だいちゃんと愉快な仲間たち

2017.09.07
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テーマ: 日常(3013)
カテゴリ: カテゴリ未分類
知人の危篤の連絡がきた。

いろんなことを思い出す。

ちょうど1年前のこと。

もっと前に、その人の家に遊びにいったときのこと。

あのときは、まさか二人が洗礼受けるとは思ってもみなかった。
何回か家に行ったりしていたから、パパが死んだと聞いて、
それで、いろいろ考えるところがあり、伝道集会にきたのだと、そう聞いた。

そして、パパの受洗からちょうど1年おくれて、洗礼を受けた。
それが昨年11月。


死というと、直近のパパと、母のことを思い出す。
パパは衰弱死に近く、起き上がって死んだくらいだから、最期の最期まで
意識はあったけど、母はくも膜下出血で倒れたから、意識はぜんぜん
戻らず、そのまま心停止だった。

でも、意識レベルがとっても低下していただけで、ギリギリまで声が聞こえていたようだった。
だから、最期に、ありがとうと言っておけばよかったな・・っと思ったけど、
弟が来てくれたことは、想定外だっただろうから、よかった。


家族が死にかけの状態のときは、頭も体も、なんか、普段とは別な状態にある。
疲れたとか、眠いとか、そういうのとは別次元に妙な体調であり、
頭はほとんど、あんまり考えることができない感じになってる。

目の前で次々に巻き起こることに対処すべく、それ以外のことは考えられる状態では
なくなるし。

でも、こうして会社の人たちを見ていると、ごく普通の状態でごく普通の日常を
過ごしてる。
教会はというと、やはりごく普通で、やれ椅子だのカップラーメンだのということに
注力しているのを見ていると、当たり前なのかもしれないけど、どこまでいっても
他人事の一言に尽きるんだろう。

昨年のいまごろも、私たちは必死で死にもの狂いで、朝も夜も関係なく、1年後どころか
1か月後もなく、頭の中は混乱するばかりだった。

でも、なんだかんだといっても、それは他人から見ると、あくまで他人事だから、
教会の人たちも、やっぱり、それはそれ・・で、やれ新しい会堂だの、椅子だのが
重要だったんだろうな・・と思うと、自分たちだけが社会から孤立しているような
そんな気持ちになったのは、あながち勘違いではないのだろうと、
しみじみ思う。ちょっと寂しいけど。。

あれから1年。 移り変わりの早い先進国である日本なので、パパのことは風化され、
過去のこととして忘れ去られ、、、それより椅子だよ。

なんとも侘しい。

当事者にとっては死ぬよりつらいことであっても、第三者には、日常の1コマなんだ。

東日本大震災のことも、原発事故のことも、首都圏ではもう過去のことで、
災害ならあちこちで起きてるし・・というレベル。

原発事故は天災じゃなくて、人災だよ。首都圏の、私たちが使ってる電気のために
あった原子力発電所で起きた事故で、それがために悲しみのなかに死んだ人がいて、
いまでも、いろんな人を苦しめてるんだよ、

・・・なんてことは、すでに過去のこととして処理されている首都圏の人間の
頭の中には何も響かない。
かわいそうな人たちのために、私たちの余った時間とお金で何かしてあげましょう・・と
いう気持ちの人はいてもあくまでそれは他人事。

自分たちが加害者であるという意識はみじんもない。
でも原発事故のことを他人事として捉えているうちは、社会は間違った方向にいくだけだよ。

みんなの誤った価値観が、無関心が、あの事故を起こしたんだよ。

この恐ろしいほどの社会の流れの速さに、みんな一番大切なことを見失っていて、
それ以外のどうでもいいことにばかり目を向けさせられてる。

そのことに気づくのは、いつなんだろうか。いよいよ死を自覚したときなんだろうか。






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最終更新日  2017.09.07 10:22:29


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