は今ここで、『ゲド戦記』の失敗もふまえて、アニメのあり方これからの対し方、観客をどのあたりに予想するか、考えたほうがいいんじゃないのかなと、そう考えました。 というわけで、今現時点では、難しい立場にある『時かけ』ですが、大人でも十分楽しめる非常にレベルの高い作品です。高校生はこれみてどう思うのかな。 つづきます。
2006年09月12日
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いろいろブログを読んでいたら、この土日で結構日本国中文化祭だった高校は多かったみたい。うちの長男の学校もこの土日でした。学校側は、やっぱり、夏休み気分の抜けていない九月そうそうにやっちゃって、早く受験体制にしたいみたい。最近は運動会とか、学園祭とか、受験に邪魔って雰囲気かんじるなあ。とにかく、さっさと済ませたい。そんな感じ。本当は日々の学校生活の中で少しづつ気持ちを持ち上げて行っての行事、毎日の平坦な生活だけじゃあきてくるから、っていう部分もあっての学校行事なはずなのに、とにかくとりあえず済ませちゃいたいって方向に変化してる感じがします。 今回は高校二年だし、これで最後だし、見に行こうかなどうしようかなと悩んだんだけど、結局めんどくさくなってきてやめてしまった。子供の学校となると、うっかりぼーっとしてられないし、そんなにラフな格好でもいけないし。気、使うものね。いい加減高校生だし。それと、こないだの麻布十番まつりで、出店とか素人料理を並んで買ってそこらにしゃがんで食べることに飽きちゃいまして。いまさら、高校生の親が生徒の作るものに並んでまってってのもいやなので、そういうのは、受験生の親子とか、中学生の親御さんあたりまでに譲って、ということでやめました。 でもほんとーは、子供のクラブでの様子とか、そーっとのぞきたかったんですけどね。だけど、私の面がわれてるから、見つかるとやだし。それ以外にも以前とかわってる部分があるみたいなので見たかったんだけどね。 とうとう高校二年生の学園祭もおわっちゃって、部活もこれで引退だし、これから受験一色になるのかなと思うとちょっと感慨深いというのとは、ちがうけど、不思議です。ずーっと先のことのように思っていたのに、六年間の中高生活もここまできちゃったんだなあ。ずーっとこのまま、高校いっててほしいなあとか、思っちゃいます。 この先はもう大学生になって、社会人になって、どんどん親から離れていくのかな。 もちろん、私の兄なんかは、いまだに実家に暮らしてて、ずーっと親と一緒にいるんだけど。もちろん、嫁さんと子供と一緒にだけど。 これから、一緒に暮らしていったとしても、やっぱり何かが変わっていくんだよね。 うーん。 もっともー、大学生になれりゃいいですけど。だいいち、子供は部活終わっても、今までとかわらずのへーッと暮らしていきそう。 受験勉強ってなにするかわかってないと思うよ。多分。中学受験みたいに塾行っていわれたことだけ勉強してればいいとか、勘違いしてそうだよ。 どうしたもんかなあ。
2006年09月11日
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映画館で買ったパンフレットを読破して、やっと映画の内容がわかりました。 こういう売りせんじゃない本気で作ってる映画っていうのは、というか、映画の多くは、見終わった後、いろんな解説とか、パンフレットとか読まないと結局どういう映画だったのかわからない。ということが多いなとつねづね思うんですけどね。本や漫画の場合ほとんどその作品内で説明されているので、そんなことはそうはないんですけどね。もっとも古典文学みたいにやっぱり解説が必要なもの、大学の先生が必死に研究してるものもあるけれど。でも、ふつーの漫画や小説はその作品読めばわかる。しかるに、映画ってのは、文章じゃないことと、時間制限があることなんかもあって、映画見終わった後にどういう話だったんだろう?とか、あの場面はどういう意味だったんだ?なんてのが、ごくふつーの映画でも結構ありませんか。 ましてこういうハイレベルの映画になるとなおさら。その上この映画はとにかく昭和天皇ヒロヒトがもそもそと小声でしゃべってるんで、何言ってるのかほんとーにわかんなくて。昨日パンフレットを熟読して、ようやくわかってきたというか。だって、パンフレットの中にシナリオのダイジェストが載ってまして。それを読んで初めてあーこんなことしゃべってたんじゃなーい。という感じです。しかも、このパンフ、1000円もするんですよ。レディースデーの入館料と同じジャン。 つまりこの映画を本気で鑑賞するには倍ないしは倍以上の金額がかかるということです。 それから、パンフの中の田原総一郎さんの文章?コメント?を読んでやっとわかってくる感じかなあ。やっぱ田原さんて頭いいわあ。 とにかくわかりにくいのよ。 映画ってさあ、もう少し見る人に親切に作ってもいいんじゃない。一応商売なんだしねえ。 ということで、結局、ヒロヒトは、自分を神だと思っていたのかいないのか。 そのあたりはっきりしないけど、それでも、神の末裔としてその存在意義を評価されている自分が、神じゃないと言ったら、自分の存在はどうなるのか。神として評価されている人間が、普通の人間になった時、どうなっていくのか。神の末裔としての自分。そうでない自分。自分の存在の意味を問うていく過程が第二次大戦下の日本という舞台設定と、神として扱われる人間という道具立てを使って、じゃあ人間の存在意義は何によって認められうるものなのかを問うている話なんだなあと、思いましたけどね。そういえば、神が人間になる話として、最近作られたもう一つの映画といえば、話題の『ダヴィンチコード』が、そうだよねえ。西洋世界の天孫ともいえるキリスト。キリストが結婚してて、子供もいて、ごく普通に人間ジャンという話。こっちはあくまで、事実をもとにして作ったフィクションですけどね。 で、実際に神様だって崇め奉られていた人間がいたねって話がこの映画ですし、でもってそんなわけないだろってことで、じゃ、神様でもその末裔でもなくて、ふつーにふつーの人間ですよっていうことになる過程を描いた話ですね。そして、その渦中にいる本人その人の内面の変化を追っかけて見ましたって話なので、だから、映画としては、実際の終戦や、戦場や、歴史的事実はあんまり表には書かれてなくて、セリフでちらっとでてくる部分だけで見てる側は判断しなきゃなりませんけどね。だから、知らないうちに終戦になってたり、いきなりマッカーサーが出てきたりして、見てる側は何で?と思う。 神様の末裔にかかわらず、マー自分って何なのっていう問いは人間なら誰でも持つわけだし、自分が今ここにいても生きてる意味ってあるのかなあという疑問と不安に戸惑う人間もまた、天皇陛下だけにかかわらず、ごくふつーにそこらにいる。そういうことで。 で、映画の結末としては、愛する家族がいるってことでヒロヒトさまはそのあたりに救いを見出してハッピーエンドに終わります。実際戦後の天皇家もそれまでの他人任せの子育てから、天皇や皇族であっても、親として自分でちゃんと子育てしよう、家族で仲良く暮らしていこうというスタンスに変っていくわけですから。 多くの人に崇め奉られるより、自分を愛してくれる人が誰でもいいから、一人いればそれで十分ですねってそう思って見終わればよろしいんじゃないかと、そういうことで。 というわけで、そこまで読み切れれば、もろチンいい映画なんですけど、一回たらっと見てもなかなかふつーはわかんないです。 でもやっぱりいい映画なんでしょう。ここまでわかれば。 『太陽』★その1『太陽』★その2
2006年09月10日
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いったい昭和天皇は自分が神だと思っていたのだろうか。『太陽』公式ページ 結局この映画の一番重要なポイントはここにあるのかもしれない。映画を見ながら一番不可解だったのはつまりこの部分なのだ。 というのは、私は日本史を学びつつ、昭和天皇が戦時中自分のことを本気で神だと思っていただろうなんて、夢にも思っていなかったからだ。あれはあくまで日本軍上層部がいいだした、キャッチコピーであり、日本人自身もはたしてどこまで信じていたのだろう。 今の日本人の中で昭和天皇が戦時中に自分を神の末裔だと信じていただろうと思っている人は、果たしてどれくらいいるのだろうか。他人に聞いたことがないので、わからないけどね。 で、映画を見始めると、昭和天皇は自分が神の末裔かどうかしきりに悩んでいるのである。ここでまず、日本人としてうーんと、眉をよせた原因はこのあたりにあったのだ、と、つくづく考えてしまった。 ヒットラーとか、最近作られる映画のなかで、戦争責任のある当時の権力者を、ただの人間だったのだと、その弱い部分を描き出していて、それと同じように昭和天皇もまた、ただの普通の人間だったのだと、そう描き出そうというテーマ自体は結構だと思うし、その上で、自身の力では時代の動きをどうすることもできない権力者でありながら、国のトップでありながら、無力な人間であることに、ある意味喜劇を演じている喜劇役者にたとえるのもまた、ひとつのかたりかけではあるかもしれない。 しかし、昭和天皇はもちろん、権力者なんかじゃなかった。 この映画の中で天皇の意識は常に自分の内側にむかっていて、自分ははたして神なのか、神の末裔なのか、というところしか意識がいっていない。 私がこの映画に一番違和感を感じたのは実にこの部分なのであろう。 つまりは、西洋(ロシアが西洋に入るかどうかは疑問ですが)の価値観からすれば意識は自分にしか向かないし、自分の存在の意義、我の主張を中心として描かれているし、映画の結末でも、自分が神ではないことを己の内側への問いかけによって見出し、納得し、人間として生きることに目覚めていく昭和天皇を描き出している。 そういう西洋にとって、没我という価値観はおよそ想像のつかないものなのだろうか。 戦時中に昭和天皇がまったく権力のないまま、日本のトップという社会的位置とは裏腹に、戦争に突入していく日本、戦争によって命を奪われていく国民に対して、抱き続けていたであろう心の痛み、自分がそれを止めることもどうすることもできない痛み、天皇の意識は戦時中、己自身の意義ではなく、常に国民に対して向けられていただろうと思っていただけに、この映画における自分の内側に意識がむかっていく昭和天皇に、違和感があり、納得いかないものがあったのだと、思う。 それというのは、戦後、天皇が、自身の少ない私財をもってマッカーサーを訪れたというエピソードから想像しているに過ぎないのだけれど。マッカーサーはその時、昭和天皇が自分の命乞いにきたのだと思ったのだそうだ。けれど、天皇はマッカーサーに、「これら、自分財産をすべてわたすから、どうか国民を救ってほしい」と頼みにきたのだそうだ。 だから、昭和天皇は戦時中、己のことよりも、終始、国民のこと、戦争をしている日本のこと、をずっと思い続けていただろうと私は思うのだ。 天皇が天皇でありながら、政治的実権を持たないという事実は、何も第二次大戦下に始まったわけではない。はるか昔、多分蘇我氏が政治の実権を握りだしたあたりから、始まっているように思う。けれど、そののち、大化の改新によって政治の実権を取り返した、天智、天武天皇という実例はあるけれど、それ以降、藤原氏、平氏、室町、鎌倉、徳川と、実際の政治の実権は時の実力者にうばわれ、権力をとりもどそうとした天皇たちがほとんど、失敗に終わって悲惨な結果を残している。 天皇家は連綿と日本の王家として存在し続けてはいるけれど、その政治の実権から離れてすでに長い時を過ごしてきている。日本の天皇家とは、そういうものだ。そして、世界でも、類をみないほど、長くつづいている理由もまた、そのあたりにある。実権がなくなればとたんに崩壊していったのが、普通の世界各地の王室だったからだ。 天皇家はその実権を時の権力者に渡し、自身はただ、日本の王族としてのみ、存在し続けた。 だから、第二次大戦下の昭和天皇もまた、権力も決定権も発言権ももたないまま、い続けたに過ぎない。 そういう、他人を、国民を、思いつつ生きた、没我の精神というものを描いていないということに対して、私はこの映画に対して、違和感と不快感を感じたのであり、世間一般、世界の映画界がこの映画に与えた賛辞に対しても、共感しえないという感想にいたったのだろうと思う。 この映画に描かれているのは、昭和天皇の真実ではなく、監督が思い描いた昭和天皇像にすぎないということだからだ。所詮映画なのだから、それはそれで、結構なんですけどね。ただね。外国では、これを昭和天皇の真実としてみちゃうだろうなと思うわけですね。 現代社会の価値観から言えば王室の存在自体、意味のないものと認識されながら、それでも、その存亡にはらはらするのはなぜだろう。 たった一つの命の誕生に世界中が騒ぐのもまたなぜだろう。 そこに意味はあるのか。そこに意味があるのかもしれない。 存在しないと知りつつ、畏怖の念をいだく、神というものに対して。 自分たちと同じ人間にすぎないと知りつつ、敬意と愛情を感じ、その存在の継続を願う自国の王家に対して。 その不可解といえる感覚はなんだろうと考えてみたことはありますか。 ところでまだ続きます。続きは明日ね。 『太陽』★その1『太陽』★その3 太陽@映画生活
2006年09月09日
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とうとう来週から、娘の中学校も職業体験です。今年から五日もやるんだよ。五日も。 ただでさえ、授業が削られているというのに、その上五日もこんな事させられて親はたまったものじゃないです。その上ベントー持参ですと。せっかく来週の月曜はにーちゃんが休みで、ゆっくりできるという日に限ってなーんで下の子にベントー作るハメになるのだ。なぜかいつもこの絶妙のタイミングで私の安息はつぶされるんだわ。 しかも、ですよ。昨日は、その職業体験のために前もって職場にご挨拶があるということで、授業の時間だというのにうちの娘ともう一人の子だけで、出かけて行ったらしい。ただでさえ、五日もつぶれるのに、なんで更にそれ以外の時間までつぶさせるかなあ。だって、午前中の10時だそうですよ。週に一回しかない貴重な美術の時間だったのに。 せめて放課後の時間にすればいいじゃん。なんで先生はそのあたり、相手方にいいださないのかなあ。先方さんだって、生徒なんだから、せめて午後にしようとか考えてくれてもいいじゃん。 ちきしょー。次の個人面談で先生にクレームつけてやるう。ま、いまさらクレームつけたって、来年はもううちは関係ないし、意味ないんだけどねえ。 あー。来週は毎朝二個オベント作らなければなりません。 どうなるのかなあ。せめてなんか得るものがありますように。 ちなみに百人以上もいる生徒の受け入れ先を見つけていただいてご苦労さまです。おばかな中学生を受け入れてメンドー見ようという殊勝な全国の受け入れ先の皆々様よろしくお願いいたします。
2006年09月08日
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跡継ぎ問題で日本中があーだこーだと言っていた時、「だったら私が産みます。」と宣言し、本当に妊娠して、本当に男の子を産んで見せるあたりお見事。いやさすがの私もこのニュースには、うるうるしました。 イマドキ、王室だの天皇だのって、そんなものいるの?とか、こだわる意味あるの?とか、科学と合理主義から言えばそうだけど、それでも、これだけ、連綿と続いてきたからには、やっぱり理屈で説明しきれないものがあるんでしょう。いえ、もう少しで理屈は説明できるところまで来てますけどね。 おめでたいのはいいんですげと、このニュース見ながらつくづく思ったのは、今の皇太子が天皇になったそのあとの天皇って誰がなるんだろうってことです。 本当は、皇太子様に男の子がいればその子がなるからいいんですけどね。 しかし、秋篠宮家の子供となると、今の皇太子様の後に秋篠宮様が天皇になって、そのあと、今度の新宮様がなるんでしょうか。順番を素直に考えればそうなるけどね。 それとも、秋篠宮様はおいといて、秋篠宮家の男の子をもうすぐに次の皇太子にしちゃうのかな。 新宮さまがお父さんの秋篠宮様を飛ばして、天皇になっちゃうのでしょうか。 ま、どっちにしても、今の皇太子様が天皇にならないと、次の皇太子は決めないけどね。 どうするんだろーと、ちっと考えてしまった。だって、皇太子→秋篠宮→新宮の順番だと、即位式とか回数増えてお金かかるし、めんどくさいじゃん。 どっちにしても、次の皇太子妃様はたいへんだなあ。 今回みたいに次男坊がいればいいけど、きこ様ももう出産は無理そうだし、次の皇太子妃様以外跡継ぎ生む人いないじゃん。しかも、上手く男の子産んでも、その後はどうなんでしょう。 なんかやっぱり綱渡り。 とりあえず、問題は先送りですね。
2006年09月07日
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この春に父が亡くなったので、当然のごとく遺産相続というものをやらなければいけない。 しかし、私も兄も何にもしようともしなければ、催促も話し合いもしないので、母ははらはらして、どうするのどうするのと、仕方なく仕切らなければならない。 母が動かないとあっという間に期限の十ヶ月がたちそうである。 だってなんだか、やなんだもの。父の残した財産をみんなで分けると、父を切り刻むような、そこまでいわなくても、父を分解するような、父がいなくなるようで、いやもういなくなってますけど。そんな感じがするのだもの。もうちょっと生きててくれたら、こんな事まだしなくてすんだのになあとか、このまんまにしといちゃあだめかなあとか、思ってたりする。でも、私なんにも要らないから勝手にやってと言えるほど太っ腹でもない。 仲良く暮らした兄弟家族でそんな事をやるのがいやで、私も兄も何にも言い出さない。いや兄は忙しくて面倒なだけかなあ。 見かねた母が、いくらなんでも何とかしないといけないということで、何度か話をして、先日やっと遺産相続の協議書を作るに至った。相続税もかからないようなわずかなものなんですけどね。 それにしても、相続というのは、父の財産を被相続人である妻や子供のものとして名義がえをしなければならないのだけど、そのための書類として、実印を押した協議書、謄本、印鑑証明がいる。 しょうがないからこれらの書類を渡したけれど、内心いやだなというか、怖いなと思った。 これらの書類によって勝手に相続が決められないよう、被相続人全員の合意によって相続がなされるように、法的な規制がはいっているのだが、一昔前には、確かにこれでよかったけれど、ですよ。 コンピュータが普及し、印鑑の印影さえあれば簡単に普通の人間が印鑑を作り出せてしまう今の世の中に、印鑑証明のような、実印の印影とその持ち主の名前が明記された証書を他人に手渡すという事自体がすごく怖いと思うんだけど、誰もなんにも感じないのかなあ。銀行通帳なんかは既に世間で騒がれたので、通帳に直接印影を貼らなくなったけど、相続の場合はめったにあることでないし、事件とかおきないと、改正はだめでしょうかね。 印鑑証明一枚あれば、コンピュータで、実印をつくりだし、勝手に書類を偽装できる。 相続手続きや印鑑証明というシステム自体を変えるべきではと、今回思ったわけです。 お役所様なんとかして。
2006年09月06日
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下手な先生に教えられる生徒はたまらない。そして、そんな下手な授業に対して、授業料払う親はもっとたまらない。お金返して。 最近はひどい先生も増えたという事でニュースにもなる。そして、先生に対して生徒が評価をつける学校も出来てきて、そのことに対しても、賛否両論ありますが。私はいいんじゃないかと思うよ。 十段階評価くらいで、査定してみる。その逐一を先生に伝えるのではなくて、ですね。評価させてみると、他の先生たちと比べて余りにもひどい場合にのみ知らせる。10点満点でほとんどが1、ないしは2、良くて3か4がいくつかある程度。もし、このくらいひどい評価をもらう先生がいたら、やはりその先生に対しては、本人に告げる。学校側も注意して観察する。ひどい評価が続くようなら、雇用の継続をみあわせる。くらいのことはしてもいいんじゃないですか。それ以外のごく普通の平均値の評価の先生がたに関しては、別にいちいち良かった悪かった、もっと上げるべきだなんて細かく気にしなくてもいい。これは、あくまで特にひどい先生をピックアップするためのものだからです。 どんな学校にも必ず下手な先生はいるもので、だけど、その実態は生徒にしかわからない。それを子どもからきいた親が学校側に伝えるくらいしか、今の手段はないし、伝えたとしても、それで何らかの対処をしてもらえる事はほとんどない。悪評価のまま、先生は、い続ける。 先生という、尊敬すべき、敬意を払うべき存在に対して、生徒が評価するなんてことをするから良くないなんて、反対論がありますが、そんな事をいう人は、それは、実際に子供がいないか、子育てにタッチしていないか、運良くひどい先生に当たった事がないからなんではないでしょうか。私は先生を採点するって必要だと思います。やはり、明らかに下手でほとんど何を言ってるかわからない、説明が下手、教え方がものすごく下手、声が小さくて聞こえない、そういう先生に習う羽目になった事ありますけど、ほんとーに何がなにやらわからなかったもの。大概の先生は新人を除けば、いや新人といえども、それなりの授業はしてくれるんですけどねぇ。
2006年09月05日
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お兄ちゃんがこないだ受けた塾の実力テストの結果が返ってきた。惨憺たるものだ。試験の日は旅行の後の数日後で、暑い夏の盛りで、夏休みの真っ最中で、しかも、当日まで忘れてて、本人はやるきなしの雰囲気でしたからね。それにしても、根気と努力と根性と日々の蓄積で決まる英語はガタガタ落ちていく一方。どうしたものでございましょう。数学も高校になってからは、二人教わってる先生のうちの一人が教えるのがすごい下手で、去年も息子が数学の授業がよくわからないと言っていたし、他のお母さんの話でも、その先生は下手だということで、でも、それを学校に言っても、その先生はいなくならないし、あいかわらず、下手なまま教えている。いくら学校の出す課題をまじめにやってても授業が下手だと、やっぱり成績は落ちていくもののようです。おかげで高校になってから、数学の成績が落ちた。テスト前勉強をしないもう一方の数学のテストの方が点数いいんですからね。課題だ、面倒見の良さだというよりまずいい先生に教えてもらうこれこそが基本中の基本であり、いい学校というのは、いかにいい先生の数が多いかがまさに勝負の境目なんじゃないだろかとつくづく思う。いい先生に教えてもらえれば生徒の負担は減ります。下手な先生のわからない授業を我慢して聞いた挙句、それ以外の時間で下手な授業でわからなかった部分を自力でフォローするか、塾で習い直すしかないからです。でも、受験のために学校見学や説明会に行ったって、なかなかそのあたりの内実はどうしてどうしてわからないものです。実際子供をその学校に通わせてる親御さんに運良く聞いてみるチャンスがあったとしても、その親御さんだって子供を行かせてる学校一校しか知らないのだから、いいのか悪いのかなんてそうそう判断のつくものでもありません。 私立ってのはよく面倒見のよさなんて売りにしてるけど、実際のところはやたら、課題宿題、小テストがあるだけで、それをまじめにやる分には、まだましだけど、子供によってはそれをろくすっぽやらなかったりするから、成績は図他ぼろ。でもそれで、どうなるかっていうと、平常点落とされるだけだし、その場合補習やってますなんていうけど、対応が甘いから、実際にはその補習にちゃんと生徒がこなかったりして、ますます図多ボロになっていく。じゃあ、まじめに課題等ちゃんとやってればいいかというと、みんな同じ事やってるんだから、それでやっと真ん中へんになる程度。やはり、成績のいい子は、自分でそれ以外の勉強もしてるわけです。さもなければせっせと塾通いをしています。そして、兎に角まじめに一生懸命勉強している。 ま、そんな実態と現実を知った上で、まあ兎に角子供にせっせと説教する。でも、その説教に成功しても、子供はどう勉強したらいいいのか、ぜんぜんわかっていない。わかったとしても、そのための時間の確保、精神力、やる気の立ち上げと維持はそんなに簡単なものではないようです。出来る子は出来るんだけどね。そのあたりのことが。そして、目の前の娯楽に流されていく。 ま、頑張ってくれ。
2006年09月04日
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ゲームをはじめてしまいました。 ゲームの恐ろしいところは、ブログがかけなくなることです。ブログのネタもアイデアも文章書く時間も確保できなくなる。ゲーム以外の全てのことがメンドーで、おっくうで、どうでもよくなるし、考え事も出来ないし、本は読みすすまなくなるし、家事はおろそかになるし、外に出る時間も惜しくなってくる。ゲームが人間の頭と体と生活にいかに良くないものかつくづくよくわかります。RPGっていうのは、とにかく時間がかかるので、もう、終るまでは、映画も見ない。テレビも面倒。ですね。 て、それくらい面白い。今回は久々のファイナルファンタジーですから。FF12ですから。やっぱりおもしろいです。システムもかなり改良されていて、遊びやすくなってるし、序盤の判断を誤ると後々まで影響するというような事もなく、修正のきくつくりです。しかも、六人のキャラクターすべてどういう人材にでも、育てる事が出来る。見るからに戦死系のやつを魔法使いにしたりとかね。 いえでもやっぱり私は素直に、バッシュは戦死系に育ててるし、パンネラは魔法使いに育ててます。 とにかく、画面がすごいきれい。コンピューターグラフィックもここまで来たんだなあと感心仕切りであります。初期のものは人物とか、気持ち悪かったからね。スタート画面を毎回ずーっと眺めてしまいます。スタートボタン押せば本当はすぐに始められるのですけど。 FF11はネットものだったので、あきらめましたので、FFの新作は久しぶりです。FFといえども、はずれはありますけど。 多分今中盤あたり。これから、アルケィディアスに行くところ。横道それて、モブハントやってます。モブの方がボスモンスターより強いってどういうことでしょ。そこがおもしろいのですよ。このゲーム。 全体にスターウォーズを彷彿とさせる。ストーリー設定とか、出てくる敵見方の飛行戦闘艇なんかがね。ムービーでは、ものすごく美麗。 そして、普通の世界中を歩き回るその景色の美しい事、美しい事。きれいな川、そそり立つ山、雪山の絶景、密林、草原、砂漠。本当に自分で旅をしているような美しさと、リアルさで、あっちこっち歩き回るのがすごく楽しい。でもって、強くなってくると、モンスターがばんばんやっつけるのが楽しい。ストレス解消にね。 それと、今回倒したモンスターはギル持ってません。その代わりにモンスターが落とすいろいなアイテムをショップに売るとお金になるという、かなりリアル感のある設定でした。いろいろ考えてるんですねぇ。 夏休みも終って子供もいなくなるし、あしたから、もっとゆっくりあそぼーっと。ゲームクリアするまで、家事も映画も二の次です。
2006年09月03日
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イッセー尾形は日本のチャップリンなのか。映画『太陽』公式ページ 映画ランキングの一位だというのでどんな映画かと思ったら、昭和天皇の終戦前後を描いたものらしい。へー。面白いネタだなーと思ったので、はるばる銀座まで見に行きました。混んでました。ものすごく。席は前と後ろしかありませんよとキップ買う時注意がついてたくらい。しかも、見終わって外に出たら、入口前の階段は整理券もらって並んでる人でいっぱいでした。 マニア向けのマイナーな作品なので、都内でも、数えるほどしか上映してないのです。それなのに、ランキング一位になったりするものだから、その数少ない劇場が超満員でした。収容人数も少ないアングラなので。 私も映画通なわけではないので、ちっとわかりずらかった。この手のものは画面がしずかで、動きが少なく、ほとんどの役者がもそもそとセリフをしゃべる。通の間では、評価高くなりますが、ふつーの人間にはあんまりよくわからない。最近売らんかな系の底の浅い映画にうんざりぎみだったのですけれど、マニア系のものもそれはそれでつらいな。 いやあ。昭和天皇ヒロヒト役がイッセー尾形なんですよね。かなり、似てるし、雰囲気や立ち居振る舞いもそれなりに研究して演技してるのでしょうが、それでもやっぱりイッセーさんの個性が余りにも強いので、やはり、昭和天皇というより、イッセー尾形に見えてしまう。 天皇役がコメディアンというのは、日本人としては、ちょっと不愉快だなあとこう感じたわけですよ。 監督はロシア人。映画はきちんと日本語で作られているし、ちゃんと日本人に見えるのですが、それでも、やっぱ私たちがイメージする昭和天皇とは、ちがう。 この映画では、ヒットラーのことををチャップリンが映画『独裁者』の中で揶揄しているように、日本という国のトップにたつ昭和天皇という存在を「喜劇役者だ」と、揶揄した表現を狙った部分もあるので、コメディアンであるイッセー尾形を起用したのでは、ありましょうが。 日本人として、ちょっと不愉快だったのであります。 近年アドルフ・ヒットラーを一人の人間として描き出した映画がつくられ、公開されていますが、日本人として、外国が昭和天皇を描いた映画に対して、違うんじゃないかという違和感と、コメディアンとしてえがかれる不快感を感じるとしたら、ドイツの人々は、ヒットラーを描いた映画にたいして、どんな感情を持ったのだろうと、考えてしまった。 ただ、ヒットラーと、天皇はあきらかに、ポジションも、戦争に対しての責任も、関わり方も、国民からの意識も違うので、同じようには考えられないだろうけれど。 戦後、ドイツ国内では、ヒットラーはタブーであったというし、ドイツ人自身、嫌悪を感じている人間だけど、天皇は戦前も戦後もやはり、国民の崇拝の対象であり続けたわけだし。もちろん、現代人で、戦後の人間である私なんかは、天皇陛下様なんていうほど、崇拝も、尊敬もしてるわけではなくて、あくまでふーんという程度ではありますが、それでも、嫌悪感をいだく対象ではありえないわけだから。 わたしは、この映画に天皇が戦後マッカーサーを訪れて、自分の私財を全て渡すから、国民を助けてくださいと頼みに行ったエピソードが描かれているのだろうかと、その部分を期待して見に行ったのですが、ぜんぜんそんなシーンはなくて、後半、ヒロヒトとマッカーサーが何度か会って話し合いをしていくのです。 で、この映画では、ヒットラーを描いた映画と同じように、『現人神』といわれていた、天皇もまた、ただの弱い普通の人間であり、戦争を止める力も、起こす力も、なんにもない無力で存在感もないただの人間として、描き出そうとしているものではありますがね。 終戦直後の話であり、映画の作風として、直接東京の空襲シーンをいれるわけにいかないので、あるいはいれたくなかったのかもしれないとして、天皇の夢として、戦闘機を巨大な羽をもった空飛ぶ魚として、表現してあります。 天皇のしゃべっているセリフは聞き取りづらいし、終戦前から始まったはずのストーリーがいつのまに戦争が終わったのかもわからないうちにいきなりマッカーサーとの会見になったりして、あ、もうふつーの人間にはわかりにくい事この上ないのではありますけどね。 だから、ランキング一位になった作品だからといって面白いに違いないなんて期待して、ふつーの人間が見にいったりしないほうがいい映画ですねぇ。 それでもロシア人が作ったというのは絶妙な感じ。 ただね。この作品に描かれた昭和天皇を、全世界が、天皇の本当と思ってみてしまう可能性大だなと思うとちいっと心配。どーしたものかな。 まっそれなりに見に行っただけのことはあったかもしれないという映画ではあります。 ところで今回見に行った、この劇場。銀座シネパトス。 この立地がね。すごいんですよね。なんと天下の銀座の真ん中を東西に走る晴海通りの真下にあるんですよね。しかもそのさらに下には、日比谷線「東銀座駅」がある。劇場は六車線の大通りと地下鉄にはさまれた真ん中にある。サンドイッチの具のようだ。映画を見ながら、時折、なにやらすごい音がなんとなーく聞こえる。映画の邪魔になるほどじゃないけど、あ、電車通ってるのかなと、映画を見ながら想像したりする。 それで、晴海どおりの両側から通りを渡る地下道のようになっていて、しかもその両側にシネパトスのチケット売り場と劇場入り口と、ちょっとしたお店がある。居酒屋とか、定食やとか、そのたたずまいがまるで、昭和中期そのまんま残ってるのですね。店舗はすごく狭くて、六畳一間くらいのスペースかな。とにかくちょっと面白いところだ。 ところでその中にイマドキ珍しい牛かつ屋さんがあった。なんと松坂牛使用なんだって。一枚7百円。定食セットでプラス350円。うーん。食べてみたかったんですけどね。でも暑かったので、ちょっとひきました。そのうち食べたいなあ。お店の名前は忘れてしまいました。いやでも、おいしくなかったら、どうしよう。 最近はシネコンの流行で銀座のような映画館は生き残りをかけて、いろいろやってるみたいですね。こんな、シネコンではまずかからないような名作物を上映するのも一つの手ですね。すごく混んでましたし。いろんな割引とかも考えてるみたい。 劇場によっては、シネコンにくらべようもないくらい、豪華な劇場もあって、たまにいくと楽しいです。昔は映画といえば、銀座で見てたものなんですけどね。 とにかくそれでも、まあまあの映画だったと思います。 『太陽』★その2『太陽』★その3
2006年09月02日
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ブログバトンとはなんでしょう。 ブログをはじめてみたら、バトンなんていう面白いものがありまして、へーーと思ったんだけど、でも、これって悪く言えばチェーンメールとおなじ。昔の不幸の手紙とか。どよどよどよ。 でも、実際には結構面白いですし、ネタぎれの時には結構いいですけどね。 ただ、実際には、次の人の負担になりそうだし、受け取ってもらえないかもしれないしなという事もあって、途中でまわすのをやめてしまう事もあります。だから、それほどには、ひろがっていきませんけどね。 ところがですよ。『ウェブ進化論』を読んでみたら、なんと、バトンとは、企業が市場調査のためにまわしているものなのだそうだ。がびーん。えっ? ブログで、アンケート調査そんな事考えても見ませんでした。でも、バトンだと、誰がどんな人が答えたかもわかるし、バトンを作ってまわしさえすれば、後はなにもしなくても、どんどんまわっていって、それを追いかけて情報を拾っていけばいいのですから、かなり、楽で効率よくてらくちんないいほうほうかもしれません。 こんなところでも、ブログは企業世界に利用されているということなのでしょうか。 実際私は、何度かバトンを遡っていった事があるのですが、書かれてすぐのバトンをたどっていっても、必ずどこかで途切れてしまって、発進元にたどり着けた事がありません。バトンというのは、頼まれたら、大概は数日中に書いて次の人に回しますから、それをすぐにたどっていけば、スタート地点を見つけ出せそうなものなのですが、必ずどこかで途切れてしまいました。大概はバトンを誰からもらったかそのもらって人の名前が書いてあるものなのですが、その名前でのリンク先がはっていない。ブログのなかを探してもどうしもてない。その名前のリンクがブログ内のどこにもない。バトンをもらう場合、普通ある程度は親しいはずですから、リンクがあるか、どこかにコメントが書いてあるものですが、どうしてもない場合。リンクをたどると既に閉鎖されている場合。など。バトンを回したそのすぐ後にブログを閉鎖しているのも不思議な話です。 さて、バトンが企業の市場調査だという話は本当に本当なのか。疑問ですが、なんだか、気楽にバトンがしずらくなってしまいました。 ブログっていろんなものが潜んでいるんですねぇ。ううむ。
2006年09月01日
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吉田茂と戦後史 先日試写会で『小説吉田学校』を見たので、これはぜひ見たいと思っていた今週と来週のNHK『その時歴史が動いた』シリーズ 日本独立 その光と影 ~吉田茂とサンフランシスコ講和条約~ ですが、面白かった。映画より。その当時の時代の動き、流れ、そして、吉田茂が何を考えていたのかが、とてもよくわかりました。映画だとね、何がどうなっていて、登場人物たちが、何を目指して何のために何をしているのか、ぜんぜんわからなかったので、吉田がすごいセリフとか、言ってても、なにかよくわからなかった。終戦直後のことなんてそれこそよく知らないわけですしね。しかし、さすが『その時歴史が動いた』だわ。細かい歴史の流れや、吉田茂が何を考えて、何をしたのかがよくわかりました。しかも、実録だから、変なキャラクターづけとか、オーバーな設定とかないしね。 それで、今回初めて、日本の米軍基地の設置が吉田一人の構想と発案の下にきまったのだという事を始めて知りました。アメリカとの講和を行う上で、ドイツや、イタリアのように莫大な賠償金を払わず、領土分割もなく、なおかつ、軍を作ることもなく、その上で外国に侵略されない安全な状況を作るためにいかに吉田茂が腐心したかがとてもよくわかった。 今もめている米軍基地問題ですが、この当時においては、苦肉の策だったのでしょう。今はいかに米軍基地をなくすかでもめているわけですが、吉田の「絶対に日本にまた、軍を作るような事はしたくない」という決意は正しかったといえると思います。最近、米軍基地のグアムへの移転のために日本は莫大な金額の移転経費を支払ったけれど、当時払わなければならなかった賠償金よりはずっと負担は少なく、軍を作らずになおかつ、米軍移転を完了させ、その上で北朝鮮問題をアメリカ側に再認識させた事はなかなか見事な展開だったのかもしれないと認識をあらたにしました。 さらに、当時、日本は、アメリカ、ソ連、中国などの国々により、五分割くらいにされていたかもしれないという案があったことも知りました。 どびっくりー。 もし、日本が分割されていたら、いったいどうなっていたのでしょう。ものすごく怖い。でも分割された日本を舞台にした、SF小説なんかおもしろいかもね。第二次大戦後にドイツと日本が勝った世界を描いた小説なんかもありますからね。そういえば日本がニ分割されたアニメもありました。 やっぱり吉田茂ってすごかったかも。 で、この番組をみて、やっと映画『小説吉田学校』で説明されていなかった部分、描かれていなかった部分がわかったのでした。映画では、軍を作らない、戦争をしたくないという吉田の考えの部分にポイントがおかれていたので。 しかし、米軍基地問題など、映画制作の行われた1983年当時は映画の中にこのあたりを描き出すのは、時代的に問題があったのかもしれません。 来週は後編があります。たのしみです。
2006年08月31日
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今回の旅行で見つけたのがこれ。 花雪肌一日目に泊まった区の保養施設の浴場の洗面台においてあった。お肌の角質がぽろぽろ取れるというもしかして、今はやり?のジェルですが、私はこの手のものは、興味なかったし、使った事もなかった。で、お風呂からでて、あれ、これなんだろう?というわけで、顔につけて手のひらですりすり。そしたらぼろぼろとなにやらでてくるわ。およ。おもしろいじゃん。で、こんなのやった後はお肌きしきしになるんじゃないかと思ったら、すべすべで、つるつるで、しっとり。いいかも!!というわけで、その宿の売店で売ってたので、買ってきてしまった。ほかにも、次の日に泊まったお宿でも、やはり、浴場の洗面台に、違うメーカーの角質とりジェルがありました。で、やっぱり角質がとれる。でも、こっちのは、商品名忘れちゃった。でも、ピーリングジェルとは、ちょっと違うらしいです。あれは、肌の奥まではいって、お肌をいためるのだそうですが、これはあくまで表面の部分の角質を取るだけなんだそうです。夏の日焼けをとるには、いいかもしれません。 長野県のお宿はどこもこれ置いてあるのでしょうか。意外と売れるのかもね。 でも、なくなったら、また長野いかないと買えないかなと思っていたら、ありました。楽天に。ほんとーにネット通販て、便利だよね。恐れ入っちゃいます。 でも、長野の温泉で試して見なければぜんぜん知らなかったし、試してみる気もおきなかったろうから、やはり、温泉も商売上手なんだわ。ちなみに男湯にはなかったそうです。男の人はね、だってひげそれば角質もとれちゃうもんねー。
2006年08月30日
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まだまだ『ゲド戦記』の話は続いてます。ネットで酷評はなはだしい『ゲド戦記』アニメ版ですが、かつてアメリカで実写版も作られたのです。そんで以ってこの実写版もまた、原作者ル・ヴィンによって、やっぱり酷評されたのですね。ル・ヴィンがこの実写版を酷評した理由は、出演者のほとんどが白人だったためです。彼女が描くアースシーの世界で白人はマイノリティです。実際地球上でも、人類には、白人、黒人、黄色人種、などなどいろいろといるのにもかかわらず、アメリカの映画界で作られるSF映画の登場人物のほとんどが白人であるのが納得いかないそうです。ゲド戦記では、主人公のゲドは赤褐色の肌だとしているのに、実写版に当たってゲドを演じているのが白人の青年なのはどういうわけかということなのです。ごもっともです。ほんとに。ゲドの物語のなかで、白人なのは唯一アチュアン迷宮のテナーだけなのです。 ですから、物語の中のアースシーは東南アジアの島々をモチーフにしていそうだなという私の読みは当たってたかもね。で、アースシーの中で地図の右上に存在するカルガド帝国が唯一白人の住む島であり、カルガドはたびたびアースシー世界に攻撃をしかけ、彼等はアースシーの価値観とは全く違う価値観で帝国をつくり、暮らしていて、アースシーの文化との融合もありえない。そんな描かれ方をしています。 ところでこの実写版は、ル・ヴィンの酷評はもっともなんですけど、それでも、とりあえずストーリー自体は原作のストーリーを踏襲して作られているので、ゲドが自身の魔法の力に気づき、オジオンに師事して、やがてロークの魔法学院に行き、最後は、アチュアンでテナーと出会い、エレス・アクベの腕輪を復活させるところまでが描かれていて、つまり、一巻と二巻を上手く混ぜてストーリー構成してありました。少なくとも、アニメ版よりは、ずっとましに、ゲド戦記を楽しめるものでした。ヨーロッパの設定で描かれてはいますが。ま、まあまあかなと思います。アチュアンの部分に関してはエピソード増やしまくりではありますが。BIGLOBE動画で無料配信中なんだけど、期間限定で、いけない!あと数日しかない。今月末まででした。いまさら、なんだけど、見れたら、見てください。本読むよりは楽。 ☆ファンタジー映画☆
2006年08月29日
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短編集は、いろいろな話のよせ集めのようにも見えますが全編を読み終えてみると、実はローク学院にまつわるエピソード集であることがわかります。 5巻までで、ゲドが設定上すごい大賢人だと書いてあるわりにその活躍ぶりを書いてある部分が意外と少なくて、読者としては実はもの足りないというか、肩透かしを食らっているようで不満足なのですが、この短編集の中の『湿原』で大賢人時代のゲドがでてくるというので、期待したのですが、やはり、ちょっとだけの出演でした。がっかり。 でもこの『湿原』に出てくる、魔法の力の闇の部分に落ちてしまった男というのは、実はたぶん、もう一人のゲド、うっかりすればこうなってしまったかもしれないゲドそのものを描いていたようであります。一巻でおのれの慢心により、影に追われる身となったゲドですが、魔法学院の数々の長や、師匠オジオンのアドバイスによって、闇に落ちることなく、大賢人となり、アースシーのためにいろいろな功績を残した人物ではありますが、このようなすばらしい導き手に会えなければ、どんなすばらしい能力、可能性を持った人間もその人生と能力を無駄にしてしまうものだという事なのでしょうか。だから、これは、1巻とはまた別のもう一人のゲドの物語といえます。 また一人の人間のもつ、魔法の能力というのものは、持っているかどうか、判断しにくく、持っていたとしても、結実させるのはやはり困難なことであり、親としては、また、子供の能力を正確に判断して子供の将来を考えなければならないものですが、子供のためと思いつつ、子供の本当に望むものとは違う方向になってしまう事もまた、しばしばあるわけで、最終的には歌謳いになり、親の元をさり、恋人とともに自分の本当に望む人生を選び取っていく若者の物語が『ダークローズとダイヤモンド』なのですが、ようするに、魔法使いの予備生になりつつ、そうならない人間もいたよという話です。 そして、ゲドの師匠オジオンとその師匠ダルスの二人の物語『地の骨』は、地震という避けようのない天災を、魔法の力と、おのれの犠牲と、師匠と弟子二人の力の融合とで、描いた魔法そのものが描かれた、地味な話の多いこの短編集の中では珍しいなかなかダイナミックな物語です。このお話をもし、アニメにしたら、どんな出来になるんだろうかと想像してみるのも一興かと思えます。作ってね。
2006年08月28日
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非常に分厚い本です。だから、読むのをためらっていました。でも、読んでみたら…面白いじゃないか。 というわけで、その後は、結構さくさくとすすんでしまいました。ここのところ暑いので、ごろごろねころがってるしかありません。だってそれが一番涼しいんだもん。まじめに家事なんかやると、暑くて暑くて汗だくで、頭がくらくらしてきますもの。だから、ごろごろしてるとなると、当然読書も進みます。おかげでゲームが進みませんけどね。こないだ買ったFF12、まだやってません。 短編集なんですね。また。いろんな話が入っているなと思いつつ、全編読み終わってみると、つまり、ロークの魔法学院の創立から、アースシーの風につながるまでのお話だったのです。実は。 で、最初の一話目がカワウソ(メドラ)という名の主人公が、実は暗黒のこの時代にロークの魔法学院を命がけで作り上げた話。ゲドの物語のずーっと昔のお話。当然面白かったです。ファンタジー、魔法という事で、世間では誤解されていますが、アースシーの世界に登場する魔法はそんなに派手なものではありません。相手の本当の名前を読み取ったり、幻を見せたり、失くした物を探し当てたり、かなり地味な魔法です。ファイアとか、ブリザドとかサンダーとか、アルテマとか、相手をばんばんやっつけちゃうようなそんな派手な魔法はありません。生活の中で必要なものや、ちょっとしたまじない、個人の持つ資質を少しだけ変化させたようなもの。そんな生活に密着した地味なもの。ハリーポッターの物語に出てくるような派手な魔法の飛び交うような物語では有りません。それでも、十分面白くて、アースシー独特の物語世界を堪能できる一冊でした。 ところで、この一話目にでてくる、主人公カワウソと炭鉱に捕らえられている少女(アニエブ)が意識だけを飛ばして会話を交わし、お互いの真の名を明かしあうシーンがあります。映画の『ゲド戦記』で、幻影のアレンとテルーがお互いの真の名を打ち明けあうシーンはここから来たのですね。びっくり出した。アレンがクモに捕まって生気を抜かれ、真の名をクモに明かしてしまうシーンも、このカワウソの話の中のエピソードに似ています。この外伝のエピソードも映画に使っていたのですね。ほんとにエピソードのつぎはぎのような映画ですねぇ。いい加減にして欲しい。カワウソも権力者に仕える魔法使いゲラックに捕まって、生気を抜かれたように魔法をかけられがんじがらめにされて、炭鉱で働かされます。そのカワウソを助けてくれたのが、少女アニエブでした。そののち、彼女は死んでしまいます。もう一人、登場する女性はロークの魔法使いモエサシ(エレハル)でした。二人はやがて愛し合うようになり、ロークに魔法学院を作ります。アースシー中を学院に入れる生徒を探して歩くカワウソは、やがて魔法使いアーリーに見つかってしまいます。彼が地中に逃げて、怪我をしてやっとのことで抜け出している間に、ロークに行き着いた魔法使いアーリーはロークの大地の力によって、その魔法の力を失ってしまいます。 あ、あらすじかいちゃった。 最後の話『トンボ」では、ロークの学院にいる悪に落ちた学院の長がドラゴンによって滅ぼされます。このラストも映画と同じ。 もしかすると、あのアニメは三巻と四巻をあわせたのではなくて、この外伝集のダイジェストストーリーなのかもしれません。 ほかにも、ゲドが大賢人としてでてきたり、ゲドの師匠オジオンの若い頃の話なんかもあって。読者待望の一冊でした。 実はこの外伝集の存在は五巻「アースシーの風」のあとがきで訳者清水真砂子さんよってあかされてはいたのですが、出版にはそののちまた何年もかかったわけですから、本当に随分待たされたのですが、待ったかいはあったと思います。 さて、短編集のラストはこののち、五巻に続きます。私は読んだにもかかわらず、五巻の内容をほとんど忘れてしまいまして、これから、読み直そうと考えております。明日に続きます。
2006年08月27日
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昨日から続いてますが。 原作の小説の方は8巻あるらしいです。読もうという根性のある人いますか。私にはないです。でも、原作には、吉田茂編、鳩山一郎編、池田勇人編なんてあって、もちろん、映画よりずーっとずーっと詳しく書いてあるらしい。そりゃそうです。映画なんてのはしょせん小説のダイジェスト版ですからね。何時の時代も。だからも映画ではタイトルこそ吉田学校だけど、ほとんど吉田茂の後半生しか書いていない。これはつまりどうやら第一話だけの映画化だということのようです。残念ですね。これから、鳩山編とか、池田編とか、作ってもいいんですよ。てか、見たい! でもね映画の中でなにげ田中角栄が目立っていたような。吉田茂と並んで日本近代政治史の影のオオボスですもんね。西郷輝彦が頑張ってだみ声出してましたけどね。それしか田中角栄の特徴の表現のしようがない。 それから、三木武造があたしには終始「坂田三吉」に見えてしまった。かの有名な将棋指しです。さもなきゃ座頭一。吉田と三木の二人だけが着物着て、ステッキ持ってるのです。 東宝本社のとある一室 ところで試写会の後に座談会がありまして、私は生まれて初めてナマホンの鳩山由紀夫氏を見ました。お会いしましたというほど口利いてないもの。政治家って本人に会うと普通に人間なんだわ。鳩山一郎のお孫さんです。ホームページを見てきたら、すごいわ。東大卒だって。しかも、奥様はかわいいし。なんといっても、ホームページのアニメがおかしい。白馬の王子様が一刀両断です。 ナマホンの鳩山さんはお茶目でのりのよさそうなオジサンでした。 彼自身が三世議員ではありますが、政界にはびこる二世議員を取り締まる、ないしは、抑えるような法律をつくるなり何か方法、対策を練りたいのだそうだけど、そういうなら、まずこのやったらお金のかかる政治ってやつをなんとかしてほしいです。 選挙とか、お金かかりすぎでしょう。吉田茂は金持ちのボンボンですごい私財があったので、あれだけ何度も解散総選挙なんてことを繰り返すような政治テクニックで渡っていったけど、そんなテクニックだけの政治なんていうくだらない慣習をのこしてくれた、吉田、三木、鳩山さんたちに私はちょっとむかつきました。映画みてて。 だって前半のかっこよさに比べて、後半は、解散総選挙と根回し合戦の嵐。「吉田は金があるけど、他のやつらは金がないんだから、選挙を繰り返すのなんて無理だ。だから、選挙の繰り返しによってライバルたちを追い落とす」事を吉田茂に入れ知恵するあほたれな側近もいましたが、こんなことやってるから、お金持ちしか政治家になれない、根回しばかりしてるから、実際政治化たちがなにやってるか、国民にはちっともわからない。 何を目指して何をしてるのか、はっきりしない権力争いの場だと勘違いしてるおじさんたちばかりいる近代政治を作り上げたのが、この人たちだとするとヒジョーにむかつきます。だから、国民が政治に無関心になるんですよね。 政治ってしょせん世襲制の世界なんですね。そんでもって人脈売りの世界なんだな。どうして、選挙で奥さんたちまで土下座してまわるのか。土下座したら、票が入るなんてちょっと変じゃなですか。そんな事がまかり通っているのが不思議な世界であります。 私もよく、、友達から、選挙がちかづくと、だれそれに入れてくれと頼まれます。親にも頼まれた事があります。友達だってだけで、人に選挙投票のことまで口出ししてくるその神経がわからない。私の貴重な選挙権を他人に口出しされたり、したくないです。たかが、土下座や名前の連呼なんかで決めたくないです。うるさいやいと思います。で、投票するにも、その人が何してくれるのか、ほんとに言ってた事やってくれるのかわかりません。ぜんぜん。 それでももう少し気合を入れてこれから投票をしようかと考えちゃったのでした。いえもちろん、今までだってしごくまじめに投票してきましたけどね。 熱心に語る鳩山先生 税金の要らない政治が私の望むものです。鳩山さんは各地方がそれぞれの力でやっていけるようにしていきたいとおっしゃっておられました。それってつまりこういうことです。相続税とっても、所得税とっても、消費税とっても、固定資産税とっても、ホントはそんものとないほうが世の中潤滑に進むんじゃないのかと思うことがしばしばある。 相続税がなければ、大きなお屋敷にそのまま家族は住み続ける事ができるから、子供は親の面倒を安心してみてあげる事が出来るし、そうなれば、奥さん達だってパートに出なくたってすむかもしれない。そうすれば老人介護保険料も保育所の費用もいらないんですよね、本当は。 でもそうじゃないから、税金のために奥さん達は働いて、その税金で保育所と老人介護保険料が払われる。そこに税金の動く流れがある。その途中でそのお金がよこに流れる。あり?無駄な事してるだけですね。結局ちっとも奥さん達は自由になっていないし、だんなの稼ぎの多くもまた、吸い取られてゆくのですね。税金ですべてことを収めようというのは、やはりちっと違うんじゃないですかいと私もやっぱり思う。 それにしても、最近のブログの勢いはマスコミ世界を揺るがすほどの勢いなのでしょうか。最近はそういう勢力の強くなったブログを利用して、マスコミに取り込もうとしている、そんな状況があります。だから、ブロガーさんたちをわざわざ集めて、試写会をして、その映画評をブログに書いてもらえるようなプロジェクトや、ブログに企業の宣伝を書いてもらって原稿料払いますっていう企画を行っているところもあります。原稿料といっても、数百円レベルなんですけどね。でもね、いくらお金になるといってもくだらない宣伝はしたくない。そんな事してるとサイトの質が落ちるもの。だから、これはいいと本気で思わないとブログの記事にする気にはなりません。しかし、私はそんなスタンスだとしても、世の中そうじゃないブログもあるわけだし。とにかく、一般人のナマの声が聞けるネット世界の掲示板や、ブログにも、企業の魔の手が、そして、マスコミの暗い影がごしごしと迫っているかもしれない。この先のネット世界の変容やいかに。なんつって。つらつらと考えてみる。出来れば、美しい融合と、調和を願いたい。ブログのもつ可能性はこの先個人の日記や、つぶやきだけでは終わらない可能性を秘めているとするのなら、どこまでかかわっていけるのか、試してみたいところです。 昭和史
2006年08月26日
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戦後政治史を描いた映画は珍しい。 1983年製作の政治映画が今日DVDとして、発売されるそうです。ブロガーさんを数人特別にご指名ということでお誘いの声がかかり、日比谷の東宝本社試写室での試写会に参加させていただきました。天下の東宝の本社に入れて、しかも、豪華試写室での観賞なんてめったにない機会です。ブログなんて書いてていいことあるんだろうかという疑問なんかぱーっとフッ飛ばしてくれるナイスな企画。そのうえ、観賞後には民主党幹事長鳩山由紀夫氏ご本人(ナマホンですぜ)と座談会というなにやらものものしい企画。政治なんてよくわかんないなんてことはほっといて、行ってきました。見てきました。 私はあんまり詳しくないです。このあたり。でも、さすがに吉田茂は有名だ。しかし、彼が本当に名宰相だったのかどうか。判断のわかれるところです。広田弘毅を描いた『落日燃ゆ』を愛読書にしているうちの長男は吉田茂に対して否定的だからだ。 しかし、ここ最近騒がれている憲法九条。日本人はみんな軍隊なんて欲しくない。しいて、いえば、世界中誰だって軍隊なんかやりたくない。それでも、戦争が一番好きなアメリカが軍隊作れとうるさい。アメリカは、世界中に戦争の火種を振りまくのに忙しい。 しかし、アメリカが日本に再軍備を要求し始めたのが最近のことではなく、吉田茂のこの時代にもあったことが映画を見ていると、わかる。吉田は軍なんか二度と作りたくない。しかし、アメリカは圧力をかけてくる。実際、軍なんてものを作ってみても、国防の役にさえたたない上に金はかかるし、無学で無知で考えなしのばかたれなんかが、軍隊の要職につこうものならあっというまに始まるのが戦争ってものらしい。 戦後の政治史はいかに軍隊を持たない日本を維持し続けるかという歴史だったのだと、この映画を見て、認識を新たにすることができました。 さらに、戦後政治史を読んでみると、数々の政治家達がいかに戦争にならないよう、再軍備にならないよう必死だったかがわかる。 最近、米軍基地の存在に対しての数々のニュースを見ることになったが、グアム移転を金で済ませたというのは、よくよく考えてみればかなりましな解決だったのかもしれない。金でカタをつけてでも、日本人の血を戦場に流すような事にならない方がずっとましだ。 アメリカは、民主主義と社会主義の境界線に位置する日本をどうするか。長く考え続けているのだろうか。日本を守るための軍備には金がかかる。日本に軍備させた方が金はかからないが、だったら、金をだすから、軍備はアメリカでやってとお願いするのも一つの方法だったのかもしれない。 戦争してみても勝てない小国とすれば、運とカンと、度胸と頭脳とで、舌先三寸でアメリカと渡り合っていくしかないのだろうか。 最近の政治家は人情も大きさもないと、試写会後の座談会で、鳩山由紀夫氏が語っておられましたけれど、吉田茂も三木武吉も、池田勇人も、田中角栄も、男としての大きさと度胸だけはでっかかったように見える。私見ですけど。 アメリカに対して、吉田茂は「今日本の内閣が、自民から社共に成り代われば、日本を社会主義との壁にするとか、防衛線にするとか、それどころじゃないぜ、日本が社会主義になっちゃったらどうするの」と、まさに口だけの戦いが繰り広げられていく。 頭脳と交渉の戦いだ。それは戦争なんかよりもずっと難しく、しょせん物量に勝てない日本が世界を渡っていくための重要な戦略なのだろう。 まあ、戦後の政治史なんて、学校ではもちろん習えませんし、私はよくわかりませんけどね。それでも、子供の頃、ニュースで聞いて、ホンモノの顔だけは知っている政治家達が、男前の俳優さんたちによって演じられているのを見ますとね。うーん。違うだろと、思いつつ、不思議な気がします。明治維新の話なら、ぜんぜん顔知らないですから、そのまま素直に見てればいいのですけどね、その不細工とまではいわないけど、およそおとこまえとはいえないようなご面相だった歴代の総理大臣の若き日の姿があんなにイケメンぞろいなのはちょっとねぇ。 だって、田中角栄は西郷輝彦だし、佐藤栄作は竹脇無我だし、中曽根康弘は勝野洋だし、宮沢喜一は角野卓造だし、竹下登は下柄誠だし、いやもうほんとにたまんないですけどね。西郷輝彦は一生懸命だみ声を出して頑張ってましたけどね。どう考えたって田中角栄はあんなイケメンで上品な男じゃなかったけどね。という楽しみ方も出来ます。この映画。 それから、伝説の女優夏目雅子さんが吉田茂の次女麻生和子役(現外務大臣麻生太郎氏のお母様なのだそうです)で登場してきます。美しいです。ほとんどそこだけ見て終わる人もいるんじゃないですかね。 安保条約締結、日本独立に至るまでの前半はなかなか吉田茂の頑張りぶりと志と男意気がかっこいいのですが、後半はほとんど政権抗争の話となり、、根回し合戦や、政治がテクニックと金による勢力争いに成り果ててしまうその土台を作ったのが吉田茂なのかという物語になってしまい、途中いささか冗長になってしまったのが惜しい。 映画としては、吉田茂が日本を再軍備と戦争から守った事に焦点が当てられては居るのだろうが、病気で倒れ、ほとんどよれよれで、役に立ちそうに見えない鳩山一郎がその後も、側近達によってかつぎあげられつづける理由が今ひとつ映画の中でわかりづらい。前半にもうすこし、鳩山一郎がまわりからしたわれるその理由、人物像が描かれていれば、鳩山、三木と渡り合い、異様に総理大臣の地位に固執し続ける吉田茂のありかたをもっと明確に浮き上がらせる事が出来たのではないのだろうか。後半ただの根回し合戦、解散合戦に終始してしまっているのが惜しい。 政治史を知らない人間が見てもわかりやすい、引き込まれるような映画作りをのぞみたい。 ところで近代史に没頭するわが子のその世代からすれば、えっと高校生ですけどね、既にこの時代の歴史というのは、私たちの世代にとっての明治史とも言えるかもしれない。なにしろ私とは二十年くらいの年月の差があるのだから、ついこないだのニュースだった事が、彼等若い世代にとっては既に過去の歴史、確実に近代史になり始めているとも言える。そして、そういう近代史を学校で習う事の出来ない今、映画などによって、若い世代に伝えて欲しい。 というわけで、東宝さんには、このDVD発売にとどまらず、数々の近代史の映画をこれからどんどん作っていって欲しいと思うわけです。『落日燃ゆ』とか、『男子の本懐』とか、うちの子好きなんですよ。ぜひ作ってね。それと、他にも過去の名作の掘り起こし、DVD化は期待しているところです。 ちなみにこの映画の中で私的にかっこよかったのが、池田勇人でした。感情に走っていきり立ってる親分吉田茂をさとすシーンが二度もあったし、条約締結の大事な下準備のために吉田に頼まれて、海千山千の状況でアメリカに渡ったのも彼だ。なかなか渋くてかっこよくて、よかった。彼の活躍する場面がほとんどないうちに病気になって死んじゃって残念でした。 池田勇人の映画も作ってね。 それにしても、日本の政治史を描こうとすると、根回しははずせなさそうだけど、この根回しシーンが一番面白くない。もっと政治信条を語るシーンが欲しい。日本の政治にないのってそれ。私なんか何がなんだかよくわかんないもの。それを描いてると、話の中に動きがないんだよね。そのあたりをいかに上手く描くかが、政治史映画のポイントといえましょう。 ついでにですが、来週再来週の水曜日、NHKの『その時歴史が動いた』で二週連続前後編で「吉田茂と戦後史」があります。東宝さんとのタイアップなのでしょうか。非常に興味深い番組であります。ぜひ見なければ。みました。感想はこちら。まだまだ明日に続きます。 ホンモノデスホンモノ。鳩山由紀夫先生ご本人ですね。 映画ビデオ、映画DVD昭和史政治家、政治屋http://tb.plaza.rakuten.co.jp/futsupa/diary/200608250000/4cf64/ すみません。TBできない場合はこちらのコピーなら成功するかもしれません。よろしくお願いしますです。
2006年08月25日
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以前テレビドラマとして放送されましたね。私は、この手のお涙ちょうだいドラマは好きくなくて、見てません。でも、娘が夏休みの読書感想文をこれで書くんだけど、かけないよかけないよお母さんどう書くのとうるさいので、ちょっと読んでみた。 『1リットルの涙』母の手記 読んだのは、最後の6ぺーじだけ。 でもそのたった6ページで、涙が出てきてしまいまして。 あらーっと。 だって、やっぱり中学生の女の子を持つ母として、立場は同じですからね。亜也さんは、中学三年生で発病しますが、うちの娘が今まさに中学二年生。ほとんど同じ。 そういう立場でこんなの読んだら、泣けるじゃないか。うちのお嬢さんには、ぜったいこんな病気になって欲しくない。ちゃんと普通に大人になって、普通に結婚して、普通に子供を生んで、普通に幸せな人生を送って欲しい。 「だめよ。貴方が死んじゃったら、おかあさん(私のことだ)は悲しくて悲しくて死んじゃうからね。」とは、つねづね、娘を抱きしめながら、私がのたまう決まりゼリフ、なんですけどね。 そのあと、著者の娘亜也さんが発病し、診察を受けて、病名を知り、死に至る病であること、決して直らない事を知ったそのあたりを読んでたら、また、涙が出ちゃいまして、もう、私にはとても、全編は読めそうにありません。 親が娘と別れるのは、娘が嫁に行く時と、娘が死ぬ時だけだから、娘の葬儀は結婚式なんだと、そう語りながらも、やはり悲しい。 文章の中に書いていなくても、この文章の中に書かれない部分で、著者はどれほどの涙を流した事だろう。 死んでしまうその本人が一番辛いにはちがいない。けれど、娘を失う母もまた辛い。 いとしければいとしいほど、その痛みも深い。 よく読むとこの物語は今最近のことではなくて、亜矢さんの生まれた年はくしくも、私の生まれた年と同じだった。生きていれば私とほぼ同い年で、同じように娘をもって夢中で育てていたのかもしれない。私にとっては、娘も母もどちらにもシンパシィーを感じる物語なのだ。 いつもいつも思うのだけど、私の娘が幸せな一生を送ってくれますように。 こちらが亜矢さん本人の書いた本そして、劇場版 書評、レビュー
2006年08月24日
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なんか遊びに行ってばっかり見たい。連日遊びの記事が続いているような気がします。実際毎日遊び暮らしてますけどねー。 夏祭りにいきたーいと思いつつ、それらしいものが見つからなかったんだけど、子供が友達とこの間の金土日で麻布十番祭りがあるというので、めんどうくさがるだんなをなんとか口説き落として、祭りに行ってしまいました。とにかく出店、でみせ、出店だらけなのが、この祭りのポイントですね。隅田川花火大会なみの人手なんだということで、一回くらい行きたい!!と思っていたのです。一応、盆踊りとかやってるし、近くに神社もあるし、ライブステージもやってますがやっぱりメインは出店なのが、この祭りのポイントといえましょう。 で、特にそのなかでも、メインなのが、国際バザールなんだけどね。世界のいろんな国の食べ物が出店になってるわけだ。でも大体、カレーと焼肉の串刺しが多い。なんだこの表現は。インドカレー系ですから、辛いわ、辛いわ。とにかくですね。私は早めに行ったのです。三時ですよ。だけど、すでにとにかく既にすごい人だらけ。行列だらけなので、並ぶ並ぶ並ぶ。なんだけどね。トルコのシシカバブと、カレーと、ドイツのソーセージと、マンゴージュースとか食べたかな。 シシカバブは多分ホンモノのトルコの人が焼いたてたんだとおもうんだけど、とにかく体が大きくて、すっごくたくましいのだ。絶対一緒にいった自分の彼氏とか、ダンナとかと、見比べてはいけません。絶対はりあえないから。トルコ人はほんとにみんなあんなにでっかいのかな。それとも、あそこはたまたまなのかな。シシカバブは堅くて絶対噛み切れなくて、最後は絶対飲み込むしかなかったんですけど、でも、普段あんまり食べる機会はないし、味付けはぜんぜん違うのですから、それなりに意義はあります。イマドキの日本の肉は柔らかいことが大事なので、うっかりすると、薬品入りの整形肉だったりして、やわらかくておいしいなんてうかうか喜んじゃいられないものね。 さてそれから、通りを渡って、麻布十番の本編に行くと、さらに出店のオンパレードであります。たこ焼き、お好み焼き、焼きそば、カキ氷なんていう普通のものもありますが、私は抹茶練乳黒蜜かけの海洋深層水のカキ氷とか、サングリアとか、イイダコのたこ焼きとか、とにかくちょっとそこらじゃないものを探す。 でも、でもね、いろいろ買い食いしたあげく、一番おいしかったのは、昔から連綿と麻布で続けているヤキトリやさんのヤキトリでした。麻布ってしゃれた町として有名だけど、麻布十番はちょっと下町っぽい。昭和の中期くらいの風情を残したまんまの飲み屋とか、居酒屋さんなんかも結構あるわけです。看板がね、昔のまんまのたたずまいなわけですよ。そんな中で、同じように古い看板の焼き鳥屋さん。店先で、ガラスケースゴシに見えるヤキトリをやく店主のおじさんの背中は、長い年月の無理な姿勢で曲がっているように見えました。まっすぐに立った姿勢を見ることは出来なかったので、その人が本当に背中が曲がっていたのかどうかはわかりません。けれど、かって私の母の母もまた、農業による長時間の無理な姿勢のために腰が曲がっていました。昔はそんな人がいっぱい居ました。でもそんな自分の姿より、自分の仕事に打ち込んでいくことを優先するそんなプロの職人の焼くヤキトリは絶対においしいに違いない。 というわけで、二本だけ買って、だんなと一本づつ食べましたけど。ほんとに麻布十番まつりの数々の出店のいろいろなものの中で、一番おいしかったです。たった120円の普通のやきとりですが、ただ焼いて見かけおいしそうに見える筋だらけのバーベキューより百倍くらいおいしかった。スペシャルに。最近はスーバーが増えちゃいまして、こういう街中の普通の焼き鳥屋さんで普通にちょっとヤキトリを買うってことが出来ないんですよねー。 普通の出店はしょせん一元さんなので、上手いかまずいか、の当たり外れはほとんど運ですしね。見比べてみても、しょせん大同小異ですからね。 あの焼き鳥屋さんも焼く人がいなくなればおしまいなんだろうな。跡継ぎは居るのかな。こういうプロの技。たかが、ヤキトリですけど。続いて欲しいと思うわけです。ヤキトリ大好きだし。ヤキトリは日本の文化なんだわ。がんばれ、日本の焼き鳥屋さん。 夏まつり イベント 学園祭 地域の祭り
2006年08月23日
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ホラーラブストーリーですね。映画界に新分野開拓でしょか。でも、もう何年もたっちっゃてるけど。 最初はね、ミステリーかなと思うわけですよ。幽霊も出てくるし、法医学なわけですし、死体の解剖シーンとか結構えぐくて怖い。でも、ね。そうじゃなくて、これはラブストーリーなのですね。以下ネタバレしてます。 子供の頃から、幽霊が見えちゃう主人公の真言(まこと、東山紀之)。この幽霊達は思いを残して死んでいるので、彼等が真言にその思いを解明して欲しいわけです。だから、彼は監察医になったわけです。でも、これは非常に手間と時間がかかるお仕事なので、忙しくてほとんど家にいられないわけです。奥さんは寂しくて、寂しくてしょうがない。そんなある日、奥さんの絵梨(和久井映見)は交通事故で死んでしまう。 好きな人、愛してる人が死んだら、幽霊でもいいから、自分のそばにいて欲しいと思うものですが、大概はたとえいたとしても、見えません。幽霊なんて。でも、この映画の主人公真言は幽霊が見えちゃうわけですから。 幽霊でもいいから、絵梨にそばにいて欲しいま真言は、ふだんは、幽霊達の言葉を聞き取って昇天させてあげるわけだけれど、彼女のことは謎解きをしようとしない。絵梨もまた彼に何も伝えようとしない。だって真言が幽霊としての絵梨の謎解きをしたら、絵梨は昇天しなくちゃならなくなって、もう真言のそばにいられなくなっちゃうもの。絵梨はずーっと幽霊のまま、真言のそばにいて、何も語ろうとしない。真言もまた、絵梨の姿をみたままその謎解きをしない。 彼女が幽霊として、真言に見えるということは、本当は現世に残した思いがあるはずで、そして、何か犯罪をしているかもしれないのだけれど、それを解いたら、絵梨は消えちゃうわけですから。幽霊でも、抱きしめられなくても、言葉を交わせなくても、ただ、いてくれればそれでよかったんだけどね。二人は。 けれど、世の中は、現実は、二人のそんな願いをいつまでも、許してはくれないようでした。同僚の女医(室井滋 )は「絵梨の言葉を聞かなきゃダメなんじゃない?」とアドバイスしてくるし、絵梨が浮気していた相手の男性の妹が出てきて、兄が死んだ原因を解明して欲しいと、真言に名指しで仕事を依頼してくるわけです。彼は監察医ですから、やらないわけにはいきません。 そして、絵梨がその寂しさに同僚の男性と浮気していた事、その男性を殺してしまったことがだんだんわかってきます。けれど、真言がその謎を解いてしまえば、ばらしてしまえば、絵梨はいなくなってしまいます。 けれど、やがて、とある事件現場で、その謎を解かなくてはならなくなってしまいます。現場に現れる絵梨の幽霊。今、この事件を解けば絵梨の事件も解かれてしまう。そしたら、絵梨はいなくなってしまう。けれど、監察医として彼は事件の真実を語らないわけにはいきません。 決断を迫られる彼の目の前で、今まで何も語らずに黙っていた絵梨は、ただ彼にうなずいて見せるのでした。 「いいの。事件を解決してください。私は昇天します。」 事件の謎が解かれた時、絵梨はとうとう彼の前から消えてしまいました。絵梨を探して探して探しまわる真言。けれど、もう絵梨は今度こそ本当に、この世からいなくなってしまったのでした。全編ほとんど無表情だった真言がこの時まさに必死な顔で絵梨を探し回ります。 切ないですねぇ。幽霊でもいいから、そばにいたい。幽霊でもいいから、そばにいてほしい。 かつては、幽霊のことなんかほっといて真言にそばにいて欲しいと思っていた絵梨ですが、彼の仕事はとても大切なものなんだから、という最後にアイポッドに残された絵梨の言葉を聞きながら、絵梨を思うしかない真言なのでした。 両親も信じてくれなかった彼の人生の業というものを、彼女だけは信じてくれて、理解してくれたそんな女性だったのではありますが。 ラストシーン。砂浜で抱き合うふたりの姿が悲しいですね。日本映画、邦画映画ビデオ、映画DVD
2006年08月22日
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二日目に泊まったのが、この葛温泉仙人閣というところです。 私は大体旅行に行くとき地図を見て考えて決めます。最近のガイドブックってあてにならない。ガイドブックに載っているところに行ってみると、まずかったり、想像したほどよくなかったり、結構はずれが多い。どーもあてにならない。 でも、地図を見てて、山の奥のほうの僻地に温泉なんかがあったりすると、地図を見ながらここはいったいどんなところだろうと思い始めるわけです。それでもって、その地図に旅館名まで書いてあったりするとますます気になってくる。地図を作った人がわざわざ旅館の名前まで入れるってことはこれは只者じゃないんじゃないのかなと思うのです。それで、そういうところに行ってみると、これが結構知る人ぞ知る秘湯だったりする。 今回泊まった仙人閣もそうです。二日目は黒部の近くに泊まろうかなと思ってそのあたりの地図を見てたら、高瀬川沿いのなにやら奥まったところに温泉がある。ネットやブログを検索してみると悪くなさそう。 というわけで、行って見ました。なかなかよかっです。なんか、ほんとに温泉ですね。岩風呂なんですよね。ホンモノの。 名前が岩風呂とか言ってるわりに、いざ入ってみると、普通のお風呂に石がいくつか置いてあるだけなんてのじゃなくて、ここのお風呂場は渓谷の岩を持ってきて、そのまま使ったみたいで、すごくでっかい岩がずらずら並んでて、露天風呂ももちろん、岩で出来ています。しかも、男湯と、女湯の仕切りがはじッこの方までないので、うかうかしてると覗かれそうです。あぶないったら、ありゃしない。 そして、さらーに、お料理もよかった。 上品な味ってわけじゃないけど、ただのおばさんの家庭料理でもない。それなりにプロの料理人さんなのかな。すごく手の込んだ手間のかかるお料理がどんどん出てくるのです。それで、最後に蕎麦の実の入ったお蕎麦が温かい状態で出てきます。更に最後のしめが炊き込みご飯でした。だから、そこまではお料理を一品づつありがたく味わう。鮎の塩焼きとか、お刺身とか定番のものも有りましたけどね。それ以外にも馬刺しとか、山菜の天麩羅なんかおいしかった。他にもあったかい状態で出てきた、サトイモの芋饅頭とか、山芋ときのこの蒸し物とか。うーん。上手く表現できませんけどね。まず全部食べ切れません。だってすごい量なんだもの。近年は安めの民宿ばかり泊まっていたので、久々に普通の旅館だったからかな。 でも、ここ、外観はトタン張りの危なそうで汚そうな旅館なのでしたけどね。でも、ほぼ満室みたい立ったから、その世界では有名なのかもしれません。 とにかくご飯がおいしかった。 お勧めです。ただね。建物はトタンばりで余り美しくありません。なんとか維持しているという感じかな。最初ついた時にはダイジョブかなと思ったのです。でも、秘湯を守るために無理に改装したり、新築したりして、豪華旅館なんかにする気はないようです。地道に秘湯を守って行こうということで、だから、その分、とても、お料理に気合が入ったいたし、お風呂も広くて、すばらしいものでした。がんばれ。 日本秘湯を守る会。温泉
2006年08月21日
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久しぶりに今回の旅行では黒部ダムに行きました。長男が一才の時に行ったきりなので、実に十数年ぶり。混むだろうという事で、ロープウェイ、ケーブルカーの類に乗るのは止めました。朝、早めに宿を出まして、それでも既に扇沢の駐車場はいっぱいで、扇沢ロッジに行く途中の横道にとめる事になりました。お盆の時期って、混んでますね。しかも、黒部はすごく寒かった。長いズボンで行くべきでした。 黒部に行くのはこれで三度目。やはり三度も行く価値があるくらい面白いところです。十数年前に行った時は、既に九月で台風も来てて、雨も降ってて、扇沢に向かう渓谷の風景は霧が立ち込めていて、シーンとしていて、厳かで、まさに深山幽谷って雰囲気で、私はほーっと見入ったものでしたが、真夏に来ると、普通にただの夏山なんですね。なあんだ。 それでも、シーズンに行ったおかげで、ダムの放水を見ることが出来ました。シーズンオフだと、まず見られないからね。あーあんなに水流しちゃってもったいない。でも今年は雨よく降ったから、水不足の心配はないのでしょうね。というわけで、ダム湖を遊覧する観光船に乗ろうということで歩いていった。船着場はダムの反対側ですから、ダムをずーってわたっていきます。もっとも、ケーブルに乗るのにも同じですが。 でもね、遊覧船にのっていたら、途中から土砂降り。なぜか、観光で船に乗ってるといつも雨に降られる。既にジンクスになりつつあります。乗船のための整理券をもらうのはぎりぎりで間に合いました。でも、座る事は出来ませんでした。船から見た景色はだだただ山が続くばかり。そんなに面白いかなあ。やっぱり私はロープウェイの方がいいな。 ところで、若い青年二人が、船の座席ですやすや寝てました。せっかく大枚はたいて、観光船に乗って、座席も確保したというのに、この人たちは、疲れてるのか、夜更かしのし過ぎなのか、ほんとにすやすや寝てました。おい、寝るくらいなら、乗るなよ。座席開けろよと、思いましたが、もちろん口には出しません。船の外は土砂降りだったので、こんなくだらない事にむかついてました。せっかく旅にでてのんびりした時間をすごそうとしてるのにね。私の根性なんてこんなものです。 そのあと、黒部ダムの資料館の中で黒部ダムが出来るまでの話をまとめた「くろよん」という短い映画を見ましたら、長男が感動して泣いていたらしい。ふふふ。最近こういうのに弱いんですよ。あとで、プロジェクトXの「黒部ダム」編をビデオやさんで借りてきて見たいものです。それでも、観光でいろんなダムを見たけど、みんな大変な思いでダム作ってたんですよね。感動しちゃうでしょ。私なんか黒部ダムの寒さだけでまいっちっゃたのに、あーんな寒い中で、しかも真冬にトンネル堀の仕事してたのかと思うとほんとすごいなーっと思うわけです。だって、もう水浸しですからね。トンネルって掘ってるはたから水が湧き出て染み出てきますからね。電気はアリガターク使わせていただきたいものです。 よくよく考えれば水力発電て、結構クリーンなエネルギーなんだな。いろいろと、自然破壊がどうとかって批難浴びてるけど、原子力や、ガソリンより、よっぽどまし。こんなに山とか渓谷とか多くて、土地が狭いんだから、日本に一番あった方法だと思います。最近はみんな東京に行っちゃって山は過疎化の一方ですし。ダムって自然破壊かもしれなくて、最近は否定されてるけど、こんな風にかつてたくさんの人たちが大変な思いをして、命まで犠牲にして、つくり続けてきたものなんだ。それなのに、最近はただ、反対ばかりされてて、なんだか、かつて、命がけでダムを作ってきた人たちの思いは功績はどうなるんでしょうね。 今はもう、黒四にしか残っていないトロリーバスはかつては東京にもいっぱい走っていた電気自動車なわけでして、今はもうなくなってしまったけど、今の技術ならもう一度もっと効率のいい使いやすいトロリーバスとか、電気自動車って作れるはずなんじゃないのかなとおもうんだわね。ガソリンと、石油がいろいろと問題を含んでいて、地球温暖化にも影響してるし、もう一度水力発電も考え直したっていいんじゃないのかな。今度は無計画にどんどん作るんじゃなくて、自然環境との兼ね合いをよく考えた上できちんと計画的にやっていくべきではありますが。 中国もね、石油なんかより、あの広大な土地を生かして風力発電とか、考えた方がいいのでは。そんでもってオール電化計画ですね。中国の事は日本に影響するんだから、日本の政府ももっと中国が風力発電とか、ソーラーパワーに注意が行くように仕向けるべきなんじゃないかと思うんだけどね。そんで以って技術協力技術提供ですね。地球全体のことから見てもすごく大事なことですぜ。 なんてことをつれづれ考えてしまったのでした。今回の旅行で泊まった旅館『葛温泉仙人閣』 国内旅行
2006年08月20日
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以前は東京の人間という事で、お盆に田舎に帰る必要もないので、お盆の時期ははずして夏休みをもらっていたのですが、最近はみんなお盆の時期は嫌がるというので、お盆で東京にいないといけないはずが、お盆の時期に旅行です。子供たちも大きいので、九月に旅行もやりにくくなりました。 お盆の時期だから、なのかなあ。田舎といえども、暑くて暑くて観光もままなりません。子供たちは今年は、既に、修学旅行と、合宿と、林間学校と、友達との旅行なんかがあって、いまさら旅行でもないでしょという感じだったのですが、親が行きたいので、付き合わせたという感じでした。 だって夏の数日間くらい、この暑くて空気の悪い東京を抜けだしたい。しかも、私もダンナも故郷が東京なのですから、帰る田舎なんてものはありません。旅行でもいかないかぎり、東京を脱出、出来ない。というわけで、いやがる子供をなんとか説得してやっと、旅行にいけたという状態。来年は受験でもあるし、はたして、夏の旅行にいけるかどうかわかんないなあ。 ほんとはね。一週間くらいかるーく田舎に行きたいんですけどね。でも、ルスの間ババサマに家を見ててもらうわけだから、そんなに長くはあけずらい。一軒家って楽じゃないのです。 子供もだんだん家族旅行をいやがるようになってきて、この先ちょっと辛いなあ。そうかといって子供に留守番させての旅行なんてそれこそ危なっかしくてとてもじゃないけど、出来ません。きちんと戸締りしないだろうことは明白ですからね。開けっ放しで出かけちゃったり、夜きちんと鍵もかけずに寝ちゃいそうだし。まだまだ責任感なんてなさそう。 私の時は結婚するまでちゃんと家族旅行したし、楽しかったんだけどなあ。 今回はお盆と重なってしまい、その日には夕方までに帰ってくるように言われてしまい、そんなのはもちろん無理なので、無理ですと言いまして、ちょっともめました。この先も休みがお盆となると、困ります。私だって、好きでお盆に旅行に行くわけじゃないもの。道も混むしねー。 それと、やっぱり、夏の盛りなので、田舎といえども、暑い。あんまり暑いので、いい加減観光もイヤになってきまして、かといって他にする事もない。 やはり、涼しいところに泊まってずーっと昼寝してるのが一番いいのかな。来年はどうしようかなあ。
2006年08月19日
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有明のプールに行った帰りに道路っぱたに立てかけてあった看板に「湾岸アンダー」という言葉を見つけた。 湾岸アンダー なにっ、それ ここから、まず、私が思いついたのは首都高速湾岸線(11号線)の下を走ってる道路(国道357号線です)とその近辺あたりのことかなってことです。うーん。首都高の下の道路を走る暴走族とそれにからむ少女ないしは少年達の物語ってどうよ。このタイトルでドラマでも、つくろうよ。 そこから、もう少し、拡大して、湾岸一体の埋立地の俗称。なんてどうでしょう。江東区、港区、ですね。このあたり。 有明、豊洲、辰巳、東雲あたりでしょうか。 このあたり、辰巳のジャスコの開店に始まって、豊洲の海っぱたにララポートを今建設中ですし、銀座を通る道路がずーっとまっすぐ伸びてきて、勝鬨橋をわたったその後を先日晴海大橋が開通して、豊洲までつながり、そのまま有明までつなげる予定で、今まさに建築中です。また、「かえつ有明中高」も、移転、開校してますし、お台場にも近いのです。お台場もまだまだ開発中ですけどね。晴海には「首都大学東京」もありますし、東京ガスの科学館も移転新築されました。ジャスコの前には住宅都市整備公団の東雲キャナルコートもがんがん進んでます。えっとー今は、UR都市機構になってますね。しかし、ここはお高いのう。 題して、『江東区湾岸アンダー産業開発計画』なーんてどうでしょうね。 江東区ですから、下町っていうのと、アンダーって言葉が掛詞みたいになるかなっと。ダウンタウンなんてのよりかっこいいでしょ。 うーーーん。かっちょいいーーーー。 なんて自分で一人盛り上がっていたんだけど、それでは湾岸アンダーとは本当はなんでしょう。実は、お台場のところにあるんですね。首都高台場ランプをでて、地下のトンネルをもぐって少し進むと、東京湾岸アンダー出口となります。台場ランプから、わずか500mくらいの短いトンネルのことなのでした。 なんだあ。がっかり。ちぇっ。 首都高速湾岸道路の下の一般道湾岸アンダーに始まる若者の物語とか、江東区埋め立てと一体の開発にかかわる人間ドラマなんて面白そうじゃん。なんていろいろと想像したんだけどなあ。 今からでも、考えてみましょうよ。江東区長さーん。 都心に住む
2006年08月18日
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『東京奇譚集』 村上春樹昨日から続いてます。『品川猿』 やっぱり母親に愛してもらうって大切な事なんだろうか。母親に愛されない事が人の一生に影響し、その人生を支配する。人は親に愛される事で、人を愛する事を学ぶのだろうか。母に愛されないまま、子供を生んだ時、やはりわが子の愛し方がわからなくて、悩み続けるのだろうか。けれど、本人には、どうして自分がわが子を愛する事が出来ないのか、そう簡単には、わからないものなのだと思う。橋からわが子を突き落として殺し、よその子も殺し、それをただ、異常な犯罪者と言い切る今はまだいいけれど、いずれそんな母親がもっとずっと増えた時、それは個人の病理ではなく、社会の病理へと変わっていく。親は必ずわが子を愛するものだという現代社会に刷り込まれた常識が、多くの女性を苦しめる。果たして、男性は女性ほどにはわが子に情が沸かない事に悩まないように思える。わかんないけどね。けれど、子供は確実に傷つく。母と子はお互いに明確にしないまま、ごまかしの中に月日を過ごす。主人公は母と姉が自分を愛していない、そして、疎ましく感じ続けていることに、きずかないふりをしたまま、その傷は見えないところでしくしくと成長していく。その事実を認めることはとても辛い事で、だけど、それを自覚しない限り、自分の人生を自分で修復し、軌道修正する事は出来ないらしい。本当は実の親でなくとも、愛してくれる人が一人いれば、人は愛する事を学ぶ事は出来る。そして、一人の人間が多くの人を愛する事も出来る。 ところで、どうしてサルなんだろうと考えたんだけど、よくわかんない。でも、人の家に入り込んでものを盗むとなると、ライオンやサイってわけにはいかないだろうし、手近なところで、考えるとして、犬はちょっと無理っぽい。猫なんか結構俊敏で、ひょいと忍び込みそうだけどね。でも、文中の「それを見ないようにして、今まで生きてきたんです。目をふさいで、耳をふさいで。」というところを読んだ時、ふっと頭の中に日光東照宮の「見猿・言わ猿・聞か猿」を思い出しました。そのあたりのイメージなのかなっと。そして、サルという動物は、下品でもあり、高貴でもあります。それぞれ両方の要素を併せ持ったいろんな意味合いをもつ生き物です。 私もまた、この物語を読みながら、母との関係をつくづく考えてしまった。ほとんど両極のようにお互いの正確が違うので、母がよしとする、人間のパターンに私は程遠いのだ。しかし、私にすれば、母の理想とする人間像なんてものはばかばかしいことこの上ない。しかし、それを母に理解させるのは不可能だし、それゆえに母は私にイラつく。けれど、母が求めるような部分が私の中になくたって、別に私はそれ以外の私の部分で人生を楽しむ事が出来るし、なんとか生きていく事も出来る。けれど、母は決してその事にきずかず、私に会うたびにどうしてこの娘は自分の望むような人間になっていないのかわからずにイラつく。これは永遠の平行線である。それでも、この物語の主人公の父親よりもずっと確かに私の父は私という人間を理解し、助け、守り、愛してくれたように思う。だから、私もまた、母が理解し得ない父という人間を好きだった。人生に一人だけ自分を愛してくれる人がいれば、人は生きていけるのだと思う。 出来ますればこの物語のヒロインが、夫の愛にきずけますように。そうして、彼女の人生のあるうちに、彼女の未来の子供たちを愛するすべを彼女が獲得できますように。さて、全編を通して、村上春樹の小説にはトレンドなアイテムが多く登場する。ホンダのツーシーターや、ハワイや、サーフィン、ピアノバー、ブランドのバックなどなどである。一見イマドキの物語のようでありながら、そのテーマはやはり、何時の時代にも共通する人が人として生きることへの問いかけである事に変わりない。時代を上手く映して、時代を語るように見えながら、やはり文学として、語ろうとしているものはいつの時代にも変わらないものなのであろう。それは人が変わらないのとおんなじことだ。という訳で、このシリーズはここでおしまいです。他にも、取り上げなかったお話がありますが、それはこれから読まれる方にお任せします。というか、私には解析し切れませんでした。はい。へへへ。 書評、レビュー
2006年08月17日
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前回、前々回から続いてます。「ハナレイ・ベイ」 人間どんな特技が飯の種になるか、わかんないものだ。特に幼少期から習ってきたわけでもなく、ピアニストをめざしたわけでもない主人公サチは、高校の頃何気なく学校の音楽室でひいたピアノがきっかけで、その道につながりをもち、結局それで、生きるすべを手に入れる。飲み屋のピアノ弾きというのはちょっと面白い仕事だなあと思うし、好きな事をやって生きていければこんないいことはない。しかも、自分でその手の店を経営してみせる手腕はたいしたものだ。なんとも、生命力の強そうなヒロインである。しかし、それに比べて、作中にでてくる男達の影は薄い。甲斐性もなく、あっけなく死んじゃったダンナとか、意志薄弱で根性無しの息子とか。しかも二人とも、話のはじまる段階で既に死んじゃってるしね。能力のあるサチが二人の男を食っちゃったのか。 サチは、息子のことを人間的には好きじゃなかったという。けれど、その息子が死んだハワイのハナレイ・ベイの町にそれ以降毎年夏の休暇にやってくるようになる。 そしてそこで、二人の青年に出会う。 話の設定がハワイという外国だからこそ、日本人同士の出会いにはインパクトがあり、助けてやろうという気にもなるもので、これが日本国内ならば、危険度もひくいし、あまったれんじゃないよということで接点もなく終わってしまう。小説家ってほんとにうまい。 彼等を助け、人生を生きるこつをアドバイスすることで、本来彼女が妻として、母として、その人生を支え、助けるべきだった二人の男達への手助けを、二人の青年によって代償しえたのかもしれない。 これは、サチがハワイで知り合った青年の一人にするアドバイスなんだけれど、「女の子とうまくやる方法は三つしかない。ひとつ、相手の話を聞いてやること。ふたつ、着ている洋服をほめること。みっつ、できるだけおいしいものを食べさせること。」 この本の中でも、特に面白かって部分だと思います。へーなるほどなあ、よくわかってるね、さすが年の功じゃんなんて思うんじゃないでしょうか。ただね。この女の子の部分を男の子にしても、夫にしても、息子にしても、やっぱりなるほどなと思うんじゃないかと思ったんだ。結婚した頃、ダンナも若かったけど、さちも若かった。今のサチなら、何とかできたかもしれない夫の人生そして、息子の人生を思いながら、サチはまた、ハナレイ・ベイを訪れる。 書評、レビュー
2006年08月16日
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『大停電の朝に』 ってね。こないだ、『大停電の夜に』なんて映画見たけどね。今回の停電は朝でしたからね。しかも、映画より復旧時間はぜんぜん早かった。この三時間というのは早い方だと私は思いますよ。映画の中では、一晩中停電だっもんね。しかも、大規模な交通事故も、コンビニ強盗も起きなかったみたいだしね。まあ、ひたすら、皆さんうんざりしつつ、じっと回復を待っていただけで、なんかすごく静かなパニック。といいますか。でも、ほんとに東京でも、大停電が起きるんですね。驚きました。映画だけのことかと思っていました。でも、停電の原因は送電線のトラブルですから、映画と同じです。 しかも、我が家なんか、10分くらいで停電は回復してしまいました。実は我が家は停電の原因になった、高圧線損傷現場のすぐ近くなのです。にも、かかわらず、10分くらいしか停電はありませんで、「あれー停電だわ、洗濯できないじゃんどうしようこまったなあでも、いつも、すぐ回復するし、ちょっと待ってればいいんだわ」と思ってたら、ほんとにすぐ回復してしまいました。電気がないとテレビもパソコンも見られないから、ニュースも見られないし、この停電がどの程度のものかもわかりません。しかしすぐ回復して、テレビのニュースを見たら、首都圏の半分くらいが停電しているということで、びっくりでした。 それにしても、電車とか、エレベーターとかに閉じ込められた方たちは大変でしたね。わたしは家でのほホーンとしていただけですが。しかも、夏休みでダンナも家にいたしね。でも、今回の事件で一番真っ青で、電撃だったのは、やはり、このクレーン船の会社の社長だろうなと思ったのでした。 今回の損害に対して、この会社はいったいどこまで補償できるのでしょうかね。本気でやったら、すごい額だもんね。まっそれは無理だな。 それにしたってね、先日のプール事件といい、つくづく、従業員教育の重要性を感じますね。日雇いや、パートや、バイトで、人件費浮かしても、こんな風にトラブルが起きれば浮かせた人件費でも埋まらないほどの損害が出てしまうのですしね。経費節減ばかりが言われてきたけど、これから、どうするんでしょうね。 やっはし、企業は人なりですね。 うーん。それにしても、久しぶりにすごい大ニュースでした。 だけど、どうして、震源地に近いのにもかかわらず、我が家のあたりはすぐに回復したのでしょう。それが一番謎なんだわ。調べようもないし。 今回の事件で、ますます、システムが改善されれば次に同じ事件が起きても、もっと早く回復するはず。自家発電による対策がちゃんと出来ていて、たいして、影響を受けないところも多かったので、私は結構すごいなと驚きました。 でも、都市機能をダウンさせるのって結構簡単なんですね。 とにかく、旅行も終わりまして、かえって来ました。山はいいなあ。涼しいし、空気はきれいだし。はー。下界に帰りたくなかったんだわ。昨日は家でずーっとニュースを見ていました。さて、明日は、また、『東京奇譚集』の続きをアップします。 一般ニュース
2006年08月15日
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11日から、13日まで夏の旅行にまいります。ので。ブログはお休みです。14日もお疲れでさぼると思います。では、15日にまた、お会いしましょう。ですね。行ってきます。
2006年08月10日
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『東京奇譚集』 村上春樹はい。昨日から続いてます。ネタバレしまくりですからね。『偶然の旅人』 夫も子供もいる普通の主婦が、幸せで平和な日常の中でもつ言葉では表現しえない空虚感。ふとしたきっかけでであった女性の打ち明け話によってそのことにきづいた主人公は、喧嘩別れに近いような形で長い事接触を断っていた姉を思いだす。姉の心にも、そんな寂しさが潜んでいるのだろうか。久しぶりに電話を入れた姉と、彼は仲直りをして、再び親交を取り戻す。二人の全く関係のない女性が同時に同じ病気になることでインパクトが強くなる。乳がんは意外とよくある病気で、しかも癌の中では珍しく、治癒する率が高い。女性独特の病気でもある。だからこそ、ゲイである彼の意識を揺さぶるには格好のネタとも言える。最近家族がゲイであることにショックをうける話として、川原泉の『レナード現象には理由がある』の中の最後のお話がとてもおかしかった。最近はボーイズラブなんてさもきれいそうに見えるネーミングのせいで、社会的許容度が高まってきたとはいえ、それを告白される家族はたまったもんじゃない。しかも、ガールズラブよりパーセンテージは高そうだしね。そして、ゲイなんて理由以外でも、家族や、友人関係や夫婦の間が、こじれたり、こわれたり、絶縁したりするものだ。それを再構成するものは、相手の心を想像できる能力があるかどうかなんだよって話なのかなと思いました。だけど、そこにいたるためにちょっとしたきっかけが必要だったりする。神様とか、何か霊的な、人とはちがうパワーが介在する事があるかもねってことだからね。 ところで村上春樹に始まる現代小説の面白いところは、登場人物の性格描写や、背景描写として、登場人物たちの乗っている車や持ち物なんかが使われるって所だ。主人公はホンダのオープン・2・シーター(グリーン、マニュアル・シフト)なんてのに乗っているし、彼が知り合った女性はブルーのプジョー306、オートマチックである。これだけで、彼等の趣味、思考、経済的状況、社会的立場などが、読み取れてしまう。まっ実際私は車なんてよくわからないから、シーターってなにそれ、とか、306って数字がつくと、なんかわかるのかなとは思う。それでも、なんとなーく大体の部分は想像がついてくる。なかなか面白い新しい小説手法だなあと思う。もっとも、こういう時代性というか、トレンドグッズによる表現手法を現代小説に取り込んで一躍話題の人になったといえば、こないだ選挙で負けちゃったヤスオちゃんだよね。ホンダの2シーターっていうと、実はビートくらいしか思いつかない。300万円くらいなのかな。でも二人乗りだから、ほんとに家族とか、関係ないんですね。しかも、オープンカーでしょ。いきがってるなあ。日本でオープンカーってなかなか見かけないし、カリフォルニアみたいに年がら年中あったかくて、晴れてるとこならいいけど、日本みたいに暑い日や寒い日の方が多くて、すぐ、雨が降り出すような国でオープンカーなんて乗ってみても、始まらない気がするんですけどね。現実より、かっこよさ重視ってタイプの人間てことでしょうか。いきがってるねえ。へへ。ビートだと、安いけど、もっとずっと高いホンダの2シーターもあるから、どっちなのかな。プジョーの306は、既に売っていない幻のクルマ。自動車ってしょっちゅうモデルチェンジしてますからね。今売ってるのは、306からチェンジして307なんだそうで、これはトランクがないけど、306は、トランクがあったらしい。250万円くらいでしょうか。家族で乗るクルマだとすると、ごく普通のサラリーマンの家庭だけど、奥さん用のセカンドカーだとしたら、余裕のご家庭と見ることが出来る。一応外車だしね。もっとも最近は外車なんて昔と違って普通に見かけるからね。この小説の書かれたのが、2004年から2005年あたりですからね。という訳でまだ続きます。 書評、レビュー
2006年08月10日
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『東京奇譚集』 村上春樹 毎日ミナコさんのところでレビューが書いてあって面白そうだったので、図書館に予約しておいたら、つい先日やっと貸し出しオーケーになってメールが届いた。てことは随分人気の本だったんですねぇ。知らなかった。しかも、予約していた事もすっかり忘れておりました。図書館のも本だから、やはりさっさと読まねばいけません。買ってきた本みたいに積読わけにはいかない。 という訳で、読みかけの本は置いといて、早速読み始めました。そしたら、以外に面白くて、さくさくと読み進んで私にはめずらしくあっという間に読み終わってしまいました。 村上春樹なんて、普段の私の視野の中にはぜんぜん入ってこない。 でも、読んでみるとへーって感じで、これだから、ブログのレビューはばかになりません。ちょっと変わったお話ばかりの短編集です。たまには現代小説もいいですね。時代背景とかくだらない知識を仕込むようなめんどくさいことしなくてすむもの。という訳で、短編集です。以下ネタバレしまくりです。 『日々移動する腎臓のかたちをした石』 よく、「女は子宮でものを考える」なんていうけど、たしかに、女性と子宮は切り離せない。そして、毎月の生理によって、女性たちは常に自分の体の中にある子宮を確認せざるをえない。子宮からは常に女性ホルモンが分泌されていて、女性の体と心をも支配しようとしている。そして女性達は常にそれを認識し続けている。子宮は子供を作るための臓器であり、自分の遺伝子を後世に伝える大切なツールなのだから。それに比べて男性のそれにあたる話はあまり読んだ事がない。このお話における腎臓というのは、つまり、肝臓とか、胆臓とか、胃とか、腸とかでは絶対ダメで、それはやっぱり腎臓じゃないとならない。腎臓なんて臓器はもちろん子宮のように自己主張が強くないから、ほとんどの男性は自分の性器に比べて、腎臓に対しての認識が薄い。性器は欲望のためのものだが、腎臓は男性に自己の遺伝子の伝達を意識させようとしている。 小説家である主人公、淳平が、作中で書いている小説の中で、ヒロインの女医が腎臓にそっくりな石を見つける。ここで、ヒロインの職業が医師なのは、腎臓の形を日常的に知っているのなんて医者くらいなものだからだ。淳平は父親に「人生で出会う中で意味を持つ女は三人しかいない」と洗脳されている。三人なんて数に区切っちゃうものだから、彼のプレッシャーはなかなかに重い。自分の生涯の伴侶を見つけるのにチャンスは三回だよなんていわれても、困る。無制限なら手当たり放題試してみればいいのだが、数量制限なんかされたら、たまったもんじゃない。それでも、三人前もってセレクトしてくれて、目の前に並べてもらってどれがいいとかいうのなら、まだどうにもしようがあるだろうけれど、その三人が何時現れるかもわからないし、出会ってもすぐにそうですなんて教えてもらえないし、別れた後でやっと気がつくという状況では辛いですね。 彼は既に一度目のチャンスを逃している。そして、二人目として登場するキリエに、そうと気づくのは彼女と別れてから。彼の潜在意識は彼の書く小説の中で、女医に対して動く腎臓石として自己主張するのだが、彼はそれときずかない。石というものが精一杯の意思表示をしようと思えば、自力で動いて見せるくらいしかない。女が好きな男にたいして、子宮のうずきを感じるように、淳平もマタ、キリエにたいして、腎臓のうずきを感じているのだが、なにしろ、腎臓というのは自己主張のない臓器なので、きずきにくい。彼はキリエに対して、伴侶となって自分の遺伝子を伝える手助けをしてほしいと望んでいるのだが、その本心は、なかなか彼の表面に出てこない。やがて、小説の中で、ヒロインの女医が未来のない不倫の相手との決別を決めたように、キリエもまた、淳平との未来を切り捨てて、自分の人生を歩み始めてしまう。会えなくなったキリエに恋情を残している彼の心そのままに、女医の捨てた腎臓石は女医のもとに戻ってくる。けれど、もう決してキリエと結ばれる事がないことを明確に意識し、受け入れた時、女医のてもとからも、腎臓石は消える。彼はキリエに遺伝子を託す事をやめた。淳平のチャンスは残すところあと一回。できますれば、彼が最後の一人を捕まえる事が出来ますように。まだまだありまして、明日に続きます。 書評、レビュー
2006年08月09日
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三谷幸喜の『ラヂオの時間』を見たばかりの時はたいした感想もかけず、ただ、おもしろかった、質のいい笑いが増えていくのはいい事だとだけ書いた。しかし、その後、いろいろと考えていくうちに「なるほどな」と思い始めた。三谷幸喜がなぜ自分で映画を作り始めたのか、ということだ。本来は喜劇作家、シナリオライターである。そのまま、シナリオだけ書いてるほうが、たくさんの喜劇作品を世に送り出せるはずだ。にもかかわらず、なぜ自分でメガホンを取るようになったのかといえば、せっかく書いたシナリオが他人の手に渡った途端、全く自分が意図したものとは別のものになってしまうから、なのだろう。せっかくのセンスのいい微妙な笑い。今までの日本の下品な笑いとは違うもの。彼が書きたいのはそういう微妙に品のいい笑いだ。しかし、他の監督にその作品を渡した時、彼が表現しようとした笑いや作品のテーマが映画制作の過程で明らかに違うものに変わってしまう事に、歯がゆさと、いらだたしさ、腹立たしさを覚えたから、なのではないのだろうか。だから、あえて、彼は映画監督という仕事を始めたのではないかと思う。 原作があってそれが映画化なり、ドラマ化なり、舞台ナリになれば、演出上どうしても、原作とは、微妙に設定や、セリフをかえたり、エピソードを新たに入れなければならないものだ。しかし、最近の日本映画界の映画化の状況はひどいなあと思う。とにかく、最近見る映画はどれもこれも、原作からかけ離れていくばかりである。 『デスノート』しかり、『ブレイブストーリー』しかり。そして、『ゲド戦記』しかり、である。 そして数々の映画評ブログを読んでいると、大体不評である理由の大半が「原作とちがっている。」というところにある。 なぜか、最近は原作どおりでないものが多い。監督なりのオリジナリティを表現したいらしい。しかし、それなら、なぜ、原作つきの映画ではなく、自分で一から、ストーリーや、キャラクター設定を考えて映画を作らないのだろう。その方がよっぽど、自分のオリジナリティを表現できるのではありませんか。 はっきりいって、観客は原作どおりに作られた映画をこそ熱望しているのである。原作のオリジナリティと独特の世界にほれ込んで、その世界が実写やアニメとなって、ほれこんだキャラクターや、登場人物たちが、映画のなかで、動くそれこそが見たくて観賞しに来るのである。実際、原作つきの映画の場合、特に売れ筋のマンガや小説の場合、原作者が作り出した世界をいかに忠実に映画化しているか。そこがファンの望むところであって、はっきりいって監督がだれかとかも、知らない、気にしていない場合も多い。映画化において、監督のオリジナリティなんか見たくもないし、どうでもいいのである。 それなのに、昨今なぜこうも、原作を無視して、原作の設定と一部のストーリー、一部の世界観だけを借用して、自分の勝手に作った話を製作するのだろう。 原作者が、その物語を作りだすために、キャラクターや、世界観や、細かいエピソード作りにどれほど、心血を注いだか、わからないのだろうか。著作権料や、版権のための使用料さえ払えばもう自分のものなのだから、どうしようと、勝手だと思っているのだろうか。そこには。原作者に対しての敬意も思いやりも感じられない。 観客は、いかに、原作の世界観をスクリーンの上に正確に忠実に再現してこそ、その監督の技量をすばらしいと思うものなのだ。 それはつまり、受験における、国語の読解問題に似ている。国語の問題において、問題製作者は、回答者本人の感想や意見を聞いているのではない。回答者が出題文のなかで、その文章を書いた作者が何をいいたいのか、それを回答するものがきちんと読み取れて、理解できたかどうかを聞いているのである。 そういう意味で、原作を無視して、まるで違う話にしてしまうイマドキの映画監督達というのは、中学生、高校生レベルの国語の問題も解けない、学校では、国語の成績はとても、わるかったノータリンなんじゃないかと思う。いや、ちょっと言いすぎですかね。 だから、今回めちゃくちゃ不評の『ゲド戦記』だって、とにかく、三巻あたりをひたすら、原作に忠実に、原作どおりにアニメ化していれば、大体「ゲド戦記の世界を見事に再現したすばらしい作品」、「ゲド戦記に対しての監督の愛情と敬意を感じる秀作」くらいの評価がついたはずだと思う。そうであれば、少しくらい絵が失敗してても、俳優の声がおかしくても、ほとんどそのあたりはまあいいんじゃないですかという事ですんでしまったと思うのだ。 原作を映画にすることの意味をもう一度映画界は考えて欲しい。そして、観客が何を求めているのかも、きちんと理解してほしい。 『ハリー・ポッター』や『ロード・オブ・ザ・リング』が好評価をえているのも、原作にかなり忠実な映像化ゆえなのである。 だから、『ラヂオの時間』の中で、俳優や、スポンサーや、ディレクターの都合やわがままによって、シナリオがどんどん変えられていくストーリーは喜劇として描かれてはいるけれど、そういう今のメディア界への三谷幸樹の痛烈な批判なのだろう。三谷幸喜は次回作も自分でメガホンを取らざるを得ない。 そして、ルヴィンのすばらしい小説がすばらしい映像になる日は遠い。 だからね、吾朗ちゃん。世界的に有名な小説家が作った話と、昨日今日監督になったポッとでの新人が作った話と、どっちの方が面白くていい作品かくらいわかってもいいはずだと思うよ。 、 映画批評
2006年08月08日
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『シュナの旅』のネタモトがこの本にはいっている『犬になった王子』だというので読んでみました。 中国の各地方に伝わる民話伝承が六つ入っています。 そしたらね。面白いので、読んでたら、ついつい全部読んでしまった。 それが結構スペクタクルで面白いのですよ。このお話をそのままアニメにした方が監督が無理して自前で作った話しよりよっぽど面白いし、いろいろと構成や表現工夫する余地がいっぱいあって面白そうなんだけどね。映画もいい加減売れ筋の原作のネームバリューと固定ファン目当ての売れ筋原作の映画化なんてことやってないで、こういう話から作っていけばいいのにね。 『犬になった王子』は、肉しか食べていないチベットの小国の王子様が神様に穀物の種をもらいに行こうとする話です。このあたりの設定をもらって宮崎駿氏は『シュナの旅』を考えたようですが、それ以外のストーリーの部分はほとんど違ってます。ほんとに別物の物語になってます。だから、それぞれに面白い。肉しか食べていなかった国で、穀物を食料にしようと考えるというのは、古代の狩猟民族が農耕民族へと変遷する時の大変さが物語として伝えられているのでしょうか。今農作に使われている穀物も自然のものから、かなりの苦労と努力と試行錯誤によってよりよいものへと品種改良されてきた歴史もあるのですからね。『シュナの旅』のテーマはもっと深く、現代の時代への問題提議があるようなのですが。 そして、本のタイトルにもなっている『白いりゅう黒いりゅう』は、 毎年6月24日になると、暴れだして、雨や嵐を起こして人々を苦しめていた黒いりゅうをやっつける話。彫刻の名人が彫り上げた木彫りの白いりゅうに命を吹き込んで、黒いりゅうと戦わせます。一回目は負けてしまいますが、翌年は、りゅうに鉄のつめと牙とウロコをつけることで、とうとう黒いりゅうに勝つことが出来たのでした。この物語を読んでいて、これはもしかして、『もののけ姫』のネタモトかなと思いました。龍というのは、まさに自然の驚異そのものです。そして、その自然に対して、人間が自分達の科学力、技術力によって打ち勝っていく物語です。一度は負けたリュウが鉄によって勝つことが出来たというのは、『もののけ姫』の中で、鉄が自然を破壊する脅威になっていった物語と随分似ているなと思ったのでした。 黒いりゅうが敗れた時の描写に 「淵のまわりのくらい林は、そのときのひびきで、きりひらかれ、日の光がさしこむようになりました。淵のそこまで、すきとおってみえるほどきよらかになり、もう、だれひとり、怖がるものはありません。」という部分があります。まさに自然の暗い部分が、人にとっての恐怖の部分が、人間の力によってひらかれ、光を入れられるシーンです。 にてますね。『もののけ姫』に。 『くじゃくひめ』というタイ族の物語は、とてもスペクタクルな冒険活劇のようでした。 王子様が自分の妃を探すための旅で、くじゃくに変身する遠い国のお姫様に出会います。このあたりが「白鳥の湖」の話とそっくり。このお姫様を捕まえるために王子様は孔雀に変身するためのおひめさまの羽衣を隠してしまいます。この当り日本の「羽衣伝説」とそっくり。ここから、世界中にいろんな物語の種が伝播していったのでしょうか。プロポーズの末、二人で国に帰りますが、悪い大臣の策略で、姫は自分の国に帰ってしまいます。羽衣伝説では、天女に逃げられて終わりだけど、この王子様はなかなかガッツがあります。なんと、普通の人間には決して行けないというお姫様の国まで、更に冒険していくのです。すばらしいガッツじゃありませんか。父親を殺したり、魔女に簡単に洗脳されちゃうゲド戦記の王子様とは偉い違いだわ。かくして、お姫様の国で、姫の父親にもオーケーを取り付けてめでたく二人は結ばれたのでした。めでたし。めでたし。ところで、この王子さま。最初のところで、「ばかな女はいやだ」とはっきり言います。なかなかすばらしい性格じゃありませんか。こういうヒロイック・ファンタジーって最近少なくなったのかもしれない。 これアニメ化したら、結構面白いと思うんだけどね。二匹のリュウが闘うシーンなんかも、うまくアニメにしたら、すごく見ごたえあるんだけどね。どうでしょうね。『シュナの旅』の記事はこちら。 書評、レビュージブリ最新作『ゲド戦記』
2006年08月07日
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