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-----続き----- ヘルパーのH野さんは、体格が良いお姑さんの介護を一人でしています。 「『請求書、送ってください』言うたら、黙ってました。送ってきませんわ、請求書」 身体が大きくて重くて、口は達者で歩けない姑さんの介護はどれほど大変なことでしょう。自分の時間が大切な私にはとても出来ません。ショータンのお母さんが64年も前に亡くなって幸いでした。「家の中で一番偉いと思てはります。うちの娘がなにかしてあげても、『ありがとう』と言わはったことないですよ。私は慣れてますからいいんですけどね、孫にはありがとうの一つぐらい言うても損やないと思います」 「そうですねえ。ありがとう言うぐらい、簡単ですのにねえ」「言うたことありません。おしゃれな人でねえ、いつもキレイに眉描いてはります。頭のてっぺんにカーラー巻いたり…」「可愛らしいですやん」「はははは。」 おむつの世話をしてもらっている93歳のおばあさんが、眉をきれいに描くでしょうか? うちのお姑さんは幸せなんですヨと言ってるのでしょうか?「私の友達は、認知症の姑さんを5年看てました」「へええ。5年も!? うちは主人と相談して、『ホーム何処でもいいから空いたらお願します』言うて頼んでますねん」「県外でも?」「はい。本人行く気になってますから」 良い人でもやっぱりそういうことになるのです。最後まで看てあげようとは思わなくて普通なのです。でも自分のことが自分で出来なくなったら、おとなしくして「ありがとう。ありがとう」と言っているのがわが為ヒトのためです。叔父は、家も車も買わず子供も育てなかったので、有料老人ホームへ入所するつもりで貯めたお金の2/3の4000万円を住んでいた門真市に寄付して、心臓病と認知症で入院も出来ず、遠い泉佐野市のホームでコトンと死にました。認知症のせいで、自分が寄付したことも覚えていませんでした。門真市は、お線香代もくれませんでした。叔父のお金ですけどこの4000万円はなんだか勿体なくて、一度市長さんに「法事代でもください」と催促してみようかと思っています。
2011.01.31
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竹〇さんは、9時半には日誌を書き終えて、「夕方にまた来ます」と言って帰りました。「あの人はなにをした?「おまるの始末して、トイレの掃除。朝ごはんしてくれて、食器洗ろて帰りはった」「トイレの掃除なんか、して要らんわ」「いつものとこは全然しはれへんから、ええやん」「掃除は要らん。掃除ばっかりするのやったら、断る」 北西の四畳半のクロスが湿気ではがれたり浮いたりしているいるので、張替の見積もりをして貰ったら10万円だということだった。「いつまで住むか判れへんのに、こんな家にお金かけられへん。私のためにお金出して来て貰うのに、掃除に時間使こうて要らん」と母はいうのです。 「洗濯機も回しときはる。今日はなかったから洗濯はしはれへんかったけど」「お昼の人も洗濯ぐらいしはる」「今まで、お母ちゃんが洗ろててんやろ?」「洗ろてた。お昼の人は干してくれる。夕方お風呂に来てくれる人が取りこんだり、次の日まで干してたり。今年はお風呂は時間割に入ってないねん。Uくんが2日のお昼、入れてくれた。いま、お風呂の縁またぐのが容易やないから、女の人では無理やろ」「ここのお風呂は、湯船が高いからね」 この日はいつものセンターからH野さんが1時間来てくれましたが、買い物も掃除も調理の必要もありませんでした。帰り際、H野さんは言いました。「夕方にも来ます」「朝の人が、夕方に来ます、言うてはりましたよ」「いいえ。私が当番ですねん。晩ご飯の用意と寝る支度に……」 夜更かし型でも、ヘルパーさんの都合に合わせて、夕方に寝なければならないようです。 H野さんの家は自転車で4分ぐらいの所だし、お姑さんは入院中の筈なので、せめて9時ごろに来てもらえないか訊いてみようと思っていたのですが、そんな勝手はダメだろうと思い直し、訊きませんでした。 この日、私は帰るつもりでした。姉に携帯電話をすると、『留守電』になっていました。Uくんは晩に来るのかとマミにメールしました。「夜勤だから無理です」と返事がありました。それで「もう1日泊ります」とショータンに電話しました。 夕方5時半にH野さんが来ました。簡易トイレの始末をして、いろいろのおかずの残り物をテーブルに並べてくれて、用事はおしまいです。「今日はこの子がおってくれるから、まあ座ってゆっくりして行きなはれ」 と母は言いました。H野さんはテーブルの前へ腰かけて、お姑さんの話をしました。「暮れの25日に帰って来ましてん。まる1か月おりましたら、すっかり歩けんようになってしまいました。24時間おむつです。大きな人ですから、おむつ換えるのも難しいですよ」「うちの母は40キロぐらいや思いますけど、それでも重たいですわ」「そうでしょう? うちのおばあちゃんは、58キロぐらいあります。娘が二人ありますねんけど、いざとなってもダレも面倒みようとは言わないんですよ。上の人、病院に2回来ました。私と遭うた時、『テレビのカード、立替えてます』言うんですよ。お見舞いなんにも持って来んといて、『カードのお金立替えてます』やなんて、よう言えると思いませんか?」「ほんまにねえ。『お見舞いや思いましたわ』 言うたったら良かったのに」「『何万円立替えて貰いました?』言うたりました」。「請求書送ってください、言うたら、なんにも言うて来ませんわ」「ははは。何処のおばあちゃんも、娘さんの方がええいうのにねえ」「結婚した時からずっとうちにいてはるんです。家は、私の親の家ですねん」「へええ」「主人の家は、兄さんが住んでますわ。おばあちゃんだけ余りもんで、そいでうちに…」「H野さんは話易いから、気楽ですねんやろねえ。おかあちゃん」「頭はっきりしてて、言いたいこと言うてはりますわ。ここのおばあちゃんと一緒で、病院、『帰ってください』われましてん。歩かれんようになるんやったら、もっと早くに帰ったら良かったんです。でもお洒落なヒトで、毎日きれいに眉描いてはりますわ。今日はリボン付けてはりました」
2011.01.24
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1月4日 12月28日退院した夜の母はおむつでした。それからまだ6日しか経っていないのに、一人でポータブルトイレに座れるようになっていました。ベッドの左側にトイレ、右側は襖。襖のこちら側にテーブルを寄せ、襖を開けると食事ができるようにしました。なんの支えもなしに座っていられるのです。正面がテレビです。 食事のあと、文字の出る番組がいいだろうと、「世界の悪女」というドキュメントを点けていました。「今日は『オニバカリ』と違うか?」「知らん」 チャンネルを変えました。「メタボ予防」が出ました。下に文字が出ているので、暫くそのままにしていました。「歌、あるのと違う?」 NHKにすると、森シンイチが映りました。「こんな番組がほっとするわ」「聞こえてる?」「聞こえてるよ」 どれぐらい聞こえるのでしょうか? 歌だからかすかに聞こえているだけでいいのでしょうか? 別の番組ばかり見ていたので、すぐに終わってしまいました。「もう寝るわ。あんた、好きなん見ィ」 母は一人で横になりました。肩のところに薄いひざ掛けを置いてあげて、私は自分の布団を敷きに北の部屋へ行きました。29日に私が使っていた羽根布団はUくんが使っているらしいので、別のを出しました。敷布団は同じのを敷いて、電気毛布を敷き、敷布を変えました。母が呼んでいます。「なに?」そばへ行って聞きました。「布団、わかる?」「わかる。こないだ泊ったから」 布団を敷き終わって、枕代わりにバスタオルを丸めてキルティングの端切れでくるみました。「かりんさん・・・」また呼んでいます。「なに?」「毛布、こっちの押し入れにもあるよ」「もう敷いた」「あっちの部屋は寒いから、寒うないようにしいや。こっちに電気あんかもあるよ」 「電気毛布敷いた」 よくあれこれと気が回ることです。 11時に母の部屋とリビングの間の襖を30センチほど残して閉め、布団に入って持って行った本を読みました。夜中2度、寝ている母を覗いて見ましたが、よく眠っていました。どこも具合の悪いところはないのでしょう。 朝、6時40分に起きた時も、母はまだ寝ていました。夜更かし朝寝坊の習慣は、100になっても変わらないのです。私の習慣も同じで、7時に玉子掛けの朝ごはんを食べました。 9時少し前に、母は目を覚ましました。「今日は朝9時に、別のセンターから来てくれはるねん」 9時丁度に、暮れにお目見得に来たヘルパーの竹〇さんが「おはようございます」と入って来ました。「お変わりありませんか?」「おはようございます。早ようから済みませんねえ」「おむつ、換えましょか?」「いいえ。濡れてません」「朝ごはんにしましょか?」「先に、トイレの始末お願いします」 よく聞こえているようです。竹〇さんはおまるを始末して、手早くトイレの拭き掃除もしました。「朝は、ご飯ですか?」「食パン焼いてください。牛乳は温めて、冷蔵庫からジャム出してください」 竹〇さんは、パンを焦がさないように焼き、牛乳は少し温めました。「パン、もうちょっと焼いて。こんがり。牛乳も、もっと熱うして下さい」「はい。焦がした方がいいんですか」 竹〇さんはすぐにやり直しました。私が「いろいろ注文ありますねん。済みませんねえ」と言っておきました。-----続く----
2011.01.23
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「ヘルパーさんは4日から普通に来てくれはる。朝30分、昼1時間、夕方1時間。今まで火曜日と金曜は夕方にお風呂へ入れに来てくれてはったけど、今度は毎日夕方に晩御飯の支度もしてくれはることになってん。2か所のセンターから来てくれるねんて」「そんだけ来てくれはったら安心やん」「老人ホームへ入ろか、言いだして、あっちこっち訊いて回ったけど、急に入れてくれるとこなんかないわ。何処も100人待ち、200人待ちやてぇ。2年前にうちの近所に新しいホームが建ったからパンフレット貰うて来たのに、申し込めへんかったやろ。『○本さんが入ってはった博愛社も訊いて来て。あそこは簡単に入れる筈や』言うから行ったけど、2年待たんならんて。行くとこなんかない」 母をホームに入れようと何年も前から考えていた姉は、暮に走り回ったようです。私はホーム反対です。母のような頭がはっきりしたおばあさんは、他の入居者やホームの人たちとうまくやって行けるはずがありません。 一人で気儘に頑張って、躰がダメとなったら病院へ行ってあっさり死ぬつもりだった母は、何度入院しても病院ではあっさり死ねないのだと納得したのです。 今回はかなりの量の下血があって、自分では家の薬を飲んで二日ほど食べずに寝ていたら治ると思っていたのに、ヘルパーさんが慌てて掛かりつけの先生を呼び、センセイが「病院へ行ってください」と言い、たまたま来た姉が急いで救急車を呼んだので、あっと言う間に入院させられたのでした。ナースが気に入らなくてハンストを起こしたのが母の誤算でした。それでなくても病院は、患者たちをみんな同じ状態にしておきたいのに、一人二人が自分でお箸を持ってご飯を3度食べるというのは面倒なのです。だから鼠蹊部にチューブを埋め込んで、薬入り水だけ与えて寝かせておくことにしたのです。死ななくてもいいし死んでもそう不思議ではないおばあさん患者というのは、血液検査でいろんな数値を見せてくれるサンプルなのです。 姉が帰って行ってから、母は言いました。「世の中におばあさんが余りかえってて難儀やなあ。入ろう思うててもあかんらしい」「白浜にええ施設があるらしいよ」「遠いなあ」「どの人も、家族は月一回ぐらいしか面会に来はれへん」「まあ、ここで100の誕生日迎えたいとも思うねん」「歩かなあかんで。テレビに出て来はる100歳は、みなしゃんしゃんしてはる」「そうやなあ。頭ははっきりしてても、トイレに一人で行けんようではテレビに出して貰われへんな」 母の記憶を聞き出して「通天閣物語」を書いたのは、もう19年も前のことです。
2011.01.15
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30日は洗濯とお墓参りと買い物と年賀状書き。 母がマミに頼んだ年賀状の1枚が、29日に「宛先不明」で戻って来ていました。早々に出した年賀状は、年内に配ったのかも知れません。年内に賀状を貰った人は、嬉しくないと思います。郵便局が民営になってから、こういう間違いが多いようです。 31日は煮しめ作りと掃除。 元旦は、雑煮を炊いただけで1日中テレビの前に座っていました。お節馳という保存食を食べてお酒を猪口に2杯飲んで……。二日も雑煮、御酒、お節馳。お寺も神社も行かず。 3日めも出て行く気がせずゆっくりしていたら、お昼過ぎに姉が電話して来ました。「こっちへ来て、今晩泊って」 Uくんは仕事。彼女のユキさんは今日から夜勤だということでした。ショータンに駅まで送って貰って、電車に乗りました。モコモコの空気入りナイロンのブルゾンやコートの人ばかりで、お正月らしい晴れ着の人はいませんでした。数年前の中国の風景みたいです。今年も景気は悪そうです。 大阪駅東口の阪急側は伏見稲荷ほどの混雑でした。貧乏ったらしいモコモコ服で、何処へ行く人達なのでしょうか? 駅前商店街で私の食べるものを買う為、バスでなく阪急電車に乗りました。電車は空いていました。 神崎川で降りて商店街を歩きましたが、商店は全部閉まっていました。食べ物屋も開いていませんでした。昭和40年ごろまでは、正月3が日は商店は閉まっているのがふつうでした。この辺りは、昔型の人が住んでいるようです。 姉が、待っていました。母がベッドから、「来てくれたん」とニッコリしました。顔色が良く、若くなっていました。うちの薬と私の酵素油をちょこっとつけているだけで、顔はつるつるです。「おセチの残り、一緒に炊いといたから、お母ちゃんに食べさしたって。甘酒もあるわ。もうなんでも食べるねんて。あんたの分は、即席カレー、ラーメン、玉子、な。うちが家から持って来た筑前煮もあるから、温めて食べ」「いま、商店街で何か買おう思うてたけど、みんな休みやった」「そうやろ。そやからバスで来たら良かったのに」 姉は、電車では絶対に来ません。4年前までは、30キロも自転車で来ていました。元気というより頑丈な姉です。
2011.01.14
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あ菅さん。この忙しい時にメンバー替えとは…… 「なんにもしないソーリ」と言われて、今年最初にしたのがこれ。 あの挨拶に集まった人達、ぜーんぶ黒装束だった。まだまだ不景気風は吹く。 演台に貼りつけた分裂マークがよく目立っていた。あ菅わ。あかん。 ヨサノサッサなんか入れてもあかん。 メンバー替えてもドングリばっかり。 金の使いみちを先に決めるからあかん。 足らんから消費税あげようと思うのがアカン。 足らんから借金するというのがあかん。 子供手当をやめようと思わないのがアカン。 少子化を案ずるより人間教育を改めようと思わないからあかん。 借金して失業して、奥さんに働いてもらって、パチンコに明け暮れているオトコがこの近辺にも大勢いる。これは日本家庭の縮図。 男が考えるから政治はどんどん悪くなる。 男が考えるからフイットする女の下着がない。 男が考えるから、幸せな女がいない。 伊達直人に共感するのは男ばっかり。ランドセルって、そんなに必要なものか? 30人の子供がいる処へ7つやそこらのランドセル持って行っても仕様がないだろうに。 きのうの新聞の川柳に、こんなのがあった。「ランドセル 菅直人ではありません」
2011.01.14
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22,12,29 「当分は、どなたか付いてないといけませんねえ」「交代で、誰か来ることにします」「朝、お昼、夕方、ヘルパーさんに来て貰いましょう。朝の人はトイレのお世話、と朝食の支度。お昼の人は今まで通り掃除、買い物、お洗濯、お昼ご飯と夕飯の用意。夕方の人は、夕飯の介助。トイレ。ね。それでスケジュール組みます」「よろしくお願します」 姉は、いろんな人にお願いしました。私は、そういうことは苦手です。お願するくらいなら、自分が来て全部やります。ただし、自分のペースで適当に。 ケア・マネージャーが帰ると、私も帰ると言いました。夜はUくんと彼女が来て、3日の朝までいるということでした。彼女は看護師です。「毎日うちの粉薬飲まして、おシリに酵素A塗ってもうてな」 「ご飯の支度はでけへんけど、それは出来るわ」 昔と違って、料理は出来なくても介護が出来れば女は上等なのです。お金さへ出せば食べるものは手に入るのですから。 料理は出来ても私は、昨夜は即席カレー、今朝はゴマを振ったおにぎりだけ。お昼は玉子かけごはんでした。
2011.01.14
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「当分は、どなたか付いてないといけませんねえ」「交代で、誰か来ることにします」「朝、お昼、夕方、ヘルパーさんに来て貰いましょう。朝の人はトイレのお世話、と朝食の支度。お昼の人は今まで通り掃除、買い物、お洗濯、お昼ご飯と夕飯の用意。夕方の人は、夕飯の介助。トイレ。ね。それでスケジュール組みます」「よろしくお願します」 姉は、いろんな人にお願いしました。私は、そういうことは苦手です。お願するくらいなら、自分が来て全部やります。ただし、自分のペースで適当に。 ケア・マネージャーが帰ると、私も帰ると言いました。夜はUくんと彼女が来て、3日の朝までいるということでした。彼女は看護師です。「毎日うちの粉薬飲まして、おシリに酵素A塗ってもうてな」 「ご飯の支度はでけへんけど、それは出来るわ」昔と違って、料理は出来なくても介護が出来れば女は上等なのです。お金さへ出せば食べるものは手に入るのですから。 料理は出来ても私は、昨夜は即席カレー、今朝はおにぎりだけ。お昼は玉子かけごはんでした。 私が大丸に予約注文したお節馳はUくんたちが食べるから、マミは引き取らないことに決めていました。
2011.01.12
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22,12月29日 お昼前に姉が来ました。お昼に、介護センターからヘルパーのSさんが来ました。「退院できて、よかったですねえ」 ヘルパーさんが、寝ている母の耳元で言うと、母は「はい。ありがとうございます」と嬉しそうに返事しました。姉が横から「それがいいことないんですよ」と言いました。「治療拒否して、強制退院させられましてんわ」「へえ。そうなんですか」「『注射は要りません』『血は採らんといてください』いうて…。そいで先生が、『治療出来ませんから、帰ってください』言わはったんです。ヘルパーさんは暮からお正月明けまでお休みやし、私らもみな忙しいのに、『どうするのン!?』言うてますねん」「今までみたいには行かないんですか?」「10日も絶食でしたから、足が立てんようになりましてん」「病院へ入ったら、みな『足がダメになる』、言うてはりますわ」「24時間点滴で、おむつでしょ。おシリもダメになってますねん。おむつは5時間ごとの一斉交換ですわ。」「ああ。便の始末しなくて済むように、絶食なんですね」「お腹がぺこぺこで死にそうや、言うてましてん」「そうですか。頭はっきりしてはるからそれが言えてよかったですわ。黙ってる患者さんは、ほんまに死ぬかも知れませんよ」 大勢のお年寄りのいろんな状況を聞いているヘルパーさんは、よく判っていました。ヘルパーさんは、私が頼んだ買い物に行ってくれました。帰って来て、掃除機をかけて貰っていると、介護センターのオーナーМさんが来ました。「良かったですねえ」「それが、ええことないんです」 姉は、ヘルパーさんに言ったことをもう一度言いました。Мさんは母の状態をみて、年明けには応援を増やすよう、ケアマネージャーに新しいプランを立てて貰いましょうと言って帰って行きました。 3時過ぎに、かかりつけのドクターが来て、母に「良かったですねえ」と言いました。入院はこのドクターの薦めだったので、さすがに姉は、「それがええことないんです」は言いませんでした。母は、病院から貰って来た薬が合わないと訴えました。「では、いつものお薬を出しときましょう。あれはよく効く薬ですから」 いつものよく効く薬を飲んでいて、なぜ急に悪くなったのか、わかりません。 3時過ぎに、ケアマネージャーが来ました。
2011.01.10
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22,12,28 姉が手配した介護タクシーで、母は家へ帰りました。 病院の五階から家までは、車椅乗せられたまま運ばれ、家の前から自分のベッドまでは、タクシードライバーがお姫様だっこしてくれました。140センチの小さいおばあさんで幸いでした。 「カリンさん、泊って」という母の要望で、私が当直になりました。ショータンは一人で有るものを食べたり、外食も出来ますが、姉とこのダンナさんも、マミとこのモッチも、一人では腹ぺこのままで寝てしまうのです。 退院した母は、病院にいた時と同じ状態でした。パンツ式おむつで寝返りも介添えが要りました。お茶も吸い飲みで飲みました。 夕飯はカステラ一切れ。病院から貰ってきた散薬を飲んでしばらくすると、「胸が悪うなったから洗面器持って来て」と言いました。横向きのまま洗面器を顔の下にあてがって背中を擦ると、えずいたけれどなにも出ませんでした。「あの病院の薬はあかん。ほんまの病気になるわ」 私も別の部屋に寝床を敷き、布団乾燥機を掛けました。11時に母のおむつを替えて、ストーヴはおやすみタイマーにして、私も寝ました。夜中に3度、様子を見に行きましたが、よく眠っていました。 12月29日 朝、いつもの時間(6時45分)に起きて、かつおのおにぎりをして一人食べました。 9時に、母は目を覚まして、「ラクには死なれへんなあ」と言いました。「家へ帰ったら急に悪くなる」とドクターが言ったので、死ねると思っていたようです。「おまるに座ってみる」 上半身起こしてベッドの横から足を下ろしてしばらく座り、バーに掴まって立ち上がろうとするのですが、足に力が入らないので、なかなかのことです、手を持って支えると、腕の骨がきしきし軋みました。「入院する前は歩いてたのに、病院におったら一日一日潰れて行く」 用を済ましてベッドに寝て、言いました。「お正月過ぎるまであのままおったら、帰って来られへんようになってた」 いつもそう思うのに、さあとなると入院するのはなんででしょう?「今度、お姉ちゃんが『入院』て言うても、行かんときや」「お姉ちゃんは死んだ人が怖いから、なあ……」「うちが来るまで死なんといたらええねん」「うん。お姉ちゃんに言うといて」
2011.01.07
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------続き---- 22.12.28 おむつ交換は、4人のナースが来て、入り口側から始めるのですが、母はそれと察して言いました。「点滴の針、抜いてもうて」 私がナースに伝えると「はい」と詰所へ走って行き、婦長ともう一人応援を連れて来ました。私は部屋の外へ出ました。 手でも足の甲でも肩でもなく、管は鼠蹊部に埋められているのだと、姉が言っていました。 シーツ交換で外へ出されたおばあさん達が車椅子に乗せられて、廊下の窓際に並んでいました。母と反対側のベッドのおばあさんが、「お母さん、退院いいですねえ」と言いました。支えが無いと倒れてしまう人ですが、耳も頭も確かなようです。「治療が嫌や、言うて帰りますねん」「いいことです。私も帰りたいけど、一人ですからどうにもなりません」「母も一人なんですのに、気儘言うてますねん」「娘さんや孫さんがおられるから、きままが言えます」 姉が毎日病院へ行ってくれるので、私も助かっています。姉も79歳ですので、どこかが悪くて家から出られなくても仕方ないところです。 病室へ戻ると、母はベッドの上半分立てて貰ってほっとした顔をしていました。「なんやらたいそうなことしてはったで。パチンパチン鋏で切って、長い針金みたいなもんを抜きはった。あんなもん入れられてたら、動かれへん筈や。床ずれもして痛いし……。あんたの酵素、塗っといて」 それまで着せられていた拘束衣のパジャマは、ベッドの足元に丸めてつくねてありました。足首から胸元まで1本の長いファスナーが付いていて、ファスナーの端はマジックボタンで止めてあり、開けられないようになっていました。一人で針を抜きかけていたのをナースに見つかり、そんなものを着せられていたのです。しかも9日間、身体拭いもなしで着たままです。 これは「治療」ではなく、ドクターの「やり方」です。老人の治療は、病気を治すのを目的とせず、老人を楽にしてあげなければいけないと思います。寝返りも自由にできない、お尻が腐って来る、おむつが濡れてオシッコが傷に沁みる、クスリを塗りたくても自分の身体に触れない、お腹がへっても何も食べられない。これは本当に拷問です。「家へ帰って死んでも、その方がええ」「そうやなあ。また具合が悪うなっても、この病院は来んといて、言うてはった、センセイ」「ダレが来るかいな」 「お姉ちゃん遅いなあ」と母が言い始めました。3時に10分前です。「お姉ちゃんは、4時に来る言うてた」「なんの用事があるねんやろ」「介護センターへんぼ連絡やら、車の手配やら、いろいろあるやろ」 私も掃除がまだです。年賀状も書いていません。ナースが計算書を持って来ました。「49380円やて」 母に見せました。「あんた、払ろて来て」「持ってへん」と、身振りでを付けて言いました。「持ってへんのん!?」 5万も6万も持って歩く習慣はありません。「お姉ちゃん、遅いなあ。あんまり遅かったら、晩御飯の時間になるわ。自分の都合優先せんと、ここのことも考えんとあかん」 自分のことは全然判っていないのです。 3時半、マミが来ました。私「お姉ちゃん遅いなあ、遅いなあ、ばっかり言うてる」マ「用事はいろいろあるわ。みんな忙しい、年末やもん」 マミはおばあちゃんに言いました。でも補聴器を外しているので、聞こえません。「いま、『支払して来て』、言うてんねんけど」「あ。私、お金預かってる」 バッグから封筒を取り出したところへ姉が来ました。「支払、して来たよ」「20万やろか、30万やろか、言うて心配してんねん」「要らん心配ばっかりしてるねんなあ」
2011.01.02
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